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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載第9回)

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「尻池街園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

  『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

      第九回 日本最初のサボタージュ
          ―タナボタの8時間労働制―
 
 
 一度やって見たいサボ

 大正8年8月18日、大阪毎日新聞夕刊のトップの「神戸川崎造船所職工1万6千人の大同盟怠業(サボタージュ)」という3段ぬきの見出しが読者を驚かせた。疑くり深い読者は「同盟怠業」は「同盟罷業」の誤植だろうと思った。念のためほかの新聞をひらいて見ると、川崎造船所職工の要求が拒絶されたという報道はあるが怠業の夕の字も出ていない。

 サボタージュは新聞の読者にとって初耳であっただけではなく、これを胸先につきつけられた川崎造船所でも全く始めてお目にかかるしろものだったし、またこの新労働戦術を採用した当の職工諸君にとっても甚だケッタイなものであった。いいや、これをスクープした毎日新聞でも、私以外の者はみなけげんな面持だった。

 私が夕刊締切のギリギリにごの記事を毎日神戸支局から大阪本社へ電話で送った時、これを受けた速記者は「サボタージュって何やね」と問いかえした。「日本最初の風変りな労働争議だ。ほかの新聞はみな知らない。本社の特ダネだ。デカデカと大きく取扱ってもらってくれ」と息をはずませて説明したことを思い出す。

 しかし一般の人々にはサボタージュは初見参の珍しい争議戦術だったが、労働組合では一一少くとも、神戸の友愛会の幹部のあいだではおぼろげではあるが聞き知っていて、ストに対する弾圧の裏をかいていつかは一度やってみたいと思っている者もあったのだ。

 私はその頃アメリカのIWWから送られて来た「サボタージュ」と題するパンフレットを読んで始めてサボタージュを知り、またブーゼの「サボタージュ」の英訳本が丸善に来ていると聞いて取りよせて読んで、その新知識を、友愛会神戸連合会の労働講座で得意になって話した。連合会の新知識といわれた川崎造船所電機工作部の旋盤工青柿善一郎氏らは「一ぺん、わしらでやってかましたろうか」といっていた。その上、発禁になったが「改造」に山川菊栄氏らのサボタージュ論がのって、一部の幹部はこれを回覧し、怠業をやって見ようという考えが、友愛会の幹部の中に次第に成長して行った。

 歎願書の提出

 ある夜、友愛会に行くと、青柿善一郎氏が居て「ちょっと相談したいことがある」という。2階の隅に行って青柿氏の話を聞くと、川崎造船所の造船、造機、製缶、電気の各工作部では現行日給7割の歩増の本給繰入れと5割歩増、6ヵ月以上勤続者に対する年2回の賞与支給、それに特別賞与、分配期日の明示、食堂洗面場その他衛生設備の完備の4項目にわたる嘆願書一一まだ要求書という言葉は一般に使用されてはいなっかた一一を松方社長に提出するというのだ。

 戦時歩増の本給繰入や歩増の増加や年2回の賞与支給は前記の「大正8年中に何をしたいか」というアンケートにも出ているほどで、要求としては一般的常識であるが、特別賞与は川崎造船所だけの問題であった。特別賞与というのは松方社長がイギリスから帰朝した時、造船所で多年功労あった者に特別賞与3、750、000円を支.給すると発表したのに、その後、一向支給される気色さえ見えないのに業を煮やしたものであった。また衛生設備の不備はいやしくも大川崎の設備としては受取れぬほどのもので、食堂らしい食堂はなく、雨天の日などは工場の軒下に立って雨を避けながら食べるので雨のしづくが弁当に入る。手洗設備もなく、器械をふいた古布で手をふくがその布たるや油じみているのは当然としても時には血でよごれたものさえある、という話であった。

 これらの要求を盛った嘆願書の起草を青柿氏は一任されたのだが、どんな風に書いたらいいか迷っているので私に手伝ってほしい、というのだった。私と青柿氏はひたいを寄せて、松方社長向きの恐惶謹言といった調子の草案を作製した。サボの直後、私の編纂した小著「サボタージュ」にはその嘆願書全文がのっているが、その末尾には、
「博愛仁慈の社長閣下にして幸いに我等の窮状を御憫察の上、何分の恩命に接するを得ば我等1万5千の職工及び家族の幸福これに過ぐるものは無之侯」
と書いている。今の労働運動家が見たら「何という封建的な」と憤慨するだろうが、40年前はこんな美辞麗句が儀礼的に使われたもので、もちろん本心からではない。

 なお嘆願書の草案を書き終ったあとで、要求が拒絶された場合は懸案の「サボタージュ」を決行する予定だということを青柿氏はそっと耳打ちしてくれた。勿論、これは決行の時まで絶対秘密である。

 右の嘆願書は8月15.6両日にわたって提出され、川崎造船所全職工16、000名の意志がハッキリと打ち出された。しかし18日の労資会見で松方社長は特別賞与は10月31日までに支給する。年末賞与は6ヵ月間10日以内の欠勤者には支給する。衛生設備も漸次完備する、と要求を認めたが、第1項の増給案は「当社には近く8時間労働制実施の計画中だから」といってこれを拒否した。各部職工代表は「それでは要求拒絶ですな」と一言を残し肩を怒らせて退場した。

 この会見に立会っていた各新聞記者は「決裂だ!」といって、これを記事にするため急いでそれぞれの新聞社や支局へ帰って行った。しかし、私だけは支局へ帰るべき足を反対に職工代表と一しょに工場の方へ運んで行った。
 いよいよ日本最初のサボタージュが始まる。そのサボがどういう風にして実行されるか、それを見て記事とせねばならぬと心を躍らせながら一一。

 これがサポタージュだ

 工場の門は既に保安委員と呼ぶ争議団員によって守られていたが、友愛会の会合で私を知っている連中が多く、微笑をもって迎えてくれた。

 これが普通の罷業なら、工場内は旗がふられ、労働歌が歌われ、デモの渦巻が見られるところだが、工場内はふだんの日よりも静かである。空中にかかっている大きなガントリークレーンもノロノロと動いているだけで、宙ブリの車体の上からは、いたずら小僧がブラッセルの小使小僧の真似をして地上のわれわれの上にあたたかい霧を降らせる。5台の造船台でも、日頃は耳を聾するばかり騒がしい鋲打ちのエヤ・リベットの音が、申しわけのようにホンの時たまひびくだけだ。仕事を中止しているのではない。みんな配置に着いてはいるが能率は意識して極度に下げているのである。しかも、空を見上げると、煙突からは煙が濠々とあがっているが、機械は空廻りしているだけだ。大きな鉄板に穴をあけるポンスエ場でも鉄板がフラフープのようにくるくると廻ってはいるものの穴を穿つ作業はやめているから能率はゼロというよりはマイナスである。

 工場の作業は全く麻痺している。しかし職工は職場の位置に居るのだからストではない。リベットも時たまだが音を立てているのだから作業は中止されているわけではない。ボイラーの係は平常よりも沢山の石炭をくべているのだ。これがサボタージュというものだ。それを私は現実に見た。

 私は胸をとどろかせながら、夕刊の締切時間の迫る新聞社に、私か親しく見た日本最初のサボタージュを報道するすこめ、川崎本社から相生橋々畔の毎日支局まで、ひた走りに走った。他の新聞社ではサボタージュの事は夢にも知らず、係の記者は川崎造船所職工の要求拒絶というだけのニュースを書き終って一服している頃だろう――。

 夕刊にサボタージュの記事がデカデカとのり、しかもこれが毎日新聞以外には全く報道されていないのを見て、一番最初に私を訪ねて来たのは所轄相生橋警察署の高等係主任の黒岩警部だった。警部は生れて始めて聞いたサボタージュについて質問し、さらに、川崎造船所職工がどうしてこの新戦術を採用するようになったか、またあなたはどうしてこの事を知ったか、と訊いた。私は友愛会の幹部は書物を読んだり、組合の労働講座を開いたりして、海外の労働運動の戦術については先刻ご承知だ、と答え、わたしがこれをスクープしたのはわたしの耳が早やかったからだ、と衿らしげに話した。そしてサボは海外では20数年前から行われているものだ、と教えてやった。

 サボタージュの原理

 怠業はフランス語のサボタージュの訳語で、サボタージュはフランスの農夫たちのはく木靴のことである。木靴は日本の神職が祭式の際にはく木の沓(クツ)と同じような形をしているが、もっとがんじようにできている。しかし底は普通の靴とちがって皮ではなく、厚い木でできているため、急いで歩くことは困難で、どうしてもノロノロとしか歩けない。そこで木靴をはいて歩く時のようにノロノロと仕事をすることをサボタージュと呼ぶようになったものである。

 外国ではずっと前から行われていて、フランスのサンディカリストC・G・Tなどでは既に50、60年前から労働争議の戦術として正式に採用したが、生産を麻庫させるというので1910年には表面上禁止となった。

 サボタージュの原理はLess Day,Less Work. で、日本語に意訳すれば「安かろう、悪かろう」となる。雇傭条件が低下したり、待遇改善の要求が一蹴された場合、労働の量や質をそれだけ落して、額面相当の労働を提供するにとどめようというのである。

 量的な怠業としては、土木人夫が賃銀を2割下げられた時、作業に使うスコップを2割だけ小さくしたというアメリカでの例のように、使用者が賃金値下でコストを下げようとした意図を全く画餅に帰せしめるといったやり方である。しかし出来高払いの場合となると、このように公式的には行かない。そこで作業の質を落して、見た眼では以前と変りのない働きをして従来通りの賃金を受取り、使用者の裏をかくといった戦術を採る。

 パリのビラ貼りの争議の際、糊の中にパラフィンをませて貼り、賃金は普通に受取ったあとで、太陽が照り出すとパラフィンがとけて、ビラは木の葉のように落ちるという仕掛けをした如きその一例だ。

 また交通労働者などは今日でいう順法闘争をやった。川崎のサボの直後、東京市電の大塚車庫で電車の入替えの順法闘争をやったことがある。電車が車庫のところまで来ると、どの車もブレーキその他の故障を理由に入庫してしまう。どうせ市電の車輛は大なり小なりみな故障があるから、監督も強いて運転せよとはいえない。大切な人命を預かる市電では故障した車を運転してはならぬという規則が存在するからである。

 近頃行われるサボ

 怠業のやり方は上に記したように業種により多種多様である。近頃、官公労がスト権をもたぬために行う順法闘争も明らかに怠業である。

 定時出勤、定時退庁、超過勤務拒否、宿日直出張拒否もおおむねこの部類に入る。これらは労働基準法や業務規程に基づく労務者の権利として行うのだか、使用者側にとっても、むやみと迷法呼ばわりのできにくいという点が、労働組合側の狙いである。

 例えば、定時出勤はもとより合法である。ところがみんな申合せて始業時間の直前まで一切職場に入らず戸口に待機していて、始業ベルのなるのと一しょにワーツと職場へ入る。実際に仕事を始める時間は定時より遅れるのみならず、仕事の前にちょっと一服ということにでもなればいよいよ遅れる。

 これも典型的怠業で、これが禁止、抑圧はいうべくして行われがたい。これらは官公庁職員の行う合法的実力行使と称する怠業であるが、一般工場労働者となると、その戦術はおのずから変って来る。

 文字通りのサボのノロノロ作業のほかに、資材の意識的な浪費をやる戦術も出て来る。大正8年の川崎のサボは、小規模ではあったがこれらの見本を天下に示したようなもので、その直後の東京市電のサボをはじめ、各地で連鎖反応の如くサポタージュが行われ今日に及んでいる。

 神戸川崎造船所のサボタージュは「元祖」サボタージュとして永く記憶せられることであろう。さて話を元へ戻して川崎造船所のサボの横様をかいつまんで記すことにしよう。

 男らしくストをやれ!

 サボは第2日を迎え、初日のどことなくぎこちなさのあったのに引きかえ、次第におちつきを見せた。朝7時の出勤時間には16、000の職工は弁当を小脇にいそいそと工場へ出勤した。黄色の腕章をつけて各入口を守る保安委員がニコニコ顔で仲間を迎えた。

 彼らは明らかに出勤した。ストではない。しかし、持場にはついたが一向仕事はしない。電力もはじめは前日同様流していたが、機械を空転させるだけで仕事をしていないのを見て、工作部長の命で9時限りでスイッチを切った。「おいらのせいではない」「会社が電力を止めたのだから、仕事をしようにもできない」といって、公然とサボを継続することができるようになった。

 前日、ホンのタマではあったが音のしていた鋲打ちも電力停止と共にハタと静まりかえった。鋲打工は船底の日かげの涼しいところでゴロリとなったり、雑談に余意がない。

 こうしてサボタ一一ジュは第8日目に入った。この日8月25日午後4時から職工代表野倉栄治氏ほか15名は、造船所本社の地下室で松方社長と2回目の会見を待った。しかし、松方社長は「おれを信じ、おれに委せろ」というだけで、サボタージュを頭から罵倒した。

 「お前たちは世界的に卑劣といわれているサボタージュなんかをやって、なんと情けない奴じやろか。サボをやるくらいなら、なぜ男らしくストをやらんのじゃ」

 野倉氏らは苦笑した。なぜなら、争議団の中にも変化に乏しいサボを嫌って、ストに切り替えろという声が出ていたからである。サボも8日目ともなると、あいて来たのである。

 「サボをやるよりストをやれ」という松方社長のこの日の言葉は、2年後に神戸の大ストとなって実現したことを忘れてはならない。松方はストを煽動した。明らかに治安警察法第17条の違犯で禁鋼2ヵ月に値いする。―一私はそう書いた。

 ご用暴力団の介入

 松方社長との会見が不得要領に終って、地下室から引きあげて来た野倉代表は、出口のところで人相のよくない一団に取り囲まれた。「ちよづと顔を貸してくれ」といって野倉氏を物かげへつれて行った。彼らは造船所へ人夫を供給しているK組の親方とその輩下で高飛車に「このサボをオレたちに仲裁させろ」というのだ。

 野倉氏は「委員と相談する」といってその場をはずして来たが、さすがの野倉氏も沈痛な面持で筆者に向っで「困った困った」を繰返していた。しかし会社の御用団体に委せられるような事柄ではない。かといって彼らの暴力と争うことになれば折角の争議がこじれてしまう。結局、金で解決をつけるほかに道はない、と判断してその金の捻出方法を協議した。

 暴力団は野倉氏らが返答を遅らせているのに業を煮やし、委員一同が会合している「みつわ」へ押しかけて行って、野倉氏の顔にゲンコを喰わせたこともあった。だが野倉氏らは彼らの挑戦に乗らず委員の中には喧嘩早い連中もいたが、大事の前の小事と歯をくいしばって忍耐した。そして結局金でお引取りを願ったようだった。

 争議の会計報告を見ると、9日にわたる争議総経費3、200円、そのうち前後17回にわたった牛肉屋みつわその他での会合費689円81銭、雑費がタッタ100円、残り2、500円は「造船部Y委員、製缶部K委員の退職餞別金」となっているが、この餞別金は、実は暴力団への鼻ぐすりで、これにより仲裁の手を引いてもらったので、YとKは貰わぬ餞別金を貰って退職して行ったもの、と私は解している。

 負けん気の薩摩っぽ

 さてサボは早くも第9日目を迎えた。27日午後2時、いよいよサボをストに切替える腹案を以って交渉委員16名は地下室で第3回目の会見をした。

 ところがそこには交渉委員の全く予想だにしなかった松方社長のドンデン返しが待っていようとは。松方社長は第1回会見の際、会社で実施を研究中だといっていた8時間労働制を急にこの機会に実行して、争議団の鼻をあかしてくれようと腹をきめた。同時に職工側の要求で、受諾を渋っていた歩増の本給繰入も同時に実施するという。但しこれはサボに加わらなかった兵庫工場の一部の職工に対してのみ実施する。サボをやる者はいつまででも勝手にやれというのだ。

 この松方社長らしい負けん気の、しかも太ツ腹の案は会見の直前までは極秘とされていた。そんなこととは知らない野倉代表らは顔面を緊張させて入場して来た。 

 私は会見の直前に川崎造船所担当の経済記者からそのことを耳打ちされて驚いた。野倉代表らに話してやりたい、それでないとストに突入してしまうだろう、そう思うが、既に会見ははじまろうとしていて、野倉氏らに近寄るすべがない。私は切歯やく腕するばかり、経済記者に「もう少し早く判からなかったのか」と詰問しだが、会社側は争議団にもれるのを惧れて、出入りの記者にも知らさなかったものらしかった。経済記者は「これが当世資本家気質というものさ」とうそぶいた。

 そんなこととは知らない野倉代表は松方社長に向って「今日からストに入る」という事を声明した。松方社長はニタリと笑って徐ろに「サボをやらぬ職工」に対する待遇改善案を係の者に朗読させた。

 私は立会の記者席の末席にいて松方社長のエビス顔をにらみつけていた。その時の松方社長と野倉代表とのやりとりは、速記が残っているので、その一ばんかんじんなところをそのまま右に記す。速記の全文は私の「サボタージュ」に掲げてある。或る新劇団員はこれを一読して、一幕物にしたいなあ、といった。

 当世資本家気質

社長「今日は何しにな」
委員「交渉員が協議した結果、われわれの要求が貫徹されるまで一同休業する事に決しました。それでその事を申上げるため会見を求めた次第です」
社長「それはご苦労、しかしお前達が休業するならせよ、当所の規則には3日間体業する時は除名する事になっている筈ぢゃ」
委員「でもお届けさえすればよいと思いますが」
社長「その通りぢゃが、休んでどうするのかね」
委員「休んでお返事を待たうというのです」
社長「なるほど判った。ところで先達も話した通り、俺はお前達の増給やその他いろいろ会社の改善を行う事については疾くより苦心している。そこで今これから話す事は実はモ少し早く発表したかったのであるが、お前達か今度のような事(サボを指す)を起し、それが邪魔になって仕方がなかったので、その運びに至らなかったのぢゃ、………兵庫工場の一部分は一時お前達と同じような事をやったがその後皆おとなしく仕事をしてくれているので、実は今日会社の案を発表した。俺はお前達の人格を重んじ、夜市の植木屋に対する如く50銭に負ろとか、70銭に負ろとかいうようなケチな事はいわぬ。俺は俺の信ずる通り断行する。お前達は休業するそうだが、中にはこの儘造船所へ戻って来ないで、再び逢えぬか分らぬ者もあろうと思うから今、朗読させる会社案をよく聞き取ってくれ……(庶務課長、8時間労働実施及増給案を朗読す)‥‥‥
社長「今朗読させた通りぢゃ、お前達の案と俺の案を比較対照するに、お前達の案は上級の者ほどよくなって下級の者は割がよくならん、こんな案にどうして同意する事ができるか、俺は賛成せないのだ。これがためなお怠業するとも、休業するともそれはお前達の勝手じゃ」
委員「伺います。先刻朗読せられた賃金改正案はわれわれが明後日から復業して従前通り働けば実行していただけるのですか」
社長「本社の職工にどんな差別があるか」
委員「ソレでは私達の帰るのを待っている職工や既に帰宅している職工に明後日から出勤して働けばこうして貰えると伝へましたら」‥
社長「一体お前達のざまは何だ、独りこの俺をいじめるばかりでなく日本人全体をはずかしめる訳ではないか」
委員「ですから本社の職工に対しても同様実施のことを聞き容れて貰えませんですか」
社長「いかにも無謀な事をしたという事がわかり誠実に働かぬ限り何ともいわれんわい」
委員「では、実際誠実に働けば実行するとおっしゃるのですか」
社長「実行せぬとでも思うのか」

 野倉氏はじめ交渉委員はキツネにつままれたような面持だった。要求の戦時歩増手当の本給繰入、残業歩増が通るばかりか、要求もしなかった8時間労働制さえ実施しようというのだから一一。 
                 
 花は会社に、実は職工に

 松方社長はこれはサボをしない者への処置だといったが、もちろん、サボをやめて松方の前に頭をつけてわびをいうなら、同様均霑させてやってもいいというのであった。

 会見は終り、そのあとで全交渉委員の会議を開き、どう終結をつけるかについて協議したが、最後に投票となった時、私は開票立会人に指名を受けたが、此際は一刻も早く旗を巻くことが賢明の策と考え、心がはやって開票に当りムリをして投票のやり直しを要求され、立会人の面目を失墜したことを思い出す。当時、私は27才の多情多感の青年記者だったのである。

 こうして日本最初の川崎造船所のサボタージュは、表向きは職工側か松方社長の前にカブドをぬいだ形で解決を見たが、実際は職工側の全要求が通ったばかりか、要求外の8時間労働制という大きな拾い物までして、その上、1人の検挙者も出さずにすんだのであった。花は社長側に持たせ、実は職工側か頂戴したという結果であった。まずはめでたし、めでたしというところであった。      
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村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第8回)

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「寒中散歩<兵庫運河>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

     『労働研究』(第153号)1960年11月号連載分

   第八回 大正八年という年
    ―弾圧と風刺する演説入りラッパ節―


  ロシア革命の余波

 大正6年11月、ロシア革命が成就し、また国内では翌7年8月、米騒動が日本の各地に連鎖反応を起して続発し、8年には吉野作造博士によるデモクラシー(民主主義とはいわず、民本主義といった)の提唱があって、日本の社会運動はこれを転期として一大進展を見せた。

 特にロシア革命の影響はただに社会主義運動だけにとどまらず、労働運動にも大きな波紋を投げ、マルクスやレーニンの名が親しみをもって労働者の口にのぼるようになった。進歩的な思想をもった組織労働者はこう唄った。

 「アジアにつづく北欧のロシアの民を君見ずや専制の雲切りひらき自由の光仰がんと…」

 そして革命の翌年、ロシアが飢饉に襲われて労働者たちが苦しんでいると聞くと義損金を送ろうということになり、ハガキ倍大ぐらい楕円形の偏平な石膏にマルクスまたはレーニン肖像と「万国の労働者結束せよ」という共産党宣言の有名な末尾の言葉を浮彫りにした壁掛けを作り、1箇50銭で売った。京阪神の組織労働者は喜んでこれを買った。

 こうしてロシアの赤い嵐は大正7年以降日本の社会運動の中に吹込んで来たが、台風がまっ先きに吹き荒れたのは箱根から東で、関西は台風の圏外にあった。(その関西もその後神戸を中心にして台風に巻きこまれた)その証拠には9年に「社会主義同盟」が東京で結成されたが、その際も東京の労働組合の信友会、正進会、交通労働、鉱夫総同盟等と一しょに友愛会の関東同盟もこれに参加し、個人として友愛会の麻生久、赤松克麿氏らが参加したが、関西の友愛会はこれに加わらず、賀川豊彦氏をはじめ関西のリーダーたちも1人としてこれに参加する者がなかった。

 そういうわけで、箱根を境として、東西の労働組合の運動方針には可成りの隔たりがあった。東のリーダーは西の労働組合を指して「彼らには思想がない」と罵り、西のリーダ-たちは「東の連中は足が地に着いていない」と批判した。西は現実派だったのである。

 では、関西の労働運動家たちは一体どんなことを考え、またどういう方向に進もうとしていたのだろうか。 

 関西の組合運動の目標 

 今から40年前の関西の労働組合員が、どういうことを目標にして進んでいたかを説明するに好箇の一つのアンケートがある。それは大正7年末に大阪および神戸の友愛会によって調査されたもので「大正8年中に労働組合として達成したいと思うことは何か」というアンケートであった。

 回答数はわずか84であるが、さきに掲げた大正6年の清野知事時代の天下りの調査とは違って、労働組合が自主的に行なったものだけに信憑性がある。回答は労働条件の改善と、労働権の確立とそして友愛会自体の改善の3項にわかれ、その中には今日では既に実施され、憲法で認められているもの、例えば選挙法の改正(普通選挙の実施)とか、団結権の公認とかいったものものも含まれていて、もはや過去のものとなっている事項が多いのだが、今から40年前の関西の労働組合員が抱いていた組合運動の目標がどんなものであったか、を知るには最も適当していると思うので集計の全文を下に掲げることとする。

A 労働条件に関するもの           14
  1. 労働時間の短縮    9
    残業の全廃 2  ▲10時間労働制の実行 2
    ▲時間労働制の実行2 ▲日曜を休みに 1
    ▲単に労働時間の短縮2
  2.労働賃銀の改正             5
    最低賃銀の制定3 ▲残業を廃し日給2円以上 1
    ▲安らかに生活出来るよう 1
B 労働者の権利に関するもの 22
   1 労働組合の公認 14
   2 治安警察法(特に17条)の廃止 5
   3 選挙法の改正 3
C 労働運動に関するもの 26
  1 労働会館の設置 17
  2 労働組合の基本金設定 4
  3 全国労働者全部を労働組合に加盟せしめん 2
  4 友愛会員の増加 3
D 友愛会の改善に関するもの 19
  1 機関新聞の日刊 6
  2 機関新聞 週刊 5
  3 機関新聞 月2回発行 3
  4 入事相談所設置 1
  5 労働倶楽部設置 1
  6 代理部の設置 1
  7 婦入部の設置 1
  8 事務所の独立 1
E そ  の  他 3
  1  職業紹介所設置 1
  2 職工住宅設置 1
  3  官費労働者講習所設置 1
 
    計   84

友愛会の1万人運動

 まず労働条件ではまだ10時間労働制の実施を望んでいる者が多く、8時間制を望む者と同数あることを指摘せねばならない。つまり当時は12時間近くの労働を強制されていて、8時間制はまだ夢だったのである。その意味からいって、大正8年の川崎造船所がサボタージュの後、たとえ名目だけでも8時間労働を獲得したことは意義が深い。

 賃金問題では残業なしで日給2円以上(月に直せば50円程度)といっているのも、今から見るとむしろほほえましいではないか。

 労働組合の公認を求める者の多いのは注目に値いしよう。団結権や争議権もなく労働運動を事実上禁じていた治安警察法第17条の廃止を要求する者と合算すると20名に近い。後に記すように大正8、9、10年に各地で頻発した争議の大部分がこの要求をかかげているのもそのためである。

 労働組合運動自体に関する事項では労働会館を持ちたいという希望が一ばん多いが、これはまだ独立の事務所さえ持たず、大阪連合会は2階に西尾末広氏の親戚の者が住み階下の2間だけの事務所、神戸連合会もお妾横町の2階借というさもしい住いとあってみれば当然の欲求であったといえよう。

 友愛会員の増加を希望するのは恐らく全員の声だったと思われる。大正7年から8年へかけての関西の友愛会の発展の跡を見ると

 大正6年5月  神戸連合会結成(7年1月久留弘三主務就任)      
         大阪連合会結成(7年2月西尾末広主務就任)     
   7年     神戸葺合支部結成(支部長賀川豊彦)       
    8年    神戸尻池支部結成(支部長村島帰之)         
      4月  関西同盟会結成    

 組合員数は大阪、神戸連合会がそれぞれ3、000を越え、京都を加えても8,000には達していなかった。それで久留弘三氏が友愛会関西出張所主任兼神戸連合会主務に就任してまず最初に着手したのは会員の獲得で、会員1万人を目標にしてPRに努力した。久留氏らはこれを「1万人運動」と称し、にわか雨の時に組合員に貸すため番傘を作り、傘一面に「友愛会員1万人運動」と大書した。わたしもその1本をもらったが、ちょっと気がひけてさず勇気がなく、他の労働運動の資料と共に大原社会問題研究所に寄附したが、今はどうなっていることだろう。

 大正8年来る

 「大正8年に労働組合員は何をしたいか」というアンケートさえとられたほど期待されていた大正8年が来た。その年頭の運動はアンケートにも強く要請されていた労働組合公認期成運動であった。即ち1月16日、株屋岩本栄之助氏が100万円の巨費で建てて市へ寄附した大阪中央公会堂で組合公認要求の演説会が京、阪、神の3連合主催の下に開かれ、聴衆2、500、今井、岡村両博士や賀川氏が出演し、当夜の決議文は賀川氏が携えて上京した。つづいて3月1日には友愛会関西出張所が音頭をとって治警17条撤廃請願運動を起し、管下11支部の会員の調印を求め、東京本部のと合せてこれを今井嘉幸代議士に託し衆議院に請願し、次で15日には中央公会堂で講演会を開催、賀川氏及び松村敏夫氏等が出演した。

 上の二つの運動を手始めとして、大正8年一杯は(年末議会シーズンに入って普選運動を開始するまでは)組合公認と治安警察法撤廃の2目的に向っての集中射撃であった。

 大正8年中、各地で催された演説会に於ける主要目標は殆んどこの2問題に限られた感があった。賀川氏らは引張凧の有様で、筆者の如きでさえ、同じ話をするのが気がひけて、いろいろと草案を作り直すのに苦心したほどだ。

 この2大問題が労働者を吸引し、また外では万国会議が進捗して、8時間労働その他の労働原則が討議せられたことが間接に労働階級の刺激となり、組合は次第に膨れて行った。

 こういうように運動が活発に推進され、また神戸、大阪、京都その他の支部が次第に発展して行くにつれ、これら、関西各地の友愛会員の連絡統一を図るため、関西同盟会を組織することとなり4月13日その創立大会を豊崎町の相生楼で開いた。そして会長には神戸川崎造船所の木村錠吉氏、副会長には大阪住吉伸銅所の成瀬善三氏及び京都奥村電機の井上末次郎氏、理事には賀川豊彦氏を始め久留弘三、高山義三、村島帰之のインテリ指導者も選ばれ、理事長には賀川氏が当選した。同創立大会の公開演説会には、鈴木会長のヴェルサイユ万国会議出張中の留守会長北沢新次郎氏(早大教授)および村島帰之が出演した。

 賀川理事長の指導精神

 関西同盟会は木村氏を正大将とし、賀川氏を参謀大将として雄々しく立上ったが、同会はどういう風に針路を定めたか。

 いうまでもなく、同盟のリーダーシップは賀川氏の手中にあった。従って賀川氏の指導精神が即ち関西同盟の方針となるのだった。創立大会についで4月20、中央公会堂で記念大会が催されて、賀川氏起草の宣言が可決された。これこそ、関西労働組合の針路を示すもので、同時に、着実穏健で余りにも宗教的だといわれた賀川氏の指導精神を窺い知るものであった。

 この穏健なる指導精神は、その後、永く関西の労働運動を支配した。そしてともすれば矯激に走ろうとする関東のそれに対し、一つの大きなローカル・カラーともいうべき特色を示した。少し長文だが、関西労働運動の当時の指導精神を知るためにその全文を掲げる。賀川氏の面目を伺うに足ると思った節々を示したつもりである。

     
          主   張                (原文のまま)

 我等は生産者である。創造者である。労作者である。我等は鋳物師である。我等は世界を鋳直すのだ。又我等は鉄槌を持って居る。我等に内住する聖き理想と、正義と、愛と、信仰の祝福に添はざるものがあれば、我等はその地金がさめざる中にそめ槌を打ちおろすのだ。我等は意志と、筋肉と鉄槌と、鞴を持って居る。我等は内住の理想を持って宇宙を 改造することが出来る。

 我等はこの精神を持って如斯宣言す。労力は一個の商品でないと。資本主義文化は賃銀鉄則と、機械の圧迫により、労働者を一個の商品として、社会の最下層に沈倫させてしまった。故に我等は労働組合の自由と、生活権と労働権と、集合契約権と、正義に基く同盟罷業の権利を主張し、治安警察法第17条の撤廃と現行工場法の改正を要求す。

 我等は8時間労働制の採用と、最低賃銀の制定を凡ての労働組織に要求す。即ち工場作業にも、家庭に於ける内職作業に対しても同様に最低賃銀の制定を要求するのである。殊に今日労働者の家庭に行はれつつある内職工業なるものはその悲惨言語に絶ししている。

 我等は速かにその改良を要望す。

 我等は労働者の災害に際する賠償法の制定と、労働者に対する廃疾災害、失業、疾病、養老保険の確定を要求す。

 又工場の民主的組織と、その立憲的経営を当然の要求と信ずるものである。我等はかくして資本主義文化の疾患である恐慌と失業に備へ労働市場の悪風を打破し、労力の掠奪者と、中間商人の横暴を排し、労働者自身が欺かれて、契約労働の苦役につきつつある今日の惨状より自らを救済せんとするのである。                   、’
 更に、我等は日本に於ける工業界の特殊現象として、工場内に於ける女子の勤労の多大なるを思ふ故に、同一労働に従事する男女労働者の同一賃銀を要求し、彼等の苦悩の削減せられんことを祈る。

 我等はまた日本の都市に於ける今日の労働者の住宅は全く人間の住むに適せざることを声明し、その住宅の改良を世界に訴へんとす。

 又我等は労働者自身の向上の為めに補習教育、徒弟教育、また労働者の社会教育を普及せん為めに、政府当局が適置をせられんことを希望し、将来は労働者の子弟と雖も、資本家の子弟の如く経済的東縛なくして、自由に大学に入学し得る設備の与へられんことを要求す。

 斯の如き要求は、生産者がなす可き正当の権であって我等が、一個の人格であり、自主である以上、決して市募に於ける一商品で無いと世界に向って告ぐるに必要なる条件である。

 我等は決して成功を急ぐものでない、我等は凡ての革命と暴動と煽動過激主義思想を否定す。我等はただ自己の生産的能力を理性に信頼して確乎なる建設と創造の道を歩まんとするものである。時代は変るであろう、流行を追ふことの好きな日本人は昨日は帝国主義を送り、今日デモクラシーを迎へ、明日はまた人種的偏見に煩はされて、我等労働者の自覚に一顧だに与へ無いであろう。然し我等は既に一歩を踏み出した。この道は決して変るものでは無い。我等は生産者の外に世界に文明を教へ得るものの無いことを知って居るから消費階級の遊戯的文明と、それによる此度の破産を嗤ひ凡ての迷妄と破壊に反対し戦後に於ける世界の改造と建設はただ我等生産者のみによって為し得べきこととかくして叡智の太陽を仰ぐ日の近きを世界に宣言するものである。

  大正8年4月20日


 「内住する聖き理想」といい、「愛と信仰」といい、さらに「内住の理想を以て宇宙を改造することが出来る」と説くところ、そして、「革命と暴動と煽動過激主義思想を否定」するところ、宗教詩人賀川氏が労働運動に望むところが明瞭に窺われるではないか。       

  この指導精神は、やがて1両年を経て、関東側の指導精神と正面衝突を演ぜしめる結果となったのは当然の事だった。関西の労働運動者はこの賀川氏の説を支持して、現実的行き方を続けた。                 
 賀川氏は押しも押されもせぬ関西労働運動の名実共になる指導者となった。まだ「死線を越えて」の出版以前とて、一般大衆にその名を知られるまでには至らなかったが、苛くも組織を持つ労働者で賀川の名を知らぬ者は少なかった。               

 神戸連合会の機関誌「新神戸」は、関西同盟の結成と共に改題して「労働者新聞」となり、巻頭論文は主として賀川氏が執筆し、屡々発売禁止の厄に逢った。過激思想というのではなく、氏の宗教詩人らしい煽動的な文章が当局の忌避に触れたのである。

 賀川氏はこのため数次にわたって起訴された。その時、弁護士高山義三氏(現京都市長)が専ら弁護に当ったが、賀川氏が「弁護料はいくら払ったらいいか」と聞いたところ、高山氏は「現在及び将来にわたってあなたの著書をもらいたい」と答えた。賀川氏はその頃までにはまだ数冊の著書しか出していないので気安く承諾した。しかしその後賀川氏は数百冊という著書を出したが、高山氏との約束を守って著書を送ったという話は一向聞いでいない。とすると、賀川氏は高山弁護士に対し不渡手形を出したことになる。

 労働運動弾圧の強化

 神戸をはじめ各地の労働運動の発展を見る一方、使用者側や官憲の労働運動に対する弾圧は次第に強化されて来た。この弾圧は大正7年の米騒動直後から始められ、大正8年以降に至っていよいよピッチをあげた。

 米騒動のあった大正7年8月には1ヵ月間だけで全国に102件という争議が起った。日本開びゃく以来のことで使用者側も官憲も大いに驚き、今のうちに組合をヒネリつぶさねば一一と弾圧をかけた。中小工場では組合に入っているというだけでイビリ出し、ビラを貼ったから、高等刑事が来て困るから、というだけで解雇した。

 会社が圧力をかける一方、官憲は官憲で行政執行法及び治安警察法という伝家の宝刀を適用して少しでもクサイ連中は片っぱしから検束したり、検挙したりした。

 行政執行法の第1条には、暴行の惧れある者は検束して24時間以内を限りこれを警察に留置することができると規定され、取締当局にとってはこれほど重宝な法律はなかった。たとえ仏さまのような人でも急にのぼせて乱暴するかも知れないのだから「暴行の惧れあり」として検束することができたのである。

 だから当時は演説会やデモ行進にはいつも検束はつきもので、メーデーの大行進の際など、これと目星をつけた注意人物はたとえ固くスクラムを組んでいてもカーブにさしかかった時に一気に列外ヘスクラムのまま突き出して検束した。これを「ごほう抜き」といっていた。

 また「たらい廻し」といって、24時間で検束時問がきれると、一旦その警察署を釈放し、すぐ次の警察へ新たに検束して何日も留置するという巧妙なやり方をした。戦前の労働運動家で一度も検束された経験のなかったという者はマヤカシ者だったといってよいであろう。

 治安警察法17条

 さらにこれが争議ともなると、こんどは治安警察法がモノをいった。「労務を停廃せしむる目的を以て他人を煽動し誘惑した者」は禁緬2ヵ月以下に処するという争議弾圧法だった。

 大正3年から12年までの10年間に全国で治警法17条により検挙された者は1、026名を数えた。また争議が暴動化した場合はすぐ騒擾罪で罰せられた。大正3年から13年までに2、700人がこれで検挙され、そのリーダーは「首魁」として2年内外の懲役に処せられた。

 大正10年の神戸の大争議では170名からの検挙者を出し、未決監は満員で賀川氏は特に女囚の監房に入れられたが、賀川氏ほか100名は不起訴となり、56名が起訴され、中でもリーダーの野倉万治氏は首魁として2年半の懲役に処せられた。

 先般のあの激しい国会デモでも騒擾罪は適用されなかったのと比べて、当時の弾圧の如何に甚しかったかが判るだろう。

 演説会の取締りも厳重をきわめた。演壇の脇には金ビカの制服を着た警部が「臨監」として出席し、言論が少しでも過激にわたると臨監が認めた際は、はじめは「注意!」と叫ぶ。そこで弁士は論鋒をゆるめるか、話題を変えるかしなければならないのだが、もし「注意」を無視してさらに調子をあげて行くと、臨監はサーべルで床をたたきながら「弁士中止!」と宣告する。そうすれば弁士は演説を中止して降壇せねばならなかった。

 少しあとの事だが、政治研究会神戸支部が結成された時(この時、河上丈太郎氏が支部長となり、はじめて政治運動に足を踏人れた)東京から大山郁夫氏らが来神して神港クラブで演説会を開いた。私は神戸の病院に入院していたが、ひそかに抜け出して行き犬山氏の前座をつとめた。その時、私か登壇して開口一番「ソ連に居る片山潜が‥…」といっただけで忽ち「弁士中止」をくらったことかあった。

 また播州加古川の毛織工の演説会では森戸辰男氏が「芦屋にはラジオのアンテナが林立している」といっただけで中止となった。主催者側は森戸氏にタップリやってもらう考えでいたのに登壇したばかりで中止となって戸惑った。聴衆はその頃続々とつめかけて来ていたのでこれで閉会というわけには行かない。そこでやむなく既に前座をつとめて休息していたわたしにもう一度何か話してほしいと頼まれて登壇したが、こんどは臨監も遠慮してか中止は命じなかった。

 「片山潜」や「芦屋のアンテナ」が治安を斎すわけではなく、警察側は最初からしゃべらせない方針で臨み、いい加減なところで中止を命じたのである。言論の自由もあったものではない。

 革命演説入りラパッ節

 その頃、社会主義運動をやる人たちの間におもしろいラッパ節の替歌がうたわれた。私は中西伊之助氏から教えられ、いろんな会合でこれを隠し芸として披露した。

 文句は冒頭に「食えない、食えないと声張り上げて演壇で何としょ」とラッパ節通りにうたい出し、次いで「青い顔して演壇をたたいて」といって前のテーブルをたたく。それから演説をはじめるのだがもちろん、演説は煽動的なものなら何でもいい、そして演説の途中、弁士から臨監に早変りして、テーブルの脇の方から声高く「弁士注意」と叫ぶ。すると、こんどは再び元の弁士に変って、胸をそらせ臨監の方を脾睨しながら「只今のは注意ですか、中止ですか」と質問する。また臨監に早代りして「注意です」と答える。それで三度弁士に立ち戻って(忙しいことだ)「然らば諭旨を変えましょう」と乙に気取って、こんどは激越な調子で「現代の社会組織はこれを根本より変革せねばなりません!」と腹の底から絶叫する。そこで弁士からまた臨監に返って「弁士中止!」とおっかない顔をして叫ぶ。とこんどはテーブルの前に座をかえ、聴衆になって「警官横暴々々」とゲンコツを突き出し臨監の方に向かってほえるようにいう。それでまた臨監になって「解散を命ず!」と一声高く叫んで、またテーブルヘ帰り、グッと調子を低くして「テナコト、オッシャイマシタカネ」で終りになるのである。

 このラッパ節はもちろん余興用のものであるが、歌の中で激越な演説をするので、大向うがヤンヤの喝采を送ったものである。弾圧の激しかった40年前を偲ぶ一つの挿話ともいえよう。もちろん、このラッパ節を歌っているところを警官に見つけられれば、すぐ検束されるであろうことは明かだ。この歌を知る人ももう少くなったことだろう。              

 話は思わず横にそれたが、当時の弾圧は常識をを越えていた。にもかかわらず労働組合は伸び、争議は頻発し、大正8年は画期的な労働組合進出の年となった。

 この年の内に71の組合が新らしく結成され、罷業件数は500件、参加人員は6万3千という新記録を出した。今から見ると罷業参加人員6万3千はあまりにも少なすぎるようだが、今日のように官公労だの、炭労、日教組などの大組合もなかった当時としては決して少いとはいえないのだった。

 そしてこの500件の罷業の中には有名な東京の15大新聞の印刷工ストがあり、足尾、釜石、日立各鉱山のストがあって、釜石では鉱夫の襲撃に備えて鉄条網に電流を通したといわれ、今日の三池争議に近いものがあり、騒擾罪が適用された。

 西では神戸の川崎造船所における日本最初のサポタージュが世間の耳目を驚かせ、ことにその結果として8時間労働制を獲得したことは日本労働運動史に特筆大書される出来事であった。次号にはそのサボタージュのことを記す順序となった。

村島帰之「労働運動昔ばなし(『労働研究』連載:第7回)

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「増田製粉所の入り口」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   村島帰之「労働運動昔ばなし

     『労働研究』(第149号)1960年7月号連載分

     第七回 「死線を越えて」の裏話
        ―賀川豊彦追想録―

  
  神戸の生んだ異彩

 世界の人・賀川豊彦氏は去る4月23日夜、71才をもって天に凱旋した。確かに氏は世界的な存在であった。しかし同時に氏は神戸の人であったことも忘れてはならない。

 賀川氏は神戸市兵庫島上町に生れた神戸ッ子である。幼にして父母に先立たれたため生れ故郷の神戸を去って徳島の義母の許に引きとられた。

 氏は妾腹の子であった。なさぬ仲の義母の下で育った少年時代は決してたのしいものではなかった。中学を卒えると上京して明治学院神学部に入学したが後、神戸神学校が創立されるのと一しょに再び生れ故郷の神戸に帰り、学業の余暇、神戸葺合新川部落で、貧民窟伝道を始めた。

 そして前後9年8ヵ月にわたって貧民窟の中に住みこみ、貧しい人々の霊肉の救いのために献身し、また大正7年頃からは友愛会の労働組合運動に関与したことはあまりにも有名である。

 特に大正10年の神戸大争議では指導者の1人として活躍し、賀川豊彦の名はにわかに天下に知れわたり、海外にも紹介され、またたびたび世界各地から招かれて世界を家とする伝道旅行がなされてその名声は世界的となった。

 米国ではハイスクールの副読本に「カガワ・イン・スラム」の一章が掲載され、またロサンゼルスの郊外には「カガワ・ストリート」という町まであって、先年筆者は賀川氏と一しょにを訪れた。

 「4銭を超えて5銭」

 このように賀川氏が世界的に有名になったのは氏の信仰や学識やそれにもまして、貧しき者、病める者、悩める者に対する献身と全生全霊を投げ出したキリストの実践にあったことはいうまでもないが、広くその在生を知らしめる直接の動機となっだのは氏の処女作、小説「死線を越えて」であったといえよう。

 戦時中の話だが、出征軍人に送る千人針の布片に5銭白銅を結びつけて「死線(4銭)を越えて無事凱旋するように」と縁起をかついだり、またその頃の福引に「死線を越えて」というのを引当てると、「死線(4銭)を越えたのだから5銭です」といって5銭白銅1枚をくれたりした。いかに「死線を越えて」が広く読まれたかはこれでも判るだろう。

 ではなぜ「死線を越えて」はそんなに売れたのか。それは作者の神戸葺合新川部落における祈りと愛の奉仕の驚くべき貧民窟生活がなまなましく描き出されていたからである。

 ゴロツキや売春婦や不良少年や貰い子殺しやアル中毒の人たちと共に住んで、時にはドスで脅迫され、ゲンコでなぐられながら、なお貧しい人たちのための奉仕をやめようとしなかった活きた信仰の実録が、読者の心を動かしたのである。

 そして多くの純真な青年男女が貧民窟に賀川氏を訪ねて、あるいは奉仕を申し出で、あるいは求道者となった。戦後に大臣となった水谷長三郎氏やマスコミの大スター大宅壮一氏などもその一人で、両氏とも神戸の貧民窟の寒々とした説教所で賀川氏からキリストの弟子となる洗礼の式をしてもらった。

 勿論「死線を越えて」が出る前から、賀川氏の名はぼちぼち新聞や雑誌にのっていた。新聞で最も早く賀川氏の真価を知り、紙上で屡々同氏の働きを紹介し、またその寄稿をのせだのは大阪毎日新聞であった。

 雑誌で最も早く賀川氏をとらえたのは「日本評論」であった。しかし、「日本評論」雑誌が小さかったため一部に知られたに止った。賀川氏を最も有名にしたのは、何といっても「改造」である。

 その頃の「改造]の編集長は横関愛造氏だった。そして横関氏と賀川氏の橋渡しをしたのは、かくいう筆者でめった。

 確か大正7年の末頃だったと思う。機関編集長から「神戸に賀川という変った学者がいるそうだが、もし君が知っているのだったら、改造に何か書いてもらってくれ」という手紙が来たので、賀川氏に話したのが、賀川氏と改造とを結ぶそもそもの初めであった。

 間もなく「改造」の社長の山本実彦氏が西下して賀川氏を新川に訪ねた。山本社長は、賀川氏のスラムの事業に深い感銘を覚えだ。そして、話しあっているうち、賀川氏の古い小説を「改造」にのせる相談がまとまった。それが「死線を越えて」で、一部分は「改造」にのったが、中途から「改造」へ掲げるのを中止し単行本にして出版したところ、日本の出版界始って以来の売行きを示し、賀川の名は律々浦々にまで聞えるようになった。

 「死線」を越えての出る前

 私はこの小説が「改造」に載る以前、その原稿を葺合新川の氏の宅で見たことかあった。罫も何もないロール半紙に、天地左右の余白もあけず、ぎっしりと詰めて、毛筆で書いた原稿を示された時、実をいうと、4、5枚読んだだけでウンザリした。

 この部分は、氏が貧民窟に入る遥か前、三河蒲郡の海岸で、呼吸器病の療養をしていた頃書出したもので、氏の文学青年時代の平凡な恋愛小説である。氏はこれを明冶学院の先輩である島崎藤村に閲読を乞うたことがあったが、藤村は丁寧に一覧した後、「これは後になってあなたの大切な記録となるでしょうから、大事にしてしまって置きなさい」と評して返された。藤村のその書信を氏は序文のつもりで、原稿の最初の頁に綴込んでいたが、スラムに入ってから、誰が涕をかんだのか紛失したーと、私に語った。

 小説は、その後、氏の血のにじむやうなスラムにおける体験を附け足すことによって、後世に残る大作品となった。「改造」に「死線を越えて」と題して掲載された最初の部分は前記の時のものそのままであったが、後半は中途から洗練された筆で新しく補足された貴重なスラムのルポルタージュであった。


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 改造社で、「死線を越えて」を単行本として出版する議の起った時、私は前記横関氏から相談を受けた。私は迚ても売れるしろものではないと思ったのでその旨返事をした。横関氏から折返し手紙が来た。それには「君の返事の来るのが遅かったので、山本社長の言う儘、兎に角出版することとした。僕も些か不安だ」と記されてあった。

 「死線を越えて」が本になって世の中に出だ。氏としてはそれ以前に「イエス伝論争史」とか、「貧民心理の研究」とか、その他宗教書や少年向読物などの著書はあったが文学書特に小説としてはこれが最初のものだった。

 その頃、世間の一部では、頭脳の秀れた学者としての氏の価値を認め初めてはいたが、文学方面の作者としての氏を認めるものなどは全くなく、従って書物の売行も香しくはなかったが、出版者は思いきって広告をして見ようということになった。山本社長の賀川心酔がそうさせたのである。

 そこで半頁大の新聞広告を出し1頁大のをさえ出した。半頁1頁の広告は、その当時にあっては珍しく、広告料単価の低廉の売薬以外に、そんな大広告をする向はなかった。1行の広告料は60銭ぐらいであったが、1段140行として半頁-6段の広告料は600円であった。その半頁広告を一新聞に一度だけでなしに、何回も繰返して一流新聞の凡べてに掲載しだのだから、宣伝費は何万円一今日なら何千方円一という巨額に上った。

 こう油をかけられては、つい釣られて読むようになるのは人情で「死線を越えて」は売れて行った。昭和9年10月に初版を出したのがわずか3ヵ月で3万部を売りつくし、10年1月に入って此度は思いきって5万部を増刷した。

 そこえ、降ってわいたごとく神戸の大労働争議が勃発した。「死線を越えて」の初版刊行後8ヵ月目の大正10年6月12日の事である。

 神戸川崎、三菱両造船所2万6千の労働者は大罷業を起した。指揮者は野倉万治氏でこれを助ける参謀がほかならぬ賀川豊彦その人である。そして大示威運動の余威は遂に警官と乱闘を演じ抜剣騒ぎから職工側に死人をさえ出して、賀川氏らは警察に引致され、短時日ではあったが、囹圄の身となった。賀川氏は忽ちにして「新時代の英雄」となった。

 「死線を越えて」の出版者が、これを看過する筈はなかった。神戸に大争議のリーダー賀川の血を以て綴った小説を読まずして、新時代を語る資格はないと許り、連日、デカデカと新聞の半頁を越える大広告の連発である。世間はおツ魂げてしまった。そして「死線を越えて」を読まねば恥のように考えて、人々は争ってこの本を手にした。

 舞台に上った「死線」

 小説の売行の素晴しいのを見て、これを舞台化する者も出て来た。争議の済んだ3ヵ月後の12月に東京では伊井蓉峰、関西では少し遅れて沢田正二郎及び生命座の連中がこれを上演した。

 神戸の中央劇場で沢田が「死線を越えて」を上演した際には、新川の貧民窟のゴロツキ連も、噂を聞いて見に行った。そして自分達らしい人物が舞台に活躍しているのを見て、早速尻をまくって賀川の前に坐り込んだ。

 「先生、あんたはわし等の事を小説に書いて、百両(彼等は百両を最も大きい金額と心得えていたらしい)も儲けたというやないか、割前を出せッ」と脅迫し、はては短刀を閃かして賀川及び夫人を追いまわし、春子夫人は彼等の鉄拳を頭上に受けて負傷するという騒ぎさえあった。

 私は葺合新川のスラムには、氏の案内で度々足を踏入れ、氏が9年8ヵ月の永きに亘って住んだ二畳敷をも知ってはいたが(そして、貧民の特有な心理は、「死線を越えて」以上の氏の名著「貧民心理の研究」に依って教えられてはいたが)小説を通じて、氏の忍従と苦闘との記録を読むことによって、感激は更らに一層切実なるものとなった。私は「死線を越えて」の原稿時代、はじめの部分を数枚だけ読んで「なんだ、つまらない」と投げてしまった自分の不明を恥じた。

 「死線を越えて」が150版を刷った時、氏は時勢の駸運に伴い、或る種の文字を削除したいと思立った。そして、私は氏から頼まれて、全巻を改めて目を通し若干の添削をした。往年、この本は売れまいと予言した私がである。私は朱を入れ乍ら微苦笑を禁じ得なかった。

 「死線を越えて」は誰知らぬ者とてはないほどに普及した。「賀川豊彦」の名も、今は天下に隠れもない普遍的な名となった。そして「死線を越えて」のおかげで、見るもいぶせき葺合新川部落も一躍して、日本の一新名所となった。しかし皮肉なことには、「死線を越えて」で名高くなった新川の密集地帯は、「死線を越えて」によって破壊される運命を辿った。というのは、政府はこの書物に刺戟されて、六大都市の不良住宅の改善を断行することとなり、遂に賀川氏の思い出深い二畳敬を始め新川部落が殆んど痕跡をとどめないばかりに取り払われたからである。

 「死線」執筆の動機     

 こうして一世を風靡した「死線を越えて」を賀川が書いた動機について自ら某誌に書いていたのを転載して見よう。

 「死線を越えて」を書いた動機を話せとのお言葉ですが? 明治40年の5月だったと思います一一私か肺病で明石の病院から三河浦郡の漁師の離れに移った頃、独りぼっちで余り淋しいものですから、私は小説を毎日書綴ったのでした。誰も訪ねてくれる人もなし、知っている人というのは村には誰もないものですから、幻の中で過去の人間を小説として想い浮べてみたのです。

 そうでした、その前の年だったと記憶します。私は小説が書きたかったので、古雑誌の上に小説を書きなぐった事がありました。余り貧乏で原稿用紙が買えなかったものですから、古雑誌の上に書いたのです。

 私が小説を書きたかった理由は、私の小さい胸に過去の悲しい経験が、余りに深刻に響いたことと、私か宗教的になって行くことに依って非常に気持ちが変って来たことを、どうしても小説体に書きたかったからです。

 書上げた小説を、私は島崎藤村先生に一度見て頂いた事がありました。すると先生は丁寧な手紙を添えて、数年間筐底に横たえて自分がよく判るようになってから世間に発表せよといわれたのでした。

 その後肺病はだんだん良くなって、私は貧民窟に入りました。それから13年たちました。13年目に改造社の山本実彦氏が貧民窟の私の事務所にやって来られてその小説を出そうじやないかといわれたので、私は、「死線を越えて」上巻の後3分の1を新しく書き加えたのでした。

 その時、前3分の2の文章が余りにごつごつして居てまずいと思ったのですが、妙なものでして、一つ直そうと思えば、全部直さなければならなくなるし、13年度後の私の筆は、余程昔よりは上手になっているようでしたけれども、何だか血を喀いた頃に書いた物は、私の気持が最も真面目に出ているものですから、私は文章より気持ちを取りたいと思って、文章のまずいことを全く見脱すことにして、厳粛な血を喀いた時の気持ちを全部保有することにしたのでした。

 その為に「死線を越えて」上巻の前半には実にごつごつした所もありますが、加筆を許さない強い調子がのこっていることも、また事実であります。

 モデルの事ですか?それは困りましたね。私の周囲の人に聞いて下さい。私は私の心の生活をあれに書こうとした時にモデルに就いてはいえない多ぐの事情があるのです。

 有島武郎がいっていた様に小説は小説であるけれども、事実以上の真実さがあるものです。私も有島君の流儀で、この辺りは赦して頂きましょう。

 私は、あの小説が必ずしも成功した小説だとは思いません。それが雑誌「改造」に出た時に、余りまずいので自分ながらはらはらしました。ですから本になった時にあんなによく売れたのを、自分乍らも吃驚したのでした。ですけれども今になって考えてみますと、読者は矢張り私か最初考えた通り、まずい文章を見脱してくれて、私か書こうと思った心の歴史一一詰り心持ちの変り方一一一を全体として読んで呉れたのだと思って感謝しているのです。

 最初の原稿料1千円

 「死線を越えて」が出版された当初、賀川氏が受取った稿料は1千円也であった。あれだけの売行を見せた「死線を越えて」の印税としては千円は余りにも少いと思う読者が多いだろう。

 しかし、原稿を受け渡しする時には、著者も出版者も、まさかそれほどの売行を見ようとは考えなかったため、千円でも多過ぎる位に思ったのである。しかし、3万5万と売れて行くのを見て、出版者山本社長は自分独りが儲けては相済まぬといって、(あとを書かせようというコンタンの方が大きかったかもしれない)改めて印税の契約を作り、定価1割の印税を支払うこととした。

 印税となると、本の売れる限り、賀川氏のポケットはわき出る泉のように金がはいった。その尽きざる黄金の泉は、多く貧しき人々をうるほし、各方面の社会運動を助けた。

 「死線を越えて」は上篇だけで350版という驚威的売行を見せ、10年12月には中篇「太陽を射るもの」が刊行された。これは賀川が大正10年7月神戸の争議で橘分監に収監された折、破格の待遇とあって特に支給された蚊帳の中で書始めたもので、たちまち200版を重ねた。「太陽を射るもの」に続いて下篇「壁の聲きく時」が出て200版を重ねた。これは神戸の争議当時のことが記されていて、私も「新聞記者島村帰之」の名で登場している。

 この上中下三篇の小説は合せて500版50万部を売りつくし約15万円(今の貨幣価値に換算すると約5千万円)という少からぬ印税が這入ったが、賀川はそれを私する事なく先ずその中の1万5千円を割いて神戸新川部落救療事業友愛救済所に投じその事業を財団法人組織とする事とした。

 友愛救済所は賀川が貧民窟生活10年の尊い経験から、霊の救いと同時に肉体の救療の必要を痛感し、大正7年以来経営していたもので1ヵ年の救療延人員6~7千人にも及んだが、費用のかさむ一方において寄附金も少く、賀川自身の収入も少なかったため、「死線を越えて」の出る直前一一大正8年の初め頃には薬の代金にすら事をかき、暫くではあったが診療所を休業した事さえあった。この苦い経験から救済所を財団法人組織にしたのであった。

 社会運動のドル箱

 神戸の争議の後始末にも約3万5千円が「死線」の印税から支払われた。120名を越えた収監者の差入れの費用に充てられ、また首魁と看倣された野倉万治氏に対しては、その下獄中、家族の生活費として月々100円づつを贈っていたのを筆者は知っている。

 鉱山労働の運動に対しても、5千円内外の金を注ぎ込んでいたことは、浅原健三氏の書いたものの中に現れている。また大正10年10月、杉山元治郎氏を引張って来て日本農民組合を創立した時にも、その創立に要した費用は全部賀川が印税収入から支弁した。

 杉山氏を始め幹部の俸給の如きも賀川氏が永い間負担していた。その総額は少くとも2万円には上っていよう。

 11年6月に大阪労働学校を筆者や西尾末広氏が中心となって創立した時も賀川氏は5千円という金を惜しげもなぐ投げ出してくれた。この外、消費組合その他の運動のためにも金は消えた。

 こうして小説「死線を越えて」は、かなり久しい間、日本の社会運動の金穴を勤めたもので、賀川の印税収入の減少した後までも、「賀川の処へ行けば金を作ってくれる」と考えて、金策を申込む向が随分多かったものである。

 もし賀川家の家計簿を公開する機会があったとしたら、労働組合や無産党や、時には予想外の方面に、賀川氏のポケットマネーが出ていた事を発見するに違いない。

 筆者の知人に金倉という篤信の婦人があって、その夫君は十五銀行の神戸支店長を勤めていたが、その話に、「死線を越えて」の出た頃、賀川氏の預金は一時に何千円という多額が這入るが、利子のつくほどの日数を預けている事は殆んど稀れで、直ぐゴソッと引出される。問もなく叉大金が預けられるが、それもまたたくうちにすっからかんになって、賀川氏の口座は大金が動くのにも拘らず、それが銀行に止っている期日は極めて僅少であった――という事であった。

 なければないで、またあればあるで、出し渋るのが金てあるが、賀川氏の如く、自ら文字通り1枚の衣を着粗食を食べて、這入っただけの金を惜しげもなく貧しき人々や社会運動に払出した人物は少ない。


(編集室) 因みに、賀川豊彦氏(日本基督教団牧師・神戸市教育委員)については、この労働運動昔ばなしに毎回のように見られたところであるが、惜しくも去る4月23日午後9時13分、東京都世田谷区上北沢3の863の自宅で心筋こうそくのため死去。71才。なお氏は大正5年米国プリンストン大学神学科卒。欧米に講演旅行すること数回、国際的に名を知られ、カナダのパインヒル大学神学博士、米国クユカ大文学博士を受け、1956年度ノーベル賞の候補にあげられた。昭和21年貴族院議員に勅選され、東久兼宮内閣顧問。その後全国農民組合組合長、同志社大学教授、社会党顧問、中央児童福祉審議会委員をへて神戸市教育委員のほか日本生活協同組合連合会長、社会福祉法人イエス団、雲柱社各理事長、世界連邦建設同盟副総裁。 

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載第6回)

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「寒中散歩<兵庫運河>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   村島帰之「労働運動昔ばなし

      『労働研究』(第143号)1960年2月号連載分

      第六回 大正6年の三菱争議
       ―主役を演じた3人の基督者

  

  高山豊三と安井喜三

 神戸の労働争議といえば、誰しも直ぐ大正八年のサボと、十年の大ストを連想するが、しかしこれが神戸の争議のはじめではない。

 大正六年の夏に三菱造船所の兵庫工場で争議が起っている。そして当時の唯一の労働組合友愛会は、この三菱争議に兵庫県知事の要請で居中調停に乗出して、ボヤのうちに解決した。このことは世間でもあまり知られずにいるし、記録にも残っていない。

 その頃の友愛会神戸聯合会主務は高山豊三だった。前にも述べたが、この高山は後に京都市長になった高山義三ではない。同じクリスト教信者である上、たった一宇違いなのでいつも間違えられがちだった。

 義三の方はまだその頃は京大を出たてのホヤホヤで、学生時代からやっていた友愛会の京都支部長として、京都市電の争議などにも活躍していた。後に神戸へ来て弁護士を開業して、友愛会神戸連合会のために力を尽したことは後に述べる。

 豊三の方は鈴木文治が友愛会を創立した当初からの協力者で、大正六年二月、神戸連合会主務となり、わずか九ヵ月間の短期間だったがまじめに神戸の友愛会を指導したのである。

 大正六年夏のある日、高山主務のもとへあわただしく駈けこんで来た男があった。熊本弁でその上昂奮してどもりながら早口にしゃべり立てる言葉は、よく聞きとれぬ程だったが、とにかく、三菱造船所に争議が起ろうとしているから、友愛会としても直ぐ応援に出動してくれということだけは判った。

 この男は安井喜三といって熱心な友愛会員、肥後の刀鍛冶の末えいだという話で、いつも肩ひじを怒らせて議論をしたが、幼時、脳をわずらったとかで頭は少し弱い方だっだが、熱情の持主でカトリックの信仰をもっていた。年はわたしよりは少し上で三十才に近かかったように思う。

 大正十年の神戸の大争議にも彼は三菱造船所罷業団の代表者に選ばれ、三菱造船所会長の武田中将と折衝し、デモの陣頭にも立ったが六年の三菱争議では彼は小勢な友愛会兵庫支部をひっさげてその中心人物となっていた。

 十字架を負って陣頭に


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                    安井喜三


 安井はわたしの家へは屡々来て親しくしていたが、彼は争議の指導をした時の感想をわたしにこう語った。

 「私はキリスト信者じゃけん、キリストが十字架上に血を流されたそのお気持をもってストの陣頭に立ったのでごわす。仲間のために血を流すことなんぞ、ちーいともおそるるところではごわせんなんだ」安井のこの気持にうそいつわりはなかったと思う。

 さて、この安井の報告を聞いて、高山主務は直ぐ兵庫支部に走った。兵庫支部はどうした風の吹きまわしか、安井のほか、幹部の中に聖公会やプロテスタント教会の信者がいて高山には特に親しみが深かった。高山が駈けつけた時、一足違いで安井を始め友愛会兵庫支部の幹部は兵庫署に検束されていた。

 三菱ではこれより少し前、長崎の造船所で、当時としては珍らしい大ストライキがあって手を焼いた矢先だったので、兵庫工場の動揺に驚いて、逸早く手を打ったらしく、造船所は既に非常警戒の態勢をとり、高山をよせつけようとはしなかった。

 高山はすぐ大阪へ飛んで行って友愛会大阪連合会主務の松岡駒古と相談した。松岡はいうまでもなく後年の友愛会長――総同盟会長で、終戦後、新憲法下、最初の衆議院議長となった男。北海道の室蘭製鋼所職工をやめて友愛会本部員となり、大阪連合会のできるのと同時に初代主務となって来たばかりだったが、同じ本部員出身であり、また同じキリスト教を信仰する関係もあって、何かというと松岡と高山は話しあっていた。

 清野知事から会見申込

 その頃の友愛会は会長鈴木文治の主張にもとずき、労資協調を主眼としていて、今日のような階級斗争的のものではなく、労働紛争の安全弁たらんとしていたので、高山もこの方針に従い、ストライキは余程切迫した事情の起らない限り起すべきではないと考えていた。

 高山は松岡と話しあって、大阪から夜の九時過ぎに帰宅すると夫人が昂奮した面持でいった。

 「今日は高等刑事が十一回も来ました。そして清野知事があなたに至急面談したいから官舎へ来てほしいといっていられるとの事でした」

 知事からの面会申入れは三菱のことに違いない。そこで「夜分でもかまわなければ参上します」と電話で返事すると、折返し「すぐ面談したい」とのことに、食事もせず、その足で知事官舎へ出かけて行った。

 応接室には知事の吸い残しであろう、葉巻の紫煙か細く立ちのぼっていた。初めて知る葉巻の美薫と、そして夜の官舎の静寂にうっとりしていると、清野知事が私服に寛いでパーラーヘ入って来た。そして打ちとけた態度で三菱問題について話し、高山の意見を聞いた。

 そして、明日、三菱の所長と面談させることを兵庫警察署長を通じて取りはからってくれた。そこで翌日、高山と松岡は三菱造船所へ行き、三木所長と会見、談合した結果、争議はあっさりと解決した。もちろんこれは知事の下工作があったからである。

 大正六年の三菱の争議はわたしの神戸赴任前のことで詳しいことは知らない。前述の記事も戦時中、私か某誌に書いた一文を、その頃いアメリカのサクラメントで牧師をしていた高山が遇然読み、往時を追懐してこまごまと書いてよこしたのに拠ったものである。高山牧師は今どこでどうしているか、わたしは知らない。どこかで本誌を読んで、また昔ばなしを書き送ってくれたらうれしいと思うのだが――。

 それはともかく、六年の三菱争議が安井・高山そして松岡と揃ってキリスト教信者がその衝に当ったことも興味深い。

 松岡駒吉の開拓者としての苦行

 ここで、少しく松岡駒吉について記して置きたい。

 松岡は温泉の里として知られた鳥取県岩井の産、北海道室蘭製鋼所の旋盤工であった。大正二年、三木治郎(後の参議院副議長)が東京池貝鉄工所から室蘭製鋼所へ転じて友愛会の支部を作るや誘われて入会し、その会計を担当した。

 松岡の才能は忽ち顕れて、全国に率先して「労働会館」の設立を見た。今でこそ労働会館は各地に建てられて左程珍しくはないが、四十年前まだ労働運動の頗る幼稚だった頃、早くもここに着眼し、労働組合の乏しい財政の中からこれを創立したところ、只だ者でなかったことが知れよう。

 間もなく松岡は室蘭製鋼所の争議にリーダーとして活動したところから型の如く馘首された。そこで待ってましたと許り、友愛会本部員として抜かれ友愛会の事務を執っているうち、大阪聯合会の結成と共に主務として大阪へ送られて来たのであった。

 筆者はその大阪赴任と共にじっ懇になった。松岡にとって、恐らく関西では筆者が最も古い友人だったであろう。松岡主務の来阪した翌月すなわち大正六年七月に、大阪の友愛会関西支部に争議が起きた。

 大阪府西成郡豊崎町(現在の西淀川区豊崎町)の日本兵器製造会社工場ではロシヤ政府からの注文で、信管の製造をやっていたが、その製作の一段落を告げると共に職工七百余名の一斉解雇を断行し、その際、会社が職工に支払う共済積立金に対する疑義から争議が起ったのだ。

 松岡主務は会社に談判に出かけた。その頃、まだ大阪に幾台とはなかった自動車に乗って――というと豪勢だが、筆者が乗る大阪毎日新聞社の自動車に同果してである。しかし、この争議は結局法律問題だけを後に残してうやむやのうちに終った。罷工に這人ろうにも、一斉解雇の後だから何とも仕方がなかったのである。


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                         松岡駒吉


 主務給だけでは食えぬ

 この争議の結果、関西支部は事実上消滅した。みんな解雇になったからである。もちろん、友愛会は関西支部だけではなかったが、松岡は退勢挽回に大いに努力すると共に、主務の俸給――二年後に西尾末広が主務となった時には六十円だったから、松岡はまだそこまではもらっていなかったに違いない―-を減らした。それでなくても薄給の彼だ。生活は窮乏の極に達し、食事を二度に節約し、その二度の食事も減食したり、香の物ばかりにしたりした。筆者は「それではからだが持たぬから」といって反対したこともあった。

 その結果、松岡はある保険会社の外交員をして収入の道をはかり、友愛会の負担を軽くした。夕方、外交から疲れて戻って来ても一息入れると直ぐ友愛会の事務をとる。支部を訪ねる。演説会に出かける。という八面六臂の活動振りであった。

 その頃誕生した長男洋太は昭和三十年九月、三十代の若さで父に先立って昇天した。その時わたしは大阪時代のことを回想し、悔み状を出した処、折返しこまごまと心境を書きつらねた返事をくれた。その手紙にこんなことが書いてあった。

 「耐えられない試練を、神はわれわれに課し給わないということを私は深く信じていま す。ですから、この度の如き苦しみに会っても、まだまだこれ以上の苦しみもあるのだと 思って耐え通すことができました。人々から理由のない迫害を受け、嘲けられ笑われつつ 十字架につけられたキリストの苦しみは、ナザレの大工イエスを神の子としたのです。こ れから先も主の十字架を仰ぎつつ私はすすみます」

 松岡は多年、労働運動の陣頭に立って来たが、キリスト教信仰を失わなかった。松岡の若い日、信仰に入った動機は甚だ興味深い。彼の衆議院議長時代、品川にあった旧北白川官邸の議長公舎で私に語ったのを筆記し、キリスト教関係の新聞にのせたのがあるので左に抄録してみる。

 突飛な受洗志願

 明治三十七年三月、日露戦争が始まって旅順港閉塞の試みがくりかえされ、軍神広瀬中佐の名が国民の間に宣伝されていた。高等小学校を卒えた十六才の少年の私は、戦争の惨禍や害悪など知ろうはずもなく、兵器を作る職工になろうと考えて郷里を離れて軍都舞鶴に出た。はじめにありついた仕事は海兵団のボーイだったが、私はその仕事を好まなかった。

 折柄、新設の舞鶴海軍工廠で機械工見習を募集しているのを聞いて早速これに応募した。数ヵ月の経験で私は機械工として大成するためには技術ばかりでなく、英語を知っていなければならないことを教えられ「ナショナル・リーダー独案内」を買ってきて独学を始めた。

 ところがある日、街を歩いていると、キリスト教会の門口に「英語教授」という貼札のあるのを見、渡りに船と、そこの英語の生徒となった。工廠は夕五時終業の定めだったが戦争で忙しいので毎日二時間の残業があり、七時でないと自分の身体にならぬので英語のレッスンのある日は昼と夜の二度分の弁当をもって工廠にはいり、夕食をおえてから教会へ行った。

 そんなわけで私はほかの生徒の帰ったあとに行ってほとんど個人教授を受けた。牧師小北寅之助氏が先生だった。しかし規定の時間に遅れてゆく私だったので、牧師は用事で他出せねばならぬ場合が多かった。そんな時には牧師の夫人が代って私の初歩のリーダー(ナショナルの巻であった)を教えてくれた。

 冬の夜など、私が行くと今しも夕飯の後片ずけをしたばかりと覚しい夫人が手を拭き拭き出て来たが、いつもにこやかでいささかも迷惑相な顔を見せなかった。

 私にはなぜ夫妻がこうも親切なのか、一介の見習機械工のために、それも時間はずれのときにたった一人でくる自分を親身になって教えてくれる夫妻の親切が、一体どこからくるのか、私はそれが疑問だった。

 夫妻は私には父母といいたい年輩だったが、私をやさしくいたわってくれる愛情にも私は父母を思い出していた。ある夜、古本屋から夫妻たちが読んでいる聖書を買ってきた。夫妻はそれまで一度もキリスト教の話をしなかったし、私も聞こうとはしなかったので、聖書は私には全くの初対面であった。マタイ伝の冒頭の系図は何のことか皆目判らなかったが、飛び飛びに読んで行くうちに強い教訓を読みとることができた。

 神は愛なり――私はそこまできて小北先生夫妻の親切のいわれを知ることができたように思った。

 山上の垂訓には心を打たれた、私はイエスの弟子になろうと決心した、そしてある夜リーダーを学びおわってから、牧師に私の決心を告げた「私に洗礼を授けて下さい、私は基督の弟子になりたいのです。」

 牧師は私の顔を凝視していたが、ややあって笑いながら問うた。

 「でもあなたはまだ一度も教会の礼拝に出て来ないではありませんか」「礼拝に出ないと洗礼は授けられないという規則ですか」「いや別に規則とてはありませんが」

 「では、ぜひ洗礼を授けて下さい」「そうですか、よろしい。では洗礼を授けましよう。だが少し待って下さい、時がきたら、必ず洗礼を授けますから」

 牧師は私の乱暴な申出を、やさしく受けいれてくれた。私はそれからというものは熱心に教会に通った。日曜日の礼拝は、たとい仕事があっても工廠を休んでまで教会へ出た。

 金曜日の祈り会にも欠かさず出た。そして三十七年の夏から教会え行き出して冬になってはじめて小北牧師から洗礼のゆるしを得た。明治三十七年十一月の第一日曜日のことであった。

 私は基督の弟子となることを許された。十九才であった。

 小北牧師も当時の事をよく覚えていられて「私も永いこと牧師をしているが、教会の礼拝に一度も来ないで、祈り方も知らずに受洗志願を申出た人は松岡君のほかに誰もなかったですよ」と笑われた。

 颯波光三と木村錠吉

 さて、三菱の争議のあったその頃、川崎造船所の方はどうだったか。

 友愛会としては、もちろん川崎造船所の方が三菱より遥かに大きな勢力をもっていたが、満を持して動かずというよりは、内部の力を充実することに意を注ぎ、鈴木文治や賀川豊彦を迎えて演説会を催したり、屡々役員会を開いて幹部の結束に努めた。この情勢が大正八年のサボタージュの時までつづいた。

 川崎造船所を中心とする神戸支部のリーダー株は昼間は川崎で働き、夜間は湊川実業補習学校へ通い、工学の基礎を学んでいる青年工員だった。(その中には野倉万治や青柿善一郎らがいた)

 しかし、最高の地位の支部幹事長には、通称「工場長」(コウバチョウ)で呼びならされている職長の同志が推された。大正四、五、六年へかけては、木村錠吉と颯波光三が交替して幹事長となったが、共に「コウバ長」であった。

 木村と颯波とは全く性格を異にしていた。木村は一見するところ、豪放磊落な東洋的豪傑といったところがあり、颯波は温厚で親切なおじさんという風があった。木村はずんぐりと太っていて、友愛会へ来ても葉巻をくわえて悠々と構えていたが、颯波は長身痩躯、鼻下にチャプリン型のヒゲを蓄え、親しみ深い視線でみんなを見廻していた。

 わたしが神戸支局に赴任した時、友愛会の人たぢが家を捜してくれたが、その家は須磨、といっても兵庫に近接した西代というゴミゴミした小市民住宅の建ち並地区で、川崎へ通勤する者が多く、わたしの隣りには伍長の灘重太郎が住み、北へ少し坂を登ると同じ伍長の須々木純一、さらに上へ登ると颯波光三が住まっていた。つまり、月給の多いほど坂を登って見晴しのいいところに住まっていたのだ。(私はさしずめ伍長というところだった)

 颯波は地味な職長らしい人で、木村とは違い地味な性格だったから今此処でその人となりを説明するに足るような挿話もない。ただ彼のどっちかの手の指が、機械のため無残に奪い去られていたぐらいで書くことがない。一方、木村はいろいろと逸話がある。友愛会で会うと、よく自慢話をして聞かせてくれた。


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  写真 左から松岡 木村 久留 村島 颯波
 

 技師そこのけの造機の虫

 木村は神戸川崎造船所造船部造機工場長、大正六、七年頃の彼は月収約三百円、官吏ならば三級の知事という処、カーキ色の垢付いた工場着を着、頭に古色蒼然たる麦藁帽子を被っている彼が、夕五時工場の笛を聞いて家に戻れば、ソコには長女を頭に五人の子女が父の帰りを待っていた。彼は子らに取巻かれながら打寛いで葉巻煙草を賞味するのが唯一の道楽であった。

 明治二十年、木村は十七歳で横須賀造船所の見習職工となったのが工場生活の振出しで横須賀では日本最終の木造軍艦武蔵および日本最初の鋼鉄軍艦愛宕の建造に従事し、次で各地を渡り歩いて二十八歳の春、初めて職工長となり三池炭坑に入った。今問題となっている三池の万田炭坑の巻きあげ機械やポンプは彼の据付けたものであった。

 日露役当時には佐世保にいて、三笠艦引揚の際には一部の職長として主としてその得意のポンプ方に廻り、引揚成功後は作業振り抜群とあって特に一等賞をもらった。神戸へ来て川崎へ入ったのは明治三十九年。学理の薀奥を極めていたわけではないが、多年の経験と綿密なる研究の結果、種々の機械の発明をした。

 彼は二個の専売特許を持っていた。その一つはスチアリング、テレモーターと言って、船の舵取装置に関する発明、今一つはテレグラフ・テレモーターで従来、船の前進後進を機関部へ通ずるために専ら鉄の棒や鎖を使っていたのを不完全だとして、グリズリンおよび水の混合液体を管に通じ、その化学的作用に作り完全に前部後部の連絡をとることに改めた。グリスリンを使用したのは冷気に会っても冷却しないためである。

 彼はまた圧搾空気鉄槌に一大改良を加えた。造船の鋲付に使用する鉄槌(俗にいう鉄砲)の内部の装置を改め、従来真空作用でやっていたのを固形油を用いてやることとし、四十八時間油をささなくてもよいようにし、槌の長さを改めて従来に比しその修繕回数や機械の燃焼を少くして打つ数を増すことの出来るようにした。大正七年夏川崎が鋲打の驚くべき記録を公表することができたのも、九千五百噸の来福丸の建造日数が世界の記録を破ったのも、間接には彼に侯つ処が多かったわけである。

 彼はまたスチーム・ハンマーのヴァルブその他を根本的に改良して、川崎をしてその石炭の消費量を一日五十斤の節約をさせた。

 なお鍛冶工場では伊木工場長その他の考案によってスタンピング(型)を多く利用するようになった結果、その工費を節約することとなり、二、三年前まで鍛冶工場の仕事が徹夜業を必要としていたのが、それ以来は徹夜をせずとも問に合うようになった。

 彼は技師のように学理は知らないが、その経験から技師でも至難とする仕事を易々と仕上げて技師を驚かすことが屡々であった。嘗で軍艦榛名建造の時、英国から二吋もある鉄を曲げるベンヂング・ローラーを購入したが、余り巨大なので技師達はその組立が出来るかどうかを危んだが、彼は十人の人夫を督してまたたく間にやり上げてしまったこともあった。

 木村の自慢話は若干割引を要したが、聞いていで楽しいものがあった。しかし彼の洋行赤毛布ものがたりはさらにおもしろい。それはいささかY談がかってもいるからである。

 木村が川崎造船所から派遣され、ロンドンに滞在中のはなしだ。ある夜、外人の家庭の音楽会によばれた。本村はもちろん音楽の素養もないので、ただ美しい金髪美人が朱唇をほころばせて歌うのや、白魚のような指がピアノのキーからキーヘ稲妻のように走るのに見恍れていた。ややあって、その家の娘さんから「ミストル・木村、日本の歌を唄ってきかして下さいな是非」とせがまれて、彼は機械のタイヤーが外れた時のようにびっくり仰天した。

 彼は歌らしい歌を一つも知らなかった。彼は今さらのように、都々逸の一つ位は教わっておけばよかったと後悔した。しかしそれはその場の間に合わない。令嬢の要求は性急である。彼は致し方なしにピアノの前に立たされ、そして唄い出した。勿論、外人にはその歌の何たるやがわかるはずはない。歌い終ると、やんやという拍手だ。

 彼は真赤になって椅子にかえり、俯向いたまましばらくは顔もあげえなかった。彼の唄った歌とは「もしもしお竹さん」というわいせつな歌であったからだ。

村島帰之「労働運動昔ばなし(『労働研究』連載第5回)

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「夕焼け」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

    『労働研究』(第143号)1960年1月号連載分

    第五回 神戸新川における賀川豊彦

 神戸から出発した世界の人

 カガワ・ストリートという町がロサンゼルス市の郊外にできている。わたしは先年、賀川氏と一しょにそこを訪れた。また米国のハイスクールの副読本に「カガワ・イン・スラム」の一章がのっていた。大学での研究課目にもカガワ研究を選ぶ学生が多くなり、クヌーテンという元日本に来ていた宣教師のごときは「賀川豊彦と近代日本の諸傾向」という論文を書いて南カリフォルニア大学から博士号をもらった。(このクヌーテンの論文はわたしが補筆して日本語に訳して出版した)

 こんなわけでカガワ・トヨヒコの名は、日本よりもむしろ米国をはじめ諸外国で有名である。もっとも、日本でも近ごろ賀川研究を志す人がふえて来て、中でも、同志社大学では最近海外の大学から研究費の補助をうけ、篠田一人教授を主班として賀川研究が進められている。

 これほどまでに賀川氏が日本ばかりか世界的に有名になったのは、氏のすぐれた学識や篤い信仰や精神・社会両面の働きによるのだが、元はといえば、氏が二十才の暮から三十四才の夏、震災救護のため上京するまでの十数年間にわたる神戸の貧民窟、葺合新川部落での働きにその端を発していることは何人も異議のないところであろう。

 そしてこの何人も真似のできない献身的な奉仕と驚くべき働きとが、氏の小説「死線を越えて」に活写され、日本の青年の心をゆすぶり、さらにこれが世界各国に翻訳され、宣伝されてイエス・キリストを現代に受肉し実践する人として、その名は地球上に広く著聞するに至ったのである。

 「死線を越えて」のことは後段に記すこととして、「死線を越えて」が世に出ずる前、まだ無名で貧民窟(言葉としては不適当だ。以下スラムと呼ぶ)のドまん中に住んでいた頃の賀川氏をまず書いて見よう。

 わたしは前に記したように、大正六年七月にはじめて洋行戻りの瀟洒な賀川氏に会い、その後暫らくして、友愛会から演説を頼まれ神戸へ出かけた帰途、新川のスラムに賀川氏を訪れた。

 その時の印象を拙著「ドン底生活」(大正七年一月刊)に書いているので最初にそれを抄録し、併せてぞの後、毎日新聞に連載した「貧民窟十年」の中の挿話を書添えることとする。

 貧しき人々と共に

 賀川氏がスラムに住み込もうと考え出したのはまだ徳島中学の生徒の頃の事だった。

 庶子に生れ、幼くして実父母を失った氏をわが子のようにいつくしみ、勉学の道をひらいてくれたのはマヤス博士兄弟であるが、徳島中学在学中、その博士邸の書斎である日何気なく読んだ原書の中に、キャノン・バーネットがオックスフォード大学の学生と一しょにロンドンのスラムに居住し、貧しい人々の善き隣人となって働いた記録を発見し、自分も生涯をこの方法で献身しようと考えた。

 そして徳島中学を卒え、マヤス博士の援助で明治学院の高等部に学んだが、寄宿舎にいるあいだに、捨て犬を拾って帰って内しょで押入の中で飼ったり、飢えていた乞食が可哀そうで見るに見かねたといって連れて帰って自分の部屋に泊めて物議をかもしたりした。氏の救済事業はこの時に始まったともいえそうだ。

 そのうち、明治学院の神学部が一部神戸に移されることになって、氏は神戸には貧しい人たちが多いことを理由に神戸の神学校を選ぶことにした。

 この頃、氏は既に肺患にかかっていたが、どうせ死ぬなら、自分の素志通り、スラムの伝道をして死にたいと考え、学業の傍ら、葺合新川に出かけて路傍説教を試みた。

 そうこうしているうち部落の親分新家定吉氏と知りあい、その持家――人殺しがあって、ゆうれいが出るといって借手のなかった長屋へ住みこむこととなった。

 明治四十二年十二月二十四日、神戸神学校の寄宿舎から本や机や蒲団をつんだ荷車を自身でひき、路傍説教で知りあった不良少年を案内に頼んで葺合区北本町六丁目二百二十番地のいわゆる新川の長屋へ移り住んだ。わずか四坪のあばら家で、日家賃は七銭であった。

 それ以来五年間、貧しい人たちと寝起きを共にし、その救済とキリスト伝道に文字通り献身した。

 その後大正三年から二年八ヵ月、アメリカに留学して留守にしたが、大正六年五月帰朝すると再び春子夫人と共に元の新川に戻って来た。

 わたしはその帰朝間もないある日、氏に案内されて、氏の活動の舞台である新川部落を見せてもらったのである。

 賀川氏は黒紋付とは名ばかりの色のあせた羽織の前をコヨリのヒモで結んで、まだ三十才にもならぬ書生ッポ姿、洋行戻りとは誰が想像しよう。


        写真   貧民窟十年記念会―神戸海運クラブで


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        向って右から
        ヒゲの送別会の     遊佐敏彦
        賀川後援者       大村甚三郎
        県嘱託(後の社会課長) 小田直蔵
        賀川氏の師・恩人    マヤス博士
        県保安課長(警視)   土屋正三
        毎 日 記者(筆者)  村島帰之
        スラムのドクター    馬島 僴
                    賀川豊彦
        牧 師         長谷川敞
        賀川後援者(県議)   福井捨一


 新川部落の印象

 神戸の都心から新生田川(今は川に蓋をして大道路になっていると思う)のその名からしてさびしい日暮橋を東へ渡ると、そこには前に海をひかえ、背後に再度山を負った「葺合新川」の一劃が展開された。

 見ると、よくもこうまで揃ったものだと思われるほど小さな平家建の長屋が縦横につらねられている。わたしたちは南本町四、五、六丁目、北本町二、四、六丁目、吾妻通五、六丁目と順次に見て行った。

 賀川氏の説明によると、約五町四方のこの界隈だけに、約二千戸の家があり、約八千人がゴチャゴチャと住まっているという。東京や大阪のスラムに比べて人口密度は遥かに高い。

 この密集地帯の住人の職業は沖仲仕・人夫などの日傭取りをはじめ下駄直し・くずひろい、それに乞食は全市の大半がここから出るという。収入はもちろん不定で、雨風の折はノーチャプの日がつづく。

 ノーチャプは説明するまでもなく、無収入のためメシにありつけない日のことである。その代り物資も零細な単位で買うことができた。だしじゃこ、めざしは一銭から売ってくれるし、炭も一山二銭から買えた。(もちろん、くず炭である)

 また家賃も日掛けで、一戸――といっても二畳一間からせいぜい三畳だが――一日大体五銭を管理人が毎日集めてまわる。結局、見栄も外聞もいらないハダカ天国であり、天下泰平のオンボロ入生の縮図で、むしろ一般社会よりは住み心地がよい――と賀川氏はスラム生活を礼讃する。

 近道を知っている賀川氏はここの路地、そこの横丁とずんずんわたしをひっぱって行く。どこへつれて行かれても、氏を見失ったら最後迷い子になるほかはないのだから、家来のようについて行くと、漸次氏の勢力範囲に入ったらしく、物置のような家から蓬髪の女やトラホームらしい目をしたこどもがあいさつをする。

 「お父っつあんの病気はどうや。薬がなくなったらとりにおいで」と氏もじょさいなくそれにこたえる。

 手をのばすと向い同志で握手のできそうな路地をへだてて十五軒ぐらいずつの長屋が規則正しく(この形容詞はここ以外に必要はない)並んでいるが、その道の両側の溝には何十日放ってあるのか知れない不潔物が腐水の中によどんでいる。

 その上、家の密集した「太陽のない街」は常にじめじめとしていて、何のことはない長屋全体が一つのハキダメである。

 住民の服装はボロというに尽きる。ことに夏ともなると、こどもは丸はだか、女は腰巻一つで白昼、表を歩き、男は風呂へ行く時など手拭一本のほかはI糸もまとわずアダムのような姿のハダカ天国だという。

 寝た者夫婦の現実

 長屋の端には便所があったが、その不潔さは鼻と目を覆かせた。賀川氏に聞くと、二十戸に一つぐらいの便所で、少くとも八、九十人の男女がそこで用を足すのだし、肥くみもなかなか来てくれないので、びろうな話だが不浄物は不二山形に堆積しているのが通路から丸見えである。というのは、便所の戸や汲取口の戸はいつかみな燃料になってしまって一つもないからである。

 こうした非衛生と悪臭の中にあけくれ生活している長屋の人たちは、悪臭を悪臭と感ずる感覚を麻庫させている。賀川氏は「あの人たちは、よく屁、屁といって笑いますが、本とうの屁の匂いは多分知っていますまい」といって笑った。

 やがて賀川氏は有名な二畳敷長屋へ案内してくれた。名の如く一戸二畳しかない長屋で、便所も台所もない。路地が台所である。さなきだに狭い路地はそのため一そう狭ばめられて、わたしたちは小さくなってでないと通れない。

 賀川氏の説明ではこの二畳敷に少くも四、五人の家族が住み、中には九人も住んでいるのがあるという。世間の人がドン底の人たちには貞操観念がないというが、ないというよりは、この居住状態ではあり得ようがないのだ。

 現に二畳敷に独りで住っていたある女は、三日目か四回目にはきっと手ごめに会っていたという。彼女は貞操を守ろうにも守るべき道がないのだ。そこで守ることの困難な貞操を守ろうよりは、むしろこれをパンに換えるのが賢明だということにならざるを得ない。賀川氏はその一例としていざり乞食の寡婦お玉の話をしてくれた。

 お玉の亭主の乞食は二週間前に死んだ。それで三十五日の供養をしたいといって、賀川氏の向隣りに住む盲乞食の家の同居者徳に二円五十銭の借金を申入れる。そして供養のすんだ夜、お玉はもう徳のものになっていた。徳は仲間の乞食を招いて祝宴を張ったが、その翌朝新夫婦の姿は長屋から消えてしまっていた。寡婦の貞節は三十五日、それでも先夫の供養をすませているのだから、お玉は貞婦だったと賞讃されたという。

 また中には、亭主が張番をして妻が春をひさぐ者もあり、姦通は悪いとされていても姦夫の方が、妻を盗まれた男よりも強ければ泣寝入りのほかはなかった。

 さらにあさましいのは、妻に死なれた男が娼婦を後妻にもらったが、数年たって息子が成長しその後妻と関係ができてしまった。しかもこの親子の三角関係がせまい長屋の同じ部屋で平和につづけられたという例もあったとか。

 スラムでは「寝た者夫婦」という言葉もあるとかで、性生活のみだれは言語に絶すると賀川氏は慨嘆して話してくれたあと「人間はどこまで堕落して行こうというのでしょう。わたしたちは社会苦と共に人間苦の解決に大きな使命を感じるのです」といった。

 バクチとケンカと殺傷

 わたしたちは無数の路地を歩き廻ったが、至るところで見てはならない場景を見た。それは路地のあいだに天幕というほどではないが覆いをはりめぐらせてバクチを開帳しているのだっだ。

 あっちでも「ヤソの先生か」と警戒する色を見せずに勝負を続けた。賀川氏が説教じみたことをいわず「またバクチかね、しょうがないね」というと「しょうがないなァ」と答える者もあるが、ただエヘヘヘと笑っている者もある。

 ある長屋の一隅では女ばかりで丁半を争っていた。「ここは女ばかりかね」というと「ヘエ、オナゴ島だんね」と洒蛙々々と答える。「しょうがないねえ」といえば「ちょっと無尽をしてもろてまんねが」と平然と答えるのもいた。

 酒と女とそしてバクチ、この三つが彼らの娯楽の全部だが、その中でもトバクは社交性もあり、そのスリルに富むとあって、モウケが多かったからといっては丁半をやり、雨が降ったからといっては花合せをする。

 殊に当時は第一大戦のもたらした景気がこのドン底社会をもうるおして沖仲仕などどなると収入も割合に多く、二、二二日働いては休んで、金のなくなるまでバクチをうち、財布の底が空になるとまた働きに出てバクチの資金を作って来る。それでバクチは例年よりも多く、時には大規模なチーハー賭場も行われるという。「バクチはとても絶滅は期し難いでしょう」と賀川氏もサジをなげていた。

 しかし、このバクチの果てが一家の悲劇を生み、また喧嘩や殺人傷害事件をさえ起すのだから放置するわけにも行かぬので困っているとのことだった。

 喧嘩は毎日のようにあるという。氏から約一ヵ月にわたって近所百軒あまりの家の喧嘩の日記をつけたところ、合計三十三件、つまり毎日一件はとこかの家で喧嘩があった勘定になる。

 喧嘩の仲裁に出るのはなかなか大変で、上方の喧嘩の仲裁には小指を切って渡すという古風な風習さえあったというほどだ。中には母親に亭主をとられるといって、母娘のあさましい喧嘩もあるという。

 ケンカの果ては殺傷事件が起った。賀川氏が新川へ来る前年にはこの界隈だけで十件の殺人事件があったという。現に氏が借りている家も、わずか二十銭の祝儀のことからケンカをして斬られた男が帰って死んだ家である。その他ニワトリの頭一つのことで隣家の男を殺したり、女房とあやしいといってヤキモチから殺すというのもあった。

 また十四才になるこどもが同じ年頃の子を殺したこともあった。妻のケンカを買って出てあいてを殺したのもあった。バクチ場で勝ったからといって帰るのは卑怯だといって殺したのもあった。賭博場へ寺の坊主が案内しなかったといってその坊さんを殺したのもあった。

 こうしたいのち知らずの多くいる中で住む賀川氏の日々は全く薄永を踏む思いがするだろうと聞くと、賀川氏は「こわいと思えばこんなところへは住めませんが、しかし、そんな怖しい人間ばかりがいるわげではなく、一般社会では見られぬような美しい人情があって慰められることも多いのです」と答えた 。

 こうしていろいろの驚くべき場景を見聞して歩いて行くうち、わたしたちはいつか賀川氏がそれまで十年近く住んでいた北本町の長屋に来た。

 オンボロの賀川御殿

 賀川氏が住まっていた長屋を読者はどう想像されるだろうか。間口は一戸当り二間とはない。表は路地に面して古色蒼然たる形ばかりの格子がはまっていて、触れたら手にトゲが立ちそうだ。入口は物置のような半間の板戸があるだけで、はいると半畳ぐらいの土間。そこに立つと、賀川御殿が目の中にはいってしまう。

 賀川家ははじめはただ三畳一間だけだったが、寄食者がふえるに従って隣家を借り足し、壁をぶちぬいて今は三畳づつ三間が一軒になっている。しかし天井は低く垂れさがり、それも隙間だらけ。戸じまりなどの戸はむろんない。昼夜とも破れ障子だけである。

 「ものを盗まれませんか」ときくと、賀川氏は「盗まれますよ、しかしふつうの盗難は衣類や贅沢品ですが、此処にはそのものはないので、台所用品が盗まれます。洗面器など、今朝ぼくが使ったばかしだのに見えないので捜すと、隣家で洗だくに用っているといったあんばいです」と笑う。

 三部屋のうち、奥の一室は氏がはじめて此処に住んだ時の家の、前述のように人殺しが此処で行われ、ゆうれいが出るといって借手がなかった家だが、賀川氏が入ってからは幽霊も敬意を表してあらわれないので説教所に充てられ、壁の黒板には聖書からぬいた聖句が書かれてあった。

 中の部屋には粗末な椅子と机。この机の上で、氏の名著「貧民心理の研究」が書かれたのだった。どの部屋も装飾一つなく、貧民窟のキリスト教伝道所と知らぬ者は、農家のガラ空きの納屋と思うに違いない。

 氏はこの家に自ら住むだけではなく、寄るべなき人々を寄食さぜて来た。乞食・ゴロツキ・半身不随の女・淫売婦・狂人・嬰児――その種類は雑多で、ゴリキーの「夜の宿」の客よりも数段下層の人々ばかりである。

 賀川氏はこの家に住込んだ夜、一番最初に宿を乞うたのは見るからにきたないヒゼン患者だった。さすがの氏もちゅうちょしたがこれも神の試練だと考えて喜んで一しょに寝た。果して翌朝には氏はヒゼンに感染していた。賀川氏の新川での最初の収穫はこのヒゼンだったのである。

 寄食者はヒゼン患者を手初めに入替り立替り来て貧客万来、不良少年や乞食をはじめ、中には梅毒にかかった売春婦もいたし、末期の症状の結核患者もいた。

 ゴロツキともらい子殺し

 しかし氏を一ばん悩ませたのはこれらの寄食者ではなくゴロツキだった。彼らは賀川氏の無抵抗主義を知っていて次から次へとゆすりに来たり乱暴を働いた。

 賀川氏が毎夜路地に立って「善に立ち帰れ」と叫んでいると、その路傍説教の中で淫売を攻撃したのはけしがらんといって火のはいった火鉢を投げつけた男もあったし、また或る博徒はゆすりに応じないといってピストルを乱射し、あまつさえ氏の家の障子や飯びつまで強奪して行った。そのほか、酔うて来ては伝道所のオルガンやガラス障子をこわす者、祈り会の最中に大きな石を投げこんで、いやがらせをする者もあった。

 このように白刃やピストルもなれて見るとそれほどこわくはなかったが、一番氏を悲しませたのは貰い子殺しであった。わずか五円ぐらいの金がほしさに養育料付きの赤ン坊を貰って来てはおかゆばかりたべさせて栄養不良で死なすのである。

 氏はたびたびこの貰い子を救った。氏がスラムにいって間もない頃、一人の老婆が検挙され、そのあとにもう一人の赤ン坊がやがて乾干にされようとしていたことを聞き、警察から貰いうけて養ったことがある。もちろんまだ春子夫人を迎える前で、神学校の試験のさい中だったが、ほとんど眠らずに梅干のようにしなびた上、腸カタルで四十度近くも熟のあるその子のために乳をとき、おむつをかえた。その子はもう泣く気力さえなかったが、賀川氏は悲しさに涙がとめどなく頬を伝うのだった。

 賀川氏は一度スラムに落ちこんだおとなはなかなか容易に浮びあがれないことを知ったが、せめて、まだ穢れを知らぬこどもたらだけは助け出したいにと考えて、暇があると表へ出てこどもたちと遊んだ。

 だから氏の界隈の子は、まだチャン(父)と呼べない幼な児も「チェンチェ」といって氏を呼んだ。氏が便所へ行くと便所の口までついて来て、氏の出るのを待っている子もあった。

 ある年のクリスマスに出口船長の宅によばれて行ったこどもたちの中の一人はおしぎをすることを知らないので、シャッチョコ立ちをしてみせた。

 こうしてかわいがっても、男の子は成長すると周囲に感化されてチンピラの群に入り、女の子はならずもののために淫売に売られるか、さなくば親が女郎に売ってしまった。賀川氏の愛の力をもってしても、この強大な生活環境の圧力にはどうすることもできなかった。

 わたしは賀川氏からそうした話を聞かされて、氏が貪民救助事業だけで満足せず、労働者の自助組織である労働運動に情熱を傾けつつある気持がわかる気がした。

 伝道所の前は私娼群

 わたしはその頃はまだ賀川夫妻の働きの詳細について十分知らなかった。「死線を越えて」もまだ出ていなかっ
たし、もちろんその後の自伝的小説も出ていなかった頃だから、「貧民心理の研究」の中に現われる事例によってわずかにそれを知るのみであった。従ってわたしの新川部落の賀川長屋初訪問記は、ただ表面的なスケッチだけで終ったのもやむを得ない。

 それから暫らくして大正七年九月、わたしは神戸勤務となり、賀川氏とは労働運動の同志として交渉が深まって行き、わたしの新川通いも頻繁となった。それと同時に、毎日新聞紙上に賀川氏の過去、現在の活動が頻々とのり出した。わたしはこの人を高く評価して、たえず紙上に紹介したからである。わたしが賀川氏をあまりに知名人扱いするというので、社内の上役から非難をうけたのもこの頃であった。

 賀川氏の貧民伝道の事は此処では触れないことにするが、始めは「救霊団」の名で開始されだがその後「イエス団」と改められた。わたしが労動運動の用事や新聞の取材のことで、しげしげと氏を訪れるようになったのは「イエス団」になってからで、イエス団の事務所は前記の北本町の長屋の路地を出た表通り、吾妻通五丁目にあった。

 北本町の長屋は専ら寄食者が住まい、吾妻通りの二階家の階下の四坪ほどの土間が説教所になって居り、奥は診療所、隅は狭い食堂。階上の通路に面した側は賀川氏の書斎、事務所、応接間(一時は此処が診療所になって馬島僴氏が診療に当っていたこともあった)、奥の二間は賀川氏夫妻や奉仕青年たち(この人たちの中には、現在協同組合運動の大立て者となっている木立義道氏や牧師深田種嗣氏などもいた)が住まっていたが、氏の書斎の天井近くの棚にズラリと並んいたマルクスの資本論(原書)が印象に残っている。

 わたしたちが訪れて、階下の土間の隅にしつらえられた粗末な梯子段の下から氏の名を呼ぶと「ああ、居ますよ。おあがり下さい」と階上から賀川氏が顔を出した。何のことはない。場末の三等下宿であった。

 この事務所の前の吾妻通りは立淫売(最下級のパンパン)のかせぎ場だった。わたしが夜分、賀川氏を訪問すると、きまったように彼女たちにつかまった。その時「賀川先生のとこへ行くんだよ」というと「ナーンヤ、先生とこのお客さんかいな」といってすぐ解放してくれた。

 わたしは事務所の二階の戸の隙間から彼女たちの営業ぶりを小一時間にわたってあかず観察していて、春子夫人から「村島さんは何て物好きなんでしょう」と笑われたこともあった。

 お客の中には外国の船員もいたが彼女たちにはあまり歓迎されないらしく、売春料を値切る者に対しては「アホ!」といって罵った。女をこう気丈にさせるのは遠巻きに彼女たちのヒモ(その多くは良人?である)が目を光らせていてくれるからである。賀川氏はこれらの私娼たちのためにも何くれとなく世話をやいてやった。

 貧民窟十年記念会

 大正八年夏、賀川氏が葺合新川の伝道を始めてから十年になるというので(住み込んだのは十二月だが、伝道はその前から始めていた)、「賀川豊彦氏貧民窟十年記念会」がわたしたちの発起で神戸山手の海運倶楽部で開かれた。恩師のマヤス博士を始め仲間の牧師・官吏・社会事業家――ヒゲの送別会をした遊佐敏彦氏もいた――など十数名が集まって、氏を慰め励ました。この記念会を機会に、わたしは毎日新聞に「貧民窟十年」と題して新川部落での賀川氏の驚異的な働きを十回ぐらいにわたって連載し、さらにこれか引き伸して当時大阪で発行されていた「慈善新報」に戸のない便所だの、ミカン箱の赤ン坊の葬式だのの写真を入れて続き物としてのせた。これらは多分まとまって賀川氏の人と事業を紹介した最初のものであったろう。

 なおこの記念会の当夜の写真が後に沢田二郎ら新国劇一座が「死線を越えて」上演の際、登場入物の一人ウィリアムス博士――マヤス博士のこと――の顔作りの参考に使われた。わたしはある夜、道頓堀の某座の楽屋に沢田を訪ねて行くと、傍らにいた久松喜世子氏が「あなたのうつっている写真が来ていますのよ」といって示されたのがその記念写真だった。わたしは賀川氏やマヤス博士と並んで元気な顔でうつっていたが今は手元にないのが惜しい。                          

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第4回)

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「神戸・長田神社前」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



 村島帰之「労働運動昔ばなし

      『労働研究』(第141号)1959年11月号連載分

      第四回 友愛会長と友愛婆さん


 大師は弘法、会長は鈴木

 今なら労働運動の英雄として参議院議員にでもなっていたであろうと思われる神戸大争議の指導者野倉万治氏が、騒じょう事件の首魁として二年半の刑期をすませ帰ってきた時、広い神戸で彼を雇入れようという工場主はI人もなく、やむを得ずブラジル移民団に加わって神戸の地を去った。

 そして家族の病気のためサンパウロの移民収容所に滞在中、ある日、参観に出たおえら方の中に、なつかしい巨漢の横顔を見出して思わず「会長!」と呼びかけた。呼ばれた巨漢は野倉氏の方をふり返った。やっぱり、友愛会長鈴木文治氏であった。二人は奇遇を喜 び、泣き、手を握って、暫らく語りあったという。

 会長は浜の真砂ほど多い。しかし野倉氏をはじめ大正初期の友愛会の人々にとって、「会長」は鈴木文治のほかになかった。それは大師といえば弘法大師にきまっているようなものだった。わたしなども直接その傘下の者ではなかったが「鈴木さん」などと呼んだことはなく、いつも「会長!」と呼んでいた。今でも「会長」と聞くと、ふと鈴木氏を思い起すことがある。

 前にも記したように、神戸の熟練工は移動が少く、従って同じ友愛会でも東京などとは違って、幹部の顔触れが十年一日の如しといえるほどの古顔ばかりだった。それだけに鈴木会長とはなじみが深く、氏も神戸へ来ると、東京の本部よりも却ってうちくつろぐことができたようで、汽車中の睡眠不足をとりもどすため、事務所の二階で高いびきで仮睡して、幹部たちが工場の仕事を終えて事務所に集まって来るのを待った。

 鈴木氏のデブデブと肥えたからだと色白の上に赤らみを帯びた坊っちやん顔は、同じニコニコ顔でも使用者側の松方幸次郎氏のサムライ大将といった、人を威在するようなエビス顔とはおおよそ対蹠的で、むしろ、鈴木氏の方が親ゆずりの会社重役で、松方氏がファイトに満ちた労働組合の会長といった印象をうけた。それほど、鈴木氏は温かみのあるアットホームな人で組合員から「会長会長」と親しまれたこともふしぎではなかった。

 労働者への思いやり

 鈴木氏は九郎判官義経を東国へ案内した金売吉次の出生地宮城県金成村の産、七才の春にニコライ派グリーキ・カソリックのハリスト教会で洗礼をうけたという生えぬきのキリスト教信者、もちろん一家をあげての信者だった。

 この点は賀川豊彦氏といささか違っている。賀川氏は扶桑教を信仰する父の庶子として生れ、少年時代にキリスト教に導かれ、家人の目を忍んで教会に通い洗礼をうけた。教派もプロテスタントで、鈴木氏とは新旧の差があった。

 しかし、鈴木氏も賀川氏も地方の旧家に生れて、いわゆる毛並みはよかったし、中途から家運が傾いて、中学以後は苦学した事もふしぎに似ている。

 鈴木氏は旧制の山口高校に入学したが、学資も不足がちで、制服は辛うじて買ったが外套までは手が届かず、寒い日にはふるえていると、先輩の筧正太郎氏が卒業に当って自分のお古を譲ってくれた。靴は鈴木氏の大足のためお古拝領ができず、仕方がないので兵隊の古靴を二十五銭で買った。

 また東大へ進学する時も同様で、制服正帽が買えずにいると、中学時代からの先輩であり、親友だった吉野作造氏が角帽を、また郷党の先輩内ケ崎作三郎氏が制服を、それぞれお古を下げてくれた。

 もちろん、アルバイトは玄関番・家庭教師・筆耕・願訳・日曜学校の留守居・夜学教師等から、雑誌「新人」の編集までいろいろして学資をかせいだ。

 こうした苦学をした鈴木氏だったから、労働者に対して思いやりも深かった。それに幼時からつちかわれたキリスト教の人類愛の精神が加わって、弱い者の昧方になろうという信念ができあがっていた。

 これは、鈴木氏が開拓者として苦闘十年、基盤のできあがった頃、大学を出て労働組合に飛びこんで来た若きリーダーたちの持っていたイデオロギーといったものからは程遠く、もちろん、理念としては底のないものだった。

 大杉栄氏の悪罵

 鈴木氏の創立した友愛会が大正初期のほとんど唯一の労働組合としてその綱領の示す通り「穏健着実」な戦法で労働者の地位の改善を図り着々組合の勢力を拡大して行くのを見て、無政府主義者大杉栄氏は、雑誌「近代思想」?で鈴木氏を酷評していたのをわたしは、ハッキリ覚えている。

 「鈴木君の友愛会の成功は、つまるところ、鈴木君がバカだからである」

 ずいぶんと人を食った大杉氏らしい悪罵であるが、これは鈴木氏にはこれというイデオロギーがないということを皮肉ったのに違いない。

 しかし、友愛会の創立は幸徳秋水らのいわれる大逆事件のすぐあとのことであって見れば、イデオロギーのハッキリした組合運動だったらその成立すらあやしかったであろう。たとえ大杉氏から「バカ」と罵られようと、鈴木氏の友愛会は処女の如きスタートを切ったのでよかったのだと思う。

 大杉氏が鈴木氏を悪罵したのは、もちろん、その無思想性にあったのだろうが、それにも増して大杉氏が、がまんのできなかったのは、鈴木氏が資本家や官憲と摩擦なしに仲よくやって行ったその態度にあったのではないかと思う。

 大正四年にアメリカで日本移氏の排斥問題が起り、これが緩和のためには日本の労働者の代表者が渡米し、米国の労働組合代表と話しあうのが最も良策ということになって、鈴木友愛会長は重責を負うて渡米した。

 その時のスポンサーが実業界の大立物渋沢栄一男で、これを契機に渋沢男との関係ができ、その後も度々渡米した。こうしたことが大杉氏のお気に召さなかったに違いない。

 鈴木氏は大正四年の最初の渡米の時、全米労働者大会に出席して米国労働総同盟(AFL)のゴンパース会長と壇上で握手し協力を誓いあったが、その大会のあとで、ゴンパーズは鈴木氏にこう聞いた。

「君は今までに何度監獄にブチこまれたかね」

 鈴木氏はあのポチャポチャとした顔を赤らめて答えた。

 「いいえ、まだ一度も……」

 この話は全米労働者大会の土産に「ストライキ」の画とI諸にわたしに聞かせてくれた内所話だから間違はない。

 あの頃の各国の労働運動の闘士はその後数年の日本の場合と同様、監獄にぶちこまれるのが日常茶飯事で、むしろ勲章をもらったようなものだったが、鈴木氏は不幸にして(?)その勲章をもらっていなかったのである。いいや、前後二十年にわたる友愛会長としての戦いについぞ勲章は頂かずに終ったのである。

 熱心家揃いの神戸友愛会

 鈴木氏はキリスト教的人道主義の立場をとって暴力を否定し、また「労資の対立は認めるがそうだからといって、資本家を悪魔のようにいう考え方にはわたしは同調しかねる」といっていたほどだから、監獄に縁の遠かったのも当然であろう。いいや、鈴木氏ばかりでなく、初期の友愛会のリーダーはほとんどみなクリスチャンだったから、おのずから友愛会全体が穏健着実な行き方をしたのだともいえよう。

 鈴木会長と最も親しみの深かった神戸の友愛会員が、それだけ多く鈴木氏の感化をうけて、健実な歩みをしたことも当然だった。加うるにさきには山県憲一氏、後には賀川豊彦氏といういづれも鈴木氏と同じキリスト教信者を指導者に得たため大正十年の大争議で検挙者百七十名、内起訴されたもの野倉氏ほか五十六名という大きな犠牲を出すまでは、「勲章」をもらった者は絶無であった。

 しかしこれは神戸の労働者が意気地なしだったということを意味しなかった。ただ、『大地にしっかと足を踏みしめて、仮そめにも軽挙盲動をしなかったからだといいたい。

 神戸の友愛会の幹部は熱心家揃いであった。工場の仕事が忙しく残業続きだったにもかかわらず、機関誌配りや、会費集めや、演脱会のビラ貼りにその余暇のほとんど全部を費やした。

 殊に厄介だったのは会費集めで、今日のように会社が代って月給から差引いた上、一括して組合に交付してくれるというような結構なことはなかったので、なかなか会費の寄りがよくなかった。従って本部の方でも支部からの送金がないため雑誌の印刷代が払えず、出来上っている機関誌も発送不能という事がよくあった。

 そうした時、鈴木会長は一帳羅のフロックコートや時計を七ツ屋へもちこんで、やっと印刷代を払い、急いで雑誌を発送するというようなこともあった。そうしたことを聞くと、熱心家揃いの神戸の幹部は一層一生けん命になって会費集めに努力した。

 鈴木会長は神戸の方を向いて「たよりにしてまっせ」といったか、どうか、そこまでは知らない。

 賀川氏の会費値上げ提案

 その後、友愛会は加速度で伸びて行った。神戸は殊にその伸び方が速く、川崎造船所の本工場を根城として大正四年に誕生した神戸分会は、間もなく神戸・相生両分会にわかれ、大正六年には再び合同して会員千名を越える神戸支部が結成された。

 神戸製鋼所や川崎分工場の葺合支部もこれにつづき、その他三菱造船所を根拠とする兵庫支部、市電湊川発電所を中心とする尻池支部、橋本汽船の刈藻島支部などがクツワを並べて、神戸は友愛会の金城湯池の感があった。

 殊に神戸の友愛会として最も力強さを感じたのは大正六年春、賀川豊彦氏がアメリカから帰朝し、その足でまた元通り葺合新川の貧民屈に住み、同時に、友愛会の運動に力を注ぎ始めたことであった。

 賀川氏がキリスト教伝道と貧困者救済の仕事のほかに労働運動に協力するようになったのは、貧しい人たちを真に救うためには、まず彼らに組織を与えて、自力で立ち上らせるほかはないと観じたためであるが、直接の動機は、アメリカの留学を終え帰朝の途中、オグデン市で船賃稼ぎのため同地の日本入会書記をしている時、モルモン宗の地主に苦しめられていた日本移民に小作人組合を組織させ、その代弁者として、使用人側の白人と折衝し、見事に要求を貫徹したことにある。

 賀川氏はこの体験から、労働団結の必要を痛感して日本へ帰ってきたのである。それで氏は単に友愛会の演説会に出るだけでなく、役員会にも出席して何くれとなく世話を焼いた。

 賀川氏は運動を強化するためにはもっと組合の財政をゆたかにせねばならぬといって、その時まで十銭だった会費を二十銭に値上げすることを神戸支部の役員会で提案した。(その時、賀川氏は同支部評議員だった)

 しかし、この賀川氏の提案には賛否相半ばし、投票の結果十八対十三で可決されたが、それでもなお実施期日について議論が沸騰し、当分保留という者十五名、二カ月後から実施せよという者も十五名で、結局、議長(木村錠吉氏)の発言で三ヵ月後から実施ということに決した。これを見ても会費集めということが如何にめんどうで、値上がどんなに困難であったかが察せられる。

 米騒動と神戸

 そこへ突然、米騒動が富山県滑川の漁村の女房たちによって火蓋を切られ、たちまち全国に拡がった。大正七年八月のことだった。

 神戸は外米輸入元だというので鈴木商店が焼かれ、ついでに近所の神戸新聞社も川崎造船所の御用紙だといってやられ、さらに飛火して因業家主だといって兵神館が焼かれた。

 賀川氏の住む葺合新川部落では八月十二日から廿二日までの十日間に八百十九名の暴行容疑者が引っぱら れ、物上情騒然たるものがあった。

 そこで清野知事が音頭をとって富豪を説き金を出させ、また県から精米所を指定して軍隊警衛の下に玄米を精白し、神戸市内十八ヵ所で廉売させるという緊急処置をとった。

 大阪では、夜は五人以上組んで歩くことが禁止された。わたしは神戸へ赴任する直前だったが、大阪日本橋三丁目で暴民と軍隊とが対峙しているというのでその方に派遣された

 夜に入ると暴民はいつどこで拾って来たのか小石を軍隊の方に向って一斉に投げて来る。軍隊と暴民は幾度か衝突し、片方が引けば片方が押すといった事をいつまでも繰返していたが、しまいには軍隊の方からパンパーンという銃声が起った。さア、軍隊はついに発砲した。

 そう思ってわたしは新聞社に飛んで帰り、大急ぎで書いた記事が翌朝には社会面のトップにデカデカとのった。標題は「軍隊ついに発砲す」だった。

 しかし、あとから聞くと発砲は発砲でも空砲で脅かしのためのものだったと判り、あわて者の臨時事件記者の特ダネもフイになった。

 この米騒動は都市社会事業(公設食堂・公設市場・公益質屋・共同宿泊所等)や方面委員制度の創始となり、公益職業紹介所の施設となり、前回記した清野知事の県営紹介所のプランまで飛び出したが、労働運動方面の影響はこれ以上で各地に争議が続発した。

 しかし、神戸では動かざること林のごとくだった。戦前に比し物価は七割の昂騰だということだが、神戸の熟練工は戦時手当・残業歩増その他により、割合に収入が多かったからである。

 ハッピを着て旗行列に

 こうして社会情勢が大きく動き出した時は、第一次欧洲大戦が終って、神戸市で催された、休戦祝賀会や旗行列には、神戸の友愛会員が揃って参加した。

 茶目ッ気のある久留弘三氏とわたしは、毎日新聞の配達のハッピを着用して出かけた。その時の写真が残っているが、一つはハッピ姿の二人のあいだに賀川氏がエクボの笑顔を見せているもの、他の一つはその頃、賀川氏のもとで診療に従っていた馬島僴氏、賀川氏の一の弟子の武内勝氏、それから若手の友愛会員の和田惣兵衛氏や胸永太助氏も写っている。賀川氏の三十才を筆頭に、他はみな二十台またはそれ以下の若者ばかりだった。


         写真 第一次大戦の休戦祝賀行列の日(大正8年)


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      前列左より 村島 久留 和田 賀川  後列左より 武内 馬島 胸永


 休戦に伴って平和会議がパリのべルサイユ宮殿で開かれ、西園寺公望候と牧野紳顕伯は日本全権として渡仏したが、そのお供の中に、お花さんという女性のいることが新聞紙を賑わした。

 その時、平和会議に併行して開がれる世界労働者大会に日本代表として出席するこ鈴木友愛会長もその一行より少し遅れて渡仏することとなった。

 大正七年もあと二日と迫った日、鈴木会長は横浜を出発したが、その際、わざわざ見送りに出かけた神戸連合会代表が読みあげた決議文は次の如くであった。


                決議

 神戸連合会代議員ハ鈴木会長ガ世界労働者大会二左ノ挨拶ヲセラレンコトヲ要求ス
 我等労働者ハ世昇二於ケル永久平和ヲ要求シ、ソノタメ二万国ノ労働者ガー致協力セン コトヲ希望ス、又皮膚ノ色ニヨリノテ人類ヲ区別セズ、各国民族二均等ノ労働権及ビ移民権ヲ附与シ、今日ノ資本家文化二代リテ労働者ヲ基礎トセル文化ノ一日モ早ク建設セラレンコトヲ要求ス
 大正七年十二月二十六日
                       神戸連合会代議員会


 いうまでもなく、この一文は賀川氏の起草になるもので、永久平和といい、皮膚の色による人種差別の撤廃といい、賀川氏らしい用語である。

 労働問題討論会

 その頃の事だったと思う。神戸の友愛会が主催して、神戸YMCAで労働問題討論会を催したことがあった。その時の討論会のプログラムが残っているが、それを見ると、当時の友愛会の元気な連中の名がズラリと並んでいてなつかしさを禁じ得ない。

 討論会の刷物によると、議長は今井嘉幸博士、副議長は高山義三氏、そして討論者は多分議会を模したのであろう左右両派にわかれて、右派の指導者はわたし、左派の指導者は賀川氏ということになっている。

 討論の議題は八つで、それぞれ弁士が割当てられてあるがなつかしい人の名を拾って見ると、

 一、労働運動は経済運動にとどまるべきや、政治運動にまで干渉すべきや
  (弁士)灘重太郎、沢井重太郎、大阪 早川由之助その他
 二、労働保険は組合組織によるべきか、政府によるべきか
 ’(弁士)越川豊治、出羽栄太郎その他
 三、八時間労働制は可か否か      
  (弁士)木村錠吉、安本仁、和田惣兵衛その他
 四、労働組合法の必要ありや否や
  (弁士)須々木純一、安井喜三、浜名兼三その他
 五、普通選挙は年齢別によるべきや、世帯別によるべきや
  (弁士)青柿善一郎、門田清七、疋田平作その他
 六、住宅問題を組合の問題とすべきや、市の問題となすべきや             
  (弁士)前川萬治郎、川島氏、大阪 西尾末広、同島種吉その他
 七、最低質銀制を採るべきか
  (弁士)野倉萬治、田辺一、福水宇太郎その他
 八、強制仲裁の可否
  (弁士)行政長蔵、胸永大助、栄二郎その他


 パリ戻りの会長を迎えて

 そうこうしているところへ、八年のはじめに鈴木氏は平和会議からさっそうとして帰朝し、まず神戸へやって来た。神戸の友愛会員は、船で神戸へ着いた西園寺全権以上に鈴木会長の帰朝を歓迎することとした。

 これより少し前、久留弘三氏が新妻を迎え、お祝いの返礼をかれて大太鼓を友愛会へ寄附したが、鈴木氏の歓迎にはこれを使うこととしたほか、特に二頭立の馬車を仕立て、三宮駅まで神戸の組合員が大ぜいで出迎えた。

 鈴木会長を乗せた二頭立馬車は、大太鼓を先頭に堂々隊列を組んで労働歌を高唱しながら神戸の目貫き通りを示威行進した。馬車には松岡駒吉氏と久留弘三氏とわたしが同乗し、馭者台には海員部の浜田国太郎氏が乗っていた。馬車につづく行列の中には大阪から馳せ参じた友愛会員もいたが、西尾末広氏もその一人だった。


         写真 鈴木友愛会会長を迎えて(大正8年)

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       写真左より 久留 松任 賀川 鈴木 高山 村島 藤岡


 西尾氏は職工組合同志会から友愛会へ移って間もない頃でこのデモのあった直ぐあと、松岡・久留両氏やわたしの推せんで、多くの先輩をぬいて大阪連合会主務となり、大戦後、続発した大阪の大争議に名指揮者ぶりを示したが主務になった時、先輩たちは不満を鳴らした。

 現にわたしに向って、

 「西尾はオイラと同じ労働者やないですか。それが主務になって………」

 と不平をぶちまけた一支部長もあった。今なら反対に「オイラと違うインテリや、それが主務になったりして」とインテリ主務をこそ排斥したことだろうに――。

 しかし、インテリが重んぜられたのも大正初期だけで、やがて大正も十年を過ぎると、サンジカリズムの嵐が吹き荒れて、知識分子排斥の声が高まり、学識の深い者以外は、有能な労働者出身のリーダーの進出で、自然と消されてしまう結果となった。

 西尾末広氏は自伝「大衆と共に」のなかで、「知識階級は消えて行った」と記しているが、消えて行った理由は本人の自由意志よりも、後から来た者がより強力だったため、おのずと消え去らざるを得なかった向もあったのではないかと思う。鈴木文治氏は最後まで残ったが、労働者出身者よりも、新しく進出した尖鋭なインテリ分子によって押し出された感がある。

 しかし、神戸の友愛会の人々は、一二の例外を除いて鈴木氏を永く支持した。

 おめがけ横丁に間借り

 神戸の友愛会の雰囲気は常に和風堂に満つといったあたたかさがあった。わたしは大正七年から八年へかけて神戸在勤中は、ほとんど毎日のように、夕方、新聞社の仕事が終ると、新開地の盛り場をあてもなく歩きまわることと、新開地の裏側、湊町四丁目の横丁にあった友愛会の事務所へ行ってトグロをまくことを忘れなかった。

 友愛会の事務所といっても独立した家屋ではなく、二階借りの身の上だった。その上、この横町の戸数約十戸の居住者約二十名のうち、男はわずか六名(その中には友愛会の書記亀徳正臣氏も含まれていた)あとの十余名はみな女だった。それも、あだっぽい美人揃い。

 此処までいえばハハーンと合点されたと思うが、この横丁は俗称「おめかけ横丁」ともいわれる第二号住宅地域だったのである。そのおめがけ横丁のまん中に、労働組合の事務所が二階借りしているのだから天下の奇観といわねばなるまい。

 そして毎夜十時頃ともなると、ほかは森閑となるが、この横丁の友愛会の事務所だけは、残業を終え、家で一ぱいやってから出かけて来る組合員たちでまだ談論風発のさい中である。

 おめかけ横丁の治安をみだすものとして抗議が出そうな具合だったが、皮肉なことに、事務所の真向いは、人もあろうに、川崎造船所のカンカン虫(錆落しの少年工)の人入れをするボスの第二号だったので、気がひけるのか、出入りにも友愛会の人々の目をさけるようにしているのが見られた。

 友愛婆さんは女友愛会長

 ところが、事務所の階下にも一人の女性が住まっていて、刑事が「変ったことはありませんか」と聞きに行けば、彼女は二階へ取次ぐまでもなく「何もありません」と屑屋のように追っ払うすべも心得て居り、また始めて訪ねて来た労働者には、幹部になったようなつもりで、労働組合論の一くさりも語りきかせて、会則や入会申込書を持たせて帰す。鈴木会長が事務所に泊る時などは、まるで貴人のもてなしである。

 彼女は幹部のゆかりの人でも何でもない。実は或る質屋さんの第二号なのである。言いかえると、友愛会は、おめかけ横丁の、そのまた妾宅の二階に間借りの身分だったのであるが、階下の女性は、本務を忘れて友愛会のために忠実な玄関番・接待係をつとめてくれた。

 もっともこれがうら若い美人だったら、年少労働組合員の刺戟ともなったろうが、あいにく年は既に四十を越したうばざくらでお世辞にも美人とはいえない。友愛会の人々は彼女の本名の黒瀬俊子を知らないでも「友愛婆さん」で通っていた。

 友愛婆さんは九州は熊本の国憲党員の家に生れた男優りで、友愛会の面々と、労働運動の話もすれば、また家庭の紛議などを持ちこまれると、夫婦げんかの仲裁もした。かと思うと、乱暴者や浪費家は、とっつかまえて諄々と説教することもあった。それで、若い組合員らは「労働紛議なら友愛会へ! 家庭紛議なら友愛婆さんへ!」といって、彼女を「女友愛会長」に擬する茶目さんも居た。

 友愛婆さんはその後、パトロンの質屋のおやじとも別れた、というよりはすてられた。その原因は、彼女がかんじんのおやじヘのサービスを忘れて、友愛会に肩入れしすぎるからというのだった。

 久留氏らは婆さんの組合員を凌ぐPRや巧妙な刑事撃退の手腕を高く評価し、その後は事務所の台所を手伝わせていたが、不幸にして胸を病み、久留氏の世話で高砂の鐘紡病院に入院療養中、元気な婆さんも病気には勝てず、あの世へ旅立ってしまった。大正中期の神戸の労働運動の一挿話ではある。
            

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働運動』連載第3回)

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「ぶらり散歩<長田神社>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

       『労働研究』(第138号)1959年8月号連載分

       第三回 清野長太郎知事時代


 第一次大戦の終わる頃

 友愛会が神戸へ進出した頃の労資の代表者の横顔を紹介したついでに、官庁側の代表者にも 触れておきたい。
 官庁側代表者といえば、もちろん、兵庫県知事である。大正十年の神戸大争議の際、軍隊の出動を要請した有吉知事はいろいろの意味で最も有名だが、友愛会の神戸開拓時代は有吉知事よりも一代前の清野長太郎氏が知事で、労働運動に対し、よき理解者であった。

 清野知事は小柄で、色の浅黒い、「官員さん」らしい威厳を示す鼻下のヒゲもない、大黒天のような庶民的な容貌の持主だった。(この点では現阪本知事は歴代知事中、一ばん美男だろう)

 しかし、清野知事はあたたかみがあって、いわゆる官僚風なところの少い知事さんだった。その上、大事なことは、その頃漸く台頭し来つつあった労働問題や社会問題に対し深い関心をもっていたことで、わたしたちのような馳出し記者の意見もよく聞いてくれた。

 清野知事は床次竹二郎系の人といわれ、兵庫県に赴任する前は、福岡県知事をしていて、筑豊炭坑や八幡製鉄所の事もよく知っていたので、兵庫県に来てからも、第一に労働問題に着目した。

 第一次世界大戦が既に峠を越して、やがて終戦と共に必然的に訪ずれるであろう労働不安に備え、為政者として予め対策を立てておく必要があったからである。

 そこで清野知事は兵庫県下の大工場主や労働団体の代表者を招いて双方の意見を聞いたり、また後に記すように、調査要項を示して労資双方の言い分を徴したりした。

 もちろん、今から四十年もの前のことだから、労働者側も今日のような階級闘争といった対立的な意識は持っては居らず、使用者側でも「工場の能率は工場主の温情に正比例する」といった温情主義的な考えの上に安住していたのだから、知事としても、労資の協調によって、労働問題の激化は十分防げると考えていたであろうことは容易に想像できる。

 温情主義一辺倒

 清野知事の諮問に対する資本家側の回答の詳しい内容は判明しないが、わたしが県高等課から聞いて書いた記事によると「工場主は温情をもってすべての労働問題は解決できると考え、従って友愛会のような労働組合は不要、治安警察法の撤廃や八時間労働制は時期尚早」といった回答であったらしい。今から思うとウソのような話だが、本とうの話である。

 またその頃、毎日新聞の「月曜論壇」でわたしが松方幸次郎氏の労働問題観を評した記事の切抜が残っているが、それによると、松方氏は日米船鉄交換会成立の理由を説明して、

 「実は十万の従業員を如何にするかの問題のために奮起したもので、自分たちの利益が少くなるというようなケチな考えからしだのではない」

 と大見栄をきっているのは、近代的親分松方氏らしいが、そのあとで「……わが国の資本家と労働者とは、さして反目することもなく来ているから、今後も資本家が労働者を愛撫してさえやれば、労働組合はなくても十分労働問題の解決はできる。」といっているのに対し、「今日あるを知って進展して行く明日を考えない言だ」として、年若のわたしは論壇でかみついている。

 なおその記事の中で、三菱造船所が日用品を頒ち、演芸会などを開いて、できるだけの温情を示しているにもかかわらず、多くの労働者は三菱を去って、温情的施設の比較的少い、が収入のいい川崎造船所の万へ移動するという事実を挙げている。これは後記の清野知事の依嘱による労働組合の調査報告と符合するところがある。

 知事、組合代表を招く

 これよりさき、大正六年三月、清野知事は兵庫県下の救済事業団体(まだ社会事業とも、社会福祉事業とも呼ばれていなかった)の連絡機関として「兵庫県救済事業協会」なるものを結成し、その世話役として内務省にいた小田直蔵氏を招聘し県嘱託とした。

 その小田氏や県会議員の福井捨一氏(当時の賀川氏の後援者の一人)から、神戸の葺合新川の貧民窟に賀川豊彦という一風変った男が居て、最近アメリカの留学を終えて帰朝し、労働組合―友愛会の指導をしているという話を聞かされた。

 知事は、さっそく両氏を通じ賀川氏に会見を申し入れた。賀川氏は友愛会の会見は、今なら何でもないことだが、労働団体の勢力も微弱で、官庁側から心全く無視されていた時代に、知事の方から丁重に会見を申入れられたというのだから、友愛会の労働者たちは、まるで労働組合が政府から公認されたように解して喜んだのもむりとはいえまい。

 知事と賀川氏らの会見の席上では、いろいろ話もあったが、失業問題がとりあげられた。その頃、失業者のための公営紹介所としては、東京市内に公益職業紹介所(今の職安)が四ヵ所できていただけで、大阪でさえ、八浜徳三郎氏の経営する私設の大阪職業紹介所があるだけだったし、神戸でも無きにひとしかった。

 八浜氏は神戸でキリスト教の牧師をしていた人。明治四十四年十二月二十四日、神戸神学校学生賀川豊彦が学校の寄宿舎から葺合新川の貧民窟に移り住んで、貧しい人々のために奉仕と伝道を始めた際、八浜氏は、

 「賀川君、貧民窟の人たちを救済しようと思うのなら、おとなはみな追ッ払って、こどもだけにしなけりやだめだよ」

 と含蓄のある忠言を与えたという。わたしも大正五年に「ドン底生活」を毎日新聞に連載した時、大阪の今宮の貧民窟近くにいた同氏からいろいろと教えられたものだ。

 県営口入屋の構想

 清野知事は市営や私営ではなく、まだ全国に先例のなかった県営の職業紹介所を設置しようという考えを持っていた。しかしその仕事を担当する人間が見つからぬので当惑しているところだった。

 口人屋上りではもちろんいけないし、融通の利かぬ役人が口入屋のおやじになることは六かしく、第一そんな物好きは兵庫県庁内には見当らなかった。

 清野知事はこの事を話して「適任者は居ないでしょうか」と聞いた。すると、打てば響くように賀川氏は「適任者がありますよ」と答えた。

 賀川氏の話によると、その男は永らく中学校の教師をしていたが、。キリスト教の伝道と貧民救済の召命を感じて教壇を去り、東京日暮里の貧民窟に住んで、賀川氏と同じように、貧しい人たちの友となり、独力でささやかながら隣保事業をやっているというのだ。

 清野知事は賀川氏の弟分のようなその人が果して県営の口入屋のおやじをひきうけてくれるだろうか――と危ぶんだが、賀川氏は「わたしから話せばきっと来てくれると思います」と自信をもって答えた。

 清野知事の腹案の「県営」口入れ屋はその後、多分県会方面からであろう反対があって、兵庫県救済協会経営ということになって、賀川氏の住む葺合新川の貧民窟に近い日暮通りに「生田川口入所」という看板が新らしく掲げられた。そしてその口入所の主任として賀川氏推せんのその人が座った。遊佐敏彦氏である。

 ヒゲの送別会

 此処で一つおもしろい挿話を書き添えておきたい。

 公営口入屋のおやじとなった遊佐氏は東北出身の誠実そのもののようなクリスチャンだったが、彼は清野知事と同じように小柄で色も浅黒い男だった。ただ違うのは知事にはヒゲがなかったのに反し、この口入屋のおやじの鼻の下には美しい?ヒゲがめった。

 知事は遊佐氏のほかの点ではことごとく満足したが、そのヒゲだけは気に入らなかった。自分にヒゲがないので卑下したのだといっては駄じゃれになるが、知事には知事としての言い分があったのだ。知事は 遊佐氏のヒゲをまじまじと眺めながらいった。

 「口入所の主任になって頂くからは、前垂掛けの気持でやってもらわぬと困ります。それですから、求職者に威圧を感じさせるようなヒゲは…」

 遊佐氏は清野知事の言葉の終らぬうちに、

 「同感です。さっそくヒゲはそることにいたします」

 そういうと、清野知事はさも満足そうに大口をあけて笑った。遊佐氏も一しょに笑った。そして県庁を出ると遊佐氏はその足で髪床へ行って、何の未練もなくヒゲをそりおとして、賀川氏のもとへ報告に来た。

 賀川氏は急にヒゲかなくなって人相が変った遊佐氏を見て「どうしたんだ?」と聞いた。そして、いちぶしじゅうを聞くと大いに痛快がって、

 「では今夜は遊佐君のヒゲの送別会をやることにしよう」

 そういって、その夜は有志と一しよに、ささやかな、しかし前古未曽有の「ヒゲの送別会」がたのしく催された。

 遊佐氏はその後、中央にひきぬかれ、中央職業紹介事務局長となり、三井報恩会の社会事業課長ともなったが、神戸でそりおとしたヒゲはついに二度と生やしてはいない。

 ヒゲの話はこれぐらいにして本論に帰り、清野知事と労働問題の関係について話をつづけよう。

 知事から友愛会へ調査依頼

 大正七年五月、清野知事が賀川・久留両友愛会幹部と会見して意見の交換をしたあとで、友愛会を通じ、次の三箇条について調査を依頼して来た。

 一、会社の幸福増進設備に対する実感と希望
 二、紛擾の原因および防止策
 三、会社に対する一般的希望条項

 友愛会ではこれを同会に加盟している川崎・三菱両造船所と神戸製鋼所の職工有志に回付しそれぞれ記入の上回答した。その答申の概要を記すと次の如くであるが、団体交渉の要求が、おぼろげではあるが出ているのは注目に値いしよう。

 第一問 会社の幸福増進設備に対する実感と希望

 会社が職工の利益と信じて苦心経営する幸福増進の設備も、その実行方法と運用がよろしきを得ないため多数職工はこれを喜ぶよりも、むしろ反感を抱いている。

 1 工場医の職工に対する態度の如き、極めて不遜で、社員と職工との待遇に大差がある。このために職工は不快を感じて、私費を出しても町医者にかかるものが少くない。 
 2 三菱造船所の行っている購買組合についても同様のことがいえる。
 3 会社は職工に対しいろいろの扶助規定その他社則を定めているが、職工に公表しないからその内容が不明で、その上、その認定や適用が会社の自由裁量でなされるので職工は常に不安の念を抱いている。

 第二問 紛擾の原因と防止策

 大体において賃銀の低廉と中間者に対する反感、即ち感情問題が争議の主要原因となっている。殊に後者において甚しい。

 1 技師或は役付職工(工場長・伍長・伍長心得)に対して「袖の下」を行う場合、歩増や昇給に際して利益があるのみか、時には職工に対し袖の下の請求をほのめかす向さえあり、これらによる昇給の不公平が鬱積して争議となる。小紛議の十中八九まではこれだといっても過言ではない。

 これが防止案としては
  A、技術の試験を行って昇給を定めること
  B、主任技師以外の役付職工の公平なる投票によりその標準を決定すること

 2 紛議の原因は賃銀が会社の利益に対し、あまりに低いことだ。殊にその昇給率が低いため(神戸製鋼所は大てい二銭である)今日のような物価騰貴の率と均衡が保てない。世人は「労働者は戦乱の影響をうけて莫大な収入を得ている」というが、実際はそうでない。ただ戦争のため仕事が多くなって、定時間のところが残業となり、残業が夜業とな  り、労働の過重により収入が前より殖えたというに過ぎない。

 3 争議の根本は一言にしていえば、平素、職工と会社側(技師・技手の如き中間者をいうのではない)との意思の疎通を欠くことに起因する。故に何らかの機関を設けで両者か月一回ぐらい、会見するようしてほしい。

 第二問 会社に対する希望

 職工が会社に対し持つ希望は限りがないが、その中、実行可能と思われるのは

 1 川崎造船所は臨時職工を多く募集する。これは臨時工は解雇の場合、手当を支給しないですむからであろうが考慮してほしい。
 2 入職の際「試験中」という名義で、賃銀も半給で約一週間使役される。この試験期間を短縮されたい。
 3 会社は業務災厄以外の疾病に対しても工場医が診療するようにしてほしい。
 4 川崎造船所では造機部と造船部とがその規則を異にしているのは好ましくない。
 5 解雇すれば手当が要る。そこで会社は仕事が減った場合も解雇をせず、割増金を減じたり、定時間労働のみにしたりして実収を減らし、結局、自分で他へ転ずるように仕向けるのは残酷にすぎる。
 6 職工が技師その他に対し、少しでも抗弁したりすると、頭から「生意気だ」と称して排斥する風がある。こうした職工を卑しむ風は矯正されたい。

 大体以上の如くで、文章は新聞にのせる関係でやわらかく直しだが内容はそのままである。会社を非難するよりも、職場の工場長(といっても俗称で、正式には職長である)始め役付への不満がそのまま出ているのや、会社の温情施設に対する批判がなされているあたり、やはり四十年前の事だという思いが深い。

 知事の挟別の言葉

 労働者側の意見書は、別に工場主側から徴した意見書と一しょに、清野知事が携えて上京し、中央政府に提出した。これが直接の効果は判らないが、あるいは渋沢栄一氏らの労資協調会の誕生とも何らかの関係があったのかも知れない。

 その頃の友愛会神戸連合会はまだこれという争議もしていなかったためでもあるが、清野知事は極めて友好的で、あとで記すように、友愛会の示威行列が兵庫県庁を訪れるかも知れないとわたしが告げた。ところ

 「それなら、わたしはバルコニーに出て敬意を払うことにしましょう」

 と答えたので、そのまま新聞に書いた。

 その記事を見た一部の県議が、知事は赤だ、怪しからんと抗議をし、知事は大いに困ったということを聞いた。そしてそのすぐあと大正八年四月、清野知事は神奈川県知事に栄転して行った。

 清野氏が三宮駅から乗車して、新任地へ向う日、友愛会の幹部有志は会旗を携えて駅頭に見送った。清野氏はそれほど労働者にとっては「ええ知事サン」だったのである。

 その折、清野氏は見送人の中にまじっていたわたしを見つけて車窓から手招きするので、近ずいて行くと、氏はいった。

 「どうか、労働者諸君がエキセントリックな行き方をしないように、くれぐれもおたのみします」

 もし「過激になるな」といわれたら、まだ二十代だったわたしはきっと反撥を感じたに違いないのだが、「エキセントリックにならぬように」と英語で言われたことが、妙に真実がこもっているように耳にひびいたことを今思い返してもふしぎに思うのである。

 わたしは時々、大正十年の大争議の時まで清野知事が留任していたら――と思うこともあるが、しかし、その時はその時の風が中央から吹いてきて、同じ結果になったようにも思える。

 入会式と左手の握手

 兵庫県を去るに臨んで清野知事が県下の労働組合員にのこした「エキセントリックにならぬように」という忠言は、少くとも、当時の組合員には「心配無用」の言葉であった。

 当時の労働組合――といっても友愛会一つしかなかったが――友愛会の運動方針は穏健そのものであった。何しろ友愛会はその綱領にも、

 一、われらほ互に親睦し一致協力して相愛扶助の目的を貫徹せんことを期す。
 二、われらは公共の理想に従い識見の開発、徳性の涵養、技術の進歩を図らんことを期す。
 三、われらは共同の力により着実なる方法をもってわれらの地位の改善を図らんことを期す。

 と掲げているほどで、今日のような闘争的なところは全くなく、着実穏健な方法で労働者の地位の改善を図ろうとし、その上「相愛扶助」や、「徳性の涵養」を謳ったりしてむしろ、宗教的でさえあったからだ。

 おもしろいことにはその頃、友愛会には入会式というものがあった。入会式はその都度行わず、会長の西下した時など、とりまとめて行うもので、新入会組合員は一人一人進み出て鈴木友愛会の丸々と太った手をしっかりと握り、今後、組合員として努力する(戦うなんていわない)ことを誓ったものだ。事によるとこれは鈴木会長がキリスト教の洗礼式からヒントを得たのではないかと思う。

 ところが、この人会式にしばしば異様なしかも痛ましい光景が見出された。それは、通例右手をさし出して握手する慣わしだのに、もじもじとして左手を出す組合員があったことだ。右手を出すことを知らなかったのではない。実は右手の指の何本かが失われてなかったため気遅れしてつい左の手を出したのである。いうまでもない。工場で作業中、あるいは歯車にはさまれ、あるいいは截断機で大切な指を切られたのである。

 当時の友愛会神戸連合会長颯波(さっぱ)光三氏も右手の人差指が中途から失われていて、左手で握手をした組だった。工場法の実施の前後のこととて、如何に工場の危険防止設備が不十分であったか、そして工場生活というものが、如何に危険多いものであったかが窺われよう。

 その頃、鉄道院の調査では鉄道関係の工場内の一年間の負傷率は千人について千五百五十一人だったから、一人は必ず一年に一度以上のケガをしたことになる。従って神戸の友愛会関係でも業務上死亡する者が少くなく、その葬式には、喪章をつけた友愛会の会旗を先頭に組合員が会葬した。これも組合の仕事の一つだったが、組合に好感を持たぬ人たちは「お葬式組合」といって冷笑した。

 講習会の聴衆は一人半

 しかし、当時の組合の一ばん主な仕事はもちろんお葬式ではなく、啓蒙運動で、機関紙を発行し、また演説会や講演会がたえず開かれた。組合の役員会の如きもまた一種の幹部教育会であった。

 明治二十二年、日本最古の組合といえばいい得る同盟進工組の創立当時、組合員の協議会のあとで一同打ちそろって吉原へ女郎買いに出かけたため、妻女の怒りを買い、その次から協議会の通知が行っても妻女はまた女郎買いに行くものと速断して、その通知をにぎりつぶしてしまったため、折角の同盟進工組がだめになったという伝説がのこっているが、大正期に復活した組合運動――友愛会の運動は、キリスト教信仰の人たちをリーダーとしで誕生し、育成されて来ただけに、そんな不真面目さは全くなく、会合の前後には智識分子といわれたわたしたちをつかまえて、疑問を質したり、議論をふっかけて来たりした。

 前々号の本誌で池田信氏が書かれた「賀川豊彦の労働組合論」にあったように、一時、賀川氏はギルド社会主義を雑誌「解放」「改造」などで提唱したが、その時などは、これに対する疑問が多くの人たちから盛んにもち出された。

 そのためわたしは、わたしが支部長をしていた尻池支部(川崎の兵庫工場や神戸市電湊川発電所の人たちにより大正五年に創立)の人たちの要請で、一組合員の家の二階で講習会を開き、ギルド社会主義の解説を連夜にわたってさせられたことがある。

 しかし、残業につぐ残業で、夜の帰りのおそい人たちは出たくても出られず、ある夜のごとき、出席者は、後に県議会員になったカイゼル髭の行政長蔵君ただ一人。いいや、同君は女児を抱いて出席したから一人半といえるのかも知れない。その夜、父親に抱かれてギルド社会主義の講義を聞いた?赤ちゃんは今は立派な女医さんとなっていると聞いている。

 演説会の最終弁士広沢一衛門氏

 こうして労働組合の会合は講習会はもちろん、一般演説会でも、幹部たちは人よせになみなみならぬ苦心をした。

 古い切抜帳を見ると、わたしが大阪から神戸へ移る直前の大正七年四月二十七日夜、大阪春日出小学校で開かれた友愛会西支部創立一周年祝賀講演会には、有名な岡村司博士を始め賀川氏やわたしが出演したが、これら講師の講演の後、寄席なら「真打」の大家として広沢一衛門氏が登壇している。

 広沢一衛門? 労働運動関係者にはなじみのない名だな、と思われるだろうが、その筈、広沢氏は大家の大家でも浪花節の大家だったのである。こういう「大家」が出ないと、わたしたちのような前垂の講演だけでは人の集りがよくなかったのである。

 その頃、友愛会神戸支部の社会政策講演会でも、筑前琵琶・尺八が社会政策講演のおそえものとして出ているが、あるいは、一部の人たちには講演の方がお添え物だったのかも知れない。

 こうした「余興入り」演説会も組合員の自覚に伴い漸次影を消して、真剣な演説会に移って行った。それと同時に清野知事の心配も漸次現実化して来るわけだが、大正七年頃はまだその過渡期であった。

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働運動』連載第2回)

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「長田神社の大きな木々たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/4022/)



  村島帰之「労働運動昔ばなし

       『労働研究』(第137号)1959年7月号連載分

       第二回 川崎造船所と松方社長

 第一次大戦の造船ブーム

 大正七年九月、わたしが大阪毎日新聞本社から同神戸支局へ転勤した時は、第一次世界大戦のさい中で、兵庫県では今日でいう造船ブームで有卦に入っていた。

 その頃県下にあった造船工場は十六箇所、職工数は約四万人、その中、約一万一千人の職工を擁する川崎造船所と、約八千三百大の職工を使用する三菱造船所は両横綱で、日に夜をついで造船工事を急いでいた。中でも松方幸次郎氏を社長とする川崎造船所では日米船鉄交換による輸入材料でストックボ―卜の建造中だった。

 九千噸型一隻を竜骨据付後二十四日間で進水させようとして、熟練職工約五百人づつ毎夜交替で夜を徹して工事を急いでいた。船体の鋲を打つけたたましいエヤ・リベットの音に圧倒されながら、大きな竜骨の下を歩いた時の感銘を今も忘れない。

 同じ頃、平塚らいてう氏も造船所を見て廻って「働いている人たちの姿が崇高に見えて感激しました」と昂奮して語っていたことを思い出す。

 しかし、造船業の繁昌は勢い労働の強化となって、職工は残業徹夜を繰返さねばならなかった。「このごろのように忙しくては全くからだが参りはしないかと思います」と異口同音に語っていた。そのかわり給料は半月毎にたんまりとポケットにはいった。たとえ年少の平職工でも日給八十銭は貰っていたから、これに七割の戦時歩増、二時間残業に対する三割の残業歩増、それに二割の竣工歩増を加えると少なくも一日一円七十銭乃至二円――月収入約五、六十円(今日の二万五千円ぐらい)にはなった。

 これが職長伍長の役付ともなると百円――今日の五万円を上廻って、ホワイト・カラーのサラリーマンなどの到底及ぶところではなかった。

 ちょうどその頃、安池川鉄工所をやめて友愛会大阪連合会主務になった西尾末広氏は工場では月収百円を下らなかったのに、組合の有給職員となると、一ぺんに六十円に減収となって随分困ったという話も聞いた。

 当時、大学を出ても百円の俸給をもらうようになるには相当の年期を入れねばならなかったのだから、造船工のふところのあたたかかったことは事実だ。

 職工問題の取材

 わたしは毎日新聞で始めは経済部記者として棉花綿糸紡績を担当していた。が、翌年には地方課に転じ、遊軍となった。遊軍というのは特別の受持ちを持たず、本人の気儘に新分野を開拓して行くもので、わたしは経済記者時代に紡績連合会や紡績会社にも出入して労務管理、特に女工の処遇問題なども記事にしていた経験があるので、地方課の遊軍となってからもその方面の取材をした。

 鐘紡の女工寄宿舎を見に行って、長い廊下の陽の当る側の窓ぎわに鏡をならべて結髪所に充てているのや、帝国製麻で女工が終業後も機械音が耳につき直ぐには眠れないので、神経をしずめるため就寝前五分間静かに針仕事をさせていることなどを記事にしたり、女工の賃銀や女工募集にからむ問題も書いた。

 そうした職工問題――当時はまだ労働問題という言葉は一般には使われなかった――を扱っているうち、鈴木文治を会長とする友愛会という労働組合が阪神地方に手をのばしたことを知り、また堂前孫三郎氏や坂本孝三郎、西尾末広氏等により職工組合期成同志会というのが小規模ではあるが大阪で誕生したことを知ってデカデカと紙上に紹介した。大正五年から六年へかけてのことで、労働組合はまだ一般に知られてはいず、新聞記者でも組合の存在を知る者は殆んどなかった。

 西尾氏と相知ったのもこの頃で、お互に二十五才の同じ年であった。わたしは同志会の顧問格で演説会に出たり機関誌の「工場生活」に「労働問題の大意」という啓蒙的な続き物を書いたりしていた。西尾氏は組合の仲間でも「理くつ屋」で通っていたが、その後同志会にあきたらず友愛会に転じた。その頃いっぱしの友愛会幹部を以て自任していたわたしとの親交が深まって行った。

 西尾氏は友愛会に入ってもすぐ頭角をあらわし、久留弘三氏が神戸へ移った後をうけて大阪連合会主務となった。先輩たちはこれを快しとせず、現に支部長某はわたしに向って「西尾はオイラと同じ職工じゃありませんか」と不平を訴えた。労働組合のリーダーはインテリでなければならないものと、労働組合の有力の連中までが考えていたのである。そういったまだ知識階級尊重時代だったので、わたしのようなものでも組合の演説会などにはしじゅう引っぱり出され、大阪ばかりか神戸や京都へも出かけて行った。

 毎日新聞神戸支局へ

 わたしは労働問題記者として、また労働組合のリーダーとして若い情熱を傾けていた時、神戸支局転任の話が降ってわいた。わたしの上司である岡崎地方課長が神戸支局長に転勤することとなり、わたしを連れて行こうというのだ。

 岡崎課長は前回記した通り、社中でも労働問題に対し最も深い関心をもってわたしの書く労働記事を歓迎してくれたし、わたしが、労働運動に首を突っ込んでいることに対しても、見て見ぬふりをしてくれた。わたしはこの人の下で働くことに生き甲斐を感じ神戸転任を快諾した。

 しかし、本社を去って割の悪い地方支局行を決意した理由はこれだけではなかった。神戸が川崎三菱両造船所を中心とした労働者の街で、労働運動が漸く盛んになろうとしていること、その指導者として友人賀川豊彦氏や久留弘三氏のいることがわたしを神戸へ引きつけたのだ。

 毎日新聞神戸支局は相生橋の崖の下にあった。貧弱な田舎の三等郵便局といったボロ建物で、二階が編集、階下が販売になっていた。脇を通る汽車の吐出す煤姻で室内は物置のようによごれ、汽車の地ひびきで社屋は一日中震動していた。

 支局長岡崎鴻吉氏は早大出身(わたしとは十年の距りがあった)、同クラスには大山郁夫氏や永井柳太郎氏がいた。はじめ、毎日新聞へは永井氏が就職する筈になっていたが、イギリスへ留学することになって急に岡崎氏がこれに代ったということだった。永井氏は一度神戸支局に岡崎氏を訪ねて来られて、わたしも久しぶりに会った。

 わたしは早大在学中、永井先生に社会政策と植民政策を学び、また下谷万年町などの貧民窟や江東方面の社会事業施設の見学につれて行ってもらったりして、後年のわたしを形成するのに大きな影響を与えた恩師だった。

 わたしが労働問題に取っくんでいることを聞いて永井先生は「君の社会政策の答案にジョン・プルートンの言葉を引いて“財産はこれ臓品なり”と書いてあったのをぼくは覚えているよ。しっかりやり給え」といって激励して下さった。

 岡崎氏は気骨のある九州男子だった。氏が神戸支局長に就任した時、まっ先に松方川崎造船所社長からの使者が来て、お祝いの品を置いて行った。岡崎氏は他からの祝品と同様、突返そうとしたが、前任の竹中支局長から神戸で一ばんの実力者として特に紹介を受けていたので、突返すのは非礼と思い、とにかくひらいて見ると元町のある呉服屋のマークの入った反物が出た。支局長は直ぐ人をその店へやって反物の値を聞かせ、それと同じ値段の葉巻煙草を買わせて松方氏へ返礼した。

 労働問題を紙面の特色とする以上は松方氏のような工業大資本家に引け目を感ずるようなことはしたくないと考えてしたことだが、これを受取った松方氏は「何だ、こんなまずい葉巻、吸えるもんか……」といったかそれとも「この新聞屋やりおるわいと思ったか、そこまでは調べなかった。


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 写真はその折の光景で、馬車の上に立つカンカン帽の黒服が鈴木会長(1)その隣のヘルメットは松岡駒吉大阪連合会主務(2)、その前のカンカン帽は久留弘三氏(3)と筆者(4)。御者台の上のカンカン帽の自服は濱田国太郎海員部長(5)で支局入口のイガ栗頭は岡崎支局長(6)である。なお左方、電柱の下に西尾末広氏(7)のカンカソ帽の横顔も見える。

 尾崎行雄と川崎職工

 岡崎支局長がわたしを本社から引きつれて来たのはもちろん、神戸の土地柄、労働問題で紙面に新風を吹き込もうというのだった。

 それで支局長はいろいろとわたしに注文を出した。一例を挙げると、わたしたちの赴任直後尾崎行雄氏が来神した。月並なスナップ写真では面白くないというので、菜っ葉(青い職工服)を着た一労働者がこの老政治家と握手しているシーンをとろうという注文で、わたしは友愛会の幹部で川崎の伍長だった灘重太郎氏を引フぱり出した。その写真は翌日の毎日新聞の神戸附録のトップに大きくのった。

 話は少し後になるが、友愛会々長鈴木文治氏がアメリカから帰ってすぐその足で来神し、友愛会神戸連合会が特に仕立てた二頭馬車に乗り、楽隊を先頭に三宮駅から市中行進をして、毎日新聞支局に立寄った際、新聞社の名で大きな花輪を送ったりした。労働組合長を歓迎して花輪を贈った新聞社は嘗てなかったし、また今後もおそらくはないだろう。

 また支局長の発意で本紙の社説に対抗し、兵庫県附録の論壇を特設し、労働問題をとりあげ、その特別寄稿家として賀川豊彦氏を依頼した。

 まだ「死線を越えて」も出ない頃で、氏の原稿の市場価値もなかったので一文の原稿料も支払わず、匿名の儘掲載したが、約束の日になると、同氏は木綿の着流しの上に着た羽織をヒモの代りにコヨリで結んで、下駄ばきのまま二階の編集室へあがって来た。そして「松方幸次郎氏は近代型親分である」といったような原稿を書いてくれた。

 わたしたちは「唯一の労働者の味方」といった自負と思いあがりをもって傍若無人に記事を書き、組合運動を煽った。

 そういえばその頃、三菱で友愛会の組合員が馘首されたことがあった。わたしは大いに憤りを発し「模範職工馘首さる」と書いたが翌朝の紙面にはそれが初号の大見出しでのった。本人も「模範職工」の肩書をもらってさぞ苦笑したことだろうが、当の記者もちとほめすぎたかなと苦笑したことを告白する。

 こうして大阪毎日神戸附録は、労働問題に力を注いだので、友愛会に属する組合員はもとより、神戸の労働大衆から非常な好感をもって迎えられた事は事実だった。

 当時、地元の新聞の記者をしていた岸田氏は、その後、当時のことを述懐して「あの頃の大阪毎日新聞は全く労働者の唯一の味方といった感があった」と書いてくれている。

 日本最初の口語体新聞

 それともう一つ、岡崎支局長に関して書いておきたいのは、新聞の文体を思い切って口語体にしたという一事で、それも労働問題に若干の関係があるのだ。

 日本で一番はじめに口語体の新聞を出したのは兵庫県だった――といっても大部分の人は信用しないだろう。しかし、事実はあくまで事実である。

 大正のはじめ頃の新聞はまだ全文が文語体で書かれていた。もちろん今と違って、記事全部には「総ルビ」といって一々ふり仮名がつけられてあったのだから、ルビをたよりに読むことは読めるが、内容はつかみにくい。それで紙面の中でも、小説などは一番早く口語体となったが、一般の記事は依然として「何々にして何々なりき」といった書きっぷりから離れなかった。

 尤も東京の三流の新聞で「袁世凱は死んだ」という見出しをつかって口語体を採用したことがあったが「死んだ」では軽すぎるやはり「死去」がいいという反対論が出て完全実施はできなかった。

 それを思い切って口語体に踏みきったのは毎日新聞の兵庫県附録で、大正七年九月一日のことであった。(毎日新聞の本紙全部が口語体になったのはそれから数年してからである)

 そのいきさつを当の岡崎支局長に回想してもらおう。

 『さて、毎日新聞兵庫県附録に口語体を採用した一件ですが、小生は大阪本社の地方課長で地方版を作っていた時「原稿はすべて文章体に限る、言文一致を用ゆべからず」と通信心得にも書き、地方の特派員や通信員にもそう厳達していました。これは口語体ではどうしても文章が長くなり、紙面に多くの記事を収める事ができないためでした。

 ところが、大兄から「青年労働者は義務教育は受けているが、工場に入っているうちに六カしい漢字を忘れて新聞も十分に読めない者が多く、ことに難しい文章は全く歯が立たない」と聞き、それがピンと来たのです。そして小学卒業後三、四年の少年達の学力を試験したらお話の通りでした。

 それで、これは新聞の文章をやさしくするほかはないと考え、兵庫県附録が支局長の勝手にできるのを幸い、大正七年九月一日の赴任を、一日くりあげ八月三十一日とし、九月一日紙上から全部口語体としたのでした』

 近代的親分松方社長

 大正六、七年から十年にかけて、兵庫県の実業家を代表するピカイチ的な存在は川崎造船所社長松方幸次郎氏であった。

 毎朝、川崎造船所の始業の汽笛のなりひびく頃、二頭馬車――といっても今の自動車のような立派な箱型ではなく、ホロのいった旧式の馬車に、葉巻をくわえながら悠然と乗って、蹄の音も軽く造船所へと急ぐ松方社長のエビスさまのような童顔は川崎関係者だけでなく、神戸市民に親しみ深いものだった。

 その時、菜ツ葉服を着た川崎の職工が汽笛のひびく中を小走りに馳けて行くのを見ると、社長は馬車の上から呼びとめて「遅るツど、ここへ乗りやす」といって馬車にのせてやったりした。(わたしがこの話をプロレタリア作家貴司山治氏にしたら、彼は「社長の馬車」と題して短篇小説にした)

 松方社長は賀川氏のいったように近代的親分といった処があった。最近横浜で神部健之助氏が発見した資料によって、彼が東大子備門在学中、暴行事件を起して退学処分となり、再入学願を提出している事が判ったというから、彼が青年時代から、青白い一般の金持のぼんちとは違っていて、なかなかのサムライであったことが想像される。その時の再入学願書は予備門長杉浦重剛あてで次の如く書かれている。

 「私儀一時ノ不心得ヨリ去ル二十七日ノ暴行二関シ、退学被申付候段、恐縮ノ至リニ奉存候、然而其後謹慎悔悟致シ勉励仕居申シ候間、何卒特別ノ御詮議ヲ以テ再入学御許可被成下度此段奉懇願候 以上
  明治十六年十一月二十日
                 府下芝区三田一丁目二十八番地
                   鹿児島県士族 松方幸次郎(印)
                         (慶応元年十二月生)
 この願いは容れられて、その願書の末尾に
  願之趣特別之詮議ヲ以テ聞届候事
    明治十七年五月二十日
                   東京大学予備門長 杉浦重剛(印)

 と朱筆がある。多分、元勲松方正義公の七光りが利いたのであろう。

 しかし、再入学の許されたのは、願書が出てから半年を経過していた。松方氏はその閉門解除が待ち切れず、三月にはエール大学に学ぶため、すでに渡米していたのだから折角の再入学許可も後の祭りになった。だだっ児らしい松方氏の面目がうかがわれる。

 松方氏は渡米後、エール大学に学び、さらに欧州に移りパリ大学、オックスフォード大学を渡り歩いて帰国後は松方内閣の秘書官となり、明治四十五年には神戸から代議士に当選した。しかし、中途で志を変え、実業界に転身、神戸川崎造船所の社長となった。

 氏は昭和二十五年六月二十四日、八十四才の生涯を閉じるまで実業界で縦横に活躍したが、神戸時代は五十台のあぶらののりきった時期で、彼のサムライぶりと、近代親分ぶりが最も華やかに展開された。

 わたしの独断を許されるなら、大正十年の神戸の大争議が罷業四十五日にわたり、多くの収監者・解雇者ばかりか死傷者さえ出し、川崎・三菱で立っていた神戸全市を震憾させたのは、松方社長が、あいにく外道中で、その留守をあずかる重役がボンクラだったためだといいたい。もし松方社長がいたら、ああした大事に至らぬ前、ボヤのうちに消火していたと思う。しかしだからといって彼が労働運動に理解と同情をもっていたというのではない。ただ、資本家としての彼がその腹の太さにおいて他の群小実業家との間に天地の差があったというのである。

 松方社長の挿話いろいろ

 十年の争議中、ロンドンの松方氏から、留守居重役へ、訓令の電報が入った。電文は「頭脳を冷静に」というのだった。ところがうろたえ者の重役が、「心(ハート)を冷酷(コールド)に」と誤読して、その通り実践したというのだ。もちろんこれは茶目ッ子の新聞記者が流したデマに違いないが、この場合、ヘッドよりも、ハートよりも、腹が必要だったのである。

 松方氏は太ッ腹な男だった。と同時に温情の持主でもあった。

 ある正月の仕事始めの日、松方社長が工場を巡視して、工員たちとおめでとうを言い交していたが、ある機械の前に来かかると、彼は急に不機嫌な顔をして立ち止まった。機械の上に酒徳利がのせられていたからだった。

 随行の労務課長は「一体誰がこんなマネをしたのか」と問いただした。一人の年老いた職工が「わたしです」と答えた。課長は正月とはいえ「工場内で酒を飲むとは何事だ」と強く叱ったが、老職工は「わたしは飲みません」と平気な顔である。課長は社長の前もあるので真っ赤になって「では一体誰に飲ましたんだ」と詰問した。すると老職工は答えた「わしは機械がかわいいのです。それで機械にも正月の祝いをしてやりたいと思って、うちから一合もって来てやったんです」

 その答えは誰よりも松方社長を喜ばせた。そしてあとから「機械への酒肴料」として金一封が社長から老職工へ贈られた。

 或いはこうしたことは「浪花節調」というのだろうが、松方社長はこんなことが好きだったのである。

 大正八年のサボの際、職工側の要求が、上に厚く下に薄いといって、これを修正して要求以上の回答を出したり、要求事項になかった八時間労働制を、たとえ名目だけだったにしろ、全国にさきがけて実施したりして争議団員をびっくりさせたのも、松方氏の親分らしい温情でもあり、また彼の負けじ魂のあらわれでもある。

 松方社長はまた一方、細心な神経の持主でもあった。工場内でのムダをなくするように注意して、工場巡視の際、金具や釘が落ちているとすぐ拾い上げた。

 或る日、こんなことがあった。例のごとく工場を歩いていると一本の大きい釘が落ちていた。そこで「またこんなところに……」といって拾いあげた瞬間、松方社長はあわてて手をふってその釘を投げすてた。いたずら小憎が社長の巡視と知って、その通路にあらかじめ釘を火で焼いて捨てておいたのだ。

 しかし松方社長が本とうに手を焼いたのはこんなことではなく、大正八年夏、傘下一万六千の工員が日本最初のサボタージュをやった時だった。その際彼は「サボとは卑怯な、やるならなぜ男らしくストをやらん」と叱った。薩摩隼人らしい男らしさではあった。

 工員たちは彼の忠告に従って翌々十年にはつい大罷業を敢行した。ロンドンに居た松方は「それでこそ男らしいぞ」とほめたかどうか。

 松方氏に助けられた話

 男らしいといえば、松方氏の豪放な一面を物語る一挿話がある。それはわたしがサボタージュ当時、警察に拘引されるところを、松方社長に助けられたという、わたしにとってはあまり自慢にならないが、しかし松方氏の太ツ腹を物語るにはうってつけの話なので書き添える。

 大正八年のサボ当時の兵庫県警察部長は山岡国利といって薩摩ッぽうだった。彼は薩摩出身の先輩松方氏に忠勤をぬきんずるはこの時とばかり、さっそく松方氏へ電話をした。

 「職工たちのサボでさぞお困りでごわしょう。ついては主謀の労働組合幹部と、それを外部から煽動しちょる新聞記者をひっくくって差し上げますから御心配のないように……」

 山岡部長は松方氏が喜んで「ぜひお頼みします」と答えるに違いないと予想していたが、返事は意外だった。

 「おいどんがとこの職工の事は、おいどんが始末する。かまわじとおくいやい!」

 この松方社長の一声で、二年後のストの場合とは違って一人の犠牲者も出さずに、サボは予期以上の成果を収めて解決した。サボがすんだ後、山岡部長は当時のことを正直にわたしに話してこうつけ加えた。

 「実はネ、君を煽動者としてひっくくる手筈にしていたのだが、松方さんのおかげで君は助けられたんだ。あまり松方さんを悪く書くとバチが当るよ」

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載第1回)

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「神戸大学グリークラブ定期演奏会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



       村島帰之「労働運動昔ばなし

       『労働研究』連載(第1回)

 賀川豊彦の盟友・村島帰之については折りに触れて言及し、鳥飼のブログ(「賀川豊彦の魅力」http://keiyousan.blog.fc2.com/)でも、すでに村島著『預言詩人・賀川豊彦』の長期連載を終えています。今回の「村島帰之の労働運動昔ばなし」は、どうしてもテキスト化して残しておく必要のある貴重なドキュメントですので、107回にわたって少しずつブログUPしてきました。一応全体を終えましたので、ここでひとまとめにして置きます。2012年12月22日ー鳥飼)


 兵庫県立労働研究所『労働研究』(第135号)1959年5月号より連載が開始されました。


          連載のはじめの編集担当者のことば

 村島帰之氏は早大出身、大正中期の関西の友愛会の創業時代に、大阪毎日新聞の労働運動担当記者として、運動の発展してゆく模様を詳しくみただけでなく、自身も友愛会の組織の内部にあって、運動を守り育てた人である。
 西尾末広氏は、その著書『大衆と共に―私の半生の記録―』のなかに、「賀川氏に次いで、大毎記者村島帰之氏が総同盟に尽してくれた功績は極めて大きい。村島氏は神戸支局時代から労働運動に関係していたし、大阪本社勤務になってからも、新聞記者というより同志的関係を持続した。友愛会の会合などではよく司会者をやったが、その場の空気をリードするのに巧みな人であり、一人として敵のない人格者だった。」と書いている。
 
 もっとも、村島氏が最初に労働運動に関与したのは、西尾氏が書いているのよりはずっと早く、大正五年、大阪に友愛会の関西支部ができたときであり、大正八、九年の神戸支局時代は、“労働運動に関係していた”という程度ではなく、大正八年の川崎造船所のサボタージュの成功などは、村島氏の海外労働運動に関する新しい知識に負うものであり、この争議の実質的な最高指導者は村島氏だったといえるほどである。

 村島氏のこういう立場から考えて、この[労働運動昔ばなし]は、神戸の友愛会についてはもちろんのこと、当時の関西の労働運動にづいて、運動内部の秘められた事情といったものまでをも含めて、多くの新しい事件や事実を明らかにするうえに、大変貴重な資料になると思われる。

 村島氏は、現在、茅ヶ崎市小和田七、一〇五にあって、闘病生活中であるが、編集者の無理なお願いを快く受けて、数回にわたって執筆していただくことになった。厚く感謝するとともに、ご全快の一日も早からんことを祈ってやまない。            



       第一回 友愛会の神戸開拓


 光は神戸の貧民窟より

 極めて大雑把に、大正時代のわが国の無産運動の地方色を概言することが許されるなら、私は斯う言いたい。関東の無産運動はより理想主義的で、関西の無産運動はより現実主義的であった-と。そして、もしも労働運動の正道が抽象的な理論斗争にないとしたら、現実的な経済行動を主として動いていた当時の関西の労働運動を、正統な労働運動といえるのではなかったか、と。

 関東の労働運動者が当時、関西の労働運動を評して「関西には理論がない」といい、関西の労働運動者は関東の運動を評して「彼等の足は地についていない」といっていたのは、その労働運動のローカル・カラーを自ら物語っていたものといえる。

 現実的な傾向を特色とした関酉の労働運動の由来するところはその土地柄によること勿論であるが、只だそれだけだろうか。私はその有力な因子として神戸葺合新川部落に住んでいた「賀川豊彦」の存在を無視できないと思うのだ。

 尤も賀川氏が労働運動を指導したのは、既に四十年に近い過去の昔語りになろうとしているが、その流れは、今も連綿として続いている。わが国の労働運動の最も激動期にある今日、四昔前の事どもを回顧して見るのもあながち徒爾ではなかろうと思う。

 大正三~六年の友愛会   

 大正六年五月、アメリカから帰朝した賀川氏はその足で二年八ヵ月間留守にした神戸の貧民窟葺合新川の二畳敷御殿に復帰し、再びセツラーとしての働きを始めた。「再び」とはいうが、その働き場所なり、その善意は前と変りはないけれども、氏の社会観には非常な相違があった。氏は当面の救護というものが無産階級の解放に些して役立たないこと、真に無産者を救わんとせば、まず彼等に組織を与えなければならぬこと。組織によって、彼等は自らを救うべきであること等々を、米国の民衆運動から教えられて帰って来たからである。

 賀川氏がアメリカに向け出発した大正三年九月には、まだ日本には工場法さえ施行されては居らず、労働組合も、友愛会が弧々の声を挙げて三年しかたっていなかった。ところがわづか二年八ヵ月ではあったが、氏の留守した間に、友愛会は内地のみならず遠く大連にまで伸び、労働者の自覚は大に高まって来ていた。

 友愛会が始めて関西に手を伸ばしたのは、同会が鈴木文治氏により、東京三田の惟一館のミッションの仕事の片手間に、同志十数名を叫合して創立された翌年―大正二年、大阪新川崎町の三菱製煉工場の職工が同会の機関紙「産業及び労働」の配布を受けたのに始まるといわれる。そして翌大正三年二月、東京の江東支部の河野吉太郎氏が来阪し、木津川の秋田製造所職工として就職して以来、三菱製煉及び電気分銅両工場の職工を勧誘し、三十名の会員を得て始めて支部らしいものが出来、翌々五年には会員が一躍四百名に増し、五月には住友伸銅、汽車会社職工を中心に大阪第一支部を結成、十一月、日本兵機の職工によって関西支部が設立された。筆者が労働運動に最初に関与したのは、この関西支部だった。では、神戸ではどうだったか。

 神戸の労働者の増加

 明治二十三年頃は工産物総価額僅か百万円にすぎぬ神戸市であつたが、日清、日露の両役を経過し、さらに欧州戦乱の影響を受けて急激に発展し、川崎、三菱両造船所及び神戸製鋼所等の大工場の続出によって、いよいよ飛躍的進歩をとげた。

 現に欧州戦乱勃発前――大正三、四年頃には職工数七、八千人に過ぎなかった川崎造船所の如き、大正七、八年には一躍倍加して一万六千人の菜ッ葉を着た労働者が工場の門を潜る盛況を見るようになり、三菱造船所も同様で、欧州戦乱勃前までは五千人しかいなかった労働者が、大正八年には一万人を算して、これまた倍額の増加であとの大工場には優秀な労働者が集った。彼等の時代の目覚めもおのづから他の小工場の労働者よりも早かった。神戸の労働組合の運動は大正三年の暮あたりから徐々に進められていた。

 山県憲一神戸支部長

 友愛会創立五周年史(大正六年三月友愛会発行)によると、大正三年、桂謙告氏等によって神戸分会が組織され、これが後に神戸葺合支部となったのだと記されているが、支部の出来だのは、神戸支部の方が早かったのだと記憶する。

 神戸支部は、川崎造船所の本工場の労働者の組織したもので大正四年二月発会式を挙げ、当時神戸高商の教授であった山県憲一氏がその支部長に挙げられた。木村錠吉、颯波先三、須々木純一氏等有力な人々が幹部組合員であった。

 山県憲一氏は基督教信者で、人道主義的な熱情を以て深く労働運動に傾倒し、進んで支部長の椅子に就いた。氏は当時なお学者間にも余り問題にされていなかった「職工問題」 (まだ労働問題とはいわなかった)に興味を持って、後には「職工組合論」という書物をさえ著わしたほどの進歩的学者であった。もし同氏がなお数年健在でいたら、同じ人道主義的立場を採る賀川豊彦氏と手を握って、相共に十字架的精神を以て社会正義のために健闘した事だろうが、惜しいことに、賀川氏の労働運動への進出を見る前に、すなわち賀川氏の外道中に早世してしまった。

 山県氏の死去後、神戸は適当な指導者を持たなかったが、しかし、時勢は駸々として進んで、労働者の団結は、雪の上を転ばす雪達磨のように、次第にその塊りを大きくして行った。川崎造船所本工場を地盤とする神戸支部の外に、川崎三菱両造船所兵庫工場を中心として兵庫支部が生れ、川崎造船所葺合工場及び神戸製鋼所、ダンロップ護謨会社等の労働者によって葺合文部が組織された。そして大正六年二月にはこれ等の三支部によって友愛会神戸聯合会が組織され、その主務として、東京の本部から常務幹事高山豊三氏が派遣されて来た。

  神戸聯合会主務高山豊三氏

 世間には高山豊三氏を、高山義三氏と混同する人が少くない。たった一宇違いだが、全くの別人である。豊三も義三もともに基督教信者であり、同じ友愛会のリーダーであったが、前者は神戸の主務、後者は京都の支部長であった。(義三氏は現在は京都市長であるが、当時はまだ京大の一学生であった。)

 友愛会は前記のように教会の一室から生れたものだけに、その支持者を、また鈴木氏の事務の手伝いをしてくれた者もみな信者だった。最初、暫くの間ではあったが、当時、統一教会の伝道師であった加藤一夫氏が、鈴木氏の手伝いをしてくれた。(加藤氏は人も知るごとく一頃は大杉栄氏等と共に無政府主義陣営にあった思想家だが、終戦の少し前、永眠した。氏の横浜の旧居は本文の筆者が譲り受けた。)

 高山氏はその頃、神学校を出たばかりだったが、加藤氏の紹介で友愛会入りをして、約半歳、鈴木氏を扶け、創業時代の友愛会を守り立てているうち、牧師として静岡県小山町に赴任する事となり、友愛会を去った。氏の赴任した小山には有名な紡績工場があって、早くから友愛会の支部が設立されていた。氏は牧師の仕事の傍ら小山支部の顧問として、その面倒を見た。氏ばかりではない。氏の夫人も、支部に属している女工さん達のよき姉となっていろいろと面倒を見た。

 或る朝、高山夫人が町の風呂へ出かけたところ、徹夜明けの女工が、まるで雪の中から出て来たかのように、真ツ白な綿ぼこりを頭にかぶっているのに胸を打たれ、さらに、流し場で洗っていると、子供づれの女工さん(通勤女工の中には多くの母親がいた。)が、わが子の背中を流しながら、徹夜仕事の疲れからであろう、われ知らず居眠りをし、とんでもないところを洗って子供に泣き出され、ハッと眼をさます有様を見、言い知れぬ感情に襲われ、それ以来、夫君を扶けて、一生懸命に女工さん達の世話をしたという。

 高山豊三氏が神戸に主務となった日から三月だって、賀川氏はアメリカから颯爽として帰朝した。久しく神戸支部長として指導してくれていた山県憲一氏の死去で一沫の寂しさを覚えていた神戸の友愛会は大いに気を強くし、会員もふえて行った。そこで鈴木会長は大正七年一月、大阪、神戸両聯合会の上に関西出張所を開設し、その主任として本部副主事久留弘三氏を任命し、神戸の高山、大阪の松岡駒古両主務と協力して関西全体に亘って拡張運動を推進させる事となった。

 賀川豊彦氏の印象

 今でもハッキリ覚えているのは、久留氏が大阪へ赴任した時、鈴木会長の紹介状を携えて、大阪郊外に住む筆者を訪ねて来た事である。勿論、初対面であった。

 「時に、賀川豊彦さんを御存じでしょうか。鈴木会長から、賀川さんにいろいろ御指導を仰ぐようにと、言いつかって来ているのですが。」

 「ええ、知ってますとも、去年の五月、アメリカから戻って来て、神戸の貧民窟で貧民の世話をして居る人です。」

 筆者が賀川氏を始めて知ったのは大正六年七月十四日の午後の事だ。かくまで正確に言えるのは、私の記憶が確かだからではなく、その日、氏が試みた講演の大要を筆煮が書いて載せた大阪毎日新聞の切抜か残っているからである。場所は大阪堂島田簑橋々畔の大阪府知事官邸、大阪府救済事業研究会の月並例会の席上であった。

 六年七月といえば、賀川氏がアメリカから帰ってまだ二ヵ月経つか経たぬかの時である。その日の筆者の印象は、いかにもアメリカ戻りらしい瀟洒な青年学者で、非常に謙遜な、愛嬌のある、人触りの百パーセントに善い人―-というのだった。確か、白い麻の夏服を着ていたが、その上衣の極めて短いのが大変にその人をスマートに見せた。

 筆者は小河滋次郎博士に紹介されて名刺を出した。すると氏は

 「おお村島さんですか。僕はあなたが毎日新聞に連載された『ドン底生活』を図書館で面白く拝見しましたよ。大変参考になりました」

 あだかも十年の知己のように、堅く筆者の手を握った。今もそうであるように、人をそらさない氏のアットホームなその態度に、筆者はすっかりチャームされた。思えば、これが筆者を氏に結びつけて、労働運動に、労働者教育に、社会事業に、宗教運動に、同志として、協力者として、信者として、読者として四十五年を倶に在らしめたそもそもの始めだった。

 野倉万治氏その他

 大正六年五月六日、神戸聯合会成立記念大講演会が大黒座で開かれ、次で九月九日にも特別講演会を開催、賀川氏が始めて出演した。

 何しろ、神戸は川崎、三菱両造船所、神戸製鋼所の如き大工場を持っていてそこに働く労働者の大部分は熟練工であるため、組合運動の発達も他の都市より早かった。また会員の変動というものも少く、幹部の如きは殆んど動かなかった。現に高山主務時代の幹部はその翌々年のサボタージュや四年後の大正十年の大争議のリーダーと殆んど変りがないのでも知れよう。そしてその組合の幹部が大体造船所の職長(職工仲間では工場長と俗称していた)や伍長、伍長心得といった人達だったため、組合はまじめに発達して行くことが出来た。

 大正七年一月の友愛会の機関誌「労働及産業」に出ている「神戸聯合会消息」を見ると、神戸支部(川崎造船所本工場)では颯波(職長)須々木(伍長)野倉(伍長)の諸君の名が出ている。

 野倉氏はいうまでもなく大正八年の川崎のサボタージュや大正十年の大争議の総指揮者であった野倉万治氏であり、須々木というのは野倉君の女房役――というよりも姑役であった須々木純一氏である。

 これより先き、神戸の主務として、指導に当っていた高山豊三氏は教会の牧師としてアメリカヘ出かけることとなり、在ること九ヵ月で神戸の労働者にサヨナラを告げることとなった。高山氏としでは、別に労働運動に失望した訳ではないが、やはり牧師として身を立てようと考えたのであろう。まだ組合運動の重要性の一般に認識されていない時だったから、これも致し方がない。十一月五日高山君の送別会が開かれてお餞別として金十円が贈られた。

 高山主務を失った神戸は、リーダーがいなくなった。この時みんなの頭に浮んだのは、これまで二、三回、演説会に出てくれた新川の貧民窟の「先生」賀川豊彦氏だった。

 久留弘三氏の登場

 その頃、神戸聯合会傘下には神戸、兵庫支部のほかに葺合、尻池にも支部が出来ていた。葺合支部では、賀川氏の住む新川がその部内にあるだけに、余計に賀川氏に期待するところがあって、大正七年一月十三日新年幹部懇話会にも特に賀川氏の出席を求めた。

 茶話会は湊川実業補習学校で開かれた。湊川及び兵庫の実業補習学校には、川崎造船所から多くの熟練工が夜間就学していて基礎の技術教育を学んでいた。野倉万治氏や青柿善一郎氏など組合幹部でその通学生だった者が少くなかった。学校長の岸田軒造氏や寺崎九一郎氏は、組合運動の同情者で、弁士の少い折には演説会にも出演してくれさえした。

 茶話会で賀川氏は「英国における戦時労働組織について」約一時間に渉る雄弁を奮った。さらに山県憲一氏を喪い、近くは高山主務を失って寂しく思っていた神戸の労働者たちは、賀川氏の出現をどんなに喜んだ事だろう。

 この茶話会が済んで間もなく、詳しくいえば一月二十六日、高山主務の後任として久留弘三氏が来神した。久留氏はさきに記した如く、新設の関西出張所主任に新任されたもので、神戸主務はその兼務であった。

 賀川氏の出現と久留氏の赴任によって、神戸聯合会は俄然元気を盛り返して来た。そして賀川、久留両氏は善き
コンビを作った。(翌八年には筆者が加わって、トリオができた)。

 久留弘三氏は大正五年の早大政治経済科の出身、大阪天王寺中学にいた頃は横綱大錦卯一郎や宇野浩二と同窓だった。岩橋武夫は下級生であったが、勿論、失明前で、その美少年振りに、久留氏等は善く追っかけたものだという。

 久留氏はその早大にある頃から労働運動に興味を持って、友愛会に出入していた。今は共産党の大立物である野坂参三氏も当時は慶応の学生で、久留氏と一緒に友愛会に出入していたもので、卒業と共に、二人はその儘、友愛会に這入った。

 久留氏は高山氏の如き基督教信者ではなかったけれども、後年、友愛会を去って基教界の変り種である斎藤信吉氏と共に、人格主義の上に立った独特の労働者文化運動を始めたぐらいの人。

 山県氏といい、高山氏といい、賀川氏、久留氏といい、神戸の開拓者がみな基督者であったことは奇遇といわねばならない。
 
 友愛会六周年大会

 大正七年四月には友愛会六周年大会が大阪で開かれることとなった。大会経費予算二百円の内、本部が六十円を負担し残り百何十円は関西で負担しようという。神戸・大阪・京都など関西側の実力のほどが窺われる。

 四月三日、友愛会六周年大会は天王寺公園前の公徳社の二階で開かれた。出席代議員七十七名、大阪・神戸のほか東京・名古屋・京都・舞鶴・広島・呉・門司・八幡からも代表者が出席した。 この大会で美しい会章のついた短冊型のバッヂを代議員章として交付したが、恐らくはわが国におけるこの種の大会でバッヂを出した最初であろう。

 また議事の裁決にギャベルを使用したのもこの大会が最初であろう。ギャベルは鈴木会長が前年アメリカの労働組合大会に出席した際、特にもらいうけてきたものである。

 会場には賀川氏や古市春彦氏などの顔も来賓席に見えた。筆者は会員の五分間演説の後を承けて「産業社会の悲劇」について二十分ばかりしゃべった。来賓演説としては筆者だけであった。

 つづいて同夜、天王寺公会堂で聞かれた公開講演会――「友愛会六周年大会記念社会政策講演会」は天王寺公会堂を埋めつくす盛況だった。

 その筈である。講師は高石真五郎・賀川豊彦・今井嘉幸・関一という顔触れだったからである。

 当時、筆者は大阪毎日新聞の内国通信部に属していた。課長は岡崎鴻吉氏(翌年神戸支局長となり、筆者を神戸へ連れて行った)で同氏は早大で大山郁夫氏や永井柳太郎氏と同級だった人。社会主義や労働問題に非常に興味を持っていて、氏が責任も持った本版と称する紙面の全ページ五段を友愛会大会のために割愛し、筆者に独りで五段の記事全部を書くよう命ぜられた。

 講演は議会の記事のそれのように、話を聞きながらずんずん書いて行って、できる尻から自動車で本社へ運んだ。無論、こんな事をしたのは大毎だけで、他紙は十行の記事も書かなかった。

 当夜、私は演壇の下の机で、友愛会本部から西下した野坂参三氏と向いあって筆記をしていたが、大毎の肩の入れ方とそして筆者が即座に記事を仕上げて行くやり方にひどく感心して「素晴しいなあ」を繰返していたことを思いだす。

 恐らくこれほど大新聞が大々的に組合の大会の記事を取扱ったのはこれが最初ではなかったろうか。これは全く岡崎氏の好意の賜物である。そしてその好意は翌年神戸でいよいよ華やかに開花したことは後に記す。

 なお面白いことには、当夜の弁士の中に大毎の幹部である高石真五郎氏も加わっていたが、筆者は自社の人の演説をのせるのはどうかと思って一切省略した。

 ところが、翌日になって社中の問題になった。それは「今井博士や関博士のものをのせるのはいいとして、賀川某の如き無名の男を名士として扱い乍ら、高石氏を略するのはけしからん」というのだ。筆者は腹の中で笑っていた。今に見ろ、お前たちは賀川の名を拝む時が来るから――と。」という称号が麗々しく記されていた。

 それほど、まだ賀川氏の存在は一部識者以外には知られていなかった。いいや労働組合員でも神戸以外の諸君は、当夜の熱弁を聞いて初めて氏の存在を認識した者が大部分だったのである。

 賀川氏葺合支部長に

 大正七年に這入ると、賀川氏は神戸の友愛会のため一段と力を入れ出して、自分のみならず、友人たちをもつれて来て演説会に出た。

 新年初頭の茶話会に次で、二月三日兵庫の実業補習学校で大講演会を催した際には、賀川氏が「相互扶助論」をやった外、恩師マヤス博士をもつれて来て「労働者と人格」という題で一席やって貰っている。

 叉四月十七日の幹部修養会でも賀川氏は鈴木会長らと共に講演をしている。そして五月には氏は推されて葺合支部長となった。当時、同支部加盟の組合員は神戸製鋼所職工その他約二百名であった。賀川氏の友愛会--従って労働運動との正式のつながりはこの時から始まった。

 記録に漏れているので、はっきりした月日は判明しないが、賀川氏が葺合支部長に就任した前後に、葺合小学校で同支部の「講演会」が催され、友愛会本部書記だった野坂参三氏と筆者とが講師として出演した。

 その時、野坂氏は当時、労資の問で頻りに唱道されていた労資協調諭を正面から攻撃して「労資が協調するなどというのは、ライオンとウサギを同じ檻の中に入れて仲よくしろというのと同じ愚論である」と、持前の低い調子ではあるが、しかし当時としては最も過激と思われるような話をやったことを思い出す。後年の野坂氏の萌芽はこの頃既に見えていたのである。
                     

村島帰之の労働運動昔ばなし(第107回:最終回)

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「長田神社のクスノキ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(107)最終回

『労働研究』(第168号)1962年連載分

     第十四回 日本最初の労働劇団
             
     (前回の続き) 

              左翼劇場より数歩先に


 この趣意書からすると、労働劇団は労働運動宣伝の一手段として創始されたもので、六力しい理論を耳から入れる代りに平易な事実を目を通しで直接労働者に感得させようというのであった。その意味では、舞台と観客席が一つに融けあうことのできた労働劇団の公演は一応の成功であったといえる。

 新劇界に左翼劇場の運動が起こったのは神戸の労働劇団の初演から数年も遅れていた。それに神戸の場合のような、昼間、工場に働いている労働者が夜の余暇を利用して演技するというのでなく、イデオロギーを同じくする学生や若いインテリといった人々の集まりで、ゴリキーの「母」などといった翻訳劇を主として演じた。観客は社会主義的傾向をもった若い年齢層で熱狂的に舞台に声援を送った点は、労働劇団と同じだったが、もっと闘争的であった。「母」の場合、罷業団員の母が、組合員の連絡のため女人夫に擬装して工場に潜入するところへ来ると「敵に見つからねように行けよ」「お母さん、資本家の走狗に注意しろ」などと、階級意識的ヤジが怒号の如く起こって、芝居とは思えぬほど実感が迫った。労働劇団の結成がもう数年遅かったら、左翼劇場の運動のような激しい階級闘争的な芝居となったろうが、少し時勢が早やすぎたので、おとなしい舞台ぶりであり、また観客の熱狂ぶりも底の浅いものであったのは当然だった。                     

 日本最初の労働劇も、時期が早やすぎて、第1回の公演だけで解散となったが、しかし、それまでの芝居が華族や富豪の子女の悲恋などを主として演して、ミーチャン、ハーチャンの涙をそそっているにすぎなかったのに、汗とあぶらにまみれた労働者を主人公とし、実際の工場生活をとり入れた芝居を労働者自らが演じて、労働者に見せたという試みは大きく評価されていいと思う。
            
 私が遺憾に思う事は、この労働劇団を沢田正二郎が指導してくれていたら、この劇団の演技がもっとうまくなっただろうという事以外、沢田に何ものかを教える結果となって、剣劇物にとりつかれていた沢田の芝居が、もっと新時代に相応しい新鮮味を加わえたであろうに、と惜しまれる。それにしても、その当時は、単に組合の宣伝の一方法として思いついて創始した労働劇団が、わが国における最初の労働者演劇として高く評価され、日本新劇史にも記載されようとは、当時中心として働いた丹崎氏や久留氏はもちろんのこと、実際演技をした技芸員の諸君(もうあの時の若かった女優さん?も60才前後の婆さんになっているだろう)の思いもかけぬところであろう。

                                      一労働運動史家一



村島帰之の労働運動昔ばなし(第106回)

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「神戸長田・苅藻川沿いの古木」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/




村島帰之の労働運動昔ばなし(106

『労働研究』(第168号)1962年連載分

     第十四回 日本最初の労働劇団
             
     (前回の続き) 

                神戸劇場での初公演


 稽古は造船所の仕事が終ってから神戸の山手のある家で毎夜のように行われた。私は久留と一しょに2、3回その稽古を見に行ったが、男女優とも熱心そのものだった。そして大正9年春、荒田町の小さな小屋で試演をした後、同年5月10日から3日間、新開地の神戸劇場(聚楽館の南向い、小料理屋の横の引っこんだ処にあった)で華々しく開演した。客は階上階下ともギッシリで、大部分が造船所の職工さんだった。出しものは悲劇「文明のたまもの」五場、喜劇「労か資か」二場、喜劇「木綿実行」一幕で、みな労働者の日常茶飯事を扱かったもの。その上、小道具には金旋盤やフライス盤を運んで来て、舞台でそれを運転した。何しろ本モノの職工さんが、本モノの機械を動かすのだから真に迫らなければウソだ。それを見て観客はワーツワーツと大さわぎである。「しっかりやりやー」「削りすぎたらあかんでエ」と大向うからの声援でセリフもよく聞きとれないぐらい。舞台と観客席が一体となって芝居をしているのだった。

 こうして興奮と怒号、叫喚のうちに、芝居の幕はおりた。演技の上手下手は問題でない。みんな満ち足りた思いで劇場外に吐き出されると、新開地の人波の中へ吸い込まれて行った。

 労働者による、労働者のための労働者劇(リッカーツの言葉の受け売りだが)は、こうして大好評の裡に神戸の初演を打ちあげ、それからは加古川、姫路などを持ってまわった。労働劇のドサ廻りが始まったのである。

 しかし、始めは純粋な気持でやり出した労働劇だったが、だんだん時間がたつにつれて、技芸員(役者とはいわなかった)の諸君が色気を出し始めて、いわゆる役者かたぎが露呈して来た。

 これは技芸員だけのせいではなく、周囲の人たちにも責任があった。たとえば、神戸劇場の初公演の時でも、楽屋へ行って見ると、はなやかな楽屋座蒲団が贈られて来ていて、壁面には「何某さんへ、何某より」といった紙片が貼ってあった。これでは場末を興行して廻る三流の芝居と異るところがない。私はもう少し真剣味がほしいと思ったが、いい気持でやっている人たちにケチをつけては相済まぬと思って口をつぐんだ。

 此処で私は労働劇団の設立趣意書を取出してみる。これはリーダーの丹崎氏の筆ではなく、久留氏のような気がする。


              日本労働劇団趣意書

 私どもはこれまで労働運動を宣伝せしむる手段として演説会や示威運動の方法を採って居りましたが、今回さらに「耳よりも目から」「理性よりも感情に」訴えて運動を試みようとの希望から、生活問題や労働問題を取扱った劇を上場しようとして、同志相依って此処に「日本労働劇団」を組織するに至った次第であります。俳優はいずれも毎日ハンマーやヤスリをもって工場に働いている労働者であります。芸は素より未熟でありますが、労働心理を確実に表現する上においては、敢えて玄人にヒケをとらぬ自信だけはあります。何卒大方諸彦の真面目なる御指導と御引立のほどを呉々も御願い申上げます。
 大正九年三月
                 日本労働劇団
                         発起者 丹 崎   勉

           規     約

1.本団は日本労働劇団と称す
1. 本団は演劇の形式に依りて文化運動の促進を期するものとす
1.本団の資金は大方の寄附金及び会員の会費を以てこれに充つ(下略)

           役     員

総監督 久留弘三
願 問 今井嘉幸  賀川豊彦  村島帰之
工場長 久我米松

               技 芸 員

池沢清     間正 太郎   西川桂     川島 拾月
川田薫     河上  実   武田明敏    多賀美良夫
籤下利男    山内染之助   松本豊一    福永 酔月
藤田仙哉    鉄山  昇   浅田誠志    安岡 綾子
小林清子    横井春子    頼安正子    小林伊音子
大林幾子    
丹崎勉(主事)   中井 三郎(舞台監督)
徳田紫成    藤田 紫影(脚色)

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第105回)

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「昨日の写真から」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(105

『労働研究』(第168号)1962年連載分

     第十四回 日本最初の労働劇団
             
     (前回の続き) 

                沢田正二郎に指導を


 その頃(大正7、8年)の神戸の大劇場といえば聚楽館と中央劇場とだった。聚楽館は神戸の帝劇といわれて、さきほど物故した梅蘭芳(メーランファン)やイタリー大歌劇団も此処で上演した。中国演劇についてはかいもく知らない私は、大阪ホテル宿泊中の梅蘭芳にインタービューを申し入れ、日本の芝居には見られない優美な肩や腰の表情の秘術について質問し、名優を困らせたことを思い出す。

 その折の訪問記は神戸版のトップに堂々とのった。また水谷八重子がまだ十四、五才の少女でメーテルリンクの「青い鳥」のチルチルを演じた時も、岡崎支局長は思いきってその可憐な扮装写真を、紙面の8段をぶちぬいて大きくのせた。こんな調子で岡崎氏は労働問題に理解をもった進歩的記者だったが、同時に茶目気たっぷりでいろいろ思いきった新聞構成をして独りほくそ笑んでいた。私はいつもそのお先き棒をかついだ。

 中央劇場は聚楽館から少し北へ登ったところにあって、大阪歌舞伎や東京の新派(喜多村や若手の花柳など)がかかったが、私は早稲田の学生時代から知っていた沢田正二郎の新国劇とは特に親しく、夜遅くなると楽屋で大部屋の連中と一しょに泊ったり、楽屋風呂にも入った。東愛子という美しい女優と偶然、同じ風呂にはいり、こっちがはにかんでしまい、まともに彼女の顔を見ることもできなかったほどの純情な青年記者だった。

 私は久留氏らをたびたび楽屋へつれて行った。新国劇のファンは独り久留氏だけでなく、友愛会員中にも熱心なファンがいた。沢田はそれを知っていて、「労働問題の芝居やってみたい」といっていた。それで少し後だが、大正10年11月には賀川豊彦氏の「死線を越えて」を上演したりした。

 沢田の女房役に倉橋仙太郎という老け役かいた。この男は後に河内で小作争議に関与したりしたほどの熱血漢で、私が生野鉱山のストに出張して帰って鉱夫の話をしたついでに「入坑の鉱夫ふと秋風にふりかえる」というメイ句を披露すると、すぐそのあとの舞台でこの句を使った。

 彼は沢田の肩をもむアンマ役をやり乍ら「ダンナ私はこの頃俳句にこっております」という。沢田が調子を合わせて「名句ができたかい」というと、倉橋は待ってましたと、今、聞いたばかりの私の俳句を披露した。沢田が「なかなかうまいじゃないか」というと「実は、生野鉱山のストヘ行かれた村島先生にきいたのです」「なあんだ、村島さんの句かい、道理でうまいと思ったよ」と沢田がいった。もちろん、脚本にはない、出まかせのセリフで、私のご馳走にいっだのだが客こそいい迷惑であった。

 話は横にそれたが、久留から労働劇団の計画を聞いた瞬間、私はこれは沢田らの指導をうけるに限ると思って久留にいうと彼は大喜び。そこでさっそく沢田と倉橋にあてて指導の依頼状を書き、久留が持って大阪浪花座開演中の沢田の許へ飛んで行った。沢田は大乗気だったが、ネ申戸出演中とは違い大阪で昼夜二部興行をやっているので、時間的に今は不可能だから、神戸出演の際まで待てないかといった。しかし、労働劇の稽古は既に始まっている。やむを得ないから次のチャンスを待つこととし「沢田正二郎指導」をあきらめた。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第104回)

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「寒中散歩<西山公園>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(104

『労働研究』(第168号)1962年連載分

     第十四回 日本最初の労働劇団
             
     (前回の続き) 

            「日本労働劇団」の誕生


 労働者の余暇利用について語ろうとして、新開地で足ふみをしてしまった。

 さて川崎造船所の8時間労働制実施に伴い、友愛会でも新たに生じた余暇を、組合運動の方に向けさせるため未組織の人々に働きかけようと、いろいろと企画を立てた。労働講座の開催は、既に組合に加入している人々の教育に役立つが、まだ入会していない人たちを一足飛びにそこへ引っぱり出すことはむつかしかった。久留弘三は組合員の教育に力を注ぐ一方、未組織の一般労働者に対するPRや文化的な働きをも忘れなかった。何とかいう外国映画が労働者の団結をテーマにしているというので、それを借りて来て各地へ持ち廻ったり、これから述べようとする労働者による労働劇団の結成に力をつくした。

 戦時中、私が早稲田大学の講師をしていた頃、一人の文科の学生が「先生は日本での最初の労働者劇にご関係だったそうですね」とたずねた。

 「日本新劇史にそう出ているのです。神戸の川崎造船所の職工さんたちだけで、労働劇を自演した時、先生はその顧問だったと書いてあるのです」と説明を加わえた。そういわれて私はサボタージュ事件直後のことを思い出した。

 ずっと以前から、自分たちだけで芝居をやって見ようという意見が、友愛会の会合でも出ていたが、サボ事件のあと、就業時間か減り、夕方早く家に帰れるようになったのを機会に、労働劇をやってこましたろやないか、といった声が、川崎造船所の電気工作部の一部から起こった。その中心人物は同工作部の青柿氏の下でサボタージュの時も活躍した丹崎勉氏だった。丹崎氏はこれを久留に話すと、芝居好きで新国劇のファンでもある彼は双手をあげて賛成して、すぐ私へ連絡して来た。私は新聞社で労働問題を担当していたが、そのかたわら、市政と演劇をも片手間に担当していた。市政はともかく演劇記者は全く方面違いのようだが、これには事情があった。

 今は違うだろうが、その頃、地方の演劇記者は劇場のご用記者の感があり、少し大きな芝居のかかる時ぱ興行元が記者を招待してご馳走したり、番組の替り目には新番組に添えで金一封(ハナクソほどだが)を届けて来たりする風習が残っていた。そこで岡崎支局長は着任と共にこの弊風を一掃し、少くも毎日新聞だけは興行元のヒモつきでない、公平な報道と批判をしようというので、学生時代、坪内逍遥先生らの文芸協会や、小山内薫氏、先代市川左団次らの自由劇場などの新劇に夢中だった私を思いきって起用したというわけであった。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第103回)

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「寒中散歩:西山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(103

『労働研究』(第168号)1962年連載分


     第十四回 日本最初の労働劇団
             

           レジャーの楽園新開地


 大正8年8月、川崎造船所怠業事件が解決し、いわゆる「8時間労働制」の実施を見るまでは大体10時間の定時労働の上に平均2時間の残業をして、平均11時間59分(大正8年5月現在)という長い実働時間だったので、レジャーをたのしむというようなことはほとんどなかった。それがサボタージュ以後、時間の短縮により、基準の8時間の上に平均2時間の残業をして1日の就業時間は9時間55分(大正9年5月現在)に減じた。そして出勤率もサボ以前の82パーセントから86パーセントに上昇し、賃金も以前は1人当り工賃1円92銭4厘だったのが、就業時間減少にもかかわらず2円62銭8厘と却って70銭増加して職工さんおよびその家族は大喜びだった。

 こういうわけで、職工さんの拘束時聞が減りからだも楽になり、それに心理的な解放感も加わってレジャーを楽しもうという余裕が出て来た。しかし、レジャーとはいっても、今日のように、旅行や登山に出かけるというほどのことはなく、せいぜい新開地の盛り場をぶらついて映画や芝居を見たり、安直な飲食をするというぐらいがせいぜいだった。

 当時、神戸の盛り場といえば「新開地」界隈にきまっていた。南北わずか5丁か6丁のいわばネコのひたいぐらいのせまい地域だが、そこには、あらゆるレジャーをたのしむ大衆向の施設が揃っていた。私は大毎神戸支局を去って大阪本社勤務に転ずる間ぎわに、約1ヵ月にわたって「新開地界隈」と題する続きものを新聞に連載し、この民衆娯楽の楽園の内容と外観を解剖した。(のちに久留弘三らの神戸印刷工組合の自営工場から出版された)それにはこう書いている。

 湊川の水は枯れる時があっても、わが新開地に人通りの絶えることはあるまい。朝まだき頃1万人を超える川崎造船所の職工さんが此処を通過し始めてから、深更、松尾稲荷ヘハダシ詣でをする芸者や仲居がアスファルトの上をカケハダシでゆききする頃まで、人影の此処に絶えることはない。湊川署の巡査が聚楽館前に立って調べた処によると、午後3時から4時までの1時間に新開地を北へ上った者2、250人、南下した者2、125人、計4、375人。さらにこれが夜ともなると人出の数はグンとふえて、午後8時から9時までの1時間の通行者は4、895人で、1分間に82人。時計がコチッと秒を刻む毎に1人半づつが通る勘定であった。

 新開地の東側には小さな飲食店などが約70軒、目白押しに並んで客を呼び、西側には北から数えて中央劇場、聚楽館の二大劇場を始め神戸劇場(手踊り)、千代の座(話専門)、キネマ倶楽部(映画)、錦座(同)、大正座(浪花節)、多聞座(安来節)、松本座(女義太夫)、菊水館(映画)、第一第二朝日館(同)、湊座と13の映画館や芝居小屋がひしめきあっていた。余暇を楽しもうとする川崎の職工とその家族は「どこにしようかいな」と戸惑うばかり。入場料は大衆席の3等なら芝居の中央劇場と聚楽館は別格で大体50銭だが他の映画館などは20銭乃至30銭(キネマ倶楽部と第一朝日館はやや高級で40銭)どこも大衆席は職工さんたちであふれるほどの大入り。

 飲食店も聚楽館の向い角の桂喜や博高館の隣りのヤッコは別として、他は「早幕35銭」「卵入りライスカレ-20銭」と大書した看板を掲げ、牛どん8銭、めし10銭、酒13銭と安直第一の大衆食堂ばかり。その中に1軒洋風2階建の洋食店が目立つが、これはカフェー、ナンヨーといって、友愛会の集会にもたびたび使われた。大正8年7月、野阪参三氏(当時は友愛会編集部員)が英国へ旅立った時も、また9年6月、私か大阪本社へ転勤した時も、友愛会の諸君が此処で送別会を開いてくれた。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第102号)

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「西山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(102

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一


              
               労働運動とPRと青服叢書


 機関紙「新神戸」の発行と平行して講習会が友愛会の事務所や組合員の2階なっで随時開会された。久留氏をはじめ私や、私が推薦して大正日日新聞に入れた松任克己氏も時々顔を出した。今日では労働問題の書物もイヤというほど出版され、労働組合の会合もたえず開かれて、労働大衆が労働運動に関する智識を吸収することは容易となったが、40年前は手軽に読める書物も少く、話を聞く機会が少なかったので、友愛会の講習会は組合員に喜ばれた。

 ただ、8時間労働制は実施されナことはいつでも実働時間はそれに2時間ぐらいの残業を加えた10時間以上となっていたので、聴講者の来会するのが遅かっナこ。それでもう誰も来ないのだろうと思って尻をあげようとしているとドヤドヤとやって来て、あわてて座り直すというようなことが少くなかった。だから友愛会の支部の講習会に出ると西宮に住んでいた私などは帰宅は11時をすぎることが多かった(私は尻池支部長だったので、集りも尻池方面が多かったので、往復に多くの時間を要した)
              
 友愛会の事務所では久留氏が継続して労働運動のイロハを解説したが、これを一冊の書物にまとめ、賀川豊彦監修の社会問題叢書という小型文庫版の第1篇として大正8年5月に東京の警醒礼から出版された。この社会問題叢書の第2篇は「英国社会運動史上の人々」と題する野坂氏の小著で、この頃は野坂氏も賀川氏の仲のいい同志だったのである。また第3篇には前に述べた賀川氏の「労働者崇拝論」が同年11月に出たが、発禁となった。第4篇以下にはフランス、ドイツの労働階級史やC・G・Tの研究などが続刊されたが大学生あたりでないと、ちょっと消化できにくいものばかり。労働組合員には少数の人を除いては程度が高すぎて読む者は少なかった。ただ久留氏の「労働運動」だけがわずかに大衆向きであった。

 そこで、久留氏と私は、もっと平易な啓蒙的なパンフレットを出版して広く労働大衆に読んでもらおうと相談した。賀川氏も賛成して若干の金を寄附してくれたし、久留氏や私もなけなしの財布をはたき、前に書いた友愛婆さんもそのパトロンの質屋の且那にせびって出資してくれたので、資金もでき1冊5銭で売ることとした。そこでまず私がごく初歩のイロハを書くこととなリゾンバルトの書物の中から挿話を借りて来たりして青服叢書第1篇として9年3月に「労働問題とは何ぞや」を出した。わずか26頁の小冊子だったが、初版500部を出し売切れて再版500部を追刷りし合計1、000部が菜ッ葉服のポケットに収まった。このパンフレットははじめ「菜ッ葉服叢書」としようと私がいったが、菜ッ葉はひどすぎるというので「青服叢書」という名称におちついた。第2篇は久留氏が「賃銀奴隷の解放」というのを出したが、賃銀奴隷という文字が当局のお気に召さず、発禁になった。

 これらのパンフレットはもちろん市中の書店で販売するのではなく、組合の幹部が工場へ持って行って、上司の目をぬすんで組合員や、組合に好意を持つ連中に頒布したほか、友愛会神戸連合会の若手のピチピチした連中が「新人労働団」を結成し、労働組合の宣伝を兼ね新開地あたりまで進出して、夜店のバナナ売りハダシの雄弁をふるって道行く人にも売った。この新人団一―和田惣兵衛、貫名作三、玉置清治といった当時の紅顔の美青年も、もう60を過ぎたシナビタ老人になっていることであろう。

 「兵庫県労働運動史」を見ると、この青服叢書は7編まで出たようになっているが、それは予定であって、実際に出たのは上述の2篇の次に私が大正6年の友愛会全国犬会でしゃべった「産業社会の悲劇」を書き直して出したものだけで、あとは資金の回転がうまくいかなかったのと、私か大阪本社に復帰することになったことなどで、やめになったのは遺憾であった。予定されていた私の「国際労働会議の成果」も原稿はでき上っていたが、パンフレットにはならず、労働者新聞に連載された。昔はものを思わざりけり、どころか、みんな随分苦労をした。それを思えば、今は苦労が少ないといえるのではないか。

村島帰之の労働運動昔ばなし(第101回)

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「観音山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(101

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一


              「新神戸」の創刊と賀川論文


 1万人運動などによる量的拡張ももちうん必要たったが、それにも増して必要とされたのは、組合員の質の向上だった。質の向上といっても、各組合員の意識には深い浅いがあるので、劃一的では効果がなかった。東京では友愛会の機関誌として「労働及び産業」と題する啓蒙記事と傘下各連合会、各支部のニュースを主としたものを出す一方、リーダ一格の人々のためや、高級な理論本位の「社会改良」を出した。前の一般雑誌は関東震災の際、南葛労働組合の川合義虎と共に憲兵に刺殺された平沢計七氏(紫魂と号す)が主として編集し、あとの理論雑誌の方は野坂氏が編さんして、理論的指導に当っていた。まだ本当のマルキストにはなっていないで、ロバート・オーエンを始め英国社会運動の人々の伝記などを誌上に紹介していた。そして大正8年7月には神戸から発って英国留学の途に上った。私は久留氏と二人で船へ見送つたが私たちのほかには伯父さんが一人見送ったきりだった。(彼が本式にマルキストとなったのは英国留学以後のことである。)
     
 久留氏は東京に敗けてはならじと、前記の本部発行の2誌のはかに、神戸連合会のとし別に「新神戸」を大正7年8月号から創刊した。「労働者の手になる最初の労働新聞」と自讃するほどのことはない小雑誌にすぎなかったが、毎号その巻頭を飾った賀川豊彦氏の論文だけはすばらしかった。正直にいって、賀川氏は友愛会の事務所にもあまり顔を出さず、公開演説会に出席して造詣深いところを演説して聴衆を感嘆させるだけだったが、「新神戸」発刊以後は同誌を通じて絶えず労働者に呼びかけたので、「神戸に賀川豊彦あり」という誇りが神戸3千の友愛会員の心に芽生えて行つた。

「新神戸」は翌8年3月、友愛会関西同盟が結成されるとともに「労働者新聞」と改題され、間もなく、関西同盟会の中心が神戸から大阪に移るとともに「労働者新聞」も西尾末広氏を主務とする大阪連合会の手に渡ったが、「新神戸」以来の賀川氏の巻頭論文は引きつづき新聞を飾った。「新神戸」から「労働者新聞」に移った大正7、8両年にわたり賀川氏が執筆知ら論文は、後年の筆記とは異なり、同氏が貧民窟で精魂を傾けて書いたもので、いずれも短文だが、格調も高く、散文詩のような名文で、読者の心をわき立たせた。それと同時に官憲の心にも触れて治安紊乱の廉でたびたび発禁の厄にあった。しかし、内務省から禁止命令の届く頃には、大部分は会員の手に渡っていて、実害はなかった。ただ、これらの文章をまとめて出版した「労働者崇拝論」は伏字が沢山してあったにもかかわらず、またもや発禁となった。賀川氏は数次の発禁で出版法違反が度重なって、「ぼくはもう前科3犯だよ」などといってよろこんでいた。近く「賀川豊彦全集」25巻がキリスト新聞社から発行されるが、この発禁本「労働者崇拝論」は「新神戸」に掲載された時の原文通りに復元してもらいたいものだと思う。

賀川氏が「新神戸」に執筆したものはいずれもりっぱな論文で、書きツ放しの雑文などは一篇もなかった。題名を次に摘記する。

無産者階級の出現  大正7年8月号新神戸第1号
暴動の安全弁        9月号
生存権と労働権       11月号
社会改造と労働階級     12月号
労働者崇拝     大正8年1月号
愛本位           2月号

         (新神戸改題労働者新聞)
工場民主          3月号  
工場法改正の必要      4月号
人間平等          5月号
賃銀奴隷の解放       6月号
社会連帯責任        7月号
工場の人間化        9月号
組合主義の確立       10月号
労働者と政治        11月号
人間建築          12月号
                     (以下略)

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第100回)

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「神戸ルミナリエ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(100

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一


              1万人運動と久留弘三

 サボタージュの頃の友愛会神戸連合会の会員は3千人にも足りなかった。今なら1つの工場の労働組合員でもそのくらいはある。そこで、連合会では新会員獲得のため「1万人運動」というのを起こした。組合員を一挙に1万人にふやそうというのである。そこでまずできるだけ各方面で宣伝演説会を開いたり、労働組合早わかりといった風な宣伝ビラをまいた。

 近刊の「兵庫県労働運動史」を見ると、その宣伝文の1節が抄録されている。

 「吾等の運動は正義の上に立脚す、然れども、力なき正義は根のなき花の如し、吾等は団結によりて力を得ざるべからず、これ吾等が「1万人運動」を開始したる所以、憂国の労働者よ、来りて我が団体に投ぜよ」

 硬くるしい文語調は、賀川氏の筆でないのは勿論、久留氏や能文家の青柿善一郎氏の文章でもない。とすると、どうも私の書いたものらしい匂いがする。

 久留弘三氏は私よりも2年下の早稲田大学の卒業生(鈴木茂三郎氏より1級上)だが、早大在学中から学資稼ぎのため友だちと「テンセン・ストアー」(10銭均一の店)を開いていたという商才をも具えた活動家だったので、主務となるとともに会員の拡張には一番意をもちいて、1万人運動などというものを計画したのでめった。

 久留氏は早大在学中から友愛会に出入りしていた。その頃、慶応の学生だった野坂 鉄氏も一緒で、労働問題の研究に余意がなかった。野坂鉄というのは現在の日本共産党の野坂参三氏である。野坂氏は学究肌のおとなしい美青年で、慶応を出ると小泉信三教授の推せんで一時慶応の講師をしながら、やはり友愛会の仕事をつづけていた。友愛会での仕事というのは主として機関誌の編集で、大正7年4月、大阪で開かれた友愛会の6周年大会にも野坂氏は大会の記録係をつとめ、大会の終った夜の公開講演会には演壇下に作られた小テーブルに、野坂氏と私か向いあって仲よく関一博士らの講演要旨を筆記した。

 その年の1月、私は「ドン底生活」という貧民研究の小著を出版したので、野坂氏に送ったところ、彼は刻めいに読んで、誤植を全部ひろい出し、「再版の時に役にたてて下さい」といって送ってよこした。野坂氏はそういう人だった。

 これに反し久留氏は実務家といった努力家で、友愛会の発展のため次から次へといろいろの企画を応てた。1万人運動は大正8年10月に始まったのだから、彼が神戸連合会の専任主務になって2年目で、連合会を強化するためには、どうしても1万の組合員がほしいと実感した結果である。

 久留氏は随分と変ったプランを立てる男で私たちを面喰わせた。彼は1万人運動も、定石通りの演説会やビラだけでは平凡だと思ったのか、「友愛会1万人運動」と大書した番傘を大量にこしらえて、にわか雨の時など、何人かの菜ツ葉服を着た連中が相合傘で市中を歩くようにした。

 私もその1本を買わされたが白浪五人男の綾瀬川堤の勢揃いの場のような、傘をアミダにさして大道を高歩するのはちょっと気がひけて、ついに一度もささずしまいで、社会主義文献数十冊とともに大原社会問題研究所の資料室へ寄附したが、今も残っているかどうか。

       (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第99回)

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「ぶらり散歩<観音山公園>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(99

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一


                 
               勝ち戦にもふえぬ組合員


 さて、また話を本筋の友愛会神戸連合会に戻そう。大正8年の川崎造船所の怠業事件は野倉萬治、青柿善一郎、柴田富太郎、石橋市作、広田健児氏らの友愛幹部が中心になって決行されたが、しかし友愛会自体が正面きって乗出したというのではなかった。

 現に岸愛会の智識分子のリーグ一賀川、久留氏らは直接これに関与せず、賀川氏の如きは、明らかにサボタージュに対して反対の意見を東京の新聞に書いたほどである。従って怠業事件の要求条項が全部容れらたばかりか、思いもかけなかった「8時間労働制の実施」という大きな副産物をさえ招来したからといって、労働者はこれを労働組合――具体的にいえば友愛会神戸連合会の偉力の賜物とは受取らなかった。ただ漠然と「労働者が勝ったのだ」という意識があっただけであった。

 そういうわけで、怠業事件の勝利ということがあったにも拘らず、友愛会の会勢はさして発展を見たいということはなかった。つまり労働者の組合意識はほとんど高まるということがなかったのである。

 それに、今日のように労働組合が法によって認められ、保護されて、組合費の如きも、会社が組合に代って俸給の中から差引いて、一まとめにして組合に渡してくれるというようなことがなく、組合の幹部が一々会員の手から会費を受けとり、また機関誌が発行されると、組合事務所に行って受けとって来て会員一人一人に手渡すというのだから、その手数は大変なものであった。

 それだから、よほど労働組合運動に対し理解と関心を持つ者でないと、オイソレと組合には加盟しなかった。その上、組合に入会している、ということだけで、上司からはにらまれ、何か紛争が起こると、人形の首でもひっこぬくように簡単にクビになるおそれがあるのだから、いよいよ敬遠されるのはあたりまえであった。そこで友愛会は何をおいてもまず組合を宣伝し、新会員の獲得に努力する必要があった。

    (つづく)





村島帰之の労働運動昔ばなし(第98回)

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「観音山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(98

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一


                 
               神戸市電気局の紳士的争議

 播磨造船所のような造船所ではなかったが、川崎の8時間労働制実施の直後、風変りな賃金値上げの要求をしたところがあった。神戸市電の電気課で、吏員・工手・工夫が詳しい生活調査を添付して、本給7割という大巾の増給要求書を出した。大正8年9月27日の事で、変っているのは、市民に迷惑をかけてはならぬとあって、

 「我等は同盟罷業、怠業その他、公共をみだすが如き行為はなさず」 

 と宣言した点て、今日の交通争議の概念からすると、全く考えられないやり方だった。しかし、実力行使は行わなかったかわり課員の生活費の調査を行い、最近の生活費の昂騰で本給7割の増給は真にやむを得ないという実情を立証する資料を提出したところは、合理的な争議戦術だったといえる。

 嘆願書(甚だ時代的の文章だが、私が書いたのではない)と生活調査表を次に記そう。


                  嘆  願  書

 謹而愁意を披歴して申す。
 現今諸物価の騰貴は停止する処を知らず其狂奔や実に驚異に失す。なかんずく我神戸市に於いては其最たるものにして我等生活上不安の感日々に悠然たり、然も之現社会の状勢にして如何とも成す能はず、為めに一同異口同音に「如何に成り行く哉」のー語に尽き競々として為す処を知らず。当局其意を諒とせられ屡々増給し以て之れを補給せられたり従って聊か愁眉を開くを得―同感謝以て今日に及べり、然るに吾等一同より主任に提出する生活状態調査書の如き実情にては到底生活の安定を期する事能はず、噫我等は公共の福祉の為謹直以て「明日明日」の念慮に慰籍せられつつ庶多の妄情苦慮と戦ひ現今に至るも遺憾なる哉今や茫然瞑目時勢に委すること能はず萬愧の声涙を吞み茲に現臨時加給金を据え置き本給料に7割の増給を嘆願せざるの止む無きに至る。希わくば一同の苦哀を愍察せられ1日も早く之が恩典を賜はらんことを鶴首止まざるものなり、誠意を表し電気課員一同連署以て嘆願す。          
                                          電気課一同



                   生活調査表

             支出
          3年     現在     
家賃       3.30   14.00
米代      18.50   41.00
副食物薪炭   14.00   24.00
家具       1.40    5.00
新聞雑誌       35      70
交際費      1.65    3.00
小遣い      3.00    5.00
電燈水道     1.10    1.30
会費         40      57
雑費       6.00   10.00
被服       7.00   12.00
合計      56.65  116.57


            収入
         3年     現在
俸給      32.00   39.30
手当       -      19.60
雑収入      8.00   12.00
居残      19.00    6.50
合計      59.00   77.40



 すなわち、収入は手当も入れて76円40銭だのに、支出は116円57銭で差引39円17銭の不足ではやりきれぬというので謹んで「愁意を披歴して申す」次第なりというのだ。

 しかし、実力行使の伴わない要求は、なかなかすなおに当局が聞きいれるものではなく、言を左右にしてウンといわない。そこで実行委員は警察署長などを歴訪したりして側面からの助勢を頼んだ結果、市でも7割の値上はムリだとしても、若干の増給を考慮するという事でケリがついた。市電には友愛会の支部はあったが、会員数はあまり多くはなく、支部長は電気局技師工藤寿男という工学士、温厚な工学上で戦闘的な争議行為は避けたのであろう。

     (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第97回)

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「観音山公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(97

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一

             
            
                庶務課長 北村徳太郎氏


 私は北村庶務課長のやり方に好感をもった。聞けばこの人はキリスト教信者だという。そういわれて見ると温厚篤実なゼントルマンであった。このクリスチャン課長は間もなく支配人となった。この人こそ、後佐世保の銀行に転じて頭取に進み、代議士に選出され、大蔵大臣にもなった北村徳太郎氏だったのである。

 ついでだから播磨造船のことをもう少し書こう。北村氏の方針なのであろうか、この造船所は当時既に民主的な雰囲気がただよっていた。

 前記の会社住宅にしても3間で3円50銭のバラックのほかに、門構えの堂々とした6間のいわば社員住宅といったような高給住宅もあったが、社員、職工の区別をつけず誰でも好きな方に住まっていいことにしてあった。しかし高給者は別として3等社員ともなると、家賃の安いバラックの方を借りる者が多く、背広と菜っ葉が隣りあって住んで、仲よく暮しているという事だった。

 もう1つおもしろいことがある。播磨造船所は相生港の東岸にあって、職工の中約2、000人は西岸から渡船で通勤していた。夜勤の職工が早朝造船所を出て、渡船で家路さして帰って来ると、船着場には彼らを待ちうけている1隊の女郡であった。客ひきの夜の蝶なら早朝からではおかしいと思ってよく見ると、それは職工たちの妻女である。それにしても此処の職工さんは何と仲のよいことだと感心していると、夜勤から帰った良人と出迎えの妻は1組ずつに分れて、河岸に腰をおろし、妻女は携えて来たフロ敷包をおもむろに開く。とそれは弁当であった。しかも2人分の一一。説明するまでもあるまい。彼らはセセコマしい家に帰って食事をするよりも、空腹の良人に一刻も早く食事をさせたいという思いやりと、景色のいい、空気の澄んだ河ばたで2人打ち揃って朝餐をとろうという女らしい考えから、かくは朝の食卓を此処まで運んで来たというわけであった。私は播磨造船所と聞くと今でもまっ先きにこの事を思い出す。

      (つづく)






村島帰之の労働運動昔ばなし(第96回)

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「震災で傷んだ狛犬」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(96

『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

     第十三回 労働組合のPR活動
             ―播磨造船所と神戸市電の要求一



              播磨造船所の労働事情


 川崎造船所の8時間労働制の波紋は地元の同業三菱造船所を始め鈴木製鋼所その他に連鎖反応を起こさせたばかりでなく、同じ兵庫県でも播州の僻地の相生町にある播磨造船所にまで波及した。播磨造船所は現在は石川島造船所と合併しているが当時は「帝国汽船株式会社播磨造船所」といって、川崎・三菱に次ぐ大造船所で大正8年頃は職工5千6百人を擁していた。その中、2千人までは地元の人たちで、九州・中国からの出稼者は会社の建て付住宅に住んでいた。私はたびたびそこを訪ずれた。那波駅で汽車を降りてから、約1里を人力車にゆられて行ったのだが、田舎道と想像していたのが意外にも街がつづいて、それがみな同じような新建の職工さん向きの小住宅で、この町全体が造船所のテリトリーであることがすぐうなずけた。会社の方針は川崎造船所ほどドライではなく、また三菱造船所ほど温情主義に偏してもいないでその中間にあるような感じをうけた。

 現に、私か車上から見た西脇の小住宅も会社が建てたものだが、職工住宅は4畳半、6畳、3畳の3間のバラックがほとんどで、家賃は3円50銭。当時としては決して安い家賃とはいえない。それで、造船所の北村庶務課長に会ってその事をいうと「その通りです。しかし、家賃を法外に安くして、その代り与えるべき賃金を与えないという温情主義は当社の方針ではございません」という説明でめった。三菱同様、白米の廉売もしていたが、市価55銭程度のものを45銭で取次ぐだけで、むしろ実費販売という方が適当だった。その代り、給与の方は地方の造船所としては「まず上等といえましょう」といって賃金表を見せてくれた。それによると、本給は平均1円40銭、これに歩増がつくので大抵の者は60~70円の収入がある。(当時、大学卒業生の初任給は30円から50円の範囲だったからいい方たった)就業時間は9時間半。これが川崎の8時間労働制実施で右へならえをした。しかし請負制の鋲打工とほかの取付工とでは利害が一致せず8時間制の実施を機会に単価賃金の値上を要求してストに突入した。8年10月のことだった。

 その頃、播磨造船所は12万噸の造船能力を目ざして生産向上を図っていて、出勤者の2割が徹夜、4割が4時間残業をやっているので歩増の収入が多く、徹夜の場合などは20割という特別歩増がついた。それで労働は過重だが実収はよく、名目就業時間の短縮で、給与の割出しが変り、それだけ残業歩増もふえたので、ストは始めたものの強いて会社に楯をつくという気持はなく会社と話しあった結果間もなく要求を撤回した。

    (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第95回)

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「会下山公園」(今日のブログ「番町の出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(95

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


             
              代表100工場の労働時間

       (この項、前回のつづき)

                  普通及特別公休日

 尤も、この労働時間は年中継続される訳ではない。公休日の設けもある。今1ヵ月中の普通公休日の平均を見ると

  官営工場  3日7     民営工場  2.9
  繊維工場  3.1     機械工場  3、2
  化学工場  2.3     飲食工場  3.0
  特殊工場  2、0     雑工場  3.0
  平  均  2、9
 
 すなわち1ヵ月に約3日の休日かある訳である。この外三大節その他の特別休日を与える向もあるが、重なるものをあげると、

  大 祭 祝 日        61工場
  春秋運動会、慰安会      8 
  氏神祭その他神仏祭      36
  工場記念日          8
  年末休日           40
  年始休日           50

 右の内年始休みは多くは3日、年末休みは1日乃至3日である。そして右の普通公休、特別公休の両者を合算すると
         
  官 営 工 場         52日1分  
  民 営 工 場         40日8分 

 を示す。即ち月3回平位宛ある訳だ。この日は1日工場から解放されるがその代り概ねは収人がない。労働者の所謂ノーチャブデーである。収入皆無で、喰わずにいなければならぬ日だ。今回の調査によれば156の工場中、公休日も給料全額をくれるのは僅か18工場で、他の138工場は1文もくれない。



               1ヵ年の実収

 このように労働時間及び休日を観察し最後に労働者の年収を予想すると左の如くである。

           実収1日    年収   
繊維工場 男     1.70   547.48
     女     1.40   367.00
機械   男     2.60   832.00
     女     1.25   400.00
化学   男     2.13   702.90
     女     1,01   333.30
飲食   男     1.93   627.40
     女     1.07   344.54
特殊   男     2.59   865.06
     女     1.24   414.16
雑    男     2.47   795.34
     女     1.78   573.14
官営工場 男     1.88   588.44
     女     1.06   331.78
民営工場 男     2.25   731.25
     女     1.74   413.34
総平均  男     2.24   711.22
     女     1.74   413.34   

 平均年収男工700円女工400円、一番の取り頭で特殊工場男工865円、一番少いのは化学工場女工333円である。 300円といえば、当時にあっても富豪が一夜の快を買う費用にも足りない。

 それが労働者にとっては1年営々として働かねば得られぬ金額である。『働けど、働けどわが暮し、楽にならざり、じっと手を見る』一一石川啄木氏の歌が思い出される。『豊葦原瑞穂国に生れ来て、飯が喰えないとは嘘のような話』一一安成二郎氏の歌も思い浮ぶ。     
                       (大正14年12月「エコノミスト」)


村島帰之の労働運動昔bなし(第94回)

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「会下山公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(94

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


             
             代表100工場の労働時間

      (この項、前回のつづき)

                 実際勤務時間の緩和

 以上、労働時間と休憩時間とを説明したが、その前者を合算したものがすなわち各従業員の勤務時間となるのである。今、労働時間(実働時間)休憩時間及び勤務時間の三者を並記すると

          正味労働時間    休憩時間   勤務時間
官営工場       8時56分      59分    9時55分
民営工場       9.10        50     10.00
繊維工場       10.00        64    11.04 
機械工場       8.36        43     9.19
化学工場       8.42        56     9.37
飲食工場       9.12        56     10.08
特殊工場       8.43        56     9.38
雑工場        8.52        56     9.48
平 均        9.13        55     10.08

 
 すなわち官営工場は勤務及実働時間共に短い上に休憩時間が短くて、最も望ましい状況を見せ、又民営工場中では、休憩時間は少しく短いが、機械工場が最も勤務時間短くて9時間19分これに次いでは化学、特殊、雑飲食の順で、繊維工場が最も長い時間-11時間4分-を工場に括られている現況である。即ち繊維工場に働く女工達はだらだらと牛の涎の如き労働条件を課せられているものであって、休憩時間の比較的長い事などは問題でない。各業態を通じ最も遅れた労働条件といはねばならない。



                残業労働時間を加算せよ

 尚ここに注意を要するのは、上記の勤務時間が、真の勤務時間の総和でないことである。上記の表に9時間といい、10時間というのは原則としての勤務時間で、実際の勤務時間は、この外に「残業時間」を加えねばならない。多くの工場では残業を課す。労働者は収入の少きを補うために悦んで此の労働時間の延長に応じる。

 先年「8時間労働制」を実施した工場が多かったが、その所謂8時間というのは、名目の勤務時間一―原則的労働時問――であって謂わば単位時間であったのである。然らば、残業時間の状態は如何。

 今回の調査工場156中残業を課しているのは92工場、すなわち5割9分を占めている。今、残業工場数を示すと

         残業工場数     公工場数    割合
官営工場      5         7      7割1
民営工場      87       149     5.7
繊維工場      14        38     3.7
機械工場      29        47     6.2
化学工場      21        34     6.2
飲食工場       5         7     7.1
特殊工場       8        10     8.0
雑工場       15        20     7.5
合  計      92       156     5.9

 すなわち官営工場では7割まで残業しているが、民営では梢下って6割弱である。民営工場で最も残業率の高いのは特殊工場で8割、一番少いのは繊維工場である。繊維工場に残業の少いのは、繊維工場が11時間労働の二交代制度になっているからである。



                 残業時間の長さ

 残章時間の長さは如何というに

  残業1時間  6     2時間  70
    3時間  8      4時間  4
    5時間  4      計   92

 すなわち8割近く迄は残業2時間を課している。これに名目勤務時間(休憩時間を含む)の平均10時間8分を加算すれば実際の勤務時間は12時間8分ともなり、1日24時間の半を工場に暮していることになる。『8時間眠り、8時間働き8時間遊ぶ』という先進国労働者のモットーはわが国の労働者に取ってば、まだまだ先の話かも知れない。


    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第93回)

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「会下山公園ぶらり散歩」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(93

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


             
               代表100工場の労働時間


 川崎には川崎の長所とそして短所があり、三菱にはまた三菱の特色と欠点をもっているが、ともかく、神戸の港を圧する大造船所としてそれぞれ1万を越える熟練工を擁し、日本の産業界に君臨する両造船所が8時間労働、9時間労働の先鞭をつけた功績は没することができない。

 神戸の各工場は素より、全国の工場は川崎三菱両造船所に見習って労働時間の短縮を行ない、これがために全国の工場は昔のように12時間以上の労働を強いるものがなくなって、全国の基準の労働時間は三菱並みの9時間が常識となった。川崎、三菱両造船所の8、9時間制実施から5年を経た大正14年10月現在で、兵庫県工業懇談会が兵庫県及び大阪府下の代表的工場百数十ヵ所について調査したのを見ると、労働時間は平均9時間12分という事になっている。もちろん、これは残業を含んでいない。全数の8割近くの工場では大体2時間の残業をしているというから、正味の実働時間は11時闇を越える勘定である。

 これを40年を経た今日と比較して見ると、かなりの進歩とも見ることができるが、しかしまだ週40時間制も容易に実施に踏切れないことを考えると、あまり進歩していないともいえよう。参考のため、当時私が経済雑誌「エコノミスト」に書いた前記兵庫県工業懇談会の調査を抄録して見る。


             実労働時間

 先ず官営工場と民営工場によって区別して見ると、官営工場の方が少しく短い。すなわち
  官営工場      8時間56分
  民営工場      9時間10分 

 民営工場における各業態別の平均純労働時間はどうかというと大体下の如くである。

  繊維工場        10時間
  機械工場      8時間36分
  化学工場      8時間42分
  飲食工場      9時間12分
  特殊工場      8時間42分
  雑工場       8時間52分
  計         9時間12分

 すなわち勤務時間の長いのは、女工が大部分を構成している繊維工場で10時間の永きに亘っている。これに反し一番短いのは智識男工の多い機械工業で8時間36分、繊維工業に比し1時間半も短い。智識のある処には必ず団結があり団結の前には善い労働条件が置かかる。無智のそして団結のない紡績女工はどうしても閑却されて、雇主の搾取するに委せられる。


         最も善い条件は機械工場

 次に各工場の純労働時間を、時間別に見ると
  6時間半  1       7時間  1
  7時間半  1       8時間  42
  8時間半  5       9時間  48
  9時間半  9       10時間  27
  10時間半   4      11時間 18
  計     156
 
 すなわち全数の約3分の1の工場では9時間制を布いているが、筆頭は機械工業である。各工場中最も時間の短いのは6時間半制の工場であるが、これまた機械工場に多い。之に反し最も時間の長いのは11時間制の工場で殆んど全部は繊維工場である。


          各工場の休憩時側

 休憩時間はどうであるか。先づ民営工場と官言工場を比較して見ると、労働時間の短い官営工場が、民営工場よりも長い。
  官営工場      59分一間、
  民営工場      50分間
 
 しかしこれを民営工場の各業態別について見ると労働時間の短いところが必ずしも休憩時間が長くはない。むしろ逆の状態にある。けだし短い労働時間のところでは、永い休憩時間の必要が少いからである。今、各業態別の休憩時間を記すと左の通り。(単位分)

  繊維工場  64     機械工場  43
  化学工場  56     飲食工場  56
  特殊工場  56    雑工場  56
  平  均 55               、
 
 すなわち一番労働時間の短い機械工場が一番休憩時間が短く、一番労働時間の長い繊維工場の休憩時間が一番長い。これは当然のことであろう。


        1日工時間を休ませる

 叉これを横から観測して休憩時間を別に記すと
  休憩30分間  37     40分間  4
    45分間  2     50分間  3
    60分間 98    90分間  9
    120分間 3    計 156
 
 すなわち全数の半分以上は1日1時間の休憩時間を与えていることがわかる。最も休憩の少いのは1日30分間という工場であるが、その大部分は機械工業である。これに反し最も休憩時間の長いのは1日2時間でこれは化学2工場と繊維1工場とである。化学はその業務の性質から考えても、休憩時間が他より多くを要する事が首肯される。

 では休憩を与える時刻は如何というに、最も多いのは午前11時半からの午飯時で、半数以上を占め、これについでは午後3時のいわゆるおやつ時刻、それから午前9時という順序である。

   (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第92回)

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「KOBE三国志」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(92

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


             
                 温情主義への懐疑


 この投書でも判るように、三菱の造船工は、折角の9時間労働制も会社が予期したほどよろこびはしなかったのである。これは、川崎よりも1時間長い労働制であったことに対する失望もあるが、一つには三菱の温情主義的なやり方に対する反撥もあったのではないか、と思う。

 この事実を証明するため、8時間労働9時間労働制が実施される少し前、農商務省から工場監督官の一行が職工の実情調査のため来神し、私か斡旋して、友愛会の幹部一一いずれも川崎、三菱の造船工――との座談会を催した時の筆記(毎日新聞所載)があるから抄記してみる。文語体で読みにくいだろうが原文のままを掲げる。


  第1問 職工優遇を以て聞ゆる三菱に紛議多く川崎に却て少きは如何

 三菱は成るほど白米の日用品廉売をなし、或は病院の設備、慰安会の開設等いわゆる温情主義を発揮せりといえども中間者の処置そのよろしきを得ざるためかえって職工の反感を挑発す。故に三菱の職工は工場が温情主義を以て職工を遇するに拘らず常に賃銀の高き川崎の職工を羨望しつつあり、これ職工優遇を以て聞ゆる三菱に紛議多く優遇施設のなき川崎に紛議少き所以なり。

  第2問 温情主義の不可なる理由

 例えば白米其他の廉売の如き結構なるも貯金をせねばこの恩典に浴するを得ず、故に子沢山にして家計不如意の者は貯金し居らざるため安米を買う能わず見す見す市中の高米を買わざるべからざるに至る。又たとえ買う資格あるものといえども遠方に居住する者は貴重なる時間を費してこれを貰いに行くも結局くたびれもうけとなる事あり、病院のあるは可なるも平職工の家族は役付職工、技術者の家族に比し冷遇を受くる嫌あり。又医員の数少きため診療を受くる迄に多くの時間を要す。故に職工は病院に来らずして附近薬舗に就きて投薬を受くる傾向あり、慰安会の芝居は神戸市のごとき足一歩出れば娯楽設備のある処にては無用の長物ならん。渡されたる切符の数が家族の数に足らざるがため慰安会がむしろ家庭不安会となることもあり、要するに温情主義はその主旨可なるも方法宜しきを得ざるが故に職工仲間には歓迎せられず。

  第3問 工場内の施設は完全なりや

 食堂の設備ある工場にありては一時に多人数はいることとて肩摩轂撃その不快云わん方なく、叉これなきものにありては煤煙塵埃等遠慮会釈なく弁当に降下し折角の白飯も一見ゴマ飯の如くなるを常とす。脱衣所の設備なきため工場内の一隅に空箱を置きてこれに充当するなど実例に乏しからず。
 
  第4問 職工は故意に工場の設備を利用せざるにあらずや

 利用せざるにあらずして利用せしめざるなり。例えば洗面所の如き工場内に1、2箇所ありたりとするも一時に何千という職工が殺倒する時は如何ともする能わざるなり、質問者は職工は何故手を洗わずして飯を食うやといわるるもその機関の備らざるのみならず、食事時間が限られ居ることとてそんなことをしていては食事の時間無きにいたるべし。
 
  第5問 休日は如何

 工場表面の規定によれば休日は毎月2回あるもその内規には休日の項に除外例を設け「但し、急施工事の場合はこの限りにあらず」とありて繁忙なる部に属する職工の如きは数箇月1日も休む能わざる者すらあり。
 
  第6問 負傷病気は如何

 製罐職工の聾、機械工の指肢不足、鋳工のソコヒ、鍛工の火傷の如きむしろこれにかからざるを不思議とする程なり、残業をなす場合など特にこれらの負傷多く三菱、川崎両工場のみにても1日の負傷者100人を下らざるべし。病気は呼器病の如き甚だ多し、今日の如く残業を始終やっていては身体が弱って病気の出るのも当然なり。
 
  第7問 近来成金職工頻出すと聞く如何

 成金職工は工長、組長等の中に或は1、2これあらんも他は幾分収入の増加に依り多少贅沢をなす者ありと雖も成金職工という程ではあるまじ、尚ここに収入の増加という賃銀の増加にあらずして仕事の増加なればこの点注意を要す、質問者は「職工中近来金縁眼鏡をかけ、金時計を下ぐるものあり」と云わるるもコハ1、2の人に止まりこれを以て全豹を律し能わざるや勿論なり。

       (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第91回)

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「住宅の花壇:パンジーの植え替え」(今日のブロウ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(91

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


         
                 三菱の職工側は喜ばず


 ところで、三菱の9時間労働制実施に対する評判はどうであったか。三菱造船所では口を開くと「三菱は川崎よりも職工の福祉増進を考えて、日用品の廉売などにも意を注いでいる」という。しかし、職工側にいわせると、そうした温情施設よりも賃金をふやし、残業しなくても生計を立て得るようにしてもらいたいというのである。安い米を供給してやるから、安い賃金で我慢して、8時間労働の、9時間労働のといわず、残業をしてジャンジャン稼ぐがいい、というのは承服できない。ましてや、 汗の賃金の支払単位が川崎の8時間に対し1時間長い9時間というのは甚だうれしくない、というのだった。

 三菱の9時間労働制が実施されて間もなく、私の許に三菱の一職工からこの事について投書が来た。私はこれを「警笛」欄に掲載した。原文のままを次に転載する


                8時間制と三菱 
                          三菱中○生

 最近川崎造船を初め住友鈴木その他大小会社工場が続々8時間労働制を実現なしつつある中に独り三菱のみは兼ての腹案とかである時間制度を発表した。その理由として報ずる処によれば8時間制度の一階梯として先ず試験的に9時間制を布いたのであるとか。過日の新聞紙上に三菱副長永原氏の名において「川崎造船の8時間労働制を見ると単に給料の計算単位を変更した迄で職工の保健、国際労働会議へ持出された真の精神が十分斟酌されて居ない」と論ぜられたのであるが、三菱が実施せんとする9時間制度に職工の保健及び国際労働会議の精神が何程存在して居るのであろうか、吾人は甚だ疑わざるを得ないものである。
                 
 殊に川崎に於ては従来の手当を本給に繰入れたのみならず上に薄くして下に厚き賃銀値上をも実施された、これを今回三菱発表の8割手当の本給直し10時間制の9時間制に比較すればいかに贔屓目に見るも川崎に比して遜色のあることは事実である。

 つぎに述べて置きたいのは三菱の最も誇号する購買組合制度である、会社では60銭の米を役員には実費、職工には25銭で供給せりと云うのであるが、60銭の米としてはあまりにも粗質である。しかしてここに一思案を要することは三菱は川崎その他の工場に比して賃銀の一般的に低廉である事実である。すなわち三菱では日給1円10銭内外の職工は上等の部類で職工伍長にして1円20銭内外のもの多々あり、組長にあっても1円50銭前後、職工として最高の責任者たる工長に至るも2円を上下するのである。

 われわれの臆測によれば安米を供給するが故に安日給を以てするのではあるまいか、もし吾人の見解にして当らんか、安日給を以て安米を得るも、高日給を得て高い米を口にするも帰着する処は何等の変わりなく差引零である。米以外の日用品の供給を受けんには貯金の資格を要する点も問題である。

 想うに会社は貯金奨励の意味に於てかくの如き資格を設けたものであろうが、職工の預金人員3、567名、預金総額216、058円で、総人員8、000余人の半数にも足りない。すなわち総人員の半数はこの制度に浴して居らないのである。今後はかかる不徹底なる制を廃し預金の有無にかかわらずこれを一般に提供し以て購買組合の組合たるの所以を明かにすべきである。

    (つづき)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第90回)

1


「瀬戸内・山口県光市海水浴場」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(90

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


    
                 右へならえの22工場


 こうして三菱造船所が9時間労働制に踏みきると、県下でも連鎖反応的に続々とこれに「右へならえ」する工揚が続出した。さきに川崎造船所の8時間制実施の際、ちゅうちょしてこれにならうチャンスを逸した小中工場は、三菱の9時間制実施と聞き、こんどはバスに乗り遅れまいと大いそぎで9時間制を実施したのだ。労働者優遇のためというよりは、そうしなければ熟練職工が逃げ出すからである。

 私の手許に残っている新聞の切抜を見ると、三菱が9時間制の実施期日と定めたと同じ10月6日に、三菱と足なみを揃えて9時間制へ踏出した工場が兵庫県下だけでも2造船所、10鉄工所の13工場を数え、また6日のスタートには遅れたが、同月末日までに実施しだのが9工場(主として鉄工所)で、その合計は22工場を数えている。

 10月6日 浜田、佐野両造船所、森田、兵庫、紅田、鈴木、岡本、高尾、中山、東出各鉄工所、明治工作所、神戸発動機
 同 9日 佐原鋳造
 同 10日 宮下製軸、平田鋳鉄工所
 同 11日 箔井鉄工所、北海林業
 同 14日 阪東式調帯
 同 16日 神戸鋳造鉄工
 同 20日 向井鉄工所
 同 21日 鈴木製油

 なおこのほか、三菱に数日先立って10月1日から9時間を実施した向もあった。日本発動機製造と浜崎造船所の2工場で、これは川崎の8時間労働実施を見て自発的9時間制を考え、三菱より一足先きに始めたものである。

 従って9時間労働は三菱の創始というわけには行かぬことは、川崎の8時間労働の場合と同様である。殊に10月中に9時間労働を実施した前記23工場の中には、残業をせず、純粋に9時間労働ズバリを実施した工場が10工場を数えているのだから、9時間プラスアルファの三菱はあまり自慢できたものではない。

 ついでに8時間労働制を実施した県下の72工場について見ても、60工場は川崎同様歩増2割乃至3割を支給して残業をしているが10工場は純粋の8時間労働制を実施したのだから「川崎の8時間ケツクラヘ」である。ただ、これらの純粋8、9時間労働制を実施したのは比較的仕事のヒマな中小工場で、職工数1万を越える川崎、三菱両大造船所とは同日に論ずるのは酷である。

    (つづく)


村島帰之の労働運動昔ばなし(第89回)

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「椿釜・上田達生さんの作品」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(89

『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

第十二回 三菱の「九時間労働制」
    ――県下大工場の「右へならえ」


    
                試験的に9時間制を


 川崎造船言が8時間労働制の実施を発表すると、一ばん衝撃をうけたのはいうまでもなく同業のライバル三菱造船所であった。これまでも三菱は厚生施設では川崎にまさっていても、かんじんの労働条件では劣っているというのが定評であった。それが、たとえ名目だけにしても川崎が8時間労働制に踏切ったというのだから三菱としても黙ってはいられなくなったのは当然である。

 そこで10月6日から9時間労働制を実施すると発表した。川崎より遅れること1ヵ月、その上、労働時間も1時間長い。先頭走者川崎との間にハッキリと1時間の差がついたわけである。

 しかし、三菱としてはまだ厚生施設では川崎よりも優位にあるという自負があるので、1時間の名目上の労働時間の差ぐらいは何でもない、とうそぶいた。9時間労働制実施に当り、永原次長が大要次のような趣旨のことを新聞記者に発表した事でも判る。

 「川崎造船所の8時間労働制を見ると、単に給料の計算単位を8時間に引下げたというに止まって、国際労働会議において採択された8時間労働制の精神である職工の福祉および保健の増進という点からは程遠い。本社は職工の福祉増進についてはかねてから意を注いで来たが、労働会議の8時間制議決に当り、日本政府が主張した如く、その理想に至る段階としてまず9時間労働制を試験的に実施することとしたのである――と。

 その年に開かれた第1回国際労働会議では8時間労働制が議決されたが、日本は国内の労働情勢がまだそこまで至りついていないことを理由に、インドなどの後進国同様、除外例を認めてもらって9時間労働制の実施を決した。それも国内法の整備のため実施を5年後の1922年(大正11年)まで猶予してもらうこととしたのであった。(このことはこんどのILO総会での週40時間労働の勧告を時期尚早として渋って、とうとう流産にもちこんだのと軌を一にしている。日本の特殊性と時期尚早論は今も40年前と変っていない)

 そういうわけで、三菱造船所としては、日本政府が8時間労働制の理想に至るプロセスとして意図した9時間労働制を採用したのだ。しかし、政府がその9時間制の実施を3年後としているのに反し、三菱は一足先きに、猶予期間を置かず、そのまま即時実行するのだから、むしろ鼻高々だったのである。

 もっとも、9時間労働制とはいっても、川崎の8時間労働制と同様、仕事の急ぐ場合は時間外労働(残業)を課するというのだから、どちらにしても、労働会議の8時間制議決からは、かなりの距離の存したことはいうまでもない。

      (つづく)



村島帰之の労働運動昔ばなし(第88回)

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「山口県光市・普賢寺の<雪舟の庭>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaa.rakuten.co.jp/40223/)




村島帰之の労働運動昔ばなし(88

『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

第十一回 いわゆる「八時間労働制」
    ――川崎のサボが起こした波紋


    (つづき)        

              8時間労働効果(川崎造船所調査)


 わが国における8時間労働制最初の採用者である川崎造船所その後の作業能率如何については、造船界は勿論一般鉄工業界の興味をもって注視を怠らないところであるが、同所の調査によれば実施以来日なお浅いため、工場全般にわたって能率増進を云々することは出来ないが、職工の出欠、製鋲、打鋲、道具製作、製条、鍛冶等の小区分においては日々の統計上その成績が適確に表示されてあるところからみても、一般工事進捗の程度もまた推知することが出来る。
           丿
 職工出勤 去る9月1日以後怠業問題発生前即ち同月17日までの間においてその出勤人員は9月4日(賃金支払日)に総人員1万4千人台を超過したほかおおむね1万2千5百人を越えず総人員に対する出勤率は7割3分であるが10月同期間において7割8分にのぼり、更に10月18日以後は8割8分を下らず25日以降は9割内外の好成績を示した。即ち10月中の平均出勤歩合は実に8割4分であって9月上半の7割3分に比し1割1分の大増差を示した。いま仮りに総人員を1万6千人とすれば千7百余人を増加した勘定になり、しかも新制度発表とともに職工の募集を中止したので、総人員は漸減して10月末1万5千8百人となり、9月中の最高1万6千7百人に比し実員において9百余人を減少したのに拘わらず、出勤率に前述の通り却って増加したので、減員を補充してなお余りある。のみならず、新に募集したものよりも技能熟達等の点より見れば、却ってその成績は良好である。ただ賃金支払日の翌日において急に欠勤者の増加する弊風は未だ全然矯正されていない。

 製鋲工事 9月1日より17までの製鋲高は最高5万4千余本2万2千5百ポンド、最低3万1千余本1万3千ポンド、平均4万6千余本1万9千余ポンドであるが、10月同期間には最高5千余本2萬余ポンド、最低4万4千本1万5千余ポンド、平均5万余本1万8千5百余ポンドとなった。9月中は作業時間12時間であり、10月4日以来は10時間作業に改めたが1日当り5万7千本2万2千5百ポットの製産高を挙げ、空前の好成績を示した。毎1時間当りの製産高を見るに、怠業前(9月1日~9月17日)は製鋲本数4千5百本を超えたのは9月4日のみであるが、新制度実施後では4千5百本を下る日は全然なく、9月16日の如きは5千6百余本の大製産高を表わすに至った。重量について見ると、9月上半は概ね1千4百乃至1千8百ポンドの間を往来するものが多かったが、10月同期間には1千5百ボンド未満のものは1日もなく、概して1千6百乃至2千2百ポンドの製産力を発揮し、その後能率ますます増進して普通の日にあってば1千6百ポンド以下に下らず、同月20日には2千2百ポンド、21日には本数5千7百本を超過した。

 船体鉸鋲 船体鉸鋲は怠業前は毎日12時間交代で、問題解決後は10時間とし、10月3日より8時間となった。然るにその毎日打鋲総数は8時間制実施以来却って増加した。

                自9月1日    自10月3日
                至9月17日   至10月17日
         殼  高   79、000本    74、000本
         最  低   23、000     43、000
         平  均   61、000     64、000

 即ち最高において減少したが平均本数において約5分を増加し、10時間制時代の平均5万4千本に比較すると約1割8分の増進を示した。10月18日以後においては1日打鋲高平均6萬1千余本に下ったが、最少日であっても5萬本を下らない状況で能率増進の結果によるもの少くない。もっとも鉸鋲作業は職工5名で1組(1ホド)とし打鋲するもであるが、その打鋲数の増減は作業時間の長短あるいは、組数の如何に関係することが大きい故にその能率の大小を比較するとすればその毎1組1時間当り鉸鋲数を対照する必要かあり。1ホド毎時間の打鋲数平均を見ると、9月上半は概ね20乃至29を示すに過ぎないが、10月上半以後には多く30乃至37の間を往来するようになった。

 道具製造 道具製造も一般に能率増進し鑪平目切の如きは能率特に著しく、1日平均目切高2百40吋内外を示し3割8分の増加を告げた。その他兵庫工場における各種作業工程は新制度実施以来ますます進捗し、特にパーミルの如きは頗る盛況を呈し、10月上半の製産高は9百36噸436で1時間当り3噸823の多きを算えた。同工揚げ定業8時間のほか2時間残業を励行したので、結局実働10時間の割合であり、これを10時間制時代に対比すると製産総高においては11噸7、1時間当りにおいては1噸余を激増した。

    期  間      総生産高     1時間当生産力
    トン        トン
   7年8月下      913,469 3,037
   同 10月上     1,032,708 3,395
   8年8月下       778,057 3,100
   同 9月上       924,736 2,737
   同 10月上 936,436        3,823

 フオーチング・ショップの製産も半箇月に20万噸を超えているが、その製産費は工賃増加の割合は多くなく、これは作業能率が向上した結果にほかならない。

   期 問   生産高   工 賃   生産費総額
   3月上   97トン    3,165   26、943
    9月上   194      3、536   29、269
    10月上   206      7、060   32、921

 出勤率は73%から78%さらに90%と上昇して職工の新規募集の必要がなくなったというし、製鋲などは、サボタージュ前は毎時4千5百本がせいぜいだったものが、8時問労働制実施以後、5千6百本にふえたというのだからすばらしい。そのほか、船体鉸鋲や道具製造、パイプ工事などいずれも能率は向上し、造船所はホクホクものである。そしてこの調子なら8時間+Aでなく、8時間ずばりにしても大丈夫という確信をさえもったようであった。

村島帰之の労働運動昔ばなし(第87回)

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「凪の座40周年リサイタル、飛び入りの渡辺善行さん」(今日のブログ「番町出合いの家」httpplaza.rakuten.co.jp/40223/)



村島帰之の労働運動昔ばなし(87

『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

第十一回 いわゆる「八時間労働制」
    ――川崎のサボが起こした波紋


    (つづき)        

                アルフア付きの8時間労働


 要するに、従来の8時間労働は、窯業やゴムエ業でも特殊部門だけに限定されていたのが、川崎造船所の8時間制実施で啓発され、これを全部門に拡大させようという要求が出て来たのであった。

 なお川崎の場合もそうであったように、川崎以前に8時間労働制を布いた工場でも、英国の労働者がメーデーの歌の中でうたっているように、「8時間働いて、8時間遊び、8時間眠って日給1シルリング」といった純粋の8時間労働(実働という方がいい)には程遠く、名は8時間でも、実質的には10時問以上働くのだった。つまり、短縮した2時間をフルに自分の自由に使用し、余暇をたのしむというのではなく、その2時間を「残業」の名で引きつづき働いて残業手当をかせごうというのが労働者側のゆき方だった。(それは低賃金の日本としてはやむを得ないことである)

 また会社側も、従来、10時間乃至12時間の労働をさせていたのを、8時間の定時と改め、給料の計算単位を低下するが、しかし、それで生産が低下しては困るので、それをカバーするため残業を課することとし、あわよくば、時間短縮により生産能率を昂進させようというところに狙いはあったといえる。そして労使双方の狙いは大体叶えられた。

 既に職工側としては従来の10時間、12時問のだらだらとした長時間労働から一応解き放され、ノルマは8時間ズバリとなり、そして定時以外の労働は残業ということになって、以前のように2時間の残業をするとしても、実働時間は定時が2時間減っただけ、自由時間か2時間ふえて、余暇をたのしむことができるようになったのだから、純粋の8時間労働ではないにしても、それだけ労働者の生活の向上と福利の向上が期し得られ喜ばしいことであった。ましてや、この喜びに均霑する範囲が、従来の狭い特殊部門から広く機械工業をはじめ全業態に及ぶようになったのだから、これを推進することに役立った川崎のサボタージュの功績はまた大といわねばならない。                     
 
 しかし、8時回労働は労働者側に福音をもたらしただけではなく、会社側にもプラスとなった時間の短縮によって、生産能率は向上したからである。前述のダンロッブタイヤーの労務管理者がいったように、これは時間短縮によって職工の健康状態が好転したからというだけではなく労働者心理が大きく影響していると見るべきであろう。

 では、当の川崎造船所における8時間労働実施後の情況はどうだったか。川崎造船所の発表にかかる調査(大正8年エ2月エ2日毎日新聞による)を次に記そう。

      (つづく)


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