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村島帰之の労働運動昔ばなし(第85回)

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「えほん<光の海>より」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(85

『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

第十一回 いわゆる「八時間労働制」
    ――川崎のサボが起こした波紋


    (つづき)        

                旭ガラスの場合 

 兵庫県下のガラスエ場で最も早くから8時間労働を実施していたのは尼崎の旭硝子製造工場であった。同工場は明治24年の創立で、その時からガス発生部を除き、8時間労働を実施していた。ガラス製造の基をなす吹部(溶液を棒の先につけて口で吹いてふくらます作業)と延部(延ばして板硝子とするもの)の職工848名は午前6時から午後2時まで(申出)と午後10時から午前6時まで(夜業)の3組に分けて8時間ずつ働いていた。この中には30分の休憩時間が含まれているから、実働時間は7時間半、その上、夏季4ヵ月はさらに炎熱をおもんぱかって6時間労働制をとっていた。火をあいてとする仕事の性質上こうした短時間制は当然である。そのため過労な仕事にもかかわらず欠勤者も少く、1ヵ月の出勤日数は27日乃至28日(女子はやや低く23日)で、他の12時間労働の工場などに比べて遥かに高率であった。

 私はこの記事をのせると、旭ガラスの一職工が;直ぐ書面をよこして「貴紙掲載の8時間労働は本工場でも吹部などの一部だけで、昼勤作業の鍛工部、切部、営繕部、荷造部は10時間若くは11時間、また昼夜交代の電機、汽缶、調合、雑役は12時間労働をやっていると]と報じ、これらの部でも8時間労働制をとるように紙上で声授してほしいといって来た。

 ガラス工場の8時間労働も全工場ではなく、酷熱と戦う部門だけに限られていることを指摘して来たのだった。

 すると、こんどは八時間労働をやっている吸部の人たちから、「川崎造船所あたりでも8時間労働をやるのだから、釜中の魚のようなわれわれには、夏の6時間労働制をひろげて、1年中、6時間労働を実施してほしいといい、「それで、吹部職工200名はその旨会社に要求した」と伝えて来た。こうなると川崎造船所の名目だけの8時間労働などはあまり威張れたものではないと思えて来た。

    (つづく)



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村島帰之の労働運動昔ばなし(第84回)

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「山口県光市の島田川:凪の座のうた<島田川>」(今日のブログ「番町出合の家}http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(84

『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

第十一回 いわゆる「八時間労働制」
    ――川崎のサボが起こした波紋


    (つづき)        

               川崎以前の8時間工場

 なるほど、8時間労働制が労働条件の常識となったのは川崎のサボタージュ以後ではあるが、八時間労働はそれよりもずっと以前から一部の特殊事情のある工場では実施されていた。

 サボタージュ直前の大正8年7月末現在で、兵庫県下における八時間労働制実施工場は既に20工場を数えていた。その中でも1回作業、うまり8時間の労働を終わるとそのまま工場の作業を打ち切るものは12工場で、交替作業、つまり昼夜作業で1日24時間を3交替で作業するものは8工場であった。これを業態により区別すると、



                  1回作業      交代作業
  製綿               4
  金属品              1         1
  ゴム製造                       2
  製本印刷                       2
  器具               1 
  窯業               2         1
  化学                        2
  木竹蔓茎             4    
  合計              12        8

 最も多いのは製綿工場と窯業であるが、製綿は実は仕事の不振のため自衛上8時間労働を実施しているもので、労働者保護のためのものではない。

 これに反し窯業はガラス製造のごとく、カマドの冷却を避けるため夜昼夜作業をやっているのと、熱大の前の作業で長時間労働はムリだから交代作業をしているというもので、後記の旭硝子や島田ガラス(新淀川の東岸で大阪府にあるが)などは残業なしの8時間労働2交替制をとっていた。

 私はサボタージュのあと、県下の8時間労働実施工場を見て廻って、毎日新聞に11回にわたってこれを詳しく紹介したが、暫くして8時間労働が全国的にやかましくなり出した時、東京から中外商業新報の特派記者が全全国でも最も早く8時間労働を実施した兵庫県下の工場の実情を調べに来て、私の書いた記事を読み、これ以上書くことはないといって、切り抜きをもってそのまま帰京した。

      (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第83回)

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「丸岡忠雄詩碑:山口県光市みたらい公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


村島帰之の労働運動昔ばなし(83

『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

第十一回 いわゆる「八時間労働制」
    ――川崎のサボが起こした波紋


    (つづき)        

              「8時間労働は時期尚早」

 第1回国際労働会議が労働原則9ケ条を議決した時、使用者は大いに狼狽した。そしてこれを正面から反対し阻止することは、とうていできないにしても、その実施を少しでも先きに延ばそうと必死になった。

日本工業倶楽部ではそうした空気を作るため、大正8年8月、ちょうど川崎のサボタージュの姶まろうとしていた頃、全国の商業会議所に諮問し、神戸商業会議所では各工場主の意見をまとめた。鐘紡、川崎、三菱等の大工場は「回答未着」だったがその他の工場主の回答を総合すると次のようなものだった。

 第1 8時間労働問題
 1 連系作業による工業には8時労働は実施困難であるが連結作業による工業ならびに就業者の身体及び健康に直接危害を及ぼす事業(エ場法施行令第三条該当事業)には8時間労働の実施は可能である。

2 8時間労働実施の困難なる事情としては資本の欠乏による生産設備の不十分、労働者の規律的習慣ならびに精力集中の欠乏、体力貧弱に伴う能率の低下によって来る生産の減少などが重なる原因で、現に請負制度を実施している工場では請負賃率を改正しない限り労働時間の制限は不可能である。

 また労働時間の長い農業労働者をして都市集中の傾向を旺盛ならしめることもこれが一原因である(工湯主中には現在ある1日、15日の休日を毎日曜毎に改正するぐらいは容易だという者がある)

 右の8時間労働問題につづいて失業予防、夜業廃止、婦人労働の各問題にふれた後わが国がこれに加盟する条件として次の如く結語しているのである。
          
 国際労働原則9箇条は労働条件改善のため人道の理想を説いたもので双手をあげて賛成 すべきであるが、一国の産業の発達には特殊の伝統と事情があるから、欧米百年の犠牲と 経験とからなったものを直ちに日本の現状に移すことは考えものである。ゆえに実施期間 に相当の猶予を置くを条件として加盟すべきである。

 時期尚早だ。日本の労働事情と欧米先進国のそれとは違う――これが当時の工場主の8時間労働に対する共通した意見で、鐘紡の武藤山治氏もこの意見をもっていた。それを押切った松万幸次郎氏はやはりエラモノであったといえよう。

 しかし、甚だヒネクレた言い方かもしれんが、その松方氏もサボタージュ事件がなかったら、まだ「調査中」を続けていたのではなかろうか。

 私はその頃始まったメーデーの示威行列にうたう歌を作るよう友愛会から頼まれて、歌と一しょに「デカンヨ節」をおそえものに作ったが、その中にこんなのがあった。

 「8時間労働も、やれない国が、聞いてあきれる一等国ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ」
 
(この時のデカンショ節のうち「どうせやるならデッカイことなされ、世界中まっくろけのストライキ」というのは禁止を命ぜられた)日本は戦力では一等国でも、労働問題ではインド並みだったのである。


     (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第82回)

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「山口県光市・伊保木村<光の海舎:椿窯>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)


村島帰之の労働運動昔ばなし(82

『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

第十一回 いわゆる「八時間労働制」
    ――川崎のサボが起こした波紋


               サポタージュの意義

 川崎造船所のサボタージュは2年後に起こった川崎・三菱両造船所のストライキほどに世間は評価していないが私はそうは思わない。もちろん、争議としての規模や、その波瀾に満ちた内容においては比較にならないが、しかしサボタージュ事件が起こした波紋は、労働新戦術としてのサボの存在を天下に知らしめたこと以上のものがある。

 いうまでもなぐ、8時間労働問題がこれを契機として全国的に波及し実行されてやがて、就業時間の常識とまでなったからである。その意味から、大正8年の川崎造船所のサボタージュは単なる新奇の戦術として見るだけでなく、わが労働界に一つのエポックを劃した事件として高く評価されるべきものと思う。

 もちろん、8時間労働制は後段に述べるようにサボタージュ以前から一部には実施されていたのだし、またこれが問題となり出したのも川崎のサボタージュがあったからだとは断ずることはできない。

 サボタージュの起こる前、第1回国際労働会議において「労働原則九ケ条」が議決され、その一項目として8時間労働制の実施がうたわれていて、労働者も使用者側もこれに深い関心をよせていた。ただ、日本政府および使用者側は、8時間労働制の実施をなお時期尚早だとして、印度などと同じ特殊国並みに除外例として9時間半に値引して調印した。

 それも実施時期を5年後(1922年7月1日)としたのだが、その実施期限が到来しても、なお調査に名を借りて容易に実施しなかったぼどであった。そんなわけで、一般には8時間労働制は望ましいことだが、日本の現状ではまだまだ先きの事と見ていたのである。それをたとえ名目だけにしろ、8時間労働へ踏み切る(あるいは踏みきらせる)契機を作った川崎造船所のサボタージュは意義の深い争議だったといわねばならない。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第81回)

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「上田達生さん:「凪の座」40周年リサイタル」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plala.rakuten,co.jo/40223/)


村島帰之の労働運動昔ばなし(81

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

              
            三菱と製鋼所の動揺
  

 こうして川崎造船所一萬六千名のサボターユは終わり、次号で記すように、サボの副産物の八時間労働制は日本全国の資本家に大きなショックを与え、また同時に全国の労働者には、新らたな目標を与えることとなった。

 大正八年九月、川崎のサボタージュがすむと直ぐお隣りの三菱造船所および鈴木製鋼所でも動揺が起った。両社では川崎造船所のサボ目のあたり見、またその結果を聞いているだけに狼狽し、これを未然の裡にもみ消すためあらゆる努力をした。

 私が聞いたところでは三菱では工場と工場の間に柵(さく)を結んで、リーダー(その多くは友愛会員だった)の往来を遮断し、また目覚ましい者一六名を馘首した。気の毒だったのは直接これに関与していなかった三菱の友愛会支部幹事長福永宇太郎氏(機械工場の職長)と幹事高橋元次郎(同伍長)で友愛会の幹部というので早いところクビにされてしまった。そこで友愛会が決起しようとしたが、会社の手が先廻りして、あらゆる鎮撫策を講じたので手も足も出なかった。

 神戸製鋼所でも三菱造船所と同様。工場閉鎖一歩前といったような鎮圧策を講じたが三菱のような友愛会幹部のクビきりは行わなかった。却ってその反対に、友愛会の幹部だった同所の沢井重次郎氏らは争議をよく指導できなかった責任を負い、工場をやめてしまった。

 三菱にせよ、製鋼所にせよ、川崎のサボのはじまった頃から、飛び火の来るのを警戒し、水ももらさぬ防備態勢をとっていたため、労働者のつけ入るスキがなかったのである。

村島帰之の労働運動昔ばなし(第80回)

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村島帰之の労働運動昔ばなし(80

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

                賀川豊彦氏の反対論


 私の書いたこの記事にもあるように、サボタージュはヤナギ若くはアミダという名称で前々から行われていたにせよ、それはホンの一部でのことで、ストライキやボイコットのように広く行われたものでなかったことはいうまでもない。それが川崎造船所のサボタージュが天下に著聞するようになって、始めて、そうした戦術もあるのかと思うようになり、これを戦術として戦う労働者も出て来た。

 しかし、どっちかというと、怠業を行う労働者自身でさえ、ストに比べるとサボは何となく・うしろらいような気がするらしく、川崎のサボのあった大正八年に全国で五百件以上の争議が行われたに拘らず、サボを行ったのは目星しい処では東京市電ぐらいであった。東京市電がサボを行なったのぱ、ストを断行すれば市民の反感を買う危険の多いところから、市民の反感を少くし、しかも使用者側にはストに劣らぬ圧力を加えることのできるサボを選んだものである。交通労働以下では兵庫県下でも大正十三年になってから四月に日本毛織職工七千人の怠業、同五月神戸ダンロップのゴム職工千二百名の怠業があったくらいでそのほかにはこれというほどのものはなかった。

 また労働組合としても罷業の方はやりいいが、サボはやりにくいらしく、戦後になって官公労が遵法闘争などという名の下にこれを採用し、実力闘争の有力な戦術とするようになるまでは、むしろ目陰の存在であったといえそうである。

 大正八年の川崎造船所のサボタージュにしても、これは労働組合(当時は友愛会が唯一の組合だった)の争議ではなかった。これは二年後の神戸大争議とは異なる点である。もちろんサボの指導者であった野倉栄治氏をはじめ、青柿善一郎氏ら主なる人々は友愛会の幹部であったが、友愛会として正式にこれをバックアップしたわけではなかった。現に神戸の友愛会の幹部賀川豊彦氏や久留弘三氏はサボタージュには全く関与していない。

 賀川氏はサボの起る数ヵ月前の友愛会神戸連合会の機関誌「新神戸」に「暴動の安全弁」と題する一文を載せて「ある種の労働運動関係者はサボタージュと称して暴動は労働運動に必要なりと説く、しかし私等はその教理と実際を笑うものである」として、サボタージュに対しては始めから反対の態度をとっていた。

 しかし賀川氏の反対したのはフランスなどのサンディカリストの行なった破壊的なサボであって、すべてのサボタージュが破壊的、暴動的とはいえない。殊に日本で行われたサボタージュは、前述のように昔からの「ヤナギ」や「アミダ」を組織的に行ったもので、暴動などとは凡そ縁遠いものであった。だから賀川氏も、川崎造船所のサボが始まると、先鉾をゆるめて、「サボは労働者の勤労意慾を低下させ、また生産を麻庫せしめる」といった程度の反対論に変っていた。

 もちろん争議には関与しなかったが、それでも気になるのか、サボの状況を視察するため造船所へやって来て、居合ぜた私からいろいを聞いて安心したような面持ですく帰って行った。賀川氏の小説「死線を越えて」の下巻「壁の声きく時」の中にも川崎のサボが出てくる。それには私の名をもじった「島村信之」という新聞記者が争議戦術としてのサボタージュを組合で講義するところが出で来るが、別段サボを批難するようなところは少しもない。賀川氏は自分としては怠業には賛成し難いが、川崎造船所の諸君の行った程度のサボならとり立てて反対することもないといった心境だったと思う。

  (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第79回)

2


うえの記事は今朝の神戸新聞。



村島帰之の労働運動昔ばなし(79

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

              兵庫県下の労働争議

                量的に増加したが質においても組織的


 兵庫県下で大正五年以前は一年間に十件に出ることのなかった罷業が、六年には四十六件と五倍近くにふえ八年に入るとさらに激増して、先月(七月)一ヵ月だけで既に十二件の罷業を見た。つまり、今日の一ヵ月間の罷業件数は数年前の一年分を超えている勘定である。

 これは平和克復後(第一次大戦を指す)仕事が減少し、従来の残業や徹夜が廃減され労働者の収入に大きく響いて来た結果で、しかも一方には物価の暴騰で、白米が米騒動当時の五十銭を遥かに超え六十銭台に近づこうとし、生活がますます不安となって来たためと見るべきであろう。

 その上、近時、組織労働者の自覚がたかまり、神戸の友愛会の如き既に会員三千五百を超えていることも無視できない。今、新聞紙上に報道された七月一日以降八月十日まで四十日間における県下の罷業十一件を見ると(新聞に出なかったものを加えればもっとふえでいることだろう)罷業参加人員の一件平均は百七十四名、従来の百名足らずに比べかなりの増加である。

 中でも多いのは鳴尾のリバー・ブラザーズの五百名、鉄道院鷹取工場の三百五十名、飾磨の塩田労働者の三百名、東洋マッチの二百名である。

 罷業の目的は賃金値上で大体三割増を要求し大部分はなかば以上要求を貫徹している。中には三菱倉庫神戸支店仲仕の二十割賃上げというのもあったがこれは失敗している。罷業日数は平均一日半で、五日以上を超えたのは塩田労働者と日本郵船の給仕の罷業だけだ。

 しかし此処で注目に値するのは、近頃の争議の中にはフランスやアメリカのサンディカリストが行うサボタージュが行われ出していることだ。サボタージュは「のろのろ働く」といった意味のもので、故意に労働を怠り、能率を低下させるもので、さきに行われた東洋マッチの争議に軸列職工が就業はしたが、仕事を遅らせるため、軸列の作業をしなかったのや、鉄道院鷹取工場で監督の巡視の時だけは仕事をしたが、監督がいなくなると一同手をこまねいて仕事をしなかったというのなどは罷業ではなく、サボタージュである。

 しかしこれは別にサンディカリストから教えられたわけではなく、従来から「ヤナギ」(柳に風といった風にノラリクラリとする意味か)または「アミダ」(アミダ仏のように、じっとして動かないという意味か)と称しで日本にも行われて来たものである。

 なお東洋マッチや鷹取工場の争議の際は右のサボタージュのほかピケッチングといって、争議中、他の職工が補充に就業するのを防ぐため見張りを立てることも行われた。県下の争議は量ばかりでなく、質においても著しく変化を見せて来たことを知らねばならない。
                    (大正八年八月十四日、毎日新聞兵庫県附録トップ記事)

     (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第78回)

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「能楽・初体験」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(78

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

                「ヤナギ」「アミダ」 


 サボをサボとして正に堂々と行い、その上、サボという戦術を採用せねばならなかった理由を公然と声明したサボは川崎造船所のサボタージュが最初だが、しかし、単に仕事をノロノロとやって、作業の能率を下げるというやり方は、河上博士も記していられるように、これまでも行われて来た。ただそれをサボタージュというものであることを知らずにやったという点が、川崎の場合とは違うだけだ。

 現に大正八年七月十三日から二日間――つまり、川崎造船所のサボの行われる二ヵ月前に、同じ兵庫県下の東洋マッチでサボは行われたが世間は一向これに関心を示さなかったのである。

 私は当時、新聞でこれがフランスやアメリカで行われているサボタージュというものでることを説明したが、世間は一向反響を示しはしなかった。もちろん、この新聞記事には「サボタージュ」と書いただけで、まだ「同盟怠業」という日本語訳はつけていなかった。

 その当時(大正八年)の争議の趨勢を報道したもので、川崎のサボの行われた頃の兵庫県下の労働運動の情勢を知る便があるので次に抄録する。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第77回)

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「一麦保育園創立80周年記念・一麦の碑」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(77

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

                夕刊紙上に「怠業の弁」


 サボターシュの反響は識者や学者からの論評があっただけでなく、労働者の中からもあったが、それが意外にもサボヘの批難であった。新聞社へもサボを批難する投書が舞いこんで少からず私を悲しませた。中にはサボのリーダー野倉栄治氏をひやかして「ノクラ栄治」といっているのもあった。野倉氏はそれ以来、自分でも「ノラクラ栄治」と称し、サボタージュののち私が神戸を去って大阪本社に復帰する時、野倉氏らが催してくれた送別会の寄せがきにも、彼は自ら「ノラクラ栄治」と書いている。

 それはともかくとして、前記河上博士の如くサボを了解してくれる識者は割合少く、サボへの風当りは強かった。そこで私は野倉氏や青柳氏と相談して、「怠業の弁]を毎日新聞にのせることにした。

 紙面も兵庫県付録では読者の範囲がせまいので、本紙の夕刊二面の寄書欄にのるよう依頼した。岡崎支局長も賛成してくれたのでその通り運んだ。筆者は野倉氏になっていたが、実際執筆したのは青柿氏であった。

 この記事は野倉氏の追悼録にも収録されてあるが、要旨は治安警察法があって事実上、罷業のできないわれわれは、仕事を罷めないで、しかも罷業と同じ効果をあげる争議戦術として怠業を行う以外に道はない、といった風のものであった。短い弁明だったが、この記事を読んで野倉氏らの考え方を了解してくれた人も多かったことと思う。                

  (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第76回)

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「明石城の二羽の白鳥」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(76

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

               「男らしくない」の批判


 また松方社長が野倉代表らに放言したように「サボとは卑怯な、やるならなぜ男らしくストをやらぬのだ」ときめつけたと同じ論法で同盟怠業よりも同盟罷業を男らしいとし、労働者が資本家に対抗して戦わねばならぬなら、男らしい同盟罷業をその戦術とすべきだという批難に対して、博士は次の如き反駁をしている。

 「多年学者の主張を無視し、故意に法律と官権とをもって労働組合の発達を妨げて来たわが国では、すべての人の知るように、今日、資金のゆたかな労働組合は一つも存在しない。それだから日本の労働者が同盟罷業をすることは糧食を貯えないで篭城するようなもので、戦わずして勝敗の数は明らかである。いかに同盟罷業の方が男らしくても、彼らは敗けるにきまっている戦術を避け、活路を他に求めることは労働者もまた人である以上、私は致し方なきことであると思う。」

 といって、「やるなら男らしくストをやれ」という批難に応えている。そしてさらに一歩をふみこんで政治家たちの近視眼的態度をきびしく やっつけている。

 「今、その争議に際し、労働者の用うる戦術として、同盟罷業以外の手段を採らざるを得ざる必然の運命の下に、特に日本の労働者を置いたものは果して誰であるか。私は同盟怠業に出でたる日本の労働者を道徳的に批難する前に日本の政治家の近眼を批難せずには居られない。われわれは学問上、常に必然の理法を説きつつある。しかもこれを無視して必然の流れを防遏せんがために無益無謀の堤防を築くならば、われわれは予言する。それは徒らに洪水を氾濫せしめて、ついに百年の悔いをのこすものなることを。」

 河上博士のこの一文は、川崎造船所の怠業職工にとっては正に千釣の重味があった。もちろん博士もこの論文の末に「この一文の趣意は同盟怠業を奨励すべしというのでは決してない」と特に断って居られるが、怠業職工にとっては大いなる知己の言であった。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第75回)

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「明石公園ぶらり散歩」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(75

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

                 怠業と道徳性


 博士はさらに怠業そのものの道徳性をとりあげて、「今日の社会組織の下では怠業の完全なる予防法はほとんどない」といい、「怠業は古くから西洋でも日本でも行われているところだが、殆んど批難されずに来た」といって自分のことにふれている。
          
 「現に私も一教員として、また一官吏として常に何ほどかの怠業を継続しているが、この種の怠業は社会から賞讃はうけないにしても特に道徳的批難を加えられることはない。今日特に道徳的批難を加えられつつあるものは独り同盟怠業に限られる。これはなぜだろうか」

 と反問し、これは結局、個人的な怠業は耳目にも慣れていて別段新らしい事でもないので注意も惹かず世評も寛大だが、同盟怠業となると、西洋でも比較的新らしい現象で殊に日本では最近の現象に属するため、ややもすると公平なる批判を下すことができず、極めて過酷に失し易いものとなるのだと解明している。

 要約すると、博士は同盟怠業に対してのみ過烈な道徳的批難が加えられる理由として次の二つの点を指摘しているのだ。

(1) それが労働者の所為であるゆえで、資本家が採った同じ性質の所為よりも特に過酷にこれを批難する危険のあること。
(2) それが新奇な現象であるために、既に多年見なれている同じ性質の他の現象よりも特に過酸に批難を加える危険のあること。

 博士はこの二つの危険について具体的な例をあげて説明している。

 「例えば牛乳販売業者がその組合の決議にもとづき、従来一合四銭の価格だった牛乳を一合八銭に値上げしたとする。もちろん彼らはその値上について消費者と協議するようなことはない。勝手に値上の決議をして、消費者にはただ一片の通告をするだけである。もし消費者がこれに同意しない場合は、牛乳業者は日々一合づつの牛乳を配達する代りに、五勺づつを配達するにとどめるだろう。今、労働者がこれと同じ行動に出るとするとどうなるか。彼らは同盟して賃金の値上を要求し、その要求の容れられない間は、いわゆる同盟怠業をなすことによって、急にその提供する労働の分量を減少する。これは牛乳業者が牛乳の値上を決議すると同時に、従前と同じ価格を支払う者に対し、従前よりも少量の牛乳を提供するにとどめるのと全く同じである。一方はこれを看過し、独り他方をのみこれを道徳的に批難する理由を私は見出すことぱできないのだ。」

  (つづく)




村島帰之の労働運動昔ばなし(第74回)

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「明石城」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(74

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

第十回 サボタージュの反響
    ――特に河上肇氏の擁護論


(前回のつづき)

     
                 河上肇博士の所説


 関博士から訳語が不適当だとしてやっつけられた直後、河上肇博士が「同盟怠業の道徳的批判について」と題し、サボに対する世評の誤っていることを指摘してくれられたのには大にわが意を強うした。

 河上博士は力強くこういっている。「労働者同盟怠業と同じ性質のことを、資本家も屡々実行しているのに、資本家に向ってば一向これを批難しないで、独り労働者に向ってのみ特にこれを批難するのは、果して公平といえるだろうか」

 「例えば糸価下落の際、紡績業者がいわゆる操業短縮を行うごとき、人間の生命の発展を故意に抑制する生産制限は、事業界の全般にわたって行われ、これにより資本家は純然たる不労所得を獲得しつつある。このような資本家により行われるところの人為的生産制限に対し、世人は平常全くこれを馬耳東風と見すごしながら、労働者がその唯一の商品たる労働力の販売に関し、同様な人為的の供給制限を行う時、これに対してのみ、なぜ甚しき批難を加えるのか」

 「経済組織の必然性にもとづいて資本家側が罷業または怠業(事業の短縮を指す)を行う時は、やむを得ないこととして見すごしておきながら、同じ経済組織の必然性にもとづいて、労働者が罷業または怠業を行う時は直ちにこれに向って道徳的批難を加えるというのは決して公平な態度ではない。従ってそのいうところの道徳は、明らかに資本家的道徳一―資本家のために都合のよい階級的道徳――だといわざるを得ない」

 こうして博士は労働者の罷業に対しても、また怠業に対しても、道徳的批難を加えることは当を得ていないと、くりかえし説いているのである。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第73回)

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「明石公園菊花展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(73

『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

 第十回 サボタージュの反響
     ―特に河上肇氏の擁護論―
 
 
       
               サボタージュの誤訳


 ストには慣れている世間も、新奇な労働戦術としてのサボの出現には驚いた。そしてそれぞれの立場からサボを批判した。使用者側の批判は、ストライキと違って、就業しながら意識して生産を阻害するこの戦術を憎んで、ほとんど例外なしにこれを批判した。

 松方氏のいったように、あるいは男らしくないといい、また、生産をマヒせしめる、卑劣な戦術だといった。そして争議をやるのならサッパリとストライキをやるがいい、というのだった。

 この場合、私として申わけなく思うのは、サボタージュを「同盟怠業]と訳し、わざわざ「サボタージュ」と振り仮名までつけて新聞にデカデカと報道し、他の新聞も例外なくこれにならったため、サボタージュという争議戦術は単に仕事をなまけることであるかのような印象を一般に与えてしまったことだ。

 川崎のサボがあって以後、何事によらず、なまけることを「サボる」というようになったが、これはサボ自身にとってもまことに心外であったに違いない。

 前記の如く、サボは単にノロノロとなまけることだけを意味するものではなく、ある場合は、その反対のこともある。鉄道従業員の行うサボのように、就業規則を忠実に遵奉し、停車中の列車の車両を一台一台ていねいに点検して歩いて故障がないかどうかを確かめたりする。これは遵法行為で批難をうける理由はない。しかしこの事によって列車の発車が遅れ、ダイヤが狂い、交通をマヒさせて使用者に対し罷業に劣らぬ打撃を与えるのだから明らかにサボタージュである。

 また川崎でやったように、仕事はしないけれども、ボイラーには平常よりも多くの石炭を焚くというのも少くとも、竃たきの火夫にとっては、なまけるどころか、むしろ骨が折れて忙しいわけで、怠業という言葉はこの場合、当を得ない。             

 もちろん、これは罷業でもない。いうなれば生産麻痺の痺をとって痺業とでもすべきなのだろうが、ヒ業では罷業と混同し易いし、字づらもよくない。やはり、サボタージュが農夫のはく木靴から来たことを考慮に入れて、一応ノ口ノロと仕事をすることをサボと解釈し「同盟罷業」と語呂の合うように「同盟怠業」と訳することが一ばん適切だと私は考えたのだった。

 それにブルタニカを引いてみてもサボタージュはイギリスではCa-Canyといわれるそうで、Ca-Canyの説明としてgo sIow or be carefull not to do much と注釈してある。つまり、英国でも、ゆっくりとやったり、仕事の能率をあげないようにすることがサボの原理だと解しているのだ。そこでゴースローをそのまま怠業としてしまったわけであった。

 しかし、事情はどうあろうと、サボタージュを単に怠けることのように誤解させたことは、これを不用意に「同盟怠業」と訳して新聞に報道し、サボ=なまけることと曲解させた私の罪である。サボの直後、関一博士は「経済論叢」でこの点を衝いて私をやっつけられたが、私としては一言もなかったのである。 

      (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第72回)

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「明石城・武蔵の庭園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(72

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第九回 日本最初のサボタージュ
     ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)   
  
                  当世資本家気質


社長「今日は何しにな」

委員「交渉員が協議した結果、われわれの要求が貫徹されるまで一同休業する事に決しました。それでその事を申上げるため会見を求めた次第です」

社長「それはご苦労、しかしお前達が休業するならせよ、当所の規則には3日間体業する時は除名する事になっている筈ぢゃ」

委員「でもお届けさえすればよいと思いますが」

社長「その通りぢゃが、休んでどうするのかね」

委員「休んでお返事を待たうというのです」

社長「なるほど判った。ところで先達も話した通り、俺はお前達の増給やその他いろいろ会社の改善を行う事については疾くより苦心している。そこで今これから話す事は実はモ少し早く発表したかったのであるが、お前達か今度のような事(サボを指す)を起し、それが邪魔になって仕方がなかったので、その運びに至らなかったのぢゃ、………兵庫工場の一部分は一時お前達と同じような事をやったがその後皆おとなしく仕事をしてくれているので、実は今日会社の案を発表した。俺はお前達の人格を重んじ、夜市の植木屋に対する如く50銭に負ろとか、70銭に負ろとかいうようなケチな事はいわぬ。俺は俺の信ずる通り断行する。お前達は休業するそうだが、中にはこの儘造船所へ戻って来ないで、再び逢えぬか分らぬ者もあろうと思うから今、朗読させる会社案をよく聞き取ってくれ……(庶務課長、8時間労働実施及増給案を朗読す)‥‥‥

社長「今朗読させた通りぢゃ、お前達の案と俺の案を比較対照するに、お前達の案は上級の者ほどよくなって下級の者は割がよくならん、こんな案にどうして同意する事ができるか、俺は賛成せないのだ。これがためなお怠業するとも、休業するともそれはお前達の勝手じゃ」

委員「伺います。先刻朗読せられた賃金改正案はわれわれが明後日から復業して従前通り働けば実行していただけるのですか」

社長「本社の職工にどんな差別があるか」

委員「ソレでは私達の帰るのを待っている職工や既に帰宅している職工に明後日から出勤して働けばこうして貰えると伝へましたら」‥

社長「一体お前達のざまは何だ、独りこの俺をいじめるばかりでなく日本人全体をはずかしめる訳ではないか」

委員「ですから本社の職工に対しても同様実施のことを聞き容れて貰えませんですか」

社長「いかにも無謀な事をしたという事がわかり誠実に働かぬ限り何ともいわれんわい」

委員「では、実際誠実に働けば実行するとおっしゃるのですか」

社長「実行せぬとでも思うのか」


 野倉氏はじめ交渉委員はキツネにつままれたような面持だった。要求の戦時歩増手当の本給繰入、残業歩増が通るばかりか、要求もしなかった8時間労働制さえ実施しようというのだから一一。 

                 
              花は会社に、実は職工に


 松方社長はこれはサボをしない者への処置だといったが、もちろん、サボをやめて松方の前に頭をつけてわびをいうなら、同様均霑させてやってもいいというのであった。

 会見は終り、そのあとで全交渉委員の会議を開き、どう終結をつけるかについて協議したが、最後に投票となった時、私は開票立会人に指名を受けたが、此際は一刻も早く旗を巻くことが賢明の策と考え、心がはやって開票に当りムリをして投票のやり直しを要求され、立会人の面目を失墜したことを思い出す。当時、私は27才の多情多感の青年記者だったのである。

 こうして日本最初の川崎造船所のサボタージュは、表向きは職工側か松方社長の前にカブドをぬいだ形で解決を見たが、実際は職工側の全要求が通ったばかりか、要求外の8時間労働制という大きな拾い物までして、その上、1人の検挙者も出さずにすんだのであった。花は社長側に持たせ、実は職工側か頂戴したという結果であった。まずはめでたし、めでたしというところであった。      

村島帰之の労働運動昔ばなし(第71回)

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「手のひらに乗るヤマガラ(明石公園)」(今日のブログ「番町出合いの家」)http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(71

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第九回 日本最初のサボタージュ
      ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

   
                  負けん気の薩摩っぽ
      

 さてサボは早くも第9日目を迎えた。27日午後2時、いよいよサボをストに切替える腹案を以って交渉委員16名は地下室で第3回目の会見をした。

 ところがそこには交渉委員の全く予想だにしなかった松方社長のドンデン返しが待っていようとは。松方社長は第1回会見の際、会社で実施を研究中だといっていた8時間労働制を急にこの機会に実行して、争議団の鼻をあかしてくれようと腹をきめた。同時に職工側の要求で、受諾を渋っていた歩増の本給繰入も同時に実施するという。但しこれはサボに加わらなかった兵庫工場の一部の職工に対してのみ実施する。サボをやる者はいつまででも勝手にやれというのだ。

 この松方社長らしい負けん気の、しかも太ツ腹の案は会見の直前までは極秘とされていた。そんなこととは知らない野倉代表らは顔面を緊張させて入場して来た。 

 私は会見の直前に川崎造船所担当の経済記者からそのことを耳打ちされて驚いた。野倉代表らに話してやりたい、それでないとストに突入してしまうだろう、そう思うが、既に会見ははじまろうとしていて、野倉氏らに近寄るすべがない。私は切歯やく腕するばかり、経済記者に「もう少し早く判からなかったのか」と詰問しだが、会社側は争議団にもれるのを惧れて、出入りの記者にも知らさなかったものらしかった。経済記者は「これが当世資本家気質というものさ」とうそぶいた。

 そんなこととは知らない野倉代表は松方社長に向って「今日からストに入る」という事を声明した。松方社長はニタリと笑って徐ろに「サボをやらぬ職工」に対する待遇改善案を係の者に朗読させた。

 私は立会の記者席の末席にいて松方社長のエビス顔をにらみつけていた。その時の松方社長と野倉代表とのやりとりは、速記が残っているので、その一ばんかんじんなところをそのまま右に記す。速記の全文は私の「サボタージュ」に掲げてある。或る新劇団員はこれを一読して、一幕物にしたいなあ、といった。

   (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第70回)

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「但馬日高伝道所創立60周年記念のお祝い」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(70

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第九回 日本最初のサボタージュ
     ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

                 ご用暴力団の介入


 松方社長との会見が不得要領に終って、地下室から引きあげて来た野倉代表は、出口のところで人相のよくない一団に取り囲まれた。「ちよづと顔を貸してくれ」といって野倉氏を物かげへつれて行った。彼らは造船所へ人夫を供給しているK組の親方とその輩下で高飛車に「このサボをオレたちに仲裁させろ」というのだ。

 野倉氏は「委員と相談する」といってその場をはずして来たが、さすがの野倉氏も沈痛な面持で筆者に向っで「困った困った」を繰返していた。しかし会社の御用団体に委せられるような事柄ではない。かといって彼らの暴力と争うことになれば折角の争議がこじれてしまう。結局、金で解決をつけるほかに道はない、と判断してその金の捻出方法を協議した。

 暴力団は野倉氏らが返答を遅らせているのに業を煮やし、委員一同が会合している「みつわ」へ押しかけて行って、野倉氏の顔にゲンコを喰わせたこともあった。だが野倉氏らは彼らの挑戦に乗らず委員の中には喧嘩早い連中もいたが、大事の前の小事と歯をくいしばって忍耐した。そして結局金でお引取りを願ったようだった。

 争議の会計報告を見ると、9日にわたる争議総経費3、200円、そのうち前後17回にわたった牛肉屋みつわその他での会合費689円81銭、雑費がタッタ100円、残り2、500円は「造船部Y委員、製缶部K委員の退職餞別金」となっているが、この餞別金は、実は暴力団への鼻ぐすりで、これにより仲裁の手を引いてもらったので、YとKは貰わぬ餞別金を貰って退職して行っだもの、と私は解している。

   (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第69回)

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「ウィリアム・モリス展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(69

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第九回 日本最初のサボタージュ
     ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

                男らしくストをやれ!


 サボは第2日を迎え、初日のどことなくぎこちなさのあったのに引きかえ、次第におちつきを見せた。朝7時の出勤時間には16、000の職工は弁当を小脇にいそいそと工場へ出勤した。黄色の腕章をつけて各入口を守る保安委員がニコニコ顔で仲間を迎えた。

 彼らは明らかに出勤した。ストではない。しかし、持場にはついたが一向仕事はしない。電力もはじめは前日同様流していたが、機械を空転させるだけで仕事をしていないのを見て、工作部長の命で9時限りでスイッチを切った。「おいらのせいではない」「会社が電力を止めたのだから、仕事をしようにもできない」といって、公然とサボを継続することができるようになった。

 前日、ホンのタマではあったが音のしていた鋲打ちも電力停止と共にハタと静まりかえった。鋲打工は船底の日かげの涼しいところでゴロリとなったり、雑談に余意がない。

 こうしてサボタ一一ジュは第8日目に入った。この日8月25日午後4時から職工代表野倉栄治氏ほか15名は、造船所本社の地下室で松方社長と2回目の会見を待った。しかし、松方社長は「おれを信じ、おれに委せろ」というだけで、サボタージュを頭から罵倒した。

 「お前たちは世界的に卑劣といわれているサボタージュなんかをやって、なんと情けない奴じやろか。サボをやるくらいなら、なぜ男らしくストをやらんのじゃ」

 野倉氏らは苦笑した。なぜなら、争議団の中にも変化に乏しいサボを嫌って、ストに切り替えろという声が出ていたからである。サボも8日目ともなると、あいて来たのである。

 「サボをやるよりストをやれ」という松方社長のこの日の言葉は、2年後に神戸の大ストとなって実現したことを忘れてはならない。松方はストを煽動した。明らかに治安警察法第17条の違犯で禁鋼2ヵ月に値いする。―一私はそう書いた。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第68回)

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「ぶらり登山・高取山」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(68

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第九回 日本最初のサボタージュ
     ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

                近頃行われるサボ


 怠業のやり方は上に記したように業種により多種多様である。近頃、官公労がスト権をもたぬために行う順法闘争も明らかに怠業である。

 定時出勤、定時退庁、超過勤務拒否、宿日直出張拒否もおおむねこの部類に入る。これらは労働基準法や業務規程に基づく労務者の権利として行うのだか、使用者側にとっても、むやみと迷法呼ばわりのできにくいという点が、労働組合側の狙いである。

 例えば、定時出勤はもとより合法である。ところがみんな申合せて始業時間の直前まで一切職場に入らず戸口に待機していて、始業ベルのなるのと一しょにワーツと職場へ入る。実際に仕事を始める時間は定時より遅れるのみならず、仕事の前にちょっと一服ということにでもなればいよいよ遅れる。

 これも典型的怠業で、これが禁止、抑圧はいうべくして行われがたい。これらは官公庁職員の行う合法的実力行使と称する怠業であるが、一般工場労働者となると、その戦術はおのずから変って来る。

 文字通りのサボのノロノロ作業のほかに、資材の意識的な浪費をやる戦術も出て来る。大正8年の川崎のサボは、小規模ではあったがこれらの見本を天下に示したようなもので、その直後の東京市電のサボをはじめ、各地で連鎖反応の如くサポタージュが行われ今日に及んでいる。

 神戸川崎造船所のサボタージュは「元祖」サボタージュとして永く記憶せられることであろう。さて話を元へ戻して川崎造船所のサボの横様をかいつまんで記すことにしよう。

    (つづく)




村島帰之の労働運動昔ばなし(第67回)

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「カクレミノの葉っぱ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(67

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第九回 日本最初のサボタージュ
     ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

                サボタージュの原理


 怠業はフランス語のサボタージュの訳語で、サボタージュはフランスの農夫たちのはく木靴のことである。木靴は日本の神職が祭式の際にはく木の沓(クツ)と同じような形をしているが、もっとがんじようにできている。しかし底は普通の靴とちがって皮ではなく、厚い木でできているため、急いで歩くことは困難で、どうしてもノロノロとしか歩けない。そこで木靴をはいて歩く時のようにノロノロと仕事をすることをサボタージュと呼ぶようになったものである。

 外国ではずっと前から行われていて、フランスのサンディカリストC・G・Tなどでは既に50、60年前から労働争議の戦術として正式に採用したが、生産を麻庫させるというので1910年には表面上禁止となった。

 サボタージュの原理はLess Day,Less Work. で、日本語に意訳すれば「安かろう、悪かろう」となる。雇傭条件が低下したり、待遇改善の要求が一蹴された場合、労働の量や質をそれだけ落して、額面相当の労働を提供するにとどめようというのである。

 量的な怠業としては、土木人夫が賃銀を2割下げられた時、作業に使うスコップを2割だけ小さくしたというアメリカでの例のように、使用者が賃金値下でコストを下げようとした意図を全く画餅に帰せしめるといったやり方である。しかし出来高払いの場合となると、このように公式的には行かない。そこで作業の質を落して、見た眼では以前と変りのない働きをして従来通りの賃金を受取り、使用者の裏をかくといった戦術を採る。

 パリのビラ貼りの争議の際、糊の中にパラフィンをませて貼り、賃金は普通に受取ったあとで、太陽が照り出すとパラフィンがとけて、ビラは木の葉のように落ちるという仕掛けをした如きその一例だ。

 また交通労働者などは今日でいう順法闘争をやった。川崎のサボの直後、東京市電の大塚車庫で電車の入替えの順法闘争をやったことがある。電車が車庫のところまで来ると、どの車もブレーキその他の故障を理由に入庫してしまう。どうせ市電の車輛は大なり小なりみな故障があるから、監督も強いて運転せよとはいえない。大切な人命を預かる市電では故障した車を運転してはならぬという規則が存在するからである。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第66回)

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「ぶらり登山:高取山」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(66

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第九回 日本最初のサボタージュ
      ―タナボタの8時間労働制― 

 
       (前回の続き)

               これがサポタージュだ


 工場の門は既に保安委員と呼ぶ争議団員によって守られていたが、友愛会の会合で私を知っている連中が多く、微笑をもって迎えてくれた。

 これが普通の罷業なら、工場内は旗がふられ、労働歌が歌われ、デモの渦巻が見られるところだが、工場内はふだんの日よりも静かである。空中にかかっている大きなガントリークレーンもノロノロと動いているだけで、宙ブリの車体の上からは、いたずら小僧がブラッセルの小使小僧の真似をして地上のわれわれの上にあたたかい霧を降らせる。5台の造船台でも、日頃は耳を聾するばかり騒がしい鋲打ちのエヤ・リベットの音が、申しわけのようにホンの時たまひびくだけだ。仕事を中止しているのではない。みんな配置に着いてはいるが能率は意識して極度に下げているのである。しかも、空を見上げると、煙突からは煙が濠々とあがっているが、機械は空廻りしているだけだ。大きな鉄板に穴をあけるポンスエ場でも鉄板がフラフープのようにくるくると廻ってはいるものの穴を穿つ作業はやめているから能率はゼロというよりはマイナスである。

 工場の作業は全く麻痺している。しかし職工は職場の位置に居るのだからストではない。リベットも時たまだが音を立てているのだから作業は中止されているわけではない。ボイラーの係は平常よりも沢山の石炭をくべているのだ。これがサボタージュというものだ。それを私は現実に見た。

 私は胸をとどろかせながら、夕刊の締切時間の迫る新聞社に、私か親しく見た日本最初のサボタージュを報道するすこめ、川崎本社から相生橋々畔の毎日支局まで、ひた走りに走った。他の新聞社ではサボタージュの事は夢にも知らず、係の記者は川崎造船所職工の要求拒絶というだけのニュースを書き終って一服している頃だろう――。

 夕刊にサボタージュの記事がデカデカとのり、しかもこれが毎日新聞以外には全く報道されていないのを見て、一番最初に私を訪ねて来たのは所轄相生橋警察署の高等係主任の黒岩警部だった。警部は生れて始めて聞いたサボタージュについて質問し、さらに、川崎造船所職工がどうしてこの新戦術を採用するようになったか、またあなたはどうしてこの事を知ったか、と訊いた。私は友愛会の幹部は書物を読んだり、組合の労働講座を開いたりして、海外の労働運動の戦術については先刻ご承知だ、と答え、わたしがこれをスクープしたのはわたしの耳が早やかったからだ、と衿らしげに話した。そしてサボは海外では20数年前から行われているものだ、と教えてやった。

   (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第65回)

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「10月17日の夕陽」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(65

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第九回 日本最初のサボタージュ
      ―タナボタの8時間労働制―
 
 
       (前回の続き)

                 歎願書の提出

 
 ある夜、友愛会に行くと、青柿善一郎氏が居て「ちょっと相談したいことがある」という。2階の隅に行って青柿氏の話を聞くと、川崎造船所の造船、造機、製缶、電気の各工作部では現行日給7割の歩増の本給繰入れと5割歩増、6ヵ月以上勤続者に対する年2回の賞与支給、それに特別賞与、分配期日の明示、食堂洗面場その他衛生設備の完備の4項目にわたる嘆願書一一まだ要求書という言葉は一般に使用されてはいなっかた一一を松方社長に提出するというのだ。

 戦時歩増の本給繰入や歩増の増加や年2回の賞与支給は前記の「大正8年中に何をしたいか」というアンケートにも出ているほどで、要求としては一般的常識であるが、特別賞与は川崎造船所だけの問題であった。特別賞与というのは松方社長がイギリスから帰朝した時、造船所で多年功労あった者に特別賞与3、750、000円を支.給すると発表したのに、その後、一向支給される気色さえ見えないのに業を煮やしたものであった。また衛生設備の不備はいやしくも大川崎の設備としては受取れぬほどのもので、食堂らしい食堂はなく、雨天の日などは工場の軒下に立って雨を避けながら食べるので雨のしづくが弁当に入る。手洗設備もなく、器械をふいた古布で手をふくがその布たるや油じみているのは当然としても時には血でよごれたものさえある、という話であった。

 これらの要求を盛った嘆願書の起草を青柿氏は一任されたのだが、どんな風に書いたらいいか迷っているので私に手伝ってほしい、というのだった。私と青柿氏はひたいを寄せて、松方社長向きの恐惶謹言といった調子の草案を作製した。サボの直後、私の編纂した小著「サボタージュ」にはその嘆願書全文がのっているが、その末尾には、
「博愛仁慈の社長閣下にして幸いに我等の窮状を御憫察の上、何分の恩命に接するを得ば我等1万5千の職工及び家族の幸福これに過ぐるものは無之侯」
と書いている。今の労働運動家が見たら「何という封建的な」と憤慨するだろうが、40年前はこんな美辞麗句が儀礼的に使われたもので、もちろん本心からではない。

 なお嘆願書の草案を書き終ったあとで、要求が拒絶された場合は懸案の「サボタージュ」を決行する予定だということを青柿氏はそっと耳打ちしてくれた。勿論、これは決行の時まで絶対秘密である。

 右の嘆願書は8月15.6両日にわたって提出され、川崎造船所全職工16、000名の意志がハッキリと打ち出された。しかし18日の労資会見で松方社長は特別賞与は10月31日までに支給する。年末賞与は6ヵ月間10日以内の欠勤者には支給する。衛生設備も漸次完備する、と要求を認めたが、第1項の増給案は「当社には近く8時間労働制実施の計画中だから」といってこれを拒否した。各部職工代表は「それでは要求拒絶ですな」と一言を残し肩を怒らせて退場した。

 この会見に立会っていた各新聞記者は「決裂だ!」といって、これを記事にするため急いでそれぞれの新聞社や支局へ帰って行った。しかし、私だけは支局へ帰るべき足を反対に職工代表と一しょに工場の方へ運んで行った。

 いよいよ日本最初のサボタージュが始まる。そのサボがどういう風にして実行されるか、それを見て記事とせねばならぬと心を躍らせながら一一。

     (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第64回)

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「長田神社から新湊川合流点あたり」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(64

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

 第九回 日本最初のサボタージュ
     ―タナボタの8時間労働制―
 
 

             一度やって見たいサボ


 大正8年8月18日、大阪毎日新聞夕刊のトップの「神戸川崎造船所職工1万6千人の大同盟怠業(サボタージュ)」という3段ぬきの見出しが読者を驚かせた。疑くり深い読者は「同盟怠業」は「同盟罷業」の誤植だろうと思った。念のためほかの新聞をひらいて見ると、川崎造船所職工の要求が拒絶されたという報道はあるが怠業の夕の字も出ていない。

 サボタージュは新聞の読者にとって初耳であっただけではなく、これを胸先につきつけられた川崎造船所でも全く始めてお目にかかるしろものだったし、またこの新労働戦術を採用した当の職工諸君にとっても甚だケッタイなものであった。いいや、これをスクープした毎日新聞でも、私以外の者はみなけげんな面持だった。

 私が夕刊締切のギリギリにごの記事を毎日神戸支局から大阪本社へ電話で送った時、これを受けた速記者は「サボタージュって何やね」と問いかえした。「日本最初の風変りな労働争議だ。ほかの新聞はみな知らない。本社の特ダネだ。デカデカと大きく取扱ってもらってくれ」と息をはずませて説明したことを思い出す。

 しかし一般の人々にはサボタージュは初見参の珍しい争議戦術だったが、労働組合では一一少くとも、神戸の友愛会の幹部のあいだではおぼろげではあるが聞き知っていて、ストに対する弾圧の裏をかいていつかは一度やってみたいと思っている者もあったのだ。

 私はその頃アメリカのIWWから送られて来た「サボタージュ」と題するパンフレットを読んで始めてサボタージュを知り、またブーゼの「サボタージュ」の英訳本が丸善に来ていると聞いて取りよせて読んで、その新知識を、友愛会神戸連合会の労働講座で得意になって話した。連合会の新知識といわれた川崎造船所電機工作部の旋盤工青柿善一郎氏らは「一ぺん、わしらでやってかましたろうか」といっていた。その上、発禁になったが「改造」に山川菊栄氏らのサボタージュ論がのって、一部の幹部はこれを回覧し、怠業をやって見ようという考えが、友愛会の幹部の中に次第に成長して行った。

   (つづく)

村島帰之の労働運動昔ばなし(第63回)

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「御船山旧跡」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(63

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第八回 大正八年という年
      ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―
 
 
(前回の続き)
 
               革命演説入りラパッ節


 その頃、社会主義運動をやる人たちの間におもしろいラッパ節の替歌がうたわれた。私は中西伊之助氏から教えられ、いろんな会合でこれを隠し芸として披露した。

 文句は冒頭に「食えない、食えないと声張り上げて演壇で何としょ」とラッパ節通りにうたい出し、次いで「青い顔して演壇をたたいて」といって前のテーブルをたたく。それから演説をはじめるのだがもちろん、演説は煽動的なものなら何でもいい、そして演説の途中、弁士から臨監に早変りして、テーブルの脇の方から声高く「弁士注意」と叫ぶ。すると、こんどは再び元の弁士に変って、胸をそらせ臨監の方を脾睨しながら「只今のは注意ですか、中止ですか」と質問する。また臨監に早代りして「注意です」と答える。それで三度弁士に立ち戻って(忙しいことだ)「然らば諭旨を変えましょう」と乙に気取って、こんどは激越な調子で「現代の社会組織はこれを根本より変革せねばなりません!」と腹の底から絶叫する。そこで弁士からまた臨監に返って「弁士中止!」とおっかない顔をして叫ぶ。とこんどはテーブルの前に座をかえ、聴衆になって「警官横暴々々」とゲンコツを突き出し臨監の方に向かってほえるようにいう。それでまた臨監になって「解散を命ず!」と一声高く叫んで、またテーブルヘ帰り、グッと調子を低くして「テナコト、オッシャイマシタカネ」で終りになるのである。

 このラッパ節はもちろん余興用のものであるが、歌の中で激越な演説をするので、大向うがヤンヤの喝采を送ったものである。弾圧の激しかった40年前を偲ぶ一つの挿話ともいえよう。もちろん、このラッパ節を歌っているところを警官に見つけられれば、すぐ検束されるであろうことは明かだ。この歌を知る人ももう少くなったことだろう。              

 話は思わず横にそれたが、当時の弾圧は常識をを越えていた。にもかかわらず労働組合は伸び、争議は頻発し、大正8年は画期的な労働組合進出の年となった。

 この年の内に71の組合が新らしく結成され、罷業件数は500件、参加人員は6万3千という新記録を出した。今から見ると罷業参加人員6万3千はあまりにも少なすぎるようだが、今日のように官公労だの、炭労、日教組などの大組合もなかった当時としては決して少いとはいえないのだった。

 そしてこの500件の罷業の中には有名な東京の15大新聞の印刷工ストがあり、足尾、釜石、日立各鉱山のストがあって、釜石では鉱夫の襲撃に備えて鉄条網に電流を通したといわれ、今日の三池争議に近いものがあり、騒擾罪が適用された。

 西では神戸の川崎造船所における日本最初のサポタージュが世間の耳目を驚かせ、ことにその結果として8時間労働制を獲得したことは日本労働運動史に特筆大書される出来事であった。次号にはそのサボタージュのことを記す順序となった。

村島帰之の労働運動昔ばなし(第62回)

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「ぶらり散歩:新湊川公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(62

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第八回 大正八年という年
      ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―
 
 
(前回の続き)
 
                 治安警察法17条


 さらにこれが争議ともなると、こんどは治安警察法がモノをいった。「労務を停廃せしむる目的を以て他人を煽動し誘惑した者」は禁緬2ヵ月以下に処するという争議弾圧法だった。

 大正3年から12年までの10年間に全国で治警法17条により検挙された者は1、026名を数えた。また争議が暴動化した場合はすぐ騒擾罪で罰せられた。大正3年から13年までに2、700人がこれで検挙され、そのリーダーは「首魁」として2年内外の懲役に処せられた。

 大正10年の神戸の大争議では170名からの検挙者を出し、未決監は満員で賀川氏は特に女囚の監房に入れられたが、賀川氏ほか100名は不起訴となり、56名が起訴され、中でもリーダーの野倉万治氏は首魁として2年半の懲役に処せられた。

 先般のあの激しい国会デモでも騒擾罪は適用されなかったのと比べて、当時の弾圧の如何に甚しかったかが判るだろう。
                 ノ
 演説会の取締りも厳重をきわめた。演壇の脇には金ビカの制服を着た警部が「臨監」として出席し、言論が少しでも過激にわたると臨監が認めた際は、はじめは「注意!」と叫ぶ。そこで弁士は論鋒をゆるめるか、話題を変えるかしなければならないのだが、もし「注意」を無視してさらに調子をあげて行くと、臨監はサーべルで床をたたきながら「弁士中止!」と宣告する。そうすれば弁士は演説を中止して降壇せねばならなかった。

 少しあとの事だが、政治研究会神戸支部が結成された時(この時、河上丈太郎氏が支部長となり、はじめて政治運動に足を踏人れた)東京から大山郁夫氏らが来神して神港クラブで演説会を開いた。私は神戸の病院に入院していたが、ひそかに抜け出して行き犬山氏の前座をつとめた。その時、私か登壇して開口一番「ソ連に居る片山潜が‥…」といっただけで忽ち「弁士中止」をくらったことかあった。

 また播州加古川の毛織工の演説会では森戸辰男氏が「芦屋にはラジオのアンテナが林立している」といっただけで中止となった。主催者側は森戸氏にタップリやってもらう考えでいたのに登壇したばかりで中止となって戸惑った。聴衆はその頃続々とつめかけて来ていたのでこれで閉会というわけには行かない。そこでやむなく既に前座をつとめて休息していたわたしにもう一度何か話してほしいと頼まれて登壇したが、こんどは臨監も遠慮してか中止は命じなかった。

 「片山潜」や「芦屋のアンテナ」が治安を斎すわけではなく、警察側は最初からしゃべらせない方針で臨み、いい加減なところで中止を命じたのである。言論の自由もあったものではない。

       (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第61回)

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「ぶらり散歩:コサギ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(61

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第八回 大正八年という年
      ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―
 
 
(前回の続き)
 

                労働運動弾圧の強化


 神戸をはじめ各地の労働運動の発展を見る一方、使用者側や官憲の労働運動に対する弾圧は次第に強化されて来た。この弾圧は大正7年の米騒動直後から始められ、大正8年以降に至っていよいよピッチをあげた。

 米騒動のあった大正7年8月には1ヵ月間だけで全国に102件という争議が起った。日本開びゃく以来のことで使用者側も官憲も大いに驚き、今のうちに組合をヒネリつぶさねば一一と弾圧をかけた。中小工場では組合に入っているというだけでイビリ出し、ビラを貼ったから、高等刑事が来て困るから、というだけで解雇した。

 会社が圧力をかける一方、官憲は官憲で行政執行法及び治安警察法という伝家の宝刀を適用して少しでもクサイ連中は片っぱしから検束したり、検挙したりした。

 行政執行法の第1条には、暴行の惧れある者は検束して24時間以内を限りこれを警察に留置することができると規定され、取締当局にとってはこれほど重宝な法律はなかった。たとえ仏さまのような人でも急にのぼせて乱暴するかも知れないのだから「暴行の惧れあり」として検束することができたのである。

 だから当時は演説会やデモ行進にはいつも検束はつきもので、メーデーの大行進の際など、これと目星をつけた注意人物はたとえ固くスクラムを組んでいてもカーブにさしかかった時に一気に列外ヘスクラムのまま突き出して検束した。これを「ごほう抜き」といっていた。

 また「たらい廻し」といって、24時間で検束時問がきれると、一旦その警察署を釈放し、すぐ次の警察へ新たに検束して何日も留置するという巧妙なやり方をした。戦前の労働運動家で一度も検束された経験のなかったという者はマヤカシ者だったといってよいであろう。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第60回)

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「新湊川公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(60

『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

  第八回 大正八年という年
      ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節― 

 
(前回の続き)
 
              賀川理事長の指導精神(つづき)

 
 「内住する聖き理想」といい、「愛と信仰」といい、さらに「内住の理想を以て宇宙を改造することが出来る」と説くところ、そして、「革命と暴動と煽動過激主義思想を否定」するところ、宗教詩人賀川氏が労働運動に望むところが明瞭に窺われるではないか。       
 
 この指導精神は、やがて1両年を経て、関東側の指導精神と正面衝突を演ぜしめる結果となったのは当然の事だった。関西の労働運動者はこの賀川氏の説を支持して、現実的行き方を続けた。                 犬\
 
 賀川氏は押しも押されもせぬ関西労働運動の名実共になる指導者となった。まだ「死線を越えて」の出版以前とて、一般大衆にその名を知られるまでには至らなかったが、苛くも組織を持つ労働者で賀川の名を知らぬ者は少なかった。               
 
 神戸連合会の機関誌「新神戸」は、関西同盟の結成と共に改題して「労働者新聞」となり、巻頭論文は主として賀川氏が執筆し、屡々発売禁止の厄に逢った。過激思想というのではなく、氏の宗教詩人らしい煽動的な文章が当局の忌避に触れたのである。

 賀川氏はこのため数次にわたって起訴された。その時、弁護士高山義三氏(現京都市長)が専ら弁護に当ったが、賀川氏が「弁護料はいくら払ったらいいか」と聞いたところ、高山氏は「現在及び将来にわたってあなたの著書をもらいたい」と答えた。賀川氏はその頃までにはまだ数冊の著書しか出していないので気安く承諾した。しかしその後賀川氏は数百冊という著書を出したが、高山氏との約束を守って著書を送ったという話は一向聞いでいない。とすると、賀川氏は高山弁護士に対し不渡手形を出したことになる。


    (つづく)



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