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「賀川豊彦の贈りもの」(第2回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

はじめに、今回の箇所に触れている1959年月20日から8月16日まで、大阪女学院で開催された「第5回学生労働ゼミナール」の写真が残されていますので、2枚掲載して置きます。


金井愛明先生との関わりもこのときからですが、これは同志社の2回生の時で、相方は関学の1回生、出合いのはじまりデス。


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             賀川豊彦の贈りもの(第2回)
     
       (前回のつづき)


             序:「賀川献身100年」を前に

ところで今日は、このエッセイとは別にレジュメを1枚つくりました。「序」と「結び」のあいだに三つの柱を立てています。そして最初の「序」には<「賀川献身100年」を前に>としています。(当日のレジュメは本記録の末尾に収めておきます)


ちょうど20年前は「賀川生誕百年」の記念の年でした。映画の製作や多彩なイベントが繰り広げられましたが、ことし7月10日が参りますと「生誕120年」という記念の年を迎えます。また、先生が亡くなられたのが1960年ですから、2年後には「没後50年」ですね。「記念の年」をとりだしますと、きりがないほどつぎつぎと続いてしまいますね。


先日の神戸新聞には、賀川先生のお孫さんにあたられる賀川督明さんが、さいきん復刻された小説『一粒の麦』の記事とともにお顔が載っておりました。このところ「神戸プロジェクト」関連の会議などで、督明さんのお話を親しくお聞きする機会がありますが、賀川先生にも似て、さすがに督明さんの発想はいつも面白く、なるほどと共感できることが多くあります。


たとえば、督明さんのアイデアで「百年シンポジウム」構想というのがありますね。わたしたちが「賀川献身百年」を考えるとき、少なくとも過去100年と将来100年を念頭においた、歴史的な幅と広がりと深さをもった、豊かな叡智がもられた創造的な構想でありたいということで、刺激的なシンポジウム企画を出してきておられますね。


              賀川豊彦のいぶきに触れる


さて、レジュメの最初は「賀川豊彦のいぶきに触れる」といたしました。
賀川先生の没年となる1960年は、日本の社会が大きく揺れ動いた「60年アンポ」のときです。わたしはこの年、同志社大学の3回生でしたが、完成したばかりの「人間みな兄弟」というドキュメンタリー作品に出合いました。これは、世界的に知られる亀井文夫監督作品です。神戸の映像は含まれていませんが、京都・大阪・和歌山など、おもに近畿圏の「未解放部落」にカメラを持ち込み、売れっ子アナウンサーだったNHKの宮田輝さんが、淡々と解説を加えてできた、衝撃的な作品でした。


山陰の片田舎で生まれ育ったわたしには、小学校時代から被差別部落出身の友たちもいて、気になっていた問題でしたので、このドキュメンタリーの生々しい映像に、驚愕いたしました。ほぼ半世紀も前の作品ですから、いまこれを見れば、よくもまあ、あの差別的な実態が、この半世紀のあいだにこれまで改善されてきたものだと、深い感慨を覚えますねれども、1960年、製作早々の作品をはじめて見たときは、本当にびっくりいたしました。わたしの「部落問題との出合い」のはじめですね。


この「60年アンポ」の同じ年に、住井すえさんの長編小説『橋のない川』の第1部が雑誌『部落問題』に発表されはじめ、写真家の藤川清さんの写真集『部落』なども出版され、強烈なインパクトを受けたわけです。


ご存知の方もあるでしょうが、国のほうもこのときやっと「同和対策審議会」という、問題解決のための諮問機関を設置するのです。この審議会の会長には、賀川先生とも御縁の深かった磯村英一先生が就任されました。先生は晩年、賀川豊彦学会の会長も引き受けてくださいましたが、最後までずっと部落問題の解決のために打ち込まれ、審議会のトップの責任を果たして来られました。


そんなことからわたくしも部落問題について強い関心を持つようになりますが、神学部の2年先輩だった梶原伸之さんなどは当時、「未解放部落の実態調査」に参加したり、修士論文には「賀川豊彦の社会運動と信仰」という論題でしたか、賀川研究を仕上げて、わたしもその論文を読ませていただいた記憶があります。


当時、同志社の先輩牧師たち、たとえば大阪の西成教会の益谷寿さんや金井愛明さん、広島の社会館では東岡山治さんなど、当時としては時代を先取りするようなとりくみを始めておられました。東岡さんからは「賀川先生にお風呂で背中を流してもらったことがある」といったお話を、何かのときに聞いたこともありますね。


そして同じころ「学生労働ゼミナール」という試みも続いておりました。わたしたちのときは、大阪女学院の校舎をお借りして、夏休みの一カ月あまりの期間、大学で学ぶキリスト者たちが全国から集まり、零細企業の労働体験をとおして学びあうというプロジェクトに参加して、楽しい経験をいたしました。大阪のあの暑い夏を、まいにち労働現場にでむいて、帰って来てはみなで食事をつくり、夜は講義などあって、お互いに交流する「労働と学びの体験」の試みでした。実は、わが相方とは、このゼミナールで出会うことになったのですが・・ま、そういう時代だったんですね。

    (つづく)



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「賀川豊彦の贈りもの」(第1回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」、2008年3月6日)

「賀川豊彦献身100年記念」の年(2009年)を前から、賀川記念館の主催による連続の「賀川豊彦講座」が開催され、2008年3月6日には私の順番がまわってきました。会場は、イエス団真愛ホームの研修室でした。


いつものまとまりのないお話ですが、これも一つの記録として、ここに収めて置きます。その前に、先日(2011年11月26日の午後)賀川記念館において、イエス団主催の公開講演会があり、同志社時代の先輩・小柳伸顕氏のお話をはじめてお聞きするためにでかけ、途中で写真を数枚とりましたので、ここに入れて置きます。


かつての「葺合新川」がいま、新しいまちに変貌している景色をまず2枚、そして同じ場所から六甲を見たもの1枚、加えて記念館の玄関に貼られていた講演会のポスターです。一部は昨日の別のブログに収めました。


小柳氏のご講演の内容に関する論評は、ここでは控えておきます。ご講演の文章化をお勧めしましたが、固くお断りのようでしたので、論評もしないほうがよいのかもしれませんね。私にとっては、ここにきて漸く「対話のはじまり」の一歩が前進した思いがいたしました。


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          賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日



            賀川豊彦の贈りもの



                  当日用のレジュメ


                  賀川豊彦の贈りもの

    序 「賀川献身百年」を前に(今年賀川生誕120年:賀川没後48年・・・)
                             聖書展資料:「賀川豊彦の贈りもの」
   
    1 賀川豊彦のいぶきに触れる
      ・賀川豊彦没年1960年という年:「人間みな兄弟」「橋のない川」:学生労働ゼミナール
      ・「神戸イエス団教会」体験 1966年~1968年
        武内勝氏の励ましの言葉                  資料:「ボランティア」
       「家の教会」構想 家庭集会 吾妻地区集会 牧師労働ゼミナール体験


    2 「賀川問題」の検討と解決に向けた試み
      ・「番町出合いの家」「在家労働牧師」の実験(1968年~現在)
                      「ドキュメンタリー青春」(チューリップのアップリケ)
       長田区番町:イエス団友愛救済所長田出張所(馬島・芝)
       天隣館(斎木・林・河野) 神視保育園(武内・牧田)
       天隣乳児保育園(武内・真部) 長田伝道所(白倉)
       賀川豊彦の世界を学ぶ:賀川の多くの著作に導かれて
       賀川豊彦の魅力 考え方(「復活」論「宇宙」論)と生き方(「贖罪」論「修繕」論)
                      (神戸における部落問題解決の激動期―1969年~1982年)
      ・「賀川生誕百年」(1988年) キリスト教界における「賀川批判」
                        資料:「賀川と現代」:神戸新聞記事


    3 21世紀に生きる賀川豊彦
      ・地球時代の平和と対話
      ・地域の再生 出合い・友愛・協同         資料;「今こそ賀川豊彦を考える」
      ・新しい自己の自覚 確かな座標軸の発見 (「心の奥が滅びては駄目です」)


    結び
      ・神戸プロジェクトの成功に向けて 「賀川豊彦の贈りものーいのち耀いて」
      ・KAGAWA MEMORIAL HALL:「賀川豊彦・ハル記念館」?   資料:「神戸新聞」社説




 司会(杉原) ただいまから、賀川講座をはじめさせていただきます。


 今日の講師の鳥飼慶陽先生は、ご案内にも書きましたように、高校生のときに賀川先生のことを牧師夫妻から聞かれて、その影響もあって牧師の道にすすみ、同志社大学神学部の大学院をおでになられました。その後、賀川記念館の中にあります神戸イエス団教会で2年間伝道師のお仕事をされ、1968年の春から、現在の長田にあります「番町出合いの家」を開設して、はじめゴム工場で働きながら、地域での活動にもとりくみ、現在も牧師としての活動をつづけておられます。


 今日は、先生の若いときの情熱であったり、気持ちであったりも含めて、自由にお話を聞かせていただけると思います。鳥飼先生、よろしくお願いします。
 

 鳥飼


 こんばんは。いちにちのお仕事を終えてのご参加、ご苦労さまです。
いま「賀川豊彦献身100年神戸プロジェクト」がとりくまれていますが、会議のときには、時折こちらに出向くことがあります。次の講座には「コープこうべ」の高村先生のお話が予定されていますので、いまから楽しみですが、その前座としてお引き受けいたしました。


 前回の講座は、神戸イエス団教会の責任役員や「イエスの友」の会長など担ってこられた緒方彰さんのお話があり、戦時下、賀川先生とともに、香川県の豊島で過ごされた青春時代の貴重な話をうかがいました。たいへん印象深いすばらしいお話でした。あのようなお話はわたしにはとうてい出来ません。


ところで、今晩のお話の題は「賀川豊彦の贈りもの」としております。資料としていくつか準備をいたしましたが、そのひとつに「賀川豊彦の贈りもの」と書かれた一枚を入れております。お話の大筋は、ここに短く書き記しているような内容になろうかと思います。 これは7年ほど前、神戸で「聖書展」というイベントがございましたが、そのときに『神戸と聖書―神戸・阪神間の450年の歩み』という、神戸新聞総合出版センターでおまとめになった、読みごたえのある作品が出版されました。


これには 次回にお聴きする高村先生、YMCAの今井先生、そして村山先生が、それぞれ賀川先生についての貴重な玉稿を寄せておられます。そのときに、わたしにまでも寄稿の機会を与えていただいて、これを書きました。


「賀川豊彦の贈りもの」というタイトルは自分でも気に入ったものですから、1年前、賀川先生について書いた三冊目の本の名前に『賀川豊彦の贈りもの―いのち輝いて』と命名もいたしました。


 この資料「賀川豊彦の贈りもの」には「21世紀へ受け継ぐ宝庫」というサブタイトルをつけています。この短いエッセイには、最初に「賀川豊彦への思い」として、いま司会の杉原さんがふれてくださいましたように、高校生のときに出合った牧師夫妻から、はじめて賀川先生のことを知るにいたった経緯などを書いております。


 しかしなんと申しましても、わたしにとって大きな出来事となりましたのは、賀川先生の最初の活動拠点に建てられた神戸イエス団教会からの招聘を受けたことでした。いまから42年も前、1966年の春のことです。


いまの資料では、神戸イエス団教会のこと、賀川先生の『聖書の話』の作品のこと、そして先生の「独自なコスモロジー」とか「生き方の開拓」について書いています。それに突き動かされて、1968年春から始めたわたしたちの「小さな実験」と現在までことを短く書きました。これを斜め読みしながら、きょうの話を気楽に聞いていただければと思います。


(以下、次回)




「新しい夢を宿した二年間の修道のとき」(下)(『神戸イエス団教会100年記念誌1』2009年)

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今回は前回に続いて「新しい夢を宿した二年間の修道のとき」の(下)です。次の写真は、いずれも1968年1月5日の日付のあるもので、この年の3月末に、この記念館をあとに致しました。


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       新しい夢を宿した二年間の修道のとき(下)



    (前回のつづきですが、短いものでした。まとめて収めておくべきでした。)



一方あの2年間は、牧師仲間の有志でシモーヌ・ヴェイユの月例読書会を行ったり、延原時行牧師が提唱した「牧師労働ゼミナール」(尼崎教会で共同生活しながら労働体験と共働研鑽を行う自主的な牧師研修)などを2度にわたって経験したりして、ゆとりを持って「新しい時代を生きるキリスト者のかたち」をじっくりと模索する、本当に恵まれた時であった。


またこの2年間の修道期間の終わりには、相方ともども牧師試験に合格し、今後は私たちも「在家労働牧師」として生きるという天来の夢を宿して、喜んで新しい歩みを踏み出すことが出来たのであった。


こうして1968年4月からは、長田区で6畳一間の部屋を借り、ゴム工場の雑役労働で自活する生活がスタートした。


「出合いと対話」は学生時代からの私たちの基本語になっていたが、教団公認のかたちで「番町出合いの家」の誕生となり、以来こんにちまで、もぐら暮らしの実験を楽しみながら、あっという間に40数年が経過した。


「賀川献身100年記念」の昨年は、神戸に来てからの念願でもあった「武内勝所蔵資料」の閲読を許され、その「玉手箱」の中から何と、賀川豊彦・ハル夫妻の武内宛直筆書簡およそ120通と貴重な武内日誌などの「お宝」が発見される事態となった。


その関連で昨年は、イエス団関係の方々(真部マリ子さん、河野洋子さん、大岸坦弥・とよの夫妻などのお話や所蔵写真にも接することも出来た。


それらの「お宝」は「賀川豊彦のお宝発見」として「献身100年オフィシャルサイト」で94回の長期連載となり、現在インターネット上ですべて公開されている。そして神戸文学館での企画展「賀川豊彦と文学」(2010年3月22日まで)でも、専門学芸員の手によってその一部が展示されている。


 神戸イエス団教会が、神の働きに与かる喜びに生きた多くの先達に呼応して、再建された新しい賀川記念館並びにイエス団の中核的役割を担い、益々の前進を遂げて行かれる事を、心よりご期待申し上げ、記念誌への拙稿とする。


創立100周年記念、おめでとうございます。

                         (日本基督教団番町出合いの家牧師 鳥飼慶陽)



「新しい夢を宿した二年間の修道のとき」(上)(『神戸イエス団教会100年記念誌1』2009年)

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今回と次回に分けて掲載する拙稿は、賀川献身100年記念の年にはじめて編纂された『神戸イエス団教会100年記念誌1』に寄稿をもとまれれて纏めた小品です。これには、たくさんの写真なども収めて見たいところですが、同時進行の別のブログですでに多くの写真などUPしていますので、ここでは文章だけにいたします。


1966年4月から1968年3月までの神戸イエス団教会での2年間は、私たちにとってほんとうに大切な日々だったことを覚えさせられています。すでに子供をふたり授かって、26歳にもなっていましたから、青春時代ともいえませんが、このときがあってこそ、という思いがいたします。



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             神戸イエス団教会100周年記念誌への寄稿


             新しい夢を宿した二年間の修道のとき



いまはむかし、不思議なご縁で神戸イエス団教会の招聘を受けたのは1966年春、44年も昔のことである。しかも2年間という短い期間であった。けれども私たちにとってあの2年間は、新しい夢を宿した大切な修道の時であった。


大学を卒業してすぐ結婚、農村の小さな教会の牧師になることを夢見ていたので、びわ湖畔の片田舎、近江兄弟社関連の教会が、私たちの最初の任地であった。


近江兄弟社学園の聖書科を受け持つなどして、新しい教会のかたち求めて試行錯誤を重ねていた。しかし二人目の子どもを授かることになり、生活上やむなく「出稼ぎ」の決断を迫られることになった。


産後すぐであったが私たちを招いていただいた先が、皆様のこの神戸イエス団教会であったのである。


建築間もない「賀川記念館」は、生来田舎者の私にはたいそう立派に見えた。ここではじめて村山牧師ほか役員の方々の面接があり、皆さんから暖かい励ましのことばを受けたあの日のことは、今も忘れることが出来ないでいる。


面接を終えてその数日後、武内勝氏の急逝という衝撃的な悲報を受けることになる。そのご葬儀が私のここでの仕事始めであった。


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村山牧師は勿論お若く、記念館館長として、友愛幼児園園長として、さらには保育園連盟などで既に幅広くご活躍の時であった。


新しい記念館では、加藤忍氏を中心として若手三人衆:祐村明・加藤鉄三郎・宮本牧子各氏らが、多くのボランティアと共に学童保育・キャンプ・バザー・古着市・相談活動など、若い力で大活躍が始まっていた。


教会の伝道師というのが私の職務であったが、記念館で毎週開かれていたスタッフ会議にも、最初から顔を出し、諸活動にも可能な限り加わっていた。


幼子二人を抱えた4人暮らしで、記念館2階の居室で生活していたこともあって、友愛幼児園の先生方や給食担当の方々にもお世話になり、とても親切にしていただいた。若き日の先生方のお顔を今でもすぐ思い起こすことが出来る。


同じ2階の向かい部屋には、管理人の国府忠信・清子夫妻がおられ懇意にしていただいた。1階に小さなお風呂場があり、週に何度か国府さんがお湯を整えてくださったり、時には子守までしていただいたことも。


週に1、2度屋上にあった和室にあがり「横堀川」という連続ドラマや淀川長治の「日曜洋画劇場」などを観るのが楽しみだった。当時まだ白黒テレビであった。


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教会学校もあの頃、斉木進之助校長のもとに先生方が揃い、中学生や高校生が群れていた時代であるが、記念館のスタッフ三人衆の周辺には青年男女も結構寄り集まっていた。


賀川先生の中には早くから「家の教会」構想は芽生えていたが、当時「教会の革新」の試論として「家の教会」といわれるものが話題になっていた。これを活かす試みで教会員を幾つかに組み分けをしたりして「家の集会」を始めていた。


その中でも際立っていたのは、お膝元の「吾妻集会」であった。当時は主に神田さんのお宅で集まりを持っていたが、佐藤きよさんや国府忠信さんの熱心さは突出したもので、「吾妻集会」は特に、日々の生活を中心とした宗教座談といった面白みがあった。


当時の地域の様子はといえば、まだバラック住宅が残り、戦前建築された共同住宅には戦災後さらに屋上屋を重ねる無残な環境が放置されていた。


「吾妻集会」でも、新しい記念館のわが居宅の中にまでも、神戸名物?恐怖の「南京虫」が襲来してきて大いに悩まされたことも、今はもう懐かしい昔の語り草になった。


   (この続き・後半は次回に)


『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』あとがき

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2007年4月に刊行した本書もすでに5年近くの時を刻みました。主として「部落問題の解決と部落問題」をめぐる検討を重ねてきた総括編のような内容で、私にとりましてはこの主題に一区切りをつけることができた三部作のむすびとなる作品です。


しかし、キリスト教界や賀川豊彦に関係する人々の間では、まだまだこの「賀川問題」は継続中のようですので、これからが実質的なみのりある「対話」に進展していくものと、期待しています。キリスト教界では現在も「部落問題の解決」という主題が、大きな柱として位置付けられていますから、「賀川問題」ということよりも、「部落問題の基礎理解」と同時に「キリスト教の基礎理解」に関して、言い換えれば「今日におけるキリスト教と部落問題」について、じっくりと深い対話が進展していけば有益かと思います。


期せずして明日は、神戸の賀川記念館において、「賀川問題」の問題提起を進めてこられた小柳伸顕さんの講演が予定されています。専らこの問題について、まとまったお話をお聞きできるようですので、楽しみにしています。時間をつくって出掛けてみたいと思っています。


現在進めているこのブログを含めた五つの作業も、上記の基礎作業のひとつの材料にでもなればありがたいことです。以下「あとがき」を収めて、次に進みます。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』結びにかえて・注記

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たっぷりと時間を頂いていた講演でしたが、いつもように横道ばかりの道草くさのお話でしたが、この「結びにかえて」で触れている金沢の小学校の教師「金森俊朗先生」(定年後、先生は大学の教授として若き教師を育てるお仕事に当たっておられます)との出合いは、もっとここで付記しておかねばなりませんが、別の機会に譲ります。


大学での「人権教育」の講義では、たびたび「金森学級」の話をして、「いのち輝いて」という彼のメイン・テーマを柱に学んでおりました。この時の講演の基調も、それに響きあうことを願ってのものでした。



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今回のスキャンもうまく行っていませんが、あしからず。


『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第5章「いのち輝いてー神戸からの報告」第4節「阪神淡路大震災から10年」

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今回も本文の分量が多くなりますので、早速に始めます。(別のブログで震災関連を連載中です)



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第5章「いのち輝いてー神戸からの報告」第3節「詩人・丸岡忠雄(1919~1985)没後20年」

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今回の第3節「詩人・丸岡忠雄(1929~1985)没後20年}の箇所も分量が多いので、すぐに掲載をはじめます。私にとって「丸岡忠雄」との出会いは、あの激動期、大変大きな出来事のひとつでした。



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次回は、この頁より掲載します。





『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第5章「いのち輝いてー神戸からの報告」第2節「結婚と部落差別」

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今回の第2節「結婚と部落差別」のところは、少々長くなりましので、コメントを加えずにすぎに本文を掲載していきます。


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次回は、この頁より掲載します。


『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第5章「いのち輝いてー神戸からの報告」第1節「同和問題とわたし」

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第1節「同和問題とわたし」のなかの最初に「わたしの故郷」に触れたところがあります。この度、資料の整理をしていましたら、1985年3月30日付けの毎日新聞の記事を切り抜いたものが出てきました。「鳥取県の国鉄倉吉線(20キロ)が3月末で廃線になる」のでカメラに収めたという写真です。


ちょうどその写真には、わたしの乗り降りした「せきがね(関金)」駅が写っていました。雪が少々積もっています。現在はこの景色はなくなっていますので、大変貴重なものに思えます。鳥取県東伯郡の清水義博さんの撮影です。


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では以下、本文です。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第5章「いのち輝いてー神戸からの報告」はじめに

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この挿絵は、研究所時代から月刊雑誌に寄せて頂いてきた浜中敬朔先生の作品です。自由に活用してもよいと許しをいただいていますので、ブログの中で時折UPさせていただきます。長く教育文化協同組合の責任をになって、現在もご活躍の先生で、国語の先生だったと思いますが、書や絵や幅広い才能を発揮しておられるお方です。


今回から掲載する第5章は、本書の最終章となります。2005年8月に京都府京丹後市の峰山総合福祉センターで開かれた「第40回人権教育研究大会」での講演記録です。


2002年3月末で所謂「同和対策事業」に関わる法的措置が終了し、新たな視座からの基礎的な人権問題(人権教育)へと移行していく中でのお話ですが、現在から振り返りますと歴史の進展の速さを感じあせます。


主催者のご注文に併せて、あれこれと昔話も含めて語っています。ご笑覧ください。



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次回は、この頁から掲載します。


『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第4章「『賀川豊彦』小さな断章」付録「神戸保育専門学院卒業式祝辞(2006年3月10日)」

これは神戸保育専門学院での卒業式の祝辞です。お話のなかに詩人の「まど・みちお」さんの「トンチンカン夫婦」をあげています。


まどさんの「100歳」を記念した数冊の詩集が出ていますが、NHK出版・生活人新書の中に『百歳日記』があり、この中にも「トンチンカン夫婦」が収められています。


われわれも愈々その仲間入りでして・・・・


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それでは、その「祝辞」とやらを、ここに収めます。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第4章「『賀川豊彦』小さな断章」第2節「賀川先生の『大きな喜び』を受け継いで(神戸保育専門学院)」

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2006年3月をもって「神戸保育専門学院」は35年の歩みを終えました。これはその記念誌です。


「社会福祉法人・イエス団」の設立になるもので、私は1980年代の半ばごろから「人権教育」の講義を担当させていただきました。学院のキャンパスは六甲山麓にありましたから、仕事場を抜けて週に一度自動車で山の上まで、美しい景色を眺めながらドライブして、授業の前の30分ほどのあいだ、学院横の広っぱで、ひとり草花や鳥たちの声を楽しむことできて、学生たちとの学びと共に、忘れがたい経験をさせていただきました。20年ほども通ったことになります。1988年には『賀川豊彦と現代』ができましたから、あれが絶版になるまでは、ずっとそれをテキストにして「賀川豊彦」を語らせてもらいました。学生からは「賀川先生のことを話すときの先生はいちばん嬉しそう」などと言われたりして・・・。


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今回は、上の記念誌に寄せたものです。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第4章「『賀川豊彦』小さな断章」第1節「四半世紀前のことなど(賀川記念館『ボランティア』1989年)」

今回の「小さな断章」は「四半世紀前のことなど」という「賀川生誕百年」の頃のものですから、あれからさらに四半世紀近くが経ちました。


つまりおよそ半世紀ほども昔のことですが、私にとっては、これが今も新鮮な記憶として蘇ってまいります。ここに記している「武内勝」という御方については、奇しくも「賀川献身100年記念」の年に、ご子息の武内祐一氏のご厚意で「武内勝所蔵資料」の閲読を許され、記念のオフィシャルサイトに長期連載ができました。(http://ameblo.jp/taiwa123/ 参照) また、神戸の賀川記念館のHPでは、先年発見された武内勝氏の10回連続講演を音声で聴くことのできるサービスも行われています。


ここでは、武内勝氏の肖像画掲載させていただきます。


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それでは、今回の箇所をUPいたします。



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次回は、この頁から掲載します。





『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第3章「21世紀に生きる賀川豊彦ー徳島信徒会総会」おわりに・注記

第3章は今回で最終回です。お話の最後に楽譜も用意してご紹介した「笠木透と雑花塾」のうた「君が明日に生きる子どもなら」を歌う笠木さんたちの写真を1枚、ここに収めます。


この写真は、2001年4月8日の姫路市「かつらぎ自然学校」でのものです。


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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第3章「21世紀に生きる賀川豊彦」第3節「21世紀に生きる賀川豊彦」

今回の箇所の最後のところで取り上げている賀川豊彦の『病床を道場としてー私の体験した精神療法』は「全集」には入りませんでしたが、私の好きな作品のひとつです。


賀川先生が得意の袋文字で表紙を書き、扉には写真もありますので、それだけをここにUPして、少し長いですが、講演の柱となるところを掲載いたします。


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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第3章「21世紀を生きる賀川豊彦」第2節「賀川先生の豊かな息吹きー賀川先生とわたし」

今回の箇所のはじめにあげている賀川豊彦の好著『地殻を破って』(大正9年、福永書店)の大正14年改版の布製表紙と扉にある賀川の絵「彼は棺桶の蓋をあけて廻る・・・」を収めてみます。


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早速、第2節を掲載します。今回は少し見やすくなりましたでしょうか。



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 (つづく)




『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第3章「21世紀に生きる賀川豊彦ー徳島信徒会総会」第1節「賀川豊彦は、今も生きている」

「徳島信徒会総会」の会場となった「鳴門市賀川豊彦記念館」は、HPがありますからそちらを覗いていただけば、その全容がわかります。


本文でも、この記念館の建てられている場所が「阿波のまほろば」と呼ばれるほどに、特別の土地柄を感じさせるところに思われます。


ところで、本文に触れている賀川豊彦の書「下座奉仕」と「純潔平和」の掲げられていた堀江町公民館の写真を、賀川生誕百年記念の1988年9月24日に初めて訪れた折りに写していましたので、それをここに掲載して置きます。


賀川豊彦が晩年、1956年1月7日、堀江町公民館でお話をした時の書のようです。現在この書は、鳴門市賀川豊彦記念館に移されています。


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では、本文を掲載します。どうも、文字が小さくていけませんね。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第3章「21世紀に生きる賀川豊彦ー徳島信徒会総会」はじめに

本書の「はしがき」で詳しく触れましたが、今回から掲載する第3章は、鳴門市賀川豊彦記念館で開催された日本基督教団四国教区徳島信徒会総会(2005年11月23日)に招かれて語った草稿です。


後で記念の写真を頂きました。中央真ん前に座らされている写真は珍しく、ちと恥ずかしいデスがひとつの記念として。


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このとき「千の風になって」が少しずつ知れ渡るときで、話のはじめに聞いたのですが、ここには、新井満さんの書かれた「良寛さん」の本を2冊、上げて置きます。


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以下、本文です。どうも、今回もスキャンがうまくいかず、文字が小さくなってしまいました。あしからず。


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次回は、この頁より掲載します。

『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」結びにかえて・注記

今回は、第2章の末尾と注記です。本文の最後に引用している『人間苦と人間建築』という433頁の箱入り上製の大著は、大正9年4月に警醒社書店より出版されて版を重ねました。


扉の「阿修羅王像」とその解説文は、拙著『賀川豊彦再発見』の裏表紙に収めましたが、ここではそれらと共に馬島や武内らへの献呈文と彼の「序」を収めて置きます。


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以下、今回の本文です。


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次回から第3章「21世紀に生きる賀川豊彦」に進みます。



『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」結びにかえて:補記「賀川豊彦の『新川入り』に関する村島帰之の証言」(前半)

最近の他のブログでも言及していますように、早くから賀川豊彦と歩みを共にしてきた村島帰之の証言には特別の関心を抱いてきましたが、今回の箇所もそのことに触れています。


はじめにここでは、改造社版「現代日本文学全集」第59巻として、昭和6年6月に出版された『賀川豊彦集』(ここには「死線を越えて」「太陽を射るもの」「壁の聲きく時」の3部作と、昭和6年までの貴重な「年譜」が収められています。)の扉の賀川の写真と、本文で取り上げている賀川の署名のある1頁分の有名な一文をUPして置きます。


この注目すべき賀川の一文は、徳島市の眉山の山頂近くに「賀川豊彦の文学碑」に刻まれています。



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今回の箇所をUPします。



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# 『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」付記「『没後の賀川豊彦』と神戸の『被差別部落』の現在」

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同時進行の4つのブログで何度も取り上げているように、賀川豊彦のホームグラウンドである「神戸の部落問題」は、大阪や京都や周辺自治体、そして兵庫年内の自治体の中にあって、部落問題の解決の到達段階という側面では、最も早く「同和対策事業」というものを終決させたところではないか、と思われます。


今回の箇所でも指摘しているように、今日も「都市問題」や「高齢者問題」などという地域の課題は共通の課題を残していますが、1960年代後半から本格化した部落問題解決に打ち込んできた歴史的過程を、より精確に実証的に把握して、展望を確認する課題は、不可欠なことです。


『神戸からの発信』は、これまでにも折々に発信してきましたが、ここでは2008年5月に「NPOまちづくり神戸・神戸人権交流協議会」が纏めた「自立型まちづくり運動」のレポートを掲載しておみます。


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以下、今回の本文です。



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今回も傾いたりしてしまいました。しかし、少し文字は大きくできたかと思います。
次回は、この頁より


『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」結びにかえて「神戸の『愛護教育』と賀川豊彦」

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今回の「神戸の『愛護教育』と賀川豊彦」の箇所で取り上げている神戸新聞の記事は、http://www.core100.net/ の「研究所」(鳥飼慶陽の部屋)の「新聞記事にみる賀川豊彦」第44回「賀川氏への神戸市玉津中学生の贈物」に、賀川記念館の語り部の方による活字化されたものがあります。


今回スキャンがたいへん小さなものになってしまっています。見やすいものにする方法がわかりませんので、このまま進めて置きます。あしからず。


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次回は、この頁より掲載します。


『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」第3節「賀川豊彦の部落問題認識」付記2「山村暮鳥の小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』と賀川豊彦」

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これは「近代作家研究叢書」の中にあった小山茂市著『暮鳥伝』にあったものだったと思います。


私はいつの頃からか、暮鳥フアンになっていましたが、特に彼の境涯がどこか重なるものもあったりして、彼の小説にまで関心が移っていきました。図書館で彼の全集など借りてきて、この小説『鼹鼠(もぐらもち)の歌』も読んだのでした。


賀川豊彦とのことの顛末は「付記」の通りですが、真に惜しい事でした。本書に書き記す事ができて、よかったと思っています。



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次回は、この頁より掲載します。





『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」第3節「賀川豊彦の部落問題認識」補記「新版『空中征服』について」

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今回の「補記」は、賀川が大正11年12月に発表して版を重ねた小説『空中征服』が、賀川生誕百年を記念して1988年に復刊された新版『空中征服』における「書き換え」や「削除」などの措置に言及したものです。


ここには、原本と新版の表紙だけを掲載して置きます。



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以下、短い本文です。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」第3節「賀川豊彦の部落問題認識」付記1「小説『死線を越えて』の「削除」措置について」

今回は、「付記1」として収めた「小説『死線を越えて』の「削除」措置について」取り上げた箇所です。


本文にも触れているように、部落問題に関わって、これまで数多くの文学作品においても「削除」や「絶版」などの傷跡を残してきました。最もよく知られている島崎藤村の処女作『破戒』の歴史は、いまから振り返ると誠に無残な歴史ともいえるものでした。今日では、初版本に戻されて読むことば可能となっていますが、それも日本の歴史の消し難い一齣です。


ここには、『小説破戒』の初版の復刻版、そして『死線を越えて』の初版本、昭和2年版、最後に戦後昭和23年の愛育版を掲載して置きます。


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こうして現在でも、次々と『死線を越えて』は、新しい版が登場していることは、ご存知のとおりです。



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 (次回は、この頁より掲載します。)

『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」第3節「賀川豊彦の部落問題認識」3「部落問題への研究的関心の持続と認識の変化」

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今回の箇所は、賀川豊彦と三好伊平次の関わりなど、興味の尽きないところですが、私が云々するよりも、専門の研究者がおられますので、新たなコメントを付けずに、このまま本文を掲載します。



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『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第2章「部落問題の解決と賀川豊彦」第3節「賀川豊彦の部落問題認識」2「『精神運動と社会運動』の部落問題理解」

今回の箇所では、大正8年に警醒社書店より出版した大型箱入り上製本の700頁をはるかに大著『精神運動社会運動』を短く取り上げています。


ここではまず、表紙と冒頭の挿絵、重要な献呈の言葉と本書の「序」を掲載して置きます。


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そして以下に、短い本文。



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Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

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