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「賀川豊彦没後四〇余年―21世紀を生きる・私的断片ノート」(第2回)(平成16年、兵庫県人権啓発協会)

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早速、前回のつづきを掲載いたします。



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「賀川豊彦没後四〇余年ー二一世紀を生きる・私的断片ノート」(第1回)(平成16年、兵庫県人権啓発協会)

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この論攷の初出は、兵庫県人権啓発協会の「研究紀要」第4輯(平成15年3月)ですが、標記の書名で平成6年に神戸新聞総合出版センターより刊行されました。


十分な誌面を提供いただきましたので、副題にあげているように「私的断片ノート」として書き下ろしています。そしてこれはその後『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』に収めることができました。


今回から数回に分けて掲載いたします。



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次回からは、印刷の鮮度のよい初出の『研究紀要』をスキャンしてすすめます。従って、ノンブルが異なります。

「賀川豊彦の『贈りもの』ー21世紀へ受け継ぐ宝庫」(2001年、『神戸と聖書ー神戸・阪神間の450年の歩み』)

この小稿は、標記のように2001年5月、神戸新聞総合出版センターより出版された『神戸と聖書ー神戸・阪神間の450年の歩み』に寄稿して、拙著『賀川豊彦再発見ー宗教と部落問題』の第2章に収めたものです。


ここではまず、『神戸と聖書』の表紙と巻頭の6頁分のグラビアをUPさせていただきます。1頁分逆転していますが悪しからず。





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「キリスト教と部落問題の研究ー工藤英一氏に聞く(『部落問題研究』75輯)を読んで」(1984年1月号、『部落』440号)

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工藤英一氏の労作に関しては、改めて再論する必要はありませんが、研究紀要『部落問題研究』に掲載された工藤氏へのインタビュー論文へのコメントを短く「研究動向」欄に寄稿したものがこの小稿です。


いわゆる「賀川問題」が俎上にのぼり、工藤氏もその問題提起に一役かってしまわれた感がありました。直接意見交換する機会のないまま、1987年6月に氏はお亡くなりになりました。1983年に『キリスト教と部落問題ー歴史への問いかけ』(新教出版社)を纏めていられます。



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「賀川豊彦のことなどー木村京太郎さんに聴く」(1988年5月28日、部落問題研究所にて)

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今回の聞き取り記事は、『月刊部落問題」第142号、1988年9月号に掲載されたもので、5月28日に京都でお話をお聴きして、2週間後に忽然とお亡くなりになりました。ですから、この掲載誌は残念な事におめにかけることができませんでした。


全国水平社の闘士のひとりで、戦後も部落問題研究の分野で大きなお仕事をのこされました。とても素敵なお方でした。


惜しくも早逝された写真家・山田梅雄さんの写真集『水平運動の人々』のなかに、木村京太郎さんの写真が数枚収められています。ここに、その中の1枚を掲載させていただきます。



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下の掲載誌の写真は、聞き取りの当日、撮らせていただきました。



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「『賀川豊彦と現代』その後」(1994年1月号、「火の柱」第531号)

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今回の小稿は、金子益雄氏の依頼を受けて寄稿したものです。



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「新しい人権の確立を求めてー現代の「賀川問題」に触れて」(「ミニ・クリスチャン・ジャーナル:地の塩・世の光」509号、1989年7月号)

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本稿は、前回掲載した講演の後、田中芳三氏の求めに応えて書き記したものです。



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「新しい人権の確立を求めて」(1988年・賀川生誕百年記念・イエスの友会夏期聖修会)

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これも昔のドキュメントですが、1988年8月3日に神戸で開催された「賀川豊彦生誕百年記念・イエスの友会夏期聖修会」での「全体協議の発題講演」の筆記録です。機関紙「火の柱」(昭和63年9月号・10月号)に掲載されました。


          
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『賀川豊彦と現代』余録(1988年7月、『月刊部落問題』)

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同時進行の別のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ で、94回に渡って連載してきた村島帰之さんの名品『預言詩人・賀川豊彦』が完結しました。


昨日は一日がかりで、全体を一本に仕上げる作業をいたしました。ご希望の方には、メールで送信させていただきますので、お申し付けください。



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今回のものは、『賀川豊彦と現代』を刊行して、これが予想外の反響を得て、本人だけでなく、皆さんが驚いておられる様子をメモしたものだったとおもいます。雑誌の巻頭の「ふんすい」欄に寄稿したものです。



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「賀川豊彦と部落問題」(雑誌『部落』506号、1989年2月号)

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部落問題研究の全国誌『部落」の1989年2月号に掲載された今回の「賀川豊彦と部落問題」は、1988年の「賀川生誕百年」の記念集会が京都で開催された折りのレポートでもあります。


本稿は拙著『賀川豊彦再発見』に収めたもので、すでにこのブログで分載済みのものですが、初出の掲載誌を資料としてUPして置きます。



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「キリスト教界の部落問題ー加藤氏の「提起」をうけて」(1987年11月、雑誌『部落』)

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今回UPする「キリスト教界の部落問題」も前回の「キリスト教界における「賀川問題」」と同じく、『賀川豊彦と現代』を書き下ろす下準備となったものです。


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「キリスト教界における『賀川問題』」(『月刊部落問題』117号、1986年8月)

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今回UPする小論は、賀川に関する初めての書き下ろし『賀川豊彦と現代』を出版する2年前(1986年8月)に『月刊部落問題』誌に寄稿したものです。


恐らくこの小論を纏めたあとあたりから一冊の書き下ろしを企図しはじめたのかもしれません。



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「四半世紀前のことなど」(「ボランティア」記念館だより第51号、1989年12月)

1989年12月発行の賀川記念館だより「ボランティア」第51号に寄せた短いエッセイは、すでにこのブログの2011年11月16日号において『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』第4章「賀川豊彦」小さな断章」にUPしています。


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資料整理の必要上、初出のものも掲載して置きます。文字が小さくなりますが、上に掲げたブログではいくらか読みやすいのではないかと思います。


では以下、その初掲載のものです。




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「21世紀に生きる賀川豊彦」(第3回)(イエス団研修会、2005年11月14日)

第3回目では、当時出版されていた『西田幾多郎とは誰か』と『鈴木大拙とは誰か』に触れています。いずれも岩波現代文庫に収められた好著です。今年は、隅谷三喜男先生の『賀川豊彦』がこの文庫に入りましたが、どなたか新しい『賀川豊彦とは誰か』を書き下ろしてくだされば、嬉しいですね。


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              21世紀に生きる賀川豊彦(第3回)

            林啓介「賀川豊彦」:「イエス団憲章」に触れて


             イエス団研修会 2005年11月14日



     (前回につづく)


                  お話の概略と予定


前置きが長くなりました。早速、本題にはいりたいと思います。簡単な「レジュメ」を準備しました。一応、お話の題は「21世紀に生きる賀川豊彦」副題に「林啓介著「賀川豊彦」「イエス団憲章」にふれて」としました。


本部事務局からは、参加される方は「賀川豊彦」について殆ど学んだ機会のない方もあるので、難しい話にならないように、というご注意はいただいていましたが、何をお話しようか思案していました。


特に私は、「イエス団」というものについて殆ど知りませんし、「イエス団憲章」というものの存在さえ、よく知りませんでした。この度「評議員」に加えていただいて、はじめて目にしたようなわけです。


神戸保育専門学院で、長く「人権教育」という講義をさせていただいて、学院の玄関に「イエス団憲章」の立派なプレートがあります。あれは、憲章が制定された1999年に出来ていたのでしょうが、・・。


それで、本部事務局からいただいた「資料」を見ながら学んだことを、今日は、未消化のままで、お話をしてみようと思っています。(「憲章」の策定に関わられた石田先生や村山先生、そして理事長の木村牧師もおられますので、助け舟をいただけることを期待しています。


ご参加の皆さんは、テキストとして林啓介先生の「賀川豊彦」を買い求めて、事前に読み、しかもレポートを提出されています。ですから今回のお話は、このテキストを参考に用いながらすすめてみたいと思っています。



               本日のレジュメの確認。


そこで、お手元に、本部から私がいただいた資料をそのままご参加の方々に準備していただきました。


一つは「賀川豊彦どんな人」「賀川豊彦関係事業展開図」。ふたつとも、イエス団で工夫しておつくりになったもののようです。他は「イエス団」関係の資料です。写真入の「イエス団」(これには「憲章」と「生い立ち」と「「広がり」、さらに「施設案内」が含まれています。くわえて2枚の「憲章用語註解」と「イエス団の歩み」(年表と解説)ですね。


そして私の方からの資料は、先ほどふれた「賀川豊彦の贈り物」と今絶版となった「賀川豊彦と現代」の終わりの部分のコピー(賀川先生の絵があるもの)。
そして本日、おまけとして昨年、これも神戸新聞総合出版センターで出版された本の中から「賀川豊彦没後40余年」という作品の最後の第3章「21世紀に生きる賀川豊彦」。
第1部「賀川豊彦とは誰か」を午前に、そして午後第2部として「21世紀に生きる賀川豊彦」として「イエス団憲章」に触れておぎたいと思っています。



               第1部 賀川豊彦とは誰か 


               参考図書を手引きとして学ぶ


第1部のタイトルを「賀川豊彦とは誰か」としました。3年ほど前に岩波現代文庫で「西田幾多郎とは誰か」「鈴木大拙とは誰か」という大変素晴らしい作品が登場しました。


私は、賀川先生と共に、西田幾多郎と鈴木大拙の二人は、大切なお方です。
西田と鈴木はクラスメイトで、西田は哲学の分野で、鈴木は仏教の分野で、大きな仕事をして、今日益々、世界的に学問的な影響を与えつづけている先達ですね。


賀川先生とは20歳ぐらい先輩の、日本を代表する思想家です。(西田は敗戦の年に74歳でなくなりました。鈴木大拙は賀川先生より長生きをして96歳で1966年になくなりました。
それはともかく、皆さんは既に、林先生の「賀川豊彦」を熟読されて、それぞれ味わい深いレポートを書いておられます。


しかし、どこまでいっても「賀川豊彦とはだれか」という問いは残りますし、私にとっても「賀川豊彦」という方は、新しい発見ばかりです。


「知らない」ということは、これから新しく、豊かな宝を探し当てることですから、これからが楽しみなのですね。大切なのは、「知りたいな」という新たな意欲と関心があればいいと思います。そうすると、必ず「宝ものは顔を出す!」


私たちがいま、少しでも「よい仕事」をしたい! 本気になって、仕事に打ち込む覚悟を決めたとき、そのときに「賀川豊彦」は顔を出す、ということでしょうか。

自分の切実な問いと求めが、日々の生活の中に宿るときに、世界は変わってきます。この宇宙には必ず答えがある!!からですね! 研修は、どこか受身的な「勉強」というニュアンスがありますが、「自分の夢・問い」が誰にもあって、だから「学ぶ」ことが楽しくなるわけですね。



(お断り)


この講演の準備草稿は分量も多く、配付資料も増えていて、このブログでの公開は、あまりに煩雑なものになりそうです。またここでの私の問題提起もまだまだ厳密に論点を整理して、積極的に提示する必要性を覚えますので、本題に入る前のところですが、今回で止めておくことにいたします。


後先になりましたが、当日配布された講演の柱は次のものでした。



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「21世紀に生きる賀川豊彦」(第2回)(イエス団研修会講演、2005年11月14日)

2005年11月14日、神戸市郊外の美しい研修施設「スペースアルファ神戸」でお話をしたこの講演は、たっぷりと時間を頂いていたこともありますが、長い枕詞が続きます。前回が第1回目でしたが、2回目の今回もそのつづきです。


ここで紹介している賀川豊彦について書いた『賀川豊彦と現代』と『賀川豊彦再発見』はいま絶版です。時々読みたいひともありますが、幸い今年始めたこのブログでは、それらは凡てネット上で、興味のある箇所を閲読いただけるようになっています。ありがたいですね。


2冊の表紙をUPして本文に進みます。


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              21世紀に生きる賀川豊彦(第2回)


              林啓介「賀川豊彦」と「イエス団憲章」に触れて


               2005年11月14日 イエス団研修会


   (はじめのご挨拶のつづき)


この「神戸イエス団教会」は、私にとって、とても刺激的で面白い教会でした。私は田舎育ちですから、教会は「地域に仕える教会」というイメージが強いのです。都会の教会は、「地域に仕える」という意識は大変希薄ですね。

しかし、神戸イエス団教会は、歴史的に「地域に仕える教会」として創立され、その志に共鳴する人達が、それこそ「セツラー」の自覚をもって、働いていて、「教会の働き」も、大変特徴のあるものでした。


教会の働きだけではなくて、神戸に来ました最初の年1966年に「牧師労働ゼミナール」といって、牧師仲間が合宿して共同生活をし、昼間は労働現場へ働きに出かけ、夜は聖書研究や経験交流をして、現代社会の現実に触れながら、「この時代の中で信じて生きるということは、どういうことであろうか」などと、相互に学びあう「ゼミナール」を実施いたしました。


「イエス団」とも関係のある尼崎教会を宿(どや)にして、20名近い牧師たちが集まりました。現在、豊島のナオミ荘の園長をしておられる小池基信牧師も、ご一緒でしたね。
これは2年継続しました。テーマは「ついてきたいとおもうなら」でしたかね。実に愉快なゼミナールでした。


2年間の「イエス団教会での修行」を終えて、私たちは1968年に相方共に、正式に「牧師」となると同時に、賀川先生の神戸におけるもう一つの活動拠点である長田区の番町地域に移り住み、実際に自ら労働する「労働牧師」に実験を始めました。


長田ではケミカルシューズの工場が多くあって、私は、職業安定所の紹介で「ゴム工場の雑役の仕事場で、毎日汗を流すことになりました。


「牧師が労働をして自活する」という生き方は、賀川先生のお勧めの一つだったようでもありますが、「自ら働いて、自活して、信じて生きることを学ぶのだ」とかいって、「6畳一間」の「文化アパート」を借りて、娘二人と夫婦の家族4人の新しい生活がスタートいたしました。


60年代の終わりごろは、ベトナム戦争が泥沼になり、アメリカではキング牧師が暗殺されたり、日本では大学闘争やキリスト教界での「教会闘争」などというものが、始まろうとしていた時代です。


私はそういう「教会闘争」とか「政治闘争」などには同伴しないで、ただただ「地下にもぐる」、日々長田のゴム工場の雑役で汗を流す暮らしに没頭していました。


そして、そこが日本でも有数の「都市の大規模の未解放部落」でしたから、この部落問題の解決の課題とも、日々直接かかわりを持つことになります。


本日は、ビデオを写せるということで、「賀川先生の映像」を少し入れたいと思っていますが、ここでちょっと、数分だけ、ゴム工場で労働するフィルムがありますので、御覧いただきましょうか。


この映像には岡林信康さんが登場いたします。最近「バンザイなこっちゃ」という面白い本を出版しましね。賀川先生と親しい交流のあったメレル・ボーリスのことばでもあったようですが、素晴らしいこと!という意味合いだそうですが・・・。


今回は「部落問題の解決と賀川豊彦」という主題ではありませんので、その問題については、必要最小限にとどめますが、私にとって、とても不思議なことですけれども、本日お話をさせていただく「賀川豊彦」という「人と生涯」が、「神戸イエス団教会」での2年間の経験を、大きなばねにして、それに促されて、「賀川豊彦」というお方が、とてもとても、身近なお方になってまいりました。

資料の「贈り物」の始めの方にも書いていますが、高校時代に、私はキリスト教会と縁があって、そこの牧師夫妻が、特に奥様の鎌谷清子先生が、賀川先生から洗礼を受けられ、献身して牧師になられた方でした。
このご夫妻から、キリスト教の魅力と共に賀川先生のことを学んでいました。


私は、生前の賀川先生とは一度もお出会いもしたこともないのですが、「先生の息吹」を受けて、村山牧師を始め、賀川先生と共に開拓してこられた方々や、賀川豊彦の作品そのものにも養われて、現在に至っております。


もちろん私自身は、改めて申し上げるまでもなく、研究者というのではありません。今回の案内文には「講義の課目を「賀川豊彦研究」とありますが、「部落差別問題の解決」という課題の中で没頭して現在まで来てしまっただけであります。その限りで、賀川豊彦の働きを学んできたに過ぎないのです。


ただ、その歩みの中で、部落問題の解決の見通しがはっきりと目に見えてきた1980年代になって、余りご存じないかも知れませんが、部落問題との関係で、特にキリスト教界の中で、乱暴な賀川批判が展開され始めました。それも私自身が所属する日本基督教団のなかに、教団を挙げての「賀川豊彦と現代教会」問題といわれるものが持ち上がってきたのです。


おとなしい私が、どうにも黙っておれなくなって、書き下ろしたのが「賀川豊彦と現代」でした。
以来、賀川先生についてお話をさせていただき機会があったり、私を「賀川豊彦研究家」などとお呼びいただくようなはめになって、恥ずかしいやら嬉しいやら・・・。


「賀川豊彦と現代」は絶版ですが、次の「賀川豊彦再発見」はまだ版元には在庫があるようです。ふたつの最近の論文―「賀川豊彦没後40余年」「部落問題の解決と賀川豊彦」―は事務局の方に少しお渡ししていますので、関心のあるかたは、読んでみてください。


「21世紀を生きる賀川豊彦」(第1回)(イエス団研修会講演、2005年11月14日)

このブログで掲載し続けているものは、どれもこれも公開するには失礼なよう作品群ですが、その折々に精一杯書いたり語ったりしたドキュメントですので、資料整理として進めている個人的な作業ですので、このまま継続してまいります。


今回からUPする「21世紀に生きる賀川豊彦」という講演は、2005年11月14日、「スペースアルファ神戸」という神戸郊外の美しい会場で、イエス団の施設長の皆さんなどが一泊どまりで研修される集いの初日、後の講演者の方々の前座として、自由に語らせもらったものです。今回もブログの関係っで、少しずつ分けて掲載していきます。


その前に1枚、1966年に神戸イエス団教会に招かれた頃の、教会学校の生徒たちと写したものがありますので、UPいたします。


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             21世紀に生きる賀川豊彦(第1回)


             林啓介『賀川豊彦』:「イエス団憲章」に触れて


              イエス団研修会講演 2005年11月14日




                序 ご挨拶「賀川豊彦と私」



今回初めてお出会いできた方々が多くおられます。ご紹介いただいた鳥飼慶陽と申します。先日夜遅く、昔の映像に現在をかさねて新しく製作された番組「新日本紀行ふたたび」を見ていましたら、「かすりの似合う町・倉吉」という、私のふるさとが映されていました。


私のふるさとは、山間部の関金町という「静かな山のいで湯・関金温泉」です。今年春、倉吉市に合併しました。「鳥飼旅館」という旧い宿屋がありますが、遠い遠い親戚だとか。鳥取県(とりとり県)の「鳥飼」です。

幼いときから、生活のために、豚ややぎ、羊や鶏など飼っていました。もちろん「鳥飼」ですから、冬場には仕掛けをしてとりをとったり、当時のことですから、めじろとりをして何羽もかったり、カナリアを飼ったり・・・。今も、家に小鳥を20羽ほど、育てています。なにしろ「鳥飼」ですから。


随筆家の「内田百閒」の作品に「阿呆の鳥飼」という名作があります。文庫にもなっています。以前「阿呆の鳥飼」という本が、本屋さんに山積みされていて、大変驚いたことがあります。内田百間は、芥川龍之介などと共に、夏目漱石門下生の一人ですが、・・。彼は「阿呆の鳥飼」と自分で言うように当時、ふくろうなど、40羽も家で飼って、楽しんでいたそうです。


本日、夜の懇親会まで、ご一緒に私も学びたいと思います。よろしくお願いいたします。このたびの研修会は、びっしりとお話が続くプログラムが組まれています。わたしは後お二人のお話の前座ということです。


ただ今、開会礼拝のお話をされたイエス団理事長の木村先生のことは、お名前はもちろん以前から存知あげていますが、先生のお話が聞けたのは、今日初めてのことです。お会いしたのも2度目です。先ほど紹介をしていただきましたように、この前から「イエス団」の評議員に加わらせていただきました。私は、まだイエス団では「ぴかぴかの1年生」です。


ただ私は昔、今から40年ほど前になりますが、1966年から2年間、神戸の賀川記念館の中に住ませて頂いて、神戸イエス団教会の伝道師として、村山牧師のもとで、働らかせていただきました。まだ20台の「青春時代」です。先生は本日の研修会にもご参加で、全く驚いています。「やさしく・きびしく」ご指導を頂きました!


この村山牧師から、有無を言わせず、今日のお役目を「押し付け」られました。大変光栄なことですし、私にとって嬉しい、ありがたい機会でございます。
 

また本日は、石田先生(愛称「コロちゃん」。なぜですかね?)お顔も見えて、これまたびっくりデス。同志社で学んでいた頃から、先生のスピーチは何度も聞いて、よく存じ上げています、
 

さらに、有村明園長もこの場におられます。それこそ村山牧師と同じく、1966年以来のトモダチです。私がここでこういうお話をするのは、場違いな感じがしてきます。「まな板の鯉」ということで・・


お手元に、沢山のコピーをお願いしました。その中に「賀川豊彦の「贈り物」(21世紀へ受け継ぐ宝庫)という1枚のコピーを添えました。
これは、2001年5月に「神戸新聞総合出版センター」で出版された「神戸と聖書」(神戸・阪神間の450年の歩み)の中に収められた、短いものです。村山先生や今井先生のご寄稿も、もちろん入っています。


ここにも少し触れましたが、私が神戸にまいりました1966年といえば、賀川先生が波乱の生涯を終えられたのが1960年ですから、「賀川没後6年」のときです。神戸に現在の「賀川記念館」がオープンするのは1963年ですから、「賀川没後3年」のときです。


賀川先生の活動拠点であるあの吾妻通り界隈は、かつてのスラムの傷跡を、まだ色濃く残していました。バラックのような住宅が多く残り、新築の賀川記念館の一室で生活していましたが、その中にまで「南京虫」が襲ってくるような実態が残されておりました。


賀川先生の努力で、戦前に建設された有名な鉄筋の共同住宅が、戦災でもかろうじて残り、老朽化して「屋上屋」を重ねた住環境が、まだ存在していました。そこに、立派な賀川記念館が建てられて、意欲的にセツルメント活動や友愛幼児園、そして教会活動が行われておりました。










「母教会:倉吉教会記念誌寄稿<あの日々があればこそ>」(2000年3月)

前回は、私の母教会:山陰鳥取の「倉吉教会」における礼拝説教を収めました。続いて今回は、私の高校時代の頃のことの寄稿を求められて、2000年3月に書き記していたものをUPいたします。


その前に、今回も2枚の写真を取り出して置きます。
一枚目は、高校生の時、同志社大学神学部のサポートで「高校生献身キャンプ」という集いが、滋賀県琵琶湖畔の同志社唐崎ハウスであり、その折りのものです。全国から集う交流の場ですが、けっこう多い参加者ですね。一緒に神学部に入学してクラスメイトとなっていくた友人たちの顔がたくさん見えます。


もう一枚は、倉吉教会の高校生有志(もっと多くのメンバーがいました)が近くの日本海の由良の海岸に遊びに出掛けた時のものです。鎌谷牧師とW・エルダー宣教師のお顔も見えます。


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          2000年3月  私の母教会「倉吉教会記念誌」寄稿



                あの日々があればこそ
     


 嬉しいことに先年、本当に久方振りに、倉吉教会の皆さんと再会する機会が持て、変わらないご友誼を確かめることができました。


 そして今年(2000年)2月6日の創立111周年記念礼拝の鎌谷清子先生の説教を、せめて録音テープででも聴いてみたいという私の申し出におこたえいただき、わざわざ本日、中村博牧師がそれを送り届けてくださいました。ただ今、それを聴き終えたところです。


 私には、むかし高校生だった頃、清子先生の日曜学校での児童向け説教が、天下一品だったことが記憶に焼き付いていますが、今回の説教を聴きながら、それを彷彿されるものでしたので、たいへん満足をいたしました。


 そしてこの度は、古くから教会の中軸にあって仕えてこられた塩見章生さんから、近く教会の記念誌をつくるので、何か「高校生の頃の思い出」があれば書き送るようにと、暖かいことばを添えてご依頼を受けました。


 ところで、だれでもそうかも知れませんが、年を重ねる毎に(ナント私もいま還暦の60歳を迎えたばかりです!)、過ぎた青春の日々の諸経験が甦り、「あの日々があればこそ」と、昔を懐かしく想起するものです。


 幼いとき結核で父を失い、私も小児結核で小学時代は体操も禁じられていましたが、漸く中学になり野球部の球拾いに明け暮れ、そして高校生に入ってすぐ、何とも不思議なことに、倉吉教会との出合いが始まりました。1956(昭和31)年の頃です。


 1960年7月に作成された「倉吉教会会員名簿」が手元にあり、それをいま見ていますが、鎌谷幸一牧師夫妻が倉吉教会に赴任され「めぐみ保育園」を創設された後から、毎年5人ずつ程度の新しい受洗者が続いています。私は高校2年生の時に、現在大阪にいて活躍している絹見紀一君と一緒に洗礼を受け、倉吉教会のメンバーに加わらせていただきました。


 なぜか当時、教会には同世代の友たちが群れていました。絹見君も私も倉吉東高校でしたが、あの頃まだ女子高だった倉吉西高校からも、また他の高校や既に仕事についていた友人たちも加わって、休日などにはよくサイクリングにでかけたり、もちろん真面目な研修会などを企画したりして、活発にエンジョイしていました。


 中でもあの頃、W・エルダー先生が鳥取市の方で宣教師として働いておられ、毎月であったか隔月であったか私たち高校生の指導育成にあたっていただいていました。そして時には、高校生や青年会の「大会」のようなものもあって、鳥取教会や他の教会に、皆さんと一緒にノコノコと出掛けることもありました。


 私にとって高校生のあの多感な時期に、倉吉教会との出合いがあって、毎週日曜日の礼拝説教と週日の聖書研究と祈祷会などを通して、大切な真理・真実をタップリと学ぶことのできたことは、その後の人生を決定づけるものでした。中でも、鎌谷牧師夫妻ご一家の日々の暮らしぶりに親しく身近に接するなかで、私も許されることなら、先生のような生涯を送ってみたいという「夢」を抱くようになりました。


 高校3年生の時には、同志社の神学部関係の「高校生の献身キャンプ」というものがあって、その時すでに牧師志望が宿っていましたが、琵琶湖畔の唐崎ハウスでの集いに参加したりもしました。牧師になりたい願いはありましたが、母子家庭でしたから経済的なことを考えて農村伝道神学校にするか、それとも同志社にするか迷いました。結局先生のお薦めもあって、思い切って先生も学ばれた同志社神学部を受験し、進学することができました。


 入学に際しては、鎌谷先生やエルダー先生、そして当時貸本屋をしておられたご婦人の木下恵美子さんや共に教会で学び合った高校生の友たちなどから、学資の一部をお支え頂いたり致しました。私にとってあの経験は、大学生活のスタートに大きな大きな励ましでした。


 あの年は、同じく高校生だった八頭教会の草刈孝昭君と鳥取教会の宇山進君も揃って同志社神学部を受験して、3人揃って入学し、一緒に神学部の学生寮だった京都岩倉の「壮図寮」に入って、本格的な勉学を始めました。


 そしてその後のこと――学生時代の6年間のこと、卒業後の牧師生活、なかでも振り返って鎌谷牧師夫妻に負うところが大きかった高校生時代、倉吉教会で「賀川豊彦」についてのお話や著作に触れることができたご縁もあって、賀川先生が活躍された神戸の下町で歩み始めた「新しい生活」のこと――などは、また機会がありましたら、ゆっくりとご報告をさせていただくことにして、今回はとりあえず、ご依頼のあった昔むかしの「高校生のころ」のレポートを終わりにいたします。


 高校生の頃の「あの日々があればこそ」、現在までの、そして現在の、思いがけないひとつひとつの「生活の開け」が可能になっていることを思わされています。


 ここにあらためて、倉吉教会の皆様に、深く感謝の思いを表したく存じます。
中村博牧師をはじめ、皆々様の、主にあるご健勝をお祈りしています。
                          

「私の母教会:倉吉教会での礼拝説教」(1997年7月27日)

拙著のなかでも賀川豊彦の関連で何度か触れてきましたが、私の場合、高校時代にご縁がって、倉吉市の打吹公園の近くに建つ教会「日本基督教団倉吉教会」に加わって、将来は小学校の教師になるという志望を変更して、農村の小さな教会の牧師になるという夢を託されて、今日を迎えることのできた「母教会」、これが「倉吉教会」です。


今回は、1997年7月にお招きを受けて、母教会で礼拝説教をさせていただいた、その下書きが残っていましたので、ここに一括して収めておきます。


その前に、当時(1950年代)の高校生時代の写真が残っていますので、2枚収めてみます。一枚めは、高校2年生の時のもので、鳥取市にある鳥取教会で鳥取県青年宣教大会があって、その時のものです。これをみると、鳥取教会の宇山進君と八頭教会の草刈孝昭君の顔も見つかります。この3人は学校は違いますが同級生で、同じように牧師の道を目指して同志社大学神学部に進学し、神学部の同じ寮に入り、牧師となっていった「鳥取三羽烏」です・・・。


そしてもう1枚は、1958年10月5日に倉吉教会の創立70周年の記念礼拝があり、当時同志社新学部の山崎享先生を迎えた時のものです。私はこのときは神学部の1回生で髪の毛も増えています。



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             1997年7月27日 倉吉教会説教


                  インマヌエル!



                マタイ福音書1章23節


       見よ、乙女がみごもって男の子を生むであろう。その名は「インマヌエル」
       と呼ばれるであろう。これは「神われらとともにいます」という意味である。


           賛美歌 24(ちちのかみよ) 264(かみはわがやぐら)



                      序


 倉吉教会は私の母なる教会です。今朝は、本当は「放蕩息子」の物語を読んでいただこうと思いました。私は「倉吉教会の放蕩息子」のひとりだからです。


 1958年の秋でしたか、倉吉教会の創立70周年の記念礼拝があり、そのとき同志社神学部に入学したばかりの頃で、当時神学部長の山崎亨先生(もうお亡くなりになりました)が倉吉教会に御出になり、私もこの記念礼拝に出席した記憶があります。


 中村先生とは、本日初めてお出会いするのですが、中村先生は、この山崎先生の物真似が大変お上手だそうですが・・。以来、実に40年の間、私は「倉吉教会の放蕩息子」でした。大変申し訳のないことです。
 此の度は、全く思いも掛けないことに、ルカ福音書15章の聖書の記述のとおりに、こうして皆様に暖かくお迎えいただき、本当に有難く、うれしく思います。


 さて今朝は、クリスマスの季節でもありませんのに、イエスの誕生のテキストを拝読いたしました。「インマヌエル」という題で、短いお奨めをさせていただきます。


 
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 私のふるさとは関金(せきがね)です。高校時代のその頃は、まだ石炭を燃やしてデゴイチが倉吉線を走っていました。
毎朝、7時前の汽車に乗って30分ほど。倉吉に来て、授業が始まるまで一時間近く時間がある。晴れた日はグランドでソフトボール、雨のときは体育館でバスケットなどして友達と遊び、昼の弁当を早々と食べてしまったりして・・。


 倉吉教会との出会いは、その高校1年の2学期のころでした。「教会高校生の会」(KKS)という交わりがあって、高校生たちも楽しく集っていました。


 私たちの倉吉東校は男子生徒が多かったわけです。当時倉吉西高校は女学校でしたが、西校からも数人きておられて、鳥取から宣教師のウイリアム・エルダー先生が時折来られて、一応「研修会」だったと思いますが、高校生たちが楽しく群れていました。


 そのなかで洗礼を受けてこの教会のメンバーになったのは、今大阪にいる絹見紀一君や京都にいる豊田源具君(彼は中学からの友人でしたが)。それから山崎洋子さん、井上京子さんなど思い出しますが・・。


 当時、青年会も岸本さんなど楽しそうにやっておられましたし、クリスマス会などは、塩見さんが素晴らしい司会をしておられたり、その頃に、山田さんや藤原さんが結婚されたような記憶が残っています。


 お名前を忘れてしまって失礼なことですが、毎週の祈祷会に、雨のときも荒らしのときも、遠方から欠かさずに出席しておられた方がありました。松葉杖をついて来ておられた川崎さんや仏壇屋さんの中本さんでしたか・・・川崎さんとはよく家までいってお話をきくことがありました。
 倉吉教会でのこの数年間の経験は、私の人生とその後の生涯を決定づけるものでした。


 とりわけ、私に取りましては、鎌谷牧師ご夫妻には、「牧師の生活」のかたちを、本当に身近に学ばせていただきました。


 真理ちゃん・愛ちゃん・光ちゃんはまだ小さくて、私は「おにいちゃん」と呼んでもらっていました。
 私も、鎌谷先生のように牧師になって、農村の田舎の小さな教会で仕事をしてみたいと思うようになりました。


 鎌谷先生が同志社大学の神学部を出ておられましたから、私は学力もロクにありませんし、母子家庭でしたから大学に行くお金もありませんで、東京の方にあります農村伝道神学校にいこうか迷っていました。とにかくしかし、受験することにして、同志社に行くことになりました。


 そのとき、鳥取教会の宇山進君と八頭教会から草刈孝昭君と三人が同時に同志社を受験して、運よく3人とも合格しました。そして大学の寮にも当時、神学部だけの「壮図寮」という寮があって、そこでも三人一緒でした。
 中村先生は、この寮の大先輩でもあります。



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 さて、それから40年間、話せば長い歳月です。今朝は、私にとって激動の40年間のことを、ほんの少しだけお話をいたします。

 私にも「青春時代」がありましたから、人並みに「恋」をし、「失恋」の悲しみも経験して、大いに鍛えられもいたしました。
 牧師になるための同志社での6年間は、キリスト教信仰についても、大きな厚い壁にぶち当たりもしました。


 詳しいお話はいまできませんが、倉吉教会で、昭和32年(1957年)2月24日に洗礼を受け、喜んでキリスト者のひとりに加えていただきましたが、どこか肝心要のところが解けていませんでした。
 何か「独り善がりなものを残している」、どこか不必要な「キリスト教的な臭さ」がまとわりついてくる、それが何なのかもわからない。
 そこが解けなければ、「牧師として」も、「一人の人間として」も、喜んで生きることができない、そんな問いが、私から離れませんでした。


 しかし、この問いがあったおかげで、学生時代の6年間、真剣に聖書を学び、「神学」に没頭することができました。大学の6年間、「求めること」「門を叩くこと」、「問い」をもつことの大切さと、その「答え」を「発見する」喜びをたっぷりと学んだように思います。


 イエスというお方が、なぜあのように自由に生きられたのか。「インマヌエル」と呼ばれたイエスは、「アバ!」「お父さん!」と、直に「隠れたるを見たもう父」にお祈りになった! その「インマヌエル」(神、われらとともにいます)と呼ばれた「イエスの信仰」を、あらためて新鮮に学び直すことになりました。


 最近も、「イエスの語録」への関心が深くなっていて、学問的な刺激を与えていますし、あとで少し触れようとおもいます賀川豊彦先生の「信仰」の秘密・特長でもありますが。


 「インマヌエル」!」


 1968年にお亡くなりになった、あの20世紀の最大の神学者「カール・バルト」先生! 
 そして日本で、このカール・バルトの「インマヌエル」を深く学んで、没後『インマヌエル』という名著を残した牧師「橋本鑑」先生!


 特に私にとっては、戦前ドイツに留学してカール・バルトのもとで学び、戦後も長くバルト先生との対話を深めた「滝沢克己」という先生などとの、不思議な出会いも与えられて、やっとあの「暗いトンネル」を脱して、喜んで、感謝して、同志社大学を卒業することができました。


 本日一緒に出席できませんでしたが、私の妻も関西学院の神学部をでて牧師をしていますが、名前を「偕子」と申します。人べんの皆の「偕子」です。
両親がキリスト者だったからだと思いますが、「インマヌエル」からとってこう名付けたようです。名前にもほれ込んでしまいました!

     
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「出会い」は実に不思議です。


 高校時代、この倉吉教会で、牧師先生から「賀川豊彦」というかたのことを初めて知りました。教会の図書だったのか先生の蔵書だったかわかりませんが、横山春一さんのお書きになった「賀川豊彦」の生涯をダイジェスト風に綴った本も読みました。(横山さんとは、『賀川豊彦と現代』という本をまとめたあとに一度お出会いしました。そのあと、すぐお亡くなったのですが)。


 鎌谷清子先生は、賀川先生から洗礼を受けられたそうですし、私は高校時代に倉吉教会で賀川先生のお弟子さんで「立体農業」の指導者でした藤崎盛一さんを迎えての集会があって、その時の事も記憶に残っています。


 そういうご縁も不思議ですが、1966年の春、賀川先生が明治42年から、地域に住み込んで献身的な活動を続けられた本拠地である神戸の「葺合・新川」、現在は「生田川地域」といいますが、その賀川記念館の中にある「神戸イエス団教会」から招聘を受け、神戸で生活を始めました。


 そして私たちも、賀川先生のあの「冒険」にも促されて、1968年の春から、神戸のもうひとつの下町で「番町出合いの家」という「新しい歩み」を始めました。


 夫婦と子供ふたりで、六畳一間の「家の教会」。「牧師ふたりで信徒なし」で、日本キリスト教団の正式な伝道所として認可されました。現代の社会の中で、「喜んで信じて生きる」ことを求めて、「インマヌエル」の喜びに突き動かされて! 


 この地域は当時、日本一大きな都市スラムで「未解放部落」でしたので、この地域の多くの人たちの仕事場であったゴム工場の雑益の仕事からはじめました。
 もちろん、どこからのご援助もいただかないで、ひとりの住民としての生活が始まりました。


 以来30年、疾風怒涛の歳月でした。地域の様子もすっかり変貌しました。あの阪神大震災の経験もタップリとさせていただきました。


 そして、「インマヌエル」!「神われらとともにいます」という「喜ばしい福音」は、私たちにとって、益々、有難い「生活の支え」であり「生活の目標」です。


 この30年ばかりの間の毎日の「経験」は、ごくありふれたものでしたが、私たちにとって、これほど嬉しく、感謝に満ちたものもございませんでした。
 沢山の方々と生活を通して自然に「出会い」、友たちになり、「語りあい」「支えあって」歩めること、これは、最初にこの倉吉教会の皆さまとの、高校時代のあの交わりと経験の続きのようなものであります! この母なる教会でのあの日々があったからです!


 現代社会にあって「信じて生きる」、この現在の生活は、まだまだ止められそうにありません。
 今年の暮れまでは、大震災で住宅が全壊のなったために、避難先での生活を強いられていますが、また元の場所に戻って生活をする積りでおります。



                     結 語


 放蕩息子が親元に帰ってきたことを、こうして喜んでいただけて、とても嬉しく思います。
 人生は長い長い旅路だと申します。
 私が「放蕩」している間も、皆さんは堅実に、力をあわせて、この場所で信仰の生きた証しを続けておられます。


 皆さんに、大いに励まされて、私もまた皆様から元気をいただいて、「元気アップ」して、また再び遣わされて、喜んで新しい旅を始めたいと思います。


 祈 祷


 父なる神さま。こうしてあなたの教会で、共に御名なを称えることができ、心から感謝いたします。
 あなたは、いつも「私たちと共にいて」励まし、慰めておられます。
 私たちも、あなたのこの御愛に応えて、それぞれの「家庭」にあって、「地域」にあって、「職場」にあって、あなたの「御心」をもとめて、「喜んで」歩ませてください。
 主イエス・キリストのみなをとおして祈ります。 

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり、我らすべてのものと共にあらんことを アーメン



「歴史散歩:賀川豊彦と水平運動」(第3回)(1989年3月21日、神戸海員会館)

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この論考は今回で終わりますが、これの完成稿は、既に著書の中で纏めていたようですね。未確認ですけれど。



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             歴史散歩:賀川豊彦と水平運動(第3回)


             1989年3月21日 神戸海員会館



        (前回のつづき)


               4 水平社の精神と賀川の思想
 

13 さて、次に「水平社の精神と賀川の思想」について触れて置かねばならない。この点も、特に前掲鈴木氏の論稿に学んだ論点であるが、西光や阪本ら水平運動の指導者たちは、先に見たように「よき日」を先取りし、その「歓喜」を運動の基調にして立ち上がり、「宣言」にあるような「心から人生の熱と光を願求礼賛する」ことを「水平社の精神」として出発させた筈の初期水平運動が、未だ十分には部落差別の本質を見極めることが出来ず、大衆的な徹底的糾弾闘争主義に流されていく大きな危険(誘惑・落とし穴)から、いかにして脱出することが出来るか、それが、彼らが最初に強いられた厳しい試練であったのである。


14 そうした中で、西光たちは一九二二年一二月、水平社主催の講演会に日本農民組合の幹部・杉山元治郎のほか、行政長蔵、仁科雄一らを招いたり、賀川や佐野学を呼んだりして、水平社と農民組合との連帯の方向を探っている。


そして、西光・阪本・駒井の三名は同年暮れに、次のような運動内部の人たちに向けた注目すべきビラを印刷・配布し、彼らの立場を闡明に示したのである。


「『人間は尊敬すべきものだ』と云ってゐる吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である(中略)。諸君は他人を不合理に差別してはならぬ、軽蔑し侮辱してはならぬ。吾等はすべて人間がすべての人間 を尊敬する『よき日』を迎へる為めにこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力をたのんで軽挙妄動する弥次馬的行為には我等は断じてくみするものではない(下略)。」(鈴木良『近代日本部落問題研究序 説』273頁)。


15 当時既に、労働運動のみならず水平運動の中でも、賀川排斥の動きがみられ、例えば一九二二年五月の『労働週報』での「水平運動の途にて」と題する平野小剣の小論(「荊冠の友」七五号所収ーーこれは、番町での演説会で「賀川排斥、賀川の人望はこの部落の人々から蹴散らされている」ーー)なども、「部落排外主義・部落第一主義」に立つ賀川批判の典型であるが、これはそうした中での西光らの力強い意志表示であったのである。
 

賀川は個人誌『雲の柱』の一九二三年三月号で、その「大和の田舎」に講演に出かけた時のことを、次のように記している。
 

「私は一月は水平社の特殊部落解放講演会や小作人の農民組合の運動の為めに大和の田舎や播州の田舎に出かけました。
雪の中を貧しい部落に出入りすると、私は何となしに悲しくなりました。あまりに虐げられてゐる部落の人々の為めに、私は涙が自ら出てそれ等の方々が、過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為めに祈るのであります。みな様も水平社の為めに祈ってあげて下さい。水平社の中には清原さん(西光の本名)、駒井さんや、阪本さんなど古くから私の知っている方があります。」


16 賀川はしかし、この年九月の関東大震災救援のため主たる生活の拠点を東京に移し、それ以後水平運動との直接的な関わりは薄れていくのである。もちろん、東京に移ってからも一九二七年の「不良住宅地区改良法」の制定などに活躍するのであるが。




            5 キリスト教界の「賀川問題」その後


17 以上、短い紙幅の中で「賀川豊彦と部落問題」に限って、しかもその中の一側面だけを振り返ってみた。わたしたちがこの問題を正しくとらえるためには、彼が生きたあの時代の歴史的な場を踏まえ、広い視野から検討をしなおす学問的態度が求められる。その点、全くの素人がまとめたこの度の拙い小著は、余りに狭い視野からの「独り言」であることは、著者のわたしが十分に承知している。
 

しかし、今日のこの問題をめぐる状況はこのような「独り言」でも大事な意味をもっていたようで、素人の小さな「声なき声」が待たれていたのかもしれない。ただ「対話」を求めて書き上げたものの、キリスト教界で「賀川問題」を熱心に問題提起してきた人々からは未だ何の反論や異論も出されていないのが、残念と言えば残念である。
 

―雑誌『部落』の拙論を読まれた大阪の杉山博昭氏が3月号の「読者のページ」に寄せて、私の本にたいして「激しい賀川攻撃を展開している人達から批判が起こり、それによって賀川と部落問題についての議論が建設的な形で深まることを期待していたが、これといった反論もないということで拍子抜けという感じがする。」と述べている。

 
最近、藤野豊氏が『福音と世界』3月号で「全国水平社の創立とキリスト教」を発表しているが、賀川のことには意識的に触れられていない。


「・・こうしたテーマを設定する以上、いわゆる『賀川問題』をめぐる賀川豊彦と水平運動の関係についても言及すべきであろう。しかし、私は、現在の『賀川問題』なるものは、かならずしも学問的論争として論議されているとは考えない。一部に主観的思い入れや政治主義が錯綜し、冷静さ・客観性を欠落させた主張も見られる。むしろ、私はここでそうした『賀川問題』をめぐる論争への参加は自重し、キリスト教と全水の関係の考察を通して、賀川を歴史的に位置付ける準備作業を進めていきたい。」と述べる。
 

しかし、一面では、歴史家が学問的にハッキリさせていないから、今日のような生産的でない論議が繰り返されているのであって、そのレベルのことはそれとして明確にすべきことである。

 
さらには、最近、神戸学生青年センターが『賀川豊彦の全体像』を刊行して、そのなかに土肥氏が「賀川豊彦の部落差別とキリスト教伝道」が収められている。そしてその後、『部落解放研究』第66号(89年2月)には「賀川豊彦と部落差別問題」も書かれている。いずれも、従来の賀川批判の論調とかわるものではなく、新たな見方が展開されているわけでもない。

 
この小著に対して、共感の声は数多く寄せられ、その後この問題がキリスト教界で殆ど話題に上らなくなっていることは、それとして喜んで良いことかも知れない。問題の所在がハッキリして、的の外れた事柄に過熱しないですむようになるだけでも意味はある。

 
この問題が自由に論じ合われ、正しく理解されることが必要であるが、もともとしかしこの問題は、こんな形で論じ合わなくてもよいものであったのである。非問題を生真面目に問題にして非生産的な徒労を重ねている、ということも、笑うに笑えぬわたしたちの現実である。


歴史家の鈴木氏が前掲稿の末尾で「最後に一言する」として、「俗人」たる「宗教者」(宗教教団)を、次のように一喝している。
 

「日本基督教団の『賀川豊彦と現代教会』問題に関する討議資料、同第二部などを読んで感ずることは、これらの資料の作成者たちは、まともに水平運動史をみずから学んだことがあるのだろうか、という疑問である。事実にもとづかずに人を批難することは俗人にも許されないことである。」
 

18 それにしても、わたしのような「独り言」が、こうして専門の研究者の方々の目にもとまり、過分のコメントを受けるなど、思いも寄らぬことであった。そして、その後改めて、賀川の戦時下及び戦後の活動についても、少し丁寧に学んでみたのであるが、わたしには、部落問題との関わりでの賀川への一方的断罪にも似た、戦中戦後の賀川の言動に対する最近の断罪の仕方についても、一層の吟味・検討が求められるように思われてならないのである。この点については、ここでは立ち入ることは出来ないが、一人の生きた人間(歴史)を理解する上での基本に関わる、根本的な問題がそこには含まれているように思えるのだ。


「歴史散歩:賀川豊彦と水平運動」(中)(1989年3月21日、神戸海員会館)

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上の作品も前回に続いて藤原昭三先生の作品です。好きな作品です。



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             歴史散歩:賀川豊彦と水平運動(中)



             1989年3月21日 神戸海員会館


    (前回につづく)


                3 水平社の創立と賀川


8 さて、「賀川豊彦と部落問題」に関する立ち入った言及は前掲拙著にゆずらなければならないが、彼の際立った活動は何といっても明治の末、一九0九年に二一才で神戸の「葺合新川」に移り住み、当時の深刻な生活実態の中での苦闘である。


賀川豊彦の長男純基氏が『雲の柱』最新号の八号(昨年十月)で、賀川の当時の日記を紹介している。


そこには、明治四三年二月の「露の生命」と題されたノートに「安料理、無賃宿、子供預所、資本無利子貸与、医薬施療、葬礼部、雇人口入部、日曜学校、子供理髪入浴、慰安部、日曜礼拝水曜祈祷会」が、同年一二月の「感謝日記」には「無料宿泊所、天国屋安料理、病室、無料葬式執行、婦人救済部、職業紹介所、避暑感化、保育所、労働保険、授産所、肺病離所」が、それぞれあげられており、純基氏はそれに、次のような言葉を添えている。
 
「日記には毎日のように人が死んだと書かれています。非衛生的な所で、ちょっと悪い 病気がはやると何十人と死んでいくのに、スラムの人口は増えていく。賀川豊彦が留学 から帰ると、スラムは一ブロック増えているのです。ここで、賀川豊彦はスラムに人が 入ってこないためにはどうしたらよいのかと考えます。救済だけでなく、防貧の仕事をしなければならない、そうでなければ日本中がスラム化すると。
その頃、労働者や農民は立場が悪く、労働者は三日寝込めば職場から首を切られてしまう。けがをしたらそのまま保障もないままスラムに落ち込んでいく。農家で凶作があると小作料が払えなくて、次男三男は都会に出てきて、仕事がなければスラムに来る。女の子達は売られてしまう。
そういう中で、労働組合を作って労働者が社会の中で人格的な立場を得られるようにする。あるいは農村で、どうやれば農村が貧しくならないか、小作人の立場をよくし、貧しい山奥で、立体農業によって農業が成り立つようにする。・・・」


9 こうして賀川は、一九一九年七月に有限責任購買組合共益社を設立して新しい分野の活動に着手するのであるが、一九二0年段階から、後に水平社運動の創立の中核を担った西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作ら青年たちとの交流が開始されるのである。
 

西光や阪本らは、生前折々の機会に、また機関誌「荊冠」(後に「荊冠の友」)などで、断片的ではあるが賀川と水平社運動との関わりを書き残している。


また、今は亡き工藤英一氏が『キリスト教と部落問題』(新教出版社、一九八三年)などでその消息を探り、水平運動史研究の側から鈴木良氏がすでに立ち入った論稿を発表されているが、賀川はまだ一般的には、水平運動・融和運動の歴史の中に正当な位置を占めるには至っていない。(鈴木氏の論稿の中に、この度の拙著によせて、わざわざ『月刊部落問題』一九八八年九月号で「賀川豊彦と水平運動」と題する詳しい批評を頂いた。本小稿も鈴木氏のこの論稿に負うところが多い。)


10 すでに明らかにされていることであるが、西光や阪本ら奈良県御所の「燕会」の人たちは、賀川らの消費組合運動にひかれて「新川」の賀川を訪ね、自分たちの力でこの消費組合運動に心血を注ぎ、産業組合の設立にまで発展させているのである。ーー鈴木先生がこのあたりのことを詳しく調べておられるので、日本における消費組合運動の歴史のなかでも、それとして注目されてよいことではないかと思われる。
 

そして最近の神戸の部落解放運動のなかで、あらためてこの協同組合運動の試みが始められていて、生活に根ざした地域の幅広い運動が進められようとしている。
 
 
また、鈴木先生が指摘されているように、彼らの「燕会」そのものは、賀川の「近代的な組織論」の一定の示唆を受けながら、独自な「会則」をつくり、「会長」「主事」「当番」がおかれ、低利金融や座談会・研究会・講演会など組織的な活動を展開し、図書館や「部落問題研究部」なども、その中から出来ていくのである。
 

この一九二0年には、賀川の超ベストセラー『死線を越えて』が改造社から出版され、翌年の夏にはあの「川崎・三菱大争議」で、賀川はまさに「時の人」となるのであるが、彼の独自な「非暴力主義」や「協同組合精神」は、共鳴する者ばかりでなく、逆に彼に対する反対者も少なくなかった。
 

西光らの「燕会」が、新しく「水平運動」へと思想的にも実践的にも飛躍的な前進を示すのには、当時の時代状況の影響ーー早稲田の講師をしていた佐野学『特殊部落民解放論』、堺利彦、山川均らの社会主義者、大杉栄らの無政府主義者、西田天香、武者小路実篤の「新しき村」ーーが甚大であるとはいえ、そこには、西光らの主体的な「覚醒・発見」が力になっていることは言うまでもない。


彼らは、あのまだ厳しい差別の中で、「よき日」を先取りして創立趣意書の表紙にロマン・ロランの大杉栄訳『民衆芸術論』からあの「歓喜」を引用して、熱い思いを歌ったのである。そして、そこから「よき日の為めに」新しい一歩を踏み出したのである。


11 水平社が創立の準備をすすめるのと時を同じくして、一九二一年十月に賀川は、杉山元治郎らと日本農民組合を結成する(創立大会は翌二二年四月、下山手6丁目の神戸YMCA)が、杉山の『土地と自由のためにーー杉山元治郎伝』に記した証言に次の言葉がある。
 

「日本農民組合創立の打合せを神戸新川の賀川宅でしていたところ、全国水平社創立の 相談を同じく賀川の宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万吉、阪本清一郎、 米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔 をあわせたことがある。」
 

この証言に対しては、水平社創立(一九二二年三月)の年の暮れ、後でも言及するように、奈良県水平社の西光らが、農民組合と提携しようと改めて賀川を訪問した時のことではないか、と杉山のこの証言の「記憶違い」を、鈴木氏は指摘している。


なるほどそうとも考えられるが、わたしはしかし、水平社創立の前の同年一月の朝日新聞の「一万人の受難者が集まって京都で水平社を組織、総裁は賀川豊彦氏の呼び声が高い」とする記事や、創立の事実上の呼び掛けの場ともなり賀川も弁士の一人でもあった二月の中之島公会堂における「大日本平等会」での西光らとの関わり(難波英夫『一社会運動家の回想』)、また創立大会には、そのとき賀川と共に活動していた同志社の中島重や農民運動の河合義一、さらには兵庫県救済協会の小田直蔵らが参加していたことなどを考え合せるとき、賀川と西光らとの「水平社創立の相談」が何も無かったとも言い切れないようにも思われる。


12 いずれにもあれ、水平運動の創立の母体となった西光らの「燕会」が協同組合運動の分野で最も早い時期に開拓的な実験を試みた点において、また逆に言えば、協同組合運動に参画した「燕会」が水平運動の母体であったという点で、改めて注目させられるところである。
    

  (つづく)

「歴史散歩:賀川豊彦と水平運動」(上)(1989年3月21日、神戸海員会館)

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上の作品は、神戸の画家・藤原昭三先生から頂いたものです。今回のお話では「賀川豊彦と水平運動」を取り上げていますが、全国水平社の立役者のお一人・阪本清一郎さんのお顔を描いていただきました。藤原先生の作品は、私のブログでたびたび収めさせていただいていますが、ご生前先生には親しくして貰い、先生との思い出は尽きません。拙いブログでご登場いただくのは、先生への感謝の思いを現すことでもありましが、実は、私の駄文よりも、藤原先生の作品の方をご覧頂きたい、という思いも強いのです。


ところで、1989年3月21日に神戸海員会館でお話をした「歴史散歩」という企画はのことは、すぐには思い起こせませんが、当時神戸の元町にあった私の仕事場(兵庫部落問題研究所)のすぐ近くの神戸海員会館を会場にした市民的な集いだったのでしょう。下書きが残っていましたので、これも一つの記録として3回に分けて収めて置きます。



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               歴史散歩:賀川豊彦と水平運動(上)


               1989年3月21日 神戸海員会館



               一 賀川豊彦生誕百年


1 今年は、神戸市も市政百年。先日、神戸市から賀川が神戸市の顧問をしていた期間と教育委員を務めた期間は何時から何時まででしょうか、との問い合わせがあった。
 

「顧問」という制度はどういうもので、ほかに誰が委嘱されていたのか知らないが、彼は昭和20年10月1日に中井一夫市長のときに委嘱されて、それ以後も21年4月1日、29年4月1日、30年10月1日と辞令が残されているようで、おそらく1960年に亡くなるまで神戸市の顧問であったのではないかと思われます。
そして、教育委員のほうも、昭和31年10月1日に原口市長のときに任命されて、これも亡くなるまで務めている。


2 もちろん、戦前から兵庫県の嘱託を引き受けたり、国のいろんな委員を委嘱されたりしており、尼崎も阪本市長の時代に顧問となり昭和32年4月25日に「尼崎市世界平和都市宣言」を議会で採択されたりする。
 

こうした、行政に関連し分野や平和運動に関わる活動も、彼の生涯のなかでは重要な活動分野であるが、そのほかに、今回特に「賀川と神戸」ということで取り上げられた「労働運動・農民運動」や「水平運動」、あるいは神戸で大きく発展した「生協運動」「社会福祉活動」「救援活動」「分筆活動」、そして彼の最も中核を成していた「宗教活動」など、非常に多彩な幅の広い足跡を残した。


3 昨年(一九八八年)七月一0日は、賀川豊彦生誕百年の記念日であった。ーー総合・平和・未来ーーテーマ「平和こそ最大の福祉である」。
 

数年前より記念の実行委員会(神戸では今井、緒方ー生協・YMCA・イエス団など)がつくられ、東京と関西を中心に講演会、シンポジューム、資料展示、さらには「劇団・徳島」の演劇公演や山田典吾監督の映画「死線を越えて」の試写上映(2月には大阪で劇場上映)など、多彩な取り組みが企画・実施され、テレビ・新聞などマスコミ(NHKテレビ)も大きく取り上げた。賀川に少なからず影響を受けて来られた方々には貴重な「想起の時」となったばかりでなく、彼を知らない世代の人々へもいくらかのインパクトを及ぼしたようである。


4 また実行委員会とは別に、全く自発的な形で、各地で記念の集いが持たれて来たが、わたしも小著『賀川豊彦と現代』を兵庫部落問題研究所で刊行したこともあって、公民館などの社会教育・同和教育関係や部落問題の研究集会、宗教団体や大学などで、拙い講演を強いられてもきた。なかでも特に印象的な自発的な集会は、昨年暮れ一二月三日に開かれた京都同志社の新島会館での「賀川豊彦生誕百年京都集会」である。
 

この集会は「新島会」の主催になるもので、萩原氏の仕掛けになるもの。第一部の記念の礼拝と第三部の発題は、昨年国内ばかりでなく米国各地でも記念講演をして帰国されたばかりの同志社大学神学部の深田未来生教授が、第二部の記念講演は賀川研究者のお一人でもある同志社の嶋田啓一郎名誉教授が、第三部の発題では、われわれの学生の頃(一九六0年代)の名講義と全く変わらない田畑忍名誉教授と、賀川と共に生協運動を盛り立て現在も活躍中の灘神戸生協名誉理事涌井安太郎氏と、そしてわたしとがそれぞれ受け持ち、新聞を見てかけつけられた方々も含めて、実に盛会な熱気を帯びた集いとなった。


大切に保存されている賀川の筆になる思い出の掛け軸や徳島中学時代のクラス写真(しかもあの「立木写真館」の!)などを持参される方もあったりして。  
 

この集会でのスピーチは、いずれも「賀川とその時代」を知るうえで重要な証言であるが、私がそのとき求められた発題は「水平運動と賀川豊彦」というもので、「消費組合運動と水平運動」ならびに「水平社の精神と賀川の思想」といったことを十五分ほど語らせていただいた。


そこで、以下「賀川豊彦と部落問題」と題して、彼があの時代に何を求め、どのような取り組みを行なったのかを、改めて新しく考えて見たいと思う。そして、キリスト教会の一部で問題となっている「賀川問題」のその後についても少し触れておくことにしたい。



             2 「賀川豊彦再発見」


5 今日では、賀川は多くの人々に忘れられた存在になっている。彼が一九六0年になくなったとき、社会評論家の大宅壮一が追悼の文集『神はわが牧者』の巻頭に「噫々賀川先生」と題して、次のように記したことは有名な話である。これは、三十年ほど前の日本の状況と今との隔たりを感じさせるものであるが、一時期の彼への評価がどのようなものであったかを知る一つの証言として引用しておきたい。


「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、そのなかに必ず入るのは賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかもしれない。
西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹などと云う 名前を思いつくままに上げて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。
そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点でもある宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した 新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名 のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。
私が初めて先生の門をくぐったのは今から四十数年前であるが、今の日本で、先生と 正反対のような立場に立っているものの間にも、かって先生の門をくぐったことのある 人が数え切れない程いる。
近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうるものを一人あげようということになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かっての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物ーー、それは賀川豊彦先生である。」


6 賀川の活動分野は、ここに大宅が上げているようなもの以外にも、例えば数多くの小説・詩などの文学活動や彼独特の科学を論じた作品、さらには幼児教育や社会教育の分野においても、生涯にわたって大きな足跡を残している。


神戸には、彼の活動の拠点でもあったかつての「葺合新川」に「賀川記念館」が作られ、東京にも「本所賀川記念館」ができており、各地に関連の福祉・医療、教育などの諸事業が受け継がれて、彼の精神が現代に生かされているのである。


そして、一九八二年には賀川の総合的な資料館が「賀川豊彦記念・松沢資料館」として完成し、膨大な資料が整理・保存され、ーー布川氏は度々ここを訪ねておられるーー一九八五年に設立された「賀川豊彦学会」(現在、磯村英一氏が代表理事に就いている)などの研究者等に役立てられている。


近くこの資料館で、賀川の全著作をはじめ関連の史資料を網羅した本格的な「書誌」が刊行される予定であり、同館発行の研究誌『雲の柱』(既刊八号)ーーこれの第7号では、布川氏が「賀川と労働組合」を執筆しているーーや本所賀川記念館の『賀川豊彦研究』(既刊一五号)などは、「賀川豊彦再発見」の重要な役割を担っている。


7 なお、最近地元の新聞各紙が大きく取り上げたようであるが、賀川が幼少年期を過ごし現在も賀川家の墓などがある鳴門市大麻町で、「賀川記念館」の建設の機運が高まっている。


昨年九月、当地の市会議員の田淵豊氏や全解連の人達をはじめ地元の関係者が集まって記念の講演会が開かれ、それに招かれたおりに、参加者の鳴門教育大学の田辺教授から「徳島にはモラエス記念館があるのに、賀川記念館がないのは不思議」と話されたのがきっかけになって、この運動が急速に動き始めている。


「劇団・徳島」の若い人たちや『炎は消えず・賀川豊彦再発見』の著者林啓介氏らも加わり、彼のふるさと徳島でも改めて賀川の足跡が注目されようとしている。
 

ーー「モラエス」のことは、詳しくは知らないが神戸とは深い関係がある。神戸新聞の今年3月9日の「ひょうご女の一世紀」で「モラエスと妻」が取り上げられている。彼は明治32年から神戸に来て芸者「およね」(福本よね)と出会い、彼は46才、よねは25才で結婚。山本通り3丁目に領事館。12年ほどの結婚生活でよねは病死、彼はよねの故郷徳島に移る。そしてよねの妹・斉藤ユキの娘・コハルと同棲して子供もできる。作品に「およねとコハル」。


「部落問題の解決と賀川豊彦―神戸における今日的課題に触れて」(下)(賀川記念館研究会、1994年6月24日)

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1994年6月のお話の後半、お粗末な内容ですが・・・。それでも、このとき・この場所での記録として、私にとって大切なものです。



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             部落問題の解決と賀川豊彦(下)


             神戸における今日的課題に触れて


    (前回に続く)


             2 賀川豊彦とその仲間たちの活動から
 

・ 伝道、医療、教育
 

賀川先生とその仲間たちの、ここでの活動は、小さな家の教会からはじまりました。その活動を核にして、今日のことばでは福祉・医療活動と教育活動に力点をおかれました。そして、それらが大変有機的に関連をもったかたちで、困難ななかで推しすすめられました。
 

村山先生などの手でまとめられました『賀川豊彦とそのボランテア』は、皆さん既にお読みの作品ですが、賀川先生の一番のパートナーであった武内勝さんの貴重なこの口述筆記にも詳しく証言されていますように、この地域を愛しともに生きられた先輩たちの長い歴史が、私達の背後に横たわっています。


そしてそのうえに、私達はいまこの時代のなかで、その志を受け継いで、この記念館という拠点をもって、地域福祉、幼児保育、教会というそれぞれ独自な活動を通して連携しながら、新しい地域社会をつくるために、仕事を継続しておられるわけですね。

 
私はいま、詳しくお話は出来ませんが、最近少し長めの論文で『賀川豊彦の「協同・友愛」「まちづくり」』という、「創立期の水平運動と戦前の公営住宅建設」という副題をつけたものを仕上げて、本日用意しました。
 

これの基本となるところは『賀川豊彦と現代』で大まかに書き込んだものですが、その後の研究を加えてあた新しく書き上げました。詳しくは後で御覧頂くとして、ここでは簡単に、水平運動の創立期の賀川豊彦の影響の強さと生田川の共同住宅の建設に関連する「まちづくり」についてだけ、簡単に触れておきたいと思います。

 
まず賀川先生の水平運動の創立に関わった青年たちとの関係についてです。
この青年たちは、奈良県の200戸ほどの地域の青年たちで、西光さんや阪本さんなど、お聞きなったことのある名前でしょうが、「燕会」という親睦団体を大正9年5月につくっていました。彼らはすでに賀川の『貧民心理の研究』や『涙の二等分』などの作品やこの地域での働きについては知っていて、「改造」に載った小説『死線を越えて』を目にして、彼らは賀川を訪問するのです。
 

そのとき既に賀川は、大阪で「購買組合共益社」をつくり消費組合をはじめていましたから、その取り組みに刺激を受けて、この青年たちは地元で「低利の金融」「消費組合」「団体旅行」などを開始しています。この点の詳しい実証的な研究は、鈴木良先生の労作として次々と今発表されています。
 

賀川の手掛けた「共益社」や「神戸購買組合」はそう順調には進みませんでしたが、「燕会」は消費組合の事業水準としてはかなりのものだったようです。そのことは、京都の木村京太郎さんからも直接伺ったことがあります。
                             
 
彼らはそこから「水平社」創立へと向かい、賀川との関係も、賀川は「時の人」でしたから「水平社」の「総裁」候補のようにマスコミで見られたりするほどだったようですね。


創立のあと(大正11年12月19日)も、奈良県御所市で開かれた奈良県水平社の講演会に、日本農民組合の杉山元治郎らも出向き、翌日には賀川も佐野学らと水平社の講演会に出向いています。
 

ただ、残念なことに「燕会」の消費組合的な住民運動は、大正11年9月で途絶えてしまいます。そして長い間、水平運動だけが解放運動で、賀川先生のような、地道な協同組合的な住民運動は、融和運動として無視され、また否定されてしまう傾向が続いてきました。 解放運動の歴史にも、賀川の正当な位置づけは行なわれて来なかったわけです。


賀川豊彦は、全国水平社の運動からは距離を置くことになりますが、彼がずっと継続していった働きは、いわゆる「融和運動」の流れに位置付けられるものですね。解放運動と融和運動とはもちろん対立的な関係にありますが、今日ではそれらの全体的な関係を学び直す必要が出てきているように思っています。
 

特に、神戸の解放運動は、狭く特定の運動団体だけのものではなく、本当に広い住民運動が進められてきましたから、そういう見方がこれからますます大事なように思えますね。
 
 
実際、運動に責任をになった西光にしても阪本にしても、賀川の目指したような、人間の尊厳を基礎にした人格的な解放運動の精神は決して消えてしまったのではなく、このふたりの場合、生涯その晩年まで、賀川を尊敬し、運動が暴力的になっていく歯止めの役割をになおうとされました。西光さんは、賀川の熱烈なフアンであったことは知られていますし、賀川服を愛用して、演説することも彼の真似をしてやっていたといわれていますね。
 

阪本さんは、晩年は「暴力と利権」に転落する部落解放運動に抗して、神戸にもたびたび来られて、私達とともに「国民融合全国会議」の重要メンバーとして、ともに歩みをされました。

 
次に、賀川の「新川」を拠点とした「まちづくり」の夢と実現への苦労のあとについても概略まとめておきました。
 

先程もふれましたが、いわゆる「水平運動」はもっぱら「差別糾弾闘争」にあけくれて、賀川が最も大事にした住民の相互扶助、生活の自立、住宅を初めとした環境整備、幼児教育をはじめとした教育活動というところには、解放運動の担い手たちには十分目が行かなかったようなところがありました。その点では、ここでの賀川を中心とした活動はそれとして見直されて良いことですし、とりわけ先生の「不良住宅地区改良法」の制定の努力と、その最初の成果「生田川共同住宅」建設は、もっともっと注目されてよいことだと思います。詳しくは、あとで私の論文の方に目をとおして頂ければと思います。

 
実際のところ、水平運動が本当に「協同・友愛」の精神に裏打ちされた「消費組合」的な住民運動として追求され、地域内外の連帯を広げる運動論が展開されていたなら、どんなだったろうと考えさせられます。先生は、とにかく、この地域を愛し、ここで暮す人々を愛して、色んな試みを続けられました。

                                       
               3 今日的な小さな取り組み

 
ところで現在、神戸で同和問題が一定の解決を見ようとする今日、これまでの諸成果を踏まえて、賀川先生が目指そうとされていた「協同・友愛」「まちづくり」の実践が、さらに新しい一歩を踏み出そうとしていることを、お話ししておきたいと思います。


私たちの馴染みの深い「コープこうべ」はもちろんですが、いま私たちは「こうべワーカーズ・コープ」として、働くものの新しい協同組合を6年ほど前からスタートさせています。これは別名「高齢者福祉協同組合」「中高年企業組合」、そしてこの4月から神戸でも失業対策事業が収束を迎えることから、その受皿として百数十名の方々を受け入れて、新たに「高齢者事業団」を組織してまいりました。その拠点が不思議なことに、この生田川地域に事務所を設けているわけです。先日、しあわせの村で第7回定期総会を終えたばかりです。

 
これは、同和地区の住民運動というよりは、ひろく高齢者の仕事づくりから始まり、公園管理、ビルメン、遺跡発掘、ホ-ムヘルプ、放置自転車のリサイクルなどを積み重ねてきました。

 
そして現在、今日も午後ここにくるまで、老人給食・配食サービス(天隣給食センター)の実現のための打ち合わせ会をしてきましたが、いよいよこの夏から、賀川記念館のご好意で、番町の学童保育の場所を改造して、神戸では初めての、毎日型の配食サービスをはじめることになりました。それからいま、これも初めての試みですが、ホームヘルパーの養成講座の開催を準備しています。

 
また、神戸における部落解放運動から始められた運動として、ほかに「教育文化協同組合」の取り組みや「神戸・住宅まちづくり研究会」などもあります。8年前に私達の地域から「市街地に特別老人ホームを建設する会」をつくり、それも実現してまいりました。その延長が、「こまどり昼食会」と「こまどり宅老所」となって、面白い愉快な試みが継続されています。
 

こうした新しい住民運動は、おたがいに経験を交流しあって前進いたします。「まちづくり」運動も、かつての「同和地域」においても「まちづくり協議会」や「ふれあいまちづくり協議会」が作られてきています。これらは、旧来の同和対策の延長ではありません。また福祉の分野でも、いくつかの団体が共同してシンポジュウムを開いていくようになりました。いま、まちづくりと福祉と教育、それぞれの分野で新しいネットワークを作り出しながら、展開されつつありますね。

 
以上、神戸の私自身がいくらか関わっていることを申し上げましたが、実はその源は、この地域での長い活動と深く呼応していることを思わせられます。地域に根ざした活動で、しかも自主的な取り組みは、ここが一番の老舗(しにせ)ですからね。

 
地域の文化会館の運営のあり方を協議していましても、ここのような活動がモデルになります。賀川記念館は、時代の先端を担ってこられた歴史があります。「夜間保育」「老人給食」、保育内容についてもおそらく、条件の悪いなかで工夫をこらして実践されていることだと思います。
 

また、現在建設中の、皆さんの手で運営されることになった特別養護老人ホームやそれに関連する福祉事業で、さらに一回り大きく、新しい時代に向け活動が準備されていますね。 新しい、意欲的な働き手を迎えて、ここで更に大いに羽ばたいて頂きたいと、期待しています。

 
昔ここで働かせていただいていたとき、私は教会の仕事が主たる仕事でしたが、なぜ か、鮮やかに記憶に残っているのは、記念館のバザーやキャンプや古着市や吾妻小学校でのクリスマス、そしてなぜか保母さんたちとの交わりでした。

 
とにかくみんなして、この地域の中で福祉や教育や健康を大事にする、まちづくりのために教会も保育園も記念館も一体になって、心を通わせて、苦労は多いけれども愉快に楽しくやっていけるのが、素晴らしいことだと思います。

 
この春、仕事の関係で「神戸市同和教育関係年表」づくりで「生田川編」をやってみました。まだ不十分なものですし、この保育園の歴史などや記念館の資料が取り込めていませんが、教会の長い歴史も皆さんの手でおまとめになり、過去の遺産を深く学ばれて、新しい時代に、大胆な冒険を試みて頂けることを楽しみにしています。


以上、取り止めのないお話でした。後は時間の許す限り、色々と語り合いましょうか。




「部落問題の解決と賀川豊彦ー神戸における今日的課題に触れて」(上)(賀川記念館研究会、1994年6月24日)

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今回は標記のとおり、賀川記念館の研究会に招かれて、短いお話をさせていただいたものです。神戸の大震災のまえですね。三木市にあるコープこうべの協同学苑で進められていた賀川豊彦研究会にも足を運んでいました。


短いものですが、今回は2回に分けてUPします。これも資料整理のひとつとして。



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             部落問題の解決と賀川豊彦(上)

             神戸における今日的課題に触れて


            賀川記念館研究会・1994年6月24日



                    


それぞれ仕事を終えて、御苦労様です。こんな機会を与えていただき感謝しています。懐かしい方もおられますが、初めてお出会いする方のほうが多くおられますね。


むかし1966年から2年間、ふたりの子供をつれて、この場所でお世話になりました。当時私は26才、青春時代です。それ以後もご縁は切れたわけでなく、むしろ色々お世話になって、関係は深くなっているようにも思います。
 

あの頃は、この記念館の道を挟んで向かいにはストリップ劇場があって、夜になると、トランペットが聞こえて参ります。そのへんは、村山先生がおくわしいのではないかとおもいますが・・・。


この地域も、当時は、今からとても想像もできないほど、生活環境はひどい状態のままでした。記念館は出来て間もないときで大変立派なものでしたが、この周辺は、とても厳しい状態のままでした。
 

教会でも、「家の教会」などを勉強しながら、信徒の方々の家を開放してもらって、地区集会がもたれていました。この記念館のある吾妻地区にも集まりがあって、話していますと南京虫が寄ってきて、話もそこそこといった感じもありましたね。この記念館の中で住んでいましたが、そこにも毎晩南京虫が出没して、大いに悩まされました。大きな南京虫が夢にまで出てくるのですから。


しかし、これも、賀川先生などがここで生活を始められたころは、本当に想像を越えた状態ではなかったでしょうか。先生が、ここで歩み始められてから、すでに85年ばかりが経過しました。
 
 
南京虫を知らない世代の、若い新しい方々が、ここで現在責任を担って、新しい感覚で頑張っておられますから、頼もしいことですが、私のような昔のものが話をしても、あまりお役に立たないかもそれませんが、しばらくお話をさせて頂きたいと思います。

 
ところで、今晩は、先日「協同学宛」での賀川研究会で報告させていただいた同じものを報告するようにご依頼をうけました。テーマだけは同じにして、時間まで自由にお話をさせていただくことに致します。


当日資料を多く用意しましたが、今晩はひとつだけ準備していただきました。あまり資料を使わないでいたしますので、さらに関心をたれる方は、そのときの資料は、記念館の宮本さんがもっておられますので、御覧頂ければ有難いと思います。

 
それで今晩は、短い時間ですので、レジュメにしたがって「部落問題の解決」との関連で、賀川先生のお仕事を振り返りながら、ご一緒に考えてみたいと思います。
                                      
 
それではじめに、私自身ここでの生活のあと、現在の長田区の番町地域で生活を始めたこともあって、直接的に部落問題の解決に取り組むことになって、いろいろ経験をさせていただきましたので、1では、「部落問題解決の到達段階」といったことをお話し、そして、賀川記念館のなかで、それぞれお仕事をされているので、あらためて賀川先生のことを取り上げるのもどうかともおもいますが、部落問題の解決との関連で、2では、賀川先生の活動からいくつかを取り上げて、お話をさせていただき、最後に3では、今日の課題について、此の頃実際に関わっていることなどにも触れて、これからのことをご一緒に考えてみたいと思います。



           1 「部落問題の解決」について

 
昨年、布川先生が『神戸における都市下層社会の形成と構造』という研究本を、私の研究所で発刊されました。これまでこれだけのまとまった本格的な研究はありませんでした。
 

御存じのように、この地域の形成過程は、実に特異な位置を占めています。
「部落問題」というのは、もともと日本の封建的な身分制度の残り物という性格をもつものですから、その起源は普通、近世にさかのぼります。ところがここは、封建的な身分制度が、実に不十分なかたちで撤廃されて「明治維新」を迎え、明治以降の都市形成のなかで、急速に膨張した典型的な都市の中に出来てきたスラムでした。布川先生は、その形成過程を詳しくたどっておられましが、この地域は、いわゆる被差別部落とみなされるよりはスラム、「貧民窟」と呼ばれてきたわけです。

 
しかし、部落問題との関連では、特にこの地域は、明治17年に屠畜場が新生田川尻へ移転したことなどもあって、以後も仕事をもとめて部落の人々が移り住む場所ともなり、大正11年の水平運動もここで取り組まれたりいたしますし、同和対策として行政施策が展開される場合は、属地主義といって地域を指定してかかりますから、この道の浜側が同和地区として行政的に指定して、改善事業が行なわれていきます。そして、それは現在まで引き継がれてきています。
地域の歴史研究は、少しづつ進んでいるようですが、機会がありましたら、布川先生のお話を聞かれたら、大変有益ではないかと思います。

 
ところで「部落問題」は、基本的には日本の封建的な身分制度の残り物であって、それが明治以降も残され、戦後にまで残されてきた問題であるといわれます。もちろん、戦前の状態と戦後のそれとは大きな基本的な状況の変化がありますが、「部落問題」は実態的にも、また人々の意識のなかでもこの4半世紀まえまでは、はっきりと誰の目にも見える形で残されていた問題でした。そして或る意味では、そうした差別が、当り前のようになっていたわけです。
 

そしてようやくこの問題の解決のために、国民的な課題として、また国の責任として、総合的な取り組みが始められるのが1969年(昭和44年)以降のことですね。問題解決のために、地域の環境整備を中心として、福祉・教育・就労など、総合的な集中的な問題解決の取り組もが全国的に始まり、神戸市内のおいても同様の歴史を刻んでまいりました。
 

私たちが長田区の番町地区で生活を始めたのは丁度その法律が出来る1年前でしたから、この問題の解決のための取り組みが、まさに本格的に開始されようとする前夜のようなときでした。この特別措置法は当初、10年の法律であったものが、現在まで名称は変更されつつ継続されあと3年足らずで、同和対策は完了するところまできました。そのあとは、いわゆる同和対策ではない、一般対策の充実で、最終的な解決を計っていくというのが、神戸市の基本的な方向になっています。多くの人々の努力で、ここまで来たわけですね。

 
この生田川地区も、いわゆる環境改善の物的事業といわれるものは、ほぼ完了して、これからさらに長期にわたって住宅改善事業が取り組まれているところです。これは、同和対策ではなく全市的な住宅改善をにらんだ一般対策として進められています。
 
 
生田川地域の実態調査は、大正時代から度々実施されていますが、69年以降この総合的な取り組みが進められる過程でも、1971年、1981年、そして1991年と実施されてきました。
詳しいことは、すでに昨年、現在同和対策室におられる吉岡さんから聞かれたようですので、あまり立ち入りませんが、神戸市の場合、1971年段階の問題状況を踏まえて、1973年(昭和48年)には本格的な「長期計画」を策定して、総合的に取り組まれてきました。20年間の変化は、やはり大きな変化です。住宅建設もそうですが、仕事の変化、教育の変化、そして、住民意識の変化も出てきています。

 
先日5月13日には、総務庁の長官が神戸に見えて、懇談を致しました。住宅建設だけみましても、神戸では、あと番町で300戸、そして遅れましたが都賀地域の建設で、同和対策の事業は終るところまで来ました。あとは、一般対策で進められることになります。

 
むしろ現在では、住宅環境や生活の貧困度などは、同和地域よりもむしろ、ほかの地域のほうが深刻な実態が残されていることが、問題になっています。
そのことは、おそらくここで仕事をされていて、住民の方々の声としても聞こえてくることではないかと思います。これは、法的な限界でもありますが、特定の地域を限定して、特別対策がおこなわれましたから、十分に周辺地域との一体的な事業が展開できにくいものでした。ですからこれまで、多くの矛盾をうんできました。

 
いずれにしても、問題は、同和地区の問題の枠を越えて、共通の問題を解決していく段階に来たわけです。

 
そうしたことから、現在では、地域のなかでは、高齢者の住み続けられる町をどうつくっていくのかが、大きな関心事になっています。そして、住民の自立、同和行政に依存する傾向からどのように自立していくのか、が大きな課題となって、文化会館などのあり方などの検討や、新しい町づくりの運動が、どことも進められつつあるところです。


そして、同和対策の個人施策が見直され、奨学資金制度も変更措置がすすめられたり、住宅家賃なども値上げを行なって適正化が計られてきています。

 
「部落問題の今日的課題」と申しますのは、こうした、いわば緊急避難的な特別措置で、特に物的な改善事業がこの4半世紀のあいだ集中的に取り組まれて、一定進捗してきた現在の段階で、残された問題を解決していくためには、住民の側から言えば、これまでのような「特別対策」を自ら早急に返上して、「自立」と「融合」を実現させることが、本当の問題解決につながるのだ、という認識が自覚的になって来ているわけですね。


神戸市でも西区の方の地域では、もう何年もまえに「完了宣言」をされて、新しい「まちづくり協議会」をつくって、取り組んでおられますし、神戸にはかつて30ばかりの地域があって、多くは郊外に存在していますが、いわゆる同和事業はすでに100%完了して居るわけです。兵庫県下でも事実上は、この20数年間の取り組みで、特別対策としての課題はなくなってきているのが実情ですね。
 

ですから、地元もそうですが、行政も同和対策を終結完了させていく、そして現在はそれにともなって同和教育も見直していく、さらに同和啓発も根本的に見直すことが、現在論じあわれているわけです。

 
つまり、考え方のうえで、「同和」という枠組での取り組みをしないということです。
そんな中で、いま、私達神戸の地域のなかで、あとで触れるような、「自立と協同」「まちづくり」「福祉・教育」といった新しい協同組合的な住民運動が模索されて、一定の成果を生みつつあるわけです。


そしてそれは個人的に思うことですが、実は賀川先生の生涯の課題とされてきたものに、密接に呼応するものであることを思わせられるわけですね。





「賀川豊彦の贈りもの」(第8回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回も分割して長くなりましたが、第8回目の今回で最後です。終わりのところで、加藤重著『わが妻恋しー賀川豊彦の妻・ハルの生涯』に触れていますので、この好著の表紙をここにUPして置きます。


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             賀川豊彦の贈りもの(第8回・最終回)



        (前回のつづき)


          「賀川生誕百年」: キリスト教界における「賀川問題」


ここで少しだけ「賀川生誕百年」のときのことに触れておきます。
神戸においては、1980年代に入りますと、ようやくにして部落問題の解決の見通しが確かなものになっていましたが、わたしたちのキリスト教界は、だいぶ遅れて80年を過ぎたことから、教団内部の複雑な事情もからんはいましたが、あの「賀川問題」が俎上にのぼりました。


この問題の解決にむけて書き下ろしたのが1988年の『賀川豊彦と現代』という小著です。たまたまその年が「賀川生誕百年」の記念のときでしたが、もう20年も前のことですね。この本は、神戸新聞をはじめ毎日新聞や全国の地方紙のほとんどの「人」欄などでも紹介されてびっくりしましたが、配布した資料のなかにも、新聞記事のいくつかをコピーしていますので御覧下さい。


「賀川豊彦と部落問題」については、その後2002年に『賀川豊彦再発見』をまとめておきました。そして今回の『賀川豊彦の贈りもの』が最新のものですが、これは、賀川豊彦学会とか兵庫県人権啓発協会の「研究紀要」などで発表の機会をいただいて、総括的に整理したものですので、みなさんのご感想やご意見を、何かのかたちでうかがうことが出来れば、ほんとうにありたがいと思います。


この問題は、もっと自由に、公明正大な闊達な意見交換を楽しめたらいいと思うのですけれども、まだまだ宗教界には「タブー」が残っているように思います。イエス団関係のなかではそうではないでしょうけれども、こういう問題についても、じっくり時間をかけて語り合う機会はあっていいと思います。何かのどに骨がひっかかった感じで、ご自分のお考えを表に出さないまま「タブー」を残すのはいけませんから、今回の「賀川献身100年」の取り組みのなかでも、自由な意見交換というのも、あらためて必要ではないかと考えております。


今日は限られた時間ですのに、長々と個人的な昔のことを語らせていただいたので、殆どそれに使ってしまいました。欲張ったことをレジュメにしましたので、つぎの3番目の「21世紀に生きる賀川豊彦」のところも、けっきょく一言も触れることが出来なくなりました。


受付でお渡しした資料には、『賀川豊彦と現代』のなかの「宗教思想の独創性」のところと、わたしの関係している兵庫県高齢者生活協同組合の機関紙でいま連載中の「今こそ賀川豊彦を考える」の4回分、そして「賀川生誕百年」のおりの神戸新聞が掲載した特別に大きな写真入りの社説「賀川精神を21世紀に生かすために」などをコピーしましたので、お帰りになってからでも読み通していただければ有難く存じます。


とりわけ、ふれずじまいになる「21世紀に生きる賀川豊彦」に関しては、新著『賀川豊彦の贈りもの』のなかで、少し立ち入ってまとめていますので、お読みいただければと思います。




            「賀川豊彦・ハル記念館」KAGAWA MEMORIAL HALL



そこで最後になりますが、「結び」のところであげている「KAGAWA MEMORIAL HALL:賀川豊彦・ハル記念館」について、わたしの「ひとりごと」を申し上げておきます。


いま「賀川献身100年神戸プロジェクト」のなかで、来年の暮れに再建される新たしい賀川記念館への夢をいろいろ出し合ってきて、ようやくその基本設計がかたまってまいりました。


いつも面白いアイデアを提起して貢献してこられた賀川督明さんが、新しく建ちあがろうとする建物の1階から4階までの設計画面のイメージを、見事にパソコンでわかりやすくまとめあげられて、ここにきて一気に、このプロジェクトが現実味を帯びてきました。


そして、新しい建物のネーミングを「献身100年」にちなんで「1909」とする斬新な案が、督明さんの私案としていま示されています。おもしろいアイデアだと思います。


御覧のように現在のネーミングは、「賀川記念館」と大きく書かれ、その下に小さく「KAGAWA MEMORIAL HALL」とありますね。そこで、これからがわたしの「ひとりごと」です。


わたしは「1909」という斬新なものでも、現在のままでもOKではないかと思いますが、すこし変化をもたせて「賀川豊彦・ハル記念館」と名づけられれば嬉しいなと、いつの日からか思うようになっているのです。新しい本のなかにもちょっと「ひとりごと」を書いておきました。


東京には「賀川豊彦記念松沢資料館」があり、徳島には「鳴門市賀川豊彦記念館」があります。神戸には「賀川豊彦・ハル記念館」というのも、いい感じじゃないですか?

 


       『わが妻恋し―賀川豊彦の妻・ハルの生涯』



若いころ、この記念館の蔵書にあるハルさんの名著『貧民窟物語』を読んで、とても感銘を受けた記憶があります。小さな作品ですが、女性の目と感性をもってしなければ書き表せないような描写はもちろん、この作品には問題をとらえる確かな視点があったように思います。その部分は、何かに引用した記憶がございます。古書店にも出ませんので、もういちどお借りして読んでみたい作品です。これは『死線を越えて』が出る、ほんのすこし前に出来た作品ですね。


また、復刻もされている『女中奉公と女工生活』もよく読まれましたし、ハルさんには、戦後はやく出版されたふたつの小説『太陽地に落ちず』と『月 汝を害はず』などもありますね。まだわたしは『月 汝を害はず』は読んでいませんけれども。


そしてみなさんのなかには、加藤重さんの1999年の作品で「賀川豊彦の妻・ハルの生涯」という副題がつけられた『わが妻恋し』という、立派なハルさんの伝記を読まれた方もあると思います。作家の瀬戸内寂聴さんの推薦と書かれた本の「帯び」には、「かくも清き至高の夫婦愛:混迷の世紀末を照らす聖火・賀川ハル」などと記されていて、内容も大変よくできた伝記です。


来年完成する新しい記念館の名前に、ハルさんのお名前が加わるだけで、たとえば「コープこうべ」のみなさんも、新しく来館されるとくに女性の方たちにも、どこか親しみが湧くのではないでしょうか? 声を出して「賀川豊彦・ハル記念館」ってことばにしてみても、すこし洒落た響きが加わるようにおもえるのですが、どんなものでしょうか。わたしの「ひとりごと」に過ぎませんが、何度も「ひとりごと」を言ってみるのも、いいかもね。




        「みめぐみを 今日もたたえて 我は行く」



丁度これで予定の時間になりましたが、あとひとことだけ加えさせていただきます。
先日、昭和25年出版の『信仰・愛・希望』を読んでいましたら、「沈む夕日」という短い詩が入っていました(134頁)。この近くの公園に建てられている先生の記念碑に「死線を越えて 我は行く」という自筆の文字が刻まれていますが、この詩の冒頭は、このことばで始まっています。


今日のお話の最後に、ぜひご紹介したいのは、この作品の最後のパラグラフです。
ここには詩のタイトルとなった「沈む夕日に」につづいて、つぎの3行で結ばれているのです。


      みめぐみを
      今日もたたえて
        我は行く。


賀川豊彦の全生涯は、「みめぐみをたたえて」生きる「神讃美」の生涯でした。たんなる「自己賛美」ではありませんでした。


わたしたちがいま「賀川献身100年」を記念することは、先生が若き日に「みめぐみ」に出合い、「みめぐみ」に目覚め、「みめぐみ」を生き、「みめぐみ」を「たたえて」あゆまれた、先生の「神讃美」の全生涯を、わたしたちが新たにまた、「みめぐみ」を「今日もたたえて」「我は行く」「神讃美」のよろこびを、ともにしてゆくことだと思います。                 (「沈む夕日」の初出は第2詩集『永遠の乳房』67頁)


予想どおりのまとまりのない「放談」になってしまいました。ご質問の時間もとれず、5分ほど予定を過ぎてしまいました。我慢してお聞きいただいて、ありがとうございました。
                                (拍 手)


司会(杉原) 鳥飼先生、本当にきょうはありがとうございました。次回の賀川講座は、5月17日の土曜日、午後2時から賀川記念館のほうで行います。コープこうべの高村先生のお話を予定しています。各団体でPRもさせていただきますがよろしくお願いいたします。
 








「賀川豊彦の贈りもの」(第7回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回のところには「フォーク歌手・岡林信康」が登場します。久しぶりに彼のコンサートにも出かけましたが、昨年の新しいCDの「レクイエムー我が心の美空ひばり」の写真を入れておきます。これも良い作品ですね。


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             賀川豊彦の贈りもの(第7回)

    
      (前回のつづき)



    「フォーク歌手・岡林信康」



いま見ていただいた映像の中に流れたうたは、フォーク歌手の岡林信康の代表作のひとつ「チューリップのアップリケ」でした。岡林信康さんは、わたしたちが新しいスタートをした同じときに、ラジオ関西でデビューしました。そして一気に「フォークの神様」として人気スターになっていきました。


このドキュメンタリーでは、彼の方から友情出演を申し出てくれたようで、「山谷ブルース」や「友よ」なども、彼のギターの流れとともに、ここに収められています。ですから、岡林信康さんの駆け出しのときのうたが、この作品にあるというだけで、値打ちもののようです。


はじめにふれましたが、わたしたちの最初の任地は滋賀県の近江八幡市でしたが、同じ市内に近江金田教会という教会があって、岡林君のお父さんがそこの牧師をしておられました。彼はとうじ高校生でしたが、思うところあって同志社大学の神学部に進学したあと、紆余曲折あって「フォーク歌手」になっていきます。


このドキュメンタリーをつくり前には、全国スケジュールに追われる売れっ子の彼が、時間を割いてわたしたちのところにきて、若者たちと野外でやぐらを組んで、盛り上げてもらったこともありました。


ひとつ付け加えますが、このドキュメンタリーで歌われた「山谷ブルース」「チューリップのアップリケ」「友よ」などは、よく知られている「手紙」などの作品とともに、長期間にわたって「放送禁止の歌」のリストに入ってしまいました。


もちろん彼は独自な音楽活動はつづけて、NHKの「ビッグショウ」などにも出演していましたが、「放送禁止の歌」とされていた作品が再び歌われるようになったのは、昨年の秋のことです。東京・日比谷野外音楽堂での36年ぶりのライブがあって、そこで「チューリップのアップリケ」や「山谷ブルース」などを、NHKの衛星放送が放映いたしました。ラジオでもその前に、TBSラジオでしたが、多くの「放送禁止の歌」を特集して放送して、話題にもなりました。御覧になったり、お聞きになったりされた方もあるでしょう。


作家の筒井康隆さんの「断筆宣言」の出来事も、まだ記憶に新しいところですし、映画でも小説でも、表現活動を「自主規制」したり「自己規制」したりして、長いあいだ混乱がつづいて来たことは、忘れてはならないことだと思います。


『賀川豊彦全集』などが問題視されつづけたのも、このような時代状況と無関係ではありません。ただ、時間の関係で、本日のお話のうち2番目に「『賀川問題』の検討と解決に向けた試み」としているところで「神戸における部落問題解決の激動期―1969年~1982年」の箇所もふくめて、私にとっては「オハコ」のところですが、すべて省いてお話いたしますので、ご了承願います。



            「賀川豊彦の世界」に学ぶ:先生の著作に導かれて


ところで、「賀川豊彦の世界」の全体像が、本当に見えるようになったのは、番町に生活の場を移して、ゴム工場で汗を流しはじめてからのことです。先生のいろいろな著作をじっくりと読んでみて、少しずつその独自な宗教思想の面白さもわかってまいりました。


神戸イエス団教会のときまでは、賀川豊彦の「生き方の魅力」につよくひかれていましたが、新しい生活のなかでは、先生の作品をひとつひとつ読んでいくうちに、日々の心の糧として大切なものになっていきました。大切な恩師・先達はほかに幾人かありますが、賀川先生もそのうちの大事なひとりになってきたのです。


嬉しいことですが、先生の著作はいまもいっぱい残っています。
過日、親しんできた古書店の老舗「後藤書店」が閉店になりました。つぎつぎと古本屋が閉じられていきますが、それでも神戸にはまだ比較的古書を扱うお店も多く、長田にもいま賀川先生の作品が多く揃っている古書店がございます。西代駅のすぐ近くの「つのぶえ」さん、ご存知ですか?


『賀川豊彦全集』全24巻もありがたいものですが、古書を直接手にして読むことができるのも、いいですよね。いまではインターネットの時代ですから、パソコンで検索して読みたい作品を入手可能ですから、ほんとうに便利になりました。


賀川先生の処女詩集である「涙の二等分」など、ずっと座右において読んでみたいな、と長いあいだねがっていましたら、何とナントそれがひょんなことから、わたしのもとに届くとか! 


(つづく)





「賀川豊彦の贈りもの」(第6回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回のところは、「番町出合いの家」での新しいスタートの頃のことです。ほぼ1年近く経ち、仕事にも、まちでの暮らしにも慣れてきた頃の写真をおさめて置きます。


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               賀川豊彦の贈りもの(第6回)




      (前回に続く)




             「番町出合いの家」「在家労働牧師」の実験



さて、生活の場所を移しての「新しい生活」がはじまりました。
新しい生活をはじめた長田区の下町・番町地域は、イエス団にとっては「葺合新川」とともに早くから大切な活動拠点のひとつでした。


たとえば、大正7年ごろですか、イエス団友愛救済所の長田出張所が開設されて、馬島医師のご家族が住み込んで活動をされたり、賀川ハルさんの妹さん・芝ヤエさんなどもここで診療活動をつづけてこられました。


そして戦前から、地域のど真ん中の四番町に、古い大きな民家を買い取って、新しい活動拠点となった「天隣館」でも、東京から来られた斎木進之助さんご夫妻や生協でも働かれた林幸金牧師夫妻など、多くの関係者が、戦前戦後を通じて、この地域に仕える地道な活動をつみかさねて、活躍してこられました。賀川先生の娘さん、梅子さんもたびたびここに足を運ばれたようですね。


この地域にはイエス団関係の神視保育園が開園されていますし、天隣乳児保育園もつくられるなどして、今日まで、よい仕事を営々とつみかさねておられます。わたしたちも、その長い歴史の上に乗って、この町の住民になったわけです。



                   「小さな実験」


敷金5万円を兵庫教区からお借りするなどして、1968年4月16日には「番町出合いの家」が、日本基督教団の伝道所として正式に認可され「小さな実験」がスタートいたしました。


夫婦と幼い二人の娘が、6畳一間で暮らすというのは、当時のここでの暮らしとしては、何も珍しいことではなく、特別のことではありませんでした。


そのころ、長田伝道所の牧師をされていた白倉正雄先生が、地域のなかに建てられた神戸市立の隣保館「長田厚生館」の嘱託館長をしておられました。番町に移り住む前に、ご挨拶をかねて長田厚生館に先生をお訪ねしましたら、ご近所の中島さんという親切な自治会長さんがおられて、そのときすぐ、わたしたちの住む家を見つけていただいたり、仕事までも地元の「ナショナルゴム」という工場を紹介していただいたりしました。仕事の方はしかし、履歴書の必要な会社で、面接までしていただきましたが、なぜか警戒されたのか、採用にはなりませんでした。


わたしの働く場所は、けっきょく神戸職安のルートで、履歴書なども書かなくても良い「中卒以上」という条件の会社を紹介していただいて、念願でもあった長田のゴム工場の、しかも激しい肉体労働の現場でもある「ロール場の雑役」というところに、めでたく就職することが出来ました。


わたしは、元々からだは強くはありませんでしたが、これでも百姓の出ですし、中学生に入ったころからは、野球部にも入ったりして、徐々に元気を回復し、労働することについては、そのとき人並みていどの意欲と関心を持っておりました。 




          東京12チャンネル作品「ドキュメンタリー青春」


レジュメの中ほどに「ドキュメンタリー青春」と書いています。
わたしたちが「新しい生活」をスターとさせたときは、はじめにふれた1960年の「同和対策審議会」が設置され、5年後に「審議会」の「答申」までこぎつけていましたが、まだ部落問題解決のための法的措置である「特別措置法」は策定されていませんでした。ですからマスコミ関係者は、その世論を高めようとして、朝日新聞や神戸新聞など神戸の現場記者たちは、そのネタをさがして競い合っていました。


あのころは、もちろんマスコミの方も悪意ではないのですが、熱心さのあまり、執拗にわたしたちのようなものにもスポットを当てようとされていて、いちど新聞記事として、朝日新聞でしたかに、誤解を生むような記事を書かれてしまい、思いもかけない迷惑をかけてしまったこともありました。モグラ暮らしを意欲していたわたしたちには、いくら良いことにおもわれることでも、見世物にされるようなことは「禁じ手」でした。


ただそのなかで、「東京12チャンネル」というテレビ局が、わざわ東京からきて、熱心に神戸の部落解放運動の青年活動家たちを突き動かして、ひとつの企画を持ち込んできました。これにはどうにも断れなくなって、しぶしぶ応じることになって取材に応じてつくられたのが「ドキュメンタリー青春」という30分番組でした。そのころまだ白黒テレビでしたが、1969年2月23日、わたしの29歳の誕生日に放映されたようです。


放映のあと、テレビ局から記念に8ミリフィルムをいただいていたのですが、時とともに劣化してしまい、映像が消えかかっていたのを、友だちがビデオにしてくれて、かろうじていまビデオで保存できています。DVDにしておけばよいのでしょうが、まだできていません。


長くお蔵入りにして見ることはなかったのですが、さいきん蔵出しをして、お話をさせていただくときなどに、ときどき見ていただいています。今日は時間もありませんので、エンディングの5分ばかり、いちばんカッコいいところ(?)だけを映してもらいます。わたしたちにも、むかし青春時代があったのです!!


    (ビデオ:「ドキュメンタリー青春」<やらなアカン! 未解放部落番町からの出発>〉


この番組は、関西では放映しないということで取材に応じたところもあるのですが、関東では夜7時半の人気番組のひとつで、視聴率も高かったそうです。放映のあとは「神戸市番町、鳥飼様」というだけの宛名で、見知らぬ人から手紙などもらい、びっくりしました。


東京の国分寺教会でしたか、深田種嗣牧師がこれを御覧になっていて、映像の中で地域の青年たちと語り合っている場面があり、いわなくてもいいものを、わたしがゴム工場の雑役をやっていて「いまはとても楽しい」などと言ったものですから、青年たちから反発を受けるところがありましたが、深田先生にはわたしが「楽しい」と言ったその場面がとても面白かったと感想を話しておられたことを、ある方からお聞きしたことをいま思い出します。深田牧師は、賀川先生とともに神戸で過ごされて、東京に行かれたおひとりで、同志社大学神学部の教授をされた深田未来生先生のお父様ですね。

「賀川豊彦の贈りもの」(第5回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回の箇所で触れている「牧師労働ゼミナール」と兵庫教区による私たちの「按手礼」(1967年11月27日、神戸教会)の後の写真をUPして置きます。


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                賀川豊彦の贈りもの(第5回)


     (前回のつづき)



                   「家の教会」構想



レジュメには(「家の教会」構想、家庭集会、吾妻地区集会)と記していますが、あのころ、村山先生のアイデアでもありましたけれども、「家の教会」の構想を、イエス団教会の新しい活動の構想に取り入れてみようということで、小さな冊子を作ったりして、教会の皆さんと協議を重ねながら「家庭集会」や「地区集会」をあちこちで試みたりいたしました。


賀川先生も「家の教会運動」というものを、早く大正の末ぐらいから提唱しておられましたね。そして、牧師というのも単に給料をもらってやる牧師じゃなくて、牧師を職業にしない生き方という自給牧師、自給伝道の形が面白いということを書き残しておられますが、実際「家の教会」構想のもとでの、あの小さな試みは、なかなか面白いものでした。


とりわけそれは、記念館のあるこの地域の「吾妻地区の集まり」には、佐藤きよさんや国府さんなど熱心においでになって、毎回打ちとけたなかでの学びあいの場がつくられていました。生活の悩みを出し合ったり、祈りあったりする、楽しい集いでしたね。


この地域には、まだあのころ、南京虫がぞろぞろ出てきました! 記念館のなかにいても、南京虫が襲ってきて、夜もおちおち眠れませんでした。夢のなかにまで大きな南京虫があらわれ、うなされたこともあります。


吾妻地区の集会でお話をしている最中にも、ぞろぞろ出てきて、お話を途中で止めたりしたこともありました。国際都市神戸ならではの虫でしょうが、こうした地域の実態と暮らしが放置されたままであることに、ひどく驚かされました。


でもこれも「いまはむかし」のことですけれども。今頃、学生たちにこういう話をしますと、「ごきぶり」の話を間違えてしまいますが・・。



                 「牧師労働ゼミナール体験」


それからレジュメでは「神戸イエス団教会」体験のところに「牧師労働ゼミナール体験」と書いています。これは、わたしたちがこの時代の中で、生きるとはどういうことなのか、教会とは何なのか、牧師として生きるとはどのようなことなのか、そんな切実な問いを抱えて、それぞれの教会で働いていた牧師仲間が、労働と生活を共にして修行をしようではないかという呼びかけで開かれたものです。「牧師労働ゼミナール」と名づけて企画された、楽しく愉快な新しい実験的な試みでした。


呼びかけの中心となったのは、わたしたちが神戸に出てくる2年前、1964年に自ら労働をしながら「加茂兄弟団」という、それこそ「家の教会」を開設して、兵庫県の川西市の「加茂」というところで、先進的な歩みをしていた延原時行という先輩牧師でした。


この先生は、同志社の3年先輩で、寮生活もご一緒したときもありました。学生時代からあの宗教改革者・マルティン・ルターを髣髴させる、どこか「現代のキリスト者」然とした魅力をもった先輩でもありました。以来こんにちまで先生とは、ずっと親しくしていただいていますが、わたしの大切なお師匠さんのひとりです。


このゼミナールは、1966年度とその翌年と二度にわたって開催されました。兵庫教区と大阪教区から十数人の若手牧師たちが、尼崎教会を宿にしまして10日間ほどでしたか、共同生活をいたしました。


尼崎教会は、とうじ種谷俊一牧師がおられてお世話になりました。この前までイエス団の特養ホーム「豊島ナオミ荘」の施設長をされていた小池基信先生も、このゼミナールに参加をしておられたと記憶しています。


わたしの場合、1年目は尼崎のクボタで、2年目は旭硝子で汗を流しました。「私についてきたいと思うなら」とか「私は働きます」とか、毎回テーマがつけられて、牧師たちが聖書研究を分担し、共同生活をしたわけですね。同労の牧師仲間の、ほんとうに稀有な研修会として、忘れがたいものです。


そういうことなどがありまして、村山牧師の下での伝道師としての修行期間を過ごしました。夫婦ともに牧師試験にもパスして、教区総会での按手礼を経て、わたしたちは仕事の拠点をこの場所から同じ神戸市内の長田区番町に移したんですね。牧師になると同時に、ある意味、わたしたちは牧師をやめたというか、既存の教会の牧師ではなくなりました。


ふつう教会というのは何人かの信徒の方がおられて、そこに招かれて牧師として仕事をするのですが、信徒の方のひとりもいない牧師というのも異例のことではありました。


牧師試験のおりの面接では、すでに「労働牧師」として生きる新しい夢は宿っていて、そのままのことを隠さずそこで話しましたら、面接の場におられた島村亀鶴牧師が「折角ふたりとも牧師になったのに、惜しいな!」といわれて、どう返事をしてよいものか困ったことを記憶しています。


こうして相方とふたり、同時に牧師になって「在家労働牧師の実験」を始めたのです。これも今は昔、1968年の春のことです。


最近、同輩の牧師仲間は、つぎつぎと教会の現場から退いて隠退牧師になっていくのですが、わたしたちはある意味では、あの時点で既存の「教会の牧師」からは引退していたのでしょう。


先日、クラスメイトの牧師仲間ふたり(草刈君と宇山君)と3人で、夜を明かして語り合う機会がありました。わたしたち3人は、高校生のときから鳥取県内のそれぞれちがう教会に通い、揃って同志社の神学部に進学して牧師になった悪友・三羽烏ですが、その牧師仲間はふたりともすでに隠退牧師になっています。


しかし、3人でいまの生活を語り合っていますと、教会を退いた後の、彼らの暮らしぶりと意欲的な考え方など聞いていますと、隠退しているいまの彼らこそ、いっそう牧師らしく耀いて生きているように思えてなりませんでした。彼らもいま、わたしたちと同じように「在家牧師」をやっているんだな、などと勝手に考えて、とても愉快になりました。


それはともかく、わたしたちにとって「神戸イエス団教会」での2年間の経験は、新しい歩みをスターとさせる大切な「助走」のときでもあったのです。
 




「賀川豊彦の贈りもの」第4回(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回の箇所に記している賀川記念館の「古着市」は、毎年賑わっていましたが、これは1966年12月8日の写真です。多くの方々が、衣類だけではなく、贈答品などの手持ちのものをいっぱい寄贈され、地域の皆さんに喜ばれました。おまつりのような賑わいでした。イエス団教会の皆さんも、もちろん総動員でした。


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               賀川豊彦の贈りもの(第4回)


        (前回のつづき)



               「神戸イエス団教会」体験


お手元に、賀川記念館の機関誌である『ボランティア』のコピーがあると思います。
これは1989年発行の古いもので「四半世紀前のことなど」という題がついています。いまから数えますと四半世紀前どころか、42年も昔のことを書いた短い文章です。


ここに書き記しておいたことは、わたしには忘れることの出来ないことでしたので、こんどの『賀川豊彦の贈りもの』のなかにも、特別にこの古いものを収めておきました。


振り返りますと、とても不思議なことです。ひとまずの「出稼ぎ先」が、賀川先生のホームグラウンドである「神戸イエス団教会」だったわけですからね。生まれて初めて神戸に来て、村山牧師はじめ教会役員の方々との面接に臨んだのです。


まだ20代半ば過ぎの青春時代! 村山先生も、いまわたし同様に白髪を蓄えた好好爺?でいらっしゃいますが、当時はもちろんお若くて、その顔つきも精悍そのもので「いかつい親分」といった趣きがございました! じっさい先生は「親分!」で通っていました!現在もそれは変わりませんか?



                面接での武内勝さんのひとこと


ここに書きましたのは、賀川記念館3階の応接室における面接のことです。村山牧師ほか、緒方彰さんや武内勝さんなど、御歴々の面接を受けたのです。


わたしはそのとき、いつものように顔色も悪くて、風采のあがらない格好で面接にのぞんでいたのだと思います。そのときどんないきさつからか、わたしの健康状態について話題がすすみました。


面接の場で話すべきことではなかったのでしょうが、どういうわけか、つい口をすべらせて、父親が結核で若くして亡くなり、わたしは生まれたときには小児結核で、数カ月の命だと医者から宣告され、それでも幸い生き延びることができて、小学校を卒業するまでは、体操のときなど木陰の下で背を丸めて見ていたこと、さらにそれ以後も、あまり健康といえるからだではないことなど、心配になるような打ち明け話のようなことをしてしまいました。


ところがそのとき、即座にわたしの話のあと、役員の武内勝さんがわたしにおっしゃいました。「いくらからだが弱くても、ここで働いて見ようという気持ちさえあれば、それで十分だ。賀川先生は、弱いからだそのままで、ここで一緒に生きて下さったのだから、何も心配はいらない!」 武内さんはわたしをそういって励ましてくださったのです。


わたしは、この身にしみる言葉に、たいへん感激いたしました。わたしはその感激した熱いきもちをかかえて、岐路につきました。あのときのことが、いまでも鮮やかにわたしの記憶のなかに残っております。


ところがその面接の後すぐ、3月31日に武内勝さんは、突然にお亡くなりになったことを知らされました。わたしは4月1日にここに赴任しましが、最初の仕事が、悲しいことに、武内さんのご葬儀だったんですね。


                  楽しくて楽しくて


賀川記念館はいま新しく建て替えのときを迎えていますが、わたしが参りましたときは開館してまだ3年で、ピカピカの賀川記念館でした。記念館の周辺は、かつてのスラムの残滓が色濃く目に付くような状態でしたから、鉄筋立ての記念館は、耀いて見えたものです。


わたしたちの家族は2階の部屋にいて、3階には記念館の相談活動にあたっておられた加藤忍さんのご家族がおられました。そして管理人の国府さんご夫妻がわたしたちの部屋の前におられました。当時この地域は、まだいろんな問題をいっぱい抱えていましたから、記念館のおこなう毎日の「セツルメント活動」というのも、値打ちのあるものでした。


記念館の若いスタッフも、祐村明さんや加藤鉄三郎さん、そして宮本牧子さんや近藤孝子さんなどが陣取って、元気一杯で生き生きと活動されていました。わたしも記念館の行事にかかわれるのが、楽しくて楽しくてですね!


地域の人々にとっても、バザーとか古着市など、いつも楽しみにされていました。卓球部屋もできたりして、なぜかわたしに、卓球大会の優勝楯を頂いたことがありますよ!


毎日、記念館と友愛幼児園と教会とが、みんなが団子になって地域にかかわっていて、愉快なときを過ごさせていただきました。


賀川先生は、教会でも何でも、建物よりもひとりひとりが、生き生きと仕えあって生きることが面白いのだ、と書いたりしておられますが、この教会のみなさんは、ひとりひとり、育てられた教派的な背景もちがっていて、そのこともまたわたしには面白く感じられました。


あのころ、緒方さん夫妻、斎木さん夫妻、有川さん夫妻、諸冨さん夫妻、佐藤きよさんや武内雪さん、河野洋子さんや辻さん、住友さんや原田さん・・そのほかほんとうに多士済々でしたね。


元気な青年たちや高校生たちも群れていました。友愛幼児園の先生方も、近藤良子さんはじめ、何人もの先生のお名前とお顔を、すぐに思い起こすことが出来ます。


    (つづく)
   

「賀川豊彦の贈りもの」(第3回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回の箇所は、琵琶湖畔にある滋賀県近江八幡市の郊外の「仁保(にぼ)教会」時代のことに触れていますので、その頃の写真を2枚収めて置きます。


1枚目は、周辺は広い田畑がある農村地帯でもあり、米の収穫のときは、幼いときから経験のある稲刈りなどもいたしましたが、その風景です。


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もう1枚は、仁保教会の前で、1963年8月に撮されたものです。古い住宅の一部を教会にした「家の教会」で、私には大変気に入った場所でした。写っている方々の詳しい説明をしたいところですが、ここでは写真のUPのみにいたします。


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              賀川豊彦の贈りもの(第3回)


      (前回につづく)


              滋賀県近江八幡市「仁保出合いの家』体験


ついでにもうひとつ、学生時代のことです。4回生のときでしたか、神学生の場合「夏期実習」というものがあります。わたしはそのとき、滋賀県の近江八幡市の郊外にある小さな農村教会に派遣されました。


ここは「近江ミッション」といって、建築などでも有名なウイリアム・メレル・ヴォーリズ(一柳米来留)さんを中心に、市内に近江兄弟社というメンソレータムの会社をつくるなどして、ミッションスクールや病院、そして図書館なども建てて、牧師さんたちもチームを組んで、琵琶湖畔につぎつぎと教会をつくっていきました。


「湖畔の声」という月刊誌も出ていましたね。わたしが実習にでかけたころは、ヴォーリズさんは病気療養中でしたけれども、奥様の一柳満喜子さんはご健在でした。


ヴォーリズさんと賀川さんは同時代の人ですから、お互いに深い交流もあったようですし、ヴォーリズと歩みをともにした吉田悦蔵という方が書き残した「近江の兄弟ヴォーリズ等」(警醒社書店、1923年)に寄せた賀川の長い「跋」を読みますと、そのことがよく分かります。


将来農村の小さな教会の牧師になることが、わたしの夢でしたので、派遣された実習地の「仁保教会」は、田舎の民家の半分を買い取ってつくられた、文字どおりの「家の教会」で、とても気に入りました。美しい琵琶湖畔で経験した教会学校の夏季キャンプなども楽しいものでした。


牧師さんは安藤斎次先生といって、賀川先生とも非常に深いかかわりのある方でした。『百三人の賀川伝』にも寄稿したり、『賀川豊彦全集』のなかにも出てくる牧師さんでした。


ところが、夏期実習が終ってすぐに、その安藤牧師が忽然とお亡くなりになったのです。教会の方々も困られて、急遽わたしに、ここに住み込んで大学に通ってほしいという、思いもかけない申し出を受けてしまいました。それでやむなく、毎週の説教や日曜学校など、牧師の代役のようなことを、神学部の学生のときに引き受けることになったのです。


けっきょく大学院の2年間も、自炊しながらそこから京都の大学に通学し、修士論文もここで仕上げて、卒業のときも、正式にこの教会からの招聘を受けることになりました。


ですから、わたしたちの初めての任地はこの場所で、新婚生活のスタートの場所でもありました。何しろ農村の小さな教会でしたから、近江兄弟社学園の聖書科の教師などもやっておりました。


                 「出合い」と「対話」

学生のころからわたしには「出合い」と「対話」というふたつの大切なキーワードがありました。現在もつづいていますが、ドイツの戦後復興を担ってきたクリスチャン・アカデミーの「ターグング運動:出合いと話し合い運動」が、日本にも伝わってきておりました。「出合いと対話」を積み重ねて新しい社会形成と自己形成をうながす、面白いムーブメントで、密かにわたしは、この運動に関心を抱いていました。


そんななか、わたしたちの「小さな家の教会」は「出合いと対話」にはぴったりでした。仁保教会は10数人の礼拝でしたし、もうひとつの野洲伝道所は、となり町あって、民家の小さな離れを借りて、5人ほどの集まりをしておりました。


いずれもまさしく「家の教会」で、伝道所の方では、いつも車座になって礼拝をしていました。礼拝のなかで「出合いと対話」が生まれ、交わりのときをもつことができたのです。


仁保教会でも、みなさんと相談をして、教会の名前を愛称として「出合いの家」と呼んでみたり、玄関にはわたしの下手な詩のようなものを掲げたり、『現代における新しい礼拝のあり方』という自家製のパンフレットを作ったりして、楽しい駆け出しの新婚生活の2年間を過ごしました。若さをまるだしのような、危なっかしい試みをして、みなさんにはご迷惑をかけたのではないかと思います。


そして嬉しいことに、わたしたちに新しいいのちを授かり、そこで子育ても始めます。加えてつづけて、年子となる二人目のいのちが宿ることになりました。


じつはそのことがひきがねとなり、あまりに少ないメンバーで、これ以上の経済的負担はかけられないということから、わたしも人並みに悩みぬいて、ひとまず「出稼ぎ」に出るという決断をいたしました。


その「出稼ぎ」先が、この「神戸イエス団教会」だったわけですね。1966年の春のことでございます。



  (つづく)

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