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村島帰之の労働運動昔ばなし(第59回)

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「烏原貯水池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(59

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第八回 大正八年という年
     ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―

   (前回の続き)
 
                賀川理事長の指導精神


 関西同盟会は木村氏を正大将とし、賀川氏を参謀大将として雄々しく立上ったが、同会はどういう風に針路を定めたか。

 いうまでもなく、同盟のリーダーシップは賀川氏の手中にあった。従って賀川氏の指導精神が即ち関西同盟の方針となるのだった。創立大会についで4月20、中央公会堂で記念大会が催されて、賀川氏起草の宣言が可決された。これこそ、関西労働組合の針路を示すもので、同時に、着実穏健で余りにも宗教的だといわれた賀川氏の指導精神を窺い知るものであった。

 この穏健なる指導精神は、その後、永く関西の労働運動を支配した。そしてともすれば矯激に走ろうとする関東のそれに対し、一つの大きなローカル・カラーともいうべき特色を示した。少し長文だが、関西労働運動の当時の指導精神を知るためにその全文を掲げる。賀川氏の面目を伺うに足ると思った節々を示したつもりである。
     

          主   張                (原文のまま)


 我等は生産者である。創造者である。労作者である。我等は鋳物師である。我等は世界を鋳直すのだ。又我等は鉄槌を持って居る。我等に内住する聖き理想と、正義と、愛と、信仰の祝福に添はざるものがあれば、我等はその地金がさめざる中にそめ槌を打ちおろすのだ。我等は意志と、筋肉と鉄槌と、鞴を持って居る。我等は内住の理想を持って宇宙を 改造することが出来る。

 我等はこの精神を持って如斯宣言す。労力は一個の商品でないと。資本主義文化は賃銀鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈倫させてしまった。故に我等は労働組合の自由と、生活権と労働権と、集合契約権と、正義に基く同盟罷業の権利を主張し、治安警察法第17条の撤廃と現行工場法の改正を要求す。

 我等は8時間労働制の採用と、最低賃銀の制定を凡ての労働組織に要求す。即ち工場作業にも、家庭に於ける内職作業に対しても同様に最低賃銀の制定を要求するのである。殊に今日労働者の家庭に行はれつつある内職工業なるものはその悲惨言語に絶ししている。

 我等は速かにその改良を要望す。

 我等は労働者の災害に際する賠償法の制定と、労働者に対する廃疾災害、失業、疾病、養老保険の確定を要求す。

 又工場の民主的組織と、その立憲的経営を当然の要求と信ずるものである。我等はかくして資本主義文化の疾患である恐慌と失業に備へ労働市場の悪風を打破し、労力の掠奪者と、中間商人の横暴を排し、労働者自身が欺かれて、契約労働の苦役につきつつある今日の惨状より自らを救済せんとするのである。                   、’
 更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふ故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃銀を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る。

 我等はまた日本の都市に於ける今日の労働者の住宅は全く人間の住むに適せざることを声明し、その住宅の改良を世界に訴へんとす。

 又我等は労働者自身の向上の為めに補習教育、徒弟教育、また労働者の社会教育を普及せん為めに、政府当局が適置をせられんことを希望し、将来は労働者の子弟と雖も、資本家の子弟の如く経済的東縛なくして、自由に大学に入学し得る設備の与へられんことを要求す。

 斯の如き要求は、生産者がなす可き正当の権であって我等が、一個の人格であり、自主である以上、決して市募に於ける一商品で無いと世界に向って告ぐるに必要なる条件である。

 我等は決して成功を急ぐものでない、我等は凡ての革命と暴動と煽動過激主義思想を否定す。我等はただ自己の生産的能力を理性に信頼して確乎なる建設と創造の道を歩まんとするものである。時代は変るであろう、流行を追ふことの好きな日本人は昨日は帝国主義を送り、今日デモクラシーを迎へ、明日はまた人種的偏見に煩はされて、我等労働者の自覚に一顧だに与へ無いであろう。然し我等は既に一歩を踏み出した。この道は決して変るものでは無い。我等は生産者の外に世界に文明を教へ得るものの無いことを知って居るから消費階級の遊戯的文明と、それによる此度の破産を嗤ひ凡ての迷妄と破壊に反対し戦後に於ける世界の改造と建設はただ我等生産者のみによって為し得べきこととかくして叡智の太陽を仰ぐ日の近きを世界に宣言するものである。

  大正8年4月20日

      (つづく)
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村島帰之の労働運動昔ばなし(第58回)

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「ぶらり散歩:烏原貯水池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(58

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

第八回 大正八年という年
     ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―


   (前回の続き)
 


                  大正8年来る


 「大正8年に労働組合員は何をしたいか」というアンケートさえとられたほど期待されていた大正8年が来た。その年頭の運動はアンケートにも強く要請されていた労働組合公認期成運動であった。即ち1月16日、株屋岩本栄之助氏が100万円の巨費で建てて市へ寄附した大阪中央公会堂で組合公認要求の演説会が京、阪、神の3連合主催の下に開かれ、聴衆2、500、今井、岡村両博士や賀川氏が出演し、当夜の決議文は賀川氏が携えて上京した。つづいて3月1日には友愛会関西出張所が音頭をとって治警17条撤廃請願運動を起し、管下11支部の会員の調印を求め、東京本部のと合せてこれを今井嘉幸代議士に託し衆議院に請願し、次で15日には中央公会堂で講演会を開催、賀川氏及び松村敏夫氏等が出演した。

 上の二つの運動を手始めとして、大正8年一杯は(年末議会シーズンに入って普選運動を開始するまでは)組合公認と治安警察法撤廃の2目的に向っての集中射撃であった。

 大正8年中、各地で催された演説会に於ける主要目標は殆んどこの2問題に限られた感があった。賀川氏らは引張凧の有様で、筆者の如きでさえ、同じ話をするのが気がひけて、いろいろと草案を作り直すのに苦心したほどだ。

 この2大問題が労働者を吸引し、また外では万国会議が進捗して、8時間労働その他の労働原則が討議せられたことが間接に労働階級の刺激となり、組合は次第に膨れて行った。

 こういうように運動が活発に推進され、また神戸、大阪、京都その他の支部が次第に発展して行くにつれ、これら、関西各地の友愛会員の連絡統一を図るため、関西同盟会を組織することとなり4月13日その創立大会を豊崎町の相生楼で開いた。そして会長には神戸川崎造船所の木村錠吉氏、副会長には大阪住吉伸銅所の成瀬善三氏及び京都奥村電機の井上末次郎氏、理事には賀川豊彦氏を始め久留弘三、高山義三、村島帰之のインテリ指導者も選ばれ、理事長には賀川氏が当選した。同創立大会の公開演説会には、鈴木会長のヴェルサイユ万国会議出張中の留守会長北沢新次郎氏(早大教授)および村島帰之が出演した。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第57回)

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本日のブログ「岩田健三郎画文集」http://deainoie.fukuwarai.net/



村島帰之の労働運動昔ばなし(57

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

第八回 大正八年という年
―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―


   (前回の続き)
 
友愛会の1万人運動


 まず労働条件ではまだ10時間労働制の実施を望んでいる者が多く、8時間制を望む者と同数あることを指摘せねばならない。つまり当時は12時間近くの労働を強制されていて、8時間制はまだ夢だったのである。その意味からいって、大正8年の川崎造船所がサボタージュの後、たとえ名目だけでも8時間労働を獲得したことは意義が深い。
         
 賃金問題では残業なしで日給2円以上(月に直せば50円程度)といっているのも、今から見るとむしろほほえましいではないか。

 労働組合の公認を求める者の多いのは注目に値いしよう。団結権や争議権もなく労働運動を事実上禁じていた治安警察法第17条の廃止を要求する者と合算すると20名に近い。後に記すように大正8、9、10年に各地で頻発した争議の大部分がこの要求をかかげているのもそのためである。

 労働組合運動自体に関する事項では労働会館を持ちたいという希望が一ばん多いが、これはまだ独立の事務所さえ持たず、大阪連合会は2階に西尾末広氏の親戚の者が住み階下の2間だけの事務所、神戸連合会もお妾横町の2階借というさもしい住いとあってみれば当然の欲求であったといえよう。

 友愛会員の増加を希望するのは恐らく全員の声だったと思われる。大正7年から8年へかけての関西の友愛会の発展の跡を見ると

 大正6年5月  神戸連合会結成(7年1月久留弘三主務就任)      
         大阪連合会結成(7年2月西尾末広主務就任)     
  7年    神戸葺合支部結成(支部長賀川豊彦)       
    8年    神戸尻池支部結成(支部長村島帰之)         
     4月  関西同盟会結成    

 組合員数は大阪、神戸連合会がそれぞれ3、000を越え、京都を加えても8,000には達していなかった。それで久留弘三氏が友愛会関西出張所主任兼神戸連合会主務に就任してまず最初に着手したのは会員の獲得で、会員1万人を目標にしてPRに努力した。久留氏らはこれを「1万人運動」と称し、にわか雨の時に組合員に貸すため番傘を作り、傘一面に「友愛会員1万人運動」と大書した。わたしもその1本をもらったが、ちょっと気がひけてさず勇気がなく、他の労働運動の資料と共に大原社会問題研究所に寄附したが、今はどうなっていることだろう。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第56回)

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「烏原貯水池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(56

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

第八回 大正八年という年
 ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―


   (前回の続き)

               関西の組合運動の目標 


 今から40年前の関西の労働組合員が、どういうことを目標にして進んでいたかを説明するに好箇の一つのアンケートがある。それは大正7年末に大阪および神戸の友愛会によって調査されたもので「大正8年中に労働組合として達成したいと思うことは何か」というアンケートであった。

 回答数はわずか84であるが、さきに掲げた大正6年の清野知事時代の天下りの調査とは違って、労働組合が自主的に行なったものだけに信憑性がある。回答は労働条件の改善と、労働権の確立とそして友愛会自体の改善の3項にわかれ、その中には今日では既に実施され、憲法で認められているもの、例えば選挙法の改正(普通選挙の実施)とか、団結権の公認とかいったものものも含まれていて、もはや過去のものとなっている事項が多いのだが、今から40年前の関西の労働組合員が抱いていた組合運動の目標がどんなものであったか、を知るには最も適当していると思うので集計の全文を下に掲げることとする。

A 労働条件に関するもの                14
  1. 労働時間の短縮    9
    残業の全廃 2  ▲10時間労働制の実行 2
  ▲8時間労働制の実行2 ▲日曜を休みに 1
  ▲単に労働時間の短縮2
  2.労働賃銀の改正             5
  最低賃銀の制定3 ▲残業を廃し日給2円以上 1
  ▲安らかに生活出来るよう 1
B 労働者の権利に関するもの 22
  1 労働組合の公認 14
  2 治安警察法(特に17条)の廃止 5
  3 選挙法の改正 3
C 労働運動に関するもの 26
  1 労働会館の設置 17
  2 労働組合の基本金設定 4
  3 全国労働者全部を労働組合に加盟せしめん 2
  4 友愛会員の増加 3
D 友愛会の改善に関するもの 19
  1 機関新聞の日刊 6
  2 機関新聞 週刊 5
  3 機関新聞 月2回発行 3
  4 入事相談所設置 1
  5 労働倶楽部設置 1
  6 代理部の設置 1
  7 婦入部の設置 1
  8 事務所の独立 1
E そ  の  他 3
  1  職業紹介所設置 1
  2 職工住宅設置 1
  3  官費労働者講習所設置 1
 
    計   84


(つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第55回)

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「烏池貯水池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )



村島帰之の労働運動昔ばなし(55

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

第八回 大正八年という年
    ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―



        ロシア革命の余波


 大正6年11月、ロシア革命が成就し、また国内では翌7年8月、米騒動が日本の各地に連鎖反応を起して続発し、8年には吉野作造博士によるデモクラシー(民主主義とはいわず、民本主義といった)の提唱があって、日本の社会運動はこれを転期として一大進展を見せた。

 特にロシア革命の影響はただに社会主義運動だけにとどまらず、労働運動にも大きな波紋を投げ、マルクスやレーニンの名が親しみをもって労働者の口にのぼるようになった。進歩的な思想をもった組織労働者はこう唄った。

 「アジアにつづく北欧のロシアの民を君見ずや専制の雲切りひらき自由の光仰がんと…」

 そして革命の翌年、ロシアが飢饉に襲われて労働者たちが苦しんでいると聞くと義損金を送ろうということになり、ハガキ倍大ぐらい楕円形の偏平な石膏にマルクスまたはレーニン肖像と「万国の労働者結束せよ」という共産党宣言の有名な末尾の言葉を浮彫りにした壁掛けを作り、1箇50銭で売った。京阪神の組織労働者は喜んでこれを買った。

 こうしてロシアの赤い嵐は大正7年以降日本の社会運動の中に吹込んで来たが、台風がまっ先きに吹き荒れたのは箱根から東で、関西は台風の圏外にあった。(その関西もその後神戸を中心にして台風に巻きこまれた)その証拠には9年に「社会主義同盟」が東京で結成されたが、その際も東京の労働組合の信友会、正進会、交通労働、鉱夫総同盟等と一しょに友愛会の関東同盟もこれに参加し、個人として友愛会の麻生久、赤松克麿氏らが参加したが、関西の友愛会はこれに加わらず、賀川豊彦氏をはじめ関西のリーダーたちも1人としてこれに参加する者がなかった。

 そういうわけで、箱根を境として、東西の労働組合の運動方針には可成りの隔たりがあった。東のリーダーは西の労働組合を指して「彼らには思想がない」と罵り、西のリーダ
-たちは「東の連中は足が地に着いていない」と批判した。西は現実派だったのである。
   
 では、関西の労働運動家たちは一体どんなことを考え、またどういう方向に進もうとしていたのだろうか。 

        (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第54回)

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「わがまちのいま」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )




村島帰之の労働運動昔ばなし(54

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

第七回 「死線を越えて」の裏話
     ―賀川豊彦追想録―

   (前回に続く)
   
                社会運動のドル箱


 神戸の争議の後始末にも約3万5千円が「死線」の印税から支払われた。120名を越えた収監者の差入れの費用に充てられ、また首魁と看倣された野倉万治氏に対しては、その下獄中、家族の生活費として月々100円づつを贈っていたのを筆者は知っている。

 鉱山労働の運動に対しても、5千円内外の金を注ぎ込んでいたことは、浅原健三氏の書いたものの中に現れている。また大正10年10月、杉山元治郎氏を引張って来て日本農民組合を創立した時にも、その創立に要した費用は全部賀川が印税収入から支弁した。

 杉山氏を始め幹部の俸給の如きも賀川氏が永い間負担していた。その総額は少くとも2万円には上っていよう。

 11年6月に大阪労働学校を筆者や西尾末広氏が中心となって創立した時も賀川氏は5千円という金を惜しげもなぐ投げ出してくれた。この外、消費組合その他の運動のためにも金は消えた。

 こうして小説「死線を越えて」は、かなり久しい間、日本の社会運動の金穴を勤めたもので、賀川の印税収入の減少した後までも、「賀川の処へ行けば金を作ってくれる」と考えて、金策を申込む向が随分多かったものである。

 もし賀川家の家計簿を公開する機会があったとしたら、労働組合や無産党や、時には予想外の方面に、賀川氏のポケットマネーが出ていた事を発見するに違いない。

 筆者の知人に金倉という篤信の婦人があって、その夫君は十五銀行の神戸支店長を勤めていたが、その話に、「死線を越えて」の出た頃、賀川氏の預金は一時に何千円という多額が這入るが、利子のつくほどの日数を預けている事は殆んど稀れで、直ぐゴソッと引出される。問もなく叉大金が預けられるが、それもまたたくうちにすっからかんになって、賀川氏の口座は大金が動くのにも拘らず、それが銀行に止っている期日は極めて僅少であった――という事であった。

 なければないで、またあればあるで、出し渋るのが金てあるが、賀川氏の如く、自ら文字通り1枚の衣を着粗食を食べて、這入っただけの金を惜しげもなく貧しき人々や社会運動に払出した人物は少ない。


(編集室) 因みに、賀川豊彦氏(日本基督教団牧師・神戸市教育委員)については、この労働運動昔ばなしに毎回のように見られたところであるが、惜しくも去る4月23日午後9時13分、東京都世田谷区上北沢3の863の自宅で心筋こうそくのため死去。71才。なお氏は大正5年米国プリンストン大学神学科卒。欧米に講演旅行すること数回、国際的に名を知られ、カナダのパインヒル大学神学博士、米国クユカ大文学博士を受け、1956年度ノーベル賞の候補にあげられた。昭和21年貴族院議員に勅選され、東久兼宮内閣顧問。その後全国農民組合組合長、同志社大学教授、社会党顧問、中央児童福祉審議会委員をへて神戸市教育委員のほか日本生活協同組合連合会長、社会福祉法人イエス団、雲柱社各理事長、世界連邦建設同盟副総裁。 


村島帰之の労働運動昔ばなし(第53回)

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「岩田健三郎画文集より」(今日のブログ「岩田健三郎画文集」http://deainoie.fukuwarai.net/ )



村島帰之の労働運動昔ばなし(53

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

  第七回 「死線を越えて」の裏話
       ―賀川豊彦追想録―


   (前回に続く)
   
               最初の原稿料1千円


 「死線を越えて」が出版された当初、賀川氏が受取った稿料は1千円也であった。あれだけの売行を見せた「死線を越えて」の印税としては千円は余りにも少いと思う読者が多いだろう。

 しかし、原稿を受け渡しする時には、著者も出版者も、まさかそれほどの売行を見ようとは考えなかったため、千円でも多過ぎる位に思ったのである。しかし、3万5万と売れて行くのを見て、出版者山本社長は自分独りが儲けては相済まぬといって、(あとを書かせようというコンタンの方が大きかったかもしれない)改めて印税の契約を作り、定価1割の印税を支払うこととした。

 印税となると、本の売れる限り、賀川氏のポケットはわき出る泉のように金がはいった。その尽きざる黄金の泉は、多く貧しき人々をうるほし、各方面の社会運動を助けた。

 「死線を越えて」は上篇だけで350版という驚威的売行を見せ、10年12月には中篇「太陽を射るもの」が刊行された。これは賀川が大正10年7月神戸の争議で橘分監に収監された折、破格の待遇とあって特に支給された蚊帳の中で書始めたもので、たちまち200版を重ねた。「太陽を射るもの」に続いて下篇「壁の聲きく時」が出て200版を重ねた。これは神戸の争議当時のことが記されていて、私も「新聞記者島村帰之」の名で登場している。
    
 この上中下三篇の小説は合せて500版50万部を売りつくし約15万円(今の貨幣価値に換算すると約5千万円)という少からぬ印税が這入ったが、賀川はそれを私する事なく先ずその中の1万5千円を割いて神戸新川部落救療事業友愛救済所に投じその事業を財団法人組織とする事とした。

 友愛救済所は賀川が貧民窟生活10年の尊い経験から、霊の救いと同時に肉体の救療の必要を痛感し、大正7年以来経営していたもので1ヵ年の救療延人員6~7千人にも及んだが、費用のかさむ一方において寄附金も少く、賀川自身の収入も少なかったため、「死線を越えて」の出る直前一一大正8年の初め頃には薬の代金にすら事をかき、暫くではあったが診療所を休業した事さえあった。この苦い経験から救済所を財団法人組織にしたのであった。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第52回)

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「ブログ公開:岩田健三郎画文集」(同時進行の新しいブログ:http://deainoie.fukuwarai.net/ )



村島帰之の労働運動昔ばなし(52

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

第七回 「死線を越えて」の裏話
     ―賀川豊彦追想録―

   (前回に続く)
   
              「死線」執筆の動機     


 こうして一世を風靡した「死線を越えて」を賀川が書いた動機について自ら某誌に書いていたのを転載して見よう。

 「死線を越えて」を書いた動機を話せとのお言葉ですが? 明治40年の5月だったと思います一一私か肺病で明石の病院から三河浦郡の漁師の離れに移った頃、独りぼっちで余り淋しいものですから、私は小説を毎日書綴ったのでした。誰も訪ねてくれる人もなし、知っている人というのは村には誰もないものですから、幻の中で過去の人間を小説として想い浮べてみたのです。

 そうでした、その前の年だったと記憶します。私は小説が書きたかったので、古雑誌の上に小説を書きなぐった事がありました。余り貧乏で原稿用紙が買えなかったものですから、古雑誌の上に書いたのです。

 私が小説を書きたかった理由は、私の小さい胸に過去の悲しい経験が、余りに深刻に響いたことと、私か宗教的になって行くことに依って非常に気持ちが変って来たことを、どうしても小説体に書きたかったからです。

 書上げた小説を、私は島崎藤村先生に一度見て頂いた事がありました。すると先生は丁寧な手紙を添えて、数年間筐底に横たえて自分がよく判るようになってから世間に発表せよといわれたのでした。

 その後肺病はだんだん良くなって、私は貧民窟に入りました。それから13年たちました。13年目に改造社の山本実彦氏が貧民窟の私の事務所にやって来られてその小説を出そうじやないかといわれたので、私は、「死線を越えて」上巻の後3分の1を新しく書き加えたのでした。

 その時、前3分の2の文章が余りにごつごつして居てまずいと思ったのですが、妙なものでして、一つ直そうと思えば、全部直さなければならなくなるし、13年度後の私の筆は、余程昔よりは上手になっているようでしたけれども、何だか血を喀いた頃に書いた物は、私の気持が最も真面目に出ているものですから、私は文章より気持ちを取りたいと思って、文章のまずいことを全く見脱すことにして、厳粛な血を喀いた時の気持ちを全部保有することにしたのでした。

 その為に「死線を越えて」上巻の前半には実にごつごつした所もありますが、加筆を許さない強い調子がのこっていることも、また事実であります。
              
 モデルの事ですか?それは困りましたね。私の周囲の人に聞いて下さい。私は私の心の生活をあれに書こうとした時にモデルに就いてはいえない多ぐの事情があるのです。

 有島武郎がいっていた様に小説は小説であるけれども、事実以上の真実さがあるものです。私も有島君の流儀で、この辺りは赦して頂きましょう。

 私は、あの小説が必ずしも成功した小説だとは思いません。それが雑誌「改造」に出た時に、余りまずいので自分ながらはらはらしました。ですから本になった時にあんなによく売れたのを、自分乍らも吃驚したのでした。ですけれども今になって考えてみますと、読者は矢張り私か最初考えた通り、まずい文章を見脱してくれて、私か書こうと思った心の歴史一一詰り心持ちの変り方一一一を全体として読んで呉れたのだと思って感謝しているのです。

     (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第51回)

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「神戸・宇治川ぶらり散歩」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(51

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

  第七回 「死線を越えて」の裏話
       ―賀川豊彦追想録―


   (前回に続く)
   
               舞台に上った「死線」


 小説の売行の素晴しいのを見て、これを舞台化する者も出て来た。争議の済んだ3ヵ月後の12月に東京では伊井蓉峰、関西では少し遅れて沢田正二郎及び生命座の連中がこれを上演した。

 神戸の中央劇場で沢田が「死線を越えて」を上演した際には、新川の貧民窟のゴロツキ連も、噂を聞いて見に行った。そして自分達らしい人物が舞台に活躍しているのを見て、早速尻をまくって賀川の前に坐り込んだ。

 「先生、あんたはわし等の事を小説に書いて、百両(彼等は百両を最も大きい金額と心得えていたらしい)も儲けたというやないか、割前を出せッ」と脅迫し、はては短刀を閃かして賀川及び夫人を追いまわし、春子夫人は彼等の鉄拳を頭上に受けて負傷するという騒ぎさえあった。

 私は葺合新川のスラムには、氏の案内で度々足を踏入れ、氏が9年8ヵ月の永きに亘って住んだ二畳敷をも知ってはいたが(そして、貧民の特有な心理は、「死線を越えて」以上の氏の名著「貧民心理の研究」に依って教えられてはいたが)小説を通じて、氏の忍従と苦闘との記録を読むことによって、感激は更らに一層切実なるものとなった。私は「死線を越えて」の原稿時代、はじめの部分を数枚だけ読んで「なんだ、つまらない」と投げてしまった自分の不明を恥じた。

 「死線を越えて」が150版を刷った時、氏は時勢の駸運に伴い、或る種の文字を削除したいと思立った。そして、私は氏から頼まれて、全巻を改めて目を通し若干の添削をした。往年、この本は売れまいと予言した私がである。私は朱を入れ乍ら微苦笑を禁じ得なかった。

 「死線を越えて」は誰知らぬ者とてはないほどに普及した。「賀川豊彦」の名も、今は天下に隠れもない普遍的な名となった。そして「死線を越えて」のおかげで、見るもいぶせき葺合新川部落も一躍して、日本の一新名所となった。しかし皮肉なことには、「死線を越えて」で名高くなった新川の密集地帯は、「死線を越えて」によって破壊される運命を辿った。というのは、政府はこの書物に刺戟されて、六大都市の不良住宅の改善を断行することとなり、遂に賀川氏の思い出深い二畳敬を始め新川部落が殆んど痕跡をとどめないばかりに取り払われたからである。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第50回)

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「版画家・岩田健三郎さんのお話」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(50

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

   第七回 「死線を越えて」の裏話
        ―賀川豊彦追想録―


   (前回に続く)
   
                「死線」を越えての出る前


 私はこの小説が「改造」に載る以前、その原稿を葺合新川の氏の宅で見たことかあった。罫も何もないロール半紙に、天地左右の余白もあけず、ぎっしりと詰めて、毛筆で書いた原稿を示された時、実をいうと、4、5枚読んだだけでウンザリした。

 この部分は、氏が貧民窟に入る遥か前、三河蒲郡の海岸で、呼吸器病の療養をしていた頃書出したもので、氏の文学青年時代の平凡な恋愛小説である。氏はこれを明冶学院の先輩である島崎藤村に閲読を乞うたことがあったが、藤村は丁寧に一覧した後、「これは後になってあなたの大切な記録となるでしょうから、大事にしてしまって置きなさい」と評して返された。藤村のその書信を氏は序文のつもりで、原稿の最初の頁に綴込んでいたが、スラムに入ってから、誰が涕をかんだのか紛失したーと、私に語った。

 小説は、その後、氏の血のにじむやうなスラムにおける体験を附け足すことによって、後世に残る大作品となった。「改造」に「死線を越えて」と題して掲載された最初の部分は前記の時のものそのままであったが、後半は中途から洗練された筆で新しく補足された貴重なスラムのルポルタージュであった。

 改造社で、「死線を越えて」を単行本として出版する議の起った時、私は前記横関氏から相談を受けた。私は迚ても売れるしろものではないと思ったのでその旨返事をした。横関氏から折返し手紙が来た。それには「君の返事の来るのが遅かったので、山本社長の言う儘、兎に角出版することとした。僕も些か不安だ」と記されてあった。


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 「死線を越えて」が本になって世の中に出だ。氏としてはそれ以前に「イエス伝論争史」とか、「貧民心理の研究」とか、その他宗教書や少年向読物などの著書はあったが文学書特に小説としてはこれが最初のものだった。

 その頃、世間の一部では、頭脳の秀れた学者としての氏の価値を認め初めてはいたが、文学方面の作者としての氏を認めるものなどは全くなく、従って書物の売行も香しくはなかったが、出版者は思いきって広告をして見ようということになった。山本社長の賀川心酔がそうさせたのである。

 そこで半頁大の新聞広告を出し1頁大のをさえ出した。半頁1頁の広告は、その当時にあっては珍しく、広告料単価の低廉の売薬以外に、そんな大広告をする向はなかった。1行の広告料は60銭ぐらいであったが、1段140行として半頁-6段の広告料は600円であった。その半頁広告を一新聞に一度だけでなしに、何回も繰返して一流新聞の凡べてに掲載しだのだから、宣伝費は何万円一今日なら何千方円一という巨額に上った。

 こう油をかけられては、つい釣られて読むようになるのは人情で「死線を越えて」は売れて行った。昭和9年10月に初版を出したのがわずか3ヵ月で3万部を売りつくし、10年1月に入って此度は思いきって5万部を増刷した。

 そこえ、降ってわいたごとく神戸の大労働争議が勃発した。「死線を越えて」の初版刊行後8ヵ月目の大正10年6月12日の事である。

 神戸川崎、三菱両造船所2万6千の労働者は大罷業を起した。指揮者は野倉万治氏でこれを助ける参謀がほかならぬ賀川豊彦その人である。そして大示威運動の余威は遂に警官と乱闘を演じ抜剣騒ぎから職工側に死人をさえ出して、賀川氏らは警察に引致され、短時日ではあったが、囹圄の身となった。賀川氏は忽ちにして「新時代の英雄」となった。
                   
 「死線を越えて」の出版者が、これを看過する筈はなかった。神戸に大争議のリーダー賀川の血を以て綴った小説を読まずして、新時代を語る資格はないと許り、連日、デカデカと新聞の半頁を越える大広告の連発である。世間はおツ魂げてしまった。そして「死線を越えて」を読まねば恥のように考えて、人々は争ってこの本を手にした。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第49回)

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「オーロラのような虹」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(49

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

   第七回 「死線を越えて」の裏話
        ―賀川豊彦追想録―


  
               「4銭を超えて5銭」


 このように賀川氏が世界的に有名になったのは氏の信仰や学識やそれにもまして、貧しき者、病める者、悩める者に対する献身と全生全霊を投げ出したキリストの実践にあったことはいうまでもないが、広くその在生を知らしめる直接の動機となっだのは氏の処女作、小説「死線を越えて」であったといえよう。

 戦時中の話だが、出征軍人に送る千人針の布片に5銭白銅を結びつけて「死線(4銭)を越えて無事凱旋するように」と縁起をかついだり、またその頃の福引に「死線を越えて」というのを引当てると、「死線(4銭)を越えたのだから5銭です」といって5銭白銅1枚をくれたりした。いかに「死線を越えて」が広く読まれたかはこれでも判るだろう。

 ではなぜ「死線を越えて」はそんなに売れたのか。それは作者の神戸葺合新川部落における祈りと愛の奉仕の驚くべき貧民窟生活がなまなましく描き出されていたからである。

 ゴロツキや売春婦や不良少年や貰い子殺しやアル中毒の人たちと共に住んで、時にはドスで脅迫され、ゲンコでなぐられながら、なお貧しい人たちのための奉仕をやめようとしなかった活きた信仰の実録が、読者の心を動かしたのである。

 そして多くの純真な青年男女が貧民窟に賀川氏を訪ねて、あるいは奉仕を申し出で、あるいは求道者となった。戦後に大臣となった水谷長三郎氏やマスコミの大スター大宅壮一氏などもその一人で、両氏とも神戸の貧民窟の寒々とした説教所で賀川氏からキリストの弟子となる洗礼の式をしてもらった。

 勿論「死線を越えて」が出る前から、賀川氏の名はぼちぼち新聞や雑誌にのっていた。新聞で最も早く賀川氏の真価を知り、紙上で屡々同氏の働きを紹介し、またその寄稿をのせだのは大阪毎日新聞であった。

 雑誌で最も早く賀川氏をとらえたのは「日本評論」であった。しかし、「日本評論」雑誌が小さかったため一部に知られたに止った。賀川氏を最も有名にしたのは、何といっても「改造」である。

 その頃の「改造]の編集長は横関愛造氏だった。そして横関氏と賀川氏の橋渡しをしたのは、かくいう筆者でめった。

 確か大正7年の末頃だったと思う。機関編集長から「神戸に賀川という変った学者がいるそうだが、もし君が知っているのだったら、改造に何か書いてもらってくれ」という手紙が来たので、賀川氏に話したのが、賀川氏と改造とを結ぶそもそもの初めであった。

 間もなく「改造」の社長の山本実彦氏が西下して賀川氏を新川に訪ねた。山本社長は、賀川氏のスラムの事業に深い感銘を覚えだ。そして、話しあっているうち、賀川氏の古い小説を「改造」にのせる相談がまとまった。それが「死線を越えて」で、一部分は「改造」にのったが、中途から「改造」へ掲げるのを中止し単行本にして出版したところ、日本の出版界始って以来の売行きを示し、賀川の名は律々浦々にまで聞えるようになった。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第48回)

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「初めて見た大きな虹」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(48

『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

   第七回 「死線を越えて」の裏話

        ―賀川豊彦追想録―

  

                 神戸の生んだ異彩


 世界の人・賀川豊彦氏は去る4月23日夜、71才をもって天に凱旋した。確かに氏は世界的な存在であった。しかし同時に氏は神戸の人であったことも忘れてはならない。

 賀川氏は神戸市兵庫島上町に生れた神戸ッ子である。幼にして父母に先立たれたため生れ故郷の神戸を去って徳島の義母の許に引きとられた。

 氏は妾腹の子であった。なさぬ仲の義母の下で育った少年時代は決してたのしいものではなかった。中学を卒えると上京して明治学院神学部に入学したが後、神戸神学校が創立されるのと一しょに再び生れ故郷の神戸に帰り、学業の余暇、神戸葺合新川部落で、貧民窟伝道を始めた。

 そして前後9年8ヵ月にわたって貧民窟の中に住みこみ、貧しい人々の霊肉の救いのために献身し、また大正7年頃からは友愛会の労働組合運動に関与したことはあまりにも有名である。

 特に大正10年の神戸大争議では指導者の1人として活躍し、賀川豊彦の名はにわかに天下に知れわたり、海外にも紹介され、またたびたび世界各地から招かれて世界を家とする伝道旅行がなされてその名声は世界的となった。

 米国ではハイスクールの副読本に「カガワ・イン・スラム」の一章が掲載され、またロサンゼルスの郊外には「カガワ・ストリート」という町まであって、先年筆者は賀川氏と一しょにを訪れた。

 (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第47回)

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「ベランダのスズメ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(47

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

  第六回 大正6年の三菱争議
      ―主役を演じた3人の基督者

  
  (前回に続く)
      
               技師そこのけの造機の虫


 木村は神戸川崎造船所造船部造機工場長、大正六、七年頃の彼は月収約三百円、官吏ならば三級の知事という処、カーキ色の垢付いた工場着を着、頭に古色蒼然たる麦藁帽子を被っている彼が、夕五時工場の笛を聞いて家に戻れば、ソコには長女を頭に五人の子女が父の帰りを待っていた。彼は子らに取巻かれながら打寛いで葉巻煙草を賞味するのが唯一の道楽であった。

 明治二十年、木村は十七歳で横須賀造船所の見習職工となったのが工場生活の振出しで横須賀では日本最終の木造軍艦武蔵および日本最初の鋼鉄軍艦愛宕の建造に従事し、次で各地を渡り歩いて二十八歳の春、初めて職工長となり三池炭坑に入った。今問題となっている三池の万田炭坑の巻きあげ機械やポンプは彼の据付けたものであった。

 日露役当時には佐世保にいて、三笠艦引揚の際には一部の職長として主としてその得意のポンプ方に廻り、引揚成功後は作業振り抜群とあって特に一等賞をもらった。神戸へ来て川崎へ入ったのは明治三十九年。学理の薀奥を極めていたわけではないが、多年の経験    と綿密なる研究の結果、種々の機械の発明をした。

 彼は二個の専売特許を持っていた。その一つはスチアリング、テレモーターと言って、船の舵取装置に関する発明、今一つはテレグラフ・テレモーターで従来、船の前進後進を機関部へ通ずるために専ら鉄の棒や鎖を使っていたのを不完全だとして、グリズリンおよび水の混合液体を管に通じ、その化学的作用に作り完全に前部後部の連絡をとることに改めた。グリスリンを使用したのは冷気に会っても冷却しないためである。

 彼はまた圧搾空気鉄槌に一大改良を加えた。造船の鋲付に使用する鉄槌(俗にいう鉄砲)の内部の装置を改め、従来真空作用でやっていたのを固形油を用いてやることとし、四十八時間油をささなくてもよいようにし、槌の長さを改めて従来に比しその修繕回数や機械の燃焼を少くして打つ数を増すことの出来るようにした。大正七年夏川崎が鋲打の驚くべき記録を公表することができたのも、九千五百噸の来福丸の建造日数が世界の記録を破ったのも、間接には彼に侯つ処が多かったわけである。

 彼はまたスチーム・ハンマーのヴァルブその他を根本的に改良して、川崎をしてその石炭の消費量を一日五十斤の節約をさせた。

 なお鍛冶工場では伊木工場長その他の考案によってスタンピング(型)を多く利用するようになった結果、その工費を節約することとなり、二、三年前まで鍛冶工場の仕事が徹夜業を必要としていたのが、それ以来は徹夜をせずとも問に合うようになった。

 彼は技師のように学理は知らないが、その経験から技師でも至難とする仕事を易々と仕上げて技師を驚かすことが屡々であった。嘗で軍艦榛名建造の時、英国から二吋もある鉄を曲げるベンヂング・ローラーを購入したが、余り巨大なので技師達はその組立が出来るかどうかを危んだが、彼は十人の人夫を督してまたたく間にやり上げてしまったこともあった。

 木村の自慢話は若干割引を要したが、聞いていで楽しいものがあった。しかし彼の洋行赤毛布ものがたりはさらにおもしろい。それはいささかY談がかってもいるからである。

 木村が川崎造船所から派遣され、ロンドンに滞在中のはなしだ。ある夜、外人の家庭の音楽会によばれた。本村はもちろん音楽の素養もないので、ただ美しい金髪美人が朱唇をほころばせて歌うのや、白魚のような指がピアノのキーからキーヘ稲妻のように走るのに見恍れていた。ややあって、その家の娘さんから「ミストル・木村、日本の歌を唄ってきかして下さいな是非」とせがまれて、彼は機械のタイヤーが外れた時のようにびっくり仰天した。

 彼は歌らしい歌を一つも知らなかった。彼は今さらのように、都々逸の一つ位は教わっておけばよかったと後悔した。しかしそれはその場の間に合わない。令嬢の要求は性急である。彼は致し方なしにピアノの前に立たされ、そして唄い出した。勿論、外人にはその歌の何たるやがわかるはずはない。歌い終ると、やんやという拍手だ。

 彼は真赤になって椅子にかえり、俯向いたまましばらくは顔もあげえなかった。彼の唄った歌とは「もしもしお竹さん」というわいせつな歌であったからだ。

村島帰之の労働運動昔ばなし(第46回)

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「カリン酒」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(46

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

            第六回 大正6年の三菱争議
                ―主役を演じた3人の基督者

  
  (前回に続く)
      

                颯波光三と木村錠吉


 さて、三菱の争議のあったその頃、川崎造船所の方はどうだったか。

 友愛会としては、もちろん川崎造船所の方が三菱より遥かに大きな勢力をもっていたが、満を持して動かずというよりは、内部の力を充実することに意を注ぎ、鈴木文治や賀川豊彦を迎えて演説会を催したり、屡々役員会を開いて幹部の結束に努めた。この情勢が大正八年のサボタージュの時までつづいた。

 川崎造船所を中心とする神戸支部のリーダー株は昼間は川崎で働き、夜間は湊川実業補習学校へ通い、工学の基礎を学んでいる青年工員だった。(その中には野倉万治や青柿善一郎らがいた)

 しかし、最高の地位の支部幹事長には、通称「工場長」(コウバチョウ)で呼びならされている職長の同志が推された。大正四、五、六年へかけては、木村錠吉と颯波光三が交替して幹事長となったが、共に「コウバ長」であった。

 木村と颯波とは全く性格を異にしていた。木村は一見するところ、豪放磊落な東洋的豪傑といったところがあり、颯波は温厚で親切なおじさんという風があった。木村はずんぐりと太っていて、友愛会へ来ても葉巻をくわえて悠々と構えていたが、颯波は長身痩躯、鼻下にチャプリン型のヒゲを蓄え、親しみ深い視線でみんなを見廻していた。

 わたしが神戸支局に赴任した時、友愛会の人たぢが家を捜してくれたが、その家は須磨、といっても兵庫に近接した西代というゴミゴミした小市民住宅の建ち並地区で、川崎へ通勤する者が多く、わたしの隣りには伍長の灘重太郎が住み、北へ少し坂を登ると同じ伍長の須々木純一、さらに上へ登ると颯波光三が住まっていた。つまり、月給の多いほど坂を登って見晴しのいいところに住まっていたのだ。(私はさしずめ伍長というところだった)

 颯波は地味な職長らしい人で、木村とは違い地味な性格だったから今此処でその人となりを説明するに足るような挿話もない。ただ彼のどっちかの手の指が、機械のため無残に奪い去られていたぐらいで書くことがない。一方、木村はいろいろと逸話がある。友愛会で会うと、よく自慢話をして聞かせてくれた。

     (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第45回)

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「ハナミズキ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(45

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

                第六回 大正6年の三菱争議
                    ―主役を演じた3人の基督者

  
  (前回に続く)
      
                    突飛な受洗志願


 明治三十七年三月、日露戦争が始まって旅順港閉塞の試みがくりかえされ、軍神広瀬中佐の名が国民の間に宣伝されていた。高等小学校を卒えた十六才の少年の私は、戦争の惨禍や害悪など知ろうはずもなく、兵器を作る職工になろうと考えて郷里を離れて軍都舞鶴に出た。はじめにありついた仕事は海兵団のボーイだったが、私はその仕事を好まなかった。

 折柄、新設の舞鶴海軍工廠で機械工見習を募集しているのを聞いて早速これに応募した。数ヵ月の経験で私は機械工として大成するためには技術ばかりでなく、英語を知っていなければならないことを教えられ「ナショナル・リーダー独案内」を買ってきて独学を始めた。

 ところがある日、街を歩いていると、キリスト教会の門口に「英語教授」という貼札のあるのを見、渡りに船と、そこの英語の生徒となった。工廠は夕五時終業の定めだったが戦争で忙しいので毎日二時間の残業があり、七時でないと自分の身体にならぬので英語のレッスンのある日は昼と夜の二度分の弁当をもって工廠にはいり、夕食をおえてから教会へ行った。

 そんなわけで私はほかの生徒の帰ったあとに行ってほとんど個人教授を受けた。牧師小北寅之助氏が先生だった。しかし規定の時間に遅れてゆく私だったので、牧師は用事で他出せねばならぬ場合が多かった。そんな時には牧師の夫人が代って私の初歩のリーダー(ナショナルの巻であった)を教えてくれた。

 冬の夜など、私が行くと今しも夕飯の後片ずけをしたばかりと覚しい夫人が手を拭き拭き出て来たが、いつもにこやかでいささかも迷惑相な顔を見せなかった。

 私にはなぜ夫妻がこうも親切なのか、一介の見習機械工のために、それも時間はずれのときにたった一人でくる自分を親身になって教えてくれる夫妻の親切が、一体どこからくるのか、私はそれが疑問だった。

 夫妻は私には父母といいたい年輩だったが、私をやさしくいたわってくれる愛情にも私は父母を思い出していた。ある夜、古本屋から夫妻たちが読んでいる聖書を買ってきた。夫妻はそれまで一度もキリスト教の話をしなかったし、私も聞こうとはしなかったので、聖書は私には全くの初対面であった。マタイ伝の冒頭の系図は何のことか皆目判らなかったが、飛び飛びに読んで行くうちに強い教訓を読みとることができた。

 神は愛なり――私はそこまできて小北先生夫妻の親切のいわれを知ることができたように思った。

 山上の垂訓には心を打たれた、私はイエスの弟子になろうと決心した、そしてある夜リーダーを学びおわってから、牧師に私の決心を告げた「私に洗礼を授けて下さい、私は基督の弟子になりたいのです。」

 牧師は私の顔を凝視していたが、ややあって笑いながら問うた。

 「でもあなたはまだ一度も教会の礼拝に出て来ないではありませんか」「礼拝に出ないと洗礼は授けられないという規則ですか」「いや別に規則とてはありませんが」
 「では、ぜひ洗礼を授けて下さい」「そうですか、よろしい。では洗礼を授けましよう。だが少し待って下さい、時がきたら、必ず洗礼を授けますから」

 牧師は私の乱暴な申出を、やさしく受けいれてくれた。私はそれからというものは熱心に教会に通った。日曜日の礼拝は、たとい仕事があっても工廠を休んでまで教会へ出た。

 金曜日の祈り会にも欠かさず出た。そして三十七年の夏から教会え行き出して冬になってはじめて小北牧師から洗礼のゆるしを得た。明治三十七年十一月の第一日曜日のことであった。

 私は基督の弟子となることを許された。十九才であった。

 小北牧師も当時の事をよく覚えていられて「私も永いこと牧師をしているが、教会の礼拝に一度も来ないで、祈り方も知らずに受洗志願を申出た人は松岡君のほかに誰もなかったですよ」と笑われた。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第44回)

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「ミニバラ:市民花壇3回連続努力賞の副賞」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(44

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

             第六回 大正6年の三菱争議
                 ―主役を演じた3人の基督者

  
  (前回に続く)
      
                  主務給だけでは食えぬ


 この争議の結果、関西支部は事実上消滅した。みんな解雇になったからである。もちろん、友愛会は関西支部だけではなかったが、松岡は退勢挽回に大いに努力すると共に、主務の俸給――二年後に西尾末広が主務となった時には六十円だったから、松岡はまだそこまではもらっていなかったに違いない―-を減らした。それでなくても薄給の彼だ。生活は窮乏の極に達し、食事を二度に節約し、その二度の食事も減食したり、香の物ばかりにしたりした。筆者は「それではからだが持たぬから」といって反対したこともあった。

 その結果、松岡はある保険会社の外交員をして収入の道をはかり、友愛会の負担を軽くした。夕方、外交から疲れて戻って来ても一息入れると直ぐ友愛会の事務をとる。支部を訪ねる。演説会に出かける。という八面六臂の活動振りであった。

 その頃誕生した長男洋太は昭和三十年九月、三十代の若さで父に先立って昇天した。その時わたしは大阪時代のことを回想し、悔み状を出した処、折返しこまごまと心境を書きつらねた返事をくれた。その手紙にこんなことが書いてあった。

 「耐えられない試練を、神はわれわれに課し給わないということを私は深く信じていま す。ですから、この度の如き苦しみに会っても、まだまだこれ以上の苦しみもあるのだと 思って耐え通すことができました。人々から理由のない迫害を受け、嘲けられ笑われつつ 十字架につけられたキリストの苦しみは、ナザレの大工イエスを神の子としたのです。こ れから先も主の十字架を仰ぎつつ私はすすみます」

 松岡は多年、労働運動の陣頭に立って来たが、キリスト教信仰を失わなかった。松岡の若い日、信仰に入った動機は甚だ興味深い。彼の衆議院議長時代、品川にあった旧北白川官邸の議長公舎で私に語ったのを筆記し、キリスト教関係の新聞にのせたのがあるので左に抄録してみる。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第43回)

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「故郷の庭」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(43

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

               第六回 大正6年の三菱争議
                   ―主役を演じた3人の基督者

  
  (前回に続く)
      

                松岡駒吉の開拓者としての苦行


 ここで、少しく松岡駒吉について記して置きたい。

 松岡は温泉の里として知られた鳥取県岩井の産、北海道室蘭製鋼所の旋盤工であった。大正二年、三木治郎(後の参議院副議長)が東京池貝鉄工所から室蘭製鋼所へ転じて友愛会の支部を作るや誘われて入会し、その会計を担当した。

 松岡の才能は忽ち顕れて、全国に率先して「労働会館」の設立を見た。今でこそ労働会館は各地に建てられて左程珍しくはないが、四十年前まだ労働運動の頗る幼稚だった頃、早くもここに着眼し、労働組合の乏しい財政の中からこれを創立したところ、只だ者でなかったことが知れよう。

 間もなく松岡は室蘭製鋼所の争議にリーダーとして活動したところから型の如く馘首された。そこで待ってましたと許り、友愛会本部員として抜かれ友愛会の事務を執っているうち、大阪聯合会の結成と共に主務として大阪へ送られて来たのであった。

 筆者はその大阪赴任と共にじっ懇になった。松岡にとって、恐らく関西では筆者が最も古い友人だったであろう。松岡主務の来阪した翌月すなわち大正六年七月に、大阪の友愛会関西支部に争議が起きた。

 大阪府西成郡豊崎町(現在の西淀川区豊崎町)の日本兵器製造会社工場ではロシヤ政府からの注文で、信管の製造をやっていたが、その製作の一段落を告げると共に職工七百余名の一斉解雇を断行し、その際、会社が職工に支払う共済積立金に対する疑義から争議が起ったのだ。

 松岡主務は会社に談判に出かけた。その頃、まだ大阪に幾台とはなかった自動車に乗って――というと豪勢だが、筆者が乗る大阪毎日新聞社の自動車に同果してである。しかし、この争議は結局法律問題だけを後に残してうやむやのうちに終った。罷工に這人ろうにも、一斉解雇の後だから何とも仕方がなかったのである。


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                         松岡駒吉


    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第42回)

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「故郷・関金温泉での小学時代の同窓会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(42

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

            第六回 大正6年の三菱争議
                ―主役を演じた3人の基督者
  

  (前回に続く)
      
                   十字架を負って陣頭に


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                     安井喜三


 安井はわたしの家へは屡々来て親しくしていたが、彼は争議の指導をした時の感想をわたしにこう語った。

 「私はキリスト信者じゃけん、キリストが十字架上に血を流されたそのお気持をもってストの陣頭に立ったのでごわす。仲間のために血を流すことなんぞ、ちーいともおそるるところではごわせんなんだ」安井のこの気持にうそいつわりはなかったと思う。

 さて、この安井の報告を聞いて、高山主務は直ぐ兵庫支部に走った。兵庫支部はどうした風の吹きまわしか、安井のほか、幹部の中に聖公会やプロテスタント教会の信者がいて高山には特に親しみが深かった。高山が駈けつけた時、一足違いで安井を始め友愛会兵庫支部の幹部は兵庫署に検束されていた。

 三菱ではこれより少し前、長崎の造船所で、当時としては珍らしい大ストライキがあって手を焼いた矢先だったので、兵庫工場の動揺に驚いて、逸早く手を打ったらしく、造船所は既に非常警戒の態勢をとり、高山をよせつけようとはしなかった。

 高山はすぐ大阪へ飛んで行って友愛会大阪連合会主務の松岡駒古と相談した。松岡はいうまでもなく後年の友愛会長――総同盟会長で、終戦後、新憲法下、最初の衆議院議長となった男。北海道の室蘭製鋼所職工をやめて友愛会本部員となり、大阪連合会のできるのと同時に初代主務となって来たばかりだったが、同じ本部員出身であり、また同じキリスト教を信仰する関係もあって、何かというと松岡と高山は話しあっていた。


                 清野知事から会見申込


 その頃の友愛会は会長鈴木文治の主張にもとずき、労資協調を主眼としていて、今日のような階級斗争的のものではなく、労働紛争の安全弁たらんとしていたので、高山もこの方針に従い、ストライキは余程切迫した事情の起らない限り起すべきではないと考えていた。

 高山は松岡と話しあって、大阪から夜の九時過ぎに帰宅すると夫人が昂奮した面持でいった。
 「今日は高等刑事が十一回も来ました。そして清野知事があなたに至急面談したいから官舎へ来てほしいといっていられるとの事でした」

 知事からの面会申入れは三菱のことに違いない。そこで「夜分でもかまわなければ参上します」と電話で返事すると、折返し「すぐ面談したい」とのことに、食事もせず、その足で知事官舎へ出かけて行った。

 応接室には知事の吸い残しであろう、葉巻の紫煙か細く立ちのぼっていた。初めて知る葉巻の美薫と、そして夜の官舎の静寂にうっとりしていると、清野知事が私服に寛いでパーラーヘ入って来た。そして打ちとけた態度で三菱問題について話し、高山の意見を聞いた。

 そして、明日、三菱の所長と面談させることを兵庫警察署長を通じて取りはからってくれた。そこで翌日、高山と松岡は三菱造船所へ行き、三木所長と会見、談合した結果、争議はあっさりと解決した。もちろんこれは知事の下工作があったからである。

 大正六年の三菱の争議はわたしの神戸赴任前のことで詳しいことは知らない。前述の記事も戦時中、私か某誌に書いた一文を、その頃いアメリカのサクラメントで牧師をしていた高山が遇然読み、往時を追懐してこまごまと書いてよこしたのに拠ったものである。高山牧師は今どこでどうしているか、わたしは知らない。どこかで本誌を読んで、また昔ばなしを書き送ってくれたらうれしいと思うのだが――。

 それはともかく、六年の三菱争議が安井・高山そして松岡と揃ってキリスト教信者がその衝に当ったことも興味深い。

    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第41回)

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「わが故郷」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(41

『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

             第六回 大正6年の三菱争議
                 ―主役を演じた3人の基督者

  
            高山豊三と安井喜三


 神戸の労働争議といえば、誰しも直ぐ大正八年のサボと、十年の大ストを連想するが、しかしこれが神戸の争議のはじめではない。

 大正六年の夏に三菱造船所の兵庫工場で争議が起っている。そして当時の唯一の労働組合友愛会は、この三菱争議に兵庫県知事の要請で居中調停に乗出して、ボヤのうちに解決した。このことは世間でもあまり知られずにいるし、記録にも残っていない。

 その頃の友愛会神戸聯合会主務は高山豊三だった。前にも述べたが、この高山は後に京都市長になった高山義三ではない。同じクリスト教信者である上、たった一宇違いなのでいつも間違えられがちだった。

 義三の方はまだその頃は京大を出たてのホヤホヤで、学生時代からやっていた友愛会の京都支部長として、京都市電の争議などにも活躍していた。後に神戸へ来て弁護士を開業して、友愛会神戸連合会のために力を尽したことは後に述べる。

 豊三の方は鈴木文治が友愛会を創立した当初からの協力者で、大正六年二月、神戸連合会主務となり、わずか九ヵ月間の短期間だったがまじめに神戸の友愛会を指導したのである。

 大正六年夏のある日、高山主務のもとへあわただしく駈けこんで来た男があった。熊本弁でその上昂奮してどもりながら早口にしゃべり立てる言葉は、よく聞きとれぬ程だったが、とにかく、三菱造船所に争議が起ろうとしているから、友愛会としても直ぐ応援に出動してくれということだけは判った。

 この男は安井喜三といって熱心な友愛会員、肥後の刀鍛冶の末えいだという話で、いつも肩ひじを怒らせて議論をしたが、幼時、脳をわずらったとかで頭は少し弱い方だっだが、熱情の持主でカトリックの信仰をもっていた。年はわたしよりは少し上で三十才に近かかったように思う。

 大正十年の神戸の大争議にも彼は三菱造船所罷業団の代表者に選ばれ、三菱造船所会長の武田中将と折衝し、デモの陣頭にも立ったが六年の三菱争議では彼は小勢な友愛会兵庫支部をひっさげてその中心人物となっていた。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第40回)

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「故郷の風景」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(40

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


               第五回 神戸新川における賀川豊彦

      (前回に続く)
      
                   伝道所の前は私娼群


 わたしはその頃はまだ賀川夫妻の働きの詳細について十分知らなかった。「死線を越えて」もまだ出ていなかったし、もちろんその後の自伝的小説も出ていなかった頃だから、「貧民心理の研究」の中に現われる事例によってわずかにそれを知るのみであった。従ってわたしの新川部落の賀川長屋初訪問記は、ただ表面的なスケッチだけで終ったのもやむを得ない。

 それから暫らくして大正七年九月、わたしは神戸勤務となり、賀川氏とは労働運動の同志として交渉が深まって行き、わたしの新川通いも頻繁となった。それと同時に、毎日新聞紙上に賀川氏の過去、現在の活動が頻々とのり出した。わたしはこの人を高く評価して、たえず紙上に紹介したからである。わたしが賀川氏をあまりに知名人扱いするというので、社内の上役から非難をうけたのもこの頃であった。

 賀川氏の貧民伝道の事は此処では触れないことにするが、始めは「救霊団」の名で開始されだがその後「イエス団」と改められた。わたしが労動運動の用事や新聞の取材のことで、しげしげと氏を訪れるようになったのは「イエス団」になってからで、イエス団の事務所は前記の北本町の長屋の路地を出た表通り、吾妻通五丁目にあった。

 北本町の長屋は専ら寄食者が住まい、吾妻通りの二階家の階下の四坪ほどの土間が説教所になって居り、奥は診療所、隅は狭い食堂。階上の通路に面した側は賀川氏の書斎、事務所、応接間(一時は此処が診療所になって馬島僴氏が診療に当っていたこともあった)、奥の二間は賀川氏夫妻や奉仕青年たち(この人たちの中には、現在協同組合運動の大立て者となっている木立義道氏や牧師深田種嗣氏などもいた)が住まっていたが、氏の書斎の天井近くの棚にズラリと並んいたマルクスの資本論(原書)が印象に残っている。

 わたしたちが訪れて、階下の土間の隅にしつらえられた粗末な梯子段の下から氏の名を呼ぶと「ああ、居ますよ。おあがり下さい」と階上から賀川氏が顔を出した。何のことはない。場末の三等下宿であった。

 この事務所の前の吾妻通りは立淫売(最下級のパンパン)のかせぎ場だった。わたしが夜分、賀川氏を訪問すると、きまったように彼女たちにつかまった。その時「賀川先生のとこへ行くんだよ」というと「ナーンヤ、先生とこのお客さんかいな」といってすぐ解放してくれた。

 わたしは事務所の二階の戸の隙間から彼女たちの営業ぶりを小一時間にわたってあかず観察していて、春子夫人から「村島さんは何て物好きなんでしょう」と笑われたこともあった。

 お客の中には外国の船員もいたが彼女たちにはあまり歓迎されないらしく、売春料を値切る者に対しては「アホ!」といって罵った。女をこう気丈にさせるのは遠巻きに彼女たちのヒモ(その多くは良人?である)が目を光らせていてくれるからである。賀川氏はこれらの私娼たちのためにも何くれとなく世話をやいてやった。


                  貧民窟十年記念会

 大正八年夏、賀川氏が葺合新川の伝道を始めてから十年になるというので(住み込んだのは十二月だが、伝道はその前から始めていた)、「賀川豊彦氏貧民窟十年記念会」がわたしたちの発起で神戸山手の海運倶楽部で開かれた。恩師のマヤス博士を始め仲間の牧師・官吏・社会事業家――ヒゲの送別会をした遊佐敏彦氏もいた――など十数名が集まって、氏を慰め励ました。この記念会を機会に、わたしは毎日新聞に「貧民窟十年」と題して新川部落での賀川氏の驚異的な働きを十回ぐらいにわたって連載し、さらにこれか引き伸して当時大阪で発行されていた「慈善新報」に戸のない便所だの、ミカン箱の赤ン坊の葬式だのの写真を入れて続き物としてのせた。これらは多分まとまって賀川氏の人と事業を紹介した最初のものであったろう。

 なおこの記念会の当夜の写真が後に沢田二郎ら新国劇一座が「死線を越えて」上演の際、登場入物の一人ウィリアムス博士――マヤス博士のこと――の顔作りの参考に使われた。わたしはある夜、道頓堀の某座の楽屋に沢田を訪ねて行くと、傍らにいた久松喜世子氏が「あなたのうつっている写真が来ていますのよ」といって示されたのがその記念写真だった。わたしは賀川氏やマヤス博士と並んで元気な顔でうつっていたが今は手元にないのが惜しい。                          

村島帰之の労働運動昔ばなし(第39回)

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上の記事は今朝(2012年10月10日)の神戸新聞です。昨夜この記事の掲載のことは連絡を受けていましたが、もうずいぶん前に神戸新聞総合出版センターより刊行された著書がいまニュースになっているようです。ここの「賀川豊彦」のところを執筆させてもらい想い出深いものではありますが・・・。あの論文は拙著『賀川豊彦の贈りもの―いんち輝いて』に収めています。




村島帰之の労働運動昔ばなし(39

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


                第五回 神戸新川における賀川豊彦
      (前回に続く)
      
                    ゴロツキともらい子殺し


 しかし氏を一ばん悩ませたのはこれらの寄食者ではなくゴロツキだった。彼らは賀川氏の無抵抗主義を知っていて次から次へとゆすりに来たり乱暴を働いた。

 賀川氏が毎夜路地に立って「善に立ち帰れ」と叫んでいると、その路傍説教の中で淫売を攻撃したのはけしがらんといって火のはいった火鉢を投げつけた男もあったし、また或る博徒はゆすりに応じないといってピストルを乱射し、あまつさえ氏の家の障子や飯びつまで強奪して行った。そのほか、酔うて来ては伝道所のオルガンやガラス障子をこわす者、祈り会の最中に大きな石を投げこんで、いやがらせをする者もあった。

 このように白刃やピストルもなれて見るとそれほどこわくはなかったが、一番氏を悲しませたのは貰い子殺しであった。わずか五円ぐらいの金がほしさに養育料付きの赤ン坊を貰って来てはおかゆばかりたべさせて栄養不良で死なすのである。

 氏はたびたびこの貰い子を救った。氏がスラムにいって間もない頃、一人の老婆が検挙され、そのあとにもう一人の赤ン坊がやがて乾干にされようとしていたことを聞き、警察から貰いうけて養ったことがある。もちろんまだ春子夫人を迎える前で、神学校の試験のさい中だったが、ほとんど眠らずに梅干のようにしなびた上、腸カタルで四十度近くも熟のあるその子のために乳をとき、おむつをかえた。その子はもう泣く気力さえなかったが、賀川氏は悲しさに涙がとめどなく頬を伝うのだった。

 賀川氏は一度スラムに落ちこんだおとなはなかなか容易に浮びあがれないことを知ったが、せめて、まだ穢れを知らぬこどもたらだけは助け出したいにと考えて、暇があると表へ出てこどもたちと遊んだ。

 だから氏の界隈の子は、まだチャン(父)と呼べない幼な児も「チェンチェ」といって氏を呼んだ。氏が便所へ行くと便所の口までついて来て、氏の出るのを待っている子もあった。

 ある年のクリスマスに出口船長の宅によばれて行ったこどもたちの中の一人はおしぎをすることを知らないので、シャッチョコ立ちをしてみせた。

 こうしてかわいがっても、男の子は成長すると周囲に感化されてチンピラの群に入り、女の子はならずもののために淫売に売られるか、さなくば親が女郎に売ってしまった。賀川氏の愛の力をもってしても、この強大な生活環境の圧力にはどうすることもできなかった。

 わたしは賀川氏からそうした話を聞かされて、氏が貪民救助事業だけで満足せず、労働者の自助組織である労働運動に情熱を傾けつつある気持がわかる気がした。

    (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第38回)

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「母校・鴨川中学の校歌」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(38

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


               第五回 神戸新川における賀川豊彦

      (前回に続く)
      
                   オンボロの賀川御殿


 賀川氏が住まっていた長屋を読者はどう想像されるだろうか。間口は一戸当り二間とはない。表は路地に面して古色蒼然たる形ばかりの格子がはまっていて、触れたら手にトゲが立ちそうだ。入口は物置のような半間の板戸があるだけで、はいると半畳ぐらいの土間。そこに立つと、賀川御殿が目の中にはいってしまう。

 賀川家ははじめはただ三畳一間だけだったが、寄食者がふえるに従って隣家を借り足し、壁をぶちぬいて今は三畳づつ三間が一軒になっている。しかし天井は低く垂れさがり、それも隙間だらけ。戸じまりなどの戸はむろんない。昼夜とも破れ障子だけである。

 「ものを盗まれませんか」ときくと、賀川氏は「盗まれますよ、しかしふつうの盗難は衣類や贅沢品ですが、此処にはそのものはないので、台所用品が盗まれます。洗面器など、今朝ぼくが使ったばかしだのに見えないので捜すと、隣家で洗だくに用っているといったあんばいです」と笑う。

 三部屋のうち、奥の一室は氏がはじめて此処に住んだ時の家の、前述のように人殺しが此処で行われ、ゆうれいが出るといって借手がなかった家だが、賀川氏が入ってからは幽霊も敬意を表してあらわれないので説教所に充てられ、壁の黒板には聖書からぬいた聖句が書かれてあった。

 中の部屋には粗末な椅子と机。この机の上で、氏の名著「貧民心理の研究」が書かれたのだった。どの部屋も装飾一つなく、貧民窟のキリスト教伝道所と知らぬ者は、農家のガラ空きの納屋と思うに違いない。

 氏はこの家に自ら住むだけではなく、寄るべなき人々を寄食さぜて来た。乞食・ゴロツキ・半身不随の女・淫売婦・狂人・嬰児――その種類は雑多で、ゴリキーの「夜の宿」の客よりも数段下層の人々ばかりである。

 賀川氏はこの家に住込んだ夜、一番最初に宿を乞うたのは見るからにきたないヒゼン患者だった。さすがの氏もちゅうちょしたがこれも神の試練だと考えて喜んで一しょに寝た。果して翌朝には氏はヒゼンに感染していた。賀川氏の新川での最初の収穫はこのヒゼンだったのである。

 寄食者はヒゼン患者を手初めに入替り立替り来て貧客万来、不良少年や乞食をはじめ、中には梅毒にかかった売春婦もいたし、末期の症状の結核患者もいた。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第37回)

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「関金(せきがね)の出身の漫画家・前嶋さんの作品:関金温泉にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(37

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


               第五回 神戸新川における賀川豊彦

      (前回に続く)
      
                   バクチとケンカと殺傷


 わたしたちは無数の路地を歩き廻ったが、至るところで見てはならない場景を見た。それは路地のあいだに天幕というほどではないが覆いをはりめぐらせてバクチを開帳しているのだっだ。

 あっちでも「ヤソの先生か」と警戒する色を見せずに勝負を続けた。賀川氏が説教じみたことをいわず「またバクチかね、しょうがないね」というと「しょうがないなァ」と答える者もあるが、ただエヘヘヘと笑っている者もある。

 ある長屋の一隅では女ばかりで丁半を争っていた。「ここは女ばかりかね」というと「ヘエ、オナゴ島だんね」と洒蛙々々と答える。「しょうがないねえ」といえば「ちょっと無尽をしてもろてまんねが」と平然と答えるのもいた。

 酒と女とそしてバクチ、この三つが彼らの娯楽の全部だが、その中でもトバクは社交性もあり、そのスリルに富むとあって、モウケが多かったからといっては丁半をやり、雨が降ったからといっては花合せをする。

 殊に当時は第一大戦のもたらした景気がこのドン底社会をもうるおして沖仲仕などどなると収入も割合に多く、二、二二日働いては休んで、金のなくなるまでバクチをうち、財布の底が空になるとまた働きに出てバクチの資金を作って来る。それでバクチは例年よりも多く、時には大規模なチーハー賭場も行われるという。「バクチはとても絶滅は期し難いでしょう」と賀川氏もサジをなげていた。

 しかし、このバクチの果てが一家の悲劇を生み、また喧嘩や殺人傷害事件をさえ起すのだから放置するわけにも行かぬので困っているとのことだった。

 喧嘩は毎日のようにあるという。氏から約一ヵ月にわたって近所百軒あまりの家の喧嘩の日記をつけたところ、合計三十三件、つまり毎日一件はとこかの家で喧嘩があった勘定になる。

 喧嘩の仲裁に出るのはなかなか大変で、上方の喧嘩の仲裁には小指を切って渡すという古風な風習さえあったというほどだ。中には母親に亭主をとられるといって、母娘のあさましい喧嘩もあるという。
           
 ケンカの果ては殺傷事件が起った。賀川氏が新川へ来る前年にはこの界隈だけで十件の殺人事件があったという。現に氏が借りている家も、わずか二十銭の祝儀のことからケンカをして斬られた男が帰って死んだ家である。その他ニワトリの頭一つのことで隣家の男を殺したり、女房とあやしいといってヤキモチから殺すというのもあった。

 また十四才になるこどもが同じ年頃の子を殺したこともあった。妻のケンカを買って出てあいてを殺したのもあった。バクチ場で勝ったからといって帰るのは卑怯だといって殺したのもあった。賭博場へ寺の坊主が案内しなかったといってその坊さんを殺したのもあった。

 こうしたいのち知らずの多くいる中で住む賀川氏の日々は全く薄永を踏む思いがするだろうと聞くと、賀川氏は「こわいと思えばこんなところへは住めませんが、しかし、そんな怖しい人間ばかりがいるわげではなく、一般社会では見られぬような美しい人情があって慰められることも多いのです」と答えた 。

 こうしていろいろの驚くべき場景を見聞して歩いて行くうち、わたしたちはいつか賀川氏がそれまで十年近く住んでいた北本町の長屋に来た。

       (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第36回)

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「日本の名湯百選:わが故郷の関金温泉」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(36

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


               第五回 神戸新川における賀川豊彦

      (前回に続く)
  
                    寝た者夫婦の現実


 長屋の端には便所があったが、その不潔さは鼻と目を覆かせた。賀川氏に聞くと、二十戸に一つぐらいの便所で、少くとも八、九十人の男女がそこで用を足すのだし、肥くみもなかなか来てくれないので、びろうな話だが不浄物は不二山形に堆積しているのが通路から丸見えである。というのは、便所の戸や汲取口の戸はいつかみな燃料になってしまって一つもないからである。

 こうした非衛生と悪臭の中にあけくれ生活している長屋の人たちは、悪臭を悪臭と感ずる感覚を麻庫させている。賀川氏は「あの人たちは、よく屁、屁といって笑いますが、本とうの屁の匂いは多分知っていますまい」といって笑った。

 やがて賀川氏は有名な二畳敷長屋へ案内してくれた。名の如く一戸二畳しかない長屋で、便所も台所もない。路地が台所である。さなきだに狭い路地はそのため一そう狭ばめられて、わたしたちは小さくなってでないと通れない。

 賀川氏の説明ではこの二畳敷に少くも四、五人の家族が住み、中には九人も住んでいるのがあるという。世間の人がドン底の人たちには貞操観念がないというが、ないというよりは、この居住状態ではあり得ようがないのだ。

 現に二畳敷に独りで住っていたある女は、三日目か四回目にはきっと手ごめに会っていたという。彼女は貞操を守ろうにも守るべき道がないのだ。そこで守ることの困難な貞操を守ろうよりは、むしろこれをパンに換えるのが賢明だということにならざるを得ない。賀川氏はその一例としていざり乞食の寡婦お玉の話をしてくれた。

 お玉の亭主の乞食は二週間前に死んだ。それで三十五日の供養をしたいといって、賀川氏の向隣りに住む盲乞食の家の同居者徳に二円五十銭の借金を申入れる。そして供養のすんだ夜、お玉はもう徳のものになっていた。徳は仲間の乞食を招いて祝宴を張ったが、その翌朝新夫婦の姿は長屋から消えてしまっていた。寡婦の貞節は三十五日、それでも先夫の供養をすませているのだから、お玉は貞婦だったと賞讃されたという。

 また中には、亭主が張番をして妻が春をひさぐ者もあり、姦通は悪いとされていても姦夫の方が、妻を盗まれた男よりも強ければ泣寝入りのほかはなかった。

 さらにあさましいのは、妻に死なれた男が娼婦を後妻にもらったが、数年たって息子が成長しその後妻と関係ができてしまった。しかもこの親子の三角関係がせまい長屋の同じ部屋で平和につづけられたという例もあったとか。

 スラムでは「寝た者夫婦」という言葉もあるとかで、性生活のみだれは言語に絶すると賀川氏は慨嘆して話してくれたあと「人間はどこまで堕落して行こうというのでしょう。わたしたちは社会苦と共に人間苦の解決に大きな使命を感じるのです」といった。



村島帰之の労働運動昔ばなし(第35回)

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「神戸・賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(35

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


             第五回 神戸新川における賀川豊彦

      (前回に続く)
  
                  新川部落の印象


 神戸の都心から新生田川(今は川に蓋をして大道路になっていると思う)のその名からしてさびしい日暮橋を東へ渡ると、そこには前に海をひかえ、背後に再度山を負った「葺合新川」の一劃が展開された。

 見ると、よくもこうまで揃ったものだと思われるほど小さな平家建の長屋が縦横につらねられている。わたしたちは南本町四、五、六丁目、北本町二、四、六丁目、吾妻通五、六丁目と順次に見て行った。

 賀川氏の説明によると、約五町四方のこの界隈だけに、約二千戸の家があり、約八千人がゴチャゴチャと住まっているという。東京や大阪のスラムに比べて人口密度は遥かに高い。

 この密集地帯の住人の職業は沖仲仕・人夫などの日傭取りをはじめ下駄直し・くずひろい、それに乞食は全市の大半がここから出るという。収入はもちろん不定で、雨風の折はノーチャプの日がつづく。

 ノーチャプは説明するまでもなく、無収入のためメシにありつけない日のことである。その代り物資も零細な単位で買うことができた。だしじゃこ、めざしは一銭から売ってくれるし、炭も一山二銭から買えた。(もちろん、くず炭である)

 また家賃も日掛けで、一戸――といっても二畳一間からせいぜい三畳だが――一日大体五銭を管理人が毎日集めてまわる。結局、見栄も外聞もいらないハダカ天国であり、天下泰平のオンボロ入生の縮図で、むしろ一般社会よりは住み心地がよい――と賀川氏はスラム生活を礼讃する。

 近道を知っている賀川氏はここの路地、そこの横丁とずんずんわたしをひっぱって行く。どこへつれて行かれても、氏を見失ったら最後迷い子になるほかはないのだから、家来のようについて行くと、漸次氏の勢力範囲に入ったらしく、物置のような家から蓬髪の女やトラホームらしい目をしたこどもがあいさつをする。

 「お父っつあんの病気はどうや。薬がなくなったらとりにおいで」と氏もじょさいなくそれにこたえる。

 手をのばすと向い同志で握手のできそうな路地をへだてて十五軒ぐらいずつの長屋が規則正しく(この形容詞はここ以外に必要はない)並んでいるが、その道の両側の溝には何十日放ってあるのか知れない不潔物が腐水の中によどんでいる。

 その上、家の密集した「太陽のない街」は常にじめじめとしていて、何のことはない長屋全体が一つのハキダメである。

 住民の服装はボロというに尽きる。ことに夏ともなると、こどもは丸はだか、女は腰巻一つで白昼、表を歩き、男は風呂へ行く時など手拭一本のほかはI糸もまとわずアダムのような姿のハダカ天国だという。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第34回)

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「神戸・賀川記念館界隈」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(34

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


             第五回 神戸新川における賀川豊彦

         (前回に続く)
  
                  貧しき人々と共に


 賀川氏がスラムに住み込もうと考え出したのはまだ徳島中学の生徒の頃の事だった。

 庶子に生れ、幼くして実父母を失った氏をわが子のようにいつくしみ、勉学の道をひらいてくれたのはマヤス博士兄弟であるが、徳島中学在学中、その博士邸の書斎である日何気なく読んだ原書の中に、キャノン・バーネットがオックスフォード大学の学生と一しょにロンドンのスラムに居住し、貧しい人々の善き隣人となって働いた記録を発見し、自分も生涯をこの方法で献身しようと考えた。

 そして徳島中学を卒え、マヤス博士の援助で明治学院の高等部に学んだが、寄宿舎にいるあいだに、捨て犬を拾って帰って内しょで押入の中で飼ったり、飢えていた乞食が可哀そうで見るに見かねたといって連れて帰って自分の部屋に泊めて物議をかもしたりした。氏の救済事業はこの時に始まったともいえそうだ。

 そのうち、明治学院の神学部が一部神戸に移されることになって、氏は神戸には貧しい人たちが多いことを理由に神戸の神学校を選ぶことにした。

 この頃、氏は既に肺患にかかっていたが、どうせ死ぬなら、自分の素志通り、スラムの伝道をして死にたいと考え、学業の傍ら、葺合新川に出かけて路傍説教を試みた。

 そうこうしているうち部落の親分新家定吉氏と知りあい、その持家――人殺しがあって、ゆうれいが出るといって借手のなかった長屋へ住みこむこととなった。

 明治四十二年十二月二十四日、神戸神学校の寄宿舎から本や机や蒲団をつんだ荷車を自身でひき、路傍説教で知りあった不良少年を案内に頼んで葺合区北本町六丁目二百二十番地のいわゆる新川の長屋へ移り住んだ。わずか四坪のあばら家で、日家賃は七銭であった。

 それ以来五年間、貧しい人たちと寝起きを共にし、その救済とキリスト伝道に文字通り献身した。

 その後大正三年から二年八ヵ月、アメリカに留学して留守にしたが、大正六年五月帰朝すると再び春子夫人と共に元の新川に戻って来た。

 わたしはその帰朝間もないある日、氏に案内されて、氏の活動の舞台である新川部落を見せてもらったのである。

 賀川氏は黒紋付とは名ばかりの色のあせた羽織の前をコヨリのヒモで結んで、まだ三十才にもならぬ書生ッポ姿、洋行戻りとは誰が想像しよう。



        写真   貧民窟十年記念会―神戸海運クラブで


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        向って右から
        ヒゲの送別会の     遊佐敏彦
        賀川後援者       大村甚三郎
        県嘱託(後の社会課長) 小田直蔵
        賀川氏の師・恩人    マヤス博士
        県保安課長(警視)   土屋正三
        毎 日 記者(筆者)  村島帰之
        スラムのドクター    馬島 僴
                    賀川豊彦
        牧 師         長谷川敞
        賀川後援者(県議)   福井捨一


        (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第33回)

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「秋の夕暮れ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(33

『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分


              第五回 神戸新川における賀川豊彦

                 神戸から出発した世界の人


 カガワ・ストリートという町がロサンゼルス市の郊外にできている。わたしは先年、賀川氏と一しょにそこを訪れた。また米国のハイスクールの副読本に「カガワ・イン・スラム」の一章がのっていた。大学での研究課目にもカガワ研究を選ぶ学生が多くなり、クヌーテンという元日本に来ていた宣教師のごときは「賀川豊彦と近代日本の諸傾向」という論文を書いて南カリフォルニア大学から博士号をもらった。(このクヌーテンの論文はわたしが補筆して日本語に訳して出版した)

 こんなわけでカガワ・トヨヒコの名は、日本よりもむしろ米国をはじめ諸外国で有名である。もっとも、日本でも近ごろ賀川研究を志す人がふえて来て、中でも、同志社大学では最近海外の大学から研究費の補助をうけ、篠田一人教授を主班として賀川研究が進められている。

 これほどまでに賀川氏が日本ばかりか世界的に有名になったのは、氏のすぐれた学識や篤い信仰や精神・社会両面の働きによるのだが、元はといえば、氏が二十才の暮から三十四才の夏、震災救護のため上京するまでの十数年間にわたる神戸の貧民窟、葺合新川部落での働きにその端を発していることは何人も異議のないところであろう。

 そしてこの何人も真似のできない献身的な奉仕と驚くべき働きとが、氏の小説「死線を越えて」に活写され、日本の青年の心をゆすぶり、さらにこれが世界各国に翻訳され、宣伝されてイエス・キリストを現代に受肉し実践する人として、その名は地球上に広く著聞するに至ったのである。

 「死線を越えて」のことは後段に記すこととして、「死線を越えて」が世に出ずる前、まだ無名で貧民窟(言葉としては不適当だ。以下スラムと呼ぶ)のドまん中に住んでいた頃の賀川氏をまず書いて見よう。

 わたしは前に記したように、大正六年七月にはじめて洋行戻りの瀟洒な賀川氏に会い、その後暫らくして、友愛会から演説を頼まれ神戸へ出かけた帰途、新川のスラムに賀川氏を訪れた。

 その時の印象を拙著「ドン底生活」(大正七年一月刊)に書いているので最初にそれを抄録し、併せてぞの後、毎日新聞に連載した「貧民窟十年」の中の挿話を書添えることとする。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第32回)

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「吉田源治郎・幸夫妻:賀川豊彦の書」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(32

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


                第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                  おめがけ横丁に間借り


 神戸の友愛会の雰囲気は常に和風堂に満つといったあたたかさがあった。わたしは大正七年から八年へかけて神戸在勤中は、ほとんど毎日のように、夕方、新聞社の仕事が終ると、新開地の盛り場をあてもなく歩きまわることと、新開地の裏側、湊町四丁目の横丁にあった友愛会の事務所へ行ってトグロをまくことを忘れなかった。

 友愛会の事務所といっても独立した家屋ではなく、二階借りの身の上だった。その上、この横町の戸数約十戸の居住者約二十名のうち、男はわずか六名(その中には友愛会の書記亀徳正臣氏も含まれていた)あとの十余名はみな女だった。それも、あだっぽい美人揃い。

 此処までいえばハハーンと合点されたと思うが、この横丁は俗称「おめかけ横丁」ともいわれる第二号住宅地域だったのである。そのおめがけ横丁のまん中に、労働組合の事務所が二階借りしているのだから天下の奇観といわねばなるまい。

 そして毎夜十時頃ともなると、ほかは森閑となるが、この横丁の友愛会の事務所だけは、残業を終え、家で一ぱいやってから出かけて来る組合員たちでまだ談論風発のさい中である。

 おめかけ横丁の治安をみだすものとして抗議が出そうな具合だったが、皮肉なことに、事務所の真向いは、人もあろうに、川崎造船所のカンカン虫(錆落しの少年工)の人入れをするボスの第二号だったので、気がひけるのか、出入りにも友愛会の人々の目をさけるようにしているのが見られた。


                友愛婆さんは女友愛会長


 ところが、事務所の階下にも一人の女性が住まっていて、刑事が「変ったことはありませんか」と聞きに行けば、彼女は二階へ取次ぐまでもなく「何もありません」と屑屋のように追っ払うすべも心得て居り、また始めて訪ねて来た労働者には、幹部になったようなつもりで、労働組合論の一くさりも語りきかせて、会則や入会申込書を持たせて帰す。鈴木会長が事務所に泊る時などは、まるで貴人のもてなしである。

 彼女は幹部のゆかりの人でも何でもない。実は或る質屋さんの第二号なのである。言いかえると、友愛会は、おめかけ横丁の、そのまた妾宅の二階に間借りの身分だったのであるが、階下の女性は、本務を忘れて友愛会のために忠実な玄関番・接待係をつとめてくれた。

 もっともこれがうら若い美人だったら、年少労働組合員の刺戟ともなったろうが、あいにく年は既に四十を越したうばざくらでお世辞にも美人とはいえない。友愛会の人々は彼女の本名の黒瀬俊子を知らないでも「友愛婆さん」で通っていた。

 友愛婆さんは九州は熊本の国憲党員の家に生れた男優りで、友愛会の面々と、労働運動の話もすれば、また家庭の紛議などを持ちこまれると、夫婦げんかの仲裁もした。かと思うと、乱暴者や浪費家は、とっつかまえて諄々と説教することもあった。それで、若い組合員らは「労働紛議なら友愛会へ! 家庭紛議なら友愛婆さんへ!」といって、彼女を「女友愛会長」に擬する茶目さんも居た。

 友愛婆さんはその後、パトロンの質屋のおやじとも別れた、というよりはすてられた。その原因は、彼女がかんじんのおやじヘのサービスを忘れて、友愛会に肩入れしすぎるからというのだった。

 久留氏らは婆さんの組合員を凌ぐPRや巧妙な刑事撃退の手腕を高く評価し、その後は事務所の台所を手伝わせていたが、不幸にして胸を病み、久留氏の世話で高砂の鐘紡病院に入院療養中、元気な婆さんも病気には勝てず、あの世へ旅立ってしまった。大正中期の神戸の労働運動の一挿話ではある。
            

村島帰之の労働運動昔ばなし(第31回)

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「颱風一過」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(31

『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分


                第四回 友愛会長と友愛婆さん

      (前回の続き)

                   労働問題討論会


 その頃の事だったと思う。神戸の友愛会が主催して、神戸YMCAで労働問題討論会を催したことがあった。その時の討論会のプログラムが残っているが、それを見ると、当時の友愛会の元気な連中の名がズラリと並んでいてなつかしさを禁じ得ない。

 討論会の刷物によると、議長は今井嘉幸博士、副議長は高山義三氏、そして討論者は多分議会を模したのであろう左右両派にわかれて、右派の指導者はわたし、左派の指導者は賀川氏ということになっている。

 討論の議題は八つで、それぞれ弁士が割当てられてあるがなつかしい人の名を拾って見ると、

 一、労働運動は経済運動にとどまるべきや、政治運動にまで干渉すべきや
  (弁士)灘重太郎、沢井重太郎、大阪 早川由之助その他
 二、労働保険は組合組織によるべきか、政府によるべきか
 ’(弁士)越川豊治、出羽栄太郎その他
 三、八時間労働制は可か否か      
  (弁士)木村錠吉、安本仁、和田惣兵衛その他
 四、労働組合法の必要ありや否や
  (弁士)須々木純一、安井喜三、浜名兼三その他
 五、普通選挙は年齢別によるべきや、世帯別によるべきや
  (弁士)青柿善一郎、門田清七、疋田平作その他
 六、住宅問題を組合の問題とすべきや、市の問題となすべきや             
  (弁士)前川萬治郎、川島氏、大阪 西尾末広、同島種吉その他
 七、最低質銀制を採るべきか
  (弁士)野倉萬治、田辺一、福水宇太郎その他
 八、強制仲裁の可否
  (弁士)行政長蔵、胸永大助、栄二郎その他



                パリ戻りの会長を迎えて


 そうこうしているところへ、八年のはじめに鈴木氏は平和会議からさっそうとして帰朝し、まず神戸へやって来た。神戸の友愛会員は、船で神戸へ着いた西園寺全権以上に鈴木会長の帰朝を歓迎することとした。

 これより少し前、久留弘三氏が新妻を迎え、お祝いの返礼をかれて大太鼓を友愛会へ寄附したが、鈴木氏の歓迎にはこれを使うこととしたほか、特に二頭立の馬車を仕立て、三宮駅まで神戸の組合員が大ぜいで出迎えた。

 鈴木会長を乗せた二頭立馬車は、大太鼓を先頭に堂々隊列を組んで労働歌を高唱しながら神戸の目貫き通りを示威行進した。馬車には松岡駒吉氏と久留弘三氏とわたしが同乗し、馭者台には海員部の浜田国太郎氏が乗っていた。馬車につづく行列の中には大阪から馳せ参じた友愛会員もいたが、西尾末広氏もその一人だった。


         写真 鈴木友愛会会長を迎えて(大正8年)

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       写真左より 久留 松任 賀川 鈴木 高山 村島 藤岡


 西尾氏は職工組合同志会から友愛会へ移って間もない頃でこのデモのあった直ぐあと、松岡・久留両氏やわたしの推せんで、多くの先輩をぬいて大阪連合会主務となり、大戦後、続発した大阪の大争議に名指揮者ぶりを示したが主務になった時、先輩たちは不満を鳴らした。

 現にわたしに向って、
 「西尾はオイラと同じ労働者やないですか。それが主務になって………」
 と不平をぶちまけた一支部長もあった。今なら反対に「オイラと違うインテリや、それが主務になったりして」とインテリ主務をこそ排斥したことだろうに――。

 しかし、インテリが重んぜられたのも大正初期だけで、やがて大正も十年を過ぎると、サンジカリズムの嵐が吹き荒れて、知識分子排斥の声が高まり、学識の深い者以外は、有能な労働者出身のリーダーの進出で、自然と消されてしまう結果となった。

 西尾末広氏は自伝「大衆と共に」のなかで、「知識階級は消えて行った」と記しているが、消えて行った理由は本人の自由意志よりも、後から来た者がより強力だったため、おのずと消え去らざるを得なかった向もあったのではないかと思う。鈴木文治氏は最後まで残ったが、労働者出身者よりも、新しく進出した尖鋭なインテリ分子によって押し出された感がある。

 しかし、神戸の友愛会の人々は、一二の例外を除いて鈴木氏を永く支持した。

    (続く)




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