スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第13回『星より星への通路』)

1


「ぶらり散歩」再び近くの「会下山公園」まで。恋する猫ちゃんたち。




           「賀川豊彦」のぶらり散歩


              ―作品の序文など―

    第13回


              星より星への通路

          大正11年5月25日 改造社 368頁


2


 箱入りで本体にもカバーがあるかもしれませんが、手元にあるのは裸のものです。

 『小説・死線を越えて』とその中巻『太陽を射るもの』に続いて、改造社が手がけた賀川の3冊目となった著作は、この『星より星への通路』です。

 既に取り上げた賀川の最初の散文詩『地殻を破って』が福永書店より出版されたのは大正9年でしたので、それに続く第二の散文詩作品となります。

            *         *

 本書も前作『地殻を破って』とよく似た配列にして「散文詩」<星より星への通路>、「感想・対話」<デオニソスの誕生>、「短編・喜劇」<混迷の巷より>といった章立ての作品が、見事に編集されて仕上げられています。

 手元にあるものは大正11年6月9日付けの第16版ですが、よく見ると5月25日に初版が印刷されて毎日増刷されていることが判ります。

 『小説・死線を越えて』の三巻の飛び抜けた売れ行きが一般に話題になりますが、改造社はこの作品での売上も莫大なものであったに違いありません。

 しかし残念な事に、この重要な作品は『賀川豊彦全集』全24巻のなかには収録されませんでした。

              *         *


 冒頭の写真「私の13年間の住居」と少し長い「序」ですが、早速ここに取り出して置きます。そしてその後に原書のスキャン。さらに最後におまけとして「ノンキ者のノンキ話」も!


3




                     序
 

              ―魂の芽芽の苗出づる日―


 歓喜せよ! 新緑は帰って来たではないか! 霜枯れの淋しい道より、春はまた私らのために帰って来た。

 山の緑が私を誘惑する。雲雀が、たんぽぽが、れんげが、六甲山から出てくる清水が、私を野に、おびき出す。
 導かるるままに、私は野に出る。

 私の魂よ、うなだれるな! 野には花が咲いているではないか。迫害と陰謀と罵倒の中より甦って来い、おまえ―小さき怜悧な、躍動する魂よ。

 風は東か? 日は西にか? 足には若草を踏んで、おまえは無生物の寵児として、野路を歩む。池には、浮き草がまた出て来た。少し池面に濁りも見える。ここにも、生命が甦りつつあるのだ。

 アテネの街のユウリジアンの祭りも、近くはあろう。村の人も、町の人も、みな春が来たのを喜んでいよう。おまえだけひとりが、何にも悲しそうに、世に背かなくても善いではないか!

 風がおまえに囁く。「人類の復活も近づいた」と。しかし、キリストが一人甦っただけでは、人類の復活にはならない。私も、おまえも甦らなければ、真の甦りにはならない。

 甦れよ、私の魂よ、おまえもまた、イエスにならねばならぬ。二千年前に救い主がひとりくらい出たところで、地球二十億の人間が、二千年の間戦争を続けていては何にもならない。

 甦れよ、こざかない躍動の霊よ、すべてを跳ねのけて甦れ。汝の手が揺ぐとも、真理の前に―真理はあまり不可思議であるが故に―おまえは飛び立てよ!

 飛び立つことを、真理というのだ。甦りのほかに真理はないのだ。それを知っているか、私の魂よ。飛行機を組み立てるのを、真理とは言わないのだ。飛行機は飛ぶために組み立てられるのだ。それで飛ぶことだけが、真理なのだ。

 飛べよ! 地面を蹴立てて。飛べよ、飛ぶことがなければ真理でないのだ。一直線に飛べ、まっしぐらに! 地面から三千尺離れて!

 おおそこに、真理が行く! 甦りし魂が高空を飛ぶ。春風にあふられ、たんぽぽの花が散るごとく、光鱗を浴びて、真理が飛ぶ!

 真理が何であるかを問うな。真理とは飛ぶことだ。ここに高挙がある。魂を一尺上に挙げるものを一尺の真理という。八尺引き挙げるものを八尺の真理という。

 つまり、真理は高挙のほかに途がない。それで、真理は曲がることを知らない。真理は山と川との原野を加減しない。それは、上の方に一直線に昇る。

 おお高挙した魂よ、地球の醜きものを震い落とせ! いな、地球そのものより、醜きものを震い落とせ! 地震よ、地すべりよ、おまえの手を貸してくれ! 噴火山は、なぜ休止するか? 暴風も、洪水もみな馳せ集まれよ。直径七千五百哩の地球を揺り動かし、狼のごとき二本足の野獣をみな震い落とそうではないか!

 子宮より這い出て、墓に這い寄ることしか知らぬ小虫も掃き落とせ! 暴には暴、歯には歯をのみ酬ゆることのみしか知らぬ、乳房の垂れたる動物を訓えよ。共産を名として、殺すことを教え、正義を口にして、圧制する野獣を教えよ。

 復活は何処ぞ! 人類の春は何処ぞ! 木の芽のごとく、接木が許されるなら、私は人類の上に、桜の先に咲く木蓮を接木しよう。

 肉の上に、木を接木せよ。それも復活の手段であるかも知れない。
 木は、冬に葉を落とし、春に復活する途を知っている。おお、人間にも草木の智慧の半分でもあれば、また復活のすべともなろうものを。

 復活よ、復活よ、腐乱した肉塊の復活よ、腐乱した肉塊のままの復活よ! 四千万の死傷者は、地球を贖う力もなかった。平和は来た。しかし、血によって世界は何者をも解決しなかった。ロシヤもオーストリアもドイツも何にも新しいものを発見しなかった。復活はした。しかしそれはただ、腐乱したままの肉塊の復活であった。

 逝けよ、春よ! 腐乱した肉塊と、酒と、陶酔の春は逝けよ! 文明は間違ったものを復活させた。シンドラの手箱は誤って開かれた。

 歓楽の春は、魂の内にのみある。イエスの復活は昨日のことだ。今日はおまえの胸の中に、堅く閉じられた。魂の棺桶が開かれる番だ!

 出て来い! 棺桶の中に閉じ込められている私の魂よ、小さき霊よ、春は先ず、おまえの魂から始めねばならぬ。

 小鳥はおまえの棺桶のぐるりで囀っているよ。眠れる魂にも、春の消息は聞こえたか? 魂の若芽の萌え出る日も近づいたか? 風は東、日は南に、魂の若芽の吹き出した後に、また傷つけられる恐れのないように、神はもう充分準備して下さった。

 時は春だ。日は軟らかだ。魂の目醒めるも今は頃だ! 春だ! 春だ!



4


5


6


7


8


9


10


11


12





スポンサーサイト

新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第12回『聖書社会学の研究』)

1


これは会下山公園にある「牧野富太郎植物研究所跡」です。(本日のブロクhttp://plaza.rakuten.co.jp/40223/「番町出合いの家」参照)



      「賀川豊彦」のぶらり散歩

              ―作品の序文な―

                第12回

     聖書社会学の研究

   
           大正11年3月1日 日曜世界社 309頁


 この『聖書社会学の研究』は、既に取り上げた『イエス伝の教え方』に続いて、賀川が日曜世界社を版元として出版した2作目です。そして両著ともに賀川が日曜学校の教師相手に講じたものを、吉田源治郎が筆記をして、著作として仕上げたものです。

 これも箱入りの上製本ですが、本書の刊行された日付を見ると、早逝した知里幸恵が書き残したあの『アイヌ神謡集』(現在では岩波文庫に収められています)の刊行されたときと同じですし、その三日あとには京都の岡崎公会堂で「全国水平社」が創立されています。そういう時代の中で誕生した作品ですが、これも賀川を理解する上で、欠かせない大切な講義録です。

            *         *

 ところで、今回12回目ですが、これまで取り出してきた作品はすべて『賀川豊彦全集』全24巻の中に収められていますので、図書館などで読むことができます。そして大変便利な『賀川豊彦全集ダイジェスト』という著書もつくられています。これは昭和41年に出来た全集24巻のすべての解説を一冊に収めたもので、武藤富男氏が手がけた、思いの込められた力作です。


2


3


 ここにその箱表紙と武藤氏の序文を収めて置きますが、1980年代でしたか、このダイジェスト版を英訳する企画が持ち上がったことがあります。

 賀川の著作は膨大なもので、全集に収められたものはその一部にすぎません、全集に入った全作品を簡略とはいえ、こうして纏め挙げているものは他になく、今でもこれの英訳の企画の意義は大きなものがあるように思われます。もちろんこのダイジェスト版そのものが、現在では古書でも殆ど入手が困難な状態のようですから、この原書を若い人々が読めるようにする、何か良い方法を考える必要がありそうです。なお、蛇足ながら、本書の英訳企画が途中で頓挫してしまったのは、例の「賀川問題」が背景にあって、関係者が苦慮しておられた頃のことでした。

それでは以下に、賀川豊彦の「序」を取り出して置きます。そしていつものように、その原文をスキャンいたします。




            


 聖書の社会学は、社会悪に対する再生と救済の社会学である。しかもそれが、外部的破壊によって導かれずして、内面的神の力によることを啓示したものが、聖書の社会学である。

 それは時間的に発展する。それで預言者の出現となり、預言者文学となった。それは民族主義より個性主義に、血族主義より心理主義に、批判的立場より救済的立場に、受難者のメシヤを予望することへと推移して行った。

 ユダヤ民族史を通じて見たる精神の記録は、ガルヴァリズムの試練のために蛙を解剖するようなものである。

 今日なお、多くの唯物主義が説かれ、唯物史観による革命が唱道せられる。それは外部的勢力と自然及び社会的境遇が万能であるかのごとく人に教えるのである。しかし、歴史の上に指示せられた時間の上に成長する人間精神の記録は、必ずしも外部的刺激のみによって成立しているものではない。内側から湧いてくる衷なる神の国の示現にある。

 それは再生の力とし、解放の力とし、罪悪に対する救済の力として現れる。政治の形はあれ、これと変形するであろう。ある時は王の形で、ある者は士師や寡頭政治の形で、ある時は共和主義の形で、またある時には無産者専制の形で現れてくるであろう。

 聖書はどの形でなければならないとは教えてはおらない。神は高き者を低くし、位あるものを位より引き下ろし、無きがごときものを高く挙げ給うものであって、王とはただ、人類生活に対する奉仕者としてのみ尊ばれるものであり、その本質を離れて意味のないものである。

 また共和主義も産業的デモクラシーも、人類生活の成長と発展を妨げないと考えられた場合における形式であって、生命の飛躍と再生を基礎とする社会学の本質―すなわち生命としての神の社会学―すなわち聖書の社会学にはただ内側の法則、正義と愛と自由の道へ進展していく道徳及び信仰の力のほかは社会組織の基本を与えてくれておらない。

 聖書の社会学は、信仰と良心の社会学である。人間の内面生活の飛躍力が、どれだけ外部生活に反応するかという記録である。そして内面生活が統一を欠き、性格が分裂し、国民生活が偶像主義に流れていったときに、その国民は滅亡の運命を見、内面生活が形式に流れてパリサイ主義に傾いたときに、生命が救済すべからざる淵にはばまれ、生のどんづまりにどうしても再生と十字架を見ねばならぬということを教えてくれるのである。

 聖書社会学の教えてくれるところは、それであるから、生命と精霊の社会生活に就いてである。それは社会が行き詰まったときにも、なお内面の力で回転し得ることを教えているのである。それで、聖書社会学にその他のことを求めんとするならば、それは絶望である。しかし、人間がどんなに失望したときでも、どんなに倫落の淵に陥っていつときも、神と聖霊の力が更にそれより深いと教えてくれるのは、聖書のほかにないのである。

 革命と戦乱のほかに人間生活の爛れた傷が癒されるものではないと教えられるとき、私はもう一度、聖書を読み直して、神と生命の再生力を信じよう。

 この書物の出来たのは、また伏見の吉田源治郎兄の御蔭である。私はもう少し詳しく自分に書きたかったが、忙しい貧民生活と労作の中に、とても自分に書き下ろす暇がないので、とにかく私の信ずるところを、大阪の日曜学校教師会に述べたのであった。それを吉田兄は筆記してくれて一冊の書物にしてくれた。ここに私は吉田兄に心より感謝の意を表するものである。

 私は聖書社会学の研究を一生の仕事にしたい。それでもう少し深く研究することができたら、更に筆を起こすことにしよう。

 世界の各地に火の柱が立つ。しかし私の深き祈りは、神が内側から人間生活の更改を助けて下さることである。
 願わくは、十字架を教えてくれたイエスの父、我らをして、神の国に成長せしめ、愛と正義による自由の国に進ましめ給わんことを。アーメン。

   1922年2月5日普選デー
                 台湾伝道に行く途中門司にて
                                       著   者




4


5


6


7


8


9




新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第11回『イエスの宗教とその真理』)

11


昨日午後のぶらり散歩で出会った新湊川公園の「十月桜」です。




            「賀川豊彦」のぶらり散歩

           
               ―作品の序文な―

             
                第11回

   
             イエスの宗教とその真理


        大正10年12月15日 警醒社書店 264頁


 前著『地殻を破ってー散文詩』を出版した翌年(大正10年)には、6月に「印刷工新聞」に掲載した『自由組合論』と、11月に『死線を越えて(中巻)太陽を射るもの』を刊行していますが、『自由組合論』の原書が手元に持たないのと『太陽を射るもの』は既に先に『死線を越えて』でいくらか触れていますので、この大正10年に出た、もう一冊の名著『イエスの宗教とその真理』を、ここでは取り上げて置きます。

 個人的なことですが、賀川の著作の中でもこの本は、初期に手にとって読み耽った大変印象深い作品であったこともあって、今でも本書をひとに勧めたくなる作品です。国内ばかりでなく早くに諸外国に翻訳された作品としても知られていますが、先年「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」をUPした折りに、賀川の講演を筆記して本に仕上げた吉田源治郎について、本書のことを詳しく言及したこともありました。

 また、現在同時進行の別のブログで、昨年(2011年)夏、ミルトス社が本書を復刻された時にも、少々触れました。特に今回の復刻版は、無用の書き換えや改ざんがなく、信頼して読める良書です。

 それでは先ず、布カバーで仕上げられた箱入りの原書をUPします。警醒社書店では、本書を皮切りに、少々贅沢な同型の素敵な本づくり進めています。そして本書は廉価な「普及版」も大正13年に出版して版を重ねました。その「普及版」と「復刻版」も併せてUPします。



1


2



 ともあれ早速、賀川の「序文」を取り出します。少し長いものですが、読みやすくするために、今回も改行など多くしてUPします。そして最後に原書のスキャンを収めます。
  


             


 傷つけられたる魂に、イエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である。それは温泉のごとく人を温め、噴水のごとく力づけてくれる。解放の日に、イエスの愛は感激の源であり、犠牲の旗印である。神は強い。そしてイエスは、その最も聖く、最も強い力の神を教えてくれる。

 イエス自身が、神の符号である。つまり言葉である。イエスのよって、神が人間に向かって、発言権を持っているのである。イエスはローゴスである。道である。行動である。生命である。慰めである。

 私にとっては、イエスほど親しく、なつかしい姿はない。阿波の徳島の暗い生活に、初めてイエスの山上の垂訓の意味が徹底してきたときに、私は踊り上がって、彼を私の胸に迎え入れたのであった。

 私が耶蘇になることには、余程の覚悟が必要であった。私は三十五銭の聖書を買うのに苦心した。それほど私は貧乏であった。私は教会に行くことを許されなかった。親族のすべては、私がイエスの弟子になることに反対であった。

 阿波の吉野川の流域には、旧幕時代から富裕な豪家がたくさんあった。そしてその多くの豪家は、たいていは血続きであった。私の父の家はその豪家の一つであった。そして私も五つから十一の時まで、吉野川の流域の大きな藍の寝床のある家で育った。

 しかし明治の中頃から、阿波の吉野川の流域の豪族の間にどういうわけか、淫蕩の気風が流行病のように蔓延して行った。私の村の付近で、大きな豪農の白壁を塗った庫が、私の見ているうちに倒れたものは数限りなくあった。

 すべてが道徳的頽廃の気分で蔽われていた。あの美しい吉野川の澄み切った青い水も、人の心を澄ますことはできなかった。

 私も早くから、悲しみの子であった。

 私は、十一の時から禅寺に通うて、孟子の素読をさせられた。しかし、聖くなる望みは、私の胸には湧いて来なかった。

 私は、私の周囲の退廃的気分を凝視した時に、聖き心の持ち主になるなどいうことが、全く絶望であることを知っていた。それで全く暗い力に圧せられて、寂しい生活を続けていた。

 そして最初会ったイエスの弟子も、私に徹底するようなイエスの生活を見せてくれなかった。それで私は十五の時まで、イエスの大きな愛を知ることが出来なかった。

 しかし、ローガン先生の英語の聖書研究会に出るようになって、ルカ伝の山上の垂訓を暗唱して、私の心の眼は、もう一度世界を見直した。

 私はなぜ、私の周囲が退廃しているかがすぐわかった。それは「神」がなかったからであった。偶像の統治の闇があまりに暗いものであった。そして私はその闇を破る勇気がなかった。しかし、私に米国宣教師の導きと愛が加わるとともに、私の胸は踊った。今でも、ローガン先生とマヤス先生は、私の親のように、私はまた彼等の子のように、いつ如何なる時でも、愛しいつくしんでくれるが、私は彼等を通じてイエスを見た。そしてイエスの道がよくわかって来た。

 阿波の山と河は、私に甦って来た。そして私は、甦りの子となった。
 私の一生を通じて、最も涙ぐましいその徳島の空が、私に「愛」を教えてくれた。
 それは美しいものである。

 愛することは、美しい。美しい自然の下で相愛することは、更に善いことである。
 若い時に愛することは、最上のよろこびである。
 私は、イエスの十字架によって、人間のすべての奥義をみた。
 私は、十五の幼い時から三十四の今日まで、変わらざるイエスの愛に守られて、その恵みを日一日、深く味うている。凶漢に殴られる時でも、酔漢に侮辱される時でも、辻の淫売婦に接する時でも、イエスは常に私を強くして、いつも聖くおらせてくれる。

 貧乏が貧乏でなくなり、淋しさが淋しさでなくなり、未決監に入っても、血を吐く時でも、死にかかった時でも、イエスの愛は私を強めてくれる。

 私はいつも、イエスがユダヤ人であることを忘れている。彼は今日生きている私の友人ではないか! 彼は最も人間らしい人間、レオ・トルストイよりも、私に近いものではないか!

 私はイエスによって、無数の友を貧しき人の中に得た。無数の愛人を労働者の中に得た。イエスによって妻も得た。イエスのよって最もよき親友を得た。学問も、書物も、何もかも、イエスが私に与えてくれた。

 わたしは、ほとんどイエスのために、何もした覚えがない。しかし、イエスは私にすべてを与えてくれた。

 そして、イエスを味うているその味わい方を、偎々各方面の人が聞かせてくれと言われるので、話をした。東京でも、大阪でも、神戸でも、堺でも、同じことを話した。そしてまだ多くの人が、それを聞きたがっている。

 それで、私の善き友人たちは、今度はそれを一冊の書物にしたいと言い出した。そして、その中でも兄弟のようにしている伏見教会牧師の吉田源治郎兄は、私の談話を全部筆記してくれた。

 それは、私には光栄である。吉田兄は既に私の書物を三冊まで筆記してくれた。吉田兄は、この年一年はほとんど私のために犠牲にしてくれた。それで私は、どんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。しかし、世に産まれ出る必要のあるものなら、産まれ出ることは善いことである。
 それで、喜んで私は、「イエスの宗教とその真理」を世に送り出すのである。

 私はすべてを神にお託せする。この後の戦いのすべてをも神に。
台風よ起これ。海嘯よ来い。私はそのすべてを超越して、イエスの懐にしっかと抱きしめてもらうのだ。

 私はイエスから離れることを欲しない。彼は私の棟梁だ! 彼は船長だ!
 私は彼の指図のままに船を進めよう。
 暴風雨(しけ)よ、来い! 帆も、舵も破れよ。イエスは変わらず愛してくれるから、私に心配はない。

 親しき日本の土に生まれ出た人々も、すべてはイエスの愛の中に、太陽を仰ぐ日が来る。
春は黒土の中から甦る! 雪を越え、霜を踏んで、甦りの準備がせられる。傷められた霊が、すべてイエスを見る。すべてのものが万物更改の日をみることは、あまり遠くはない。

 私は、私の生きている日にそれをみなくとも、勝利がすべてイエスにあることを知っている。誠に。誠に―。

  1921年12月21日                       著   者
                                        神戸貧民窟にて




3


4


5


6


7


8


9


10





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第10回『地殻を破ってー散文詩』)

今回は先ずトレトレの嬉しいお知らせをさせて頂きます。それは「賀川豊彦献身100年記念事業」の取り組みでも特に、記念出版となった『賀川豊彦とボランティア』の「解説」その他、熱心に関わってこられた浜田直也先生の新著『賀川豊彦と孫文』が神戸新聞総合出版センターより誕生した、という良き知らせです。

既に浜田先生の労作『中国史研究ー唐宋宗教史と清末民国政治思想史』(2006年、朋友書店)などを通して開拓的な研究は注目され、そこでも「賀川豊彦と中国」とりわけ「孫文」との関わりの地道な研究を重ねてこられましたが、今回は「賀川豊彦と孫文」を主題とした総括的な著作として見事に完成されました。

刊行のお話は伺っていましたが、予定より少し早い仕上がりで、しかも素人の私のようなものにも分かり易い読み物に仕上げられていて、待望の好著の誕生となりました。

そこで新著の表紙と最初のグラビアの写真を、お許しもえないでここにUPさせていただきます。


1


2


3




           *                      *



      
              「賀川豊彦」のぶらり散歩

                
                ―作品の序文な―


                  第10回


               地殻を破って―散文詩


           大正9年12月6日 福永書店 452頁


 賀川豊彦の作品の中で、特別の輝きを放つものは、何といっても彼が瞑想のうちに書き綴った随筆、彼のいう「散文詩」だと思います。

 今回「新連載」として「ぶらり散歩」しはじめている「作品の序文など」というものも、実は彼の作品のはじめに収めた短い文章が、私には特別にオモロイと思って、わざわざそれをスキャンしながら、時間をかけて書き写す作業をすすめているのです。これほど、私にとって楽しい時はないからです。

 そして今回の『地殻を破って―散文詩』が、その後の数ある作品の中で、最初の随筆集であり、内容もまたそのすべてが秀逸なものなのです。

 「目次」が巻末にありますが、最初に「地殻を破って―散文詩」を収め、次に「自然・自然美・貧民窟(感想と印象)」が入り、最後に「馬の天国(短編小説と童話)と三部構成です。


            *             *


 『人物書誌大系25:賀川豊彦』によれば、上に掲げたように本書は大正9年12月6日に刊行されています。その初版本は手元にはなく、大正14年11月15日の「改版」を読んでいますが、それの奥付には「大正9年10月6日」となっています。

 そして「改版」では初版とは装丁を変えて、賀川の絵と思われる「蹴飛ばせ 汝の住む 遊星を」布に印刷し、文字も特徴のある筆跡を刻んでいます。


4



 そしてこの作品には、豊彦の「口絵:彼は棺桶の蓋をあげて廻る・・」と「挿絵:地殻を破って・・・」の二つが添えられていますので、それもここにUPして置きます。


5


6



 余程むかし気に入ったと見えて、冒頭の「地殻を破って」の「地球の精神」や「地球精神の復活」など、あちこちをワープロに打ち込んでいたことを思い起こします。印刷はして残していますが、あれらが残っていれば、こうしたところで、もっと紹介できるのですが・・・。

 ともあれ、ここに本書の「序」を書き写して、原書のスキャンを添えて置きます。

なお、書き忘れていましたが、賀川は「沖野岩三郎氏と中山昌樹氏に此書を捧ぐ」と巻頭に記しています。この二人は明治学院時代の同窓で、沖野は大正7年に「雄弁」に「日本基督教界の新人と其事業」を書いて紹介した人として、またダンテ研究者でもある中山はその生涯を通して賀川の気を許す友人であったことは、よく知られています。




                    


 わたしの魂よ、強く生きよ。善と美に対して強く生きよ。春先の麦の芽が黒土の地殻を破って萌え出づるごとく強く生きよ。混乱を越え、争闘と、怨恨と、暴行と、脅迫と、病弱を越えて強く生きよ。

 わたしの魂よ、正しくあれ! 常に張り詰めておれ。雪崩が落ちてきても、強くあれよ。わたしの魂よ、穽に陥れられても懼れるな。すべてを破って成長せよ。

 おまえは一人おってはならぬ。痛める魂を労り、傷つけるものに膏を塗れ。おまえは病児の友、跛者の助け手、盲者の手引き、白血球の仕事をせよ。強くあれ、私の魂よ、民衆は土耳古犬のように吠えたぐって、階級闘争を叫ぶとき、おまえは忘れられても、傷つける霊のために静かに解放を説いて来い。

 おまえは代議士になってはならぬ。おまえはもう幸いにして官吏にはなれぬ・・・全科が二犯できたから。牧師にも向かない。専門学校の先生にも駄目だ。おまえは新聞記者にもなれぬ。おまえは一生辻の乞食と淫売婦を友達として送れ! おまえは一生貧民窟を出てはならぬ! おまえは一生辻に立て! 路傍説教をやめるな! おまえには教会がないから、辻の石の上に立って、解法と罪のゆるしの福音を説け!

 わたしの魂よ、神戸に貧民窟がなくなったら大阪に移れ! 日本に貧民窟がなくなったら支那に移れ! おまえの魂は一生貧民窟に縛り付けられているのだ。

 雪崩のあったあとに空が真青に澄むように、わたしの魂の上に空が晴れる。わたしは地殻を破って甦る!

 魂よ、マッチ箱生活を理想とする安住の子の魂よ、おまえは落ち着いて内なるものの爆発する聲を聞け! 神は内なるものである。

 魂よ、内なるものがおまえに力づける。おまえは強いものだ! 人間の子の小使いとして充分労働に耐え得る。ナザレの大工のように、おまえも地上をまわって、善と労働をして来い。妥協のない愛に生きて来い。

 わたしの魂は強く生きる。噴火口の烟のごとく、海洋の潮のごとく、強く生きる。わたしの霊は自殺することが出来ない。死も棺桶も吹き飛ばしてしまった。死を飛び越えたわたしの魂は、墓地を廻って棺桶の蓋をめくって廻る!

 出て来い、凡百の魂よ、死の床より起きて来い! 地殻を踏み破って、立ち上がって来い! 起床の喇叭が鳴るではないか! 永き眠りより醒めよ! 罪の憂鬱の虜より解放せられよ! 因循と、麻酔と、善に対する虚弱より醒めよ!

 わたしは道徳に酔う! 外側の道徳は振り捨ててしまった。内側で醗酵した善がわたしを酔わしてくれる。酒も飲まないのにわたしはほろよい機嫌だ! 神と道徳の耽溺者は、墓場から地獄に愛そうつかされて、神に酔っ払ってこの世に迷い出て来た!

 棺桶のなかに安眠するものよ出て来い! 繭よ、蛹よ、墓地を噛み破れ! 発明せよ! 爆発せよ! 死の扉を打ち砕け!

 魂よ、白日を仰いで、昇天せよ!
 百萬の太陽を浴びつつ、翼なくして空中に踊れ!
 内なるものが爆発しておるではないか!

                         賀川豊彦
                           神戸貧民窟にて



7


8


9


10



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第9回『イエス伝の教え方・附少年宗教心理』)

1

「ぶらり散歩」今回は近くの新湊川の美しい散歩道。(本日の別のブログ「番町出合いの家」より)





            「賀川豊彦」のぶらり散歩


              ―作品の序文など―
        

           第9回


          イエス伝の教え方 付録・少年宗教心理


            宗教教育研究叢書 第1篇

           大正9年10月4日 日曜世界社 



 『死線を越えて』が大正9年10月3日に改造社より出版され、爆発的な売れ行きとなりましたが、翌日4日に日曜世界社で出版されたのが、この『イエス伝の教え方』でした。

 賀川の本書は、日曜世界社(西阪保治の創設した日曜世界社は、この本の奥付を見ると「大阪市南区貝柄町330」に所在していました)で出版した最初の著書となりました。

 日曜学校教師を対象にした講義記録で、大正8年2月20日~11月27日まで9回連載で「基督教世界」に発表の後、「宗教教育研究叢書第壱篇」として纏められています。

 「イエス伝の教え方」は164頁で終わり、その後に「付録・少年宗教心理」が38頁加えられています。ノンブルも別々に付けられている珍しいつくりです。ポケット版のモダンな装丁で、表紙の文字は賀川の筆書きのようです。

 なお、昭和6年5月には、表紙の装丁を代えて第7版が出ていますので、初めにその2冊の表紙を並べてあげて置きます。


2


3



 ところで、本書の巻頭には「1920年2月」の日付の賀川豊彦の「序」があり、その前に「1920年9月」付けの「日曜世界社編輯部にて・吉田源治郎誌す」という文章が掲げられています。しかも双方ともに、ほかにはあまり例を見ない「赤文字」で特別に印刷されています。

 既に別のHP(「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」での長期連載「KAGAWA GYARAXY 吉田源治郎。幸の世界」)でも書きましたが、当時すでに賀川と西坂・吉田らは特に宗教教育の分野でも同労者で連絡を密にし、賀川と吉田ともすでに緊密な関係が結ばれていく時の傑作です。恐らくこの賀川の講義筆記は主に吉田源治郎が行い、著作にまで仕上げたものと思われます。周知の通り、吉田源治郎による賀川講演筆記による著作づくりは、主に初期の名作として次々と誕生していきます。

 ともあれ本書は、内容的にも賀川豊彦の持ち味が存分に盛り込まれた読み物ともなっています。
 そこで今回は、初めに吉田源治郎の言葉をスキャンし、賀川の「序」を取り出して、その後に原書のスキャンを加えて置きます。


追加





                    


 「イエス伝をどう教えるか」ということは、またイエスをどう学ぶかということであります。私らはもう少し深くイエスを知りたいのです。そのために私は、うぶな心にイエスの話を植えてみましょう。老いかつ腐った成年者の心には、新しいイエスの発見はできませぬ。しかし歪みのない、新しい人間―子供―の心には、新しいイエスの種が生えます。つまり、イエスを蒔くことは、新しいイエスを知るひとつの工夫であります。

 もっと深くイエスを知りたい。その強き憧れから、今日の「非イエス的教育法」に裏切って、私はイエス・メソードの主張者になります。イエスのように明るい、イエスのように愛の深い人が百人産まれたとしても世界がひっくり返ります。そのために、私は社会革命中の社会革命の根本要素として、イエスの一生を今生まれたばかりの子供の心の中に投げ込むのです。火は燃え上がらざるを得ないのです。このいと小さきもののひとつを躓かすは、挽臼を頸にかけられて、海に投げ入れられる方が勝っております。

 イエスを教えることは、愛の仕事であります。そして愛と神のあるところに、イエスの心が成長します。私はイエスを教えるために先ず貧しきものを愛しましょう。イエスとはすなわち愛することにあるのです。貧民窟におって、私はいっそうそれを感じます。私は日本の多くの日曜学校の教師諸君がイエスを教えるために、愛に成長せられんことを祈ります。

  1920年2月
                                       著   者

                                        神戸貧民窟にて

5


6





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第8回『小説・死線を越えて』)

1

伊丹「冬の昆陽池」のぶらり散歩。暖かい日にまた出掛けてみたいデス。



             「賀川豊彦」のぶらり散歩(第8回)


                ー作品の序文などー


                小説・死線を越えて


             大正9年10月3日 改造社 551頁


 『小説・死線を越えて』が出版される5ヶ月前に、賀川ハルの名著『貧民窟物語』が福永書店より出版されています。そのことについて、私にとって賀川に関する最初の書き下ろし『賀川豊彦と現代』で、短く次のように書いていますので、参考までにその部分をスキャンして置きます。


2


3


4



 この小説は最初、雑誌「改造」第2巻第1号(大正9年1月1日)から第2巻第5号(大正9年5月1日)まで連載したあと、小説に仕上げられていきますが、その詳細な経緯を、最も信頼のおける証言者・村島帰之氏が書き残していました。

 それは、兵庫県立労働研究所発行の機関誌『労働研究』第149号(1960年7月号)ですが、村島氏は当時その雑誌に「労働運動昔ばなし」を連載していて、この号は第7回目で「『死線を越えて』の裏話―賀川豊彦追想録」と題された論攷です。賀川が1969年4月23日に死去した後すぐに執筆したものでした。

 重要な証言ですので、この村島氏の連載はテキスト化する必要がありますが、ここでは先ず、スキャンしてお目にかけます。判読が難しいかもしれませんが、とりあえず。


5


6


7


8


9



 この『小説・死線を越えて』は、当初から続編を念頭にして執筆していたかどうかはわかりませんが、大正10年11月28日には『死線を越えて・中巻・太陽を射るもの』の表題で出版されます。そして少し時をおいて大正13年12月1日に『死線を越えて・下巻・壁の聲きく時』が完結いたします。

 この3部作はいずれも爆発的な読まれ方をしたことは、前記の村島氏の証言にある通りです。そして上中下の3巻は、昭和2年8月3日に改造社より箱入り普及版(定価壱圓)が出ます。また戦後にも早々に、昭和23年2月20日には、上巻の『死線を越えて』が愛育社より出版されました。

 ここでは、初版『小説・死線を越えて』と普及版(上巻)、そして愛育版をUPします。その愛育版には、賀川の「改版の序」が添えられていますので、これを収めます。


10


11


12



              *              *


                    改版の序


 花はしぼみ、葉は散る。今日の花嫁は、しばらくして老婆に化して行く。さらばといって、常住不動の世界に住めば、退屈してあくびが出る。絶対者が有限の世界に、愛欲の表現を持ち、進化と発展の芸術に、生と死をもって色彩をつけてくれた所に、人生の妙味はある。

 死線を越えてみれば、人生は儲けものである。一切を空とあきらめて、そこに新しく贖罪愛の舞台を演出すれば、それがどんな隅っこの芝居であっても、味わいがある。

 死線を越えてみれば、人生のつまづきも、冒険も、怨恨も、争闘も、神の大きな御手のうちに結論を見出すべき生命芸術である。それは夢としては余り深刻すぎ、全部が誤謬であるとするのは余りに現実すぎる。勿論全部が神の責任ではない。私と私の祖先に責任がある。しかし舞台は全能者が張り出してくれた舞台であるだけに、全能者も、また責任を持ってくれる。

 舞台監督は神である。役者が余り傷つけば、繃帯をしてくれる。要するに人生は退屈しないように出来ている。邪淫と暴力と異端者が脱線を始めるとすぐ人生の空回りが始まる。そして血の噴火がおきる。実在者のうづきの聲が聞こえてくる。

 1900年前、パレスティナの砂漠の一角における大工イエスの憂愁は、実在者のもだえを人間の魂に奪い取った。それ以後、歴史の鼓動は大工イエスの脈拍を標準として数えることになった。

 だが、日本はナザレの大工の血脈を充分受け継がないうちに、衰亡してしまった。これからそのナザレの大工の血をもって輸血する必要があろう。日本も今度は死線を越えねばならぬ。一旦滅びた日本は、墓を打破って復活すべきだ。その復活のために私は再びこの小著を改版することを喜ぶ。
日本よ、早く死線を越えてくれ!

 1948年3月28日
                                          賀川豊彦
   



次は、原書のスキャンです。


12


13



 戦後本書は角川文庫や現代教養文庫(社会思想社)で、またキリスト新聞社などでも出版されて読み継がれ、最近もPHP版や鳴門市賀川記念館版もつくられていることはご存知のとおりです。





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第7回『主観経済の原理』)

1


今回も「冬の昆陽池」。チト寒かったです。




              「賀川豊彦」のぶらり散歩

                ―作品の序文など―

          
第7回


            主観経済の原理

  
            大正9年6月8日 福永書店 398頁



 本書『主観経済の原理』は、賀川の初期作品に集中した大型の上製本の4冊『基督傳論争史』『貧民心理の研究』『精神運動と社会運動』『社会苦と人間建築』に続く5冊目のものです。しかしこれ以後は、学術的な作品の場合も、この形の著作はつくられることはありませんでした。

 本書の版元は、賀川の処女詩集『貧民窟詩集・涙の二等分』を出版した福永書店で、この本は背表紙に皮を用いて金箔の背文字となる箱入りの立派な仕上がりとなっています。この年の暮れの12月、賀川は最初の随筆集『地殻を破って―散文詩』もこの書店から出版し、第二詩集『永遠の乳房』(大正14年)も福永書店から刊行しています。

 福永書店は「東京市京橋区」にあって、本書の巻末の広告を見ると「徳富健次郎『新春』(第60版)」とか「沖野岩三郎『煉瓦の雨』『宿命』」などを出していた出版社のようですが、豊彦とどのような繋がりがあったのでしょうか。

              *          *

 『主観経済学』と名付けられた本書は、これを「経済政策論」として第一巻とし、続いて第二巻を「経済心理から見た経済学」を、そして「主観的に見た経済原論」を第三巻に仕上げる構想を持っていたようですが、実現しないで終わったようです。

 この本が出版されて4ヶ月後に、あの彼の代表作となる小説『死線を越えて』の第一巻が世に出たために、賀川の生活が一変してしまったことも、彼の構想が未完に終わった大きな要因なのでしよう。

 周知のように、1936年(昭和11年)に米国で出版された賀川の講演録『Brotherhood Economics』は広く世界中で読みつがれ、日本でも遅まきながら2009年の賀川献身100年記念として『友愛の政治経済学』の書名で翻訳出版され、大きな話題をよび、賀川のこの『主観経済学』の独自な主張にも、研究者の間で新たに光が当てられてきています。

 本書には、これまでの学術論文集と同じく『改造』『解放』『日本及日本人』などの雑誌に掲載されてたものを中心に収録されて出来ています。『賀川豊彦全集』では第9巻に収められ、武藤富男氏の解説も面白く、そこには独創的な「賀川哲学の真髄」が刻まれていることを強調しています。

 それでは今回も、賀川豊彦の「序」を取り出して、読み進めてみます。そしてその後に、原書の「序」の部分のスキャンを収めます。


             *                 *


2


3





                     


 私はこの書を私の経済学組織の第一巻経済政策論として社会に提供いたします。第二巻は多分経済心理から見た経済学を書きたいと思っております。そして第三巻には主観的に見た経済原論を纏めて見たいと考えておるのであります。

 私は経済学を欲望と労働の学問として扱います。欲望と労働は共に心理的のものであり、主観的のものであります。それで今日までの経済学が欲望から出発しながらも、いつとはなしに物質と貨幣に捕らえられて行くのと違って、私は飽く迄その主観性で経済学を貫かんとする野心を持っているのであります。

 私は既に『精神運動と社会運動』において『主観経済の組織』という一章を設け、主観経済組織の価値論から起こってくる、各種の根本問題について論じて置きました。

 あすこまで論じた価値論はこの書のなかには論じておりませぬ。私はそれを更によく研究して第三巻の原論中に論じたいと思っているのであります。

 私はこの書において唯物史観或いは唯物的経済史観を批判するに相当の力を尽くしております。そして私の結論として哲学的唯物史観を排除して、経済的唯物史観を私の唯心的経済史観の一局面として採用しております。これは欲望と労働の心理的、発生的、歴史的順序からそう私には見えるのであります。

 私はこの主観経済の体系をもって、労働者の人格を資本主義の唯物的圧制より回復したいと思っておるものであります。私には学説と実行とが離れなければならぬ学説を立てたくないという欲望から、人間そのものの経済は人間そのものの外には何ものもないという結論を下しているのであります。

 それで私の経済学は人間経済学というても差し支えはないのであります。私にとっては、倉庫論も、銀行論も、財政論も要するに人間経済の付録であります。それで、私はそのすべての物貨経済学の究極するところを掴まんと努力したのがこの主観経済学であります。

 主観経済学はどこが究極の真理であるかということを必ずしも教えませぬ。それは成長を基礎としております。それで人類の成長と共に価値に変動がある、今日の資本主義の経済組織やその上に築かれている幾萬巻の経済学は全く無用なものになると説いているのが私の唯一の真理であるかも知れませぬ。

 私はこの書を編むに当たって他人の思想を借りておりませぬ。ただもしも私が深く考えさせられたものがありますれば、ラスキンの芸術史論であります。

 ラスキンの経済論は、私が唯心的経済史観を編むに直接の動機を与えたものであります。それから経済歴史の見方は、多くの労働階級史が色々な教訓を与えてくれたのでありました。英国の農民史、賃金史、仏国の労働階級史、独逸の奴隷史等が私の目を開いてくれたことは少しではありませぬ。

 要するに私は、人間の経済を欲望と労働の二つから研究するのであります。それで主観経済の名をつけました。そして人間の心が欲望と労働の心理的興奮から段々崇物的になって、遂に唯物的資本主義に捕らえられ、人間の魂を機械と資本の下に軌っていることを見るに堪えられなくなったのが、この主観経済原理の組織となって現れたのであります。

 私は自身工場を経営して見ました。私の一族と友人がやっている資本主義的経営法すなわち金儲けというものを見ました。私は労働運動をして見ました。また十年間貧民窟に住んでみました。そして私の経済学が誤っておらぬことを確信しております。

 私はこの経済学上の創作を、今、日本の読書社会に送り出します。そしてありったけの批判を仰ぎたいと思っております。

 私は学問のための学問などいうことをいいませぬ。私の学問は人間の解放のためであります。それで学問になっておらぬという人があればその批評を受けましょう。しかし私は議論するだけのためにこの書を読んで戴きたくはありませぬ。生きんがために―そうです、今日まで捨てられていた、人間価値と、宗教価値と、芸術価値と、そうして下等だと考えられていた経済価値の総和をもって、生きた経済学を組織する時にそれはどんなものができるか、それを頭において読んで戴きたいのであります。

 私は唯物経済学のすべてを否定するものではありませぬ。所得税の分配曲線の研究も私は否定するものではありませぬ。しかし主観経済学からいえば、それらの研究はすべて主観経済の特段なる場合であり、また、主観経済の時間的経過を空間的に横断したものであります。

 すなわち私の経済学は時間を組み入れた経済学であります。それでユークリッド幾何学に対するロバチエスキーや、リーマンの新幾何学の関係が線と角の時間的発展の関係である様に、主観経済学と今日までの唯物経済学の関係は、富の時間的発展の関係であります。

 こんな意味において、私は主観経済学を社会に提供することを喜びと致します。

    1920年5月12日
                                     著    者
                                        神戸貧民窟にて




4


5


6


7


8




新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第6回『人間苦と人間建築』)

1

冬の昆陽池もいいですね。



              「賀川豊彦」のぶらり散歩

                ―作品の序文など―

             第6回

        人間苦と人間建築

          大正9年4月9日  警醒社書店 433頁


 今回の『人間苦と人間建築』は、拙著『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』の裏表紙にも載せさせていただいたことのある、今日では広く知られて「阿修羅像」が口絵に入っている書物ですが、本書の姉妹編となっている『精神運動と社会運動』とほぼ同じ大型菊判の箱入り上製本として刊行されています。


 賀川はこの大きな論文集を「私の貧民窟改良事業の同労者なる馬島僴氏、武内勝氏、また私の信仰の友なる間野松蔵氏、木村甚三郎氏に捧げ」ています。馬島と武内は周知のイエス団の同労者ですが、間野と木村はいずれも賀川が属していた日本基督教会の長老であったことが最近(2009年)刊行された『主恩教会90年の歩み』の中に纏められている詳しい年表で知ることができました。


 なお既に別のところで書いたことですが、この『主恩教会90年の歩み』には、賀川とハルが結婚式を挙げた、当時「山本通5丁目」にあった「神戸日本基督教会」の集合写真(1908年)が掲載されています。


 これまでは、賀川の結婚した教会は、大方の見方では、神戸の「中山手7丁目」に建つ教会が考えられてきましたが、この年表によれば「山本通5丁目」にあったこの教会が「中山手7丁目」に新会堂を建築して移るのは大正5年12月のことのようですから、豊彦とハルが結婚式を挙げた大正2年5月27日の頃は「山本通5丁目」にあった教会であることが、ここではっきりと特定できるように思われます。


 ですのでここに、『主恩教会90年の歩み』の冒頭のグラビアを収めて置きます。
 上の写真が「山本通5丁目」の時の教会で、下が「中山手通7丁目」の教会のようです。



2



本書には、冒頭の「苦痛の哲学」をはじめ、有名な「貧民窟十年の経験」や「人間建築論―社会改造の精神的動機」など、『貧民心理の研究』以後の賀川の広範な思索の跡をたどることのできる重要な論文が入っています。


ともあれ早速、英文の表紙と「阿修羅像」と、賀川豊彦が書き綴った「序」を取り出してみます。そして最後に原書の「序」のスキャンをUPいたします。



3


4


5





                    


 私は苦悩の中に、感謝すべき数々を発見しよう。人間苦はまた人間建築である。苦悩の無いものに、創造は無い。私は苦痛そのものまでも黙示として感謝しよう。

 こんなに考えて、私は凡ての苦悩の中に静坐する。貧乏も、病苦も、凌辱も、監獄さへも、私には与えられたる大きな黙示である。私はその凡てに向かって感謝する。

 苦痛中にあって相愛することは善きことである。また愛せんがために、苦しむことも善きことである。愛は苦痛をさえも、戯曲化してくれる。

 しかし苦痛は事実である。社会悪の凡ては事実である。それについて、我等は無頓着ではおれない。しかい苦痛と悪を排除するために、更に新しき苦痛と十字架を覚悟せねばならぬ。母性と、愛と、犠牲のないところに社会は産まれない。それで、苦痛を救うがために、我等は更に新しき苦痛を見る。そして結局は、苦痛の聖堂において、やはり十字架の礼拝されている理由を理解する。

 この意味において―否、凡ての点において飛躍する意志にとっては、凡てが歓喜である、劇曲である。生命は、無償で、観覧し得る大きな芝居である。苦痛さえも、死さえも、感謝すべき、その一幕である。

 ただ、そこに、我等は、その劇曲を開展させる、宇宙と人間の意志が、愛と光明に向いているか、否かを点検すれば善いのである。

 飛躍するものには、凡てが、劇曲である。

 この書『精神運動と社会運動』の続編とも見るべきものである。主として私が過去一年間に各種の新聞雑誌に発表したものの一部である。

 読むべきはずのものも、よう読まず、この書は労苦と、貧困と、眼病と、繁忙の中に生まれた。しかしそのことについても、私は感謝しつつ、この労作を送り出そう。

 私の労作は、私の祈祷である。私はその凡てに感謝する。

    1920年2月20日
                                      著      者
                                         神戸貧民窟にて



6


7



「新連載「賀川豊彦」ぶらり散歩ー作品の序文など(第5回『貧民窟詩集・涙の二等分』)

1


今朝早く、11階の我が家のベランダに、3羽のスズメちゃんが、顔見世にやってきました! 嬉しい一日のはじまりです! (別のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/でUP)


            *              *



              「賀川豊彦」のぶらり散歩

                ―作品の序文など―


              第5回


              貧民窟詩集 涙の二等分


          大正8年11月10日 福永書店 373頁


賀川の詩作品については、別のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ での長期連載させて頂いた名作:村島帰之著『預言詩人・賀川豊彦』で詳しく紹介することができました。


この作品は今嬉しいことに、賀川記念館のHPの「研究所:鳥飼慶陽の部屋」の方で、全体を纏めたものを一挙掲載されていますので、いちどご覧いただければ嬉しく存じます。


この村島作品には、賀川の主要な詩作品を取り上げられていて、今回の長期連載の際には、賀川の原書にあたりながら、村島作品を大幅に補正してUPしましたので、十分味読いただけるものと思います。


なお、賀川豊彦の詩作品を、詩人の目で取り上げて、見事に論評した好著があります。それは三浦清一著『世界は愛に飢えている―賀川豊彦の詩と思想』(昭和32年、的場書房)ですが、三浦清一の未刊の完成原稿『賀川豊彦随筆集』が遺されていて、賀川ミュージアムの方でテキスト化が始められています。楽しみなことであります。



              *          *



賀川のこの処女詩集は、今回紹介する賀川の「自序」にもその経緯が書かれているように、当時既に著名な歌人・与謝野晶子による見事な長文の「序」が収められていることはよく知られています。ここでそれを収めることも考えましたが、ちと長いので諦めて、ここでは賀川の「自序」だけを取り出して置きます。


この処女詩集に入れられた作品の多くは、先の村島の『預言詩人・賀川豊彦』の中にも収めてありますので、ネット上ですぐに読むことができます。


手元の原書ははじめ、大正8年の再版本を読んでいて、それがボロボロになってしまっていたところに、何と先だって、無傷の初版本が箱入りのまま入手いたしました! ここではその美しい表紙と巻頭の写真を収めて置きます。



2


3


なお、ついでといえばへんですが、今回の処女詩集の巻末には、これの出版された大正8年11月10日の10日後に、同じ福永書店より刊行された『労働者崇拝論』(社会問題叢書第三篇)の広告が載っていますので、奥付とともに掲載して置きます。


『労働者崇拝論』は出版のあと直ぐ12月7日には「発売禁止」となっています。原書は現在、賀川ミュージアムに現存しています。


追加


4


             *          *



それでは、「自序」を書き写して、最後に原書をスキャンいたします。





                  自 序



 不思議な実在としておかれ、苦悩と絶望と、愛と歓喜と、病躯の中に据えられた私は、死の影に逍遥して生まれたのが、この一篇の詩集である。

 宇宙の苦悩を見たものは死なねばならぬと、私は常に考えている。そして贖罪者イエスの弟子として、私もその重荷をくくりつけられ、たじろぐ足に、貧民窟の隅で泣かねばならぬ実在として、私は造られた。

 私は何度社会苦に煩悶して自殺しようとしたか知れぬ。神がもし、私を受感性の人間に作らなかったなら、こんな苦悩はないであろうが、眼を涙壷のようにして、貧民窟の路地を嘆きつつ歩ますように捕え給うた神は、自殺したつもりで、私を泥溝の中へ叩き込みなさるのである。

 私はひこづられて行こう。ただもう贖罪者イエスの十字架を負わせられて、世界の嘲罵と怒号の中を、沈黙のまま、静かにカルヴァリーまで歩もう。

 神が私を見放すまで、私はこの貧民窟に仕えよう。私の涙を笑ってくれるな、人よ。私の捧ぐべき祈りは、私が人に見せない涙にあるのだ。

 この詩集は、過去13年間の、神の前の私の呻きである。最近さらの光明に触れているが、それはみな散文詩になっているので、別に発表することにしたい。

 私の尊敬する詩人与謝野寛氏、与謝野晶子女史が常に私に対して温かい愛を注いで下さる上に、更につまらぬ私の詩集に、序文を賜ったことを特にここに感謝する。

 このクリスマスで、ちょうど貧民窟に入って満10年である。その間に私は2年9ヶ月、アメリカに行っていたが、私の貧民窟の仕事は私の友達の労働者の手で続けられていた。今この詩集を自分にひっくり返して見て、私の胸は一種の感慨で一杯になっている。

   1919年9月6日
                                       著    者
                                        神戸貧民窟にて



5


6


7


8


9






新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第4回『精神運動と社会運動』)

1


昨日午後は、賀川記念館で開かれた「被爆ピアノの平和の音色」チャリティーコンサートに出かけました。この写真は、生田川公園にある昨日のお地蔵さんです。




             「賀川豊彦」のぶらり散歩

               ―作品の序文など―

                 第4回


             精神運動と社会運動

       大正8年6月5日  警醒社書店 719頁

 大正3年8月から大正6年5月まで、米国留学のために神戸を離れていた賀川は、武内勝たちの待つ神戸・新川に再び戻ってきます。7月には、横浜の共立女子神学校で学んでいたハルも神戸に帰り、新たな生活がスタートいたしました。


 そこですぐに「イエス団友愛救済所」などの働きを開始していったことは、よく知られていることです。

 労働運動への参画や大阪での購買組合共益社の創設などすすめ、大正8年12月には、親しい友人たちが「貧民窟居住満10年記念晩餐会」を開いたりしています。

過日、村島帰之の「労働運動昔ばなし」の5回目のところを見ていましたら、「貧民窟十年記念会」として10人の名前とその時の写真が掲載されていた箇所がありましたので、ここにその部分を取り出して置きます。


2


3




 本書『精神運動と社会運動』は、前著『貧民心理の研究』を出版しておよそ4年後の大正8年6月に警醒社書店より刊行されています。

 賀川が米国留学から帰国後に「科学と文芸」誌や「救済研究」誌などより求められて、次々と発表したものを編集し、719頁というはじめての箱入り大判の上製版の著作が登場します。

 手元の原書は大正10年の第8版ですが、奥付を見ると大正8年のうちに第4版まで版を重ねています。


 本書の扉には「この書を私の貧民窟の小さき改良事業に同情さるるマヤス博士夫人、福井捨一氏、大迫武吉氏、吉田栄蔵氏に捧ぐ」と記されています。


 それでは今回も本書の英文で記された赤い表紙と扉の「英国現代の貧民窟詩人メースフイルドをマクス・ビーアボアムが風刺的に画きしもの」と説明書きのあるものと共に、賀川の記す「序」を読み直してみます。


4


5



              *        *


                    


 貧民窟に入ってから丁度満10年、その間に貧乏と病躯と、繁忙と社会悪と戦って、思った書物も充分よう読まず、深く宇宙悪の諸問題と人間生活の運命に考え込んだが、その一部の思想を今論文集としてここに発表する。

 私は固く信じている。私の最大傑作は、紙の上にあってはならないと。私には与えられた、貧民窟の幾多の悲惨な諸問題がある。これら愛する友人の胸のうえに画かるべき活文字こそ、私の芸術的傑作中の傑作であらねばならぬのだ。しかしこれらの傑作を私は、まだ不幸にして完成しない。それで私は紙にまで堕落する。

 紙にまで堕落した私は、与えられた私の生活を基礎として、他人の進んだ航路と全く異なった角度をもって突進したい。私には私の哲学がある。私の哲学はいつまでも発生的にまた傾向的に見る癖をもっている。

 それで私は多くの論文を傾向的に書いた。もちろん私はこの論文集で、私の哲学思想の全てを表白することができなかった。しかし断片的に発表した論文を見てもらえば、私の思想がどんな方向をとりつつあるかが解かると思う.

 私のすべての過去の労作は、貧民窟の長屋で生まれた。それは子供の叫びと、大人の怒号と、病人の呻きを聞きつつ書いたものである。

 私は真の哲学は、今日の社会悪を除き去った後に初めて産まれるものであると信じている。すなわちすべての善の運動は一種の哲学運動であると信じ、社会運動と精神運動を一つの運動であると考えている。

 この論文集は、二三の新しく書いた論文の外は全部私が過去一年半の間に発表したものである。
 私はこの種類の論文で決して満足しておらない。遠からず『宇宙悪論』の一体系の中に全てを纏めたいと考えている。しかしそれが纏まるにはまだ永くかかると思うので、恥ずかしいことながら、警醒社の福永文之助氏の好意によって論文集を発表することにした。

 時代が時代だ。欧州では八百万の生霊を犠牲にして、新しい世界のために悶えている。私も来るべきその時代のために、私の思想を先ず整理せねばならぬ。

  1919年5月6日
                                   著    者
                                       神戸貧民窟にて



             *          *



ここにも本文をスキャンして収めて置きます。


6


7





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第3回『貧民心理の研究』)

1


日本の財界人として、特に神戸では「兵庫運河の開削者」として知られる「八尾善四郎」の大きな像が、綺麗な「高松橋」の西端に据えられています。


               *        *


           「賀川豊彦」のぶらり散歩



                    第3回


                  貧民心理の研究


          大正4年11月15日 警醒社書店 654頁


 賀川は大正3(1914)年8月には、米国プリンストン大学並びにプリンストン神学校入学のため、神戸を離れます。留学のための資金を獲得するために、彼はこの『貧民心理の研究』の原稿を仕上げる努力を重ねましたが、出発前には出版は間に合わず、本書が出版されるのは、留学中の大正4(1915)年11月のことでした。


 賀川の留学中にもう1冊、彼の翻訳本の第1号と思われる、オリバーの著書『PREPARATION FOR TEACHING』を『日曜学校教授法』として、大正4(1915)年3月に日本基督教興文協会より出版しています。これは留学前マヤス博士から、これを翻訳すれば50円出せるという話があり、賀川が訳文を口述して、ハル夫人が筆記し、2ヶ月かかって完成させたということも知られています。


 次の著書がその『日曜学校教授法』です。


2


               *        *


『貧民心理の研究』は、挟み込みの資料を除いても本文が654頁にも及ぶもので、よく知られるように、当時新進気鋭の社会学者・米田庄太郎の「序文」が入り、巻頭の貴重な写真も収められています。本書の簡易なカバーとともに、はじめにUPして置きます。


3


4


5


           *           *


では、ここに賀川の「自序」を書き写してみます。



                   自 序


 私はこの書を一生懸命になって書きました。しかしこの書は私にとっては一論文の一小部分にしかなっておりませぬ。


 「宇宙悪」の問題は永らく私の頭を悩まして、私は数年来唯そのことばかり考えております。そのうちにも貧苦と精神の衝突は殊に私の注意を惹いたものですから、私はその材料を集めることになりました。即ちそれがこの書であります。


 で、私から見ればこの書は「宇宙悪」論の数頁―社会苦の方向が少しわかった位にしかなっておらないのであります。だから、私はこの書の中に何者をも解決しておりませぬ。


 また自白しますが、私は立派な心理学者でもなし又経済学者でもないので、善い材料も十分集め得なかったのであります。で、専門的にみれば恥ずかしいようなところが沢山あると思います。しかし唯私の許しておりますのは、私でなければ得られないと思っている材料が得られたかと思うことであります。―それも間違っているかも知れぬが。


 私はこの書を書き終わるとすぐ行李を纏めて北米合衆国に遊学に出かけて来ました。そして日本製の眼で貧民心理を研究しております。そして大体において私の研究が間違っておらぬということを認めているのであります。


 アメリカは大きい国であります。貧乏人でもゆったりとしている。子供が社会主義の辻演説をしても善い国であります。或る都会の外は殆ど貧民窟をみることができない国であります。それで一面からいうならば、貧民心理は新しい国では研究できないということを私は発見したのであります。


 また、なんでも昨年アメリカで印刷された図書の中で、社会問題の本が最も多いそうでありますけれども、よく調べてみますと、「貧民心理」の問題に関しては全く一冊もないのであります。それで、私は、これはどうしても英国へ行かなければ駄目だと諦めております。


 それはとにかく、新大陸から見れば、いくら紐育が世界生活難の本場だと人がいっても、日本を初め暗い支那印度のことを考えますならば、とても話にならぬ。日本の貧民は「飢えたる貧民」であります。こちらの貧民は飢えてはおらず渇いた位のところでありましょう。


 1914年―5年の霜枯期は、世界の大戦のために大西洋岸の諸市いずれも、前年に倍する失業者を出したのであります。しかし、私はその救済法の完備しているのと、法律の寛大なのに驚いたのであります。たとえば、紐育市の如き、12月早々市長が知名の実業家、慈善家、社会学者、労働党首領よりなる70人の委員を任命して、失業者救済策を講じたのであります。


 そしてその結果、委員の一人である電話会社社長は、電線の修理を繰り上げてこの冬期にするということにし、その他の諸会社にても同様に仕事をわざとつくり、それで失業者の多数は助かるということになったのであります。


 これは一例であるが、この国では人口15・6万の都市で、貧民窟というものを探し当てることが誠に困難である。フィラデルフィア市などの大きな都市でも、貧民窟というべきものはもう今日では発見できないほどに改善され、またその区の死亡率のごときは、日本の貧民窟の三分の一位に減じさせているのであります。


 しからば、貧民は無いかといえば決してそうではない。貧民の標準が違って存在することになっているのであります。日本では月給18円をとる巡査くらいが貧民であろうが、紐育は5人家族で1年850弗以下の収入のものは貧民ということになっているそうであります。つまり日本の奏任官位いの収入あるものも皆貧民ということであります。


 紐育では貧民の家族で1ヶ月20弗位い払っておるものは沢山ある。その代わり月々132円(66弗)を恵与されている貧民もある。紐育の娼妓で日本のように貧困で身を売るというようなものは多くはない。しかし多くは贅沢につり上げられたために娼妓になっている。したがって、貧民心理もよほど違ってくるようなものである。


 しかし「人情は東西一つ」で、生活難が殖えると妻を棄てる(費府では1914年4万件からあったそうだ)その棄てるのが、金の話からだというのだから、私が神戸の貧民窟で見たものと少しも変わらない。しかし、「引越しの心理」「夜逃げの心理」はアメリカではまだ研究されておらぬらしいから詳しいことをいうことはできませぬが、これから研究するにしても、私は大体この書で述べた順序で研究すれば善いことと思っております。


 けれどもアメリカに来て私の益したことは、すでに英語では珍しい本が出来ているということを知ったことであります。「賭博史」であるとか「英国貧民発生史」であるとかは、私が日本で得たいと思って得られなかったものである。それがこの地では得られる。で、これらの不足な点はまた日本へ帰ったあと補修にでもしたいと思っております。


 今度の戦争は悲惨である。また多くの貧民を製造することであろう。そしてまた貧困が精神を支配するのでしょう。そして貧民心理の研究は更に新しくせられなければならないでしょう。


 ヨブは貧民の問題について叫んで「神はこの怪事を認め給わず」と申しましたが一体、カイザルの神様も、人間も、今、何をしているのでありましょう?


                              プリンストンにて筆者
                                      1915年1月6日



このブログでは、ブログ用に読みやすくするために、改行を多くしたりしています。以下に、原書のスキャンを入れて置きます。


6


7


8


9


10



            *           *


なお、本書は大正4年に出版されて以後、高価な著書にもかかわらず読書界に受け入れられ、大正11年までに9版を重ねています。最後にその第9版の奥付とその時の広告を収めて置きます。これをみると、すぐに追って取り上げる賀川の大著『精神運動と社会運動』は大正11年のこの時点で第7版を、そして前回取り上げた『基督傳論争史』は、初版で終わったのではなく「再版」が出回っていることがわかります。


11


12





# 新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第2回『基督傳論争史』)

1


「ぶらり散歩」の写真はいつも別のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ でUPしていますが、ここでもカットがわりに前回から収めています。この写真は、兵庫運河・高松橋のすぐ西隣りの「尻池街園」にある「真野のまちづくり」で知られる毛利芳蔵さんを記念した碑です。懐かしいお方です。


               *         *



             「賀川豊彦」ぶらり散歩(第2回)


               ー作品の序文などー


                  基督傳論争史


           大正2年12月15日 福音舎書店 353頁 


 前回の『預言者エレミヤ』が、芝ハルと結婚して最初の著作であったことは既に触れたとおりですが、大正2年のこの年に、大変驚くべきことですが、最初の学術的大著であるこの『基督傳論争史』を賀川は上梓しています。神戸神学校は大正元年に卒業し、結婚前に「伝道師」の試験に合格していた賀川ですが、「葺合新川」での4年ほどの生活の中で、このような大作をよくもまあ書き下ろしたものだと、驚くほどの傑作です。


 前作『預言者エレミヤ』は「ローガン先生」に捧げられましたが、本書の扉には「マヤス博士に捧ぐ」と記されています。本書は背表紙にも最初の標題紙にも「編著」とあるように、Schweitzer と Sanday の先行研究を彼が抄訳し、本書の後半に「日本に於ける基督傳の歴史」を書き下ろしたものです。


 手元にあるものは黒い上製本の初版ですが、カバー表紙や箱はありません。最初からなかったのかもしれません。ここではまず本書の「序」を取り出し、原本のスキャンも入れて置きます。


 この作品はどうもこの初版だけで、版を重ねていないようですが、本書の巻末に既刊の2冊の本ー『友情』と『預言者エレミヤ』ーの広告がありますので、標題紙と奥付と共にそれもUPすることにします。
(補記:本書については、殆ど読まれることがなかったことを、賀川自身が書いていたように記憶していましたが、次に取り上げる『貧民心理の研究』の第9版(大正11年)を見ると、この『基督傳論争史』はこのとき「再版」されているようです。)




               *      *


                    序


 無学と貧乏と病気と繁忙の中に此の書が出来た。


 元来私が論争史を書くというのは、論争そのものに趣味を持っているからである。人間の無知なる、網に入った魚の様に、喘ぎ悶え、それでも無知の網を喰い破って、自由の大海に浮かぼうとする、その殊勝さ!


 私はその努力と争闘に言い知れぬ慰安を感じるのである。此の趣味がある計りで、私は貧民窟の強き刺激からよう逃げない。基督傳の研究圏は、思想界の一個の貧民窟である。私はまたそこへ引っ越して、同じ意味でその強烈な刺激に、快楽のありったけを貪りたいのである。


 哲学は元来人格の産物である。そして基督は人格のプリズムである。


 私は傾向の哲学的研究、或いは哲学史そのものの研究ほど好きなものは無い。しかし私は、今日の散文的な哲学史に少なからず飽き足らず思うている。今日の哲学史には生命がない。オイッケンもまだ駄目だ。


 哲学史というものは、宇宙の「創造的分出」の一現象で、哲学者そのものの生理、病理、心理、芸術、道徳より、そのパンから糞尿まで包含すべき性質のものである。


 しかしこれは容易の事業ではない。二千年の哲学史を書くに、また二千年を要す。ところが幸いにも、ここに「基督」というプリズムがある。凡ての哲学はこれを通過すると共に、不思議なまた簡単な生活史を形造する。そしてこの特殊な「生活史」には、レッキーの書かんとする道徳史も、ヘーゲルの現さんとする理念そのものの体現も、テーンの文学史的のものも、何もかも凡て現れてくる。


 それで、私は長年シュワイチェルの「ライマラスよりウレーデまで」の出るズット前より、こういう意味での基督傳論争史を書いてみたいと思っていた。しかし無学と繁忙と貧乏は、私にそれを許してくれずに、年月が経って私はシュワイチェルを手にすることとなった。


 私はシュワイチェルと彼の事業に、多大の趣味と同情を持っている。殊に彼が引き起こした最近の終末論の論争に関しては、ひとしおの興味を感じているものである。


 私はこの書を綴るにあたって、言い知れぬ歓喜を覚えた。私はこの書を、自らの将来の研究の便にしようと書いたと考えている。しかしそれがまた、世の読者を益するならば更に幸いなことである。


 私はこの書を書いている中に、一層の信仰を持って、神自身の中に生き、猶多くの生霊を基督と基督の日のために導こうと決心したことは事実である。


 終わりに、私は貴重なる書籍を貸与せられ、種々なる便利を与えられた吉崎彦一氏、加藤直士氏、大賀寿吉氏の諸氏に深く感謝し、猶世の博学なる諸兄姉に、不備なる点を批評また指導せられんことを希望する次第である。


  1913年11月10日
                                 編  著  者
                                       神戸貧民窟にて



以下、序文のスキャン。


3


4


5



以下、標題紙と奥付と既刊2冊の広告です。


2


6


7



賀川豊彦の若き日の労作ですが、「KAGAWA GARAXY 吉田源治郎・幸の世界」で既に詳しくシュバイツァーとの関わりについて触れていますので、関心をおもちの方はそちらをご覧下さい。(ただいま「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」は切替中かも知れませんが)。


   
             

新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第1回『預言者エレミヤ』)

2


昨日午後の「ぶらり散歩」――歩いて30分ほどのところに、川崎重工や富士通の隣に「神戸市ものづくり復興工場」があります。たいへん美しい場所です。



         *                   *


             賀川豊彦」のぶらり散歩(1)


                ―作品の序文など―


 昨年(2011年)半ばより、まったくの素人の手探りで、少し時間的ゆとりができたことから、ブログというものを初体験して、ほぼ半年が経過しました。


 人のおみせするためではなく、まったく個人的な記録と溜め込んでいた資料整理のために、このブログを活用してきました。ほとんど毎日やすまずに、総合目次までつくって、五つのブログを同時進行中ということになり、UPのたけに数時間を要しますが、お蔭様で毎日の「ぶらり散歩」にもリズムができてきました。


 ブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ では、その「ぶらり散歩」で目に留まった美しい草木や風景を掲載していく楽しみも、ひとつの習慣となってきました。


 このブログ「賀川豊彦の魅力」では、1980年代以降に書き下ろした書物や講演記録などを長々と連載してきております。順不同の思いつきのような並べ方ですが、他の「対話の時代 宗教・人権・部落問題」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan/ と「滝沢克己 新しい対話的世界」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+torigai/ での連載と共に、資料の整理が進んできております。


 そこで当ブログでは、これまでの個人的に味読・身読してきた「賀川豊彦の魅力」のレポートのUPを一休みして、「賀川豊彦」その方に登場していただきながら、<「賀川豊彦」のぶらり散歩>」と題して、彼の著作の原書から「序文」などをスキャンして、彼の若き日からの作品を読み進んで、毎日を楽しんでいこうかな、と思っています。


 ただこれまでもご覧いただいているように、スキャンが下手で機種も古く、判読も困難なものが多くありますが、「賀川豊彦の魅力」を伝える道案内のきっかけになれば、それだけで満足なのです。ご覧になった方がご自分で、賀川の作品に直接であわれることになれば嬉しいのです。


             *             *

 
                  第1回


                預言者エレミヤ


 賀川豊彦の処女作品は、1912(大正元年)12月21日に福音舎より出版された『友情』で『賀川豊彦全集』第20巻に収められています。しかし今わたしの手元にはありませんので、その翌年1913(大正2年)12月1日に福音社書店で出た166頁の作品『預言者エレミヤ』からUPすることにいたします。


 処女作の『友情』の口絵・画は賀川自らのものですが、第2作目では「長尾巳画」となっています。そして『友情』と同じく「序」は山室軍平が執筆しています。賀川は25歳、同い年の芝ハルと5月に結婚して後の第1作です。「TO Rev.C.A.LOGAN ローガン先生に」と巻頭に記されています。


 ただし、ここにUPするのは、改版(大正14年、警醒社書店内日曜学校文学部)のものです。『人物書誌大系25:賀川豊彦』には改版は「表紙の色のみ赤から紺色に変わる」と記されています。


 ここでは、山室軍平の「序」と賀川の「自序」を収めてみます。賀川と山室と、そして吉田源治郎については、長期連載「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」に触れています。


         *              *



1


1


2


次に、賀川の「自序」が続きます。


                自序


 「預言者エレミヤ」は出来るだけ平易に、日曜学校の尋常科の終わりの方の方々に分かるくらいの程度で書いたつもりであります。しかし、私は大人の信者諸君にも是非読んで戴きたいのであります。


 旧約聖書のエレミヤ記をお読みになった方はご存知でしょうが、エレミヤ記は切れ切れの入り込んだ、それはそれは面倒くさい本であります。エレミヤのしたこと、また考えたことが、少しも年代を追っておりませんので、私はほんとに困りました。私はそれを長い間、西洋の色々な本を参考にしたり、自分手に考えたりして、やっとのことでこんなものにまとめました。聖書に載っている預言はひとつも略してありません。色々と工夫してみな入れて置きました。


 また挿絵でありますが、今度は私のお友達の長尾さんに書いて戴きました。長尾さんはただいま東京の青年画家の中で評判になっているお方です。しかし、下絵はみな私が、あるものは「埃及発掘会報書」から、あるものは、フエノロッサの「東洋美術史」から、あるものは「歴史家の歴史」から集めてきました。


 エレミヤ自身のことに就いては、私はまた特別の同情を持っております。私は小さいときから涙脆い方で、十五の時から説教し、いつでも辛い時にはエレミヤを思い出して慰めておりました。その後、神のご用に一生を捧げたときにも、エレミヤを思いながら東京へ上りました。今日でも毎晩の路傍説教に、ほとんどエレミヤを忘れたことはありません。迫害せられたとき、風の吹く晩、いやなとき、世の人間が福音に無頓着なとき、私はいつもエレミヤを思い出します。


 そしてエレミヤの涙は私の涙でした。それで私は、この本の表題を「涙の歴史」としようかと思ったくらいでした。


 未だ世界は改心いたしません。それで私はこの本をお読みになる皆様に注文があります。どうぞ、皆様も一人びとりエレミヤとなって、世界の罪を涙で洗い流すまで、基督のためにご奮闘して戴きたいのであります。


 1913年11月10日          
                                 著    者


                                    神戸貧民窟にて



 スキャンしたものも入れて置きます。





4


5


6


7


「<賀川豊彦再評価シリーズ>なぜ今「賀川豊彦」なのか」(2001年、『季刊:CC共済ボランティア』第3号)

1


今回の短い文章は、2001年1月に発行された『季刊:CC共済ボランティア』第3号に収められたもので、小見出しは編集部でつけられています。


高齢者生活協同組合という全国組織があり、そこで「CC共済」という新たな試みを開始していた時の機関誌です。


            *                 *



2


3


「賀川豊彦と現代ー生誕百年記念」(1988年、関西学院大学社会学部チャペル)

1


今回は、賀川豊彦の生誕百年記念の年・1988年12月7日に関西学院大学社会学部の礼拝で語った短い説教です。どういうわけか社会学部では学生向けの礼拝の時だけではなく、何度も教授会の中での意見交換ということで、幅広く部落問題・人権問題に関わって出かける機会がありました。


            *               *



              賀川豊彦と現代―生誕百年記念


              関西学院大学社会学部チャペル


                1988年12月7日


「あなたがたは、地の塩である。もし塩のききめがなくなったら、何によってその味を取りもどされようか。もはや、何の役にも立たず、ただ外に捨てられて、人々にふみつけられるだけである。」(マタイ5:13)


 賀川豊彦は、1960年に72歳の生涯を閉じました。皆さんの多くはまだ生まれる前の人ですから、恐らく名前も知らない人も少なくないでしょう。神戸に生まれて、世界に羽ばたいた、誠に稀有な先達なのですけれども。


 ただし今年は「賀川豊彦生誕百年」という記念の年にあたります。今年は4月頃からずっと、国内では東京と神戸を中心に、外国でもアメリカを中心に、シンポジウムや学会、「死線を越えて」の記念の映画や演劇、或いはまた賀川関連の資料展など、数多くの実に多彩な記念行事が行われてきました。


 数日前も、京都の同志社大学新島会の主催による賀川生誕百年記念集会があって、大変な盛会ぶりでした。賀川没後すでに30年近くなるのに、まだまだ熱気がムンムン感じられるものでした。


 そうした多彩な催しは新聞やテレビなどで何度も報道いたしましたから、皆さんも賀川豊彦の働きに目にとめ、関心を持たれた方もあるかもしれません。


               *        *


 私は、今から30年前、高校生のときに賀川豊彦のことを知りました。横山春一という方がお書きになった『隣人愛の闘士―賀川豊彦先生』という本でした。写真がたくさん入った本でした。日本にこうした人物が存在していたことに、いたく驚かされました。


 それから不思議なことに、賀川豊彦が21歳のまだ学生のときに、神戸の「葺合新川」という当時の「貧民窟」と呼ばれた地域にひとり移り住んで、まさに彼のホームグラウンドとなった現在の神戸の賀川記念館、そのなかにある神戸イエス団教会という教会に招かれたのです。


この教会で2年間過ごして多くの経験をして、賀川豊彦の働きに強く触発されて、牧師としての、キリスト者としての、一人の人間としての、「新しい生き方」を求めて、現在に続く歩みをはじめて、いま20年になります。


              *          *


 賀川豊彦は、もちろん牧師でありましたが、教会の中だけの牧師ではありませんでした。凄い牧師であると同時に、本格的な社会運動家として活躍した人でもあります。


 その生涯のうちに没頭した社会活動は、最初の賀川流セツルメント―スラムのなかの病人の世話などから始まって、3年ほどのアメリカ留学後は、労働運動・消費組合運動・農民組合運動・水平運動、さらには幼児教育や社会教育運動、平和運動など、数え切れない多方面にわたる開拓的な取り組みを進めて行ったひとでした。そしてそれらの諸活動はその後もそのまま、或いは時代と共に形を変えて、多くの人々の手で受け継がれ今日に至っています。生協運動などは、益々活発に根を張った活動として注目を集めています。


 賀川は生前、300冊を越える本を出版したとも言われていますが、外国へも多く翻訳されて読まれ続け、日本全国津々浦々、外国にも何度も招かれて講演活動を行って、国際的にも高い評価を受けてきたわけです。


              *        *


 嬉しいことに現在、賀川豊彦に関連する歴史的な資料が、東京の松沢資料館に集中され、神戸の賀川記念館にも多くの貴重なドキュメントが保存されています。「賀川豊彦学会」が4年前につくられて、毎年学会の研究大会が活発に開催されています。


 そしていくつもの機関誌も発行され、この賀川生誕百年を節目にして今、彼の思想と行動を改めて学び直してみようとする「賀川再発見」の時を迎えているのです。来年には「賀川と社会正義」といった国際会議が京都で開催すべく準備中とも聞いています。最近『賀川豊彦―愛と正義の使徒』という英文の伝記が出たりしています。


              *       *


 先ほどはマタイ福音書の「山上の説教」のところ、皆さんよくご存知の「あなたがたは、地の塩である」という短い箇所を読んでいただきました。この言葉の次には「あなたがたは、世の光である。山の上にある町は隠れることがない」とあります。


 賀川豊彦は確かに、「ドクター・カガワ」として、まさに「世の光」として同時代のシュバイツァーやガンジーと並んで、ひろく話題になった人でした。同時にまた彼はいつも、授かったいのちを「地の塩」として生きることに没頭して、冒険を続けました。いつも、隠れたところに目を注ぎ、どうすれば「貧しさ」や「病気」から、また「戦争や抑圧」から解き放たれるのか、宇宙的な視野で人権の回復のために、身を賭して、献身的な働きを続けた方でありました。


 賀川の小説で、文庫本にもなっている『一粒の麦』という作品があります。「一粒の麦」として「地に落ちて死ぬ」ことを潔しとして生きた方でした。


                *      *


 「塩」は形をなくして消えていきます。目立つことなくただ仕え、味付けするのです。賀川豊彦の言葉は、いかにも時代がかった言葉も多いのですが、彼は「下座奉仕」とか、わかりやすい言葉で「尻拭い」とか、いつも好んで用いました。


 聖書のイエスは、全く無条件に「あなたがたは、地の塩である」と言われます。「あなたがたは、そのままで、塩づけされた地の塩である」というのです。


                *      *


 私たちが賀川豊彦を記念するのは、その業績を称えることではありません。この人が、あの激動の時代のただ中で、何を求め何を見出し、何をバネにして、あのように自由に大胆な生き方ができたのか、その秘密を自分自身のこととして学ぶことにあるのです。


 人間の生涯には、もちろん間違いや限界も含まれています。それらを冷静に、あるがままに見ていく歴史的な目が必要です。


                *      *


 賀川豊彦は、神戸で生まれましたが、幼くして両親と死別し、兄弟姉妹別々に親戚に引き取られ、「妾の子」などといじめられ、引き取られた徳島の実家も倒産し、少年時代に当時は死にいたる病として恐れられていた結核に罹ります。


 時代と人生上の苦悩を人波に舐め尽した彼が、「絶望の暗いトンネル」から、どのようにして「死線を越えて」いったのか、その喜びの溢れと果敢な闘いの足跡のなかには、私たちの時代に受け継がれていくべき、豊かなお宝が隠されていると思えてならないのです。


 「大正時代の新人類」といわれ、「ユーモアとチャレンジの人」ともいわれるこのひとりの先達は、これからの新しい時代を生きる私たちにとって、本気で学んでみる価値のある大切な人だと言わねばなりません。

              *      *


 賀川豊彦自身、聖書のイエスから「あなたは地の塩である」と声をかけられ、そのイエスの声かけにまともに応えて、「地の塩」としての歩みを、喜んで生きた、とても面白い先達です。あの激動の歴史の中で、塩は解け、歴史を見事に味付けしていったのです。


 私達もなんの幸いか、無条件に「あなたがたは、地の塩である」と、いまも呼びかけられています。新しい時代を歩む皆さんの人生は、賀川豊彦とおなじように、この祝福を豊かに受けて、授かったこの命を存分に輝かせて、大胆に歩むことになるのです。ほんとうに、楽しみなことです。

「鳥飼慶陽さんの賀川豊彦こぼればなし」(2009年、「安心・しあわせネットワーク」

1


「賀川豊彦献身100年記念」の2009年に、神戸人権交流協議会の機関誌『安心・しあわせネットワーク」に10回ほどの小さなコラムに連載したものが残っていましたので、これも記録として掲載して置きます。


現在手元に残っているのはそのうち4回分のみですが、同誌の2010年6月号には、「NPOまちづくり神戸」の定期総会の学習会で、内田将志さんと共に「神戸の改良住宅と賀川豊彦の功績を学ぶ」場が設けられ、その記事が載っていますので、それも付録として収めます。


2


3


4


5


6


「今こそ賀川豊彦を考える」(下)(2008年、兵庫県高齢者生協だより)

1


今回は連載の最後の3回分です。


2


3


4



次の記事は付録です。同じ「兵庫県高齢者生協だより」の2009年5・6月合併号(第73号)に求められて寄稿したものです。


5


「今こそ賀川豊彦を考える」(中)(2008年、「兵庫県高齢者生協だより」)

1


2007年10月から連載したこの小稿の続きです。今回は、2008年1月からのものです。



2



3



4


5


「今こそ賀川豊彦を考える」(上)(2007年、「兵庫県高齢者生協だより」)

1


これは、2007年10月より9回にわたって「兵庫県高齢者生協だより」に連載したものです。

なお、このときの原稿段階のものは、賀川記念館の研究所の「鳥飼慶陽の部屋」http://www.core100.net/lab/lab_torikai.htmlにも収められています。


         *                  *



2



3


4


5


「賀川先生の『大きな喜び』を受け継いでー賀川豊彦と神戸保育専門学院」(2006年、『愛による教育ー神戸保専35年の歩み』)

1


今回の小さな文章は、「社会福祉法人イエス団・神戸保育専門学院」が35年の歴史を刻んで学院を閉じるときに寄稿したものです。


六甲山の自然豊かな学院に、1980年代から週に一度だけ、非常勤の講師として訪れていました。学生たちとの学びも愉快でしたが、毎回1時間ぐらい早く学院に出向き、近くの広っぱでひとり、小鳥や草花と時を過ごしておりました。


2006年3月末で、何故か学院は閉じられてしまう事態となりましたが、未だに私には残念至極の思いが残っています。


このスキャンでは、判読は困難ですが、記録としてここに残しておきます。


なお、この関連の断章のいくつかは、既にこのブログで掲載済みの拙著『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』の第4章第2節に収めていますのでご笑覧ください。



              *          *



2



3



「部落問題の解決と賀川豊彦」(第9回・最終回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


長くなってしまいましたが、この論文は今回第9回目で最終回です。



            *                 *



           部落問題の解決と賀川豊彦(第9回・最終回)


      (前回の続き)


2


3


4


5


6


7


8


9




「部落問題の解決と賀川豊彦」(第8回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


今回も早速、つづきをUPいたします。



            *              *



            部落問題の解決と賀川豊彦(第8回)


                結びにかえて




2


3


4


5


6


7


8


9


「部落問題の解決と賀川豊彦」(第7回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


前回の続きを早速UPします。



             *             *




             部落問題の解決と賀川豊彦(第7回)


             第3節 賀川豊彦の部落問題認識


    (前回の続き)




2


3


4


5


6


7


8


9


「部落問題の解決と賀川豊彦」(第6回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


早速、前回の続きを掲載します。



             *            *



            部落問題の解決と賀川豊彦(第6回)


             第3節 賀川豊彦の部落問題認識


     (前回の続き)



2


3


4


5


6


7


8


9


「部落問題の解決と賀川豊彦」(第5回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


今回も早速、前回の続きをUPします。



              *        *




           部落問題の解決と賀川豊彦(第5回)



           第2節 賀川豊彦と「部落解放運動」(つづき)




2


3


4


5


6


7


8


9



「部落問題の解決と賀川豊彦」(第4回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


今回も早速、つづきを掲載します。


         
              *          *




            部落問題の解決と賀川豊彦(第4回)


           第2節 賀川豊彦と「部落解放運動」


     (前回のつづき)


2


3


4


5


6


7


8


9




「部落問題の解決と賀川豊彦」(第3回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


今回も早速、つづきを掲載いたします。



             *              *




             部落問題の解決と賀川豊彦(第3回)


       第1節 神戸の「被差別部落」と賀川豊彦


         (前回のつづき)



2


3


4


5


6


7


8


9





「部落問題の解決と賀川豊彦」(第2回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


早速、前回の続きをUPします。


                *       *




            部落問題の解決と賀川豊彦(第2回)


  第1節 神戸の「被差別部落」と賀川豊彦


    (前回の続き)


2


3


4


5


10


7


8


9


「部落問題の解決と賀川豊彦」(第1回)(2006年、『部落問題研究』177号)

1


今回からUPする論文は、2006年の『部落問題研究』177号に掲載されたものです。もともとこれは、2005年7月の明治学院大学白金校舎において開催された公開講座(明治学院大学キリスト教研究所と賀川豊彦学会共催)のための草稿で、『賀川豊彦学会論叢』第14号に掲載されました。それに補筆したものが本稿で、さらに『賀川豊彦の贈りものーいのち輝いて』の第2章に収めました。


              *       *



2


3


4


5


6


7


8


9


「賀川豊彦没後四〇余年ー21世紀を生きる・私的断片ノート」(第4回)(2004年、兵庫県人権啓発協会)

1


この稿、今回で最後です。早速UPいたします。


              *         *


2


3


4


5


6


7


8


9


10


11


プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。