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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第191回:林啓介著『阿波の偉人伝:賀川豊彦ー時代を超えた思想家』)

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「岩田愛子写真展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


「賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第191回


林啓介著『阿波の偉人伝:賀川豊彦―時代を超えた思想家

  
 林啓介氏は、阿波の歴史を小説にする会会長・ドイツ館友の会会長・徳島モラエス学会理事長・賀川豊彦鳴門記念館設立をめざす会広報委員長であった平成12年4月に、標記の大著を「株式会社阿波銀行」より出版されました。

 本書はその後に、文庫本のかたちでも出版されており、次回にそれをとりあげますのでここでは、8頁に渡ってカラー写真が収められていますので、そこのみをUPさせていただきます。





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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第190回:林啓介著『炎は消えずー賀川豊彦・再発見』)

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「岩田健三郎版画展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第190回


林啓介著『炎は消えず―賀川豊彦・再発見

  
 林啓介氏が昭和57年3月に井上書房より出版された標記の著書は、林氏の関係する「劇団徳島」によって演劇上演されるなどして、賀川生誕百年記念の諸行事とも重なり、大きく話題を呼びました。

 ここでは、林啓介氏の「はしがき」と「あとがき」を取り出して置きます。また、林氏の若き日の写真の入った奥付も「おまけ」にして・・。




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                   ま え が き


 賀川豊彦は涙もろい人だったといわれています。しかし、その涙は常に他の人々のために流す涙だったのです。未曽有の繁栄と平和を享受している現在の日本で、今なぜ賀川豊彦なのでしょうか。

 経済大国の発展に酔って、ともすれば私たちは、わが国の歴史がつい先頃まで貧窮と欠乏と混乱の長い歩みだったこと、そればかりか現に世界の多くの国々で生活や平和が脅かされていることを忘れてしまいそうになります。

 けれども、誰もこの繁栄がいつまでも続くとは思っていないはずです。八十年代に入って賀川精神の再発見が叫ばれる理由もこんなところにあるのではないでしょうか。

 彼が社会的に恵まれない弱者に捧げた涙と汗と祈りは、決して昔語りに終るものではないと思います。

 彼の偉大さについては評論家大宅壮一氏の
「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのが賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。
 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点である宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない……
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙し得る者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――それは賀川豊彦である」
 という言葉が、すべてを語り尽くしているように思われます。しかし一方で、その天才的で強烈な個性と社会改良の斬新な方式から、その人物像に多くの誤解や偏見を生んでいることも否定できないようです。

 そうした事情も絡んで、数多くの専門的、宗教的な研究書がおりながら、彼の人と業績を知る人が、意外に限定されてきたのかも知れません。

 キリスト教徒でもなければ、社会学者でもない、いねば平凡な一同郷人に過ぎない私が、あえてこの巨大な峰に挑んだ真意は、優れた先人の研究を紹介し、平易に要約して、賀川豊彦のひたむきな生涯とその開拓的役割を、多くの人々、とりわけ若い世代に中継ぎしたかったからであります。

 賀川豊彦が片時も郷土徳島を忘れず、毎年一月上旬の十日間を徳島伝道にあて、ふるさとの自然や人々との再会に限りない安らぎと喜びを見出していたという事実が、とどのつまりは、私の不遜な試みへのためらいをふり切らせることになったのであります。



                   あ と が き


 かねがね親しくお付き合いを願っている井上書房社長の井上涼男さんから、阿波文庫の一冊として賀川豊彦を取り上げたいというお話しがあった時、正直なところ私はためらいを覚えた。井上さんは阿波文庫シリーズの発行や阿波文化サロンの開設等を通じて、文化不毛ともいわれる阿波徳島の地にささやかながらも地方文化の灯をともそうと献身的な努力を続けておられ、私も常々心からその理念に敬意を抱いていた。

 しかし、賀川豊彦というこの巨大で伝説的な、それ故にまた評価をめぐってもさまざまな見解のある人物となると尻込みせざるを得なかった。私も多くの人々がそうであるように、賀川豊彦についての関心や知識をあまり持ち合わせていなかったのである。

 とにかく調べてみることを御約束してその場は別れたものの、同じ大麻町出身ということをのぞけば、賀川豊彦との縁は昭和二十三年旧徳島中学校の最後の生徒として、氏の講演を聴いたことが唯一度あるきりなのである。ともかくそれ以後私は彼の伝記や著作を集めて、暇を見つけては読み耽けるようになった。すると執筆ということを離れて、彼の生涯にわたる思想や言動に不思議な親近感と魅力を覚えるようになった。

 東京の本所賀川記念館、松沢記念館、神戸葺合の賀川記念館をけじめ、地元大麻町の古老や各地の賀川を知る人々をたすね歩いて、私は賀川豊彦がその主義主張、立場を超えて徳島が生んだ最大の人物であり、国際的に通用する数少ない日本の偉人であることを、深く信じるようになったのである。

 賀川豊彦に関しては全集二十四巻をはじめ、彼の身近かな宗教家による数々の専門的な伝記が出版されている。深く研究する人々にとって資料に不足はないはずである。しかし一般の読者に対しては、それ等をダイジェストし、平易に人間賀川を紹介する書物が必要である。それは決して屋上屋を重ねることにはならないだろう。私はそう考えることにした。それが井上さんから依頼を受けて二年後に、おこがましさをふり切って筆を取ることになった心境であった。

 くどくなるが本書は賀川研究書でなく、紹介書である。従って記述も新事実の発掘というよりは、先人の研究を要約、引用させてもらった部分か大半であることをおことわりしておきたい。とりわけ、一々言及しなかったけれども横山春一氏の「賀川豊彦伝」に負うところが大きい。その他武藤富男氏「評伝 賀川豊彦」黒田四郎氏「人間賀川豊彦」佃実夫氏「緋の十字架」隈谷三喜男氏「賀川豊彦」田中芳三編「神はわが牧者」からもかなり紹介させていただいた。

 また松沢資料館建設世話人代表の石田博英先生や地元鳴門市の谷市長から推薦のことばを、西田素康、。岩村武勇両氏から貴重な資料を、ご提供いただいたことにも厚く感謝申し上げたい。

 なおさし絵の長尾己画伯は賀川豊彦が師と仰いだ長尾巻牧師のご子息である。

 ところで昭和五十七年四月には、全国の有志から寄せられた浄財による賀川豊彦記念、松沢資料館が完成し、六年後には生誕百年行事が予定されている。全国的にも賀川豊彦を再評価する気運が高まっているといわれる。

 ゆかりの地わが徳島においても、資料館建設の声や私たちの同志「劇団徳島」による賀川豊彦劇上演の動きがでてきている。キリスト教徒でも、その道の研究家でもない平凡な一学徒のつたない解説書が一人でも多くの人に賀川豊彦とその精神を知っていただく道しるべともなれば幸いと思っている。

    昭和五十七年三月
                                 林  啓 介

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第189回:佃 実夫著『緋の十字架』上下巻

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「第28回星まつりコンサート」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第189回


佃 実夫著『緋の十字架』上下

  
 著者の作家・佃 実夫氏は、昭和50年11月にこの『緋の十字架』を東京・文和書房より上下2分冊として刊行しました。もちろんこれか「賀川豊彦の伝記」となっています。

 下巻の巻末に短い「付記」があり、それによれば、作家で賀川の伝記作者でもあり、賀川と歩みをともにしてきた鑓田研一との交流があって、本書の執筆になったようであり、本書は「鑓田さんの霊に捧げる」ともなっています。

 ここでは本書の上下の表紙と目次、ならびに下巻の短い「付記」のみ取り出して置きます。なお、付記に記されている「新川」の表記に関しては、当時「新川という呼称は差別である」という表現上の無用の自己規制がおこなわれていた頃の反映でもあります。




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                 『緋の十字架』下巻

 〈付記〉

 小説の文中に「新川」という表現かしばしば出てくるが、作者はこれを十分考え、意識的に用いたものであることをことわっておきたい。賀川豊彦とその時代、武内勝とその時代ならびにこの二人の行った事業を描く上で、この語を用いないと十分現せない部分もあるためである。同じ意味で、引用文に用いられているこの語もそのままにしたことを記しておく。

 最後になったが作者は、作家・故鑓田研一氏の晩年に親しくなり、賀川豊彦のことをいろいろ教えていただいた。賀川先生の小説を書くことをお約束して十年余になる。いまようやくその責めを果すことができた。本書をつつしんで鑓田さんの霊に捧げる。また、この小説を執筆中に亡した母佃フジノにも捧げたい。                                       (佃 実夫J


「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第188回:隅谷三喜男著『賀川豊彦』)

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「小学校の盆踊り」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第188回


隅谷三喜男著『賀川豊彦』<人と思想シリーズ

  
 標記の著作は、1966年4月、日本基督教団出版局の<人と思想シリーズ>の中に収められ、版を重ねました。そして、1995年には岩波書店の「同時代ライブラリー」の一冊として補筆出版され、さらに2011年には「岩波現代文庫」として読まれ続けています。

 ここでは、最初の教団出版部のカバーや、1972年に「武内勝召天七周年記念」として武内家より贈呈されたサインの入った本のスキャン、さらに岩波の2冊の表紙もスキャンして置きます。さらに、86歳でお亡くなりになった神戸新聞の記事(2003年3月30日)を収めて置きます。



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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第187回:『高山徳太詩集・花のように』賀川豊彦「あとがき」)

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「兵庫・真浄禅寺」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第187回


高山徳太著・賀川豊彦あとがき『花のように―高山徳太詩集

  
 標記の詩集については、すでに「KAGAWA・GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」の連載の折りに何度か取り上げてきましたので、そちらをご覧いただくとして、ここではただ、賀川豊彦のあとがき「ある新聞記者との対談」を取り出して置きます。



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  『花のように 高山徳太詩集』(世界文学社、昭和23年8月)あとがき

               ある新聞記者との對談

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           所 京都府下奮長岡皇居跡  時 四月六日 桜さくころ


                  児童の感覚と自然

記者 「毎日新聞紙上で、あなたの経営せられている一麦保育園出身の高山徳太君の『詩』と自筆の挿画を発表しましたところ、非常に反響がありましてね。こんど世界文学社が出版してやろうといって下さるものですから、徳太君のお母さんとも相談していよいよ出版することになりました。ついてはあなたにI言感想を書いていただきたいのです」
    
 「それはどうも有難うございます。あの子は親孝行の息子でしてね。画もなかなかうまいですよ。この間宮沢賢洽氏の童話の挿書を紙芝居に描いたものを見せて貰いましたが、全く感心しましたよ。心理的描寫が実によくできてたので、これは感覚の鋭い子供でなければかけぬと思いましたね。大人になるとどうも敏感な感覚がにぶれて、高山徳太君が持っているような、いきいきした大地からすぐ芽をふさ出したような鋭い感覚がにぶれて来るようですね。」

記者 「徳太君の絵を見ると、自然のことがよく出て来ますね。又、詩をよんでも我々が感じないような自然の観察をよくしておりますね。それはあなたの保育園でうけに感化だって、本人もお母さんもいうていますが、あなたはどんな教育をなさったのですか?」

 「別に私がしたわけではなくて、私の方針にもとづいて埴生操先生がこつこつやってくださったんですよ。埴生さんは子供らに雑草を教えたり、昆虫を教えおしえる点においては、恐らく関西一のいい先生でしょうなァ。とにかくこつこつ辛抱づよくやる人ですから、あんな先生に教わる保育園の子供は仕合せですよ。教場は野原と小溝で、教科書は草木と自然界に動いている小動物其物ですからね。子供らは幸福ですよ。」

記者 「うちの子供も少しおうちの保育園に世話になっていたんですが、雑草園をつくるとといって、野原から色々役にたたない植物をとって来て植えていたのを、私か葱を植えようと思って、みんな引きぬいてしまったら、子供が、『私のかわいいかわいい草を抜いちゃって困ちゃったわ』と泣くようにいうていました。子供らは特別な感覚をもって野原の草花を愛するものと見えますね。」 

                   自 然 教 案

 「あなたは葱さえ植えればよいと思っていらっしゃるでしょうが、うちの保育園では埴生先生が苦心して子供らに食える野原の雑草を幾十種類も教えていらっやるのです。それで子供さんは恐らくそれらの雑草を植えておけば食えると思っで――葱以上に値打ちのあるものとして庭に植えたのでしょうね。私たちの方針は子供らに植物を教える場合に、目、ロ、鼻、耳、手、の五つの方面から教え込むようにしているんです。目でよく見て、鼻でその植物の匂をかぎ、手でさわり、口で味い、そこの植物のことを歌でうたうようにして、五感の凡ての方面からその雑草のもつ特徴を教え込むようにしているんです。

 こんな教育は幼稚園時代でなければ、できないことで、小學校や中學校のように、四十五分や一時間のうちに鐘が鳴っては表に出、自然観察も何もしないで、教室を出たりはいったりしているばかりでは、うちの保育園のような面白い教育はできません。私はフランスのファーブル先生がかいて下さった「昆虫記」を地でゆきたいと思って埴生先生に頼んで、木蜂(ワスプ)の研究をする時などは、四時間でも五時間でも、或は次の日も、叉次の日も、その叉次の日も木蜂が巣を作る観察をして貰っているのです。小學校では、こんなのんびりした教育は絶對に出来ません。私は私自身が阿波の田舎の自然の中で一人育つたものですから幼稚園時代にうんと自然を子供に吸い込ましてやりたいと思っているのです。自然を離れて絶對に宗教教育は出来ないと私は思っているのです。

 残念ながら文部省の発表している教育の基本原理などを見ても、幼稚園時代の自然観察の重要性を全く無覗しているようです。しかし私の考えでは、幼稚園時代の子供ほど感覚の鋭いものはなく、幼稚園時代の子供ほど目然に溶けこみやすい幸福な時代はないと思うのです。」

記者 「そうですね。僕らは自然というものを知りませんね。ですから徳太君のような自然と親しく交わっている子供らを見ると、羨しくてたまりませんよ。この間も徳太君の家にゆくと、兎と問答しているじゃありませか!

『おい兎君、あすはコンクールだぞ、ぼくのためにお祈りしてくれよ。うまく行ったらお前に人參をうんと喰わしてやるから』といっているじゃありませんか? 徳太君はこんどの唱歌のコンクールに入選しまして、唱歌も仲々うまいということが解りましたが、めすらしい子ですね。

 ずっと前にも、とんぼの幼虫を鉢の中でかっていて、それがだんだん発生して水の中から羽根を生して空中に飛び立つのを見ていましたよ。私か徳太君の家を訪問するとお母さんと徳太君とが『さあとんぼさん、もう表へ行って遊んでいらっしゃい』といいながら戸をあけて、あちらこちらにとまっている幼虫からかえった羽根の生えたとんぼを、五ひきも六ひきも表に逃がしているではありませんか。羨しいと思いましたね………。あゝした教育はあなたのやっていられる保育園の特徴でしょうね。外に余り聞いたことがありませんから。」

              幼稚園は小學校の準備ではない

 「そうかも知れませんね。私は幼稚園を小學校の準備数育と思っていないのです。幼稚園は幼稚園の使命があって、子供らは自然の生活を先生から指導せられながら、もっとも幸福になすべきだと思っているのです。つまり子供心が自然の中に溶け込んでゆけば、それほど子供らにとって幸福なことはないのです。私はリトミックダンスも賛成ですし、和音感教育も大賛成なんです。一麦保育園では吉田幸子女史が、その方を受持っていて下さいます。しかし私はそうした文化教育は主として自然教案の間間にはさんでゆくようにして貰っているのです。西宮の瓦木村では小溝の流れは美しいし、其の近くには鎮守の美しい森もあるし、先生が四季とりどりの植物、昆虫について日課をきめ、子供らの注意力を一点に集中させ、教育學的に児童の心理的発展に応じて、自然教案を組立てゝゆくようにして貰っているのです。埴生先生は『母子草』のことを教えるのに紙芝居まで面白くつくって、上手に教えているんです。

               自然と宗教と詩の調和

 この自然教案が埴生さんを助けて私の方の保育園の保母をしていた徳太さんのお母さんにうつって行ったんです。――あのお母さんは東京女子医学専問學校に勉強していたような賢い人ですから、すぐ自然教案を呑み込んで徳太君にも家庭で自然教案を教えるふうにしていられたらしいんです。徳太君の作品に、自然と宗教の感覚が本然的にとけ合っているのもそのためです。大地から湧いたような美しい童謡調になって、作詩せられているのは、リトミックの調子と宗教的自然観とが一致したからでしょう。徳太君の作品は、あれだけで児童文學として、私は物になっていると思っています。出来れば友人の作曲家に作曲して貰って、私達の保育園や幼稚園で唱えばよいと思っているのです。徳太君のお父さんは肺病で徳太君がまだ幼い時になくなつてしまったもんだから、お母さんは徳太君一人を抱いて一麦保育園の保母になられたのです。ですから徳太君はお母さんに對する感謝で、いつも胸がI杯なんです。徳太君の詩をよむとそれがよくわかります。」

記者 「徳太君はこんど闘西学院の中學部に入學しました。これから勉強して立派な人物になって貰いたいものです。慢心されるとこまりますが、あの詩と絵とは立派なものですから、出版することに世界文学社の方でしてくれたことを私はうれしく思っています。」

 「ほんとに才能を持っているものを慢心さすと困ります。その点は注意しなければなりません。が、あの雑記帖にかいた詩集は、あれだけで充分物になっていますから、葬り去るのは惜しいです。あれだけで天下に紹介されてよい立派な作品だと思っています。とにかかく満十歳や十一歳の頃に作ったものと思えない純真なものがありますから、あれはあれとして、是非発表していただきたいものです。」

記者 「日本全体に早くおうちの保育園で行われているような自然教案が行われるとよいですね。皆今日では教育の方針について迷っていますからね。』

 「今度児童福祉法も出来ましたし、みんな子供のことを心配している時ですから、徳太君のような少年の作品を発表することは、意義のあることですね。一麦保育園からある程度教育の効果を表してくれに作品が出ることをほんとに喜んでいます。」



「化は和豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第186回:徳憲義著・賀川豊彦序『詩集・愛は甦る』)

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「禅寺・福海寺」続 (今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第186回


徳憲義著・賀川豊彦序『詩集 愛は甦る

  
 徳憲義氏は前著(大正15年10月、新生社)のあと、昭和4年6月に『詩集 愛は甦る』を同じく新生社より上梓しています。これにも賀川豊彦の序文が収められていますので、ここではそれを取り出して置きます。




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 南加州の空は曇ったことはない。熱帯でなければ見られないやうなヘゴの並木さへ立ち並んだ處がある。そこはまだ新開地そのものの、何となく初々した處がある。其處に徳憲義氏が落付かれて、かれこれ足掛六年になる。生一本なそして純情の愛の行者としての同氏は。南加州の荒削りの殖民地から奔放な呼聲を我々にかける。彼は変わらざる熱情の人であり、深い同情の持主である。彼はナザレの聖者に身を寄せて、預言者ホセアのやうな体験を嘗めつつある。そこに、彼が「愛は甦る」ことの宣言をする理由があらう。

 私の同志として徳憲義氏は、精神的に、物質的に、故國に始められた大阪の労働者教化事業を、過去五年間、五千哩の郷里を離れて相も変わらず応援してぐれた。私は彼の深き同情に、言葉で尽くし得ない感謝を持ってゐる。私は、十七八年前、徳氏と一緒に約二年間、神戸の貧民窟で共に宗教運動をした想出をもって、同氏の著作の、彼の体験より滲み出てゐることをいつも考へてゐる。「文は人なり」といふが、私は徳氏の場合に於て、特に、この事の真理なることを痛感するものである。この書物は、同氏の思想の一半面を示すにしか過ぎないであらう。同氏が更に進んで、深い経験より多くの宝石を握り出されることを私は信じてゐる。然しこの書物を読まれただけでも、多くの人は必ず南加州の空の如く、輝かしい人生の晴れ渡つた空を発見することを私は信する。いや、長い人生の旅路に疲れかかった者にすら、ヘゴの並木は、彼の上に影を落すことを忘れないといふことを、この書は教へてくれる。南加州の空は永遠に明るい。そして明るい徳氏の魂と筆は、我々を更に、明るい世界に導く。

一九二九・四・四

摂津武庫川村塾にて
                            賀  川  豊  彦

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第185回)徳憲義著・賀川豊彦序『生命の歩み』

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「兵庫・福海寺」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第185回


徳憲義著・賀川豊彦序『生命の歩み
  
 大正15年10月に新生社より出版された徳憲義氏の著作には賀川豊彦の重要な序文が収められています。徳牧師は、関西学院神学部の学生の時から、賀川の初期の活動に加わり、神戸イエス団にとっても関係の深い方で、昭和37年には追悼集『愛しつつ祈りつつー故徳憲義記念』が出されて、武内勝氏の寄稿しています。

 ここでは、本書の賀川の序文を収めて置きます。




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 貧民窟では、毎年関西學院神學部から、応援者を迎へるのが恒例であった。その年も、私は、二人の新らしき神學生を迎へた。それは私が貧民窟へ入ってから三年目の四月であった。神戸の空は晴れ渡り、桜が綻んで皆浮れて居た。殊に原田の森は緑なす六甲の輝きをうけて、社會の嘆きを忘れるほど若い人の胸を溶けさせて居た。さうした中から、特に撰ばれて、貧民窟に応援に来られた兄弟は殊勝な魂の持主であると、私は心からの尊敬を捧げたのである。最初別科から送られて来た、坂本、矢田、山中の三君は、日曜學校に専念して呉れた。その中に送られた今琉球那覇で働いて居る伊東平次君と、シャトルで働いて居る兄弟とは、叉一生懸命に日曜學校や路傍説教を手傅って呉れた。そして徳君と平野君とが、第三年目に神戸の貧民窟に送られた人々であった。

 孤立無援の私には、その常時の思ひ出が最も深い。坂本君の大きな聲、矢田君の静かな物語り、歌の上手な伊東君、自分の家に貧乏な公卿華族が六人も寄留して居るといふ、雷の逃げ出す様な大聲の持主の平野君、そして脊の低い、色の黒い徳君、私は、関西學院から送って来られる神學生の方々に、非常に面白い對照を発見して、皆が熱誠をこめて、私を援けて呉れることを心から戚謝して居った。

 勿論私は其常時、最極端な青年であった。発狂して居たと考へられて少しも差支へない。そのとき私の最好きな文句は、『心狂へるならば是神の為』といふ文句であった。然し、その常時の思ひ出は嬉しい。徳君は、學校の都合で一年しか貧民窟を援けて呉れることは出家なかった。然しその一年が私にとっては実に感謝すべき一年であった。私は、その常時のことを思ひ出すと、涙が眼ににじむことを感ずる。多情多感の肯年として、棺桶に片足をつき込んで居た私が、死線を越えての奉公であるだけに、真剣であったことだけは認めて貰ひたい。友人といふものは廿歳前後に出来る友人が最親しいものと見えて、私は今も貧民窟を援けて呉れた此の神學生諸君に、心から感謝と、愛着をもって居る。

 徳君は、まだ故郷の中學校を出たばかりであつた。私も若かったが、徳君も若かった。然し徳君は不思議に話の上手な青年で何時もまとまった話をして呉れた。教会堂と云っても珍無類の教會で、六畳長屋を三軒ぶっ通した柱ばっかり真中に突立って居る、バラックよりも悪い教會であった。然もその入口が三尺しかない通り道を、二度もうねりくねって這入って行かねばならない、妙な奥まった所にあった。青年の元気がなければ、迚(とて)
もそんな所で傅道は出来るものではなかった。然し幸に吾々は青年であった、集會は少くて三十人多くて六七十人集るのが常であった。そのときでも吾々は、一町四方にきこゑる様な大聲で、一萬人位が眼の前にあるかの様な、ロ調で預言者的口吻を以って絶叫したものである。ある人は、それを犬が吼えるのだと云ったが平田君や坂本君の聾は確かに犬以上で獅子に近かったことは、近所があまりに八釜しいので迷惑を咸じたことでも解る。私も勿論、平野君や坂本君には負けなかった。その常時私の聴衆の一人であった妻が遠方から聞いて居ると喧嘩して居る様です、と云ったことがあるが、それは本当である。そんな大きな聾を出さなければ、悪魔が逃げないと思ったのである。聴衆は、紙屑買のお婆さんや、豊年屋のおかみさんなどが多かった。それに向って平野君は哲学講演をよくしたものである。無限絶對の奥義については勿論のこと相対、神秘、プラトニックラプ、因果律、何でも知って居る六ヶ敷い言葉は若い神學生のロから洩れた。之を、笑ってはならない。理解させ様と、努力した所を買って貰はねばならない。

 徳君はそのうち學校で非常に評判がよくなった。よく読むのと、頭がいいので友人の間に重んぜられた。そして雄辨大曾には、いつも関西學院を代表して出られる様になった。然し、君の名聲が高くなると共に、他の教会倉の懇望で、貧民窟には、見えられなくなった。卒業後、徳君は青木澄十郎先生の教会を援けることになった。そして、アメリカに行く準備をせられて居たが、その教会が日本基督教会から独立することになって、高松のメソジスト教会に移られた。私は高松でも徳君に逢って非常に嬉しかった。一九二五年ローサンゼルスに行ってみると徳君が、東に行く為めに、労働して居るのを見て吃驚したのであった。然もその店の経営者である永峰氏が、十数日間も徳君に暇を呉へられて、私との奮交を温めさせて呉れたことを、心から感謝したのであった。摂理といへば摂理だが、ローサンゼルススで永峰氏の仲介で、徳君と私が、もう少し深く交はり得るとは考へなかった。

 徳君は、情熱の人である。汽車の動くのは熱で動くのだが、人間の動くのも矢張り熱だ。そして徳君は人を動かす力の持ち主である。彼の容貌をみて居ると、そんな熱情の詩人らしくは見えないが、彼が一旦口舌を開ぐと、彼はデモスデネスの雄辨を持って居る。私は、徳君を幸福な人であると思ふ。ローサンゼルススで同志たちが作ったイエスの友は、当番幹事の一人に徳君を挙げて、遠いインペリアルバレーまで遠征を試みた。そして、不思議にも神の祝福は、彼の行く所を開いて、聖霊の使徒として徳君を迎へた。コーチュラーバレーで一村全部が基督教信者になったことなどは有富虎之助君や他のイエスの友の助力があったとは云へ主として、その勝利を徳君の努力に帰せねばならぬ。

 私は徳君が幸福なる人であることを云うた。実際此書が世に出るのも、彼を愛する友人達が、その原稿を日本に持って帰って家て主としてアメリカの同志たちに頒ける為に、印刷したのである。

 徳君は今、私の母校プリンストンに居られる。帰って来られたら、叉日本が賑かになることであらう。私は日本の田の面が色づいて来たときに、徳君の様な有力な戦士を日本に與へられたことを心から威謝せざるを得ない。此書は、必ずしも徳君の思想体系の全部ではない。恐らくは、その片鱗にしか過ぎないであらう。然し、徳君がどんな考へを持って居らるるか、吾々に物語らんとするかは此書を読めばよく解ると思ふ。只不幸にして、彼の魅力ある雄辨が紙面に音符として表れて居ないことである。

  一九二五年十月五日                    賀 川 豊 彦

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第184回:井上増吉著・賀川豊彦序『貧民窟詩集:日輪は再び昇る』

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「版画家・岩田健三郎さん」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第184回


井上増吉・賀川豊彦序『貧民窟詩集:日輪は再び昇る

  
 賀川豊彦が神戸の下町で歩みを初め、この地域の中から多彩な人々との出会いが起こりましたが、今回取り出す井上増吉氏はここの出身で、既に別のブログの「武内勝関係資料」のUPの際の連載でも取り上げてきました。

 本書は警醒社書店より大正15年に刊行されおり、その前には大正13年に東京・八光社より『貧民詩歌史論』(第一巻)を出版し、このあとも『貧民窟詩集・おお嵐に進む人間の群れよ』、徳富蘇峰の序文を収めて刊行されています。

 ここでは、賀川豊彦の「序」のみを取り出して置きます。




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                    序  文


 日本に詩人は多くあるだらう。而し、井上君の様に自らの悩みを真摯に打込んで書く詩人は少からうと思ふ。

 私は眼病で寝てゐる時に或る朝、この詩集を人に読んで貰つて、一時間ばかり泣き続けた。――

 大抵の人は、この詩集を読んで、此處に書いてあることを、ほんとにしないでもらう。

 然し私は、井上君の書いてゐることを、一つも疑ふ事は出来ない。私は、神戸の葺合新川貧民窟に居つた時のことを思ふて、あの厳粛な井上君の触れた心持ちを、涙無しには思出すことは出来なかつた。

 私は、この詩集に就いて感ずることは、一つや二つではない。井上君が、この誘惑の多い人間の最暗黒の世界に住んでゐて、その聖浄を穢さないと云ふ、まことに尊い経験が、この詩集の到ゐ處に現れてゐゐことが、その第一の理由である。

 井上君が幼い時から悩みの子であり、この書の中に現はれて居る如くに、父と一緒に放浪した幾年かの悲しみ、また、活動写真の旗持ちになって、市中を練り歩いた尊い経験など、君がプロレタリア作家として、生れつきの資格を備へてゐることなどが、この書の尊い第二の理由である。

 井上君が、その穢れた貧民窟に對して、救はんとする意志を起し、絶望と煩悶の中に懊悩してゐゐ姿が、この書の尊い第三の理由である。

 この書は、人間記録(ヒューマン・ドキュメント)として、まことに得難いものである。

 私などは、永く貧民窟に住んでゐたとは云へ、井上君の様に、その旋風濁人塵の中央に座ってゐるのと異って、私はかほどまでに、深刻な感覚を持つことが出来なかつた。私はたった一つの小さい貧氏窟かすら救ひ得なかったと云ふ悲しみと、私か出てからの貧民窟が、昔ながらの貧民窟であることを考へつつ、この詩集を読んで、悲しかったのである。

 私は、井上君を小さい時から知ってゐる。君のお母さんは、実に立派な婦人であって、私は人間として、井上君のお母さんの様に愛に満ちた人は少からうと思ってゐる。貧民窟の天の使の様に生れつきの親切心を持って、誰、かれとなしに世話した君のお母さんの愛は、いまだに貧民窟の物語りになってゐる。

 そのお母さんの遺言か守って、君は貧民窟の為に一生を捧げゐ心でゐられる。その尊い志を私は尊敬せずには居られないのである。

 井上君は珍らしい程の読書家である。私は君が今後一層精進努力し、貧者及び弱者の為に献身せられることを祈って止まないものである。

                            賀 川 豊 彦
                                    一五、九、二一

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第183回:吉田悦蔵著・賀川豊彦序『ナザレのイエス』)

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「禅寺・福海寺」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


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―作品の序文など―

      第183回


吉田悦蔵・賀川豊彦序『ナザレのイエス

  
 さらに続いて吉田悦蔵著『ナザレのイエス』(昭和3月年、春秋社)を取り出して置きます。これも箱入り上製本で、貴重な写真も入っていて、ここにも賀川らしい特別の逸品! 賀川豊彦の序が収められていますので、それらをここにUPして置きます。



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 ギレアデの山々は俎のやうに広がり、ガリラヤの湖面は青錆びた古鏡のやうに輝く、あの美しいタイベリアスを、六月の黄昏に見た風光が忘れられない。

 微風だに吹かない六月の朝、玄武岩の突立つ湖水の東岸を見詰め乍ら、合歓木(ねむのき)の林を賞でつつ、水の豊富なマグダラ村や、シモン・ぺテロの生れ故郷と考へられてゐるベテサイダの人なき廃墟をひとり歩いたことは、私にとって一生忘れられない思ひ出となった。

 カペナウムは、三方小山に囲まれ美しい村である。浜は、小さな丸石の多い、夾竹桃の吹き乱れた、視覚的にも美しい幻影の與えられるところであった。

 ここで、あゝ、ここで、イエスがあの美しい自然の讐喩を説かれたのはあたりまへだ、と私は考へた。たとひ、私であっても、あの美しい自然に接し、あの玄武岩層で成立した澄み切った湖畔に少しでも住むことが出来るなら、イエスの説かれた天國の真理にあやかることが出来るであらうと思ふた。

 ガリラヤは全くの詩である。そして、あしこで人類の進路を指示せられたイエスの輝ける一生も、詩である。

 さうだ! さうだ! 天から人間に福音を運び、愛を以って死を蹂躙することを教へ給ふた十字架の神の子こそ、詩人の中の詩人であると云はねばならない。

 エズドライロンの平野を見下し、サマリアの山々を雲霞の中に仰ぎ、聖者エリヤとエリシャを偲ぶカルメル連峯を右手に望むナザレは、美しい詩の村だ! ヨナの生れたのも程遠くは○○メギドの古戦場も平日で行かれる。そこはエヂプト文明とバビロン文化の合流地であった。

 さうだ! さうだ! タボルの孤山も、小ヘルモン山の孤影も、全く。世界の他に見られない或る印象的なものを與へる。私はあれほど詩的なガリラヤを、嘗て世界の他の處で見たことはない。

 南の日が小ヘルモンの斜面に光を投げると、ナインも、シユナムも、エズレルも、みなその斜面の上にパノラマの如く浮び出る。半圓形の泥屋根、豆腐形の四角な家、その配合は砂漠に近い澄み切った空を通して、眼底に彫り付けられる。そこを、山地のナザレから、とぽとぽ歩いて、天國の近きを説いて廻られたことだと思ふと、イエスの一生は全く澄み切った空の中に浮き彫りの如く描き出された蜃気楼であったのだ!

 ほんたうに、イエスの一生は完き神の芸術であり、詩であり、表現であり、神の言葉であり、真理そのものであった。彼の一生は、神の内容を人類に告知した、はじけた柘榴のやうな生活であった。ナザレのイエスが出現しなければ、恐らく、恐らく人類は、神が愛であることを知らなかったらう。彼は神の内容そのものを人類に啓示した。神はイエスを通して、初めて内容を人間の方へはみ出したのだ。この意味に於て、イエスは神の初子、神の独り子である。

 日本のガリラヤ湖は琵琶湖である。そこには、イエスの弟子の一群が居る。

 愛を通してでなければ解らない神の真理が、そこでよく理解せられて居る。

 そこから産れるイエス傅は、愛ゆゑに書かれる意味に於て最も至純なものであり得る。

 吉田悦蔵は、イエスの忠実な弟子だ。彼はイエスをキリストとして仰いで居る湖畔の弟子の一人だ。彼はぺテロやヨハネの如く、漁夫ではない。然し、マタイであるかも知れない。彼の優しい性格は、優しいイエスを発見した。そして近江の兄弟達は、イエスに對する愛を包蔵して居る点に於て、ガリラヤの昔の一群に似てゐる。

 吉田悦蔵の書いた日本の福音書も、また新しい使命を持つと云はねばならぬ。種は湖畔に落ちた! 中江藤樹先生の隠栖せられた近江に、ナザレのイエスの種が落ちた。それは安土の近く、アウガスチン石田三成の城跡とも遠く離れてゐない八幡町に根を持ち、琵琶湖岸の四方にひろがる。

 福音は、千九百年昔に限られてゐない。ナザレから響いた福音は、今日も日本のガリラヤ湖に生きて居る。

 その生ける福音の証者が、今も死なない福音傅を記述することは、何と云ふ適当なことであらう。この書物は生きてゐる。それは、この著者自らが福音に生きてゐる証しそのものであるからである。

 響けよI ナザレよりの福音よ! 日本の隅々、隈々まで鳴り響け! そして傷つける魂と、抑へつけられたる無産者とを解放せよ!

 光栄の十字架よ輝け! 私は永久にその影に立たう。

 琵琶湖畔に落ちた種よ! 日本にひろがれ! 安土の真理は、今日も日本の真理であらねばならぬ。

    一九二八・丸・二〇
                        摂津、武庫川のほとりにて
                                    賀 川 豊 彦
                                 

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第182回:吉田悦蔵著・賀川豊彦序『湖畔聖語』)

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「柳原のえべっさん」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第182回


田悦蔵・賀川豊彦序『湖畔聖話

  
 前回に続いて吉田悦蔵著『湖畔聖話』(大正15年、春秋社)を取り出して置きますが、本書も吉田の筆が発揮された逸品で、賀川豊彦の「序」も吉田悦蔵との友情を印象深く書き記しています。

 上製本で、貴重な写真も入っていて、ここでは賀川豊彦の序とともに収めて置きます。




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 何年前であったか、もう余り久しいことなので、判然した事は忘れてしまった、確か大正七年の春ではなかったかと思ふが、私は吉田君に連れられて、琵琶湖畔の村落傅道に出かけたことがあった。

 それはガリラヤ丸が出来て間の無いことであった。私は自転車でガリラヤ丸を繋いである堀割の奥まった所まで駆け付けて、気持ちのよい船長さんに迎へられた、そして近江の酉北部の傅道に出かけた。

 一行は吉田君の他に武田猪平氏、青年のチヤタニ君の二人が、私と一緒に行くことになってゐた。ガリラヤ丸は美い堀割の茅の繁った間を、湖水の方へ出て行く。あの辺りの景色は琵琶湖でなければ見られない柔かさがある。強いてその例を求めるなら、支那の楊子江の沿岸に似た柔かさである。殊に長命寺(私の記憶が間違ってゐるかも知れぬが)の附近に出て行くと、ピラミッド型になった山が湖水と相對して非常に美しい。それにチヤタニ君の出身地であると聞かされた大きな島が私の眼には、瀬戸内海の何處かで見る様に、実に美しくまた大きく見えた。

 琵甕湖は湖水の様な気がしない。ガリラヤ丸は瓦斯エンヂンの据った、相常に大きな船であるが、竹生島の辺りに出ると、太平洋にでも出た様に、船が揺れる。安土の城址が右手に輝いて見える。船は北西に進んで行く。二時間も走ったかと思ふうちに、中江藤樹先生の郷土に着く。私はあの感化の多い尊敬すべき近江聖人の跡を尋ねて、また船に引返した。西近江と東近江は文化の程度に於て、余程異った所がある。安土の文化は今日まだ八幡を中心にして、その面影を近江商人の豪放なやり方に残してゐるが、西近江は何がか遅れてゐる様に思はれてならなかった。

 その遅れた――然し考へ様によっては湖面が水準に落付いてゐる如く、変わらざる落付きを持ってゐる――その保守的な湖畔の村々に、ナザレのイエスの福音を話して廻ることは、何となくガリラヤの湖畔を擾がせた漁夫の一群に似ないわけでもないと思った。昼の間にビラを刷って、晩になると村の公會堂や、放館の廣間で、子供の會や、大人の會を次々に催して行くのであるが、何とも云へぬ風変わりな傅道旅行であると思った。大抵私は船で寝た。そんな放行を四日許り続けて、私はまたガリラヤ丸で近江八幡の堀割に帰って来た。

 この風変わりな傅道を思立ったのは、勿論、ヴォーリズ氏である。彼が約二十年前一中等學校の英語数師として、近江に来てから吉田兄を初め、村田兄佐藤兄の様な有力な弟子をつくり、近江に新しい空気を吹き入れたことは全く奇蹟的な出来事であった。

 織田信長が何故あんな便利の悪い安土に、あの様な尨大な城を築いたか、私は知らない。恐らくは北陸と東海道の敵があすこで防けると思ったからであらう。然し、彼處に咲いた南蛮文明はまた、一種特有のものであった。信長の信じたキリスト教は、愛の宗数ではなくして、一種のマホメツト教の様なものであったらう。然し、今日ヴォーリス君を中心とする近江の兄弟達の手によって、新しい装ひを以て安土の山蔭に、再興せられようとは何人が期待したであらうか。

 信長の雄圖は、近江商人の資本主義的実力の中に今日も残って居る。大阪に於ける近江商人の勢力と云ふものは、実に絶大なものである。恐らくは信長の後を嗣いだ秀吉の城下に近江商人が喰入って、今日尚世襲的勢力が、今なほ保存せられてゐるのだと私は思ふ。そして、不思議にも近江の資本主義の中心は大津市ではなくして、ヴォーリスの群が居る八幡町である。であるから近江の実力は八幡町にあると云っても差支へない。そこに不思議な歴史的発展があって、今日まで全く忘れられた八幡町が、この芥種の一群で、世界に再び知られる様になったのである。つまり近江の兄弟達は、信長時代のキリスト教を、全く新しい型に於て再興すべき使命を負はされてゐるのである。これらの兄弟達は全く、愛と柔和の信條の外何物も持ってゐない。ヴオーリス兄弟も柔和であれば、吉田兄弟も柔和である。吉田兄はあの忙い経済上の心配の間に、何時も傅道に努力して居る。結核療養所の仕事だけでも、一つの大きなものであるに拘らず、毎年数萬圓を投じて、ガリラヤ丸を 中心とする近江各地の傅道事業は、普通の人間に出来ない大運動である。私はこの兄弟達に何時も敬服してゐるので、十数年前から、腹蔵なき相談に乗ってゐる。兄弟吉田は私の心より愛慕する友達である。彼は商買人の仕事をして居る。然し彼は天幕を縫ひつつ傅道した聖パウロの心持ちで、メンソレータムを賣ってゐるのである。彼の得る利益は、決して、一文だって彼が私するのではない。それを私は保証する。幾分でもその利益か残れば、結核療養所の経営と、数萬圓を要する湖畔の傅道に使はれてゐるのである。兄弟吉田は、人好きのする男である。永年つき合をしてゐても、厭になる所が少しもない気持ちのよい男である。彼のお母さんが篤信の婦人であった如く、彼もまた忠実なるイエスの僕である。私は彼を最も親しい友人の一人として持ってゐることを、私の幸福の一つに数へてゐる。私は彼の要求することは嘗て拒んだことはない。彼もまた私の要求を一つも拒んだ事を知らない。彼はどんなに忙くても、機會ある度毎に貧民傅道や、社会運動に疲れてゐる私を慰めるために、種々と心配して呉れる。彼の文章は平明で且つ優雅である。彼はその文章の様な人物である。彼がなければ、今日のヴオーリスがあったかないかは、私は疑問にする。兄弟村田が、ヴオーリスの左手なら、兄弟吉田はヴオーリスの右手である。実業家としても彼は、毛色の変わった実業家である。これ以上私は多く云ふ必要はないと思ふ。彼は必ずしも、仙人の真似をする男ではない。そうかと云って、極端な主義主張に現実の人間苦を忘れるような男でもない。私は彼のなすことの凡てに、理解と尊敬を持ってゐる。彼の云ふことを聞いてくれる人は、また私にとってもよき友人であると考へる。所謂世の実業家と云ふ人々が兄弟吉田の様な男になれば、日本の問題は大部分かたづくと思ふ。
 私は書物の序文の代りに、永年の友人としての吉田悦蔵を世間に紹介了る。

  一九二六年六月三〇日            
                武蔵野アンペラ小屋にて

                      賀   川   豊   彦



「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第181回:吉田悦蔵著・賀川豊彦跋『近江の兄弟ヴオーリズ等』)

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「兵庫七福神:柳原のえべっさん」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



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―作品の序文など―

      第181回


吉田悦蔵・賀川豊彦跋『近江の兄弟ヴオーリズ等

  
 既に別のところで取り上げたことのある吉田悦蔵著『近江の兄弟ヴオーリズ等』(大正12年、警醒社書店)には、賀川豊彦の有名な「跋」が収められています。

 賀川豊彦とヴォーリズの間の長い友情について、また本書の著者・吉田悦蔵との関係などは、興味の尽きないものですが、ここでは、本書に多くの大切な写真をスキャンし、加えて賀川の「跋」も長文ですが、スキャンをして取り出しておくことにいたします。判読は難しいかもしれませんが。



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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第180回:黒田四郎著『私の賀川豊彦研究』)

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「剣山登山」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩   

―作品の序文など―

      第180回


黒田四郎著・島村亀鶴・武藤富男序『私の賀川豊彦研究

  
 黒田四郎氏は、前回取り上げた『人間賀川豊彦』の著作を仕上げたあと、氏の最後の作品となった上製本『私の賀川豊彦研究』を1983年に、前回と同じくキリスト新聞社より上梓されています。

 ここでは、本書に序文を寄せている島村亀鶴氏と前著と同じく武藤富男氏の「序」を取り出して置きます。そして、本書の奥付にある黒田四郎氏の「略歴」も。

 黒田氏とは、一度もお目にかかることはありませんでしたが、「黒田四郎関係資料」はいま、身内の方のもとで大切に保存整理されているそうですので、いつの日か公開されていくものと期待しています。

(なお、全く個人的な思い出ですが、ここに序文を書いておられる島村氏は、私の牧師試験の面接の折、牧師となると同時に「在家労働牧師」の実験を始めることを申し上げましたら、「そうか、それは残念だね。しかし、その労働牧師という実験も、楽しみだね。」と笑顔で応じてくださったことがありました。)



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                              島 村 亀 鶴

 本書は、黒田四郎先生の日本のキリスト教界に送る、最後の書物である。先生からの、私宛の手紙に、そう書いてある。それだけに、それこそ心血をそゝいで、書いてあることがわかる。

 賀川豊彦先生と、黒田四郎先生夫妻とは、その青年時代からの知己であって、賀川先生の事なら、箸の上げ下げまでも、くわしく知っておられるのである。そのため、本書に書いてある一つ、一つの内容も、みんな目撃したものであり、また生涯忘れることの出来ないものばかりを選んで、書いてある。

 ことに、これらの内容は、今後の賀川豊彦研究のためには、なくてならぬものであり、日本の全教会の教職と信徒とが、明確に把握しておらねばならぬものである。

 今日までの日本のキリスト教界の人びとは、貧民伝道者賀川豊彦、社会事業家賀川豊彦、世界平和実践者としての賀川先生、を知ってはいるが、日本伝道者としての賀川先生の真面目に目を注ぐことを忘れている。賀川豊彦先生こそは、まさに「使徒行伝に一章を加えた」日本の伝道者であり、地の果てにまで福音を宣べ伝えた、キリストの証人であった。ことに、贖罪を神学論的に述べたのでなく、十字架の福音を、身をもって生きた伝道者であった。

 「キリストを見たければ、俺を見よ!」と、真実に言い得た人として、私たちは賀川豊彦先生を、見直さねばならない。

 本書の中に「賀川先生の初恋の女性について」の目次がある。人間賀川の側面がよく出ている。これも、著者ならでは、書けない文章である。

 私は、著者黒田先生に、感謝すると共に、目本の全教職、信徒に、本書を読んで頂きたいと、願っている。

     一九八二年八月




                   序―日本のボズウェル

                               武 藤 富 男


 黒田四郎先生が賀川豊彦に関する書物をあらわす毎に、「ここに『サムエル・ジョンソン伝』を書いたジェームス・ボズウェルに比すべき人物がいる」と感じてきた。

 サムエル・ジョンソンは古本屋の子として生まれ、独力で『英語辞典』をあらわし、晩年には『英国詩人伝』を書いた十八世紀の文豪であった。ボズウェルはジョンソンより二十一歳若い貧乏弁護士であったが、文筆に志し、いくつもの作品を出した後、ジョンソンと知り合い、その生活を日誌に記録し、共にヨーロッパを旅行し、その間ジョンソンの人物と行動と思想とをおのがものとし、これをことこまかに描写することによって、ジョンソン伝の大著を世に送った。

 黒田先生は賀川より八歳の年少であったが、この偉人と生活を共にし、いっしよに伝道旅行をし、彼の口授によりいくつもの本を造ってその著として出版し、偉人の言行はもちろん、彼の思想、殊に彼の信仰とその実践とを知りつくした。

 この度、手持ちの資料のほか、多方面から資料を集め、これを九項目に整理分類し、これを研究した成果を本書として発表した。すなわち世界平和、農村革新、著述、伝道、祈祷生活、神学思想、幼児教育などの分野である。最後に「賀川先生の初恋の女性について」があたかも一輪の花のように添えられている。

 これら各項には、黒田先生が賀川と親しく交わったその体験と感想とが織りこまれているので、一般の「研究」とちがい、賀川の生活と信仰と思想とが、著者の体験を通して生き生きと描かれている。他の賀川研究家のあらわしえない作品である。

 この作品が、もし美訳されて読まれるならば、「黒田の賀川研究」として、ボズウェルの『ジョンソン伝』に劣らぬ名声を欧米において博するであろう。

     一九八三年一月



                      あとがき


 私は九歳の時、日本基督堺教会で伝道者にして頂く決心をしました。それで三、四年してある若い伝道師が赴任して来られた時、母はその若先生にお願いして、母一人子一人の私の家の二階に住んで頂き、私を指導して下さるように頼みました。その方こそ若き日の鈴木伝助先生です。鈴木先生は各地で立派な伝道牧会をされ、また賀川先生の無二の親友であり、若き日の北村徳太郎氏を導き、大戦中は東京で神学校の校長もされた方です。数年前に召天されるまで六十年間も私を導いて下さった恩師です。

 その若先生が私の旧制中学一年の時、神戸神学校へ私の家から通学されるようになりました。そして賀川というすばらしく頭のよい同級生かいるといって、いろいろと話をして下さいました。その話を聞いて子供心にも大変感心していると、一年後にその賀川先生がとうとう新川に身を投じられたと聞いて、私は深く感動しました。そして鈴木先生が最初に新川のため当時の金で五十銭献金をしたら、賀川先生が大変に喜ばれたという話をされ、美しい友情だなあと思いました。

 そして四年後、私も中学を卒業するとすぐ神戸神学校に入学させて貰いました。その翌日直ちに新川へ行き、賀川先生にお目にかかり、早速新川のグループに入れて貰い、それ以来いつも出入りさせていただきました。その上私は神学校を卒業すると、新川と川一つ隔てた日本基督二宮教会に赴任したので、それ以来十年間は新川の伝道師をも兼任するような形となりました。先生が有名になって日曜にも旅行することが多くなると、その留守中はよく早朝の礼拝説教を代行させて貰いました。

 そして十一年後の昭和三年からは、神の国運動のために文字通り二人三脚で、五年間日本全国を何回も巡回伝道しましたし、そして私はいつとはなしに、巡回伝道のみでなく、先生の著述の手伝いや、賀川グループの教会や福祉施設の働きまでもさせて頂き、とうとう先生が召天されるまで、ほんとうの弟のように可愛がって頂きました。

 それで賀川先生のことは、表も裏もよく知っているので、他の人に先生のことをありのままにお話すると、よく「そんなことは絶対にできるはずがない。君はあまり買いかぶっているんだ。つまり贔屓(ひいき)の引き倒しだよ」と一笑に付せられました。しかし私はそのたびに、「ほんとうの事実を知らないからあんなことを平気で言っているのだ」と心の中で叫ぶのでした。先生が召天されてすでに二十三年、そんな思いでこの一書を書きました。

 最後に私のような者が書いたものを出版して下さったキリスト新聞社の皆様とご多用中にもかかわらず、序文を書いて下さった先生方に心より御礼を申し上げます。

   一九八三年二月
                                黒 田 四 郎



         本書の奥付

         黒 田 四 郎

         1896年5月 東京に生まれる。
         1918年6月 神戸神学校卒業。
         1918年から44年間 灘,岐阜,南京太平,松沢,東駒形の諸教会牧師を歴任。
          うち6年間神戸神学校講師を兼任。
         1928年から5年間 神の国運動のため賀川豊彦と巡回伝道。
         1946年から3年間 キリスト運動のため賀川豊彦と巡回伝道。
         現在 日本キリスト教団石井教会名誉牧師,日本キリスト伝道会エバンゼリスト。
         著書 『世の光』『暗黒アフリカの聖者リビングストン』『神の恩寵を語る』
          『信仰偉人群像』『続信仰偉人群像』『人間賀川豊彦』他
         訳書 ウェスレー『信仰日誌』『リビングストンの心臓』
            メチェン『パウロ宗教の成立』マヤス『神への飢渇』
         住所  779-32徳息県名西郡石井町石#556-5


「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第179回:黒田四郎著『人間賀川豊彦』)

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「2年前の剣山登山」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第179回


黒田四郎著・渡辺善太・武藤富男序『人間賀川豊彦

  
 標記の著書は、賀川豊彦没後10年(1970年)、賀川と歩みを共にした黒田四郎氏の作品で、キリスト新聞社より出版され、旧約神学の長老・渡辺善太氏と武藤富男氏の「序」が収められています。

 ここでは2頁分の写真と共に、その「序」ふたつを取り出して置きます。




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 賀川豊彦君を識りえたのは、私の生涯の一つの感謝すべきことであった。私は彼について知れば知るほど、他の友人には余り用いたことのない「畏友」という語を用いてきた。この「畏」という語を、彼の場合、とくに用いるのは、次の理由によるのである。

 この理由のその一は、彼が「教会の福音宣教」という線と、「教会外社会活動」とを、混同することなく、それぞれの本質を保たせ、かつその死にいたるまでこの二点を筋を通して貫いたという点である。理由のその二は、この二点を彼は、理論だけでなく、周囲の人々からも、また多くの知人からも、彼の弱い肉体への影響がどうあろうと、心配されたほど、かつその全存在をかけて実践した点てある。

 私がなぜこの二つのことのために、彼を私の「畏友」とよんだかというと、この点において彼は私という人間とは、同じくキリスト者であり、同じく伝道者であるという点で共通性をもちながら、その現われ方は私と全く異っていたためである。否・私にはやろうとしても出来ないやり方だったからである。

 私とてもキリスト者であり、伝道者であるから、これに当る使命の遂行には、今年数え年八十六歳になるまで、全存在をかけてきたつもりである。だがその私はこの使命遂行を「聖書解釈の理論」の追求と建設とにより、教会の生命力を盛んならしめんとつとめてきた。そして社会的活動などということは、意図的ではなかったが、ほとんど注意をも向けず、ましてやそれに対する努力などをしたことはなかった。一言でいえば、賀川が教会内外に血の汗を流しながら、肉体的にまで影響を及ぼすほど活動したのに対し、私は書斎で、聖書と取り組み、聖書自身の「かくあるべきだ」というその自己主張にのみ耳を傾け、学校の教場と書斎とで、ふつう珍らしいほどの長い生命を与えられながら、その全部を費やしてきたのであった。つまり賀川豊彦なる「人間」は、前述のごとき信仰的共通点をもちながら、私という人間とは、根本的? に違った人間だったのである。
                                   
 それだけではない。私の長い信仰生活の間に、前述の「福音宣教」と「社会活動」との何れかに傾き、他の一つを失ってしまった誠実にして真剣な伝道者があったが、彼らの多くは、この二点のうちのどちらかにその全存在をかけてしまって、他を失ったという人々が非常に多かったことをみてきている。しかるに、くり返していうが、賀川は、この両点を生涯保持しつづけ、貫き通したのであった。これが私をして彼を、「畏」友と呼ばしめた理由である。

 だがこの黒田四郎氏の書全体を通読しても、次の点に関する賀川の「苦悩」したということは一言も書かれていない。その点とは、私か悩みに悩んだ「キリストを信ずる信仰に入る時のそれ」と「その為に全き献身をするのに苦しんだ」という点とである。このことは私には理解できない。私には「この『苦悩を』味わないところに、本当のキリスト信仰なるものがあるだろうか」という疑問さえもたれる。しかも今日まで長い信仰生活にこの苦悩の絶対的必要を考えつづけてきたことである。いうまでもなく、異教徒なる日本人が、キリスト信仰に入るには、これがあるのが当然だという、渡辺自身の経験を前提した、この考え方があったわけである。

 だが賀川にはこれが全然なかったようにさえ――この黒田さんの書物を通読すると感じられる。しかもこんな苦悩などがなくても、賀川はあの偉大な福音宣教者として、また社会活動家としての、「献身」より勝っているとさえ――こんな表現ほまちがっているが、表現のために用いる――想われる生涯を送ったのである。

 この点が、黒田さんのこの書にしるされていないのは、「彼にはあったが、他人にそれを語るのを好まなかったため、黒田さんがそれを知らなかったのか?」という疑問がもたれる。黒田さん赦して下さい。こういうのは、これほど私がこの一点を重んじてきたのだということをいいたいためなのです。たしかに賀川は、この苦悩を味わなかったのだろうと、今は考えています。

 この意味においても、この賀川豊彦なる「人間」は、私に対しては確かに「畏」友とよばなければならない友人であったのである。

 その賀川の一印が明らかにせられているこの書が、今や黒田四郎さんの筆によって書かれ、キリスト新聞の手で刊行されるようになったことは、私には歓び以上の感謝である。この書がのこっていれば、今の青年の「造反時代」が過ぎて、一応しずまれば、賀川豊彦の名とその生涯の意義とが、もう一度日本全国に示されるようになることと、その時の来ることを、私はここに信じてこの言葉をかいている。

    一九七○年七月
                              渡辺善太
 



                    
  

 賀川先生の運動は先生一人で行なったものではない。多くの人材が賀川という偉大な人格のまわりに結集し、集団としての力を発揮し、日本の社会に働きかけたものである。

 この集団を内閣にたとえ、賀川を首相に見立てると二人の有力な閣僚があげられる。その一人は亡き小川清澄先生であり、もう一人は黒田四郎先生である。小川先生は賀川先生の運動における外交方面を担当とした人物であり、外務大臣にあたる。賀川先生が外国伝道に出かける時は、小川先生は影の形に添う如く賀川先生と行を共にした。国際平和協会や世界連邦運動など、みな小川外相が賀川首相を立てて推進したものである。

 小川外相に対して内相の役割をはたしたのは黒田四郎先生であった。小川外相が先生の後半生に奉仕したのに比べ、黒田内務大臣は貧民窟時代から賀川首相を助けた。国内伝道における賀川先生の大きな働きの蔭には黒田先生の人知れぬ苦労と奉仕があった。この内相は首相と起居をともにし、食事を共にし、風呂を共にし、首相から背中を流してもらった。数千の聴衆の前で獅子吼して熱狂的拍手を受ける賀川先生、福音を語って満堂に悔改めを促す賀川先生、貧しき者、弱き者のために涙して、有り金をはたいて与える賀川先生、詐欺師、ペテン師をそれと知りながら欺かれたふりをして、その後姿に向かって祈りをささげる賀川先生、こうした偉人と苦楽を共にした黒田先生は日本において賀川先生の人物と生活とを最も深く知っている人である。単にこれを知るというだけでなく、これを味わい、これを究めた人であるというべきである。更に進んで賀川の信仰を受けつぎ、その人格を継承した人であるといいうるであろう。

 この書はその意味において賀川豊彦に関する著作のうちで特異なる存在であり、英文学の古典たるボズウェルのジョンソン伝の様式をもつ賀川伝である。

 賀川豊彦の名が若い世代に忘れられつつある時、またその信仰と人格と事業と精神とを歴史の記録としてとどめず、進んで現代に再現すべき必要に迫られている時、黒田老牧師によりこの本があらわされたことを、日本のため喜ぶ次第である。更にこの本が翻訳され世界各国に行き渡り、全世界の賀川観に補完がなされることを待望するものである。

  一九七〇年七月
                          武藤冨男



「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第178回:黒田四郎著・賀川豊彦序『神の恩寵を語る』)

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「ぶらり散歩:近所の草花」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第178回


黒田四郎筆記・賀川豊彦序『神の恩寵を語る

  
 前回は黒田四郎氏の筆記でなる『H・W・マヤス説教集:神への飢渇』を取り出して賀川豊彦「序」UPしました。今回はその黒田四郎氏の著作『神の恩寵を語る』(昭和9年5月に教文館出版部刊行)を取り出して置きます。

 本書の成り立ちなどについても綴られている賀川豊彦の「序」をここには収めて置きます。昭和初年の貴重なドキュメントです。




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 「神の恩寵を語る」は、同労者黒田四郎氏が、私と共に、四年半の間日本を廻って、集められた信仰事実談の収録である。

 宗教は言葉ではない、それは事実である。神の恩寵は思想ではない、それは事実である。神の恩寵の事実は、昨日も今日も、荒野にマナを降らせ、ナインの寡婦の娘をよみがへらせてゐる。日本のキリスト教は、由来あまりに理屈っぽい。理屈からきたキリスト生活には、生活革命がともなはない。私は理屈が悪いとはいはない。しかし、神の恩寵は、愛を通して生活を改造し、理屈を超越した驚くべき力を持ってゐる。黒田四郎氏の収録せられたるものは、神の力が、如何に生活革命の原動力であるかを証明すらものである。

 事実は理論よりも有力である。恩寵の記録は、一冊の神学書を読むより有難い。黒田四郎氏は、飾り気なく、而も少しの誇張もなくして、多くは本人に信仰の事実を尋ねて、之を書きとめられた。善行の人は決してみづからその善行を他人に告げない。それを、我々がその家を訪問し。或ひは友人を通して材料を集め、日本にも斯くの如く、聖霊が働きつつあることの事実を、茲に集めたのである。

 我々は、唯々、神の深き恩寵に感激しつつ、敢てこの書を日本の民衆に奨めるものである。

      一九三四年四月二十三日
                     賀 川 豊 彦
                              武 蔽 野 に て

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第177回:H・W・マヤス説教・黒田四郎筆記・賀川豊彦序『説教集:神への飢渇』)

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「講演:賀川豊彦の協同組合と国際平和 伴 武澄氏」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第177回


H・W・マヤス説教・黒田四郎筆記

『説教集:神への飢渇』賀川豊彦「序」


  
 ここで黒田四郎氏の『人間賀川豊彦』に続く予定でしたが、昭和8年12月に日曜世界社より刊行された標記のH・W・マヤスの説教を黒田氏が筆記した著作を取り出して置きます。

 ここに収められている24編の説教も、私たちにとって重要なものですが、本書の巻頭に寄せている賀川豊彦の「序」は、是非再読いただきたい作品ですので、ここではそれを取り出してご覧にいれます。

 本書は版を重ねなかったかも知れず、賀川の「序」もあまり目に止まっていないものではないかと思われます。




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                   神への飢渇 序

                 一

 私がマヤス先生に會ったのは、中學校の二年生の時であった。私が、中學校の英語の先生の片山正吉氏の塾に、下宿さして貰ってゐる時であった。然し、その時は、ただお辞儀しただけで、宗教上の交渉はなかった。中學校の三年の時に、ローガン先生が、徳島市通町の日本キリスト教會で、英語でキリスト傳の講義を始められた。その時に、初めて私は、西洋人から英語を研究する機會を得た。

 然し、ローガン先生は間もなく中止せられて、マヤス先生が、新約聖書を、通町の敷會堂で、英語で教へて下さるやうになり、後には、徳島本町の自宅で、聖書の講義をして下さるやうになった。

 かうして親しくなった私は、遂に決心して明治三十七年の二月二十一日の日曜日に、マヤス先生の手からバプテスマを受けに。その時私は、満十五歳七ヶ月であった。親切なマヤス先生は、その後も、私を個人的に指導して下さって、プリンストン大學總長パトン博士の『キリスト教々義要綱』といふ、非常に簡潔ではあるけれども、要領のいゝ神學書を教科書にして、個人数授をして下さった。私の英語の力も、哲學的思考の力も、かうした機會に呉へられたことは、否定出来ない。

 かうして英語の力をつけてくれられた為に、私は十五の春から、マヤス博士の圖書棚からいろいろの書物を取出して、自由に讃む機會を得た。カントの『純粋理性批判』の英訳を読み出したのも、この頃からであった。そして私は、徳島を離れて、東京の明治學院に入學し、マヤス先生の厚意によって、叔父と意見のちがったために、學費の途がなかった時でも、明治學院に學ぶことが出来た。

                      二

 十七歳の夏、ミセス・マヤスが一足先に米國へ行かれた時、私は四十日の間、マヤス先生と同じべットに寝る機會を得た。かうして私は、日本人の間にも発見出来ないやうな大きな愛をマヤス先生から受けたことを、永遠に忘れることが出来ない。

 マヤス先生は、幼い頃から、植物學に趣味を有たれ、天文學に興味を注がれ、いまだに――六十歳を越えても――日本アルプスなどは、毎年数回縦走さるゝ日本の外人の間でも有名なアルピニストである。

 それで、私は、マヤス先生に連れられて、吉野川の山奥へ傅道に出かけた楽しい旅行を今も忘れることが出来ない。もし私が、キリストのために熱心な傅道者となることが出来たとすれば、師父マヤス博士の感化であるといはざるを得ないであらう。

 私は今も覚えてゐる、十七歳の時、私はマヤス夫人の女乗りの自転車を借りて、吉野川の上流まで遠乗りして、傅道旅行について行つた。私はその時恐ろしく下痢してゐた。それで、毎日の旅行が非常に苦痛であつた。然し私は、マルコがパウロに叛いたやうな悲しい記録を作りたくなかつたので、下痢を辛抱してついて行つた。マヤス先生は、通る人毎にリーフレットを渡し、乞食小屋にも頭を低うして、永遠の生命の道をお説きになつた。

 『――西洋人がこれほどまでに熱心に、日本人を救はうとしてゐられるなら、僕ももう少し熱心にならなければならぬ――』

 斯う考えた私は、伝道のためにメートルをあげることにした。

                      三

 不幸にして私は、十七歳の冬から肺病にかゝつた。そして、明治四十年の夏には、もう医者に、『死ぬ』といふ宣告を下され、もう少しで私は死ぬ處であった。不思議に癒された私は、マヤス生先の厚意で、明石の湊病院に入院し、更に、三河蒲郡に、漁師の家を借りてそこで九ヶ月保養した。そのあばら家に畳も、机もないので、蓆(むしろ)敷き、石炭箱を机にしてゐた――マヤス博士は三晩も泊って、私を慰めて下さった。普通の日本人でさへ、私の肺病を怖れてなかなか泊ってくれないのに、三晩も、私のきたない蚊帳の中で、肺病を怖れないで泊まって下さったこの先生に對して、私は心より感激した。

 肺病が治って、私は神戸の神學校に入學したが、間もなく、私は貧民窟に這入る決心をした。そしてその貧民窟の苦しい多くの経験を通して、絶えず慰めて下さった人は、マヤス先生夫妻であったことを、私は忘れることが出来ない。私は、神學校から學費だけ支給して貰ってゐた。然し、それだけでは貧しい人を助けることが出来ないので、神學校の煙突の掃除をしたり、マヤス先生のお宅の煙突掃除をさして貰って、毎月十圓の金を携へ、貧民窟の病人を世話することにしてゐた。マヤス夫人はまた、私を、三人の子供のうちに加へて、私のために、特別の椅子と、特別のナプキン・リングまでを備へて、いつ如何なる時に飛込んで行っても、私に食事を、家の者同様にさせて下さった。かうして私は、マヤス家の一人に完全になりきってしまった。

                      四

 その後私は、マヤス博士とローガン博士に金を借りて、米國に渡り、プリンストン大學に人學した。アメリカに居るうち、私は、マヤス先生の故郷であるヴアジュヤ州レキシントンを訪問する機會を得た。レキシントンは、有名なワシントン・アンドリー大学のある處で、そこで、マヤス街といふ通りを私は見付けた。

 マヤス先生のお父さんは、土地の大きな金物屋であったさうである。非常に傅道に熱心で、みづから出資して、支那に宣教師を送ってゐたといふことを、私はうっすら聞いた。この金物屋のマヤス家は、ニューヨークの最初の市長の一人であるマヤスの後裔であって、オランダ人の血を承けてゐるといふことである。

 また、マヤス夫人の系統は、ミズリー州の判事で、米國独立戦争の時からの家柄で、シカゴの大きな商賣人のマーシヤル・フイールドー族と開係があることを私は學んだ。

 兎に角、私は、プリンストンから、わざわざ、クリスマスに、ヴアジニヤまで出かけて行って、この慕はしい一族とI週間ばかり贈った嬉しい思出を、今も、ありありと目の前に浮べてゐる。

 私は、煩雑な世の中にも、一人の青年の指導に、これほどまで親切な指導をしてくれる教師が、ほかにあるかどうか知らない。しかし、もし私に、先生らしい先生をいへといふなら、私は、恩師マヤス博士を指さすであらう。

 私は、神學校で、マヤス博士から、ギリシヤ語と、教會歴史と、キリスト傳を學んだ。私は、マヤス博士が特別な大學者だとは思はない。マヤス博士がそれを希望してゐられたなら、必ず大學者になってゐられたらうと私は思ふ。その緻密な頭脳と、科學的な傾向は先生をさうさせないでは置かなかったであらう。然し、マヤス先生は象牙の塔を出て、東洋の傅道に来られたのであった。それで、全く書物と訣別しなければならない位置におかれてゐた。それで、私が、マヤス先生から學んだことは、その緻密な分析と、對比と、順序立てた綜合的研究方法であった。これに對して私は、いゝ教師を得たと思って、マヤス先生の時間を、いつも楽しみにした。

                      五

 マヤス先生は、今も私の先生である。毎年私の経営してゐる農民福音學校に、望遠鏡を運んで、全國から集る學生達に、星と、星の造主である神を指さして下さるのは、私の尊敬するマヤス博士である。

 マヤス博士の生活は、実に簡粗で、その食物などでも、謹厳なモナスタリーの僧侶を思はしめるやうな質素さがある。

 兎に角、私は、マヤス博士からずゐぶんいゝものを學んだ。私はかういふやうな、すぐれた師父を、自分の先生として仰いだことを心より神に感謝してゐる。

 幸ひにも、親友黒田四郎氏が、マヤス博士の宗教説話の断片を筆記して下さったので、その出版を西阪氏に計った處が、西阪氏も喜んで、これを引受けて下さったことを、非常な幸ひだと思ってゐる。

 マヤス博士の愛は、私自身にとって、掘抜井戸のそれの如く、深くそして清いものである。私は、この深く清い愛を、更に日本の隅々へ押広める義務を荷ふてゐる。私は断言する。マヤス先生の宗教説話は、決して、マヤス先生の人格そのものより優れたものではないだらう。寡言な先生は。科學者の如く、星や雑草と親しむ多くの時間を有つてゐられた。自分の行動について語らるゝ處はまことに少い。然し、日本は、かうしたよき贈物を神から賜つたことを、必ず記憶する日があるだらう。

 この書は、さうした神の恩寵を物語るよき記念品として、受取りたいものである。

   一九三三年十月七日

                         賀川豊彦
                                武戴野の森にて




「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第176回:藤阪信子著『羊の闘いー三浦清一牧師とその時代』)

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「ぶらり散歩:道端の雑草たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第176回


藤阪信子著『羊の闘い―三浦清一牧師とその時代

  
 前回、三浦清一氏の『世界は愛に飢えている』を取り出したので、引き続いてここでは2005年8月に熊本日日新聞社より刊行された藤阪信子氏の力作『羊の闘い―三浦清一牧師とその時代』を挙げて置きます。

 賀川豊彦と三浦清一の関わりなどは、その関係年表を含めて本書で立ち入って触れられているので、お読みいただくとして、ここでは著者の「序文」と「あとがき」のみ紹介させていただきます。

 そして、「啄木と光子」に触れて書かれた木村勲氏執筆の文章(「朝日新聞」平成8年11月7日付け)のものも参考までに取り出して置きます。





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                    まえがき


 出会いは一篇の詩から始まった。その詩には、働き手を失った阿蘇の老農夫が、見舞いにもらったカライモを前にして、つつましく感謝する姿がうたわれていた。ありきたりな阿蘇讃歌ではなく、社会の底辺に目が向けられていることに感銘した。作者は三浦清一。はじめて聞く名前だった。解説者の話によると、熊本県出身の牧師で、夫人は明治の天才詩人石川啄本の妹光子だったとのこと。啄木との意外な縁に驚きながら、どんな人物だったのか、ほかにはどんな作品が遺っているのか知りたくなった。何年もかけて手探りで少しずつ調べていくうちに、一篇の詩の背景とそれに対する作者のスタンスが見えてきた。

 昭和初年。なんと暗い時代だったことだろう。世界恐慌のあとの豊作飢饉と翌年の大凶作。学校へおべんとうが持って来られない子どもたちがいた。家族を救うために泣く泣く身売りされる娘たちがいた。清一は貧しい農村を伝道しながら、彼らの悲しみを知ったのだろう。わずかなカライモを前に老人は「なんごつもなあ、おてんとうさんのおかげでござりますたい」と言うのだった。おてんとうさん(超越者)に対する絶対の服従と謙虚さ。拝金主義がはびこる現代では、かけらも見ることができない人間精神だ。

 日米の混血児として逆境の中で育った清一は、若い日から貧しい人や弱い人の味方になろうと志した。社会主義を学んだのも、キリスト教の牧師の道を選んだのも、同じ心から出たことと思われる。彼の近くには、社会的関心の強いキリスト者の群があった。彼らの思想を一言でいうなら「自分一人の魂の平安にとどまらず、神の愛を社会へ広げよう」ということになろうか。いわば「一匹の羊」であった清一のこの世との闘いには、この国とキリスト教のありようが、少なからず絡んでいるように思う。こういうわけで、まずはキリスト教が、あけぼのの明治に入ってきた経緯から始めたい。

 お断りしておきたいのは、本書でいうキリスト教は十六世紀にザビエルによって日本に伝えられたカトリック(普遍的・公同的という意味)ではなく、形式化し、腐敗した当時の教会を批判して立ち上がったプロテスタント(抗議する者の意味)の流れである。キリスト教は、わが国では長い間、邪教視され、ほとんど根こそぎになるくらいに弾圧された。明治六年の開教と同時にカトリックもプロテスタントも伝道を開始したが、カトリックを旧教、プロテスタントを新教と呼んでいる。


                     あとがき


 清らかで、豊かな水流を誇る熊本県南の緑川。そのほとりの竜野村出身だった三浦清一。石川啄本の望郷の歌で知られる岩手県北上川の渋民村で生まれた石川光子。南と北の、出会う機会とてなさそうな二人を結んだのはキリスト教であった。啄木一家の悲惨をつぶさに体験した光子は、自立したくて、聖公会の婦人伝道師となり、神学生の清一と熱烈な恋愛の末に卒業と同時に結婚した。長身でハンサムな清一と七歳年長ながら、色白で小柄な光子は、似合いの夫婦に見えたという。

 阿蘇から出発した結婚生活は伝道生活と重なっており、はじめから世間並みの家庭生活ではなかった。牧師一家の暮らしは、ただでさえ私的な部分が犠牲にされがちだが、清一には社会改良の夢があったために、一層の困難を伴うものだった。炭鉱地帯や離島・僻村への伝道、キリスト愛の実践活動としてなされた信仰共同体「阿蘇兄弟団」の結成…。彼の伝道力には目を見張らせるものがあり、どの教会に赴任しても、たちまち教勢(教会員の数)を伸ばした。その情熱的な説教は若者や学生たちを感奮させ、ぞくぞく教会の門を叩かせたという。彼らを夏期キャンプなどに誘えば、満天の星の下で夜を徹して祈ることができる牧師だった。弁舌が巧みだっただけではない。ペンを執れば、内にあふれる思いを自在に表現できる文章力をも持っていた。伝道のための宗教小説やエッセー、評伝を書いたばかりか、なかなかの論客でもあり、詩も書いた。

 光子は牧師夫人の役をけんめいにつとめた。しかし、清一の社会主義的傾向には早くから危うさを感じていたようだ。不安は的中して、CMS(英国聖公会宣教協会)による念願の英国留学は敵性人物と断じられて差し止められてしまった。それも教会内部からの密告だった。また第二次大戦が始まると、治安維持法違反の疑いで逮捕され、鉄窓の生活を送るという憂き日にち遭った。孤独な獄中での転向と敗戦後の再転向。思想や信念が日常の魔によって浸食されて行く過程は今後さらに解明されなければならないと思う。

 世間では光子を頑固で冷たい女だと見ているようだが、筆者は純粋一途な面を待った不器用な女性だと感じている。時に激しさを丸出しにしてしまうのも、そのせいだと思うのだ。繊細な光子に比べると、清一は、大らかで逞しい。義侠心から厄介な仕事にも手を出さずにはいられない。戦後は免囚保護施設「愛隣館」の館長をしながら、兵庫県の県議として恵まれない人たちのために働いた。次第に政治にのめり込む姿を見て光子は嘆いていたという。過労のため、ついに清一は倒れた。葬儀が終わって、党旗の赤旗を柩から外させて、神の前に送る光子の行為は、彼女の生涯のハイライトではないかと思う。このとき二人の心はピタリと一つになった。光子はどんな場合でも、清一に天上へのまなざしを忘れさせないマリアであったといえよう。

 実をいうと、本書は一九九六年四月から翌年三月まで熊本日日新聞の夕刊に宮崎静夫さんの静謐重厚な挿絵付きで連載したものを見直し、大幅に加筆したものである。本書を未熟ながらようやくまとめることができたのは取材に応じてくださった方々のご支援があったればこそ。なかでも熊本日日新聞の井上智重さんには始終気にかけていただいた。門外不出の書類を提供してくださった神戸の三浦哲朗さん、資料収集の面で長い間、根気よく協力された東京は松沢の賀川豊彦記念松沢資料館の元研究員米沢和一郎さんにはお礼の申しようもない。それに弟の藤坂史人は煩わしい事務処理の一切を引き受けてくれた。出版に際しては熊本日日新聞情報文化センターにお世話になった。その他、協力してくださった方々のお名前は巻末に記すことでお礼のしるしとしたい。

 本書は幾度となく取材に同行し、おぼつかない仕事のゆくえを案じながら、病で逝かねばならなかった亡夫神津正巳に献げるものである。ことばでは、とうてい言い得ない思いも共に受けとってもらいたくて。

  二〇〇五年五月
                  若葉かおる夢窓文庫にて
                                藤坂信子





     関連資料 「朝日新聞」平成8年11月7日付 木村勲氏執筆の記事

            「風景:ゆめうつつ」(17)
      
               石川啄木と妹・光子
               透徹した兄への視線



  船に酔ひてやさしくなれる
  いもうとの眼見ゆ
  津軽の海を思へば

 明治四十年(一九〇七年)五月、明星の新進歌人・石川啄木(一八八六~一九一二)は津軽海峡を渡る。二歳年下の妹・光子を伴っていた。そのときの歌である。

 妻子、母も続いて郷里・岩手の渋谷村をたち、函館に着く。

 小学校の代用教員だった啄木のストライキ扇動事件、そして寺の住職をしていた父・一禎が檀家に相談せずに裏山の木を売却した問題などがこじれたあげく、「石をもて追はるるごとく」の一家の出郷だった。

 函館、小樽、釧路、そして東京と、困窮の生活が続く。啄木が結核で短い生涯を終えるのは海峡越えから五年後のことだ。

 それから半世紀、昭和四十年(一九六五年)二月、大阪府高槻市の啄本研究家・天野仁さんは、神戸市兵庫区楠谷町にある社会福祉法人の養護施設「神戸愛隣館」を訪ねた。かねて会いたいと思っていた理事長との約束がとれたからだ。

 理事長は三浦光子、旧姓・石川、つまり啄木の妹である。このとき七十七歳。

 愛隣館の玄関を入ると、奥の部屋から電話で激しく応酬する女の人の声が聞こえた。四、五十代くらいの、歯切れのいい関東弁だ。相手は新聞社で、記事への抗議らしい。電話が切れ、一転して愛想のいい、小柄な女性が現れた。その人たった。

 光子は函館時代、キリスト教 の婦人伝道師と親しくなり、名古屋の聖使女学院に進む。卒業後、布教活動に入り、大正十二年に牧師の三浦清一と結婚して、夫婦で各地を布教した。 

 啄木は明治四十四年、二十四人もの死刑判決者を出した大逆事件に衝警受付「時代駱の啓ヽ光ぶ暑中休暇霜用の現状」を実感し、急速に社会主義思想に接近している。だが、光子のキリスト教とのもともとの出あいは、生来の唯物論者だった兄の示唆によるという。

 光子が渋民の高等小学校を終盛岡女学校に入学が決まったとき、「これを読め」と兄は ぶっきらぼうに「旧・新約聖書」を手渡した。

  クリストを人なりといへば、
   妹の眼がかなしくも、
    われをあはれむ。

 死の前年の夏、東京・小石川の家で、光子が暑中休暇を利用して啄木を看護したときの作だ。二人はいつのまにか宗教論争を始め、盛んに妹を冷やかしていた兄がまくら元のノートを一枚破り、「これを読んでごらん、ふふふ」と笑いながら見せたのがこの句たった。

 昭和十九年、三浦夫妻は、クリスチャンで社会改良家の賀川豊彦から神戸愛隣館の経営を任される。東京に住んでいた光子は翌春、寸断された列車を乗り継ぎ神戸にたどりつく。四月十日、啄木の命日だった。理事長の夫は昭和三十七年に没し、光子が跡を継いだ。

 夫をみとった後、光子は交際を避け、愛隣館にこもり、『兄啄木の思いで』(理論社、昭和四十年刊)を書き上げる。序に書く。

「世の多くの啄本研究家は木をあまり小説の主人公にしすきている。そろいうところははっきりけじめをつけて赤裸々な啄木を理解することこそ必要なことなのではないか」

 啄木の小説化、そして演劇・映画化は戦前から始まった。劇的効果を高めるパターンさえ成立した。「困窮の中に天才歌人を支えた貞淑な妻(節子)」に対して、「兄嫁いじめの小姑(光子)」というものだ。 

『兄啄木の思いで』にはこれに対する女性らしい反発も含まれるが、人間・啄木を見る視線は透徹している。刊行から三年後の秋、光子は七十九年の人生を終える。六甲の緑に抱かれる土地で、数十人の子らの母として生きた最後の四半世紀だった。

 彼女は「津軽海峡の荒い波のうねり」と重ねて兄を思いだしたという。兄の知らぬ西の国で、思想的には一見対立する荒波の人生を歩んだが、実は啄木の目指すものを地道に実践したのが光子であったように思う。

 啄本にこんな歌もある。

    わかれをれば妹いとしも
     赤き緒の
    下駄など欲しとわめく子なりし 
 ’
 自分譲りのきかん気、手ごわいケンカ相手、兄にはそれがまた愛らしかったのだろう。

 神戸愛隣館は光子の死後数年で閉鎖された。今は、木造二階の校舎風の建物があった敷地に、民家が立ち並ぶ。地元でもかつてのことを知る人はほとんどいない。
                                     (木村勲)
   


              啄木の熱情引き継いだ三浦


 神戸愛隣館は明治三十一年、篤志家・村松浅四郎が生田区(現・中央区)内に設立した出獄者更生施設がルーツ。外国婦人から一万円の寄付があり、明治三十九年、兵庫区楠谷町に木造二階建ての建物が新築された。

 収容者は年間六百五十人、相談・指導は千数百人を数え、米国のミッションの教師たちが協力した。村松は昭和九年に賀川豊彦に事業の継承を頼み、賀川からさらに三浦夫妻に託された。戦後は児童福祉法に基づく養護施設として再出発した。

 三浦清一は熊本県出身で、福岡の神学校時代に賀川の著作に接し、神戸に来て師事した。詩人でもある。昭和十八年に発表した「熱帯の空、秋漸く動き ほのかなる郷愁、わが心に在り」などの一節を含む「郷愁」が反戦詩だとされて、七百日間の獄中生活を送った。

 賀川は三浦の戦後の詩集の序文に、「彼は小作人と無産者のために、その血涙を捧げ、石川啄木の熱情を現代生活に織り出さんと努力してきた」と書いた。戦後、社会党の兵庫県会議員を務めている。

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第175回:三浦清一著『世界は愛に飢えている』)

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「昨夜の神戸大学グリークラブ・コンサート」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第175回


三浦清一著『世界は愛に飢えている―賀川豊彦の詩と思想

  
 標記の著者・三浦清一氏は「詩人」として知られていますが、本書の「跋」で阪本勝氏も記しているように、本書は詩人・三浦清一でなければ書けない作品として逸品です。

 明治28(1895)年に生まれ、昭和37(1962)年になくなっているが、本書は亡くなる5年前(昭和32年)に射場書房より出版されています。

 此処では、三浦氏の序文と阪本氏の「跋」を取り出して置きます。

 なお、三浦氏の妻「三浦光子」は、石川啄木の妹ですが、夫・清一氏の没後に理論社より『兄啄木の思い出』という作品を発表しています。




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 詩人はいつも社会運動の先駆に立つものである。中世紀に於ても、近世紀に於ても、目醒めた先駆者となったものは、みな詩人であった。ダンテはあまりに古いとしても、バイロン、シェレー、ゴドウヰン等、決して我らから遠いところに立っているのではない。彼らは詩人であった。同時に新しい時代への先駆者であった。アイルランドの独立運動にも詩人が加わっていた。イタリーの国民運動には、詩人ダヌンチオが、第一線に立っていた。

 特に一九二七年ロシヤ革命勃発以来、全世界にわたって捲起された革命と解放と自由の嵐は、数うることのできない程、多くの詩人をおこした。アールスキーの「闘いの歌」を読むとき、我らは革命の嵐に包まれたロシヤを忘れてはならぬ。一九二一年以降、ドイツに於てはナチスが党の結成に成功し、イタリーに於てはファシストと共産党とが深刻な闘争を展開し、引きつづいて或はトルコの革命となり、或は日本における第一次共産党事件が生じ、或はレーニンの死等、次から次に歴史的の事件が現出した時、ロビンソンの「詩人」が世におくられ、ジョンソンの「アメリカ黒人の詩」が活字となり、エリオットの「荒地」が世に問われ、郭沫若、将光慈の「上海的清晨」「中国労働歌」があらわれた意味を忘れてはならぬ。

 日本においてプロレタリア詩運動が漸やく活発となつたのは、一九二八年頃からだと思うが、その歴史的背後に、三・一五事件、世界経済恐慌、スペイン革命、ヴェトナム共産党結成等があつたことを記憶せねばならぬ。

 マクリーシュぱ現代の激動を敏感に把握した「恐慌」を発表し、スルコーフは[戦線ノート」に由つてスターリン賞を受け、パルタはチェコに於て処刑され、アラゴンは「異国の中の祖国にて」をまとめ、エリュアールは「時は溢れる」を出し、続いて「政治詩集」を出し、ネルーダ、ヒクメッ卜は世界平和文学賞を受け、林和の「英雄伝」は若人の血をわかせた。

 そしてその間に、世界は大きく転回し、植民地制は大崩壊を始め、民族解放の闘いはいよいよ熾烈化してきた。

 日本解放の歴史を見ても、我らはそこに多くの詩人が、先駆的役割をはたして来た事実を取上げることができる。しかし残念なことには、近代の日本は、たとえばドイツのハイネやフライリッヒラートのような、またロシヤのデカプリストやネクラーソフのような、革命的な解放詩人の、思想的にも芸術的にも、高い詩強い伝統をもっていないのである。このことは日本の解放闘争が、いわゆる自由民権運動の挫折によって、一時停滞したことと密接な関係があるのであるが、しかしそのような伝統は、日本においても弱いながら、明治以来詩壇の底流として流れており、これが時にたとえば児玉花外や、輿諭野晶子の「君死にたまうことなかれ」や、石川啄木の詩や短歌となってあらわれ、特にデモクラシーの運動、プロレタリアの自覚に伴なうて、烈しい奔流の如くに、ほとばしり出たのである。そして、それが強い大きな流れとなって、戦後のわが国の、新しい民主主義への叫声となりつつある。

 わたくしがこの小著を以て世に問わんとする賀川豊彦の詩も、この流れの中から生れ出たものである。賀川豊彦を詩人とすることについては、或はいろいろと意見もあるであろうが、しかし私はなんら躊躇の色だに示さず彼を詩人――社会詩人とするものである。読者は次の詩を知っているであろうか。

      悲しき日よ
      街に出て
      号外くばりに
      会ったばかりに
      凡ての努力が
      無効であると知った――

      今井博士が
      落ちた――
      声を嗄らして
      叫んだ幾十日
      凡てそれが
      無効であつたのだ――

      貧民と
      労働者は
      救はれない!

      乾き切った
      貧民窟の街路に
      無意味に下駄が鳴るよ――

      私は大阪を呪ふ
      日本を……
   
      大阪に
      煙はあがっても
      自由は
      あがらない!
   
      あゝ 暗い
      日本は暗い!

      太陽の煙は
      無意味に立ちのぼる

 普選の幕が切って落された時、無産運動の先駆者今井嘉幸博士は落選したのであった。そのとき賀川は「選挙の後」と題してこの短かい詩を発表した。これで充分ではなかろうか、彼が詩人――社会詩人たるの名を受くるには!

 詩人が社会的使命を持つことについて、賀川は次のようなことを、「聖書の社会運動」.の中に述べている。第一には、詩人は鋭い感覚の所有者であるということ。それは彼らは普通人の気のつかないものを嗅ぎ出すからである。第二に、彼らは、鋭いセンスからして、すぐれた良心を持つこと。バイロンが自由を称え、ギリシヤの独立運動に参加したこと、法王の堕落に奮起したダンテの如き、何れも鋭い良心から起された運動である。そして第三の理由として、詩人たちは、より近く神を見んとする努力を有つことを挙げている。「彼らは自己の魂の外に飛ぶ。彼らはその深刻な宗教的観念からして、痛々しい魂が自ずからに神の方に向くのである。こういった理由が詩人をして先駆者たらしめ、そして詩人の叫びは我々を目ざめしめるのである。」

 これは彼が、詩人が社会的使命を持つに至る理由として述べた大要であるが、私はこれらの言葉をそのまま、彼自身に呈すべきであると信じている。賀川に師事して三十年、私は彼から多くのものを得たが、最も大いなる影響を与えられたのは、「詩」に対する感激と、「社会」に対する深い関心とであつた。結局私に於ても、「詩」と「社会」とは、絶対に切り離すことのできないものとなった。

 この小著は、その大部分は、太平洋戦争たけなわの日に筆を執ったものである。その時私の心は闇く、前途に希望を見出すことは困難であった。ややもすれば、魂の祭壇の上にかかげた燈火は、吹き消されそうであった。しかし賀川の詩のなに深く沈潜し、そこに湛えられてある「いのち」に触れたとき、もうI度私にも「強く生きよう」というひとすじの光が射し込んで来た。その感激がこの小さな仕事となつたのである。爾来十年間、古新聞紙に包まれたまま匡底深くしまいこまれていた原稿は、漸やく陽の目を見ることになった。脱稿十年の今日、ふたたび原稿を読み直してみるとき、その思索において、その表現において、幾多足らざるところを見出すのであるが、敢てこれに筆を加えず、そのまま梓に上すことにした。鉄窓生活七百日、キリスト教会に捨てられ、多くの友人に捨てられ、米塩の資得るに術なく、妻をかかえ児を擁して、まったく前途の光明を失ったとき、わがために家をそなえ、わがために読書の機会を与え、三つの生命をして飢えざらしめた賀川豊彦の愛情を思うとき、その深刻なる記念のためにも、なまなか筆を加うることは、わたくしの感情がこれを許さなかったのである。

 いまやこの書を世におくるに当り、敗戦十余年にして未だ行くべき道を見出すこと能わず、不安と疑惑の中にたたずんでいる多くの同胞が、この民衆詩人より、何ものかを得、何ものかを発見し、何ものかを把握し、何ものかを直覚して、新しき明日への糧とされんことを望むものである。兵庫県知事阪本勝君はこの書のために跋を書いてくれた。神戸合同労働組合の田巻米子君は原稿の浄写をひとりでやってくれた。心から両人に感謝する。

  一九五七年三月余寒ややゆるみたる日に

                    霙の音を聞きながら
                             三浦社会問題研究所にて
                                 
                                 三 浦 清 一 




                    巻 末 に

                     阪 本  勝


 賀川豊彦……それは一つの宇宙である。
 三浦清一……この天文学者は、その宇宙の解説を試みようとする。
 賀川と三浦の魂がここに交響し、竹林のうぐいすが鳴きかうように、春の野にときめきわたる。

 けさ、私は朝の新聞のきれぎれのニュースを眺めていたが、ふと小さな記事に眼がとまつた。フランスの老政治家、エドアール・エリオ氏の訃を伝えた外電である。混沌を極める欧州の政界の中で、誇り高いボン・サンスの一つといわれるフランス急進社会党の統率者、八十四歳の老エリオの死は、朝のひととき、私の心をしばし静かな思いに沈潜させた。その瞬間ふと私は思い出した。「世界は愛に飢えている」という三浦君のさけびである。

 世界は愛に飢えている……その飢えたるものの幸福のために戦いつづけたエリオの闘争の生涯を私は思った。そして、三たび宰相の印綬を帯びたこの高名な政治家の魂に思いをはせた。エリオは、政治家である前に詩人だった。文学者だった。アカデミー・フランセーズの会員であり、文学博士である。第二次大戦のレジスタンス運動を指導して、ナチスの牢獄に捕えられた彼の激しい精神を支えたものは、何よりもまず彼の詩魂であったに相違ない。

 賀川さんはその詩魂の持主である。非類まれなる持主である。いや天才である。
 詩人三浦がそれを解説する。
 けだし壮観だ。

 放浪の美少女、エスメラルダを創造した詩人、ヴィクトル・ユーゴーも政治に魂を燃焼した。ラマルチーヌも詩魂の情熱を政治にたたきつけた。社会党のレオン・ブルムも詩人だった。そしてエリオだ。

 社会革命のプレリュードは、つねに詩人の情熱の歌によって奏でられる……。私もはっきりとそう思う。詩人三浦清一が、愛に飢えた世界を提訴する。天に冲する爆発だ。彼はこの一書に魂を寄せて、賀川豊彦と組み打ちする。賀川の腸をつかみとった彼の掌は聖者の血にまみれ、むせかえるような薫香をあたりいっぱいまきちらす。賀川豊彦の詩に合わす合唱がこだましてははねかえる。

 ああ、賀川先生。

 詩集「涙の二等分」を読んで涙を二等分したのは、三十余年の昔。風霜ここに年あり。先生壮にしてかっ健。よろこび何ものかこれにすぎんや。

 いま三浦は大賀川の伴奏をする。

 かつて三浦は、詩集「ただひとり立つ人間」を世に問うた。それは彼の壮絶を極める孤高のソロだった。悲愁大地に雨ち、義憤一世を払う粛殺の独奏たった。だがこのたび彼は伴奏者として立つ。詩人賀川豊彦に従横からライトをあて、メスをふるい、ピアノのキイをたたきまくり、躍りあがつて歌っている。見事な伴奏、美しい合唱、壮烈なデュエットである。

 詩のある政治、愛のある政治、彼はそれをもとめて歌っている。ほえている。泣いている。

 三浦よ。賀川というピアノを思い存分たたいて、歌え、泣け、ほえろ。

 世界中でこの役は君以外にないはずだ。

 私もまた、双手をさしのべ、声をはりあげて、このコーラスに参加しよう。

 ああ、世界は愛に飢えている。世界に愛をとりもどそう。この書をひしと胸に抱いて。




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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第174回:薄井清著『一粒の麦は死すともー賀川豊彦』)

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「ぶらり散歩・会下山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第174回


薄井清著『一粒の麦は死すとも―賀川豊彦

  
 標記の著者・薄井清氏は「農民作家」として知られていますが、本書の奥付には、次のように記されています。

 薄井 清(うすい・きよし)
 昭和5年,東京都町田市の農家に生れる。24年より47年まで東京都農業改良普及員。31年『燃焼』で第1回農民文学賞,55年『権兵衛の生涯』で第28回地上文学賞受賞。
 主な著書に『都は土を狂わせる』『証言・農の軌跡』(家の光協会),『農業の崩壊と抵抗』(三一書房),『あの鳥を撃て』(日本経済評論社),『土は呼吸する』(社会思想社)など。
 日本良民文学会,新日本文学会各会員。

 本書の成り立ちに関しては、著者の「あとがき」に記されており、以下に取り出して置きますので、そちらをご覧いただくとして、賀川生誕百年記念のときに作られた映画「死線を越えて」では、山田監督はこの薄井氏の作品を参考にして脚本を練り上げておられるのではないか、と思った記憶があります。一読されて良い作品のひとつです。



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                     あとがき


 賀川豊彦が偉大なキリスト教徒であったことは、ずっと前から知っていた。また戦前に大ベストセラーになった、『死線を越えて』や『乳と蜜の流るる郷』の作者であることも、よく知っていた。しかしそれ以外の賀川豊彦についての知識は、ほとんど持ちあわせていなかった。

 身近な出来事をとおして、賀川豊彦の名を耳にしたことは一度だけある。終戦直後だった。

 戦時中に陸軍兵器学校の将校宿舎が私の家の近くに建てられたが、米軍が厚木進駐と同時にそれは接収され、米軍宿舎にかわった。はじめてみるアメリカ兵は、まるで赤鬼のように、恐ろしい存在だった。そのはずである。まだ敗戦から一か月もたっていなかったのだ。アメリカ兵は永久に住みつくらしい、といった噂に村民はふるえあがった。

 ところが数か月でアメリカ兵は消えた。
 「賀川豊彦というひとが、マッカーサーと談判し、アメリカ兵を追い出して、学校にするらしい……」

 こうして生れたミッションスクールが、数年前に夏の甲子園大会で優勝した、桜美林(オベリン)学園である。

 賀川豊彦という人間はドえらいやつだと、その当時びっくりしたのを、いまにして思いだしている。

 それはそれとして、一昨年の夏、日本農業新聞の岡部博圀氏から、全共連のページに『農協共済の父・賀川豊彦伝』を劇画(一乗寺光画伯)にして連載したいが、それの台本を書いてくれ、という依頼を受けた。そのときにはなんとなし引き受けてしまい、それからのにわか勉強で、賀川豊彦を知ったというのが実情である。

 参考文献を調べ、関係者からおはなしをきくにつれ、私はやみくもに賀川豊彦にのめりこんでいった。労働運動や農民運動の指導者としての在り方には、いささかの反撥や疑念もあるが、「農村・農民」を愛する賀川豊彦の生き方は、深く触発されるところがあったからである。

 これが“偉人″の魅力とでもいうのだろうか。

 いつしか私は波瀾に満ちた偉人の軌跡にまきこまれた。一途にその軌跡を駆けた。七十二年の足早の巨きな足跡を、息をはずませて追っているうちに、本書ができたというのが、書き終えたあとでの実感であった。

 いま読み返して思うのは、農業協同組合は戦後にマッカーサーからあたえられたものではなくて、賀川豊彦を含めた産業組合運動家たちが、血みどろの戦いの末に勝ちとった組織である、という感慨である。

 その農協は、昭和四十年代には「中国の長征」にもたとえられるような、大躍進を遂げた。だがいま、米価据置、減反、自由化、それに構造的な金融不況が重なり、農協は一つの岐路に立たされている。賀川豊彦が生きていたら、どのようなアドバイスがあるか興味のあるところだが、それは不可能である。本書に描かれた“農協の父″といえる偉人の生きざまをとおして、農協運動の原点をさぐり、新たな農協運動展開の糧になればというのが、著者としての、祈りであり、願いである。

 執筆にあたってとくに全面的なご指導をいただいたのが、東京医療生活協同組合理事長の黒川泰一氏である。また出版にさいしては、家の光協会の伊藤正徳氏に親身にまさるご協力をいただいた。――この場をかり、心から厚くお礼申し上げます……。

 じつは私も地元町田市忠生農協の、理事の立場にいるものである。

 一人の組合員として、一人の理事として、『農協の父・賀川豊彦』の魂の前に、農協運動をますます発展させるための努力をお誓いし、ペンをおくことにする。

  昭和五十七年十二月
                                 薄井 清



 主な参考文献

横山春一著『賀川豊彦伝』(新約書房)
鑓田研一著『賀川豊彦先生』(日曜世界社)
賀川豊彦著『樹木作物とその収穫』(林野庁)
賀川豊彦著『病床を道場として』(福書房)
隅谷三喜男著『賀川豊彦』(日本基督教団出版部)
黒田四郎著『人間賀川豊彦』(キリスト教新聞社)
黒川泰一著『沙漠に途あり』(家の光協会)
青木恵一郎著『日本農民運動史』(日本評論新社)
                     その他

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第173回:横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』)

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「ぶらり散歩・会下山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第173回


横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生

  
 横山春一氏の『賀川豊彦伝』は既に取り出しましたが、標記の著書は昭和27年10月に新教出版社より出版されました。ほかでも書きましたように本書は、高校生のときにはじめて賀川に関する著書を読み、大変啓発された思い出の作品です。

 賀川がまだ生前の時のもので、たくさんの写真も収められており、読みやすい入門書となっています。ここでは、彼の序文と共に写真のなかの幾つかをUPして置きます。




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 賀川豊彦先生の生涯は、傅道と奉仕の生涯である。それは初めから神と人とにささげられて、今日に到った。

 ゆたかな智慧も、あふれる信仰の熱情も、愛も、すべて日本の教化と神の國建設のために、惜しむところなく用いられた。

 先生は日本を熱愛する。しかし、それは決して日本の「血と土」を無批判に誇るのではない。

 享棄と、犯罪と、暴力革命をさけぶ急進論者の破壊行為は、常に先生を涙の谷間にさそう。

 先生は世界人である。日本を熱愛することと、世界人たることとは、先生においては少しも矛盾しない。

 ところが、極端な國家主義者は、先生の國際主義を、反民族的なものときめてしまい、「私
にもし百の生命があれば、ことごとくそれを祖国のためにささげよう」と叫ぶ先生の憂國の悲願を理解しない。

 自由主義者の中にさえ、歴史の流れにうかぶ泡沫に目をうばわれて、太平洋戦手中の先生の言動が本質的に如何なるものであったかを、理解しない者がある。

 どんなにはげしい戦いの日にも、先生の口から、平和をもとめる祈りの言葉が絶えなかったことを知る人はすくない。平和は、先生が初めて聖書を手にし、洗礼をうけた日から、神聖な生活信條であった。先生の生涯は、平和と愛をもとめる祈りの上に展開された。

 遂には、キリストの使徒、パウロの、
「もしわが兄弟、わが骨肉のためならんには、我みずから呪われてキリストにすてらるるも亦ねがうところなり」
という悲壮な至情が、平和主義者賀川先生の心ともなった。
 
 賀川先生こそ、よきサマリヤ人の道を歩む隣人愛の闘士であり、平和の使徒である。

 私は一九五〇年に「賀川豊彦傅」を世に問い、ここにふたたび、別の角度から本書を書いた。もちろん、不備な点は多いが、それは今後さらに研究をすすめて、訂正したいと考えている。
 
 この度も鑓田研一氏に隈なく原稿を見ていただいた。それによって本書は一段の光彩をもつことができたと思う。

 また、長崎次郎氏、杉山健一郎氏の激励がどれほど力になったか知れない。心からの感謝をささげる次第である。

   一九五二年六月十二日
              イエスの友會間安使として放立つ前に
                                横 山 春 一




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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第172回:村島帰之著『賀川豊彦病中闘史』)

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「植物学者・牧野富太郎」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第172回


村島帰之著『賀川豊彦病中闘史

  
 村島氏のこの作品は大阪の「キリスト教文書伝道団・ともしび社」より、昭和26年8月に出版されました。村島氏についてはこれまでたびたび触れていますが、このとき村島氏は「学校法人平和学園の学園長で、同高等学校長でもありました。

 本書に綴られている「賀川伝」は、私にとって最も気に入った作品ですが、手元にあるものは、昭和27年の第2版です。本署には賀川の「序」と共に賀川夫妻の写真と「序」の元原稿も入っています。

 なお、昭和33年11月には第3版が出ていて、最初に賀川夫妻の写真が取り替えられています。

 ここでは、それらの写真と共に、賀川の「序」を取り出して置きます。




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 一生病気で苦しんだ私は、六十才を越えて、腎臓炎と心臓病に困難している。幼い頃阿波の田舎でマラリアと赤痢に毎年苦しめられた私は、十二才の時、中学佼の校医が、肺炎カタルと助膜がわるいから、休学するようにすすめてくれたが、卒業するまで押通した。だが、十七才の時、東京の学校で血啖をはくようになり、助膜炎が悪化した。十九才の時は、三河の豊橋の東八丁のキリスト教会で夏期傅道を手傅っていた時、遂に血と啖が気管支につまり、死の宣告を受けた。だが、不思議に、天父の癒しによって、その時は救われ、神戸の神学校に入学した。しかし、すぎ、少量ながら喀血するようになり、紳戸衛生病院に入院し、すぐそこから更に、明石の湊病院に、秋から冬まで約四ヵ月入院した。入院料がつづかないので、三河の国蒲郡府相村の漁夫の家を月一円で借りて自炊を始めた。そして「死線を越えて」を書き始めた。

 三河蒲郡府相村では約十ヵ月位もいたかと思う。少し決方に赴いたのでまた神戸神学校の一年生から始めた。今度は結核性痔瘻に苦しみ、京都大学猪子博士の手術を受け括約筋を一部切断した。之が一生、腹液の漏出となり、年を取ると共にいつも苦しんでいる。今度はまた鼻の蓄膿症の手術を兵庫県立病院で受け、これまた、大手術後血がとまらす、「死」の宣告を二度目に受けた。然し不思議に、最後の祈祷会を開いてくれた後に復活する元気をとりもどした。

 天に見放され無いことを知った私は、せめて、二十六、七才まで生きると有難いと思っていた。そして死ぬ前に神への御報謝として、貧しき者に仕えたいと、一九〇九年十二月二十四日、クリスマスの前夜、神戸葺合区新川の貧民窟に這入った。たえず午後になると三十八度近くの熱が出た。そして血粒もよく喉から出た。然しうち通した。そして、精神療法で決方に向った。その当事、九年十ヵ月菜食主義を守り、腹は一回も悪くした事はなかった。喀血していた間、牛乳と卵はとったが、肉も魚も食わなかった。蛋白質は主として豆腐と「油揚げ」でとった。

 二十六才の時、貧民窟で結婚し、大正二年(一九一四年)七月末、神戸を出航、アメリカに留学した。プリンストン大学在学中、菜食主義が持続出来ないので、やむを得ず肉食に変った。そして二年後シカゴ市に来て、また血痰が出だした。それで慌しく、日本へ帰る決意をしたが、旅費がない。ユタの沙漠で半年旅費を稼ぎ、日本に帰ったのは一九一七年四月であった。

 すぐまた貧民窟生活をはじめたが、不思議に、健康がよくなり、労働運動や農民運動をつづけた。

 だが、大正九年~十年の労働運動の盛んな時には、無理をしたために、痩せてしまい、また血痰も出たし、血の汗が出たことああった。そしてトラホームが悪化し、失明の恐怖が加わった。

 大正十二年九月一日、関東震災後は無理ばかりするために、それから二十八年、健康の善いという日は一日も無かった。震災救護に来て「土べた」の上に長く寝たことの冷え込みと、毎夜百七十四日間一日も休むことなしに、東京地方の精紳運動に、奔走したため、慢性腎臓炎と眼病が悪化した。遂に医者の注意で、本所の細民街から、武蔵野の松沢村に引越した。そのときオートバイが転覆し、一生脊椎病にかかることになった。そして右眼は、角膜離脱になった。それが不思議に平癒し、見えていた左眼の黒玉を電気で手術した所が傷になって、左眼の視力を失ってしまった。丹後の震災には、中耳炎に苦しみ、右耳が遠くなった。

 一九三一年アメリカ四キリスト教連盟の招待で渡米したが、大統領の個人保証で、トラホームで送還される代りに、医者と看護婦をつけて、アメリカの巡回講演を始めた。その時、腎臓が悪化し平田博士は私の血尿を見て驚き「寿命はもう五年しか持たぬ」と宣告した。しかしそれからもう二十年働いている。その後神の国運動の時一年間に九回も血痰を吐いたが、四年半の運動を継続した。

 戦時中に、栄養失調に苦しみ、桑の葉を食っていたが、長期にわたる下痢に苦しんだ。だが、不思議に戦後三年間、混乱に耐えつつ働いた。そして一九五〇年、まる一年間欧米で送ったが、あまり病気も重くならす、弱化する視力を気にしつつ戦った。合衆国七十万人に一日平均二~三回話をさせられた。日本に帰ると、すぐ、汽車にスチームが通っていないためにまた血尿が出るようになり、狭心症で四回倒れた。で、冬の間は、懐炉を脊に二つ腹に二つ入れて、全国の宗教運動にかけ廻った。夜は数回便所に行く。安眠の出来ない腎臓炎には、肺病以上に苦しむ。

 だが「我弱き時に、最も強し」と聖書に書いてある通り、私は自分を頼まないで、キリストの父に凡てまかせている。凡ては感謝である。生きていることも感謝、天父にありて生を後にして天国に行くことも感謝である。私は病気に對して不平は言わない。神よりの鞭として、感謝して之を受ける。「病中闘記」は私の感謝である。

 友人村島帰之氏も、病中闘記の人である。彼の雄渾な筆を以って、私の闘病記を綴られた事もまた感謝である。闘病の同志に精紳治療の一助とならば、村島氏に感謝すべきだと思う。

      一九五一・七・二
                         賀川豊彦
                                眠らざる東北の旅より帰りて




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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第171回:浅野晃著『贖(あがない)REDEMPTIONー賀川豊彦の小説化』)

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「ぶらり散歩:会下山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第171回


浅野 晃著
『贖(あがない)REDEMPTION―賀川豊彦の小説化


  
 浅野晃氏の標記の著作は、昭和27年5月に東光書房より出版されました。著者は1901年に生まれて1990年にお亡くなりになっていますが、東大法学部を卒業後、評論と詩をつくり、200冊ほどの作品があります。ホイットマンや岡倉天心の翻訳も行っています。

 ここでは、著者の「あとがき」と巻頭にいれられている下中弥三郎氏のことばを取り出して置きます。




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                「あがない」を推賞する


 賀川豊彦君の波瀾に富んだ生涯を著者浅野晃君が円熟した筆によって坦々たる叙述のうちに情熱をみなぎらしてなる。

 さすがに浅野君苦心の著作であると思って通読した。

 アメリカに旅行して帰った人たちが、アメリカにおける日本人の人気しらべに報告によると、賀川豊彦君の人気がトップをきっている。それにつぐ人気は野口英世である。それ以外の人のことは問題にされていない。

 私は、賀川君が神戸新川の貧民窟時代以来三十五年にわたって親交をつづけて来ているか、いつ会うても、ほがらかで、病の巣のような身体のもちぬしでありながら、元気一ぱいに、科学を語り、宗教を語り、人間を語る。
                      
 かつて、賀川君は『宇宙目的論』を書いていると語った。それを発表してはとすすめたが、まだ発表の域には達していないとのことであった。

 賀川君はいう、自分は科学に興味をもつ、だから神を信ずるにしても無稽の論は出来たい。科学的な分析と綜合を通じての実験的な決論を導き出さなければ発表しない、と。

 クリスチャンであり、プロテスタントであるには相違ないが、さればといって、カトリックをこきおろしたり、仏教をこきおろしたり、神社信仰をこきおろしたりするような狭量な無作法は絶対にやらない。何れの宗教にも宗教としての立場と「よさ」のあるものである、高く広い立場で神を見、神を信ずる賀川君にとっては立場がちがうからとて、徒らに他をののしるには、自らの体験が余りに広く高く深いのである。むろん、不義に対しては、社会悪に対しては寸毫もカシャクしない。悪に立向つては実につよい。そこに神人賀川の真面目がある。

 本書「あがない」は、日本ガンジー(アメリカ人やヨーロッパ人に言われる)賀川豊彦を語って余すところなしである。読む人、幾たびか、巻をおおうて涙をぬぐわずにいられない場面があるであろう。それほどにも本書は「感激」の書である。

    一九五二年四月廿八日
                                 下中弥三郎






                 あ  と  が  き

 賀川さんの顔は、私が社会運動に専念していた当時、何べんも見ていた当時。「死線を越えて」も愛読したものだ。その後久しく交渉がなかったが、敗戦後北海道の田舎にいて、風の便りに氏の消息を耳にし、氏の老躯を顧みぬ奮闘に深い感銘を受けた。

 昨年の暮れのこと、氏の門下である中山正男君から、物語風な伝記を書いてみないかとすすめられた時、すぐに承諾したのも、この現代の稀有な信念の人を、どこまで書けるかやってみたいと思ったからである。

 材料はみんな中山君が揃へてくれ、内容についても何かと示唆を与へてくれた。だからこの一篇は、徹頭徹尾中山君のおかげで出来たものと云ってよい。この機会に同君の厚意に対し、衷心感謝の意を表したい。

 小川清澄氏も原稿に目を通して下さった由で、感謝している。材料としては賀川さんの著書は勿論だが、横山春一氏、鑓田研一氏の伝記から幾多の恩恵を仰いだ。村島、小川両氏訳のタヌーデンの賀川伝もよいものであった。併せ記して感謝する次第である。なおこの一篇は大東亜戦争の始まる前で掴筆したか、その後の賀川さんの活動は、稿を改めて書くつもりでいる。

    昭和二十七年初夏

                                著者しるす

「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第170回:ウイリアム・アキスリング著・志村武訳『軛(くびき)を負いてーアメリカ人の見た賀川豊彦苦闘史』)

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「神戸・会下山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第170回


ウイリアム・アキスリング著:志村武訳
『軛(くびき)を負いてーいちアメリカ人の見た賀川豊彦苦闘史


  
 標記の翻訳書は、昭和24年3月に白亜社より出版されました。アキスリングについては、沢野正幸著『最初の名誉都民アキスリング博士』などでもよく知られていますが、本訳書の「日本語版序文」「改訂増補版への序文」、そして「まえがき」を取り出して置きます。

 訳者の志村武は、あの『青春の鈴木大拙』などを著した人ではないかと思いますが、巻末の「あとがき」も重要ですが、ここでは沢野氏の著書に収められているグラビアと、原書の表紙、アキスリングの「銘板」コピーなどを収めて置きます。




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               日本語版出版に際しての序文
                

 この賀川豊彦の傅記はフランス、ドイツ、オランダ、スカンヂナヴィア、トルコ、メキシコ、インド及び支那からの切たる要望の下に、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スカンジナヴィア語、トルコ語、スペイン語、インドの方言、支那語(但し縮少版)、の九ケ國の言語に翻訳、出版された。

 その他、英國に於て英國々民とその植民地の人々の為に出版されたブリティッシュ版のものもあり、これも廣く江湖の読者の支持を得てゐる。

 賀川が今日、世界的な人物であるといふことは、衆目の一致する所であり、彼は全世界の視聴を一身に集めてゐる。‘                  

 彼こそは、洋の東西を問はず、一市民としては最も著名な日本人であると云ふことが出来よう。そうして彼については、國内よりも海外に於て一層著名であるといふことが屡々云はれてゐる。若しもそれが真実であるならば、彼を日本国民にあらためて紹介し、彼が今日まで日本人全体の福祉厚生の為に、幾多の風雪を忍び、總ゆる難難辛苦に耐え、苦難と犠牲の一途を辿り、遂ひにイエス・クリストの旗を天空高く掲げるに至った、その逞ましき信仰の一生について述べることは、決して無意味な試みでないことを確信する。

     一九四八年十一月
                    在  東  京
                             ウイジアム・アキスリング




                改訂増補版への序文


 この本が一九三二年に始めて公けにされて以来、早くも十四ヶ年の年月をけみした。

 この十四ヶ年は、世界の為にも、賀川一個人の為にも、実に数奇極りない年月であった。

 その間、彼の精神はひたすら前進し続け、彼の哲學は人生の総ゆる領域と密接なる連関をもつに至り、彼の生活は常に目まぐるしく展開する活動的分野に於いて、激しい労働と共にいとなまれまた。                                  

 この為に、彼の傅記には改訂増補が必要となり、こゝに、一九三二年から太平洋戦勃発までの間を取扱った「怒濤はるかに越えて」と、「風雲を衝いて]という二つ新しい章を付け加へた次第である。

    一九四六年一月
                   ボ ス ト ン
                            W・ア キ ス リ ン グ





                 ま え が、き


 賀川豊彦の人生は、今なほ進展の一途を辿りつつある。彼の前途にはより豊かな、そしてより円熟せる人生が洋々としで横たわってゐる。従って、いま彼の傅記にペンを執ることは、早きに失すると云はねばならない。

 彼の全人生の物語を記録するといふ興味深い仕事は、やがては専問の研究家の手を通して永く後世に傅へられることであらう。
                 
 この熱烈なる精神の持主――神秘なる東洋の申し子とも云うべき彼のメツセージは、その偉大なる魂と変転する現実の奥底から湧き起こり、灼熟せる焔となって、冷淡と皮肉と閑暇とに満ちてゐる世界に真正皿から挑戦した。 
       {
 即ち彼こそは、二十世紀の舞台上に於いて預言者の聲をもって語る神の如き人間であ り、その英雄的なる生活の中に、あらゆる時代をとおして救済と創造の力を発揮した幾多の原理を実際に体現した偉大なる人物である。
                           
 彼の中には相反する二つの人間性が存在してゐる。その一つは、友人達の熱烈たる信仰によって神化され、理想化された賀川であり、他の一つは、輝かしい理想の為に全力を挙げて闘う一個の血の通った人間としての賀川である。

 著者は、彼の四十四年間にわたる人生と仕事について、不滅の物語を紹介することに今日まで、長い間努めて来た。彼のかくされた人生と、その精神の働きをあらはす為には、数多なる著作の奥底に飛び込み、彼自身の言葉を織り込むことに努力した。

 各章の前後に對照的にのせてある短文と本文中にあらわれる引用文とは、賀川が眼を病んだ時、東京で書いた瞑想録の中から抜粋したものである。この書物にある引用文は、すべて日本で刊行された賀川の著書か、演説を英訳したものである。これらの資料の英訳は本書が始めてでる。

 「光は東方より」という東洋の諺があるが、社會的な連帯責任に對して明確なる意識をもつ西洋が渇仰してゐる光は、すでに東洋に於いては燃え上ってゐる。もしもこの書物が澄明となって、光を酉方に運ぶ役割を演するならば、著者の幸ひはこれに過ぎない。
             ’
 著者は、個入的な綴ぢ込みや、他の有益で必要な資料を整へるに当たって、有力な御協力を賜った賀川氏や、最初の草稿を読み、貴い暗示を輿へてくれたエデイナ・リッスリー・グレジット嬢や、その速記術で、熱心に、暖かい心をもって援助して下さったエデイス・E・・ボツト嬢に對し、深く感謝の意を表する次第である。最後に、私の妻が或いはよき相談相手として、或いは友情ある批判者として、はかりしれぬ助力を惜しまなかったことをここに記して置く。

    一九三二年一月
                     日本・東京
                            ウイリアム・アキスリング




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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第169回:A・C・クヌーテン著:村島帰之・小川清澄共訳『解放の預言者―日本社会史より見た賀川豊彦の研究』)

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「梅雨の晴れ間のぶらり散歩」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第169回


A・C・クヌーテン著:村島帰之・小川清澄共訳
『解放の預言者―日本社会史より見た賀川豊彦の研究


  
 標記の翻訳書は、昭和24年2月に警醒社書店より出版されました。本書の成り立ちと翻訳の経緯については、巻頭にある著者の「序文」と巻末の「訳者の言葉」を、以下に取り出しておきますので、一読いただけばと思います。

 この翻訳は、賀川の還暦祝いと献身40年の記念も兼ねてすすめられたようです。




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             A・C・クヌーテン著『解放の預言者』

                    序 文


 日本の社會的・経済的・宗教的生活の趨勢に開する最初の研究に於いて私の意図した所は、『日本國民の社會的・倫理的構造の諸要素を分析するため、賀川豊彦の生涯、事業及び彼の基督教哲學を検討する』にあった。この事は表明せられた諸思想を実証せんとする多くの資料のため可なり尨大なものとなった著作之の中になし遂げられたのであった。

 本書に於いては、日本の社會的・倫理的構造の発達を示す多くの歴史上の詳細な点は省略されている。それは、日本人の生活に於いて躍動しつつも屡々熾裂に相反撃してゐる諸潮流の記録をモツト読み易いものとするためであった。これらの潮流は、日本の歴史の中に、昔も今も変ることなく激しいものである。

 翻訳者村島帰之、小川清澄両氏は、その見事な忠実な翻訳によって、本研究の焦点たる賀川豊彦の人格を浮き出させられたが、その結果、その背景となる學的資料を制限されたのは已むを得ざる所であった。

 この短い序文に於いて、封建時代を通じて日本を形成し、明治維新と共に始った近代へと導いて来た日本の社會的・倫理的影響たる五大潮流に就いて、注意を喚起して置くことは適当なことと思ぽれる。これ等は、謂はば、日本に於ける賀川豊彦と幾百萬の人々の生活の中に演出されて来た劇の背景をなすものである。五大潮流と言うのは次の通りである。

 1 第一は、日本人生活に於ける自然的な固有な力としての神道の宗教的・倫理的基礎であって、この基盤の上に、またその周通に、他の多くの勢力が貢献したのであった。氏族組織に於ける単純な日本人の家庭生活、即ち『氏の神』を持った『氏』や『氏神』の発達は、凡ゆる忠誠と責任を件ふ近代の家族國家を齎したのである。
     
 2 登展しゆく日本の生活の初期に入って来た儒教の倫理哲學は、祖先崇拝と社會機構とに影響する所があり、典型的な忠誠の標本を作り出したが、國民の大多数たる農民、労働者、主婦、青年たちに関する所ぱ余りなかった。

 3 これ等の倫理哲學に、佛教はその宗教的儀式主義と華飾と共に、或る種の形而上的概念を附け加えたが、民衆の日毎の生存競争に於ける状態の改善に資ずる所は殆どなかった。

 4 イヱス會修道士達によって基督教傅道が日本に開始されてから、基督数的愛が強調されると共に、社會観念に對する攻撃が始めてなされたのであるが、これは宗教的政治的勢力として、日本人の生活より追放せられてしまった。追放することにより、之を全く抹殺してしまったと思はれたが、この時代に説かれ生かされた神の言は、日本に於いて決して空しくならす、または影響なくはなかった証跡が現存するのである。

 5 第五の大なる潮流、即ち発展しゆく社會的倫理的運動の中に根拠を持つ所の騎士道は、上述の諸潮流の一つ若くはその幾つかのものに属するものと見倣すが至当かも知れない。然し、それが二つの流れ、即ち一つは侍の騎士道即ち武士道、他は侠客の騎士道即ち侠客道(軍事的騎士道と社會的騎士道)として流れて来たのであるから、これは独立した一個の渦巻く流れと見倣すべきである。明治維新や近代日本の活劇が表面化して来るのはこれ等の二つの騎士道の葛藤に於いてであった。

 暫くして、荒涼たる戦の中から生れ出づる近代日本は、新しい未来に直面するのであるが、そこにはこれ等凡ての潮流が強力熾裂に相互に作用し合って居り、更に現下の社會生活、経済行為、宗教信仰の領域に於ける新しい潮流が加っている。そして猛り狂ふこれ等の諸勢力は、日本の凡ての男、女、小児童の生活と性格に影響を輿えているのである。

 個々人に對する解決策は、細密な点に於いては夫々異るであろう。然し結局、基本的問題は、日本人各自が一個の人格となるか、或は機械の一つの歯車となるか、神の指導の下に霊的の力としての完成を追求する尊厳なる人格となるか、若くは粗野な唯物論の夢幻的目標を求めてゆく平凡な物品となり終わるか、その何れかであろう。

 賀川豊彦は若くしてこの挑戦に応じたのであった。近代日本の渦巻の唯中に於ける彼の奮戦は、正に新日本の建設に役立つ典型と解決策とを示すものである。翻訳者は、この研究の再叙述により、彼のこの連闘の物語をこの時代に我々に輿えて呉れたのである。その労に對して私は衷心より個人的謝意を表したいと思う。そして訳者と共に、これがこの様な時代の日本の青年諸君に役立って、青年諸君が人生最高の目的・父なる神、イエス・キリストによる解放――を自覚せんことを心から所るものである。

   一九四九年一月
                            アーサー・シー・クヌータン






                    訳者の言葉


 現在もそうであるが、戦時中もアメリカにおける日本研究は、われわれの想像以上に盛んだったらしく、日本に関する研究書というと争って読まれたという。その中に交って、戦前にも増して売れた一日本人の傅記があった。そしてこの日本人の傅記は、営時アメリカの敵國人伝記中のベスト・セラーであったともいう。

 そればかりではない。戦時中、一人のアメリカ人牧師が、一人の一日本人の研究をこつこつとつづけて、これをアメリカの大學に提出し、見事に哲學博士(Ph.D)を獲得したというから驚くではないか。

 戦時中よく売れた日本人傅記の主人公も、また博士論文の主題となった日本人というのも、共に賀川豊彦氏であっ。アメリカにおける賀川氏の人気が、戦争中も戦前に劣らぬもののあったことが判る。尤も賀川伝や賀川研究書がアメリカで出版されたのは今回が初めてではない、プリンストン大學での賀川氏の同窓バン・バーレン(Van Barlen)が”Kagawa,the Christian”を出し、またヘレン・タツピング嬢(Helen Topping)が“ lntroduction Kagawa “というのを出版し、アメリカ以外でも三四種類出ている。また賀川氏の傅記だけで一巻としているのではないが、コロンピア大學教授ベーカー(Baker)の近著Darkness of thc Sun(1948)はその一章を割愛して戦時中の賀川氏の行動に詳細の論評を加えているが、しかし前記の賀川傅と博士論文は、その規模の大さにおいても研究の深さにおいても圧倒的である。

 伝記の方の標題は、“Kagawa” ニューヨークのハーバー・ブラザースの出版、著者はアキスリング(Axling)というバプテスト教会の宣教師である。この著は一九三三年に初版を出したが、戦争後二章を追加し一九四六年改訂増補版を出した。新版は表紙に戦前の元気な賀川氏の写真と戦後の樵悴した賀川氏の写真を並べて出してあるのもアメリカ人好みらしく、博士論文の筆者はクヌーテン(Kunten)といいシカゴの産、本年五十二歳。一九二〇~三五年と一九三七~四一年の前後二十年、ルーテル教會の宣教師として日本に滞在し、戦争勃発と共に帰米、戦時中(一九四一~四四年)は太平洋沿岸で教會を牧し、在留日本人のためにも善く面倒を見てくれた。そして牧會の傍ら南加州大學に席を置き學位請求諭文として“ Toyohiko Kagawa and modern tendencies in Japan”を執筆し、一九四六年見事に Ph.Dを獲得し、一昨年一九四六年再び日本に来朝、目下日本神學校教授の任にある人。
                              
 論文はタイプで三百頁を越え、引照文献にあげられた賀川氏の著書百十三冊というから、賀川氏の主なる著書は殆ど渉猟した訳である。日本人でもこれだけ多く賀川氏の著書に目
を通じた者は恐らくないであろう。

 さて、論文の内容であるが、クヌーテン氏はこの論文の目的を次のように述べている。

 本研究は日本國家の社會機構と現代日本の社会、経済、宗教生活における諸要素を分析することを目的として、賀川豊彦の生活、事業、基督教哲學を研究するにあると。

 つまり、日本人賀川豊彦という一個の人格を通し、彼の生涯と事業を検討することによ って、日本における社會経済宗教の諸動向を見ようというのである。これがため、次のよ うな順序で賀川豊彦が如何なる人物であるかを研究しているのである。

 1 非基督教的環境に育った彼が基督教に触れたことにより、彼の人生観が如何に変わって行ったか、また  2 日本になお陋乎として残滓をとゞめていた封建的遺産と如何に戦い、また如何にこれを改造するに役立ったか、そして 3 彼の基督教としての行き方が日本の将来に如何なる意味を持つか。

 クヌーテン氏は賀川氏を検討するに先立ち最初の数章を近世日本社會史の研究に割いて、これはわれわれ日本人には別段珍らしいことはないが、ただ興味を惹くことは、被圧迫階級擁護のために、圧迫階級特に武士階級に對抗して侠客道が発生したと述べ、これが賀川氏の血液の中に黒々として傅わっているとし、賀川氏の犠牲と奉仕の精神およぴ後年の華々しい社會活動はこれに胚胎している――としている一事である。

 北村透谷は日本の封建思想は市井の間に二つの形をとって現れた、一つは艶、もう一つは侠――といっていたが、クヌーテン氏は後者を指摘し、これを賀川氏の人生観と結びつけている、この点など面白いと思う。
                 
 明治四十二年のクリスマスの前夜、二十一歳の侠客的神學生賀川は神戸貧民窟の中へ自ら車を引いて引越して行った。そこで彼は愛の飢饉と貧困の諸相に泣き、深刻な人間苦と社會苦の存在を嘆かしめられた。そして基督の救いは単なる教え、Teachingにあるのではなく、基督を実践する道way にあるということを悟った。――という。しかし賀川氏は「基督道」の実践のために、傅道と同時に救貧事業を起したが、それも砂上に楼閣を築くに過ぎないことを、ほどなく悟った。貧之をなくすために無産者を組織せねぼならぬ――かくて彼は労働蓮動に突進して行った――と見る。

 また、精紳運動には社會運動と兄弟愛運動の二面のあることを多くの教會の人々は忘れているが、賀川氏は克くこの両面を活かして、日本における社會秩序建設の一大推進力とすることを得た――とする。さらに、賀川氏は、日本を救う道は社會連帯の精紳を基盤とし、互助犠牲による外はない。つまり、十字架意識に目覚め、イエスの贖罪愛を現代に実践する事こそ日本を救う唯一の道だ――とした。彼のスラムにおける働き、労働運動や農民運動の陣頭に立つのも、協同組合に精進するのもみな贖罪愛の実践の一つ一つに外ならなかった――とクヌーテン氏は見ている。

 だが、オーソドックスの人々はこれを外道だとし、そして「賀川に神學ありや」と嘲る。これに對し氏は賀川に神學はオーソドックスの人々の如く偏侠でないだけである、という。

 基督教の分野で賀川氏に對する避難のあるように、社会運動の陣営でも氏は左右両翼から批難をうけた。左方では唯物論と暴力には真っ向から反對し、右方では資本主義と保守思想に反對する彼には当然のことだった。だが彼は毅然として軍國主義と階級闘争に反對し、イエスの無抵抗愛を堅持して、トインビーやキングスレーと同じ行き方をしつづけて来たとある。

 彼は教會と社會を結びつけ、精神運動と社會運動を結びつけ、さらにイエスの贖罪愛まで持って行こうとして彼はそのため自ら教派も作らす、各教會の傅道を扶け神の國運動の推進力たることを期し、一方、政府と国民に呼ぴかけて愛と互助による日本の再建に精励し、また無戦世界の実現を期して、戦時中もその説を曲げすに来た。そのため昭和十五年には小川清澄――訳者の一人――と共に非戦論者として憲兵隊に拉致され、約一ヶ月囹圄の裡にあった。この事を当時渡米していたクヌーテン氏は新聞の東京電報で知って、賀川の健在を知ったといっている。終戦直前、賀川氏の対米放送が東亜共栄圏を是認するものだとして非難のあったに對しても、ク氏は、賀川氏の平和主義に微動もなかった事を述べて毛をふいて傷を求める論者をたしなめている。

 クヌーテン氏のいわんとするところは、要するに賀川氏が日本の社会維新の動揺期に生れ、基督に對する献身と貧民窟及び社會運動における涙ぐましき体験を通じて愛と犠牲を基盤とする哲學を打ち建て、爾来約四十年、保守過激の両思想に挟撃されつつも、日本の再建が軍國主義及び階級闘争によって得られず、愛と互助によって得られるものであることを力謝して絡始変わらざりしことを指摘し、今後もイエスの贖罪愛を日本的に消化して日本の社會秩序の推進に努めて行くであろうことを期待し、「最近日本の諸動向の検討」の結びとしているのである。

 クヌーテン氏の賀川研究は賀川氏の全貌を活寫しているというよは政、よくその精神を把握しているといいたい。猟師は山を見ずという。日本人は却って日本人を知らない。外國人が却って日本人を知悉する。賀川氏の知己は今日においては日本よりも、むしろ海外にあるといえよう。クヌーテン氏はその一人だ。日本人は多分、賀川氏が棺を覆うて後、はじめて賀川氏の真価に気づくのであろう。

 本年は賀川氏の生誕六十年、いわゆる還暦である。また氏が貧民窟に挺身して以来、四十年に当たる。われわれ同志はこれを祝いたいと願ったが、賀川氏はこれを斥けて「祝ってほしくない。それよりもみんなのたましいをほしい」と諧謔した。そこでわれわれ両人はこのクヌーテン博士の研究を翻訳し、たましいに添えて、氏にささげようと考えついた。幸いクヌーテン博士は快く翻訳を許諾され、小川は賀川氏の事業財團雲柱社及び國際平和協會の専務理事としての用務の、また村島は乎和學園の経営と早大における講義の余暇を盗んで、こつこつと翻訳の筆を進めたが、博士は常に訳者に對し奨励と助言を惜しまれなかったのみならず、原文が前記の如き長篇で、訳書にはその全部を収録することが困難となり、博士の苦心になる冒頭の日本社會史の記述と、周到綿密なる各章の引照をカットするのやむなきに至ったに對しても唯々諾々凡てをわれわれの意に委せられ、また本書がアメリカにおいて出版の予定になっていたにも拘らず、これに先んじてタイプの論文原本から直ちに翻訳することを許るされた博士の寛容と好意に對しては只だ感謝のほかはない。

 なお本書の翻訳は前半を村鳥が、後牛は小川が担当したが、中途にして両人とも健康を   
害したため、村島健一及び出本賀代手嬢の助力を得たことと、校正その他についても同様の理由で出版元の福永孝一、會田七郎両氏及び高橋碞、黒田四郎両氏を煩した。記して感謝の意を表する。

    一九四八年十一月二十日

                          訳     者



「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第168回:鑓田研一著『伝記小説・賀川豊彦』)

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賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第168回


鑓田研一著『伝記小説・賀川豊彦

  
 前回は横山春一氏による『賀川豊彦伝』を取り出しましたが、ここからは、賀川豊彦に関する伝記のような書籍を並べておきたいと思います。

 まず最初は、標記のように鑓田研一氏(1892~1969)が昭和9年12月に不二屋書店より出版した『伝記小説・賀川豊彦』(575頁)です。鑓田氏はこの後、『石川啄木』『山室軍平』(いずれも昭和11年)『徳冨蘆花』(昭和12年)、そして『島崎藤村』(昭和13年)などを著わしています。

 鑓田氏と賀川との関係などは、すでに賀川の作品(『宗教読本』『人生読本』など)を刊行して、それを取り出した折りに触れていますので、ここでは、本書の「序」を書いた安部磯雄の文章と、鑓田氏が本書とほぼ同時に、同じ出版社から出した『基督教と歎異鈔』の「序」を賀川が寄せているので、それを取り出して置きます。




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              鑓田研一著『伝記小説・賀川豊彦』

                     

 古来、大宗教家であって文學に傑出した人が少なくない。然し、賀川氏の如く、宗敬と文學を両手に握り、同時に社會事業の経営に敏腕を有する者は、極めて稀ではないかと考へられる。殊に、蒲柳の質であり、視力に不自由を感する賀川氏が、この三大資格を具備してゐるといふことは、全く一大驚異であると言はなければならぬ。

 私は、昨年京城に旅行する途中、関釜聯絡船内で一米國人に面會したが、彼は少年時代の賀川氏に基督教を傅へた宣教師であった。彼の語ったところによって、賀川氏が如何に宗致家としてのスタートを切ったかを想像することが出来た。賀川氏は宗教を単に自己修養の方便とは考へなかった。人類愛の教訓を實現するために、彼は紳戸の貧民窟に身を投じた。彼はかうして、文學者たり社會事業家たる前に、先づ熱烈な宗教家となった。彼は筆の人であると同時に、口の人、實行の人である。若し我國に世界的人物があるとすれば、それは救世軍の山室軍平氏と『死線を越えて』の賀川豊彦氏であらう。

 宗教と文學とは、多くの場合両立し得るけれども、この二者が事務的手腕と並立することは、全く稀有のことである。然し、賀川氏の場合には、これが立派に澄明されてゐる。現在の消費組合はどうか。医療組合はどうか。賀川氏は實にこの方面でも鮮な手腕を示してゐる。初めて賀川氏に會って對話する人は、賀川氏を単に才子肌の人と見るかも知れないが、私は最近賀川氏が鐡石の如き意志の人であることを知った。私は、賀川氏指導の下にある大學消費組合聯盟の役員であったが、或る事情のため憤慨して役員を辞した。その後、賀川氏に面會した時、氏はかう言ったものである。
『僕は一度喰ひついたたら、どんなことがあっても離しません。』
賀川氏が社会事業家としても成功したのは、この意気かあるためである。

 かうした意志の人賀川豊彦氏の生涯を描いた傅記小説が、今度いよいよ世に出ることは、実に喜ばしいことと思ふ。作者鑓田研一氏の才筆は、主人公の頭脳と心臓にまで迫ってゐる。

 私は、この小説を、近来の快著として人々に薦めたい。

    昭和九年十二月十二日
                            安  部  磯  雄





         鑓田研一著『基督教と歎異鈔』への賀川豊彦の序文

                      

 内務省の統計に依ると、今年は、一週間に一つぐらゐの割合で新宗教が製造されたといふ。

 唯物論や暴力主義が一世を風廳した後に、どこからともなく宗教復興の聲が起って、それが時代の流行となってしまふのは、歴史的公式の一つである。我々の立場から見て、喜ばしい事には違いないが、どうも、昨今の風潮は、少し常軌を逸してゐると思ふ。

 理智にも情操にも富んだ、真に健全な人々は、迷信的なものを厭がるが、さういふ人々の気持にぴったり合ふのは、基督教を除けば、佛教である。そして、佛教諸派の中で一番基督教に近いのは、やはり、親鸞の起した浄土真宗である。

 真宗のどこに力があるか? それは他力本願の信心一点張りでゆかうといふところにある。

 彼等真宗の人たちは、とんな悪人でも、必ず阿弥陀によって救はれると信じてゐる。地方へ行くと、数百年来、この信仰を持っていて、彼等は、自分が餓死しても本山に寄附したいと考へてゐる。

 これは絶對帰依の境地であって、法然、親鸞を経て完成されたものである。真宗が基督教と一致するのは、この点である。そしてかういふ美しい他力宗教の極致が、親鸞の弟子唯圓が先師の言葉をそのまま傅へたといふ歎異鈔に描かれている。そこには親鸞ならでは見られぬ剛健な気魄が溢れてゐる。

 しかし、悲しいことには、この宗教を奉ずると称する者の中から、沢山女郎屋が出た。

 これは女郎屋その人が悪いからであらうか? それとも、そんな人が出るのは、真宗のどこかに欠陥があるからだらうか?

 私の友人鑓田研一氏は、最も巌正な立場から、歎異鈔を研究した。そしてその研究の結果が、『基督教と歎異鈔』となってあらはれたのである。

 私は、傅統的な宗教的雰囲気の中に育った開係から、歎異鈔も早くから読んで、感心するところには感心したのだが、根本的な点ではどうしても首肯できなかった。それで私は基督教に這入ったのである。

 私は、基督教側の人は勿論のこと、佛教側の人にも、鑓田氏のこの書を是非読んでいただきたいと思ふ。

    一九三四年十二月三日
                                賀 川 豊 彦




                 は し が き

 今ここで、基督教と、親鸞の宗教、即ち浄土真宗との全体的比較をすることは出来ない。私はただ『歎異鈔』に對して、基督教の精神と比較しながら、巌正な批判を加へるに過ぎない。しかし若し、『歎異鈔』が、親鸞の宗教の真髄を傅へたもの、そして梅原真隆氏などの言ふやうに、『愛読書といふよりは、もっと深刻な感じを与へてくれる聖典』、失ふことの出来ない『永遠の書』、見捨てることの出来たい『生命の書』、『いちばん度数おほくくりかへして拝読し、もっとも深いこころもちになってひもとき、ひさしく涙ながらに魂をうちこんで見つめる』ことの出来る書であるならば、この書を選び来っただけでも、基督数と親鸞の宗教との、全体的ではなくとも根本的な比較考量をすることは出来るといふものであらう。

 若し、私が、浄土真宗に對して少しでも自分のもの足りなさを表白するとすれば、それは決して頑迷な宗派心からではない。それは私自身の純粋な價値判断からである。それは全く私が基督教そのものに對してさへ取ってゐる態度と同じである。

 何物にも依存したい唯一不二の自己を尊重して、それを生かさうとし、それを生かしてくれるものなら、初めて自分以外のものをでも肯定する――そこに現代人の生活熊度と生活意識があるのである。

 私は、さういふ生活態度と生活意識とをもって、基督教の真髄を訣り出し、同時に、浄土真宗を批判しようとしてゐるのである。

 勿論、一口に基督教と云っても、何を基督教とすべきかは、大きな問題である。

 トルストイは、孟子が孔子を誤ったと同じやうに、パウロはイエスを誤ったと云った。有島武郎氏は、『イエスは二度十字架にかけられた。一度はユダヤ人に依って、二度目はパウロに依って。一度目の時、イエスは昇天した。二度目の時には地にまで踏み躙られた』と云った。

 現代の基督教研究者や神学者や牧師は、イエスとパウロとの宗教的相異に對して、少し無頓着過ぎるやうである。

 私は、この書で、かうした問題にも触れるつもりである。

                                     著   者

「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第167回:横山春一著『賀川豊彦伝』)

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賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第167回


横山春一著『賀川豊彦伝

  
 賀川豊彦の伝記的な著作は、賀川の生前にいくつも出版されていますが、特に標記の横山春一氏による『賀川豊彦伝』は、最初に昭和25年8月に新約書房より482頁の上製版として刊行されました。

 手元にその版がありますが、賀川の写真と巻頭には、齋藤潔氏の「序にかへて」と横山氏の「自序」(このふたつは今回取り出して置きます)があり、賀川豊彦のサイン(「死線を越えて我は行く 賀川豊彦 1951・1・22」)があります。

 この『賀川豊彦伝』は翌年(昭和26年)2月には、キリスト新聞社よりいくらかの補正を加えて出版されました。そして本書は、昭和34年10月20日、賀川豊彦の生前ですが、警醒社より箱入りの上製本として、新たに写真や索引も付けて「増訂版」として刊行されました。

 個人的なことですが、賀川豊彦生誕百年の時に『賀川豊彦と現代』を書き下ろした折りに、横山春一氏ご夫妻のお招きをいただき、一度だけご自宅でしたしくお話を聞かせていただいたことがあります。私にとっては、あとで取り出しておく予定ですが、横山さんの著書『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』が、賀川に関する初めての著作でしたので、横山氏にはご恩があるのです。




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                   序にかへて

               生命存在の像―賀川豊彦氏をうたふ


 賀川豊彦よ
哭きゆく鶴よ 歌ひつつゆく雁(かりがね)よ
島々の夕栄えを忘れぬ燕(つばくらめ)よ
風の中の蘆よ さびしい舟よ 雪の降る中にみのる果樹園よ

 賀川豊彦よ
真昼の天よ 正午の太陽(ひ)よ そして月明の魂よ
泉のそばの花苑よ 真紅の詩よ
蒼い湖よ 血汐を噴く珊瑚樹よ
「始めに歌ありき 行為(わざ)ありき」 賀川豊彦の創生記はかくで始まる

 生命の中から生れたものは 生命的ならざるを得ない
彼の心は息(やす)まない 彼の手も停止しない 隣人の涙へ差出される心
 隣人の苦しみへ伸べられる手
そのための彼の心は常に腫れ 彼の手は燃えてゐる

 彼はよく泣く 男泣きだ 雄々しい涙だ 涙は紛々としで花と散る
なみだの花吹雪のなかに彼はぢっと耐へる
(天界では天使が祷ってゐる 清々しい音色の鐘を鳴らしてゐる)

 星が輝く 日が照る 魚介が躍る 潮が流れる 月が渡る
花が開き花が落つ 風が吹く 雨が降る 雲がとぶ 蟲が這ひ山肌が笑ふ
かくて「あ行」から「わ行]までの 賀川豊彦の索引が活気を帯び始める
森羅萬象が彼のために自由自在に智慧の 市場を開く
百千萬の道が 繚乱たる花叢群落のごとく その首(こうべ)の上に
感情のイルミネーションを縫ふで 知性の強い光をふりまく

 彼は愛の翼をもって地球から飛び上がる
天空は彼の第二の散策の公園である
夜な夜な銀河の岸へ立って乳白の水に口そそぐ
火星の印で宇宙に懸かる虹のやうな詩の行線を高らかに読む
金星の家で彼は地上で失った想像を発見するのだ
北斗七星の燭台の裸火は彼を美しい郷愁へ誘(いざな)ふ

 彼の心は生の歓喜に帆船になる
天地の事々物々の諸々の名の上へ乗って奔る
数學の本に詩の花が咲いて星々の果實が美事に熟した
愛の色彩が すべての苦しみと涙と悲しみをよろこびの色調に染め出す
痛悩の鐡鎖が いつしか楽しい歌の環(たまき)となって溶ける

彼は無限生命の化身だ 萬華鏡の幻燈だ その転身のいそがしさ
園丁になる 天文學者になる 農夫になる 船長になる 技師になる 
土木者になる 坑夫になる
漁夫になる 建築家になる 地質学者になる 医師になる 発明家になる 
歴史家になる 植物と昆虫學者になる 画家になる 演出家になる――
それから琴になる 鼓になる 風になる 水になる 雲になる 波濤になる
 山になる 草になる 木になる 道路になるのだ――
 
 彼はゆく けふも彼はゆくよ
雲の柱をしたひつつ
波の上を 丘を 峠を 尾根を 雪の上を 砂地を 沙漠を 牧場を
地平線の霞む彼方を 水平線のとけ入るあなたを
彼はゆく どこまでも
その足跡の黄金色は天界の住家へしるされてゐる 彼はゆく 
けふも明日(あす)も 明後日(あさって)も
いっも あの鋼鐡のやうな顔を 正面へむけて
鷲のやうに 疾風のやうに

                                   齋藤 潔






                     自 序


 先生は荒行をいとはない修道者です。書斎と三等列車と講壇とはその道場、祈祷と瞑想は絶對者との對話です。その生涯の基調となってゐるのは一巻の聖書です。それによって、全我を賭けた精神史が開拓され、社会悪への挑戦が展開されました。

 アッシジのフランシスとジョン・ウェスレーとの遺鉢をついで、とこしへに絶えることなきイエスの愛の福音を、あまねく世界にのべつたへ、ことにまだ福音のつたへられない山間僻土に、礎石をおくことに努力されました。

 この修道者は、雲とともに行き、水とともに流れる心の奥に、たくましい贖罪愛と同時に、鋭い文明批評の刄をそなへてゐます。そこにはジョン・ラスキンとアプラハム・リンカーンの影響が多分に見出されます。それ故、修道者ではあっでも詩と科學を愛する第一級の近代人ともいへるのです。

 先生は一種の泣き虫です。雷のやうに怒ることもあります。しかしそれは愛するが故の最微者(いとちいさきもの)への奉仕です。

 先生の雷ははげしいものですが、あの清純無私の怒りこそ、起死回生の原動力でもあります。虫と語りあひ、雲とともに歌ふ先生は、人の悲しみに泣き、人の貧しさに最後の一枚の衣をもぬいでしまひます。不治の眼病は、泣き虫の故なのです。その涙からあの香はしい多くの散文詩が生れ、各種の社会事業、労働運動、協同組合、立体農業、農民福音學校などが生れできたのです。

 先生は己か語らず、また過去を語らぬ人です。後方にあるものを忘れ、前方のものに向っで淮むことこそ、先生の喜びであります。時には誤解され無理解な批判が寄せられたことがないでもありません。先生の思想と業績には、異國の匂ひがすると言ふ人もありますが、幼い日に阿波の國でみた、編笠に「同行二人」の文字を染めた巡礼を慕ふ心は年とともに深められてゆくやうです。

 私のこの著書では、潮騒のはなやかさに眼をうばはれないやうにつとめ、百尺の地下にひそむ水の心をもとめました。そのために十年の歳月を費してきましたが、私の筆は、泉の深さまではとどきかねました。

 先生の苦悩の日には、私の筆もにぶり、先生が憐憫の情をおさへ得ないで、床を蹴って起きあがる日には、私の心も躍りました。傅記作者の根本的な心構へをわきまへないわけではありませんが、敬愛する先生の感情が、その時その時の私の心をとらへてしまふのを、どうすることも出来ませんでした。

 私があやまりなく先生の姿を抽きだすことができ、これによって先生を正しく識る人がふえるならば、どれほどの喜びでせう。

 これを書きあげるについでは、多くの人のお世話になりました。終戦直後、ともに筆をとることを約束した齋藤潔氏の姿は、今は地上になく、ただ序にかへた詩が、私の卓上にのこってゐるばかりです。また村島帰之氏と鑓田研一氏のお力添へも忘れることができません。

 とりわけ、鑓田氏は全ページにわたって親しく斧鉞の労をとって、私の筆を生かしてくれました。また中村蔵人氏夫妻は、上梓に際して、煩瑣をもいとはず、友情をそそいでくれました。ここに特記して謝意を表する次第であります。

    昭和二十五年七月十五日
                         武蔵野にて
                                 横  山  春   一




「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第166回:明治学院大学基督教学生会編『Kagawaー二十世紀の開拓者』)

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「賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第166回


明治学院大学基督教学生会編
『KAGAWA―二十世紀の開拓者』


  
 前回取り上げた著作と同様に、賀川の没年の年末に、明治学院大学基督教学生会編『KAGAWA―二十世紀の開拓者』が、教文館より出版されました。

 これには、都留、鑓田、黒田、村田、遊佐、村島、杉山、木村、木立、小塩、横山、タッピングの12名の諸氏の寄稿があり、これも重要な著作のひとつです。

 巻末には「賀川豊彦の著書」「賀川豊彦年譜」が収められています。ここではふたつの「序」のみ取り出して置きます。

 重要な写真も満載で、大変行き届いた編集がなされて、広く普及されて版も重ねた作品です。ここでは、最初の4頁までのスキャンと、そのあとに「西坂保治・吉田源治郎・金田弘義」3氏連名の「はじめに」を取り出して置きます。



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 賀川先生に満ち溢れたキリストの愛が私達を捕えました。貧しき者の為に自らの衣を脱ぎ、悩める魂の為に涙をもって十字架の愛を説いた先生の力が私たちにこの出版を計画させたのです。

 先生は、神の前に跪き祈りの中から神秘な熱愛の力を汲みとる敬虔なクリスチャンであると同時に、人間の理性を最大に利用した科学者でもありました。先生はその熱愛と知性とによって数多くの分野において開拓者となりました。先生の活動は伝道はもちろん、労働運動、農民運動、協同組合運動、平和運動、社会事業等に広く及んでいます。

 先生はその広い活動分野において人類に一つのことを教えようとしていたように思います。それは「生きる工夫」です。「如何にして人類は愛しあって生きることができるか」という課題迫求は、先生のすべての事業の誕生の原因であったように思われます。故に先生の事業は複雑多岐であると同時に単一目的的です。

 先生の数多くの事業と、その単一目的性を理解するためには、先生の多方面での同労の方々にペンを執っていただくのが最良の方法と思いました。幸い十二人の方が私達の願望に応えて下さいました。十二本のペンによって先生の人格、思想、事業が描き出されました。

 本書ができるまでには多くの方々のお世話になりました。北川信芳氏は出版の企画その他あらゆる点て私達をお世話下さいました。横山春一氏は編集面において、未熟な私達を親切に御指導下さり、又種々の資料を提供して下さいました。明治学院では園部不二夫教授、若林竜失教授、村上和男助教授をはじめ多くの方々のお世話になりました。高橋源次学長の御激励も忘れることができません。学生自治会、ラマート文庫、生活協同組合からはあたたかい御援助を頂きました。叉本書の出版の為に陰でお祈り下さった多くの方々のあることを憶え、心から感謝致します。

 最後に本書の出版でお世話になった教文館社長武藤富男氏、同出版部三好昭太郎氏に衷心からの感謝を捧げます。

   一九六〇年十一月
                           明治学院大学基且教学生会





                     


 賀川先生の伝記は、アメリカでは何種類も書かれましたが、日本では横山春一氏のものだけでした。「百三人の賀川伝」は賀川先生の御病気中に私が編集し、その召天後に出版したのですが、これが日本における第二の賀川伝です。ところが本年秋、明治学院大学基督教学生会の学生諸君が、十二人の方々に原稿執筆を依頼し、十二の観点から賀川先生の生涯を書くという企画を私のところに持ってきましたので、私はこれに賛意を表わし、出版を引き受けました。

 それは第一に、学生諸君が、明治学院大学の先輩である賀川先生の伝記編集を計画し、実行に移すということが、この上もなく尊い仕事であると感じたからであり、第二に、十二人の執筆者が、賀川先生と親しい交わりをもち、またその事業を助けた方々であり、賀川先生の生涯を書くのに最もふさわしい方々であると思ったからです。

 「百三人の賀川伝」は、編者が特定の人を意図せず、おのずから盛上がる賀川崇拝と賀川追想とを集めたものですが、この賀川伝は、編者が一つの目的をもって十二人の方々に、偉人賀川を書いていただいたもので、賀川伝としては、一つの特色をもち、また賀川研究の資料として貴い記録をなすものと存じます。

 今後、いろいろな人たちによって、あらゆる角度から賀川豊彦が、記録され研究されて二十世紀の偉人が後世によき影響を与えるようになることを祈りつつこの書を世に送ります。

   昭和三十五年十二月五目
                               武 藤 富 男



「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第165回田中芳三編『神はわが牧者ー賀川豊彦の生涯と其の事業』)

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―作品の序文など―

      第165回


田中芳三編『神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業

  
 前回の武藤富男編著『百三人の賀川伝』は東京において刊行されましたが、そこに寄稿された関係者も含めて、大阪在住の田中芳三氏を中心とした標記のような賀川豊彦追悼集が賀川没年の1960年の年末に「イエスの友大阪支部」によって刊行されました。

 重要な写真も満載で、大変行き届いた編集がなされて、広く普及されて版も重ねた作品です。ここでは、最初の4頁までのスキャンと、そのあとに「西坂保治・吉田源治郎・金田弘義」3氏連名の「はじめに」を取り出して置きます。




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                  ま え が き


 この度、畏友田中芳三兄が、〈神は我が牧者〉”賀川豊彦の生涯と其の事業″を編集され、イエスの友大阪支部より発刊されることになり、私達もいささかその編集に協力した。

 私達は校正のために今稿に目を通し、そして賀川といういわばマンモス・ビルのような特異なパアソナリチーを今更の如く驚嘆の目をもって眺める思いをした。

 この追憶集は、編集者の賢明な配慮と熱意とにより、各方面の寄稿を結集、そうした大ビルヂングの地下室からルーフに至るまで多方面に亘ってよく描かれてしる。これについては、寄稿者である賀川先生の先輩、同労者、門下生達の御協力に深甚の感謝を捧げ度いと思う。

 賀川先生の生涯とその事業を私達は、イエスの友の五綱領にそって歩んだ一生だと考えている。即ち

 一、イエスにありて敬虔なること
 一、貧しき者の友となりて労働を愛すること
 一、世界平和の為に努力すること
 一、純潔なる生活を貴ぶこと
 二、社会奉仕を旨とすること

 と云う五つであるが、本書はその歩みをくっきりと浮き彫りにしている。

 とにかく本書が世に送られるについて、田中芳三兄の超人的熱意は驚くべきもので、多忙な業務の傍ら、原稿の整理に徹夜することも度々、関係者の間をボロ自転車で走り廻り、身に粗衣をまといながらも、多額の出版費を惜気もなく献げられたことは、測り知れない同兄の賀川先生に対する追慕の熱情を察することができる。同時に、この夫君の企画に全面的に協力され、み名の栄えのために、蔭にかくれて、ひたすら完成を祈って居られる田中夫人に深く敬意を表する。本書は在天の賀川先生への報告中の最大々ものであることを堅く信じる。

   一九六〇年十月一日

                              西 阪 保 治
                              吉 田 源治郎
                              金 田 弘 義




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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第164回武藤富男編著『百三人の賀川伝』)

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―作品の序文など―

      第164回


藤富男編著『百三人の賀川伝


  
 『賀川豊彦全集ダイジェスト』『評伝 賀川豊彦』などの著者・武藤富男氏には、豊彦の生前に「みんなで賀川伝」を書こうという呼びかけで原稿を集め『百三人の賀川伝』を編集していましたが、惜しくもこれは賀川の生前には出版されず、賀川の没後4ヶ月して、昭和35年8月に、キリスト新聞社より刊行されました。

 箱入りの上製本とは別に、普及版として分冊され、上巻は「ぼくは待っている」、下巻は「無言賦」という副題を付けて出版されました。

 ここでは、編著者の武藤富男氏の「序」と、分冊された下巻の「序」並びにその巻頭に収められた「涙の二等分」の写真をUPして置きます。



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 みんなで賀川伝を書こうということになり、原稿を募集したのは、昭和三十四年一月、賀川先生が高松にあって療養中の際でした。二月末、百名近くの方々から集まった原稿を整理しつつ、私は「この本が出版される頃には先生が再起して伝道戦線に立たれますように」と祈りました。この年の春、先生は東京の自宅に帰り、次第に快方に向い、この伝記が出版されるのを心待ちにし、「類例のない伝記の書き方である」と言っていました。

 昭和三十四年秋になって、先生の病状が悪化したので、私はあせり出し、何とかして在伊中に出版しようと努力しましたが、とうとう間に合いませんでした。先生に対し、また寄稿者各位に対し、まことに相すまぬことと思っております。おくれた理由はいろいろとありますが、原稿整理に手聞どったことが主なものです。殆んど手入れを要しない原稿もありましたが、充分に手を加えないと出版できないものもありました。しかし折角投稿して下さったものですから、どんな文章であっても、その中に何とかしてよいものを発見して、これを読み易く、形のととのったものにしようとして苦心しました。一人分十枚の原稿を整理するのに、十時間を要するものもありました。というのは、どんな原稿でもくり返し、くり返し読んで行くうちに、その紙背にある信仰と愛とが感ぜられ、賀川先生の人格が、かがやき出してくるからです。まるで金鉱でも精錬するように、丹念に整理訂正をして行くと、純金のような光が原稿の奥から射してきます。しかも表現が拙で素朴な文章ほど、よいものが現われてくる場合が多いことを経験しました。

 投稿者が賀川先生を描くに当っては、投稿者本人のことを書く必要があるのですが、それが多くの部分を占め過ぎて、自叙伝を書いてしまった方も幾人かありました。しかし自叙伝的部分をはしおると、なかなかよいものが残るのが常でした。

 原文の味はできるだけ重んじましたが、或る程度の文体と用語の統一とを図りました。賀川先生は、口語訳聖書を作る時も、敬語をやめようと提言し、敬語を好まず、簡潔な表現を好みましたので、原則として先生について敬語を用いることをやめ、会話の中で用いるか、婦人の原稿の或るものに残しました。

 編集は原則として年代の順により、一代記的なものは巻頭にかかげ、評論的なものは巻末におきました。

 一人が描いた賀川豊彦もすばらしいが、百人が集まって書いた賀川豊彦はもっとすばらしいと思います。

  昭和三十五年五月                武 藤 富 男




 (下巻の序)
                      


 百三人の賀川伝下巻は、四十五人の方々が投稿して下さったものを、昭和九年から昭和三千五年に至るまで、年代別に整理し、評論に属するものは巻末に集録するという方針で編集しました。

 「私の見た賀川豊彦」はキリスト新聞に発表したものに三話を加えて、皆さんのお仲問入りをさせて頂きました。私のものだけが頁をよけいとり過ぎたのは、寄合の上席に大あぐらをかいて坐りこんだような感を与えますが一年半にわたる編集の苦心に免じて許して頂きたいと思います。

 百三人の賀川伝は、もし横山春一氏の賀川伝をルカ伝型とすれば、マルコ伝型とヨハネ伝型とを合せたものといえましょう。

 後世、何人かが賀川先生の語録を中心に伝記を書くならば、マタイ伝型のものができ上がるかも知れません。それを期待します。

 ともあれ、大賀川の人物と信仰とを描き出している百三人の賀川伝上下二巻が、大賀川の背後にいます主キリストの栄光をあらわすようにと祈りつつ、これを世に送ります。

  昭和三十五年五月七日
                                    武藤富男


「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第163回武藤富男著『評伝 賀川豊彦』)

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「住宅の庭に咲くムクゲ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第163回


武藤富男著『評伝 賀川豊彦


  
 前回の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の著者・武藤富男氏には、賀川に関しては『使徒パウロと賀川豊彦』『賀川豊彦の六面』といった小品もありますが、キリスト新聞に長期連載されたものを纏めて、1981年に出版した『評伝 賀川豊彦』(キリスト新聞社)があります。

 なお、この連載でも紹介しましたように、武藤氏に最晩年?、賀川の初期資料を扱った貴重な作品『溢恩記注』を書き残しています。

 ここでは、本書の「序」とグラビア頁のところを取り出して置きます。




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              武藤富男『評伝 賀川豊彦』

                  まえがき


 青年時代に私はキリストに捉えられた。壮年以後、幾度もその捉えから逃れようとしたが、キリストの握力は私の霊性の深みにまで達しており、逃れることができなかった。

 賀川豊彦先生に出会ったのは私の後半生の始まる頃であった。先生は、私へのキリストの把握を外側から囲んで、この世から私を隔離するかのようであった。

 一九四六年四月、『キリスト新聞』第一号が発行されるや、先生は「これをあなたの新聞と思ってやって下さい」と言われた。これは私有の意味ではなく、「全責任をもて」との意であると私は解した。私はこれに従って三十五年問、新聞の責任を担って今日に至った。

 このようなわけで、先生と私との後半生の交わりは深かった。先生の傍に坐ることによって、先生のお心が伝わってくる思いがした。先生が私を叱責するのは、新聞に欠けているものを補うために、財的に助けようとする意思表示であった。私を励ますことにより先生は私に未来への展望と使命とを与えて下さった。

 新約聖書口語訳に当たりコリント第二の手紙を、原文に忠実で、しかも原文のニュアンスをかなり通俗な日本語で表わした時、先生はこれを一読して、私の室に入られるや否や、「武藤さん、パウロが尻をまくった、パウロが尻をまくった」と歓声をあげられた。

 世を去られる三年前、先生の脚のもつれに気づいた私は、伝道旅行を以後やめるようにと忠告した。その時、先生は「武藤さん、こうなりゃやけくそ伝道だ」といわれた。このやけくそこそ神のためのやけくそで、これが死を決してスラムに入られた時の心境であった。

 評伝賀川豊彦を書くには、戦後の先生を描いたぼうが、私にとっては容易であるが、先生生涯のハイライトは、スラム伝道と労働運動にあるので、ます一九〇九牛のクリスマスーイブに先生がスラム入りをなさった時から一九二三年の関東大震災罹災者救済に乗り出すまでの十四年間を前篇として『キリスト新開』に連載し、これを本書にまとめて世に送ることとした。

 巻末には「賀川豊彦前史」として誕生からスラムに入るまでの生涯の概略を加えた。
 本書の著述に当たっては、横山春一氏著『賀川豊彦伝』、隅谷三喜男氏著『賀川豊彦』、及び村山盛嗣氏編『賀川豊彦とそのボランティア』の内容を採用し、あるいは参考にさせて頂いたところが多かった。ここに深く謝意を表わす次第である。

 なお巻頭には、『キリスト新聞』に連載された際、長尾己画伯が百六回にわたリ描いて下さった挿絵のうち、傑作と思われるもの数葉を選んで掲げた。賀川先生を最もよく知っておられる八十七歳の老大家の作である。

  一九八〇年 クリスマス
                                 武 藤 富 男




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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第162回武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』)

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「昨夕の夕焼け」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第162回


武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト

  
 『賀川豊彦全集』の第24回配本までを取り出してきました。今回は、出版元のキリスト新聞社創立20年の記念として、出版の実質的な責任をになってきた武藤富男氏の著作『賀川豊彦全集ダイジェスト』を収めます。

 毎月の刊行で予定通り2年間で完結させて2年後、昭和41年8月にキリスト新聞社より出版されました。

 本書には、20頁分の写真が収められて、巻末には「賀川豊彦年表」(400頁~448頁)が作られており、大変便利なものでした。

 別のところでも書きましたが、ある時期にこの著作の英訳の企画があって、惜しくも頓挫した経緯がありました。

 ここでは、著者の武藤氏の「序」と写真の数頁だけをUPいたします。



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 昭和三十七年から三十九年までの二年間、賀川豊彦全集二十四巻の解説を書くに当たり、私は各巻のダイジェストを解説に加えました。これは読者のみなさんが、本文を読まずとも、その梗概を理解して下さるようにと志したからです。そこでどの巻についても、原本を一回通読し、それから第二回目を精読し、そのあとで筆をとって、解説を書いた後、必ず作品のあらすじを書き加えました。

 読者のみなさんにお目にかかると、本文はあとで読むことにして解説だけ読んで、賀川全集を読んだことにしたと言う方があり、また解説だけをまとめて本にするとよいとおすすめ下さる方がありました。そこで賀川全集二十四巻をお買いにならなかった方々のために、私か書いたものをまとめて一本とし、賀川豊彦全集ダイジェストとして出版することにいたしました。

 これをお読みになれば、みなさんは賀川先生の作品を大体において理解しうると存じます。それではどうも物足りないと感ずる方は、全集を持っておられる個人や学校や図書館について、必要なところを調べれば、くわしい内容を知ることができますので、この本は、そのための手引の役割もいたします。

 賀川先生がキリスト新聞を創刊してから今年は二十周年なので、それを記念する意味で、この本を世に送ります。これは作品を通して見た私の賀川観をも含んでおります。

   昭和四十一年七月
                                    武藤富男



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このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

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