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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第23回)

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「神戸・布引の滝」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作ー序文など

       わが蔵書棚より刊行順に並べる

                第23回
  

     愛の科学

         大正13年6月1日 文化生活研究会 448頁

 本書は、賀川の大正13年の2冊目の著作で、文化生活研究会より刊行されました。この研究会は、有島武郎の『生活と文学』やヴォーリズの『吾家の設計』などを出版していたところです。

 450頁ほどの箱入りの大著です。手元にあるものは初版とはいえ、箱もカバーもなく、そして口絵写真もある筈ですが、それも切り取られている古書ですが、しっかりした上製本です。奥付の著者印には、一般的な「賀川」の印ではなく「串」印となっています。これは「家紋」のようですね。

                 *      *

 最初の「例言」をみると、本書の仕上げには、前著『苦難に対する態度』に続いて、村島帰之氏が協力して出来ているようです。そして校正に当たったと記されている鑓田研一氏は、このあたりから、賀川の著作づくりに参画していることが判ります。

 本書は昭和6年に銀座書房より改版され、戦後にも昭和22年に警醒社書店より、賀川の「改版の序」を付して刊行されています。加えて昭和31年にも、福書房が上製版を出しています。

 なお、ここで本書の中国語版で書かれた賀川の「序文」も入れて置きます。これは「火の柱」に収められていたものを取り出したドキュメントです。


          作者新序

 「愛の科学」の訳本に〝はじめに″の文章を頼まれたとき、私は悲しかったです。なぜならば、我々日本人が中国に対し、愛の法則を破壊しつづけてきたからです。私は日本を愛しているのと同じように、中国を愛しています。さらに中国に平和の日が早く来るようにと祈り続けてきました。

 日本軍のあちこちでの嫌がらせで、私は異常なほどに恥じました。ところが中国の方々は、日本がどんなに凶暴だったかにもかかわらず、私の本を翻訳してくれました。私は中国の寛容さに驚かずにはいられませんでした。たとえ私が日本の替わりに百万回謝罪しても、日本の罪を謝りきれないでしょう。それで私はこの〝はじめに″の文章を書く勇気さえなくなりました。

 私は無力すぎます。私は恥じます。私は日本軍閥を感化することが出来ませんでした。

 中国の読者の方々、私を無力者と思って、私を侮辱してもかまいません。それは私が受けるべきことです。

 しかし、もし日本が悔い改めて中国と永久な友好関係を結ぼうと思ったら、それは愛の法則の力を借りる他道がないのです。いいえこれは日本と中国の関係だけではなく、もし世界中のあらゆる人種の国民がもっと先進的な文化がほしいと望むなら、それも贖罪愛の原理に頼る他に道がないです。贖罪愛の法則は宇宙の法則です。

 克魯泡特金【クロバトキン】が言った本能愛だけではたりません。本能愛は民族を超えることができません。

 民族を超えられるのはイエスの力強い贖罪愛です。それは宇宙の意識を持ち、もっとも悲しい運命の中に陥れた人類を救出するためのある種の力です。

 日本民族はこの極めて大きな贖罪愛を知らないから、私は耶利米【エレミヤ】と同じような悲しみを感じています。

 孔子や老子を生み出した国民の皆様よ、お許し下さい。

 日本民族は、鉄砲を捨て十字架の愛の上で目覚める日は、きっといつか来るのでしょう。現在私は謝罪することしか、他に何にも考えられません。もし中国の方々が、この本をめくって読んでくれたら、日本にも多くの青年の魂が私と同じように、悔やみ改めながら本気で謝罪を申しているということを忘れないで下さい。

   (一九三四年(昭和九)二月八日、於フィリピン ルソン海上にて)

                    賀川 豊彦


              *     *


本書の英訳版の、そのダイジェスト版である小著も手元にありますが、ここでは省きます。




          愛の科学

        愛は私の一切である

         ―序に代へて―

 愛の飢饉だ! それか、私を悲しましめる。都にも、鄙にも、病院にも、工場にも、店頭にも、街上にも、怖ろしい旱魃だ。

 愛の滴は何処にも見出されない。一滴も残らず蒸発して了った。それはサハラの砂漠よりも、物憂く、ゴビの大砂漠よりも物凄い。最後の愛が蒸発して了った時に、人々はみな発狂した。そして嘗て、愛に就て考へ、嘗て愛に組みしたものを虐殺し始めた。

 見よ、人々は刀剣もて武装し、鉄砲、槍、十手まで出して来て、互に憎み、互に疑ひ始めた。

 日本は、恐怖の旋風に襲はれた。日本の組織は根底から、ぐらついた。私は日本に軍隊が無いと云ふのではない。政府が無いと云ふのでは無い。目本に魂が無いと云ふのだ。

 え? 日本に魂が無い? さうだ、目本の魂は大地震と共に、ぐらついて居ることがわかった。日本人は日本人を信用して居らない。日本人は征服者としての悲哀を知った。日本人は、首都の真中に多くの反逆者の住んで居ることに気が附いた。日本人はもう自らを信じてゐない。之が、私をして悲しましめる。

 剣か社会を作ってゐた時は、もう過ぎた。刄が日本魂だなどと考へてゐる時は、もう過ぎた! 愛の外に日本の精神は有ってはならない。

 愛は最後の帝王だ。愛の外に世界を征服するものは無い。世界帝国の夢想者は凡て失敗した。秦の始皇も、アレキサンダア大王も、ハンニバルも、ジュリアスーシーザーも、ナポレオンも、カイゼルも、みな夢の如く消え失せて了った。刀剣の征服は一瞬であって、その効力は止針に価しない。

 愛は内側から社会を固める。それは楔であり、帯である。愛は殺すことが出来ない。

 日本は之を信じない。その為めに世界をよう征服しないのだ。地球の征服を祈るものは直径七千五百哩の球面を征服するに止まる。魂を征服するものは宇宙の髄までも征服する。

 東京の何処を歩いて、私は『愛』にぶつかるか? 処女も、新聞売子も、車掌も、大臣も、みな干ぬけたる顔をしてゐる。私は内閣総川大臣官邸から深川猿江裏の焼トタンの三畳敷まで見で廻る。そして私はその何処にも、日本の社会に愛の紛失したるを発見した。

 劇場に、音楽会に、宴会に、公園に、私は魂の抜け殻を発見する。歌ひ手は銀糸の刺繍の帯を紫縮緬の振袖の上にしめて出て来た。それは美しい。美しくはあるが藻抜けの殻である。焼トタンの兄弟がまだ泣いてゐる時に、彼女のこの姿は何であらうぞ!

 大川のはとりに酒屋があった。地震は酒蔵を河の中に投げ込んだ。火は岸辺に避難してゐた群衆を河に溺らせた。然し酒に狂うた多くの痴者、それらの人々の屍を取片付けようともしないで、屍の下を潜って瓶詰の酒を拾ひ集めた。酒瓶の幾百本とも知らない数が河底に横たはってゐた。貪慾な男は拾ひ貯めをしやうと瓶詰を渚に並べた。それを善いことにして、酒泥棒が水底に潜って居る中に、多くの群衆はそれを片端からかっぱらって持って行った。それが大地震の後三日の出来事であった。

 その大きな真似を国際的にしてゐるのが戦争と貿易戦である。おお、もう再び、私に欧洲の動乱を語ってくれるな! 私の心はその為めに病む。それは人間のする仕事ではない。ドイツ人、フランス人、イギリス人のする仕事だ!

 彼等は人間では無い! あゝ彼等は入間機械だ! 魂なき野獣だ! 野獣には未だ魂がある。然し彼等は、肉慾の為めに魂を売り、貨幣の為めに、人の子を大砲の前にくくり附けた。

 思ひ出すだに悶絶の種である。何故に破壊と、貧乏と、血と、姦淫を買ふ為めに八百万の生霊を殺し、二千二百万の人を傷けねばならなかったか?

 罰だ! 天譴なのだ! 愛せざるものはそれ自らに報ゐてくる! 憎悪と、闘争を七十七年かかって教へて来たものだから、世界は彼等の祈りの通りになった。木を伐れば水源の断えるのはあたりまへだ。愛の蒸発した次の日に、大戦争が起ったのだ。

 私は、愛を拒否する凡ての学問、凡ての制度、凡ての政治、凡ての芸術、凡ての宗教に反対する。私は口に信仰を唱へて、愛せざる所謂教会を拒否する。権力のみを知って愛せざる法律製造者に反対する。

 私をかく云ふことによって縛るなら縛るが善い。私はどうせ愛の沙漠に渇死すべきものなら、刄の下に一日も早く死ぬることを要求する。

 憎む為めの共産主義を私の為めに説くな。私は愛したいのだ! 果して憎悪によつて共産主義が出来るかどうか教へてくれ! 刀剣によって支えられた共産生義! それは脅迫主義では無いか。

 革命は一日にして成る。ザア・ニコラスはクロンスタツトの砲声に驚き、ケレンスキーは戦はずして逃けた。キールの一撃はカイザル・ウヰルヘルム三世の王冠を射落した。

 然し、愛は一日にして成らない!

 愛が一日にして成らないから、民衆は容易なる剣銃の道を選ぶのだ。そして人類は永遠に剣の刄を渡らせられる。渡り損ねたものは、その儘引裂かれて倒れるのだ! 人類の手品師よ、みこよ、魔術使よ、世界の凡ての剣の刄の上を、幾箇師団が並んで通れるか計算してくれ!

 剣の刄の上に建てられた共産生義を見よ、銃丸の上に据えられたクラウンを見よ、それはあまりに醜きものである。

 されば銃剣の代りに貨幣もて、魂を買ふか? 肉を売る女、梅毒薬を売る男、路次の中の不良少年、それを取締る警官、橋の袂に立つ憲兵――これをしも国家と云ふならば、今日の国歌に地獄の隣に位する。

 私は、愛の飢饉に悶絶する。

 米国上院議員の顔を見よ、ボラーの正義とハイラム・ジョンソンの愛国心の如何に雄弁に聞こえることよ! 地獄の隣地では凡て憎悪と侮蔑が正義と愛国心に聞こえる。

 民族は民族を虐使し、種族は種族を虐殺する。地獄の隣地には、地獄より吹き込む憎悪の焔の為めに、人間が凡て眼を焼かれる。米国もその一つである。

 魂よ、愛の間伐を避けて、何地に避難せんとするか? 愛の泉は何処に湧くか?

 子よ、愛の泉は谷間を探してはならない。他人の胸中を探してもならぬ。愛の泉は―-それ、おまへ自らの胸に掘らねばならぬ。

 さうだ、さうだった! 私の喉の渇を癒す為めに、他人に愛を求めで行ったから問違つてゐたのだ。私は癒す可き愛の泉を自らの胸底に掘らねばならなかつたのだ。

 人を愛しないものを、誰れが愛してくれようぞ! 自ら造らざる彫刻が、何時になれば、人間の形に成らうぞ! 衷なる魂よ、先づ、一握の石膏を取って、そこに鼻の形を作るが善い! その次に眼を、その次に口を、そして、最後に耳をつけよ、そこに人間が出来る。愛は彫刻だ。人の魂の上に彫り付けて行く彫刻である。

 私は失望しない。地上の間伐を見て怖れない。私は更に幾尺か、幾百尺か、衷なる自己の魂を掘り下げやう。愛の泉は、地上に求むることは出来ない。それを生命の懐に尋ねねばならぬ。

 私は自己の衷に神にまで掘り下げる。そして猶、徴かに聞こえる胸底の地下水に探りあてなば、その辛うじて見出した魂のオーシスを愛護して世の渇きたるものを数人でも、そこに導き来よう。

 悲しき日よ、去れよ。剣銃の手品師よ、往け! 私は神と共に愛の王国を地上に建てねばならぬ。そこには一人の罪人も損はれず、一人の乞食も蔑しろにせられない。

 夢遊病者よ、その天国が、すぐ来ると思ふか? おまへのユートピア病にも驚かされる!

 驚くな、子よ、天国は私の魂に始まった。そして、漸次それが拡大しつつある。私はそれが犠牲なしに通れる途だとは、勿諭思はない。そこに十字架が、我等を待つ。

 さらば、十字架も、死も来るが善い。それが愛の為めならば、私は悦んで死なう。

 私には唯一つの福音、唯一つの救しか無い。それは、十字架は愛によって、蹂躙せらる可きものだと云ふことである。

 愛に、凡てのものが甦る! 愛のみ全能である。愛は産み、育て、導く。愛のみが永遠である。

 愛は世界を造った。愛は世界を保持する。愛は神の本質である。

 病まねばならぬ日に、愛に私の身をまかせる。死なねばならぬ日に、愛に私の魂を供托する。愛は私の胸の最後の征服者である。私は愛の奴隷である。光栄ある奴隷よ、私は完全に愛によって征服せられた。

 私に脆拝を受けたいものは、愛を持ってくるが善い。そのものに、私は礼賛を惜しまないであらう。それが愛の断片であつても、私に取っては啓示である、神へ行く手づるである。愛あるところに神がある。愛は私の一切である。
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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第22回)

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「ぶらり:布引の滝」(今日のブログ「番町出合いの意」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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                 第22回
  

       苦難に対する態度

         大正13年2月25日 警醒社書店 187頁

 本書は、大正12年9月1日に起こった関東大震災の救援活動を契機にして、賀川が東京に活動拠点を移した後、最初に出版された作品です。手元にある原書は第5版ですが、2月25日に出版されて3月10日に5版ですから、本書の読まれ方も猛烈なものです。

 この作品の成立については、村島帰之氏の貴重な証言が残されていますので、まずそれをここにUPして置きます。それは、戦後昭和27年10月5日発行の「火の柱」に寄稿した「あのころのことー歴史的賀川講演「ヨブ記」・第1回イエスの友修養会のこと」です。不正確な箇所もあるかもしれませんが、打ち込んで置きます。

              *       *

            昭和二十七年十月五日 「火の柱」

        あのころのこと 歴史的賀川講演「ヨブ記」

            第1回イエスの友修養会のこと

                 村島帰之
 
 発足以来二年、満を持して動かなかつたイエスの友会を、街頭に押し出そうとして、神は大なまずに命じ、そのしっぽをひとふりふらしめ給うた。大正十二年九月の関東大地震がそれである。しかし当のイエスの友もまた統帥・賀川豊彦先生も、この神の遠大なる計画を知る由なく、御手に導かるゝまゝ、神の準備せられた集結地、富士の霊峰の下、風清き御殿場の東山湖畔に三々五々集合したのは、震災に先立つわすか七日の八月二十五日のことだつた。そしてこの集いにおいて、イエスの友の面々は、賀川先生の声涙共にくだる大説教を通じ、神の決死隊としての心構えを身につけたのである。顧れば茫々既に三十年前の昔語りになろうとしている。わたしは「あのころのこと」の最初にその日の感激を語りたい。

 わたしにその頃まだ基督信者となっていなかつた。ただ賀川先生からの依頼で、関西学院教授の新明正道(現東北大教授)松澤兼人(前代議士)両氏と共に、社会問題の講義をするため出席したのだが、これが自分の一生を左右する分岐点になろうとは、神ならぬ身の知るよしもなかつた。当時、わたしは三十歳、まだ独り身で、大阪毎日新聞の学芸部記者だった。

 会場の東山荘は御殿場駅から東方約二十町の高原の中にあつた。大阪から遥々来て記者から吐き出されたわたしは、駅頭で偶然邂逅した柳つる子姉らと一つ自動車で町はすれの杉並木を東山荘へ運ばれた。見ればびろうどの手触りを思わせる翠の丘の中腹に、学校のような粗末なハラックの二階建、それが東山荘だつた。

 自動車が止つた時、建物の中から急霰の拍手、何事かと下り立つと、それはわたしたちを歓迎する賀川先生らの拍手で、先生のほか先着の友と、春子夫人も赤ン坊の純基ちやんを抱いて出迎えてくれられているのだつた。「よく来たね」「早やかつたですね」といいつゝ、先生らの釘抜きのような堅い握手。そして幹事の面々の紹介。「これはパウロ後藤安太郎君、こちらはナタナエル馬淵康彦君、いすれも一騎当千のイエスの友です」と。パウロもナタナエルもまだ二十歳前後、パウロは鉄道省の詰襟服だが、襟章は彼がこの若さで既に判任官であることを語っていた。

 宿舎は建物の両翼に分れていて右翼の洋風の板問、カンバスベットのある方が私たち講師の宿舎、左翼の畳敷が会員の宿舎だという。

 会員は次々到着した。自動車の警笛が杉木立の中から聞える毎にみんなは急いで窓から顔を出して拍手で迎えた。そして開会時間までに赤穂浪士ではないが四十七名の顔が揃つた。その中には後に賀川グループの中心人物となった木立義通、杉山健一郎、菊池千歳(現在佐竹)、矢崎ぎやう(現在後藤)、浅野春子、吉本健子、今井よね、水戸晤郎、小林光雄、多田篤一、それに賀川夫人令妹芝八重、伊藤傳氏らの顔も見えた。今、五十代の老人も、まだ二十代の青年であつた。

 かくて二十五日午後四時、裏山のひぐらしを聞きつゝ石田友治氏司会の下にまず祈祷会が開かれた。賀川先生の祈りに次で熱のある祈りがつゞいた。九州の八幡孫一氏のごとき、天にも聞えよとばかり大聲で「自分に信仰の火をもやし下さい。それでなけれ、きれいさっばりと首をちよんぎって下さい」と祈って劈頭息づまるような雰囲気がたゞよう。

 夕食がすんで休憩していると、早くも講義の時間となって、第一講は「生存競争の研究」と題する先生の講義。

 宇宙の根源に自然淘汰や生存競争のあるのは事実だが、それだけが宇宙を支配するものではない。一方に神の摂理があって。内側から善の方へ導く力のあることを忘れこはならぬ。これが良心宗教となって、生存競争をすら修正する。この修正の力こそ、イエスの贖罪愛である。これこそ人類の世界が持つ使命であり、人間の菩薩であり、神の子たらんとする意識であると先生は力強く述べられた。

 終わって「イエスの友の時間」第一夜だというので各自が自己紹介をすることゝなつたが、私の動議で「他己紹介」をも併用することゝなつた。婦人は専門学校の学生が多く、男子は社会に出で働いている人が多かつた。

 翌れば二十六日、五時半から日曜礼拝をもつ。讃美と聖書朗読の後、先生は静かに祈られた。

 「腐り行く生命に新しき霊を輿え給え。生活の敬虔を輿え給え。新日本に、新精神をわれ等を通じて吹きこみ給え。凡べてに感謝し、凡べてに懺悔いたします。そして凡ベてに強くあらんことを祈ります。私どもがこうしている時も、この聖日に労働を強いられ、長屋の下、燃ゆる瓦の下に生活の煩悶に苦しむ兄弟があります。父よ、彼等を顧み給え。私どもの我儘心を取り去り、自らを十字架につける決心を輿え給え。大自然の物語がたましいに○霊と浸み入ります。この拙き霊に光を輿え給え。今もバルテマの戸をあけ、霊の窓をひらいて、あなたの御来光あらんことを祈り生す…… アーメン」 

 先生の熱祈が会衆のたましいをゆすぶる。

 礼拝をおえると、夜まで、引っきりなしの日課で、食事の時間を除いては講演のぶっ通しである。

 この日、朝からの日本晴で、富士の姿が会場の窓一杯に仰がれて、一同は講演を聞きながらその美しい景観をも見る特権を輿えられていたが、何としたことか、午後から急に空模様が変わって、午後四時祈祷会を開こうとした頃には、天地をくつがえさんばかりの大雷雨。電燈も消えてしまった。あすの先生の講演に預定されている「ヨブ記」の中の一節「電光をもてその両手を包み、その電光に命じて敵を撃たしめ給う」というその電光の閃めきの中に、一同は静かに祈った。特に労働者、失業者のために――。

 けれども豪雨はなかなかにやまず、電燈もつかない。そこで七時からの新明正道氏の「社会学における宗教的見解」は蟻燭の灯の中で口述された。ところが、講演もイエスの友の時間も終わって一同眠につこうとした頃、雷もおさまり、雨もやみ、あまつさえ十五夜の月がみずみずしい光を裾野の天地に投げるではないか。庭後の杉木立が風にざわめき、部屋に投ぜられた杉の梢の影が月光の中にゆらいで、まるで川の流れのように美しい。夜更けだというのに、外には青年の口笛さえ聞こえる。月にさそわれて起きでたのであろう。

 翌けて二十七日、第三日、朝五時半から先生の「ヨハネの宗教的経験」があり、八時から私が「売笑婦問題」を話す。私はわが国に今なお五萬の娼妓とそれ以上の私娼が居る事、彼女たちは家の貧しいために人肉の市に売られるのだが前借金は大部分五百圓から千圓で、これを皆済するためには長い者は十年も稼かせられていること、私娼には十六歳末満の者さえあり、前身は半数まで女工である事などを述べた。私が着席すると石田友治氏が立上った。見れば氏の頬には熱涙が伝わっている。

 「神さま、私たちは今私たちの姉妹が非人道な苔の下に虐げられているという怖しい事実を眼前に突きつけられてじっとしてはいられないのです。どうかこの人たちを救う方法とそしてそれを敢行する力とを与えてください。」

 二三の女性も、「虐げられた同性のために、私のからだを役立たせて下さい」と祈った。この日、特に富士に面した離れの図書室に移された小さな会場には、ただ、すすり泣きの聲のみが聞こえた。多くの青年の熱烈な祈りについで、先生が立ち上がった。

 「あまりセンチメンタルになってはならない」とみんなを制した後、「私は卑怯考です。なぜもっとこうした社会悪に向かって勇敢に突進できないのしょう」

 短刀のような鋭い言葉だ。そして見よ! 先生の面には涙が伝わっているではないか。

 何という感激! 私は労働組合の集会には出つけているが、こうした宗教的な浄き昂奮は始めての経験である。私はいう事を知らなかった。しかし、この感激は、まだ序の口にしか過ぎなかつた。果然十時から始められた賀川先生の、「ヨブ記」の研究は、ついに感激の引火点まで、一同を引っ張って行った。

 ヨブは五つの大きな災厄をうけながら、なおその苦痛を乗り越えて神を信じた。彼は本質的悪を説く友の言葉に反対して、あくまで道徳善を主張した。神はヨブにさゝやき給うた。腰ひっからげてますらおのごとくなれよ!と。強くなることだ。神によって、強くなることだ。悪の解決も、神それ自身の中にある。

 オイッケンは「神こそほ悪に打ち克つ勝利の福音だ」といつたそうだ。悪に打ち克つには、神によって、丈夫のごとく強く緊張するより外に方法はない。悪を怖るゝな。丈夫のごとく悪に対抗せよ。瞑想的煩悶を離れ、大胆に、丈夫のごとく行動せよ。悪に勝つのは思想ではなく、行動である。世を善くするための行動の前に悪は解決する。世は暗闇であっても、善に向かって突進せよ。善は悪に打ち克つ工夫である。ヨブは神により立てられ、友のために贖いをさせられた。悪の解決はついた。我らもヨブのごとく、悪に向かって猛進撃を続けねばならぬ。怖れず、まどわず、丈夫のごとく勇ましく・・・。

 みんなの胸にほ行動の宗教ということが、しみじぐと感ぜられるのだつた。

 夕拝はひぐらしの囁く背後の丘の上で行われたが、みなの胸には、ヨブ記が烙印されていて、主題の「世界平和」を中心に、熱祷がさゝげられた。

 二十八日、第四日、朝はいつものように瞬間の雨と、ひぐらしの聲に明けた。この日は時間のすきを利用して、会員の感話がなされた。わけても伊藤傳氏の語る東京の水上生活者の子女二萬が義務教育から閑却されている事実と、氏の水上学校長としての苦心談はみなの心を惹いた。夜の送別会は隠し芸が披露され、先生の鶏の鳴き声は拍手喝采であつた。私は「弁士注意」というのをした。これは中西伊之助氏からの直伝の秘芸であった。

 ついに最終日、二十九日は来た。先生は朝の五時半から十一時半まで立ちつゞけて、ヨハネ黙示録、聖書社会学及びヨプ記の三講演をつゞけられたが、ヨブ記の最終講演にいてって一同は感激の絶頂に追い上げられた。先生は力強く叫ばれた。

 「平然として地殻の上を悪に打ち克って行け」 これがヨブ記の解決である。この自然の大宇宙の構造の大の中に、悪もその一つの機能としてその存在を許すがいゝ。神の力を得る事によって、悪は毫も怖るるに足りないからだ。われ等はこの信仰をもって、腰ひっからげて、ますらおのごとく進もうではないか! 」

 ヨブの信仰は一同に大きな衝撃を輿えずにいなかつた。ヨブのごとく、確かな信仰をもって生きよう、神の力が加われば、苦難が何だ! われ等は敢然と、十字架の大佩をかざして悪に向って抗戦しよう。そして世の中を少しでも善くしよう。行動の神だ。教会の門は街頭に向って開かれねばならぬ――こう考えると、私どもの心には早くも進軍喇叭が鳴りひゞくのであつた。

 しかし、私たちは誰一人、大震災が後三日に控えていて、友の蹶起を要求していようとは夢にも考えず、たゞ感激に胸をおどらせつつ、五日間の修養会を終り、「しっかりやろうぜ」と互に肩をたゝきながら、東に西に袂を別ったのであった。


              *          *


 本書の箱の表紙は、賀川の文字と絵が踊っています。そして本体の表紙も背表紙も、さらに扉にも自筆の文字が書かれています。

 本書も「普及版」が昭和3年2月に刊行されて広く読みつがれていきました。

 本書には「例言」はありませんが、この「ヨブ記」の講演筆記をして著作にまで仕上げた人物は、前著『イエスの日常生活』(賀川のイエス団での説教記録)に続いて村島帰之によるものだと思われます。



             序

 山と盛りあげられた白骨の前に立ちて、私は言葉も無く、涙ぐむ。焼け潰れた安田邸が、旧主の亡霊を偲ばしめるやうな形をして立ってゐる。

 まだ、そこここに注意して見ると人間の骨片が出てくる。三万四千人が一度に焼き殺されたと云ふその惨状を思ひ浮べて、私は云ひ現はす可き言葉も無い。

 その日に人間の身体に火がついて、消さうとしても消え無かったと、人は云ふ。倒れたものはみな口から血を吐いて倒れたと云ふ。

 三万四千の生霊か、黒板のチョーク画を拭き消す如くに地上より消え失せて了った。

 考へてみると痛ましいことである。人間は松火のやうに燃え上り、火焔の旋風に巻き上げられ、火玉となって、遠くまで飛んで行った。痛いとか、苦しいとか云ふことはもう過ぎ去った事実であった。凡てが超越的の出来事のやうに見える。

 私はそれに就てわからぬことが多くある。然し私はかく信じたい。

 神は、この苦痛を以ってしても猶、愛であると―-

 苦難は私共に取っては善き賜である。死さへ、神の御心である。神の懐にて凡てが溶解せられてゐる。私は凡ての苦難を持ってしても猶、神を疑ふことが出来ない。私は変転の凡てを甘受する。

 万能の中には苦難の出現をすら可能とする。私が神となる日、私は喜びの反対である苦痛をも造るであらう。私が神であれば、生の反対である死を創造するであらう。

 万能の意味は、苦難の創造に対しても制限が無いと云ふことである。全能の意味には生と共に死をも創り得ると云ふことが含まれてゐる。

 無から有を、苦難より喜悦を、死より生を創造し得るものは、有より無を、喜悦より苦難を、生より死をも創造し得るものでなければならぬ。

 神の為めに制限の墻壁を結び、『何故なればおまへは、悪を作り、苦難を撰び-』と問ひ得やうぞ?

 全能者に制限は無い。神の為めには、凡てを許容せねばならぬ。全能者の手に陥るものは苦難と死の賜を甘受せねばならぬ。それが創造の秘義である。悲しむものが幸福であり、餓え餌くものが幸福であり得る生活はただ全能者の手に陥り、創造の秘義より出発して、神の全能なる芸術に参与するもののみそれを味ひ得るのである。

 苦難は芸術の終点に立つ。全能者のみこの芸術を味ひ得るのである。苦難はそれのみが終点ではない。生命の芸術に於て、変転の可能性を信ずるものが、之を受取り得るのである。

 苦難を創造するものは神であることを信じ得るもののみがそれを芸術とし受取る。

 十字架の芸術はそこにある。神の芸術は苦難を蒔いて生命を苅り取ることにある。一粒の麦を地に落して万粒を苅り入ることにある。

 苦難の籤をひくものは、神の籤をひくものと考える必要がある。苦難のみを思ひつめるものはそれに打勝つことを知らない。然し、神の為めに苦難を忍ぶものは、苦痛を芸術化する。

 苦痛が美と変るのはその心持ちから出発する。誰しも十字架は悲しいこと、いやなこと、むごつけ無いことである。然し大工イエスに於ては十字架が反って法悦の輝きであったと云ふことは、苦難をすら聖化し甘受し得るものは、他に余す可き聖化が無いからである。

 苦難の聖化は、神の最後の芸術である。苦難にすら打捷つものは、他の凡ての喜悦に打捷ち得るにきまってゐる。

 見よ、苦難は最高の芸術では無いか? 世界苦を除き得るものは、他に残す可き悪が無いではないか?

 苦難は相対の世界に立つものには永遠に残る。相対よりよう脱却し得無いものは、苫難に捷つ可き道を知らない。絶対の秘義に這入り得るもののみ、それに打捷つ可き秘義を知る。絶対なるものは生命の外には無い。

 延び上り、打砕き、苦難の中に飛び込んで行く、生命は苦難に怖ぢない。苦痛は生命に取っては、実在の本質では無くして、その附録であり、装飾である。

 苦痛が生命の装飾であることに感付くものは、苦痛を怖ぢ無い。生命に対する幕間は暗黒に見えても、それで苦痛の総量を計算することは出来ない。生命は苦痛よりも強い。被服廠跡にまた青草が萌え出で、バラックの中に人間か群がる。生命は火焔より強い。

 地球が、太陽系の一角に植えられてから幾兆万年経つか私は知ら無い。火の海を冷えさまさせて、大地を海の中から生え出ださしめ、地震と、噴火と、暴風と 洪水の激しき変動を越えて、アミバーを人間にまで造り上げた宇宙の内なる神は幾百萬年の変動を貫いて、退化の道をお取りにはならなかった。

 神から云へば、折には悲観したことも有ったかも知れ無い。その中でも、神は凡ての苦難を貫いて、人間創造にまで成功したのである。或時にはあまりに打続く大爆発と大噴火の為めに炭酸瓦斯が地殻の表面を蔽ふて、高尚な動物らしいものが創れなかった時代もあったらう。大とかげが地上をのそのそと歩き廻り、有肺魚が、その醜い姿で地上を探険に出かけたこともあったのだ。その後また炭酸瓦斯が凡て水に溶けおとされ大とかげが一度に瀕死せねばならぬやうなこともあった。然しそれでも、神は失望しなかった。

 神は生物進化の道程の手をゆるめ無かった。失望するなよ、若き魂よ、神は嘗て失望したことが無いではないか? 苦難は彼に取っては完全な芸術である。

 ナザレのイエスは死を彼の芸術の一種と考へた。彼はそれに対して何等臆する処が無かった。殉教者に対して苦難は光栄の極致である。

 そうした場合に、苦痛は苦痛としての本質を全く失って了ってゐるのである。悦んで受け得る苦痛は苦痛の苦痛では無い。それは光栄の一種類である。

 光栄の苦難に参与せよ、神に忠なる若者よ、神に生くるものには、苦難の流血は宝石にも勝る。たとひそれか平凡時の平凡なる苦難であるにしても、苦難は勝利によって呑み亡ぼさるべきものである。苦味は陶酔者の口舌にはこの上なき芸術である。

 苦き杯を逃げるな、友よ、「み心の儘に」を神に告げよ! 苦杯を盛られる日に真実の芸術があり得る。強くあれ、神の如く強きものには、苦痛は北斗星の如く、良心の芸術として好愛せらるる。苦痛によって愛が密着する。之れを受難の真理と云ふ。苦難を通過せざる愛は、愛の真実を持た無い。愛が錬はれる為めには苦難の鍛練が必要である。

 神の打ち下ろす苦難の鎚にひるむな、苦難の火花は芸術の最後の至聖所である。此処に入るものは選ばれたる至高の魂である。

 受難によって、仲保者になるが善い。受難の芸術は人を神に造り換へる唯一の道である。苦痛は、神とその子等のみが負ひ得る光栄である。苦難を甘受するものは、最後の階段に登る。そこにて、神は直接その魂に囁く。

    一九二三、一二・一四 

                  賀 川 豊 彦    

                  本所松倉町バラックにて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第21回)

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   賀川豊彦の著作ー序文など

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                第21回
  

      イエスと自然の黙示

         大正12年6月23日 警醒社書店 247頁

 前著『イエスの日常生活』とほぼ同時に警醒社書店より出版された本書は、同様の布表紙の美装箱入りのつくりで表紙も背表紙も扉のタイトルも賀川の自筆で仕上げられています。広告文を見ると「四六版総布天金箱入」と書かれています。

 本書も前著と同じく『賀川豊彦全集』には入っていませんが、昭和7年5月には「普及版」として「改版」が作られています。手持ちのものはカバーがありませんが、裏表紙には英文の題名と目次は印刷されています。

 周知の通り、賀川はこの年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の救援のため、10月には一家を上げて「東京市本所区松倉町」に移住することになり、神戸を離れます。したがって、賀川豊彦の神戸時代に出版した著書は、本書が最後となります。

 そして「例言」に賀川が書き記しているように、本書も6章構成のうちひとつの章を黒田四郎氏が筆記したほかはすべて吉田源治郎氏がこの本づくりに関わっているようです。

 別のところで詳しく取り上げましたが、吉田源治郎はこれらの仕事と共に、大正11年8月に主著ともいうべき『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店)を上梓して、米国のオーボルン神学校での留学に旅だっていますので、本書の草稿は旅立つ前に完成させていたのかもしれません。
                  


           序

 淋しい胸に、光よ 射せ! 疲れた私に黙示よ照らせ! 夢に幻に私は、神を見無くとも、自然と人間愛に私は神がみたい。

 私が疲れ果てて、戦場に打倒れる時に、私の涙の眼に映るものは、自然の黙示ではないか! そしてイエスが最も愛すべく、親しむ可きことを私に教えてくれた者は、ナザレのイエスであった。

  『野の百合は
  如何にして育つかを見よ
  務めず、紡ざるなり
  されど、ソロモンの栄華の極みの時だにも
  その装
  この百合の一つに而かぎりき
  あゝ、信仰薄きものよ
  神は
  明日炉に投入れらるゝ
  草をも
  かく装はせ給へば
  まして汝等をや
  あゝ信仰薄きものよ』

 私は、このイエスの詩を、阿波の吉野川の沿岸で読んだ時に、一もなく、二もなく、凡てを捧げて、イヱスに従ふことになつた。

 私は五つから、十一の時まで田園に育てられ、豊かな自然の恩恵と、その内容の艶嬌なのに驚異してゐた。

 然し、誰れも、自然が何者に属し、何者の創作であるかを物語ってくれるものはなかった。

 私は色々な書物を読んだけれども、誰れもそれに就て教えてくれなかった。物理學も、化學も、博物學も、私には沈獣してゐた。

 私は阿波の北部山脈の裾野に近い、車馬詰の平原に、田螺で蝦を釣ったり、壊れた瓶に自分が堀ですくふて来た鮒を飼ふて、少年時代の最も嬉しい日を贈った。

 私の最も幸福な日は、小川の岸にあった。それが、人間の醜悪に追ひ詰られて、煤姻と南京虫と悪漢の脅迫する貧民窟に伸吟するやうになって、私はこの自然の幸福を、仝部失って了った。私に何が一番貧民生活で不幸かと尋ねるものがあれば、私は直に答へるであらう、

 『小溝の流れとメダカの行列と、菱の実と樫の葉のそよ風に揺れる音だ』と

 あゝ、私はもう一度、この醜悪な人間の世界を捨てて、小溝の清流とメダカの行列に帰りたい。

 そう思ふて、屡々田舎に帰って行くこともあるが、その時に聞かされることは、小作争議と、地主の横暴に就てヾある。

 私を惘れでくれ! 私は自然を失って了った。否、醜悪なる人間の堕落が、私を自然より隔離して了った。

 自然は、私より永遠に失はれた。

 私は、再び輝く眼で、夢見た自然をみることが出来ない。土地を見れば、アベルの血が其處から叫び、小溝を見れば、その清流が灘六郷の酒の原料になって居ることを考えさせられる。

 青田の下を鑿って、石炭を堀るものがある。誰か博多湾に注ぐ遠賀川の美を讃え無いものがあらう? 誰か、その沿岸の田園に慰められ無いものがあらうか?

 然し、遠賀川の下には蜘蛛の巣の如く坑道が張られて、そこには十萬の――私の友達が資本主義の桎梏に嘆いて居るのである。川底から、土地の底から、生き埋めになった。友の叫びが聞こえる!

 そんな思を抱いてどうして、私に自然が再び、私に恋人として回復されやう。中禅寺湖の深林に、私は一日彷徨して神の恩恵を感謝したが、すぐその次の瞬間に足尾の烟毒で中禅寺の裏山が赤裸になって行くことを見る。

 人間の醜悪が、自然にまで浸み人んで行く。自然は永遠に、私に失はれた。もし萬一にも自然を私に回復してくれるものがありとすれば、それは、私の視力を回復させてくれ、私の敏感性を豊かに再び成功して下さる神の力の外には無い。

 自然も、今は贖われなければならなくなった。人間が塗り潰した自然を神に再び贖って戴かねばならぬ。

 いや、それよりも大事なことは、自然を抱く心を再び私に回復して戴くことである。

 私は、自然を抱くには、あまりに傷つき過ぎた。私は魂のバセドス病に罹って、醜悪のみを見詰めた罰則として、眼球が眼窩から飛び抜けて了った。

 私の傷ついた魂よ、美までが憎悪と嫉妬の姿に映る私の眼よ! もう一度イエスに抱き付いて行って、自然の黙示を回復して貰へ。

 人間愛に、贖罪に、神の天啓が横はる。それは、あまりに平凡であっても、神は内側から黙示して下さるのだ。

 愛なくて、自然の姿も消えて了う。そうだ。自然だけが美しいのでは無いのだ。愛があるから、自然が永遠に若いのだ。

 神の愛が、自然に注がれるから自然は永遠に盛装してゐるのだ。自然は神の寵児だ! 自然は沈黙の儘神の愛を物語る。私もまたアルプスの山頂に立ち、湖邊の水際に立って、神に抱かれやう。萬人に捨でられても、自然は嘗て私を捨て無い。水底の藻草も、空飛ぶ鳥も、嘗て私を侮辱したことが無い。

 自然は、自然に近づくものを嘗て捨てたことが無い。

 自然よ、抱いてくれ! 人と民衆が私を捨てることがあるとも、おまへだけは私を捨て無いでくれ。私はおまへに行く外、逃げ場所が無い。ヨナは魚の腹で三日休むことが出来ても、私には一時間でも休ませてくれるところが無い。

 自然よ、捨て無いでくれ、野の百合よ! 撫子よ! 私を捨て無いでくれ!

 私が疲れた眼と、疲れた魂を持って、迫害と讒誣の中に逃げ場所に困って、おまえの懐に逃げ込む時に、おまえはこの放蕩児――私の逃れの邑! 神の黙示を聞くところ――永遠の沈獣に、交響楽よりも、まだ大きな響もて物語る演舞場! 私もまた自覚してみれば、結局はその大音楽の音譜の一つにしか過ぎ無いのである。

 自然よ、物語れ! 私はおまへの物語りに如何に、みみづと田螺が、私の友達であり、野の百合と、樫の葉が私の衣であることを學ばう。

 おお、自然は、神の衣だ!

 自然は、また私の衣にも適するでめらう。

   一九二三年四月

                   賀 川 豊 彦     

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第20回)

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                第20回
  

      イエスの日常生活

          大正12年6月4 警醒社書店 206頁

 前著『イエスと人類愛の内容』を警醒社書店より出版して一月も経たない間に、本書『イエスの日常生活』は、同書店より同様の布表紙の美装箱入りのつくりで、表紙も背表紙も扉のタイトルも、賀川の自筆で仕上げられています。

 序文のあとにある「例言」によれば「この書は神戸イエス団に於ける聖書講演を、村島帰之氏が筆記して下さったもの」のようです。

 大切な作品ですが、本書は『賀川豊彦全集』のなかには入りませんでした。

 賀川の「序文」の中でも、この作品は大変興味深いものです。是非御一読ねがいます。




          序

 曙近く、鶏が鳴く、アウロラが東天を走る。野は新緑を以つて飾られる。風は梢を動かし、人は小道に歌ふ。藁小屋の所々には臼を踏みならす者がある。おかみさんが洗濯する為めに堀側に急ぐ。雀も、鳥も今日の糧の為めに急がしい。蟻も、木蜂も踊つている。祝福せられた太陽が空に昇ると、また場面は一変する。天地の色彩が一度に変る。凡てが黄なく見える。然し太陽は長き手を延ばして凡てを天上に引き上げる。麦も延び上れば、畝の間の『忘れな草』までが恥ぢらつた小さい顔を天空に向ける。

 あ百姓様は、逞しい筋肉を嗚らせて鍬を振る。喉が渇けば、透明の水がある。それはアダムの酒であり、天来の甘露である。犬も猫も、鼬(いたち)も、畑鼠もみな日向に踊る。蜘蛛までが、軒の巣の上で狂舞する。

 日が西に廻ると共に、錫かな疲労が凡ての生物の上に感ぜられる。それが甘い睡を誘ふ。黄昏が森の梢の先につく時に、親しみのある燈火が田圃を越えてあちら、こちらに見える。沈む夕日に、みめぐみを讃えて静かな一日が行く。ほの暗い田舎の燈火に、人の顔だけが、ぼんやり見えてその他は凡てぼかされてある。

 一日の労働に凡てが感謝として受取られ、夕餐も、會話も、そして最後に来る睡までがただ感謝である。

 日はかくして来たり日はかくして行く。それは平凡な芸術の中に育まれた生活である。神の大自然の中には、凡てが芸術として据えられる。生活それ自身が大きな芸術である。生命は勿論のこと労働も、行動も、休息も、安臥もそして、會話までが神の美しき芸術としで考へられる。

 そう考へることによつて、「自分」を通して神の芸術が遂行せられるのである。つまり神の表現は「私」の日常生活によって綾どられて行くのである。私は「私」の味を持つ。醜い自分が、創造者を出発点として考へ直すときに、自己が果して完成したる創作であるか否かを考へる。

 私は「私」の創作者であり得る。そう考へることによりて、神が私を創作して下さった理由がよく俯に落ちる。そうして私は「私」をその平凡な日常生活の中に偉大さを発見し、日常生活を神化することにより自らが、神の反射鏡であることを発見する、光が私に集められ、私はその神の光を集めたものを更に前方に投げつける。散乱した光は暗いが、集められたる光は幾百倍の力を以て輝く。之を神の栄と云ふのだ。私は神の栄である。かう考へることは、自らを神の反射鏡に自らを据えると云ふことである。

 平凡な生活に、神が乗り移る。平凡で、機械的に見える飲食の席上にも、神の生活が味はれる。曙に、白日に、黄昏に感謝と讃美の歌が胸底から湧く。

 膿み腐つた貧民窟の路次――そこには殺人と狂暴と、姦淫と、怒号と、痛罵の聲の外無いところにも、静かに、平凡な瓦屋根を冥想し、土を讃美し、格子戸の幾何學線に感謝の念慮を私に與えて下さつた神は、絶えざる恐怖と窮乏と疾患に私は猶も奮激の泉を汲むことを知って居る。

 或時は私も絶望の淵に座る。然しまたばゐ起きて私の道に突進する。日常の生活に戦争の無いことは無い。それは絶えざる魂の戦争である。それは刻々の勝利を予期せられて居る。

 別に不思議な真似もせず、山奥にも這入らず江上にも浮ばす仙人にもならず、髪も剃ら無いが、胸中梢を渡る風を聞き、五体は雲の上を飛ば無いが、胸底深く密雲の動くを知る。仙人の仙人はまだ仙人では無い。市井深く隠れて凡々たる茶番事に萬雷の轟きを聞き、風雲の巷き起る秘術を知らねばならね。

 日常生活それ自身が奇蹟であらねばならね。否、神眼に移れば、日常事凡てこれ奇蹟である。神は二羽一銭にて買らるる雀をも御許無くしては落つることを許し給は無いのである。一粒の麦一滴の泉水もみな、神の現れである。苔むす井戸側に出て、泉水を汲みあげ、それを糠のついた米の這入りた桶の中に注ぐと、糠が浮く。日が上から照る。冥想の闇に住んで居たものにはその井戸側が幻の如くに、神の実現として照り輝かされる。縁先の七輪に「焚きつけ」を盛って、それにマツチを擦つて火をつけると、火が燃え上る。火―、火―.私は火の不可思議に眼を見張る拝火教徒が、火を拝んだことを思び出す。火こそ不思議なものだ。我等があまり慣れ過ぎているためにに、それに對する奇蹟を思は無いが、それこそ奇蹟の奇蹟なのだ。昔はそれを拝んだ程のものだ。米が炊けてくると、水蒸気が立ち上って蓋が持ち上る。その水蒸気が不思議である。それは雲の一種類なのだ。人がそれを雲と思は無から不思議が無いのだ。飯が炊けた。人間がそれを食ふ。それがまた奇蹟だ。「飯と」「私」とが同一体になる。

 私が咀嚼する。そして、白い米から赤い血が産れる。私が泣き、私が笑ふ。凡てが奇蹟だ。たヾ人間の受感性が鈍れてゐるだけだ。

 凡てが奇蹟では無いか、おお人間よ、エリアが天火を叫び下すだけが奇蹟では無いのだ、お台所の隅みつこで私が火を征服してゐることが奇蹟なのだ。日常生活は奇蹟の連続だ。超自然の自然化だ。私は空中の一角に立つ。それに何の不思議があらう。然しそれを創作者の眼から見れば奇蹟の奇蹟では無いか―。

 私は奇蹟に生かされてゐる。凡てが神の生活である。内の生活も、魂の生活も、食ふこと飲むこと、着ること、歌ふこと、凡てが神の芸術である。かく考へることによりて、私はイエスが神よりの受肉者であることがよく理解せられた。そして、私が日常事に超自然を発見することを教えてくれたのも、実は十字架の上で死んだナザレのイエスによったものである。イエスは飲んで食って死んだ。たとひイエスが十字架の上で死なないにしても、私はイエスを信ずる。私に取っては十字架だけがイエスの宗教の全部では無い。ただカルバリの丘だけがイエスの十字架の全部では無いのだ。イエスの十字架とは、超自然の生活を捨てて平凡な自然生活に化身し、受肉し、自己を殺したと云ふことが真の具の十字架なのだ。

 つまり、イヱスには、生きて居る時から十字架があったのだ。否、死んで了へば十字架を負ふことは軽いものだ。死人に十字架をくりつけること位のことは誰でもする。生きで居る人間が十字架を負ふところに苦痛があるのだ。イエスの十字架を「死の福音」の如くに説く人がある。それは死人の囈語だ。イエスの十字架は活人の活宗教の道である。それは魂を肉体に縛りつけ、超自然を自然に還元せよと云ふ福音であるのだ。つまり神を人間の相場に換算し、引き落すと云ふことなのだ。神が人間になると云ふことは、つまり食ふこと、睡ること、労働することに、神が參加すると云ふことである。つまり神も奇蹟ばかりをその職務としないで、日常の事務取扱を開始すると云うことである。

 十字架はそこにあるのだ―。

 思った儘をなさんとするにあらず、み心の儘になさせ給へと云ふことが真の十字架の道だ。つまり凡ての台所と事務室と機械場と田圃に十字架があるのだ。

 生れで、死んで行く、そこに少しも奇蹟が起らぬ。そこに十字架があるのだ。

 イエスが死ぬ時に天軍がイエスを十字架上から奪ひ去つたら、十字架は十字架で無くなるのだ。つまり神の子イエスの死に奇蹟が起ら無いで、死ぬ可きものとして死なねばならなかつたところに、十字架があるのだ。超自然に見捨てられて、自然の生活に甘じ、その自然を通じて超自然に勝利を得しむると云ふととろに、十字架があるのだ。

 それを敗北の歴史と云ふのだ。つまり人間が神に敗けることなのだ。人間が神に敗けた時に、神はまた人間を思った通りに改造してくれるのだ。それを神の勝利と云ふのだ。神の勝利は結局は超自然が自然に勝つと云ふことだ。自然が超自然化せられ、日常生活が、神の生活になると云ふことだ。神に敗けたイエスが『我世に勝てり』と叫び得たのはそれなのだ。

 神に委せ切つた自分には、一切が神より出ることを信ずる。

 そこが一切は神から出るのだ。自分も神から出るのだ。自分が自分を形造って居ると云ふことが既に間違いなのだ。私は神の芸術品なのだ。自分は自分の衷に「私」を創作する時から、それは神のお手傅いをしてゐるにしか過ぎないのだ。私は神のモザイックである。神の栄のモザイックの何處にか這入る可きものなのだ。

 神は今日常生活の書を書いてゐるのだ。私はその中のモルに据えられてゐるのだ。私はヂッとおとなしくして居らなければならぬ。

 神が私を見詰めていらっしやるのだ。あれ神が私を見詰めで居らしやる。私は此處でおとなしくしで居らなければならね。

   一九二三、五、一四、眼の病める日

                 賀 川 豊 彦

                    神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第19回)

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「再び長田港で」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




    賀川豊彦の著作ー序文など

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                第19回
  

         イエスと人類愛の内容

          大正12年5月15 警醒社書店 285頁

 前回取り上げた賀川の「感想・小説・戯曲」を集めた著作『雷鳥の目醒むる前』が改造社より刊行されてひと月後、今度は警醒社書店よりこの『イエスと人類愛の内容』が出ています。

 これは、警醒社書店が大正10年に刊行を開始した『イエスの宗教とその真理』、続いて翌大正11年の『人間として見たる使徒パウロ』と同様の布表紙の美装箱入りのつくりでなり、表紙も背表紙も、さらに今回は扉のタイトルも、賀川の自筆で仕上げられています。

 本書は賀川の個人誌『雲の柱』に収められた講演記録を編集したものですが、7章構成のうち吉田源治郎が5章分を、村島帰之と黒田四郎両氏が1章ずつを文章化して、本書を仕上げています。

 そういうこともあってか、賀川は巻頭の「これらの書物の存在を可能ならしめた友情深き 吉田源治郎氏 村島帰之氏 にこの書を献ず」と記しています。

 賀川はこのとき眼病で校正も当たれなかったようです。

 なお本書は昭和2年9月には「普及版」のかたちで「再版」が作られています。

 眼科病院入院中の賀川は本書の序文も前著と同様に口述されたものかもしれません。



          序

 愛は死よりも強い。

 そう教えてくれたのが、十字架の教えである。

 そうだ、愛は死より強いのだ。

 愛するためには死を蹂躙して前進するというのが、イエスの進路であった。

 死は、とうの昔に愛のなかに溶解してしまった。

 十字架とは愛が死を呑みほしてしまったという記号なのだ。愛するものは、死を見ない。

 死と恐怖に囲まれていた私の魂が、イエスの愛を知って、その福音に飛び込んで行った時を、今も私は忘れることが出来ない。

 それは単純な福音である。死が愛に呑まれたという福音である。

 死人を葬るに冥途に旅する装束で野辺送りをするあの淋しい阿波の教養のなかに、私はどれほど死を恐怖したか知れない。すべてが私には恐怖であった。私は生まれてきたこと、それすら疑い恐れた。

 その時―私は「神が愛だ」という福音に接した。それは福音であった。

 実際、それは福音であった。実際、それが福音でなくてなんであろう。

 『罪人を赦す』と宣言した男が磔殺された。それを笑うてはいかない。

 愛することは、危険思想なのだ!

 そうだ! そうだ! 愛することほど危険思想はないのだ! 

 官憲も、政府者もよく聞け―愛は危険思想だぞ! 

 イエスは愛を説いたために、磔殺されたのだ!

 愛によって、罪人が罪人でなくなったり、有産者が価値をなくしたり、特権階級がその地位を失ったり、強権者の地位が危うくなるのだ!

 ああ、そうだった、愛は危険思想であったのだ! 

 そして愛は永遠に危険思想として残ることであろう! 

 何と言う矛盾! 何と言う皮肉なことであろう。しかし事実はそうなのだから仕方がない。

 何故、愛は永遠に危険思想なのだ! それには道理がある。

 病者に近づくものは愛だ。革命に近づくものは愛だ! 罪人に近づくものは愛だ! 

 愛は永遠に危地を冒す。危険を冒さないものは愛ではない。愛とは危険を冒すということだ!

 それを十字架とこそいうのだ。

 愛は『無』から『有』を創造するとの意で、暗黒を光明に、罪人を聖人に、地球を天国に鋳造することを愛というのだ。

 それは大いに飛躍する冒険性を持っている。愛とは飛躍するということだ! 

 愛は魂の爆発だ! 愛は永遠の燃焼だ! 

 それ自身が動機で、それ自身が目的で、それ自身が手段だ! 

 愛は神の力で燃え上がっている。愛は神から出ている。

 愛あるところに必ず神がおられる。神とは愛ということだ。

 恋愛に目醒めたものは、まだ神に愛の百分の一しか知らない。否、その百十分の一をも知らぬ。

 イエスは罪人をも愛するという。それは罪人のなかに新しい魂を鋳造するのだ!

 それは神の力で臨むことだ。それが危険思想の危険思想であったのだ。

 (幸いにして、今日の教会はその愛に甘えて居眠りしている)

 愛は永遠に進行する。愛は止まることを知らない。愛は永遠に上進する。それが第二の危険性だ。

 娘は父を捨てて愛のために前進する。そこに娘の危険思想がある。

 青年は祖国を捨てて万国主義に延び上がる。そこに危険性がある。

 イエスは愛のために地上から神にまで延び上がった。

 そしてエホバとローマの皇帝のみが保持すると考えた神の位を簒奪した。

 愛するものは永遠に背のびする。

 そして神もまた、人間を愛したために、天上の位を棒に振った。それは神にとっても危険思想である。

 愛はすべてを掻きまわした。神と人間の地位までが顛倒するようになった。

 危険! 危険! これほど危険なものはない。この危険思想のために、イエスは充分十字架に該当した。 そしてイエスは永遠にそれに該当する。

 否イエスがなくとも、愛に生きんとするものは、永遠に、十字架に該当する。

 ―しかし―愛は死を知らない。

 愛はすべてを越えて、延び上がる!

 生命の世界に何か、価値あるものが残っているとすれば、それは愛のためではないか!

 神とは愛ということではないか! 神が愛なのだ!

 そこだ! 私の古傷も、あなたの古傷も、私の欠点も、うるんだ眼も、痔瘻も、肺病も、―何もかも、そんなことは問わないで、神は愛していてくださるというのだ!

 何と言うありがたいことだ! 

 神様は私のために、天には星を蒔き、地には花を植え、そして貧民窟の辻にまで、あの美しい嬰児の微笑を置いてくださった! 

 それに闇のなかには恋人の抱擁を秘め、寂しく悲しめる時には、母の涙をその眼に貯蔵してくださった!

 魂よ! 信ぜよ! 

 神が愛なのだ! 

 愛せよ! それが神なのだ! 

 一番奮発して、愛して見よ! 

 神は愛の中にいる。愛の中に飛び込め! 

 愛の噴火口は、永遠に若い! 

 ああ、神が爆発する! 神が爆発する!

 イエスの血の中に、神が爆発し給う。

 犠牲などいう悲しき聲をあげて、泣き叫ぶな! 

 死は愛の噴火によってすでに吹き飛ばされた。愛の前には犠牲の常住の茶番だ! 

 百万の犠牲をも、愛は惜しいとは思わない。

 フランスを守るために千万の霊が倒れても惜しいと、人はいわぬではないか! 

 愛は犠牲を恐れぬ。十字架も、毒杯も、惨死も、愛の前には寸毫の功績を持たぬ。

 愛は屍の上に生え上がる。

 おお、神は愛だ! 

 神は十字架を地球の上に立てた! 盲目なる民衆は、いまなお十字架を嘲る。

 しかし「神」と「愛」との計企は進行する。

 愛は永遠の暴風として世界を掻乱する。

 その翼は北斗星の、まだその先にまで延びる。

 愛は永遠に煩悶する。そしてイエスは永遠に煩悶する。

 私はそれを感じる。

 私はその、愛のために煩悶する魂に勝てないことを知って遂に負けた。

 私は泣きながら、イエスの懐に飛び込んで行った。

 そして、イエスは血の流れるその胸にしっかと、私を抱きしめてくれる。

 血だ! 血だ! 温かき愛の血が、イエスの血脈を伝うて、私の胸に流れ込む。

 十字架の遺伝! 私もまた十字架を負うて、死地に進もう。

 雷光が前に見える。西は暗い。台風が後に近づく。

 私は千百の殉教者の屍を越えて、なおも、前に進もう。

 愛はなお一つの犠牲を惜しくは思はないのだ。

  1923年4月23日

                  賀 川 豊 彦

                    眼科病院の一室にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第18回)

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「住宅の手作り花壇のいま」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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              第18回
  

       雷鳥の目醒むる前

           大正12年4月1日 改造社 392頁

 前回取り上げた賀川の第3作目の小説『空中征服』に続いて、同じく改造社で出版された本書の半分は「雷鳥の目醒むる前」(感想)という小品が入り、賀川にとっては『地殻を破って』『星より星への通路』に次ぐ随筆集(賀川は「散文詩」と呼んでいました)でもありますが、後半の「見えざる御手」(小説と戯曲)では、長編の戯曲「雲の柱」も収められています。

 この中の多くの作品は、賀川の個人雑誌である『雲の柱』に登場しているもので、賀川の「神戸時代」に書き上げた著作です。

 この作品は『全集』にも入っていますが、そこでの武藤氏の解説には「戯曲『雲の柱』は、他の作品のように世にもてはやされなかったが、賀川の文学的作品の中で、第一級に位するものである。三幕五場のこの芝居は上演したならば2時間以上かかるであろう。そしてこれが翻訳されて米、英、西独において上演されたなら、必ず成功するにちがいない」という。そして「先ず感心するのは、その演劇的構成のすぐれていることである。モーセに引きいられてシナイの荒野をさまようたイスラエル民族がパレスチナの国境カデシの町に近づいた時を取り上げ、出エジプト記及びヨシュア記の一部に出てくる様々な事件を配列して、各場に劇的盛り上がりを示し、観客にサスペンスをいだかせている。会話のやり取りもなだらかであり、インシデントに適度なセックスをまじえ、音響的、色彩的な効果を随所に出している」とも。先ずはご一読あれ。

               *     *

 賀川は「神戸時代」から、眼病に犯されて苦しみましたが、この「序」は、治療のため入院治療中に、口述されたもののようです。



           序

 太陽の日足は静かに私の病室の軒端の瓦の上を歩く。私は鈍れる視力をその方に向ける。

 おお輝く光! 瓦の上にも春の甦りが見える。雪の日に病眼を閉じて、まだその眼の癒えぬ中に、病むことを知らざる太陽は、また冬を越えて、春に帰って来た。

 太陽は病むことを知らない。その太陽の下に人の子は病む。

 太陽よ! もう一度おまえの顔を見たいものが、此処にいる。

 その輝く七色の栄と紺碧の大空に、宇宙の眼のように光るおまえ、私はもう一度、おまえを正視したい。

 いや、たとい、おまえの顔が正視できなくとも、わが独り児の顔を正視し得るために、私はこの鈍れる視力を、もう一度回復したい。

 羽二重よりも美しい赤ん坊のほっぺたに、まさにほころびんとする薔薇の蕾にもにたる赤きその唇に、ああ私は神の芸術を見たい!

 しかし、それも今は許されない。病める眼は瞼の下に痛み、嘆ける魂は、静かに内なる生命の躍動の聲をきく。

 私は太陽の嬰児に告別して、暗闇の園へ神に招ぜられる。

 闇よ、そこでも、私は神と会う。私は何も見えない。私は十日も二十日も何も見えない。

 しかし、私は暗黒の中に、私の神と会う。

 暗黒に会うた私の神は、形をもっておらなかった。暗黒に会うた私の神は黙している。

 暗黒に会うた私の神は、闇に会うた私の恋人のごとく、私に三度の抱擁と接吻を与えてくれた。

 ああ、私の魂は温められ、私は見えざる眼に神を見る。

 魂よ、闇にも神はおまえを愛していたな。

 病弱も、苦悩も、悲嘆も、私が神に会う邪魔にはならない。

 私の神は静かに、闇の中に私を抱き上げてくれる。

 私は私の神を見るに、眼を必要としない。耳も鼻も、触覚も、官能も何もいらない。

 神は私の生命の内側から覗き込んでくれる。

 そこに私の永遠の目醒めがある。

 闇の中に雷鳥が目醒める。太陽がまだ昇らざる先に、魂の小鳥は快活に羽ばたきをする。

 飛べよ、魂の雷鳥よ、谷と峻坂が汝の進路を妨げざるために高く飛べよ。

 峰より峰への最も短き道は、渓谷を無視して一直線に飛ぶことにある。

 飛べよ、魂の小鳥よ、闇と、病弱を無視して、一直線に飛べよ!

 私は闇の中にも光明を見る。光は外からくるのではない。

 蛍烏賊が神経節を振るわせて発光するごとく、私の魂は羽ばたきして発光する。

 私は神を見るために、太陽の光線を必要としない。私は自ら発光する。

 発光せよ、闇に戦わざる魂よ、神はおまえの衷に躍動し給うではないか!

 闇に尾をひいて天空を横切る彗星のように、私の魂は羽ばたきして、天空を横切る。

 それはそれ自身一個の彗星である。

 闇と病弱を無視する魂よ、たとい地球が暗黒の底に捨てられたるものであるとも、おまえは地球のために発光器とならねばならぬ。

 太陽がおまえの前に墜落することがあるとも、おまえは、地球のために、天空より光を投げなければならぬ。光はおまえの衷にある。

 地球を抱け! 私の魂よ、おまえの羽根を差し延べよ! 

 地球もまた一種の卵ではないか! 孵卵すべき運命に置かれたる地球は、おまえの魂の温度によって孵化されるであろう。

 地球を取り巻く空気は、あまりに冷たい。太陽の熱もまた地球を孵化せしめることはできない。

 おまえの魂の熱でなければ、それは孵化しない。しっかり地球を抱いてやれ! 

 たとい、地球面上の闇が深くとも、おまえはその魂も熱度により、それを孵化せねばならない。

 私の眼から太陽も消えるがよい。いや、私の眼にすべての美と芸術が消え失せても、私は絶望しない。

 私は魂の奥底から億兆の太陽を掴み出して、また天空に蒔こう。

 神なるものも消え失せるがよい。私は真理と最高善にために、神になり変わって永遠に泥土にまみれる。 魂の途を守護しよう。

 峰の雷鳥の目醒むる前に、私の魂は充分目醒めた。私は苦悩を越えて、固く地球を抱擁する。

 地球よ、孵化せよ! 

 闇を無視する魂には、衷なる神が最高の熱度をもって沸騰する。

 静かに、静かに、魂の中に神が目醒めて行く。

 台風も、海嘯(つなみ)も、地辷りも、すべて神の目醒めの序曲である。

 やがて、地球の霊が地殻の中より躍り出るであろう。

 衷なる神よ進行せよ。峰の雷鳥も目醒めつつあるぞ。

 雪もアルプスに溶けかかった。老いたる太陽は、はや疲れの色を見せた。

 魂よ太陽の疲れざるうちに、門出を急ぐがよい。

   1923年3月13日

              神戸貧民窟にて

                   賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第17回)

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「冬の布引ハーブ園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



    賀川豊彦の著作ー序文など

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                第17回
  

          空中征服

         大正11年12月13日 改造社 380頁

 賀川の小説の第一作はいうまでもなく大正9年の『死線を越えて』であり、その「中巻」となる『太陽を射るもの』が翌年(大正10年)に出版されました。そして本書『空中征服』はそれに続いて大正11年の年末に出ています。

 この大正11年に出版された賀川の作品は、本書の3日前に『生命宗教と生命芸術』が、その1っか月前に『生存競争の哲学』が、その他『星より星への通路』『聖書社会学の研究』などが量産されています。

 賀川の生活は『死線を越えて』以後、その生活は激変していた中、大正11年に彼は「大阪日報」に82回にわたる連載小説を執筆していたのですから驚きです。

 それがこの歳の暮れに完成して、これまた「刊行10日で11版を重ねるベストセラーとなった」といいます。手元の原書は、初版が13日に発行されて、その4日後の第5版です。

         *               *

 この小説は新聞連載のときに、自ら挿画も描いていたのでしょうか、81枚もの彼の風刺画が収められています。どれもこれも賀川の得意満面の逸品です。はじめの数枚をこのブログですでにスキャンしてお見せしています。

 現物をまだ見ていませんが、本書は昭和3年に装丁を代えて改版がつくられています。

 そして「賀川生誕百年」の記念の翌年(1989年)には、日本生活協同組合連合会が「CO・OPライブラリー」の第3巻として新版を刊行しました。これには、金井新二氏の「解説」と賀川純基氏の「あとがき」がつけられています。そしてこの年に、社会思想社の「現代教養文庫」の一冊に加えられました。

 『賀川豊彦全集』第9巻にも本書は収められていますが、巻末の武藤富男氏の「解説」には、戦前に賀川が武藤にこういったと書かれています。

 「私は絵描きを志していれば相当な画家になれた。私は描こうとする映像が、まだ描かないうちに眼前に浮かんでくる」

 今回は小説ですので、賀川の『序文』はありません。




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第16回)

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「神戸布引ハーブ園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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                第16回
  

       生命宗教と生命芸術

          大正11年12月10日 警醒社書店 362頁

 「この書は、私の宗教論を集めたものであります」と、賀川の記すように、彼の宗教思想を鮮明にした重要な作品です。個人的には、随筆や詩集に並んで、この宗教哲学的省察を加えたこの作品は、特別の興味をもって、読み返します。

 大正11年といえば賀川は34歳、1月には個人雑誌『雲の柱』を創刊して自らそこに執筆し、各地での講演を筆記して出来た論文などを次々と掲載して、著作として仕上げられていきますが、本書はその第一号といっていいものです。

 本書の初版は、警醒社書店で既に刊行した『イエスの宗教とその真理』『人間として見たる使徒パウロ』と同じ体裁の、布表紙の箱入り美本として仕上げています。

 なお、本書は昭和2年3月に、何故か初版にあった第五章「生命芸術として見たるイエスの一生」を削除して、装丁もまったく一新して、「改版」が作られています。

 そして更に本書は、昭和13年にも内容な「改版」のままですが、また装いを新たにして世に出ています。これも箱入りのようですが、良くできています。

 それでは今回も、賀川豊彦の「序」を書き写してみます。ここでは少し読みやすく取り出します。



          序

 「神は何処にあるか?」と私に尋ねてくれるな。神は探すべきものではない。神は生くべきものだ。神は私の生命の中に生き給うのだ。

 神を尋ねて会わなかったという人がある。神を宇宙の外側に尋ねて発見できるのであれば、神は生きておらないのだ。

 神が生きているのなら、私の衷に生きておられねばならぬのだ。

 神は探す前に、尋ねる前に、私の生命の中に、示現しておられるのだ。

 信ずるとは、生きるということだ。疑うものは疑え。私は生かされ、動かされ、有るべきものとして置かれている。

 私の生命は、私のものではない。私は生命の内側から、神の劇曲の進行を窺わせられているだけだ。

 まあ、何と言う、大きな、神の劇曲よ! 病であろうが、死であろうが、それがまた、たとい大きな飢饉であっても、私はそれを耐え忍んで見物し、神はその劇曲を展開する。私はその観客であり、また役者である。私は十全の力を尽くして、私の役割を務めねばならない。

 悪に怯えたものは、生命の力を見ずして、悪をのみ見る。

 悪は実在ではない。生命の進路に横たわる淘汰の標準である。

 悪は生命より強いものはない。生命は悪を乗り切る力を持っている。

 それを信ぜよ! 魂よ。

 今、苦難が、おまえを待っていても、苦難は生命より強いものではないのだ。

 生命のために苦難が備えられてあるだけだ! 乗り切れよ! 魂よ!

 おまえの、刻々の努力に、悪は逃げ去るのだ。

 宗教とは、悪と戦うことを、いうのだ。判ったか、魂よ。

 悪と、戦わない宗教は、かつて無いのだ。

 形は変わって行く。しかし、生命の努力もて、悪と戦うものは、常に宗教である。

 悪を讚美するものは、宗教を否定する。悪を賛美するものは、生命を呪詛する。

 神に生命がないのではない。眼の前に見ゆる悪に恐怖し過ぎるのである。

 強く悪に猛襲せよ。たとい、倒るることがあっても、神が再び立たせてくれると言うのがイエスの宗教ではないか!

 完全な神が、何故悪を創造したか、と尋ねてくれるな! 神は悪を創造したのではない。

 生命の表現にやむを得ない形式なんだ。それに敗けてしまうというのであれば、宗教はない。

 悪に敗れたものでも、再生の希望があるというのが、イエスの宗教の真髄である。

 悪と虚無を讚美する人がある。しかし、それらの人は、生命の内容を豊富にするために美ということと、悪ということとの形容詞をただ、置き換えただけである。生命の内容を豊かにするということにおいては、何の変わりもないことである。

 すべての冗言を省け! 私は強く生きねばならぬ。

 そのために、衷なる生命の神を、信ぜねばならぬ。

 たとい、私の魂が、敗死することがあるとも、再生の力もて、復活せしめてくれることを、信ぜねばならぬ。

 これを体験したのが、イエスである。

 私は、その宗教に生きる。それがすなわち、私の生命芸術であり、生命宗教である。

 私は、その神に生きる。

   1922年11月29日

                 賀川豊彦

                   神戸購買組合の裏二階にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第15回)

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「神戸布引Herb Gardensロープウェイより」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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                 第15回
  

     生存競争の哲学

           大正11年11月8日 改造社 349頁


 賀川は「此書を与謝野鉄幹氏と与謝野晶子氏に捧ぐ」と扉に記しています。賀川の処女詩集『貧民窟詩集・涙の二等分』には、賀川より10歳ほど年上で、すでに著名な歌人として大活躍の与謝野晶子の、有名な「序文」が収められていることは、、前にも書きましたが、賀川夫妻と与謝野夫妻との親密な関係を、しることができます。

 本書は、先の『星より星への通路』に続いて、改造社より刊行されました。『死線を越えて』と肩を並べて『星』も猛烈な売れ行きでしたが、この本も連日のように増刷が続いていることがわかります。

            *             *

 今回の「序」をよめば、あの「岡本太郎」が書いたのではないか、と錯覚させられるような、熱気が溢れています。主にここには『改造』や『解放』に寄稿した諸論文が収められていますが、この論集にも「生存競争」「戦争と平和」「階級・労働組合」「顔・衣裳」といった賀川の広汎な視座からの、哲学的な省察が加えられています。

            *             *



          序

 凡てが爆発である。「生」は無限の極みより無窮の際に飛び上がる爆発である。それに生存競争のあることはまたやむを得まい。噴火口の石は相摩することがある。しかし生命の現象はただ生存競争だけでは説き得ない。それは噴火の一表面現象である。生命はさらにそれより深く爆発する。生命の爆音は生存競争の聲に怖じない。生命はそれよりさらに高く爆発する。

 何人が生命の底とその行衛を見極めることが出来るか! 生命は天に沖して轟く。何と言う見事な爆発であろう。それはすべてを吹き飛ばして天空に破裂する。

 それは内側からの爆発だ! 物と物との衝突や競争だけの問題ではない。衝突も競争もその爆発の一齣だ!

 空間に塗られた鮮血の絵画はそれがどんな悲劇であろうとも、力争を厭わないプロチノスには最も勝れたる劇曲である。

 それは大きな表現であり、芸術である。生命は自ら語らんとしている。先ず自ら守り自らを形造らんがために、自己の中に宇宙を画こうと努力しているのではないか?

 私は沈黙して宇宙の語らんとする象形文字を読もう。

 宇宙よ語れ! 生命よ轟け! 私は静かにその爆音の中に新しき音譜を聞きわけよう。

 それがあまりに大きな芸術であるとも私は臆すまい。

 血と、その血塗るところは何を意味するか! 

 宇宙よ語れ! 生命よ轟け! 

 私は静かにその音譜を拾って行こう。

   1922年11月10日

                    賀川豊彦

                     神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第14回)

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「ぶらり散歩:長田港」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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               第14回
  

      人間として見たる使徒パウロ

           大正11年7月16日 警醒社書店 254頁

 本書は先の『イエスの宗教とその真理』とほぼ同じ装丁で、背文字も賀川の筆字で書かれ、箱入りの布表紙という、美しい著書として仕上げられています。後に本書は、大正15年5月10日、30数頁分を補筆して改版の書物として出版され、このときに装丁も全く改めて、初版と同じように箱入り上製本がつくられています。そして本書は戦後、昭和23年9月にも、大正11年の初版と同じ内容のものが刊行されています。

 賀川は、以下に取り出す「序文」のあとに、「この書もまた、伏見教会牧師の吉田源治郎氏が、私のために筆記してくださったものであります。私はそれを心より感謝しております。(中略)吉田源治郎氏の好意がなければ、到底世に出られないものであったと思うと、有り難いことだと思われます。」と、吉田への深い謝意を記しています。

 賀川の初期の研究的な作品や『涙の二等分』などの詩作品や前回の随筆・散文詩、或いは小説などは、自分で執筆しなければ出来上がらないことはいうまでもありませんが、上に書かれているように、賀川の講演や説教、或いは眼の病で口述作品になると、ほかの協力者が著作の仕上げに深く関わることになります。それらの事については追って触れることになりますが、さしあたって、吉田源治郎氏のことについては、賀川夫妻と吉田夫妻との生涯にわたる深い関係などを含めて、別の長期連載のサイト(http://k100.yorozubp.com/) を参照頂ければ嬉しく存じます。

              *        *

 それでは今回も、おめあての賀川の「序文」を取り出してみます。昨日も、賀川記念館での会議の合間に、書籍をスキャンしてパソコン上で文字化する手管を教えていただいたのですが、どうもまだ、私の手におえなくて、この度もぼちぼちと、楽しみながら、ここに打ち出して行くことにいたします。



           序

 パウロよ、おお パウロよ!

 おまえの行く道を見守って、私は今も感激の涙にくれる。

 美と調和に溶けたギリシャ文化が、漸く末期に近づいた時に、地中海の周囲は、ゆかりもなく、肉の香りに陶酔せんと努力した。

 その時、美のためにとて、奴隷を椅子にくくりつけ、踵(きびす)からその生皮を剥いだ。それが、文化的羅馬の自由であった!

 その時におまえは、狂人のように地中海の隅から隅え、吠えたぐる狂犬として、ただひとり大工イエスの宗教と良心の目醒めの春を告げて廻った。

 そうだ、そのために、世界は今日の違った世界になった。

 それは余りに冒険に見えた。盗賊の難、異邦人の難、市中の難、荒野の難、海上の難、偽兄弟の難、――それらはまだ驚くに足らぬものであった。

 労し、苦しみ、しばしば眠らず、飢え渇き、しばしば断食し、凍え、裸にせられ、しばしば獄に入れられ、鞭うたれ、死に瀕むことしばしば、――この不撓の丈夫が、五度ユダヤ人に、三十九の鞭を受け、むちに打たるること三度、絶息するまで石に打たれ、市の外に引き出され、友人の泣き悲しむ死別の涙の中、鳳凰(フェニックス)のごとく甦り、百倍の勇気もて、十字架の道を説き、安居の道を知ることなくして、不動の救いを指示し、三度び破船に遭いて暴風にそむき、一昼夜海に漂流して、なおヨナのごとく、海に愛想つかされ、天地を貫くその至誠に、死者を甦らす奇跡を持たされ、明星のごとく、新しき世紀の曙を啓示してくれた――汝、パウロは、男子でなくしてなんであろう。

 「誰か弱りて、我弱らざらん。誰か躓きて、我躓かざらんや」 丈夫よく自己の弱点を知る。「罪人の首」として自覚した魂は、善いこと、悪いこと、徳になること、徳にならぬこと、すべてを曝け出して、民衆の前に自己の批判を乞う――汝、パウロよ、男子でなくてなんであろう。

 醒めて、萬人に、神を説き、夢みては第三の天に、天使と語る。汝、パウロは秘儀を知っている。

 ダマスコ門外、光に打たれ、盲として自らを発見した汝は、更改の力を、ただイエスにのみ発見した。世界の更改は、自分から始まる。おおパウロよ、汝は遂に、自分の更改によって、世界更改の道を発見した。

 おまえは嘗て、コリント人へこう書いた。

   兄弟よ
   召を蒙れる 汝等を観よ
   内によれる智慧あるものは多からず
   能あるもの多からず
   貴きもの多からざるなり
   神は智者を辱めんとて
   世の愚かなる者を選び
   強者を辱めんとて
   世の弱者を選ぶ
   神は有るものを滅ぼさんとて
   世の賤者、藐視らるるもの
   すなわち無きが如きものを選び給へり

 愚衆の愚衆、俗人の中の俗人―その中になお捨てられた人間の屑を、神が拾い集める。その馬鹿さ加減を、おまえはよく知っている。

 しかし、神の馬鹿は、人間の智者よりも賢く、人間を鋳換えるには力が余っている。

   罵らるる時は
   祝し
   窘らるる時は
   忍び
   謗らるる時は
   勤をなす
   我は宇宙の観玩(みせもの)にして
   世の汚穢(あくた)
   また垢の如し

 何人も顧みてくれない中に、真理の把持者、無傷害愛の実行者として、塵箱の英雄、見世物の大立物として、おまえは彷徨する。

 誰も褒めてもくれないのに、おまえは労働しながら、福音の宣伝に専念し、神の如き熱心をもって、神と共働し、イエスの苦痛に参与し、おまえは、自らを奴隷だというて喜ぶ。

 血がこみあげてくる! 永遠に若いおまえの血が!

 おまえの血は、私の血だ! おまえは死んだ。そして私らは甦らされた!

 誠に、おまえの途は尊い道であった。最も人間らしい人間パウロよ! 私は、おまえのために、六千度の太陽よりも、強い熱を受ける。

 おまえは熱だ! おまえは血だ! おまえ自身が光と真理でなくとも、伝達せらるべき熱であり、血であることは確かだ。

 私の血はこみあげてくる! おまえの胸の中に湧いた贖罪の血は、また今日我らの胸の中に、湧く。

 ああ、沸騰する血!

 おおイエスのために沸騰する血は、永遠に、私を若返らせてくれる! 

 パウロよ、汝、沸騰する霊よ! 人間よ!

   1922年6月20日

                    賀川豊彦

                       神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第13回)

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「須磨・護国寺:清雲山より」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)





    賀川豊彦の著作ー序文など

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                 第13回
  

      星より星への通路

             大正11年5月25日 改造社 368頁

 箱入りで本体にもカバーがあるかもしれませんが、手元にあるのは裸のものです。
 『小説・死線を越えて』とその中巻『太陽を射るもの』に続いて、改造社が手がけた賀川の3冊目となった著作は、この『星より星への通路』です。既に取り上げた賀川の最初の散文詩『地殻を破って』が福永書店より出版されたのは大正9年でしたので、それに続く第二の散文詩作品となります。

            *         *

 本書も前作『地殻を破って』とよく似た配列にして「散文詩」<星より星への通路>、「感想・対話」<デオニソスの誕生>、「短編・喜劇」<混迷の巷より>といった章立ての作品が、見事に編集されて仕上げられています。手元にあるものは大正11年6月9日付けの第16版ですが、よく見ると5月25日に初版が印刷されて毎日増刷されていることが判ります。

 『小説・死線を越えて』の三巻の飛び抜けた売れ行きが一般に話題になりますが、改造社はこの作品での売上も莫大なものであったに違いありません。しかし残念な事に、この重要な作品は『賀川豊彦全集』全24巻のなかには収録されませんでした。



            序

         ―魂の芽芽の苗出づる日―

 歓喜せよ! 新緑は帰って来たではないか! 霜枯れの淋しい道より、春はまた私らのために帰って来た。

 山の緑が私を誘惑する。雲雀が、たんぽぽが、れんげが、六甲山から出てくる清水が、私を野に、おびき出す。

 導かるるままに、私は野に出る。

 私の魂よ、うなだれるな! 野には花が咲いているではないか。迫害と陰謀と罵倒の中より甦って来い、おまえ―小さき怜悧な、躍動する魂よ。

 風は東か? 日は西にか? 足には若草を踏んで、おまえは無生物の寵児として、野路を歩む。池には、浮き草がまた出て来た。少し池面に濁りも見える。ここにも、生命が甦りつつあるのだ。

 アテネの街のユウリジアンの祭りも、近くはあろう。村の人も、町の人も、みな春が来たのを喜んでいよう。おまえだけひとりが、何にも悲しそうに、世に背かなくても善いではないか!

 風がおまえに囁く。「人類の復活も近づいた」と。しかし、キリストが一人甦っただけでは、人類の復活にはならない。私も、おまえも甦らなければ、真の甦りにはならない。

 甦れよ、私の魂よ、おまえもまた、イエスにならねばならぬ。二千年前に救い主がひとりくらい出たところで、地球二十億の人間が、二千年の間戦争を続けていては何にもならない。

 甦れよ、こざかない躍動の霊よ、すべてを跳ねのけて甦れ。汝の手が揺ぐとも、真理の前に―真理はあまり不可思議であるが故に―おまえは飛び立てよ!

 飛び立つことを、真理というのだ。甦りのほかに真理はないのだ。それを知っているか、私の魂よ。飛行機を組み立てるのを、真理とは言わないのだ。飛行機は飛ぶために組み立てられるのだ。それで飛ぶことだけが、真理なのだ。

 飛べよ! 地面を蹴立てて。飛べよ、飛ぶことがなければ真理でないのだ。一直線に飛べ、まっしぐらに! 地面から三千尺離れて!

 おおそこに、真理が行く! 甦りし魂が高空を飛ぶ。春風にあふられ、たんぽぽの花が散るごとく、光鱗を浴びて、真理が飛ぶ!

 真理が何であるかを問うな。真理とは飛ぶことだ。ここに高挙がある。魂を一尺上に挙げるものを一尺の真理という。八尺引き挙げるものを八尺の真理という。

 つまり、真理は高挙のほかに途がない。それで、真理は曲がることを知らない。真理は山と川との原野を加減しない。それは、上の方に一直線に昇る。

 おお高挙した魂よ、地球の醜きものを震い落とせ! いな、地球そのものより、醜きものを震い落とせ! 地震よ、地すべりよ、おまえの手を貸してくれ! 噴火山は、なぜ休止するか? 暴風も、洪水もみな馳せ集まれよ。直径七千五百哩の地球を揺り動かし、狼のごとき二本足の野獣をみな震い落とそうではないか!

 子宮より這い出て、墓に這い寄ることしか知らぬ小虫も掃き落とせ! 暴には暴、歯には歯をのみ酬ゆることのみしか知らぬ、乳房の垂れたる動物を訓えよ。共産を名として、殺すことを教え、正義を口にして、圧制する野獣を教えよ。

 復活は何処ぞ! 人類の春は何処ぞ! 木の芽のごとく、接木が許されるなら、私は人類の上に、桜の先に咲く木蓮を接木しよう。

 肉の上に、木を接木せよ。それも復活の手段であるかも知れない。

 木は、冬に葉を落とし、春に復活する途を知っている。おお、人間にも草木の智慧の半分でもあれば、また復活のすべともなろうものを。

 復活よ、復活よ、腐乱した肉塊の復活よ、腐乱した肉塊のままの復活よ! 四千万の死傷者は、地球を贖う力もなかった。平和は来た。しかし、血によって世界は何者をも解決しなかった。ロシヤもオーストリアもドイツも何にも新しいものを発見しなかった。復活はした。しかしそれはただ、腐乱したままの肉塊の復活であった。

 逝けよ、春よ! 腐乱した肉塊と、酒と、陶酔の春は逝けよ! 文明は間違ったものを復活させた。シンドラの手箱は誤って開かれた。

 歓楽の春は、魂の内にのみある。イエスの復活は昨日のことだ。今日はおまえの胸の中に、堅く閉じられた。魂の棺桶が開かれる番だ!

 出て来い! 棺桶の中に閉じ込められている私の魂よ、小さき霊よ、春は先ず、おまえの魂から始めねばならぬ。

 小鳥はおまえの棺桶のぐるりで囀っているよ。眠れる魂にも、春の消息は聞こえたか? 魂の若芽の萌え出る日も近づいたか? 風は東、日は南に、魂の若芽の吹き出した後に、また傷つけられる恐れのないように、神はもう充分準備して下さった。

 時は春だ。日は軟らかだ。魂の目醒めるも今は頃だ! 春だ! 春だ!

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第12回)

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「ぶらり散歩:キャナルタウン」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




    賀川豊彦の著作ー序文など

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                第12回
  


        聖書社会学の研究

              大正11年3月1日 日曜世界社 309頁

 この『聖書社会学の研究』は、既に取り上げた『イエス伝の教え方』に続いて、賀川が日曜世界社を版元として出版した2作目です。そして両著ともに賀川が日曜学校の教師相手に講じたものを、吉田源治郎が筆記をして、著作として仕上げたものです。

 これも箱入りの上製本ですが、本書の刊行された日付を見ると、早逝した知里幸恵が書き残したあの『アイヌ神謡集』(現在では岩波文庫に収められています)の刊行されたときと同じですし、その三日あとには京都の岡崎公会堂で「全国水平社」が創立されています。そういう時代の中で誕生した作品ですが、これも賀川を理解する上で、欠かせない大切な講義録です。

            *         *

 ところで、今回12回目ですが、これまで取り出してきた作品はすべて『賀川豊彦全集』全24巻の中に収められていますので、図書館などで読むことができます。そして大変便利な『賀川豊彦全集ダイジェスト』という著書もつくられています。これは昭和41年に出来た全集24巻のすべての解説を一冊に収めたもので、武藤富男氏が手がけた、思いの込められた力作です。1980年代にはこのダイジェスト版を英訳する企画が持ち上がったことがあります。賀川の著作は膨大なもので、全集に収められたものはその一部にすぎません、全集に入った全作品を簡略とはいえ、こうして纏め挙げているものは他になく、今でもこれの英訳の企画の意義は大きなものがあるように思われます。もちろんこのダイジェスト版そのものが、現在では古書でも殆ど入手が困難な状態のようですから、この原書を若い人々が読めるようにする、何か良い方法を考える必要がありそうです。(蛇足ながら、本書の英訳企画が途中で頓挫してしまったのは、例の「賀川問題」が背景にあって、関係者が苦慮しておられた頃のことでした。)



            序

 聖書の社会学は、社会悪に対する再生と救済の社会学である。しかもそれが、外部的破壊によって導かれずして、内面的神の力によることを啓示したものが、聖書の社会学である。

 それは時間的に発展する。それで預言者の出現となり、預言者文学となった。それは民族主義より個性主義に、血族主義より心理主義に、批判的立場より救済的立場に、受難者のメシヤを予望することへと推移して行った。

 ユダヤ民族史を通じて見たる精神の記録は、ガルヴァリズムの試練のために蛙を解剖するようなものである。

 今日なお、多くの唯物主義が説かれ、唯物史観による革命が唱道せられる。それは外部的勢力と自然及び社会的境遇が万能であるかのごとく人に教えるのである。しかし、歴史の上に指示せられた時間の上に成長する人間精神の記録は、必ずしも外部的刺激のみによって成立しているものではない。内側から湧いてくる衷なる神の国の示現にある。

 それは再生の力とし、解放の力とし、罪悪に対する救済の力として現れる。政治の形はあれ、これと変形するであろう。ある時は王の形で、ある者は士師や寡頭政治の形で、ある時は共和主義の形で、またある時には無産者専制の形で現れてくるであろう。

 聖書はどの形でなければならないとは教えてはおらない。神は高き者を低くし、位あるものを位より引き下ろし、無きがごときものを高く挙げ給うものであって、王とはただ、人類生活に対する奉仕者としてのみ尊ばれるものであり、その本質を離れて意味のないものである。

 また共和主義も産業的デモクラシーも、人類生活の成長と発展を妨げないと考えられた場合における形式であって、生命の飛躍と再生を基礎とする社会学の本質―すなわち生命としての神の社会学―すなわち聖書の社会学にはただ内側の法則、正義と愛と自由の道へ進展していく道徳及び信仰の力のほかは社会組織の基本を与えてくれておらない。

 聖書の社会学は、信仰と良心の社会学である。人間の内面生活の飛躍力が、どれだけ外部生活に反応するかという記録である。そして内面生活が統一を欠き、性格が分裂し、国民生活が偶像主義に流れていったときに、その国民は滅亡の運命を見、内面生活が形式に流れてパリサイ主義に傾いたときに、生命が救済すべからざる淵にはばまれ、生のどんづまりにどうしても再生と十字架を見ねばならぬということを教えてくれるのである。

 聖書社会学の教えてくれるところは、それであるから、生命と精霊の社会生活に就いてである。それは社会が行き詰まったときにも、なお内面の力で回転し得ることを教えているのである。それで、聖書社会学にその他のことを求めんとするならば、それは絶望である。しかし、人間がどんなに失望したときでも、どんなに倫落の淵に陥っていつときも、神と聖霊の力が更にそれより深いと教えてくれるのは、聖書のほかにないのである。

 革命と戦乱のほかに人間生活の爛れた傷が癒されるものではないと教えられるとき、私はもう一度、聖書を読み直して、神と生命の再生力を信じよう。

 この書物の出来たのは、また伏見の吉田源治郎兄の御蔭である。私はもう少し詳しく自分に書きたかったが、忙しい貧民生活と労作の中に、とても自分に書き下ろす暇がないので、とにかく私の信ずるところを、大阪の日曜学校教師会に述べたのであった。それを吉田兄は筆記してくれて一冊の書物にしてくれた。ここに私は吉田兄に心より感謝の意を表するものである。

 私は聖書社会学の研究を一生の仕事にしたい。それでもう少し深く研究することができたら、更に筆を起こすことにしよう。

 世界の各地に火の柱が立つ。しかし私の深き祈りは、神が内側から人間生活の更改を助けて下さることである。

 願わくは、十字架を教えてくれたイエスの父、我らをして、神の国に成長せしめ、愛と正義による自由の国に進ましめ給わんことを。アーメン。

   1922年2月5日普選デー

              台湾伝道に行く途中門司にて

                       著   者

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第11回)

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   賀川豊彦の著作ー序文など

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                第11回
  


       イエスの宗教とその真理

            大正10年12月15日 警醒社書店 264頁

 前著『地殻を破ってー散文詩』を出版した翌年(大正10年)には、6月に「印刷工新聞」に掲載した『自由組合論』と、11月に『死線を越えて(中巻)太陽を射るもの』を刊行していますが、『自由組合論』の原書が手元に持たないのと『太陽を射るもの』は既に先に『死線を越えて』でいくらか触れていますので、この大正10年に出た、もう一冊の名著『イエスの宗教とその真理』を、ここでは取り上げて置きます。

 個人的なことですが、賀川の著作の中でもこの本は、初期に手にとって読み耽った大変印象深い作品であったこともあって、今でもいちばんに本書をひとに勧めたくなる作品です。国内ばかりでなく早くに諸外国に翻訳された作品としても知られていますが、先年「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」をUPした折りに、賀川の講演を筆記して本に仕上げた吉田源治郎について、本書のことを詳しく言及したこともありました。

 また、現在同時進行の別のブログ(「番町出合の家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)
で、2011年夏、ミルトス社が本書を復刻された時にも、少しく触れました。特にこの復刻版は、無用の書き換えや改ざんがなく、信頼して読める良書です。

 本書は布カバーで仕上げられた箱入りで、警醒社書店では、本書を皮切りに、少々贅沢な同型の素敵な本づくり進めています。そして本書は別に廉価な「普及版」も大正13年に出版して版を重ねました。ともあれ早速、賀川の「序文」を取り出します。少し長いものですが、読みやすくするために、今回も改行など多くしておきます。
  

             序

 傷つけられたる魂に、イエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である。それは温泉のごとく人を温め、噴水のごとく力づけてくれる。解放の日に、イエスの愛は感激の源であり、犠牲の旗印である。神は強い。そしてイエスは、その最も聖く、最も強い力の神を教えてくれる。

 イエス自身が、神の符号である。つまり言葉である。イエスのよって、神が人間に向かって、発言権を持っているのである。イエスはローゴスである。道である。行動である。生命である。慰めである。

 私にとっては、イエスほど親しく、なつかしい姿はない。阿波の徳島の暗い生活に、初めてイエスの山上の垂訓の意味が徹底してきたときに、私は踊り上がって、彼を私の胸に迎え入れたのであった。

 私が耶蘇になることには、余程の覚悟が必要であった。私は三十五銭の聖書を買うのに苦心した。それほど私は貧乏であった。私は教会に行くことを許されなかった。親族のすべては、私がイエスの弟子になることに反対であった。

 阿波の吉野川の流域には、旧幕時代から富裕な豪家がたくさんあった。そしてその多くの豪家は、たいていは血続きであった。私の父の家はその豪家の一つであった。そして私も五つから十一の時まで、吉野川の流域の大きな藍の寝床のある家で育った。

 しかし明治の中頃から、阿波の吉野川の流域の豪族の間にどういうわけか、淫蕩の気風が流行病のように蔓延して行った。私の村の付近で、大きな豪農の白壁を塗った庫が、私の見ているうちに倒れたものは数限りなくあった。

 すべてが道徳的頽廃の気分で蔽われていた。あの美しい吉野川の澄み切った青い水も、人の心を澄ますことはできなかった。

 私も早くから、悲しみの子であった。

 私は、十一の時から禅寺に通うて、孟子の素読をさせられた。しかし、聖くなる望みは、私の胸には湧いて来なかった。

 私は、私の周囲の退廃的気分を凝視した時に、聖き心の持ち主になるなどいうことが、全く絶望であることを知っていた。それで全く暗い力に圧せられて、寂しい生活を続けていた。

 そして最初会ったイエスの弟子も、私に徹底するようなイエスの生活を見せてくれなかった。それで私は十五の時まで、イエスの大きな愛を知ることが出来なかった。

 しかし、ローガン先生の英語の聖書研究会に出るようになって、ルカ伝の山上の垂訓を暗唱して、私の心の眼は、もう一度世界を見直した。

 私はなぜ、私の周囲が退廃しているかがすぐわかった。それは「神」がなかったからであった。偶像の統治の闇があまりに暗いものであった。そして私はその闇を破る勇気がなかった。しかし、私に米国宣教師の導きと愛が加わるとともに、私の胸は踊った。今でも、ローガン先生とマヤス先生は、私の親のように、私はまた彼等の子のように、いつ如何なる時でも、愛しいつくしんでくれるが、私は彼等を通じてイエスを見た。そしてイエスの道がよくわかって来た。

 阿波の山と河は、私に甦って来た。そして私は、甦りの子となった。

 私の一生を通じて、最も涙ぐましいその徳島の空が、私に「愛」を教えてくれた。

 それは美しいものである。

 愛することは、美しい。美しい自然の下で相愛することは、更に善いことである。

 若い時に愛することは、最上のよろこびである。

 私は、イエスの十字架によって、人間のすべての奥義をみた。

 私は、十五の幼い時から三十四の今日まで、変わらざるイエスの愛に守られて、その恵みを日一日、深く味うている。凶漢に殴られる時でも、酔漢に侮辱される時でも、辻の淫売婦に接する時でも、イエスは常に私を強くして、いつも聖くおらせてくれる。

 貧乏が貧乏でなくなり、淋しさが淋しさでなくなり、未決監に入っても、血を吐く時でも、死にかかった時でも、イエスの愛は私を強めてくれる。

 私はいつも、イエスがユダヤ人であることを忘れている。彼は今日生きている私の友人ではないか! 彼は最も人間らしい人間、レオ・トルストイよりも、私に近いものではないか!

 私はイエスによって、無数の友を貧しき人の中に得た。無数の愛人を労働者の中に得た。イエスによって妻も得た。イエスのよって最もよき親友を得た。学問も、書物も、何もかも、イエスが私に与えてくれた。

 わたしは、ほとんどイエスのために、何もした覚えがない。しかし、イエスは私にすべてを与えてくれた。

 そして、イエスを味うているその味わい方を、偎々各方面の人が聞かせてくれと言われるので、話をした。東京でも、大阪でも、神戸でも、堺でも、同じことを話した。そしてまだ多くの人が、それを聞きたがっている。

 それで、私の善き友人たちは、今度はそれを一冊の書物にしたいと言い出した。そして、その中でも兄弟のようにしている伏見教会牧師の吉田源治郎兄は、私の談話を全部筆記してくれた。

 それは、私には光栄である。吉田兄は既に私の書物を三冊まで筆記してくれた。吉田兄は、この年一年はほとんど私のために犠牲にしてくれた。それで私は、どんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。しかし、世に産まれ出る必要のあるものなら、産まれ出ることは善いことである。

 それで、喜んで私は、「イエスの宗教とその真理」を世に送り出すのである。

 私はすべてを神にお託せする。この後の戦いのすべてをも神に。
台風よ起これ。海嘯よ来い。私はそのすべてを超越して、イエスの懐にしっかと抱きしめてもらうのだ。

 私はイエスから離れることを欲しない。彼は私の棟梁だ! 彼は船長だ!

 私は彼の指図のままに船を進めよう。

 暴風雨(しけ)よ、来い! 帆も、舵も破れよ。イエスは変わらず愛してくれるから、私に心配はない。

 親しき日本の土に生まれ出た人々も、すべてはイエスの愛の中に、太陽を仰ぐ日が来る。

 春は黒土の中から甦る! 雪を越え、霜を踏んで、甦りの準備がせられる。傷められた霊が、すべてイエスを見る。すべてのものが万物更改の日をみることは、あまり遠くはない。

 私は、私の生きている日にそれをみなくとも、勝利がすべてイエスにあることを知っている。誠に。誠に―。

 1921年12月21日 

                    著   者

                     神戸貧民窟にて

連載・賀川豊彦の著作ー序文など(第10回)

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「震災メモリアルでのトランペット奏者・松平晃さん」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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              第10回
  

       地殻を破って―散文詩

           大正9年12月6日 福永書店 452頁

 賀川豊彦の作品の中で、特別の輝きを放つものは、何といっても彼が瞑想のうちに書き綴った随筆、彼のいう「散文詩」だと思います。

 今回「新連載」として「ぶらり散歩」しはじめている「作品の序文など」というものも、実は彼の作品のはじめに収めた短い文章が、私には特別にオモロイと思って、わざわざそれをスキャンしながら、時間をかけて書き写す作業をすすめているのです。これほど、私にとって楽しい時はないからです。

 そして今回の『地殻を破って―散文詩』が、その後の数ある作品の中で、最初の随筆集であり、内容もまたそのすべてが秀逸なものなのです。「目次」が巻末にありますが、最初に「地殻を破って―散文詩」を収め、次に「自然・自然美・貧民窟(感想と印象)」が入り、最後に「馬の天国(短編小説と童話)と三部構成です。

            *             *

 『人物書誌大系25:賀川豊彦』によれば、上に掲げたように本書は大正9年12月6日に刊行されています。その初版本は手元にはなく、大正14年11月15日の「改版」を読んでいますが、それの奥付には「大正9年10月6日」となっています。そして「改版」では初版とは装丁を変えて、賀川の絵と思われる「蹴飛ばせ 汝の住む 遊星を」布に印刷し、文字も特徴のある筆跡を刻んでいます。そしてこの作品には、豊彦の「口絵:彼は棺桶の蓋をあげて廻る・・」と「挿絵:地殻を破って・・・」の二つが添えられています。(私は余程本書が気に入ったと見えて、冒頭の「地殻を破って」の「地球の精神」や「地球精神の復活」など、あちこちをワープロに打ち込んでいたことを思い起こします)。

 ともあれ、ここに本書の「序」を書き写して置きます。

 なお、書き忘れていましたが、賀川は「沖野岩三郎氏と中山昌樹氏に此書を捧ぐ」と巻頭に記しています。この二人は明治学院時代の同窓で、沖野は大正7年に「雄弁」に「日本基督教界の新人と其事業」を書いて紹介した人として、またダンテ研究者でもある中山はその生涯を通して賀川の気を許す大切な友人であったことは、よく知られています。


             序

 わたしの魂よ、強く生きよ。善と美に対して強く生きよ。春先の麦の芽が黒土の地殻を破って萌え出づるごとく強く生きよ。混乱を越え、争闘と、怨恨と、暴行と、脅迫と、病弱を越えて強く生きよ。

 わたしの魂よ、正しくあれ! 常に張り詰めておれ。雪崩が落ちてきても、強くあれよ。わたしの魂よ、穽に陥れられても懼れるな。すべてを破って成長せよ。

 おまえは一人おってはならぬ。痛める魂を労り、傷つけるものに膏を塗れ。おまえは病児の友、跛者の助け手、盲者の手引き、白血球の仕事をせよ。強くあれ、私の魂よ、民衆は土耳古犬のように吠えたぐって、階級闘争を叫ぶとき、おまえは忘れられても、傷つける霊のために静かに解放を説いて来い。

 おまえは代議士になってはならぬ。おまえはもう幸いにして官吏にはなれぬ・・・全科が二犯できたから。牧師にも向かない。専門学校の先生にも駄目だ。おまえは新聞記者にもなれぬ。おまえは一生辻の乞食と淫売婦を友達として送れ! おまえは一生貧民窟を出てはならぬ! おまえは一生辻に立て! 路傍説教をやめるな! おまえには教会がないから、辻の石の上に立って、解法と罪のゆるしの福音を説け!

 わたしの魂よ、神戸に貧民窟がなくなったら大阪に移れ! 日本に貧民窟がなくなったら支那に移れ! おまえの魂は一生貧民窟に縛り付けられているのだ。

 雪崩のあったあとに空が真青に澄むように、わたしの魂の上に空が晴れる。わたしは地殻を破って甦る!

 魂よ、マッチ箱生活を理想とする安住の子の魂よ、おまえは落ち着いて内なるものの爆発する聲を聞け! 神は内なるものである。

 魂よ、内なるものがおまえに力づける。おまえは強いものだ! 人間の子の小使いとして充分労働に耐え得る。ナザレの大工のように、おまえも地上をまわって、善と労働をして来い。妥協のない愛に生きて来い。

 わたしの魂は強く生きる。噴火口の烟のごとく、海洋の潮のごとく、強く生きる。わたしの霊は自殺することが出来ない。死も棺桶も吹き飛ばしてしまった。死を飛び越えたわたしの魂は、墓地を廻って棺桶の蓋をめくって廻る!

 出て来い、凡百の魂よ、死の床より起きて来い! 地殻を踏み破って、立ち上がって来い! 起床の喇叭が鳴るではないか! 永き眠りより醒めよ! 罪の憂鬱の虜より解放せられよ! 因循と、麻酔と、善に対する虚弱より醒めよ!

 わたしは道徳に酔う! 外側の道徳は振り捨ててしまった。内側で醗酵した善がわたしを酔わしてくれる。酒も飲まないのにわたしはほろよい機嫌だ! 神と道徳の耽溺者は、墓場から地獄に愛そうつかされて、神に酔っ払ってこの世に迷い出て来た!

 棺桶のなかに安眠するものよ出て来い! 繭よ、蛹よ、墓地を噛み破れ! 発明せよ! 爆発せよ! 死の扉を打ち砕け!

 魂よ、白日を仰いで、昇天せよ!

 百萬の太陽を浴びつつ、翼なくして空中に踊れ!

 内なるものが爆発しておるではないか!

                    賀川豊彦

                     神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第9回)

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「阪神淡路大震災から18年目」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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               第9回
  
  

    イエス伝の教え方 付録・少年宗教心理

            宗教教育研究叢書 第1篇

            大正9年10月4日 日曜世界社 

 『死線を越えて』が大正9年10月3日に改造社より出版され、爆発的な売れ行きとなりましたが、翌日4日に日曜世界社で出版されたのが、この『イエス伝の教え方』でした。本書は、日曜世界社(西阪保治の創設した日曜世界社は、この本の奥付を見ると「大阪市南区貝柄町330」に所在していました)で出版した最初の著書となりました。

 日曜学校教師を対象にした講義記録で、大正8年2月20日~11月27日まで9回連載で「基督教世界」に発表の後、「宗教教育研究叢書第壱篇」として纏められています。

 「イエス伝の教え方」は164頁で終わり、その後に「付録・少年宗教心理」が38頁加えられています。ノンブルも別々に付けられている珍しいつくりです。ポケット版のモダンな装丁で、表紙の文字は賀川の筆書きのようです。なお、昭和6年5月には、表紙の装丁を代えて第7版が出ています。

 ところで、本書の巻頭には「1920年2月」の日付の賀川豊彦の「序」があり、その前に「1920年9月」付けの「日曜世界社編輯部にて・吉田源治郎誌す」という文章が掲げられています。しかも双方ともに、ほかにはあまり例を見ない「赤文字」で特別に印刷されています。

 既に別のHP(「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」での長期連載「KAGAWA GYARAXY 吉田源治郎。幸の世界」)でも書きましたが、当時すでに賀川と西坂・吉田らは特に宗教教育の分野でも同労者で連絡を密にし、本書は賀川と吉田ともすでに緊密な関係が結ばれていく時の傑作です。

 恐らくこの賀川の講義筆記は主に吉田源治郎が行い、著作にまで仕上げたものと思われます。周知の通り、吉田源治郎による賀川講演筆記による著作づくりは、主に初期の名作としてこれから次々と誕生していきます。ともあれ本書は、内容的にも賀川豊彦の持ち味が存分に盛り込まれた読み物ともなっています。

 

              序

 「イエス伝をどう教えるか」ということは、またイエスをどう学ぶかということであります。私らはもう少し深くイエスを知りたいのです。そのために私は、うぶな心にイエスの話を植えてみましょう。老いかつ腐った成年者の心には、新しいイエスの発見はできませぬ。しかし歪みのない、新しい人間―子供―の心には、新しいイエスの種が生えます。つまり、イエスを蒔くことは、新しいイエスを知るひとつの工夫であります。

 もっと深くイエスを知りたい。その強き憧れから、今日の「非イエス的教育法」に裏切って、私はイエス・メソードの主張者になります。イエスのように明るい、イエスのように愛の深い人が百人産まれたとしても世界がひっくり返ります。そのために、私は社会革命中の社会革命の根本要素として、イエスの一生を今生まれたばかりの子供の心の中に投げ込むのです。火は燃え上がらざるを得ないのです。このいと小さきもののひとつを躓かすは、挽臼を頸にかけられて、海に投げ入れられる方が勝っております。

 イエスを教えることは、愛の仕事であります。そして愛と神のあるところに、イエスの心が成長します。私はイエスを教えるために先ず貧しきものを愛しましょう。イエスとはすなわち愛することにあるのです。貧民窟におって、私はいっそうそれを感じます。私は日本の多くの日曜学校の教師諸君がイエスを教えるために、愛に成長せられんことを祈ります。

  1920年2月

                    著   者

                     神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第8回)

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「高取山の安井茶屋」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作ー序文など

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            第8回
  
  
       小説・死線を越えて

             大正9年10月3日 改造社 551頁

 『小説・死線を越えて』が出版される5ヶ月前に、賀川ハルの名著『貧民窟物語』が福永書店より出版されていることは忘れたくありません。

 豊彦のこの小説は最初、雑誌「改造」第2巻第1号(大正9年1月1日)から第2巻第5号(大正9年5月1日)まで連載したあと、小説に仕上げられていきますが、その詳細な経緯を、最も信頼のおける証言者・村島帰之氏が書き残していす。それは、兵庫県立労働研究所発行の機関誌『労働研究』第149号(1960年7月号)ですが、村島氏は当時その雑誌に「労働運動昔ばなし」を連載していて、この号は第7回目で「『死線を越えて』の裏話―賀川豊彦追想録」と題された論攷です。賀川が1969年4月23日に死去した後すぐに執筆したものでした。(村島の「労働運動昔ばなし」は前編をブログ「賀川豊彦の魅力」http://keiyousan.blog.fc2.com/ で取り出しています)。

 この『小説・死線を越えて』は、当初から続編を念頭にして執筆していたかどうかはわかりませんが、大正10年11月28日には『死線を越えて・中巻・太陽を射るもの』の表題で出版されます。そして少し時をおいて大正13年12月1日には『死線を越えて・下巻・壁の聲きく時』が完結いたします。

 この3部作はいずれも爆発的な読まれ方をしたことは、前記の村島氏の証言にある通りです。そして上中下の3巻は、昭和2年8月3日に改造社より箱入り普及版(定価壱圓)がつくられ、さらに戦後にも早々に、昭和23年2月20日に上巻の『死線を越えて』が愛育社より出版されました。ここではその愛育版にある賀川の「改版の序」が添えられていますので、これを収めます。


            改版の序

 花はしぼみ、葉は散る。今日の花嫁は、しばらくして老婆に化して行く。さらばといって、常住不動の世界に住めば、退屈してあくびが出る。絶対者が有限の世界に、愛欲の表現を持ち、進化と発展の芸術に、生と死をもって色彩をつけてくれた所に、人生の妙味はある。

 死線を越えてみれば、人生は儲けものである。一切を空とあきらめて、そこに新しく贖罪愛の舞台を演出すれば、それがどんな隅っこの芝居であっても、味わいがある。

 死線を越えてみれば、人生のつまづきも、冒険も、怨恨も、争闘も、神の大きな御手のうちに結論を見出すべき生命芸術である。それは夢としては余り深刻すぎ、全部が誤謬であるとするのは余りに現実すぎる。勿論全部が神の責任ではない。私と私の祖先に責任がある。しかし舞台は全能者が張り出してくれた舞台であるだけに、全能者も、また責任を持ってくれる。

 舞台監督は神である。役者が余り傷つけば、繃帯をしてくれる。要するに人生は退屈しないように出来ている。邪淫と暴力と異端者が脱線を始めるとすぐ人生の空回りが始まる。そして血の噴火がおきる。実在者のうづきの聲が聞こえてくる。

 1900年前、パレスティナの砂漠の一角における大工イエスの憂愁は、実在者のもだえを人間の魂に奪い取った。それ以後、歴史の鼓動は大工イエスの脈拍を標準として数えることになった。

 だが、日本はナザレの大工の血脈を充分受け継がないうちに、衰亡してしまった。これからそのナザレの大工の血をもって輸血する必要があろう。日本も今度は死線を越えねばならぬ。一旦滅びた日本は、墓を打破って復活すべきだ。その復活のために私は再びこの小著を改版することを喜ぶ。

 日本よ、早く死線を越えてくれ!

   1948年3月28日

                    賀川豊彦
   


 戦後本書は角川文庫や現代教養文庫(社会思想社)で、またキリスト新聞社などでも出版されて読み継がれ、最近もPHP版や鳴門市賀川記念館版もつくられていることはご存知のとおりです。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第7回)

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    賀川豊彦の著作ー序文など

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              第7回
  
    主観経済の原理

              大正9年6月8日 福永書店 398頁

 本書『主観経済の原理』は、賀川の初期作品に集中した大型の上製本の4冊『基督傳論争史』『貧民心理の研究』『精神運動と社会運動』『社会苦と人間建築』に続く5冊目のものです。しかしこれ以後は、学術的な作品の場合も、この形の著作はつくられることはありませんでした。

 本書の版元は、賀川の処女詩集『貧民窟詩集・涙の二等分』を出版した福永書店で、この本は背表紙に皮を用いて金箔の背文字となる箱入りの立派な仕上がりとなっています。この年の暮れの12月、賀川は最初の随筆集『地殻を破って―散文詩』もこの書店から出版し、第二詩集『永遠の乳房』(大正14年)も福永書店から刊行しています。

 福永書店は「東京市京橋区」にあって、本書の巻末の広告を見ると「徳富健次郎『新春』(第60版)」とか「沖野岩三郎『煉瓦の雨』『宿命』」などを出していた出版社のようですが、豊彦とどのような繋がりがあったのでしょうか。

              *          *

 『主観経済学』と名付けられた本書は、これを「経済政策論」として第一巻とし、続いて第二巻を「経済心理から見た経済学」を、そして「主観的に見た経済原論」を第三巻に仕上げる構想を持っていましたが、実現しないで終わったようです。

 この本が出版されて4ヶ月後に、あの彼の代表作となる小説『死線を越えて』の第一巻が世に出たために、賀川の生活が一変してしまったことも、彼の構想が未完に終わった大きな要因なのでしよう。

 周知のように、1936年(昭和11年)に米国で出版された賀川の講演録『Brotherhood Economics』は広く世界中で読みつがれ、日本でも遅まきながら2009年の賀川献身100年記念として『友愛の政治経済学』の書名で翻訳出版され、近年大きな話題をよび、賀川のこの『主観経済学』の独自な主張にも、研究者の間で新たに光が当てられてきています。

 本書には、これまでの学術論文集と同じく『改造』『解放』『日本及日本人』などの雑誌に掲載されたものを中心に収録されて出来ています。『賀川豊彦全集』では第9巻に収められ、武藤富男氏はその解説で、ここには独創的な「賀川哲学の真髄」が刻まれていることを強調しています。

 

                序

 私はこの書を私の経済学組織の第一巻経済政策論として社会に提供いたします。第二巻は多分経済心理から見た経済学を書きたいと思っております。そして第三巻には主観的に見た経済原論を纏めて見たいと考えておるのであります。

 私は経済学を欲望と労働の学問として扱います。欲望と労働は共に心理的のものであり、主観的のものであります。それで今日までの経済学が欲望から出発しながらも、いつとはなしに物質と貨幣に捕らえられて行くのと違って、私は飽く迄その主観性で経済学を貫かんとする野心を持っているのであります。

 私は既に『精神運動と社会運動』において『主観経済の組織』という一章を設け、主観経済組織の価値論から起こってくる、各種の根本問題について論じて置きました。

 あすこまで論じた価値論はこの書のなかには論じておりませぬ。私はそれを更によく研究して第三巻の原論中に論じたいと思っているのであります。

 私はこの書において唯物史観或いは唯物的経済史観を批判するに相当の力を尽くしております。そして私の結論として哲学的唯物史観を排除して、経済的唯物史観を私の唯心的経済史観の一局面として採用しております。これは欲望と労働の心理的、発生的、歴史的順序からそう私には見えるのであります。

 私はこの主観経済の体系をもって、労働者の人格を資本主義の唯物的圧制より回復したいと思っておるものであります。私には学説と実行とが離れなければならぬ学説を立てたくないという欲望から、人間そのものの経済は人間そのものの外には何ものもないという結論を下しているのであります。

 それで私の経済学は人間経済学というても差し支えはないのであります。私にとっては、倉庫論も、銀行論も、財政論も要するに人間経済の付録であります。それで、私はそのすべての物貨経済学の究極するところを掴まんと努力したのがこの主観経済学であります。

 主観経済学はどこが究極の真理であるかということを必ずしも教えませぬ。それは成長を基礎としております。それで人類の成長と共に価値に変動がある、今日の資本主義の経済組織やその上に築かれている幾萬巻の経済学は全く無用なものになると説いているのが私の唯一の真理であるかも知れませぬ。

 私はこの書を編むに当たって他人の思想を借りておりませぬ。ただもしも私が深く考えさせられたものがありますれば、ラスキンの芸術史論であります。

 ラスキンの経済論は、私が唯心的経済史観を編むに直接の動機を与えたものであります。それから経済歴史の見方は、多くの労働階級史が色々な教訓を与えてくれたのでありました。英国の農民史、賃金史、仏国の労働階級史、独逸の奴隷史等が私の目を開いてくれたことは少しではありませぬ。

 要するに私は、人間の経済を欲望と労働の二つから研究するのであります。それで主観経済の名をつけました。そして人間の心が欲望と労働の心理的興奮から段々崇物的になって、遂に唯物的資本主義に捕らえられ、人間の魂を機械と資本の下に軌っていることを見るに堪えられなくなったのが、この主観経済原理の組織となって現れたのであります。

 私は自身工場を経営して見ました。私の一族と友人がやっている資本主義的経営法すなわち金儲けというものを見ました。私は労働運動をして見ました。また十年間貧民窟に住んでみました。そして私の経済学が誤っておらぬことを確信しております。

 私はこの経済学上の創作を、今、日本の読書社会に送り出します。そしてありったけの批判を仰ぎたいと思っております。

 私は学問のための学問などいうことをいいませぬ。私の学問は人間の解放のためであります。それで学問になっておらぬという人があればその批評を受けましょう。しかし私は議論するだけのためにこの書を読んで戴きたくはありませぬ。生きんがために―そうです、今日まで捨てられていた、人間価値と、宗教価値と、芸術価値と、そうして下等だと考えられていた経済価値の総和をもって、生きた経済学を組織する時にそれはどんなものができるか、それを頭において読んで戴きたいのであります。

 私は唯物経済学のすべてを否定するものではありませぬ。所得税の分配曲線の研究も私は否定するものではありませぬ。しかし主観経済学からいえば、それらの研究はすべて主観経済の特段なる場合であり、また、主観経済の時間的経過を空間的に横断したものであります。

 すなわち私の経済学は時間を組み入れた経済学であります。それでユークリッド幾何学に対するロバチエスキーや、リーマンの新幾何学の関係が線と角の時間的発展の関係である様に、主観経済学と今日までの唯物経済学の関係は、富の時間的発展の関係であります。

 こんな意味において、私は主観経済学を社会に提供することを喜びと致します。

    1920年5月12日

                    著    者

                     神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第6回)

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   賀川豊彦の著作ー序文など

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             第6回
  
 
       人間苦と人間建築

             大正9年4月9日  警醒社書店 433頁

 今回の『人間苦と人間建築』には、今日では広く知られて「阿修羅像」が口絵に入っている書物で、拙著『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』の裏表紙にも載せさせていただいたことがあります。本書の姉妹編となっている先の『精神運動と社会運動』とほぼ同じ大型菊判の箱入り上製本として刊行されています。

 賀川はこの大きな論文集を「私の貧民窟改良事業の同労者なる馬島僴氏、武内勝氏、また私の信仰の友なる間野松蔵氏、木村甚三郎氏に捧げ」ています。馬島と武内は周知のイエス団の同労者ですが、間野と木村はいずれも賀川が属していた日本基督教会の長老であったことが最近(2009年)刊行された『主恩教会90年の歩み』の中に纏められている詳しい年表で知ることができました。

 なお既に別のところで書いたことですが、この『主恩教会90年の歩み』には、賀川とハルが結婚式を挙げた、当時「山本通5丁目」にあった「神戸日本基督教会」の集合写真(1908年)が掲載されています。これまでは、賀川の結婚した教会は、大方の見方では、神戸の「中山手7丁目」に建つ教会が考えられてきました。しかし、この年表によれば「山本通5丁目」にあったこの教会が「中山手7丁目」に新会堂を建築して移るのは大正5年12月のことですから、豊彦とハルが結婚式を挙げた大正2年5月27日の頃は、「中山手7丁目」ではなく、「山本通5丁目」にあった頃の教会であることが、判明いたしました。

 本書には、冒頭の「苦痛の哲学」をはじめ、有名な「貧民窟十年の経験」や「人間建築論―社会改造の精神的動機」など、『貧民心理の研究』以後の賀川の広範な思索の跡をたどることのできる重要論文が入っています。


              序

 私は苦悩の中に、感謝すべき数々を発見しよう。人間苦はまた人間建築である。苦悩の無いものに、創造は無い。私は苦痛そのものまでも黙示として感謝しよう。

 こんなに考えて、私は凡ての苦悩の中に静坐する。貧乏も、病苦も、凌辱も、監獄さへも、私には与えられたる大きな黙示である。私はその凡てに向かって感謝する。

 苦痛中にあって相愛することは善きことである。また愛せんがために、苦しむことも善きことである。愛は苦痛をさえも、戯曲化してくれる。

 しかし苦痛は事実である。社会悪の凡ては事実である。それについて、我等は無頓着ではおれない。しかし苦痛と悪を排除するために、更に新しき苦痛と十字架を覚悟せねばならぬ。母性と、愛と、犠牲のないところに社会は産まれない。それで、苦痛を救うがために、我等は更に新しき苦痛を見る。そして結局は、苦痛の聖堂において、やはり十字架の礼拝されている理由を理解する。

 この意味において―否、凡ての点において飛躍する意志にとっては、凡てが歓喜である、劇曲である。生命は、無償で、観覧し得る大きな芝居である。苦痛さえも、死さえも、感謝すべき、その一幕である。

 ただ、そこに、我等は、その劇曲を開展させる、宇宙と人間の意志が、愛と光明に向いているか、否かを点検すれば善いのである。

 飛躍するものには、凡てが、劇曲である。

 この書『精神運動と社会運動』の続編とも見るべきものである。主として私が過去一年間に各種の新聞雑誌に発表したものの一部である。

 読むべきはずのものも、よう読まず、この書は労苦と、貧困と、眼病と、繁忙の中に生まれた。しかしそのことについても、私は感謝しつつ、この労作を送り出そう。

 私の労作は、私の祈祷である。私はその凡てに感謝する。

    1920年2月20日

                 著      者

                    神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第5回)

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    賀川豊彦の著作ー序文など

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             第5回
  
    貧民窟詩集 涙の二等分

           大正8年11月10日 福永書店 373頁

 賀川の詩作品については、別のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ での長期連載した名作村島帰之著『預言詩人・賀川豊彦』で詳しく紹介することができ、賀川記念館のHPの「研究所:鳥飼慶陽の部屋」で、全体を纏めたものを一挙掲載されています。この村島作品は、賀川の主要な詩作品を取り上げられており、今回の長期連載の際には、賀川の原書にあたりながら、村島作品を大幅に補正してUPしましたので、十分味読いただけるものと思います。

 なお、賀川豊彦の詩作品を、詩人の目で取り上げて、見事に論評した好著があります。それは三浦清一著『世界は愛に飢えている―賀川豊彦の詩と思想』(昭和32年、的場書房)です。なお三浦清一の未刊の完成原稿『賀川豊彦随筆集』が遺されていて、賀川ミュージアムに所蔵されています。いずれブログ公開されると有益かと思います。

 賀川のこの処女詩集は、今回紹介する賀川の「自序」にもその経緯が書かれているように、当時既に著名な歌人・与謝野晶子による見事な長文の「序」が収められていることはよく知られています。ここでは賀川の「自序」だけを取り出して置きます。

 手元の原書ははじめ、大正8年の再版本を読んでいて、それがボロボロになってしまっていたところに、何と先だって無傷の初版本が箱入りのまま入手できました! なお、処女詩集の巻末には、これの出版された大正8年11月10日の10日後に、同じ福永書店より刊行された『労働者崇拝論』(社会問題叢書第三篇)の広告が載っています。『労働者崇拝論』は出版のあと直ぐ12月7日には「発売禁止」となっています。原書は現在、賀川ミュージアムに所蔵されています。それでは、「自序」を書き写します。


                自 序

 不思議な実在としておかれ、苦悩と絶望と、愛と歓喜と、病躯の中に据えられた私は、死の影に逍遥して生まれたのが、この一篇の詩集である。

 宇宙の苦悩を見たものは死なねばならぬと、私は常に考えている。そして贖罪者イエスの弟子として、私もその重荷をくくりつけられ、たじろぐ足に、貧民窟の隅で泣かねばならぬ実在として、私は造られた。

 私は何度社会苦に煩悶して自殺しようとしたか知れぬ。神がもし、私を受感性の人間に作らなかったなら、こんな苦悩はないであろうが、眼を涙壷のようにして、貧民窟の路地を嘆きつつ歩ますように捕え給うた神は、自殺したつもりで、私を泥溝の中へ叩き込みなさるのである。

 私はひこづられて行こう。ただもう贖罪者イエスの十字架を負わせられて、世界の嘲罵と怒号の中を、沈黙のまま、静かにカルヴァリーまで歩もう。

 神が私を見放すまで、私はこの貧民窟に仕えよう。私の涙を笑ってくれるな、人よ。私の捧ぐべき祈りは、私が人に見せない涙にあるのだ。

 この詩集は、過去13年間の、神の前の私の呻きである。最近さらの光明に触れているが、それはみな散文詩になっているので、別に発表することにしたい。

 私の尊敬する詩人与謝野寛氏、与謝野晶子女史が常に私に対して温かい愛を注いで下さる上に、更につまらぬ私の詩集に、序文を賜ったことを特にここに感謝する。

 このクリスマスで、ちょうど貧民窟に入って満10年である。その間に私は2年9ヶ月、アメリカに行っていたが、私の貧民窟の仕事は私の友達の労働者の手で続けられていた。今この詩集を自分にひっくり返して見て、私の胸は一種の感慨で一杯になっている。

   1919年9月6日

                   著    者
               
                      神戸貧民窟にて


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第4回)

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「高取山・新探訪」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




    賀川豊彦の著作ー序文など

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               第4回
  
           精神運動と社会運動

           大正8年6月5日  警醒社書店 719頁

 大正3年8月から大正6年5月まで、米国留学のために神戸を離れていた賀川は、武内勝たちの待つ神戸・新川に再び戻ってきます。7月には、横浜の共立女子神学校で学んでいたハルも神戸に帰り、新たな生活がスタートいたしました。そこですぐに「イエス団友愛救済所」などの働きを開始していったことは、よく知られていることです。

 労働運動への参画や大阪での購買組合共益社の創設などすすめ、大正8年12月には、親しい友人たちが「貧民窟居住満10年記念晩餐会」を開いたりしています。村島帰之の「労働運動昔ばなし」の5回目のところには「貧民窟十年記念会」として10人の名前とその時の写真が掲載されています。

 本書『精神運動と社会運動』は、前著『貧民心理の研究』を出版しておよそ4年後の大正8年6月に警醒社書店より刊行されています。賀川が米国留学から帰国後に「科学と文芸」誌や「救済研究」誌などより求められて、次々と発表したものを編集し、719頁というはじめての箱入り大判の上製版の著作が登場します。手元の原書は大正10年の第8版ですが、奥付を見ると大正8年のうちに第4版まで版を重ねています。

 本書の扉には「この書を私の貧民窟の小さき改良事業に同情さるるマヤス博士夫人、福井捨一氏、大迫武吉氏、吉田栄蔵氏に捧ぐ」と記されています。そして本書の扉には、「英国現代の貧民窟詩人メースフイルドをマクス・ビーアボアムが風刺的に画きしもの」と説明書きのあるものが収められています。


                序

 貧民窟に入ってから丁度満10年、その間に貧乏と病躯と、繁忙と社会悪と戦って、思った書物も充分よう読まず、深く宇宙悪の諸問題と人間生活の運命に考え込んだが、その一部の思想を今論文集としてここに発表する。

 私は固く信じている。私の最大傑作は、紙の上にあってはならないと。私には与えられた、貧民窟の幾多の悲惨な諸問題がある。これら愛する友人の胸のうえに画かるべき活文字こそ、私の芸術的傑作中の傑作であらねばならぬのだ。しかしこれらの傑作を私は、まだ不幸にして完成しない。それで私は紙にまで堕落する。紙にまで堕落した私は、与えられた私の生活を基礎として、他人の進んだ航路と全く異なった角度をもって突進したい。私には私の哲学がある。私の哲学はいつまでも発生的にまた傾向的に見る癖をもっている。

 それで私は多くの論文を傾向的に書いた。もちろん私はこの論文集で、私の哲学思想の全てを表白することができなかった。しかし断片的に発表した論文を見てもらえば、私の思想がどんな方向をとりつつあるかが解かると思う. 私のすべての過去の労作は、貧民窟の長屋で生まれた。それは子供の叫びと、大人の怒号と、病人の呻きを聞きつつ書いたものである。

 私は真の哲学は、今日の社会悪を除き去った後に初めて産まれるものであると信じている。すなわちすべての善の運動は一種の哲学運動であると信じ、社会運動と精神運動を一つの運動であると考えている。

 この論文集は、二三の新しく書いた論文の外は全部私が過去一年半の間に発表したものである。私はこの種類の論文で決して満足しておらない。遠からず『宇宙悪論』の一体系の中に全てを纏めたいと考えている。しかしそれが纏まるにはまだ永くかかると思うので、恥ずかしいことながら、警醒社の福永文之助氏の好意によって論文集を発表することにした。

 時代が時代だ。欧州では八百万の生霊を犠牲にして、新しい世界のために悶えている。私も来るべきその時代のために、私の思想を先ず整理せねばならぬ。

  1919年5月6日
                    著    者

                      神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第3回)

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「柳原のえべっさん」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作ー序文など

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           第3回
  

        貧民心理の研究

          大正4年11月15日 警醒社書店 654頁

 賀川は大正3(1914)年8月には、米国プリンストン大学並びにプリンストン神学校入学のため、神戸を離れます。留学のための資金を獲得するために、彼は妻ハルの手助けを受けながら、この大著『貧民心理の研究』の原稿を仕上げる努力を重ねます。しかし、出発前には出版は間に合わず、本書は、留学中の大正4(1915)年11月に漸く日の目を見ます。

 賀川の留学中にもう1冊、彼の翻訳本の第1号と思われる、オリバーの著書『PREPARATION FOR TEACHING』が、『日曜学校教授法』として、大正4(1915)年3月、日本基督教興文協会より出版しています。これは留学前マヤス博士から、これを翻訳すれば50円出せるという話があり、賀川が訳文を口述して、ハル夫人が筆記し、2ヶ月かかって完成させたということも知られています。

 『貧民心理の研究』は、挟み込みの資料を除いても本文が654頁にも及ぶもので、よく知られるように、当時新進気鋭の社会学者・米田庄太郎の「序文」が入り、巻頭には貴重な写真も収められています。
では、ここに賀川の「自序」を書き写してみます。



             自 序

 私はこの書を一生懸命になって書きました。しかしこの書は私にとっては一論文の一小部分にしかなっておりませぬ。「宇宙悪」の問題は永らく私の頭を悩まして、私は数年来唯そのことばかり考えております。そのうちにも貧苦と精神の衝突は殊に私の注意を惹いたものですから、私はその材料を集めることになりました。即ちそれがこの書であります。

 で、私から見ればこの書は「宇宙悪」論の数頁―社会苦の方向が少しわかった位にしかなっておらないのであります。だから、私はこの書の中に何者をも解決しておりませぬ。また自白しますが、私は立派な心理学者でもなし又経済学者でもないので、善い材料も十分集め得なかったのであります。で、専門的にみれば恥ずかしいようなところが沢山あると思います。しかし唯私の許しておりますのは、私でなければ得られないと思っている材料が得られたかと思うことであります。―それも間違っているかも知れぬが。

 私はこの書を書き終わるとすぐ行李を纏めて北米合衆国に遊学に出かけて来ました。そして日本製の眼で貧民心理を研究しております。そして大体において私の研究が間違っておらぬということを認めているのであります。アメリカは大きい国であります。貧乏人でもゆったりとしている。子供が社会主義の辻演説をしても善い国であります。或る都会の外は殆ど貧民窟をみることができない国であります。それで一面からいうならば、貧民心理は新しい国では研究できないということを私は発見したのであります。また、なんでも昨年アメリカで印刷された図書の中で、社会問題の本が最も多いそうでありますけれども、よく調べてみますと、「貧民心理」の問題に関しては全く一冊もないのであります。それで、私は、これはどうしても英国へ行かなければ駄目だと諦めております。

 それはとにかく、新大陸から見れば、いくら紐育が世界生活難の本場だと人がいっても、日本を初め暗い支那印度のことを考えますならば、とても話にならぬ。日本の貧民は「飢えたる貧民」であります。こちらの貧民は飢えてはおらず渇いた位のところでありましょう。1914年―5年の霜枯期は、世界の大戦のために大西洋岸の諸市いずれも、前年に倍する失業者を出したのであります。しかし、私はその救済法の完備しているのと、法律の寛大なのに驚いたのであります。たとえば、紐育市の如き、12月早々市長が知名の実業家、慈善家、社会学者、労働党首領よりなる70人の委員を任命して、失業者救済策を講じたのであります。そしてその結果、委員の一人である電話会社社長は、電線の修理を繰り上げてこの冬期にするということにし、その他の諸会社にても同様に仕事をわざとつくり、それで失業者の多数は助かるということになったのであります。

 これは一例であるが、この国では人口15・6万の都市で、貧民窟というものを探し当てることが誠に困難である。フィラデルフィア市などの大きな都市でも、貧民窟というべきものはもう今日では発見できないほどに改善され、またその区の死亡率のごときは、日本の貧民窟の三分の一位に減じさせているのであります。しからば、貧民は無いかといえば決してそうではない。貧民の標準が違って存在することになっているのであります。日本では月給18円をとる巡査くらいが貧民であろうが、紐育は5人家族で1年850弗以下の収入のものは貧民ということになっているそうであります。つまり日本の奏任官位いの収入あるものも皆貧民ということであります。紐育では貧民の家族で1ヶ月20弗位い払っておるものは沢山ある。その代わり月々132円(66弗)を恵与されている貧民もある。紐育の娼妓で日本のように貧困で身を売るというようなものは多くはない。しかし多くは贅沢につり上げられたために娼妓になっている。したがって、貧民心理もよほど違ってくるようなものである。

 しかし「人情は東西一つ」で、生活難が殖えると妻を棄てる(費府では1914年4万件からあったそうだ)その棄てるのが、金の話からだというのだから、私が神戸の貧民窟で見たものと少しも変わらない。しかし、「引越しの心理」「夜逃げの心理」はアメリカではまだ研究されておらぬらしいから詳しいことをいうことはできませぬが、これから研究するにしても、私は大体この書で述べた順序で研究すれば善いことと思っております。けれどもアメリカに来て私の益したことは、すでに英語では珍しい本が出来ているということを知ったことであります。「賭博史」であるとか「英国貧民発生史」であるとかは、私が日本で得たいと思って得られなかったものである。それがこの地では得られる。で、これらの不足な点はまた日本へ帰ったあと補修にでもしたいと思っております。

 今度の戦争は悲惨である。また多くの貧民を製造することであろう。そしてまた貧困が精神を支配するのでしょう。そして貧民心理の研究は更に新しくせられなければならないでしょう。ヨブは貧民の問題について叫んで「神はこの怪事を認め給わず」と申しましたが一体、カイザルの神様も、人間も、今、何をしているのでありましょう?
              プリンストンにて筆者
                  1915年1月6日



 なお、本書は大正4年に出版されて以後、高価な著書にもかかわらず読書界に受け入れられ、大正11年までに9版を重ねています。その第9版の奥付とその時の広告をみると、すぐに追って取り上げる賀川の大著『精神運動と社会運動』は大正11年のこの時点で第7版を、そして前回取り上げた『基督傳論争史』は「再版」が出回っていることがわかります。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第2回)

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「新春登山<高取山>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作ー序文など

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       第2回


           基督傳論争史
           大正2年12月15日 福音舎書店 353頁 

 前回の『預言者エレミヤ』が、芝ハルと結婚して最初の著作であったことは前に触れたとおりですが、大正2年のこの年に、最初の学術的大著『基督傳論争史』を上梓しています。神戸神学校は大正元年に卒業し、結婚前に「伝道師」の試験に合格していた賀川ですが、「葺合新川」での4年ほどの生活の中で、このような大作をよくもまあ書き下ろしたものだと、驚くばかりです。

 前作『預言者エレミヤ』は「ローガン先生」に捧げられましたが、本書の扉には「マヤス博士に捧ぐ」と記されています。本書は背表紙にも最初の標題紙にも「編著」とあるように、Schweitzer と Sanday の先行研究を彼が抄訳し、本書の後半に「日本に於ける基督傳の歴史」を書き下ろしました。

 手元にあるものは黒い上製本の初版ですが、カバー表紙や箱はありません。最初からなかったのかもしれません。本書の巻末に既刊の2冊の本ー『友情』と『預言者エレミヤ』ーの広告があります。次に取り上げる『貧民心理の研究』の第9版(大正11年)を見ると、本書『基督傳論争史』はそのとき「再版」されているようです。

                 序

 無学と貧乏と病気と繁忙の中に此の書が出来た。

 元来私が論争史を書くというのは、論争そのものに趣味を持っているからである。人間の無知なる、網に入った魚の様に、喘ぎ悶え、それでも無知の網を喰い破って、自由の大海に浮かぼうとする、その殊勝さ!

 私はその努力と争闘に言い知れぬ慰安を感じるのである。此の趣味がある計りで、私は貧民窟の強き刺激からよう逃げない。基督傳の研究圏は、思想界の一個の貧民窟である。私はまたそこへ引っ越して、同じ意味でその強烈な刺激に、快楽のありったけを貪りたいのである。

 哲学は元来人格の産物である。そして基督は人格のプリズムである。私は傾向の哲学的研究、或いは哲学史そのものの研究ほど好きなものは無い。しかし私は、今日の散文的な哲学史に少なからず飽き足らず思うている。今日の哲学史には生命がない。オイッケンもまだ駄目だ。

 哲学史というものは、宇宙の「創造的分出」の一現象で、哲学者そのものの生理、病理、心理、芸術、道徳より、そのパンから糞尿まで包含すべき性質のものである。

 しかしこれは容易の事業ではない。二千年の哲学史を書くに、また二千年を要す。ところが幸いにも、ここに「基督」というプリズムがある。凡ての哲学はこれを通過すると共に、不思議なまた簡単な生活史を形造する。そしてこの特殊な「生活史」には、レッキーの書かんとする道徳史も、ヘーゲルの現さんとする理念そのものの体現も、テーンの文学史的のものも、何もかも凡て現れてくる。

 それで、私は長年シュワイチェルの「ライマラスよりウレーデまで」の出るズット前より、こういう意味での基督傳論争史を書いてみたいと思っていた。しかし無学と繁忙と貧乏は、私にそれを許してくれずに、年月が経って私はシュワイチェルを手にすることとなった。

 私はシュワイチェルと彼の事業に、多大の趣味と同情を持っている。殊に彼が引き起こした最近の終末論の論争に関しては、ひとしおの興味を感じているものである。

 私はこの書を綴るにあたって、言い知れぬ歓喜を覚えた。私はこの書を、自らの将来の研究の便にしようと書いたと考えている。しかしそれがまた、世の読者を益するならば更に幸いなことである。

 私はこの書を書いている中に、一層の信仰を持って、神自身の中に生き、猶多くの生霊を基督と基督の日のために導こうと決心したことは事実である。

 終わりに、私は貴重なる書籍を貸与せられ、種々なる便利を与えられた吉崎彦一氏、加藤直士氏、大賀寿吉氏の諸氏に深く感謝し、猶世の博学なる諸兄姉に、不備なる点を批評また指導せられんことを希望する次第である。

  1913年11月10日
                    編  著  者

                     神戸貧民窟にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第1回)

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「新春の高取山」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作ー序文など

   わが蔵書棚より刊行順に並べる

             第1回

  はじめに

 蔵書の整理も兼ねて、2012年1月19日より、<「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など―>をブログ「賀川豊彦の魅力」http://keiyousan.blog.fc2.com/ でスタートして長期連載をいたしました。そこでは彼の著作原書から「序文」などをスキャンしたりして、彼の若き日からの作品を読み進んで、毎日を楽しませて貰いました。

 「序文」を一字一字打ち出してテキスト化する書写でもあり、随分時間を要しました。当然そこには間違いもあったり、読みやすくするために、勝手に改行を加えたりしております。

 そこで今回は、著作の表紙など関連するスキャン部分を省いて、解説的な文字など残しながら、主として「序文」などを取り出して読んでいくことにしました。こうして、賀川豊彦の全著作を年代順にたどる「賀川豊彦ぶらり散歩」の続きをスタートしてみます。

 いずれこれらの中から選別して、「賀川豊彦随筆集―著作序文選集」(仮題)をつくってみたらどうだろう、と思っています。


      第1回 預言者エレミヤ

 賀川豊彦の処女作品は、1912(大正元年)12月21日、福音舎より出版された『友情』で、『賀川豊彦全集』第20巻に収められています。しかし今それはわたしの手元にはありません。それで、その翌年1913(大正2年)12月1日、福音社書店より刊行された166頁の作品『預言者エレミヤ』からはじめます。

 処女作の『友情』の口絵・画は賀川自らのものですが、第2作目では「長尾巳画」となっています。そして『友情』と同じく「序」は山室軍平が執筆しています。賀川は25歳、芝ハルと5月に結婚して後の第1作です。本書には「TO Rev.C.A.LOGAN ローガン先生に」と巻頭に記されています。ここでは、賀川の「自序」を収めてみます。

(賀川と山室、そして吉田源治郎については、長期連載「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」(http://k100.yorozubp.com/ に触れています。)



             自序


 「預言者エレミヤ」は出来るだけ平易に、日曜学校の尋常科の終わりの方の方々に分かるくらいの程度で書いたつもりであります。しかし、私は大人の信者諸君にも是非読んで戴きたいのであります。

 旧約聖書のエレミヤ記をお読みになった方はご存知でしょうが、エレミヤ記は切れ切れの入り込んだ、それはそれは面倒くさい本であります。エレミヤのしたこと、また考えたことが、少しも年代を追っておりませんので、私はほんとに困りました。私はそれを長い間、西洋の色々な本を参考にしたり、自分手に考えたりして、やっとのことでこんなものにまとめました。聖書に載っている預言はひとつも略してありません。色々と工夫してみな入れて置きました。

 また挿絵でありますが、今度は私のお友達の長尾さんに書いて戴きました。長尾さんはただいま東京の青年画家の中で評判になっているお方です。しかし、下絵はみな私が、あるものは「埃及発掘会報書」から、あるものは、フエノロッサの「東洋美術史」から、あるものは「歴史家の歴史」から集めてきました。

 エレミヤ自身のことに就いては、私はまた特別の同情を持っております。私は小さいときから涙脆い方で、十五の時から説教し、いつでも辛い時にはエレミヤを思い出して慰めておりました。その後、神のご用に一生を捧げたときにも、エレミヤを思いながら東京へ上りました。今日でも毎晩の路傍説教に、ほとんどエレミヤを忘れたことはありません。迫害せられたとき、風の吹く晩、いやなとき、世の人間が福音に無頓着なとき、私はいつもエレミヤを思い出します。

 そしてエレミヤの涙は私の涙でした。それで私は、この本の表題を「涙の歴史」としようかと思ったくらいでした。

 未だ世界は改心いたしません。それで私はこの本をお読みになる皆様に注文があります。どうぞ、皆様も一人びとりエレミヤとなって、世界の罪を涙で洗い流すまで、基督のためにご奮闘して戴きたいのであります。

 1913年11月10日          

                       著    者

                         神戸貧民窟にて

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第14回・最終回)

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「新春初登山<高取山>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

     『労働研究』(第168号)1962年連載分:最終回


   第十四回 日本最初の労働劇団           

  
 レジャーの楽園新開地

 大正8年8月、川崎造船所怠業事件が解決し、いわゆる「8時間労働制」の実施を見るまでは大体10時間の定時労働の上に平均2時間の残業をして、平均11時間59分(大正8年5月現在)という長い実働時間だったので、レジャーをたのしむというようなことはほとんどなかった。それがサボタージュ以後、時間の短縮により、基準の8時間の上に平均2時間の残業をして1日の就業時間は9時間55分(大正9年5月現在)に減じた。そして出勤率もサボ以前の82パーセントから86パーセントに上昇し、賃金も以前は1人当り工賃1円92銭4厘だったのが、就業時間減少にもかかわらず2円62銭8厘と却って70銭増加して職工さんおよびその家族は大喜びだった。

 こういうわけで、職工さんの拘束時聞が減りからだも楽になり、それに心理的な解放感も加わってレジャーを楽しもうという余裕が出て来た。しかし、レジャーとはいっても、今日のように、旅行や登山に出かけるというほどのことはなく、せいぜい新開地の盛り場をぶらついて映画や芝居を見たり、安直な飲食をするというぐらいがせいぜいだった。

 当時、神戸の盛り場といえば「新開地」界隈にきまっていた。南北わずか5丁か6丁のいわばネコのひたいぐらいのせまい地域だが、そこには、あらゆるレジャーをたのしむ大衆向の施設が揃っていた。私は大毎神戸支局を去って大阪本社勤務に転ずる間ぎわに、約1ヵ月にわたって「新開地界隈」と題する続きものを新聞に連載し、この民衆娯楽の楽園の内容と外観を解剖した。(のちに久留弘三らの神戸印刷工組合の自営工場から出版された)それにはこう書いている。

 湊川の水は枯れる時があっても、わが新開地に人通りの絶えることはあるまい。朝まだき頃1万人を超える川崎造船所の職工さんが此処を通過し始めてから、深更、松尾稲荷ヘハダシ詣でをする芸者や仲居がアスファルトの上をカケハダシでゆききする頃まで、人影の此処に絶えることはない。湊川署の巡査が聚楽館前に立って調べた処によると、午後3時から4時までの1時間に新開地を北へ上った者2、250人、南下した者2、125人、計4、375人。さらにこれが夜ともなると人出の数はグンとふえて、午後8時から9時までの1時間の通行者は4、895人で、1分間に82人。時計がコチッと秒を刻む毎に1人半づつが通る勘定であった。

 新開地の東側には小さな飲食店などが約70軒、目白押しに並んで客を呼び、西側には北から数えて中央劇場、聚楽館の二大劇場を始め神戸劇場(手踊り)、千代の座(話専門)、キネマ倶楽部(映画)、錦座(同)、大正座(浪花節)、多聞座(安来節)、松本座(女義太夫)、菊水館(映画)、第一第二朝日館(同)、湊座と13の映画館や芝居小屋がひしめきあっていた。余暇を楽しもうとする川崎の職工とその家族は「どこにしようかいな」と戸惑うばかり。入場料は大衆席の3等なら芝居の中央劇場と聚楽館は別格で大体50銭だが他の映画館などは20銭乃至30銭(キネマ倶楽部と第一朝日館はやや高級で40銭)どこも大衆席は職工さんたちであふれるほどの大入り。

 飲食店も聚楽館の向い角の桂喜や博高館の隣りのヤッコは別として、他は「早幕35銭」「卵入りライスカレ-20銭」と大書した看板を掲げ、牛どん8銭、めし10銭、酒13銭と安直第一の大衆食堂ばかり。その中に1軒洋風2階建の洋食店が目立つが、これはカフェー、ナンヨーといって、友愛会の集会にもたびたび使われた。大正8年7月、野阪参三氏(当時は友愛会編集部員)が英国へ旅立った時も、また9年6月、私か大阪本社へ転勤した時も、友愛会の諸君が此処で送別会を開いてくれた。

 「日本労働劇団」の誕生

 労働者の余暇利用について語ろうとして、新開地で足ふみをしてしまった。

 さて川崎造船所の8時間労働制実施に伴い、友愛会でも新たに生じた余暇を、組合運動の方に向けさせるため未組織の人々に働きかけようと、いろいろと企画を立てた。労働講座の開催は、既に組合に加入している人々の教育に役立つが、まだ入会していない人たちを一足飛びにそこへ引っぱり出すことはむつかしかった。久留弘三は組合員の教育に力を注ぐ一方、未組織の一般労働者に対するPRや文化的な働きをも忘れなかった。何とかいう外国映画が労働者の団結をテーマにしているというので、それを借りて来て各地へ持ち廻ったり、これから述べようとする労働者による労働劇団の結成に力をつくした。

 戦時中、私が早稲田大学の講師をしていた頃、一人の文科の学生が「先生は日本での最初の労働者劇にご関係だったそうですね」とたずねた。

 「日本新劇史にそう出ているのです。神戸の川崎造船所の職工さんたちだけで、労働劇を自演した時、先生はその顧問だったと書いてあるのです」と説明を加わえた。そういわれて私はサボタージュ事件直後のことを思い出した。

 ずっと以前から、自分たちだけで芝居をやって見ようという意見が、友愛会の会合でも出ていたが、サボ事件のあと、就業時間か減り、夕方早く家に帰れるようになったのを機会に、労働劇をやってこましたろやないか、といった声が、川崎造船所の電気工作部の一部から起こった。その中心人物は同工作部の青柿氏の下でサボタージュの時も活躍した丹崎勉氏だった。丹崎氏はこれを久留に話すと、芝居好きで新国劇のファンでもある彼は双手をあげて賛成して、すぐ私へ連絡して来た。私は新聞社で労働問題を担当していたが、そのかたわら、市政と演劇をも片手間に担当していた。市政はともかく演劇記者は全く方面違いのようだが、これには事情があった。

 今は違うだろうが、その頃、地方の演劇記者は劇場のご用記者の感があり、少し大きな芝居のかかる時ぱ興行元が記者を招待してご馳走したり、番組の替り目には新番組に添えで金一封(ハナクソほどだが)を届けて来たりする風習が残っていた。そこで岡崎支局長は着任と共にこの弊風を一掃し、少くも毎日新聞だけは興行元のヒモつきでない、公平な報道と批判をしようというので、学生時代、坪内逍遥先生らの文芸協会や、小山内薫氏、先代市川左団次らの自由劇場などの新劇に夢中だった私を思いきって起用したというわけであった。

 沢田正二郎に指導を

 その頃(大正7、8年)の神戸の大劇場といえば聚楽館と中央劇場とだった。聚楽館は神戸の帝劇といわれて、さきほど物故した梅蘭芳(メーランファン)やイタリー大歌劇団も此処で上演した。中国演劇についてはかいもく知らない私は、大阪ホテル宿泊中の梅蘭芳にインタービューを申し入れ、日本の芝居には見られない優美な肩や腰の表情の秘術について質問し、名優を困らせたことを思い出す。

 その折の訪問記は神戸版のトップに堂々とのった。また水谷八重子がまだ十四、五才の少女でメーテルリンクの「青い鳥」のチルチルを演じた時も、岡崎支局長は思いきってその可憐な扮装写真を、紙面の8段をぶちぬいて大きくのせた。こんな調子で岡崎氏は労働問題に理解をもった進歩的記者だったが、同時に茶目気たっぷりでいろいろ思いきった新聞構成をして独りほくそ笑んでいた。私はいつもそのお先き棒をかついだ。

 中央劇場は聚楽館から少し北へ登ったところにあって、大阪歌舞伎や東京の新派(喜多村や若手の花柳など)がかかったが、私は早稲田の学生時代から知っていた沢田正二郎の新国劇とは特に親しく、夜遅くなると楽屋で大部屋の連中と一しょに泊ったり、楽屋風呂にも入った。東愛子という美しい女優と偶然、同じ風呂にはいり、こっちがはにかんでしまい、まともに彼女の顔を見ることもできなかったほどの純情な青年記者だった。

 私は久留氏らをたびたび楽屋へつれて行った。新国劇のファンは独り久留氏だけでなく、友愛会員中にも熱心なファンがいた。沢田はそれを知っていて、「労働問題の芝居やってみたい」といっていた。それで少し後だが、大正10年11月には賀川豊彦氏の「死線を越えて」を上演したりした。

 沢田の女房役に倉橋仙太郎という老け役かいた。この男は後に河内で小作争議に関与したりしたほどの熱血漢で、私が生野鉱山のストに出張して帰って鉱夫の話をしたついでに「入坑の鉱夫ふと秋風にふりかえる」というメイ句を披露すると、すぐそのあとの舞台でこの句を使った。

 彼は沢田の肩をもむアンマ役をやり乍ら「ダンナ私はこの頃俳句にこっております」という。沢田が調子を合わせて「名句ができたかい」というと、倉橋は待ってましたと、今、聞いたばかりの私の俳句を披露した。沢田が「なかなかうまいじゃないか」というと「実は、生野鉱山のストヘ行かれた村島先生にきいたのです」「なあんだ、村島さんの句かい、道理でうまいと思ったよ」と沢田がいった。もちろん、脚本にはない、出まかせのセリフで、私のご馳走にいっだのだが客こそいい迷惑であった。

 話は横にそれたが、久留から労働劇団の計画を聞いた瞬間、私はこれは沢田らの指導をうけるに限ると思って久留にいうと彼は大喜び。そこでさっそく沢田と倉橋にあてて指導の依頼状を書き、久留が持って大阪浪花座開演中の沢田の許へ飛んで行った。沢田は大乗気だったが、ネ申戸出演中とは違い大阪で昼夜二部興行をやっているので、時間的に今は不可能だから、神戸出演の際まで待てないかといった。しかし、労働劇の稽古は既に始まっている。やむを得ないから次のチャンスを待つこととし「沢田正二郎指導」をあきらめた。

 神戸劇場での初公演

 稽古は造船所の仕事が終ってから神戸の山手のある家で毎夜のように行われた。私は久留と一しょに2、3回その稽古を見に行ったが、男女優とも熱心そのものだった。そして大正9年春、荒田町の小さな小屋で試演をした後、同年5月10日から3日間、新開地の神戸劇場(聚楽館の南向い、小料理屋の横の引っこんだ処にあった)で華々しく開演した。客は階上階下ともギッシリで、大部分が造船所の職工さんだった。出しものは悲劇「文明のたまもの」五場、喜劇「労か資か」二場、喜劇「木綿実行」一幕で、みな労働者の日常茶飯事を扱かったもの。その上、小道具には金旋盤やフライス盤を運んで来て、舞台でそれを運転した。何しろ本モノの職工さんが、本モノの機械を動かすのだから真に迫らなければウソだ。それを見て観客はワーツワーツと大さわぎである。「しっかりやりやー」「削りすぎたらあかんでエ」と大向うからの声援でセリフもよく聞きとれないぐらい。舞台と観客席が一体となって芝居をしているのだった。

 こうして興奮と怒号、叫喚のうちに、芝居の幕はおりた。演技の上手下手は問題でない。みんな満ち足りた思いで劇場外に吐き出されると、新開地の人波の中へ吸い込まれて行った。

 労働者による、労働者のための労働者劇(リッカーツの言葉の受け売りだが)は、こうして大好評の裡に神戸の初演を打ちあげ、それからは加古川、姫路などを持ってまわった。労働劇のドサ廻りが始まったのである。

 しかし、始めは純粋な気持でやり出した労働劇だったが、だんだん時間がたつにつれて、技芸員(役者とはいわなかった)の諸君が色気を出し始めて、いわゆる役者かたぎが露呈して来た。
 これは技芸員だけのせいではなく、周囲の人たちにも責任があった。たとえば、神戸劇場の初公演の時でも、楽屋へ行って見ると、はなやかな楽屋座蒲団が贈られて来ていて、壁面には「何某さんへ、何某より」といった紙片が貼ってあった。これでは場末を興行して廻る三流の芝居と異るところがない。私はもう少し真剣味がほしいと思ったが、いい気持でやっている人たちにケチをつけては相済まぬと思って口をつぐんだ。

 此処で私は労働劇団の設立趣意書を取出してみる。これはリーダーの丹崎氏の筆ではなく、久留氏のような気がする。


              日本労働劇団趣意書

 私どもはこれまで労働運動を宣伝せしむる手段として演説会や示威運動の方法を採って居りましたが、今回さらに「耳よりも目から」「理性よりも感情に」訴えて運動を試みようとの希望から、生活問題や労働問題を取扱った劇を上場しようとして、同志相依って此処に「日本労働劇団」を組織するに至った次第であります。俳優はいずれも毎日ハンマーやヤスリをもって工場に働いている労働者であります。芸は素より未熟でありますが、労働心理を確実に表現する上においては、敢えて玄人にヒケをとらぬ自信だけはあります。何卒大方諸彦の真面目なる御指導と御引立のほどを呉々も御願い申上げます。

 大正九年三月
                 日本労働劇団
                         発起者 丹 崎   勉



           規     約

1.本団は日本労働劇団と称す
1. 本団は演劇の形式に依りて文化運動の促進を期するものとす
1.本団の資金は大方の寄附金及び会員の会費を以てこれに充つ(下略)

           役     員
総監督 久留弘三
願 問 今井嘉幸  賀川豊彦  村島帰之
工場長 久我米松

               技 芸 員
池沢清     間正 太郎   西川桂     川島 拾月
川田薫     河上  実   武田明敏    多賀美良夫
籤下利男    山内染之助   松本豊一    福永 酔月
藤田仙哉    鉄山  昇   浅田誠志    安岡 綾子
小林清子    横井春子    頼安正子    小林伊音子
大林幾子    
丹崎勉(主事)   中井 三郎(舞台監督)
徳田紫成    藤田 紫影(脚色)

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第13回)

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「須磨の海岸<旧和田岬灯台>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

   『労働研究』(第162号)1961年9月号連載分

  第十三回 労働組合のPR活動
       ―播磨造船所と神戸市電の要求一


 播磨造船所の労働事情

 川崎造船所の8時間労働制の波紋は地元の同業三菱造船所を始め鈴木製鋼所その他に連鎖反応を起こさせたばかりでなく、同じ兵庫県でも播州の僻地の相生町にある播磨造船所にまで波及した。播磨造船所は現在は石川島造船所と合併しているが当時は「帝国汽船株式会社播磨造船所」といって、川崎・三菱に次ぐ大造船所で大正8年頃は職工5千6百人を擁していた。その中、2千人までは地元の人たちで、九州・中国からの出稼者は会社の建て付住宅に住んでいた。私はたびたびそこを訪ずれた。那波駅で汽車を降りてから、約1里を人力車にゆられて行ったのだが、田舎道と想像していたのが意外にも街がつづいて、それがみな同じような新建の職工さん向きの小住宅で、この町全体が造船所のテリトリーであることがすぐうなずけた。会社の方針は川崎造船所ほどドライではなく、また三菱造船所ほど温情主義に偏してもいないでその中間にあるような感じをうけた。

 現に、私か車上から見た西脇の小住宅も会社が建てたものだが、職工住宅は4畳半、6畳、3畳の3間のバラックがほとんどで、家賃は3円50銭。当時としては決して安い家賃とはいえない。それで、造船所の北村庶務課長に会ってその事をいうと「その通りです。しかし、家賃を法外に安くして、その代り与えるべき賃金を与えないという温情主義は当社の方針ではございません」という説明でめった。三菱同様、白米の廉売もしていたが、市価55銭程度のものを45銭で取次ぐだけで、むしろ実費販売という方が適当だった。その代り、給与の方は地方の造船所としては「まず上等といえましょう」といって賃金表を見せてくれた。それによると、本給は平均1円40銭、これに歩増がつくので大抵の者は60~70円の収入がある。(当時、大学卒業生の初任給は30円から50円の範囲だったからいい方たった)就業時間は9時間半。これが川崎の8時間労働制実施で右へならえをした。しかし請負制の鋲打工とほかの取付工とでは利害が一致せず8時間制の実施を機会に単価賃金の値上を要求してストに突入した。8年10月のことだった。

 その頃、播磨造船所は12万噸の造船能力を目ざして生産向上を図っていて、出勤者の2割が徹夜、4割が4時間残業をやっているので歩増の収入が多く、徹夜の場合などは20割という特別歩増がついた。それで労働は過重だが実収はよく、名目就業時間の短縮で、給与の割出しが変り、それだけ残業歩増もふえたので、ストは始めたものの強いて会社に楯をつくという気持はなく会社と話しあった結果間もなく要求を撤回した。

 庶務課長 北村徳太郎氏

 私は北村庶務課長のやり方に好感をもった。聞けばこの人はキリスト教信者だという。そういわれて見ると温厚篤実なゼントルマンであった。このクリスチャン課長は間もなく支配人となった。この人こそ、後佐世保の銀行に転じて頭取に進み、代議士に選出され、大蔵大臣にもなった北村徳太郎氏だったのである。

 ついでだから播磨造船のことをもう少し書こう。北村氏の方針なのであろうか、この造船所は当時既に民主的な雰囲気がただよっていた。

 前記の会社住宅にしても3間で3円50銭のバラックのほかに、門構えの堂々とした6間のいわば社員住宅といったような高給住宅もあったが、社員、職工の区別をつけず誰でも好きな方に住まっていいことにしてあった。しかし高給者は別として3等社員ともなると、家賃の安いバラックの方を借りる者が多く、背広と菜っ葉が隣りあって住んで、仲よく暮しているという事だった。

 もう1つおもしろいことがある。播磨造船所は相生港の東岸にあって、職工の中約2、000人は西岸から渡船で通勤していた。夜勤の職工が早朝造船所を出て、渡船で家路さして帰って来ると、船着場には彼らを待ちうけている1隊の女郡であった。客ひきの夜の蝶なら早朝からではおかしいと思ってよく見ると、それは職工たちの妻女である。それにしても此処の職工さんは何と仲のよいことだと感心していると、夜勤から帰った良人と出迎えの妻は1組ずつに分れて、河岸に腰をおろし、妻女は携えて来たフロ敷包をおもむろに開く。とそれは弁当であった。しかも2人分の一一。説明するまでもあるまい。彼らはセセコマしい家に帰って食事をするよりも、空腹の良人に一刻も早く食事をさせたいという思いやりと、景色のいい、空気の澄んだ河ばたで2人打ち揃って朝餐をとろうという女らしい考えから、かくは朝の食卓を此処まで運んで来たというわけであった。私は播磨造船所と聞くと今でもまっ先きにこの事を思い出す。

 神戸市電気局の紳士的争議

 播磨造船所のような造船所ではなかったが、川崎の8時間労働制実施の直後、風変りな賃金値上げの要求をしたところがあった。神戸市電の電気課で、吏員・工手・工夫が詳しい生活調査を添付して、本給7割という大巾の増給要求書を出した。大正8年9月27日の事で、変っているのは、市民に迷惑をかけてはならぬとあって、

 「我等は同盟罷業、怠業その他、公共をみだすが如き行為はなさず」 

 と宣言した点て、今日の交通争議の概念からすると、全く考えられないやり方だった。しかし、実力行使は行わなかったかわり課員の生活費の調査を行い、最近の生活費の昂騰で本給7割の増給は真にやむを得ないという実情を立証する資料を提出したところは、合理的な争議戦術だったといえる。

 嘆願書(甚だ時代的の文章だが、私が書いたのではない)と生活調査表を次に記そう。


                  嘆  願  書

 謹而愁意を披歴して申す。

 現今諸物価の騰貴は停止する処を知らず其狂奔や実に驚異に失す。なかんずく我神戸市に於いては其最たるものにして我等生活上不安の感日々に悠然たり、然も之現社会の状勢にして如何とも成す能はず、為めに一同異口同音に「如何に成り行く哉」のー語に尽き競々として為す処を知らず。当局其意を諒とせられ屡々増給し以て之れを補給せられたり従って聊か愁眉を開くを得―同感謝以て今日に及べり、然るに吾等一同より主任に提出する生活状態調査書の如き実情にては到底生活の安定を期する事能はず、噫我等は公共の福祉の為謹直以て「明日明日」の念慮に慰籍せられつつ庶多の妄情苦慮と戦ひ現今に至るも遺憾なる哉今や茫然瞑目時勢に委すること能はず萬愧の声涙を吞み茲に現臨時加給金を据え置き本給料に7割の増給を嘆願せざるの止む無きに至る。希わくば一同の苦哀を愍察せられ1日も早く之が恩典を賜はらんことを鶴首止まざるものなり、誠意を表し電気課員一同連署以て嘆願す。          
                                     電気課一同


                   生活調査表

             支出
          3年     現在     
家賃       3.30   14.00
米代      18.50   41.00
副食物薪炭   14.00   24.00
家具       1.40    5.00
新聞雑誌       35      70
交際費      1.65    3.00
小遣い      3.00    5.00
電燈水道     1.10    1.30
会費         40      57
雑費       6.00   10.00
被服       7.00   12.00
合計      56.65  116.57

            収入
         3年     現在
俸給      32.00   39.30
手当       -      19.60
雑収入      8.00   12.00
居残      19.00    6.50
合計      59.00   77.40


 すなわち、収入は手当も入れて76円40銭だのに、支出は116円57銭で差引39円17銭の不足ではやりきれぬというので謹んで「愁意を披歴して申す」次第なりというのだ。

 しかし、実力行使の伴わない要求は、なかなかすなおに当局が聞きいれるものではなく、言を左右にしてウンといわない。そこで実行委員は警察署長などを歴訪したりして側面からの助勢を頼んだ結果、市でも7割の値上はムリだとしても、若干の増給を考慮するという事でケリがついた。市電には友愛会の支部はあったが、会員数はあまり多くはなく、支部長は電気局技師工藤寿男という工学士、温厚な工学上で戦闘的な争議行為は避けたのであろう。

 勝ち戦にもふえぬ組合員

 さて、また話を本筋の友愛会神戸連合会に戻そう。大正8年の川崎造船所の怠業事件は野倉萬治、青柿善一郎、柴田富太郎、石橋市作、広田健児氏らの友愛幹部が中心になって決行されたが、しかし友愛会自体が正面きって乗出したというのではなかった。

 現に岸愛会の智識分子のリーグ一賀川、久留氏らは直接これに関与せず、賀川氏の如きは、明らかにサボタージュに対して反対の意見を東京の新聞に書いたほどである。従って怠業事件の要求条項が全部容れらたばかりか、思いもかけなかった「8時間労働制の実施」という大きな副産物をさえ招来したからといって、労働者はこれを労働組合――具体的にいえば友愛会神戸連合会の偉力の賜物とは受取らなかった。ただ漠然と「労働者が勝ったのだ」という意識があっただけであった。

 そういうわけで、怠業事件の勝利ということがあったにも拘らず、友愛会の会勢はさして発展を見たいということはなかった。つまり労働者の組合意識はほとんど高まるということがなかったのである。

 それに、今日のように労働組合が法によって認められ、保護されて、組合費の如きも、会社が組合に代って俸給の中から差引いて、一まとめにして組合に渡してくれるというようなことがなく、組合の幹部が一々会員の手から会費を受けとり、また機関誌が発行されると、組合事務所に行って受けとって来て会員一人一人に手渡すというのだから、その手数は大変なものであった。

 それだから、よほど労働組合運動に対し理解と関心を持つ者でないと、オイソレと組合には加盟しなかった。その上、組合に入会している、ということだけで、上司からはにらまれ、何か紛争が起こると、人形の首でもひっこぬくように簡単にクビになるおそれがあるのだから、いよいよ敬遠されるのはあたりまえであった。そこで友愛会は何をおいてもまず組合を宣伝し、新会員の獲得に努力する必要があった。

 1万人運動と久留弘三

 サボタージュの頃の友愛会神戸連合会の会員は3千人にも足りなかった。今なら1つの工場の労働組合員でもそのくらいはある。そこで、連合会では新会員獲得のため「1万人運動」というのを起こした。組合員を一挙に1万人にふやそうというのである。そこでまずできるだけ各方面で宣伝演説会を開いたり、労働組合早わかりといった風な宣伝ビラをまいた。

 近刊の「兵庫県労働運動史」を見ると、その宣伝文の1節が抄録されている。

 「吾等の運動は正義の上に立脚す、然れども、力なき正義は根のなき花の如し、吾等は団結によりて力を得ざるべからず、これ吾等が「1万人運動」を開始したる所以、憂国の労働者よ、来りて我が団体に投ぜよ」

 硬くるしい文語調は、賀川氏の筆でないのは勿論、久留氏や能文家の青柿善一郎氏の文章でもない。とすると、どうも私の書いたものらしい匂いがする。

 久留弘三氏は私よりも2年下の早稲田大学の卒業生(鈴木茂三郎氏より1級上)だが、早大在学中から学資稼ぎのため友だちと「テンセン・ストアー」(10銭均一の店)を開いていたという商才をも具えた活動家だったので、主務となるとともに会員の拡張には一番意をもちいて、1万人運動などというものを計画したのでめった。

 久留氏は早大在学中から友愛会に出入りしていた。その頃、慶応の学生だった野坂 鉄氏も一緒で、労働問題の研究に余意がなかった。野坂鉄というのは現在の日本共産党の野坂参三氏である。野坂氏は学究肌のおとなしい美青年で、慶応を出ると小泉信三教授の推せんで一時慶応の講師をしながら、やはり友愛会の仕事をつづけていた。友愛会での仕事というのは主として機関誌の編集で、大正7年4月、大阪で開かれた友愛会の6周年大会にも野坂氏は大会の記録係をつとめ、大会の終った夜の公開講演会には演壇下に作られた小テーブルに、野坂氏と私か向いあって仲よく関一博士らの講演要旨を筆記した。

 その年の1月、私は「ドン底生活」という貧民研究の小著を出版したので、野坂氏に送ったところ、彼は刻めいに読んで、誤植を全部ひろい出し、「再版の時に役にたてて下さい」といって送ってよこした。野坂氏はそういう人だった。

 これに反し久留氏は実務家といった努力家で、友愛会の発展のため次から次へといろいろの企画を応てた。1万人運動は大正8年10月に始まったのだから、彼が神戸連合会の専任主務になって2年目で、連合会を強化するためには、どうしても1万の組合員がほしいと実感した結果である。

 久留氏は随分と変ったプランを立てる男で私たちを面喰わせた。彼は1万人運動も、定石通りの演説会やビラだけでは平凡だと思ったのか、「友愛会1万人運動」と大書した番傘を大量にこしらえて、にわか雨の時など、何人かの菜ツ葉服を着た連中が相合傘で市中を歩くようにした。

 私もその1本を買わされたが白浪五人男の綾瀬川堤の勢揃いの場のような、傘をアミダにさして大道を高歩するのはちょっと気がひけて、ついに一度もささずしまいで、社会主義文献数十冊とともに大原社会問題研究所の資料室へ寄附したが、今も残っているかどうか。

 「新神戸」の創刊と賀川論文

 1万人運動などによる量的拡張ももちうん必要たったが、それにも増して必要とされたのは、組合員の質の向上だった。質の向上といっても、各組合員の意識には深い浅いがあるので、劃一的では効果がなかった。東京では友愛会の機関誌として「労働及び産業」と題する啓蒙記事と傘下各連合会、各支部のニュースを主としたものを出す一方、リーダ一格の人々のためや、高級な理論本位の「社会改良」を出した。前の一般雑誌は関東震災の際、南葛労働組合の川合義虎と共に憲兵に刺殺された平沢計七氏(紫魂と号す)が主として編集し、あとの理論雑誌の方は野坂氏が編さんして、理論的指導に当っていた。まだ本当のマルキストにはなっていないで、ロバート・オーエンを始め英国社会運動の人々の伝記などを誌上に紹介していた。そして大正8年7月には神戸から発って英国留学の途に上った。私は久留氏と二人で船へ見送つたが私たちのほかには伯父さんが一人見送ったきりだった。(彼が本式にマルキストとなったのは英国留学以後のことである。)

 久留氏は東京に敗けてはならじと、前記の本部発行の2誌のはかに、神戸連合会のとし別に「新神戸」を大正7年8月号から創刊した。「労働者の手になる最初の労働新聞」と自讃するほどのことはない小雑誌にすぎなかったが、毎号その巻頭を飾った賀川豊彦氏の論文だけはすばらしかった。正直にいって、賀川氏は友愛会の事務所にもあまり顔を出さず、公開演説会に出席して造詣深いところを演説して聴衆を感嘆させるだけだったが、「新神戸」発刊以後は同誌を通じて絶えず労働者に呼びかけたので、「神戸に賀川豊彦あり」という誇りが神戸3千の友愛会員の心に芽生えて行つた。

 「新神戸」は翌8年3月、友愛会関西同盟が結成されるとともに「労働者新聞」と改題され、間もなく、関西同盟会の中心が神戸から大阪に移るとともに「労働者新聞」も西尾末広氏を主務とする大阪連合会の手に渡ったが、「新神戸」以来の賀川氏の巻頭論文は引きつづき新聞を飾った。「新神戸」から「労働者新聞」に移った大正7、8両年にわたり賀川氏が執筆知ら論文は、後年の筆記とは異なり、同氏が貧民窟で精魂を傾けて書いたもので、いずれも短文だが、格調も高く、散文詩のような名文で、読者の心をわき立たせた。それと同時に官憲の心にも触れて治安紊乱の廉でたびたび発禁の厄にあった。しかし、内務省から禁止命令の届く頃には、大部分は会員の手に渡っていて、実害はなかった。ただ、これらの文章をまとめて出版した「労働者崇拝論」は伏字が沢山してあったにもかかわらず、またもや発禁となった。賀川氏は数次の発禁で出版法違反が度重なって、「ぼくはもう前科3犯だよ」などといってよろこんでいた。近く「賀川豊彦全集」25巻がキリスト新聞社から発行されるが、この発禁本「労働者崇拝論」は「新神戸」に掲載された時の原文通りに復元してもらいたいものだと思う。

 賀川氏が「新神戸」に執筆したものはいずれもりっぱな論文で、書きツ放しの雑文などは一篇もなかった。題名を次に摘記する。


無産者階級の出現  大正7年8月号新神戸第1号
暴動の安全弁        9月号
生存権と労働権       11月号
社会改造と労働階級     12月号
労働者崇拝     大正8年1月号
愛本位           2月号

         (新神戸改題労働者新聞)
工場民主          3月号  
工場法改正の必要      4月号
人間平等          5月号
賃銀奴隷の解放       6月号
社会連帯責任        7月号
工場の人間化        9月号
組合主義の確立       10月号
労働者と政治        11月号
人間建築          12月号
                     (以下略)


 労働運動とPRと青服叢書

 機関紙「新神戸」の発行と平行して講習会が友愛会の事務所や組合員の2階なっで随時開会された。久留氏をはじめ私や、私が推薦して大正日日新聞に入れた松任克己氏も時々顔を出した。今日では労働問題の書物もイヤというほど出版され、労働組合の会合もたえず開かれて、労働大衆が労働運動に関する智識を吸収することは容易となったが、40年前は手軽に読める書物も少く、話を聞く機会が少なかったので、友愛会の講習会は組合員に喜ばれた。

 ただ、8時間労働制は実施されナことはいつでも実働時間はそれに2時間ぐらいの残業を加えた10時間以上となっていたので、聴講者の来会するのが遅かっナこ。それでもう誰も来ないのだろうと思って尻をあげようとしているとドヤドヤとやって来て、あわてて座り直すというようなことが少くなかった。だから友愛会の支部の講習会に出ると西宮に住んでいた私などは帰宅は11時をすぎることが多かった(私は尻池支部長だったので、集りも尻池方面が多かったので、往復に多くの時間を要した)

 友愛会の事務所では久留氏が継続して労働運動のイロハを解説したが、これを一冊の書物にまとめ、賀川豊彦監修の社会問題叢書という小型文庫版の第1篇として大正8年5月に東京の警醒礼から出版された。この社会問題叢書の第2篇は「英国社会運動史上の人々」と題する野坂氏の小著で、この頃は野坂氏も賀川氏の仲のいい同志だったのである。また第3篇には前に述べた賀川氏の「労働者崇拝論」が同年11月に出たが、発禁となった。第4篇以下にはフランス、ドイツの労働階級史やC・G・Tの研究などが続刊されたが大学生あたりでないと、ちょっと消化できにくいものばかり。労働組合員には少数の人を除いては程度が高すぎて読む者は少なかった。ただ久留氏の「労働運動」だけがわずかに大衆向きであった。

 そこで、久留氏と私は、もっと平易な啓蒙的なパンフレットを出版して広く労働大衆に読んでもらおうと相談した。賀川氏も賛成して若干の金を寄附してくれたし、久留氏や私もなけなしの財布をはたき、前に書いた友愛婆さんもそのパトロンの質屋の且那にせびって出資してくれたので、資金もでき1冊5銭で売ることとした。そこでまず私がごく初歩のイロハを書くこととなリゾンバルトの書物の中から挿話を借りて来たりして青服叢書第1篇として9年3月に「労働問題とは何ぞや」を出した。わずか26頁の小冊子だったが、初版500部を出し売切れて再版500部を追刷りし合計1、000部が菜ッ葉服のポケットに収まった。このパンフレットははじめ「菜ッ葉服叢書」としようと私がいったが、菜ッ葉はひどすぎるというので「青服叢書」という名称におちついた。第2篇は久留氏が「賃銀奴隷の解放」というのを出したが、賃銀奴隷という文字が当局のお気に召さず、発禁になった。

 これらのパンフレットはもちろん市中の書店で販売するのではなく、組合の幹部が工場へ持って行って、上司の目をぬすんで組合員や、組合に好意を持つ連中に頒布したほか、友愛会神戸連合会の若手のピチピチした連中が「新人労働団」を結成し、労働組合の宣伝を兼ね新開地あたりまで進出して、夜店のバナナ売りハダシの雄弁をふるって道行く人にも売った。この新人団一―和田惣兵衛、貫名作三、玉置清治といった当時の紅顔の美青年も、もう60を過ぎたシナビタ老人になっていることであろう。

 「兵庫県労働運動史」を見ると、この青服叢書は7編まで出たようになっているが、それは予定であって、実際に出たのは上述の2篇の次に私が大正6年の友愛会全国犬会でしゃべった「産業社会の悲劇」を書き直して出したものだけで、あとは資金の回転がうまくいかなかったのと、私か大阪本社に復帰することになったことなどで、やめになったのは遺憾であった。予定されていた私の「国際労働会議の成果」も原稿はでき上っていたが、パンフレットにはならず、労働者新聞に連載された。昔はものを思わざりけり、どころか、みんな随分苦労をした。それを思えば、今は苦労が少ないといえるのではないか。

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第12回)

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「美しい帆船:CUTTY SARK」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

   『労働研究』(第161号)1961年8月号連載分

     第十二回 三菱の「九時間労働制」
          ――県下大工場の「右へならえ」


 試験的に9時間制を

 川崎造船言が8時間労働制の実施を発表すると、一ばん衝撃をうけたのはいうまでもなく同業のライバル三菱造船所であった。これまでも三菱は厚生施設では川崎にまさっていても、かんじんの労働条件では劣っているというのが定評であった。それが、たとえ名目だけにしても川崎が8時間労働制に踏切ったというのだから三菱としても黙ってはいられなくなったのは当然である。

 そこで10月6日から9時間労働制を実施すると発表した。川崎より遅れること1ヵ月、その上、労働時間も1時間長い。先頭走者川崎との間にハッキリと1時間の差がついたわけである。

 しかし、三菱としてはまだ厚生施設では川崎よりも優位にあるという自負があるので、1時間の名目上の労働時間の差ぐらいは何でもない、とうそぶいた。9時間労働制実施に当り、永原次長が大要次のような趣旨のことを新聞記者に発表した事でも判る。

 「川崎造船所の8時間労働制を見ると、単に給料の計算単位を8時間に引下げたというに止まって、国際労働会議において採択された8時間労働制の精神である職工の福祉および保健の増進という点からは程遠い。本社は職工の福祉増進についてはかねてから意を注いで来たが、労働会議の8時間制議決に当り、日本政府が主張した如く、その理想に至る段階としてまず9時間労働制を試験的に実施することとしたのである――と。

 その年に開かれた第1回国際労働会議では8時間労働制が議決されたが、日本は国内の労働情勢がまだそこまで至りついていないことを理由に、インドなどの後進国同様、除外例を認めてもらって9時間労働制の実施を決した。それも国内法の整備のため実施を5年後の1922年(大正11年)まで猶予してもらうこととしたのであった。(このことはこんどのILO総会での週40時間労働の勧告を時期尚早として渋って、とうとう流産にもちこんだのと軌を一にしている。日本の特殊性と時期尚早論は今も40年前と変っていない)

 そういうわけで、三菱造船所としては、日本政府が8時間労働制の理想に至るプロセスとして意図した9時間労働制を採用したのだ。しかし、政府がその9時間制の実施を3年後としているのに反し、三菱は一足先きに、猶予期間を置かず、そのまま即時実行するのだから、むしろ鼻高々だったのである。
 もっとも、9時間労働制とはいっても、川崎の8時間労働制と同様、仕事の急ぐ場合は時間外労働(残業)を課するというのだから、どちらにしても、労働会議の8時間制議決からは、かなりの距離の存したことはいうまでもない。

 右へならえの22工場

 こうして三菱造船所が9時間労働制に踏みきると、県下でも連鎖反応的に続々とこれに「右へならえ」する工揚が続出した。さきに川崎造船所の8時間制実施の際、ちゅうちょしてこれにならうチャンスを逸した小中工場は、三菱の9時間制実施と聞き、こんどはバスに乗り遅れまいと大いそぎで9時間制を実施したのだ。労働者優遇のためというよりは、そうしなければ熟練職工が逃げ出すからである。

 私の手許に残っている新聞の切抜を見ると、三菱が9時間制の実施期日と定めたと同じ10月6日に、三菱と足なみを揃えて9時間制へ踏出した工場が兵庫県下だけでも2造船所、10鉄工所の13工場を数え、また6日のスタートには遅れたが、同月末日までに実施しだのが9工場(主として鉄工所)で、その合計は22工場を数えている。

 10月6日 浜田、佐野両造船所、森田、兵庫、紅田、鈴木、岡本、高尾、中山、東出各鉄工所、明治工作所、神戸発動機
 同 9日 佐原鋳造
 同 10日 宮下製軸、平田鋳鉄工所
 同 11日 箔井鉄工所、北海林業
 同 14日 阪東式調帯
 同 16日 神戸鋳造鉄工
 同 20日 向井鉄工所
 同 21日 鈴木製油

 なおこのほか、三菱に数日先立って10月1日から9時間を実施した向もあった。日本発動機製造と浜崎造船所の2工場で、これは川崎の8時間労働実施を見て自発的9時間制を考え、三菱より一足先きに始めたものである。

 従って9時間労働は三菱の創始というわけには行かぬことは、川崎の8時間労働の場合と同様である。殊に10月中に9時間労働を実施した前記23工場の中には、残業をせず、純粋に9時間労働ズバリを実施した工場が10工場を数えているのだから、9時間プラスアルファの三菱はあまり自慢できたものではない。

 ついでに8時間労働制を実施した県下の72工場について見ても、60工場は川崎同様歩増2割乃至3割を支給して残業をしているが10工場は純粋の8時間労働制を実施したのだから「川崎の8時間ケツクラヘ」である。ただ、これらの純粋8、9時間労働制を実施したのは比較的仕事のヒマな中小工場で、職工数1万を越える川崎、三菱両大造船所とは同日に論ずるのは酷である。

 三菱の職工側は喜ばず

 ところで、三菱の9時間労働制実施に対する評判はどうであったか。三菱造船所では口を開くと「三菱は川崎よりも職工の福祉増進を考えて、日用品の廉売などにも意を注いでいる」という。しかし、職工側にいわせると、そうした温情施設よりも賃金をふやし、残業しなくても生計を立て得るようにしてもらいたいというのである。安い米を供給してやるから、安い賃金で我慢して、8時間労働の、9時間労働のといわず、残業をしてジャンジャン稼ぐがいい、というのは承服できない。ましてや、 汗の賃金の支払単位が川崎の8時間に対し1時間長い9時間というのは甚だうれしくない、というのだった。

 三菱の9時間労働制が実施されて間もなく、私の許に三菱の一職工からこの事について投書が来た。私はこれを「警笛」欄に掲載した。原文のままを次に転載する


                8時間制と三菱 
                          三菱中○生

 最近川崎造船を初め住友鈴木その他大小会社工場が続々8時間労働制を実現なしつつある中に独り三菱のみは兼ての腹案とかである時間制度を発表した。その理由として報ずる処によれば8時間制度の一階梯として先ず試験的に9時間制を布いたのであるとか。過日の新聞紙上に三菱副長永原氏の名において「川崎造船の8時間労働制を見ると単に給料の計算単位を変更した迄で職工の保健、国際労働会議へ持出された真の精神が十分斟酌されて居ない」と論ぜられたのであるが、三菱が実施せんとする9時間制度に職工の保健及び国際労働会議の精神が何程存在して居るのであろうか、吾人は甚だ疑わざるを得ないものである。

 殊に川崎に於ては従来の手当を本給に繰入れたのみならず上に薄くして下に厚き賃銀値上をも実施された、これを今回三菱発表の8割手当の本給直し10時間制の9時間制に比較すればいかに贔屓目に見るも川崎に比して遜色のあることは事実である。

 つぎに述べて置きたいのは三菱の最も誇号する購買組合制度である、会社では60銭の米を役員には実費、職工には25銭で供給せりと云うのであるが、60銭の米としてはあまりにも粗質である。しかしてここに一思案を要することは三菱は川崎その他の工場に比して賃銀の一般的に低廉である事実である。すなわち三菱では日給1円10銭内外の職工は上等の部類で職工伍長にして1円20銭内外のもの多々あり、組長にあっても1円50銭前後、職工として最高の責任者たる工長に至るも2円を上下するのである。

 われわれの臆測によれば安米を供給するが故に安日給を以てするのではあるまいか、もし吾人の見解にして当らんか、安日給を以て安米を得るも、高日給を得て高い米を口にするも帰着する処は何等の変わりなく差引零である。米以外の日用品の供給を受けんには貯金の資格を要する点も問題である。

 想うに会社は貯金奨励の意味に於てかくの如き資格を設けたものであろうが、職工の預金人員3、567名、預金総額216、058円で、総人員8、000余人の半数にも足りない。すなわち総人員の半数はこの制度に浴して居らないのである。今後はかかる不徹底なる制を廃し預金の有無にかかわらずこれを一般に提供し以て購買組合の組合たるの所以を明かにすべきである。

 温情主義への懐疑

 この投書でも判るように、三菱の造船工は、折角の9時間労働制も会社が予期したほどよろこびはしなかったのである。これは、川崎よりも1時間長い労働制であったことに対する失望もあるが、一つには三菱の温情主義的なやり方に対する反撥もあったのではないか、と思う。

 この事実を証明するため、8時間労働9時間労働制が実施される少し前、農商務省から工場監督官の一行が職工の実情調査のため来神し、私か斡旋して、友愛会の幹部一一いずれも川崎、三菱の造船工――との座談会を催した時の筆記(毎日新聞所載)があるから抄記してみる。文語体で読みにくいだろうが原文のままを掲げる。


  第1問 職工優遇を以て聞ゆる三菱に紛議多く川崎に却て少きは如何

 三菱は成るほど白米の日用品廉売をなし、或は病院の設備、慰安会の開設等いわゆる温情主義を発揮せりといえども中間者の処置そのよろしきを得ざるためかえって職工の反感を挑発す。故に三菱の職工は工場が温情主義を以て職工を遇するに拘らず常に賃銀の高き川崎の職工を羨望しつつあり、これ職工優遇を以て聞ゆる三菱に紛議多く優遇施設のなき川崎に紛議少き所以なり。

  第2問 温情主義の不可なる理由

 例えば白米其他の廉売の如き結構なるも貯金をせねばこの恩典に浴するを得ず、故に子沢山にして家計不如意の者は貯金し居らざるため安米を買う能わず見す見す市中の高米を買わざるべからざるに至る。又たとえ買う資格あるものといえども遠方に居住する者は貴重なる時間を費してこれを貰いに行くも結局くたびれもうけとなる事あり、病院のあるは可なるも平職工の家族は役付職工、技術者の家族に比し冷遇を受くる嫌あり。又医員の数少きため診療を受くる迄に多くの時間を要す。故に職工は病院に来らずして附近薬舗に就きて投薬を受くる傾向あり、慰安会の芝居は神戸市のごとき足一歩出れば娯楽設備のある処にては無用の長物ならん。渡されたる切符の数が家族の数に足らざるがため慰安会がむしろ家庭不安会となることもあり、要するに温情主義はその主旨可なるも方法宜しきを得ざるが故に職工仲間には歓迎せられず。

  第3問 工場内の施設は完全なりや

 食堂の設備ある工場にありては一時に多人数はいることとて肩摩轂撃その不快云わん方なく、叉これなきものにありては煤煙塵埃等遠慮会釈なく弁当に降下し折角の白飯も一見ゴマ飯の如くなるを常とす。脱衣所の設備なきため工場内の一隅に空箱を置きてこれに充当するなど実例に乏しからず。

 第4問 職工は故意に工場の設備を利用せざるにあらずや

 利用せざるにあらずして利用せしめざるなり。例えば洗面所の如き工場内に1、2箇所ありたりとするも一時に何千という職工が殺倒する時は如何ともする能わざるなり、質問者は職工は何故手を洗わずして飯を食うやといわるるもその機関の備らざるのみならず、食事時間が限られ居ることとてそんなことをしていては食事の時間無きにいたるべし。

 第5問 休日は如何

 工場表面の規定によれば休日は毎月2回あるもその内規には休日の項に除外例を設け「但し、急施工事の場合はこの限りにあらず」とありて繁忙なる部に属する職工の如きは数箇月1日も休む能わざる者すらあり。

 第6問 負傷病気は如何

 製罐職工の聾、機械工の指肢不足、鋳工のソコヒ、鍛工の火傷の如きむしろこれにかからざるを不思議とする程なり、残業をなす場合など特にこれらの負傷多く三菱、川崎両工場のみにても1日の負傷者100人を下らざるべし。病気は呼器病の如き甚だ多し、今日の如く残業を始終やっていては身体が弱って病気の出るのも当然なり。

 第7問 近来成金職工頻出すと聞く如何

 成金職工は工長、組長等の中に或は1、2これあらんも他は幾分収入の増加に依り多少贅沢をなす者ありと雖も成金職工という程ではあるまじ、尚ここに収入の増加という賃銀の増加にあらずして仕事の増加なればこの点注意を要す、質問者は「職工中近来金縁眼鏡をかけ、金時計を下ぐるものあり」と云わるるもコハ1、2の人に止まりこれを以て全豹を律し能わざるや勿論なり。

 代表100工場の労働時間

 川崎には川崎の長所とそして短所があり、三菱にはまた三菱の特色と欠点をもっているが、ともかく、神戸の港を圧する大造船所としてそれぞれ1万を越える熟練工を擁し、日本の産業界に君臨する両造船所が8時間労働、9時間労働の先鞭をつけた功績は没することができない。

 神戸の各工場は素より、全国の工場は川崎三菱両造船所に見習って労働時間の短縮を行ない、これがために全国の工場は昔のように12時間以上の労働を強いるものがなくなって、全国の基準の労働時間は三菱並みの9時間が常識となった。川崎、三菱両造船所の8、9時間制実施から5年を経た大正14年10月現在で、兵庫県工業懇談会が兵庫県及び大阪府下の代表的工場百数十ヵ所について調査したのを見ると、労働時間は平均9時間12分という事になっている。もちろん、これは残業を含んでいない。全数の8割近くの工場では大体2時間の残業をしているというから、正味の実働時間は11時闇を越える勘定である。

 これを40年を経た今日と比較して見ると、かなりの進歩とも見ることができるが、しかしまだ週40時間制も容易に実施に踏切れないことを考えると、あまり進歩していないともいえよう。参考のため、当時私が経済雑誌「エコノミスト」に書いた前記兵庫県工業懇談会の調査を抄録して見る。


 実労働時間

 先ず官営工場と民営工場によって区別して見ると、官営工場の方が少しく短い。すなわち

  官営工場      8時間56分
  民営工場      9時間10分 

 民営工場における各業態別の平均純労働時間はどうかというと大体下の如くである。

  繊維工場        10時間
  機械工場      8時間36分
  化学工場      8時間42分
  飲食工場      9時間12分
  特殊工場      8時間42分
  雑工場       8時間52分
  計         9時間12分

 すなわち勤務時間の長いのは、女工が大部分を構成している繊維工場で10時間の永きに亘っている。これに反し一番短いのは智識男工の多い機械工業で8時間36分、繊維工業に比し1時間半も短い。智識のある処には必ず団結があり団結の前には善い労働条件が置かかる。無智のそして団結のない紡績女工はどうしても閑却されて、雇主の搾取するに委せられる。

 最も善い条件は機械工場

 次に各工場の純労働時間を、時間別に見ると
  6時間半  1       7時間  1
  7時間半  1       8時間  42
  8時間半  5       9時間  48
  9時間半  9       10時間  27
  10時間半   4      11時間 18
  計     156
 
 すなわち全数の約3分の1の工場では9時間制を布いているが、筆頭は機械工業である。各工場中最も時間の短いのは6時間半制の工場であるが、これまた機械工場に多い。之に反し最も時間の長いのは11時間制の工場で殆んど全部は繊維工場である。

 各工場の休憩時側

 休憩時間はどうであるか。先づ民営工場と官言工場を比較して見ると、労働時間の短い官営工場が、民営工場よりも長い。

  官営工場      59分一間、
  民営工場      50分間
 
 しかしこれを民営工場の各業態別について見ると労働時間の短いところが必ずしも休憩時間が長くはない。むしろ逆の状態にある。けだし短い労働時間のところでは、永い休憩時間の必要が少いからである。今、各業態別の休憩時間を記すと左の通り。(単位分)

  繊維工場  64     機械工場  43
  化学工場  56     飲食工場  56
  特殊工場  56    雑工場  56
  平  均 55               、
 
 すなわち一番労働時間の短い機械工場が一番休憩時間が短く、一番労働時間の長い繊維工場の休憩時間が一番長い。これは当然のことであろう。

 1日工時間を休ませる

 叉これを横から観測して休憩時間を別に記すと

  休憩30分間  37     40分間  4
    45分間  2     50分間  3
    60分間 98    90分間  9
    120分間 3    計 156
 
 すなわち全数の半分以上は1日1時間の休憩時間を与えていることがわかる。最も休憩の少いのは1日30分間という工場であるが、その大部分は機械工業である。これに反し最も休憩時間の長いのは1日2時間でこれは化学2工場と繊維1工場とである。化学はその業務の性質から考えても、休憩時間が他より多くを要する事が首肯される。

 では休憩を与える時刻は如何というに、最も多いのは午前11時半からの午飯時で、半数以上を占め、これについでは午後3時のいわゆるおやつ時刻、それから午前9時という順序である。

 実際勤務時間の緩和

 以上、労働時間と休憩時間とを説明したが、その前者を合算したものがすなわち各従業員の勤務時間となるのである。今、労働時間(実働時間)休憩時間及び勤務時間の三者を並記すると

          正味労働時間    休憩時間   勤務時間
官営工場       8時56分      59分    9時55分
民営工場       9.10        50     10.00
繊維工場       10.00        64    11.04 
機械工場       8.36        43     9.19
化学工場       8.42        56     9.37
飲食工場       9.12        56     10.08
特殊工場       8.43        56     9.38
雑工場        8.52        56     9.48
平 均        9.13        55     10.08
 
 すなわち官営工場は勤務及実働時間共に短い上に休憩時間が短くて、最も望ましい状況を見せ、又民営工場中では、休憩時間は少しく短いが、機械工場が最も勤務時間短くて9時間19分これに次いでは化学、特殊、雑飲食の順で、繊維工場が最も長い時間-11時間4分-を工場に括られている現況である。即ち繊維工場に働く女工達はだらだらと牛の涎の如き労働条件を課せられているものであって、休憩時間の比較的長い事などは問題でない。各業態を通じ最も遅れた労働条件といはねばならない。

 残業労働時間を加算せよ

 尚ここに注意を要するのは、上記の勤務時間が、真の勤務時間の総和でないことである。上記の表に9時間といい、10時間というのは原則としての勤務時間で、実際の勤務時間は、この外に「残業時間」を加えねばならない。多くの工場では残業を課す。労働者は収入の少きを補うために悦んで此の労働時間の延長に応じる。

 先年「8時間労働制」を実施した工場が多かったが、その所謂8時間というのは、名目の勤務時間一―原則的労働時問――であって謂わば単位時間であったのである。然らば、残業時間の状態は如何。

 今回の調査工場156中残業を課しているのは92工場、すなわち5割9分を占めている。今、残業工場数を示すと

         残業工場数     公工場数    割合
官営工場      5         7      7割1
民営工場      87       149     5.7
繊維工場      14        38     3.7
機械工場      29        47     6.2
化学工場      21        34     6.2
飲食工場       5         7     7.1
特殊工場       8        10     8.0
雑工場       15        20     7.5
合  計      92       156     5.9

 すなわち官営工場では7割まで残業しているが、民営では梢下って6割弱である。民営工場で最も残業率の高いのは特殊工場で8割、一番少いのは繊維工場である。繊維工場に残業の少いのは、繊維工場が11時間労働の二交代制度になっているからである。

 残業時間の長さ
 残章時間の長さは如何というに

  残業1時間  6     2時間  70
    3時間  8      4時間  4
    5時間  4      計   92

 すなわち8割近く迄は残業2時間を課している。これに名目勤務時間(休憩時間を含む)の平均10時間8分を加算すれば実際の勤務時間は12時間8分ともなり、1日24時間の半を工場に暮していることになる。『8時間眠り、8時間働き8時間遊ぶ』という先進国労働者のモットーはわが国の労働者に取ってば、まだまだ先の話かも知れない。

 普通及特別公休日

 尤も、この労働時間は年中継続される訳ではない。公休日の設けもある。今1ヵ月中の普通公休日の平均を見ると

  官営工場  3日7     民営工場  2.9
  繊維工場  3.1     機械工場  3、2
  化学工場  2.3     飲食工場  3.0
  特殊工場  2、0     雑工場  3.0
  平  均  2、9
 
 すなわち1ヵ月に約3日の休日かある訳である。この外三大節その他の特別休日を与える向もあるが、重なるものをあげると、

  大 祭 祝 日        61工場
  春秋運動会、慰安会      8 
  氏神祭その他神仏祭      36
  工場記念日          8
  年末休日           40
  年始休日           50

 右の内年始休みは多くは3日、年末休みは1日乃至3日である。そして右の普通公休、特別公休の両者を合算すると
         
  官 営 工 場         52日1分  
  民 営 工 場         40日8分 

 を示す。即ち月3回平位宛ある訳だ。この日は1日工場から解放されるがその代り概ねは収人がない。労働者の所謂ノーチャブデーである。収入皆無で、喰わずにいなければならぬ日だ。今回の調査によれば156の工場中、公休日も給料全額をくれるのは僅か18工場で、他の138工場は1文もくれない。

 1ヵ年の実収

 このように労働時間及び休日を観察し最後に労働者の年収を予想すると左の如くである。

           実収1日    年収   
繊維工場 男     1.70   547.48
     女     1.40   367.00
機械   男     2.60   832.00
     女     1.25   400.00
化学   男     2.13   702.90
     女     1,01   333.30
飲食   男     1.93   627.40
     女     1.07   344.54
特殊   男     2.59   865.06
     女     1.24   414.16
雑    男     2.47   795.34
     女     1.78   573.14
官営工場 男     1.88   588.44
     女     1.06   331.78
民営工場 男     2.25   731.25
     女     1.74   413.34
総平均  男     2.24   711.22
     女     1.74   413.34   

 平均年収男工700円女工400円、一番の取り頭で特殊工場男工865円、一番少いのは化学工場女工333円である。 300円といえば、当時にあっても富豪が一夜の快を買う費用にも足りない。

 それが労働者にとっては1年営々として働かねば得られぬ金額である。『働けど、働けどわが暮し、楽にならざり、じっと手を見る』一一石川啄木氏の歌が思い出される。『豊葦原瑞穂国に生れ来て、飯が喰えないとは嘘のような話』一一安成二郎氏の歌も思い浮ぶ。     
                       (大正14年12月「エコノミスト」)

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』連載:第11回)

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「須磨の海岸」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

   『労働研究』(第160号)1961年6・7月号連載分

  第十一回 いわゆる「八時間労働制」
       ――川崎のサボが起こした波紋


 サポタージュの意義

 川崎造船所のサボタージュは2年後に起こった川崎・三菱両造船所のストライキほどに世間は評価していないが私はそうは思わない。もちろん、争議としての規模や、その波瀾に満ちた内容においては比較にならないが、しかしサボタージュ事件が起こした波紋は、労働新戦術としてのサボの存在を天下に知らしめたこと以上のものがある。

 いうまでもなぐ、8時間労働問題がこれを契機として全国的に波及し実行されてやがて、就業時間の常識とまでなったからである。その意味から、大正8年の川崎造船所のサボタージュは単なる新奇の戦術として見るだけでなく、わが労働界に一つのエポックを劃した事件として高く評価されるべきものと思う。

 もちろん、8時間労働制は後段に述べるようにサボタージュ以前から一部には実施されていたのだし、またこれが問題となり出したのも川崎のサボタージュがあったからだとは断ずることはできない。

 サボタージュの起こる前、第1回国際労働会議において「労働原則九ケ条」が議決され、その一項目として8時間労働制の実施がうたわれていて、労働者も使用者側もこれに深い関心をよせていた。ただ、日本政府および使用者側は、8時間労働制の実施をなお時期尚早だとして、印度などと同じ特殊国並みに除外例として9時間半に値引して調印した。

 それも実施時期を5年後(1922年7月1日)としたのだが、その実施期限が到来しても、なお調査に名を借りて容易に実施しなかったぼどであった。そんなわけで、一般には8時間労働制は望ましいことだが、日本の現状ではまだまだ先きの事と見ていたのである。それをたとえ名目だけにしろ、8時間労働へ踏み切る(あるいは踏みきらせる)契機を作った川崎造船所のサボタージュは意義の深い争議だったといわねばならない。

 「8時間労働は時期尚早」

 第1回国際労働会議が労働原則9ケ条を議決した時、使用者は大いに狼狽した。そしてこれを正面から反対し阻止することは、とうていできないにしても、その実施を少しでも先きに延ばそうと必死になった。

 日本工業倶楽部ではそうした空気を作るため、大正8年8月、ちょうど川崎のサボタージュの姶まろうとしていた頃、全国の商業会議所に諮問し、神戸商業会議所では各工場主の意見をまとめた。鐘紡、川崎、三菱等の大工場は「回答未着」だったがその他の工場主の回答を総合すると次のようなものだった。


 第1 8時間労働問題

 1 連系作業による工業には8時労働は実施困難であるが連結作業による工業ならびに就業者の身体及び健康に直接危害を及ぼす事業(エ場法施行令第三条該当事業)には8時間労働の実施は可能である。

 2 8時間労働実施の困難なる事情としては資本の欠乏による生産設備の不十分、労働者の規律的習慣ならびに精力集中の欠乏、体力貧弱に伴う能率の低下によって来る生産の減少などが重なる原因で、現に請負制度を実施している工場では請負賃率を改正しない限り労働時間の制限は不可能である。

 また労働時間の長い農業労働者をして都市集中の傾向を旺盛ならしめることもこれが一原因である(工湯主中には現在ある1日、15日の休日を毎日曜毎に改正するぐらいは容易だという者がある)

 右の8時間労働問題につづいて失業予防、夜業廃止、婦人労働の各問題にふれた後わが国がこれに加盟する条件として次の如く結語しているのである。

 国際労働原則9箇条は労働条件改善のため人道の理想を説いたもので双手をあげて賛成 すべきであるが、一国の産業の発達には特殊の伝統と事情があるから、欧米百年の犠牲と 経験とからなったものを直ちに日本の現状に移すことは考えものである。ゆえに実施期間 に相当の猶予を置くを条件として加盟すべきである。

 時期尚早だ。日本の労働事情と欧米先進国のそれとは違う――これが当時の工場主の8時間労働に対する共通した意見で、鐘紡の武藤山治氏もこの意見をもっていた。それを押切った松万幸次郎氏はやはりエラモノであったといえよう。

 しかし、甚だヒネクレた言い方かもしれんが、その松方氏もサボタージュ事件がなかったら、まだ「調査中」を続けていたのではなかろうか。

 私はその頃始まったメーデーの示威行列にうたう歌を作るよう友愛会から頼まれて、歌と一しょに「デカンヨ節」をおそえものに作ったが、その中にこんなのがあった。

 「8時間労働も、やれない国が、聞いてあきれる一等国ヨーイ、ヨーイ、デッカンショ」

 (この時のデカンショ節のうち「どうせやるならデッカイことなされ、世界中まっくろけのストライキ」というのは禁止を命ぜられた)日本は戦力では一等国でも、労働問題ではインド並みだったのである。

 川崎以前の8時間工場

 なるほど、8時間労働制が労働条件の常識となったのは川崎のサボタージュ以後ではあるが、八時間労働はそれよりもずっと以前から一部の特殊事情のある工場では実施されていた。

 サボタージュ直前の大正8年7月末現在で、兵庫県下における八時間労働制実施工場は既に20工場を数えていた。その中でも1回作業、うまり8時間の労働を終わるとそのまま工場の作業を打ち切るものは12工場で、交替作業、つまり昼夜作業で1日24時間を3交替で作業するものは8工場であった。これを業態により区別すると、

                  1回作業      交代作業
  製綿               4
  金属品              1         1
  ゴム製造                       2
  製本印刷                       2
  器具               1 
  窯業               2         1
  化学                        2
  木竹蔓茎             4    
  合計              12        8


 最も多いのは製綿工場と窯業であるが、製綿は実は仕事の不振のため自衛上8時間労働を実施しているもので、労働者保護のためのものではない。

 これに反し窯業はガラス製造のごとく、カマドの冷却を避けるため夜昼夜作業をやっているのと、熱大の前の作業で長時間労働はムリだから交代作業をしているというもので、後記の旭硝子や島田ガラス(新淀川の東岸で大阪府にあるが)などは残業なしの8時間労働2交替制をとっていた。

 私はサボタージュのあと、県下の8時間労働実施工場を見て廻って、毎日新聞に11回にわたってこれを詳しく紹介したが、暫くして8時間労働が全国的にやかましくなり出した時、東京から中外商業新報の特派記者が全全国でも最も早く8時間労働を実施した兵庫県下の工場の実情を調べに来て、私の書いた記事を読み、これ以上書くことはないといって、切り抜きをもってそのまま帰京した。

 旭ガラスの場合 

 兵庫県下のガラスエ場で最も早くから8時間労働を実施していたのは尼崎の旭硝子製造工場であった。同工場は明治24年の創立で、その時からガス発生部を除き、8時間労働を実施していた。ガラス製造の基をなす吹部(溶液を棒の先につけて口で吹いてふくらます作業)と延部(延ばして板硝子とするもの)の職工848名は午前6時から午後2時まで(申出)と午後10時から午前6時まで(夜業)の3組に分けて8時間ずつ働いていた。この中には30分の休憩時間が含まれているから、実働時間は7時間半、その上、夏季4ヵ月はさらに炎熱をおもんぱかって6時間労働制をとっていた。火をあいてとする仕事の性質上こうした短時間制は当然である。そのため過労な仕事にもかかわらず欠勤者も少く、1ヵ月の出勤日数は27日乃至28日(女子はやや低く23日)で、他の12時間労働の工場などに比べて遥かに高率であった。

 私はこの記事をのせると、旭ガラスの一職工が;直ぐ書面をよこして「貴紙掲載の8時間労働は本工場でも吹部などの一部だけで、昼勤作業の鍛工部、切部、営繕部、荷造部は10時間若くは11時間、また昼夜交代の電機、汽缶、調合、雑役は12時間労働をやっていると]と報じ、これらの部でも8時間労働制をとるように紙上で声授してほしいといって来た。

 ガラス工場の8時間労働も全工場ではなく、酷熱と戦う部門だけに限られていることを指摘して来たのだった。
 すると、こんどは八時間労働をやっている吸部の人たちから、「川崎造船所あたりでも8時間労働をやるのだから、釜中の魚のようなわれわれには、夏の6時間労働制をひろげて、1年中、6時間労働を実施してほしいといい、「それで、吹部職工200名はその旨会社に要求した」と伝えて来た。こうなると川崎造船所の名目だけの8時間労働などはあまり威張れたものではないと思えて来た。

 リバー・ブラザース

 私か見てまわった8時間労働実施工場のうちで比較的好感をもったのは武庫川の川尻にあったリバー・フラザース石鹸工場だった。もっとも比処は英国系の会社で明治45年創業当時は正味8時間労働制をとっていたが、職工が払底のところから、近頃は40分延長して朝8時15分前入場、夕方5時半退場、その間、1時間の休憩の8時間40分労働とし、その代り1週間の内、日曜は休業、土曜は零時半までとしたのだから1週48時間労働制をとっているという話だった。

 なお仕事の都合で1、2時間の残業をさせることも時にはあるが、その場合は残業手当のほか巻ずし3本を支給することにしているという話で英人の会社だけに巻ずしというのもおもしろいと思った。このほか皆勤賞与(月1円10銭乃至2円10銭、6ヵ月皆勤5円乃至10円)や年末賞与(全収入の5分乃至7分)もあり、4年以上勤続者には株を無償交付するパートナーシップの制度もあって川崎よりはずっと進歩的であった。

 ダンロップ・ゴム

 リバー・ブラザーズと同じように外人関係の脇之浜のダンロップ護膜極東会社の工場でも大正6年から既に8時間制を実施していたが、にれもリバーと同様、大体1時間の残業を行なっていた。

 同工場はその頃約5、000人の職工を雇用する大工場で、そのうち仕事が過激だったり、緻密だったりする者1、328人(全員の3割)に対して8時間労働制を適用し、3交替(8時間のうち20分間の休憩で実働7時間40分)をとっていた。

 しかし交替時に次の組の職工の休んだ場合などやむを得ず残業となったが、最短30分、最長5時間、平均1時間の残業で、1ヵ年間の各職工の残業日数は281日となっていた。つまり8時間労働とはいっても3日のうち2日は1時間の残業をしている割合である。しかしこれを川崎の定時8時間プラス残業2時間に比べたり、後述の三菱の九時間プラスAに比べるとずっと進んでいるといえる。

 なおダンロップが大正6年に8時間制を実施する前は10時間労働だったが、労働時間が2時間減ってもこれによる生産率の低下は10から8には減らず9前後にとどまったこというから、時間の短縮はむしろ生産能率を高めることが判る。これは職工の体力改善向上に因る処もあるにはあるが、それ以上に職工の心理作用による処が多いという。

 つまり、10時間労働当時は「どうせ10時間働くんだから」というゆっくりした心持だっだのが、8時間になって「うかうかしてはいられない」といった心持に変って、自然と能率があがったのだ、と工場側では説明してくれた。

 なお同工場では請取仕事が多いので、時間短縮の結果、減収となるのを憂慮し、8時間労働実施に当り、請取仕事の単価を2割方引き上げて均衡を保つことにしたという。行き届いたやり方だと思って私は大いにほめておいた。

 ところが、私の記事がのって暫らくすると同社のタイヤー部職工約200名が8時間労働制の実施と特別手当支給の要求書を会社に提出したという知らせが私の許に届いた。私は早速出かけて調べてみると8時間労働制はモーター部、人力車タイヤー部、ゴム引部等に限られ、他の部は10時間乃至12時間の勤務をしているので、この際全工場一律に8時間労働制を布き同時に従来より減収とならぬよう賃金率を改めてほしいというのだった。

 アルフア付きの8時間労働

 要するに、従来の8時間労働は、窯業やゴムエ業でも特殊部門だけに限定されていたのが、川崎造船所の8時間制実施で啓発され、これを全部門に拡大させようという要求が出て来たのであった。

 なお川崎の場合もそうであったように、川崎以前に8時間労働制を布いた工場でも、英国の労働者がメーデーの歌の中でうたっているように、「8時間働いて、8時間遊び、8時間眠って日給1シルリング」といった純粋の8時間労働(実働という方がいい)には程遠く、名は8時間でも、実質的には10時問以上働くのだった。つまり、短縮した2時間をフルに自分の自由に使用し、余暇をたのしむというのではなく、その2時間を「残業」の名で引きつづき働いて残業手当をかせごうというのが労働者側のゆき方だった。(それは低賃金の日本としてはやむを得ないことである)

 また会社側も、従来、10時間乃至12時間の労働をさせていたのを、8時間の定時と改め、給料の計算単位を低下するが、しかし、それで生産が低下しては困るので、それをカバーするため残業を課することとし、あわよくば、時間短縮により生産能率を昂進させようというところに狙いはあったといえる。そして労使双方の狙いは大体叶えられた。

 既に職工側としては従来の10時間、12時問のだらだらとした長時間労働から一応解き放され、ノルマは8時間ズバリとなり、そして定時以外の労働は残業ということになって、以前のように2時間の残業をするとしても、実働時間は定時が2時間減っただけ、自由時間か2時間ふえて、余暇をたのしむことができるようになったのだから、純粋の8時間労働ではないにしても、それだけ労働者の生活の向上と福利の向上が期し得られ喜ばしいことであった。ましてや、この喜びに均霑する範囲が、従来の狭い特殊部門から広く機械工業をはじめ全業態に及ぶようになったのだから、これを推進することに役立った川崎のサボタージュの功績はまた大といわねばならない。                     
 しかし、8時回労働は労働者側に福音をもたらしただけではなく、会社側にもプラスとなった時間の短縮によって、生産能率は向上したからである。前述のダンロッブタイヤーの労務管理者がいったように、これは時間短縮によって職工の健康状態が好転したからというだけではなく労働者心理が大きく影響していると見るべきであろう。

 では、当の川崎造船所における8時間労働実施後の情況はどうだったか。川崎造船所の発表にかかる調査(大正8年エ2月エ2日毎日新聞による)を次に記そう。

 8時間労働効果(川崎造船所調査)

 わが国における8時間労働制最初の採用者である川崎造船所その後の作業能率如何については、造船界は勿論一般鉄工業界の興味をもって注視を怠らないところであるが、同所の調査によれば実施以来日なお浅いため、工場全般にわたって能率増進を云々することは出来ないが、職工の出欠、製鋲、打鋲、道具製作、製条、鍛冶等の小区分においては日々の統計上その成績が適確に表示されてあるところからみても、一般工事進捗の程度もまた推知することが出来る。
           
 職工出勤 去る9月1日以後怠業問題発生前即ち同月17日までの間においてその出勤人員は9月4日(賃金支払日)に総人員1万4千人台を超過したほかおおむね1万2千5百人を越えず総人員に対する出勤率は7割3分であるが10月同期間において7割8分にのぼり、更に10月18日以後は8割8分を下らず25日以降は9割内外の好成績を示した。即ち10月中の平均出勤歩合は実に8割4分であって9月上半の7割3分に比し1割1分の大増差を示した。いま仮りに総人員を1万6千人とすれば千7百余人を増加した勘定になり、しかも新制度発表とともに職工の募集を中止したので、総人員は漸減して10月末1万5千8百人となり、9月中の最高1万6千7百人に比し実員において9百余人を減少したのに拘わらず、出勤率に前述の通り却って増加したので、減員を補充してなお余りある。のみならず、新に募集したものよりも技能熟達等の点より見れば、却ってその成績は良好である。ただ賃金支払日の翌日において急に欠勤者の増加する弊風は未だ全然矯正されていない。

 製鋲工事 9月1日より17までの製鋲高は最高5万4千余本2万2千5百ポンド、最低3万1千余本1万3千ポンド、平均4万6千余本1万9千余ポンドであるが、10月同期間には最高5千余本2萬余ポンド、最低4万4千本1万5千余ポンド、平均5万余本1万8千5百余ポンドとなった。9月中は作業時間12時間であり、10月4日以来は10時間作業に改めたが1日当り5万7千本2万2千5百ポットの製産高を挙げ、空前の好成績を示した。毎1時間当りの製産高を見るに、怠業前(9月1日~9月17日)は製鋲本数4千5百本を超えたのは9月4日のみであるが、新制度実施後では4千5百本を下る日は全然なく、9月16日の如きは5千6百余本の大製産高を表わすに至った。重量について見ると、9月上半は概ね1千4百乃至1千8百ポンドの間を往来するものが多かったが、10月同期間には1千5百ボンド未満のものは1日もなく、概して1千6百乃至2千2百ポンドの製産力を発揮し、その後能率ますます増進して普通の日にあってば1千6百ポンド以下に下らず、同月20日には2千2百ポンド、21日には本数5千7百本を超過した。

 船体鉸鋲 船体鉸鋲は怠業前は毎日12時間交代で、問題解決後は10時間とし、10月3日より8時間となった。然るにその毎日打鋲総数は8時間制実施以来却って増加した。

                自9月1日    自10月3日
                至9月17日   至10月17日
         殼  高   79、000本    74、000本
         最  低   23、000     43、000
         平  均   61、000     64、000

 即ち最高において減少したが平均本数において約5分を増加し、10時間制時代の平均5万4千本に比較すると約1割8分の増進を示した。10月18日以後においては1日打鋲高平均6萬1千余本に下ったが、最少日であっても5萬本を下らない状況で能率増進の結果によるもの少くない。もっとも鉸鋲作業は職工5名で1組(1ホド)とし打鋲するもであるが、その打鋲数の増減は作業時間の長短あるいは、組数の如何に関係することが大きい故にその能率の大小を比較するとすればその毎1組1時間当り鉸鋲数を対照する必要かあり。1ホド毎時間の打鋲数平均を見ると、9月上半は概ね20乃至29を示すに過ぎないが、10月上半以後には多く30乃至37の間を往来するようになった。

 道具製造 道具製造も一般に能率増進し鑪平目切の如きは能率特に著しく、1日平均目切高2百40吋内外を示し3割8分の増加を告げた。その他兵庫工場における各種作業工程は新制度実施以来ますます進捗し、特にパーミルの如きは頗る盛況を呈し、10月上半の製産高は9百36噸436で1時間当り3噸823の多きを算えた。同工揚げ定業8時間のほか2時間残業を励行したので、結局実働10時間の割合であり、これを10時間制時代に対比すると製産総高においては11噸7、1時間当りにおいては1噸余を激増した。

    期  間      総生産高     1時間当生産力
    トン        トン
   7年8月下      913,469 3,037
   同 10月上     1,032,708 3,395
   8年8月下       778,057 3,100
   同 9月上       924,736 2,737
   同 10月上 936,436        3,823

 フオーチング・ショップの製産も半箇月に20万噸を超えているが、その製産費は工賃増加の割合は多くなく、これは作業能率が向上した結果にほかならない。

   期 問   生産高   工 賃   生産費総額
   3月上   97トン    3,165   26、943
    9月上   194      3、536   29、269
    10月上   206      7、060   32、921

 出勤率は73%から78%さらに90%と上昇して職工の新規募集の必要がなくなったというし、製鋲などは、サボタージュ前は毎時4千5百本がせいぜいだったものが、8時問労働制実施以後、5千6百本にふえたというのだからすばらしい。そのほか、船体鉸鋲や道具製造、パイプ工事などいずれも能率は向上し、造船所はホクホクものである。そしてこの調子なら8時間+Aでなく、8時間ずばりにしても大丈夫という確信をさえもったようであった。

村島帰之「労働運動昔ばなし」(『労働研究』第10回)

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「元日の朝日」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




  村島帰之「労働運動昔ばなし

    『労働研究』(第158号)1961年4月号連載分

   第十回 サボタージュの反響
       ―特に河上肇氏の擁護論―
 
 
 サボタージュの誤訳

 ストには慣れている世間も、新奇な労働戦術としてのサボの出現には驚いた。そしてそれぞれの立場からサボを批判した。使用者側の批判は、ストライキと違って、就業しながら意識して生産を阻害するこの戦術を憎んで、ほとんど例外なしにこれを批判した。

 松方氏のいったように、あるいは男らしくないといい、また、生産をマヒせしめる、卑劣な戦術だといった。そして争議をやるのならサッパリとストライキをやるがいい、というのだった。

 この場合、私として申わけなく思うのは、サボタージュを「同盟怠業]と訳し、わざわざ「サボタージュ」と振り仮名までつけて新聞にデカデカと報道し、他の新聞も例外なくこれにならったため、サボタージュという争議戦術は単に仕事をなまけることであるかのような印象を一般に与えてしまったことだ。

 川崎のサボがあって以後、何事によらず、なまけることを「サボる」というようになったが、これはサボ自身にとってもまことに心外であったに違いない。

 前記の如く、サボは単にノロノロとなまけることだけを意味するものではなく、ある場合は、その反対のこともある。鉄道従業員の行うサボのように、就業規則を忠実に遵奉し、停車中の列車の車両を一台一台ていねいに点検して歩いて故障がないかどうかを確かめたりする。これは遵法行為で批難をうける理由はない。しかしこの事によって列車の発車が遅れ、ダイヤが狂い、交通をマヒさせて使用者に対し罷業に劣らぬ打撃を与えるのだから明らかにサボタージュである。

 また川崎でやったように、仕事はしないけれども、ボイラーには平常よりも多くの石炭を焚くというのも少くとも、竃たきの火夫にとっては、なまけるどころか、むしろ骨が折れて忙しいわけで、怠業という言葉はこの場合、当を得ない。             

 もちろん、これは罷業でもない。いうなれば生産麻痺の痺をとって痺業とでもすべきなのだろうが、ヒ業では罷業と混同し易いし、字づらもよくない。やはり、サボタージュが農夫のはく木靴から来たことを考慮に入れて、一応ノ口ノロと仕事をすることをサボと解釈し「同盟罷業」と語呂の合うように「同盟怠業」と訳することが一ばん適切だと私は考えたのだった。

 それにブルタニカを引いてみてもサボタージュはイギリスではCa-Canyといわれるそうで、Ca-Canyの説明としてgo sIow or be carefull not to do much と注釈してある。つまり、英国でも、ゆっくりとやったり、仕事の能率をあげないようにすることがサボの原理だと解しているのだ。そこでゴースローをそのまま怠業としてしまったわけであった。

 しかし、事情はどうあろうと、サボタージュを単に怠けることのように誤解させたことは、これを不用意に「同盟怠業」と訳して新聞に報道し、サボ=なまけることと曲解させた私の罪である。サボの直後、関一博士は「経済論叢」でこの点を衝いて私をやっつけられたが、私としては一言もなかったのである。 

 河上肇博士の所説

 関博士から訳語が不適当だとしてやっつけられた直後、河上肇博士が「同盟怠業の道徳的批判について」と題し、サボに対する世評の誤っていることを指摘してくれられたのには大にわが意を強うした。

 河上博士は力強くこういっている。「労働者同盟怠業と同じ性質のことを、資本家も屡々実行しているのに、資本家に向ってば一向これを批難しないで、独り労働者に向ってのみ特にこれを批難するのは、果して公平といえるだろうか」

 「例えば糸価下落の際、紡績業者がいわゆる操業短縮を行うごとき、人間の生命の発展を故意に抑制する生産制限は、事業界の全般にわたって行われ、これにより資本家は純然たる不労所得を獲得しつつある。このような資本家により行われるところの人為的生産制限に対し、世人は平常全くこれを馬耳東風と見すごしながら、労働者がその唯一の商品たる労働力の販売に関し、同様な人為的の供給制限を行う時、これに対してのみ、なぜ甚しき批難を加えるのか」

 「経済組織の必然性にもとづいて資本家側が罷業または怠業(事業の短縮を指す)を行う時は、やむを得ないこととして見すごしておきながら、同じ経済組織の必然性にもとづいて、労働者が罷業または怠業を行う時は直ちにこれに向って道徳的批難を加えるというのは決して公平な態度ではない。従ってそのいうところの道徳は、明らかに資本家的道徳一―資本家のために都合のよい階級的道徳――だといわざるを得ない」

 こうして博士は労働者の罷業に対しても、また怠業に対しても、道徳的批難を加えることは当を得ていないと、くりかえし説いているのである。

 怠業と道徳性

 博士はさらに怠業そのものの道徳性をとりあげて、「今日の社会組織の下では怠業の完全なる予防法はほとんどない」といい、「怠業は古くから西洋でも日本でも行われているところだが、殆んど批難されずに来た」といって自分のことにふれている。

 「現に私も一教員として、また一官吏として常に何ほどかの怠業を継続しているが、この種の怠業は社会から賞讃はうけないにしても特に道徳的批難を加えられることはない。今日特に道徳的批難を加えられつつあるものは独り同盟怠業に限られる。これはなぜだろうか」

 と反問し、これは結局、個人的な怠業は耳目にも慣れていて別段新らしい事でもないので注意も惹かず世評も寛大だが、同盟怠業となると、西洋でも比較的新らしい現象で殊に日本では最近の現象に属するため、ややもすると公平なる批判を下すことができず、極めて過酷に失し易いものとなるのだと解明している。

 要約すると、博士は同盟怠業に対してのみ過烈な道徳的批難が加えられる理由として次の二つの点を指摘しているのだ。

(1) それが労働者の所為であるゆえで、資本家が採った同じ性質の所為よりも特に過酷にこれを批難する危険のあること。

(2) それが新奇な現象であるために、既に多年見なれている同じ性質の他の現象よりも特に過酸に批難を加える危険のあること。

 博士はこの二つの危険について具体的な例をあげて説明している。

 「例えば牛乳販売業者がその組合の決議にもとづき、従来一合四銭の価格だった牛乳を一合八銭に値上げしたとする。もちろん彼らはその値上について消費者と協議するようなことはない。勝手に値上の決議をして、消費者にはただ一片の通告をするだけである。もし消費者がこれに同意しない場合は、牛乳業者は日々一合づつの牛乳を配達する代りに、五勺づつを配達するにとどめるだろう。今、労働者がこれと同じ行動に出るとするとどうなるか。彼らは同盟して賃金の値上を要求し、その要求の容れられない間は、いわゆる同盟怠業をなすことによって、急にその提供する労働の分量を減少する。これは牛乳業者が牛乳の値上を決議すると同時に、従前と同じ価格を支払う者に対し、従前よりも少量の牛乳を提供するにとどめるのと全く同じである。一方はこれを看過し、独り他方をのみこれを道徳的に批難する理由を私は見出すことぱできないのだ。」

 「男らしくない」の批判

 また松方社長が野倉代表らに放言したように「サボとは卑怯な、やるならなぜ男らしくストをやらぬのだ」ときめつけたと同じ論法で同盟怠業よりも同盟罷業を男らしいとし、労働者が資本家に対抗して戦わねばならぬなら、男らしい同盟罷業をその戦術とすべきだという批難に対して、博士は次の如き反駁をしている。

 「多年学者の主張を無視し、故意に法律と官権とをもって労働組合の発達を妨げて来たわが国では、すべての人の知るように、今日、資金のゆたかな労働組合は一つも存在しない。それだから日本の労働者が同盟罷業をすることは糧食を貯えないで篭城するようなもので、戦わずして勝敗の数は明らかである。いかに同盟罷業の方が男らしくても、彼らは敗けるにきまっている戦術を避け、活路を他に求めることは労働者もまた人である以上、私は致し方なきことであると思う。」

 といって、「やるなら男らしくストをやれ」という批難に応えている。そしてさらに一歩をふみこんで政治家たちの近視眼的態度をきびしく やっつけている。

 「今、その争議に際し、労働者の用うる戦術として、同盟罷業以外の手段を採らざるを得ざる必然の運命の下に、特に日本の労働者を置いたものは果して誰であるか。私は同盟怠業に出でたる日本の労働者を道徳的に批難する前に日本の政治家の近眼を批難せずには居られない。われわれは学問上、常に必然の理法を説きつつある。しかもこれを無視して必然の流れを防遏せんがために無益無謀の堤防を築くならば、われわれは予言する。それは徒らに洪水を氾濫せしめて、ついに百年の悔いをのこすものなることを。」

 河上博士のこの一文は、川崎造船所の怠業職工にとっては正に千釣の重味があった。もちろん博士もこの論文の末に「この一文の趣意は同盟怠業を奨励すべしというのでは決してない」と特に断って居られるが、怠業職工にとっては大いなる知己の言であった。

 夕刊紙上に「怠業の弁」

 サボターシュの反響は識者や学者からの論評があっただけでなく、労働者の中からもあったが、それが意外にもサボヘの批難であった。新聞社へもサボを批難する投書が舞いこんで少からず私を悲しませた。中にはサボのリーダー野倉栄治氏をひやかして「ノクラ栄治」といっているのもあった。野倉氏はそれ以来、自分でも「ノラクラ栄治」と称し、サボタージュののち私が神戸を去って大阪本社に復帰する時、野倉氏らが催してくれた送別会の寄せがきにも、彼は自ら「ノラクラ栄治」と書いている。

 そこで私は野倉氏や青柳氏と相談して、「怠業の弁]を毎日新聞にのせることにした。

 紙面も兵庫県付録では読者の範囲がせまいので、本紙の夕刊二面の寄書欄にのるよう依頼した。岡崎支局長も賛成してくれたのでその通り運んだ。筆者は野倉氏になっていたが、実際執筆したのは青柿氏であった。

 この記事は野倉氏の追悼録にも収録されてあるが、要旨は治安警察法があって事実上、罷業のできないわれわれは、仕事を罷めないで、しかも罷業と同じ効果をあげる争議戦術として怠業を行う以外に道はない、といった風のものであった。短い弁明だったが、この記事を読んで野倉氏らの考え方を了解してくれた人も多かったことと思う。 

 「ヤナギ」「アミダ」 

 サボをサボとして正に堂々と行い、その上、サボという戦術を採用せねばならなかった理由を公然と声明したサボは川崎造船所のサボタージュが最初だが、しかし、単に仕事をノロノロとやって、作業の能率を下げるというやり方は、河上博士も記していられるように、これまでも行われて来た。ただそれをサボタージュというものであることを知らずにやったという点が、川崎の場合とは違うだけだ。

 現に大正八年七月十三日から二日間――つまり、川崎造船所のサボの行われる二ヵ月前に、同じ兵庫県下の東洋マッチでサボは行われたが世間は一向これに関心を示さなかったのである。

 私は当時、新聞でこれがフランスやアメリカで行われているサボタージュというものでることを説明したが、世間は一向反響を示しはしなかった。もちろん、この新聞記事には「サボタージュ」と書いただけで、まだ「同盟怠業」という日本語訳はつけていなかった。

 その当時(大正八年)の争議の趨勢を報道したもので、川崎のサボの行われた頃の兵庫県下の労働運動の情勢を知る便があるので次に抄録する。 


 兵庫県下の労働争議  量的に増加したが質においても組織的

 兵庫県下で大正五年以前は一年間に十件に出ることのなかった罷業が、六年には四十六件と五倍近くにふえ八年に入るとさらに激増して、先月(七月)一ヵ月だけで既に十二件の罷業を見た。つまり、今日の一ヵ月間の罷業件数は数年前の一年分を超えている勘定である。

 これは平和克復後(第一次大戦を指す)仕事が減少し、従来の残業や徹夜が廃減され労働者の収入に大きく響いて来た結果で、しかも一方には物価の暴騰で、白米が米騒動当時の五十銭を遥かに超え六十銭台に近づこうとし、生活がますます不安となって来たためと見るべきであろう。

 その上、近時、組織労働者の自覚がたかまり、神戸の友愛会の如き既に会員三千五百を超えていることも無視できない。今、新聞紙上に報道された七月一日以降八月十日まで四十日間における県下の罷業十一件を見ると(新聞に出なかったものを加えればもっとふえでいることだろう)罷業参加人員の一件平均は百七十四名、従来の百名足らずに比べかなりの増加である。

 中でも多いのは鳴尾のリバー・ブラザーズの五百名、鉄道院鷹取工場の三百五十名、飾磨の塩田労働者の三百名、東洋マッチの二百名である。

 罷業の目的は賃金値上で大体三割増を要求し大部分はなかば以上要求を貫徹している。中には三菱倉庫神戸支店仲仕の二十割賃上げというのもあったがこれは失敗している。罷業日数は平均一日半で、五日以上を超えたのは塩田労働者と日本郵船の給仕の罷業だけだ。

 しかし此処で注目に値するのは、近頃の争議の中にはフランスやアメリカのサンディカリストが行うサボタージュが行われ出していることだ。サボタージュは「のろのろ働く」といった意味のもので、故意に労働を怠り、能率を低下させるもので、さきに行われた東洋マッチの争議に軸列職工が就業はしたが、仕事を遅らせるため、軸列の作業をしなかったのや、鉄道院鷹取工場で監督の巡視の時だけは仕事をしたが、監督がいなくなると一同手をこまねいて仕事をしなかったというのなどは罷業ではなく、サボタージュである。

 しかしこれは別にサンディカリストから教えられたわけではなく、従来から「ヤナギ」(柳に風といった風にノラリクラリとする意味か)または「アミダ」(アミダ仏のように、じっとして動かないという意味か)と称しで日本にも行われて来たものである。

 なお東洋マッチや鷹取工場の争議の際は右のサボタージュのほかピケッチングといって、争議中、他の職工が補充に就業するのを防ぐため見張りを立てることも行われた。県下の争議は量ばかりでなく、質においても著しく変化を見せて来たことを知らねばならない。

             (大正八年八月十四日、毎日新聞兵庫県附録トップ記事)              

 賀川豊彦氏の反対論

 私の書いたこの記事にもあるように、サボタージュはヤナギ若くはアミダという名称で前々から行われていたにせよ、それはホンの一部でのことで、ストライキやボイコットのように広く行われたものでなかったことはいうまでもない。それが川崎造船所のサボタージュが天下に著聞するようになって、始めて、そうした戦術もあるのかと思うようになり、これを戦術として戦う労働者も出て来た。

 しかし、どっちかというと、怠業を行う労働者自身でさえ、ストに比べるとサボは何となく・うしろらいような気がするらしく、川崎のサボのあった大正八年に全国で五百件以上の争議が行われたに拘らず、サボを行ったのは目星しい処では東京市電ぐらいであった。東京市電がサボを行なったのは、ストを断行すれば市民の反感を買う危険の多いところから、市民の反感を少くし、しかも使用者側にはストに劣らぬ圧力を加えることのできるサボを選んだものである。交通労働以下では兵庫県下でも大正十三年になってから四月に日本毛織職工七千人の怠業、同五月神戸ダンロップのゴム職工千二百名の怠業があったくらいでそのほかにはこれというほどのものはなかった。

 また労働組合としても罷業の方はやりいいが、サボはやりにくいらしく、戦後になって官公労が遵法闘争などという名の下にこれを採用し、実力闘争の有力な戦術とするようになるまでは、むしろ目陰の存在であったといえそうである。

 大正八年の川崎造船所のサボタージュにしても、これは労働組合(当時は友愛会が唯一の組合だった)の争議ではなかった。これは二年後の神戸大争議とは異なる点である。もちろんサボの指導者であった野倉栄治氏をはじめ、青柿善一郎氏ら主なる人々は友愛会の幹部であったが、友愛会として正式にこれをバックアップしたわけではなかった。現に神戸の友愛会の幹部賀川豊彦氏や久留弘三氏はサボタージュには全く関与していない。

 賀川氏はサボの起る数ヵ月前の友愛会神戸連合会の機関誌「新神戸」に「暴動の安全弁」と題する一文を載せて「ある種の労働運動関係者はサボタージュと称して暴動は労働運動に必要なりと説く、しかし私等はその教理と実際を笑うものである」として、サボタージュに対しては始めから反対の態度をとっていた。

 しかし賀川氏の反対したのはフランスなどのサンディカリストの行なった破壊的なサボであって、すべてのサボタージュが破壊的、暴動的とはいえない。殊に日本で行われたサボタージュは、前述のように昔からの「ヤナギ」や「アミダ」を組織的に行ったもので、暴動などとは凡そ縁遠いものであった。だから賀川氏も、川崎造船所のサボが始まると、先鉾をゆるめて、「サボは労働者の勤労意慾を低下させ、また生産を麻庫せしめる」といった程度の反対論に変っていた。

 もちろん争議には関与しなかったが、それでも気になるのか、サボの状況を視察するため造船所へやって来て、居合ぜた私からいろいを聞いて安心したような面持ですく帰って行った。賀川氏の小説「死線を越えて」の下巻「壁の声きく時」の中にも川崎のサボが出てくる。それには私の名をもじった「島村信之」という新聞記者が争議戦術としてのサボタージュを組合で講義するところが出で来るが、別段サボを批難するようなところは少しもない。賀川氏は自分としては怠業には賛成し難いが、川崎造船所の諸君の行った程度のサボならとり立てて反対することもないといった心境だったと思う。

 三菱と製鋼所の動揺

 こうして川崎造船所一萬六千名のサボターユは終わり、次号で記すように、サボの副産物の八時間労働制は日本全国の資本家に大きなショックを与え、また同時に全国の労働者には、新らたな目標を与えることとなった。

 大正八年九月、川崎のサボタージュがすむと直ぐお隣りの三菱造船所および鈴木製鋼所でも動揺が起った。両社では川崎造船所のサボ目のあたり見、またその結果を聞いているだけに狼狽し、これを未然の裡にもみ消すためあらゆる努力をした。

 私が聞いたところでは三菱では工場と工場の間に柵(さく)を結んで、リーダー(その多くは友愛会員だった)の往来を遮断し、また目覚ましい者一六名を馘首した。気の毒だったのは直接これに関与していなかった三菱の友愛会支部幹事長福永宇太郎氏(機械工場の職長)と幹事高橋元次郎(同伍長)で友愛会の幹部というので早いところクビにされてしまった。そこで友愛会が決起しようとしたが、会社の手が先廻りして、あらゆる鎮撫策を講じたので手も足も出なかった。

 神戸製鋼所でも三菱造船所と同様。工場閉鎖一歩前といったような鎮圧策を講じたが三菱のような友愛会幹部のクビきりは行わなかった。却ってその反対に、友愛会の幹部だった同所の沢井重次郎氏らは争議をよく指導できなかった責任を負い、工場をやめてしまった。

 三菱にせよ、製鋼所にせよ、川崎のサボのはじまった頃から、飛び火の来るのを警戒し、水ももらさぬ防備態勢をとっていたため、労働者のつけ入るスキがなかったのである。
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