スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(9)

ただいま拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌を鶏だしていますが、第9回目の今回も、ふたつ掲載して置きます。


ひとつは、当時大阪キリスト教短期大学の学長をしておられた土山牧羔(つちやまぼっこう)先生が、「『賀川豊彦と現代』を読んで」という少し長い文章を、大阪民主新報(1988年8月27日、30日)で上下2回に分けて掲載されました。


今回はその「上}を下に収めます。



1


5



3




もうひとつは、今回も共同通信社の配信した記事を、「徳島新聞」の「人」欄で撮り上げたものを掲載して置きます。




4


スポンサーサイト

拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(8)

このところ続けて、拙著『賀川豊彦と現代」を紹介して頂いた新聞や雑誌を掲載していますが、今回はその8回目です。

ここでもふたつ取り出して置きます。

ひとつは、岡山大学名誉教授で、当時岡山部落問題調査研究会会長を引き受けておられた那須靖雄先生が、岡山部落問題調査研究所の研究誌『部落問題(調査と研究)』77号(1988年12月)において、拙著を取り上げて、「書評」を掲載しておられましたので、それを最初に収めます。

岡山の部落問題研究所は、私たちが神戸に部落問題研究所を設立する1974年よりも、ずっと古い歴史を刻んでいました。岡山と神戸と、そして京都の部落問題研究所とは三者で、1990年代の半ばすぎまで事務局レベルの親密な交流が続いていました。



1



2



3



さて、もうひとつは、1988年7月9日付けの「新潟日報」の「きょうの人」欄に掲載された記事です。



4




拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(7)

今回も拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(7)を掲載します。

その前に前回と同じく、賀川豊彦に関するニュースをひとつ収めて置きます。
それは、現在「新刊案内」に出ているもので、賀川の名著のひとつ『イエスの宗教とその真理』の「復刻版」が、明日発売されるようです。

このチラシの囲み記事にも書かれているように、本書は賀川の講演を筆記して著書として仕上げたのは「吉田源治郎」でした。

その「吉田源治郎」については、別のHP(賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」と最近では「賀川記念館」のHPの「研究所」のサイト)において、私の長期連載が掲載されていますので、何かの参考にはなると思います。

この度の「復刻版」は、期待通りに、原書に即したものになっていますかどうか。
最近の「復刻版」はほとんどのものが、勝手な書き換えや削除があって「復刻版」とは名ばかりというものが多くてこまります。


1



さて、今回の紹介記事は三つです。

ひとつは、現在静岡大学の黒川みどり教授のもです。黒川教授は、歴史研究者の方ですが、最近では、岩波書店より『描かれた被差別部落ー映画の中の自画像と他者像』という著書があるようです。未読の本ですが。

下の黒田先生の紹介文は、1989年3月の『日本史研究』の「史料・文献紹介」に掲載されたものです。



2


3



二つ目は、出版総合誌『出版ニュース』(1988年8月)に小さく紹介されていたものです。



4



そして最後の三つ目は、1988年7月9日付けの「中国新聞」の「この人」欄に掲載された記事です。



5

拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(6)

別のブログ「番町出合いの家」で既に紹介しましたが、昨日の神戸新聞(夕刊)の1面で、賀川豊彦に関連する大きな記事が掲載されていましたので、はじめにこれをここにもアップいたします。



1



さて、拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌の7回目には、現在広島大学教授・布川弘先生が、『日本史研究』322号(1989年6月)で紹介くださいました。研究所在職中も、大変お世話になったお方です。いずれそのことについては、別のところで書き記してみたいと思っています。



2


3



今回も、共同通信社が配信した記事で、1988年7月9日付の高知新聞の「人」欄を収めます。記事の中身が新聞いよって違うのも面白いことです。



        4



拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(5)

今回もふたつ掲載して置きます。

ひとつは、日本の近現代史の研究者で、当時同志社香里中高校の教師をしておられた萩原俊彦先生が、1988年7月の雑誌『部落』(498号)の「本棚」の欄に取り上げてくださいました。



1

2



そしてもうひとつは、1988年7月15日付けの「東京新聞」、「ニュースの追跡・話題の発掘・この人」の欄に掲載された記事です。



            3


拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(4)


続いて今回も、拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌の4回目として、二つ掲載します.


一つは、本書を書き下ろす上で「水平運動の歴史的研究」を地道に進めてこられた立命館大学の鈴木良先生のご研究に学ぶところも多くあり、拙著の出来上がった後、先生に本書を謹呈しましたら、まもなくして新聞「赤旗」の1988年6月14日付けの「読書」欄に、鈴木先生がこれを取り上げて紹介してくださいました。私の場合は、別段新しい知見を提供したわけではありませんが、鈴木先生は本書の出版意図を積極的に評価していただいたもので、私にとっては、ご専門の歴史研究者からの支持をいただけた喜びは、多きいものがありました。




1





加えてその後、鈴木先生からは「賀川豊彦と水平運動―鳥飼慶陽『賀川豊彦と現代』によせて」という長文の「書評」を『月刊部落問題』(1988年9月号)に寄稿していただきました。そして拙著の既述の幾つかの誤記も訂正していただいて、第2刷で補正を加えることもできました。


鈴木先生の「水平運動の研究」はその後も積み重ねられ、2005年には大著『水平社創立の研究』(部落問題研究所)として出版され、広く話題を呼びました。



さて。もうひとつは、私の故郷の地方新聞「日本海新聞」(1988年7月10日付)「人」欄でも掲載されていました。地方紙らしく「鳥取県東伯郡関金町大鳥居出身」とまで記されていました。



2




拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(3)


拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌を掲載していますが、その第1回に7月5日の神戸新聞の朝刊のことをとりあげました。


今回は、その後7月12日付けの朝刊の「人」欄で、下の記事が掲載されました。



1




この記事は、元々「共同通信社」の配信になる記事ですが、神戸新聞ではそれに手を加えて、この欄に収めておられます。


恐らくこのように仕上げて掲載されたのも、既述の通り、当時の編集委員の有井基さんではなかったかと、思われます。


因みに、このときの共同通信社の若い記者さんは、私の仕事場の研究所にこられて、話し込んで帰られました。見たところ、穏やかで才気に溢れた好青年でした。


記者さんは、どういう記事を配信されたのか知りませんが、その後、沖縄から北海道まで、地方新聞でそれぞれにアレンジして「人」欄に紹介されていきました。


あちこちから、友人・知人が、手紙など添えて各地の新聞を送ってくれましたので、追い追いそれらもひとつの記録として掲載して置きますが、本書の宣伝には大役を果たすものになったと思います。
この記者さんは、後に南米・北米方面で記者生活を重ねられ、思うところあって医師の世界に転身、現在もどちらかで、素敵なお医者さんとして活躍中という風のたよりも・・・・。


人生、不思議な出会いがあるものです・・・・。




2





ところで、上の記事は、地元神戸の地域雑誌『歴史と神戸』149号(1988年8月)に紹介して頂いた、歴史研究者・落合重信さんの記事です。


落合さんは、私たちが神戸部落問題研究所を設立する時からの中心的な協力者のおひとりで、生前ずっと変わらずご一緒した先達です。先生から譲り受けた貴重な図書資料は現在、兵庫県人権啓発センターに寄贈してあり、そこで閲読出来るようになっています。







拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞・雑誌(2)


賀川豊彦について1988年に、はじめて書き下ろした『賀川豊彦と現代』はただいま絶版になっていることから、このブログでは長期連載のかたちで、本書を分載しながら、新たにコメントと省察を加えてアップしてきました。


本書刊行の後、おもいもかけない形での反響があり、前回は神戸新聞の記事を紹介しました。予告の通り、本書を紹介いただいた新聞や雑誌を資料整理として数回に分けて掲載することにいたします。少々恥ずかしいものですが、いくらか若き日の記録として、ここに収めて置きます。


そこで今回は、1988年7月14日付けの毎日新聞「ひと」欄に掲載されたものと、『国民融合通信』の1988年7月号にいれられたものをアップいたします。



1



これは署名入りの記事で、当時毎日新聞の編集委員をしておられた津田康さんが書いておられます。
津田さんといえば、1983年に出版された『池田高校野球部監督:蔦文也の旅―やまびこが甲子園に響いた』の著者として知られた記者ですが、わざわざ神戸の研究所まで取材にこられ、我が家にまでお越しいただいて、この記事を書かれました。


後日談ですが、毎日新聞が大阪で本書を取り上げるには勇気が要ったのだそうです。
それと先年、他の箇所(「賀川豊彦献身100年事業オフィシャルサイト」で「賀川豊彦のお宝発見」を長期連載した折り取り上げた、津田康さんの若き日の取材記事「武内勝」)でも取り上げた、津田さんご自身の「賀川豊彦」への強い関心が、そこにはあったのですけれども。


津田康さんのことについては、多くのことを書かねばなりませんので、これ以上のことは別のブログで、ということで・・・。



もうひとつ今回は、映画や幅広い文芸評論で知られている北川鉄夫さんが、『国民融合通信』という機関誌で、本書を紹介してくださいました。部落問題の関連でも『部落問題をとりあげた百の小説』など著書も多く、仕事の上でも大変お世話になりました。



2



3



4



拙著『賀川豊彦と現代』を紹介して頂いた新聞や雑誌(1)


部落問題の解決の歴史から見ると、同和対策事業特別措置法という10年間の時限立法が施行された1969年から10年余、事実上それは3年間延長されて1982年3月まで継続されましたが、このときが大きな節目となって、行政・教育・運動の全体が、旧来の進め方を「見直す」方向を模索していくことになります。(その後、法律の名称を変更しながら、遂に21世紀をまたいで2002年3月末まで、法的措置は延長されて北のですけれども)


ところが、日本の宗教界はこうした「見直し」の方向に背を向けて、1981年以降になって、特定の解放運動団体の「確認糾弾」を受けながら「連帯行動」に突き進んでいくという歴史を刻んだことは、私の別のブログでも詳しく掲載してまいりました。


それはともかくとして、前回まで長期間連載してきた拙著『賀川豊彦と現代』を書き下ろしれたのは1988年です。漸くこうした動向を批判的に論じあう時を迎えつつあったのでしょうか、本書が出版されるとすぐ、数多くの新聞や雑誌などで好意的な紹介が行われていきました。


言うまでもなくこのときは期せずして「賀川豊彦生誕百年記念」の年に当たっていて、国内外で多彩な記念イベントが進んでいましたから、「賀川豊彦」への関心が当時まだ消えていなかったことを示すものでもありました。


そこで今回から数回に分けて『賀川豊彦と現代』を取り上げて頂いた新聞や雑誌から、いくつかを掲載して置きます。全国各地から手紙やはがきで、貴重なご意見や感想をいただいていますが、それらはここには掲載しません。


第1回では、地元「神戸新聞」が、1988年7月5日付朝刊で、取材も全く受けずに取り上げた記事を掲載します。ちょうどこのときは神戸新聞を購読していて、朝これを見て、びっくりしたことを記憶しています。



1


2



神戸新聞のみならず一般にマスコミの世界では、「差別問題」を取り上げることは積極的ですが、「差別問題」を批判的に吟味検討して論じるようなものにはいたって消極的でした。地元神戸新聞もその傾向を強く残していた新聞社だったと思いますが、ナントナント私の書き下ろした小著を、真正面から取り上げて、大きな紙面を使って紹介されているので、驚いてしまいました。


この記事は、神戸新聞社のどなたがお書きになったのか、少々気にはなっていました。


ところが、同じとき(1988年7月)に、雑誌『雪』の「ほん・本」の蘭の「ふるさと出版物」のところに、当時「神戸新聞編集委員」をしておられた有井基さんの、次のような記事が掲載されていたのです。




3




一読すると、ここに書かれている内容と新聞記事とは重なっているので、これはこの方の筆になるものだと判りました。

後にご本人とお会いする機会があり、有井さんの方から笑いながら、そのことを私に当時のことを「こぼれ話」風に、いろいろと立ち入ったことをお話しになりました。当時はまだ、そうした時代で、ひとつ記事を書くのにも、勇気のいることだったことは、よくわかります。


ともかく、この地元新聞で、このように理解のある記事が紹介されたことは、私にとっては、大変嬉しい経験でした。

それまで殆ど薮の中とでもいえるような、キリスト教界で引き起こされていた事態が、こうして世間にもバレてしまったということでしたが、自戒をこめて申し上げれば、宗教界はもっともっと、良い意味での世間の常識・見識に学ばねば、笑い者になるばかりですね。

『賀川豊彦と現代』(参考図書・文献)最終回


このブログ「賀川豊彦の魅力」でここまで分載してきた『賀川豊彦と現代』は、漸く今回で最終回となります。


今回は巻末に収めた「参考図書・文献(主要なもののみ)」の箇所です。本書を書き下ろした1988年段階のものですが、賀川豊彦研究はその後、飛躍的な進展を見せて現在に至っています。


当然のことですが、私自身の限られた関心と視点から取り出したもので、不十分なものですが、別のブログ「番町出合いの家」の7月9日付のところで紹介した新著『日本キリスト教史における賀川豊彦ーその思想と実践』(賀川豊彦記念・松沢資料館編、2011年、新教出版社)は、さしあたり最新の基礎文献となるものかと思われます。


1



それでは、「参考図書・文献」以下、奥付(ここに掲げている私の住所は当時の者です)と当時出版していた他の著書も本書に入れていますので、それを含めて掲載いたします。




2



3



4




5




6




7



8



9



今回も歪みがありますが、あしからず。

次回は、本書への当時の読書界の反響などまとめて収めて置きたいと思います。



『賀川豊彦と現代』賀川豊彦略年譜(神戸時代)


今回もはじめに、山田 豊さんの作品を掲載します。



1



今回は、本書の末尾に収めた「賀川豊彦略年譜(神戸時代)」を収めます。これを書き下ろした時点では、横山春一『賀川豊彦伝』の増補版(昭和34年、警醒社書店)や『賀川豊彦全集』所収の年表などを参照していましたが、その後の研究も進み、年表の補正も行われてきています。


因みに、ここに挙げる米沢和一郎編『人物書誌大系37:賀川豊彦Ⅱ』(2006年、日本アソシェーツ株式会社)には、賀川の外国での活動の年譜が詳しく補充されていて、大変有益です。700頁近い大部なもので賀川に関する先行研究を調べるには便利な著書となっています。



2



それでは以下に、不十分な年表ですが、掲載します。



3



4



5




6




7




8



『賀川豊彦と現代』「あとがき」3「生誕百年の記念の徴し」


今回もはじめに、山田 豊さんの作品を掲載いたします。



1



愈々今回は『賀川豊彦と現代』「あとがき」の末尾です。

今回の本文にも記しているように、本書を書き下ろした時も、ずいぶんと賀川の作品を読んでいたようです。特にここでは、『女性賛美と母性崇拝』(昭和12年、慶文堂書店)と400頁を超える第2詩集『永遠の乳房』(大正14年、福永書店)の姿だけをご覧に入れます。



2


3




4



5



6


『賀川豊彦と現代』「あとがき」2「開かれた勇気」


今回もはじめに、山田 豊さんの作品を掲載させていただきます。



1



今回「あとがき」の2「開かれた勇気」の短い箇所に、キリスト新聞社が『賀川豊彦と部落問題資料集』を刊行することに触れています。


1991年3月23日に、東京で賀川豊彦学会の定例会が開かれ、「『賀川豊彦と現代』その後」と題して報告する機会がありました。その時の講演草稿は、これも現在は品切れになっている『賀川豊彦再発見』(2002年、創言社)に収めました。そこではこの問題に関わって、少し立ち入ったお話をいたしましたが、いずれこのブログかどこかの私のブログで公開させていただきます。



2



それでは、今回の短い箇所を掲載いたします。



3



4


『賀川豊彦と現代』「あとがき」1「賀川の魅力」



今回もはじめに、山田 豊さんの作品を掲載させていただきます。



1



本書の「あとがき」の最初に「賀川の魅力」という見出しを書いていました。本書を書き下ろしたのが1988年ですから、23年後のいま、このブログに「賀川豊彦の魅力」と命名していることに、我ながら感慨を深くしています。


今回掲載する箇所も、短いものですが、ここでは個人的なことを記し、3頁の欄外のコメントに、「ティヤール・ド・シャルダン」「延原時行」のほかに「岸英司」に触れています。「延原時行」については、すでにほかのブログでもたびたび書いていますので、今回は少しだけ「岸英司」について付言して置きます。


5



岸英司先生は、2006年5月に79歳のご生涯を終えられましたが、夙川・芦屋・宝塚などの教会で神父をされ、大学での教鞭や英知大学の学長にも就かれ、よくラジオなどの放送でお声を聴くことがありました。


特に先生は、賀川豊彦の神学思想に注目され、シャルダンとの比較研究など、これに関連する論文も多数に及びました。幾度か賀川豊彦学会でのご講演をお聴きし、ご著書も寄贈いただいたりもして、その温厚なお人柄と共に、忘れがたい先生です。


上の掲げた『神への旅』は1992年の作品です。1988年に上梓された『時の流れのなかでー宗教・人生・キリスト』なども、未刊のまま遺されている先生の数々の重要な論文と共に今後、若き研究者のお宝として、「岸英司研究」が待たれています。



それでは、今回の「あとがき」の「1 賀川の魅力」の箇所を掲載いたします。




2





3




4




次回は、この頁から掲載します。




『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第3節「宗教者の課題」2「国民融合の基礎」


今回もはじめに、山田 豊さんの作品を掲載させていただきます。



1




ところで、本書は期せずして「賀川豊彦生誕百年」を記念する年(1988年)に出版され、NHKの教育テレビで「賀川豊彦って知っていますか」という45分番組の製作のときは、いくらか協力する機会もありました。


マスコミの世界ではまだ「賀川問題」といわれる「賀川タブー」のような空気のある中、NHKは、作家の大江健三郎さんと「賀川豊彦」の著者でもある隅谷三喜男さんのゲスト対談を交えた、勇気ある番組づくりをいたしました。


今回の「2 国民融合の基礎」のところでは、2頁分にも満たない短いものですが、当時「部落解放同盟」の提唱する「解放理論」を批判するかたちで登場していた「国民融合論」という解放理論の、私の独自の見方を書き記したものです。


この「国民融合論」という部落解放論は、神戸においても広く受け入れられていましたが、私のここでの「国民融合の基礎」という「基礎論」は、私の別のブログ(「滝沢克己 新しい対話的世界」で掲載している『部落解放の基調ー宗教と部落問題』第2章「宗教の基礎」)でも詳しく展開している「基礎論」につながるものです。


では、本書の最後となるこの項を、掲載いたします。



2



3






『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第3節「宗教(者)の課題ー国民融合の基礎」1「部落問題の正しい理解」


今回もはじめに、山田 豊さんの作品を掲載させていただきます。




1




愈々本書『賀川豊彦と現代』の分割連載も終わりに近づいてきました。
ここでは最終章第3節の「宗教(者)の課題」として「部落問題の正しい理解」の必要について強調しています。


実際のところ部落問題の解決という課題に取り組もうとする時には、「宗教者」に限らず、部落解放運動であれ、同和行政であれ、同和教育であれ、誰でも「部落問題の正しい理解」ーその歴史的理解・現状理解・運動論・行政論・教育論・啓発論などー総合的な地道な研鑽が求められています。


私たちが神戸の部落問題を解決するために、1974年春「神戸部落問題研究所」という民間の独立した研究機関を創立して、「歴史・現状・教育・行政」など各分野の学際的な研究活動を進めてきたのも、部落問題をめぐる混迷する全国的な状況に足をすくわれることなく、自由な開かれた研究・調査活動を行うためのものでした。


一般に「宗教界」は、特定の運動団体による「確認・糾弾」に対応することに追われて、自ら苦労して基本問題の理解を深める努力を重ねるゆとりのないまま、出来合いの特定の運動団体の運動理論や実践課題に「連帯する」ことで突き進んでしまうことが、少なくありませんでした。


しかも「部落問題」は、その歴史も実態も、地域によって異なるのが一般です。
それは、2002年3月をもって法的措置が終わって早くも10年近く経て、いまなお「部落解放」という旗を掲げて地域もあれば、神戸のように古い壁を打破って、新しい時代を迎えているところもあって、決して一様ではありません。


本書は、1988年に書き下ろしたものですから、23年も前のものですが、ここで強調している課題は、やはり重要なポイントであることには代わりはありません。


では、今回の本文を掲載いたします。



2




3




4



次回は、この頁から掲載します。





『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第2節「社会活動の継承」2「イエスの友会」


今回もはじめに、山田 豊さんの作品をひとつ、掲載させていただきます。




1



これは、賀川豊彦と共に歩み、特に神戸における活動の中心的な役割を担った武内勝所蔵の『雲の柱』創刊号です。(「武内勝所蔵資料ー賀川豊彦夫妻の書簡12通を含む)ーの94回連載にわたる紹介は、「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」参照)



2




今回の「2 イエスの友会」は、本文にあるように、大正10年10月に発足しています。


この組織が発足してすぐ、大正11年1月1日に創刊された『雲の柱』は、最初「イエスの友会」の機関誌的役割を担いました。『雲の柱』は間もなくして賀川豊彦の個人誌として継続され、「イエスの友会」は独自に「火の柱」という月刊紙として発行されていきます。
そして今日も「火の柱」は発刊され続け、現在は群馬県安中市の太田敬雄氏が編集を担当しておられます。

『賀川豊彦と現代』を書き下ろした「賀川豊彦生誕百年」(1988年)の頃は、本文で書きているように「イエスの友会本部」は東京の雲柱社に置かれていましたが、現在は静岡県浜松市の小川忠夫氏のところに置かれているようです。



では今回の本文を掲載します。



3




4




5






『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第2節「社会活動の継承」1「イエス団」「雲柱社」の活動


今回もはじめに、山田 豊さんの作品の中からひとつ、掲載させていただきます。



1



ところで、今回の「「イエス団」「雲柱社」の活動」のところでは、戦前期、1940年頃の「社会活動」を掲げています。賀川とその関連する活動分野は広汎にわたるもので、2009年に取り組まれた「賀川豊彦献身100年事業」のオフィシャルサイトは、現在でもアップされていますので、そこを検索してもらえば、それはよくわかります。


本文であげている「社会事業」の分野でも、その後大きな飛躍を遂げて、今日に至っています。とりあえず、「イエス団」並びに「「雲柱社」のホームページを検索してみてください。そして神戸の「賀川記念館」、東京の「賀川豊彦記念・松沢資料館」、徳島の「鳴門市賀川豊彦記念館」などのホームページを覗かれますと、活動の現況を知ることができます。



では、本日の箇所を掲載いたします。




2



3



4



5



『賀川豊彦と現代』だ7章「賀川豊彦と現代」第1節「宗教思想の独創性」4「批判的精神」5「開かれた関心」


昨日は珍しくブログをお休みしました。それは別にブログ「番町出合いの家」の方で書きましたように、昨日は日帰りで徳島へ「阿波踊り」に出掛けていました。

昨日が初日でしたので、例年のように8月15日まで続きます。ご案内も兼ねて、最初にいただいたポスターを1枚収めて置きます。



1



さてはじめに、「山田 豊作品」を1枚掲載させていただいていますので、まずそれを収めます。



2




今回は、標記のように、「4 批判的精神」と「5 開かれた関心」の箇所です。賀川豊彦の歴史的限界性などを厳正に把握するには、その積極的な評価も伴わなければなりません。



3



4



5



末尾ながら、残暑お見舞い申し上げます。
今回も、少し傾きがありますが、ご愛嬌で・・・・。

『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第1節「宗教思想の独創性」3「いのちの躍動」

このブログでは、最初に「山田 豊さんの作品」を掲載させていただいています。



1



本日は、『賀川豊彦と現代』の最終章第1節「宗教思想の独創性」の2「いのちの躍動」の箇所を掲載します。本文で引用した賀川の著作『暗中隻語』は、眼病で不自由な時に、読売新聞の宗教欄に200回ほど寄稿した瞑想箴言を纏めたもので、大正15年12月に春秋社より出版されました。



2



本書は、東京都の「名誉都民」としても知られるDr・William・Axling の著書において、本書の一部を「賀川瞑想録」として数多く英訳されました。そしてこのアキスリング氏の著書は、志村武さんにより『賀川豊彦苦闘史:くびきを負いて』として邦訳され、広く読まれました。


ここでは『暗中隻語』の賀川豊彦の「序」だけを、収めて置きます。



3



「武庫川のほとりにて」記されたこの序文も、彼のポエムとなっていて、例えば真ん中2行を、詩のように並べてみれば、こうなります。


          私の神は光そのものです。
          外側のものは
          一切暗闇に属していても、
          私の心の内側にいつも灯る
          神のみ光のある間、
          私は少しも失望しません。



それでは、「いのちの躍動」の部分を掲載します。ここでの私の引用の仕方はアバウトですね。
引用のはじめの部分は、原書23頁の「殿堂宗教の悲哀」の箇所から、後半の部分は、原書32頁の「最微者の中に住む神」の箇所からのものです。




4




5



          
          




『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第1節「宗教思想の独創性」2「贖罪愛」の息吹き」

このブログで前回から掲載し始めた山田 豊さんの作品を、はじめに収めさせていだだきます。


1



今回は「宗教思想の独創性」の2「贖罪愛」の息吹き、という項です。ここでも前回同様に「賀川豊彦全集」全24巻に入らなかった名品のひとつ『神の懐にあるもの』からの引用をしています。警醒社書店より大正14年に出されたもので、賀川豊彦の講演を筆記して著作に仕上げて来た吉田源治郎が米国オーボルン神学校へ留学した後、毎日新聞の記者でもあった村島帰之の手で完成されました。

賀川は村島への感謝も記した「はしがき」を、最初に記していますのので、その頁だけここに収めます。


2



なお、下記の本文では、引用した頁をあげていませんが、今確かめてみますと、飛び飛びの引用で、このときはまだ原書を手元に待たずに、読書ノートから引用しているようですね。ともあれ、賀川豊彦の『神の懐にあるもの』は貴重な作品で、昭和50年に「賀川事業団雲柱社」より復刻版が出ています。


では、短い本文を掲載します。



3



4



『賀川豊彦と現代』第7章「賀川豊彦と現代」第1節「宗教思想の独創性」1「腹の決め方」

別のブログ「番町出合いの家」「対話の時代 宗教・人権・部落問題」などで、神戸の生んだ画家・藤原昭三先生の、多くの作品を掲載させて頂いていますが、この「賀川豊彦の魅力」のブログにおいては、今回から暫くの間、切り絵作者として知られる「山田 豊」さんの作品を、最初に飾らせていただきます。

山田さんは、1912年生まれで、若き日から洋画を学ばれ、シルクスクリーン版画を習得して、独自の表現活動を重ねられてきました。三越神戸店などでも個展を開き、兵庫きりえ愛好会の代表などされて活躍されました。

私の仕事場の雑誌『月刊部落問題』にも、長期に渡って表紙を飾って頂き、研究所の近くにご自宅もありましたので、度々お邪魔して、奥様の富子様にも、大変お世話になりました。惜しくもご病気で、震災の1年前(1994年の正月)にお亡くなりになりましたが、豪家な『山田 豊切り絵作品集』が1998年5月に刊行されています。

この『作品集』に寄せた拙文がありますので、判読が難しそうですが、改めてここに感謝の想いを込めて掲載さていただきます。



1



さて今回からこのブログのはじめに収めさせて頂く作品は、上記の月刊雑誌の目次の上に毎月飾っていただいていた小さな作品でペン書きのものもあれば、切りえもありました。私はこの小品が大変気に入っていました。月刊誌で活用済みのこれらの作品が、ここでは原作のカラーで公開できて、皆様にご覧いただけることは予期しなかったことです。

それでは、第1回目のアップとなります。



2



ところで今回は、愈々最終章の「第7章 賀川豊彦と現代」「第1節 宗教思想の独創性」の「1 腹の決め方」の掲載になります。

ここで引用している賀川豊彦の著作『病床を道場にして』は、『キリスト教入門』など自伝的な作品として重要な作品ですが、残念ながら『全集』から省かれました。初版は、昭和16年に(財)白十字会の発行になっていますが、手持ちのものは、福書房が1959年に出版したもので、新たに村島帰之さんの「解説ー賀川豊彦氏について」という大切な文章が加えられています。賀川の例の袋文字で表紙が飾られています。



3



以下に掲載する本文では、1956年版となっていますが、当時書き下ろした時は原書を持ち合わせずに、何かを書き写したもので、引用の頁もあげていません。今の手持ちの1959年版では、ここの引用箇所は75頁から76頁の箇所です。


ではその本文を収めます。



4



5



6







『賀川豊彦と現代』第6章「キリスト教界の「賀川問題」」第2節「キリスト教界の「賀川問題」」1・2・3

私たちの属する日本基督教団が抱え込んでいた部落問題の歴史的な経過については、別のブログ「滝沢克己 新しい対話的世界」間もなくアップする予定の「キリスト教と部落問題」を一読いただくことにして、『賀川豊彦と現代』のこの第6章第2節「キリスト教界の「賀川問題」」では、日本基督教団常議員会(当時の教団の後宮議長)宛に、この問題に関する「質問と希望・意見」を提出した文書の全文を収めています。

その原文のはじめをスキャンして置きます。



1



生来内向的で自分の意見もロクに表明することも出来ない私が、この問題に関しては黙しておくことができず、不十分なないようであることは承知の上で、これを提出しました。そしてこれは、教団の公的な機関紙「教団新報」で抜粋が掲載されましたが、これに対する応答らしきものは、私の方に届けられることはありませんでした。


但し妙なことですが、このことを機縁にして、賀川豊彦の著作などを一掃真剣に学ぶことになりました。
こうした歴史的人物をとりあげる場合、当然批判的な視点を欠かせませんが、それは単なる「差別」もしくは「差別語」探しに足を救われる落とし穴からは抜け出すことが必要で、当時はどこか無用な熱に踊らされているような「誠実で真面目そうな<悲しき面もち>」に落ち込む「キリスト者」が少なくなかったように思います。


では、1・2・3項の全部を、ここに掲載して置きます。



2



3



4



5



6



7



8



9



10



11



『賀川豊彦と現代』第6章「キリスト教界の「賀川問題」」第1節「賀川豊彦全集問題」7・8・9

当時の宗教界は部落問題をめぐって異常な状態が蔓延していました(別のブログ「対話の時代 宗教・人権・部落問題」の本日のところで「宗教界の部落問題」をアップしています)が、キリスト教界のこの「賀川豊彦全集問題」も、問題提起する方も対応する出版社の方も、過誤を重ねてしまうことになりました。


この点、本書の刊行後すぐ(1988年7月5日)神戸新聞は、拙著を読んで次のようなコメントをもって紹介されました。



1


2




ともあれ、ここで掲載する「日本基督教団部落解放センター」の「提案」と「出版元」の「キリスト新聞社」の「回答」のところを、熟読頂きたいと思います。これもひとつの時代の社会病理と見る事ができますが、ここでのやりとりはそのまま固定されて、現在にまで引きずっているというのも不幸なことです。



3



4



5



6




7



8



9




『賀川豊彦と現代』第6章「キリスト教界の「賀川問題」第1節「賀川豊彦全集問題」4・5・6



2



1



この二つの新聞記事の上の「望楼」というところに、赤鉛筆で「キ 37.9.1」と記されていますので、「キリスト新聞」の昭和37年9月1日付けのものでしょう。前回の「荊冠」創刊号に取り上げられた武藤富男氏の文章ではないかと思われます。


下の「東京部落問題懇談会」の記事は、日付けも書かれていませんが、たぶん同じ頃の「キリスト新聞」の記事のようです。ここには、神学部時代の先輩で、当時神学生の研鑽の場として壮図寮という宿舎があり、そこでも共に過ごしたことのある「梶原伸之伝道師」のお名前もあります。梶原さんは、学生時代から滋賀県の或る同和地区の実態調査などにも加わり、1960年に完成した亀井文夫監督の名作「ドキュメンタリー・人間みな兄弟」を壮図寮で私たちに上映したり、修士論文では賀川豊彦を取り上げて『死線を越えて』などの検討をしておられたことを記憶しています。

この1960年前後の時代は、幅広い世論の盛り上がりもあり、学生たちの自発的な部落問題研究会も活発な時代でもありました。


それでは、前回の続きで、「賀川豊彦全集問題」の「4 歴史的にみる目」「5 宗教界の「部落問題フィーバー」「6 削除措置の誤り」の箇所を掲載します。



3



4



5



6



7






『賀川豊彦と現代』第6章「キリスト教界の「賀川問題」第1節「賀川豊彦全集問題」2・3


1



2



これは、賀川豊彦が没してほぼ1年を経た時で、前回紹介した当時西成教会の牧師・益谷寿さんが編集者となり創刊された「関西キリスト者部落対策協議会」の機関紙「荊冠」の「1961年4月17日」付けの1頁と2頁です。今では懐かしいガリ版の4頁ものです。「協議会」の誕生の経緯が記され、ご覧のように1頁には、キリスト新聞社の武藤富男社長との会談の模様が書かれ、2頁には、同志社大学の嶋田啓一郎先生の「主張」が収められています。

「創刊号」を収めましたので、ここに「第2号」(1961年6月17日、編集者は松田慶一さんに代わり、写真入りの印刷物になっています)も掲載して置きます。



6



それでは、今回の箇所(「全集刊行委員会の対応」と「問題の所在」の部分)をアップいたします。



3



4



5





『賀川豊彦と現代』第6章「キリスト教界の「賀川問題」第1節「賀川豊彦全集問題」1「キリスト者部落対策協議会」


1


2


この章の書き出しは、1950年代のキリスト教界における部落問題の取り組みから始めています。
大変短い記述で終わっていますが、個人的にもその頃、同志社大学神学部で研鑽中でしたので、特に注記もしているように、先輩の中に「東岡山治」「益谷寿」といった開拓的な実践家がおられて、学生たちを魅了していました。

上に挙げた著書『部落問題とキリスト教』は、私はまだ大学院在学中に出版されたもので、日本基督教団の宣教研究所による、いくらか研究的・啓蒙的な作品でした。

この作品の執筆者のひとり・益谷寿先生は、1993年5月9日に70歳のご生涯を終えられましたが、先生が大阪西成教会の牧師であった頃、毎週フィールドワークで、この教会と日本橋のところにある愛染園の方に出向いて実習をしておりました。(この益谷牧師の訃報は、1993年6月12日付けの「教団新報」のものです)

あの60年安保の頃は、亀井文夫監督作品のドキュメンタリー「人間みな兄弟」や写真家の藤川清さんの写真集『部落』が出版されたり、後にロングセラーとなった住井すゑさんの『橋のない川』の連載がスタートしたり、国も漸く重い腰を上げて、問題解決のための「同和対策審議会」というものをもうけたりした、大きな盛り上がりの時代でした。

あれからもう半世紀以上が過ぎたわけですね。


では、この懐かしき「キリスト者部落対策協議会」の箇所を、ここに掲載して置きます。



3



4



5



次回は、この頁から始めます。




『賀川豊彦と現代』第5章「胎動期の開拓的試み(2)」第2節「共同住宅の建設」

今回の本文冒頭に「不良住宅地区改良法」が初めて成立するときのことに言及しています。賀川豊彦が「関東大震災」の救援活動を契機にして神戸を離れた経緯については、前回まででお読みいただいた通りですが、賀川は東京に出て政府の諮問機関の委員に委嘱され、最初に実らせた重要な法律が、この「不良住宅地区改良法」でした。


もちろん当時の議事録も残されていますが、ここに掲載するのは、この法律が昭和2年3月に制定される前に、社会局社会部が昭和2年2月1日に発行した82頁だての『不良住宅地区居住状況の一斑』の表紙です。

ここには、賀川豊彦の『貧民心理の研究』『精神運動と社会運動』『人間苦と人間建築』『死線を越えて』(上中下)の著作から、また賀川の盟友・村島帰之の『ドン底生活』、椎名龍徳の『生きる悲哀』などの抜粋でできています。


1


それでは今回の本文、「1 不良住宅地区改良法」」と「2 夢の実現」のところを掲載します。



2



3



4



5



6



『賀川豊彦と現代』第5章「胎動期の開拓的試み(2)」第1節「水平社運動・農民組合運動」6・7・8

賀川豊彦の代表作『死線を越えて』は、上巻に続いて中巻『太陽を射るもの』と下巻『壁の声きく時』の三部作でなっています。一応「自伝小説」として読まれています。そしてこの三部作は、大変なベストセラーとして、長く読みつがれてきました。


下巻が刊行されたのは大正13年ですが、その後のことを書き上げて、実業之日本社で出版した『自伝小説・石の枕を立てて』が世に出るのは、昭和14年のことです。「自伝小説」とはいえ、もちろん小説であって、今回の本文に引用している箇所なども、いわゆる歴史的事実とは同じではありません。



1



既にこの節で記してきましたように、全国水平社の創立に関わってきた西光万吉さんや阪本清一郎さんと賀川豊彦との親密な交流と友情は、運動の展開過程で一時期、批判的な対応なる場面がありました。

水平運動の行き過ぎた歪みを正す為に、西光さんや阪本さんは、わざわざ賀川を招いて講演会を開催したことなども、研究者の手によって確かめられていますが、おふたりの晩年の証言などを見ても、賀川豊彦との関係は、決して途絶える事はありませんでした。

従来の「賀川批判」の論点のひとつに、賀川は解放運動を「憎悪の福音」などと批判して運動から離れていったことを問題視するものがありました。

その点も私の見方は違っていて、如何なる運動においても、全く無批判に運動などありえませんので、賀川は彼の見方から率直に、当時の運動のあり方を、厳しく批判したことそのことに、大きな意味があったのだ、ととるべきだと思うのです。

誰にでもわかることですが、人間は、絶対的な真理を我が持ち物のように握り締めることはできませんし、そうしてはならないわけです。真理の前に開かれ、真理のみを恐れて、その場所を踏まえて、忍耐強く相互批判を重ねながら、共に切磋琢磨していけばよいわけです。

しかし本文にあるように、全国水平社の場合では、あの「水国争闘事件」なども起り、運動内部も紆余曲折・ジグザグの歴史を刻んでいくのです。


なお、本日から別のブログ「滝沢克己 新しい対話的世界」で、「宗教の基礎―部落解放論とかかわって」の論考を掲載し始めています。よろしければ、そちらも参照頂ければ、嬉しく存じます。



では以下、6~8のところを掲載します。



2


3


4


5




『賀川豊彦と現代』第5章「胎動期の開拓的試み(2)」第1節「水平社運動・農民組合運動」4・5


今回のところは「水平社運動と農民組合運動」を扱った箇所です。

本文に書いているように、大正11年1月13日付けの「朝日新聞・京都附録」で「水平社の総裁に賀川豊彦氏推薦説が最も優勢」という報道のあったことを新聞史料集で見つけて、本書ではじめて紹介できました。

そしてその後、上山勝先生がわざわざマイクロフィルムからこの記事を取り出してお送りいただいたのが、ここに掲載するものです。

もちろん、全国水平社の組織には「総裁」などありませんし、賀川豊彦はその創立大会にも出席していませんでした。賀川はそのとき「葺合新川」の暴漢から逃れ、ハル夫人と共に台湾伝道に出かけていました。


1


それでは、「4 水平社運動と農民組合運動」と「5 水平社への共感と批判」のところを掲載いたします。なお、今回も末尾が次回の箇所と重なり、途中で消えていますがあしからず。


2


3


4


5


6


プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。