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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第101回『日本協同組合保険論』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第101回

日本協同組合保険論


  昭和15年10月20日 有光社 262頁


 本書『日本協同組合保険論』は、有光社という賀川にとって初めての出版社より出版されています。本書の序文は、「2600年10月4日」付けで「瀬戸内海豊島にて」しるされています。

 手元のものはこの初版ではなく、昭和46年7月に家の光協会発行の「協同組合の名著」第9巻として出版されたものです。本書は15章構成ですが、「名著」版では第2章から第5章は省略されています。

 その代わりに「名著」版には、黒川泰一氏による重要な「解題」(「『医療組合論』と『日本協同組合保険論』」が収められています。

 ここでは「名著」版のケースの表と本体の表紙、そして口絵写真と賀川豊彦の「序」を収めて置きます。なお、武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』には、関連する「解説」があります。



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                『日本協同組合保険論』

                     


 貧困の原因は、主として、自然的災厄と人間的災厄の二つから来る。しかし、これらの災厄を予知して、これを防止し得ることは非常に困難である。近代科学の任務は、その災厄を予知し、その災厄を克服することが最大の任務ではあるけれども、不幸にして、近代科学はその領域にまで達していない。

 この自然的及び社会的災厄を克服出来ない場合には、せめて、相互扶助の力によって災厄を救済したいという社会心理的努力が、社会保険として現われて来た。

 生物間に於ては、極端なる個人主義者というものは非常に少ない。何故なれば種の保存の必要上、親は子供のことを是非考えなければならない。そこに時間的差こそあれ、一種の時間的相続性を持つ社会性が認められる。更に子供を生む為めに雌雄関係が成立すれば、恋愛が発生し、家庭が出現する。家庭が出現すれば種族性が現われ、茲に新しい社会問題が起って来る。こうして社会性と時間上に発展する相互扶助の思念は、人類にとって殆ど本質的なものである。

 不幸にして斯く本質的な、社会的互助思想は資本主義の勃興と共に営利化せられ、人類を最も宜しい蓑虫のようなものにしてしまった。しかし余り極端に闘争が続く結果、その修正が計画せられ、終に各種の社会立法が現われるに至った。

 日本に於ける社会保険は、その本質的発達に於ては、決して西洋諸国に劣っているものではない。頼母子講の組織にしても、報徳支法にしても、或いは旧幕時代、一一箇国一三藩に実施せられていた洪水救済の地割制度にしても、或いは又、幕末より行なわれていた、福岡県宗像郡に見られるような一種の農民健康保険組合制度の如き、我が国の互助経済思想が相当に根深く、民衆の問に潜在意識として働いていたことが認識ぜられるのである。

 だが、前に述べた通り、こうして優れたる社会保険的施設は、個人主義的資本主義の悪夢によって意識化することなくして葬り去られんとした。

 この点に於てドイツ、英国、スカンジナビア諸国は早くより目覚め、殊に宗教的意識の背景を持つ民衆、或いは社会意識的運動の隆盛を極めた国家に於ては、各種の社会保険が計画せられた。そのうちでもドイツの国民健康保険、或いは英独の失業保険、スウェーデンの生命保険、ハソガリーの火災保険の如きは実に特色あるものである。殊にドイツ、ライファイゼンの協同組合を基礎とする生命保険組合は、画期的新時代を創始した。

 不幸にして目本に於て、生命保険組合は未だ法律上許されていない。しかし協同組合的精神は、社会保険の各部門に於て採用せられた。国民健康保険組合法は、その中に於ても新しき出発であると見てよいと思う。

 労働者健康保険に於ても組合保険の部門が認められ、その後に設けられた各種の社会保険に於て、組合意識的役割の与えられていないものは殆ど無いと言ってもよい。

 こうして、相互扶助的経済組織が我が国に於ても社会保険となって現われて来た以上、又それが社会性を取る以上、意識化する必要を認めざるを得なくなった。そして意識化せしめる為めには、単なる法律や、単なる機構だけでは運用出来ないことが分って来た。即ち、組合意識というものが社会保険に採用せられるようになったことは、こうした社会経済の意識化の必要上、必然的に考えられるに至ったものである。

 こうして曲りなりにも我が国に於ける社会保険は、協同組合保険の形式を備えるものが、だんだん増加して来た。そして今や十数種類に達せんとしている。

 多年協同組合保険を研究し、その組織に専念して来た私は、我が国に適当なる組合保険の書物が一冊も無いことを憂え、新体制に即応する為めにも、是非、国民に社会保険の必要性を理解してもらいたいと思って、茲に目本の協同組合保険を中心として、その西洋に於ける淵源を尋ね、更に東洋に於けるその将来性を考慮して愚見を披瀝した。

 各種の社会事業に多忙なる暇々に、寸暇を利用して纒めた結果、非常に不備な点が多いと思うが、他日これを正して更によきものとしたいと思っている。ただ日本に於ては、協同組合というものは保険事業などに手を出してはならない、という謬見を持つ人々がおることを憂え、計画経済の発達と、統制経済の運用の為めに、組合保険は意識経済の発達上、必然性を帯びるものであることを、敢て此処に論述したわけである。

   二六〇〇年十月四日

                     瀬戸内海豊島にて 賀 川 豊 彦




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第100回『我が闘病』)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第100回

賀川豊彦・杉山平助共著『我が闘病


  昭和15年8月15日 三省堂 158頁


 本書『我が闘病』は、三省堂より出版され、手元のものは昭和15年9月発行の第7版です。8月に初版が出て9月に7版とは驚きですが、奥付には前回の指摘した「停」の字の丸印が印刷されています。前回これはその筋の販売停止か何かと憶測しましたが、、この印は別の意味のものかもわかりませんね?

 賀川豊彦にとっては「闘病」はほとんど生涯にわたるものでしたから、昭和5年には『心の養生―病気に勝つ精神的準備』とか『女性賛美と母性崇拝』『神と苦難の克服』『生命宗教と死の芸術』などの著作のなかにも、「闘病」に関連する文章を書き刻んでいます。そして追って紹介する賀川の著作『病床を道場としてー闘病精神の修養』が仕上げられていきます。

 今回の書物は、評論家として知られる杉山平助との共著で、本書の序文は杉山が執筆しています。また装幀には漫画家の横山隆一が担当しています。

 ここでは、その表紙と横山の序を取り出して置きます。

 なお、2006年には『我が闘病』という同名の書物が、今吹出版社より出版されています。本書の賀川執筆分と村島帰之の名著『賀川豊彦病中闘史』と共に収められていますが、「復刻改訂版」とされていますが、惜しいことに多くの箇所の書き換えが行われており、せっかくの復刻が残念な仕上がりとなっています。



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                    『吾が闘病』

                      


 世間の病人たちのいちばん大きな慰めは、自分の病気の話を、他人に話すことである。

 それにくらべると、他人の病気の話を聞かされることなんぞは、はるかに面白くない、ちっぽけな慰めにすぎない。それでも、患者によると、他人の病気の様子について、根ほり葉ほり知りたがることは、法廷にひっぱり出された被告たちが、判決例について、急に熱心に知りたがるやうになるものと同じ心もちであらう。

 一般に病人たちは、自分の病気が、他人の病気よりもはるかに重くて、難病だと考へることによって、ひそかな満足を感じる変態的な心理を所有してゐるものである。だから、彼等が、自分の病状について語る時は、たいがい誇張される傾きのもるものだ。

 或る患者が、十グラムほとの「ケチ」な喀血をしたのを、看護婦がその通り医者に報告をしたのを聞くと、勃然として憤り、
 「嘘を云ふな、あの喀血は五十グラムは下らんぞ」と、怒鳴りつけた患者を、私は見たことがある。

 私が今、「吾が闘病」について語るのは、ひろく世上の同病者に、この病気についての正確な判断力を輿へるためであり、その萎靡しかかつてゐる精神を激励するためでもあるが、或る意味においては、何だ、お前の病気は、それつぽつちの病気か、俺の病気は、その十層倍も重いたいしたものなんだぞ、といふやうな優越の快感に耽らせてあげたいためでもある。

 出版者が、賀川豊彦さんと私の闘病記を並べて印刷することを思ひついたのは、賀川さんと私の生活気分が、坊さんと浪花節語りほど違つてゐるのを見て、病気の療法にも千差萬別のやりロがあり、ちがつた心がけのあることを、世間にわからせるためであろうと、私は、勝手に推測してゐる。

 闘病といふものは、一般に「悲壮」であり、「深刻」でありたがるものである。この本が、さういふ「深刻」な表情からまぬかれるために、漫書家の横山隆一君をわずらはして、装幀をしてもらふことにした。そのことは、私が、漫画といふものを、真面目に考へてゐることを意味するのである。

  昭和十五年夏
                                  杉 山 平 助



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第99回『銀河系統』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第99回

 銀河系統


  昭和15年5月18日 改造社 490頁


 本書『銀河系統』は、雑誌『家の光』(産業組合中央会)の昭和14年12月から12月までの1年間連載された「銀河系統」(229頁まで)と、もうひとつの作品「隅の首石」(233頁から490頁。これの初出は未確認)と併せて、この書名で出版されています。

 なお、『銀河系統』は、上記の連載の前に「小説・銀河系統」として「神の国新聞」において昭和9年7月から昭和10年2月まで19回にわたって連載されたことがあり、この短編は、2010年7月に「賀川豊彦『一粒の麦』を再販する会」より出版されています。この短篇と、今回の長編小説とは、内容は重なりますが、同じものではありません。

 ここでは、作品の表紙と最後の頁の改造社が出版した賀川の「好評重版」の広告を収めます。「序」がありませんので、武内勝の「労働紹介所」のことや「神戸愛隣館」のことにも触れられる箇所のひとつを取り出して置きます。ここは武内の開拓的な「失業保険組合」の箇所ですね。小説では武内は「武田」として登場しています。



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            『銀河系統』(220頁~223頁)


                失業保瞼組合の勝利            


 「さっきの方が、失業保険組合という言葉をたびたび使っていらっしゃいましたが、さうしたが、さうした組合もこちらで作っていらっしやるんでございますか。」

 高木恒子は、両手を膝の上において、つつましやかに武田に質問した。

 「えゝ、共済組合として自由努働者の間に始めた試みなんですが、幸ひ神戸市内の雇主の側でも、非常に理解してくれましてねえ、自由労働者が就業すると、毎日一人当たり五銭づつ失業保険金として掛金することになっているんです。それに対しまして、雇ってくれる方でも、一人の労働者に対して五銭づつ、賃金の外に失業保険組合の掛金として支出してくれることになっているんです。」

 さう答えた武田の言葉を聞いて、恒子あは全くびっくりしている様子だった。

 「さうですか、それは驚きましたねえ。私はまた、日本には失業保険なんていうものは全然なく、西洋だけに実行されていることだと思っておりました・・・では、やはり協同組合的保険制度もやれるわけですねえ。」

 武田は火鉢の灰を掻きよせながら、じっと恒子の顔を見て、明確に答えた。

 「全くさうですな。日本の各都市でも私たちがやっているようにやれば、失業者が何十万人出ても、決してこまることはないと思います。もう私たちは神戸で、大正12年の震災前からやっているんですが、失業登録をしている自由労働者であれば、ひと月三十日とみて、十八日間は失業保険組合の方え3、毎日毎日六十銭の恵與金を保証しているんです。それでもう十五六年やってきているんですが、いまだに資金に困ったということはありませんからねえ。私はたしかに、日本のやうな貧乏国では、失業保険制度も協同組合的にやると、労働階級が非常に助かると思いますねえ。また、国家の財政からいっても、イギリスやドイツでっもやっているやうな、おほげさな強制的国営失業保険制度では。国家の財政に破綻をきたすと思いますねえ。」



追加




                 



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第98回『日輪を孕む曠野』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第98回

 日輪を孕む曠野


  昭和15年3月7日 大日本雄弁会講談社 285頁


 本書『日輪を孕む曠野』は、講談社の雑誌『現代』の昭和14年1月から昭和15年3月まで連載された、「満州移民」を題材にした作品です。

 この作品も『賀川豊彦全集』には収められていません、これには、賀川の「序」が書かれているので、表紙と共に取り出して置きます。

 なお、本書は初版が出て3ヶ月後の昭和15年6月に再販が出ていますが、奥付に○で囲んだ「停」の印が押されています。これは販売停止の印なのかどうか。前に挙げた『約束の聖地』は4頁分が、その筋より切り取る措置のあったことを指摘しましたが、今回の「停」の意味合いはどういうことでしょうか。最後のこの奥付もスキャンして置きます。



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                 『日輪を孕む曠野』

                     


 春風に氷土は解け、梅雨に黄塵は鎮まる。満州こそは不思議なところである。公主嶺を境にして南に落ちた水は遼河に注ぎ、北に落ちたものは松花江にあつまる。そして図満江は長白山脈に並行して東に流れ、屈曲して朝鮮に水そそぐ。

 満洲の文明は、これらに黒龍江を加へて、四河の文明であるとも言へる。曠野数千哩、昔は遼河の流域全部が渤海湾につづく内海であったことを、地質地圖によって知ることが出来る。しかし、地層の隆起によって、蒼海変じて豆圃と化した、それは岩石の物語る地球の歴史によってよく分る。

 満洲國の最北端は北緯五十三度である。塞気を恐れる熱帯人ならいざ知らす、雪を恐れない人間ならば満洲こそば珍しい肥沃の土地である。しかし、最近三十五年間、ここに移住した漢民族は南方に偏在し、公主嶺を越えて沃土数千平方哩の地域は、のろと羚羊と野鴨の居住に任され、土を耕してゐるものは僅かである。この無住地帯に人類が移住することは、天の與へたる恩恵である。

 しかし、未開拓地を開墾するに当たって、土を愛せざる者が権利のみを主張してその地に徒に境界線を張ることは許されない。『柔和なる者は幸なり、その人は地を嗣ぐことを得べし』とキリストもいうてゐる。土を愛する者はまた隣をも愛さればならぬ、殊に氷土を溶かしてそこに日輪の光熱を導かんとする者は、愛隣、愛神の原理に基き、隣保相愛の国土を建設すべきである。即ち満洲にこそ五族協和の精神が具現さるべきである。五族協和の精神は満洲国民のみならす、世界到るところに培ふべき人類生活の根本原理でなければならぬ。

 日本民族も満州に発展するがよい、支那民族も満洲國に発展せよ、朝鮮人も蒙古人も白系ロシア人も満洲國に殖えよ。五族協和の精神によって相抱け。大陸は廣い、曠野は日輪を孕む、満洲國こそ世界歴史に新しい一頁を加へる愛の國でなければならぬ。

 私は満洲移民を祝福する。そして私は東亜の五民族をも同時に祝福する者である。

    二六〇〇年一月三十一日                  ’
                     賀  川  豊  彦
                                摂津武庫郡瓦木村にて




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下は、さきに指摘した奥付です。「停」の印がつけられています。


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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第97回『自伝小説・石の枕を立てて』)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第97回

自伝小説 石の枕を立てて


  昭和14年3月20日 実業之日本社 310頁


 本書『自伝小説 石の枕を立てて』は、実業之日本社の雑誌『新女苑』昭和13年2月号より連載された『死線を越えて』第4巻として書き始められた作品です。大正12年以後3年ほどの自伝です。

 実業之日本社では『長編小説・東雲は瞬く』に続く作品で、『処世読本』『神と苦難の克服』なども出版しています。

 ここでは本書の表紙と口絵写真などを収め、賀川の「序」はありませんので、今回も武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。



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        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』335頁~337頁

              『石の枕を立てて』について


 これは大正十二年十月十九日、賀川が東京本所松倉町に基督教産業青年会を設立して、関東大震災救援のセッツルメント事業を始めてから満三ヶ年に亙る期間の自伝小説的記録である。『死線を越えて』の三部作を読み、『地球を墳墓として』『鳳凰は灰燼よりよみがえる』をひもとき、それから本書に及ぶならば、明治三十八年より大正十五年に至るまでの賀川の生活と事業とは、ほぼこれを理解することができる。

 本書が初めて発行されたのは、昭和十四年三月二十日であり、発行所は実業之日本社であるところから推察して、賀川は当時実業之目本社から『死線を越えて』の続篇のようなものを言いてくれと頼まれ、大震災後の生活を書きおろして、その頼みに応じたのであろう。従って書きおろしたのは、震災後十六年も経た後であり、当時の記憶をたどって、イソシデソト(事件)を描き出し、これを小説風にまとめようとしたものと思われる。

 このことは主人公の名を『死線を越えて』と同じく新見栄一とし、妹を笑子として登場させていることでわかる。この小説が『死線を越えて』のような爆発的売行きを示さず、版を重ねることがなかったのは、『死線を越えて』のように若き日の情熱を注がず、思いつくままに無雑作に筆を走らせ、小説としての構成についても筋の運びについても、作家的良心を働かせていないことによるのであろう。この頃の賀川はその名声の故に、作家として文の推敲を重ねることもできなかっただろうし、伝道と社会事業との多忙の故に、そうする暇もなかったようである。

 従って本書の価値は、小説あるいは文学たることよりも、賀川の伝記の一部たることにある。殊に失明の記録や、電車とオートバイとの接触により九死に一生を免れた記録の如きは貴重である。

 何よりも心を打たれるのは、賀川が絶えざる資金不足に苦悩し、資金を作ることに追われて、原稿を書いては、稿料をかせぎ、それをセッツルメント事業、協同組合事業にみつぎ、その上に個人の苦境を救うために金を与えている事実である。事業の種類と範囲とをひろげすぎ、これに奉仕して働く人材が十分でないため、運営上の資金不足や借財がかさみ、その尻拭いを賀川は絶えずしなければならなかった。そのため出版社、雑誌社から原稿を頼まれれば、これに応じて自ら書き、また口授して書かせて原稿料をかせぎ、これを事業にみつぐのであった。稼いでも稼いでも足らず、苦心惨僣する賀川の日常生活がこの書にはありありと描かれている。そして成るほど、賀川の壮年時代に出版された書物に推敲の足りないわけが、さこそとうなずかれるのである。

 殊に「家庭百科全書」出版が失敗したことから借金を負わされ、その尻拭いをするくだりを読むと、深い同情を賀川に寄せざるを得ない。

 世間的には華やかに見えた賀川の壮年時代の生活は、その内輪を見れば、人のための借金による『火の車』である。しかもこの『火の車』が賀川を駆って多くの著作をなさしめた。『苦難に対する態度』『愛の科学』『地球を墳墓として』『イエスの内部生活』『壁の声きく時』『福音書に現われたるイエスの姿』『神との対座』『神の懐にあるもの』『永遠の乳房』などはことごとく当時の『火の車』の所産である。

 本書に記されている事件のうちで、賀川の一身上の重大事件は、失明と輪禍である。彼は眼疾のため大正十二年の春にも失明し、六ヶ月の療養の後、奇蹟的に回復したが、大正十五年三月には腎臓炎のために両眼に雲がかかり、五本の指さえ見えなくなった。須田病院に入院した後は『尻尾に火をつけた野牛が、脳髄の中を駆けまわるような痛さ』が数日間つづいた。医師は視力の回復は絶望的であるといったが、賀川自身は回復を信じた。一週間失明がつづき、角膜か離脱した後十日たって右眼に視力がよみがえってきた。そして医師の驚きのうちに視力は元通りになったのであった。

 も一つは大正十四年九月九日に玉川電車の宮の坂踏切で、賀川の乗っていたオートバイが電車と衝突し、線路の傍にほうり出された事件である。

 『ブレーキをかけることを忘れた電車は、彼の顔の上を横切って、母体の車軸よりはみ出したところを彼に見せながら、するすると五六間すべって行った。その刹那、彼は彼の顴骨を横切って電車の車輪か通過したと思った。しかし次の瞬間に気がついて見ると彼は生きていた。』

と賀川は叙している。腰骨をひどく痛めたが、これも十日間の安静により回復してしまった。

 この二つの事件は、神がいかに賀川を用いようとして、その生命を守って下さったかを示している。第二の事件については賀川は次のように書いている。

 『いよいよ半身不髄の人間になってしまつたかと、少なからざる不安に襲われた。しかしその一瞬間、彼にとっては実によき教訓を受けた。彼は若い時、神に約束した神への誓いを離れて、地上の名誉や政治的権勢に走ることの危険を慎しむようにと、神から警告を受けたのだと信じた。それは丁度ユダヤ民族の師父ヤコブが神からの訓戒を受けて、一生跛とせられたようなものだと思った。』

 『石の枕を立てて』という表題は創世記三十八章十節以下にある。ヤコブが石の枕を立てて眠り、天に達する梯子に神の使の上り下りするのを見た物語から取ったものである。

 この作品のモデルは殆んど実在の人物であり、実名をその通り用いているところもある。差支えない限り下にこれを表記しよう。

  徳本久代   広本久代(通称ひもちゃん)
  有田夫人   有田すて
  木村     木立義道
  磯村ドクトル 馬島 澗
  今泉ちか子  今井よね
  吉田源治郎  (本名)
  山口英世   山路英世(逝去)
  吉本健子   (本名、賀川の万年筆といわれたがアメリカにて客死)
  三上千代子  (本名)
  深井種次  深田種嗣
  喜代子夫人はもちろん賀川春子夫人のことである。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第96回『約束の聖地』)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第96回

  約束の聖地


  昭和14年3月10日 日曜世界社 302頁


 本書『約束の聖地』は、昭和12年に「中央産業組合新聞」に連載された長編小説で、日曜世界社で刊行されました。これは「組合運動の教科書とも又産業組合運動読本ともいうべき内容」(米沢和一郎)ともいわれています。

 賀川豊彦の著作は、検閲による発売禁止や伏字の多い作品がありますが、本書は何と完成した著作の2枚分が切り取られています。日曜世界社は、賀川の「序」の頁にそのことを告げる文章を印刷した紙をノリで張り付けています。こういう処置は今回初めて目にしました。

 ここでは表紙や「序」と共に、その貼り紙もスキャンして収めて置きます。なお本書は『賀川豊彦全集』には入りませんでした。



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                 『約束の聖地』

                    


 『神様、約束の聖地にいつ私達は這入ることが出来ませうか?』
 さう、奴隷解放の先駆者モーセは創造主に質問した。

 すると、神は簡単に答へ給ふた。
 『「我」を主張するものは、一切約束の聖地には這入れ無い。おまへも荒野で死なればならぬ。それはおまへは神を中心にしないで「我」を出した場合があつたからだ…………』

 約束の聖地はパレスチナだけの問題では無い。人類理想の聖域は凡てこれ約束の聖地である。然し神が人類に約束されたこの聖域に『利己』を主張し『自我』を高調する者は這入ることは出来ない。

 三千五百年前、奴隷解放の恩人モーセを叱責せられた神のみ馨は、今もなほ我等の耳に響いてくる。

「我」をのみ主張するものは、約束の聖地には這入れ無い。――機械文明の現代生活にそれが如何に現れてゐるか?
 資本主義も、共産主義も、ファシズムも、何々主義も、・・・・凡て「我」の変形である間約束の聖地には這入れ無い。

 然らば、如何にして約束の聖地に這入るか? 約束の聖地は、西方浄土でも無ければパレスチナでも無い。          ・
されば約束の聖地を何處に求めるか? 私は沙漠を彷徨するエヂプトの奴隷のやうな気持で此の小説を書いた。

 人類生活の続く限り、人類に「明日」が約束せられる間、この小説に盛られた問題は永遠の真理として残るであらう。

 では、約束の聖地を探すために我等は出発しよう。

   一九三九・三・二二
                      印度より帰りて

                          賀  川  豊  彦




   本書本文九一、九二頁は其の筋より削除を命ぜ
   られましたから切や取りました。各位の諒恕を
   願ひます。
     昭和十四年五月
                  日曜世界社



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第95回『小説・キリスト』)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第95回

 小説・キリスト


  昭和13年11月20日 改造社 551頁


 本書『小説・キリスト』は、雑誌『改造』で昭和10年10月から昭和11年3月まで「長編小説・キリスト」として連載された作品で、小説の末尾に賀川の「跋」が添えられていて、この作品への賀川の特別の思いが書き込まれています。

 平沢定治の装丁で多くの宗教画も収められています。ここでは表紙や口絵などと共に「跋」も取り出して置きます。そして、武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の本書の「解説」も収めます。



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                 『小説 キリスト』

                     


 私の手は慄へてゐる、私のからだはわなないてゐる、脈拍は結滞勝だ、人類五十万年の歴史にまだ姦悪がうち続き、流血の惨事が歴史を色彩って行く。かうした時代に、私は科学と文明を信用することは出来ないのだ。

 「人もし新に生れずば神の国に入る能はず」とキリストは叫ばれたが、ローマ帝国時代に言はれたキリストの言葉は、二千年を経た今日も同じ意味を持つてゐる。飛行機が飛び、潜水艦が突進し、ラヂオとテレビジョンが発明せられても、霊魂の改変があり得ない以上凡ゆる発明も発見も全く無価値に等しい。

 ローマ時代から人間はどれだけ霊魂の身長を加へたらうか? それを思ふとき私は、キリストの霊魂の身長の基準にまで伸び上る義務があると思ふ。

 霊魂の身長とは何をいふか? 彼の心が天より最微者へまでの距離を持つてゐるか、否かといふことである。キリストは大工として生活し、宇宙の創造者の全的意識を彼の自覚に収め、創造の目的をもって人類の歴史を見直した。そして神より離れた、最微者が罪と穢れに悩んでゐることを見て、これを批判する前に、これと協力して再生せしめんと努力した。

 ああこの再創造の意識こそ、キリストの霊的身長が歴史の基準となつた理由だ。

 国は興り国は亡び、民族は起り民族は消滅する、その間にあって独り、霊魂の身長に神の基格を特つ者のみが、歴史の尺度を決定した。

 私は、かうし霊魂の呻きをもつつ、このキリストの小説を綴った。ある人は私を冒涜者といふかも知れない、さう言はれても私はその批判を甘受する。私は、キリストの霊的身長の基格をもう一度現代に持っで来たいために、かうした表現の方法を取るより道が無かったのだ。

 この小説を書き出してから私は満五年になる、筆を執っては考へ筆を置いては祈り、人類の低迷に、人間の無為に、至聖者に訴へつつこの書を完成した。

 贈罪愛の意識をもったキリストを表現するには、私の筆はあまりに無力であらう、しかし、幾度でも努力してゐるうちに、人類の更改の日が来ないとは誰が保証出来ようぞ。

 あゝ太陽よ、星よ、暴風よ、洪水よ、如何にかして私は霊魂の潔められんことを待ってゐるのだ。熱化し、風化し、浄化してくれ私の魂を……そして世界の霊魂を神の国にまで引上げてくれ、あゝ、砕けたる私の魂に、殆ど自らの涙の洪水に溺れんとしてゐる私を救うてくれ! あゝ太陽よ、星よ、暴風よ、洪水よ!

  一九三八・一一・一〇

                              賀 川 豊 彦




追加




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        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』327頁~332頁


            『小説キリスト』について


             著作の年代とモチーフ

 第二次世界大戦勃発の一年前、すなわち一九三八年十一月にこの書は改造社から出版された。賀川が自ら記した跋によれば、彼は満五年を費してこれを書き上げた。
 『筆を執っては考え、筆をおいては祈り、人類の低迷に、人間の無為に、至聖者に訴えつつこの書を完成した」と彼は書いている。
 践には更に
 『人もし新に生まれずば神の国に入る能わずとキリストは叫ばれたが、ローマ帝国時代に言われたキリストの言築は、二千年を経た今日も同じ意味をもっている。飛行機が飛び、潜水艦が突進し、ラジオとテレビジョンが発明せられても、霊魂の改変があり得ない以上、あらゆる発明も発見も全く無価値に等しい。ローマ時代から人間はどれだけ霊魂の身長を加えたろうか? それを思う時、私はキリストの霊魂の身長の基準まで伸び上がる義務があると思う』と記されている。しかし賀川はキリストを描くことによりこの時代の批判をしてはいない。むしろ彼は『革命か? 十字架か? 悪魔は革命を指差し、聖霊は十字架を彼にささやいた。それで彼は新しく瞑想のうちに十字架を覚悟した』という見方によってイエスを描こうとしている。        
 読者は『キリストについての瞑想』(第三巻)のうちにおいて、賀川がキリスト伝について次のような独特の意見を提示していることを知るであろう。
 『キリストが、華々しいガリラヤ伝道を続けている中に、突然ヨハネは死刑になつた。それによって激昂した民衆は、約五千人位集って、キリストが湖水を渡り山に退いて祈ろうとしているのを無理についてきた。その数五千を越えたものがキリストにつきまとうてくる程熱心だった。この記事は、マルコ伝やルカ伝を見ても、なぜ集ったか全然わからないが、マタイ伝とヨハネ伝をひっつけてみると、これは革命の相談が出来ると思ったからついてきたのである。(ヨハネ六・一五)これは大変な事件だった。そしてこの事実によってキリストは殺されたのである。民衆はキリストを無理矢理に王になさんとした。その群衆が五千人あった。キリストは幼い頃に、ユダが革命しようとしたことを知っていられたので、今更革命することを好まず、キリストは旅行に出られた。それからキリストの隠世時代が始まる。
 第一の旅行は、カペナウムを出て、ツロ、シドン、それから湖水の東側に出て、ユダヤの様子をさぐってみた。すると、まだ革命熱は醒めていず、集まるものが四千人あった。ある人は、これは問違いだ、五千人の記事が重複しているのだというが、それは奇蹟ばかりを読もうとするからで、実際は、革命から隠れたキリストが、再び帰って来られた時に、集ったものが四千人あったので、マルコ伝を見るとよくわかる。マルコ伝第六章四十四節に、男子のみ五千人とあって、女がなぜそこにいないか? 女は革命の邪魔になるから、男のみついてきたのである。これは面白い。
 第三インターナショナルは、スイツランドのゼネヴア湖畔の二箇所の森の中で隠れて相談された。そして独逸の軍用車に乗って、ロシヤに乗込んだ連中があの革命を起したのである。革命はこっそり計画するものである。山の中に入って来たのは、奇蹟のみでなく、革命という意味があるからであったろう。彼等が帰る途中で餓死する恐れがあったので、キリストはパンを与えたのである。私はこれを深刻なる事実として信ずる。
 そこで、次にキリストはすぐ旅に出られた。(マルコ七・二四)なぜ、人に見られざるように隠れようとしたか? あまりに卑怯ぢやないかと思はせられる。がそれはいたずらにヘロデ・アソチパスの激昂を受けて断頭台に死にたくなかったからである。で、キリストは奇蹟を実行してもう一度帰って来られた。(マルコ七・三一)デカポリス(十の町)は比較的繁栄なギリシヤ人の土地で、ユダヤ人の中を通ると危いから、ギリシヤ人の間を通って、こんどはガリラヤの海に来られた。それからマルコ伝第八章一節の四千人の事実が続く。まだキリストの評判は去っていなくて、前より一千人少かったが、また四千人集った。これは決して同じ事実を二度書いたものではない。ある人のごときは、二度そんな事件かあったのではない、一度だというが、それは社会運動を知らない人のいうことである。いかにユダヤ人が革命を望んでいたか! この種の革命は紀元二世紀頃まで続いている。いつも革命をやりたいと思っていたが、しまいに国を全部ローマ帝国にとられた。』(二一二頁―二二一頁)
もう一つ興味がおるのは、ヨハネによる福音書の作者に関することである。
 「ヨハネ程、キリストを官憲の眼からみたものはない。第一章から官憲の気持で書いている。エルサレムの官憲の気持からみている。バプテスマのヨハネに対しても、例えば解らぬことが書いてある。なぜか? そこに理由がある。キリストの弟子の中に、高位高官の人が大分いた。ニコデモ、アリマタヤのヨセフ、ヘロデの大臣クーザの夫人ヨハソナ、へロデの乳兄弟のマナエン等が改心している。(使徒行伝一三・一)クーザの如きは知事官邸に出入したから、タイベリアス皇帝の孫姫にあたるピラト夫人などのことをよく知っていたと想像できる。そして、その材料をヨハネに提供しのである。だから、主観的な註釈的な部分が多過ぎるが、註釈的なものをぬかしたりヨハネ伝なしにはキリスト伝は絶対にわからない。
 例えば、キリストが神殿を破壊するといったことが、死刑の理出となっていることは、ヨハネ伝だけにしか書いてない。ヨハネ伝がなければ、キリスト伝は書けないというのはそういう処である。その中でも特に、ペテデについてこいとか、ヤゴブの兄弟についてこいといったことは、ヨハネ伝に依らなければ判らない。であるからキリスト伝をみる時、マルコ伝を基礎にせず、満遍なく、公平な学理的立場から、現代的のキリストを研究したいと思う。』(二〇二頁)
 以上二つの見解は本書のモチーフをなすもので、賀川の胸中には、こうした考えが十数年の間潜んでおり、それが昂じて彼にこの本を書かせる動機となったのではないかと思う。しかも政治革命か精神革命かの岐路に立った青年賀川が、敢然として政治革命家とたもとを分かって、伝道者として一生を貫いたのは、聖霊のささやきに従って十字架を目指すというキリスト観にもとずいたためであろう。否、こうした賀川の態度がこのキリスト伝を生み出したのであろう。その意味において、賀川はこのキリスト像に自己の姿を描いているといえる。

             資料部分と創作部分

 ここに記されたキリストの生涯はバプテスマのヨハネが処刑された直後の物語から始まって、キリストの十字架と葬りのところで終っている。復活について賀川は事実の描写や説明をせずに、彼一流の散文詩によってその意味を強調している。
 青年時代のイエスについては、『七〇人生の真夜中』の項において、イエスが十年前ナザレの大工として働いていた頃の思い出をえがくことによって叙述している。ここにはいかにも田舎大工らしいイエスの生活と人に親切なイエスの姿とが描かれている。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるイエスに関しては、『八〇 八サバラ』の項において、三年前の回想として記している。二つの場合、イエスの母マリヤは、イエスを変り者とし、家族のために尽すことが足りないといって非難しているのが注目される。
 物語は共同福音書とヨハネ伝とを巧みに組み合せつつ、ロマンティクな味を出すように構成されているが、福音書に全く根拠のないエピソードも随所にあらわれてくる。これは全く賀川の創作であるといってよかろう。ところどころヨセフスのユダヤ古代史からヒントを受けたところもある。
 そこで先ず福音書に記されていない面白い物語りを拾って紹介し、次に賀川のイエス観及びイエス像のうちに画かれた賀川自身の像を語ることにしよう。

              創作された部分

 革命旋風を避け、六人の弟子をつれてツロ、シドンの方に旅行したイエスは、北進してダマスコに出た。ここで。バプテスマのヨハネの弟子サラテルを訪れ、ヨハネの首を見る。サラテルはヘロデの干卒長からヨハネの首をもらい受け、ダマスコに逃れていたのであった。イエスがヨハネの首と対面する場面は、息ずまるような迫力ある。ここの描写については賀川は精魂を傾けて筆を進めたにちがいない。サラテルはイエスに復讐をけしかける。しかしイエスは沈黙を守ったままでここを辞した。
 イスカリオテのユダについても賀川は独特な解釈をしている。ユダは熱心党の人々と同様にイエスを政治革命の指導者として仰ぎ、エルサレムの大祭司とイエスとを握手させ、ローマ帝国に対する独立運動を企てる。ユダの見解によれば、イエスがイスラエル氏族の権力者である大祭司と結ぶのでなければ、革命は成功しないというのである、ユダはこの運動を試みたが、イエスに革命の意志のないことを知って絶望し、それが裏切りを誘発したのであった。
 熱心党の闘士であり、革命資金を得るため強盗にまで転落したエヒューは、脇役として登場する。これが実に三本の十字架の一つにかけられ、『御国に入り給う時我をおぼえ給え』とイエスに呼びかけた強盗の一人なのである。その娘をドルシラといい、遊女に売られていたのをイエスは自由にしてやる。ドルシラは捕えられている父親エヒューを助けようと口―マ官憲への贈賄資金を得るために苦しむ。牢獄の父に面会しようとしてアントニアの塔の西門を叩くドルシラを助けようとして、イエスは牢獄を訪れ、ローマ兵の病気を癒してやり、ドルシラを父親に面会させてやる。取税入ザアカイの家に宿った時、イエスがエヒューを助けるため百五十シケルの寄附を求めるところなどいかのも賀川流である。ドルシラの救援は間に合わず、エヒューはイエスと共に処刑される。その場にかけつけたドルシラは、十字架に釘づけにされつつある父の脚にすがって泣く。
 もう一本の十字架につけられたのは、アキバであり、もとはバプテスマのヨハネの弟子で、後に革命を志し強盗にまで落ちていった人物である。これはイエスを罵る。この人物も物語りの中にしばしば登場する。
 賀川はへロデ・アソテパスの内大臣クーザの妻ヨハンナに特に深い興味をもったと見え、本書の初めから、すなわちカぺヘナウムにあるぺテロの家にイエスか滞在している場面から、彼女の姿を現わさせ、セフォリスにあるヘロデの宮殿における場面、イエスに従うため家出するところ、イエスの捕われた後、ベタニヤのマリヤの訪問を受け、二人してピラト夫人にイエスの釈放を運動するところ、十字架より少し離れてイエスの母マリヤ等とともに立ち、イエスの処刑を見守るところなどを、詳して描いている。
 ヨハネ伝の作者がヘロデの宮廷及びカヤパの官邸の事情に涌じている者によって書かれたという賀川の推測が、この辺にもにじみ出ている。
 エッセネの生活のイエスに及ぼした感化も賀川は推量によって書いている。『四五 エッセネの感化』という項目を設けて愛の行者たるイエスがエッセネから受けた感化を説明し、更に母マリヤがイエスに結婚をすすめるくだりにおいては、特にエッセネの影響を強調している。エッセネは当時、俗世から離れ、独身を守り、祈りと愛の奉仕とに献身する人々の集まった教団であった。

               イエス像と賀川像

 イエス像を描くに当たって、賀川はあまり克明な描写をせずに、淡々と書いている。イエスのことばづかいは至って平明率直で、賀川自身が平常用いた語調をそのまま出している。その意味ではイエスの威厳をやや損ねている感なきにしもあらずであるが、イエスを庶民的人物として表現する点においては成功しているといえよう。
 『食事はあとにしよう。イスラエルの悩みを先に負いましょうかい』とか「マルタ、マルタ、あなたはそんなに苦労しなくともよろしいよ。さう人間に必要なものっていうのは沢山ないんだから―一つあれば沢山です。マリアは、その一つを選んでいるんだから、あの娘からそれを奪うことはできませんよ、わはわは』『ヘテロは魚をとるのは上手だが、城を取るのはできそうもないな。わはわは』といった調子である。
 イエスの内面描写は、賀川自身の内面描写である。
 『――何という平安、何という静けさ、生存の不可思議、星の光栄、風の神秘、宇宙全体が神の胎盤の如く感ぜられるではないか………神に可愛がられている、神の独子、そうだ、指光の延長が山であり、河であり、星であり、宇宙の物質は、すべて神の言葉であり、彼の魂は直接、天の父の魂に吸いついていることを深く感じた』
などこの例である。
 ベタニヤのマリヤは、イエスが伝道を始めた頃は、弟のラザロとともにカペナウムの貧民窟に住んでおり、後にベタニヤにいる姉マルタのもとに転居することになっている。イエスがこの貧民窟を訪れ、病める青年ラザロとマリヤとに金を与え、病人を癒してやるところなどは、貧民窟経験をそのまま出している。
 イエスがベタニヤでマリヤと話している場面――マルタが入ってきて、不平を言う前――においては、賀川はイエスをして賀川神学を語らせている。『神の心を人間の心としてその日その日を送る』『天地の神様の胸のうちに抱きしめられる有難さを忘れない』『神様の気持になって世界を見直すこと、それは聖霊の働きです』ということばなどがそれである。
 姦淫の女を人々が連れてきた時、イエスはかがんで地にものを書いていたとヨハネ伝八章に記されているが、ここのところで、イエスは魚の画を地上にかいていたことになっている。賀川は画を描くことを好んだからであろう。
 捕えられる前、イエスがエフライムの山地で羊を飼っている場面かある。ベタニヤのマリヤがそこに訪ねてくる。イエスはマリヤに向かって言う。(マリヤはヨハンナと同様この物語の脇役である。)
 『マリヤよ、私はあなたが知っている通り、今日まで黙って、人の尻拭いをしてきた………それで私には人の責任を自分のものとして引かぶるということがよくわかる。私の一生は人の失敗を尻拭きして廻る役目であった……』
 『尻拭き』は賀川の常常套語であった。賀川はキリストのことばのうちに、このような自分の生活と使命観とを表現している。しかし賀川の尻拭きがキリストの贖罪愛の実践であったことはまちがいない。
 イエスか笞刑を受ける場面で、ローマ兵の一人か『この男は表面はおとなしいように見えるけれども、内心はローマに対し革命思想を抱いているらしいな』という。このことばは賀川が川崎造船のストライキの直後、投獄されて検事の取調べを受けた時、検事が調書に記した一句『表面穏健に見ゆれども内心に革命思想をいだけるものの如し』から取ったのであろう。「空中征服」の中で賀川市長が十字架刑を受ける場面にも出ている。
 人はキリスト伝を書くことによって、自己の精神的成長の限界を示す。人がキリス卜を如何に把握しているかは、彼の思想、生活、人格、信仰の何たるかを決定するからである。その意味において賀川のキリスト伝は、賀川がキリストを如何に把握していたかを物語る。否、キリストが如何に賀川のうちに生きていたかを示すのである。
 この書にあらわれてくるキリストは柔和にして、人の罪を負う小羊の姿をもつキリストである。どちらかといえば、男性的な厳しさがなく、女性的な柔しさをもったキリストである。政治に巻きこまれることを極力避けつつ、あくまで救主メシヤとしての使命、贖罪を完成しようとするキリストである。宇宙生命の体得者として、神と一つとなって生き抜くキリストである、坦々たる、そして清澄な心境をもって十字架につけられるキリストである。賀川は十字架に釘づけされる時のキリストを次のように描いている。
 『イエスは荊の冠をかぶせられたまま、顔に露ほどの悲しみの表情もあらわさないで、まるで寝床にでも入るような調子で十字架の上に仰向けになった。彼は大きな瞳を据えて、澄み切った蒼空を見上げていた』          ゛
 も一つ賀川のキリスト観の特質がこの書にあらわれている。それは『教会』のうちに立てこもるキリストではなく、社会の中に広く深く入って行くキリストである。その点は次の二つの表現によりて明らかにされるであろう。
 『バルヨナ・シモン、お前は仕合せ者だ。お前の名は巌だとはよく附けたもの              だ。その信念の巌の上に新しい社会を築いてくれ』(二五 メシヤの告白の項)
教会といわずに社会といったところが面白い。
 『ぺテロ、ぺテロ、そんな時にはね、君ひとり行って先ず忠告してさ。まだきかなければ、こんどは二三人行って忠告したがいいだろう。もしそれでもきかなければ、団体で諌めるんだね。』(二八 カベナウムの籠居の項)
 ここも教会のかわりに団体といっている。
 全体的に見て、賀川の『小説キリスト』は『キリストについての瞑想』に肉づけしたものである。




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第94回M・W・チヤイルヅ著『中庸を行くスヰーデンー世界の模範国』賀川豊彦・嶋田啓一郎共訳)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。




 賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第94回

 M・W・チヤイルヅ著

中庸を行くスヰーデン―世界の模範国

 賀川豊彦・嶋田啓一郎共訳

  昭和13年11月15日 豊文書店 286頁


 本書『中庸を行くスヰーデン―世界の模範国』は、賀川の意向を受けて嶋田啓一郎が翻訳して雑誌『雲の柱』の昭和13年3月から9月まで連載され、賀川の校閲を経て仕上げられています。この出版社では、前に『女性讃美と母性崇拝』も出しています。

 箱入りの上製本ですが、ここでも本書の箱の表紙、本体の表紙などと共に賀川の「訳者序」を取り出して置きます。



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       M・W・チャールヅ著『中庸を行くスヰーデン―世界の模範国』

             賀川豊彦・嶋田啓一郎共訳


                 訳者序


                  

 何を言ってもスヰーデンで最も驚くことは、犯罪率の非常に少ないことである。刑務所に行く者は、一年間を通じて約千百人であり、(日本は十二萬六千人)殺人犯は十年間平均で約十一人くらゐだと記憶してゐる――一九三一年恐慌時には少し悪かったが――そのためにストックホルムは刑務所を廃したと聞いてゐる。その筈である、妊娠に對しては妊婦保険組合があり、病気に對しては疾病保険組合があり、癈疾に對しては癈疾保険組合があり、老人に對しては養老年金制度があり、死亡に際しては生命保険組合があり、日用必要品は搾取なき消費組合から求め、住宅は搾取を離れたる住宅組合から借り、又世界一立派な生命保険組合が営利を離れて無産階級の生命保険を司ってゐる。それに被服は手工組合で織り、教育は中等程度まで義務制であり、それより以上は、學費の半額まで政府の補助がある。政府は軍備を廃して教育費にそれを使用する。かうしたところに窃盗の必要がない。梅毒患者は実に僅少になり、アルコールの遺傅は少なく、変質者が全くない状態であるために、世界に珍らしい道徳國が出末上つたのである。

 かういふ國では盗棒をすると損をする。僅かばかりの金、五十圓か百圓の金を盗んで、國民としての何萬圓かの権利を失ふことが厭であるからである。実際國民といふものは、生活権と労働権と教育権を保澄してくれるたらば、そんなに多く罪を犯すものではない。

 スヰーデンはルーテル教會一つで殆んど固まつてゐる。その信仰は必ずしも進歩的ではないであらう。しかし、三十年戦争を指導した人々が、スヰーデンから出たくらいであるから、その熱狂的信仰は、チュートン民族のうちでも特異なものである。

                    

 スヰーデンの女は白晳人種のうちで最も世話女房的典型であると言はれてゐる。非常に柔和で温順である。紐育に居る日本人でスヰーデン人と結婚してゐるものが、五百組以上あるとある人が言うてゐたが、スヰーデン人はそれ位、人種を超越して人を愛し得る力を持つてゐる。勿論スヰーデンは数百年館、フィンランドを領有して、蒙古人種と雑婚した過去の経嶮も持ってぬることは事実である。しかし、それらの人々はフィンランドに残ってゐて、スヰーデンには純粋のチュートン民族だけが現存してゐる。

 私は一九三六年の旅行で、スヰーデン人のやさしいことに驚いた。禁酒、廃娼の民族が、このやうに柔和な民族になるのだといふことを始めて知った。

                      

 スヰーデッの芸術は、今日フランス及びアメリカを風靡してゐる。その特徴は建築及び彫刻に顕れれてゐる。スヰーデンの建築は街路に面して屏風形に建ってゐる、その独創的な発明には、私も吃驚した。しかし、光線を得るためにはこれが一番いいのだ、又美的でもある。面白いのは芸術ばかりではたい、自然科學の分野に於てもスヰーデンは大きな貢献をなしつつある。植物學はスヰーデンから始まった。リンネがその創始者である。寒帯農業もスヰーデンが最初研究に手を着けた。寒帯地に於ける小麦の適種を選別したニコルソンの貢献は不滅である。光學に於て光線の波長を測定するのに、アングストロームといふ標準尺度を用ひる、それは一粍の一億分の一を意味してゐる。このアングストロームこそはスヰーデン人の名であって、アングストローム氏の創始したものである。通例「○A」といふ記号を使用して、一アングストロームの記号として使用してゐる。

 然るに最近になって、スヰーデン人ゴールド・シュミツド博士は結晶化學に於て一大発見を遂げた。彼は米國のポーリングと並び称せられる有名たる結晶体の學者である。彼は結晶体内の原子の大きさを測定した。すなわち水素の大きさは一・五Aであり、炭素は〇・七七A、窒素は〇・五三A、酸素は一・四Å等々と明確に測定を完成したのはスヰーデン人であった。

 スヰーデン人ヘデンの中央アジア探検の勇敢なる記録は世人のよく記憶するところである。又近代心霊科學の進歩によって、スヰデンブルグの真価が盆々認められて来た。彼又天才的スヰーデン人である。

 二十世紀の初頭、ノルウェイが、スヰーデンより独立せんとした時、スヰーデン人は喜んでノルウェイに独立を與えた。それでノルウェイの國家は、スヰーデンに對する感謝の言葉から初まってゐる。嘗て国際聯盟に於て、ブラジルが、理事國の一つになりたいと主張して譲らたかった時、スヰーデンは喜んで理事國たる名巻を自から辞退し、ブラジルをそのあとに据ゑだ。スヰーデン人は個人として麗しき道徳をもっているのみならず、国際道徳に於ても世界稀に見る標準を保持してゐる。

 平和二百年、このスヰーデン國は地球の表面に於て最も理想に近い、社會的水準を我々に示してゐると考へざるを得ない。東洋平和の実現に努力してゐる日本は、大にスヰ―デンに學ぶところがなくてはならぬ。この書の翻訳は専ら島田啓一郎氏の努力によったものである。私はたゞこれを原書と照し合せて處々筆を入れたにしか過ぎたい。

 原著は米國の読書界に於て廣く読まれた名著である。幸にして日本に於てもこの名著が廣く読まれるたら此上なき仕合せである。

    昭和十三年十月十三目

                             賀 川 豊 彦




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文あなど(第93回『第三紀層の上に』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』よりUP。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第93回

 第三紀層の上に

  昭和13年6月20日 大日本雄弁会講談社 384頁


 本書『第三紀層の上に』は、雑誌『雄弁』講談社の昭和12年1月から昭和13年4月までの「長編小説・第三紀層の上に」に連載された作品です。この出版社からは『一粒の麦』『海豹の如く』『その流域』などを出して話題となりました。

 ここでも本書のカバー・表紙などと共に賀川の「はしがき」を取り出して置きます。そして武藤富男氏が『賀川豊彦全集ダイジェスト』に短く書いている「解説」も収めます。



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               『第三紀層の上に』

                 はしがき


 北氷洋にすら、エスキモーは住む。天与の国土に、人類の住めない理由は無い。
 ゴビの沙漠にすら、蒙古人種の住んでゐるものを、天与の国土に、人間の住め無い理由は無い。
 日本は、海国で、若も山国だ。八割五分は山を以つて蔽はれ、村落は山と山の間を流れる渓谷に多く作られてゐる。
 然し、その八割五分を占める山岳地帯は、このまま捨てて置いてよいか? 瑞西ではアルプスの七千フィートまでを、牧場として、山の斜面の雑草を食料に変へてゐる。日本の国土には、支那大陸には珍らしい、第三紀層が発達してゐる。その山の絶頂は、準平原と称する高原地帯を成してゐる。
 この準平原を征服し得るなら日本の耕地は、一躍倍加するであらう。水平線に近い渓谷の流域に眼をつけると共に、日本人は準平原である第三紀層に眼をつけるべき筈である。
 然し、豊葦原の開拓者か苦しんだ以上に、第三紀層を開拓する大和民族は、新しい覚悟を以って突進しなければならない。殊に、霊魂の第三紀層を拓くためには一層の努力が必要である。
 人間の第一紀は、肉の世界であった。人間の第二紀は、霊の世界であった。人間の第三紀層に於て、我々は霊肉融合の世界を顕現せねばならぬ。そこに於て、肉は霊の表象であり、肉は霊魂の言葉として、我々に物語られねばならぬ。
 神の言葉である物的宇宙は、神秘なる愛を我々に物語る。
 行け! 豊葦原の若人よ、霊魂の第三紀層を開拓するために、日本国土に発達したる第三紀層を開拓しようではないか。

  昭和一三・五・二九 
                              賀 川 豊 彦

                                 大連満洲牧場にて




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        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』320頁

            『第三紀層の上に』について


 日本の全面積の八割五分は山岳地帯であり、山岳の絶頂は淮平原である。これは第三紀層に属する。日本人はこれを開拓しなければならない。更に進んで霊魂の第三紀層を開拓することを要する。人間の第一紀は肉体、第二紀は霊魂、第三紀は霊肉融合の世界である。

 こうした観点から、青森県三戸郡員守の寒村に生まれた一青年の青年期における流転の生活を描き、壮年期における郷里の開発を記しているのが、この物語である。

 これは典型的な賀川流小説であり、農村復興という目的をもち、想像力豊かなロマッチシズムに織り成され、筋の運びは奔放自在、少しぐらい不自然であっても意に介しない。岩手、青森の両県を舞台としているのは、昭和八年彼が三陸地方の地震と海嘯の被害を見舞った時の印象によるものであろう。樺太の叙述は恐らく北海道訪問の途次、見聞した経験を記したものであり、草津の状景は大正十五年七月、眼病の後、草津に静養した時の観察によるものである。主人公のモデルについては判明しないが、恐らく東北に住む篤農家青年の生活からヒントを与えられたものであろう。八戸に住むクリスチャビ医師藤田伊作先生は武藤健の父武藤一明をモデルにしたものと思われる。
 





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第92回『神と贖罪愛の感激』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第92回

 神と贖罪愛の感激

  昭和13年5月23日 日曜世界社 148頁


 本書『神と贖罪愛の感激』は、これまで多くの「普及版」「奉仕版」を出してきた日曜世界社の出版物です。ここでも表紙とともに賀川の「序」を取り出して置きます。そして武藤富男氏が『賀川豊彦全集ダイジェスト』に短く書いている「解説」も収めます。



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                神と贖罪愛への感激

                    


 反逆、反逆、神への反逆は地に満ちた。人類は道徳的に発狂し、善の標準を見失ひ、悪を善といひ、邪を正といふ時代が来た。

 道徳は階級付けられ、階級の道徳は他の階級に通用しなくなってしまった。一国民の道徳は、他国民への道徳でなくなり、分裂対立は日常茶飯事となり、真理のための真理が蔽われてしまふ時代が来た。

 それが紀元一世紀のろおま羅馬帝国の実状であった。その時にすら神はなほ人類にあいそをつかさず、神と人類の仲なほりのために贖罪愛の道を開いで下さった。

 神への反逆は売国奴以上の刑罰に値すべき筈だ。それにも拘らず神はこの戦慄すべき罪人に、特赦令を発布廿られて、恩赦の道を開き給うた。

 しかし、これは神がただ盲目的愛の持主だからではなかった。キリストは自らの血を代償として支払ひ、我々を神にひつ付けで下さつたのだ。

 聖なる父は義と愛の二つの端のある指揮棒を持って居られるのだ。神は愛するが故に不義を許し給はない。

 不義を捨て置くことを愛とはいはない。不義を賠償して正義に立ち帰らしめることを贖罪愛といふのだ。そして義なる天の父は贖罪愛を通して、その正義を完成し給うた。

 その正義のための犠牲としで、イエスは自らを十字架の上に曝した。彼は自らを反逆者の型として、自我を十字架の上に傑殺した。

 イエスは自我を完全に克服することが、神の厳罰を甘受することであり、その死によって罪よりの解放が可能であると信じた。醜い人間の自我の完全な葬式だ。そして、この毒瓦斯を包蔵する醜い自我の袋が潰れるまで、永遠に神への反逆はつづく。

 で、イエスが十字架の上に自己を死刑に処したことは、完全なる神への謝罪であり、神に丈払ふべき代価を完全に支払ったことになったのだ。

 さうだ! その代価は命を俸に振っだ贖罪そのものだ。死を賭した贖罪愛に、義と愛の二重奏がかなでられたのだ。自己を滅却したことによって、神の厳罰を甘受し、それによって義の代価を支払ひ、かく人類を愛する贖罪愛の行為によって、愛の代価を支払ったのだ。

 罪の代価を丈払っただけで、人類は復活しない。義の代価と愛の第かを支払い得たことによって、人類に神と和解するただひとつの道が開かれたのだ。

 あゝ、反逆者に赦免の布告が発せられた。身代りに立ったイエスの血を見で、創造主は人類再生の道を開き給うた。おお、獄窓に悩む死刑囚も、このカルバリの丘に流された血を浴びて罪を赦されるがよい。信ぜよ、信ぜよ、お前の罪は完全に、イエスの身代りによ
って赦されたのだ。

 闇に泣く淫婦の群よ、人知れず懺悔の涙に暮れる時、十字架の上に曝されたイエスの顔を見上げて、贖罪愛の歓喜に、再生の希望を見出すがよい。勝利だ、勝利だ、イエスは贖罪愛を完全に我々に示すことによって、地獄を蹂躙し、死を完全に征服した。罪に泣く私
の魂よ、知れ! キリストの贈罪愛にこそ、全能者の最後の言葉が発せられたのだ。それは究極に於て『神は愛だ』と我々に物語ってをられるのだ。

 御恵みの主よ、憎しみと、憎しみに参与する凡ゆる行為によって、死刑に値すべき我々をなほかくまで愛し給ふあなたの御慈愛に鎚りたてまつり、ただ信じ、ただ望み、この後は戦ける霊としてではなくあなたの子として進みたいと思ひます。我々に潔めの霊を授けて下さい、贖罪愛の血が空しく流れないやうに私を先づ潔めて下さい。まことに、まことに。

  昭和13年5月1日

                                賀 川 豊 彦




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         武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』67頁

             『神と贖罪愛への感激』


 晩年の賀川は自然科学に心酔した感があり、その宗教講演も自然科学の知識についての引用が多すぎ、しばしば批判を受けたが、昭和初期の賀川の講演は、彼自身の体験と証しに満ち、また彼自身の経験した事件や交わった人物を引用し、福音の真髄を伝えようとしたため、彼の名声によって引きよせられた超満員の聴衆に深い感銘を与えるのが常であった。

 本書は前四書において賀川が説いている贖罪愛を、以上のような体験と証しとによって、語った講演集であり、賀川講演集中の逸品である。信徒にとっては、信仰をつちかう書であるし、未信者にとっては恰好の入門書である。

 これは昭和十三年五月、大阪の日曜世界社から発行され、二万部が売られ、更に昭和二十四年二月、キリスト新聞社から出版され、一万部が売られた。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第91回アルフアデス著『動物社会学概論』賀川豊彦・西尾昇共訳)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第91回

アルフアデス著『動物社会学概論

     (賀川豊彦・西尾昇共訳)

  昭和13年5月12日 第一書房 238頁


 本書『動物社会学概論』も前著『世界を私の家として』とほぼ同時に第一書房より出版されました。出版にいたる経緯は、賀川による本書の「訳者序」にしるされていますので、早速今回も、表紙と共にUPいたします。賀川豊彦ならではの「序」ですので、一読いただきたいと思います。



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        アルフアデス著『動物社会学概論』(賀川豊彦・西尾昇共訳)

                   訳者序


 本能の世界は人間が考へているより遥かに、調整せられている。それを私はアルファデスの動物社會學』で學ぶことが出来た。

 本能は盲目だ! 本能は無智だ! と私達は教へられて来た。然し『動物祀會學』に於いて學ぶことは、本能に近く生きてゐる蜂や蟻の方が必ずしも人間より馬鹿で無く、また人間が馬鹿にしてゐる猿が、却って人間より愛情に富んだ生活をしてゐることを知って、驚嘆するものである。

 私は若い時、クロパトキンの『相互扶助論』を読んで動物界に互助愛のあることを知り、人類の互助愛がその衝動の延長され、登達させられたものであることを學び得たのであった。その後、ヘンリー・ドラモンドの『人類の上進』を読んで、ダアウィンの云ふ、生存競争の外に母性愛の進化のあることを知り、母性愛の進化が、生物進化に一大貢献をなしてゐることを學び、更に、私はプリンストン大學で、比較解剖學を學んで、ドラモンドの私に教へてくれなかった点を知らんとした。

 私は、その後、「生存教祖の哲學」を一生懸命に研究し、暇ある毎に文献を渉り、研究室を訪問し、生存競孚の意味を続けて研究してゐる。その中、フアブルの『昆虫記』を見出し、之を日本の読書界に初めて紹介する光栄を担ったこともあった。

 然し、私はこの廣大な世界に於いて無限の神秘を探るものとして、永久の求道者として科學の森に真理を尋ねてゐる中に、また今度は、永年私の考へてゐた「動物社会學」をドイツ、ハレ大學動物學教授アルファデデス Alverdes博士が既に出版してゐることを最近になって濠洲に行った時に発見した。でこれを日本へ帰る途中汽船の中で読み耽ったのであった。この書は誠に簡潔に書けたものである。然し、その組織的分析は真に敬服すべきものがある。勿論その材料には蒐集すれば、まだまだ多数私の如きものでも持ってゐるが、「概論」としてはこの書に及ぶものは他に発見する事は出来ない。

 この書は実にその科學的な点に於いて新しき暗示を「社会學」一般に輿へるものである。私は、之を「人間社会」に比較して、動物社会殊に、鳥類社会を心より羨しく思ふ。私は鳥になりたい、私は人類の如き迷妄と相剋の罪悪より一日も早く逃れたい。

 私がこの書を西尾昇氏と共訳する動機は仝く此處にある。私は動物社会學からもう一度出直したい。下等動物の方が人間より遥かに社会愛に則して生活してゐることを、所謂高等動物が知る必要がある。

 私は動物社会學の名によって、人類社会學を恥ぢる。で、読者諸賢も、新しき意識を以てこの書を読まれんことを熱望する。

 此書を訳するに当たって、西尾昇氏は全篇に渡って、筆を探り、私はそれを細かく補筆した。それで、誤謬がありとすれば、私が全責任を持つ。この書の翻訳に当たって、各方面の専門的名詞を教示せられた諸先輩に心より改めて感謝する。

    一九三八・四
                                  賀 川 豊 彦

                                    武蔵野の森にて



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第90回『世界を私の家として』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第90回

 世界を私の家として

  昭和13年5月10日 第一書房 334頁


 本書『世界を私の家として』は、再び第一書房の出版で、賀川豊彦がヨーロッパ・アメリカ・ニュージーランド・オーストラリア・フィリッピン・中国などに出掛けた折りの旅の記録です。

 ここでは、表紙と共に、冒頭に4頁分の写真が収められていますのでそれを収めます。そして巻末にある第一書房で刊行してきた賀川豊彦の作品広告がありますので、それもスキャンして置きます。

 また、本書に関する武藤富男氏の「解説」が『賀川豊彦全集ダイジェスト』にありますので、参考までにそれも入れておきます。



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        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』381頁~384頁

            『世界を私の家として』について


 昭和十年(一九三五年)十二月から六ヶ月間に亙るアメリカ、ヨーロッパの巡遊記、昭和十年一月支那を訪問した時の感想記、昭和九年(一九三四年)のフィリッピン訪問記、昭和十年のオーストラリヤ、ニュージーランド、南太平洋諸島の旅行記、これらを集録したものが、本書である。昭和十三年五月十日、東京の第一書房から発行された。

 賀川のアメリカ訪問はこの時が四度目である。『雲水遍路』を書いた後、昭和六年七月、カナダのトロントで開かれた世界YMCA大会に招かれた時、小川清澄、村島帰之を随行者として訪米したのが第三回目であり、昭和十年には明治学院同窓の友、中山昌樹を伴なって渡米した。アメリカのキリスト教連盟及びアメリカ政府の要請により主として協同組合指導のために赴いたのである。

 第二回訪米の頃は、賀川の名声が世界的にあがりつつある時であったが、第四回目の訪米の時は、世界的人物としての賀川の地位が確定している時代であった。トヨヒコ・カガワという名は多くの雑誌において人物評の題目となり、彼の伝記もすでにいくつか発行されていた。(昭和四年、ヒッバート・ジャーナルにおいて、カガワに関する論文を私は読んだ。それは佐波亘牧師のもとにおいてであった。佐波は私に向かって、外国ではカガワをガンジーと同じくらい偉いと思っているよと言った。)

 賀川の第四回目の渡米に際し、アメリカ国内に反カガワ運動が起こった。その一つは信仰的なもので、賀川の抱懐する思想信仰を自由主義的であるとして攻撃するファンダメンタリスト(綱領主義者)であり、も一つは賀川の協同組合主義を赤であるとして排斥する資本家ダループであった。このことは本書のうち各処に現われている。

 この旅行記は『雲水遍路』に比して、事務的である。前者が詩的、ローマソ的であるのに比べて、本書のほうはアメリカの協同組介運動の視察報告を主眼としている。しかし『米国の地方色』『米国の黒人文化』『ロマンチックになった米国女性』など文明批評として面白い。『科学実験室を覗く』『自然博物館』は、科学好きの賀川の学問と趣味があらわれていて興味が深い。

 『米国宗教界の動向』は、賀川へのファンダメンタリスト(綱領派)の反対運動を叙述しつつ、プロテスタント各派の動向を説明したもので、メソジストとメノナイトに頁を多く与えている。セブソスデー・アドヴェンチストの宗教的勤労教育を紹介し、その他数個のこの種大学のことを書いている。

 米国人の宗教心理については、青年型と老人型をあげ、学生義勇伝道のような積極果敢なものは青年型であり、社会改造を嫌い、神秘的、神癒的、再来的なのは老人型であるという。

 アメリカ紀行のうちで読みごたえのあるのは『リンコルンの足跡』の一章である。賀川はリンカーンの生まれたケンタッキー州ホゼンヴィルの訪問から始まって、リンカーンが育った丸太小屋を訪ね、少年時代を送ったソート・クリーク、ピジョン・クリークと足を延ばし、オハイオ河に沿うて西南に走りロツクボートに到って彼の青年時代を偲び、更に進んでニューサレムの丘にのぼり、リンカーンが二十才から二十六才まで商売をし、郵便局の下受人となり、自治村の区長となり、法律の勉強を始めたことを思い起こす。更にイリノイ州のスプリングフィルドに、リンカーンが二十四年間住んで一男二女をあげた家を訪れる。ここにリンカーンの墓と記念碑とがある。最後に賀川はゲッティスブルグの戦場を訪れ、ゲッティスブルグ演説の時、リンカーンが立つたといわれる場所にある記念碑の
上にうずくまって、『解放者の心情を瞑想し、現代社会の解放について神に祈る』のであった。

 この書におけるヨーロッパ旅行記は、『雲水遍路』ほど内容が豊富でない。『墺国の権威者政治』においてオーストリーが、ナチスでもファシストでもない『権威者政治』を実行しており、中世ギルト式のものが新しい形をとって現われたと論じ、その政治形態を説明している。(しかしこの時から三年後にオーストリーはヒトラードイツに併合されてしまった。)

 『アラブ同盟と猶太国民運動』においては、盛り上がるアラビヤ人の力と、ヒトラーのユダヤ人迫害によって急激に増加するユダヤ人移民とにより、アラブ同盟とユダヤ人との衝突の必至なことを予言している。今日のイスラエル民族とアラブとの対立が、すでにこの頃において始まっていたことを賀川の一文が示している。

 『ギリシャの秋』においては、風物を叙さずに、もっぱらギリシャの政治情勢と社会状態とを述べ、ギリシャは古のギリシャではなく、トルコ的ギリシャになってしまったと言い、ギリシャは今や人間の秋だ、淋しい秋だと歎じている。

 『協同組合行脚』の章において、ポーランド、ドイツ、フランス、スイス、ハンガリー、ギリシャにおける協同組合の実情や農牧畜の状況を紹介している。

 『スカンヂナヴィヤ旅行印象後記』においては、ノルウェーが軍備を撤廃して常備軍は楽隊だけにしていること、スヱーデンが平和主義の国であり、その建築夫のすぐれていることをあげている。フィンランドとラトヴィアにおいて貿川の心に映じたものも興味が深い。

 『支那雑感』の中では、曲阜訪問記がよい。孔子の墓に詣で、孔子の人物業績を思い、『孔子は実際的にはさして大きな業績を残さなかったけれど、教育方針がえらかったのである。儒教がかくして成立した』と言っている。(満洲建国のため中国の排日がひどくなってきたのだが、賀川はこの時は自分はひどい目にあわなかったと見えて、一言も中国の排日にふれていない。)

 一九三四年(昭和九年)二月、フィリッピンキリスト教国民同盟の招きを受けた賀川は、十九日間の講演のかたわら、フィリッピンの研究に専念した。彼はマニラに着くや直ちにキリシタン大名高山右近の遺跡を訪れ、その墓と推定されるところを発見したにとどまったが、この日の遍歴によりフィリッピンにおけるカトリック教会の勢力、宗教都市としてのマニラの全貌をつかむ。次いで賀川は、フィリッピンの国民を構成している諸民族、混乱せる言語の問題を論じ、その農業、鉱業、林業に言及し、アメリカの埋藩政策を賞賛し、フイリッピン人の気質を次のことばで言いあらわしている。

 『比島人は、教育を重んじて、実業を卑み、支那人は教育を卑しんで実業を愛し、日本人は教育と実業とを共に愛するから尊敬に値する。』

 次いでフィリッピンにおける日本人の生活を調べて報告し、フィリッピン共和国独立の準備に言及する。賀川がフィリッピンについて言おうとすることは次のようである。

 『フィリッピン人が最も熱愛しているのは闘争ではなくて互助であり、戦争ではなくて、平和である。世界各国がフィリッピンを、ジャワを、その他の島々を、いつまでも自国の桎梏の下におこうとしている間、太平洋に平和は来ず、その波は静かでない。』
 (太平洋戦争は、結果として、これらの島々を白人の桎梏から解放し、太平洋の波を静めた。)

 『赤道を越えて』以下はオーストラリア、ニュージーランド訪問記である。濠洲には小川清澄を伴なって行った。濠洲では六十七日間に百七十八回、ニュージーランドでは三十三日間に九十回演説したというから賀川の名声と活躍とがどんなものであるか想像できよう。『オーストラリヤの最初の移民は一千人の囚人であり、ニュージーランドのそれは三百家族のスコットランド人であり、目的地に着くや彼らは先ず教会を建てた。ここに両者のちがいがある。しかしオーストラリヤも二世になると人柄がよくなった』これが賀川の両植民地沿革論である。オーストラリヤでは賀川は文明を学ぶよりも主として自然を学んでいる。殊に生物学の好きな彼は、到るところで動物や地質を学び、殊に石類について視察と研究とを行なっている。世界最古の地層をもっているオーストラリヤには珍しい標本が
豊富であるため、賀川の筆にその見聞記に向けられている。

 オーストラリア人の気質や、政治経済については『濠洲印象記』にくわしい。最後に『日濠間の貿易問題』を論じ、輸入羊毛の買付けや鑑別法にまで及んでいる。

 『南極大陸の分割問題』は南極探険時代を過ぎて、南極調査時代に至った今日においても、なお且つ面白い問題である。ニュージーランドの生んだ南極探険家スコット、オーツ、ウィルソンの物語は、少年たちに聞かせたい話であり、賀川はリビングストンを尊敬すると同じようにこの探険隊に尊敬を払っている。

 賀川はオーストラリヤを辞して、フィジー島、ソロモソ島、その他南太平洋の島々を廻り、そこで漁業を営んでいる者が殆んど日本人であることを発見して驚いている。そして南太平洋を鯨の牧場にせよと提唱している。(今日、各国の捕鯨協定により年間の鯨の捕獲量を一万頭とし、日本の取り高を四千百頭と定めたことを思うと、たしかに太平洋は鯨の牧場になりつつある。)

 『南太平洋諸島の教化』の項において、賀川は白人の奴隷狩りや、武力による征服が如何に原住民の教化を妨げたか、宣教師による伝道が如何に食人種を教化し、獰猛なマオリ人種を信仰に導いたか、しかもなおマオリ人種が、賀川に向かって『貴下が白人にキリスト教を説くことを喜ぶ。彼らこそ教化を要するものである……』と言ったかを語る。

 この書の最後において賀川は『日本を顧みる』という一文を書き、日本商人がユダヤ人に辵(しんにう)をかけた民族、世界の辻さんとして活躍していることを述べ、しかも同族相そこなって損をしていること、道徳的関心が足りないため経済道徳についても国際的発展にまで至らないこと、日本商品の敵は日本人であること等につき注意を喚起し、だから日本精神に宇宙精神を加えよと叫んでいる。




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第89回『女性讃美と母性崇拝』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第89回

  女性賛美と母性崇拝

   昭和12年6月28日 豊文書院 431頁


 本書『女性賛美と母性崇拝』は、豊文書院という恐らく初めての出版社と思われるところより出ています。この出版社と賀川はどのような関係をもっていたのか、これ以後、ここからどのような作品が登場したのかも未確認ですが、本書は立派な上製本で、本書の発売所は別にあって「慶文堂書店」となっています。

 ここでも、カバーと表紙、扉と序、そして今回も武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。



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               女性讃美と母性崇拝

                   


 もう斯うなっては、女性の再生力を待つ外人類に望はなくなった。

神が、人類を創造しだのは相剋を目的とするためではなかつた筈だ。恥しいことだが、今や人間は殺し合ひすることの外興奮を感じなくたってしまった。人類は猿より進化したといふが、擬人猿類には大砲もなければ、爆撃機も無い。人類が猿より進化したなら、もう少し上等な文明を持つべき筈だ。今の形の文明は悪鬼より人類が相続したのだ。

 呼、今になっては、女性の優れた道徳的保存力と、その柔和と、謙譲と、母性愛にすがるより、人類更生の途はない……。

 蜂と蟻は、女性の集団によって王国を建設してゐる。その支配者は母性であり、その勤労者は女子ばかりであり、男性は交尾の後は全部除去される。

 何故に蜂の国家と、蟻の社会は、雄を生殖作能の後に之を死刑に処するか? 私はこの解答を人類社会に於て見る。雄性は相剋を喜び、戦争の外に興奮を感じないからであらう。男性は性能を遊戯化し、女性を娼性化する傾向かあるからではなからうか?

 兎に角、昆虫社会では、婦性の権限を男性の上に置き、母性の力に依って社会を統括してゐる。人類は、昆虫に学ぶ可きである。

 私は、もう人類相剋の狂気沙汰に飽いた。宇宙にはまだ開拓されでゐない処が無限にあるのに、何故、人類は相剋のために最大のエネルギーを使ひ、その青春をこのために浪費するであらうか?

 桜は美しく笑ひ、薔薇は香しき匂を放つに、これらの植物にも劣りて、人類が斯く醜くあらねばならぬ理由は、何処にあるであらうか? 純真さを失つた人心は、醜さをさへ理想とし、犬儒哲学者は汚衣を誇り、修行者は美の一切を否定することをすら得意とする。而して斯く歪められたる人心は、凡てを相剋のために犠牲にせんとする。

 戦争のために科学は卑怯になり、人類相剋のために、芸術は歪められ、道徳は不具者となり、絶対の道はかくれ、至聖者の彫は見失はれてしまった。

 かうして、贖罪愛は嘲られ、聖者は石打たれ、廿世紀の今日、電気文明の名によって、軍神マーズは宇宙創造者の名の上に置かれる時代となった。

 憂鬱の子として生まれ私は、欧州大戦に発狂しさうになったが、二十世紀の暗黒に、人類の痴呆症に、植物に生れてきた方が、余程増しであつたように思ふ。

 創世記は、最初の女エバの堕落を書いてゐうが、私に創世記を書かしてくれたなら、世界最初の男アダムの堕落を、もう少し詳しく書く積りだった。

 噫、私か全能者であれば、世界の兵隊を全部女に造り換へて、世界の戦禍を一日にして断切ってしまうであらう。私は、壮漢としで、人類相剋の罪を作るよりか、女として、純情な聖愛に歩みたい!

 私が、女性に希望を持ち、母性に新なる趨異を要求するのは、全く宇宙進化の新開展を望むが故である。

 あゝ! 私は、古き口―マの利己的相剋交明に疲れ果てた。私は、人類社会の罪悪を女性の再生力によって、浄化し、聖化し、相剋に使用するエネルギーを、真理と科学と、美と芸術のために捧げたいと思ふ。

 で、私の女性に対する希望は、どこまでも生物学的であり、宗教的である。今日の人類社会に対する絶対的失望は、私を此処にまで追詰めてしまつに。

 再び云ふ――私は、一人の女、一群の女性への讃美を書いてゐるのではない。生物学的、宗数的意味に於て、母性と女性への讃歌を捧げてゐろのである。

 この爛れた痴呆症の男性文明を、女性のみが贖罪してくれるだらう。母よ! 人類の母よ! そのことをよく自覚してくれ!

 過去十数年問、随所、随時に語り且つ書いた女性に関する私の感想が、この書物となった。演説の筆記も二三ある。然し書き足らないところを補足するために入れておいた。

 だが、私は、思想より実現の方に、更に人きな希望をかける。私は目本の女性が、一日も早く参政権を特ち、今日の曲れる政治をため直し、世界の凡ての婦人が、蹶然立って、相剋の文明を足元に蹂躙して貰ひたい!

 その日のために、私はこの書を目本の若き女性に捧げる!

    昭和十二年六月二日

                              賀 川 豊 彦 
                                     津軽海峡にて





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      武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』133頁~134頁

           『女性讃美と母性崇拝』について

              本書の成り立ちと基調


 この書の自序には『昭和十二年六月二日、津軽海峡にて』とある。恐らく北海道伝道への途中に書いたものであろう。自序によると過去十数年間、随所随時に語り且つ書いた女性に関する感想をまとめたものである。三十の作品と一つの結語から成っている。発行は東京慶文堂書店、昭和十二年六月廿八日に初版が出て、この年の七月五日までに三版を重ねている。

 賀川の女性観は自序にもっともよくあらわれている。先づ彼は人類の狂気沙汰を嘆く、それも相剋殺りくのためにエネルギーを浪費することを悲しむのである。昭和十二年六月二日は支那事変勃発の三十五日前であり、世界情勢は大戦前夜の様相を呈していた。この時、賀川は女性の再生力によって人類社会を浄化し、聖化し、相剋に使用するエネルギーを真理と科学と美と芸術のために捧げたいと思ったのである。世界の兵隊を全部女性にすれば戦争はやむ、壮漢として人類相剋の罪を作るより、女として純情に歩みたいと貿川はいう。

 これが本書の基調である。賀川はやさしい心の持主であった。感激的な話を聞くとすぐ涙ぐんだ。男らしい戦斗的なところのある反面、彼には女性的なところがあった。そして日常の言葉使いにも、女性語が入っていた。女性礼讃と母性崇拝は、賀川の『生物学的、宗教的』なところからだけではなく、その性格からも来ているといえよう。


                 本書の内容

 四百頁に亘るこの書の内容は一々紹介できないが、三十の作品を分類すると大体次のようになる。第一は婦人の権利である。食う権利、産み育てる権利などが権利であるが、婦人参政権については賀川はもちろんこれに貰成するが、婦人が政治家になったり大臣になったりすることには賛成していない。婦人が選挙権をもってよい政治家を選べとすすめている。

 婦人の責任、使命については、『非常時日本と女性の覚悟』『婦人の民族的責任』『現代婦人の使命」『女性論片々』『近代母性の煩悶』『近代家庭婦人の採るべき態度』などで語っている。

 宗教的なものとしては『現代婦人と宗教』『聖書に現われた母の研究』などがある。

 『我子の発見』は子の教育についてお母さんの心得べきことを教えており、『子のため守れ』は私生児論である。

 『生みの力、母の力』においては婦人の職業問題、良妻賢母主義を論じ、『働く女性に青春を与えよ』においては、働く女性にその生活と精神を安定することにより、美と青春を与えよと要求している。

 『針の穴から』は随筆的で面白い。モダーン・ガール論、お友達論、産児制限論である。モダーン・ガールは震災後に現われた女の型である。産児制限に賀川は反対しないが、色欲中心のそれには絶対に反対するという。『魂の身仕度を忘れるな』『恋愛と自由』『恋愛に悩む若き日の友に』『新貞操論』は恋愛と結婚を論じ、あるいは説いたもので、賀川は純真な恋愛を人格の結合として讃美している。

 協同組合論は別に何冊も著書があるが、ここでは協同組合運動における婦人の役割について論ずるかたわら、協同組合の目的、精神、組織、運営、実例などを説いている。『婦人運動より見たる協同組合』『婦人消費組合運動の鍵』『婦人の力と消費組合運動』がそれである。

 『衣裳と精神』は『衣裳の心理』と共通なものをもつ講演筆記である。

 『廃娼運動者に訴う』『性生活の粛清』は廃娼への烈々たる叫びであり、戦後、売春禁止法をもたらした予言者の声である。

 『看護婦崇拝論』は読みごたえのある論文である。十字架の戦士、下坐奉仕の実践者としての看護婦を五つの理由をあげて崇拝している。

 『女よ病者を慰めよ』は病人看護法である。賀川自身何度も難病をやっているので、病人としての体験から、看護人の態度や看護の仕方についてこまごまと注意を与えており、至れり尽せりである。

 以上の二篇は看護婦学校の読み物として推奨に値する。

 『近代婦人への宣言』は、今までの諸論文と重複した論旨が多い。食物論と台所改造論は異色がある。この頃農家の台所も次第に改善されてきたので、賀川がこれを見たなら喜ぶことであろう。

 『結語』は賀川流散文詩である。春の太陽よ、女の上に昇れ! と歌うのである。



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第88回『荒野の呼ぶ聲ー小説集』)

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上の写真もこれまでと同じく『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』所収のもの。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第88回

 荒野の呼ぶ聲―小説集

   昭和12年6月15日 第一書房 275頁


 本書『荒野の呼ぶ聲』は「溶岩地帯」「瑞穂の国」「荒野に呼ぶ聲」の三作品をあつめてできたもので、「荒野の呼ぶ聲」は、雑誌『現代』昭和7年1月から6月まで連載されたものです。

 ここでもケースの表と本体の表紙、扉と序、そして今回も武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を収めて置きます。




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               『荒野の呼ぶ聲―小説集』

                    


 日本にはまだ三百五十萬町歩の原野が残ってゐる。それは、しかし多く火山の裾野であったり、第三紀層に属する高原地帯である。私は日本の北から南へ放浪する度毎に、これが瑞西の農民であれば、容易にこの原野を開拓して熔岩地帯、乳と蜜の流るる郷を建設するであらうと思ふ。

 山東の移民は、チーフから大連へ、一九三一年までは毎年百萬人近く流れこんで行った。多い年には一年百二十五萬人も流れこんだことがあった。支那の流民は、満洲を天國の如く考へて、二十数年前には總人口八百萬しかなかったところへ、短い期問に二千萬人以上の大衆を、移動させた。

 支那人が、保護を受けたくとも行けるところに、何故、日本人が行けないのだらうか? 熔岩地帯も満洲の荒野も、アブラハムが約束せられたパレスチナの一郭に較ぶれば、まるで天國のやうに善いところである。日本民族が、そこへ行かないといふのは、日本人に行く気がないからだ。行く気がないのは、住むべき方法を知らないからだ。住むべき方法を知らないのは、さうした款育を受けてゐないからだ。私はこの小説集に於て、滞洲の荒野 と日本の熔岩地帯に於て、いかに住むべきか、いかに食ふべきか、いかに生くべきかを書いた。

 私は、自然の神秘に取り憑かれてゐる人間だ。自然の外に何物も私を慰めない。熔岩は私の友であり、荒野は私の親戚だ。私は開拓が好きであり、原野も私を見離さない。さうだ。去年北米大陸の彷徨に私は倦み疲れて曠野に花摘みをした。その時私に急に元気が甦った。それから私は単調な大陸を行く時に、いつも地上の星を拾ふやうな気持で、曠野の草むらに野花を探した。

 熔岩地帯も、アジアの荒野も日本人を呼んでゐる、行かうよ、日本の若人よ、彼等の招くがままに。

    昭和十二年春

                                  賀 川 豊 彦




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        武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』315頁~320頁

             『荒野の呼ぶ声』について


 これは『熔岩地帯』『瑞穂の国』『荒野の呼ぶ声』という三部作を集めたものである。このうちでも、『荒野の呼ぶ声』は満洲を題材としているのでもっとも興味が深い。

 発行は昭和十二年六月十五日、支那事変勃発一ヶ月前である。発行所は東京の第一書房、発行部数は初版二千部である。

 第一の『熔岩地帯』は、山岳農業の仕方をわかり易く書いたものであり、小説というよりは教科書に近い。主人公幸七は、美作(みまさか)の人であるところから、賀川は現在、立体農業で大をなしている久宗壮をモデルにしたか、あるいはこれからこの作のヒントを得たのではないかと推定される。あらすじは次のようである。

 宮田幸七の父は生糸に失敗して村の信用組合の金を無坦保で借出し、背任罪に問われる。幸七は東京へ出て職を得ようとしたが思うようにならず帰村する。母は大家の主婦であったために勤労をいとう。幸七はローサンゼルスで植木屋をした後帰村している杉谷与二郎の指導を受けて、『山の平』を開墾することとし、そこに小屋を建てて大きな家を引払い移り住む。杉谷から山羊の子をもらい育てる。鶏を飼う。小屋が整備されたので、母と姉とを説いて小屋に転居させる。そして母にアンゴラ兎を飼ってもらう。姉は山の生活を喜び、谷川から水を汲む役を引受け、山羊の乳と馬鈴薯の食事に満足する。彼女は杉谷がくれた燕麦の粉で団子を作り、母と弟とにすすめる。母も貧乏と戦う勇気を出すようになる。

 井戸を掘って水を得、蜜峰を飼って蜜をとる。豚を飼う。馬鈴薯から澱粉をとる。そしてアンゴラ兎の毛でスエーターを作る。幸七は川へやまめを釣りに行き楽しむ。ネムの木は成長し、豚の糞は熔岩地帯を良田に変化し、幸七の作った胡瓜は村一番といわれる。幸七は胡瓜を一輪単につけトラックに積み変えるため村に下る。その時姉が腹痛うで苦しんでいることを聞き、『山の平』の小屋に帰ろうとする。そこへ杉谷の姪の近藤秀子が来ていて、幸七に紹介される。

 小屋で姉の背をさすっていると、近藤秀子が訪ねてきて、歯磨粉を飲ませることをすすめたので、これを与えると姉の腹痛が治る。その夜秀子は小屋に泊まり食事を共にする。秀子は羊毛のホームスパンについて語り、羊を飼うことを幸七にすすめる。

 その夜幸七は秀子を送って杉谷の家まで山路を歩く。秀子は女子師範出で高等女学校の家事科の文検をとっていた。彼女は日本の農村問題について語り、殼果の各種類をあげ、この実を豚や山羊の飼料にしている村があることを語る。二人は牽牛、織女の星を指さしつつ、腕を組んで歩く。

 九月になり幸七は冬ごもりの準備を始める。秀子は岡山の町へ帰る。幸七は開墾が馬鹿臭く思われてきたが、教育のある女と結婚するよりは自然と結婚すべきだと思い直し、宗教の必要を知る。そして畝の間にひざまずいて天に祈る。

 森林に落ちる樫の実を拾い集め渋抜きをして豚に食わせると喜んで食うことがわかり、杉谷は村長から山中の樫の実を採集する権利をもらって、豚や鶏の豊富な飼料を得る。また『立体農業の研究』という本を読んで、幸七とともに研究を重ね、殼斗科の実がすべて飼料になることを知る。

 アンゴラ兎は毛を産し、山羊の乳房はふくらむ。福島県川俣からは羊が着く。杉谷の隣家の主人が卒倒する。彼は酒の害を受けたのである。幸七が医者を迎えてきた時はすでに死んでいた。そこで杉谷と幸七は医療組合の必要性を感じ、また飲酒の害を痛感する。隣家では葬式に七、八百円もかかるが金がないといって心配している。幸七は禁酒の葬式を主張し、村の信用組合から五十円を借りてきて、部落全体が集まって荘厳な葬式を営む。

 その時幸七の父が執行猶予になったという電報がくる。幸七は父を小屋に迎える。母は要領よく機を織り、ホームスパンを作るようになる。かくて幸七の家では小屋に建増しをして杉谷の隣家の娘、春枝を幸七の嫁にもらうことになる。

 『瑞穂の国』は米産国である日本において、米と肥料の販売組織にどんなに大きな欠陥があり、米を作る農民がどんなに苦しみ、資本の搾取による社会悪がどんなに根を張っているかを暴露した小説であり、目的小説であることはもちろんであるが、類型としては、昭和の初期に流行したプロレタリヤ小説に属するといえる。

 賀川の小説としては、異色ある作品であり、恋愛、性の誘惑、投獄、冒険、理想への献身といった常套的形式から全く離れた作風である。

 神田河岸の米屋に奉公していた江見秀次は、米屋が商売の上でごまかすことを知り良心の苛責に堪えられず、ひまをもらって叔父のもとに身を寄せる。叔父は期米の相場師であったが、秀次はここにも居れず、日向の郷里に帰る。父母のない彼は、そこに自分の家があるのでもなく、離縁になって高鍋で産婆を開業している姉のもとに帰ってきたのである。姉はこころよく迎えてくれる。彼は姉の預かっている亡き父の遺品や亡き母の写真など見せられて感動する。

 姉のところに、手伝いに来る犬島友子という娘がある。友子の父大鳥幸蔵は高利貸に金を借りて苦しんでいる。秀次は幸蔵を訪ねて、四段五畝の土地を耕している農家がどんなに苦しい生活をしているかを知る。その時から五日後、秀次が幸蔵を訪れると、彼は娘友子を三百円の約束で下関に芸者に売ったか、いろいろな費用を差引かれ四十円しか入らぬという。秀次は幸蔵を連れて姉のところに来る。姉は友子に産姿を習わせてよい収入を得させるつもりだったと歎く。そこへ肥料商の井谷俊三が来る。友子の話がでて、まだ幸蔵は契約の金をもらっていないことがわかったので、すぐ友子を取返すことになり、姉は幸蔵に二十円を渡し下関に立たせる。友子は無事に帰ってくる。

 秀次は井谷俊次の肥料店に勤める。産業組合が進出してきて、米穀商や肥斜商のもうけが少なくなることを井谷とその仲間は憤慨する。秀次は米問屋のカラクリを知っているので、米穀統割法にも産業組合にも賛成である。農民が米を作っても肥料代が払えず、肥料代だけが借金として残って行くことを秀次は知ったのである。

 盆が過ぎて四日目に、俊三の店に磯野音吉が里芋を一俵運びこむ。百円足らず肥料代がたまっているために、言訳に来たのである。俊三は彼のもっている畑地の名義を自分に書換えろと要求する。音吉は涙ながらにこれを承諾して帰って行く。

 産業組合の活動が盛んになるにつれて、米屋と肥料屋のこれに対する反対宣伝がはげしくなる。米穀商組合副会長の石井定蔵と秀次は店で語る。秀次は米屋も産業組合の配給所になれば、三等郵便局の一家が食って行けるようにやって行けるという。定蔵はそれではもうからぬから面白くないという。秀次はそれでは堅気商売よりも。ハクチを面白いというのかと言って笑う。そこへ音吉の妻が駈けこんできて、音吉が家を出たきり二晩も帰って来ないという。

 大分県と福岡県の米穀商同業組合の有志は農林大臣に陳情するため上京する。米穀統割法への反対陳情である。井谷俊三は秀次と一行を駅に見送る。帰途秀次は俊三と米穀統制法によって米屋が困ること、全購連の進出によって肥斜商の立ち行かなくなることなどを論じ合う。秀次は俊三の意見に反対する。その夜秀次は井谷の店をやめさせられる。

 翌朝早く町外れまで散歩に行った秀次は水死人があがったことを知る。うつぶせになった死骸の頭部をあげて見ると、それは磯野音吉である。彼は肥料代のかわりに、先祖伝来の畑地を俊三の名義に変えねばならぬことを悲しんで自殺したのであった。

 秀次は音吉の死を俊三に知らせる。俊三の妻は死んだ音吉の姿を幻に見て、卒倒する。俊三は音吉から取った名義書換の公正証書を音吉の妻に帰してくれと秀次に頼む。秀次はそれを返しに行く。しかし音吉の妻は証書を突返しに俊三の店に来て、喚きつつこのありかたい瑞穂の国に生れて、米作る百姓が肥料代さえ払えず、百円足らずの借金のために先祖伝来の土地を取り上げられ、先祖に申訳ないと身投げして死んだ、それを外国人が聞いたらどんなに思うでしようという。

 第三の『荒野の呼ぶ声』は満洲の遼陽と四平街と長春と大連と古林省の奥地とを舞台として流転する一日本人青年の物語である。時代は張作霖奉天爆死事件の直前から直後である。作者の意図は満洲の自然と原住民の生活とその中に入りこんで働く日本人の姿とを描き出し、日本人に大陸雄飛の志を与えようとするにあったようである。しかしこれは目的小説というよりは、ロマンチシズムの要素が濃く『文学とはアミューズメント(娯楽)である』という定義にピタリする作品であり、檀一雄が書いた『夕日と拳銃』のように読者の興味をそそる。その意味において、賀川のものとしては異色ある作品の一つといえるのであろう。

 賀川は数回満洲を訪問しているので、自然の描写はリアルである。原住民の生活も比較的よく描けているが、筋の運びにはやや非現実的なところがある。殊に後半においてそれが著しい。しかしフィクションとして、小説家賀川の実力を示す作品であることは争えない。あらすじは次のようである。

 山根文雄の父は、福川県折尾駅の前で運送店を営んでいたが、炭坑経営に手を出し大正九年の恐慌時に失敗し、店を人手に渡して行方不明になる。文雄は中学校を出て門司九鉄の手荷物係になったが、満洲にいるといわれる父を尋ねる心持も手伝って、人陸に雄飛しようと志し、遼陽に行き、実業教習所に入る。ここは支那人と同じ生活をし、支那人の行商に混って活動し、訓練を受ける場所である。

 十五、六人の学生の集まっているこの教習所で、文雄は納屋の片隅のような狭い部屋に入れられ、高梁飯を食う。そして浅葱(アサギ)の支那服をきて薬の行商をして歩く。

 一週間の行商から帰ってきて二年生の一団と風呂に入っている時、同県人の磯貝という男に会い、父が長春のロシヤ人町で酒場の支配人をしていたという消息を聞く。文雄は父を訪ねて長春に行き、ロシヤ人街で父の居所を突きとめ、ステーション前のレストランに父を尋ね再会する。父は外に出て山根と語る。山根は父に抱きついて泣く。外は零下四十度に近い。行倒れが路上にいる。二人は内に入り食事をともにして別れる。父はロシヤ女といっしょになっていたので、山根は家の窮乏や母や妹や弟の苦しみを打明けずに去る。
 
 春風が吹き亙って、大地が地平線の限り、高梁畑に変ってしまった。同室の誠静之はこれから馬賊が出るから晩は五時から町に出ないようにしようという。実業教習所の先生崎本愛次郎は、文雄を勧誘して遼陽ホテルで馬賊の親分と合せる。仲介したのは、大連の実業家花井の息子俊吉である。崎本は馬賊の親分に、教習所の生徒が奥地を旅行するから、掠奪せずに保護してくれと頼む。

 六月末に学校の授業が終り、七月から生徒は行商に出かける。文雄は同室の誠静之の家へ行き泊めてもらう。附近に行商に出ることになる。誠の家は四平街の大きな薬屋である。誠の父は四人の妻をもち、誠は第二夫人の長男で、同腹の妹がある。

 四平街に行って四日目にお祭があり、誠の妹が大連から帰ってくる。日本人の女学生のように見える美しい娘で正蘭という名である。文雄は誠と妹とともにお祭に行き、誠ははぐれてしまい、玉蘭と文雄と二人だけになる。彼は若い娘の皮膚にふれて興奮する。

 翌朝、文雄は玉蘭と階段のところで抱き合う。誠は二人の間を察知して不機嫌であるが、朝食の席では誠の父はおおらかな態度を示す。

 文雄は四平街を出て、雙城子方面に薬売りに出かける。暑熱にまけて日陰に寝転び、白分のふがいなさを憤る。日射病にやられていることがわかり、ようやく驢を見つけて乗せてもらい、四平街の近くまで来て日が暮れる。苦しくて辛抱できないでいると街の入口に日本の国旗を見る。そこを頼って行って泊めてもらう。この家の主人は日の丸の旗を立てて、麻薬の密売をやっているのであった。その晩、馬賊がこの家を襲う。家人も文雄も針金で後手にしばられる。賊が去ってようやく縛を解かれて寝につき、朝になって洋車(人力車)で薬屋に帰る、四十度の発熱で床につき玉蘭の看病を受けて治り、九月になって遼陽の学校に帰る。大連の学校に帰った玉蘭から手紙が来るが、文面は頼りないものである。

 内地の母が病気であるという手紙を受けて間もなく、ハハキトクという電報が来る。長春の父に電報を打つと、その晩三十円の電報為替が着く。文雄は朝鮮を通って門司に着き、折尾の我が家に帰る。平家の五軒長屋の一つに母と弟妹一家四人が住んでいたのである。母はすでに死んでいた。彼は位牌にあかしをともし焼香する。妹には長春にいる父の消息を伝え、自活している上の妹妙子に、も一人の妹を託し、弟二人を親類に預け、妙子の作ってくれた二十五円の旅費をもって再び満洲に向かう。妙子は許婚者の春田とともに彼を門司港に見送る。彼は満洲で成功するまで日本の地を踏むまいと決心して海を渡る。

 遼陽の教習所に帰った彼は、大豆の取れる秋、通弁に雇はれて、長春の奥地に大豆の買出しに行く。そこで日本人がどんなに狡猾なやり方をして農民から大豆を買っているかを見る。彼は大連にいる玉蘭に毎日手紙を書く。そして三十円の手当をもらうや仕事をやめて玉蘭に会うために大連に行く。玉蘭を下宿先からステーションに呼び出して再会する。二人は駅前の旅館の一室で語り合う。玉蘭は、来年三月卒業したら許婚の人と結婚せよと兄に強いられている、しかし、それを断って彼について行くという。そして二人は古林省の奥地にかくれようと約束する。

 遼陽に帰った彼は満洲の土が次第に彼のうちに食込んできて肉体の一部になるように感ずる。そして満洲の満洲人の中に入って満洲人の生活がしたくなる。父を訪ねると、父はレストラン・キクチを去り、駅前の富士旅館にいた。父に会って、母の死や弟妹のことを告げてもウイスキーを飲んでいて無気味な表情をしている。彼が農業をやりたいから資本を出してくれと頼むと、父は奉天にある満洲物産会社の社長にあてて紹介状を書いてくれる。彼はそこを訪問して土地課長から百五十円を貸してもらい、古林省の奥に向かい、陶頼昭で下りて、初冬の空のもと、はてしなく続く大地を独り歩き、大三家子の一番貧相な家を訪れる。そこには張玩という男が山東から出稼ぎに来て病気のため帰れなくなって独居している。彼はここに同居することになり、村外れの広い土地を翌年春から耕作することとなる。張は十五円くれればこの家を譲るというので、これを承諾し、豚も鶏も譲り受
ける。張は蒲団や着物や手廻り道具をたずさえて去る。

 家に帰るや彼は玉蘭に手紙を書く。そして家の中を修理してできるだけ美しく見えるようにする。冬籠りの間、彼は村の子供たちを集めて日本語や算術を教える。雪が融けて耕作が始まると、村の青年たちは鍬や鋤をもって手伝ってくれる。玉蘭から和歌を書いた手紙が来る。彼はそれを肌につけて寝る。

 三月十二日の卒業式が終ったのに玉蘭は来ない。彼は欺かれた思いで彼女の手紙を焼き捨ててしまった時、大ぜいの子供に囲まれて玉蘭が現われる。彼女は父と兄の許しを得てきたことを告げる。王蘭は常用服に着かえて彼の仕事を手伝う。

 高梁が伸びて馬賊の跋扈する秋となる。奉天事件以来排日がひどくなり、誠静之が玉蘭を迎えに来る。そこに馬賊の一隊が襲来し、玉蘭を捕え連れ去ろうとし、彼は有り金全部を渡し玉蘭を助けようとしたが、馬賊はきかず、彼を捕えて玉蘭を放し、この男が欲しければ千両持って来いといい、彼を馬にのせて走る。玉蘭はそこに倒れて咽びつづける。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第87回『処世読本』)

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上の写真も全回に続いて『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第87回

 処世読本

   昭和12年5月5日 実業之日本社 404頁


 本書『処世読本』は、昭和8年6月に『東雲は瞬く』を刊行した実業之日本社によって4年ぶりに刊行された作品です。これも『賀川豊彦全集』に収められませんでしたが、好著の一冊でもあります。

 ここでは、ケースのおもてと本体の表紙、扉と賀川の写真、そして「序」並びに巻末にある二冊の広告も共にUPいたします。



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                 『処世読本』

                      

 眼が醒めた時、それは真夜中であった。周囲は真暗闇で、硝子越しに見える空に一つの星さへ見えなかった。

 だが、私は淋しく無かった。光は私の胸底に火皿に灯っていた。

 私は楽観もしなければ、悲観もせぬ。私の胸底に神より受けた灯が点っている間、私は、少しも悲観はしない。必要ならば、私はその火を口火として、世界に火をつける勇気を持っている。

 私の眼が醒めた時、周囲は暗かった。然し私は、少しも悲観はしない。胸の火皿に沈殿する埃をかきのけて、灯心の先をつき出すことを忘れないだけの用意はある。

 列國は再び軍備を急ぎ、民族は闇を利用して憎悪の福音を播く時、私は心細い胸底の火皿に油を充して、光の打消されないように、身を以て風除けを作る。

 迷妄は深い。邪淫は扈る。蛙聾の偽預言者は絶對者を嘲笑し、聖者は石にて打たれ、暗黒は地上を支配する。それでも私はまだ私の胸底に秘められた光明に信頼を投げかける。私に悲観も無ければ楽観も無い。私にあるのはこの至聖者より輿へられた灯への信頼あるのみだ。

 発明は進み、機械は進歩する。ただ進捗しないのは、人類の意識内容の拡大性である。
 私は悲観楽観を超越する。もし悲観すべき暗黒の世界に置きざりにされたにしても、光明への復帰の糸筋を私は知ってゐる。

 人体の血は汚血を肺によって浄化して貰ひ、また心臓を遠して四肢の指先まで廻して行く。その浄化されたる赤血は疾病を癒し、傷口を縫ひ合せる力を持ってゐる。私は霊魂の世界にも同じ贖罪の法則の働いてゐることを信ずる。

 部分が部分の為めに悩むことを犠牲と云ふ。全体が部分の為めに犠牲になることを贖罪愛と云ふ。神はその贖罪愛の持主である。

 私は血を持って神の贖罪愛を啓示した大工イエスに、新しき人類復活の糸口を発見する。

 罪のいや増すところ恩寵もいや増し、暗黒の深まる所、星の輝きは一層増す。実にこの宇宙の神の摂理こそ、私に取りで唯一の處世道である。

 この書は私が十数年間瞑想して来たことを、その都度、友人達が筆記してくれたもの
である。で私はここに新しく友人達の好意を感謝し、世の多くの同志達が一層神に就い
ての信愛を増さんことを祈るものである。

  昭和十二年三月復活祭の前日

                           賀  川  豊  彦

                                 武蔵野の森にて



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第86回『宗教読本』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第86回

  『宗教読本

   昭和12年4月15日 第一書房 373頁


 本書『宗教読本』は、昭和11年8月の『人生読本―春夏秋冬』以来、『随筆集・黎明を呼び醒ませ』『颱風は呼吸するー長編小説』に続いていずれも第一書房より刊行されています。

 そして本書は『人生読本』とは姉妹編となるもので、いずれも鑓田研一氏によって賀川の著作から抜粋して構成されています。『人生読本』の場合は、抜粋された出典が明示されていて便利でしたが、今回はそれが省かれているために、少々不便なところがあります。但し、箱入りの上製本で、立派な出来栄えです。

 これは戦後早々昭和21年7月には、全国書房より書名を『生活としての宗教』と改題のうえ、簡易な仕上がりで再版され、その2刷では当時の事情を反映して全く紙質を変更した著作として読みつがれています。

 ここでは、初版の箱おもてと本体の表紙、扉と賀川の写真まどと、今回も「編者の言葉」が巻末にありますので、賀川の著作の広告並びに戦後に再販された著作の表紙と共にUPいたします。



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             『宗教読本』編者の言葉


 賀川豊彦氏はご宗教界の偉材である。いつか某誌の各方面の名士に頼んで、現代日本の十傑を選出してもらったら、その時も宗教界からは賀川氏又は山室軍平氏を拉して来た人が多かったやうに記憶してゐる。

 賀川氏を印度のガンヂーと比較するのは、外國から起った事で、どこの國でも、宗教的生活者の良心と情操は、国境と人種の別を越えて伸び上る。フランスあたりの片田舎でも、日本人を見かけると、カガワつてどんな人かね、と訊くさうである。ジイドが日本でもてはやされても、まだそれほど一般化してはゐない。

 ところで、賀川氏とガンヂーとの比較だが、宗教的気魄に於いで、瞑想的気分に於いて、正義と愛への傾倒に於いて、両者の間には著しく共通点のあることが、アメリカ人やフランス人の闊達な心の窓にはそのままに映るらしい。

 だがガンヂーは今年六十九歳、賀川氏は丁度五十歳である。人格の圓熟、人格的魅力といふものは、努力や精進の反映であるよりも、より多く時間の象徴だと思はれるが、その意味では賀川氏はなほ将来の人である。だが、その体験する宗教の色彩又は味覚といふ点になると、近代人は賀川氏の方にずっと魅力を感ずるであらう。

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 賀川氏の宗教経除とその文學的表現は、実に多彩である。それは第一に氏の豊富な知性から来てゐる。メレジコフスキイの『神々の復活』の中に描かれてゐるダ・ヴィンチは、最後には知性の破産を嘆く段取りになつてゐるが、賀川氏にはそんな事がない。それでは知性が信仰に打ち克つてゐるかといふと、さうでもない。氏は信仰に最高の王座を與えてゐる。あらゆる知識は、全力的に、しかもその有効性の限界を越えることなしに、いはば信仰に仕へてゐる、信仰が女王なら、知識はその美しい侍女たちだ。氏が星を覗く望遠鏡を据ゑつけ、結晶体の標本を誂へ、ランゲの『唯物論史』やごラスキンの『ヴェニスの石』や、ジーソスの『科學の新背景』を側近の者に翻訳させる時、氏の頭の中にあるものは、まだ、信仰と知性との間に置かれた正しい秩序である。

 賀川氏の宗教を多彩ならしめる第一の要素は、氏が文學者であり、詩人であることである。氏の百冊に近い著書の序文は大部分散文詩であるが、そこには、宗教的気魄と芸術的感動、純真な霊性と官能的感情が縦横に交錯して、高らかな交響楽を奏してゐる。ああいふ文章の書ける者はこの國にもちよつとゐない。

 「生命芸術術としての宗教。」
 「神の潮が良心の岸辺に高く渦巻く。」
 「聖浄ぱ私の室気である。神の御顔は拝せずとも、神の触指の爪先は、いつも私の眼に映る。」

 かういふ表現の出来る者は、賀川氏を措いて他にない。

 『聖書』は、新約、旧約を併せて、霊性の泉、生命のパンの貯蔵所だが、それと同時に、氏はそこに偉大な文學を見る。氏の小説の題は屡々『聖書』から取られる。『一粒の麦』『幻の兵車』『石の叫ぶ日』『乳と蜜の流るる郷』などがそれだ。

                   *

 賀川氏の宗教に光彩を添へるもう一つの要因は、氏の生涯と性格が驚くほど特異なところにある。
 氏は弱者の子であり、氏の実兄にあたる人は、十六歳の頃から妾狂ひをして家産を蕩尽した。
 好色と淫乱の巷から、巌かな神の聲に呼び出されて、聖浄の生活に入ったのが賀川氏なのである。神と永遠への思慕は、氏にあっては絶對感をおびてゐる。氏が肺患にかかって長い間生と死の境を彷徨したこと、いっそ死ぬなら貧民のために尽くして、と覚悟して神戸の貧民窟に身を投じたこと、等、等が、氏の宗教をどんなに香気に富んだ芳醇なものにしてゐるか知れない。

 だが、もし氏の人柄が控へ目で、もの静かで、つつましい一方だったら、これほどの結果は予定されなかったであらう。賀川氏の父は、官界に腰を据ゑてゐれば大臣にもなれる人物だったが、役人なんかつまらぬと放言して、弗相場に手を出し、企業熱に身を焦がした。冒険的と投機的――それを賀川氏も自らの性格の中にそのまま受け縫いでゐる。しかし氏はそれを惜しみなくそっくり宗教の方へ持って行って、神のためにすべてを賭(は)った。それを思ふ度に、私は心の愉悦を禁じ得ない。

 賀川氏は非常に瞑想的な性質で、森の中、道のほとりで、夜露に濡れそぼちながら長い間祈ることの出来る人だが、さういふところだけが氏の本領ではない。氏の宗数的情熱は 深く内部に凝ると同時に、外部に向って、驟雨のやうに放射される。沈潜的であると同時に高踏的、個人的であると同時に社会的――病躯を駆使しながら、さういふ進み方をしてゐるのが氏である。神聖な冒瞼、神聖な投機の好愛が、この傾向に拍車をかける。後から後から社会事業を繰り拡げて、貧乏と借金に追はれながらも、氏は平然としてゐる。氏は奇蹟に期待する。氏にあっては、冒除と奇蹟はいつも脊中合せをしてゐるらしい。

 氏を買名家のやうに云ふ人があるが、実を件はない名に、さう簡雖に買ひ手がつくものではない。世の中はもっとせち辛くなってゐる。それを颯爽と切り抜げてゆくには、どうしても賀川氏のような性格が必要なのだ。

 氏の性格に私は歴史的意義を見る。

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 それでは、賀川氏の宗教は何派に属するか?

 この疑間はちよつとややこしいやうに見えるが、事実はさうでない。『聖書』一冊が氏の宗教の典拠である。氏の愛する「生命宗教」といふ言葉にしても、イエスが「我は生命なり」と言つたのをそのまま取つたのだ。キヤベツのやうに、必要な衣は幾枚かつけてゐるが、それを剥いでしまへば、中には蕊があるだけだ。それが『聖書』である。だから、賀川氏の宗教の木質はごくごく単純であり、軍純であるだけに、清く且つ美しい。氏の宗教に普遍性があり大衆的背景があるのは、そのためだと私は思つてゐる。

 古今の思想家、宗教家の中で、賀川氏に影響を及ばした人は多い。理想主義哲学の祖プラトンなどもその一人である。トルストイ、ラスキンの影響も濃厚であった。とりわけ、トルストイには全部的に打ち込んだ時期がある。しかし後には、そのトルストイをさへ訂正し得るやうな高さに氏は達した。

 最初に平を取って、かういふところまで氏を導いて来た人は、宣教師のマヤス氏とローガン氏であった。二人とも今なほ健在である。

              *

 この『宗教読本』は、賀川氏の宗教と宗教的生活が、端的に窺ひ知られるやうに編纂したものである。それは去年出た『人生読本』の姉妹篇である。

 『人生読本』とくらべると、『宗教読本』は、その性質上、より多く理論的であり解説的である。しかし一方で、『人生読本』と『宗教読本』とのけぢめは紙一重である。生活印宗教、宗教即生活といふ立場が賀川氏の立場であるから、これはむしろ当然であらう。それだけ編纂に苦心を要したわけである。『人生読本』と重複した文章はここには一行もないことを、私はわざわざ云って置きたい。

  昭和十二年三月

                               鑓  田  研  一


新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第85回『長編小説・颱風は呼吸する』)

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上の写真は、今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第85回

 颱風は呼吸するー長編小説

  昭和12年2月20日 第一書房 288頁


 本書『颱風は呼吸するー長編小説』も前回の『随筆集・黎明を呼び醒ませ』と同様に第一書房より出ています。この「長編小説」はどの雑誌に掲載されていたのか確認できていませんが、ここで収める本書の序文「颱風に備へよー序に換へて」は、昭和12年2月号の『雲の柱』に掲載されています。

 では早速、本書のケースのおもてと本体の表紙、そして扉と序文を収めて置きます。また今回も、武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の本書の「解説」も加えて置きます。



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               颱風に備へよ

                 序に換へて


 人間も呼吸すれば、颱風も呼吸する。悪血を浄化するために、人間は呼吸し、地上を浄化するために、颱風は呼吸する。

 おお颱風は呼吸する! 赤道を北に颱風ぽ呼吸する。烈日は低気圧を作り、熱線は北に動く。然し、熱するものは大気だけではない。人間の血もまた熱する。寒流は北より流れ、低温は南する。悪逆の血の反乱する日、天恩は豊かに人類を育み、罪のいや増すところ、恩(めぐみ)もいや増す。

 日本の上空を通過する低気圧に、東亜は震駭し、大陸の空気ば瞼悪を加へる。

 そも、日本をのみ通過する颱風は、何を意味ずるか? 米の鳥人リンドバアグも日本の北海には、不時着陸し、佛の空の勇者ジャピーも玄海には、その翼をすぼめた。日本列島にのみ、颱風はそのコースを選ぶ!

 台風過ぎて、更に新しき颱風は起り、屋根を飛ばし、家を倒し、船舶を沈め、人畜を傷ける。

 颱風は呼吸するよ! 颱風は! それは時計の針とは反對に螺旋を画いて北に進む。見よ、「通り魔」は、一進一退、根強く呼吸をつづける。かくして、歴史は繰返し、氾濫はつづく。

 然し、その几てを貫いて宇宙意志の標的は変わらない! 罪のいや増す所に、恩(めぐみ)もいや増す。発熟する所に治癒は始まり、痛傷のある所に、恢復も約束せられる。されば南風よ、呂宋(ルソン)島を西北西に吹く風よ! おまへの吹く日に、私は雨戸を閉し、閂(かんぬき)を入れ、屋根瓦を網で蔽ひ、颱風の呼吸するを待たう! やがて、西は白み、乱雲はとぎれ! 太陽は積雲を裂き、また青空が日本に親しむ日がこよう!

 南の測候所の旗は、なんと予報するか?

 秒速二十五メートル、颱風! 中心地、支那海!

 私の霊魂よ! 静かに、慌てすに、台風を迎へる為めに、準備せよ!

    一九三七・一・一八

                             賀 川 豊 彦
                                     武蔵野の森にて



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   武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」より(306~308頁)

              『颱風は呼吸する』について


 この書は昭和十二年二月二十日、東京の第一書房から発行された。昭和十二年七月七日に中国事変が勃発したのであるから、その時から五ヶ月前のことである。表題を見、序文を読めば、当時の日米間の雲行き、満洲国建国後の中国の動きが、いかに賀川の心に影響していたかがよくわかる。

 この書には、アメリカにおける日本人の生活と排日的空気とが克明に描写されており、また植民都市上海の状況とそこにおける日本人の生活とがかなりよく描かれている。いずれも賀川が生活し、体験し、あるいは見聞したものを材料としたのであろう。

 この年には第一書房の長谷川己之吉が賀川を高く買っていたと見え、『黎明を呼び醒ませ』『荒野に呼ぶ声』という本もそこから出している。表題がいずれも息づまるような感じを与えているところに、この書との共通性かおる。

 次にあらすじを語ろう。
 関東電機会社の事務員斎藤駿治は、見込まれてアメリカのサンフランシスコの支店に一年間派遣され、見学してくることとなる。彼は新宿のカフェーの女給松代に入れあげたり、悪友に誘われて玉の井に行ったりするが、どうにか誘惑を退けて渡米することになる。

 サンフランシスコのポスト街の米人未亡人の家に下宿した駿治は、そこの娘アンナと仲良くなり、結婚の約束をする。それがわかって未亡人から下宿を追われ、アメリカ人を呪ってついに堕落し、ルンペンになってしまい、日本人移民のごろつき仲間に入る。

 アンナは彼を棄てずに、彼のために祈り、彼の回心を待つ。自動車事故で大怪我をした駿治は、入院してアンナの看護を受け回復する。それから農業移民の成功者で、金持の田代に助けられ、いっしょに日本に帰ることになる。日本人と婚約したアンナはK・K・Kにさらわれてしまう。

 田代とともに船にのった賢治は、船の中でヴァイオリンを弾く青年遠藤光三と知合いになり、また莫大な遺産をもって帰国する未亡人早川千鶴子の鼻血を治してやり仲良くなる。

 帰国した駿治は、千鶴子から出資してもらい、遠藤光三とその妹幸子とともに上海に行って電気器具の商売をやることになる。上海には千鶴子もやってくる。商売は繁昌する。幸子は駿治を恋するが、駿治はアンナとの約束を重んじて幸子の愛を容れない。そのため幸子は中国共産党に入って、中国人と活動を始めるようになる。上海に排日運動か盛んになる。そして上海には便衣隊が出没する。国民党政府は共産党狩りをやる。

 こうした騒ぎの中にアンナが結婚につき母の許可を得て、上海にやってくる。上海に着いたアンナは女子青年会の廻転式階段から落ちて脊椎を打ち不具者となる。しかし駿治はアンナと病室で結婚式をあげ、妻として愛する。

 幸子は中国共産党に入ってつかまり銃殺されるところを駿治が領事館に頼んで助けてもらう。アンナは駿治の店の二階に寝たきりで、手を動かして夫のためにスエーターを編む。また編物をしてはみんなに贈物をする。

 満洲事変が勃発する。抗日ボイコットが起こって駿治の店は苦境に立つ。幸子は再び店を飛び出してしまったが、この頃銃殺されてしまう。

 千鶴子は風邪で寝つき、目が見えなくなって入院する。梅毒による白内障である。亡夫から毒をうつされたのであった。駿治は資金難に苦しむ。アンナの母からの送金があって、苦境を凌ぐ。アンナの親友のミス・クックから百ドルがアンナに送られる。これで千鶴子の入院料を支払う。

 この頃になって駿治が渡米前に入れあげていた女給の松代か梅毒に侵された姿をあらわす。その夫である麻薬売りの河野竹次郎が駿治に対しあばれる。そして松代を保護して病院に入れてやった駿治を領事館に訴えたり、駿治を売国奴呼ばわりをして殺すといって脅したりする。

 この頃上海では便衣隊が出没するので、便衣隊狩りが盛んに行なわれる。幸子の知人であった共産党員の陳栄芳が逃げてきて駿治の家の二階にかくれる。駿治はこれをかくまってやる。このため駿治は嫌疑を受け河野のさし金で、自警団の分隊長のところに連れて行かれ銃殺されることになる。

 河野は自ら銃をとって駿治を狙ったがその銃丸は駿治の頭上を掠めただけで飛去る。アンナが河野の妻に負われて現われる。『シュソジ、あなたはそこで、何してるの?』とアンナがいうと、駿治は『今銃殺されるところだ』と答える。分隊長は駿治と他の七名の支那人を自警団の本部に連れて行く。駿治は陳栄芳のため命乞いをする。駿治と七名とはいずこか連去られる。アンナは毎日、河野の妻に負われて自警団の本部まで夫の安否を尋ねに来る。

 三年たって南京の中山路で、自動車の中に並んでいる駿治とアンナの姿を見た人のあることが伝えられる。



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第84回『随筆集・黎明を呼び醒ませ』)

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上の写真も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第84回

 随筆集・黎明を呼び醒ませ

    昭和12年1月20日  第一書房 338頁


 本書『黎明を呼び醒ませ』は、賀川豊彦の久々の「随筆集」です。ここでも、本書の表紙と賀川の「序」、並びに武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。そして本書の末尾に収められている「広告」もスキャンします。



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               『黎明を呼び醒ませ』


                   
 

 師走のどす黒い夕雲が、日本の空に懸る。これは、自分の煙突から吐き出した煤煙だ。大阪には年八百萬貫の煤煙が降る。日本は今その煤煙に中毒してゐるのだ。

 師走のどす黒い陰惨が日本の魂を被うてゐる。真夜中に起きた時、私はこの憂鬱を思うて涙することが屡々だ。娼妓五万二千、芸妓八万、女給九万、そして闇に咲く醜業婦は猶この外に五万を数える。三年前から、大阪、神戸の街頭には、男娼まで進出して来た。

 師走のどす黒い憂愁が、日本の戸口を覗いてゐる。純潔は失はれ、騒擾は繰り返され、強盗と殺人は激増し、刑務所は増築を急ぐ。おお、東方の君主國! その名のために私は日本の不義を自ら恥ぢる。

 闇は深まり、暴風は加はる。ああ、それは物的の昏迷ではなくて、霊の痴乱だ。桜が咲いても、菖蒲が開いても、私の憂鬱は少しも晴れはしない。盗賊の忍び入る如く、不義は、愛國心の名を籍りて民族の霊魂の殿堂を脅す。民衆はその仮装を看破して、黎明の近づくのを待つてゐる。

 黎明は何時だ。日本の暗黒に代る黎明は何時だ。黒土は嘆き、禿山は泣いてゐるのに、狼はまだ闇を楽しんでいる。

 明星を呼び起し、太陽に覚醒を輿へよ。鶏よ、早く鳴け。燕は何時北に帰り、春は何處まで来てゐるのだ。結氷よ1 結氷よ! 日本の霊魂の結氷よ! お前は氷の下の鯉を窒息さぜるつもりか?

 鶯よ、加勢してくれ。雲雀も春を督促しろ。あまりにも長い日本の結氷をあらゆる方法で恥ぢるがいい。

 三原山は忙しく自殺者を呑み干し、阿片商人は専買制度の蔭に隠れ、酒精は免許制度の城壁に立篭り、発狂者は十萬人を数え、出獄人は百萬を越えるに至った。犬吠岬は悲しみ、伊良子岬は憂ひ、冨土山もまた首を傾けてゐる。彼等には、秋津洲の現状に異変の前兆が見えるのだ。

 嘗ては、聖徳太子を生み、光明の基礎を仁義に即せしむべきを自覚し、それを憲法にまで認めた日水民族は、密雲に太陽を見上げることさへ無くなった。

 弘法は、千百年の昔、「十住」の心諭に絶對無障の哲理を指示して、日本の哲學に新しき紀元を開いたが、法界聲無くして、絶対の境地は、弊履の如く拾てられてしまった。

 親鸞の末裔は、愚禿の昔を忘れ、日蓮の亜流は清澄山の体験より離れ、徳愛は蒸発して、日本は蒙古の砂漠と相連るに至った。

 太古、日本海は沙漠であった。近代に至って、その沙漠がまた日本の霊魂に復活した。旱魃に私の眼の涙まで蒸発した。おお、沙漠の暗闇に黎明を告ぐる乙女星スピカの昇る日は何時か。私は凍えつつ、砂漠の端に黎明を待ってゐる。鶯よ、雲雀よ、早く新春を督促しろ。沙漠の端の闇の中に、独り立ってゐる私を憐れんでくれ。

   昭和十一年十二月十六日
                                 賀 川 豊 彦



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      武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』367~370頁


                黎明を呼び醒ませ

            エッセイ作家賀川とその著作の特質


 散文詩人である賀川はまたエッセイ作家であった。随筆家というよりは、エッセイ作家と呼んだほうが、彼の作品にはしっくりする。それは彼の思想内容や考え方や表現方法が日本的であるよりは、どちらかといえば、西欧的だからである。

 彼のエッセイを土にたとえれば、地層の底に固い岩があることがわかる。そこにさぐりを入れると、カチンと当たる。それは彼の宗教的信念であり、信仰である。どんなにやわらく、美しく、詩的に見える短文でも、その底には信仰という岩盤が横たわっている。彼は『岩の上に』文を築いた人である。

 彼は自然を愛した。吉野川のほとりに幼少年時代を送った彼は自然の子であった。自然の美からおよそかけ離れた貧民窟や本所のバラックにおいて、人の子の悩みを担いつつあった時も、彼は常に自然へのあこがれをもって文を書き、自然の中に身をおくことのできない時は、雲や星や雨を相手にした。伝道旅行は彼にとっては自然との交わりの好機であった。大正十三年東京郊外松沢村に転居してからは、彼は自然の中に身をおいて生活を楽しみうるようになった。

 自然を愛した彼は、自然を自然として愛したのではなく、一目一草のうちに、一鳥一虫のうちに、神の創造の妙なる業と意匠とを発見し、これを讃美した。彼は神を呼ぶに『宇宙生命』なる語をもってした。彼のうちに内在する宇宙生命は、超越的なる創造主であり、天地宇宙の支配者であった。彼は人間のうちだけでなく被造物のうちにも宇宙生命の宿るのを見た。

 こうした自然観、自然讃美は彼のエッセイの随処にあらわれている。その意味にお
いて彼は単なる自然詩人ではなく、宗教的自然詩人であった。

 次に彼はそのエッセイにおいて絶えず社会時評を行なった。それはジャーナリストとしての批評でなく、予言者としての論評であった。日本民族のうちに潜み、あるいは露出する罪悪を彼は鋭く指摘した。しかしこれを指摘するに止らずに、常に救いへの祈りをもって結んだ。その祈りのうちに彼は希望をいだいた。それは旧約の詩篇作者と同じ態度であった。従って彼のエッセイには人生を題材とする作品がかなり多い。彼は人間を愛した。ごろつきでも、ペテン師でも、乞食でも、淫売婦でも、どろぼうでも、彼はこれを愛した。彼は人間の表面を見ずに、その内奥にある本性を見通した。更に彼は人間社会の改造を絶えず考えており、生物学の知識、進化論への見識、動植物界への見解は、人間社会に応用され社会改造への提言となった。

 自己を題材とするエッセイ、すなわち『私』を主語とする随筆は甚だ多い。賀川への悪評の一つは、彼がセルフ・センタード、すなわち自己中心に偏しすぎるということである。エッセイのうのも、ややこの批評が当たるようなものがないでもない。殊に投獄、病気等については、しばしば言及するため、少しくギラつくところがある。しかし彼は自己の成功を誇ったり功績を自慢したりしないで、パウロのように『キリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と行き詰まりとに甘んじよう』(コリント後書十二の一〇)というところがあったのである。

 四百字乃至一千字をもって書いた彼の散文は、一つの型をもっている。七言絶句のように起承転結から成り、結句は多くの場合、詩篇のように祈りとなる。また時に檄文となり、詠歎となり、待望となる。

 長文のものは物語風に書かれている。これは短文に比べ、文学的にはすぐれており人をひきつけて終りまで読ませる魅力をもっている。そしてこれには、自己中心的なギラつきがない。

 賀川が短文のエッセイを書くスピードは驚くほど速いものであった。キリスト新聞社に姿を現わすや、『不尽油壷』への投稿を催促すると、彼は密室に退いて十五分か二十分で原稿を仕上げて提出するのであった。そして原稿の表題は複線を使って大きな字であらわすのが常であった。彼のうちには思想、感情、知識が豊富に蔵められていたので、静かな時さえ与えられれば、それが短時間であっても、彼のうちにあるものが蚕の糸の如く、彼のペン先から綴り出されるのであった。
 本巻はそのようにして綴られた彼のエッセイの集大成である。


             『黎明を呼び醒ませ』について


 この書は昭和十二年一月二十日、東京の第一書房から発行された。すでに用紙の統制が始まっていたためであろう、奥附には初刷二千五百部と印刷されている。

 書題をなしている巻頭の一文『黎明を呼び醍ませ』は元旦の辞である。序文の日附は昭和十一年十二月十六日となっているので、この文は昭和十一年の年頭のことばであろう。『太陽の周囲を一定の軌道に乗って廻って来るだけが新年というのではない。黎明を呼び醒ませ、魂よ、昨日の藻抜けの殼の生活より、今日新しき第一歩を踏み出せ』という書出しをもって、唯物論に捉われている魂、物質の彼岸に法則の叡智を見出しえない人に、覚醒を促している。

 この文章に比して序文には日本をおうている暗黒を示し、『不義は愛国心の名を籍りて民族の霊魂の殿堂を脅す。民衆はその仮装を看破して、黎明の近づくのを待っている』と述べ、自らを『凍えつつ砂浜の端に黎明を待っている者』となしている。昭和十一年は二二六事件の起こった年であり、ミリタリズムの暗雲が日本においかぶさりつつある年であった。賀川は来らんとする日本の危機を洞察し、この序文と巻頭文とを書いたものであろう。

 これら二つの文を除いては、本書に収められている六十一篇の作品は明るく、面白い。殊に人物評伝が光っている。『懺悔僧としての徳富蘆花』『北氷洋の聖雄グレンフェル』『ジョン・ラスキソ』『支那における太平天国運動』『無人島の王者』『徳富蘆花氏の思ひ出』などは、くつろいで読める文章で、しかも読者をインスパイヤすること大である。

 『東京と大阪』は社会時評として、すこぶる興味ある随筆であり、今日でもなお両都
市比較の参考となる。

 科学に関する短文としては『新天文学の方向』『天文学から見た新天地創造諭』『物質に対する新しい考へ方』『宇宙一元』などかある。当時の天文学者、自然科学者が宇宙の神秘に驚異したのと同じ驚異をもって感想を記したものである。

 『死線を越えてを書いた動機』『夫婦の苦闘の跡』『最徴者への奉仕』は自叙伝の重要な一餉をなすもので、殊に『夫婦の苦闘の跡』は春子夫人との結婚の動機を記したものである。

 宗教的エッセイは『深夜の祈祷』『静思断片』『現代人と信仰』『不思議な世界』『神と永遠への思慕』『魂の芸術』『物質を凝視する瞬間』などである。『神と永遠への思慕』は同名の講演集(本全集第二巻)の要旨をなす。

 ユダヤ人とシオニズム運動を解説的に書いた『放浪民族の運命』は読みごたえのある諭文である。当時はユダヤ禍を唱導し、世界の紛争や動乱は、ユダヤ人の陰謀であり、日本にもこのユダヤ禍が及びつつあると宣伝しまわった人物がいた。(四方伝陸軍中将その他)。賀川はこれを反諭し、ユダヤ人及びシオニズム運動に正しい解釈を与えたのである。

 その他本書には、産業、経済、科学、芸術、演劇等百般の事項についての小文が収められている。特に徳富蘆花との交わりは印象が深かったと見え、『徳富蘆花の思ひ出』のほかに『武蔵野の魂の記録』『小説富士』において蘆花のことを述べており、いずれも心温まる作品である。



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第83回『BROTHERHOOD ECONOMICS』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第83回

 BROTHERHOOD ECONOMICS

   昭和11(1936)年  Harper&Brothers


 1936年にアメリカのHarper&Brothersで出版され、翌1937年にはイギリスでも刊行された本書『BROTHERHOOD ECONOMICS』は、2009年6月に、日本生活協同組合連合会出版部において、加山久夫・石部公男共訳・野尻武敏監修として邦訳されました。

 ここでは、アメリカで出版された初版本の表紙(今回の邦訳所収)と邦訳された賀川の「序文」を収めます。そして訳書『友愛の政治経済学』の表紙と巻末の加山久夫氏の「訳者あとがき」もUPして置きます。



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         『BROTHERHOOD ECONOMICS』

                    序 文


 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行なう者だけが入るのである」。 20世紀の今日、私はいま改めてこのイエスの言葉に思いをめぐらしている。

 今日ほど、キリストの教えが挑戦を受けている時代はかつてなかった。もし教会が社会において愛を実践しようとするのであれば、その存在理由はあるだろう。私は、信条だけで世界を救い得るとは考えない。信条が重要でないというのではなく、信条や教義とともに、社会での贖罪愛の適用が必要なのである。

 今日、資本主義は、漁に出かける漁師のようなものである。漁師は棹や餌を準備しているが、魚はかれら自身の考えを持っているのである。漁師と魚の内なる目的の間には一致ではなく、むしろ対立がある。新しい時代には、私たちは需要と供給という、本来あい伴っていくべき二つの、この不自然な矛盾を解決しなければならない。生産者と消費者の間の溝を兄弟愛をもって架橋しなければならない。さもなければ、社会は決して救われず、不況、恐慌、失業がいつまでも続くことになる。

 相対性や量子力学の理論は19世紀の物質概念を完全に放棄し、固定的な決定論を可能性の世界へと転換させた。かくして、20世紀には、物質主義的資本主義と物質主義的共産主義は共に放棄されなければならないのである。

 私は、本書において、心理的ないし意識的な経済を通して新しい社会秩序に至る新たな道を見出そうと試みた。

本書は、1936年4月、コールゲイト・ロチェスター神学校のラウシェンブッシュ基金の招きで「キリスト教的友愛と経済再建」という表題のもとに4回にわたって行なった講演を収録したものである。

 本書の初稿は米国に向かう太平洋上で執筆した。もし鈴木荘介氏が荒れる航海の途上で助けてくださらなければ、本書の執筆を終えることはできなかったかもしれない。最初に日本語で執筆した原稿を日本に送り、ジェッシー・M・トラウト嬢と小川清澄牧師に英訳の労をとっていただいた。

 さらに、コールゲイト・ロチェスター神学校、アンドヴァー・ニュートン神学校およびシカゴ神学校の数名の学生諸君が英文原稿の表現を検討してくれた。その後、多年にわたり私の助手を務めてくれているヘレン・F.タッピング嬢、国際宣教会議の秘書であるエスター・ストロング、ラウシェンブッシュ講演委員会委員長のアール・B・クロス教授らのご好意により、幾分か拡大され、形も整えられた。本書の出版のためにご助力くださったこれらの友人たちに心からの謝意を表したい。

                                  賀川 豊彦




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                  訳者あとがき


 1935年12月、賀川豊彦は、経済恐慌からの復興のためにニューディール政策を推進中であったルーズベルト政府から招かれ、協同組合運動の指導者として全米講演の旅に出かけた。この多忙な講演旅行中のもう一一つの目的は、ニューヨークのコールゲイト・ロチェスター神学校でのラウシェンブッシュ記念講演であった。

 キリスト教の社会的使命を掲げる「社会的福音」で世界的に著名なウォルター・ラウシェンブッシュを記念するこの講演には、やはり世界的に著名な人士が招かれ、その講演は刊行される慣例となっていた。賀川の講演がbritherhood Economics(Harper&Brothers、1936)として出版されることが予告されるやいなや、3、000部の予約が出版社に殺到し、広く読者の関心を集め、その後、世界的に多くの言語に翻訳され刊行された。

 カナダ、イギリス、スコットランド、フランス、中国、オランダ、スウェーデン、ルクセンブルク、デンマーク、ノルウェー、ウェールズ、アンドラ、イタリア、スイス、ベルギー、リヒテンシュタイン、リトアニア、エストニア、ラトビア、ポーランド、サンマリノ、トルコ、ユーゴスラビア、オーストリア(ドイツ語およびエスペラント語)、ドイツなど25力国、17言語で出版されている。

 当時、米国発の金融恐慌で苦しむ世界において、キリスト教的兄弟愛に基づく人類社会の新秩序樹立への提言がどれほど多くの人々の関心と共感を呼んだか、よく窺われる。

 ところが、残念なことに、日本語では出版されず、話題にもならないままとなった。

 因みに、1978年、当時EC(現在のEU)の議長であったE.コロンボ(イタリア外相)が日本の国会に招かれた際、事前に国会に宛てたメッセージの中で、「競争的経済は、国際経済の協調と協力を伴ってこそ、賀川豊彦の唱えた『友愛の経済』への方向に進むことが出来るのである」と述べている。しかし、どれだけの国会関係者が、賀川の唱えていた「友愛の経済」について知っていたのであろうか。

 もっとも、賀川豊彦が渡米船上で執筆した元の原稿は『キリスト教兄弟愛と経済改造』として、ただちに『雲の柱』誌に連載されている(1936年3月~6月)。(『賀川豊彦全集』11巻に所収。)しかし、本として出版されたものは増補、編纂され、書名も変わっている。また、『雲の柱』誌は賀川の個人誌の趣があり、読者層も限られていたので、この時も、その後も、残念ながら、広く話題とされることにならなかった。

 賀川豊彦の思想や社会活動についての紹介や本書の意義については、監修者により行き届いた紹介がなされているので割愛する。

 本書は、米国での講演であり、しかも、キリスト教の背景をもつ聴衆に語られたものであるので、その点で多少の違和感があるかも知れない。また、なにぶん70年前の講演であり、時間的距離もある。しかし、本書が提言し、目指しているものには、時代や状況を越えた普遍性があると思う。

 しかも、本書が出版された1936年は、すでに述べたように、経済恐慌の荒波に翻弄されていた時代であり、現在の状況と大きく重なっている。賀川がある意味で共感しつつも、厳しく批判した社会主義体制が崩壊し、独り勝ちしたかに見えた資本主義体制も行き詰まりつつあるいま、第3の道が求められている。その意味で、本書のメッセージは、今だからこそ正しく読まれ、理解され得るものがある、とも言えよう。

 この度、賀川豊彦獣身100年記念事業の一つとして、ぜひ本書の邦訳出版をと思い立ち、石部公男教授(聖学院大学)と共訳し、野尻武敏先生(神戸大学名誉教授)に監修をお願いした。野尻先生は訳稿全体を原著とつき合わせ詳細に手を加え、事実上、監訳者の労をとってくださった。

 厳しい出版事情の中、コープ出版が本書を刊行して下さった。日本生活協同組合連合会の関係者の方々に心から感謝申し上げたい。

読者諸賢が、閉塞状態にある現代の状況において、本書からひとすじの光を見出し、さらに未来への希望の道を切り開くことに寄与することができるなら、望外のよろこびである。

 なお、原文中、現在では不適切と思われる表現や明らかに事実誤認と思われる記述は部分的に手を加えたが、なるべく原文を尊重した。この旨諒解していただけると幸いである。

                                        加山久夫


新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第82回『人生読本ー春夏秋冬』)

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上の写真も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第82回

  人生読本―春夏秋冬


    昭和11年8月20 第一書房 446頁


 本書を編集したのは鑓田研一氏で、賀川の詩集『涙の二等分』『永遠の乳房』、随筆『地殻を破って』『星より星への通路』『雷鳥の目醒むる前』『地球を墳墓として』、そして『暗中隻語』『愛の科学』といった諸作品の中から抜粋して、1月から12月まで月ごとにおよそ20篇ずつほどに並べて完成させています。

 第一書房では、漱石や子規、藤村や菊池寛などの「文学読本」のシリーズをはじめ、「人生読本―春夏秋冬」のシリーズでも山本有三・萩原朔太郎・野口米次郎・井上哲次郎などの作品が続けて刊行していますが、賀川豊彦もその一冊に加えられました。

 ここでは、本書のカバーや本体の表紙、そして扉の写真、さらに「編者の言葉」がありますので、鑓田研一氏の文章を収めて置きます。

 そして最後に、本書が昭和15年2月に第3刷が出て、それが手元にありますので、その表紙もスキャンして置きます。



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                 『人生読本ー春夏秋冬』


                    編者の言葉


 賀川氏は世界を照らす太陽か何ぞのやうに偉大な存在である。かういふ人は、一世紀に一人か、二世紀に一人しかあらはれないだらうと思ふ。それほど、その生活ぶり、活動ぶり、人生の生き方、考へ方が特異性を持ってゐる。日本人の血統と日本の土壌の中から、かういふ特異な人がよくあらはれたことだと、不思議に感じられるくらゐである。

 傅道、貧民救済運動、労働運動、農民組合、消費組合、震災救護運動、医療組合、各種の社會事業、立体農業の実施、農民福音学校、看護婦や女子の指導、等々と、氏が過去三十年に亙ってやって来た仕事は実に廣汎であったし、これからも氏は、あの病気がちな、しかも頭丈で柔軟性に富んだ肉体が続く限り、精力的な活動を見せるでもらう。

 氏の學間は驚くほど多方面に亙ってゐる。明治學院在學中は、一切教室には出ないで、圖書室から、カソトや、ショーペンパウエルや、シュライェルマッヘルのものを引き出して、どんなに厖大なものでも、三四日で読破してしまひ、米國のプリソストン大學に入ってからは、神學や実験心理學や数学以外に、生物學、殊に比較解剖學、古生物學、遺伝発生學、胎生學を専政した。氏が神戸神學校の寄宿舎で書いた、明治四十二年、氏が二十二歳の時の日記を見ると、巻末に、その年に読んだ書物の名が列記してある。その中には、ロッツェの形而上學、プルターク傅、独歩の『欺かざるの記』前後二巻、クレオパトラ傅、頼朝、菩提達磨、クロムエル傅、ヘロドトス、スピノザ、マルクスの『資本論』、クレオパトラ伝、頼朝、菩提達磨、クロムエル伝、ヘロドトス、スピノザ、マルクスの『資本論』、クロポトキンの『パンの略取』、論語、禅學法話、菜根譚、二宮尊徳などがある。宗教、哲學、科學、経済學、社會學、歴史の諸部門の中で、氏が手を着けないものはほとんど無いと云っていい。最近は天体物理學、天文學の書を漁って、アマチュアの域を脱してゐるし、文學的素養だって、あれで氏は一人前以上のものを持ってゐるのである。氏の書いたものを理解するには、だから、本当を云へば、氏に劣らないくらゐの予備知識が必要である。だが幸ひ、氏は大衆の言葉を持つてゐる。氏の胸には大衆の血が流れてゐる。氏が言はうとする事、訴へようとする事は、犇々と誰の胸にも迫る。氏は永久に青年である。氏は水久に童心を失はない人である。それに、何より嬉しいのは、氏の言葉の一つ一つが、氏自身の生々しい体験から生れ出てゐることである。どんな言葉の切れ端にも、氏自身の心臓の鼓動が脈打ってゐる。

 氏の著書は既に九十冊からある。その中から必要な部分を抜粋して本書を編んだのだが、この仕事は、氏の側近者の一人となって十数年になる私にとってさへ、予想以上に困難であった。私は屡々自分の知識の浅いことを歎かざるを得なかった。従って、編輯を終へ、校正の朱筆を擱いた時にはほっとした。

 この書は、苦熱や貧困や病気で喘ぐ者に、魂の涼風を送るであらう。どのページを開いても、死線を越えて信仰と愛と希望に生きてゐる者の颯爽たる気魄と情熱が溢れてくいると私は信ずる。朝食前、叉は夕食後に、一家団欒して、一入が朗読するのをみんなで開くのも面白からう。そんな場合、朗読する方も、聞く方も、そっと顔を染めなければならないやうな文句は、この書には絶無である。再読し三読して、この書で満足できなくなったら、直接に賀川氏の九十冊の著書を読破したまへ。

 賀川氏は生れながらの詩人である。第一詩集『涙の二等分』が、与謝野晶子女史の序交附きで上梓されたのは、大正八年十一月のことである。私は思ひ出すが、その時氏は早速それを、常時私か席を置いてゐた大阪神學校の寄宿舎へ持って来て、あちらこちらを読んで聞かせてくれたものである。三十幾歳になっても、氏には青春のスリルがあった。氏にとっては記念すべき詩集であるから、この中からも私は数編抜粋した。

 第二詩集は『永遠の乳房』(大正十四年十二月刊)で、これももちろん見落すわけにゆかなかった。

 氏の出世作は自傅小説『死線を越えて』(大正九年十一月)である。あれが出た時、読書界に起ったセソヒイションは非常なもので、おそらく五十萬部から売れたであらう。今年十七八歳になる者が呱呱の聲を揚げた頃の事件である。それを思ふと、時が経つのが恐ろしいみたいだが、それから後も氏は十畿篇の長篇小説を書いた。とりわけ、『一粒の麦』は『死線を越えて』についでの売れ行きを示した。そして二つとも、今では幾っかの外國語に翻訳されてゐる。

 この書を編むに当たって、私はしかし、小説からは一切抜粋しなかった。といふのは、賀川氏の小説は、一節、一章を抜粋して、その技巧や表現を味わうべき性質のものではなく、全体を読んで初めて意義を持つべき性質のものだからである。それほど氏の小説は全体性を持ち、その全体性は芳醇な人生的價値から成り立ってゐるのである。

 散文詩の方で氏が特異な技量を持ってゐることを知ってゐる者は、小説家としての氏、宗教家、社会運動家としての氏の存在が華やかなだけに、わりに少ないのではないかと思はれる。それで、この書には、氏の散文詩の中でも、最もすぐれた部分をかなり沢山取り入れた。『地殻を破って』(大正九年十二月刊)や、『星より星への通路』(大正十一年五月刊)や、『雷鳥の目醒むる前』(大正十二年三月刊)や、『地球を墳墓として』(大正十三年六月刊)からの抜粋がそれである。そこには神と共に歩む者の朗かな歓喜と魂の香気が漲ってゐる。

 珠玉のやうな短文に充ちてゐる『暗中隻語』(昭和元年十二月刊)は、この書を編むのに一番役立った。英語にも支那語にも訳されて、世界中の人々に熱読されてゐる『愛の科學』は、この書の至る所に、高らかな調べと音楽的なリズムを輿へてくれた。

 この『愛の科學』が上梓されたのは、大正十三年五月のことで、大阪毎日の村島帰之氏と私とが、本所のバラックで、震災救護運動で寸暇もない賀川氏の横顔を目のあたり見ながら、十幾日かかって編輯と校正をやったものである。さういふ思ひ出のある書物が、今ここで再び使用されたことは、私にとっては二重の喜びである。

  昭和十一年八月九日                鑓  田  研  一




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第81回『小説・その流域』)

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上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第81回

  小説『その流域


     昭和10年11月30 大日本雄弁会講談社 369頁


 本書『その流域』は、講談社の雑誌『雄弁』の昭和10年1月から12月まで1年間連載されたものです。戦後昭和23年6月には、読書展望社において『その流域―小説』として発行されて読み継がれました。

 ここでは、初版の表紙と扉、そして賀川の短い「序」を収めます。それら初版の巻末にこの書店から出版された賀川の小説『一粒の麦』『海豹の如く』の広告が入っているので、これもスキャンして置きます。

 なお、武藤富男氏の『賀川豊彦ダイジェスト』に本書の「解説」がありますので、少し長いものですが、参考までにこれも入れて置きます。



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                  その流域

                    


 一國の文化は河川の流域に沿うて栄える。支那は黄河の文化によって始り、印度はガンヂス河をその脊髄とした。そして日本の文化も、六百有余の流域が凝集したものである。日本の文化は流域の文化である。その流域を守ることなくして、日本は救はれない。水は源を浄めて初めて、デルタに潅漑することが出来る。これは心田の開発に於ても同様である。今や日本の心田の旱魅は甚だしい。その流域を守る者は誰であるか? 民草は枯れ、赤土は慨く。誠にその流域を護るものは誰であるか?

  昭和十年十一月
賀 川 豊 彦



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武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』310頁~315頁

『その流域』について


一、著作の年代と梗概


 本書は昭和十年十一月三十日、大日本雄弁会講談社から発行された、『一国の文化は河川の流域に沿うて栄える』という想定にもとずいて、阿波国、那賀川の流域からはじまり、一人の青年の各地における遍歴を描き、ついに郷里那賀川の流城に帰ってその地域の開発に献身するという物語である。あらすじは次のようである。

 那賀川の流域の或る村で小学校教員をしている松下正市は、村長や村会議員や校長などの集まった新年宴会に列して、酒と芸者に金を貸し、貧しい人を顧みず、また教育に資金を用いることをしない村の政治家や教育家の態度を憤り、酒席を逃れて、自分の宿に帰る。そこへ隣村の安永きみ子が訪れる。彼女は正市のところで、他の青年たちと夜、英語を習っており、彼女自身講義録をとって勉強し、専門学校入学資格検定をとろうとしている。正市は彼女に愛情を感じている。

 翌日正市は校長の前に呼び出され、夜学をやっていることを叱責され、三日目に県から来た視学によって転勤を命ザられ、那賀郡の奥の分校に移ろことになる。暗い心で下宿に帰ってくると、きみ子が来て待っており、縁談が始まっていることを告げる。正市は自分の境遇を思い、彼女への恋を打明けることができない。

 分校へ転任した正市は、下宿がないので炭焼小屋を修繕してそこに住み、不精者で人の好い分校長のもとで女子師範出のかたくなな女教員とともに働き、複式教育(二学年を一教室で教える)の授業を行なう。そして酒毒や梅毒の遺伝が子供からを不幸にしていることを知る。正市は村の子供たちをその能力や性格を超えて深く愛する。

 春休みになって三木よし子が転任したので、正市は分校の宿直室に移り住んで、本科正教員の試験を受けるために勉強する。彼の父はすでに世を去り、母は椿泊の故郷で行商をして独りで暮しでいる。村の疲弊のため俸給は一月分の半分が渡っただけで、二月分も三月分も渡らない。彼は母への送金もできずにいる。

 彼が宿直室にあって勉強していると、安永きみ子が訪ねてくる。彼女は正市とともに柴を燃して麦を炊き、赤味噌を焼いて、夕食をとる。翌目もきみ子は正市を訪ね、食糧を運び、正市の仕事を手伝う。

 新学期が始まっても分校長はよりつかず、他に転任することになり、正市は一人で二百人にあまる生徒を引受けねばならない。欠食児童が多くなってくる。安永きみ子も来なくなる。正市は正教員の試験を受けようとしたが、学校を休みにしなければならぬので、断念し、東京に出て苦学をしようと思いつく。安永きみ子は他へ嫁ぐことがきまったらしい。

 夏になって正市は八里離れた椿泊の母を訪れ、学校を変わろうかと相談すると、母は月給の支払いがおくれても、自分は働いて生活を立てるから村の教育のために尽してくれといって、行商でかせいだ金の中から十円札一枚を正市に渡す。正市はこれに励まされて分校に帰る。次の土曜日に彼は徳島に行き、安永きみ子が嫁入り姿をして美容院から出てくるのを見る。彼は乗っていた自転車のペダルを踏む勇気もなくなって麦畑に入って泣く。

 県庁から給料の補助額が増加され、分校に働く新任分校長と女教師がきまったが、分校長はよぼよぼの老人で、女教師は女学校を出たばかりの小娘である。正市は宿直室を分校長に明渡し、女教師を近所の家においてもらい、自分の手で炭焼小屋のそばに四畳半一間の小屋を建て、生徒たちに手伝ってもらって完成し、そこに移り住む。彼は生徒たちに岩石の名や雑草の名を教え、殼斗科の果実についての知識を与える。

 分校長は正市の教育の仕方に反対し、ことごとに意地悪い妨害をする。そして生徒たちの態度が気に入らないと生徒をなぐる。或る日、分校長は酒乱者大吉の子虎松が他の生徒の墨を盗んだというので、鞭をもってなぐり、失神させてしまう。正市は虎松を介抱し意識をとりもどさせるが、大吉は夕方、酒に酔って、分校長が夕食をとっている時に乗りこんで食卓をひっくり返してしまう。正市は大吉をとめる。分校長は逃げ、大吉は警察署に引かれて行く。翌日、正市は分校長に呼び出され、彼が大吉をそそのかしたという理由で退職願いを書かされる。正市は弁解せずに村を立去る。そして母の承諾を得て大阪に出て勉強することになる。

 大阪に出た正市は、遠縁の親類の世話で、四貴島セッツルメントの吉武玄次郎のもとに泊まり、吉武からモレヴィアン教徒の話を聞く。そこにいて職を探した結果、糞尿汲取の肥船専門の会社に雇われる。彼の仕事は肥船を木津川尻にまわして、積んでいる肥を淡路の船に汲取ってもらうことである。

 この仕事は真夜中から始まり、夜明け前に終るのであり、月給は二十円である。正市は、人のいやがる仕事であるが、吉武先生の教えを体してこれに従事し、関西大学の夜学に通う。彼は河岸における船頭から誘惑を受けるが、これを斥ける。船の中へお末という売春婦が乗りこんできて、正市を誘う。正市はお末の純情に引かれるが、心を動かさない。お末は正市と腕の血をすすり合って兄弟分の契りを結ぶ。

 関西大学の夜学では法律を教わっているので、正市は実業補習学校の機械科に転じようとしていた矢先、勤務先の肥料会社の支配人夫妻から呼び出しがあって、その親類である遠山家の息子の家庭教師になってくれと頼まれる。正市の苦学していることに感心したためであった。その日の午後天下茶屋の遠山家に連れて行かれることになったが、船が心配になるので一旦帰ると、お末がきていて、今夜ここで寝かしてくれという。そして馬券を買ってもうかった金百二十円を正市にあげるという。正市は家庭教師となることをお末に告げると彼女は失望し、百二十円入った財布を川に投げこむ。正市はこれを柄杓で救いあげる。

 遠山家へ連れて行かれた正市は、そこの息子市太郎の家庭教師となる。そこには、京都祇園のお茶屋の息子に嫁に行って子供を残して実家へ帰ってきた由子がいる。遠山の主人は貸座敷を三軒もち、食堂も経営しているが、妾のところへ行っていて、月に一度位しか帰家しない。

 市太郎は中学生であるが父の生活に影響されて脱線している。正市はその教育を引受けることになる。由子は学問があり、博物に興味をもち正市に好意を示す。

 正市は一旦船に帰るが、お末がいないので、宿を尋ね、財布を渡してくれるよう宿のおかみさんに頼む。それから跡片附けをして遠山家に引越し、二階に住んで市太郎と起居を共にする。押入れを片附けると春画や猥画が出てくる。正市は自らを叱責して性欲の誘惑を逃れ、近くの機械博物館に入って勉強し、あるいは古本屋を見て歩く。

 由子は遊郭業者の中に育ったにかかわらず、教養が高く、絵をかき、香をたき、服装の趣味もよい。そして宝石のあらゆる種類を秘蔵しており、鉱物に対する興味も深い。由子は美人ではないが、正市は由子と会ってから人生観が変ってきた思いがする。しかし初恋の女安永きみ子をあきらめることができない。

 市太郎は正市の指導で少しはよくなったが、生駒山へ散歩に行くといって出たきり三日も帰らず、『同性心中未遂』ということが新聞に出された後、平気で帰宅する。正市は責任を感じ辞職しようと申出たが、市太郎の母が引止めるので、市太郎の教育に力を入れることにする。市太郎は学校をやめてしまい、明年、東京の私立中学校に入ることとなる。

 明年四月までの期間、正市は市太郎の教育のため、由子の知人である東北出身の女学校の先生に頼んで、東北で最も困っている村に行き、無料で小学校教育のために奉仕することとし、岩手県軽米町高家の小学校を応援することとなる。正市は由子、市太郎とともに、十月二十九日の晩、大阪を出発する。由子を見送りに来た娘たちの中に白井竜子という美しい人かおり、安永きみ子に似ているので、正市は心を引かれる。正市は食堂車の中で由子を姉さんと呼ぶことを約する。由子は離縁になった事情を話している時、京都駅から彼女の先夫が芸妓数人をつれて入ってくる。由子と先失とはさり気ない挨拶をうわず。

 三人は岩手県北福岡の駅に着いて乗合バスで目的地に向かう。同乗した鉱山技師はこの地帯が第三紀層で地質研究の上に興味があることを語る。市太郎はこれに心を引かれる。目的地の軽米町高家の小学校に着き、正市は生徒の学力の低いこと、欠食児童の多いことに心を傷める。由子は村の娘たちの夜学を始め、また欠食児童のための給食を受持ち、その時開設された村の托児所を受持つ。正市は三年四年の生徒を受持ち、村の青年たちをも指導する。市太郎は友だちがないので淋しがって帰るといい出すが、正市は彼に生物や鉱物の知識を教えつつ彼を導く。

 十一月になって兎狩りに行った市太郎は帰宅して発熱し、由子と別の室に寝る。そのため正市と由子とは床を並べて寝ることとなるが、正市は安永きみ子のことを思い誘惑に陥らず、由子もまた正市の爪を切ってやるが性欲の入らぬ愛を讃美する。そこへ大阪から白井竜子が訪ねてくる。そして三人とともに住むこととなり、正市の仕事を助ける。

 十二月になり村は雪に閉じこめられ、村人の生活はいよいよ苦しくなり、欠食児童の数は増加する。正市は遠山家から送られる俸給を全部投げ出して子供たちのために自宅で給食し、復習をしてやる。

 南の山の中に住んでいる作太郎が永く欠席しているので、山奥に彼を見舞ってやると、敷藁の上に寝て高熱を出して苦しんでいる。正市は敷藁を変えてやる。父親は酒に酔って帰ってきて病児を処置する工夫も考えていない。正市は一旦帰宅しで馬橇で作太郎を連れてきて看病してやることになる。

 母から十円のかわせが入った手紙がきている。母の激励文に、安永きみ子が離縁になり、大阪へ女中奉公に出るといっていたこと、岩手県に行きたいとも言っていたことを書添えてある。

 正市と竜子は馬橇に乗って山奥へ向かう。二人は毛布をいっしょにかぶる。竜子が抱きついてくる。彼女は正市に愛を打明けるが、正市は安永きみ子のことを話し、彼女の愛を受入れない。二人は作太郎を馬橇にのせて託児所に運ぶ。作太郎は回復する。正市、由子、竜子の親切は山奥まで聞こえ、奥地からわらびやくず粉など幾袋となく届けられる。

 市太郎はよく勉強するようになり、元日には代数の問題がよく解けるようになったといって喜ぶ。

 村の青年たちの希望で正市は託児所で夜学を開き、由子、竜子とともに青年たちに教えることとなる。更に村の青年は何人か泊りこんで早朝学校もやることになる。

 作太郎は寝小便をする上に盗癖がある。彼の父は彼を時々連れてきて託児所に泊まらせる。すると物がなくなる。正市は森に連れて行って訓戒するが効がないので、教育家としての自らの資格を疑う。

 竜子の金時計が見えなくなる。託児所の青年たちが作太郎を縛って、白状させようとする。そこへ彼の父作平がきてそばにいた市太郎をステッキで殴る。作太郎はテンカンの発作を起こして口から泡を吹く。市太郎は傷の苦痛を訴える。

 作平は巡査を連れてきて正市を讐察に連行させる。正市は監房に入れられ、寒さに悩みつつ、日本に光明を与え給えと祈る。

 正市は窓から月世界を見つめつつ、自己の霊魂と対談し、キリストのように十字架を負うところまで行こうという。彼が留置されたのは、彼が左翼運動者で村の青年に革命思想を植えつけようとしていると誤解されたためであった。町の新聞社は『小学校教員の児童殺傷事件』という見出しで、正市が児童を虐待したかの如く記してある。正市は十日も留置所に入れられていた後、ようやく釈放される。

 市太郎の怪我は治ったので正市は由子竜子とともに村を去る。親しい村人たちは彼らと別れを惜しむ。正市は新約聖書コリント後書十二章の『我弱き時に強し』を読み力づけられる。彼らは天王寺の遠山家に帰る。

 東北における奉仕生活の収穫は市太郎が立派な少年になったことである。遠山家ではこれを喜んでくれる。市太郎の母は、正市にむかつて、この上はうちのお父さんに貸座敷業をやめてしまうように言ってくれと頼む。

 そこへ安永きみ子が訪ねてくる。正市はきみ子を連れ、築港に出て、小さな旅館に上がり、語り合う。きみ子は親に強いられて結婚したところ夫は放蕩者で病気をうつされて苦しみ、母の許しを得て実家に帰り離婚しようと思うが、先方がこれを承諾しない事情を打明け、正市の懐に飛び込んできたという。正市は彼女が法律上人妻であることを思い、抱擁してやらない。そしてきみ子を連れ、四貴島に出て吉武先生に彼女を頂けることにする。

 きみ子は四貫島セッツルメントで吉武先生の助手として働くことになる。正市がセッツルメントの保育学校を手伝っていると、母の病気が電報で伝えられる。阿波の郷里に帰ると母の従妹が母を看病している。母は行商から帰ってきて、籠をかついだまま卒倒したのであった。病床で母は瞳を開いて正市を見たが、うなづいただけで口をきけない。着物を脱がせると、銀の十字架が頸にかけてある。正市はこれを外そうとしない。母は若い時に信仰を得ていたのである。

 正市は母をその従妹に頼んでおいて、昆布の行商に出る。三日日の朝、由子から百円の為替がとどく。市太郎と由子と竜子が訪れる。由子は正市の母を看病してくれる。母は全快する。三人は医者の未亡人岡田さんの家に泊めてもらう。そこで村の子供たちへの日曜学校が始まる。きみ子から手伝いに行くという手紙がくるが、正市は当分の間大阪にいて勉強するように言ってやる。

 夜になって正市は市太郎とともに外に出て星座表をひろげて、星の勉強をする。そして星座の歌をうたう。由子も仲間に加わる。

 母の健康が回復したので、正市は那賀川の流域において山村更生のため働く決意をする。由子もこれを助けて村塾教育をすることになる。岡田未亡人の弟の岡田獣医は、聖書を読んでおり、大寺に畜舎をもっているので、その二階を解放して農民福音学校を開くことを申し出る。
 正市は阿波の国の特権は吉野川の流域であることを知っているので、大寺に根を生やして霊魂教育を始めることとなり、一家をあげてそこに移り住む。

   二、モデルと作風

 本書の主人公松下正市は、肥船に乗りこんでいた二十五才台の青年で、当時、吉田源治郎が四貫島セッツルメントにある大阪イエス団教会の牧師をしていた頃、日曜日朝六時から始まる礼拝に出席していた人物である。吉田源治郎はその氏名を忘れてしまったが、徳島県板野郡勝瑞(しょうずい)の出身であるといっている。早朝礼拝は労働者のための集まりで、礼拝がすむと皆が十銭で牛乳とマントウとを食べたものだそうである。

 吉田源治郎が賀川にこの活をすると賀川はこれに感動して小説の主人公としたものである。作中吉武玄次郎とあるはもちろん古田源治郎のことである。

 この小説は前半は筋も描写もよく整い、文学としては上出来であるが、後半は、目的あるいは意図が強く出すぎ、やや不自然の観がある。全体としては、恋愛、売笑婦、誤解、投獄、理想への献身という賀川小説の型に従っている。

 松下正市が那賀川の流域で小学校の教師をするところは、殊によく書けている。横山春一著賀川伝には、賀川が小学校の先生をしたことは記してないが、「死線を越えて」の上巻の初めのほうには、新見栄一が小学校教師をするところが出てくるので、短い期間ではあるが小学校を教えたことがあると推定される。

 安永きみ子には『死線を越えて』に出てくる鶴子の面影かある。これは初恋の人として生涯の間賀川の胸底にひそんでいた女であろう。








新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第80回『農村更生と精神更生』)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」ぶらり散歩


―作品の序文など―

      第80回


  農村更生と精神更生


   昭和10年11月19 教文館出版部 210頁


 本書『農村更生と精神更生』は、日本農民福音学校や各地での講演を筆記してできた作品です。
 早速、表紙と賀川の「序」を収めます。そして、武藤氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」も。


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                農村更生と精神更生

                      


 「心田を耕さざれば田を耕すことが出来ない」と、よくもまあ二宮尊徳先生が云ってくれたものだ。土を耕す場合に技術が要る。土の測定、土の改良、品種の統一、品種の改良、一つとして精神的努力にまたないものはない。土の仕事を唯物的なものだと思ってゐる
間は、大きな間違ひをする。況んや最近の土壌学の発足、発生学の進歩、肥料化学の進展等によって、農業は人間の意識的開発をまたなければ、不可能事となって了った。

 農業を唯物的にのみ考へる時代はもう過ぎ去った。生物化学としての農業は、生命の発展の方向に従って不思議な末末を持ってゐる。その不思議な未来の扉を開くものは、心の鍵による。魂を開墾することなくして、山野を開墾することは出来ない。印度のマヌー法典にも無神論者の田畑が荒れることが書いておると私は聞いた。古くの時代から唯物的になった民衆に、土を愛する者のみ、土はその感情を現す。土は人間の胎盤である。畏敬の念をもつで土に接近するだけでなく、愛の心を以って大自然に接しねばならぬ。私は唯に日本のためにこの書を書くのではない。世界列国凡ゆる民族に向っても、この書に盛られた真理は、永久の真理であると考へてゐる。そして将来如何なる農政学が現れるにしても、私かここで述べんとした真理以外に何等新しいものを加へることが出来ないであらう。

 キリストは「我父は農人なり」といはれた。全能者にして初めて農を善くすることが出来る。充分科学的であり得て、初めて土を完全に愛することが出来る。土を愛すると称しても、非科学的農民は郷土を蹂躙するものである。然し農業科学だけを知って社会科学を
知らざる者は、農産物が人間のために生産せられることを忘れてゐるのである。資本主義末期に立ってゐる我々は、農業科学を熟知すると共に社会科学をよく理解せねばならぬ。協同組合科学の必要はそこに生れる。

 然し、協同組合運動は、宇宙の神が我々に与へた良心運動を離れて成立するものではない。日本の危機は良心の危機である。道徳的廃顛は、産業組合運動にも潜り込んでゐる。どうしても精神更生を基礎としなければ、農村の更生はあり得ない。私はさきに小説「一
粒の麦」「幻の兵車」「乳と密の流るる郷」等を著して、小説体に農村更生の原理を書いたが、ここには如何なる山村の人にも手に入るやうにと、私の農村更生の原理を論文体にして発表した。私は国土を愛する青年のために敢てこの書を捧げたい。

  一九三五・一一・八 
                                賀 川 豊 彦
                                       武蔵野にて


 附記――この書は、主として日本農民福音学校及び各地に於ける講演筆記を纒めたもので、出版するに当たって、更にそれらに、私が加筆しました。吉本健子姉と黒田四郎氏の手を煩はしましたことを、茲に感謝いたします。農村更生及び信仰問題について質問或ひは指導を求めらるゝ方は、東京市世田谷区上北澤町二丁目六〇三 賀川宛手紙をお送り下さい。又、この書の精紳に依った農民福音學校が仝國各地にありますから、短期間の講習を受けたい人は、上記の場所へお問合せ下さい。私が返事出来なくとも、指導係の方が喜んで御返事致します。少しも御遠慮要りませぬ。



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              『農村更生と精神更生』について

    武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』208頁~209頁


                     
 農民福音学校及び各地における賀川の講演筆記を吉本健子、黒田四郎がまとめ、賀川自身が加筆したもので、昭和十年十一月十九日、散文館から発行された。農村問題を精神面、宗教面からあつかっかものである。

 第一篇『農村の精神更生』第二篇『農村の経済更生』という編別になっており、経済復興の原動力を精神に求めたことにこの書の特質がある。

 第一篇においては土を愛する精神、土についての聖書の教訓、協同組合による農村の更生、神を愛する精神を扱っている。最も面白いのは土に関する聖書の教訓で、次のようである。

 モーセはイスラエル民族をひきいて荒野を放浪していた時、縁の中に焔の燃え立つのを見、近づいて行くと神の声が聞えた――ここは聖地なり、靴を脱ぎて裸足となるべしというのである。このように大地は素足をもって立つべき神聖な神の宝座である。

 創世記に記されたところによれば、人間は土から作られたもの、アダムとは赤き土という意である。エバを誘惑した蛇は平面農業を象徴する。エデンの園にあった生命の樹と知恵の樹は、それぞれ殼果のなる樹木と、嗜好果物――みかんやりんご――のなる樹木とをあらわす。蛋白質、澱粉、脂漿、ヴィタミンを多く含んでいる殼果を食べていれば、アダムとエバは労せずに生活ができたものを、栽培するのに労力を要する樹の実を食ったものだから、楽園を追放され、土を耕さねばならなくなった。人は平面農業ではいけない。立体農業に帰り、殼果を食うようにせよ。

 アペルとカインの物語は、アベルが酪農を行なって土地と家畜とを大切にしていたのに、カインは農耕だけを営み略奪農法(地力を奪って捨てて行く農法)を行なっていたので、神の怒りにふれ、その献物を受納されなかったのである。

 ノアの洪水はカイソの子孫が樹木を切ってしまったために起こったものである。アブラハムは羊と山羊とをつれて未開地に植民した。モーセは上地を神のものとし、五十年間に土地所有に変動があっても、五十年目毎に一度土地をもとの地主に返せという法律を作り、貧民が困らないようにした。

 また土地から生ずる産物を取り残した場合は、貧民のためにそれを残しておけという法律を作った。

 予言者時代においては、予言者は土地兼併に反対し、搾取階級と闘った。ミカ、アモス、エリヤ、イザヤ、エレミヤ皆然りである。

 キリストは「我が父は農夫なり」といい、農業に関する話をその教訓の喩えに用いた。黙示録に記された天のエルサレムは田園都市であり、川の流域は立体農業になっており、エデンの園で失われた生命の樹がもう一度かえってきている。

 以上が賀川の聖書教訓であるが、その結びとして、土は神のものだから『土地に肥料をやる時には、神の頭に毛生薬(けはえぐすり)を塗るつもりでやれ、かくすれば労働は芸術と化する』といっているところは、すこぶるユーモラスである。

 第四章は協同組合による農村の更生を概説したもので、その詳説は第二篇に出てくる。第五章においては『神を愛する精神』として農村における宗教生活を語り、良心宗教に目ざめ、開拓精神をもち、宇宙の本質たる愛を体得し、人格的なる神を信ぜよという。

 第二篇の第一章、第二章においては日本農村の再建策が論ぜられている。協力運動、生物科学の利用、精神復興、機械化、電化、農産物加工、金融などの問題が取り上げられ、最後に一個の化学工場としての農村の経営が提唱されている。協同組合を発達せしめて、農村を一個の化学工場とするというわけである。(これは外から強いられたコルホーズではなく、内から盛り上がって作られるコルホーズを意味するのであろう。)

 第三章乃至第六章は協同組合による農村の復興を論じたもので、『農村社会事業』において述べていることとほぼ同じである。ただし本書のほうが表現が容易で一般に分かり易い。

この書の結論は、農村は、先ず魂から甦らねばならぬ、土を愛し、神を愛し、隣を愛するという三愛主義に立ち、十分に科学的に、十分に宗教的に、完全な生命芸術として、人間を宇宙の神の栄光として地上に花咲かしめよというのである。





新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第79回『乳と蜜の流るる郷』)

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今回も上の写真は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第79回

  乳と蜜の流るる郷


     昭和10年11月6日 改造社 472頁


 改造社より出版された小説『乳と蜜の流るる郷』は、産業組合中央会の機関誌『家の光』の昭和年1月から昭和10年12月号まで24回にわたって連載された作品で、連載中から大変な話題を呼び、『家の光』はこれで百万部を越える勢いで愛読されたと言われています。

 これは昭和43年4月に「家の光協会」より、当時の「読者の声」や関係者の思い出などを加えて再刊されています。

 ここでは、はじめに改造社の初版の表紙と扉、つづいて家の光版のケースの表紙、そしてそこに収められている写真などをUPして置きます。特にそこには「作者の言葉」も添えられていますので、「家の光」出版部の「発刊のことば」と共に、ここに加えて置きます。



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              長編小説 乳と蜜の流るる郷

            
                  作者の言葉


――農村の荒慶は極度に達し、都会の混沌は言葉に尽くせない。それを救ふ道は産業組合の外には無い。

 しかし現下の産業組合が、果して理想的形態を持っているかどうか? 作者は自ら体験した苦い産組運動を通して茲に新しき理想を小説の形で示さんと念願してゐる。

 東北の一寒村に育ち共愛互助の運動に恵まれぬ一青年が、如何に苦心して自己の村を再建するか? それにまつはる愛慾の軌道は何を示すか。作者は先づ『心田』より始むべきを信じ、農村に於ける良心生活の発展史を如実に描いて、三千万農民と、日本の都市産業組合運動との関係を、文明再建の立場から読者に理解してもらはうと希望している。

 時は非常時だ! 反産運動は今や、沸騰点に達してゐる。日本は産業組合の外に救ふことは出来ない。そして、この運動こそ最も劇的な問題を提供するのだ。

                (昭和八年十二月号家の光掲載「本誌新連載読物の予告」より)



  
          「乳と蜜の流るる郷」発刊にさいして


 賀川豊彦先生の「乳と蜜の流るX郷」が林唯一画伯のさし絵入りで、『家の光』誌上に連載されたのは昭和八年から九年にかけての二か年であった。

 時あたかも産業組合拡充五か年計画が発足しており、この時期は『家の光』が発刊以来はじめて百万部台の普及をみせた飛躍的発展期にあたるが、この部数の飛躍的発展も、この一編の小説の好評に負うところ、が少なくなかったことは、当時の関係者の等しく認めるところであり、『家の光』の歴史にも特筆すべき記念碑とされている。

 時は移り、戦後の農地改革を契機として、日本の農村は大きく変わり、当時の”窮乏の農村”は著しく姿を変えたが「乳と蜜の流るる郷」の理想郡がすでにうちたてられたのではない。わが国の農業・農村には、今日なお協同組合運動の成果にまつ数多くの難問が山積し、運動推進のためには「乳と蜜の流るる郷」に盛られた理想を追う情熱が強く連動者に要求されている。

 かつて窮乏の農村を目前にし、若くして産業組合運動の第一線に挺身された先輩諸氏が、当時いかにこの一編の小説によって、運動者としての情熱をかきたてられたかは、いまなお多くの人々によって若い運動者に語りつづけられているが、現在すでにこれを読むに手だてなく、いたずらに神話的な存在として話題を提供するのみにとどまり、多くの先輩諸氏が協同組合運動の第一線から退かれる近い将来、やがて忘れ去られるおそれなしとしない。

 この小説の発表後三十五年を経た今日、あえて本書を発汗する理由は、まさに以上の二点に基づくもので、先輩諸氏には当時を懐旧していただくよすがとして、また若い運動者には先輩諸氏の労苦に思いをはせて、現在を生きる上に何らかの裨益するところを発見していただくことを切に念願するものにほかならない。

 終わりに、当時の関係者米倉龍也、宮城孝治、梅山一郎、渡部雄晤、二宮義雄、三浦政衛の諸氏が当時を偲ばれて本書のために一文を寄せられたことにたいし、深甚の謝意を表する次第である。

  昭和四十三年三月
                            家の光協会 出版部



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第78回『賀川豊彦童話・爪先の落書』)

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上の写真も賀川生誕百年記念の時に刊行された『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』の中のものです。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第78回

  賀川豊彦童話集―爪先の落書

     昭和9年9月15日 日曜世界社 188頁


 日曜世界社より出版された本書『賀川豊彦童話集―爪先の落書』は、戦後昭和22年12月にも日本教育出版社発行の「新日本少年少女文庫」の一冊として『つまさきの落書―宗教童話』が出ています。さらに昭和26年6月にも、今度は早川書房より『爪先の落書―賀川豊彦童話集』が新たな装いで読みつがれています。

 実はいずれにもそれらは私の手元にはなく、いまあるのは2010年3月に徳島県立文学書道館発行(発行者・瀬戸内寂聴)の「ことのは文庫」に収められた『童話・爪先の落書』があります。

 ここではその表紙と、早川書房版に収められた「カガワ・トヨヒコ」による「序」がありますので、それをここに取り出して置きます。そして最後に「ことのは文庫」版にある岡田建一氏による「解説」も参考までに入れさせていただきます。


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                 爪先の落書

                   


 野道を歩いている私を雨にぬれた萱がよびとめます。

 『いそがしそうね、あなたは! もう少しゆっくりなさいよ。時間をつくって、私の所に遊びに いらっしやいよ。ここには、あなたのお友達が 大勢 仲よくして暮しているんですよ。みみずさんも、アメーバも、かたつむりも、そして、私の葉の下には、忘れな草も、母子草も、芽を吹き出したばかりですのよ……まア みんな変っていておもしろいですよ。……』

 ひょろひょろ高い萱はまだ冬枯れの株から芽を吹いたばかりであった。

 私は、萱の芽に みせられて、小さい頃によく「つばな」を摘みに茅野を歩いた。

 ひとりぽっちで育っだ私は、野の鳥、畑の虫と仲よしになれた。それで 阿波の田舎で七年間の長い開 楽しい日を送った。そしておとぎばなしの本を満十歳の頃に二冊書いた。

 その時のことを思い出して、この本を書きました。みなさんで読んで下さい。

                            一九五一・五・五




               『爪先の落書』解 説

                                 岡田 健一


 私はこの「爪先の落書」には賀川の自然観・宇宙観がつまっているように思う。
 賀川が最初にこの「爪先の落書」を出版したときに、次のように書いている。

 「最近、大阪日曜世界社から童話集「爪先の落書」を出版することができた。大正十二年に書き出したものが、満十一年目、本になったので、ばんとに嬉しく思った。一冊の論文集を出すより、童話集を出す方が遥かにむっかしいと私は考へた。この童話集は、子供のためにのみならず、大人のためにも私は書いたのであった。是非みんなで、私の考へてゐるお伽噺の世界を味はって欲しいと思う。」
          (身辺祈記 昭和九年十一月号 「賀川豊彦全集」。二十四 キリスト新聞社)

 このように、この本を出すために非常に苦労したことがわかる。そしてこの本は子供だけでなく大人にも読んで欲しいと書いている。賀川の多くの作品に比ベ十一年という長い時間この作品に力を注いだことがわかる。どうしてこのように苦労してまで出版したのであろうか。

 賀川は子供を大切に育てなくてはならないことをいろいろな場で力説している。そして子供の教育に関する著作も多く出している。それは「未来は子供達のもの」、「子供が次の時代を作る」と考えるからである。命のつながりによって人の歴史が出来る。それも次の時代がより成長・進化したものを求めてゆかねばならないとしている。そのことが人の生きがいでもある。それは宇宙のすべてのものに進化する力が与えられているから可能であるといっている。そこに次の時代をつくる子供たちへの期待がある。それを助けるのが大人としての務めでもある。そのように子供の成長をうながすために子供に伝えておかねばならないことがあると考えたのである。

 賀川の教育の中でもっとも特色のあるのは、自然教育である。「賀川は自然を与えない教育は絶対に成功しない」ことを体験したとして、「自然教案」というものを考案した。子供達が幼児の時代からその成長に合わせ、「自然から」何を、どのようにして、学ぶかということを具体的に述べている。そしてそれに必要な「自然教案」モデルも作っている。これは当時の教育において画期的な教育法の提案であったといえよう。
 「自然教案」のことについて賀川は次のように述べている。

 「私は今、幼児白然教案の編集に熱中してゐる。どうして幼稚園の子供等に自然の神秘を教へやうかと、いろいろ苦労してゐるのである。どれだけ成功するかわからないけれども、兎に角一生懸命にやっていることだけを買って貰ひたい。小石に、雑草に、小動物に、昆虫に、神の秘め給ふ心理は絶大である。今日までの日本の教育が、これらを唯物的に教へてきたから、間違ったのである。これを目的論的に神の意匠として教へやうとする所に、私が苦心してゐる所があるのだ。幼稚科の教案を早く書き上げて、すぐ少年科に移りたいと私は思ってゐる。しかし子供等に教へることが結局私自身に教へることであり、子供に教へることを我々が知らないことを払は恥しく思ふ。」
            (身辺雑記 昭和八年八月号 「賀川豊彦全集」二十四 キリスト新聞社)

 普段何気なしに見過ごしている自然物がいかに奥深いものであるかに気づかせようとした。つまり「自然の中にいながらも実は自然を知らない」ことに気づかせようとする。そしてこの自然そのものが実は子供に適しており、子供は自然の子であり、子供は自然が無ければ発育しないと賀川は自然教育の重要性を力説する。

 賀川はこの自然教案を次々と生み出している時期に、この「爪先の落書」を作り上げたのである。そして賀川は次のように書いている。

 「私は「爪先の落書」といふお伽噺を書いたが、これは自然教案をそのままお伽噺にしてみた。つまり子供は、自然のうちに這入ってゆきたいし、大人は脇から眺める傾向がある。つまり子供は自然と同化したい気があるのだから、そこまで子供を引張ってゆきたいものである。で、私は自然教案を遊戯化したいと思う。」
                    (幼児自然教案 「賀川豊彦全集」六 キリスト新聞社)

 賀川は子供を如何に自然に同化させるかに工夫を重ねているのである。そして自然そのものが子供のおもちゃとなるのである。自然は自然を楽しむもののみにその姿を現わすと賀川は言っている。

 ところで、「爪先の落書」を読んで、いかにも夢のような話でありながら、実は非常に科学的な事実に基づいていることがわかるであろう。これがこの作品の特徴でもある。説明されて始めて「なるほど」と感心するところとか、「へえ―そういうことだったのか」と驚かされる箇所に出合われたことと思う。その筒所については後から読まれる方もおられると思うので敢えて例を上げない。

 賀川は自然を楽しむためには自然研究をしなければならないといっているが、まさに賀川は自然研究によって、どこにでもあるような自然がいかに奇跡的であるかを感じたのである。賀川が感じたこの感動を皆に味わってもらいたいのだと思う。

 ただこの感動は単に科学的事実のみからでたのではなく、自然全体で上手く演出されていることを感じたからであろう。その仕組みの巧妙さに感動する。つまりそれぞれのものがばらばらでなく、深く結びついていることによることを示した。それぞれがそれぞれの役割を果たしながら、全体で目的を果たそうとしているその面白さ、その意義深さを知ってもらいたかった。そこから自然現象が偶然で出来ているのではなく、宇宙の意志を感じさせる。普通の目では見えないが存在するものがあることを確信したのである。

 賀川は「もうれつ」と友達から呼ばれるほど、猛烈に勉強をしたことで知られているが、それは勉強することがいかに楽しかったことといえよう。そしてこのことが後の賀川の多彩な活動の基となっているのである。猛勉強の始点は士五歳のときであり、「自然」の持つ意味の重要さに目覚め、自然の裏にあるもの「自然の意志」を追い求める研究に入ったときである。賀川はこのときを自分の「人間革命」のときだと言っている。このような賀川の人間革命の経験を他のものにも経験してもらうことを期待したのであろう。そこで苦労しながらも子供向けにこのような作品を仕上げたと思う。

 この解説では「爪先の落書」の筋書きとか個々の解説は述べなかった。この作品を多くの人に読んで欲しいと思って私は解説を書いた。この読んでもらいたいという思いは非常に強い。私は、この作品は賀川のライフワークと言われる「宇宙の目的」の子供版のような気がする。賀川の世界は奥深く、私の賀川理解は薄っぺらなものかもしれない。しかし賀川の作品をいくつか読んでみた中で、最初にも述べたように、この作品には賀川の大事な自然観・宇宙観がつまっているように思う。子供も大人も、一味違う賀川の世界を味わっていただきたい。
                          (NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会理事)



補記

徳島県立文学書道館の「ことのは文庫」には、この『童話・爪先の落書』と同時出版で、『モラエスの日本随想記・徳島の盆踊り』の岡村多希子氏の名訳が出ています。昨年はその盆踊りを初体験いたしましたが、この著作も逸品です。




新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第77回賀川豊彦・中村獅雄共訳・J・H・ジーンス著『科学の新背景』)

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今回もこれは『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。ハルさんが横浜共立女子神学校で、吉田幸さんや佐藤きよさんたちと学んでいた時のもの。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第77回

  J・H・ジーンス著『科学の新背景

     賀川豊彦・中村獅雄共訳


     昭和9年6月18日 恒星社 382頁


 本書『科学の新背景』は、手元にないために取り出すことの出来なかった『我等をめぐる宇宙』(賀川豊彦・鑓田研一共訳)に続くJ・H・ジーンスの著書です。いずれも恒星社で出版されています。

 これには賀川の「序」がありますので、表紙などとともにUPいたします。



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             J・H・ジーンス著『科学の新背景』

               賀川豊彦・中村獅雄共訳


                  賀川豊彦の序


 科學に對する革命的時機が到来した。科學は遂に、原子を組織する電子の内容までをも分析してそれが波動力學的に取扱はれなければならぬことを説明するに至つた。

 然し、何といふ変化であらう。今から三十年程前.ポアンカレ―が「科學の臆説」を通して我々に科學の限界を瞑想すべきことを教へ、カールペアソンが、「科学範典」を著作して、宿命的なそして数學的な科學の見方を我々に強いて未だ四半世紀経たないうちに、沈黙してゐた科學そのものが 新しい天地を我々に指示してくれた。もはや科學は流動しない固定的な空間にのみ縛られた科學ではあり得なくなった。新しい科學は、空間と時間を絶對的存在として考へないで、波動的に進行するエネルギーの世界を我々に指差すに至った。ドゥ・ブロェーリー、シュローディンガー、ハイゼンベルグなどの努力によって、素朴的唯物論の宇宙観は倒れてしまった。物理学は新しいイデオロギーの上に立って、科学の再建を企図せざるを得なくなった。数年前、エディントンは「物的宇宙の本質」を著して、新しい物理学の行く手を示したが、その後量子力学の著しき発達により、ワイル、ステルン、ゲルラッハ、さては英国のディラックなどの貢献を纏めて、ケムブリッヂ大学のジーンス博士は、あまり数学の知識のないものにも了解出来るように、最近進行しつつある革命的物理学を根本にして、茲に「科學の新背景」を我々の前に提供してくれた。

 ジーンス教授は優れたる数學家である。彼は引力の計算のために、数十年間を費したといはれてゐる宇宙物理學者でゐる。彼が数年前に著した「我等をめぐる字宙」は三四年の中に約十三萬冊も賣り尽くしたほど有名なものであった。彼ほど宇宙の法則の数學的整備をよく知ってゐる者は、世界にも稀であらう。その事は、「我等をめぐる宇宙」(恒星社出版)を読めばよく解る。

 ジーンス博士は難しい数學をこの上なく平易に説明し得る天分を持ってゐる。この書に出てゐる数學の方程式などでも、微分積分の初歩だけを知ってをれば、すぐ理解が出来る。私は、こんなに親切に数理物理学を説明してくれる人は少いと思ってゐる。エディントンの「物的宇宙の本質」は物質の収縮法則を簡単に取扱ってゐるために、その数学的原理がわからないけれども、この書は、さしも難しいローレンツ転換の法則を釈然として説明してゐる。また難解と考へられてゐる波動力學の原則に就ても同じことである。勿論微積分の初歩だけの知識は要るけれども、それだけの知識があれば、むつかしい波動力學の原則が、こんなにも容易に説明出来るかと思ふと、私は、ジーソス卿に感謝せざるを得ない。

 ジーンス卿は、エディントン教授の如く、宇宙を科學的に見ると共にまた精紳的に見んとする傾向を持ってゐる。彼が一九三二年ロンドン大學で行った講演は、「神秘の宇宙」(日本訳「新物理學の宇宙像」恒星社出版)と題して出版せられているが、それを見ると、彼の思想がよく解る。即ち彼は、物的宇宙が宇宙精神の表現であることを信ぜんとするのは、この彼の唯心的科学観を紹介せんがためである。

 然し、この唯心的科学観の傾向は、決してジーンス卿に限っていない。昭和8年2月東京帝国大学教授菊池正士博士の著作「量子力學」を読んでも、そこには明かにこの思想が盛られてゐる。ハイゼンペルグも、エディントンも、またミリカンも、コンプトンも、皆同じ傾向を持ってゐる。これはアインシュダインに於ても同じことであって、彼の短い論文「宇宙宗教」を読むと、彼がスピノザに似た宗数的信仰を持ってゐることを我々は知るのである。

 どうして、世界一流の物理學者が、斯くも十九世紀の唯物論から唯心的転換をなしつゝあるか、それを、私はこゝに知りたいと思ってジ-ンス教授の努力によりて成りたる「科學の新背景」を友人中村獅雄氏と翻訳したのである。ケムブリッヂ大學の出版部が、快くこの翻訳権を私に與えてくれたことをも私は感謝してゐる。勿論この書は、私がいひ出して翻訳したものであるけれども、訳文は中村獅雄氏の手になったものである。それに私は一々目を通して加筆したにしか過ぎない。

 唯物論的自然科學が近代人の信仰になってから約百年、科學それ自身が唯心的に転向して行ったことの華かなる手際を私はただびっくりして見てゐるのである。日本の若き青年學徒が、唯物論と唯物辨鐙法に熱中してゐる間に、科學それ自身の基礎が、斯くの如く進展したかと思ふと、今昔の感がある。私は数年前に友人と協力して、アルペルト・ランゲの「唯物論史」を翻訳したが、ここにジーンス卿の「科學の新背景」を日本に紹介することは、「唯物論史」の続きを紹介してゐるやうな気がする。然もランゲが、新カント派の立場から論理的に唯物論に反對したに對して、新しい物理學が論理の立場を離れ、物理学そのものゝ内容から唯心論に転向せんとするその進歩発達を、我々は無硯することが出来ない。

 私は科學それ自身を、決して排斥しなかった。それとは反對に、科學それ自身が霊魂の窓であることを主張してきた。そして今新しい科學が、さうした立場をとらうとしてゐることを私は嬉しく思っている。私の希望している處は、日本の自然科学者が、更に深く実験室を通して、宇宙の実在の本質に質に切込まれることである。さうすることによって、物的宇宙が結局、宇宙精神の表現であることを彼等は発見するであらう。その日を待ちつつ私は、日本の読書界にこの書を送り出す。

  一九三四年五月三十一日

                                   賀 川 豊 彦



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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第76回『小説:幻の兵車』)

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上の写真も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第76回

   小説『幻の兵車


     昭和9年5月15日 改造社 480頁


 本書『幻の兵車』は、講談社の雑誌『キング』の昭和8年1月から12月まで連載され、それに新たに書き加えて、改造社より刊行されました。

 この社会小説は、協同組合運動と立体農業を主題とした作品ですが、ここでも本書のカバー表紙などと、装幀を担当した平澤定治の挿画を収めます。

 そして、小説ですので賀川の「序」はありませんので『賀川豊彦全集ダイジェスト』の武藤富男の本書の解説の一部を取り出して置きます。



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               『幻の兵車』について

         (武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』301頁~304頁)


 この書は昭和九年五月十五日、東京の改造社から発行された。昭和九年は賀川が四十六才の働き盛りの時である。二月にはフィリピン・キリスト教連盟の招きにより一ヶ月間の伝道をかの地に行ない、八月には北海道農民福音学校を空知郡江部乙村に開設し、十二月には東北地方の飢饉救済運動を起こすなど、相かわらず多忙な日を送った。その間にあって、十冊の著書が出版されていることは驚異に値する。冊数からいえば、この年がレコードである。『幻の兵車』はそれらの著書の中にあって、賀川の書き下しである。それは彼の小説中でも文体が整っており、変化に富み、一読巻をおう能わずという面白さをもっている。

 『幻の兵車』という題は列王記下六章十三節十四節から取ったものである。予言者エリシャはトタンにおいてシリャの大軍に囲まれて捕えられようとした。エリシャの召使いが朝早く起き出て見ると、軍勢が馬と戦車とをもって町を囲んでいたので、召使は恐れてエリシャに報告した。エリシャは神に祈った。すると味方の火の馬と火の戦車とが山に満ちてエリシャのまわりにあった。シリャの軍兵は目をくらまされて見えなくなった。エリシャはこの軍隊を導いてサマリヤに連れて行き、イスラエル王の『殺しましょうか』という提言を斥け、兵士たちに飲食せしめてこれを放免した。これがエリシャの「幻の兵車」の物語である。この小説のモチーフはここから取られたのである。

 読者の便に資するため、次にあらすじを述べよう。岐阜県加茂郡加茂村の貧農に長男として生れた木村健蔵は、大阪北浜の株式仲買店大西の小僧となり、年期を入れた結果、取引所の『手合取り』として相場旋風を支配する中心人物となった。もと小学校教員であった彼の父は放蕩の末、家を捨てて顧みない。健蔵は大西仲買店の大連支店の次席に抜擢され、赴任することとなった。大連でも彼は業績をあげたが、ダンスホールに出入し、そこで仲田とみ子という人妻と知合いになる。とみ子が健蔵のために出資するということばを信じていた健蔵は、母からの窮状を訴える手紙を受取ったので、金策を頼むが、体よく断わられ、女にもてあそばれていたことを悟る。

 一年十ヶ月ぶりで、健蔵は大西の本店に帰任したが、大西の大旦那茂兵衛は中風で倒れ、息子の市太郎は放蕩の結果店に大穴をあけていることを知った。

 北浜の大御所山惣の主人は、健蔵の才能を見こんでいっしょに肥料会社株の吊上げ策を講じて一もうけしようと提案するが、健蔵は、農民の不利益になる謀略に乗ることは良心に背くと思い、この申し出をことわってしまう。

 その時、横浜の大銀行がつぶれたことを切っかけとして、恐慌が起こり、大商店や大会社が軒なみに瓦解して行く。健蔵はここで相場師生活かいやになり、健全な社会に入って行こうと念願するようになる。

 心斎橋筋を歩いている時、健蔵は市村時計店の前に『精神修養会』の看板を見て、ここに入り、『愛なき者は神を知らず、神はすなわち愛なればなり』ということばを初めて聞き心を打たれる。そして愛の実行には協同組合の方法が一番よいと聞かされる。話している人は市村時計店の支配人三好克彦であった。

 三好は『そら、君、みんな自分だけもうけたいと思って、人を愛する精神をもたないから、消費組合が発達しないのだ。愛の精神を宇宙の精神から頂戴するようにしないと、理想的社会はできないのだね』という。

 健蔵は毎土曜日の晩、三好が開いている今宮の貧民窟の夜学に行き、三好とともに子供たちに教えるようになる。

 大西家では市太郎の妹時子と健蔵とを結婚させてあとを継がせようとしたが、健蔵はそれを拒む。健蔵の父は首を吊って死にあとにはあとには母がてんかん持ちの弟と白痴の末
っ子と妹とをかかえて、父の残した借金で苦しんでいる。

 健蔵は今宮の夜学校で三好の姪、佐々木初子と知り合う。初子は看護婦であり、貧民窟の病人を世話している。健蔵は初子の美しい行ないと清らかな品性とに引きつけられて行く。

 健蔵は不況の中にあって大西仲買店を背負い、相場の下落を利して大西家のためにもうけてやる。その頃梅田の停車場で、大連から引上げてきた仲田とみ子に会う。彼女は夫に死別して内地に移り、夙川に住んでいたのである。健蔵はとみ子の住居を訪問し、彼女から五千円の融資を受け、肉体的誘惑を受けるが、佐々木初子のことを思って、その誘惑を斥ける。(この誘惑の場面の描写は肉体文学の大家を思わせるような筆致である。)

 健蔵はとみ子から借りた五千円をもとでにして堂島取引所に行って米の相場をやり二千五百円をもうけたが、米の相場を生産費以下に激落させて行く相場師の魂胆を淋しいことと思う。

 佐々木初子は貧民窟における訪問看護婦となり、かわいそうな老人を家に引取って世話しつつ、貧民窟の病人たちの訪問看護をしている。健蔵はここに初子を訪れて、いよいよ初子に心を引かれる。

 健蔵は弟が死んだので葬式のため郷里に帰って、父の借金のかたになっていた家を整理して、母と妹二人と小さな弟とを連れて母の兄の家に行き、そこに四人の家族を同居させることにした。ここで彼は近所の人と釣に行き、大雨にあう。大雨は洪水となり、水門が決潰しようとする。健蔵は身を挺して舟に乗り、砂袋をいくつも沈めて決潰を防ぎとめ、村人から感謝される。

 健蔵の母とその弟妹は叔父に邪魔がられた結果、隣家の離れに移り住むこととなる。大阪へ帰ってみると初子は病気になっているので、健蔵は徹夜で看病をする。

 大西の若旦那市太郎は七万円以上の約束手形を振出して健蔵の裏書名を偽造する。その他にも市太郎は不渡手形を出しているので、大西仲買店の屋台骨はグラついてきたが、健蔵の才覚で瓦解を食いとめる。

 急場を凌ぐために健蔵は仲田とみ子から一万円借り受けたが、とみ子の誘惑にかかり、夙川の家に連れこまれて彼女の陥穿におちいる。しかしとみ子の寝室の表に初子が立っているような気になって暗い心になる。

 健蔵の郷里では犀川切落で、七ヶ町村が廃田になるという問題にぶつかり、その代表者三人が健蔵を頼って来たので、健蔵は弁護士の豊田哲蔵に面会して運動方を頼みこむ。この豊田は、後になって仲田とみ子の情夫であることがわかる。

 大西家は市太郎の借財のため没落し家邸は人手に渡り、一家は阿倍野橋近くの路次奥の小さな家に住むようになる。一方佐々木初子は胸をわずらったので、健蔵は彼女を連れて四国の城辺に行き、彼女の叔母の家に彼女を頂けて静養させる。ここで健蔵は教会の牧師に会い、農民福音学校のやり方について教えてもらい、そこでやっている農村協同組合の実情を見て心を動かされ、郷里に帰って村の復興をやろうと決意する。

 大阪に帰った健蔵は阿倍野橋の大西家を訪れ、その零落した有様を見て同情し、また母から仕送りの催促状を受けたので、仲田とみ子から金を借りようとして彼女を訪問すると、とみ子から妊娠したと告げられる。彼はこれを自分の子でないと思うのだが、とみ子は彼の子であると主張する。その時、豊田弁護士はとみ子のところに来ていた。健蔵はとみ子に借りた金を全部返してあるのに、豊田は健蔵がもうけた二千五百円を返すべきだという。
 
健蔵は恋人に突放され、主人の家は没落し、父親は自殺し、悪い女に欺されて覚えのない子を押しつけられ、一時悲観して自殺しようとするが母や弟妹のことを考えて思い止まる。

 米の値段の暴落によって苦しんでいる郷里の産業組合からその経営する農業倉庫に健蔵を雇入れたいという申出があったので、健蔵は帰村して協同組合運動に献身することになった。彼は生産、信用の両方面に組合運動を展開し、立体農業を奨励し、青年団、処女会を動かすようになる。しかし健蔵の活躍を嫉妬し彼の運動を妨害する分子が次々にあらわれる。

 健蔵は入阪に出て三好克彦の世話で、購買組合共益社や神戸消費組合と渡りがつき、帰途三好から佐々木初子との縁談をすすめられ、また西宮北口の日本農民福音学校で開かれている新年修養会に出席する。そこで彼は佐々木初子に会い、彼女から、結婚については一切を三好に任せるという決意を聞き、仲田とみ子とのまちがいを告白する。初子は健蔵の罪を許し、生まれた子を引取って自ら育てるという。

 村では農業倉庫の米が百石も盗まれたため、健蔵に嫌疑がかかり、彼は警察に留置され、取調べを受ける。犀川切落問題で暴動が起こり多数うの農民男女が検束され、健蔵と監房を共にする。

 二十一日目に健蔵は嫌疑の晴れぬまま釈放され、家に帰ると、母は血を吐いており、生活難のため生きて行けないから、この紐で首を締めて殺してくれと健蔵に頼む。彼は裏の柿の本の下で泣きつつ、初子のことを思って、母を励ます。

 相場師の山惣から、支那に革命を起こして一もうけする話をもちかけられたが、これを断わった健蔵はどこまでも農村復興のため働こうと決意する。肺病の母を近江兄弟社の療養所に入れた後、彼は早朝から新開配達をし、昼は農業倉庫で働き、夜は青年たちを指導する。農業倉庫では再び米十石か盗まれた。産業組合の理事たちは前の百石とともにこれを健蔵の責任として賠償を要求する。健蔵は再び逮捕されて警察に留置されたが、間もなく真犯人があがった。犯人は健蔵の悪口を言っていた青年団長森川喜作であったが、健蔵は警察で彼をかばい、自ら賠償を引受けて、毎月三十円ずつ月給から差引いてもらって五年間に農業倉庫に損害を賠償することを約束する。

 とみ子は産院で子を産む。健蔵は初子とともにそこへ行きこれを引取る。その子は豊田弁護士がとみ子に生ませた子であるのに健蔵に押しつけたのである。
 
 三好の骨折りで健蔵と初子とは結婚する。初子は健蔵の努力によってできた医療組合の病院に勤め、健蔵は子を背に負うて働き、協同組合と立体農業に力を入れ、村の復興を計る。資本家が農民に物資や金を貸付けて搾取する特約組合とたたかいつつ、健蔵は奮闘するが、村の信用組合が大垣の銀行がつぶれたことに端を発して取付けにあい、健威か窮地に立った時、初子が三好克彦から資本の融通を受けて、現金を自動車で運んできたため、取付け騒ぎはおさまる。

 「金融の骨組は愛である、愛は大きな資本である」ということを、これによって役員たちは悟る。健蔵は生命保険も産業組合によって経営し、その資金を農村のために使うべきであると提言する。

 健威は、初子に赤ん坊を寝かしつけてもらってから列王記下六章十三節を読んでもらう。三好は農村に時計工場を作り、懐中時計の部分品を農村青年の副業にしたいと提案する。

 健蔵は相かわらず赤ん坊を負うて新聞配達をし、協同組合運動のために働く。仲田とみ子は健蔵に会いにくるが、赤ん坊を抱いてみようともせず帰って行く。健蔵は桑畑の中で赤坊の頬に接吻する。赤ん坊は声を立てて笑い、健蔵の瞳と赤ん坊の瞳とが結ばれるのであった。



新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第75回『医療組合論』)

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上の写真も前回に続き『賀川豊彦写真集:KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第75回

   医療組合論


    昭和9年4月18日 産業組合中央会 154頁


 本書『医療組合論』は最初、昭和9年に産業組合中央会より刊行され、昭和11年にも全国医療利用組合協会によって再刊されていますが、手元にあるのは戦後昭和46年に家の光協会が『協同組合の名著:第9巻』として、後に取り出す『日本協同組合保険論』と共に収録さているものです。

 ここではこの第9巻に収められている賀川の写真と巻末に入っている黒川泰一氏の重要な「解説」を、最初の部分だけ取り出して置きます。『医療組合論』の執筆される生々しい経緯が綴られています。黒川氏の「解説」の後半は、追って『日本協同組合保険論』をとりあげるときにUPさせていただこうと思います。


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【解題】
          『医療組合論』と『日本協同組合保険論』

                               黒 川 泰 一

              波瀾に富んだ劇的な生涯


 『医療組合諭』と「日本協同組合保険論」の著者、賀川豊彦は、日本帝国憲法が発布された前年にあたる一八八八年(明治二十一年、この年にドイツの農業協同組合生みの親であるライファイゼンが死亡している)に神戸市に生まれ、五歳のとき両親を失い、父の生家、徳島市に近い田園で祖母のもとに幼少年時代をすごし、徳島中学時代、米人宣教師ローガン、マヤス両博士の感化を受け、クリスチャンとなり、日露戦争中にして、且つ第一次ロシア革命が起った一九〇五年(明治三十八年)、十七歳で明治学院神学予科に入学、のち神戸神学校に移り、ここを、幸徳秋水ら十二名が死刑とたった一九一一年(明治四十四年)、二十三歳のとき卒業、この間、明治四十二年、二十一歳にして、神戸市葺合新川の貧民窟に住み、貧民窟伝道を行なって、一五年の後、関東大震災救援のため上京するまで貧民窟に住んだ。終生、信仰篤い基督者として、また人格的社会運動家、世界平和運動家として、その生涯を神と人とに捧げつくして、一九六〇年(昭和三十五年)、多彩にして波瀾に富んだ劇的な、そして世界的な聖者としての一生を終えた。

 彼は七歳のとき、童話『源九郎狸』『大麻山の猿』を作り、幼にしてすでに大著述家の萌芽を現わした。大正三年渡米、プリンストン大学および同神学校に学び、同大学よりM・Aの学位を受けた。大正十年、神戸の川崎造船所、三菱造船所等の大労働争議を指導し、続いて同年、日本農民組合を杉山元治郎らと結成、翌年、大阪労働学校を開設して校長となった。大正十二年九月一日の関東大震災には、翌二日に船にて上京、罹災者救援に当たり、本所基督教産業青年会を創立するとともに、本居を東京に移した。昭和五年には国民革命が着々進行中の中国に招かれ、済南大学で協同組合論を講演し、これを契機に同国に合作社運動が起った。昭和十年十二月、第一次世界大戦後のルーズベルト大統領のニュー・ディールの一環として、協同組合運動推進のため、アメリカ政府と全米キリスト教連盟の要請で渡米、協同組合運動講演のため七ヵ月にわたり全米を巡回した。その帰路欧州に渡り、各国の協同組合保険の実情を視察し、翌年十月帰国。昭和十六年第五回目の渡米では、民間平和使節として四ヵ月間、三〇〇余回にわたり、アメリカ要人に日米平和を説いて帰国した。しかし国内では、反戦論者として憲兵隊に拘引留置され、以後、終戦まで公的活動を禁じられてしまった。終戦とともに、昭和二十年、東久過宮内閣の参与に、また日本社会党が結成されるや、その顧問となり、さらに同年、日本協同組合同盟を設立し会長となって、協同組合再建運動に乗り出した。二十六年、全国共済農業協同組合連合会(全共連)が設立されるや顧問となり、共済運動推進のために尽した。

 賀川の著作は、二百数十種といわれるが、昭和37年9月より毎月1冊ずつ、二カ年にわたり全二四巻の『賀川豊彦全集』(A5判、毎巻平均約六〇〇頁、キリスト新聞社発行)が刊行されたが、全著作論文等を収めると、四〇巻にはなろうといわれた。この全集には、主要なもの(訳書は除かねている)は大体集録されているが、その著作を種類別にすると宗教三二、社会六、教育六、心理三、哲学四、小説一六、随筆一二、詩・散文詩一四、協同組合九、農業・農村五、労働二、世界平和三、生活二、その他科学、婦人、経済、中国、東洋思想、講演集各一で、合計二一三の著書数となる。これをみても、極めて多岐広範の分野にわたっているのがわかる。小説のうち、大正九年出版された『死線を越えて』は、洛陽の紙価を高めた。また『家の光』に連載され、読者の血を湧かせた『乳と蜜の流るる郷』などの組合精神小説をも含んでいる。

 賀川は博覧強記で、学生生活中に校庭を常に書物を読みながら歩いていた、とは有名な話である。米国のプリンストン大学時代には、図書館の大英百科全書を全部読了し、これを強記していた、と親友の杉山元治郎が記している。広い学域にわたる篤学者であり、研究者であるとともに、常に実践家で日本の社会運動、協同組合運動、平和運動にわたり、常に新しい分野に先鞭をつけ、それらの育成に務めた。

 ノーべル平和賞受賞を直前にして、賀川は昭和三十五年四月に十三日、七十二歳にして昇天した。死の床にあっての最後の言葉は「政界に平和を、日本に救いを與え給え。アーメン」との祈りの声であった。


           産業組合に新生命を与えた『医療組合論』


 『医療組合論』は、昭和九年四月、産業組合中央会より出版されたものである。しかし執筆は昭和七年四月、第一章の「国民保健の危機」が書かれ、東京医療利用組合(現在は東京医療生活協同組合)におかれた医療組合運動社(責任者 賀川豊彦)発行のタブロイド判月刊紙『医療組合運動』創刊号に掲載され、それ以後一三回にわたり、一章ずつ第十三章まで、毎月書かれ掲載されたものである。第十四章と第十五章は、出版の際、補足されたものである。賀川が月刊紙『医療組合運動』を発行し、且つ、創刊号より医療組合論を執筆して、毎号掲載することとなったのには、そこに大きな理由があった。それは、第十四章「医療組合の現状」、第二節、「都市中心医療組合勃興の第二期時代」の後半に述べられている、東京医療利用組合の設立運動に対する医師会の猛烈な反対運動に端を発している。すなわち、

 「昭和六年の五月には、新渡戸稲造博士及び私等を中心にした東京医療利用組合の設立認町申請が、勿然として東京府へ提出され、帝都にも医療組合がいよいよその旗を翻し、日本医師会の反対妨圧に会い、遂に医療組合対医師会の全国的抗争となり、一年一箇月に渉る闘いは、全国へ医療組合宣伝の絶好の機縁となったのである」

 ここで「全国へ医療組合宣伝の絶好の機禄」と述べていることは、そう少し後に、

「これが、社会改造運動の一端をとして企図されたものであるが故に、私共同志等が、協同組合運動の砂漠と云われる大都市東京の真ん中に、凡ゆる不利を忍んで計画したものであり、実際私共は日本の中央である東京に、たとえ小さくとも、一つの標本を示すことにより、全国にこの運動を速かに宣伝することが可能だと信じて、東京医療組合の設立を企てたものである」

 すなわち、医療組合という耳馴れない言葉、何のために、何をどうしてやるかということは、単なる文書や講演では容易にわかり難いが故に、実物をもって理解せしめるに如かずとの考えから、全国的普及宣伝の効果をねらって、「一つの標本」を、地の利を得た東京にまず設立を企図したのであるが、予想しなかった医師会の反対という別のおまけの要因まで加わったおかけで、全国的な大宣伝が意外な速さをもって拡がることとなった。つまり、医師会の反対運動は単に地元の東京府医師会のみならず、日本医師会という全国的組織まで挙げて反対運動に立ち上った。そのため、日刊新聞紙のすべてがこの問題を大きく幾たびも報道したが、このことが、医療組合運動に有利な世論喚起という逆効果をもたらした。さらに、医師会の全国的な圧力で、医療組合の設立認可を阻止していることに対抗するため、組合側は産業組合の全国大会に医療組合認可促進の決議案を提出し、賀川自ら大会における議案説明に当り、満場一致で可決された。これが導火線となって全国各地に産業組合病院設立運動が、さながら燎原の火の勢いでひろがることとなった。そのすさましい状況は、第十四章の後半に述べられている通りである。

 さて、賀川が何故、医療組合運動を進めることを決意したかということであるが、それはこの著述の冒頭により述べている如く、昭和初期の農村恐慌による農民の窮乏、農家の負債が当時の金で六〇億円という巨額に達し、ことに東北農村では「娘の身売り」の激増、こうした貧乏と借金の増大の直接的原因の大きな部分を、過重の医療費が占めていること、あるいは、医者にかかれないため受診率は低いが、死亡率がきわめて高い事実、このような非人道的環境にある農民を救うには、国の施策は余りにも無為無策であり、開業医制に頼っていては、国民の医療保健問題は永久に解決され得ないことを深刻に考えた結果、熱烈なキリスト信者として、且つ、徹底協同組合主義者としての賀川が、じっとしていられない切羽つまった気持から、果敢に医療協同組合運動の開拓者として、立ち上ったものである。したがって、国の医療政策の貧困を批判し、開業医制度の不合理と矛盾に徹底的なメスを入れ、将来の医療国営、すなわち国民健康保険制度確立のための基礎造りとして、医療組合組織化の必要を主張している。賀川のこの主張の正しさは、現在の健康保険制度が、国の無策と開業医制を根幹とする医師会の圧力の前にゆがめられ、崩壊寸前にある現実がこれを証明している。したがって『医療組合論』は、すでに四〇年前に書かれたわが国唯一の古典であると同時に、今日なお、現在のわが国医療制度に対する批判と、指針書としての重要な価値を持っているものであることを、信じて疑わない。

 賀川には、協同組合に関する多くの著書、論文があるが、この『医療組合論』は医療組合運動を進めるために、妨害する圧力との闘いのために、毎月一章ずつ書かれたものであることは、すでに述べたところであるが、したがって、彼の体系的な協同組合論を述べたものでばない。しかし全体を通じ、いたるところに、深いヒューマニズムとそれを基礎とした彼の協同組合思想が断片的ながら、宝石のごとくちりばめられ輝いている。たとえば、第二章の二節に、

 「或る人は云うかも知れない、医療国営が一番よいと。然し私の考えては、医療のような心理的親切さを含もものは、自治的機構の上に国家的要素か加わらなければならぬことであって、それは市町村が自治体であると同じ意味に於て、ある自主基礎を持たねばならぬものである。経済的自治体の単位は産業組合である。医療組合の徹底は、搾取に基く階級の分裂を防ぐことである。農村に於て医者がますます富み、生産者である農民がますます窮乏するということは、決して合理的な社会ではない」


 「人間の健康に関するものは凡て、人道的精神を基礎にしなければならない。それであるから、医療というものは、必然的に社会化して行くのはあたり前である。その社会化の方式を慈善事業でやるか、互助組合にゆくか、二つの道があるが、今日のような経済状態のもとに於て、互助組合的にゆかなけならないことは、誰でも気がつくことであろう」

 ところで、賀川が医療組合運動を自ら実践しつつ提唱したとき、その初期にいちはやくこれに応じて立ち上った人々の中の多くは、社会運動家や農民運動者たちであった。その後漸次、産業組合陣営の中に運動がひろがって行った。そして、その経営基礎強化のため、信用・販売・購買・利川の四種兼営の府県産業組合連合会が経営に乗り出し、これが医療事業経営の原則であるとするところまで発展した。この事実は、目本の産業組合が従来の、物を対象とする経済事業経営の範囲を超えて、人間の健康、人間の生命を直接的に目的とする事業体に、飛躍的変化をもたらしたものであり、産業組合運動の質的転換を遂げたことをも意味している。したがって、これが契機となり、やがて国民健康保険組合の事業代行、農村保健婦の配置、組合員の保健指導からさらに生活指導にまで、戦前の産業組合活動の分野がひろげられることとなったのである。隣保互助の協同組合精神を眼で見ることのできるところまで、産業組合運動を押しあげ、「物」中心より「人」中心の協同組合運動への夜明けを迎えたことを意味する。したがって、「医療組合論」と著者賀川の指導により起されたに医療組合運動の歴史的意義とその役割は、高く評価さるべき価値を持つものというべきであろう。(以下略)

                     (『協同組合の名著』第9巻の459頁~466頁)




新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第74回『聖霊に就いての瞑想』)

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上は『賀川豊彦写真集:KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第74回


  聖霊に就いての瞑想


     昭和9年3月28日 教文館出版部 144頁


 これまでに教文館出版部より刊行されて連作『神に就いての瞑想』『キリストに就いての瞑想』『十字架に就いての瞑想』に続いてこの『聖霊に就いての瞑想』がまとまり四部作が完成することになり、後に教文館は四部作を箱入れにして刊行しました。

 今回も表紙と「序」、そして「著者より読者へ」をスキャンしてUPします。
 本書は吉本健子氏の筆記によるものです。手元のものは昭和11年の再版のもので、巻末に「正誤表」がつけられています。



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                   聖霊に就ての瞑想

                      


 静かに眼を見張って私の周囲を凝視すると、宇宙はあまりにも、厳粛に私に迫ってくる。物は神の衣である。

 私には、どうしても、物質が神とは縁の無いものであるとは考へられぬ。それは不思議の不思議、奇跡の奇跡である。物質は神の衣である。私は、神のみを知って、神の衣を無視することば出来ない。神は宇宙を衣として纏はれ、宇宙を神の衣裳として居給ふと云ふことを、私はつくづくと感する。旧約の詩人は『神は雲を衣とし……』と歌っているが、私は神が物質を衣としで纏ってい給ふことを惑ぜずにはをれぬ。

 町の百合に、小川の小石に、地殻の断層に、海に、空に、砂漠の砂丘に、私は、神の意匠を感ぜずには居れぬ。そして、私はその神のみ衣の裾にしがみついてゐる赤ん坊である。いや、私は神のみ衣の袂に抱かれてゐるだだつ児である。

 物質が、神のみ衣であると感じてくる瞬間、生きてゐることそのことが、あらゆる芸術にまさって、不思議な作品であるということに気がつく。『よくまあ、こんな不思議な世界に生まれてきたものだなあ!』と、お伽噺の世界に入っていった幼児のやうに、私にとって、物質の世界の凡てが、神の栄光に照らされているやうな気がする。

 さうした感じは、また両親の世界にも向けられる。罪を感ずるそのことが、神の御力そうものであることを感ぜずぬは居れない。私から、神様を信ずるのではなぐ、神様を信ずる力を、人間に與えてくださるのは、全能者そのものであることを深く感ずる。

 我らの受けし霊は世の霊にあらず、神より出づる霊なり、これ我等の神の賜ひしものを知らんためなり。……生来のままなる人は、神の御霊のことを受けず、彼には愚かなる者と見ゆればなり。また之をさとること能はず、御霊のことは霊によりて弁ふべきものなるが故なり。されど霊に属する者は、すべての事をわきまふ、而して己は人に弁へらるる事なし。誰か主の心を知りて主を教ふる者あらんや。然れど我等はキリストの心を有てり。(コリント前書第三章十三~十六節)

 斯く、パウロが書いたことは、永遠に真理である。人間は、人間として自覚するのでなく、人間が宇宙の神の子であると自覚するのは、人間的な分子以上の力が加はらなけれぱ可能ではない。そして この力は、人間の意識のうちに覗き込んでくる。そこに、神の聖霊の力は、真理として、慰安として、また潔めとして、さては、神御自身の御栄光の器としての社会愛にまで顕現される。

 我々が神ではないに拘らず、この最微者をもお見捨てなく、神の霊をして内住むせしめ給ふ特権について、我々はこの上なき感謝と感激に溢れるものである。

 そんな感激の瞬間には、生きながらにして天国に移されるやうな気がする。いや、そのまま消え失せてしまつても、神の栄光を拝させて貰った歓喜のために、不服はないやうな気がする。その瞬問を克ち得た時に、彼は、無限の世界に初めて聯絡がついたことを感ずる。それは、まことに救はれた体験の最も大きななものである。一旦、絶対の聖愛に呼吸したものは、泡沫の如く消え去り得ないことを確信する。そこまで愛して下さつた神が、無慈悲に、その魂を蹂躙なさらうとは信ぜられない。私には、この感激の瞬間が持続する。病む日も、戦ふ日も、この感激は揺るがない。病も戟も、感激の生活の序曲にしかすぎない。揺るがざる聖霊の恩寵に、物質の世界として見ゆる宇宙の存在は、宇宙の神殿の幔幕としてのみ受け取られる。

 やがて、観覧席に置かれている私が、神の舞台裏に召される日が来れば、私は、幔幕の彼方にある凡ての舞台装置を拝見出来るることと信じてゐる。それが楽しみである。死はその幔幕を彼方にくぐることである。かく私をして、聖霊の至楽に導き給うものは、全くキリストの至高の贖罪愛による。贖罪愛を意識したまふキリストは、聖霊そのものの生活をせられたとしか考へられない。といふのは、聖霊の全的意識なくして、宇宙的連帯責任を果し給ふた贖罪愛の貴き犠牲の血は払はれないからである。贖罪愛と聖霊とは、同一の内容を両面から見たものである。この不思議な愛の秘訣は、十字架にのみ黙示されている。然しこの十学架の秘儀を悟るものも、聖霊のたすけなくしては不可能である。

 まことに、歴史を通してすら、聖霊が働き給ふことを発見し得る力も、聖霊それ白身の御助による。

 かく、時間に、空間に、歴史に、物質に、有限の体を持ちながら、無限絶対の「相」に近づき得ることは、神の可能性なくして、どうして有り得ようか。すべては感謝である。すべては感激である。貧乏に、牢獄に、悪罵に、迫害に、世の知らざる聖霊は、犇々と、私の胸にせまつてくる。この憐れなる最微者に溢れ給ふ聖霊よ、日本の島々に満ち給へ。そして、傷める葦を折らず、煙れる麻を消さず、農村の片隅に泣く膿持つ魂の細帯を巻き給へ。誠に、誠に。

  一九三四年三月十九日
                                賀 川 豊 彦 

                                  フヰリッピンより帰りて




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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第73回『H・W・マヤス説教、黒田四郎筆記、賀川豊彦序:説教集・神への飢渇』)

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上は『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第73回


H・W・マヤス説教、黒田四郎筆記、賀川豊彦序


  説教集・神への飢渇


     昭和8年12月15日 日曜世界社 258頁


 マヤスの説教を黒田四郎が筆記して出来た本書『説教集・神への飢渇』も日曜世界社の発行になるものでしが、これには賀川豊彦の重要な「序」が収められています。

ここでは、表紙と扉、マヤス博士のお顔写真、そしてその「序」を収めます。



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                 神への飢渇 序

                    


 私がマヤス先生に會ったのは、中學校の二年生の時であった。私が、中學校の英語の先生の片山正吉氏の塾に、下宿さして貰ってゐる時であった。然し、その時は、ただお辞儀しただけで、宗教上の交渉はなかった。中學校の三年の時に、ローガン先生が、徳島市通町の日本キリスト教會で、英語でキリスト伝の講義を始められた。その時に、初めて私は、西洋人から英語を研究する機會を得た。

 然し、ローガン先生は間もなく中止せられて、マヤス先生が、新約聖書を、通町の教会會堂で、英語で教へて下さるやうになり、後には、徳島本町の自宅で、聖書の講義をして下さるやうになった。

 かうして親しくなった私は、遂に決心して明治三七年の二月二十一日の日曜日に、マヤス先生の手からバプテスマを受けた。その時私は、満十五歳七ヶ月であった。親切なマヤス先生は、その後も、私を個人的に指導してくださって、プリンストン大学総長パトン博士の『キリスト教教義要綱』といふ、非常に簡潔ではあるけれども、要領のいゝ神學書を教科書にして、個人教授をして下さった。私の英語の力も、哲學的思考の力も、かうした機會に呉へられたことは、否定出来ない。

 かうして英語の力をつけてくれられた為に、私は十五の春から、マヤス博士の圖書棚からいろいろの書物を取出して、自由に読む機曾を得た。カントの『純粋理性批判』の英譚を読み出したのも、この頃からであった。そして私は、徳島を離れて、東京の明治學院に人學し、マヤス先生の厚意によって、叔父と意見のちがったために、學費の途がなかった時でも、明治學院に學ぶことが出来た。

                     

 十七歳の夏、ミセス・マヤスが一足先に米國へ行かれた時、私は四十日の間、マヤス先生と同じペットに寝る機会を得た。かうして私は、日本人の間にも発見出来ないやうな大きな愛をマヤス先生から受けたことを、永遠に忘れることが出来ない。

 マヤス先生は、幼い頃から、植物學に趣味を有たれ、天文學に興味を注がれ――いまだに六十歳を越えても――日本アルプスなどは、毎年数回縦走さるヽ日本の外人の間でも有名なアルピニストである。

 それで、私は、マヤス先生に連れられて、吉野川の山奥へ傅道に出かけた楽しい旅行を今も忘れることが出来ない。もし私が、キリストのために熱心な傅道者となることが出来たとすれば、師父マヤス博士の感化であるといはざるを得ないであらう。

 私は今も覚えてゐる、十七歳の時。私はマヤス夫人の女乗りの自転車を借りて、吉野川の上流まで遠乗りして、傅道旅行について行った。私はその時恐ろしく下痢してゐた。それで、毎日の旅行が非常に苦痛であった。然し私は、マルコがパウロに叛いたやうな悲しい記録を作りたくなかったので、下痢を辛抱してついて行った。マヤス先生は、通る人毎にリーフレットを渡し、乞食小屋にも頭を低うして、永遠の生命の道をお説きになった。

 『――西洋人がこれほどまでに熱心に、日本人を救はうとしてゐられるなら、僕ももう少し熱心にならなければならぬ――』 

 こう考えた私は、伝道のためにメートルをあげることにした。

                     

 不幸にして私は、十七歳の冬から肺病にかヽつた。そして、明治四十年の夏には、もう医者に、『死ぬ』といふ宣告を下され、もう少しで私は死ぬ處であった。不思議に癒された私は、マヤス生先の厚意で、明石の湊病院に入院し、更に、三河蒲郡に、漁師の家を借りてそこで九ヶ月保養した。そのあばら家に畳も、机もないので、筵を敷き、石炭箱を机にしてゐた――マヤス博士は三晩も泊って、私を慰めて下さった。普通の日本人でさへ、私の肺病を怖れてなかなか泊ってくれないのに、三晩も、私のきたない蚊帳の中で、肺病を 怖れないで泊って下さったこの先生に對して、私は心より感激した。

 肺病が治って、私は神戸の神學校に入學したが、間もなく、私は貧民窟に這入る決心をした。そしてその貧民窟の苦しい多くの経験を通して、絶えず慰めて下さった人は、マヤス先生夫妻であったことを、私は忘れることが出来ない。私は、神學校から學費だけ支給して貰ってゐた。然し、それだけでは貧しい人を助けることが出来ないので、神學校の煙突の掃除をしたり、マヤス先生のお宅の煙突掃除をさして貰って、毎月十圓の金を携へ、貧民窟の病人を世話することにしてゐた。マヤス夫人はまた、私を、三人の子供のうちに加へて、私のために、特別の椅子と、特別のナプキン・リングまでを備へて、いつ如何なる時に飛込んで行っても、私に食事を、家の者同様にさせて下さった。かうして私は、マヤス家の一人に完全になりきってしまった。

                     

 その後私は、マヤス博士とローガン博士に金を借りて、米國に渡り、プリンストン大學に人學した。アメリカに居るうち、私は、マヤス先生の故郷であるヴアジニヤ州レキシントンを訪問する機会を得た。レキシントンは、有名なワシントン・アンドリー大學のある處で、そこで、マヤス街といふ通りを私は見付けた。

 マヤス先生のお父さんは、土地の大きな金物屋であつたさうである。非常に傅道に熱心で、みづから出資して、支那に宣敷師を送ってゐたといふことを、私はうつすら聞いた。この金物屋のマヤス家は、ニューヨークの最初の市長の一人であるマヤスの後裔であつて、オランダ人の血を承けてゐるといふことである。

 また、マヤス夫人の系統は、ミズリー州の判事で、米國独立戦争の時からの家柄で、シカゴの大きな商買人のマーシヤル・フィールドー族と関係があることを私は學んだ。

 兎に角、私は、プリンストンから、わざわざ、クリスマスに、ヴアジニヤまで出かけて行って、この慕はしい一族とI週間ばかり贈った嬉しい思出を、今も、ありありと目の前に浮べてゐる。

 私は、煩雑な世の中にも、一人の青年の指導に、これほどまで親切な指導をしてくれる教師が、ほかにあるかどうか知らない。しかし、もし私に、先生らしい先生をいへといふなら、私は、恩師マヤス博士を指さすであらう。

 私は、神學校で、マヤス博士から、ギリシヤ語と、教会歴史と、キリスト伝を學んだ。私は、マヤス博士が特別な大學者だとは思はない。マヤス博士がそれを希望してゐられたなら、必ず大學者になってゐられたらうと私は思ふ。その緻密な頭脳と、科學的な傾向は先生をさうさせないではほかなかったであらう。然し、マヤス先生は象牙の塔を出て、東洋の傅道に来られたのであった。それで、全く書物と訣別しなければならない位置におかれてゐた。それで、私が、マヤス先生から學んだことは、その緻密な分析と、對比と、順序立てた綜合的研究方法であった。これに對して私は、いゝ教師を得たと思って、マヤス先生の時間を、いつも楽しみにした。

                     

 マヤス先生は、今も私の先生である。毎年私の経営してゐる農民福音學校に、望遠鏡を 運んで、全國から集る學生達に、星と、星の造主である神を指さして下さるのは、私の尊敬するマヤス博士である。

 マヤス博士の生活は、実に簡粗で、その食物などでも、謹厳なモナスタリーの僧侶か思はしめるやうな質素さがある。

 兎に角、私は、マヤス博士からずゐぶんいゝものを學んだ。私はかういふやうな、すぐれた師父を、自分の先生として仰いだことを心より神に感謝してゐる。

 幸ひにも、親友黒田四郎氏が、マヤス博士の宗教説話の断片を筆記して下さったので、その出版を西阪氏に計った處が、西阪氏も喜んで、これを引受けて下さったことを、非常な幸ひだと思ってゐる。

 マヤス博士の愛は、私自身にとって、掘抜井戸のそれの如く、深くそして清いものである。私は、この深く清い愛を、更に日本の隅々へ押広める義務を荷ふてゐる。私は断言する。マヤス先生の宗教説話は、決して、マヤス先生の人格そのものより優れたものではないだらう。寡言な先生は、科學者の如く、星や雑草と親しむ多くの時間を有つてゐられた。自分の行動について語らるゝ處はまことに少い。然し、日本は、かうしたよき贈物を神から賜ったことを、必ず記憶する日があるだらう。

 この書は、さうした神の恩寵を物語るよき記念品として、受取りたいものである。

   一九三三年十月七日
                               賀 川 豊 彦

                                   武蔵野の森にて



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本書の巻末に、日曜世界社で出版した賀川豊彦の著書『神により信仰』の広告がありますので、それもスキャンして置きます。


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