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村島帰之の労働運動昔ばなし(第30回)

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「出石そば:出雲」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(30

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


                第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                  ハッピを着て旗行列に


 こうして社会情勢が大きく動き出した時は、第一次欧洲大戦が終って、神戸市で催された、休戦祝賀会や旗行列には、神戸の友愛会員が揃って参加した。

 茶目ッ気のある久留弘三氏とわたしは、毎日新聞の配達のハッピを着用して出かけた。その時の写真が残っているが、一つはハッピ姿の二人のあいだに賀川氏がエクボの笑顔を見せているもの、他の一つはその頃、賀川氏のもとで診療に従っていた馬島僴氏、賀川氏の一の弟子の武内勝氏、それから若手の友愛会員の和田惣兵衛氏や胸永太助氏も写っている。賀川氏の三十才を筆頭に、他はみな二十台またはそれ以下の若者ばかりだった。


         写真 第一次大戦の休戦祝賀行列の日(大正8年)


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      前列左より 村島 久留 和田 賀川  後列左より 武内 馬島 胸永


 休戦に伴って平和会議がパリのべルサイユ宮殿で開かれ、西園寺公望候と牧野紳顕伯は日本全権として渡仏したが、そのお供の中に、お花さんという女性のいることが新聞紙を賑わした。

 その時、平和会議に併行して開がれる世界労働者大会に日本代表として出席するこ鈴木友愛会長もその一行より少し遅れて渡仏することとなった。

 大正七年もあと二日と迫った日、鈴木会長は横浜を出発したが、その際、わざわざ見送りに出かけた神戸連合会代表が読みあげた決議文は次の如くであった。

      決議

 神戸連合会代議員ハ鈴木会長ガ世界労働者大会二左ノ挨拶ヲセラレンコトヲ要求ス

 我等労働者ハ世昇二於ケル永久平和ヲ要求シ、ソノタメ二万国ノ労働者ガー致協力セン コトヲ希望ス、又皮膚ノ色ニヨリノテ人類ヲ区別セズ、各国民族二均等ノ労働権及ビ移民権ヲ附与シ、今日ノ資本家文化二代リテ労働者ヲ基礎トセル文化ノ一日モ早ク建設セラレンコトヲ要求ス
 大正七年十二月二十六日
                       神戸連合会代議員会

 いうまでもなく、この一文は賀川氏の起草になるもので、永久平和といい、皮膚の色による人種差別の撤廃といい、賀川氏らしい用語である。

   (続く)



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村島帰之の労働運動昔ばなし(第29回)

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「今年の名月も間近か」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(29

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


                第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                   米騒動と神戸


 そこへ突然、米騒動が富山県滑川の漁村の女房たちによって火蓋を切られ、たちまち全国に拡がった。大正七年八月のことだった。

 神戸は外米輸入元だというので鈴木商店が焼かれ、ついでに近所の神戸新聞社も川崎造船所の御用紙だといってやられ、さらに飛火して因業家主だといって兵神館が焼かれた。

賀川氏の住む葺合新川部落では八月十二日から廿二日までの十日間に八百十九名の暴行容疑者が引っぱら れ、物上情騒然たるものがあった。

 そこで清野知事が音頭をとって富豪を説き金を出させ、また県から精米所を指定して軍隊警衛の下に玄米を精白し、神戸市内十八ヵ所で廉売させるという緊急処置をとった。

 大阪では、夜は五人以上組んで歩くことが禁止された。わたしは神戸へ赴任する直前だったが、大阪日本橋三丁目で暴民と軍隊とが対峙しているというのでその方に派遣された

 夜に入ると暴民はいつどこで拾って来たのか小石を軍隊の方に向って一斉に投げて来る。軍隊と暴民は幾度か衝突し、片方が引けば片方が押すといった事をいつまでも繰返していたが、しまいには軍隊の方からパンパーンという銃声が起った。さア、軍隊はついに発砲した。

 そう思ってわたしは新聞社に飛んで帰り、大急ぎで書いた記事が翌朝には社会面のトップにデカデカとのった。標題は「軍隊ついに発砲す」だった。

 しかし、あとから聞くと発砲は発砲でも空砲で脅かしのためのものだったと判り、あわて者の臨時事件記者の特ダネもフイになった。

 この米騒動は都市社会事業(公設食堂・公設市場・公益質屋・共同宿泊所等)や方面委員制度の創始となり、公益職業紹介所の施設となり、前回記した清野知事の県営紹介所のプランまで飛び出したが、労働運動方面の影響はこれ以上で各地に争議が続発した。

 しかし、神戸では動かざること林のごとくだった。戦前に比し物価は七割の昂騰だということだが、神戸の熟練工は戦時手当・残業歩増その他により、割合に収入が多かったからである。

      (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第28回)

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「ムラサキシキブ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(28)

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


                第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                  賀川氏の会費値上げ提案


 その後、友愛会は加速度で伸びて行った。神戸は殊にその伸び方が速く、川崎造船所の本工場を根城として大正四年に誕生した神戸分会は、間もなく神戸・相生両分会にわかれ、大正六年には再び合同して会員千名を越える神戸支部が結成された。

 神戸製鋼所や川崎分工場の葺合支部もこれにつづき、その他三菱造船所を根拠とする兵庫支部、市電湊川発電所を中心とする尻池支部、橋本汽船の刈藻島支部などがクツワを並べて、神戸は友愛会の金城湯池の感があった。

 殊に神戸の友愛会として最も力強さを感じたのは大正六年春、賀川豊彦氏がアメリカから帰朝し、その足でまた元通り葺合新川の貧民屈に住み、同時に、友愛会の運動に力を注ぎ始めたことであった。

 賀川氏がキリスト教伝道と貧困者救済の仕事のほかに労働運動に協力するようになったのは、貧しい人たちを真に救うためには、まず彼らに組織を与えて、自力で立ち上らせるほかはないと観じたためであるが、直接の動機は、アメリカの留学を終え帰朝の途中、オグデン市で船賃稼ぎのため同地の日本入会書記をしている時、モルモン宗の地主に苦しめられていた日本移民に小作人組合を組織させ、その代弁者として、使用人側の白人と折衝し、見事に要求を貫徹したことにある。

 賀川氏はこの体験から、労働団結の必要を痛感して日本へ帰ってきたのである。それで氏は単に友愛会の演説会に出るだけでなく、役員会にも出席して何くれとなく世話を焼いた。

 賀川氏は運動を強化するためにはもっと組合の財政をゆたかにせねばならぬといって、その時まで十銭だった会費を二十銭に値上げすることを神戸支部の役員会で提案した。(その時、賀川氏は同支部評議員だった)

 しかし、この賀川氏の提案には賛否相半ばし、投票の結果十八対十三で可決されたが、それでもなお実施期日について議論が沸騰し、当分保留という者十五名、二カ月後から実施せよという者も十五名で、結局、議長(木村錠吉氏)の発言で三ヵ月後から実施ということに決した。これを見ても会費集めということが如何にめんどうで、値上がどんなに困難であったかが察せられる。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第27回)

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「曼珠沙華」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(27)

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


                第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                  熱心家揃いの神戸友愛会


 鈴木氏はキリスト教的人道主義の立場をとって暴力を否定し、また「労資の対立は認めるがそうだからといって、資本家を悪魔のようにいう考え方にはわたしは同調しかねる」といっていたほどだから、監獄に縁の遠かったのも当然であろう。いいや、鈴木氏ばかりでなく、初期の友愛会のリーダーはほとんどみなクリスチャンだったから、おのずから友愛会全体が穏健着実な行き方をしたのだともいえよう。

 鈴木会長と最も親しみの深かった神戸の友愛会員が、それだけ多く鈴木氏の感化をうけて、健実な歩みをしたことも当然だった。加うるにさきには山県憲一氏、後には賀川豊彦氏といういづれも鈴木氏と同じキリスト教信者を指導者に得たため大正十年の大争議で検挙者百七十名、内起訴されたもの野倉氏ほか五十六名という大きな犠牲を出すまでは、「勲章」をもらった者は絶無であった。

 しかしこれは神戸の労働者が意気地なしだったということを意味しなかった。ただ、『大地にしっかと足を踏みしめて、仮そめにも軽挙盲動をしなかったからだといいたい。

 神戸の友愛会の幹部は熱心家揃いであった。工場の仕事が忙しく残業続きだったにもかかわらず、機関誌配りや、会費集めや、演脱会のビラ貼りにその余暇のほとんど全部を費やした。

 殊に厄介だったのは会費集めで、今日のように会社が代って月給から差引いた上、一括して組合に交付してくれるというような結構なことはなかったので、なかなか会費の寄りがよくなかった。従って本部の方でも支部からの送金がないため雑誌の印刷代が払えず、出来上っている機関誌も発送不能という事がよくあった。

 そうした時、鈴木会長は一帳羅のフロックコートや時計を七ツ屋へもちこんで、やっと印刷代を払い、急いで雑誌を発送するというようなこともあった。そうしたことを聞くと、熱心家揃いの神戸の幹部は一層一生けん命になって会費集めに努力した。

 鈴木会長は神戸の方を向いて「たよりにしてまっせ」といったか、どうか、そこまでは知らない。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第26回)

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「高松城跡・披雲閣の庭園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(26)

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


               第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                  大杉栄氏の悪罵


 鈴木氏の創立した友愛会が大正初期のほとんど唯一の労働組合としてその綱領の示す通り「穏健着実」な戦法で労働者の地位の改善を図り着々組合の勢力を拡大して行くのを見て、無政府主義者大杉栄氏は、雑誌「近代思想」?で鈴木氏を酷評していたのをわたしは、ハッキリ覚えている。

 「鈴木君の友愛会の成功は、つまるところ、鈴木君がバカだからである」

 ずいぶんと人を食った大杉氏らしい悪罵であるが、これは鈴木氏にはこれというイデオロギーがないということを皮肉ったのに違いない。

 しかし、友愛会の創立は幸徳秋水らのいわれる大逆事件のすぐあとのことであって見れば、イデオロギーのハッキリした組合運動だったらその成立すらあやしかったであろう。たとえ大杉氏から「バカ」と罵られようと、鈴木氏の友愛会は処女の如きスタートを切ったのでよかったのだと思う。

 大杉氏が鈴木氏を悪罵したのは、もちろん、その無思想性にあったのだろうが、それにも増して大杉氏が、がまんのできなかったのは、鈴木氏が資本家や官憲と摩擦なしに仲よくやって行ったその態度にあったのではないかと思う。

 大正四年にアメリカで日本移氏の排斥問題が起り、これが緩和のためには日本の労働者の代表者が渡米し、米国の労働組合代表と話しあうのが最も良策ということになって、鈴木友愛会長は重責を負うて渡米した。

 その時のスポンサーが実業界の大立物渋沢栄一男で、これを契機に渋沢男との関係ができ、その後も度々渡米した。こうしたことが大杉氏のお気に召さなかったに違いない。

 鈴木氏は大正四年の最初の渡米の時、全米労働者大会に出席して米国労働総同盟(AFL)のゴンパース会長と壇上で握手し協力を誓いあったが、その大会のあとで、ゴンパーズは鈴木氏にこう聞いた。

「君は今までに何度監獄にブチこまれたかね」

 鈴木氏はあのポチャポチャとした顔を赤らめて答えた。

 「いいえ、まだ一度も……」

 この話は全米労働者大会の土産に「ストライキ」の画とI諸にわたしに聞かせてくれた内所話だから間違はない。

 あの頃の各国の労働運動の闘士はその後数年の日本の場合と同様、監獄にぶちこまれるのが日常茶飯事で、むしろ勲章をもらったようなものだったが、鈴木氏は不幸にして(?)その勲章をもらっていなかったのである。いいや、前後二十年にわたる友愛会長としての戦いについぞ勲章は頂かずに終ったのである。


    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第25回)

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「高松城跡:披雲閣」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(25)

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


              第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                 労働者への思いやり


 鈴木氏は九郎判官義経を東国へ案内した金売吉次の出生地宮城県金成村の産、七才の春にニコライ派グリーキ・カソリックのハリスト教会で洗礼をうけたという生えぬきのキリスト教信者、もちろん一家をあげての信者だった。

 この点は賀川豊彦氏といささか違っている。賀川氏は扶桑教を信仰する父の庶子として生れ、少年時代にキリスト教に導かれ、家人の目を忍んで教会に通い洗礼をうけた。教派もプロテスタントで、鈴木氏とは新旧の差があった。

 しかし、鈴木氏も賀川氏も地方の旧家に生れて、いわゆる毛並みはよかったし、中途から家運が傾いて、中学以後は苦学した事もふしぎに似ている。

 鈴木氏は旧制の山口高校に入学したが、学資も不足がちで、制服は辛うじて買ったが外套までは手が届かず、寒い日にはふるえていると、先輩の筧正太郎氏が卒業に当って自分のお古を譲ってくれた。靴は鈴木氏の大足のためお古拝領ができず、仕方がないので兵隊の古靴を二十五銭で買った。

 また東大へ進学する時も同様で、制服正帽が買えずにいると、中学時代からの先輩であり、親友だった吉野作造氏が角帽を、また郷党の先輩内ケ崎作三郎氏が制服を、それぞれお古を下げてくれた。

 もちろん、アルバイトは玄関番・家庭教師・筆耕・願訳・日曜学校の留守居・夜学教師等から、雑誌「新人」の編集までいろいろして学資をかせいだ。

 こうした苦学をした鈴木氏だったから、労働者に対して思いやりも深かった。それに幼時からつちかわれたキリスト教の人類愛の精神が加わって、弱い者の昧方になろうという信念ができあがっていた。

 これは、鈴木氏が開拓者として苦闘十年、基盤のできあがった頃、大学を出て労働組合に飛びこんで来た若きリーダーたちの持っていたイデオロギーといったものからは程遠く、もちろん、理念としては底のないものだった。

    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第24回)

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「野良猫」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza/rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(24)

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


              第四回 友愛会長と友愛婆さん


               大師は弘法、会長は鈴木


 今なら労働運動の英雄として参議院議員にでもなっていたであろうと思われる神戸大争議の指導者野倉万治氏が、騒じょう事件の首魁として二年半の刑期をすませ帰ってきた時、広い神戸で彼を雇入れようという工場主はI人もなく、やむを得ずブラジル移民団に加わって神戸の地を去った。

 そして家族の病気のためサンパウロの移民収容所に滞在中、ある日、参観に出たおえら方の中に、なつかしい巨漢の横顔を見出して思わず「会長!」と呼びかけた。呼ばれた巨漢は野倉氏の方をふり返った。やっぱり、友愛会長鈴木文治氏であった。二人は奇遇を喜 び、泣き、手を握って、暫らく語りあったという。

 会長は浜の真砂ほど多い。しかし野倉氏をはじめ大正初期の友愛会の人々にとって、「会長」は鈴木文治のほかになかった。それは大師といえば弘法大師にきまっているようなものだった。わたしなども直接その傘下の者ではなかったが「鈴木さん」などと呼んだことはなく、いつも「会長!」と呼んでいた。今でも「会長」と聞くと、ふと鈴木氏を思い起すことがある。

 前にも記したように、神戸の熟練工は移動が少く、従って同じ友愛会でも東京などとは違って、幹部の顔触れが十年一日の如しといえるほどの古顔ばかりだった。それだけに鈴木会長とはなじみが深く、氏も神戸へ来ると、東京の本部よりも却ってうちくつろぐことができたようで、汽車中の睡眠不足をとりもどすため、事務所の二階で高いびきで仮睡して、幹部たちが工場の仕事を終えて事務所に集まって来るのを待った。

 鈴木氏のデブデブと肥えたからだと色白の上に赤らみを帯びた坊っちやん顔は、同じニコニコ顔でも使用者側の松方幸次郎氏のサムライ大将といった、人を威在するようなエビス顔とはおおよそ対蹠的で、むしろ、鈴木氏の方が親ゆずりの会社重役で、松方氏がファイトに満ちた労働組合の会長といった印象をうけた。それほど、鈴木氏は温かみのあるアットホームな人で組合員から「会長会長」と親しまれたこともふしぎではなかった。

    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第23回)

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「高松城跡・玉藻公園」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(23)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


              第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)
              
                講習会の聴衆は一人半


 しかし、当時の組合の一ばん主な仕事はもちろんお葬式ではなく、啓蒙運動で、機関紙を発行し、また演説会や講演会がたえず開かれた。組合の役員会の如きもまた一種の幹部教育会であった。

 明治二十二年、日本最古の組合といえばいい得る同盟進工組の創立当時、組合員の協議会のあとで一同打ちそろって吉原へ女郎買いに出かけたため、妻女の怒りを買い、その次から協議会の通知が行っても妻女はまた女郎買いに行くものと速断して、その通知をにぎりつぶしてしまったため、折角の同盟進工組がだめになったという伝説がのこっているが、大正期に復活した組合運動――友愛会の運動は、キリスト教信仰の人たちをリーダーとしで誕生し、育成されて来ただけに、そんな不真面目さは全くなく、会合の前後には智識分子といわれたわたしたちをつかまえて、疑問を質したり、議論をふっかけて来たりした。

 前々号の本誌で池田信氏が書かれた「賀川豊彦の労働組合論」にあったように、一時、賀川氏はギルド社会主義を雑誌「解放」「改造」などで提唱したが、その時などは、これに対する疑問が多くの人たちから盛んにもち出された。

 そのためわたしは、わたしが支部長をしていた尻池支部(川崎の兵庫工場や神戸市電湊川発電所の人たちにより大正五年に創立)の人たちの要請で、一組合員の家の二階で講習会を開き、ギルド社会主義の解説を連夜にわたってさせられたことがある。

 しかし、残業につぐ残業で、夜の帰りのおそい人たちは出たくても出られず、ある夜のごとき、出席者は、後に県議会員になったカイゼル髭の行政長蔵君ただ一人。いいや、同君は女児を抱いて出席したから一人半といえるのかも知れない。その夜、父親に抱かれてギルド社会主義の講義を聞いた?赤ちゃんは今は立派な女医さんとなっていると聞いている。

              演説会の最終弁士広沢一衛門氏

 こうして労働組合の会合は講習会はもちろん、一般演説会でも、幹部たちは人よせになみなみならぬ苦心をした。

 古い切抜帳を見ると、わたしが大阪から神戸へ移る直前の大正七年四月二十七日夜、大阪春日出小学校で開かれた友愛会西支部創立一周年祝賀講演会には、有名な岡村司博士を始め賀川氏やわたしが出演したが、これら講師の講演の後、寄席なら「真打」の大家として広沢一衛門氏が登壇している。

 広沢一衛門? 労働運動関係者にはなじみのない名だな、と思われるだろうが、その筈、広沢氏は大家の大家でも浪花節の大家だったのである。こういう「大家」が出ないと、わたしたちのような前垂の講演だけでは人の集りがよくなかったのである。
 
 その頃、友愛会神戸支部の社会政策講演会でも、筑前琵琶・尺八が社会政策講演のおそえものとして出ているが、あるいは、一部の人たちには講演の方がお添え物だったのかも知れない。

 こうした「余興入り」演説会も組合員の自覚に伴い漸次影を消して、真剣な演説会に移って行った。それと同時に清野知事の心配も漸次現実化して来るわけだが、大正七年頃はまだその過渡期であった。



村島帰之の労働運動昔ばなし(第22回)

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「高松・玉藻公園の月見櫓より」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(22)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


                第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)
              
                  知事の挟別の言葉


 労働者側の意見書は、別に工場主側から徴した意見書と一しょに、清野知事が携えて上京し、中央政府に提出した。これが直接の効果は判らないが、あるいは渋沢栄一氏らの労資協調会の誕生とも何らかの関係があったのかも知れない。

 その頃の友愛会神戸連合会はまだこれという争議もしていなかったためでもあるが、清野知事は極めて友好的で、あとで記すように、友愛会の示威行列が兵庫県庁を訪れるかも知れないとわたしが告げた。ところ

 「それなら、わたしはバルコニーに出て敬意を払うことにしましょう」

 と答えたので、そのまま新聞に書いた。

 その記事を見た一部の県議が、知事は赤だ、怪しからんと抗議をし、知事は大いに困ったということを聞いた。そしてそのすぐあと大正八年四月、清野知事は神奈川県知事に栄転して行った。

 清野氏が三宮駅から乗車して、新任地へ向う日、友愛会の幹部有志は会旗を携えて駅頭に見送った。清野氏はそれほど労働者にとっては「ええ知事サン」だったのである。

 その折、清野氏は見送人の中にまじっていたわたしを見つけて車窓から手招きするので、近ずいて行くと、氏はいった。

 「どうか、労働者諸君がエキセントリックな行き方をしないように、くれぐれもおたのみします」
      ’        `    ’
 もし「過激になるな」といわれたら、まだ二十代だったわたしはきっと反撥を感じたに違いないのだが、「エキセントリックにならぬように」と英語で言われたことが、妙に真実がこもっているように耳にひびいたことを今思い返してもふしぎに思うのである。

 わたしは時々、大正十年の大争議の時まで清野知事が留任していたら――と思うこともあるが、しかし、その時はその時の風が中央から吹いてきて、同じ結果になったようにも思える。

              入会式と左手の握手

 兵庫県を去るに臨んで清野知事が県下の労働組合員にのこした「エキセントリックにならぬように」という忠言は、少くとも、当時の組合員には「心配無用」の言葉であった。

 当時の労働組合――といっても友愛会一つしかなかったが――友愛会の運動方針は穏健そのものであった。何しろ友愛会はその綱領にも、

 一、われらほ互に親睦し一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
 二、われらは公共の理想に従い識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
 三、われらは共同の力により着実なる方法をもってわれらの地位の改善を図らんことを期す。

 と掲げているほどで、今日のような闘争的なところは全くなく、着実穏健な方法で労働者の地位の改善を図ろうとし、その上「相愛扶助」や、「徳性の涵養」を謳ったりしてむしろ、宗教的でさえあったからだ。
    
 おもしろいことにはその頃、友愛会には入会式というものがあった。入会式はその都度行わず、会長の西下した時など、とりまとめて行うもので、新入会組合員は一人一人進み出て鈴木友愛会の丸々と太った手をしっかりと握り、今後、組合員として努力する(戦うなんていわない)ことを誓ったものだ。事によるとこれは鈴木会長がキリスト教の洗礼式からヒントを得たのではないかと思う。

 ところが、この人会式にしばしば異様なしかも痛ましい光景が見出された。それは、通例右手をさし出して握手する慣わしだのに、もじもじとして左手を出す組合員があったことだ。右手を出すことを知らなかったのではない。実は右手の指の何本かが失われてなかったため気遅れしてつい左の手を出したのである。いうまでもない。工場で作業中、あるいは歯車にはさまれ、あるいいは截断機で大切な指を切られたのである。

 当時の友愛会神戸連合会長颯波(さっぱ)光三氏も右手の人差指が中途から失われていて、左手で握手をした組だった。工場法の実施の前後のこととて、如何に工場の危険防止設備が不十分であったか、そして工場生活というものが、如何に危険多いものであったかが窺われよう。

 その頃、鉄道院の調査では鉄道関係の工場内の一年間の負傷率は千人について千五百五十一人だったから、一人は必ず一年に一度以上のケガをしたことになる。従って神戸の友愛会関係でも業務上死亡する者が少くなく、その葬式には、喪章をつけた友愛会の会旗を先頭に組合員が会葬した。これも組合の仕事の一つだったが、組合に好感を持たぬ人たちは「お葬式組合」といって冷笑した。


   (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第21回)

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「栗ごはん・・・」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(21)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


                第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)
              
                 知事から友愛会へ調査依頼


 大正七年五月、清野知事が賀川・久留両友愛会幹部と会見して意見の交換をしたあとで、友愛会を通じ、次の三箇条について調査を依頼して来た。

 一、会社の幸福増進設備に対する実感と希望
 二、紛擾の原因および防止策
 三、会社に対する一般的希望条項

 友愛会ではこれを同会に加盟している川崎・三菱両造船所と神戸製鋼所の職工有志に回付しそれぞれ記入の上回答した。その答申の概要を記すと次の如くであるが、団体交渉の要求が、おぼろげではあるが出ているのは注目に値いしよう。

 第一問 会社の幸福増進設備に対する実感と希望

 会社が職工の利益と信じて苦心経営する幸福増進の設備も、その実行方法と運用がよろしきを得ないため多数職工はこれを喜ぶよりも、むしろ反感を抱いている。

 1 工場医の職工に対する態度の如き、極めて不遜で、社員と職工との待遇に大差がある。このために職工は不快を感じて、私費を出しても町医者にかかるものが少くない。 
 2 三菱造船所の行っている購買組合についても同様のことがいえる。
 3 会社は職工に対しいろいろの扶助規定その他社則を定めているが、職工に公表しないからその内容が不明で、その上、その認定や適用が会社の自由裁量でなされるので職工は常に不安の念を抱いている。
       
 第二問 紛擾の原因と防止策

 大体において賃銀の低廉と中間者に対する反感、即ち感情問題が争議の主要原因となっている。殊に後者において甚しい。

 1 技師或は役付職工(工場長・伍長・伍長心得)に対して「袖の下」を行う場合、歩増や昇給に際して利益があるのみか、時には職工に対し袖の下の請求をほのめかす向さえあり、これらによる昇給の不公平が鬱積して争議となる。小紛議の十中八九まではこれだといっても過言ではない。
 これが防止案としては
  A、技術の試験を行って昇給を定めること
  B、主任技師以外の役付職工の公平なる投票によりその標準を決定すること
 2 紛議の原因は賃銀が会社の利益に対し、あまりに低いことだ。殊にその昇給率が低いため(神戸製鋼所は大てい二銭である)今日のような物価騰貴の率と均衡が保てない。世人は「労働者は戦乱の影響をうけて莫大な収入を得ている」というが、実際はそうでない。ただ戦争のため仕事が多くなって、定時間のところが残業となり、残業が夜業とな  り、労働の過重により収入が前より殖えたというに過ぎない。
 3 争議の根本は一言にしていえば、平素、職工と会社側(技師・技手の如き中間者をいうのではない)との意思の疎通を欠くことに起因する。故に何らかの機関を設けで両者か月一回ぐらい、会見するようしてほしい。

 第二問 会社に対する希望

 職工が会社に対し持つ希望は限りがないが、その中、実行可能と思われるのは

 1 川崎造船所は臨時職工を多く募集する。これは臨時工は解雇の場合、手当を支給しないですむからであろうが考慮してほしい。
 2 入職の際「試験中」という名義で、賃銀も半給で約一週間使役される。この試験期間を短縮されたい。
 3 会社は業務災厄以外の疾病に対しても工場医が診療するようにしてほしい。
 4 川崎造船所では造機部と造船部とがその規則を異にしているのは好ましくない。
 5 解雇すれば手当が要る。そこで会社は仕事が減った場合も解雇をせず、割増金を減じたり、定時間労働のみにしたりして実収を減らし、結局、自分で他へ転ずるように仕向けるのは残酷にすぎる。
 6 職工が技師その他に対し、少しでも抗弁したりすると、頭から「生意気だ」と称して排斥する風がある。こうした職工を卑しむ風は矯正されたい。

 大体以上の如くで、文章は新聞にのせる関係でやわらかく直しだが内容はそのままである。会社を非難するよりも、職場の工場長(といっても俗称で、正式には職長である)始め役付への不満がそのまま出ているのや、会社の温情施設に対する批判がなされているあたり、やはり四十年前の事だという思いが深い。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第20回)

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「沈む太陽」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(20)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


                第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)

                   県営口入屋の構想


 清野知事は市営や私営ではなく、まだ全国に先例のなかった県営の職業紹介所を設置しようという考えを持っていた。しかしその仕事を担当する人間が見つからぬので当惑しているところだった。

 口人屋上りではもちろんいけないし、融通の利かぬ役人が口入屋のおやじになることは六かしく、第一そんな物好きは兵庫県庁内には見当らなかった。

 清野知事はこの事を話して「適任者は居ないでしょうか」と聞いた。すると、打てば響くように賀川氏は「適任者がありますよ」と答えた。

 賀川氏の話によると、その男は永らく中学校の教師をしていたが、。キリスト教の伝道と貧民救済の召命を感じて教壇を去り、東京日暮里の貧民窟に住んで、賀川氏と同じように、貧しい人たちの友となり、独力でささやかながら隣保事業をやっているというのだ。

 清野知事は賀川氏の弟分のようなその人が果して県営の口入屋のおやじをひきうけてくれるだろうか――と危ぶんだが、賀川氏は「わたしから話せばきっと来てくれると思います」と自信をもって答えた。

 清野知事の腹案の「県営」口入れ屋はその後、多分県会方面からであろう反対があって、兵庫県救済協会経営ということになって、賀川氏の住む葺合新川の貧民窟に近い日暮通りに「生田川口入所」という看板が新らしく掲げられた。そしてその口入所の主任として賀川氏推せんのその人が座った。遊佐敏彦氏である。


                 ヒゲの送別会


 此処で一つおもしろい挿話を書き添えておきたい。

 公営口入屋のおやじとなった遊佐氏は東北出身の誠実そのもののようなクリスチャンだったが、彼は清野知事と同じように小柄で色も浅黒い男だった。ただ違うのは知事にはヒゲがなかったのに反し、この口入屋のおやじの鼻の下には美しい?ヒゲがめった。

 知事は遊佐氏のほかの点ではことごとく満足したが、そのヒゲだけは気に入らなかった。自分にヒゲがないので卑下したのだといっては駄じゃれになるが、知事には知事としての言い分があったのだ。知事は 遊佐氏のヒゲをまじまじと眺めながらいった。

 「口入所の主任になって頂くからは、前垂掛けの気持でやってもらわぬと困ります。それですから、求職者に威圧を感じさせるようなヒゲは…」

 遊佐氏は清野知事の言葉の終らぬうちに、

 「同感です。さっそくヒゲはそることにいたします」

 そういうと、清野知事はさも満足そうに大口をあけて笑った。遊佐氏も一しょに笑った。そして県庁を出ると遊佐氏はその足で髪床へ行って、何の未練もなくヒゲをそりおとして、賀川氏のもとへ報告に来た。

 賀川氏は急にヒゲかなくなって人相が変った遊佐氏を見て「どうしたんだ?」と聞いた。そして、いちぶしじゅうを聞くと大いに痛快がって、

 「では今夜は遊佐君のヒゲの送別会をやることにしよう」

 そういって、その夜は有志と一しよに、ささやかな、しかし前古未曽有の「ヒゲの送別会」がたのしく催された。

 遊佐氏はその後、中央にひきぬかれ、中央職業紹介事務局長となり、三井報恩会の社会事業課長ともなったが、神戸でそりおとしたヒゲはついに二度と生やしてはいない。

 ヒゲの話はこれぐらいにして本論に帰り、清野知事と労働問題の関係について話をつづけよう。

     (続く)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第19回)

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「高松・玉藻公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(19)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


               第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)

                 知事、組合代表を招く


 これよりさき、大正六年三月、清野知事は兵庫県下の救済事業団体(まだ社会事業とも、社会福祉事業とも呼ばれていなかった)の連絡機関として「兵庫県救済事業協会」なるものを結成し、その世話役として内務省にいた小田直蔵氏を招聘し県嘱託とした。

 その小田氏や県会議員の福井捨一氏(当時の賀川氏の後援者の一人)から、神戸の葺合新川の貧民窟に賀川豊彦という一風変った男が居て、最近アメリカの留学を終えて帰朝し、労働組合―友愛会の指導をしているという話を聞かされた。

 知事は、さっそく両氏を通じ賀川氏に会見を申し入れた。賀川氏は友愛会の会見は、今なら何でもないことだが、労働団体の勢力も微弱で、官庁側から心全く無視されていた時代に、知事の方から丁重に会見を申入れられたというのだから、友愛会の労働者たちは、まるで労働組合が政府から公認されたように解して喜んだのもむりとはいえまい。

 知事と賀川氏らの会見の席上では、いろいろ話もあったが、失業問題がとりあげられた。その頃、失業者のための公営紹介所としては、東京市内に公益職業紹介所(今の職安)が四ヵ所できていただけで、大阪でさえ、八浜徳三郎氏の経営する私設の大阪職業紹介所があるだけだったし、神戸でも無きにひとしかった。

 八浜氏は神戸でキリスト教の牧師をしていた人。明治四十四年十二月二十四日、神戸神学校学生賀川豊彦が学校の寄宿舎から葺合新川の貧民窟に移り住んで、貧しい人々のために奉仕と伝道を始めた際、八浜氏は、
 「賀川君、貧民窟の人たちを救済しようと思うのなら、おとなはみな追ッ払って、こどもだけにしなけりやだめだよ」
 と含蓄のある忠言を与えたという。わたしも大正五年に「ドン底生活」を毎日新聞に連載した時、大阪の今宮の貧民窟近くにいた同氏からいろいろと教えられたものだ。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第18回)

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「高松・玉藻公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(18)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


               第三回 清野長太郎知事時代

    (前回のつづき)

                   温情主義一辺倒


 清野知事の諮問に対する資本家側の回答の詳しい内容は判明しないが、わたしが県高等課から聞いて書いた記事によると「工場主は温情をもってすべての労働問題は解決できると考え、従って友愛会のような労働組合は不要、治安警察法の撤廃や八時間労働制は時期尚早」といった回答であったらしい。今から思うとウソのような話だが、本とうの話である。

 またその頃、毎日新聞の「月曜論壇」でわたしが松方幸次郎氏の労働問題観を評した記事の切抜が残っているが、それによると、松方氏は日米船鉄交換会成立の理由を説明して、

 「実は十万の従業員を如何にするかの問題のために奮起したもので、自分たちの利益が少くなるというようなケチな考えからしだのではない」

 と大見栄をきっているのは、近代的親分松方氏らしいが、そのあとで「……わが国の資本家と労働者とは、さして反目することもなく来ているから、今後も資本家が労働者を愛撫してさえやれば、労働組合はなくても十分労働問題の解決はできる。」といっているのに対し、「今日あるを知って進展して行く明日を考えない言だ」として、年若のわたしは論壇でかみついている。

 なおその記事の中で、三菱造船所が日用品を頒ち、演芸会などを開いて、できるだけの温情を示しているにもかかわらず、多くの労働者は三菱を去って、温情的施設の比較的少い、が収入のいい川崎造船所の万へ移動するという事実を挙げている。これは後記の清野知事の依嘱による労働組合の調査報告と符合するところがある。

    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第17回)

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「神戸・賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(17)

『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分


              第三回 清野長太郎知事時代

^                第一次大戦の終わる頃


 友愛会が神戸へ進出した頃の労資の代表者の横顔を紹介したついでに、官庁側の代表者にも 触れておきたい。

 官庁側代表者といえば、もちろん、兵庫県知事である。大正十年の神戸大争議の際、軍隊の出動を要請した有吉知事はいろいろの意味で最も有名だが、友愛会の神戸開拓時代は有吉知事よりも一代前の清野長太郎氏が知事で、労働運動に対し、よき理解者であった。

 清野知事は小柄で、色の浅黒い、「官員さん」らしい威厳を示す鼻下のヒゲもない、大黒天のような庶民的な容貌の持主だった。(この点では現阪本知事は歴代知事中、一ばん美男だろう)

 しかし、清野知事はあたたかみがあって、いわゆる官僚風なところの少い知事さんだった。その上、大事なことは、その頃漸く台頭し来つつあった労働問題や社会問題に対し深い関心をもっていたことで、わたしたちのような馳出し記者の意見もよく聞いてくれた。

 清野知事は床次竹二郎系の人といわれ、兵庫県に赴任する前は、福岡県知事をしていて、筑豊炭坑や八幡製鉄所の事もよく知っていたので、兵庫県に来てからも、第一に労働問題に着目した。

 第一次世界大戦が既に峠を越して、やがて終戦と共に必然的に訪ずれるであろう労働不安に備え、為政者として予め対策を立てておく必要があったからである。

 そこで清野知事は兵庫県下の大工場主や労働団体の代表者を招いて双方の意見を聞いたり、また後に記すように、調査要項を示して労資双方の言い分を徴したりした。

 もちろん、今から四十年もの前のことだから、労働者側も今日のような階級闘争といった対立的な意識は持っては居らず、使用者側でも「工場の能率は工場主の温情に正比例する」といった温情主義的な考えの上に安住していたのだから、知事としても、労資の協調によって、労働問題の激化は十分防げると考えていたであろうことは容易に想像できる。

   (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第16回)

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「エンジェル・トランペット」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(16)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


             第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)          

                 松方社長の挿話いろいろ


 十年の争議中、ロンドンの松方氏から、留守居重役へ、訓令の電報が入った。電文は「頭脳を冷静に」というのだった。ところがうろたえ者の重役が、「心(ハート)を冷酷(コールド)に」と誤読して、その通り実践したというのだ。もちろんこれは茶目ッ子の新聞記者が流したデマに違いないが、この場合、ヘッドよりも、ハートよりも、腹が必要だったのである。

 松方氏は太ッ腹な男だった。と同時に温情の持主でもあった。

 ある正月の仕事始めの日、松方社長が工場を巡視して、工員たちとおめでとうを言い交していたが、ある機械の前に来かかると、彼は急に不機嫌な顔をして立ち止まった。機械の上に酒徳利がのせられていたからだった。

随行の労務課長は「一体誰がこんなマネをしたのか」と問いただした。一人の年老いた職工が「わたしです」と答えた。課長は正月とはいえ「工場内で酒を飲むとは何事だ」と強く叱ったが、老職工は「わたしは飲みません」と平気な顔である。課長は社長の前もあるので真っ赤になって「では一体誰に飲ましたんだ」と詰問した。すると老職工は答えた「わしは機械がかわいいのです。それで機械にも正月の祝いをしてやりたいと思って、うちから一合もって来てやったんです」

 その答えは誰よりも松方社長を喜ばせた。そしてあとから「機械への酒肴料」として金一封が社長から老職工へ贈られた。

或いはこうしたことは「浪花節調」というのだろうが、松方社長はこんなことが好きだったのである。

大正八年のサボの際、職工側の要求が、上に厚く下に薄いといって、これを修正して要求以上の回答を出したり、要求事項になかった八時間労働制を、たとえ名目だけだったにしろ、全国にさきがけて実施したりして争議団員をびっくりさせたのも、松方氏の親分らしい温情でもあり、また彼の負けじ魂のあらわれでもある。

 松方社長はまた一方、細心な神経の持主でもあった。工場内でのムダをなくするように注意して、工場巡視の際、金具や釘が落ちているとすぐ拾い上げた。

 或る日、こんなことがあった。例のごとく工場を歩いていると一本の大きい釘が落ちていた。そこで「またこんなところに……」といって拾いあげた瞬間、松方社長はあわてて手をふってその釘を投げすてた。いたずら小憎が社長の巡視と知って、その通路にあらかじめ釘を火で焼いて捨てておいたのだ。

 しかし松方社長が本とうに手を焼いたのはこんなことではなく、大正八年夏、傘下一万六千の工員が日本最初のサボタージュをやった時だった。その際彼は「サボとは卑怯な、やるならなぜ男らしくストをやらん」と叱った。薩摩隼人らしい男らしさではあった。

工員たちは彼の忠告に従って翌々十年にはつい大罷業を敢行した。ロンドンに居た松方は「それでこそ男らしいぞ」とほめたかどうか。


               松方氏に助けられた話


 男らしいといえば、松方氏の豪放な一面を物語る一挿話がある。それはわたしがサボタージュ当時、警察に拘引されるところを、松方社長に助けられたという、わたしにとってはあまり自慢にならないが、しかし松方氏の太ツ腹を物語るにはうってつけの話なので書き添える。

 大正八年のサボ当時の兵庫県警察部長は山岡国利といって薩摩ッぽうだった。彼は薩摩出身の先輩松方氏に忠勤をぬきんずるはこの時とばかり、さっそく松方氏へ電話をした。

 「職工たちのサボでさぞお困りでごわしょう。ついては主謀の労働組合幹部と、それを外部から煽動しちょる新聞記者をひっくくって差し上げますから御心配のないように……」

 山岡部長は松方氏が喜んで「ぜひお頼みします」と答えるに違いないと予想していたが、返事は意外だった。

 「おいどんがとこの職工の事は、おいどんが始末する。かまわじとおくいやい!」

 この松方社長の一声で、二年後のストの場合とは違って一人の犠牲者も出さずに、サボは予期以上の成果を収めて解決した。サボがすんだ後、山岡部長は当時のことを正直にわたしに話してこうつけ加えた。

 「実はネ、君を煽動者としてひっくくる手筈にしていたのだが、松方さんのおかげで君は助けられたんだ。あまり松方さんを悪く書くとバチが当るよ」


村島帰之の労働運動昔ばなし(第15回)

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「神戸・賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(15)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


              第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

                 近代的親分松方社長


 大正六、七年から十年にかけて、兵庫県の実業家を代表するピカイチ的な存在は川崎造船所社長松方幸次郎氏であった。

 毎朝、川崎造船所の始業の汽笛のなりひびく頃、二頭馬車――といっても今の自動車のような立派な箱型ではなく、ホロのいった旧式の馬車に、葉巻をくわえながら悠然と乗って、蹄の音も軽く造船所へと急ぐ松方社長のエビスさまのような童顔は川崎関係者だけでなく、神戸市民に親しみ深いものだった。

 その時、菜ツ葉服を着た川崎の職工が汽笛のひびく中を小走りに馳けて行くのを見ると、社長は馬車の上から呼びとめて「遅るツど、ここへ乗りやす」といって馬車にのせてやったりした。(わたしがこの話をプロレタリア作家貴司山治氏にしたら、彼は「社長の馬車」と題して短篇小説にした)

 松方社長は賀川氏のいったように近代的親分といった処があった。最近横浜で神部健之助氏が発見した資料によって、彼が東大子備門在学中、暴行事件を起して退学処分となり、再入学願を提出している事が判ったというから、彼が青年時代から、青白い一般の金持のぼんちとは違っていて、なかなかのサムライであったことが想像される。その時の再入学願書は予備門長杉浦重剛あてで次の如く書かれている。

 「私儀一時ノ不心得ヨリ去ル二十七日ノ暴行二関シ、退学被申付候段、恐縮ノ至リニ奉存候、然而其後謹慎悔悟致シ勉励仕居申シ候間、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ再入学御許可被成下度此段奉懇願候 以上
  明治十六年十一月二十日
                 府下芝区三田一丁目二十八番地
                   鹿児島県士族 松方幸次郎(印)
                         (慶応元年十二月生)

 この願いは容れられて、その願書の末尾に

  願之趣特別之詮議ヲ以テ聞届候事
    明治十七年五月二十日
                   東京大学予備門長 杉浦重剛(印)

 と朱筆がある。多分、元勲松方正義公の七光りが利いたのであろう。

 しかし、再入学の許されたのは、願書が出てから半年を経過していた。松方氏はその閉門解除が待ち切れず、三月にはエール大学に学ぶため、すでに渡米していたのだから折角の再入学許可も後の祭りになった。だだっ児らしい松方氏の面目がうかがわれる。

 松方氏は渡米後、エール大学に学び、さらに欧州に移りパリ大学、オックスフォード大学を渡り歩いて帰国後は松方内閣の秘書官となり、明治四十五年には神戸から代議士に当選した。しかし、中途で志を変え、実業界に転身、神戸川崎造船所の社長となった。

氏は昭和二十五年六月二十四日、八十四才の生涯を閉じるまで実業界で縦横に活躍したが、神戸時代は五十台のあぶらののりきった時期で、彼のサムライぶりと、近代親分ぶりが最も華やかに展開された。

 わたしの独断を許されるなら、大正十年の神戸の大争議が罷業四十五日にわたり、多くの収監者・解雇者ばかりか死傷者さえ出し、川崎・三菱で立っていた神戸全市を震憾させたのは、松方社長が、あいにく外道中で、その留守をあずかる重役がボンクラだったためだといいたい。もし松方社長がいたら、ああした大事に至らぬ前、ボヤのうちに消火していたと思う。しかしだからといって彼が労働運動に理解と同情をもっていたというのではない。ただ、資本家としての彼がその腹の太さにおいて他の群小実業家との間に天地の差があったというのである。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第14回)

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「神戸:賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.or.jp/40223/ )




村島帰之の労働運動昔ばなし(14)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


            第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

               日本最初の口語体新聞


 それともう一つ、岡崎支局長に関して書いておきたいのは、新聞の文体を思い切って口語体にしたという一事で、それも労働問題に若干の関係があるのだ。

 日本で一番はじめに口語体の新聞を出したのは兵庫県だった――といっても大部分の人は信用しないだろう。しかし、事実はあくまで事実である。

 大正のはじめ頃の新聞はまだ全文が文語体で書かれていた。もちろん今と違って、記事全部には「総ルビ」といって一々ふり仮名がつけられてあったのだから、ルビをたよりに読むことは読めるが、内容はつかみにくい。それで紙面の中でも、小説などは一番早く口語体となったが、一般の記事は依然として「何々にして何々なりき」といった書きっぷりから離れなかった。

 尤も東京の三流の新聞で「袁世凱は死んだ」という見出しをつかって口語体を採用したことがあったが「死んだ」では軽すぎるやはり「死去」がいいという反対論が出て完全実施はできなかった。

 それを思い切って口語体に踏みきったのは毎日新聞の兵庫県附録で、大正七年九月一日のことであった。(毎日新聞の本紙全部が口語体になったのはそれから数年してからである)

 そのいきさつを当の岡崎支局長に回想してもらおう。

 『さて、毎日新聞兵庫県附録に口語体を採用した一件ですが、小生は大阪本社の地方課長で地方版を作っていた時「原稿はすべて文章体に限る、言文一致を用ゆべからず」と通信心得にも書き、地方の特派員や通信員にもそう厳達していました。これは口語体ではどうしても文章が長くなり、紙面に多くの記事を収める事ができないためでした。

 ところが、大兄から「青年労働者は義務教育は受けているが、工場に入っているうちに六カしい漢字を忘れて新聞も十分に読めない者が多く、ことに難しい文章は全く歯が立たない」と聞き、それがピンと来たのです。そして小学卒業後三、四年の少年達の学力を試験したらお話の通りでした。

 それで、これは新聞の文章をやさしくするほかはないと考え、兵庫県附録が支局長の勝手にできるのを幸い、大正七年九月一日の赴任を、一日くりあげ八月三十一日とし、九月一日紙上から全部口語体としたのでした』


    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第13回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(13)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


              第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)


2



写真はその折の光景で、馬車の上に立つカンカン帽の黒服が鈴木会長(1)その隣のヘルメットは松岡駒吉大阪連合会主務(2)、その前のカンカン帽は久留弘三氏(3)と筆者(4)。御者台の上のカンカン帽の自服は濱田国太郎海員部長(5)で支局入口のイガ栗頭は岡崎支局長(6)である。なお左方、電柱の下に西尾末広氏(7)のカンカソ帽の横顔も見える。


               尾崎行雄と川崎職工


 岡崎支局長がわたしを本社から引きつれて来たのはもちろん、神戸の土地柄、労働問題で紙面に新風を吹き込もうというのだった。

 それで支局長はいろいろとわたしに注文を出した。一例を挙げると、わたしたちの赴任直後尾崎行雄氏が来神した。月並なスナップ写真では面白くないというので、菜っ葉(青い職工服)を着た一労働者がこの老政治家と握手しているシーンをとろうという注文で、わたしは友愛会の幹部で川崎の伍長だった灘重太郎氏を引フぱり出した。その写真は翌日の毎日新聞の神戸附録のトップに大きくのった。

 話は少し後になるが、友愛会々長鈴木文治氏がアメリカから帰ってすぐその足で来神し、友愛会神戸連合会が特に仕立てた二頭馬車に乗り、楽隊を先頭に三宮駅から市中行進をして、毎日新聞支局に立寄った際、新聞社の名で大きな花輪を送ったりした。労働組合長を歓迎して花輪を贈った新聞社は嘗てなかったし、また今後もおそらくはないだろう。

 また支局長の発意で本紙の社説に対抗し、兵庫県附録の論壇を特設し、労働問題をとりあげ、その特別寄稿家として賀川豊彦氏を依頼した。

 まだ「死線を越えて」も出ない頃で、氏の原稿の市場価値もなかったので一文の原稿料も支払わず、匿名の儘掲載したが、約束の日になると、同氏は木綿の着流しの上に着た羽織をヒモの代りにコヨリで結んで、下駄ばきのまま二階の編集室へあがって来た。そして「松方幸次郎氏は近代型親分である」といったような原稿を書いてくれた。

 わたしたちは「唯一の労働者の味方」といった自負と思いあがりをもって傍若無人に記事を書き、組合運動を煽った。

 そういえばその頃、三菱で友愛会の組合員が馘首されたことがあった。わたしは大いに憤りを発し「模範職工馘首さる」と書いたが翌朝の紙面にはそれが初号の大見出しでのった。本人も「模範職工」の肩書をもらってさぞ苦笑したことだろうが、当の記者もちとほめすぎたかなと苦笑したことを告白する。

 こうして大阪毎日神戸附録は、労働問題に力を注いだので、友愛会に属する組合員はもとより、神戸の労働大衆から非常な好感をもって迎えられた事は事実だった。

当時、地元の新聞の記者をしていた岸田氏は、その後、当時のことを述懐して「あの頃の大阪毎日新聞は全く労働者の唯一の味方といった感があった」と書いてくれている。

   (続く)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第12回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(12)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


              第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

                 毎日新聞神戸支局へ


 わたしは労働問題記者として、また労働組合のリーダーとして若い情熱を傾けていた時、神戸支局転任の話が降ってわいた。わたしの上司である岡崎地方課長が神戸支局長に転勤することとなり、わたしを連れて行こうというのだ。

 岡崎課長は前回記した通り、社中でも労働問題に対し最も深い関心をもってわたしの書く労働記事を歓迎してくれたし、わたしが、労働運動に首を突っ込んでいることに対しても、見て見ぬふりをしてくれた。わたしはこの人の下で働くことに生き甲斐を感じ神戸転任を快諾した。

 しかし、本社を去って割の悪い地方支局行を決意した理由はこれだけではなかった。神戸が川崎三菱両造船所を中心とした労働者の街で、労働運動が漸く盛んになろうとしていること、その指導者として友人賀川豊彦氏や久留弘三氏のいることがわたしを神戸へ引きつけたのだ。

 毎日新聞神戸支局は相生橋の崖の下にあった。貧弱な田舎の三等郵便局といったボロ建物で、二階が編集、階下が販売になっていた。脇を通る汽車の吐出す煤姻で室内は物置のようによごれ、汽車の地ひびきで社屋は一日中震動していた。

 支局長岡崎鴻吉氏は早大出身(わたしとは十年の距りがあった)、同クラスには大山郁夫氏や永井柳太郎氏がいた。はじめ、毎日新聞へは永井氏が就職する筈になっていたが、イギリスへ留学することになって急に岡崎氏がこれに代ったということだった。永井氏は一度神戸支局に岡崎氏を訪ねて来られて、わたしも久しぶりに会った。

 わたしは早大在学中、永井先生に社会政策と植民政策を学び、また下谷万年町などの貧民窟や江東方面の社会事業施設の見学につれて行ってもらったりして、後年のわたしを形成するのに大きな影響を与えた恩師だった。

 わたしが労働問題に取っくんでいることを聞いて永井先生は「君の社会政策の答案にジョン・プルートンの言葉を引いて“財産はこれ臓品なり”と書いてあったのをぼくは覚えているよ。しっかりやり給え」といって激励して下さった。

 岡崎氏は気骨のある九州男子だった。氏が神戸支局長に就任した時、まっ先に松方川崎造船所社長からの使者が来て、お祝いの品を置いて行った。岡崎氏は他からの祝品と同様、突返そうとしたが、前任の竹中支局長から神戸で一ばんの実力者として特に紹介を受けていたので、突返すのは非礼と思い、とにかくひらいて見ると元町のある呉服屋のマークの入った反物が出た。支局長は直ぐ人をその店へやって反物の値を聞かせ、それと同じ値段の葉巻煙草を買わせて松方氏へ返礼した。

 労働問題を紙面の特色とする以上は松方氏のような工業大資本家に引け目を感ずるようなことはしたくないと考えてしたことだが、これを受取った松方氏は「何だ、こんなまずい葉巻、吸えるもんか……」といったかそれとも「この新聞屋やりおるわいと思ったか、そこまでは調べなかった。


   (続く)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第11回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(11)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


               第二回 川崎造船所と松方社長
          
(前回に続く)

                  職工問題の取材


 わたしは毎日新聞で始めは経済部記者として棉花綿糸紡績を担当していた。が、翌年には地方課に転じ、遊軍となった。遊軍というのは特別の受持ちを持たず、本人の気儘に新分野を開拓して行くもので、わたしは経済記者時代に紡績連合会や紡績会社にも出入して労務管理、特に女工の処遇問題なども記事にしていた経験があるので、地方課の遊軍となってからもその方面の取材をした。

 鐘紡の女工寄宿舎を見に行って、長い廊下の陽の当る側の窓ぎわに鏡をならべて結髪所に充てているのや、帝国製麻で女工が終業後も機械音が耳につき直ぐには眠れないので、神経をしずめるため就寝前五分間静かに針仕事をさせていることなどを記事にしたり、女工の賃銀や女工募集にからむ問題も書いた。

 そうした職工問題――当時はまだ労働問題という言葉は一般には使われなかった――を扱っているうち、鈴木文治を会長とする友愛会という労働組合が阪神地方に手をのばしたことを知り、また堂前孫三郎氏や坂本孝三郎、西尾末広氏等により職工組合期成同志会というのが小規模ではあるが大阪で誕生したことを知ってデカデカと紙上に紹介した。大正五年から六年へかけてのことで、労働組合はまだ一般に知られてはいず、新聞記者でも組合の存在を知る者は殆んどなかった。

 西尾氏と相知ったのもこの頃で、お互に二十五才の同じ年であった。わたしは同志会の顧問格で演説会に出たり機関誌の「工場生活」に「労働問題の大意」という啓蒙的な続き物を書いたりしていた。西尾氏は組合の仲間でも「理くつ屋」で通っていたが、その後同志会にあきたらず友愛会に転じた。その頃いっぱしの友愛会幹部を以て自任していたわたしとの親交が深まって行った。

 西尾氏は友愛会に入ってもすぐ頭角をあらわし、久留弘三氏が神戸へ移った後をうけて大阪連合会主務となった。先輩たちはこれを快しとせず、現に支部長某はわたしに向って「西尾はオイラと同じ職工じゃありませんか」と不平を訴えた。労働組合のリーダーはインテリでなければならないものと、労働組合の有力の連中までが考えていたのである。そういったまだ知識階級尊重時代だったので、わたしのようなものでも組合の演説会などにはしじゅう引っぱり出され、大阪ばかりか神戸や京都へも出かけて行った。

    (続く)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第10回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(10)

『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分


             第二回 川崎造船所と松方社長

          
               第一次大戦の造船ブーム


 大正七年九月、わたしが大阪毎日新聞本社から同神戸支局へ転勤した時は、第一次世界大戦のさい中で、兵庫県では今日でいう造船ブームで有卦に入っていた。

 その頃県下にあった造船工場は十六箇所、職工数は約四万人、その中、約一万一千人の職工を擁する川崎造船所と、約八千三百大の職工を使用する三菱造船所は両横綱で、日に夜をついで造船工事を急いでいた。中でも松方幸次郎氏を社長とする川崎造船所では日米船鉄交換による輸入材料でストックボ―卜の建造中だった。

 九千噸型一隻を竜骨据付後二十四日間で進水させようとして、熟練職工約五百人づつ毎夜交替で夜を徹して工事を急いでいた。船体の鋲を打つけたたましいエヤ・リベットの音に圧倒されながら、大きな竜骨の下を歩いた時の感銘を今も忘れない。

 同じ頃、平塚らいてう氏も造船所を見て廻って「働いている人たちの姿が崇高に見えて感激しました」と昂奮して語っていたことを思い出す。

 しかし、造船業の繁昌は勢い労働の強化となって、職工は残業徹夜を繰返さねばならなかった。「このごろのように忙しくては全くからだが参りはしないかと思います」と異口同音に語っていた。そのかわり給料は半月毎にたんまりとポケットにはいった。たとえ年少の平職工でも日給八十銭は貰っていたから、これに七割の戦時歩増、二時間残業に対する三割の残業歩増、それに二割の竣工歩増を加えると少なくも一日一円七十銭乃至二円――月収入約五、六十円(今日の二万五千円ぐらい)にはなった。

 これが職長伍長の役付ともなると百円――今日の五万円を上廻って、ホワイト・カラーのサラリーマンなどの到底及ぶところではなかった。

 ちょうどその頃、安池川鉄工所をやめて友愛会大阪連合会主務になった西尾末広氏は工場では月収百円を下らなかったのに、組合の有給職員となると、一ぺんに六十円に減収となって随分困ったという話も聞いた。

 当時、大学を出ても百円の俸給をもらうようになるには相当の年期を入れねばならなかったのだから、造船工のふところのあたたかかったことは事実だ。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第9回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(9)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


              第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
              
              
                 賀川氏葺合支部長に


 大正七年に這入ると、賀川氏は神戸の友愛会のため一段と力を入れ出して、自分のみならず、友人たちをもつれて来て演説会に出た。

 新年初頭の茶話会に次で、二月三日兵庫の実業補習学校で大講演会を催した際には、賀川氏が「相互扶助論」をやった外、恩師マヤス博士をもつれて来て「労働者と人格」という題で一席やって貰っている。

 叉四月十七日の幹部修養会でも賀川氏は鈴木会長らと共に講演をしている。そして五月には氏は推されて葺合支部長となった。当時、同支部加盟の組合員は神戸製鋼所職工その他約二百名であった。賀川氏の友愛会--従って労働運動との正式のつながりはこの時から始まった。

 記録に漏れているので、はっきりした月日は判明しないが、賀川氏が葺合支部長に就任した前後に、葺合小学校で同支部の「講演会」が催され、友愛会本部書記だった野坂参三氏と筆者とが講師として出演した。

 その時、野坂氏は当時、労資の問で頻りに唱道されていた労資協調諭を正面から攻撃して「労資が協調するなどというのは、ライオンとウサギを同じ檻の中に入れて仲よくしろというのと同じ愚論である」と、持前の低い調子ではあるが、しかし当時としては最も過激と思われるような話をやったことを思い出す。後年の野坂氏の萌芽はこの頃既に見えていたのである。
                     

村島帰之の労働運動昔ばなし(第8回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(8)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


             第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
              
                 友愛会六周年大会


 大正七年四月には友愛会六周年大会が大阪で開かれることとなった。大会経費予算二百円の内、本部が六十円を負担し残り百何十円は関西で負担しようという。神戸・大阪・京都など関西側の実力のほどが窺われる。

 四月三日、友愛会六周年大会は天王寺公園前の公徳社の二階で開かれた。出席代議員七十七名、大阪・神戸のほか東京・名古屋・京都・舞鶴・広島・呉・門司・八幡からも代表者が出席した。

 この大会で美しい会章のついた短冊型のバッヂを代議員章として交付したが、恐らくはわが国におけるこの種の大会でバッヂを出した最初であろう。

 また議事の裁決にギャベルを使用したのもこの大会が最初であろう。ギャベルは鈴木会長が前年アメリカの労働組合大会に出席した際、特にもらいうけてきたものである。

 会場には賀川氏や古市春彦氏などの顔も来賓席に見えた。筆者は会員の五分間演説の後を承けて「産業社会の悲劇」について二十分ばかりしゃべった。来賓演説としては筆者だけであった。

 つづいて同夜、天王寺公会堂で聞かれた公開講演会――「友愛会六周年大会記念社会政策講演会」は天王寺公会堂を埋めつくす盛況だった。

 その筈である。講師は高石真五郎・賀川豊彦・今井嘉幸・関一という顔触れだったからである。

 当時、筆者は大阪毎日新聞の内国通信部に属していた。課長は岡崎鴻吉氏(翌年神戸支局長となり、筆者を神戸へ連れて行った)で同氏は早大で大山郁夫氏や永井柳太郎氏と同級だった人。社会主義や労働問題に非常に興味を持っていて、氏が責任も持った本版と称する紙面の全ページ五段を友愛会大会のために割愛し、筆者に独りで五段の記事全部を書くよう命ぜられた。

 講演は議会の記事のそれのように、話を聞きながらずんずん書いて行って、できる尻から自動車で本社へ運んだ。無論、こんな事をしたのは大毎だけで、他紙は十行の記事も書かなかった。

 当夜、私は演壇の下の机で、友愛会本部から西下した野坂参三氏と向いあって筆記をしていたが、大毎の肩の入れ方とそして筆者が即座に記事を仕上げて行くやり方にひどく感心して「素晴しいなあ」を繰返していたことを思いだす。

 恐らくこれほど大新聞が大々的に組合の大会の記事を取扱ったのはこれが最初ではなかったろうか。これは全く岡崎氏の好意の賜物である。そしてその好意は翌年神戸でいよいよ華やかに開花したことは後に記す。

 なお面白いことには、当夜の弁士の中に大毎の幹部である高石真五郎氏も加わっていたが、筆者は自社の人の演説をのせるのはどうかと思って一切省略した。

 ところが、翌日になって社中の問題になった。それは「今井博士や関博士のものをのせるのはいいとして、賀川某の如き無名の男を名士として扱い乍ら、高石氏を略するのはけしからん」というのだ。筆者は腹の中で笑っていた。今に見ろ、お前たちは賀川の名を拝む時が来るから――と。

 賀川氏の講演は「労働者は何故貧民になるか」というのだった。そして氏の名の上には「バチエラー・オブ・デビニテー」という称号が麗々しく記されていた。

 それほど、まだ賀川氏の存在は一部識者以外には知られていなかった。いいや労働組合員でも神戸以外の諸君は、当夜の熱弁を聞いて初めて氏の存在を認識した者が大部分だったのである。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第7回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(7)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


            第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
               
                久留弘三氏の登場


 その頃、神戸聯合会傘下には神戸、兵庫支部のほかに葺合、尻池にも支部が出来ていた。葺合支部では、賀川氏の住む新川がその部内にあるだけに、余計に賀川氏に期待するところがあって、大正七年一月十三日新年幹部懇話会にも特に賀川氏の出席を求めた。

 茶話会は湊川実業補習学校で開かれた。湊川及び兵庫の実業補習学校には、川崎造船所から多くの熟練工が夜間就学していて基礎の技術教育を学んでいた。野倉万治氏や青柿善一郎氏など組合幹部でその通学生だった者が少くなかった。学校長の岸田軒造氏や寺崎九一郎氏は、組合運動の同情者で、弁士の少い折には演説会にも出演してくれさえした。

 茶話会で賀川氏は「英国における戦時労働組織について」約一時間に渉る雄弁を奮った。さらに山県憲一氏を喪い、近くは高山主務を失って寂しく思っていた神戸の労働者たちは、賀川氏の出現をどんなに喜んだ事だろう。

 この茶話会が済んで間もなく、詳しくいえば一月二十六日、高山主務の後任として久留弘三氏が来神した。久留氏はさきに記した如く、新設の関西出張所主任に新任されたもので、神戸主務はその兼務であった。

 賀川氏の出現と久留氏の赴任によって、神戸聯合会は俄然元気を盛り返して来た。そして賀川、久留両氏は善きコンビを作った。(翌八年には筆者が加わって、トリオができた)。

 久留弘三氏は大正五年の早大政治経済科の出身、大阪天王寺中学にいた頃は横綱大錦卯一郎や宇野浩二と同窓だった。岩橋武夫は下級生であったが、勿論、失明前で、その美少年振りに、久留氏等は善く追っかけたものだという。

 久留氏はその早大にある頃から労働運動に興味を持って、友愛会に出入していた。今は共産党の大立物である野坂参三氏も当時は慶応の学生で、久留氏と一緒に友愛会に出入していたもので、卒業と共に、二人はその儘、友愛会に這入った。

 久留氏は高山氏の如き基督教信者ではなかったけれども、後年、友愛会を去って基教界の変り種である斎藤信吉氏と共に、人格主義の上に立った独特の労働者文化運動を始めたぐらいの人。

 山県氏といい、高山氏といい、賀川氏、久留氏といい、神戸の開拓者がみな基督者であったことは奇遇といわねばならない。

     (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第6回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(6)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


             第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)

                 野倉万治氏その他

 大正六年五月六日、神戸聯合会成立記念大講演会が大黒座で開かれ、次で九月九日にも特別講演会を開催、賀川氏が始めて出演した。

 何しろ、神戸は川崎、三菱両造船所、神戸製鋼所の如き大工場を持っていてそこに働く労働者の大部分は熟練工であるため、組合運動の発達も他の都市より早かった。また会員の変動というものも少く、幹部の如きは殆んど動かなかった。現に高山主務時代の幹部はその翌々年のサボタージュや四年後の大正十年の大争議のリーダーと殆んど変りがないのでも知れよう。そしてその組合の幹部が大体造船所の職長(職工仲間では工場長と俗称していた)や伍長、伍長心得といった人達だったため、組合はまじめに発達して行くことが出来た。

 大正七年一月の友愛会の機関誌「労働及産業」に出ている「神戸聯合会消息」を見ると、神戸支部(川崎造船所本工場)では颯波(職長)須々木(伍長)野倉(伍長)の諸君の名が出ている。

 野倉氏はいうまでもなく大正八年の川崎のサボタージュや大正十年の大争議の総指揮者であった野倉万治氏であり、須々木というのは野倉君の女房役――というよりも姑役であった須々木純一氏である。

 これより先き、神戸の主務として、指導に当っていた高山豊三氏は教会の牧師としてアメリカヘ出かけることとなり、在ること九ヵ月で神戸の労働者にサヨナラを告げることとなった。高山氏としでは、別に労働運動に失望した訳ではないが、やはり牧師として身を立てようと考えたのであろう。まだ組合運動の重要性の一般に認識されていない時だったから、これも致し方がない。十一月五日高山君の送別会が開かれてお餞別として金十円が贈られた。

 高山主務を失った神戸は、リーダーがいなくなった。この時みんなの頭に浮んだのは、これまで二、三回、演説会に出てくれた新川の貧民窟の「先生」賀川豊彦氏だった。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第5回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(5)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


            第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
            
                 賀川豊彦氏の印象

 今でもハッキリ覚えているのは、久留氏が大阪へ赴任した時、鈴木会長の紹介状を携えて、大阪郊外に住む筆者を訪ねて来た事である。勿論、初対面であった。

 「時に、賀川豊彦さんを御存じでしょうか。鈴木会長から、賀川さんにいろいろ御指導を仰ぐようにと、言いつかって来ているのですが。」
 「ええ、知ってますとも、去年の五月、アメリカから戻って来て、神戸の貧民窟で貧民の世話をして居る人です。」

 筆者が賀川氏を始めて知ったのは大正六年七月十四日の午後の事だ。かくまで正確に言えるのは、私の記憶が確かだからではなく、その日、氏が試みた講演の大要を筆煮が書いて載せた大阪毎日新聞の切抜か残っているからである。場所は大阪堂島田簑橋々畔の大阪府知事官邸、大阪府救済事業研究会の月並例会の席上であった。

 六年七月といえば、賀川氏がアメリカから帰ってまだ二ヵ月経つか経たぬかの時である。その日の筆者の印象は、いかにもアメリカ戻りらしい瀟洒な青年学者で、非常に謙遜な、愛嬌のある、人触りの百パーセントに善い人―-というのだった。確か、白い麻の夏服を着ていたが、その上衣の極めて短いのが大変にその人をスマートに見せた。

 筆者は小河滋次郎博士に紹介されて名刺を出した。すると氏は

 「おお村島さんですか。僕はあなたが毎日新聞に連載された『ドン底生活』を図書館で面白く拝見しましたよ。大変参考になりました」

 あだかも十年の知己のように、堅く筆者の手を握った。今もそうであるように、人をそらさない氏のアットホームなその態度に、筆者はすっかりチャームされた。思えば、これが筆者を氏に結びつけて、労働運動に、労働者教育に、社会事業に、宗教運動に、同志として、協力者として、信者として、読者として四十五年を倶に在らしめたそもそもの始めだった。

    (続く)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第4回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(4)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


             第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
            
       神戸聯合会主務高山豊三氏

 世間には高山豊三氏を、高山義三氏と混同する人が少くない。たった一宇違いだが、全くの別人である。豊三も義三もともに基督教信者であり、同じ友愛会のリーダーであったが、前者は神戸の主務、後者は京都の支部長であった。(義三氏は現在は京都市長であるが、当時はまだ京大の一学生であった。)

 友愛会は前記のように教会の一室から生れたものだけに、その支持者を、また鈴木氏の事務の手伝いをしてくれた者もみな信者だった。最初、暫くの間ではあったが、当時、統一教会の伝道師であった加藤一夫氏が、鈴木氏の手伝いをしてくれた。(加藤氏は人も知るごとく一頃は大杉栄氏等と共に無政府主義陣営にあった思想家だが、終戦の少し前、永眠した。氏の横浜の旧居は本文の筆者が譲り受けた。)

 高山氏はその頃、神学校を出たばかりだったが、加藤氏の紹介で友愛会入りをして、約半歳、鈴木氏を扶け、創業時代の友愛会を守り立てているうち、牧師として静岡県小山町に赴任する事となり、友愛会を去った。氏の赴任した小山には有名な紡績工場があって、早くから友愛会の支部が設立されていた。氏は牧師の仕事の傍ら小山支部の顧問として、その面倒を見た。氏ばかりではない。氏の夫人も、支部に属している女工さん達のよき姉となっていろいろと面倒を見た。

 或る朝、高山夫人が町の風呂へ出かけたところ、徹夜明けの女工が、まるで雪の中から出て来たかのように、真ツ白な綿ぼこりを頭にかぶっているのに胸を打たれ、さらに、流し場で洗っていると、子供づれの女工さん(通勤女工の中には多くの母親がいた。)が、わが子の背中を流しながら、徹夜仕事の疲れからであろう、われ知らず居眠りをし、とんでもないところを洗って子供に泣き出され、ハッと眼をさます有様を見、言い知れぬ感情に襲われ、それ以来、夫君を扶けて、一生懸命に女工さん達の世話をしたという。

 高山豊三氏が神戸に主務となった日から三月だって、賀川氏はアメリカから颯爽として帰朝した。久しく神戸支部長として指導してくれていた山県憲一氏の死去で一沫の寂しさを覚えていた神戸の友愛会は大いに気を強くし、会員もふえて行った。そこで鈴木会長は大正七年一月、大阪、神戸両聯合会の上に関西出張所を開設し、その主任として本部副主事久留弘三氏を任命し、神戸の高山、大阪の松岡駒古両主務と協力して関西全体に亘って拡張運動を推進させる事となった。

 (続く)

村島帰之の労働運動の昔ばなし(第3回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(3


『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


            第一回 友愛会の神戸開拓
          
(前回のつつき)
            

               神戸の労働者の増加

 明治二十三年頃は工産物総価額僅か百万円にすぎぬ神戸市であつたが、日清、日露の両役を経過し、さらに欧州戦乱の影響を受けて急激に発展し、川崎、三菱両造船所及び神戸製鋼所等の大工場の続出によって、いよいよ飛躍的進歩をとげた。

 現に欧州戦乱勃発前――大正三、四年頃には職工数七、八千人に過ぎなかった川崎造船所の如き、大正七、八年には一躍倍加して一万六千人の菜ッ葉を着た労働者が工場の門を潜る盛況を見るようになり、三菱造船所も同様で、欧州戦乱勃前までは五千人しかいなかった労働者が、大正八年には一万人を算して、これまた倍額の増加であとの大工場には優秀な労働者が集った。彼等の時代の目覚めもおのづから他の小工場の労働者よりも早かった。神戸の労働組合の運動は大正三年の暮あたりから徐々に進められていた。


                山県憲一神戸支部長

 友愛会創立五周年史(大正六年三月友愛会発行)によると、大正三年、桂謙告氏等によって神戸分会が組織され、これが後に神戸葺合支部となったのだと記されているが、支部の出来だのは、神戸支部の方が早かったのだと記憶する。

 神戸支部は、川崎造船所の本工場の労働者の組織したもので大正四年二月発会式を挙げ、当時神戸高商の教授であった山県憲一氏がその支部長に挙げられた。木村錠吉、颯波先三、須々木純一氏等有力な人々が幹部組合員であった。

 山県憲一氏は基督教信者で、人道主義的な熱情を以て深く労働運動に傾倒し、進んで支部長の椅子に就いた。氏は当時なお学者間にも余り問題にされていなかった「職工問題」 (まだ労働問題とはいわなかった)に興味を持って、後には「職工組合論」という書物をさえ著わしたほどの進歩的学者であった。もし同氏がなお数年健在でいたら、同じ人道主義的立場を採る賀川豊彦氏と手を握って、相共に十字架的精神を以て社会正義のために健闘した事だろうが、惜しいことに、賀川氏の労働運動への進出を見る前に、すなわち賀川氏の外道中に早世してしまった。

 山県氏の死去後、神戸は適当な指導者を持たなかったが、しかし、時勢は駸々として進んで、労働者の団結は、雪の上を転ばす雪達磨のように、次第にその塊りを大きくして行った。川崎造船所本工場を地盤とする神戸支部の外に、川崎三菱両造船所兵庫工場を中心として兵庫支部が生れ、川崎造船所葺合工場及び神戸製鋼所、ダンロップ護謨会社等の労働者によって葺合文部が組織された。そして大正六年二月にはこれ等の三支部によって友愛会神戸聯合会が組織され、その主務として、東京の本部から常務幹事高山豊三氏が派遣されて来た。

    (続く)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第2回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(2)

『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分



          第一回 友愛会の神戸開拓

          
   (前回のつつき)

             大正三~六年の友愛会   

 大正六年五月、アメリカから帰朝した賀川氏はその足で二年八ヵ月間留守にした神戸の貧民窟葺合新川の二畳敷御殿に復帰し、再びセツラーとしての働きを始めた。「再び」とはいうが、その働き場所なり、その善意は前と変りはないけれども、氏の社会観には非常な相違があった。氏は当面の救護というものが無産階級の解放に些して役立たないこと、真に無産者を救わんとせば、まず彼等に組織を与えなければならぬこと。組織によって、彼等は自らを救うべきであること等々を、米国の民衆運動から教えられて帰って来たからである。

 賀川氏がアメリカに向け出発した大正三年九月には、まだ日本には工場法さえ施行されては居らず、労働組合も、友愛会が弧々の声を挙げて三年しかたっていなかった。ところがわづか二年八ヵ月ではあったが、氏の留守した間に、友愛会は内地のみならず遠く大連にまで伸び、労働者の自覚は大に高まって来ていた。

 友愛会が始めて関西に手を伸ばしたのは、同会が鈴木文治氏により、東京三田の惟一館のミッションの仕事の片手間に、同志十数名を叫合して創立された翌年―大正二年、大阪新川崎町の三菱製煉工場の職工が同会の機関紙「産業及び労働」の配布を受けたのに始まるといわれる。そして翌大正三年二月、東京の江東支部の河野吉太郎氏が来阪し、木津川の秋田製造所職工として就職して以来、三菱製煉及び電気分銅両工場の職工を勧誘し、三十名の会員を得て始めて支部らしいものが出来、翌々五年には会員が一躍四百名に増し、五月には住友伸銅、汽車会社職工を中心に大阪第一支部を結成、十一月、日本兵機の職工によって関西支部が設立された。筆者が労働運動に最初に関与したのは、この関西支部だった。では、神戸ではどうだったか。

    (続く)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第1回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(第1回)

兵庫県立労働研究所『労働研究』(第135号)1959年5月号連載開始分


 (賀川豊彦の盟友・村島帰之については折りに触れて言及し、このブログでも村島著『預言詩人・賀川豊彦』の長期連載を終えています。今回から掲載していく村島の「労働運動昔ばなし」は、どうしてもテキスト化して残しておく必要のある貴重なドキュメントで、取り敢えず時間をつくって、少しずつUPを進めて置きます。全体を終えてから一書として整えることにいたします。ー鳥飼)


 村島帰之氏は早大出身、大正中期の関西の友愛会の創業時代に、大阪毎日新聞の労働運動担当記者として、運動の発展してゆく模様を詳しくみただけでなく、自身も友愛会の組織の内部にあって、運動を守り育てた人である。

 西尾末広氏は、その著書『大衆と共に―私の半生の記録―』のなかに、「賀川氏に次いで、大毎記者村島帰之氏が総同盟に尽してくれた功績は極めて大きい。村島氏は神戸支局時代から労働運動に関係していたし、大阪本社勤務になってからも、新聞記者というより同志的関係を持続した。友愛会の会合などではよく司会者をやったが、その場の空気をリードするのに巧みな人であり、一人として敵のない人格者だった。」と書いている。

 もっとも、村島氏が最初に労働運動に関与したのは、西尾氏が書いているのよりはずっと早く、大正五年、大阪に友愛会の関西支部ができたときであり、大正八、九年の神戸支局時代は、“労働運動に関係していた”という程度ではなく、大正八年の川崎造船所のサボタージュの成功などは、村島氏の海外労働運動に関する新しい知識に負うものであり、この争議の実質的な最高指導者は村島氏だったといえるほどである。

 村島氏のこういう立場から考えて、この[労働運動昔ばなし]は、神戸の友愛会についてはもちろんのこと、当時の関西の労働運動にづいて、運動内部の秘められた事情といったものまでをも含めて、多くの新しい事件や事実を明らかにするうえに、大変貴重な資料になると思われる。

 村島氏は、現在、茅ヶ崎市小和田七、一〇五にあって、闘病生活中であるが、編集者の無理なお願いを快く受けて、数回にわたって執筆していただくことになった。厚く感謝するとともに、ご全快の一日も早からんことを祈ってやまない。            〔編集担当者〕



      第一回 友愛会の神戸開拓

               光は神戸の貧民窟より

 極めて大雑把に、大正時代のわが国の無産運動の地方色を概言することが許されるなら、私は斯う言いたい。関東の無産運動はより理想主義的で、関西の無産運動はより現実主義的であった-と。そして、もしも労働運動の正道が抽象的な理論斗争にないとしたら、現実的な経済行動を主として動いていた当時の関西の労働運動を、正統な労働運動といえるのではなかったか、と。

 関東の労働運動者が当時、関西の労働運動を評して「関西には理論がない」といい、関西の労働運動者は関東の運動を評して「彼等の足は地についていない」といっていたのは、その労働運動のローカル・カラーを自ら物語っていたものといえる。

 現実的な傾向を特色とした関酉の労働運動の由来するところはその土地柄によること勿論であるが、只だそれだけだろうか。私はその有力な因子として神戸葺合新川部落に住んでいた「賀川豊彦」の存在を無視できないと思うのだ。

 尤も賀川氏が労働運動を指導したのは、既に四十年に近い過去の昔語りになろうとしているが、その流れは、今も連綿として続いている。わが国の労働運動の最も激動期にある今日、四昔前の事どもを回顧して見るのもあながち徒爾ではなかろうと思う。



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