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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第72回『賀川豊彦童話集:馬の天国』)

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上の写真は『賀川豊彦写真集KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第72回

 
 賀川豊彦童話集・馬の天国


     昭和8年9月15日 日曜世界社 152頁


 昭和8年に出版された本書『賀川豊彦童話集・馬の天国』は、昭和9年に再版され、第3版は昭和14年に出ています。そして私の手元にあるものは、昭和16年に出版された第4版のものです。

 ここでは、手元にある第4版の表紙と扉、そしてその「序」を収めます。


 そして戦後昭和26年にも本書は早川書房より再販されていて、この新しい「序」もここには取り出して置きます。

 そしてこの第4版の末尾には、追って紹介する昭和9年発行の賀川の宗教童話『爪先の落書』の広告が出ていますので、参考までにそれもスキャンして置きます。

 なお、この「馬の天国」のもとになった「西川」のおじさんの事は、前に「武内勝」所蔵資料のなかに、重要なドキュメントが残されていましたので、「賀川豊彦生誕100年オフィシャルサイト」の方ものぞいてみてください。



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                 童話『馬の天国』

                    


 このお噺は、わたしか、創作したものであります。西洋人の作つたお噺とちがつて、日本人として生きて行かなければならないお伽噺の世界があります。

 私は、毎年、年を加へますけれども、一生、お伽噺の世界から抜け出すことが出来ません。私は、いつまでも、お伽噺の世界に住んでゐます。それで、こんな書物を書いたのです。日本の子供たちに限らす、大人が、私の童話を読んでくれると、非常に幸ひだと思つてゐます。

  一九三三年八月廿五日
                                  賀 川 豊 彦

                                   武蔵野の森の中にて





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 この童話作品は、前記のように戦後になって昭和26年8月に早川書房より『馬の天国―賀川豊彦童話集』として、以下の新たな序文を書いて出版されています。

 賀川全集では、上の初版はカットされて、以下のものが序文として収められています。


                   馬の天国

                    


 私の宅に黒馬がいた。

 阿波の田舎で育った幼い時の私の日課は、毎朝草刈りで始まった。その馬は二歳の時に片限になった。義理の祖母は日の出前に私を起して、裏の田圃の畝道の両側にはえた萱や茅、げんげなどを「ふご」一杯に刈ることを命令した。私は満六歳に足らない時から、馬と心安くなった。

 黒馬が他に売れて行き、鹿毛の牝馬が厩にはいって来た。祭の日には、徳川時代から伝って来た金蒔絵の鞍をその倉庫から収り出してきて馬の上にのせ、番頭が、村の鎮守に曳いて行った。

 私は、馬を羨やんだ、馬は私より大きく、私より大事して貰い、金ぴかの鞍を背中にのせて出て行く。馬の方が、私より遥にえらいと思った。

 十七になって、私は三河の山奥の津具村の馬と親しくなった。此処では、馬に柴をつけると、人問がいなくてもひとりで家に帰ってくる。

 馬と人間のまじわりには、全く私の想像以上のものがあった。

 だが、私か、神戸の貧民窟に住むようになって、近くにいた馬蹄鉄屋の西川のおじさんは私に親切にしてくれた。私はその人に馬に乗る秘訣を教わった。そして馬を心の友人とすることを覚えた。

 「馬の天国」は、その親切な西川のおじさんが筆を取らせたと考えてくれてよい。狂人と、乞食とゴロッキの多い貧民窟の近くにも、馬と西川のおじさんは、浮世をはなれて私をすぐ天国に導いてくれる親切さがあった。馬と西川のおじさんのような大の親切があれば地上も、天国に遠くはない。

 私にとって、お伽噺の国は昨日の話ではない。年を取っても私は「おとぎ」の国にいる。馬と犬と烏と、親切な人間に会う度に、私はすぐおとぎの国に帰って行く。

   一九五一・六・二五             

                               賀 川 豊 彦
 
                                   東京・松沢



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第71回小説『東雲は瞬く』)

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これまでしばらくの間、このブログの冒頭に、昭和27年に刊行された横山春一氏の著作『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』の写真入り増補版のなかから写真をUPさせていただきましたが、今回からは、賀川豊彦記念の1988年に東京堂出版より記念出版された『賀川豊彦写真集』(KAGAWA TOYOHIKO』の中から掲載させていただくことにいたします。今回は、そのカバー表紙です。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第71回


  小説『東雲は瞬く

   
     昭和8年6月20日 実業之日本社 466頁


 今回の長編小説『東雲は瞬く』は、実業之日本社の発行する雑誌『主婦之友』の昭和5年8月から昭和6年7月まで連載された作品で、賀川がハンセン病問題の解決を願って書き上げたものです。

 本書も小説ながら賀川の「序」が入っていますので、表紙と共に取り出して置きます。

 なお、日本におけるハンセン病問題の解決は、長期にわたる強制隔離政策のもとで、際立った人権侵害を強いてきた歴史を刻んできており、その歴史的な批判的検証作業も進んできています。

 ここでは、この小説が『賀川豊彦全集』に収められた折りに書き止められていた武藤富男氏の「解説」の一部を資料として収めて置きます。



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                   東雲は瞬く

                     


 愛は人を復活させる。それが、どんな小さい愛であっでも、愛は流れ流れて多くの人を潤す。今日、私達はパンの飢餓や金銭の欠乏に泣くよりか、愛の飢饉の為めに泣いてゐるのである。然し、全能者は、地の涯に、まだ愛の泉を隠してゐられる。私がここに書き綴った物語はその愛の泉の記録である。

 日本はどれほど悩んでも、この愛の泉が枯渇しない間は悲観する必要はない。日本にはまだまだ残された仕事が多くある。そしてこれらの残された仕事には多くの入柱を必要としてゐる。その残された仕事の一つを中心としてどんなに不思議だ奇跡が起りつつあるか
を考えヘるときに、私は生きで行くことの不思議を考へずには居れぬ。

 私たちは、この不思議な生命に捧げて、日本の救の為に愛の泉を掘りつづけねばならぬ。

 幸いなことに、この小説に書いた聖い女にも勝って、聖く勇ましく働きつつある人々を私は幾人か知つてゐる。さうしたことが、払をして、この小説を書かしめた。私は彼等に感謝する。彼等に祝福あれ! また彼等の後継者よ、多く出で来い! 日本は、それらの人々にのみよつて、神の国に化することが出来るのである。

                              賀 川 豊 彦 
                                   武蔵野にて



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 次のものは『賀川豊彦全集ダイジェスト』293頁~294頁の武藤富男氏の解説です。
 昭和41年に発行されているもので、当時のハンセン病に関する認識の限界も認められる歴史的資料として、そのままここに掲載して置きます。


               『東雲は瞬く』について


              一 賀川の救癩運動と本書


 『東雲は瞬く』は救癩思想の普及を意図した大衆小説である(本全集第十七巻解説参照)から、先ず賀川と救癩運動との関係を述べよう。横出春一著賀川豊彦伝によれば「後藤安太郎などが、小林正金から癩病患者の話を聞いて、全生病院に慰問に行ったことから、癩問題に対する関心が高まった。そして大正十四年六月十目、日本MTL(ミッションーツー・レ―パーズ)の誕生となり、賀川のほか、小林正金、光田健輔、遊佐敏彦、斉藤惣一などの後援のもとに、後藤安太郎と鈴木恂が斡事として尽力した』とある。(同書二四六、二四七頁)これが日本救癩協会の前身である。

 当時の事情を今井よね女史は次のように語る――『大正十三年、賀川の渡米後、YMCA社会部の鈴木恂とイエスの友会の後藤安太郎、今井よね、清水廉等が村山全生病院に癩患者を見舞ったところ、病院長の光田健輔は、癩者を見舞い慰めてくれる人人が国民一般の中にいない時に、YMCAとイエスの友会の方々が訪れてくれたのは感謝に堪えないと大へん喜んでくれた。その結果光田と前記四名の者が集まって救癩の運動を起こすことになり、日本MTLが翌大正十四年に結成された。賀川が帰朝したのでこのことを報告すると、賀川は「イエスの友会は国民病撲滅のために力を致さねばならないが、国民病とは、結核とトラホームと花柳病とをいうのであり、そのほうに力を入れねばならぬのに、癩病のほうに乗り出しては力が分散する、僕は知らん」と言ったが、その後、次第に救癩にも関心をもつようになってきた。この時から一、二年たって、賀川は兵庫県明石にあつた癩病院楽生病院を助け始めた。ここに癩病の新薬を発明した人があり、これを試みると効果があるというので、賀川はこれに興味をもったが、光田健輔はこの薬は利かぬという意見であった。楽生病院には大野悦子という婦人かおり、この人が中心になって患者の面倒を見ていた。楽生病院は個人経営であり、後に経営困難に陥り、十数名の患者は長島愛生園に引取られて行った。楽生病院からは明石海人という癩患者の詩人があらわれた。』

 大正十五年七月には、賀川は眼病後の養生のため、草津鈴蘭園に転地、八月末まで滞在し、三上千代子女史のもとにあって、癩の研究をなし、湯の沢にある十三軒の癩病人宿を訪れて講演し、彼らを励ました。

 横山春一著賀川豊彦伝年表には昭和二年(一九二七)の部に次のように記されている。
 『五月 兵庫県明石癩病院楽生病院の経営を援く
  五月 上州草津鈴蘭村の三上女史後援会を起す』

 戦後日本MTLは目本救癩協会とも呼ばれ杉山健一郎を主事として救癩運動をつづけてきた。

 本書のヒロインは橋本明子であり、これは明石楽生病院において働いていた大野悦子をモデルとしたものであろう。明石楽生病院その他の病院は実名が使われており、明子をめぐって登場する人物のうちには賀川の作った架空の人物もいるし、またモデルとなった実在の人物もいる。光田健輔の如きは実在の人物をそのまま描いている。

 賀川はこの書によって、癩病が伝染病であって遺伝するものでないこと、国民は救癩につきもっと熱心にならねばならぬこと、キリスト精神は救癩事業において実践されていることなどを人々に知らせようとしている。






新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第70回小説『海豹の如く』)

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冒頭に継続して掲載させていただいた、私にとって高校生のときに手にとって読んだ大切な書物:横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年の写真満載の増刷版)は、今回が最後です。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第70回


   海豹の如く

      昭和8年5月10日 大日本雄弁会講談社 441頁


 先に小説『一粒の麦』を出版した大日本雄弁会講談社は、今度はこの海洋小説『海豹の如く』を出して読書界に一石を投じました。講談社の『雄弁』の昭和7年1月より昭和8年6月まで連載されたものですが、本書は戦後昭和22年に、読書展望社より改版されて読み継がれました。

 今回も、表紙と扉、高島三郎の絵、そして本書には、小説ですが賀川の「序」がありますので、それを取り出して置きます。加えてさらに、武藤富男氏の本書の「解説」の一部も参考までに『全集」のなかから引用して置きます。



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                   海豹の如く

                     

 海が我々を呼ぶ。黒潮が我々をさし招く。鰹と、鯨と、海豹が、豊葦原の子を差招く。おお、大陸か我々を見棄てても、陸地の二倍半も広い海洋が、我々を待つてゐる。日本男子は、波濤を恐れることを知らない筈だ。因幡の兎は、鰐の頭を踏んで、日本に飛んで来た。我々は、太平洋を鯨の牧場となし、日本海と支那海を鯛と鰊の養魚池としで考へる。

 我々の祖先は海から来た。然し、今の日本人は、その出生地を忘れようとしてゐる。漁民は嘆き、漁忖は廃れ、海を懼るる者が、日々数を増してゆく。彼等を救ふものは日本を救ふ。海は日本の城壁であり、海は日本の大路である。海を理解することなくして、日本の運命は打開出来ない。

 我々は、山を相続しなくとも、海を相続する使命を持つてゐる。それで、私は、日本の若き子等のために、海について自覚すべきことを、この書に書き綴った。日本の議会も、田園も、都会も、海の人に対して頗る冷淡である。殊に貧しき海の労働者に対して、日本国民が与へてゐる注意は、まことにささやかである。そのために、今最も悩んでゐる者は、日夜、波濤と闘ってゐる海の人々である。

 帽子を取って、彼等に最敬礼をなすべき処を、我々は、かへって彼等に、貧乏と、失業とをもって報いてゐる。然し、私は、海を忘れることが出来ない。黒潮は、私に、この書を書くことを命じた。

 太平洋は我々を招く。海豹の呼び声に、我々は呼応して、新日本の黎明を、海洋の真只中に仰がねばならぬ。日本の光栄ある海の歴史を、忘れる者は忘れよ。私は日本をして、永久に、海の寵児であらしめるために、謹んで、この書を海国日本に捧げる。
 
  一九三三年五月
                          賀 川 豊 彦



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 武藤富男氏の本書の解説の一部分を以下に(『全集ダイジェスト』283頁)


              『海豹の如く』について

                一、本書の特質

 農業協同組合、消費組合、医療組合等の理論、組織作り、運営に力を注いだ賀川は漁業協同組合にも深い関心をもっていた。彼は機会が到来すれは、地域的に、また全国的に漁業協同組合を組織して零細漁民の救済にあたろうとする企てをもっていたようである。こうした意図をいだきつつ、彼は瀬戸内海の漁業から始まって、日本の沿岸漁業を本州、四目、九州、北海道に至るまで、伝道のかたわら視察研究し、また近海漁業のみならず、遠洋漁業についても、調査研究を怠らなかった如くである。

 自分のもっている考え方や企画を一般に普及するには、論文をもってしては不十分であるから、大衆の興味をそそる小説を書き、多くの読者の心を捉えて運動にまで盛りあげようというのが、賀川の行き方であった。『一粒の麦』『乳と蜜の流るる郷』『幻の兵車』は立体農業と農村の協同組合化を、『柘榴の半片』は廃娼運動(売春禁止運動)を、『空中征服』は煤煙防止運動を狙ったものである。

 『海豹の如く』は、漁民に対し、沿岸漁業にのみ執着せず、広大な太平洋を漁場として進出せよとすすめたものであり、構想は雄大、表現は溌溂、筋の運びは変化に富む。

 しかし文学としては、『南風に競うもの』ほどに全体として調和がとれておらず、処処に不自然なところがある。例えば海軍中将の娘マリ子に関する描写や筋の運びなどである。そのかわり漁港や海洋の風物、瀬戸内海の景色、怒濤と船舶との闘争の場面等に至ると、その叙述は生き生きとし、目に見るように描き出されており、作家賀川の面目躍如たるものがある。

 更に驚くべきは、この小説において賀川が日本の漁港という漁港に一応ふれていることである。紀州の勝浦港、利根河口の銚子、岩手県の釜石、宮古、北海道の釧路、三浦半島の三崎、土佐の清水港、台湾の高雄、日向の油津というように、各処に小説の主人公を訪問させている。新潟港、静岡県の焼津港、富山県の伏木港については登場人物の話題の中でふれさせている。賀川は全国を伝道旅行しながら、これらの漁港を訪れて、漁業の状態を視察したり、関係者から話を聞いたりして知識をたくわえたものであろう。

 本書は昭和八年五月十日、東京の大日本雄弁会講談社から発行された。この年は貿川の著作活動のもっとも旺盛な年で、『東雲は瞬く』『馬の天国』『彷徨と巡礼』『農村社会票業』『立体農業の研究』等の外に、同種の訳本を書いている。賀川、四十五才のときである。





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第69回『彷徨と巡礼』)

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今回も上の写真は横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年版)より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第69回


     彷徨と巡礼


        昭和8年3月20日 春秋社 345頁


 春秋社より出版された本書『彷徨と巡礼』は、昭和4年からの日本基督教連盟による<神の国運動>の講師として国内外を巡礼した時の記録で、個人誌『雲の柱』にも連載されてきたものを纏めた、賀川ならではの詩と随筆でなるユニークな旅日記です。

 早速、鈴木信太郎の装幀になる表紙、そして扉と賀川の「序」、さらに本書には貴重な写真が入っていますので、それらをUPいたします。


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                    彷徨と巡礼

                      


 枕する所だになかった人の子の遺鉢を受けて、私もまた、彷徨の旅に上らねばたらなかった。

 日本を、南より北へ、東より西へ、候鳥のやうに飛び廻った四年牛は、私にとって考へ深い四年半であった。これほど長く、また廣く、私は、彷徨の旅を続けるとは思はなかった。然し今は、樺太も、台湾も、満洲も、中央山脈も、瀬戸内海も、有明湾も、私にとっては、自分の書斎の抽出しのやうに、明瞭に思ひ浮かべられるやうにたった。今日となっては日本が私の衣であるやうに考へられる。その縫目、その綻、その皺、その生地、その染め方、その破れ目、その裏表――これらのすべては、生きた地理學を學び得たことによって、私には、この東洋の東端に位する列島が、恰も私の筋肉の延長であるかの如くに考へられる。

 この四年半の間、私は、日本人種を研究することに熱中した。そして、地理學に書いてない、「顔の地理學」や、「霊魂の地理學」を學び得たことを嬉しく思ってゐる。

 好きでも嫌ひでも、私は日本の人間である。日本の弱点は、私の血のうちに通ひ、その美点も私の骨組に組立てられてゐる。私は、日本を贖ふ、十字架の血の運動を継続せねばならぬ。

 そのために、日本に約束せられた可能性の世界を、予見しなければならない。日本の山と日本の平野、日本の雨と、日本の雲、その海流と気流は、日本民族を、どの程度まで決定するか? 私はそれを、長き彷徨によって精しく知ることが出来た。そしてまた、私は、日本の土地に育つ日本民族に、新しい血が、その決定を破って如何に湧上りつつあるかといふことをも、つぶさに知ることが出来た。

 私は、楽天家でもなければ、悲観論者でもない。日本が善くなるか否かは、日本民族の霊魂生活の基準によって違って来る。無限を憧憬するものが多い間は、日本は向上しよう。無限を侮辱し、絶對者を忌避する者が多ければ、地獄が、ロを大きく拡げるであらう。

 鎌倉末期に、西行は彷徨の旅に出発し、足利の初期に、能登や越前に、瞑想の道を拓ひた禅僧達は、都をあとにして、出家の道を選んだ。日本は、彷徨するものにとっては、よい國である。北米を旅し、支那大陸を漂泊した者は、大陸の彷徨に較べて、日本の彷徨がどんなに楽しいものであるかを、思ひ起すことが出来る。日本の自然は、全く絵だ。資本主義とアスファルト文明がだんだん、自然の美しさを破壊することがあっても、それは廣い日本の山の奥には、届いてゐない。いや、海洋にもその手が屈いてゐない。まだまだ、自然を愛する者にとって、日本は、その懐を閉ぢようとはしてゐない。

 春の霞と夏の雨は、適度に醜いものを蔽ぴ隠し、人間の醜悪を、自然の不思議な力で修正してくれる。また、秋の空と冬の雪は、珍しく日本に輝きを増し加え、病み疲れた彷徨者の魂を慰めるに充分である。弘仁の昔、僧空海が、四國巡礼に出たのも、偶然ではなかったらう。四國八十八ヶ所を廻らなくとも、あの不思議な地質學の模型を拡げたやうな四國の山脈を、南から北へ縦断することは地球の歴史を探る者にとって、どれだけの光栄であるか知れない。私は、阿波の吉野川の流域に育ち、日本で一番美しい、コバルトの水が湛えられてゐる四國三郎の水で、眼を洗って大きくなった。あゝ、もし、私に、都市の貧しい人々の仕事がなければ、私は、かうした無機物を相手に、一生を送るであらうに――たとひ、さうした山中の彷徨が続くにしても、私にとって、地上の一生は光栄の一生であることを告白せねばならぬ。

 然し、日本の土や石に較べて、日本の動植物は嘆いてゐる。椎も、橡も、欅も、榧も、椋も、――かつてそのうるはしい梢と新緑によって、日本の山河を賑した温帯林は、今漸くその余命を山奥と官幣大社の森に繋ぐのみである。みんな平家の落人のやうに、逃げ場を山奥に求めて隠れてしまった。然し、なほ可哀さうなのは、その森に住んでゐた日本の諸動物と、その川と湖と海に住んでゐた魚類や山椒魚である。あゝ、私は、もう一度、神武天皇東征前の日を見たい。そこは、どんなに美しい森と、どんなに美しい川によって飾られたことであらうか。想像するだに幸幅である。もしも、かうした自然が蘇生してくれるなら、私は、醜い煙突文明を喜んで棄てる。

 然し、私の巡礼は、さうした森と、山と、岸辺を探すために出発したのではなかった。私は魂の殿堂に神を尋ねるために出発したのであった。全能者が匿し給ふた、バアルに跪かざる七千人の同志を求めるために、巡礼の旅に上ったのであった。楢の木が伐倒され、椎と橡とが姿を消すセメントコンクリートの時代に。全能者に憧るる霊を一つにすることは容易な業ではない。大衆の注意力は散慢になり、けたたましい都會の雑音に、カルヴァリの丘より呼ばれた愛の啓示の聲が、全く掻き消されてしまふ。それでも私は、安價な唯物論に満足しない、永遠の思慕者を、あちらの村里に、こちらの岸辺に、発見することが出来て、どんなに力強く思ったか知れない。アブラハム一人によって、イスラエル民族が生れ出たとすれば、山蔭に隠れた永遠の思慕者七千人によって、イスラエルの更生は可能である。そして、私は、日本にまだ多くの隠れたエリヤの友人のあることを発見して喜んでゐる。
 
 平安朝の末期法然は、瀬戸内海を旅して海賊に希望を輿へ、北越の雪の旅に、親鸞は歓異の世界の開拓に出発した。どうそ人生は、母胎より火葬場までの旅である。然し私は、この短い人生彷徨に、世界最大の神秘を味ふことによって、神への報告書を完全に認めることが出来ると思ってゐる。

 一九二八年から始まった私の彷徨は、一九三二年の十二月で第一期が済んだ。然し、恐らく私は死ぬまで、かうした彷徨に、身を委ねなければたらないのであらう。労働街から農村へ、農村から労働街へ。貧民窟から震災地へ、私は、定住する處もなく、月のうちに何日かは、薬瓶と一緒に旅行を続けることであらう。どうせ人生が時間の上の彷徨であるとすれば、その上に空間の彷徨を加へることも、悪くはなからう。

 冬の真夜中、停車場の待合室で、慓えながら神を瞑想する嬉しさも、聖堂に於て礼拝をする嬉しさと較べて嬉しさに変わりはない筈だ。善き牧羊者は、九十九の羊を檻に捨てておいて、迷ふた一匹の羊のために、山河の間を彷徨すると、キリストはいったではないか。草鞋も摺り切れよ。棘も足の裏に突き立て! ナザレのイエスの血を承けた私は、人に嗤はれても、一つの迷へる霊魂のために、山を越へ、野を越へ、谷を越えて彷徨しなければならぬ運命に、みづから委ねてゐるのだ。笑ふものは笑へ! 私はバアルに跪かざる隠れたる七千人の居所をつき止めるために、草叢の下に蹲る傷付いた小羊を尋ねために、なほ人生の彷徨を続けねばならない。

   一九三三年三月十日

                          賀 川 豊 彦



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第68回『農村社会事業:農村更生叢書2』

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上の写真は今回も横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年版)より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第68回


  農村社会事業<農村更生叢書2


       昭和8年1月25日 日本評論社 291頁


 日本評論社からの賀川の出版はどれだけあったのか確かめていませんが、同社の刊行する今回の<農村更生叢書>の第一期24巻は、次のもので、賀川のこれは第2巻として出版されています。



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ここでも本書『農村社会事業』の表紙裏表と扉、そして「序」を取り出します。



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                 農村社会事業


                   

 農村の窮乏を救ふ道はないか? 私がこの問題を考へてからもう十数年になる。最初神戸の貧民窟で、日本農民組合の組織運動を始めてから十一年になる。そして私はその間にいろんな苦い経験を嘗めつつ、初めから私の考へてゐたことが間違ってゐなかったことを
今も考へてゐる。

 然らば、その農村救済の根本精神は何であるか、曰く三つの愛である。土への愛、隣人への愛、神への愛である。然るに、近代人は土への愛を離れて、金銭への愛に走り、隣人への愛を離れて憎悪の福音を播く。なほ甚だしきは唯物主義が最後の勝利であり、生命の
神秘について何等顧慮することなく、武力と暴力のみによって農村改造が出来、人間の意識的自覚を持たずして、農村改造が出来ると思ってゐる人々さへあることである。

 私は、これら凡ての低迷の世界から切り放されて静かに日本の農村の淪落して行く壮態を眺め協同組合組繊による農村運動のほか村を救ふべき道のないことを考へてゐる。この協同組合は押し広めて社会事業にも適用することが出来る。社会事業は、今や慈善事業の領域から脱して、協同組合の基礎を持たなければならぬことになってゐる。私はかうした立場を農村に応用して、絶大なる効果のあることを見たものだから、その立場から新しき農村社会事業の行くべき道を書いた。

 この書は過去六年間、私達の小さい農民福音学校で、農村の青年達に聞いてもらった材料を基礎にして綴ったものである。この書を編輯するにあたり、吉本健子姉、鑓田研一氏などの多大の援助を受けたことを感謝する。吉本健子姉は私の述べたことを一々筆記せら
れ、鑓田研一氏はその文体を一々校正してくれられた。二氏の援助なくしてこの書は出来上らなかった。然しその他に各方面から材料を提供せられた人々に対しても心より感謝するものである。私はこの書が、日本の村々の多くの青年達に読まれ、農村更生の少しの御
用にでも立てば、それより以上幸ひなことはないと思ってゐる。

  一九三二・一二・二〇
                                    賀 川 豊 彦
                                       武蔵野にて


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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第67回『神に跪くーその日その日の祈』)

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今回も上の写真は、横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)所収のものです。



「賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第67回


    神に跪く―その日その日の祈


        昭和7年12月12日 日曜世界社 326頁


 手元にある本書『神に跪く―その日その日の祈』は、昭和10年に刊行されて再版です。日曜世界社では既にここで取り出した賀川豊彦の『神と歩む一日』を出版して、このときそれの「好評第5版」の広告が巻末に収められています。いずれも365日分の構成で仕上げられています。

早速ここでは、表紙・扉などと「序」並びに「例言」を収めて置きます。


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                   神に跪く

                    

 手にて造らざる大自然の神殿には、神の不思議な光が漂ふてゐる。凡ゆる物質は神殿の幔幕の模様である。私はこのうるはしい幔幕の模様をみつめながら、不可思議なる恩寵の聖座の前に脆く。

 歴史は間断なく進み、社会の動揺は、人間の喜憂を通じて流れてゆく。そのいたましい歴史の中にも、私は神の不思議な黙示を拝することが出来る。

 あゝ、そして私は、それよりも更に尊い黙示を、神の神聖なる救の記録である聖書の中に拝することが出来る。イスラエル民族の経験は、神が地球の一局部で為し続け給ふた一細事ではない。殊に、イエス・キリストを通して示し給ふた愛の記録は、人間の勝手な仕業ではない。人間の命が勝手に作り出したものでない如く、キリストの愛も、神の大きな黙示である。

 かうして、私は、大自然の聖殿に、歴史を通しての秘曲に、更にキリストの愛に疑ふべからざる神の約束を信じ、神に跪く瞬間が決して無効でない事を深く學び得た。病む日、悩む日、貧乏に苦しむ日、私は静かに神に跪くことをいつとはなしに教へられた。労働争議の激動の中に、小作争議の雄叫びを越えて、私は神に跪く瞬間を盗んだ。曙に、黄昏に、真夜中に、さらばまた真昼に、私は宇宙の創造者、私を放し給はざる天の慰め主に、ひそかに私語する秘密を學び得た。流れ行く激しき過労の生活にも、祈祷の思念は連続する。

 労働と祈りとは、私にとって二つではない。祈りつつ労作し、労作してはまた神を見上ける。祈りは私にとっては金城鐡壁の隠家であり、勝利の高殿である。その勝利の高殿が、低迷の罪の子等をさし招く。曙の空を揺がせて明日の祈りを報する鐘が鳴る。

 友よ、床を抜け出て神の前に跪かうではないか! 夕静かに薄れゆく夕陽を西にみつめる時、祈りの鐘が聞える。田園に、工場に、店頭に働く人々も鍬とハンマーと算盤を捨て、神の御前に脆くがよい。こみ上けてくる感激の泉は、貴き聖座の前に懺悔と感謝の祈りとなって注ぎ出される。病床に悩む日、獄房に泣く日、祈りの聖座には、神もまた御顔を向け給ふ。

 あゝ、物質の凡ゆるものが神の神秘として、私に跪座を勧める。私はあらゆる瞬間に、神の乳房に吸付く心持で、聖座に跳くことを無上の光栄と考へてゐる。祈りは、天の父に献けられる最上の燻香である。あがれよ、祈りの燻香よ! そして輝かしき宇宙の幔幕の蔭に、栄光のうるはしき香をたでるがよい。

   一九三二、一〇、二一

                                賀 川 豊 彦
                                    武蔵野の森蔭にて



                   例言


 この書は、過去約十余年間の私の祈りを、黒田四郎氏、吉本健子姉等が親切にも一々筆記して置かれたものを、二氏の手によって編輯せられたものである。それで殆んど凡てが公の機會に祈られたものである。わざわざ書いた祈りは、この中の数編しかない。愛する同志達が、キリストが教えられた通り無理のない祈りをこの上に加へられて、赤ん坊が、自由な気持で母に接近してゐるやうに、自由な気持で神に祈って頂きたい。

 私はこの祈り書物が前に出版した「神との對座」といふ祈りの書物にない新しいものばかりであることを喜んでゐる。

 この書が出版されるに当たって私は特にこれを筆記し、これを編輯せられた黒田四郎氏と吉本健子姉に感謝の意を表する。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第66回『宗教芸術にもとづく宗教教育』)

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今回も昭和27年刊行の横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第66回


   宗教芸術にもとづく宗教教育(中村獅雄と共著


    6分冊:昭和7年10月25日(1)~昭和9年2月10日(6) 

        基督教出版社 6分冊計 174頁


 手元にある『宗教芸術にもとづく宗教教育』は、標記の6分冊です。

 昭和8年2月3月号の『雲の柱』の「武蔵野より」には「芸術を通しての宗教教育は、中村獅雄君と共同作業で日曜学校協会から今発表している。あれも将来教材化したいと祈っている」と記し、同年6月号の同誌でも「・・私は、軽井沢で幼稚園の保母さんに、自然教案の講習をしたいと思っている。8,9年ほど前に「魂の彫刻」を書いたが、その各分科を具体化して、芸術教案を中村獅雄氏と二人で書き、今、私は、自然教案をひとりで作っているのである。出来れば、松沢幼稚園の傍に、子供博物館を造りたいと思っている。私は、子供に教える前に、自分が学びたいと思うことの方が多い。それで、野の雑草、道端の小石、林の木、昆虫、星などについていつも子供のようになって勉強している」などと記しています。

 なお、この6分冊の共著は、昭和9年7月には、日本日曜学校協会編纂として『宗教芸術にもとづく宗教教育<基督教宗教教育講座>』が出版されています。

ここでは、6分冊の(一)(二)の表紙をスキャンして、「序」はありませんので、冒頭の「第一章 宗教教育と宗教芸術の関係」のみを取り出して置きます。


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              宗教芸術にもとづく宗教教育


             第一章 宗教々育と宗教芸術の関係


 宗致は常に二方面を持ってゐる。即ち神より人間に向ふ方面と、人間より神に向ふ方面とである。私がここで考へたい問題は、神より人間に向ふ方面が、美を通してどんなに表れ、また人間より神に向ふ方面が、美とどんな関係があるかといふことである。

 十九世紀の疑惑時代にさへ、ノヴアリスやシラーのやうなローマンチストは、理性を超越した美の方面から宗教に入らうとした。これは紀元二世紀頃のノスチツク時代に於ても同じ傾向が見える。日本に於るスペンサーやダーヴヰンの時代に、高山樗牛や姉崎嘲風が美的宗教を高調したのも、同じ傾向であるといへる。美のみから宗教に入ることは如何にも弱いことである。あるものは美のほかに宗教が認識出来ないやうに考へるものさへある。それは大きな誤謬であって、我々はカントのやうに、理性そのものに悲観はしない。然しカントが有限の世界の理性にのみ頼らないで、感情と意志の世界に、宗教生活の基礎を置かうとしたことは、必ずしも間違ったことではない。

 人間が無限と自在性の実在に憧れて行くとき、それは一つの生命の欲求として、たとひ理性が、物質の彼岸に理想の世界をよく発見しない時でも、生命の内に秘められた感情と意志はたかく理性のいふことを聞かない。それは生命の方が理性より長い経験を持ってゐるためでもあり、またより内なるものを持ってゐるためでもある。人間が今日のやうな感情を持つやうになったのは、理性を持つやうになった年代に較べて、遥かに長い。それで感情のうちに我々は生命力のある根強いものを発見する。そして我々はこの生命のは唯単に抽象的な概念ではなく、生き且生き給ふ神である。

 そこで理性は時によって疑惑的になっても、生命が爆発してゐる感情の世界に於て、我々は神を否定することは出来ない。殊に美の世界に於て、我々は理性ではわからない紳秘な宇宙目的の世界にぶつかる。確かに神は、宇宙に意匠を持ち、目的を持ち給ふことを美の世界に於て啓示されるのである。

 つまり美の世界に於ては、神と人間とが、一つの穴を両方から覗いてゐるのである。神はここに於て宇宙の完全なる姿を人間に見せ給ひ、人間はこの点に於て、神の完全なる恩寵に浴ずることが出来るのである。

 かく簡単に片付けてしまへば何でもないやうだが、我々が今までいってきたことを五つに分解することが出来る。

 (一)美の世界を通しての神の認識
 (二)理性を超越した美的目的世界の認識
 (三)理性と融和したる神秘的美的生活実現の可能性
 (四)宗教感情の芸術的方面の必要
 (五)宗教々育を宗教芸術的基礎に置く必要


               美による神の認識


 無神論者唯物論者は、字宙に於る目的の世界を否定せんとする。然し、内部的生命が既に実在である以上、生命が持ってゐる美の世界を否定することは出来ない。物的世界に於て目的の実在が否定されても、宇宙が包含する生命の世界に於て、美といふ目的の世界を否定することが出来ない。雲に包まれた富士山が全部見えなくとも、雲の上に少し頂上が見えれば、富士全体の山の実在を否定することは出来ない。それと同様に、生命の世界に示現する美的感受の実在そのものが、宇宙の根本実在にとっては一つの頂点であると考へることが出来る。その完全な美しい姿に、我々は他の凡てが雲に蔽はれて見えなくとも、神の実在とその完全さを認識する事が出来るのである。


                美と意匠の世界


 我々は生命の世界に内在的美の感覚が伏在するのみならす、また客観的にも――物質の世界にも美的宇宙の存在することを否定することは出来ない。たしかに萬物の凡てが美しいのではない。然し、醜いと見えるものが、ある角度を変へて見た場合、またある場所に於て見た場合、ある時間に於て見た場合、非常に美しくなることを我々は屡々経験する。そして単に無意味な世界であると考へた場合に、美しさが包蔵されてゐることを知って、我々は、生命の世界に於て、美といふ頂点を通して神を認識するばかりでなく、物質的自然的世界の美の存在によって、宇宙に美が偏在してゐることを発見するのである。即ち我々は、生命の世界のほかにも、雲を通し霧を通し、美的意匠の輪廓を窺ふことが出来るのである。然し理屈で、なぜ花が美しいか、なぜ木の葉が美しいか、それは解らない。然し兎に角花も美しければ、葉も、茎も、鳥も、みな美しいのである。それで我々はヴェールを蔽はれた神の面影を拝することが出来るのである。


                神秘的美的生活の可能性


 その上に我々は、日常の人間生活に、芸術的神秘を通して、神秘的な人生を実現することを、今日では科學的に知るやうになった。色彩の科學、音響の科學、リズムの科學によって、我々は目的の世界と調和した宇宙を、人間の努力によって実現し得ることを學び得たのである。即ち美の世界は、静的であるばかりでなしに、動的であることを我々は知り得た。即ち我々は、美の世界を通して神を認識するばかりでなく、美を実現することによって、より深く神の紳秘の奥殿に入って行かねばならぬことを學ぶのである。


               宗教感情の芸術化の必要               ゛

 美が一つの可能性を持つ以上、我々は人生を芸術化し、その芸術化を、人生に於て最も本然的な宗教感情の上に現し、いつまでも神の不思議な意匠の世界から、自ら遠ざからないやうに努力しなければならぬことを學ぶのである。宗教生活がいつとはなしに美的になるのは全くこのためである。


            宗教芸術にもとづく宗教々育の可能性


 かうした宗教感情を美化し、芸術家する必要上、宗教々育と宗教芸術の教育が、同じ軌道の上にあることは決して不思議なことではない。宗致は人間から神へ向って進む時に、一つの価値運動の形式をとる。教育も價値運動なら芸術も價値運動である。たゞ芸術が情緒の美的教育を基礎にするに反して、教育は全体的である。即ち人格全般の発展を経済的に(最少のエネルギーを使って最大の効果を収めんと努力している)價値を実現する處に、教育が一つの人生芸術であることにも我々は気付かねばならぬ。

 かういふと、宗教々育そのものが、完全な一つの宗教芸術であるともいへる。其の宗教芸術は、人間そのものを神の子の美しさに入れることである。宗教々育もそれを目的にしてゐるのであるから、そこに宗教々育と宗教芸術の目的が一致する。もしも強いてその差を求ぬるなら、宗教芸術は宗教感情の中の芸術的情緒そのものを引張り出そうとする部分的なものであり、宗教々育はたゞ芸術的情緒のみに限らす、理性も意志をも、絶對者の啓示に触れしめようとしてゐる處に全般的な努力がある。


                宗教芸術の特異性


 宗教芸術は、単なる物的客観芸術をも含んでゐるが、生命そのものの情緒に関連することが多い。それで、詩、音楽、踊、劇曲、絵画、彫刻、建築、小説等の芸術の中でも、宗教芸術として最も発達したものは、詩であり音楽であり、舞踏である。それがキリスト教のやうな人格宗教に於ては、一層時間的芸術即ち、より心霊的な詩や音楽が発達し、佛教のやうに偶像を許容するものは、彫刻や絵画の方面にも著しい発達の跡とを見ることが出来る。これはギリシヤ宗教に於ても同様である。それで私はまづ宗教芸術の事実そのものをよく調べて、それがどんな形で宗教教育に提供し得るかを研究したいと思ふ。宗教芸術の世界に於て、世界に神の愛を教へたキリスト教芸術は、心霊の芸術としては世界無比、驚くべきものを我々に與へた。それを私は概観的に調べてみよう。



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第65回『神と苦難の克服』付録『尽きざる油壷』)

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今回も最初に横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)のなかの写真を掲載します。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第65回


    神と苦難の克服

       昭和7年10月21日 実業之日本社 362頁


 賀川豊彦が実業之日本社で著書を刊行したのは本書『神と苦難の克服』が最初です。昭和7年10月に初版ができていますが、手元のものは昭和12年4月の第10版です。

 ここでは、表紙と「序」、そして第1章の「苦杯を前にして」の冒頭「悲しい時はどうするか?」を取り出してみます。


 なお長くなりますが、ここで重要な『尽きざる油壷』の「序」を最後に収めます。



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                神と苦難の克服
 
                   

 熱帯の常夏は、人間を麻庫せしめる。私は赤道直下を旅行した時、衣食住に欠乏しない熱帯に住むより、寒温の差の激しい温帯に住みたいと思った。変化は喜の一つである。然し、その変化に、苦楽の落差があるとき、人々は驚嘆し、悲嘆する。然しこれもまた、大きな変化の交響楽であると思へば、我々の耐へ得る処には苦痛もまだ、一つの試錬の砥石と変る。

 ドイツの哲学者オイケンがいったやうに、人は苦痛の原理を知らないけれども、宗教によって苦痛を征服する力を持ってゐる、と理解することが出来たとすれば、我々は何の臆する処もなく、苦痛に向って挑戦し、苦痛を享楽することが出来るやうになる。十字架の真理はそこにある。

 苦痛の子として憂鬱の東洋に生れた私は、十字架の真理に、苦難を克服する秘訣を学び得た。神に生きるものには、自己のためまた人のためにも負はねばならぬ苦痛さへも、神秘なる戯曲の一節であつて、それによって私は、宇宙全休の不思議な摂理を疑ふことは出来ない。

 私は関東大震災以後、機会ある度毎に多くの日本の庶民階級の人々に、この真理について物語ってきた。今ここに、それを一纏めにして、行詰った農村に、都会に、家庭に、街頭に――苦難に打勝つべき宗数的真理を再考してもらふことにした。

 この書を読んで、なほ個人的に、煩問と苦痛を訴へられる方々は、喜んで相談にのりたいと私は思ってゐる。それで遠慮しないで手紙を送られるなら、少し遅れても必ず返事を書くつもりでゐる。

 今は日本の建直しの時である。臆病や逡巡は無用である。苦難を前にして怯まず、宇宙に溢れる霊気を渾身に覚えて、新しく精進すべき時である。朝日は昇る! いざ黎明とともに人生の門出に急がうではないか!

   一九三二・九・一八                        賀 川 豊 彦

                                      武蔵野にて



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                  神と苦難の克服

              
                  一 苦杯を前にして


                  悲しい時はどうするか

  悲しみの原因

 一年の中には春もあれば秋もあり、夏もあれば冬もある。一日の中には晴れもあれば曇りもある如く、人生には嬉しい事もあれば、悲しい事もある。苦しい事と悲しい事は人生につきものと云はねばならぬ。いつも嬉しいものならば問題はない。

 私は何故『悲しい時はどうするか』といふ題をとったか? 吾々は悲しい時はすぐに調子を失ってしまって、取りかへしのつかない様になってしまふ事が多いので、それらについて話してみようと思ふからであふ。

 では悲しい時にはどうすればよいか。
 第一に心理的に考へねばならぬ。若い者には悲しい事が多い。米国の心理学者スタンレーホール氏は青年達の内六割五分位の青年はいつも悲しんでゐる、その内でも女子より男子の方が多いと言って居る。これは私も経験する所である。その理由は、青年達は高い理
想を持ってゐるのに、現実は理想といつもかけはなれてゐるからである。

 第二には生活難である。境遇とか家庭の事情のために苦しむ者が多い。立派な処に勤めて居られる人々でも、境遇とか家庭の事情のために苦しむであらう。この悲しみも亦男子の方に多い。それは自殺者を見ればわかる。自殺者の中には若い青年が多い。此の比例は
男子が十人ならば女子は七人である。理想と現実とかあまりに距離があるために、辛抱が出来ないで自殺するのである。女子には忍耐があるけれども、男子は女子に比べて忍耐が少ない。これらの理由のために、「悲しい時はどうするか」といふ題を選んだわけである。

 或人は、悲しみがあまりに大きかったり、あるひは大きな悲しみに遭遇したりすると、『つまらないから一杯飲まう』などと、酒を飲んで、苦しい事、悲しい事をまぎらさうとする。それは実につまらないことである。私はさういった人々に対してお話したい。

 人口の多い町程自殺者が多い。八百万の人口を有してゐるニューヨークが世界中最も自殺者が多いのである。マンハッタンといふ所では、人口の増加する率の殆んど十倍自殺者が増してゐる。此の街は細長い岬のやうな処で、東に川が流れて居り、幅八丁、長さ二百
五十丁もある町である。人口二百五十万を有し、今住んでゐる以上は人が住めないのに、それを無理に住むものだから、高い高い塔のやうな建物を造る。近時では塔と塔との間に橋を造ってその中に住むといふ有様である。所謂蜘蛛の巣文明である。この蜘蛛の巣文明
のために、却って悲しみが多くなって来る。人口が増加するに連れて自殺者が多いのはその理由である。原因としては神経衰弱が一番多い。日本でも最近は年々一万五千人の自殺者がおり、その六割までは十五歳から三十歳までの青年である。この事実が私をして[悲
しい時はどうするか」を話させる理由でみる。
 ではどうすればよいか? 私は悲しい時にする工夫の結論をさきに述べる。

       時を待て

 悲しい時には次の二つの事をすればよい。
 第一には待つ事であり、第二には信ずる事である。待つといふのは時を待つ事である。「待てば海路の日和」と云ふ。まだ全部を見なければ意味を知る事の出来ない活動写真のフイルムの如く、人生に於ても全部を見なければ解らない。即ち待つ事が肝要である。毎日勤めて居る間には、時には上役の人から叱られる事があるであらう。その時には誰でも悲観するけれどご「あゝ、つまらない」などと悲観しないで、叱られたのは活動写真の第一巻の終りのやうなものだと思って、終りまで待つ事である。二巻目になれば、だんだんと出世する事は確である。かういふ気持で待つといふことである。一体、日本の青年は短気である。悲しいとすぐにつまらない気を起してしまふ。私は大勢の青年と共にくらしてゐるが、常に『待ちなさい、待ちなさい』と言ってゐる。読書にしても、五百頁も一千頁も
一度に読んでしまはうといふ気持でやるから失敗が多い。一頁一頁ゆっくり読まなくてはいけない。一度に読まうとするから失敗する。

 総ての植物にも動物にも発展の順序かある如く、総て出世には順序がある。それを開序といふ。朝顔の蔓でも急には伸びない。少しづつ竹のまにりをぐるぐまひをして延びて行く。かういったやうに順序をふまなければ延びないと同じで、我々は順序を踏まなければ失敗する。富士登山の場合でも、同じ事である。富士山は一万二千三百六十五尺、真直に登れば、三十丁しかない。然し真直に登れるものではない。斜面を利用しなくては登れない。私も前に富士登山をした事かある。四合目位までは道を踏まずにどんどん強力より先に登ることが出来たが、五合目頃から苦しくなる。強力は後から足駄をはいてゆっくり登って来る。だんだん上になるに従って強力の方が先に行ってしまって、自分だけ取り残されてしまふ。道を歩まなくては登れるものではない。「道」を歩く方が、結局「徳」だといふことになる。それを「道徳」といふ。

 人生に於ても順序を踏んで出世しなければならない。順序を踏まないで力自慢で行くと、失敗する。天才肌の者は一息にやらうとするから度々失敗する。力自慢で行くならば、花火のやうなもので、その響きは大きいが落ちるのもごく早い。種子を蒔いたものは、時
が来なければ、稔るものではないといふ事を知らねばならない。

       信仰の力

 第二には信ずる事である。信仰とは、人生に於る可能性を信ずることである。即ち、もう一度悲しいことを見直し、悲しみを通して新しいことが生れること、悲しみを通して反省すること、悲しみを通して人を助けること、その可能性を信ずることを信仰といふので
ある。これを考へる前に、吾々は、信ずる時の態度を考へる必要がある。吾々は悲しい時に自分達の立場を考へなければならない。貧乏して悲しいのか、病気のために悲しいのか、無学のために悲しいのか、或は叉ある力の不足のために悲しいのか、失敗のために悲しんでゐるのか、其立場を考へて悲しみの相場をつけなければならない。つまらない事で悲観してはいけない。人間は狭い所に住んでゐる。前にばかり目がついてゐるから、自分で自分の後方がわからない。自分の立場をよく考へ理解して、ある異なった角度から考へる事が必要である。大阪の三越呉服店を見る時も、堺筋から見るのと、高麗橋筋から見るのとは、角度が違ふから、その見る感じも異なってくる。これを称して価値の測定といふ。第一、貧乏を我々はどう考へるか? 吾々は貧乏を悲観する。どうして悲観するのだらう。金持だったら悲観しないのか? 金持だったら何をするか? 遊んでゐるのか? 遊んでどうする? 夏は水泳、冬はスキーに出かける。では遊んでゐるのが楽な事かと云へば、決してさうではない。苦しいのである。働いてゐる方が却って愉快なのである。

 人生は工夫である。好きなものならば労働でも何でも悲しい事はない。貧乏でも、好きで貧乏してゐるのは、いやいやに貧乏してゐるのとは感じが大いに違ふものである。生れた時は誰でも貧乏である。裸体で生れて裸体で死ぬ。金持でも金を持って死ねるわけでは
ない。金銭について悲しむ事は何を意味するか? 金だけを考へることは最も卑しむべき事である。金は社会公共の事業に使へばそれでよい。望んで貧乏した方がどの位よいかわからない。望んだ貧乏はずゐ分楽しいものである。それは心の工夫である。金持は嬉しいかといふにやはり悲しいものである。金だけが人生ではない、人生は別にある。心が愉快でない人、心に工夫のない人は、幾ら金があっても愉快に暮す事は出来ない。金があっても愉快でない人を金持貧乏といひ、貧乏してゐても愉快に暮す事の出来る人を、貿乏金持と云ふ。総ては気持次第である。即ち心の工夫である。心の工夫をしない人には、悲しみは絶対的であり、それから永久に救はれる事は出来ない。

 日本は今前例のないほど不景気である。多くの商店にも、不景気は随分影響してゐる。けれども、我々の一人一人が心の工夫をするならば、この難局は決して打破出来ないものではない。
 私の住所は神戸新川の長屋街におった。十軒づつ二列並んでゐる中の北側の東から四軒目であった。其処に十四年間住んだ。この長屋の生活は実に愉快であった。九尺二間で隣室を職工さんに貸してゐたが、その職工さんは三畳に六人住んでゐた。私の家では、王様
と家来が同じ人間である。『電報!』と来ても、寝てゐて手を伸ばせば、窓から受け取ることが出来る。配達入を御殿の給仕のつもりで受取るのである。この気持で居れば天下泰平である。隣家には芸者上りのおかみさんがゐた。なかなか親切な人で、私か寝てゐると、粥をたいて、『賀川さん、お粥をお上りなさい』と持ってくる。男爵住友吉左衛門氏の隣のおかみさんが粥をたいて『右左衛門さん、粥をお上りなさい』と持って行くだらうか? 近所同志が近くて親しめるのは、貧乏のお蔭である。私はそれを享楽する。維摩経に、かたつむりの家の中には干畳敷の広さがあるとある。物は思ひ様である。室内旅行といふものがある。部屋の四つの隅を、仮に、自分の旅行したいと思ふ所、例へば、別府、日光、軽井沢、箱根としておいて、隅から隅へ次々に歩いて廻るのである。その歩き廻る事によって、別府といふ隅に行けば、入浴の気分にもなり、軽井沢といふ隅に行けば、避暑といふ気分にもなることが出来る。これを室内旅行といふ。

       人生の見方

 京都に智恩院といふ寺がある。智恩院の庭は狭いけれど非常に有名である。私も行って見た。そして非常に落胆した。竹垣があって小松が五六本あるばかりである。何処が有名なのかわからない。ところが、案内者が、竹垣の向ふを見よと云ふから限のつけ所を変へ
て見ると、山の緑や、清水寺の五重の塔、杉の木立等が視界にはいる。それが非常に景色がよい。それで有名なのださうである。自分の庭は狭くとも、人の庭が広くて景色がよいから、それで有名であることがわかった。これが貧乏人の工夫の一つである。

 我々も、大きなデパートメントーストーアは俺のものだと思へば、人のものでも気持が好くなるに違ひない。持ってゐる、持ってゐないの考へ方をすてて『総てのもの我々に働きて益をなす』と思へば愉快になる。ある目的があって貧乏することは、悲しい事ではない。仕事があって貧乏する事は愉快である。目的があれば道が開かれる。だから貧乏に対して判然たる態度を取らねばならない。

 支那の西太后は非常に気のきい七人であった。御殿の部屋の飾を皆取りのけてしまってテーブルとばらの花とを置いてゐた。その質素な部尾の中に、綺麗なばらの花があると、それが非常に美しく見える。西太后はさういふ賢さを待った人であった。そこに気のつかない人々は何でも彼でも持ちたがる。吾々は目的をきめて質素にしなければならない。
 俳句は十七文字で総ての意味を現してゐる。私が曾て米国にゐた当時、米国人から東洋精神について尋ねられた事があった。その時私は俳句のやうなものだと答へた。俳句とは何だと訊くから、『古池や蛙飛び込む水の音』のやうに、十七シラブルで出来た歌だと云
った。然し勿論彼等には解る筈がないから、これを訳して言ったが、それでもわかる筈がない。然し我々日本人はその意味を通じて十分目的を知る事が出来る。

 人生の意味の発見出来ない人に金を持たしても、人生の意味を発見しないで死んでしまふであらう。貧乏なサラリーマンでも、意味がわかれば非常に豊かなのである。

 俳人一茶が前川侯に高禄をもって抱へられやうとした侍、『何のその百万石は笹の露』と歌った。その気持ちで人生を送れば、千万長者より豊であり愉快である。

 百万円持って、二百万円の仕事をして、百万円足りないで暮すよりも、五十円でも、一円をのこして四十九円で満足して暮す方がどれだけ豊であり愉快であるか解らない。

 哲人パウロは『足る事を知るは大いなる利なり』と云った。実に然りである。胃袋も同じことである。胃袋は最もデモクラシーである。誰の胃袋でも八分目位しか食ふ事は出来ない。百八十億円持ってゐる米国のロツクフェラーでもさう多く食ふ事は出来ない。食ふのは大抵みんな同し位である。

       病気は気から

 次は病気の問題である。健康者ほど病気を悲観する。日本では年年七万九千人が肺病で死ぬ。日本には現在八十万人の肺病患者がゐるが、病気が治らないと思ふと悲しい。然し治ると考へれば悲しくはない。病気は心で治るといふことを考へなければならない。肺病
になると治らないと悲観するものが多いのは誠に遺憾である。「死線を越えて」には私か肺病の保養中に言いたもので、肺病だからといって治らない事はない。現在私はその肺病が治った。病気以上に神経を病むから治らないのである。病気よりも神経を治す方が先決問
題である。雑誌「改造」の元編輯長横関愛造氏は安静主義を取って、病気の時は静かに床に寝て居たが、寝て居ると悲しい事が多いので、病気は神経より起るものであると思ひ、気分を治すに如くはなしと思ひついて、病床からはね起きて銀座を散歩した。それで病気
は快くなって、氏は今でも一日一度は銀座を散歩するさうである。我々の内にも病気のために苦しむ者があらうが、大部分は「気分」で病気にしてしまふのである。今までは薬を飲まねばならないとなって居たが、その外に自然療法が必要である。例へば、吹雪の夜でも窓を閉めないで寝る。身体だけは十分温めてゐるが、肺に入る空気は外の零下何度といふ空気を吸ふ。これを自然療法といふ。この療法で十中八九までは治る。私は日本の病院に入院して何所でも部屋に入らなかった。自然抵抗の意味に於て入らないので、飯の時だけ部屋にはいるやうにして居た。

 食物にしても同じ事である。肉は食へば食ふほど滋養になるけれども、肉ばかりでは、ためにならないのみならず、却って害があり、香物、野菜等の方が腹のために好いことがある。
 自分等の無学も亦同じ事である。決して無学を気に病んではいけない。電気を発明したのはトーマス・エヂソソ氏である。彼は尋常一年の時落第した。母は彼を家へ連れ帰り、駅の切符切りにした。駅の助役が化学の実験をしてゐるのをみて、彼は電気を発明するに至ったのである。彼は又蓄音器、フイルム等の発明、世界の大発明の内約八百種の発明をしてゐる。駅の一切符きりに過ぎなかった彼が、かくの如き大偉人となったのである。無学は決して悲しいものではない。「智」は世の中の如何なるものでも持ってゐる。順序立てて研究するならば、五年十年の後にはきっと一人前の人間として世に立つ事か出来るものである。トーマス・カーライルは『ある目的をきめて一日に五分づつ十年やれば、世界的偉人になることが出来る』と云ってゐる。何でもない事ではあるが、それを実行しないからいけないのである。信州諏訪の中学の先生が、太陽の黒点を毎日五分間づつ五年間続けて見た。世界の誰でも太陽を見ない人はないが、五分間づつ目的を以て見た人はない。その研究の結果を持って山本理学博士は汎太平洋学術会議に提出した。その結果これが世界的の研究とせられたのであった。又大阪道修町の薬屋の番頭大賀氏は、十年間ダソテについて研究した。その結果、ダンテについて彼程よく知ってゐるものはない様になった。トーマス・カ―ライルの言った言葉は実に然りである。それは、我々が一日に五分間づつ目的を以て考へるならば、如何なる事でも出来ないことはない事を裏書する。

失敗に対しては責任を負はなければならない。失敗してももう駄目だと悲観しないで、『望がある、自分に望がなくとも、天地の間には不思議な――何と云ふ名か知らないが――力があって、自分を聖め、力づけてくれるものがあるから、宇宙に自分の不足を償って貰はう』といふ信仰が出来さへすれば、失敗は大きな激励となる。私は信仰をもって悲しみを打破せよ、といふ。信仰がなければ多くの人はひるむものである。『自分以上の力が宇宙にある』といふ事を信じて進むならば、悲しみは喜びとなる。聖書に『悲しむ者は幸なり、その人は慰めを得べければなり』とある。

       悲哀の快感

 或は又父に別れ、妻子に死別して、悲観の結果自殺する者かおることをしばしば聞く。もしそのやうな悲しみに遭遇したならば、『人生は狭い自分だけではない、自分より広い大きなものが自分を引きあげてくれる』といふ信仰を発見しなければならない。

 死は悲しいものかもしれない。けれども、もし死後の事を悲観するならば、生れない前の事も悲観しなければならないわけである。元来吾々は天地万物の不思議な力によって五十年の生を与へられた。その僅な五十年の生はスクリーンと同じ事であるを思はねばならない。決して悲観するものではない。死は自然の法則である。
 鉄は熱してゐる中に鍛へ上げられる。悲観も錬鉄と同じことで、悲観あるが故に人は鍛へ上げられるものと考へなければならない。悲しい時でも、信仰といふ槌をもって居さへすれば、総ての悲しみ――無学、不景気、貧乏――も総てその人を鍛へ上げるものである。悲しみは一つの鉄槌である。その鉄槌によって自分が鍛へ上げられるものと思へば、悲しい時、淋しい時にもきっと打ち克つことが出来る。

 イエス・キリストの十字架とは、人の悲しみをも自分が引受けて進むという意味である。悲しみを引受けて、喜んで突進する意味である。或目的で他人の悲しみをひきうけることは悲しくはない。却って愉快なのである。我々が、悲しい芝居を見て、涙を流して泣いて
も、我々は愉快である。泣いてゐても『好い芝居だ』と嘆賞するであらう。何となれば、悲しむ目的を持って悲しい芝居を見に行ったからである。その涙は愉快な涙である。キリストは人の悲しみを目的の一つに選んだ。これを悲哀の快感といふ。即ち進んで悲しみに
入り、人の苦しみ悲しみを取る事がキリストの精神であった。

 この精神を互ひに持ち合ふならば、非常に愉快である。友人の悲しみ苦しみを引き受け合ひ、上の人は下の者のために尽し、下の者は上の人のために労を取り、互に悲しみを引き受け合ふならば、悲哀を通じて一つの霊となる。これが家に入れば一家和合となり、国
に入れば発展の原因となるのである。『悲しみに負けるな。非ししみを貫いて進め。ひるむな、突進せよ』かういふ元気と信仰を持って進みたいものである。





 付録


                   尽きざる油壷 

                     

 悲しむ者、女よ神のために苦しむ者にとって行詰りはない。

 さういったエリシャは、シュナムの貧しき予言者の妻に、油壷を借り集めることを命じた。そして、その借り集められた油壷の中に、ゆふべ、瓦器けの底に、僅か残された漁の数滴を注いだ。

 おお、湧く! 湧く! かり集められた空っぽの油壷の中で、口にまで溢れる美しい油が湧く。それは貧しい寡婦の驚きを越えて、愚にもつかぬ過去一切の労苦を反古にし、油が溢れる。

 そして、この貧しい寡婦にも等しい経験を、私は毎日毎月繰返してゐる。さうだ、シュナムの貧乏女の油壷の見るやうな経験を、私は過去数年来繰返した。それを恩寵といはうか、荒野のマナといはうか、人間の想像以上に、不思議に尽きざる生命の清水が、滾々として、深まった油壷の底に湧いてくるのを、私は見つけてゐる。それを疑ふ余地は、私には少しもない。

 エリシャに付き纏ふ神の力が、貪しき者への祈となって溢れ出づるやうに、飛行機文明の新しい時代にも、神への精進者には、不思議に油壷が付いてまわる。それはあり余った人の貸してくれる凡ての甕に溢れ満つる。

 私は見た、紫色に透きとほった、どろどろした橄欖油が、音を立てて茶褐の甕の底から盛上ってくるではないか。何といふかぐはしい匂ひだらう。白い泡が表面に浮上ってくる。何の仕掛もない、何の胡魔化しもないに、まがひもない純粋の油が、噴水のやうに溢れ出るではないか。

 私にとって凡ては神の油壷である。生命も、智慧も、愛の生活も 記憶力も、聯想も、凡てが借り集められた油壷に等しい。その借り物の器具に、神は私にと新しい油を盛って下さる。私の過去一切の負債も、私の怠惰も、私の魂の甕のかけらさへも無視して、神の油は溢れる。それは土の器であるけれども、恩寵に於て変りない。

 太陽は油を注がずして燃え出で、星は仕掛なくして万空に輝く。そして不思議な私の魂は、私の理解し得ざる不思議な奇蹟によって、不可解の謎の如く、私の顔を見つめる。一つの扉を開けば、なほ一つの扉が残り、その奥の扉をひらけば、また他の扉にぶつかる。ああ神の神秘は深い。生命の尽きざる油壷は無窮の神秘を包蔵して、永遠の戯曲を私の前に展開する。不滅の愛の織物は真の横糸によって綴られ、生命の彫像は、神妙な物質の衣を着せられて、無窮の恩寵に歓喜する。神への祈に、その日の経つのを忘れるのは、ひとりエリシャだけではない。千差万別の木の葉の美しさに魅入られた我々も、神秘なる神の恩寵に、地球そのものが大きな尽きざる油壷そのものであることを意識せざるを得ない。手品師が不思議な物を取り出す二重底の神秘より、丸いこの不思議な直径八干哩の地球と云ふ土器ほど不思議な見世物はない。

 すべてが、尽きざる油壷である。私のこの五尺の体、生ける土の器、それがまた一つの尽きざる油壷ではないか。滾々として尽きざる生命の水は、シュナムの油壷に比べて、より不思議でないことはない。ただもう私は茫然として、大能の父が天地の上に為し給ふ業を讃美して、闇に、白日に、神の前に跪座して、侭きざる油壷を凝視するほかはない。苦難も、迫害も、疾病も、死も、この尽きざる油壷の中の不思議なる油の上に漂ふ七色の色彩にしかすぎない。

 湧く! 湧く! 不思議なる生命の油壷は止まることなくして、恩寵の油を湧き溢れしめる。

  一九三一・一二・一

                                   賀 川 豊 彦

                                      武蔵野の森にて







新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第64回『コドモキリスト物語』)

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今回も続いて横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第64回


    コドモキリスト物語


     昭和7年7月25日 教文館出版部 89頁


 今回の小著『コドモキリスト物語』も前著と同じく教文館出版部より刊行されました。挿絵のたくさん入った子供向けの読み物で、賀川ならではの作品です。残念ながら、これも全集には入りませんでした。

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上は表紙ですが、「序」にあたる「ことば」が最初に記されていますので、先ずそれを取り出してみます。



                コドモキリスト物語

                  こ と ば

 幼いときから、キリストの弟子になることは、よいことです。わたしは十五の春、イエス・キリストにしたがふ決心をして暗い阿波の田舎で、ほんとにうれしい生涯を、おくるやうになりました。

 それまでは、野の百合の花や、空の鳥が、私と何のかんけいもないと思つてゐました。しかし、神様が空の鳥や、野の百合の花を、まもってくださることがわかつて、私の心は、初めてひらかれました。

 それで、私は今も日本の田舎の隅つこにゐる幼い子供に、神様とキリストをおしらせする、やさしい書物がかきたくてしかたがないのです。

 この本は、幼児を中心にしてキリストをみた、風変わりのキリスト傅です。

 不思議にキリストは子供がお好きでしたから、キリストと子供の開係だけを、しらべてゆけば、キリストの一生がわかります。

 この本は、その角度からみたキリストのお話です。そのつもりで、みなさんよんでください。

   一九三二年七月一六日
                                     賀 川 豊 彦 
                                      四國放浪の日の朝



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 では、続けて扉や幾つかの挿絵などを収めます。巻末には、賀川が当時発行していた『週刊:日曜クラブ』の案内も入っていますので、それも入れて置きます。


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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第63回『キリストに就いての瞑想』)

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今回も引き続き横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)所収の写真を収めます。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第63回


    キリストに就いての瞑想

       昭和7年6月30日 教文館出版部 200頁


 本書『キリストに就いての瞑想』は『神に就いての瞑想』(昭和5年)『十字架に就いての瞑想』(昭和6年)に続いて3作目になるもので、いずれも教文館出版部より刊行されました。今回も賀川の講演筆記で、吉田源治郎・黒田四郎・吉本健子各氏の手になるものです。

 早速、本書の表紙と序文、そして「著者より読者へ」を収めて置きます。



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                キリストに就ての瞑想

                    序

 黒土を破った青芽に、露がそそがれ、茎が伸び、花が綻び、そして結実の秋が来たやうに、人間の歴史に一つの結実が見せつけられた。それはほかでもない。ナザレの大工イエスに於て、宇宙の底にあった不思議な愛の霊力が、露に表面に出て来て、最も貴い人間の結実を示してくれたことである。

 それは、使徒パウロがいふやうに、人体に譬ふれば首ともいへよう。キリストは首である、歴史の完成である。彼に於て、宇宙を支配し給ふ神は、思ふままに大御心を表現し給ふた。この意味に於て、キリストは神の象であり、神の性質を持ってゐられた方だといひ得る。

 愛に於ひてのみ、無限と有限が、絶対と相対が、大きなものと小さきものが、王者と乞食が、霊と肉が、民族と民族が、階級と階級が――そして神と人間とが、合一し得る唯一の機会を与へられる。智者と愚者は、愛に於て、連結点を発見し、病人と看護婦は、愛に於て連り、善人と悪人が、愛に於てのみ一致点を発見する。

 かうして、イエスは、愛の化身者、愛の顕現者として、地球の一角を歩いた。彼の一生は短かった。彼が旅行せられた範囲内も、数百哩の狭い圏内に限られた。然し、彼に於て、愛は全意識の上に爆発し、その吸引力は、人間の壊れた魂を神にまで吸上げる力を持つてゐた。何といふ大きな愛であらう! その不思議な贖罪愛の意識が、神から出て来ることを誰が否定し得ようぞ! この厳粛な血の意識に、私は、生き給ふ神が、入類の迷ひと罪悪を憂ひて居られることを感ぜずには居られない。

 愛を信ずることは、迷信ではあり得ない。さうだ! 愛に於てのみ、新しき宇宙の創造性と、その世界の持続性と、たとひ失敗することがあっても、必ず補償し得る愛の可能性を我々は見出す。

 愛の意識は、愛の信仰であり、愛の信仰は、愛の行動を要求する。キリストに於て、まことに、信仰と実行は、二元的なものではなく、全く愛に於て撃がってゐた。我々もかくありたいものだ。

 ガリラヤの野辺に、ゲネサレの湖辺に、ヘルモンの雪峯に、さてはまた物いへぬ唖者に、捨てられた癩病人に、石打たれんとする娼婦に、爪弾きされたる収賄官吏の一群に、常にその翼を伸べ給ひしキリストよ、イエスよ、この非常時の日本に、あなたの手を伸べて、愛の飢饉に泣いてゐる日本の農民に、漁民に、都会の失業者に、九十万の肺病人に、百万の前科者に、今日も、新しきあなたの愛を湧き溢れしめて下さい。私等は、言葉の宗教に飽いてゐます。頂きたいのは、あなたの愛であり、愛の社会組織であり、愛の復活であります。

 然し、人は馬鹿にしても、背の高い茅の葉のかげに、白菊が咲き乱れる如く、日本の山里に、波の白く砕ける磯に、あなたの愛にほだされながら、こつこつやってゆく小さい群が、あちらこちらに出来ることが私にに陪しくてならないのです。このあなたの白菊の群を見棄でないで、勇敢な十字架の苦杯の人として、日本の非常時に、更に大きい十字架を荷ふに相応しい者とし見下さい。

 日本を救い得るものは、愛であり、十字架であり、逆風に怖れざる十字軍の戟士であることを私は意識します。果敢にも、エルサレムに頭を向け給ふたキリスト、我々にもまた、十字架より顔をそむけない新しき決意を与へて下さい。

  一九三二年六月十日
                               賀 川 豊 彦
                                 武蔵野の楡の蔭にて


                 著者より読者へ

 過去数年に亘って、私がキリストに就て瞑想したことを、同志吉田源治郎氏、黒田四郎氏、吉本健子氏が、筆記せられたものを一纒めにしました。ここに改めて三氏に感謝の意を示します。

 尚、わからない点があれば、いつでも御質問下さい。いつでもお答へいたします。宛名は、東京市外松澤村上北澤六〇三にお願ひします。その他、東京であれば、本所区東駒形四丁目キリスト教産業青年會、また大阪であれば、大阪市此花区四貫鳥セッルメント、兵庫県武庫郡瓦木村日本農民福音學校一麦寮、そして神戸市吾妻通五丁目イエス團等の宛名でも、私の手許に手紙が屈きますから、一番覚え易い處を記憶してゐて、遠慮なく質問をして下さい。いや質問のみでなく、キリストに属ける愛の実行を一緒にやりませう。この書物は、読んだ後直ちに、ほかの人に読んでもらふやう御努力下さい。

 この書物は「神に就ての瞑想」「十字架に就ての瞑想」と共に三部作として書いたものですから、他のものも参考に読んで下さると結構です。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第62回『子供の叱り方と叱らずに育てる工夫』)

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今回も横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』の中の写真です。

昨日は「グランドパレス徳島」で「鳴門市賀川豊彦記念館創立10周年記念会」が開催され、出かけてきました。(本日の別のブログ「番町出合いの家」で少しUPしました)




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第62回


  子供の叱り方と叱らずに育てる工夫

   
      昭和7年6月12日 日曜世界社 45頁


 本書『子供の叱り方と叱らずに育てる工夫』は45頁の小さな冊子です。私の手元にあるものは、これと同じ日に発行の奥付のある「奈良県禁酒連盟」の発行した「普及版」で「定価十銭」となっています。そして堀江敏が夫要二郎一周忌のおり特別に「序」を書いて、表紙絵を升崎外彦に依頼したことが記されています。

 これには、賀川の二つの講演――「子供を叱らずに育てる工夫」(1930年11月1日、高崎能樹25年記念会)と「子供を叱る工夫」(1926年3月6日、芦屋甲陽園母の会)――が収められています。本書には賀川の「序」はありませんので、少し長いものですが、最初の講演を取り出して置きます。こういう講演記録を現在の私たちが読むと、賀川の生きた時代を彷彿させ、優生学的独断などマジメに語られているところなども記録されていて、大切な資料でもあります。



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               子供を叱らずに育てる工夫

                  賀川豊彦


               親は子供のための技師

 私は小さい時によくおぱあさんに叱られた。叱られて辛かったので、どこの子供も叱られると辛いものだと思ってゐる。で、出来るだけ叱らずに育てたいと思ふ。子供が失策して後に叱ることは、親として恥かしい。人が叱ってゐるのを見ると、体裁が悪いものである。私は感情の経済から考へて、叱らなくとも済ませるものを叱らなければならないといふのは、感情を無駄に用ひすぎるからで、できるだけ叱らすに子供を育てたいと思ってゐる。あまり子供を叱ると厳格であり過ぎるためにいぢけてしまって、親の前でちりちりして、かへって反動がくる。

 アメリカは、禁酒法案が出来た結果、刺戟を要求する反動で煙草をのみ始めたのは今から五年程前である。貴婦人達が坐るとすぐ煙草の箱を配って廻る。禁酒法案が通過すると、一方に煙草をのみ始める。これが最近アメリカの女が煙草をすふ理由である。これと同じように、子供が叱られると、抑圧されてゐる気持をどこかに出さなければならない。で、子供は親に叱られたと同じことを友達などにいふものである。神戸の貧民窟の子供は「ど畜生」「ど狸」といふやうに親から叱られるので、同じことを友達にいってゐる。で、私は、子供は叱らすに伸びのび育てたいと思ふ。

 然し私は叱ることに賛成する。自分の子は放っとけといふなら間違ひであって、放っておくよりも叱って悪い處は直す様にしなければならぬ。然し、叱る母は叱らない母よりは段が下である。大体私は叱らすに育てなければならぬと思ふ。

 我々は存外教育ある家庭で叱らすに育てる事は自由教育になってしまふと考へてゐる。さういふ家に行くと襖障子に穴があいてゐたり、親が小さくなって、子供が成張ってゐるといふ状態である。さういふ教育をするのでなく、子供の自発的生育の順序にしたがひ、生理的、社会的、そして道徳的宗教的な教育をしなければならぬ。そのためには親は一技師として子供のために存在しなければならぬ。

               遺伝学上の注意

 子供を育てる時に、何よりさきに考へることは、一体子供の持つ性質は誰の性質かを考へてみることである。「この子は仕方のい子だね」といふ前に、まづ自分を考へてみなければならぬ。私の子の泣きじやくりや笑ひ方、或はめかしたい気持は、私の癖がみなそのままはいっている。だからさういう気持ちを持たないで、私は私で、子供は子供だと思ふことは間違ってゐる。であるから、遺傅的な素質を考へなければならぬ。既に結婚した人は仕方がないが、自分の娘などを嫁にやる時には。遺傅的調査なくして嫁にやってはならない。

 私は優生學的立場からいふのであるが、昔から喧しくいふ血系を考へなければ、子供の教育は絶對に出来ない。この頃は自由結婚を主張するものがあるが、その遺傅を調べなければ、親戚に発狂者がゐた場合に、自由結婚によって生れた子供は、まだ幼い時はいいが、廿歳位になると発狂する。これは発狂系統の遺傅である。或は不艮性の遺傅が入ってゐたりする。だから、親や祖父母を調べただけでは足りない。親の兄弟、従兄弟にどんな者がゐるかを調べなければ、自分の娘が子供を生んだ時に、従兄弟の性質が出てくるものである。であるから、結婚する時には血系を調べなければ取返しがつかないことになる。これは、子供を育てる時に大事な点である。

 東京の少年審判所の統計表を見ると、昭和三年に不良少年が、東京横浜から六千人きた。その中、低能のために不良化してゐるものが三割二分、性格異常者が三割五分、全然精神 病者が六八パーセントである。かういふことを知るなら低能は六、七割まで遺傅である。途中で脳膜炎を患ったりするものもあらうが大体は黴毒、アルコール、毒質遺傅からきてゐる。例へば婦人病で手術の時、もルヒネの注射をする。十年位経つとその毒気がぬけるが、その毒気がぬけないうちに妊娠すると、その毒が子供にきてゐる。また産児制限をしようと思って、薬物を使って、間違って姫娠した場合に、低能の子が生れる。であるから、我々は遺傅といふことを大事に考へる必要がある。恋愛開係が出来る時にも、盲目的恋愛をしてはならぬ。盲目的恋愛のために、黴毒や毒質の者と結婚すると、その生んだ子供のために、一生悩まなければならない。親はさういふことを知らすに、やたら子供を叱るのであるが、いくら叱っても駄目である。
                                 ’
 私が遺傅をやかましくいふのはその点であるが、医者は正直に、遺傅とはいってくれない。然し、流産する者には黴毒が半分まで占めてゐる。私の身内の者に流産したものがあるが、よく調べてみると、黴毒性があった。本人は知らないのであるが、医者と、その医者からきいた私だけが知ってゐる。流産の原因の五割まで黴毒である。黴毒の子は、発狂するか、白痴かである。だから放蕩した男と身体検査をしなければ結婚してはならぬ。もし結婚した場合には、一生親は泣かなければならぬ。千人赤ん坊が生れると、その中二人五分までは発狂筋に関係してゐる。それは黴毒と酒の原囚である。

 東京府下松澤病院には二千四百人の患者がゐるが、その中一千人位は酒に関係があるために発狂してゐる。であるから、主人が毎晩一合か二合づつ飲むのが習慣だからといって、主婦が晩的を勧める時には千人の中一人位はかういふ人間が生れることを決心して、お酌をしなければならぬ。千人の中一人だなんて、まるで籤引するやうなものだと思って飲む事を勧めてはならない。また五百人のうち十人位まで黴毒に関係がある。黴毒に開係があると、麻痺性の発狂者が出る。酒からくる発狂者と、黴毒からくる発狂者とは違ふ。黴毒からくるものは舌など半分麻庫するので、それを麻痺性痴呆といつてゐる。それが二十才前後から起ってくる。黴毒からくる痴呆は毎年六パーセントの割で日本には出てくる。であるから、日本の今日の事情から見るなら、厳格に廃酒廃娼蓮動をしなければ、いい日本を築くことが出来ない。日本が一番悩むのはこれである。そして日本の女は子供を産みつけられて泣いて暮らさなければならないのである、早発性痴呆などは、小さい時にわからないが、二十才より二十二、三才になると出てくるものであるから、母親はこのために悲しみの生活を送るのである。で、絶對に家庭内に黴毒を入れないやうに努力しなければならない。それは宗教的純潔運動の他に道はない。それをいい加減に、まあ禁酒廃娼運動もいいから、入っておこう位では駄目である。子供のために、お互いに注意しようといふことを相談しなければならぬ。

               生理學上の注意

 まづ第一に栄養について考へなければならぬ。落第する子が、何故落第するかといふに、その原因の殆ど六、七割までは栄養に関係かある。栄養と落第に関係があるとは思はれないが、実際は大いに闘係がある。春に子供の身体の身丈は大きくなり、夏にはちょっと止まり、秋にまた伸び、冬にとまる。植物と同じやうに春先に伸びて、肩揚げを二寸も伸ばしたものが、夏にはやゝ成長が減退し、秋になってまた少し伸びて、冬には伸びない。だから春に、寄生虫がゐたり、肋膜が悪かったり、発熱したりすると、その年の成績が悪くて、落第するやうなことになる。然し、それは母親が悪いので、母がよく注意してやらなければならぬ。例へば、朝、子供がぐすぐずいふ。母親が菓子を与える。すると甘いものをさきに食ぺたので、朝飯が食べられない。さういふ日が続くと、子供の顔が焦茶色になって斑点が出来る。そしてそういふ年に限って落第する。だから我々が叱らなければならない時でも、焦茶の顔になってゐる時は叱ってはならない。さういふ親は、親としての義務を果してゐないのだから怪しからぬ。親として落第である。

 然し栄養についてはそれでも考へられてゐる割に睡眠に注意されてゐない。母がご自分が活動写真を見たいものだから、子供を背負って活動写真を見に行く。それを文化生活と考へてゐるものがある。さういふ母親の子は、理科が出来ない、算術が悪い、物覚えが悪い、そして神経衰弱になる。これは六才頃までに気をつけなければ、一生駄目である。私がこういへば人は信じないかもしれない。私は神戸にゐた時、一萬一千人位も住んでゐる貧民窟の不良少年を取扱ってゐたが、その不良の原因は遺傅もあるが多くは睡眠不足からである。貧民窟では二畳の部屋に九人位寝てゐるが寝られない。中産階級の奥様に、睡眠の不足を知ってゐながら、つい無理をするために、子供がヒステリーになってキーキー泣くやうになる。泣くから叱りたくなって叱る、子供は泣くといふ具合で、両方ともに神経衰弱になる。

 一体睡眠は、晩の九時頃にとらなければ浅いものである。それを十二時頃までひっぱって寝かさないと眠りが不足になる。九時前に子供をねかすと、子供は朝五時頃になると目を醒まして喜んでゐる。もしも活動写真をみに行って、十一時頃まで寝ないでゐると、朝、目を醒ましてぐずぐずいふ。すると親は叱ってみたくなる。さうしてゐるうちに、子供の習慣に親が負けて、その習慣が一ヶ月位も続く。そして親は、子供に睡眠を充分とらせなかったことを忘れて叱る。さうぃふ場合はいくらでもある。また活動写真へ行かなくとも、都市の家の構造が悪いから、電車やラジオや、自動車の音のため熟睡できないから、都市の子供は神経衰弱になる。で、子供に睡眠を輿へない時は、親はどうしても叱らなければならなくなる。

 次に考へる事は運動の不足であるが、母が忙しくしてぬる間、子供は勝手なことをしてゐるものである。私の通ってゐたある眼科医の家に、四つになる女の子がゐたが、その教育ある母親が「この子は毎日ヒイヒイ泣いてばかりゐるのですが、どうしたら直るでせうか」と私に相談された。私は「あまり大事にし過ぎて家から出さないからで、外へ出したら一日で直りますよ」といった。母親はすぐ、その子を外へ連れて出たら、すぐ直ってしまった。これなどは、運動不足の結果、子供が神経衰弱になることを示してゐる。また温度の闘係、光線の不足、塵埃などが子供に影響する。温度の強い時は、気持が悪い。晩方に特別子供は淋しがるものである。一日の疲れが出る、友達がかへる、日が暮れる、すると子供は圧迫を感じて、さびしがつて機嫌が悪い。私はこれを黄昏病といってゐる。

                心理學上の注意

 まづ刺戟の強弱に就て注意するが、何といっても、大都會に於て子供を育てることは困難である。それは恰も、火事場で道具をとり出すやうなものである。やむを得ないことではあるが、つとめて郊外か農村かで育てるのが一番よい。大都會にゐるなら叱る事より外仕方がない。子供は親の刺戟では間に合はなくなってくる。街頭を活動のビラ撒きが通る、飴屋がどんちゃんどんちゃんやってくる。町に居れば次から次に刺戟があるから、母の刺戟だけでは足りなくなる。また貧民窟には淫買婦がゐる。子供はそれを真似て遊ぶといふ風である。

 マイケル・ゴールドの「金なきユダヤ人」を読むと貧民窟に三歳位まで育ってゐる子が淫買婦の行動を知ってゐると書いてある。さうなった子供はもう駄目である。大都會といふものがこの貧民窟から僅かしか進んでいない。大都会は貧民窟を拡大したものである。だから、大都會で子供を育てる人は余程注意をしなければ、それがやがて習慣になる。人間は二十四、五歳の時に習慣が止ってしまふものである。六歳までの習慣は一生を支配する。だから、小學校に入ってあとで、いくら喧しくいっても大して役に立たない。だから、學校に行けば、子供がよくなると思ふのは間違である。読本と算術はよくなるが、人間の習慣と良心生活は、最も成長の早い時に於て決定するものである。つまり子供の習性は発育の程度に比例する。だから、その間に運動の注意をしなければ、その手をぬいた處だけが駄目になる。後になって後悔しても駄目である。

 今は多収穫運動がさかんであるが、六歳までは苗時代である。學校は移植される田である。だから苗時代に注意したければ駄目である。ところが、母が大事な役目にゐることをしらないで、何もわからないといってゐるが、すると、子供の方でも何も判らない。

 一番強い教育をしてゐるものは母である。母は乳を飲ませ、本能的であるし、子供と同じ遺傅性を持ってぬるから六歳までの子供が家にゐるなら、母は犠牲にたらなければならぬ。母が犠牲になるといふことのない社会は駄目である。私は社会運動をする人間だし、農民組合運動もし、労働組合も作る人間であるが、母がしっかりしてこない處は、社会運動もしっかりしない。結婚も自由、離婚も自由、子どもは國有にして、母は若き燕と飛んでしまふ。すると、それは民族として大きな堕落である。

 東京の芝に鴨を二十五年間養ってゐる人がある。雌の鴨が雛を抱いて水に泳ぐ、雌鳥がゐると雛が水のなかに沈むことがあってもごの中につけてみると、雌の親が居た時には沈没しても浮き上ってくるものが、鶏に抱かして沈ますと入ったきり浮いてこない。結局はそれは雌鴨の主として心理的な強い力を持ってゐることでわかる。で、子供を育てるのに、託児所や乳児場に子供を預けても、母のついてゐる乳児と、母のつかないものとは違ふ。母が側にゐると沈没しても浮いてくるものである。だから、私は子供の教養に就て考へるのに栄養は國有に出来るが、子供の教育は國有にできない。母が専門につかなければならぬと思ってゐる。それ位母の本能がその子に入ってゐるものである。

               見童の好き嫌ひ

 児童の好き嫌ひでは六才までにきまるものである。病気した時などに、その習慣がついてしまふ。西洋に育てばパンとバタがうまく、日本に生れて育ったものはこうこがうまい。乳離れした時に、母が子供のロの中につっこむと、それが好きになるものである。だから子供の習慣は、母親が大部分決定する。であるから母が注意しないと、子供は台なしになる。子供が赤や青の色のついたお菓子のお土産を貰ふと、色つきの赤や青の菓子が好きになる。すると、子供は、その毒々しい外の甘い菓子が好きになる。そして味覚が麻輝してしまふ。味は初め苦いものを食べてそれから酸いもの、次に辛いもの、最後に甘いもの、といふやうに順序があるものであるが、初めから甘いものを食べると、味覚を麻輝してしまってあとのものは食べられない。だから子供におやつをやる時は、午後三時にやってしまひ、味覚の回復した時に飯を食べさすやうにする。私が自分の子供に對して、一生懸命苦心してゐるにも拘らす、客は赤い青い菓子を食べさせるやうにするのである。そして赤や青の甘い菓子が残ってゐる間、子供の味覚は麻蝉してゐる。

 かういふことは一例であるが、我々の習性に開係がある。十二三才位の子供は生意気である。十七才位の頃は不良少年になる率が一ばん多い。日本は十四才位が悪かったのであるが、この頃の日本は西洋並になった。その時に母が手をゆるめると駄目である。不良少年になる一番悪い原因は、母が子供を放ったらかして、子供を単独に残してゐることが間違ってゐる。であるから、近所の母親が五人くらいになって、一人が玩具の研究を専門にやり、一人は栄養をうけ持ち、一人は習慣をみるといふやうになるといいが、個人主義的良妻賢母時代は、今は流行らない。何人かゞ組んで共同的にやる時代である。すなわち、複合性良妻賢母にならなけれぱならぬ。理想的の良妻賢母といふのはないものである。だから三人よれば文珠の智慧で、五人なら五人が持ちよってすれば、一人で出来ない事が出来る。然しあまり多数になっても失敗する。

 子供は親や友人の模倣をし、街頭より模倣を受けろものであるが、悪い模倣はどうしたら直せるか? また子供には競争性がある。競争性は四才から十二、三才位までに出てくる。余程注意してよい方に導かなけれぽ、その時に乱暴になる傾向があったり言葉遣いが荒くなる。その時に注意していってきかせなければならぬ。それも人の前でいはず、一人の母にいってきかせなけれぱならぬ。双児は八十人に一回づつ生れる割になってゐるが、母は大抵一人づつ子供を生む。だから叱らなければならない時にも一人のときを選ぶやうにしなければならぬ。子供を抱いてそのI人にいひきかせると、子供はすぐにやめてしまふものである。叱るにも時が必要である。午前九時と午後の四時頃は、子供の脳髄が一番はっきりした時であるから、午前九時には子供の注意力がしっかりして、午後四時には記憶がしっかりしてゐるものである。だから朝寝坊する母親や、午後四時頃に買物にゆく母親は、于供を育てる資格がたい。だから子供を叱るには、これを覚えてゐなければならぬ。

                社会的環境に就て

 社会的環境について考へて見やう。私は十一才頃まで叱られてばかりゐた。沖野岩三郎氏は少しも叱られなかったといふが、私は、さう悪いことをしたと思はれないのに、よく叱られた。私の義理のお祖母さんは、噛付くやうに私を叱ってゐた。沖野氏は、和歌山県の山奥に育って、四才の時に始めて隣に行ったといふ。そして沖野氏のおぢいさんは、沖野氏がすきで、一度も叱らなかったといふ。また大自然に居れば叱る必要もない。大都曾にゐるから叱らなければならなくなる。然し、森にゐると叱らないですむ。村に行けば、小石があり、ぱったが飛んで居り、水の流れがあるから、大自然の懐で、おのづからいい習性が出来て、荘厳なる感じで、子供が堕落せすに済む。私は十五年間、貧民窟の子供を見てゐた闘係で、私は自分の子を森で育てる工夫をしてゐる。折角教育運動に熱心な人が森のことがわからすに郊外に引越す人があるが、郊外に行く位なら、森の近く、畑の近くに住み、一反歩位耕すやうにしたいものである。だから村の教育をするなれば、子供は叱らずに育てられるし、子供も叱られないで愉快に遊ぶことが出来る。

 都市児童の不幸は、落着の與えられないこと、精神統一の失はれることであるから、自然的環境に子供を置けば、玩具も要らす、落着も回復され、大自然の探求によって、変化の美、成長の美を発見することが出来る。だから子供を叱らすに育てる工夫は田園都市の気持でやる事である。

            叱らずに育てる心理的工夫

 叱らすに育てるには、秘訣が五つある。第一、変化による工夫である。家にある時は外に出させ、外にある時は家に呼び入れ、部屋が暗ければ明るくするとか、明るければ電気を消すとか、変化性を與えること、第二は、隔離法で、街上の誘惑から隔離することである。これを社会的に応用したのが刑務所である。刑務所の大きな使命は隔離にある。だから子供にも同じやうな方法を用ひる。他の子供と喧嘩している時は、叱る必要はない。「坊やちょつといらつしやい、散歩に行きませう」といへば止めてくる。これをしたのが孟子の母であった。孟母の道は変化性と隔離性を二つ利用したのである。第三は心理的適合性による工夫である。子供に好きなことをさせること、話の好きな子供には話をするとか、絵をかくことの好きな子供には絵を描かせるとか、散歩の好きな子供には散歩させるとかすること、第四はすかす工夫である。すかす工夫は注意の転換である。注意の転換には心理的法則が要るから、子供を注意しないときは、すかせられない。だから注意を転換する時に泣きつかれてゐては駄目である。泣きつかれた時は心理的工夫では遅いから、変化性を與えるやうにする。前にもいったことであるが、黄昏病の起こる頃は子供はさびしいのであるから叱ってはならない。腹は減る、一日の疲れは出るといふ時に決して叱ってはならぬ。

 疲労と叱ることは並行するものであるから、叱る時にはだからよく注意しなければならぬ。第五は、子供に作業を命することであるが、これが一番大事でむつかしい。例へぱ、子供が、隣の子を泣かした場合に「ちょっと坊や、豆腐を買ってきて下さい」といふと、子供は喜んで「はい」と答へる。松澤病院にはこの作業治療法といふのがあって、軽い気狂の病人には何か仕事をさせると、作業によって病気を治すことが出来る。何もさせないで置くと、かへって煩悶ばかりするから箱を貼らせるとか、竹細工をさせるとかする。すなわちある目的を與えると治るものである。我々も家庭が不満の時にはぢっとしてゐると、気持がいらいらして煩悶するが、気の毒な人を助けるとか、病気の人を見舞ふとか、何か人の為にしてゐるうちに治ってくる。そのうちに主人の機嫌も直ってくるといふやうに、子供にもちょっと何かさせ「水を吸んで下さい」と仕事をいひつけると他の事を忘れてしまふ。であるから、子供の記憶、推理、判断を一つの作業に集中せしめ、他の仕事を忘却せしめること、使ひに出すこと、親の仕事の手伝いをさせる事は、叱らすにすませることになる。

 然し、すかす時に注意しなければならないことは、うそをつかぬごと、例へば「巡査がくるよ」とか「鬼が出る」とか「閻魔さんが舌を抜くよ」、「お父さんに叱られるよ」といふやうな嘘をいふと、親の信用を落すことになる。或は威嚇せぬこと、恐怖心を與えぬこと、親が親切でないと感じさせることなどは下手なすかし方である。
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 従って叱らすにすませる親の態度を研究しなければならぬ。それにはまづ落付いて、(一)親の短気を直すこと、(二)親の無智を恥かしく思ふこと、(三)親が修養すること、(四)親が子供になること、(五)親が真実の子供の友になること、(六)親は親らしくする事、(七)親は神の子の資格を有することが大切である。親の親切を示さないで、たゞ叱りとばすことは悪い。親は子供に関する研究會などにも出席する必要がある。動物に芸を教える場合に、食物を與えて教えるのであるが、子供に對しても、食べ物を與え、着物を與え、親切にすると子供は親のいふ通りついてくるものである。親は子供の犠牲になって、第一に自分をたてず、子供を第一に立て、活動を見る時にも、子供と一緒にみ、散歩に出るときも子供と一緒に行くといふやうにしなければ、母が勝手に活動に行って、自分だけいい着物を着てゐると、母のいふことを子供はきかない。であるから、親がまづ宗教的になり、大自然に接近し、親が、神の気持になって、子供を愛し、敬し、育てなければならぬ。

      道のべに流るる清水ながめつつ
                きよむる力忍ぶ黒石。

      岩木山沈む夕日の影うけて
                林檎畑は紫に染む。

                                     (1頁~16頁)







新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第61回『神と永遠への思慕』)

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今回も昭和27年に刊行された横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第61回


        神と永遠への思慕

      
       昭和6年10月10日 新生社 190頁


 本書『神と永遠への思慕』を出版した「新生社」は、賀川豊彦とどのような関わりがあったのかはわかりませんが、「新生社」は、この歳の暮れには『尽きざる油壷』を出版しています。

 この『尽きざる油壷』はあいにく手元にありませんが、吉田源治郎・黒田四郎・今井よね・吉本健子・深田種嗣によって賀川の講演筆記がなされて出来た作品で、賀川全集にもはいりました。

 ところで、本書『神と永遠への思慕』も「著者より読者へ」の頁には、「この書は、私の最近の宗教思想をまとめたもの」で「これを筆記してくださったの方は吉田源治郎氏、黒田四郎氏及び吉本健子姉である」ことを記して謝意を述べています。


 今回は、本書の表紙と「序」に加えて、特に本文の中から、賀川豊彦の「なぜ私が愛の宗教・キリストの信仰にはいったかを告白」した箇所(19頁~23頁)を取り出して置きます。同様の告白は、何度も何度も話して書き残しているものですが、何度読んでも印象深いものでもありますので・・・・。


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                神と永遠への思慕

                   序

 多数の人々は、大通を行く。砂塵が舞ひ起る。路傍で物乞ひしてゐた盲目のバルテマイは、時ならぬ人混みに、道ゆくものにきいてみた。それは葬式か、婚礼か、大名の行列か、将軍様のお通りか? そして知れたことは、ナザレのイエスが自分の前を通って行くとい
ふことであった。

 そのナザレのイエスなら、今の時を外してはまた会ふ機会はあるまい。長年困ってゐた限病を彼に治してもらふのは、今この時だ。さう考へた乞食のバルテマイは、群衆の過去ったあと、大声をあげて努鳴りつづけた。『ダビデの子イエスよ、我を憐みたまへ。我を憐みたまへ』 弟子はそれを止めた。しかし機会は一度しかなかった。それで、彼はその機会を失ふことを欲しなかった。彼はなほも続けて叫んだ。その声が、イエスの耳に入ったと見えて、彼は足を止められた。

 『何の用ですか?』イェスはきき質された。
 『主よ、光が見たいんです』
 『さうですか、信仰の通りになりますよ』

 さうしてイエスは、この盲者に光を回復し給ふた。

 『光が見たい、光が見たい! 宇宙の奥底まで光が見たい。なぜ、動物と植物と違った形で、宇宙の生物が伸びて行くか? なぜ、生物は数十万種類に分れて、進化の道を辿らねばならぬか? 人類の運命はどうなるか? この痛ましい人間の闇路を、どう切開いて行けばいいか? 光が見たい、光が』

 私は、エリコ街道の盲目のバルテマイである。光を見たいのは、千九百年前の乞食だけではない。私も、永久の光の乞食をして、イエスに光を回復してほしい。そして恐らく私の光に対する慾望は、永久に止まることはないだらう。あゝ光が見たい、光が見たい。
真夜中に、真昼に、黄昏に、夜明に、光がみたい。まばゆい太陽の光線の奥に秘められた不思議な真理について、光が見たい。あゝ光、光! 私は永久の光が見たい。私は、貧しくとも、神についての光を見究め得るなら、これで死んでもよい。恐らく人間は、富むことより光を見ることの方を望むだらう。

 ソロモソ大王が、神より祈の許可が出た時、彼は、富も権力も希望しなかった。彼は、智慧を与へ給へ、と神に祈った。そして私の祈も同じことである。私は、神と永遠についての光を毎日祈ってゐる。

 私は、大陽も月も不要な光の世界に住みたい。私は、鉱物に近づけば、鉱物の真理を悟り、植物に近づけば、植物の腹に徹する光を欲しい。更に、動物の愛と生存競争につき、人類の煩問と、社会の改造と、宇宙の運命について光が欲しい。私は永久の求道者である。そしてありがたいことには、光線体の如く、イエスは真理を体現して、歴史の上を闊歩せられた。私達は、彼を見ることによって、宇宙実在者の姿がわかったやうな気がする。即ち宇宙の本質に愛かあるといふ、愛の真理か、彼によって、よく徹底した。

 宇宙は光で出来てゐるのだ。物理学者はさう教へてくれる。それを我々がゆがんだ眼で見てゐるために、光として見えないのだ。それにしても、宇宙の構造は、深くさぐりを入れれは入れるほど、我我を不思議な世界に導く。それはもう精神といふ言葉で現すことさ
へ、言葉が足りない。私はただ、光で出来た社会が、艶消しをして、いろいろな形に現はれてゐることを、虹の世界以上に不思議に思ふ。私は、大自然の不可思議に驚倒して、ただ、神が私に何を語り給ふかを静座して待つ。私はしづかに神の黙示に瞳を据える。神は物質と見えるスクリーンの上に、いろいろな不思議なる現象を私達のために現し給ふ。そして、私それ白身も、またこのスクリーンの上に躍らねばならぬ役目を持ってゐる。不思議、不思議! 私はただ、大能者の前に跪座して、その後光を拝するのみである。

                               賀 川 豊 彦

                            (一九三一・六・二四 武蔵野の森にて)



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             第二章 神と永遠への思慕

(前略)
 此処で、何故、私か愛の宗教キリストの信仰に人つたかを告白しなげればならない。

       私の懺悔

 私の父は阿波の人間だった。私が何故、宗教もあらうに西洋から来た宗教を信じたか? 併しも早や、私の宗教は西洋の宗教ではない。私の宗教である。私の家は阿波の板野郡の十九箇村の大庄屋たった。父の正妻には子がなかった。私は妾の予て、私の母は芸者だった。私は妾から貰はれて来て、父の正妻の予になった。戸籍の表面はきれいで私は公民権を持ってゐるが、私は小さい時から日蔭者として育った。私は母の事を聞かされると胸の中が膿付いた。私は義理の母から、お前の母は芸者だとよくいはれた。
  
 人間は不思議なもので、自分の予供に、自分の長所も短所も現れてゐるものである。不思議に人間は子ども、孫、曾孫の系統に対し、魂のトンネルを掘つてゐるものである。自分の魂と子の魂に聯絡がある。私は母の系図を知らない。私はさういふ家庭に育ったから、
純潔に就ては特別に感じた。私には、父の放落と母の芸者だったことが遺伝してゐるだらう。だから自分もその道に行くだらうと思つてゐた。

 十一歳の時、禅宗の寺に毎日通はされて、論語と孟子の教を聞かされた。そして聖人になれ君子になれと教へられた。が、私の血の中には君子の血筋はない。之等の書物は実に厭な感じを私に与へた。家は淋しいし、蔵の中には文化文政吽代の淫本が沢山ある。さういふ家庭にあつて、神聖なる教育をうけなかった私に、論語と孟子の教は役に立たなかった。これは駄目だと思った。

 私の兄は十六の時から妾狂ひを始めた。兄は数人の妾を持った多淫な生活をしてゐた。私は中学へ行くのに芸者の家から通った。兄は放蕩だし、私も芸者の家から学校へ行つてゐた位だから、私もまた沈没するだらうと思つてゐた。芸者の家には仏壇もあり、神棚もあって、朝々塩をまき、盆には美しく飾るが、さういふことは別に魂に閃係がなかった。

 私の魂はいつも泣いてゐた。孔子は何千年か前に出たが、私に関係がないと思ってゐた。その時に聖書が私の手に入った。『凡て労する者、重荷を負ふ者われに来れ、われ汝らを休ません』(マタイ一一・二八)とか『健かなる者は医者を要せず、ただ病める者これを要す』(マタイ九・一二)とか記されてゐた。私は医者の救を要求してゐた。キリストは罪人の医者だった。神の力をもって魂の中に傷ついた者を癒してくれた。「女を見て心の中に色情を起すものは姦通したのと同じだ」と聖書に書かれてゐた。自分も罪人だ、どうしたら、けがれざる者になれるかと考へた。日本の学校生活はどうしたらきよめ得るか、今も私はそれを考へてゐる。

       遺伝の幽霊

 私に英語を勉強することを勧めた兄は、耶蘇牧だけにはなるなよと注意してくれた。そして兄はとうとう芸者を家に入れた。イブセンの「幽霊」といふドラマを読むと、父が妻を棄てて女中と一緒になった。息子もさういふ道をたどって、罪悪が幽霊のやうになって呪ってゐることが書いてあるが、私も、罪悪の幽霊が私を悩ましてゐる、いつになったら私は救はれるかと思ってゐた。

 ところが、キリストの宗教は、何と高く、また低いことだらう。私は聖書を読んで、さうだ、野の百合のやうに天真爛漫にかへらなければならないと思った。私を生かしてくれてゐる生命の神を私は信じ、百合の花を生かし給ふ神を私は信じようと決心した。

 それから毎晩、私は床の中に這入ってお祈をした。『私にきよい生活を送らして下さい、父や兄貴の道を踏まないやうにさして下さい。どうか日本を娼妓のない国にして下さい』と祈った。

 今でも、その時蒲団の中でこっそり祈った祈を、私は忘れてゐない。そしてこの祈が私の一生を支配してゐる。日本の多くの青年に、これと同し煩悶があるのを私は知ってゐる。聖書に出てゐるこの純潔さを忘れて、何の人間であるか! 私はこの宗教を一時だって忘れることは出来ない。私がキリスト教になったといへば家を追ひ出されるから、私は黙っで蒲団の中でお祈を続けた。

 明治三十七年一月三十日に、私は西洋人の先生の処にキリスト教の本を借りに行った。その先生は『賀川さん、あなた、神があると思ひますか?』ときいた。『はい、あると思ひます』『祈ってゐますか?』『祈ってゐます』『何処で祈ってゐますか?』『蒲団の中で祈ってゐます』『ではあなたはキリストを信じてゐるんですね?』『はい信じてゐます』『では洗礼を受けませんか?』『洗礼を受けると家を追出されます』『卑怯ですね』『卑怯? それなら私は洗礼を受けます』それから私は洗礼を受けた。

 父も祖父も歴代放蕩であった私の家は、四代の間妾の子が家を継いだが、私の代になって初めて消えたのである。これはキリスト・イエスの力である。無限の神を地上に引下して、神のやうに地上を歩いたけがれないイエス・キリストの血により守られたのである。
                                      (20頁~23頁)




新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第60回『柘榴の半片ー付録「黄昏の道」「軽業師」』)

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今回も続いて横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第60回

  小説『柘榴の半片(ざくろのかたわれ)』

  付録『黄昏の道』『軽業師

       昭和6年8月25日 教文館出版部 174頁


 小説『柘榴の半片』は「神の国新聞」の昭和5年1月から3月まで連載された廃娼運動に関わる社会小説で、付録に入った小編二つは、いずれも講談社の雑誌『キング』に掲載されたものでした。

 『柘榴の半片』には、賀川の描いた挿画が9枚あるので、ここでは表紙・扉と共にそれをスキャンして置きます。


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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第59回『現代日本文学全集59『賀川豊彦集』)

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昭和27年に出版された写真入りの増補版『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(横山春一著)より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第59回


         現代日本文学全集59『賀川豊彦集

          昭和6年6月15日 改造社 551頁


 改造社は、先に取り出した<世界大衆文学全集第33巻>としてジョージ・エリオット著『ロモラ』の賀川豊彦この翻訳本を世に出した後、およそ2年ぶりに、今度は<現代日本文学全集第39巻>として『賀川豊彦集』を刊行しました。

 この『賀川豊彦集』には、賀川の超ベストセラーとなった『死線を越えて』の三部作を手がけた改造社の刊行物でもあることから、ここでははじめて三部作の全てを1冊に収めて出版しています。(賀川没後に刊行された『賀川豊彦全集』の第14巻にも三部作がまとめて収められ、昭和50年にもキリスト新聞社より『死線を越えて(全一巻)』として上梓されました)

 杉浦非水装幀の<現代日本文学全集>は廉価なこともあって当時読書界を賑わしたようで、箱入りのものだったようですが、手元のものは箱はありません。

 ここでは扉と賀川の写真、目次と賀川の筆跡となる「序詞」、並びに巻末の「年譜」をスキャンして置きます。

 昭和6年6月の時点での「年譜」は特に興味深いものですが、この「年譜」をつくった人は誰なのか記載はありません。

 なお、本書の「序詞」は有名で、徳島市の眉山山頂近くに建てられている賀川豊彦の文学碑にも刻まれています。折々わたしもこの「序詞」に注目して、これまで文章にもしてきました。


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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第58回『十字架に就いての瞑想』)

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上の写真は今回も横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年写真増補版)の中からの掲載です。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第58回


             字架に就いての瞑想

        昭和6年6月10日 教文館出版部 196頁


 1年前(昭和5年)に『神に就いての瞑想』を教文館出版部から出版した賀川は、続いてここに『十字架に就いての瞑想』を、いつものように講演筆記者の協力を得て刊行し、このときは何と初版2万部という大量印刷で、「10銭」の本を普及させました。手元のものは昭和7年1月の再版ですが、再販も2万部と記されています。

 今回も早速、本書の表紙に続いて、「序文」とそれに続く「著者より読者へ」も取り出して置きます。


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                十字架に就ての瞑想


                    


 私は見た、カルバリーの丘に、十字架を負ひつつ登ってゆく人の子のやつれ衰えた姿を。彼は十字架の重みに沈み切って遂に道の上に倒れた。その日の光景を見るために、道を急がせたルフの父シモンが、兵卒の命令で十字架をかつぐお手伝いをさせられた。田舎者のルフの父は、びっくりした顔をして、人の子の十字架を、ぶっぶっいひながら荷ふてゆく。

 イエスも亦十字架の分担を我々に要求してゐるのだ。三年の悪戦苦闘に、そして幾日か続いた徹夜の祈に、その上受難週の最後の目標の晩の、徹夜の責苦に頑強な労働者としてのイエスも、もう十字架をになふてゆく体力を残してゐなかった。

 彼は人を救ふて自らを救ひ得ない運命の道に、自らを導いた。彼は文字通り聖き受難の大道を歩むことを決心し、天父の大愛に生きるために、宗教に名をがる支配階級の搾取施設と、正面衝突することを辞せなかった。彼はその子羊を贖ふために、狼にくはれることをさへ、辞さなかった。彼ば無限の聖愛に生かるために、喜んで自分を十字架の上に捨てた。

 赤ん坊が成長して、花嫁になるまでに順序があるやうに、人類の成長にも歴史的階級がある。土に蒔かれた種は、茎をのばし、穂を出し、そして蕾が開いて、花が受精するやうに、人間の歴史に一つの大きなみのりの時があった。エデンの花園から追はれた夢の子等が、曙に目醒めて神の恩寵と贖いの愛に、全意識を霊に盛り得だのは、キリストに於て最初の実を発見する。彼は誠に神の独児であるといひ得る。

 噫人類の冬枯に、大愛の春が帰って来た。私達はイエスに於て、宇宙の大愛の結実を見る。イエスは人間として、宇宙の全体意識に目醒めた最初の人であり、罪人にすら責任を感じた最初の人間であった。花がみのって叉冬が来るやうに、イエスの胸に愛の花が咲いてから、叉人類の冬枯れが度々めぐって来た。そして未だにイエスのような愛を根本として、宇宙の花を咲かせてくれる集団は地上に現れない。

 おおそのために、私の胸はうづく。不甲斐ない人類生活と、見下げ果てた霊魂の弱さに、ただ私達はキリストを振りかへって見て今日の自己の姿に飽き飽きする。かうした気持でパウロも古き自分をキリストと共に十字架に曝したく思ったのであらう。かうして我々は、自分を一先十字架にかけて、自分を殺し、この後自分のためでなく、人のために死んでゆく宇宙の愛に目醒めたいものである。

 生命の世界は、水遠につきざる愛の世界である。愛と犠牲なくして、この驚くべき生命の殿堂は維持することが出来ない。それは昆虫の世界に於ても鳥類の世界に於ても、哺乳動物のうちにも変らない一つの法則である。然し科学者の指ざす世界は本能愛の世界である。キリストに於て我々は、本能より脱皮して、最初の自由なる贖罪愛が、人間として目醒めたことを発見する。この領域に於てのみ、神聖な社会は創造せられる。社会革命も、独裁政治もこの本能愛を脱皮した十字架意識に比して、影にもひとしいナンセンスとして、取扱はれる。十宇架愛の意識は、人類歴史にとつては霊の内部創造である。人類の此の意識に目醍めない前に、社会革命は絶対に不可能である。蛹になることを躊躇するものは蝶々になることは出来ない。十字架の道を通過せずして、社会創造は絶対に不可能である。然しこの道は人間の小細工て出来た道ではない。生命の噴火にほとぱしり出た血湖の軌道のそれである。生命本能を貰いて、天に迄伸びあがる最も勇しい愛の芸術である。それは最大の愛の冒険であり、宇宙がかつて見た最高の芸術である。これなくして地球の歴史は、虚無にも等しい。キリスト愛の運動は、十字架の一言にてつきる。十字架はキリストの凡てであり、愛の凡てである。十字架に於いて、神はその胸底に秘めた、愛の神秘を人間に物語ってくれた。血みどろの十字架を守ることを恐るものは、キリスト愛を知らざるものである。神の認識を倫理学で認識するのは、ギリシャ人まかせておけばよい。神の愛の認識は血みどろの十字架によってのみ認識せられる。愛なきものに、神の愛がわからう理由がない。人を愛せずして、象牙の塔にのみたてこもる偽非学者を書斎の中に捨てをけ。我等はキリストの脇腹より滴る十字架の血を浴みて、更に今日の愛の戦いを継続しなければならない。

 友よ、君の愛の砦は充分築れたか? 癩病院に肺病院に、身を殺して人に奉什する十字架の相続け充分出来たか? 台湾の蛮界に、オホツク海の氷磐に、十字架の進路は決定せられたか? 泣くな友よ! その十字架なくして勝利はない。人にピストルを擬する前に先づ自づ自己の霊を狙撃せよ。世界歴史を十字架の歴史たらしめよ。社会の上層建築が如何やうに変らうとも、十字架なくしで人類の高挙は不可能である。十字架よ、追撃せよ。人の罵倒と脅迫にひるまず、十字架をになふて進め、ビアドロロサの悲しき道に、パタリパタリ滴たるその血しほのうちに、やがて人類が更生すべき歴史はかかれるであらう。私はその血潮の聖痕をたどつて、よろめく足どりを前に進めよう。おお、今日も私の血潮はその聖痕の継承のために流れ出なければならぬ。

  一九三一・五・二五              
                                賀 川 豊 彦

                                 樺太豊原の旅の宿にて



                著者より読者へ


 この書は一九三〇年より三一年の春まで、日本各地で講演したものを同志吉本健子姉と黒田四郎氏の手によって筆記せられたものを、編輯したものであります。ここに改めて二氏に感謝します。何分にも忙しくて北海道樺太の旅行中に校正した為め、行屈かない点があらうけれども他日それを訂正したいと思ってゐます。

 此書を読んで質問のある方は、遠慮なく私宛にお送り下さい。私の住所は東京府荏原郡松澤村上北澤六〇三、東京市本所区東駒形町四丁目キリスト教産業青年會、大阪市此花区四貫島大通三丁目四貫島セツルメント、神戸市吾妻通五丁目四番地神戸イエス團、兵庫県武庫郡瓦木村字高木日本農民福音學校の五ケ所、何所でも結構です。もよりのおぼえやすい所へ書いて下さい。必ず返事を書きます。


新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第57回小説『一粒の麦』)

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今回も続いて横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第57回

   
              小説『一粒の麦


         昭和6年2月1日 大日本雄弁会講談社 374頁


 小説『死線を越えて』3部作の後、昭和3年に『南風に競ふもの』を小説として完成させた賀川は、ここにさらに小説『一粒の麦』で人々の心を掴みました。

 版元は、大正15年に『賀川豊彦大講演集』を出版した大日本雄弁会講談社です。

 本書に関する「解説」は、武藤富男氏のものがあるので、それを今回ここには取り出して置きます。

 本書は戦後早く(昭和22年)、読書展望社より再刊されていますが、先ず手元にある原書とその扉、そして昭和28年に社会思想研究会出版部の発行する現代教養文庫の表紙と扉にある賀川の写真、並びに同社刊行の教養文庫の「新版」、そして2007年に本書を再販する会の出した『一粒の麦』をUPいたします。

 なお、現代教養文庫には木村毅氏の「解題」が入り、教養文庫には尾崎秀樹氏の「解説」が、最新の再販には日野原重明氏の「序文」が収められています。



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       武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』276頁~280頁

             『一粒の麦』について 

               一、声価と梗概

 小説『一粒の麦』は雑誌『雄弁』の昭和四年十一月号から昭和五年十二号に至るまで、十四回にわたって連戦されたもので、当時『雄弁』は三万部の発行部数をもち、主として目本の青年層に読者をもっていた。この小説の評判がよいため『雄弁』の発行元である講談社はこれを単行本として昭和六年二月一日附で出版した。初版の発行部数は、講談社に問合せても不明であるが、版を重ねて売上部数が八万六千部に達したことは、同社の記録に示されている。

 このことは『一粒の麦』が当時の青年男女にどんなに深い感激をもたらし、一般社会にどんなに広く道徳的宗教的感化を与えたかを証明している。

 そこで先ずこの小説の梗概を述べた後、文学としての評価、作者の意図、元デルとなっている人物などについて語ろう。

 豊橋の材木屋に勤めていた十九歳の嘉害は色町の誘惑に落ちて、店の売掛代金五円を着服する。それが苦になって彼は店を飛出し、豊川の上流にある上津具の生家に帰る。彼の生家にはアルコール中毒の父と、心やさしく勤勉な母と、せむしの弟と一人の妹とがいる。一番上の姉は名古屋に芸者に売られ、次の姉は朝鮮へ娼妓に売られ、兄は岐阜の傘屋に丁稚(でっち)にやられていた。

 嘉古が帰ってくると問もなく、父は中気になり、せむしの弟は踏台から落ちて立てなくなる。生家の苦境を見て嘉古は近所の水車小屋に勤めて、一家の生計を助けることになった。

 或る目、彼は水車小屋に犬九匹と猿一匹をつれた猿まわしの男が泊まっているのを見出し、これと知合いになる。また隣家の鍛冶屋のおかみさんの親切によって、ここに働くことになり、このおかみさんに誘われて下津具に伝道所を開いている村野与吉先生の集会に出るようになる。

 正月になって嘉言は山の仙人と呼ばれる猿まわしについて信州に近い町や村をまわった。門づけをする仙人の後にいて太鼓をたたく役を承ったのである。この仙人から彼は立体農業による日本の開発と食糧政策について話を聞き、山と農業とに興味をもつようになる。

 村野先生の集会に出て、嘉言は初めてさんびかをきき、聖書について話をきき、天地の唯一の神について知るようになる。

 春になって嘉古は、母の父の三年忌に列するために、母の里、蒲郡の伯父の家を訪れることになる。彼は鍛冶屋の主人から賃金五円を前借りして、蒲郡へ行く。そこへ行った翌日、彼は豊橋に向かい、横領した五円を主家に返し、良心の苛責を免れる。

 蒲郡の伯父は船大工である。嘉吉は法事に列した後、蒲郡名物の帆走会見物に連れて行かれる。伯父の操る帆船はこのレースで一等になったか、敗れた他の町の若者たちが殴りこみをかけてきたため、喧嘩となり、流血の惨事が起ころうとした時、嘉吉は中に割って入り、擢で頭を打たれたが、ひるまず「けんくゎをよせ」と叫び、そのため騒ぎを食いとめることができた。

 負傷した嘉吉は村の英雄のように扱われ伯父の家で静養する。その間に、女工の芳江と知合いになる。傷が治って津具の家に帰った嘉古は芳江からしばしば手紙をもらう。

 嘉吉の兄佐助は岐阜の不良少年団の仲間に入り、検挙されて入牢する。名古屋にいた姉は遊廓を逃げ出し家に帰ってくる。保釈になった佐助はルパーシカを着て家に帰ってくる。姉の恋人という男も家に入りこむ。佐助とこの男とは共産主義者を気取り酒を飲み、姉は懶惰な生活をして一家を困らせる。

 嘉吉は村野先生の感化を受けてキリストの愛を実践するようになり、村はずれの木賃宿の納屋に寝ている癩病人とその子とを見舞い、傷の手当や糞便の世話までしてやる。

 やがて彼の姉も家を去り、姉の恋人も兄の佐助も家を去り、嘉古と母は、厄介者から解放される。しかし佐助は警官を殺して起訴され未決監に入れられる。苦難の中にあって嘉古は次第にキリストの贖罪愛の信仰に入って行き、迫害のうちにあって村における禁酒運動を開始し、癩病人とその子のめんどうを見つづける。朝鮮に娼妓に売られている姉は死に、父の中風は悪化する。間もなく徴兵検査があり、嘉言は甲種合格となって、翌年の入営が予定される。

 この頃になって蒲郡で知合った女工の芳江は嘉吉のもとに熱烈な恋文をませる。嘉古は豊橋の未決監にいる兄に面会に行く途中、蒲郡によって芳江に会う。芳江は結婚前に嘉吉の家に行って手伝い、彼の入営中一家のめんどうを見ようと申し出る。嘉吉は芳江を『神様が与えて下さった天使』としてこの申し出を受け入れる。

 嘉吉の下座奉仕が、名古屋の新聞に報道されたため、彼は一時は村の誉め者になるが、間もなく村の背徳分子の策謀により地方新聞に中傷記事を書かれる。しかし山林を広く所有する水車の父さんは、嘉吉の人物を見込んで山林を任せるから、これを開発して立体農業をやれとすすめる。山の仙人の話に感動していた嘉古は、村野先生はじめ村の道徳的勢力を結集して協同組合組織を作りこの事業をやることを決意する。

 女工芳江は嘉古の家に来て、母の手助けをし、二人の病人の世話をし、機を織って稼ぎ、家計を助ける。しかし嘉古は芳江と床を別にし、兵役か終ってから結婚することにする。

 山林の開発事業は嘉古への迫害にもかかわらず、着々として進み、同志の協力を得て十町歩の植えつけがすみ、父さんは栗、くるみ、あんず、けやき等の苗木五万本も名古屋へ行って注文して帰ってくる。

 間もなく嘉言は入営し、軍隊生活を経験する。キリスト者としての彼の行動は、しばしば彼に困難をもたらしたが、彼はよく忍んでキリスト愛を軍隊の中で実践する。入営中、兄の佐助は死刑となり、芳江は過労のため病気になる。

 済南出兵で山東に出征した嘉吉は、青島にいる時、父の死の報せを受ける。ついで芳江が病気になったことが母から知らされる。彼は一家のため犠牲となって働いている芳江を思うて祈る。

 午前三時、芳江か青島の兵舎に会いに来たところを嘉吉は夢に見る。間もなく村野先生から芳江の死を報せる電報がとどく。芳江は嘉古の除隊帰郷を待たずに世を去ったのである。

 入営後二年たって、嘉古は村人の歓迎を受けて母のもとに帰る。村野先生と水車の父さんと嘉吉とは芳江の遺骨をもって、立体農業を実行している田口の裏山にこれを葬り、芳江の記念碑を建てることになる。山の仙人も九匹の犬をつれて参加する。

 嘉古の入営中、芳江はしばしばこの裏山に来て植林を助けた。彼らはここを『処女の森』と名づけて棒杭の碑を立てる。それに村野先生は『細野芳江記念碑』と記し、裏に「一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし、千九百二十八年十月十八日昇天』と書く。

 かくて酒と賭溥と女色とに毒されていた村に、立体農業と協同組合運動による産業の興隆を見、信仰による道徳復興が起こったのであった。

 
          二、文学としての評価と作者の意図


 この作品は賀川の小説としては、文学的価値の高いものである。『死線を越えて』は彼の体験を叙述したもので、自伝小説であるから、これだけをもって賀川の作家としての力量をはかることはできない。しかし「一粒の麦」は作家として書いたものであるが故に、小説の名に値するものである。

 この作品は、文学の型からいえば、純文学ではなく大衆文学である。芥川や藤村や漱石のように、彫身縷骨の苦心をしつつ、芸術品として仕上げた文学ではない。誰にでもわかり、誰にでも読まれるようにと、筆の動くままに書いたフィクションであり、形式からいえば、どの雑誌にでも見出せる大衆交学である。

 しかし内容的にいえば、一定の目的をもつ作品であり、これを貰くものは、キリストの贖罪愛であり、これを縫うものは、立体農業と協同組合思想である。賀川はこの小説により伝道をなしつつ、彼の抱懐する経済思想を宣布しようとしたのであった。

 小説家としての賀川についていえば、恐らく日本の文学界は彼を作家としては受け入れまい。しかし『一粒の麦』は彼を小説家たらしむる潜勢力を具えている。第一にその中には事件(イソシデソト)が豊富である。いわゆるスリルとサスペソスとに満ちており、読者をして巻を措く能わざらしめる。

 太宰治は『人間失格』を書いて名声を博した。失格する人間を書くことは、及格する人間を書くことより容易である。『人間及格』を文学にすることは、なかなかむずかしい。ビクトル・ユーゴー級の作家であって初めてできることである。然るに、賀川は『一粒の麦』において、『人間及格』をとも角も文学にしたといいうる。その意味において、彼は日本の生んだ作家の一人であるといえよう。

 自然や人物や事件の描写力においても、彼は時に大家の筆致を見せる。(時に粗雑なこともあるか。)『説明よりも描写』ということが小説家にとって至上命令であるが、賀川は描写力においてすぐれた素質をもっていたといえよう。ただそれがプロフェッショナルになるには、洗練されていなかったと云える。


                三、作中のモデル


 主人公嘉古の純真な性恪と信仰的な行動とは、賀川の貧民窟伝道を初期の頃から助けつづけた武内勝氏にヒントを得たものと思われる。もう一人のモデルとしては、賀川の少年時代、徳島にあって癩病人の世話をしていた森茂氏が考えられる。五円を横領した事件はこの人に関するそうである。賀川は森茂氏を大へん尊敬しており、貧民伝道への献身は、少年の時この人から受けた影響によるといわれる。山の仙人は武内勝氏の父君を素材としている。この人に犬九匹をつれさせ、猿まわしに仕立てて、賀川の風流雲水的心境と立体農業政策とを現わそうとしたのであろう。武内勝氏の父君は八卦見で、貧民窟の伝道所において賀川に会見し、その人物に惚れこんで息子の武内勝氏を托したのであった。

 一粒の麦となったヒロイン芳江は、賀川夫人春子女史の令妹ふみ子さんで、勝氏と婚約していたが、結婚前に病没した。

 村野先生は、賀川が神戸神学校在学時代(二十歳)胸を病んで蒲郡に静養している時、交わった同地の牧師をモデルにしたものであろう。蒲郡における船大工の生活、帆走会の模様、漁夫たちの喧嘩など、場面が殊に生き生きと描写されているのは、この頃経験したことの印象が深かったためであろう。

 鈴木伝助氏が『百三人の賀川伝』に寄稿した『賀川豊彦素描』によると、何百という蒲郡の漁夫たちが、海岸で二組に分かれ兇器を手にし喊声をあげて突撃し、今にも血の雨を降らそうとした危機一髪の瞬間、賀川がその間に割って入り、喧嘩を仲裁した物語が出ている。帆走会における嘉吉の働きは、この時の思い出を書いたものであろう。



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第56回『神と歩む一日:日々の黙想』)

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今回も引き続いて横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』の中から。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第56回


         神と歩む一日 日々の黙想

WALKIBG WITH GOD THE DIARY MEDITATION



         昭和5年12月15日 日曜世界社 366頁


 前回、賀川豊彦の『クリスチャンダイアリー』(昭和4年版)を取り上げましたが、今回の『神と歩む一日=日々の黙想』も一日分を1頁をもちいて、365日分の賀川の短い珠玉の文章が収められています。

 このような作品に編纂しあげた人のことには触れられていませんが、賀川豊彦が自ら仕上げたとは考えられません。

 本書は年年歳歳版を重ね、戦後昭和24年7月には日曜世界社と同じ版のまま、版元を「キリスト新聞社」に移して出版され、読み継がれています。

 なお、2年後(昭和7年)には、追ってとり出す予定の『神に跪くーその日その日の祈』が同じ日曜世界社より編纂されています。

 では早速、最初の昭和5年のポケット版の表紙と扉、そして戦後に出版された著書の表紙をUPし、賀川の記している「序」を取り出して置きます。


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                神と歩む一日

                  序

   照る日、曇る日、我等は、人生の一日を最も有意義に生活しなければならない。
   暴風雨に、雲崩に、出産に、お通夜に、
   神の不思議なる御手の動きを発見しなければならない。
   食ふに、眠るに、我々の行事が、神聖な神の姿に肖たものであらねはならぬ。

   エデンの花園から逐はれ、煙突の杜と、瓦の沙漠に追い込まれた、所謂文化人は、
   硫酸の雨と、煤煙の霞に、霊魂を旱しにしてしまった。

   この末の日に、神と偕に歩む一日は、至聖者の姿を肉塊の上に現像させたイエス
   のごとく、足どりを決定するほか道はない。

   彼が、馬槽より 十字架まで歩いた不思議なる足跡は、
   五尺の受肉者が体得し得る至高の道であった。

   彼は、聖書をそのまゝ自己の生活の上に実現さした。
   そこに預言は成就し、神の言葉が、肉体として現された。
   不思議なる歴史の変転の上に、不思議なる愛が盛られ、
   自己の安全を棄てて、人の罪のために、
   新しき約束の血を流した潔い恙の血こそ、
   罪に悩む者にとつての永遠の福祉の源である。

   この現実の血を、我々の血脈に輸血して、神の愛に甦る日、
   「我」は死んでまことに神の霊が私の胸に甦る。
   かうして私は、新しく造り変へられ、醜い歴史は、
   新しき愛の歴史として醗酵し、愛の血は新社會に躍る。

   不思議なる愛の洪水に、古き家々は洗ひ流され、
   醜き我慾は、すべて姿を没してしまふ。

   おお愛の水準よ高まれ! 
   脛を浸せよ、腹まで浸れ、頸も、頭も、浸つてしまふがよい。
   降れよ、愛の五月雨よ! 剣劇の血雨にもう我々は飽いた。
   我々は、十字架から迸り出る愛の洪水に
   すべてを圧し流してもらはなければならない。          
 
   おお、友よ、洪水にそなへる準備は出来たか! 
   この洪水のために、ノアの箱舟を造る必要はない。
   勇敢に飛込んで、沖へ沖へ押し出されるがよい。

   けがらわしい国境も、民族的皮膚の色も、好色も、詐譎も、
   みんな洗い流してもらふがよい。

   愛の洪水は、フランスと独逸の国境を拭い消し、
   黒人と白人の皮膚の色を拭き消してくれるだらう。

   天地の創出に、すべての動物は、
   海水のうちに湧いたと、生物學者が教へくれる。
   然し冷たい海水から冷血動物が生まれ、
   温かい血から温血動物が生れるのだ。

   新しい血から創造された新しい温血動物は、
   愛するために、新社會を創造しなければならない。

   湧けよ、赤き血の海よ、
   愛の海潮は、我々の胸に轟け! 

   民族と階級と、貧富と伝統を蹂躙して、天にまで湧き上るがいい。

   あゝ、湧けよ、湧けよ! 
   赤き血潮の海潮音よ! 
   地球の地軸が、真直に舞ひ戻るまでたかまれよ。

   魂のサハラに、ゴビの廣土に氾濫せよ! 
   コンゴ低地に海水を入れたゞけでも、
   地軸の歪みが、変るといふではないか。
   さては、コンゴ低地にも浸水せよ! 
   魂にうけたる十字架の潮よ!

   地球の表面を包む海潮には、一日二度の変化のあるものを、
   なぜ魂の世界に、十字架の血潮は高まらぬか。

   おお、高まれよ、高まれよ。
   愛の血潮の満潮よ。
   ヨーロッパは、戦筝と革命のために、千萬の人骨を平野に撒き、
   世界は腐肉で臭くなってしまった。

   あゝ、愛の血潮の満潮よ、
   この白骨と、この人体の腐肉を一刻も早く包み隠してくれ。
   海はすべてを浄めてくれる。
   そのごとく、愛の血潮よ、浄めの力を持ってくれ。
            。
   もう潮がさしてくる時ではないか、
   おゝ友よ、魂の砂時計が、それを報じてゐるではないか。

   今日の潮時は子の刻か? 丑の刻か? 
   カルバリの丘より、絶えず霑してきた不思議なる愛の潮よ、
   もう私と、そして私の住んでゐる地球の表面に、
   愛の満潮がさしてきてもいい時ではないか!

   一刻、二刻、魂の砂時計に、私は愛の水準の高まるのを覚ゆる。
   あゝ、至聖者よ、神よ、
   私はあなたの脈拍を、私の心臓に感じます。

     一千九百三十年十二月十一日
                             賀 川 豊 彦
                                武庫川のほとりにて




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第55回『クリスチャンダイアリー昭和四年』

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今回も横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第55回

        クリスチャンダイアリー 昭和四年
     Christian DIARY 1929


         
        昭和3年12月10日 柳沼書店 およそ400頁


 少し後先になりましたが、昭和3年12月に賀川豊彦の編集として『クリスチャンダイアリー』の1929年用を柳沼書店より出版しています。

 これはたまたま見つけたもので、このような日記帳はこれが最初であったのか、それとももっと以前から出していたのかは確認できていませんが、この後にも出版されていたのかもしれません。

 手元にあるものは、1月16日までのところが抜き取られていて、月ごとにカラーの絵が添えられていますが1月のそれもなく、賀川の「序」も入っていたのかもしれませんが、それも欠けています。

 まず「表紙」と扉、そして2月分のカラーの絵、2月4日の頁をUPして置きます。


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 毎頁に賀川の短い言葉はもちろん、聖書や華厳経、徳冨蘆花やパスカル、ルターやテニソン、フランシスやガンジーなどなどの言葉が掲げられています。

 多忙の賀川がこれを編纂したのかは疑問も残りますが、選ばれている言葉もまた、興味深いものがあります。

 大変立派なつくりになっていますが、ここでは前記の2月4日のところから2月15日までのものを取り出してみます。


            *            *



          二月四日 月曜 神に孕れたる者

 さうだ、噫さうだった。私が神を信じて居るのではない。神が私を孕んでゐるのだ。此麼に永く私が眼を閉ぢねばならぬと云ふ事も其処にあるのだ。窮屈な思ひをせねばならぬと云ふ事も、矢張そこにあるのだ。私は胎まれて居る。神に胎まれて居る。神が私達に何か大きな期待を持って居られるのだ。苦しいから、悲しいからと云って、自暴自棄に陥ってはならない。神が私を胎んで呉れて居るのだ。


          二月五日 火曜   高笑せよ

 我等は高い聲して、笑はなけれぱならぬ。凡ての偶像を笑ひ、几ての虚栄を笑ひ倒さなけれぱならぬ。アリスタイデスの笑ひに、ギリシヤの偶像は低められ、ルシアンの笑ひに、ローマ帝國の偶像は無価値なものにせられた。サーバンテスの笑ひに、封建の騎士は鍋を冠る夢遊病者の扱いを受けた。ボルテールの笑ひにフランスの権力階級に地位は危うくなり、新しき時代がそこに生まれた。笑ふが善い。


  ‘       二月六日 水曜  東洋精紳

 維摩の世界は贖罪の世界である。それは東洋に於ける、至大の芸術である。私はその見地を歩きたい。然し維摩には贖罪の世界に到建する、求道者の道を書いて呉れてゐない。求道者の道を教へて呉れるのは華巌経である。華巌の世界に於て私は、私の魂が地に着い
てゐることを発見する。人はそれを哲學だと云ふ。然し私はそれを、道徳心理學だと考へてゐる。そして私はキリストに於いてのみ東洋精神の完成をみる。


          二月七日 木曜  鉄槌の打おろさるる所

 刻々の生活が、神の心境であり、一切の作業が燃焼したる神の焔である。台所に行っても、神に逢ひ、井戸端に行っても、神にみいられ、エ場に急ぐ、電車の吊革にぷらさがる時も、神に呼吸し、鉄槌を振上げて、鋼鐡版を打ちなめず時にも、神の懐にあることを知
る。これが真正の魂の姿である。


          二月八日 金曜  慈  愛

 聖者は此丈慈悲行に促されて深妙な心を起し、萬有救済の佛智を体して大施行を完ふする為に、自已の一切を捧げて惜むところがない。金、銀、瑪瑙、瑠璃、珊瑚、琥珀、真球などの珍賓、装身具は元より、愛する象、馬、輦與、下僕、婢女、国土、城邑、公園、劇場、妻妾はおるか自らの頭目四肢までも與へて、毫しも惜まぬ。これ全く萬有救済を生命とする佛智を体現せんとするからで、そこには一切を施し尽した上に施に就て與へるとか、受けるとかの考さへ止めぬ。(華厳経)

      
          二月九日 土曜   柔  順

 イエスには柔順な神が現れた。理屈でなければ判らない、現代人には理屈ばかりの神しか現はれて来ない。私はあまリに理屈を云はないで、ごぐ柔順な心で宇宙の心を父と呼んで居る。理屈を言ひたい人が、それを宇宙の法則と云はうが、また宇宙のエネルギーと云はうが、それは私に関した事ではない。私は柔順で居りたい。兎に角私は、宗派の相違で喧嘩するのは大嫌ひである。私に柔順でありたい。

      



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第54回リート著『キリスト教兄弟愛史』賀川豊彦・内山俊雄共訳)

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続いて今回も横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)の写真より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第54回

            
フレデリック・D・リート著『キリスト教兄弟愛史

              賀川豊彦・内山俊雄共訳


          昭和5年9月10日 日曜世界社 560頁


 この年(昭和5年)既にステッド著『キリスト教社会愛史』を翻訳出版していた賀川は、今度は内山俊雄との共訳で本書リート著『キリスト教兄弟愛史』を完成させました。前書は新潮社でしたが、今回は馴染みの日曜世界社の出版です。

 先に取り出した昭和4年の『ジョン・ウェスレー信仰日誌』の翻訳を皮切りに、ゼ―・ラッセル・スミス著『世界食糧資源論』、ジョージ・エリオット著『ロモラ』、さらに4巻にもわたるフリードリッヒ・A・ランゲ著『唯物論史』など大著の翻訳をこの2年間ほどでなし終えています。さらに翌年(昭和6年)には賀川自らジョン・ラスキン著『ヴェニスの石』の翻訳も手がけ、その後も数多くの翻訳をすすめました。


 では今回も、本書の表紙と扉、そして賀川豊彦の書き上げている「序」を取り出してみます。



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                キリスト教兄弟愛史


                 は し が き


 祈ることと愛することとは一つである。我々は神の愛を信ずるが故に祈るのである。我々の祈りは我儘な祈りでなく、愛の祈りである筈である。キリストの道は愛一元である。教儀も、教條も、愛に就ての説明にしか過ぎない筈だ。

 それをどう間違へたか、我々はあまりに長く、教條の闇にさ迷ふて、愛することを拒絶して来た。私は、キリストの教をもう一度、この愛の世界にとり戻したい。

 それで、私は十九世紀間に、イエスの愛が歴史的に、どんな形で発展したかを調べる必要があり、前には竹中勝男氏と共に、ステッドの『キリスト教社会愛史』を翻訳し、今また茲に、リートの『基督教兄弟愛』を内山俊雄氏と共訳することの出来たことを愉快に考へる。

 全編凡て感激の愛史である。そこに霊魂のオアシスが発見される。私は愛の勇者をそこに発見するばかりでなく、神の愛をそこに見出し、キリストの十字架が、今猶連続してゐることを見て喜んでゐる。

 日本に於けるキリストの運動は、この道に従って発展すべきものである。ただ、古代より最近代にまで愛の歴史を辿る中に、近代になって愛の運動が、社会全体に對する愛の責任より、漸次教會内に引込み、その教會内の愛の実行すら、生活の根本に触れないで、資本主義の罪悪と戦ふ大きな使命を忘れてしまつたかの如き感を與へられ、私は多少悲しみを覚える。

 我々は、キリストの愛の使命が生活全部に及ぶべきことを考へる。近代のやうに、ばらばらになった兄弟主義を、生活全部に對する兄弟愛にひき直して実行せねばならぬと思ふ。

 即ち、教会は、個人的の祈りのみをする處でなく、愛のために祈り、愛の実行機関であり、完全な共済組合組織と、完全な社会愛の実行機開であらせたい。

 私は幼稚な日本の教會が、この方向に向き直るために、我々のこの小さい努力が、少しでも參考になるならば、この栄光を凡て神に帰したいと思ふ。

  一九三〇年五月廿六日
                                   賀 川 豊 彦
                                       武蔵野にて



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第53回『宗教教育入門<附・宗教入門>』家庭科学大系)

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上に掲げた頁も、前回に続いて横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)所収のものです。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第53回

            
               家庭科学大系

           宗教教育入門(附・宗教入門


        昭和5年7月10日 家庭科学体大系刊行会(編集人賀川豊彦)
           宗教教育入門 132頁 宗教入門 188頁


 「非売品」として刊行されている「家庭科学大系」の一連の企画については、既にここでたびたび触れてきましたが、本書『宗教教育入門<附・宗教入門>』が賀川の著書としては最後のものになるようです。

 附録の『宗教入門』の方が分量が多く、『宗教教育入門』と独立した2冊の書物が合本になっていて、ノンブルも別々につけられたままで、双方ともに賀川の「序」は書かれていません。前に取り出した『宗教教育の本質』は、多忙の中を賀川が自ら執筆して完成させた作品ですが、本書の場合は、講演記録としてできています。

 従って今回は、本書の表紙と扉、そして2冊の著書の目次をUPして置きます。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第52回『神に就いての瞑想』)

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今回も横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年版)所収の写真のなかから。




賀川豊彦」のぶらり散歩   


―作品の序文など―

      第52回

            
               神に就いての瞑想


         昭和5年6月15日 教文館出版部 191頁


教文館出版部の手がけた本書『神に就いての瞑想』は、続く『キリストに就いての瞑想』『十字架に就いての瞑想』、そして『精霊に就いての瞑想』という四部作として名高い作品で、『賀川豊彦全集』にも収められています。

本書は、賀川の「序」のあとに記されている「著者より読者へ」によれば、「吉田源治郎氏、黒田四郎氏、吉本健子姉の努力によって出来たもの」であることが記されています。

彼の「序」の中でもこれは、私にとって大切なものです。早速表紙と共に、それを取り出して置きます。




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                神に就ての瞑想


                   序


 瞑想の森に分け入ることを覚えた私は、露のやうな滴りをその森から受れるやうになった。

 真夜中に、白昼に、曙に、黄昏に、私は何処にも瞑想の扉が開かれていることを知った。電車の中、汽車の中、待合室、獄房、路上、到る処で、私は瞑想の休息所を与へられ、そこで泌々と、私の胸に宿り給う大能の神に就て静思することが出来る。

 アッシジのフランシスは白日の太陽を仰いで、瞑想し祈をしたと伝へられ、ソクラテスは弟子達と歩いてゐて、突然数分間路上に佇立して瞑想をしたと、弟子プラトン―が伝えている。阿含経をみると、釈迦もまた同じ習慣があったらしい。

 イエスは、四十目四十夜、荒野に退いて瞑想し、ある時はまたガリラヤの山地に徹宵して、祈と瞑想に送られた。

 瞑想の泉を汲むものは、神が我々の棟に密接して住み給ふことを経験する。けたたましく忙しい機械文明の今日に住んでゐて、猶、太古の静寂を発見したいものは、瞑想の領城に辿り着くより仕方がない。

 私は、視力を失って後、この聖域に接することか出来て、新しい泉を発見したやうに喜んでゐる。

 無為のときも、無策の日にち、瞑想は先方から私を訪問してくれて、神殿のとばりを高くあげてくれる。

 私は、芝居の舞台裏に、台風の夜に、忙しい熱閙の巷に、瞑想を通して神を讃美する。神は、私の安息所であり、私の蓄電池であり、瞑想の前に、死も青醒めて消え去り、苦痛も、その威力を麻痺させる。無学な私にも、大能の神は、瞑想の裡に安んじて憩ふべきことを教へて下さる。

 私は、神経衰弱に疲れた現代人が、見る前に、読む前に、歌ふ前に、戦ふ前に、まづ本然の瞑想に帰らんことを要求する。

 胎児は母胎の十ヶ月に、読むことなく、走ることなく、瞑目して安居する。瞑想の工夫は神の懐に倚る胎生である。

 私は静かに神の脈博を瞑想のうちに感じ、神の血に肥らされ、瞑目のうちに、光の世界へ踊り出づる日を待つ。私は呼吸することなくして、生き、動き、且つ在り得る。

 ああ、不可思議な胎生よ、地球は大きな母胎であり、また乳房である。私は人類の凡てが、もう一度この大きな母胎に復帰し、神の血脈に、自分を繋がんことを祈って止まない。

  一九三〇・五・二九   
                                 賀 川 豊 彦
                                   武蔵野の森の一隅にて



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第51回『神と聖愛の福音』)

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今回も前回と同じく横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』の中の写真より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第51回

            
            神と聖愛の福音


       昭和5年6月10日 下関福音書館 198頁


 ほぼ1年前に賀川豊彦の著書『神による新生』を出版した下関福音書館が、引き続いて本書『神と聖愛の福音』を刊行しています。廉価なかたちで初版から1万部を印刷して版を重ねています。

 本書の「著者より読者へ」の頁には、「この書は、昭和4年から昭和5年にかけて講演(筆記者吉本健子・黒田四郎)をもとにしている」ことが記されています。

 これも『賀川豊彦全集』には収まっていませんが、とりあえずここでは、本書の表紙を昭和6年の表紙を改めたものと共にUPして、重要な「序」を取り出して置きます。



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                    序


 不思議なのは、宇宙の現象であり、私の存在である。
 ぢっと眼を据えて、私の目の前に置かれた机、椅子、紙、書物、畳、靴下、障子、土、樹木、葉・・・花を凝視していると、私は、無生物と生物が、私の前に描く不思議な戯曲そのものに昏倒する位、驚異の世界に釣込まれて行く。それだけで私の宗教が、既に成立するに拘わらず、私はさらに、第二の不思議に送り込まれる。

 其処は、静かに秩序を保って呉れる「物」の世界ではなく、一秒間に十九哩走る地球の速力と、八分間に九千三百万哩走って来る光線の速力と、その光の速力をもって、百年かかってもまだ走り了せないと云う、大宇宙の大速力の驚異の世界である。その不思議な凡百の世界に統一があり、統一のうちに、複雑な組織が横たえられ、宇宙の力は盲目ではなく、人間以上の意匠によって設計せられたることを、私は沁み沁みと教えられる。これを見ただけで、充分私の宗教が成立するに拘わらず、私は更に、第三の不思議なる世界に送り込まれる。

 其処には、芥子だねの中に大きな幹と枝が蓄えられ卵のなかに雄鶏が胚胎され、赤ん坊の脳の中に、ニュートンやアインシュタインの法則が秘められ、アミーバより人類までの進化が、不思議なる展開として、時間の行進曲の上に展列される。私にとっては、成長の事実ほど不思議なものはない。この不思議な事実を見ただけで、私は驚異の讃歌を歌え得るに、更に私を、第四の不思議な
世界に連れ込むものがある。

 其処は、太陽の輝きと、星と月の色彩によって飾られる。幾十萬種の植物の葉が、一つとして同じ形のものはなく、みんな違った形をして天地を飾る、一つとして同じ花はなく、凡て人間の目には、美しい曲線美と色彩を以て、空間の世界にえぐりつけられて行く。その美の世界、それにもまして、動物の不思議な形体と、人体の美の不思議なる組み合わせによって、私は、宇宙を衣とし給う神が、単に力のみではなく、単に成長のみではなく、美と、優れた姿に、凡てを芸術化し給うことを信ぜざるを得ない。これだけでも、私は、私の宗教の事実を疑えないに拘わらず、私は更に、第五の不思議なる世界に導かれてゆく。

 其処は、人間の凡ゆる経験を通じて、宇宙を着給う神が、人間の胸に良心を植え付け、その良心を通し、後に来るものに、朗らかに叫び給う神秘なる歴史の世界である。歴史の水平線に聳える良心の絶頂がいくつか並ぶ。その架空線を連絡させると、神の足跡が印せられている新しい雪線が発見せられる。それこそ、神の黙示であり、永遠より永遠に物語り給う神の放送である。

 旧約より新約への物語は、ただ一編の歴史ではない。それは、良心の峰より峰に歩み給う神の足跡の印象記である。

 おお、絶望と憂慮に慄えている失敗の子よ、お前の上に希望の太陽が昇っているではないか。宇宙を着給う神が、十字架の上に絶対の愛を現し、人間の魂に復活のあることと、凡ての失敗を神自らが尻拭いし給うことをし給うたではないか。洞穴に隠れて、神の審判を呪詛する狼の子よ、お前の恐怖は見当違いだ。

 神はおそれの神ではなくして、至愛の神だ。審判の神ではなくして、贖罪の神だ。愛だ、愛だ、愛だ、至高の愛だ! 

 全世界に責任をもって、全世界の最後の欠点まで責任を負い給うは、キリストの「神意識」のうちに目醒めた、最悪者に対する贖罪の責任感ではないか。この世界凡てに対する責任の意識なくして、人類最後の解放は期待出来ない。

 この最微者、最悪者に対してさえ、責任を意識する神の如き自覚の中に、経済的解放も、政治的解放も、社会的解放も、肉体的解放も、精神的解放も凡てが含まれている。これは解放の解放である。それで、紀元一世紀の聖者たちは、これを福音と呼んだ。

 人類を解放せよ! 資本主義的圧制より階級制度の桎梏より情欲の鉄鎖より、野獣の暴虐より、人類を解放せよ。そして我々は一つの解放に、更に新しき一つの解放を加えるとき、人類の解放が、キリストの十字架の上に流した贖罪愛の解放以上に出ていないことを発見する。

 福音の鐘よ、高鳴れよ! 村に、町に高鳴れよ、そして最後の人間を解放するまで、鳴り続けるがいい。

 あゝ、福音よ、踊り出でよ、日本のために忍耐したる福音よ、日本の最後の最微者を贖ってくれ、日本は福音を待つことが久しい。

 日本の暗い台所の押入れの隅まで、福音の高潮で浸してしまうがいい。あゝ、福音の津波よ、日本の罪悪をかっさらえて行ってくれ、生命の台風が南から北へ進むとともに、私はその福音の津波の来襲することを待っている。聖霊の台風よ、真っ直ぐに、日本の上を南から北に通過してくれ。

  一九三〇年五月二十三日
                                   賀 川 豊 彦
                                       武蔵野の森にて



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第50回ステッド著『キリスト教社会愛史』翻訳書)

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前回に続き、横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』より。





賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第50回

            
          ステッド著『キリスト教社会愛史

            賀川豊彦・竹中勝男共訳


            昭和5年5月3日 新潮社 411頁


 賀川豊彦にとっては、新潮社からの出版は本訳書『キリスト教社会愛史』が初めてものではないかと思われますが、冒頭の7頁にわたる賀川の「序」が収められていますので、早速、本書の表紙と扉、そして「序」を取り出して置きます。

 この長文の賀川の序は、当時の賀川の思想を知る上では、たいへん興味深いものです。

 尚本書は、昭和5年に入って『貧乏人物語』(32頁の講演集・非売品)に続いて2冊目の書物で、前年(昭和4年)11月にそれまでの西宮・瓦木村より再び東京市外の松沢村へ移転しているので、本書の「序」の末尾にはこれまでの「摂津武庫川のほとりにて」にかわって「武蔵野松澤の森にて」と記されています。



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                    序


 ローマ帝政の道徳的発狂時代に、純潔と奉仕と神への精進を誓ふて、地下のカタコムにまでもぐり込んだのは誰であるか? 社会の上層建築は腐敗しても、下層の奴隷階級は、大工イヱスが流した赤い血に染められ、愛による冒瞼をおぼえた。

 あゝ、パラボラニよ。黒死病は町を襲ひ、屍は算を乱して街頭に捨てられた日、被迫害者である彼等は、愛のために、迫害者の病床を看り、自ら斃るる日は近づいても、微笑しつつ敵をも祝福することを忘れなかった。この勇しい價値の転倒に道徳的発狂文化は、忽然として超道徳的相愛文化に復活した。

 ローマの地下四百哩の長き坑道に、四百萬の屍は埋められてゐる。これら無数の潜伏者は明るみに出でざる愛の胎生児であった。彼等は抵抗することもなく、黙々として神に近付き、神に近づくことによって、相愛互助の世界をまどろんだ。

 チュートンもケルトも、まだ野蛮の域を脱しない食人種の異風を守ってゐた時、嘗て想像もしなかった、天来の愛の福音を実行の上に現したのは誰であったか? 聖マルチン、聖ボニフェース、聖パトリツク、彼等を思出すだに、我々の胸は躍る。マルチンもパトリツクも、彼等の郷土にとっては、福音書の著者以上に神話的人物になった。それ程彼等の愛の福音は、北限の諸民族に衝撃を與へた。それから後、聖ベニヂクトの一派、聖ベルナードの弟子達の努力は、また我々に大きな天啓を與へてくれた。

 十三世紀の聖徒、アッシジのフランシスの存在に就て考へるも、彼の社会愛の実現は、人間離れがしてゐる。その後、宗教革命が起り、独逸の農村に宗教的共産主義が行はれ、欧州に社会主義の発芽を見るやうになったが、聖愛を基礎にしたものは、今尚高い香を我々に残してゐる。南独逸のモレヴィアの一團、そこからは今尚世界を祝福する兄弟愛の泉が流れ出てゐるではないか。ウェスレーも、ブースも、アメリカに於る奴隷解放の運動も、少なからずそこから愛の泉を汲んでゐる。

 歴史を唯物的にのみ見んとする人々は、骨格のみによって人体が出来てゐると主張するに均しい。私は骨格を否定するものではない。しかし、血と、生命と、精紳は、骨格によって説明出来るだらうか。心理的結合なくして、真実の社会が出来上った例が、世界にあるだらうか。社会の連帯意識は、互助愛意識より進化し、母性愛よりも高く、人種と階級と、経済的断暦を浸透して、自分に敵對する者まで許し、罪人までをも自分の同類項として贖はんとする絶對意識――私は斯ういふ言葉を使ひたい、――つまり良心生活に於ける最も深い處で、最も高い神的意識に入る贖罪的十字架愛に到達して、初めて共同社会が完成するものと私は考へる。

 何人が善き社会を造るにしても、この良心の位取に於て絶対愛の意識にまで、即ち、徹底的に、最後の罪悪までをも贖はんとする絶対的連帯意識に目醒めるまで、共同社会の実現はあり得ない。この絶對愛への進展は、キリスト教と呼ばれた贖罪愛の実現運動に系系統ひいてゐる社会愛の測定によって、我我は頗る大きな唯心史観の実証的一面を発見する。

 咄物史観が純済史観を意味するとすれば、経済成立の起因としての生命、力、変化、成長、選択、法則、目的の七要素を無視することは出来ないだらう。そして之等は皆、人間の心理的約束なくして発展するものではない。生命の世界に於ても、労力の世界に於ても、移動の世界に於ても、愛と犠牲の存在なくして、共同生活は不可能である。況んや成長と選択の世界に於て猶更のことである。生命の世界に於ては母性愛の犠牲があり、労力の世界に於ては共同愛の発生が必要とせられる。土地占有は人類の移動を碍げ、文化の成長に先駆者の犠牲が要求せられる。恋愛は選択を意味し、人類進化のために、各種各様の愛が必要とせられる。

 だから、聖パウロも愛は法律を完成すると云ふてゐる。愛は社会生活に於る至高の法則であり、そして目的である。

 即ち、今日の金銭欲から出発した経済社会は、擬似社会であって、我々が実現せんとする真正社会でない。真正の社会は絶對愛を意識の中心に置く連帯社会である。即ち贖罪意識を各個体が持ち寄って出来上る聖愛の社会である。使徒パウロは、この最後の社会の楷梯を「エクレシア」(聖社会)と呼んだ。

分裂愛の社会は分裂社会を生み、分裂した集團の中に互助愛は行はれても、凡てを含んだ全体愛は発生しない。分裂しさったものを許し贖はんとする贖罪愛の運動が、十字架愛のキリスト運動であった。

 そしてこの事は、まだ多くの倫理學者にも、社会學者にも、宗教學者にも、充分意識されてゐない。クロパトキンも、へンリー・ドラモンドも、エルードも、ラウセンブッシュも、この贖罪愛について充分意識してゐない。ラウセンブッシュは唯それを社会的に考へたけれども、それを個性的に、また、内省的にひき直すことを忘れてゐた。然し、真正の社会を生み出すために、道徳心理の内部構造から建て直さなければならない。それは充分個性的であって、初めて充分社会的になり得る。これを電気に譬えてみれぱ、凡てがイオン化して電磁気作用が起こって来るやうなものである。荷電装置なくして大きな力とはならない。我々の個性凡てが、霊魂の奥底に於て、憎しみと、淫猥と、虚偽と、自己満足と、自我狂的存在より解放せられて、霊魂の中に最も高い神のやうな姿が彫りつけられ、更に進んで、他人の罪悪のために、喜んで十字袈をも担うふといふ勇敢なる決意が浮び上らなければ、共産社会の出現などは絶對に望まれるものではない。

 私は確信する。共産社会はまづ共同社会から始らねばならぬ。それが経済的基礎を必要とするならば、前に述べたやうな愛が必要とせられ、経済的基礎が先行しなくとも、それが人間社会である以上、メーリングがその「唯物史観」に於て述べてゐる如く、精紳的要素なくして決して成立するものではない。かうした意味で私は、近代資本主義社会に於いて、最も馬鹿にせられて来たキリスト教社会愛史を再調査する必要を感じた。

 事実は事実である。それは闘争の歴史でもなければ、経済史観でもない。。勿論それは唯物史観でもあり得ない。あるものにとっては、それは欺瞞なブルジョア道徳の歴史であるかも知れない。

 云うものは何とでも云うがよい。私は事実の上に立脚する。この愛の歴史的発展は、時代によって消長がある。然し、それは決して止むことはない。人類が進化すれば進化する程、この愛に對する反省と憧憬は深くなるぱかりである。

 千九百年来、滾々として尽きない、この不思議な社会愛の歴史に就て私は深く瞑想する。何と云ふ不思議な歴史だらう。それは利益を基礎にせず、血肉によらず、名誉のためでもない。ただ不思議な十字架の上に死んだと云ふ大工イエスの愛の意識を基準として、地球の表面に流出た不思議な努力であり、また殉教の記録である。それは教條の歴史でもなければ、理論の記述でもない。それは十字架の連続史であり、聖愛の流血史である。この血の記録は、人間のために人間が流したものではない。神に對する愛の感激から、そして恩寵に對する礼賛の歓喜から、已むを得ずしてでなく、最も自由な気持で、書き上げられたものである。であるから、この愛の歴史は、不思議なる宇宙の愛に感激したものが綴ったものであって、宇宙の愛の連続だとも云ふことが出来る。哲學者ショウペンハウェルは、恋愛を無意識的な宇宙意志に縁故を求めた。然し私は、愛の歴史を瞑想することによって、人間の愛が、神と云ふべき宇宙の愛に源を発してゐることを考へる。ショウペンハウェルのやうに、宇宙の意識を無意識と考へるには、それが、除りに賢こく情深いことに、私は驚嘆してゐる。

 私にとって、大自然は神の体であり顔である。私はただ毎日、大自然に書かれた歎異鈔を味ひ続けるのみである。私は、かうした意味に於て、このステッド氏の「キリスト教社会愛史」の訳本を日本に送出す。原著者は、私が會ふことを得なかった尊敬する英國の友人の一人である。彼は屡々私に手紙をくれた。彼はかの有名なる人生詩人ロバート・ブラウニングの友人であり、彼を記念する為に建でられたプラウニング館の館長であつだ。彼は労働者のためにながく働き、ブダウニング館と云うのも、貧民窟の隣保事業として建築せられたものであった。ステッド氏は英國の労働組合の為に、また英國の老人幼年工のために隨分尽くした人である。彼は彼の著作の凡ての翻訳権を私に呉れた。私は彼の思想の凡てに共鳴するものではない。ただ彼と私とは、キリスト教史の見方に於て相一致する處があり、イエスを見る見方に於て、まことに相似たる處がある為、私は竹中勝男氏と共に、彼のStories of Social Christianity 即ち此處に私が「キリスト教社会愛史」と呼ぶ處のものの翻訳に手を着けた。この訳文に主なる努力を払はれたのは、竹中勝男氏である。私はその校正を見せて貰ったにしか過ぎない。然し、翻訳を竹中氏に依嘱したのは私であり、この翻訳に對して責任があるのも、また私である。

 私は、イエスが「汝ら互ひに相愛することによりて我弟子たることを知るべし」と云はれたことによって、愛はキリスト教の根本だと考へてゐる。この意味に於て、私は、この書が深く社会に理解せられると共に、この種の愛が、社会に実現せられることを祈って止まない。

    一九三〇・三・二九
                     賀  川  豊  彦
                                   武蔵野松沢の森にて





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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第49回『世界大衆文学全集第33巻ジョージ・エリオット著「ロモラ」翻訳)

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前回から横山春一著『隣人愛の闘士:賀川豊彦先生』所収の写真を順番にUPしています。今回はその2枚目です。




賀川豊彦」ぶらり散歩


第49回


               世界大衆文学全集第33巻

         ジョージ・エリオット著『ロモラ』の翻訳書


              昭和4年11月3日 改造社 512頁


 イギリスの女性作家ジョージ・エリオットのことなどこの作品については、賀川豊彦の「訳者序」に記されていますので、早速本書の表紙と口絵の「書斎に於けるロモラとその父」、そして賀川豊彦の写真、「訳者序」をUPいたします。



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                  訳 者 序


 性格描寫の小説家として、英国のジョ-ヂ・ヱリオット女史は、女流作家の中卓越した地位を占めてゐる。時代の変転期に現れて来る二重人格の持主を、エリオット程上手に抜き出した人はまた少いであらう。

 此處に訳出したロモラの夫チトウの如きは、性格描寫に於いて、世界的な傑作である。大なれ小なれ、我々の良心のうちには、チトウに似た何分の一か或ひは何十分の一かを持つてゐるのである。それで、この小説はただ単に面白いばかりでなく、宗教的な深い或る内省を與えて呉れた点に於いて、最も優れた文學の一に数へられる。

 時は、今より約五世紀前、ヨーロッパに文芸復興があった資本主義文化の正に始まりかかつてゐた頃、一種のモダーンな匂のする時代に於いて、良心と芸術が衝突し、宗教と文學が衝突したその頃ほひの、各種の格闘を最も面白く取扱つたのがこの小説である。人も知るサボナロラは、宗敬改革の創始者の一人として、歴史上に偉大な地位を占めた人物である。その大人物を中心として、斯うした恋愛小説を最も神聖な気持で読ましてくれるのは、誠に珍しい小説であると言わねばならぬ。

 ただ不幸にして私は非常に忙しかったのと、視力が弱いために思ったやうに文章の推敲が出来ず、友人青芳勝久氏に手伝って頂き、此処に、つとめて原文に近い翻訳を愛読者諸君に提供することになった。本文は、ここに訳出した約二倍近くあるが、私は、必要のないものを、どしどし切り捨てて、必要なものだけを殆ど原文通りに翻訳した。然し、大体の精神を汲む上に於いて、何等差障はないと思ふ。
                                    (一九二九・一〇・三〇)

                                      賀 川 豊 彦



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第48回『神による新生』)

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上の写真は、昭和27年10月に「写真増補版」として新教出版社より刊行された横山春一著『隣人愛の闘士 賀川豊彦先生』の巻頭に収められている写真です。私にとって「賀川豊彦」を知った最初の著書として大事な作品です。横山氏とは、賀川生誕百年記念の折りに『賀川豊彦と現代』を書き下ろした後、ご自宅に招かれて一度だけ歓待をお受けしたこともありました。本書には多くの写真が収められていますが、このブログで暫くその中から順番にUPさせていただこうと思っています。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第48回

            
               神による新生


         昭和4年8月25日 下関福音書館 188頁


 賀川豊彦は、本書『神による新生』の「序」の後に記されている「著者より読者へ」の頁で、「この書は、『神による解放』の姉妹編で、日本に神の国運動を徹底させるために綴られたもの」であること、そして「私が、満州と北九州で話した講演を、黒田四郎氏と吉本健子姉が、筆記されたもの」であること、さらに「この書は、下関の福音書館が全く営利を離れ、殆ど労力を無視して出版の犠牲を払われたもの」であることをしるしています。


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 先ず本書の表紙と「序」を取り出して置きます。


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                  神による新生

                    序

 新しい日が来た、新しい日が。若芽は膨らみ、新緑は萌え出づる。黒土は青芽を吹き出し、雲雀は新しい巣を造る。雛は卵を破って這ひ出で、新しい翼を持って雛達は、空中に飛上る日を待つ。

 新しい日が来た、新しい日が! 東雲は白み、アウロラは天空に黄金の色を漂はす。さうだ! 神の日が来たのだ、神の日が! 我々が予期しなかった神の日が近づきつつある。国際聯盟も不戦条約も、その日には輝きを失ひ、愛と高潔のみが栄誉を荷ふ。跛足は歩み、盲目者は見、沙漠にも葦葭が、茂り出づるであらう。ラジオの波長を発見した者が、電線を引張らなくとも、何千哩離れて相語り合ふ神秘を持つ如く、神の新しき日に会ったものは、労せずして相愛し、苦しまずして神の姿を拝し得るだらう。

 おお! 毛虫も、いつの日にか、蝶々に早変りをする。醜き私の魂の毛虫よ、神の新しき力によって、蝶々に作り変へて貰へ! 資本主義の毛虫よ、暴力的共産主義の糞虫よ、神に贖って貰へ。そして神の無限の愛と、宇宙芸術に溶かして貰ひ、新装の歓喜をもって、花婿なるキリストを迎へるがいい

 何故にうなだるゝか。あゝ淋しい魂よ! 眼を上げて見よ! 神は新しき姿をもて出御し給ふ。神の潮は良心の岸辺に、高く渦巻いてゐるではないか。良心の水門を広く押し開いて、神の高潮を魂の奥深く溢れ入らせよ! 神は新しい力であり、新しき蕾であり、新しい光明である。我々はもう、唯物的な盲目の世界に飽き飽きした。神と永遠が、我々を目醒さなければ、人生の浪費にもう飽き飽きした。東洋と云はず、西洋と云はず、罪悪は人類を縛り、限り無き、輪廻に我々は、生命の徒浪を嘗めてゐる。

 その日にも、神はキリストを出現せしめて、愛の奥義を教へ、神の思召しを黙示し給ふた。その黙示は絶ゆることなく今日に迄及んでゐる。宇宙の底流れは矢張り愛なのだ。我儘な表面張力は醜い闘争と、発狂と、泥酔にあっても、神は猶もそれを越えて、我々の罪を贖ひ給ふ。

 来る年々に蕾が開き、青芽は吹き出で、冬枯れの姿は忘れられる。それにも似て、魂の新春は今や近づきつつある。神の出現し給ふ日、罪悪は逃げ去り、我執はその立場を失ふ。おお神よ! 旋風の中に、微風の中に、地震に、地辻りに、新しき日の近づきつつあることを示し給へ。世界はもう疲れてゐる。罪悪に真の快楽はない。私は、至高の快楽を求める為に、神の完全を慕ふ。最高の快楽は十字架の苫痛に一致する。神の快楽に酔へよ、日本の若き光の子よ!神に酔ふ者は、十字架の上にも舞踏する。凡ての富に勝って、神の貧乏は私に幸福を約束する。明日食ふべき食物が無くとも、神は鳥の嘴にパンをくわへさせて、ケリテの辺りに迄それを運び給ふ。永遠の奇蹟よ! 愛よ! 魂の噴火口に新生が爆発する。その爆発に旋風は捲き起り、雷は閃く。あゝ私は感ずる。神の跫音は、富士の山に触れ、日本アルプスの彼方に聞える。神は日本に近づき給ふ! 眼を醒せ! 日本の若人よ、血生臭き、革命の噂の前に、神聖なる神の出現を謹んで拝ぜよ!

 あゝ、東雲は白み、雲雀は曙を告げる! 待あぐんだ、第三の黎明は我々に近づきつつある。機械文明を後にして、我々は宇宙の大殿堂に宇宙の神を拝する日が来だ。そこには階級の憎悪を離れ、民族の皮膚の色を忘れ、貧しきも、醜きも、不具者も、死者も、みな同じ愛の神を拝する時を待つ。

 最微者に現れ給ふ神は、土くれの中に生命を秘め、野辺の雑草に新生の喜びの歌を歌はしめ給ふ。

 神の出御だ、出御だ! 私は頭をうなだれ、黎明とともに、アウロラの閃光をもって、出御し給ふ慈愛の神を黙礼の中に迎へる。民衆よ、踊り出して神の出御を拝さうではないか。然し、その日に至聖者は我々の父であり、我々はその子であることを発見しよう。福音を信せよ。それは暴力によらざる革命であり、愛と慈愛による新社会の出現を意味する。私はこの新しき超越力が日本の上に役げかけられてゐることを深く信ずる。高圧線に触れた者は、衝動を感ぜねばならぬ。神の高圧線が、日本の上にぶら下ってゐる。世界は日本から目醒めるのだ。さらば、日本の魂よ! まづ目を醒まして、世界の民衆を呼び醒ます為に顔を洗って来い!

 神の出御だ! 出御だ!

  一九二九・六・二六・一年の放浪の後
                                    賀 川 豊 彦 
                                     摂津武庫川のほとりにて



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 本書は、賀川豊彦の没年(昭和35年)の10月に、教文館より「日本宣教選書8」として「ダイジェスト版」が出ています。

 そこには武藤富男氏によって短い「賀川豊彦評伝」「賀川豊彦年譜」が収められて、この「ダイジェスト版」がつくられる経緯が「解説」に書かれています。最後に本書の表紙とその「解説」を取り出して置きます。


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            武藤富男氏の「神による新生」「解説」


 昭和三十三年の秋、賀川先生は私に向かって「“神による新生”を書直してキリスト新聞社から出版して下さい、袖助金を二十万円出します、そのかわり定価を一部五十円として下さい」と言われました。しかし補助金を二十万円いただいても、定価五十円では、売れれば売れるほど損をしますので、「考えてみましょう」と返事しただけで手をつけませんでした。昭和三十四年の暮、教文館から日本宣教選言として出そうとの議が起こりましたので、賀川先生宅を訪れ、病床にある先生に令夫人を通してこの旨伝えていただき、書き直して出版することの承諾を得ました。

 「神による新生」は昭和四年八月二十五日に出版され、その年の十二月十八日までに二十版が発行されました。一版が各一万部ですから、四ヵ月月に二十万部を売もつくしだわけです。

 この書は賀川先生の令名が全日本にとどろき渡った時代に、その講演を先生の弟子たちが筆記し、これを編集したもので、壇上において熱弁をふるう先生のことばが、そのまま書き写されております。ところが一面講演筆記としての欠点をもっておりました。それは筆記者の誤りによって、まちがった表現がなされ、二十回版を重ねているのに一度も訂正されずにきたことです。例えば原本三十七頁には「皮膚は痛いが、筋肉は痛まない・・普通は特別の使命をもっている。実に苦痛も天の恵みである」とありますが、この「普通」は明かに苦痛の誤記です。

 また前後の文章と無関係な一文が挿人されているところがあります。(原本四〇頁四行五行)これは先生の頭脳のひらめきが早すぎて、つづきを言い落としてしまったのか、それとも筆記者の書きまちがえかと推定されます。さらに同じことがくり返されたり、語法がひどくちがったり、意味がとりにくかったり、論旨があいまいだったりするところがあり、多分に整理を要するものがありました。

 私は以上の点を訂正し、できるだけ先生の言おうとなさるところを生かし、先生の関西弁も成るべくそのままとし、四六版百八十頁の本をこのような形にダイゼストしました。

 この本が先生の著作として以上のような欠点があったにもかかわらず、四ヵ月問に二十万部売れたということは、驚異すべきことで、その内容がいかに霊的なものに満たされ、またどんなに多くの人々を信仰に導いたかを証しています。

 これは、先生が四十一才の時の講演ですから、いわゆる賀川神学の大筋がこのうちに語られ、また先生の学識と生活とがにしみ出ており、先生の人生体験、殊に贖罪愛の実践がまざまざと描かれております。何よりもこれを読むと、先生が壇上に立って、数千の聴衆に語りかけている姿が見えるようで、読む者がその聴衆のI人となったかのような感をおぼえます。

 先生の著作は百四十六種ありますが、この本は先生の宗教的著作として代表的なものといえましょう。






新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第47回『春秋文庫15・宗教教育の本質』)

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上に掲げた映画の台本は、賀川豊彦生誕百年記念プロジェクト作品の「準備稿」です。スタッフの方々と打ち合わせの場で頂いたものですが、惜しくも未完のままとなりました。岩間芳樹さんの脚本で、監督は人気アニメでも知られる吉田憲二さんでした。吉田監督は先年お亡くなりになりましたが、ここに監督の「創作ノート」を掲載させていただき、監督への哀悼の意を現したく存じます。


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                  「創作ノート」

 賀川豊彦生誕一〇〇年記念として企画されたこの映画を、どのような視点で、どのように作るべきか……我々スタッフの討議はそこから始まりました。そして賀川豊彦の業績や人物像を調べていくうちに、彼が生きたどの局面にも登場する民衆たちの姿が、実に生き生きと浮びあがって来ることに興奮を覚えずにはいられません。

 「エキサイティング!」その題名が示すように、この映画は、まさに怒濤のように時代を押し進めて行った民衆の熱気とエネルギーを、賀川の闘いの歴史にからめて描こうとするものです。

 賀川の理念は、「愛と協同」そして「平和」でした。日本は今、繁栄と飽食の時代を迎えたと言われています。でも一人一人の生活が本当に豊かで平和であると言えるでしょうか? 福祉国家たるよりは、軍事大国への道をひた走っているとさえ思われる現実――。この映画は何よりもその事を考える現代通史でありたいと頻っています。

 そして、この映画のもうひとつの主人公は、その時代時代の子ども達であると言う事です。彼等は無条件でその時代の荒波を乗り切り、たくましいエネルギーで生命を謳いあげて行きます。そこには未来に託す人類の夢が生き生きと息づいています。それがこの映画の大きなテーマのひとつである事を附記して――。

                                 監督 吉 田 憲 二


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賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第47回

          春秋文庫15:宗教教育の本質


          昭和4年6月20日 春秋社 200頁


 賀川豊彦は当時、既に『イエス伝の教え方』を皮切りに『魂の彫刻』そのほか「宗教教育」に関する労作を発表してきていますが、『宗教教育の本質』という硬い書名をもって出版した本書は、春秋社の当時としては斬新な「春秋文庫」として企画された一冊に依頼され、超多忙の中を自ら書き下ろした意欲作です。内容の上でも本書は、「賀川思想」を学ぶ上では必読の一冊と思われます。

 手元にあるものは昭和8年5月発行の第5版ですが、昭和9年2月には、大東出版社より「宗教生活叢書第12巻」として書名を『宗教教育の実際』と改めて刊行されています。内容は全く同様で、後に『賀川豊彦全集』第6巻にも収められました。

 早速、表紙と短い「序」をUPいたします。


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                    序

 本書は宗教教育に関する著者の見解を纏めたもので、その意義、方法を実際に即して考察し、従来の諸傾向を批判して新しき宗牧教育の依って立つべき根拠を與へんとしたものである。

 本書は著者が極めて繁忙なる伝道の間に執筆したものであって、著者の懐抱する見解を詳しく披瀝し得なかったとともに、材料の蒐集其他にも相当の不満なきを得ないのであるが、宗教教育が比較的閑却され、これに開する文献の極めて貧弱なる我國に於いて尚多少の貢献するところあるべきを信じ、敢て之を公刊する次第である。

   昭和四年六月
                                       著   者




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第46回『現代長編小説全集21:偶像の支配するところ』)

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昨日まで開催されていた「神戸花物語」にて。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第46回

          「現代長編小説全集21」

            偶像の支配するところ


           昭和4年6月1日 新潮社 792頁


 本書『偶像の支配するところ』は、雑誌『婦人の友』の大正15年4月より昭和2年2月まで連載された作品で、賀川豊彦が熱心に取り組んだ「廃娼運動」を扱った社会小説です。

 新潮社の刊行する「現代長編小説全集」の第21巻に「賀川豊彦・沖野岩三郎篇」として収められました。792頁に及ぶ文字通り長編小説集です。

 なぜか奥付には「非売品」となっています。何か事情があったのでしょうか。

 この小説は全集には入っていません。

 小説ですから「序」はありませんので、ここでは箱表紙と本体表紙、そして口絵写真・吉邨二郎絵・7枚の太田三郎の挿画を収めて置きます。


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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第45回『ジョン・ウェスレー信仰日誌』)

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昨日の「ぶらり散歩」は「デュオドーム」で開催中の「神戸花物語」でした。本日で終わりです。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第45回

        ジョン・ウェスレー著・賀川豊彦・黒田四郎共訳
           

           ジョン・ウェスレー信仰日誌


         昭和4年5日28日 教文館出版部 575頁


 すぐあとで取り出します賀川豊彦の本書の「序」に書かれているように、賀川にとって「最も深い感化を受けた書物のひとつは、ウェスレーの信仰日誌」でした。

 賀川は「まだ二十歳過ぎて間もなく、ウェスレーの信仰日誌を手にした」といわれます。そして彼は「幾日かかかって、省略せられたる彼の信仰日誌を読み了へた。そして私は、新しい自分を発見したやうな気がした」というのです。

 本書は575頁にものぼる大著ですが、賀川が最初に手にして読んだというこの「省略せられたる信仰日誌」を、賀川は黒田四郎氏に翻訳を頼んだようです。

 黒田氏の『私の賀川豊彦研究』には「私が先生のグループに参加した時、先生は直ちにジョン・ウェスレーの『信仰日誌』の翻訳を勧めた。ウェスレーは八十八歳で世を去るまで毎日丹念に日誌を夏期続けたので、その量は膨大なものである。ベーツという人がその一部を編集したものを私は二ヶ月かかって訳し、翌1929(昭和4)年に賀川先生との共訳で出版した」(129頁~130頁)と書き残されています。

 本書には、訳された原著の記載はありませんが、この記述でベーツ編集のものであることだけは判ります。


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 ここでは、本書の表紙と口絵のウェスレーの写真に続けて、賀川豊彦の重要な「序」を取り出して置きます。そして最後に、原書のスキャンを収めます。


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                    序

 私が最も深い感化を受けた書物の一つは、ウェスレーの信仰日誌である。私はまだ二十歳過ぎで間もなく。ウェスレーの信仰日誌を手にした。そして幾日かかかって、省略せられたる彼の信仰日誌を読み了へた。そして私は、新しい自分を発見しやうな気がした。

 ウェスレーがモレヴィアの兄弟達と太西洋を渡る不思議なる精進の記録、彼がまた、ジョウジヤ州の傅道旅行に雲の上で寝た話、彼の朝起、彼の規則だった生活振り、撓まざる努力、馬を友とする傅道族行、一日三度の聖書研究、孤児失業者の保護、馬上の読書、強烈なる傅道心、迫害に直面するその意圖、数へれば数限りもないが、十八世紀末の廃れきった宗教界に、祈と奉仕と、精進と聖潔と完成の福音をひっさげて、しびれ切った欧洲の宗教界に、一大波紋を投げ輿へた彼の貢献は、彼の日誌を見ることによっで、手に取るやうに頷かされる。    し

 アッシシのフランシスが、十三世紀に捲起した宗教運動のそれにも似て、クェスレーの宗敬運動は世界に波及した。フラソシスカンは中世紀的であったけれども、ウェスレーの運動は近世的であった。彼の運動は、中産以下の生活を改造した。自給傅道者の無数の群は、クェスレーの体験した福音を、工場に、農村に、さては貧民窟の裏長屋にまで、それを運び込んだ。英國で労働組合らしいものを作った最初の一因は、クェスレーに導かれた人達の群であった。農民組合を最初に組織したラグレス、労働党を最初に組織したケァハーディ、奴隷解放の先駆をなしたウィルヴァフォースは、みなウェスレーの感化を受けたものと私は記憶する。トーマス・カーライルが云ふた如く、クェスレーの精神運動は英國を暴力革命より救ふた。

 今に至るも、ウェスレーの感化は社会運動の裡に残ってゐる。欧洲大戦中の無任所大臣アーサー・ヘンデルソンもウェスレーの弟子であった。労働内閣の大蔵大臣でフィリップ・スノーデソもメソヂスト派の自給傅道者であったと私は聞かされてゐる。商工大臣に擬せられたランズベリーも同じ仲間であった。ブース大将が貧民窟に石炭箱を運んで行き、其處で説教する覚悟を起したのはウェスレーの感化に基づくことが多かった。

 実にウェスレーの運動は個人の魂を救ふたのみならず、社会の組織を救ふ力を持ってゐた。彼が宗教に對する熱愛と神學的決定論に反對して道徳的自由を高唱したことと、妥協なき規則的な生活と、愛と、精励と、絶えざる祈は、彼の秀れたる経営的手腕と相侯って、近代英國の産業革命を宗教的に救ふ一つの力となった。

 社會組織が人間の全部ではない。個人の精霊が高挙せられずして。社會の改造は不可能である。ウェスレーの執った道は、永久への道である。私は、彼の生涯を繰返し繰返し瞑想して、日本に於ける産業革命が、同じ方法を以て救はれねばならぬことを確信する。

 ウェスレーの周園を無数の信者が同志として取捲いてゐた。彼がその後を司らしめんとした田舎伝道師ジョン・フレッチャーは使徒ヨハネ以来、彼の如く愛に富める人は無いと尊敬せられた程の人であった。私は彼の静かなる信仰日誌に読み耽って、感激の涙を押へることが出来なかった。

 英國に着いたその翌日の午後、私はビショップス・ゲートに近きクェスレーの母教會を訪問し。その教会堂の入口に作られたるウェスレーの母スザンナの墓に敬意を表し、教會の裏に廻って、百敷十名の初代メンヂストの有志等の永遠の墓碑銘に額づいた。それらは教会の礎や。其處に建てられたる幾多の石の上に粗雑に刻み付けられてあった。ウェスレーの蓮動は一人の運動ではなかった。それは一團の同志の運動であった、そこにメソヂスト運動の面臼さがある。然しウェスレーの神による聖潔と、愛と情熱なくして、これ等の一團の青年等が一塊にはならなかったらう。

 前進せんとする者は、まづ過去の傾向を見究めなければならない。我々は、日本の産業革命に直面して、之を救はんが為に、最も新しき意味に於てウェスレーの生涯を省る必要がある。

 1ウェスレーを恵み給いし神、今日も彼の信仰日誌を読む者を祝福し、神の國樹立の祈願を彼の魂の衷に起し給はんことを。

 時は悪い。逆風は我々の破れたる帆と打つ。退潮だ! 早く船をやらなければ死に乗り上げる惧がある。あゝ日本の舟子よ。潮が凡て退かぬうちに、福音の大船を速かに前に進めよう! 日本にウェスレーの群は居らぬか? 田園は悩み、工場は煉ぶる。聖霊は我々の為に悶え。キりストは日本のために、今猶悲しみ給ふ。

 私は日本のために、さうだ日本の為に、もう一度ウェスレーの信仰日誌を読み直し、英國の産業革命を救ふたその精神が今日の日本の産業革命をも救び得んことを、ひたすらに祈るのである。

   一九二九・二・一九
                             摂津武庫川のほとりにて

                                      賀 川 豊 彦



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第44回『殉教の血を承継ぐもの』)

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神戸の賀川記念館4階の神戸イエス団教会礼拝堂です。2階・3階の友愛幼児園の幼な子たちもこの礼拝堂は大切な場所になっています。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

        第44回

               殉教の血を承継ぐもの


          昭和4年5日1日 日曜世界社 172頁


 前回取り出した『聖浄と歓喜』に続いてこれも、賀川豊彦の講演筆記を個人誌『雲の柱』に掲載されたものが殆どです。今井よね・吉田源治郎・吉本健子の筆記をもとに仕上げられています。

 本書も表紙カバーと本体の表紙と裏表紙とはことなっていますので、まず表紙カバーを、そして本体の順にスキャンして置きます。


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 さて、今回も賀川の「序」をここに取り出して、最後に原書のスキャンを収めます。



                    序


       聖パウロは云った。
       『其身を活ける供物として神に捧げよ』と。

       五尺の鯉を、神に祀ることは最も愉快なことである。
       我々の生活の凡てが、神への供物であり祭りであるのだ。

       祭りだ! 祭りだ! 
       あれ、花火が上がり、楽隊が聞こえるではないか。

       我々の生涯のあらゆる瞬間が神への祭りだ! 
       表に五色の旗が翻らなくとも、魂の奥には、永遠の薫香が立ち昇る!

       神への燔祭は我らの赤き血そのものである。
       若き小羊を捕えて神に捧げよ。

       神への捧伽は、我々の生命そのものであらねばならない。
       我々の玉串は、生霊そのものであらねばならぬ。

       完全に我々の全生命を神に祀らうではないか。
       我々の肉体、我々の生活、我々の精紳、我々の學問、我々の芸術、
       そして我々のあらゆる道徳を、神への捧げ物として、
       八足台に捧げようではないか。

       永久の祭りだ、永久の歓楽だ! 
       不滅の花火、無限の祝典、生命の神饌は、永劫に尽くべくもない。

       私に両国の花火はなくとも、私の心臓のうちには、
       不滅の血が、花火以上に赤く爆発する。

       凡てが神への装飾であり、七五三飾りであり、
       凡てが神への芸術である。私の一生はお正月の連続である。

       お祭り気分の私は、無声の聲の音楽に、地球の表面を踊り続ける。
       おめでたう! おめでたう! 永遠におめでたう。

       私はおめでたうを九度繰り返して、キリスト山上の垂訓の九福を回想し、
       十度おめでたうを繰り返した。

       私は万物に勝った、神の福祉に浸って居ることを、直感する。
       『新郎と共に居る間、我々は悲しむことが出来ない』と
       イエスは云はれたが、歓楽の声は魂の内側に充ちて居る。

       カルバリーの最後がどれ程暗黒に見えても、
       神への道は永久に開かれてゐる。

       花火を上けるものは、煙硝を惜んではならない。
       十字架上で流す血は、例へば、
       天に打ち上けられる花火の火薬のやうなものだ。

       その量が多ければ多い程、天に飛び上る爆発力が強い。
       花火を打ち上けよ。

       今日は生命の祭の日だ! 光栄よ、光栄よ、
       萬物は皆歓呼を上けて神の栄光をたゝへ、
       物として神の稜威(みいつ)を賞めないものはない。

       野辺の鳥も、竈(かまど)の下の火も、押入の砂糖の塊も、
       火鉢も、鐡瓶も、原稿用紙も、水苔も、
       人間の垢までが神の栄光を拝してゐる。

       捧げてしまへよ、友よ、私の魂よ、
       君の持てる凡ての物を神に祭ってしまへ。

       その昔イエスが凡てを十字架を通してまつられし如く、
       凡てをまつってしまへ! 

       金銭も、財実も、地位も、名誉も、生命も、魂も、
       惜しげなく神の前にまつれ! 

       今日は、本祭りの日だ! 
       あれ太鼓が聞こえ、笛の音が聞こえる。
       神への祭りは、地上のあらゆる情欲にも勝って感激に満ち、
       生命の神楽は人間のあらゆる快楽に勝って、我々を昂奮せしめる。

       神の甘酒を呑み始めて以来、私は地上のあらゆるものに
       神の御姿を拝するやうになった。

       凡ては神の思し召しに依ってなり、
       凡ては神の恩寵に依って歓呼する。

       有り難い、ありがたい、私は神の前に捧げられた子羊として
       黙々と祭壇の前に屠られる。

       おお、屠り給へ主よ、
       このみすぼらしい子羊が
       あなたの祭壇の芳しき香りとなって
       天にまで送らるる喜びとなるなら、
       私は今日の屠らるる日を一生の光栄の日として
       あなたを讃美します。

       あゝ、永遠の祭り、永劫の饗宴、
       神の最も嬉しき祝典、無限の歓喜よ、
       私は自らを神に捧げることに依って、
       神そのものに帰り行く光栄を担ふ。

       昇れよ燔祭の煙、血ぬれよ祭壇の四隅の角を、
       人類は凡て神のものだ。我々の血は凡て神に帰すべきものだ。
       神は永久の祭りとして我々の生命と憐れみを要求し給ふ。

         一九二九、二、二〇
                                  賀  川  豊  彦
                                   摂津武庫川のほとりにて



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第43回『聖浄と歓喜』)

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須磨離宮公園や西山公園まで出掛けなくても、毎日散歩をしているすぐ近くの公園にも、立派な梅の木があって、凛とした姿を見せていました。





賀川豊彦」のぶらり散歩
   

  ―作品の序文など―

第43回

               聖浄と歓喜


          昭和4年3日25日 日曜世界社 271頁


 本書『聖浄と歓喜』は全集に入っていませんが、これもその多くが賀川豊彦の講演筆記を個人誌『雲の柱』に毎月掲載されていた作品ですが、当時の『雲の柱』の宣伝広告には『献身のすすめ』という書名がつけられていました。

 まず表紙と裏表紙の英語タイトルをスキャンして置きます。恐らくこの著作もカバーがあったはずですが、手元にある古書は、この裸のものです。


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 なお本書は「魂の捧供(まつり)―聖浄憧憬篇」と「弱きものの誇りー悪戦苦闘篇」の2部構成でできていますが、後にそれらが二分冊にされ、昭和17年に「改定版」として、前半は本書の書名のままとし、後半は『復活の福音』という新しい題名で、それぞれ同じ日曜世界社より出版されています。


 『復活の福音』の方には、賀川の当時の新たな序文がつけられていますので、改めて昭和17年の著作を取り出す段階で触れることにいたします。



              *       *


それでは今回も、本書の「序」を読んでみます。そして最後にスキャンもして。



                    序

 私は聖浄(きよ)くなりたい。
 私は罪と穢れから離れて、天の使いのやうな聖浄潔白のやうなものになりたい。

 私一人だけがさうなりたいのではない。
 私は、私の隣人をも、私の民族をも、私の國家をも、私の住んでゐる教会をもさうあらせたい。

 然し私は、仙人の真似をしたくない。
 私は「黄金律ナッシュ」のやうに、全工場をあげて、キリストの生活に即した職業の潔めを持ちたい。

 人一人が潔まればよいのではない。
 文物、制度、職業、法律、教育、経済、すべてが潔められなければならない。

 求むることによって奥へられ、尋ねることによって會ひ、門を叩くことによって開かれる。
 浄められたいと思へば、浄められ得るものである。

 しかし私は、聖浄といふことを聖愛といふことから分離して考へられない。
 聖浄とは聖愛に充たされたものを云ふのである。

 神によって愛を意識した場合に、神聖が彼の胸に宿ったのである。
 聖浄の道を困難な道と考へてはならない。

 神によって孕まれたるものはすべて、愛につき、聖浄に属く。
 聖浄は人間最後の完成の姿であり、生命芸術の最後の階段である。

 私は凡ゆるものを超えて、この聖浄の世界に帰ってきたい。

 この書は、いろんな機會で私が話した聖浄についての瞑想を、
 私の友人達が筆記してくれられたものである。
 今これを一冊の小冊子に纒める場合に、改めてそれらの友人達に感謝する。

  一九二九、二、二〇
                                賀  川  豊  彦
                                  摂津武庫川のほとりにて



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