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連載:賀川豊彦の著作ー序文より(第80回)

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「春の高校生球児たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第80回

  
    『農村更生と精神更生』

        昭和10年11月19 教文館出版部 210頁

 本書『農村更生と精神更生』は、日本農民福音学校や各地での講演を筆記してできた作品です。早速、賀川の「序」を収めます。そして、武藤氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」も。




         農村更生と精神更生

             序

 「心田を耕さざれば田を耕すことが出来ない」と、よくもまあ二宮尊徳先生が云ってくれたものだ。土を耕す場合に技術が要る。土の測定、土の改良、品種の統一、品種の改良、一つとして精神的努力にまたないものはない。土の仕事を唯物的なものだと思ってゐる
間は、大きな間違ひをする。況んや最近の土壌学の発足、発生学の進歩、肥料化学の進展等によって、農業は人間の意識的開発をまたなければ、不可能事となって了った。

 農業を唯物的にのみ考へる時代はもう過ぎ去った。生物化学としての農業は、生命の発展の方向に従って不思議な末末を持ってゐる。その不思議な未来の扉を開くものは、心の鍵による。魂を開墾することなくして、山野を開墾することは出来ない。印度のマヌー法典にも無神論者の田畑が荒れることが書いておると私は聞いた。古くの時代から唯物的になった民衆に、土を愛する者のみ、土はその感情を現す。土は人間の胎盤である。畏敬の念をもつで土に接近するだけでなく、愛の心を以って大自然に接しねばならぬ。私は唯に日本のためにこの書を書くのではない。世界列国凡ゆる民族に向っても、この書に盛られた真理は、永久の真理であると考へてゐる。そして将来如何なる農政学が現れるにしても、私かここで述べんとした真理以外に何等新しいものを加へることが出来ないであらう。

 キリストは「我父は農人なり」といはれた。全能者にして初めて農を善くすることが出来る。充分科学的であり得て、初めて土を完全に愛することが出来る。土を愛すると称しても、非科学的農民は郷土を蹂躙するものである。然し農業科学だけを知って社会科学を
知らざる者は、農産物が人間のために生産せられることを忘れてゐるのである。資本主義末期に立ってゐる我々は、農業科学を熟知すると共に社会科学をよく理解せねばならぬ。協同組合科学の必要はそこに生れる。

 然し、協同組合運動は、宇宙の神が我々に与へた良心運動を離れて成立するものではない。日本の危機は良心の危機である。道徳的廃顛は、産業組合運動にも潜り込んでゐる。どうしても精神更生を基礎としなければ、農村の更生はあり得ない。私はさきに小説「一
粒の麦」「幻の兵車」「乳と密の流るる郷」等を著して、小説体に農村更生の原理を書いたが、ここには如何なる山村の人にも手に入るやうにと、私の農村更生の原理を論文体にして発表した。私は国土を愛する青年のために敢てこの書を捧げたい。

  一九三五・一一・八 
         
        賀 川 豊 彦
            
             武蔵野にて


 附記――この書は、主として日本農民福音学校及び各地に於ける講演筆記を纒めたもので、出版するに当たって、更にそれらに、私が加筆しました。吉本健子姉と黒田四郎氏の手を煩はしましたことを、茲に感謝いたします。農村更生及び信仰問題について質問或ひは指導を求めらるゝ方は、東京市世田谷区上北澤町二丁目六〇三 賀川宛手紙をお送り下さい。又、この書の精紳に依った農民福音學校が仝國各地にありますから、短期間の講習を受けたい人は、上記の場所へお問合せ下さい。私が返事出来なくとも、指導係の方が喜んで御返事致します。少しも御遠慮要りませぬ。





       『農村更生と精神更生』について

    武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』208頁~209頁

                     
 農民福音学校及び各地における賀川の講演筆記を吉本健子、黒田四郎がまとめ、賀川自身が加筆したもので、昭和十年十一月十九日、散文館から発行された。農村問題を精神面、宗教面からあつかっかものである。

 第一篇『農村の精神更生』第二篇『農村の経済更生』という編別になっており、経済復興の原動力を精神に求めたことにこの書の特質がある。

 第一篇においては土を愛する精神、土についての聖書の教訓、協同組合による農村の更生、神を愛する精神を扱っている。最も面白いのは土に関する聖書の教訓で、次のようである。

 モーセはイスラエル民族をひきいて荒野を放浪していた時、縁の中に焔の燃え立つのを見、近づいて行くと神の声が聞えた――ここは聖地なり、靴を脱ぎて裸足となるべしというのである。このように大地は素足をもって立つべき神聖な神の宝座である。

 創世記に記されたところによれば、人間は土から作られたもの、アダムとは赤き土という意である。エバを誘惑した蛇は平面農業を象徴する。エデンの園にあった生命の樹と知恵の樹は、それぞれ殼果のなる樹木と、嗜好果物――みかんやりんご――のなる樹木とをあらわす。蛋白質、澱粉、脂漿、ヴィタミンを多く含んでいる殼果を食べていれば、アダムとエバは労せずに生活ができたものを、栽培するのに労力を要する樹の実を食ったものだから、楽園を追放され、土を耕さねばならなくなった。人は平面農業ではいけない。立体農業に帰り、殼果を食うようにせよ。

 アペルとカインの物語は、アベルが酪農を行なって土地と家畜とを大切にしていたのに、カインは農耕だけを営み略奪農法(地力を奪って捨てて行く農法)を行なっていたので、神の怒りにふれ、その献物を受納されなかったのである。

 ノアの洪水はカイソの子孫が樹木を切ってしまったために起こったものである。アブラハムは羊と山羊とをつれて未開地に植民した。モーセは上地を神のものとし、五十年間に土地所有に変動があっても、五十年目毎に一度土地をもとの地主に返せという法律を作り、貧民が困らないようにした。

 また土地から生ずる産物を取り残した場合は、貧民のためにそれを残しておけという法律を作った。

 予言者時代においては、予言者は土地兼併に反対し、搾取階級と闘った。ミカ、アモス、エリヤ、イザヤ、エレミヤ皆然りである。

 キリストは「我が父は農夫なり」といい、農業に関する話をその教訓の喩えに用いた。黙示録に記された天のエルサレムは田園都市であり、川の流域は立体農業になっており、エデンの園で失われた生命の樹がもう一度かえってきている。

 以上が賀川の聖書教訓であるが、その結びとして、土は神のものだから『土地に肥料をやる時には、神の頭に毛生薬(けはえぐすり)を塗るつもりでやれ、かくすれば労働は芸術と化する』といっているところは、すこぶるユーモラスである。

 第四章は協同組合による農村の更生を概説したもので、その詳説は第二篇に出てくる。第五章においては『神を愛する精神』として農村における宗教生活を語り、良心宗教に目ざめ、開拓精神をもち、宇宙の本質たる愛を体得し、人格的なる神を信ぜよという。

 第二篇の第一章、第二章においては日本農村の再建策が論ぜられている。協力運動、生物科学の利用、精神復興、機械化、電化、農産物加工、金融などの問題が取り上げられ、最後に一個の化学工場としての農村の経営が提唱されている。協同組合を発達せしめて、農村を一個の化学工場とするというわけである。(これは外から強いられたコルホーズではなく、内から盛り上がって作られるコルホーズを意味するのであろう。)

 第三章乃至第六章は協同組合による農村の復興を論じたもので、『農村社会事業』において述べていることとほぼ同じである。ただし本書のほうが表現が容易で一般に分かり易い。

この書の結論は、農村は、先ず魂から甦らねばならぬ、土を愛し、神を愛し、隣を愛するという三愛主義に立ち、十分に科学的に、十分に宗教的に、完全な生命芸術として、人間を宇宙の神の栄光として地上に花咲かしめよというのである。





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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第79回)

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「神戸布引・五本松堰堤」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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             第79回
  
  『乳と蜜の流るる郷』

           昭和10年11月6日 改造社 472頁

 改造社より出版された小説『乳と蜜の流るる郷』は、産業組合中央会の機関誌『家の光』の昭和年1月から昭和10年12月号まで24回にわたって連載された作品で、連載中から大変な話題を呼び、『家の光』はこれで百万部を越える勢いで愛読されたと言われています。

 これは昭和43年4月に「家の光協会」より、当時の「読者の声」や関係者の思い出などを加えて再刊されています。

 ここでは「作者の言葉」と「家の光」出版部の「発刊のことば」を入れて置きます。




     長編小説 乳と蜜の流るる郷

         作者の言葉

――農村の荒慶は極度に達し、都会の混沌は言葉に尽くせない。それを救ふ道は産業組合の外には無い。

 しかし現下の産業組合が、果して理想的形態を持っているかどうか? 作者は自ら体験した苦い産組運動を通して茲に新しき理想を小説の形で示さんと念願してゐる。

 東北の一寒村に育ち共愛互助の運動に恵まれぬ一青年が、如何に苦心して自己の村を再建するか? それにまつはる愛慾の軌道は何を示すか。作者は先づ『心田』より始むべきを信じ、農村に於ける良心生活の発展史を如実に描いて、三千万農民と、日本の都市産業組合運動との関係を、文明再建の立場から読者に理解してもらはうと希望している。

 時は非常時だ! 反産運動は今や、沸騰点に達してゐる。日本は産業組合の外に救ふことは出来ない。そして、この運動こそ最も劇的な問題を提供するのだ。

      (昭和八年十二月号家の光掲載「本誌新連載読物の予告」より)


  
        「乳と蜜の流るる郷」発刊にさいして

 賀川豊彦先生の「乳と蜜の流るX郷」が林唯一画伯のさし絵入りで、『家の光』誌上に連載されたのは昭和八年から九年にかけての二か年であった。

 時あたかも産業組合拡充五か年計画が発足しており、この時期は『家の光』が発刊以来はじめて百万部台の普及をみせた飛躍的発展期にあたるが、この部数の飛躍的発展も、この一編の小説の好評に負うところ、が少なくなかったことは、当時の関係者の等しく認めるところであり、『家の光』の歴史にも特筆すべき記念碑とされている。

 時は移り、戦後の農地改革を契機として、日本の農村は大きく変わり、当時の”窮乏の農村”は著しく姿を変えたが「乳と蜜の流るる郷」の理想郡がすでにうちたてられたのではない。わが国の農業・農村には、今日なお協同組合運動の成果にまつ数多くの難問が山積し、運動推進のためには「乳と蜜の流るる郷」に盛られた理想を追う情熱が強く連動者に要求されている。

 かつて窮乏の農村を目前にし、若くして産業組合運動の第一線に挺身された先輩諸氏が、当時いかにこの一編の小説によって、運動者としての情熱をかきたてられたかは、いまなお多くの人々によって若い運動者に語りつづけられているが、現在すでにこれを読むに手だてなく、いたずらに神話的な存在として話題を提供するのみにとどまり、多くの先輩諸氏が協同組合運動の第一線から退かれる近い将来、やがて忘れ去られるおそれなしとしない。

 この小説の発表後三十五年を経た今日、あえて本書を発汗する理由は、まさに以上の二点に基づくもので、先輩諸氏には当時を懐旧していただくよすがとして、また若い運動者には先輩諸氏の労苦に思いをはせて、現在を生きる上に何らかの裨益するところを発見していただくことを切に念願するものにほかならない。

 終わりに、当時の関係者米倉龍也、宮城孝治、梅山一郎、渡部雄晤、二宮義雄、三浦政衛の諸氏が当時を偲ばれて本書のために一文を寄せられたことにたいし、深甚の謝意を表する次第である。

  昭和四十三年三月
                家の光協会 出版部


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第78回)

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「神戸布引・猿のかずら橋」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第78回
  

     『賀川豊彦童話集―爪先の落書』

      昭和9年9月15日 日曜世界社 188頁

 日曜世界社より出版された本書『賀川豊彦童話集―爪先の落書』は、戦後昭和22年12月にも日本教育出版社発行の「新日本少年少女文庫」の一冊として『つまさきの落書―宗教童話』が出ています。さらに昭和26年6月にも、今度は早川書房より『爪先の落書―賀川豊彦童話集』が新たな装いで読みつがれています。

 実はいずれにもそれらは私の手元にはなく、いまあるのは2010年3月に徳島県立文学書道館発行(発行者・瀬戸内寂聴)の「ことのは文庫」に収められた『童話・爪先の落書』があります。

 ここでは早川書房版に収められた「カガワ・トヨヒコ」による「序」がありますので、それをここに取り出して置きます。そして「ことのは文庫」版にある岡田建一氏による「解説」もここに参考までに入れさせていただきます。




      爪先の落書

        序

 野道を歩いている私を雨にぬれた萱がよびとめます。

 『いそがしそうね、あなたは! もう少しゆっくりなさいよ。時間をつくって、私の所に遊びに いらっしやいよ。ここには、あなたのお友達が 大勢 仲よくして暮しているんですよ。みみずさんも、アメーバも、かたつむりも、そして、私の葉の下には、忘れな草も、母子草も、芽を吹き出したばかりですのよ……まア みんな変っていておもしろいですよ。……』

 ひょろひょろ高い萱はまだ冬枯れの株から芽を吹いたばかりであった。

 私は、萱の芽に みせられて、小さい頃によく「つばな」を摘みに茅野を歩いた。

 ひとりぽっちで育っだ私は、野の鳥、畑の虫と仲よしになれた。それで 阿波の田舎で七年間の長い開 楽しい日を送った。そしておとぎばなしの本を満十歳の頃に二冊書いた。

 その時のことを思い出して、この本を書きました。みなさんで読んで下さい。

           一九五一・五・五





      『爪先の落書』解 説

        岡田 健一

 私はこの「爪先の落書」には賀川の自然観・宇宙観がつまっているように思う。
 賀川が最初にこの「爪先の落書」を出版したときに、次のように書いている。

 「最近、大阪日曜世界社から童話集「爪先の落書」を出版することができた。大正十二年に書き出したものが、満十一年目、本になったので、ばんとに嬉しく思った。一冊の論文集を出すより、童話集を出す方が遥かにむっかしいと私は考へた。この童話集は、子供のためにのみならず、大人のためにも私は書いたのであった。是非みんなで、私の考へてゐるお伽噺の世界を味はって欲しいと思う。」
     (身辺祈記 昭和九年十一月号 「賀川豊彦全集」。二十四 キリスト新聞社)

 このように、この本を出すために非常に苦労したことがわかる。そしてこの本は子供だけでなく大人にも読んで欲しいと書いている。賀川の多くの作品に比ベ十一年という長い時間この作品に力を注いだことがわかる。どうしてこのように苦労してまで出版したのであろうか。

 賀川は子供を大切に育てなくてはならないことをいろいろな場で力説している。そして子供の教育に関する著作も多く出している。それは「未来は子供達のもの」、「子供が次の時代を作る」と考えるからである。命のつながりによって人の歴史が出来る。それも次の時代がより成長・進化したものを求めてゆかねばならないとしている。そのことが人の生きがいでもある。それは宇宙のすべてのものに進化する力が与えられているから可能であるといっている。そこに次の時代をつくる子供たちへの期待がある。それを助けるのが大人としての務めでもある。そのように子供の成長をうながすために子供に伝えておかねばならないことがあると考えたのである。

 賀川の教育の中でもっとも特色のあるのは、自然教育である。「賀川は自然を与えない教育は絶対に成功しない」ことを体験したとして、「自然教案」というものを考案した。子供達が幼児の時代からその成長に合わせ、「自然から」何を、どのようにして、学ぶかということを具体的に述べている。そしてそれに必要な「自然教案」モデルも作っている。これは当時の教育において画期的な教育法の提案であったといえよう。
 「自然教案」のことについて賀川は次のように述べている。

 「私は今、幼児白然教案の編集に熱中してゐる。どうして幼稚園の子供等に自然の神秘を教へやうかと、いろいろ苦労してゐるのである。どれだけ成功するかわからないけれども、兎に角一生懸命にやっていることだけを買って貰ひたい。小石に、雑草に、小動物に、昆虫に、神の秘め給ふ心理は絶大である。今日までの日本の教育が、これらを唯物的に教へてきたから、間違ったのである。これを目的論的に神の意匠として教へやうとする所に、私が苦心してゐる所があるのだ。幼稚科の教案を早く書き上げて、すぐ少年科に移りたいと私は思ってゐる。しかし子供等に教へることが結局私自身に教へることであり、子供に教へることを我々が知らないことを払は恥しく思ふ。」
            (身辺雑記 昭和八年八月号 「賀川豊彦全集」二十四 キリスト新聞社)

 普段何気なしに見過ごしている自然物がいかに奥深いものであるかに気づかせようとした。つまり「自然の中にいながらも実は自然を知らない」ことに気づかせようとする。そしてこの自然そのものが実は子供に適しており、子供は自然の子であり、子供は自然が無ければ発育しないと賀川は自然教育の重要性を力説する。

 賀川はこの自然教案を次々と生み出している時期に、この「爪先の落書」を作り上げたのである。そして賀川は次のように書いている。

 「私は「爪先の落書」といふお伽噺を書いたが、これは自然教案をそのままお伽噺にしてみた。つまり子供は、自然のうちに這入ってゆきたいし、大人は脇から眺める傾向がある。つまり子供は自然と同化したい気があるのだから、そこまで子供を引張ってゆきたいものである。で、私は自然教案を遊戯化したいと思う。」
                  (幼児自然教案 「賀川豊彦全集」六 キリスト新聞社)

 賀川は子供を如何に自然に同化させるかに工夫を重ねているのである。そして自然そのものが子供のおもちゃとなるのである。自然は自然を楽しむもののみにその姿を現わすと賀川は言っている。

 ところで、「爪先の落書」を読んで、いかにも夢のような話でありながら、実は非常に科学的な事実に基づいていることがわかるであろう。これがこの作品の特徴でもある。説明されて始めて「なるほど」と感心するところとか、「へえ―そういうことだったのか」と驚かされる箇所に出合われたことと思う。その筒所については後から読まれる方もおられると思うので敢えて例を上げない。

 賀川は自然を楽しむためには自然研究をしなければならないといっているが、まさに賀川は自然研究によって、どこにでもあるような自然がいかに奇跡的であるかを感じたのである。賀川が感じたこの感動を皆に味わってもらいたいのだと思う。

 ただこの感動は単に科学的事実のみからでたのではなく、自然全体で上手く演出されていることを感じたからであろう。その仕組みの巧妙さに感動する。つまりそれぞれのものがばらばらでなく、深く結びついていることによることを示した。それぞれがそれぞれの役割を果たしながら、全体で目的を果たそうとしているその面白さ、その意義深さを知ってもらいたかった。そこから自然現象が偶然で出来ているのではなく、宇宙の意志を感じさせる。普通の目では見えないが存在するものがあることを確信したのである。

 賀川は「もうれつ」と友達から呼ばれるほど、猛烈に勉強をしたことで知られているが、それは勉強することがいかに楽しかったことといえよう。そしてこのことが後の賀川の多彩な活動の基となっているのである。猛勉強の始点は士五歳のときであり、「自然」の持つ意味の重要さに目覚め、自然の裏にあるもの「自然の意志」を追い求める研究に入ったときである。賀川はこのときを自分の「人間革命」のときだと言っている。このような賀川の人間革命の経験を他のものにも経験してもらうことを期待したのであろう。そこで苦労しながらも子供向けにこのような作品を仕上げたと思う。

 この解説では「爪先の落書」の筋書きとか個々の解説は述べなかった。この作品を多くの人に読んで欲しいと思って私は解説を書いた。この読んでもらいたいという思いは非常に強い。私は、この作品は賀川のライフワークと言われる「宇宙の目的」の子供版のような気がする。賀川の世界は奥深く、私の賀川理解は薄っぺらなものかもしれない。しかし賀川の作品をいくつか読んでみた中で、最初にも述べたように、この作品には賀川の大事な自然観・宇宙観がつまっているように思う。子供も大人も、一味違う賀川の世界を味わっていただきたい。
             
                    (NPO法人賀川豊彦記念・鳴門友愛会理事)

補記

徳島県立文学書道館の「ことのは文庫」には、この『童話・爪先の落書』と同時出版で、『モラエスの日本随想記・徳島の盆踊り』の岡村多希子氏の名訳が出ています。昨年はその盆踊りを初体験いたしましたが、この著作も逸品です。






連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第77回)

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「神戸・布引の滝」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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         第77回
  
    J・H・ジーンス著『科学の新背景』

      賀川豊彦・中村獅雄共訳

      昭和9年6月18日 恒星社 382頁

 本書『科学の新背景』は、手元にないために取り出すことの出来なかった『我等をめぐる宇宙』(賀川豊彦・鑓田研一共訳)に続くJ・H・ジーンスの著書です。いずれも恒星社で出版されています。

 これには賀川の「序」がありますのでUPいたします。


    

       賀川豊彦の序

 科學に對する革命的時機が到来した。科學は遂に、原子を組織する電子の内容までをも分析してそれが波動力學的に取扱はれなければならぬことを説明するに至つた。

 然し、何といふ変化であらう。今から三十年程前.ポアンカレ―が「科學の臆説」を通して我々に科學の限界を瞑想すべきことを教へ、カールペアソンが、「科学範典」を著作して、宿命的なそして数學的な科學の見方を我々に強いて未だ四半世紀経たないうちに、沈黙してゐた科學そのものが 新しい天地を我々に指示してくれた。もはや科學は流動しない固定的な空間にのみ縛られた科學ではあり得なくなった。新しい科學は、空間と時間を絶對的存在として考へないで、波動的に進行するエネルギーの世界を我々に指差すに至った。ドゥ・ブロェーリー、シュローディンガー、ハイゼンベルグなどの努力によって、素朴的唯物論の宇宙観は倒れてしまった。物理学は新しいイデオロギーの上に立って、科学の再建を企図せざるを得なくなった。数年前、エディントンは「物的宇宙の本質」を著して、新しい物理学の行く手を示したが、その後量子力学の著しき発達により、ワイル、ステルン、ゲルラッハ、さては英国のディラックなどの貢献を纏めて、ケムブリッヂ大学のジーンス博士は、あまり数学の知識のないものにも了解出来るように、最近進行しつつある革命的物理学を根本にして、茲に「科學の新背景」を我々の前に提供してくれた。

 ジーンス教授は優れたる数學家である。彼は引力の計算のために、数十年間を費したといはれてゐる宇宙物理學者でゐる。彼が数年前に著した「我等をめぐる字宙」は三四年の中に約十三萬冊も賣り尽くしたほど有名なものであった。彼ほど宇宙の法則の数學的整備をよく知ってゐる者は、世界にも稀であらう。その事は、「我等をめぐる宇宙」(恒星社出版)を読めばよく解る。

 ジーンス博士は難しい数學をこの上なく平易に説明し得る天分を持ってゐる。この書に出てゐる数學の方程式などでも、微分積分の初歩だけを知ってをれば、すぐ理解が出来る。私は、こんなに親切に数理物理学を説明してくれる人は少いと思ってゐる。エディントンの「物的宇宙の本質」は物質の収縮法則を簡単に取扱ってゐるために、その数学的原理がわからないけれども、この書は、さしも難しいローレンツ転換の法則を釈然として説明してゐる。また難解と考へられてゐる波動力學の原則に就ても同じことである。勿論微積分の初歩だけの知識は要るけれども、それだけの知識があれば、むつかしい波動力學の原則が、こんなにも容易に説明出来るかと思ふと、私は、ジーソス卿に感謝せざるを得ない。

 ジーンス卿は、エディントン教授の如く、宇宙を科學的に見ると共にまた精紳的に見んとする傾向を持ってゐる。彼が一九三二年ロンドン大學で行った講演は、「神秘の宇宙」(日本訳「新物理學の宇宙像」恒星社出版)と題して出版せられているが、それを見ると、彼の思想がよく解る。即ち彼は、物的宇宙が宇宙精神の表現であることを信ぜんとするのは、この彼の唯心的科学観を紹介せんがためである。

 然し、この唯心的科学観の傾向は、決してジーンス卿に限っていない。昭和8年2月東京帝国大学教授菊池正士博士の著作「量子力學」を読んでも、そこには明かにこの思想が盛られてゐる。ハイゼンペルグも、エディントンも、またミリカンも、コンプトンも、皆同じ傾向を持ってゐる。これはアインシュダインに於ても同じことであって、彼の短い論文「宇宙宗教」を読むと、彼がスピノザに似た宗数的信仰を持ってゐることを我々は知るのである。

 どうして、世界一流の物理學者が、斯くも十九世紀の唯物論から唯心的転換をなしつゝあるか、それを、私はこゝに知りたいと思ってジ-ンス教授の努力によりて成りたる「科學の新背景」を友人中村獅雄氏と翻訳したのである。ケムブリッヂ大學の出版部が、快くこの翻訳権を私に與えてくれたことをも私は感謝してゐる。勿論この書は、私がいひ出して翻訳したものであるけれども、訳文は中村獅雄氏の手になったものである。それに私は一々目を通して加筆したにしか過ぎない。

 唯物論的自然科學が近代人の信仰になってから約百年、科學それ自身が唯心的に転向して行ったことの華かなる手際を私はただびっくりして見てゐるのである。日本の若き青年學徒が、唯物論と唯物辨鐙法に熱中してゐる間に、科學それ自身の基礎が、斯くの如く進展したかと思ふと、今昔の感がある。私は数年前に友人と協力して、アルペルト・ランゲの「唯物論史」を翻訳したが、ここにジーンス卿の「科學の新背景」を日本に紹介することは、「唯物論史」の続きを紹介してゐるやうな気がする。然もランゲが、新カント派の立場から論理的に唯物論に反對したに對して、新しい物理學が論理の立場を離れ、物理学そのものゝ内容から唯心論に転向せんとするその進歩発達を、我々は無硯することが出来ない。

 私は科學それ自身を、決して排斥しなかった。それとは反對に、科學それ自身が霊魂の窓であることを主張してきた。そして今新しい科學が、さうした立場をとらうとしてゐることを私は嬉しく思っている。私の希望している處は、日本の自然科学者が、更に深く実験室を通して、宇宙の実在の本質に質に切込まれることである。さうすることによって、物的宇宙が結局、宇宙精神の表現であることを彼等は発見するであらう。その日を待ちつつ私は、日本の読書界にこの書を送り出す。

  一九三四年五月三十一日

            賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第76回)

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「会下山・善光寺の<聖徳太子堂>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第76回
  

   小説『幻の兵車』

            昭和9年5月15日 改造社 480頁

 本書『幻の兵車』は、講談社の雑誌『キング』の昭和8年1月から12月まで連載され、それに新たに書き加えて、改造社より刊行されました。

 この社会小説は、協同組合運動と立体農業を主題とした作品です。小説ですので賀川の「序」はありませんので『賀川豊彦全集ダイジェスト』の武藤富男の本書の解説の一部を取り出して置きます。


      『幻の兵車』について

     (武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』301頁~304頁)

 この書は昭和九年五月十五日、東京の改造社から発行された。昭和九年は賀川が四十六才の働き盛りの時である。二月にはフィリピン・キリスト教連盟の招きにより一ヶ月間の伝道をかの地に行ない、八月には北海道農民福音学校を空知郡江部乙村に開設し、十二月には東北地方の飢饉救済運動を起こすなど、相かわらず多忙な日を送った。その間にあって、十冊の著書が出版されていることは驚異に値する。冊数からいえば、この年がレコードである。『幻の兵車』はそれらの著書の中にあって、賀川の書き下しである。それは彼の小説中でも文体が整っており、変化に富み、一読巻をおう能わずという面白さをもっている。

 『幻の兵車』という題は列王記下六章十三節十四節から取ったものである。予言者エリシャはトタンにおいてシリャの大軍に囲まれて捕えられようとした。エリシャの召使いが朝早く起き出て見ると、軍勢が馬と戦車とをもって町を囲んでいたので、召使は恐れてエリシャに報告した。エリシャは神に祈った。すると味方の火の馬と火の戦車とが山に満ちてエリシャのまわりにあった。シリャの軍兵は目をくらまされて見えなくなった。エリシャはこの軍隊を導いてサマリヤに連れて行き、イスラエル王の『殺しましょうか』という提言を斥け、兵士たちに飲食せしめてこれを放免した。これがエリシャの「幻の兵車」の物語である。この小説のモチーフはここから取られたのである。

 読者の便に資するため、次にあらすじを述べよう。岐阜県加茂郡加茂村の貧農に長男として生れた木村健蔵は、大阪北浜の株式仲買店大西の小僧となり、年期を入れた結果、取引所の『手合取り』として相場旋風を支配する中心人物となった。もと小学校教員であった彼の父は放蕩の末、家を捨てて顧みない。健蔵は大西仲買店の大連支店の次席に抜擢され、赴任することとなった。大連でも彼は業績をあげたが、ダンスホールに出入し、そこで仲田とみ子という人妻と知合いになる。とみ子が健蔵のために出資するということばを信じていた健蔵は、母からの窮状を訴える手紙を受取ったので、金策を頼むが、体よく断わられ、女にもてあそばれていたことを悟る。

 一年十ヶ月ぶりで、健蔵は大西の本店に帰任したが、大西の大旦那茂兵衛は中風で倒れ、息子の市太郎は放蕩の結果店に大穴をあけていることを知った。

 北浜の大御所山惣の主人は、健蔵の才能を見こんでいっしょに肥料会社株の吊上げ策を講じて一もうけしようと提案するが、健蔵は、農民の不利益になる謀略に乗ることは良心に背くと思い、この申し出をことわってしまう。

 その時、横浜の大銀行がつぶれたことを切っかけとして、恐慌が起こり、大商店や大会社が軒なみに瓦解して行く。健蔵はここで相場師生活かいやになり、健全な社会に入って行こうと念願するようになる。

 心斎橋筋を歩いている時、健蔵は市村時計店の前に『精神修養会』の看板を見て、ここに入り、『愛なき者は神を知らず、神はすなわち愛なればなり』ということばを初めて聞き心を打たれる。そして愛の実行には協同組合の方法が一番よいと聞かされる。話している人は市村時計店の支配人三好克彦であった。

 三好は『そら、君、みんな自分だけもうけたいと思って、人を愛する精神をもたないから、消費組合が発達しないのだ。愛の精神を宇宙の精神から頂戴するようにしないと、理想的社会はできないのだね』という。

 健蔵は毎土曜日の晩、三好が開いている今宮の貧民窟の夜学に行き、三好とともに子供たちに教えるようになる。

 大西家では市太郎の妹時子と健蔵とを結婚させてあとを継がせようとしたが、健蔵はそれを拒む。健蔵の父は首を吊って死にあとにはあとには母がてんかん持ちの弟と白痴の末
っ子と妹とをかかえて、父の残した借金で苦しんでいる。

 健蔵は今宮の夜学校で三好の姪、佐々木初子と知り合う。初子は看護婦であり、貧民窟の病人を世話している。健蔵は初子の美しい行ないと清らかな品性とに引きつけられて行く。

 健蔵は不況の中にあって大西仲買店を背負い、相場の下落を利して大西家のためにもうけてやる。その頃梅田の停車場で、大連から引上げてきた仲田とみ子に会う。彼女は夫に死別して内地に移り、夙川に住んでいたのである。健蔵はとみ子の住居を訪問し、彼女から五千円の融資を受け、肉体的誘惑を受けるが、佐々木初子のことを思って、その誘惑を斥ける。(この誘惑の場面の描写は肉体文学の大家を思わせるような筆致である。)

 健蔵はとみ子から借りた五千円をもとでにして堂島取引所に行って米の相場をやり二千五百円をもうけたが、米の相場を生産費以下に激落させて行く相場師の魂胆を淋しいことと思う。

 佐々木初子は貧民窟における訪問看護婦となり、かわいそうな老人を家に引取って世話しつつ、貧民窟の病人たちの訪問看護をしている。健蔵はここに初子を訪れて、いよいよ初子に心を引かれる。

 健蔵は弟が死んだので葬式のため郷里に帰って、父の借金のかたになっていた家を整理して、母と妹二人と小さな弟とを連れて母の兄の家に行き、そこに四人の家族を同居させることにした。ここで彼は近所の人と釣に行き、大雨にあう。大雨は洪水となり、水門が決潰しようとする。健蔵は身を挺して舟に乗り、砂袋をいくつも沈めて決潰を防ぎとめ、村人から感謝される。

 健蔵の母とその弟妹は叔父に邪魔がられた結果、隣家の離れに移り住むこととなる。大阪へ帰ってみると初子は病気になっているので、健蔵は徹夜で看病をする。

 大西の若旦那市太郎は七万円以上の約束手形を振出して健蔵の裏書名を偽造する。その他にも市太郎は不渡手形を出しているので、大西仲買店の屋台骨はグラついてきたが、健蔵の才覚で瓦解を食いとめる。

 急場を凌ぐために健蔵は仲田とみ子から一万円借り受けたが、とみ子の誘惑にかかり、夙川の家に連れこまれて彼女の陥穿におちいる。しかしとみ子の寝室の表に初子が立っているような気になって暗い心になる。

 健蔵の郷里では犀川切落で、七ヶ町村が廃田になるという問題にぶつかり、その代表者三人が健蔵を頼って来たので、健蔵は弁護士の豊田哲蔵に面会して運動方を頼みこむ。この豊田は、後になって仲田とみ子の情夫であることがわかる。

 大西家は市太郎の借財のため没落し家邸は人手に渡り、一家は阿倍野橋近くの路次奥の小さな家に住むようになる。一方佐々木初子は胸をわずらったので、健蔵は彼女を連れて四国の城辺に行き、彼女の叔母の家に彼女を頂けて静養させる。ここで健蔵は教会の牧師に会い、農民福音学校のやり方について教えてもらい、そこでやっている農村協同組合の実情を見て心を動かされ、郷里に帰って村の復興をやろうと決意する。

 大阪に帰った健蔵は阿倍野橋の大西家を訪れ、その零落した有様を見て同情し、また母から仕送りの催促状を受けたので、仲田とみ子から金を借りようとして彼女を訪問すると、とみ子から妊娠したと告げられる。彼はこれを自分の子でないと思うのだが、とみ子は彼の子であると主張する。その時、豊田弁護士はとみ子のところに来ていた。健蔵はとみ子に借りた金を全部返してあるのに、豊田は健蔵がもうけた二千五百円を返すべきだという。
 
健蔵は恋人に突放され、主人の家は没落し、父親は自殺し、悪い女に欺されて覚えのない子を押しつけられ、一時悲観して自殺しようとするが母や弟妹のことを考えて思い止まる。

 米の値段の暴落によって苦しんでいる郷里の産業組合からその経営する農業倉庫に健蔵を雇入れたいという申出があったので、健蔵は帰村して協同組合運動に献身することになった。彼は生産、信用の両方面に組合運動を展開し、立体農業を奨励し、青年団、処女会を動かすようになる。しかし健蔵の活躍を嫉妬し彼の運動を妨害する分子が次々にあらわれる。

 健蔵は入阪に出て三好克彦の世話で、購買組合共益社や神戸消費組合と渡りがつき、帰途三好から佐々木初子との縁談をすすめられ、また西宮北口の日本農民福音学校で開かれている新年修養会に出席する。そこで彼は佐々木初子に会い、彼女から、結婚については一切を三好に任せるという決意を聞き、仲田とみ子とのまちがいを告白する。初子は健蔵の罪を許し、生まれた子を引取って自ら育てるという。

 村では農業倉庫の米が百石も盗まれたため、健蔵に嫌疑がかかり、彼は警察に留置され、取調べを受ける。犀川切落問題で暴動が起こり多数うの農民男女が検束され、健蔵と監房を共にする。

 二十一日目に健蔵は嫌疑の晴れぬまま釈放され、家に帰ると、母は血を吐いており、生活難のため生きて行けないから、この紐で首を締めて殺してくれと健蔵に頼む。彼は裏の柿の本の下で泣きつつ、初子のことを思って、母を励ます。

 相場師の山惣から、支那に革命を起こして一もうけする話をもちかけられたが、これを断わった健蔵はどこまでも農村復興のため働こうと決意する。肺病の母を近江兄弟社の療養所に入れた後、彼は早朝から新開配達をし、昼は農業倉庫で働き、夜は青年たちを指導する。農業倉庫では再び米十石か盗まれた。産業組合の理事たちは前の百石とともにこれを健蔵の責任として賠償を要求する。健蔵は再び逮捕されて警察に留置されたが、間もなく真犯人があがった。犯人は健蔵の悪口を言っていた青年団長森川喜作であったが、健蔵は警察で彼をかばい、自ら賠償を引受けて、毎月三十円ずつ月給から差引いてもらって五年間に農業倉庫に損害を賠償することを約束する。

 とみ子は産院で子を産む。健蔵は初子とともにそこへ行きこれを引取る。その子は豊田弁護士がとみ子に生ませた子であるのに健蔵に押しつけたのである。
 
 三好の骨折りで健蔵と初子とは結婚する。初子は健蔵の努力によってできた医療組合の病院に勤め、健蔵は子を背に負うて働き、協同組合と立体農業に力を入れ、村の復興を計る。資本家が農民に物資や金を貸付けて搾取する特約組合とたたかいつつ、健蔵は奮闘するが、村の信用組合が大垣の銀行がつぶれたことに端を発して取付けにあい、健威か窮地に立った時、初子が三好克彦から資本の融通を受けて、現金を自動車で運んできたため、取付け騒ぎはおさまる。

 「金融の骨組は愛である、愛は大きな資本である」ということを、これによって役員たちは悟る。健蔵は生命保険も産業組合によって経営し、その資金を農村のために使うべきであると提言する。

 健威は、初子に赤ん坊を寝かしつけてもらってから列王記下六章十三節を読んでもらう。三好は農村に時計工場を作り、懐中時計の部分品を農村青年の副業にしたいと提案する。

 健蔵は相かわらず赤ん坊を負うて新聞配達をし、協同組合運動のために働く。仲田とみ子は健蔵に会いにくるが、赤ん坊を抱いてみようともせず帰って行く。健蔵は桑畑の中で赤坊の頬に接吻する。赤ん坊は声を立てて笑い、健蔵の瞳と赤ん坊の瞳とが結ばれるのであった。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第75回)

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「会下山・善光寺」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第75回
  

     医療組合論

           昭和9年4月18日 産業組合中央会 154頁

 本書『医療組合論』は最初、昭和9年に産業組合中央会より刊行され、昭和11年にも全国医療利用組合協会によって再刊されていますが、手元にあるのは戦後昭和46年に家の光協会が『協同組合の名著:第9巻』として、後に取り出す『日本協同組合保険論』と共に収録さているものです。

 ここではこの第9巻に収められている黒川泰一氏の重要な「解説」を、最初の部分だけ取り出して置きます。『医療組合論』の執筆される生々しい経緯が綴られています。黒川氏の「解説」の後半は、追って『日本協同組合保険論』をとりあげるときにUPさせていただこうと思います。



【解題】
       『医療組合論』と『日本協同組合保険論』

            黒 川 泰 一

        波瀾に富んだ劇的な生涯

 『医療組合諭』と「日本協同組合保険論」の著者、賀川豊彦は、日本帝国憲法が発布された前年にあたる一八八八年(明治二十一年、この年にドイツの農業協同組合生みの親であるライファイゼンが死亡している)に神戸市に生まれ、五歳のとき両親を失い、父の生家、徳島市に近い田園で祖母のもとに幼少年時代をすごし、徳島中学時代、米人宣教師ローガン、マヤス両博士の感化を受け、クリスチャンとなり、日露戦争中にして、且つ第一次ロシア革命が起った一九〇五年(明治三十八年)、十七歳で明治学院神学予科に入学、のち神戸神学校に移り、ここを、幸徳秋水ら十二名が死刑とたった一九一一年(明治四十四年)、二十三歳のとき卒業、この間、明治四十二年、二十一歳にして、神戸市葺合新川の貧民窟に住み、貧民窟伝道を行なって、一五年の後、関東大震災救援のため上京するまで貧民窟に住んだ。終生、信仰篤い基督者として、また人格的社会運動家、世界平和運動家として、その生涯を神と人とに捧げつくして、一九六〇年(昭和三十五年)、多彩にして波瀾に富んだ劇的な、そして世界的な聖者としての一生を終えた。

 彼は七歳のとき、童話『源九郎狸』『大麻山の猿』を作り、幼にしてすでに大著述家の萌芽を現わした。大正三年渡米、プリンストン大学および同神学校に学び、同大学よりM・Aの学位を受けた。大正十年、神戸の川崎造船所、三菱造船所等の大労働争議を指導し、続いて同年、日本農民組合を杉山元治郎らと結成、翌年、大阪労働学校を開設して校長となった。大正十二年九月一日の関東大震災には、翌二日に船にて上京、罹災者救援に当たり、本所基督教産業青年会を創立するとともに、本居を東京に移した。昭和五年には国民革命が着々進行中の中国に招かれ、済南大学で協同組合論を講演し、これを契機に同国に合作社運動が起った。昭和十年十二月、第一次世界大戦後のルーズベルト大統領のニュー・ディールの一環として、協同組合運動推進のため、アメリカ政府と全米キリスト教連盟の要請で渡米、協同組合運動講演のため七ヵ月にわたり全米を巡回した。その帰路欧州に渡り、各国の協同組合保険の実情を視察し、翌年十月帰国。昭和十六年第五回目の渡米では、民間平和使節として四ヵ月間、三〇〇余回にわたり、アメリカ要人に日米平和を説いて帰国した。しかし国内では、反戦論者として憲兵隊に拘引留置され、以後、終戦まで公的活動を禁じられてしまった。終戦とともに、昭和二十年、東久過宮内閣の参与に、また日本社会党が結成されるや、その顧問となり、さらに同年、日本協同組合同盟を設立し会長となって、協同組合再建運動に乗り出した。二十六年、全国共済農業協同組合連合会(全共連)が設立されるや顧問となり、共済運動推進のために尽した。

 賀川の著作は、二百数十種といわれるが、昭和37年9月より毎月1冊ずつ、二カ年にわたり全二四巻の『賀川豊彦全集』(A5判、毎巻平均約六〇〇頁、キリスト新聞社発行)が刊行されたが、全著作論文等を収めると、四〇巻にはなろうといわれた。この全集には、主要なもの(訳書は除かねている)は大体集録されているが、その著作を種類別にすると宗教三二、社会六、教育六、心理三、哲学四、小説一六、随筆一二、詩・散文詩一四、協同組合九、農業・農村五、労働二、世界平和三、生活二、その他科学、婦人、経済、中国、東洋思想、講演集各一で、合計二一三の著書数となる。これをみても、極めて多岐広範の分野にわたっているのがわかる。小説のうち、大正九年出版された『死線を越えて』は、洛陽の紙価を高めた。また『家の光』に連載され、読者の血を湧かせた『乳と蜜の流るる郷』などの組合精神小説をも含んでいる。

 賀川は博覧強記で、学生生活中に校庭を常に書物を読みながら歩いていた、とは有名な話である。米国のプリンストン大学時代には、図書館の大英百科全書を全部読了し、これを強記していた、と親友の杉山元治郎が記している。広い学域にわたる篤学者であり、研究者であるとともに、常に実践家で日本の社会運動、協同組合運動、平和運動にわたり、常に新しい分野に先鞭をつけ、それらの育成に務めた。

 ノーべル平和賞受賞を直前にして、賀川は昭和三十五年四月に十三日、七十二歳にして昇天した。死の床にあっての最後の言葉は「政界に平和を、日本に救いを與え給え。アーメン」との祈りの声であった。

        産業組合に新生命を与えた『医療組合論』

 『医療組合論』は、昭和九年四月、産業組合中央会より出版されたものである。しかし執筆は昭和七年四月、第一章の「国民保健の危機」が書かれ、東京医療利用組合(現在は東京医療生活協同組合)におかれた医療組合運動社(責任者 賀川豊彦)発行のタブロイド判月刊紙『医療組合運動』創刊号に掲載され、それ以後一三回にわたり、一章ずつ第十三章まで、毎月書かれ掲載されたものである。第十四章と第十五章は、出版の際、補足されたものである。賀川が月刊紙『医療組合運動』を発行し、且つ、創刊号より医療組合論を執筆して、毎号掲載することとなったのには、そこに大きな理由があった。それは、第十四章「医療組合の現状」、第二節、「都市中心医療組合勃興の第二期時代」の後半に述べられている、東京医療利用組合の設立運動に対する医師会の猛烈な反対運動に端を発している。すなわち、

 「昭和六年の五月には、新渡戸稲造博士及び私等を中心にした東京医療利用組合の設立認町申請が、勿然として東京府へ提出され、帝都にも医療組合がいよいよその旗を翻し、日本医師会の反対妨圧に会い、遂に医療組合対医師会の全国的抗争となり、一年一箇月に渉る闘いは、全国へ医療組合宣伝の絶好の機縁となったのである」

 ここで「全国へ医療組合宣伝の絶好の機禄」と述べていることは、そう少し後に、

「これが、社会改造運動の一端をとして企図されたものであるが故に、私共同志等が、協同組合運動の砂漠と云われる大都市東京の真ん中に、凡ゆる不利を忍んで計画したものであり、実際私共は日本の中央である東京に、たとえ小さくとも、一つの標本を示すことにより、全国にこの運動を速かに宣伝することが可能だと信じて、東京医療組合の設立を企てたものである」

 すなわち、医療組合という耳馴れない言葉、何のために、何をどうしてやるかということは、単なる文書や講演では容易にわかり難いが故に、実物をもって理解せしめるに如かずとの考えから、全国的普及宣伝の効果をねらって、「一つの標本」を、地の利を得た東京にまず設立を企図したのであるが、予想しなかった医師会の反対という別のおまけの要因まで加わったおかけで、全国的な大宣伝が意外な速さをもって拡がることとなった。つまり、医師会の反対運動は単に地元の東京府医師会のみならず、日本医師会という全国的組織まで挙げて反対運動に立ち上った。そのため、日刊新聞紙のすべてがこの問題を大きく幾たびも報道したが、このことが、医療組合運動に有利な世論喚起という逆効果をもたらした。さらに、医師会の全国的な圧力で、医療組合の設立認可を阻止していることに対抗するため、組合側は産業組合の全国大会に医療組合認可促進の決議案を提出し、賀川自ら大会における議案説明に当り、満場一致で可決された。これが導火線となって全国各地に産業組合病院設立運動が、さながら燎原の火の勢いでひろがることとなった。そのすさましい状況は、第十四章の後半に述べられている通りである。

 さて、賀川が何故、医療組合運動を進めることを決意したかということであるが、それはこの著述の冒頭により述べている如く、昭和初期の農村恐慌による農民の窮乏、農家の負債が当時の金で六〇億円という巨額に達し、ことに東北農村では「娘の身売り」の激増、こうした貧乏と借金の増大の直接的原因の大きな部分を、過重の医療費が占めていること、あるいは、医者にかかれないため受診率は低いが、死亡率がきわめて高い事実、このような非人道的環境にある農民を救うには、国の施策は余りにも無為無策であり、開業医制に頼っていては、国民の医療保健問題は永久に解決され得ないことを深刻に考えた結果、熱烈なキリスト信者として、且つ、徹底協同組合主義者としての賀川が、じっとしていられない切羽つまった気持から、果敢に医療協同組合運動の開拓者として、立ち上ったものである。したがって、国の医療政策の貧困を批判し、開業医制度の不合理と矛盾に徹底的なメスを入れ、将来の医療国営、すなわち国民健康保険制度確立のための基礎造りとして、医療組合組織化の必要を主張している。賀川のこの主張の正しさは、現在の健康保険制度が、国の無策と開業医制を根幹とする医師会の圧力の前にゆがめられ、崩壊寸前にある現実がこれを証明している。したがって『医療組合論』は、すでに四〇年前に書かれたわが国唯一の古典であると同時に、今日なお、現在のわが国医療制度に対する批判と、指針書としての重要な価値を持っているものであることを、信じて疑わない。

 賀川には、協同組合に関する多くの著書、論文があるが、この『医療組合論』は医療組合運動を進めるために、妨害する圧力との闘いのために、毎月一章ずつ書かれたものであることは、すでに述べたところであるが、したがって、彼の体系的な協同組合論を述べたものでばない。しかし全体を通じ、いたるところに、深いヒューマニズムとそれを基礎とした彼の協同組合思想が断片的ながら、宝石のごとくちりばめられ輝いている。たとえば、第二章の二節に、

 「或る人は云うかも知れない、医療国営が一番よいと。然し私の考えては、医療のような心理的親切さを含もものは、自治的機構の上に国家的要素か加わらなければならぬことであって、それは市町村が自治体であると同じ意味に於て、ある自主基礎を持たねばならぬものである。経済的自治体の単位は産業組合である。医療組合の徹底は、搾取に基く階級の分裂を防ぐことである。農村に於て医者がますます富み、生産者である農民がますます窮乏するということは、決して合理的な社会ではない」

 「人間の健康に関するものは凡て、人道的精神を基礎にしなければならない。それであるから、医療というものは、必然的に社会化して行くのはあたり前である。その社会化の方式を慈善事業でやるか、互助組合にゆくか、二つの道があるが、今日のような経済状態のもとに於て、互助組合的にゆかなけならないことは、誰でも気がつくことであろう」

 ところで、賀川が医療組合運動を自ら実践しつつ提唱したとき、その初期にいちはやくこれに応じて立ち上った人々の中の多くは、社会運動家や農民運動者たちであった。その後漸次、産業組合陣営の中に運動がひろがって行った。そして、その経営基礎強化のため、信用・販売・購買・利川の四種兼営の府県産業組合連合会が経営に乗り出し、これが医療事業経営の原則であるとするところまで発展した。この事実は、目本の産業組合が従来の、物を対象とする経済事業経営の範囲を超えて、人間の健康、人間の生命を直接的に目的とする事業体に、飛躍的変化をもたらしたものであり、産業組合運動の質的転換を遂げたことをも意味している。したがって、これが契機となり、やがて国民健康保険組合の事業代行、農村保健婦の配置、組合員の保健指導からさらに生活指導にまで、戦前の産業組合活動の分野がひろげられることとなったのである。隣保互助の協同組合精神を眼で見ることのできるところまで、産業組合運動を押しあげ、「物」中心より「人」中心の協同組合運動への夜明けを迎えたことを意味する。したがって、「医療組合論」と著者賀川の指導により起されたに医療組合運動の歴史的意義とその役割は、高く評価さるべき価値を持つものというべきであろう。(以下略)

        (『協同組合の名著』第9巻の459頁~466頁)



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第74回)

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「須磨離宮公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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         第74回
  

  聖霊に就いての瞑想

     昭和9年3月28日 教文館出版部 144頁

 これまでに教文館出版部より刊行されて連作『神に就いての瞑想』『キリストに就いての瞑想』『十字架に就いての瞑想』に続いてこの『聖霊に就いての瞑想』がまとまり四部作が完成することになり、後に教文館は四部作を箱入れにして刊行しました。本書は吉本健子氏の筆記によるものです。手元のものは昭和11年の再版のものです。



       聖霊に就ての瞑想

          序

 静かに眼を見張って私の周囲を凝視すると、宇宙はあまりにも、厳粛に私に迫ってくる。物は神の衣である。

 私には、どうしても、物質が神とは縁の無いものであるとは考へられぬ。それは不思議の不思議、奇跡の奇跡である。物質は神の衣である。私は、神のみを知って、神の衣を無視することば出来ない。神は宇宙を衣として纏はれ、宇宙を神の衣裳として居給ふと云ふことを、私はつくづくと感する。旧約の詩人は『神は雲を衣とし……』と歌っているが、私は神が物質を衣としで纏ってい給ふことを惑ぜずにはをれぬ。

 町の百合に、小川の小石に、地殻の断層に、海に、空に、砂漠の砂丘に、私は、神の意匠を感ぜずには居れぬ。そして、私はその神のみ衣の裾にしがみついてゐる赤ん坊である。いや、私は神のみ衣の袂に抱かれてゐるだだつ児である。

 物質が、神のみ衣であると感じてくる瞬間、生きてゐることそのことが、あらゆる芸術にまさって、不思議な作品であるということに気がつく。『よくまあ、こんな不思議な世界に生まれてきたものだなあ!』と、お伽噺の世界に入っていった幼児のやうに、私にとって、物質の世界の凡てが、神の栄光に照らされているやうな気がする。

 さうした感じは、また両親の世界にも向けられる。罪を感ずるそのことが、神の御力そうものであることを感ぜずぬは居れない。私から、神様を信ずるのではなぐ、神様を信ずる力を、人間に與えてくださるのは、全能者そのものであることを深く感ずる。

 我らの受けし霊は世の霊にあらず、神より出づる霊なり、これ我等の神の賜ひしものを知らんためなり。……生来のままなる人は、神の御霊のことを受けず、彼には愚かなる者と見ゆればなり。また之をさとること能はず、御霊のことは霊によりて弁ふべきものなるが故なり。されど霊に属する者は、すべての事をわきまふ、而して己は人に弁へらるる事なし。誰か主の心を知りて主を教ふる者あらんや。然れど我等はキリストの心を有てり。(コリント前書第三章十三~十六節)

 斯く、パウロが書いたことは、永遠に真理である。人間は、人間として自覚するのでなく、人間が宇宙の神の子であると自覚するのは、人間的な分子以上の力が加はらなけれぱ可能ではない。そして この力は、人間の意識のうちに覗き込んでくる。そこに、神の聖霊の力は、真理として、慰安として、また潔めとして、さては、神御自身の御栄光の器としての社会愛にまで顕現される。

 我々が神ではないに拘らず、この最微者をもお見捨てなく、神の霊をして内住むせしめ給ふ特権について、我々はこの上なき感謝と感激に溢れるものである。

 そんな感激の瞬間には、生きながらにして天国に移されるやうな気がする。いや、そのまま消え失せてしまつても、神の栄光を拝させて貰った歓喜のために、不服はないやうな気がする。その瞬問を克ち得た時に、彼は、無限の世界に初めて聯絡がついたことを感ずる。それは、まことに救はれた体験の最も大きななものである。一旦、絶対の聖愛に呼吸したものは、泡沫の如く消え去り得ないことを確信する。そこまで愛して下さつた神が、無慈悲に、その魂を蹂躙なさらうとは信ぜられない。私には、この感激の瞬間が持続する。病む日も、戦ふ日も、この感激は揺るがない。病も戟も、感激の生活の序曲にしかすぎない。揺るがざる聖霊の恩寵に、物質の世界として見ゆる宇宙の存在は、宇宙の神殿の幔幕としてのみ受け取られる。

 やがて、観覧席に置かれている私が、神の舞台裏に召される日が来れば、私は、幔幕の彼方にある凡ての舞台装置を拝見出来るることと信じてゐる。それが楽しみである。死はその幔幕を彼方にくぐることである。かく私をして、聖霊の至楽に導き給うものは、全くキリストの至高の贖罪愛による。贖罪愛を意識したまふキリストは、聖霊そのものの生活をせられたとしか考へられない。といふのは、聖霊の全的意識なくして、宇宙的連帯責任を果し給ふた贖罪愛の貴き犠牲の血は払はれないからである。贖罪愛と聖霊とは、同一の内容を両面から見たものである。この不思議な愛の秘訣は、十字架にのみ黙示されている。然しこの十学架の秘儀を悟るものも、聖霊のたすけなくしては不可能である。

 まことに、歴史を通してすら、聖霊が働き給ふことを発見し得る力も、聖霊それ白身の御助による。

 かく、時間に、空間に、歴史に、物質に、有限の体を持ちながら、無限絶対の「相」に近づき得ることは、神の可能性なくして、どうして有り得ようか。すべては感謝である。すべては感激である。貧乏に、牢獄に、悪罵に、迫害に、世の知らざる聖霊は、犇々と、私の胸にせまつてくる。この憐れなる最微者に溢れ給ふ聖霊よ、日本の島々に満ち給へ。そして、傷める葦を折らず、煙れる麻を消さず、農村の片隅に泣く膿持つ魂の細帯を巻き給へ。誠に、誠に。

  一九三四年三月十九日
  
        賀 川 豊 彦 

             フヰリッピンより帰りて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第73回)

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「ぶらり須磨の山あるき:おらが茶屋より」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第73回
  

    H・W・マヤス説教、黒田四郎筆記、賀川豊彦序

    『説教集・神への飢渇』

        昭和8年12月15日 日曜世界社 258頁

 マヤスの説教を黒田四郎が筆記して出来た本書『説教集・神への飢渇』も日曜世界社の発行になるものですが、これには賀川豊彦の重要な「序」が収められています。マヤス博士のお顔写真もあります。



       神への飢渇 序

         一

 私がマヤス先生に會ったのは、中學校の二年生の時であった。私が、中學校の英語の先生の片山正吉氏の塾に、下宿さして貰ってゐる時であった。然し、その時は、ただお辞儀しただけで、宗教上の交渉はなかった。中學校の三年の時に、ローガン先生が、徳島市通町の日本キリスト教會で、英語でキリスト伝の講義を始められた。その時に、初めて私は、西洋人から英語を研究する機會を得た。

 然し、ローガン先生は間もなく中止せられて、マヤス先生が、新約聖書を、通町の教会會堂で、英語で教へて下さるやうになり、後には、徳島本町の自宅で、聖書の講義をして下さるやうになった。

 かうして親しくなった私は、遂に決心して明治三七年の二月二十一日の日曜日に、マヤス先生の手からバプテスマを受けた。その時私は、満十五歳七ヶ月であった。親切なマヤス先生は、その後も、私を個人的に指導してくださって、プリンストン大学総長パトン博士の『キリスト教教義要綱』といふ、非常に簡潔ではあるけれども、要領のいゝ神學書を教科書にして、個人教授をして下さった。私の英語の力も、哲學的思考の力も、かうした機會に呉へられたことは、否定出来ない。

 かうして英語の力をつけてくれられた為に、私は十五の春から、マヤス博士の圖書棚からいろいろの書物を取出して、自由に読む機曾を得た。カントの『純粋理性批判』の英譚を読み出したのも、この頃からであった。そして私は、徳島を離れて、東京の明治學院に人學し、マヤス先生の厚意によって、叔父と意見のちがったために、學費の途がなかった時でも、明治學院に學ぶことが出来た。

         二

 十七歳の夏、ミセス・マヤスが一足先に米國へ行かれた時、私は四十日の間、マヤス先生と同じペットに寝る機会を得た。かうして私は、日本人の間にも発見出来ないやうな大きな愛をマヤス先生から受けたことを、永遠に忘れることが出来ない。

 マヤス先生は、幼い頃から、植物學に趣味を有たれ、天文學に興味を注がれ――いまだに六十歳を越えても――日本アルプスなどは、毎年数回縦走さるヽ日本の外人の間でも有名なアルピニストである。

 それで、私は、マヤス先生に連れられて、吉野川の山奥へ傅道に出かけた楽しい旅行を今も忘れることが出来ない。もし私が、キリストのために熱心な傅道者となることが出来たとすれば、師父マヤス博士の感化であるといはざるを得ないであらう。

 私は今も覚えてゐる、十七歳の時。私はマヤス夫人の女乗りの自転車を借りて、吉野川の上流まで遠乗りして、傅道旅行について行った。私はその時恐ろしく下痢してゐた。それで、毎日の旅行が非常に苦痛であった。然し私は、マルコがパウロに叛いたやうな悲しい記録を作りたくなかったので、下痢を辛抱してついて行った。マヤス先生は、通る人毎にリーフレットを渡し、乞食小屋にも頭を低うして、永遠の生命の道をお説きになった。

 『――西洋人がこれほどまでに熱心に、日本人を救はうとしてゐられるなら、僕ももう少し熱心にならなければならぬ――』 

 こう考えた私は、伝道のためにメートルをあげることにした。

        三

 不幸にして私は、十七歳の冬から肺病にかヽつた。そして、明治四十年の夏には、もう医者に、『死ぬ』といふ宣告を下され、もう少しで私は死ぬ處であった。不思議に癒された私は、マヤス生先の厚意で、明石の湊病院に入院し、更に、三河蒲郡に、漁師の家を借りてそこで九ヶ月保養した。そのあばら家に畳も、机もないので、筵を敷き、石炭箱を机にしてゐた――マヤス博士は三晩も泊って、私を慰めて下さった。普通の日本人でさへ、私の肺病を怖れてなかなか泊ってくれないのに、三晩も、私のきたない蚊帳の中で、肺病を 怖れないで泊って下さったこの先生に對して、私は心より感激した。

 肺病が治って、私は神戸の神學校に入學したが、間もなく、私は貧民窟に這入る決心をした。そしてその貧民窟の苦しい多くの経験を通して、絶えず慰めて下さった人は、マヤス先生夫妻であったことを、私は忘れることが出来ない。私は、神學校から學費だけ支給して貰ってゐた。然し、それだけでは貧しい人を助けることが出来ないので、神學校の煙突の掃除をしたり、マヤス先生のお宅の煙突掃除をさして貰って、毎月十圓の金を携へ、貧民窟の病人を世話することにしてゐた。マヤス夫人はまた、私を、三人の子供のうちに加へて、私のために、特別の椅子と、特別のナプキン・リングまでを備へて、いつ如何なる時に飛込んで行っても、私に食事を、家の者同様にさせて下さった。かうして私は、マヤス家の一人に完全になりきってしまった。

         四

 その後私は、マヤス博士とローガン博士に金を借りて、米國に渡り、プリンストン大學に人學した。アメリカに居るうち、私は、マヤス先生の故郷であるヴアジニヤ州レキシントンを訪問する機会を得た。レキシントンは、有名なワシントン・アンドリー大學のある處で、そこで、マヤス街といふ通りを私は見付けた。

 マヤス先生のお父さんは、土地の大きな金物屋であつたさうである。非常に傅道に熱心で、みづから出資して、支那に宣敷師を送ってゐたといふことを、私はうつすら聞いた。この金物屋のマヤス家は、ニューヨークの最初の市長の一人であるマヤスの後裔であつて、オランダ人の血を承けてゐるといふことである。

 また、マヤス夫人の系統は、ミズリー州の判事で、米國独立戦争の時からの家柄で、シカゴの大きな商買人のマーシヤル・フィールドー族と関係があることを私は學んだ。

 兎に角、私は、プリンストンから、わざわざ、クリスマスに、ヴアジニヤまで出かけて行って、この慕はしい一族とI週間ばかり贈った嬉しい思出を、今も、ありありと目の前に浮べてゐる。

 私は、煩雑な世の中にも、一人の青年の指導に、これほどまで親切な指導をしてくれる教師が、ほかにあるかどうか知らない。しかし、もし私に、先生らしい先生をいへといふなら、私は、恩師マヤス博士を指さすであらう。

 私は、神學校で、マヤス博士から、ギリシヤ語と、教会歴史と、キリスト伝を學んだ。私は、マヤス博士が特別な大學者だとは思はない。マヤス博士がそれを希望してゐられたなら、必ず大學者になってゐられたらうと私は思ふ。その緻密な頭脳と、科學的な傾向は先生をさうさせないではほかなかったであらう。然し、マヤス先生は象牙の塔を出て、東洋の傅道に来られたのであった。それで、全く書物と訣別しなければならない位置におかれてゐた。それで、私が、マヤス先生から學んだことは、その緻密な分析と、對比と、順序立てた綜合的研究方法であった。これに對して私は、いゝ教師を得たと思って、マヤス先生の時間を、いつも楽しみにした。

        五

 マヤス先生は、今も私の先生である。毎年私の経営してゐる農民福音學校に、望遠鏡を 運んで、全國から集る學生達に、星と、星の造主である神を指さして下さるのは、私の尊敬するマヤス博士である。

 マヤス博士の生活は、実に簡粗で、その食物などでも、謹厳なモナスタリーの僧侶か思はしめるやうな質素さがある。

 兎に角、私は、マヤス博士からずゐぶんいゝものを學んだ。私はかういふやうな、すぐれた師父を、自分の先生として仰いだことを心より神に感謝してゐる。

 幸ひにも、親友黒田四郎氏が、マヤス博士の宗教説話の断片を筆記して下さったので、その出版を西阪氏に計った處が、西阪氏も喜んで、これを引受けて下さったことを、非常な幸ひだと思ってゐる。

 マヤス博士の愛は、私自身にとって、掘抜井戸のそれの如く、深くそして清いものである。私は、この深く清い愛を、更に日本の隅々へ押広める義務を荷ふてゐる。私は断言する。マヤス先生の宗教説話は、決して、マヤス先生の人格そのものより優れたものではないだらう。寡言な先生は、科學者の如く、星や雑草と親しむ多くの時間を有つてゐられた。自分の行動について語らるゝ處はまことに少い。然し、日本は、かうしたよき贈物を神から賜ったことを、必ず記憶する日があるだらう。

 この書は、さうした神の恩寵を物語るよき記念品として、受取りたいものである。

   一九三三年十月七日
    
      賀 川 豊 彦

             武蔵野の森にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第72回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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             第72回
  

    『賀川豊彦童話集・馬の天国』

     昭和8年9月15日 日曜世界社 152頁

 昭和8年に出版された本書『賀川豊彦童話集・馬の天国』は、昭和9年に再版され、第3版は昭和14年に出ています。そして私の手元にあるものは、昭和16年に出版された第4版のものです。そしてその「序」を収めます。

 そして戦後昭和26年にも本書は早川書房より再販されていて、その新しい「序」もここには取り出して置きます。

 なお、この「馬の天国」のもとになった「西川」のおじさんの事は、前に「武内勝」所蔵資料のなかに、重要なドキュメントが残されていましたので、「賀川豊彦生誕100年オフィシャルサイト」の方ものぞいてみてください。


     童話『馬の天国』

        序

 このお噺は、わたしか、創作したものであります。西洋人の作つたお噺とちがつて、日本人として生きて行かなければならないお伽噺の世界があります。

 私は、毎年、年を加へますけれども、一生、お伽噺の世界から抜け出すことが出来ません。私は、いつまでも、お伽噺の世界に住んでゐます。それで、こんな書物を書いたのです。日本の子供たちに限らす、大人が、私の童話を読んでくれると、非常に幸ひだと思つてゐます。

  一九三三年八月廿五日
      
            賀 川 豊 彦

             武蔵野の森の中にて




 この童話作品は、前記のように戦後になって昭和26年8月に早川書房より『馬の天国―賀川豊彦童話集』として、以下の新たな序文を書いて出版されています。

 賀川全集では、上の初版はカットされて、以下のものが序文として収められています。


        馬の天国

         序

 私の宅に黒馬がいた。

 阿波の田舎で育った幼い時の私の日課は、毎朝草刈りで始まった。その馬は二歳の時に片限になった。義理の祖母は日の出前に私を起して、裏の田圃の畝道の両側にはえた萱や茅、げんげなどを「ふご」一杯に刈ることを命令した。私は満六歳に足らない時から、馬と心安くなった。

 黒馬が他に売れて行き、鹿毛の牝馬が厩にはいって来た。祭の日には、徳川時代から伝って来た金蒔絵の鞍をその倉庫から収り出してきて馬の上にのせ、番頭が、村の鎮守に曳いて行った。

 私は、馬を羨やんだ、馬は私より大きく、私より大事して貰い、金ぴかの鞍を背中にのせて出て行く。馬の方が、私より遥にえらいと思った。

 十七になって、私は三河の山奥の津具村の馬と親しくなった。此処では、馬に柴をつけると、人問がいなくてもひとりで家に帰ってくる。

 馬と人間のまじわりには、全く私の想像以上のものがあった。

 だが、私か、神戸の貧民窟に住むようになって、近くにいた馬蹄鉄屋の西川のおじさんは私に親切にしてくれた。私はその人に馬に乗る秘訣を教わった。そして馬を心の友人とすることを覚えた。

 「馬の天国」は、その親切な西川のおじさんが筆を取らせたと考えてくれてよい。狂人と、乞食とゴロッキの多い貧民窟の近くにも、馬と西川のおじさんは、浮世をはなれて私をすぐ天国に導いてくれる親切さがあった。馬と西川のおじさんのような大の親切があれば地上も、天国に遠くはない。

 私にとって、お伽噺の国は昨日の話ではない。年を取っても私は「おとぎ」の国にいる。馬と犬と烏と、親切な人間に会う度に、私はすぐおとぎの国に帰って行く。

   一九五一・六・二五             

         賀 川 豊 彦
 
             東京・松沢
      

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第71回)

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「須磨・旗振山の噴水ひろば」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



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             第71回
  

    小説『東雲は瞬く』

     昭和8年6月20日 実業之日本社 466頁

 今回の長編小説『東雲は瞬く』は、実業之日本社の発行する雑誌『主婦之友』の昭和5年8月から昭和6年7月まで連載された作品で、賀川がハンセン病問題の解決を願って書き上げたものです。

 本書も小説ながら賀川の「序」が入っています。

 なお、日本におけるハンセン病問題の解決は、長期にわたる強制隔離政策のもとで、際立った人権侵害を強いてきた歴史を刻んできており、その歴史的な批判的検証作業も進んできています。



       東雲は瞬く

         序

 愛は人を復活させる。それが、どんな小さい愛であっでも、愛は流れ流れて多くの人を潤す。今日、私達はパンの飢餓や金銭の欠乏に泣くよりか、愛の飢饉の為めに泣いてゐるのである。然し、全能者は、地の涯に、まだ愛の泉を隠してゐられる。私がここに書き綴った物語はその愛の泉の記録である。

 日本はどれほど悩んでも、この愛の泉が枯渇しない間は悲観する必要はない。日本にはまだまだ残された仕事が多くある。そしてこれらの残された仕事には多くの人柱を必要としてゐる。その残された仕事の一つを中心としてどんなに不思議だ奇跡が起りつつあるかを考えヘるときに、私は生きで行くことの不思議を考へずには居れぬ。

 私たちは、この不思議な生命に捧げて、日本の救の為に愛の泉を掘りつづけねばならぬ。

 幸いなことに、この小説に書いた聖い女にも勝って、聖く勇ましく働きつつある人々を私は幾人か知つてゐる。さうしたことが、私をして、この小説を書かしめた。私は彼等に感謝する。彼等に祝福あれ! また彼等の後継者よ、多く出で来い! 日本は、それらの人々にのみよつて、神の国に化することが出来るのである。

          賀 川 豊 彦 
       
              武蔵野にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第70回)

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「須磨・旗振山の梅園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




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              第70回
   

     海豹の如く

      昭和8年5月10日 大日本雄弁会講談社 441頁

 先に小説『一粒の麦』を出版した大日本雄弁会講談社は、今度はこの海洋小説『海豹の如く』を出して読書界に一石を投じました。講談社の『雄弁』の昭和7年1月より昭和8年6月まで連載されたものですが、本書は戦後昭和22年に、読書展望社より改版されて読み継がれました。

 小説ですが賀川の「序」がありますので、それを取り出して置きます。


        海豹の如く

          序

 海が我々を呼ぶ。黒潮が我々をさし招く。鰹と、鯨と、海豹が、豊葦原の子を差招く。おお、大陸か我々を見棄てても、陸地の二倍半も広い海洋が、我々を待つてゐる。日本男子は、波濤を恐れることを知らない筈だ。因幡の兎は、鰐の頭を踏んで、日本に飛んで来た。我々は、太平洋を鯨の牧場となし、日本海と支那海を鯛と鰊の養魚池としで考へる。

 我々の祖先は海から来た。然し、今の日本人は、その出生地を忘れようとしてゐる。漁民は嘆き、漁忖は廃れ、海を懼るる者が、日々数を増してゆく。彼等を救ふものは日本を救ふ。海は日本の城壁であり、海は日本の大路である。海を理解することなくして、日本の運命は打開出来ない。

 我々は、山を相続しなくとも、海を相続する使命を持つてゐる。それで、私は、日本の若き子等のために、海について自覚すべきことを、この書に書き綴った。日本の議会も、田園も、都会も、海の人に対して頗る冷淡である。殊に貧しき海の労働者に対して、日本国民が与へてゐる注意は、まことにささやかである。そのために、今最も悩んでゐる者は、日夜、波濤と闘ってゐる海の人々である。

 帽子を取って、彼等に最敬礼をなすべき処を、我々は、かへって彼等に、貧乏と、失業とをもって報いてゐる。然し、私は、海を忘れることが出来ない。黒潮は、私に、この書を書くことを命じた。

 太平洋は我々を招く。海豹の呼び声に、我々は呼応して、新日本の黎明を、海洋の真只中に仰がねばならぬ。日本の光栄ある海の歴史を、忘れる者は忘れよ。私は日本をして、永久に、海の寵児であらしめるために、謹んで、この書を海国日本に捧げる。
 
  一九三三年五月
             賀 川 豊 彦


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第69回)

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「須磨・旗振山の日時計」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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               第69回
    
    彷徨と巡礼

        昭和8年3月20日 春秋社 345頁

 春秋社より出版された本書『彷徨と巡礼』は、昭和4年からの日本基督教連盟による<神の国運動>の講師として国内外を巡礼した時の記録で、個人誌『雲の柱』にも連載されてきたものを纏めた、賀川ならではの詩と随筆でなるユニークな旅日記です。


        彷徨と巡礼

          序


 枕する所だになかった人の子の遺鉢を受けて、私もまた、彷徨の旅に上らねばたらなかった。

 日本を、南より北へ、東より西へ、候鳥のやうに飛び廻った四年牛は、私にとって考へ深い四年半であった。これほど長く、また廣く、私は、彷徨の旅を続けるとは思はなかった。然し今は、樺太も、台湾も、満洲も、中央山脈も、瀬戸内海も、有明湾も、私にとっては、自分の書斎の抽出しのやうに、明瞭に思ひ浮かべられるやうにたった。今日となっては日本が私の衣であるやうに考へられる。その縫目、その綻、その皺、その生地、その染め方、その破れ目、その裏表――これらのすべては、生きた地理學を學び得たことによって、私には、この東洋の東端に位する列島が、恰も私の筋肉の延長であるかの如くに考へられる。

 この四年半の間、私は、日本人種を研究することに熱中した。そして、地理學に書いてない、「顔の地理學」や、「霊魂の地理學」を學び得たことを嬉しく思ってゐる。

 好きでも嫌ひでも、私は日本の人間である。日本の弱点は、私の血のうちに通ひ、その美点も私の骨組に組立てられてゐる。私は、日本を贖ふ、十字架の血の運動を継続せねばならぬ。

 そのために、日本に約束せられた可能性の世界を、予見しなければならない。日本の山と日本の平野、日本の雨と、日本の雲、その海流と気流は、日本民族を、どの程度まで決定するか? 私はそれを、長き彷徨によって精しく知ることが出来た。そしてまた、私は、日本の土地に育つ日本民族に、新しい血が、その決定を破って如何に湧上りつつあるかといふことをも、つぶさに知ることが出来た。

 私は、楽天家でもなければ、悲観論者でもない。日本が善くなるか否かは、日本民族の霊魂生活の基準によって違って来る。無限を憧憬するものが多い間は、日本は向上しよう。無限を侮辱し、絶對者を忌避する者が多ければ、地獄が、ロを大きく拡げるであらう。

 鎌倉末期に、西行は彷徨の旅に出発し、足利の初期に、能登や越前に、瞑想の道を拓ひた禅僧達は、都をあとにして、出家の道を選んだ。日本は、彷徨するものにとっては、よい國である。北米を旅し、支那大陸を漂泊した者は、大陸の彷徨に較べて、日本の彷徨がどんなに楽しいものであるかを、思ひ起すことが出来る。日本の自然は、全く絵だ。資本主義とアスファルト文明がだんだん、自然の美しさを破壊することがあっても、それは廣い日本の山の奥には、届いてゐない。いや、海洋にもその手が屈いてゐない。まだまだ、自然を愛する者にとって、日本は、その懐を閉ぢようとはしてゐない。

 春の霞と夏の雨は、適度に醜いものを蔽ぴ隠し、人間の醜悪を、自然の不思議な力で修正してくれる。また、秋の空と冬の雪は、珍しく日本に輝きを増し加え、病み疲れた彷徨者の魂を慰めるに充分である。弘仁の昔、僧空海が、四國巡礼に出たのも、偶然ではなかったらう。四國八十八ヶ所を廻らなくとも、あの不思議な地質學の模型を拡げたやうな四國の山脈を、南から北へ縦断することは地球の歴史を探る者にとって、どれだけの光栄であるか知れない。私は、阿波の吉野川の流域に育ち、日本で一番美しい、コバルトの水が湛えられてゐる四國三郎の水で、眼を洗って大きくなった。あゝ、もし、私に、都市の貧しい人々の仕事がなければ、私は、かうした無機物を相手に、一生を送るであらうに――たとひ、さうした山中の彷徨が続くにしても、私にとって、地上の一生は光栄の一生であることを告白せねばならぬ。

 然し、日本の土や石に較べて、日本の動植物は嘆いてゐる。椎も、橡も、欅も、榧も、椋も、――かつてそのうるはしい梢と新緑によって、日本の山河を賑した温帯林は、今漸くその余命を山奥と官幣大社の森に繋ぐのみである。みんな平家の落人のやうに、逃げ場を山奥に求めて隠れてしまった。然し、なほ可哀さうなのは、その森に住んでゐた日本の諸動物と、その川と湖と海に住んでゐた魚類や山椒魚である。あゝ、私は、もう一度、神武天皇東征前の日を見たい。そこは、どんなに美しい森と、どんなに美しい川によって飾られたことであらうか。想像するだに幸幅である。もしも、かうした自然が蘇生してくれるなら、私は、醜い煙突文明を喜んで棄てる。

 然し、私の巡礼は、さうした森と、山と、岸辺を探すために出発したのではなかった。私は魂の殿堂に神を尋ねるために出発したのであった。全能者が匿し給ふた、バアルに跪かざる七千人の同志を求めるために、巡礼の旅に上ったのであった。楢の木が伐倒され、椎と橡とが姿を消すセメントコンクリートの時代に。全能者に憧るる霊を一つにすることは容易な業ではない。大衆の注意力は散慢になり、けたたましい都會の雑音に、カルヴァリの丘より呼ばれた愛の啓示の聲が、全く掻き消されてしまふ。それでも私は、安價な唯物論に満足しない、永遠の思慕者を、あちらの村里に、こちらの岸辺に、発見することが出来て、どんなに力強く思ったか知れない。アブラハム一人によって、イスラエル民族が生れ出たとすれば、山蔭に隠れた永遠の思慕者七千人によって、イスラエルの更生は可能である。そして、私は、日本にまだ多くの隠れたエリヤの友人のあることを発見して喜んでゐる。
 
 平安朝の末期法然は、瀬戸内海を旅して海賊に希望を輿へ、北越の雪の旅に、親鸞は歓異の世界の開拓に出発した。どうそ人生は、母胎より火葬場までの旅である。然し私は、この短い人生彷徨に、世界最大の神秘を味ふことによって、神への報告書を完全に認めることが出来ると思ってゐる。

 一九二八年から始まった私の彷徨は、一九三二年の十二月で第一期が済んだ。然し、恐らく私は死ぬまで、かうした彷徨に、身を委ねなければたらないのであらう。労働街から農村へ、農村から労働街へ。貧民窟から震災地へ、私は、定住する處もなく、月のうちに何日かは、薬瓶と一緒に旅行を続けることであらう。どうせ人生が時間の上の彷徨であるとすれば、その上に空間の彷徨を加へることも、悪くはなからう。

 冬の真夜中、停車場の待合室で、慓えながら神を瞑想する嬉しさも、聖堂に於て礼拝をする嬉しさと較べて嬉しさに変わりはない筈だ。善き牧羊者は、九十九の羊を檻に捨てておいて、迷ふた一匹の羊のために、山河の間を彷徨すると、キリストはいったではないか。草鞋も摺り切れよ。棘も足の裏に突き立て! ナザレのイエスの血を承けた私は、人に嗤はれても、一つの迷へる霊魂のために、山を越へ、野を越へ、谷を越えて彷徨しなければならぬ運命に、みづから委ねてゐるのだ。笑ふものは笑へ! 私はバアルに跪かざる隠れたる七千人の居所をつき止めるために、草叢の下に蹲る傷付いた小羊を尋ねために、なほ人生の彷徨を続けねばならない。

   一九三三年三月十日

            賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第68回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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               第68回
    

    農村社会事業<農村更生叢書2>

       昭和8年1月25日 日本評論社 291頁

 日本評論社からの賀川の出版はどれだけあったのか確かめていませんが、同社の刊行する今回の<農村更生叢書>の第一期24巻のうちこれは第2巻として出版されています。



        農村社会事業
          序

 農村の窮乏を救ふ道はないか? 私がこの問題を考へてからもう十数年になる。最初神戸の貧民窟で、日本農民組合の組織運動を始めてから十一年になる。そして私はその間にいろんな苦い経験を嘗めつつ、初めから私の考へてゐたことが間違ってゐなかったことを
今も考へてゐる。

 然らば、その農村救済の根本精神は何であるか、曰く三つの愛である。土への愛、隣人への愛、神への愛である。然るに、近代人は土への愛を離れて、金銭への愛に走り、隣人への愛を離れて憎悪の福音を播く。なほ甚だしきは唯物主義が最後の勝利であり、生命の神秘について何等顧慮することなく、武力と暴力のみによって農村改造が出来、人間の意識的自覚を持たずして、農村改造が出来ると思ってゐる人々さへあることである。

 私は、これら凡ての低迷の世界から切り放されて静かに日本の農村の淪落して行く壮態を眺め協同組合組繊による農村運動のほか村を救ふべき道のないことを考へてゐる。この協同組合は押し広めて社会事業にも適用することが出来る。社会事業は、今や慈善事業の領域から脱して、協同組合の基礎を持たなければならぬことになってゐる。私はかうした立場を農村に応用して、絶大なる効果のあることを見たものだから、その立場から新しき農村社会事業の行くべき道を書いた。

 この書は過去六年間、私達の小さい農民福音学校で、農村の青年達に聞いてもらった材料を基礎にして綴ったものである。この書を編輯するにあたり、吉本健子姉、鑓田研一氏などの多大の援助を受けたことを感謝する。吉本健子姉は私の述べたことを一々筆記せら
れ、鑓田研一氏はその文体を一々校正してくれられた。二氏の援助なくしてこの書は出来上らなかった。然しその他に各方面から材料を提供せられた人々に対しても心より感謝するものである。私はこの書が、日本の村々の多くの青年達に読まれ、農村更生の少しの御
用にでも立てば、それより以上幸ひなことはないと思ってゐる。

  一九三二・一二・二〇
    
          賀 川 豊 彦
        
               武蔵野にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第67回)

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「須磨・鉢伏山ぶらり」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第67回
    

    神に跪く―その日その日の祈

        昭和7年12月12日 日曜世界社 326頁

 手元にある本書『神に跪く―その日その日の祈』は、昭和10年に刊行されて再版です。日曜世界社では既にここで取り出した賀川豊彦の『神と歩む一日』を出版して、このときそれの「好評第5版」の広告が巻末に収められています。いずれも365日分の構成で仕上げられています。

 早速ここでは「序」並びに「例言」を収めて置きます。


 
        神に跪く
         序

 手にて造らざる大自然の神殿には、神の不思議な光が漂ふてゐる。凡ゆる物質は神殿の幔幕の模様である。私はこのうるはしい幔幕の模様をみつめながら、不可思議なる恩寵の聖座の前に脆く。

 歴史は間断なく進み、社会の動揺は、人間の喜憂を通じて流れてゆく。そのいたましい歴史の中にも、私は神の不思議な黙示を拝することが出来る。

 あゝ、そして私は、それよりも更に尊い黙示を、神の神聖なる救の記録である聖書の中に拝することが出来る。イスラエル民族の経験は、神が地球の一局部で為し続け給ふた一細事ではない。殊に、イエス・キリストを通して示し給ふた愛の記録は、人間の勝手な仕業ではない。人間の命が勝手に作り出したものでない如く、キリストの愛も、神の大きな黙示である。

 かうして、私は、大自然の聖殿に、歴史を通しての秘曲に、更にキリストの愛に疑ふべからざる神の約束を信じ、神に跪く瞬間が決して無効でない事を深く學び得た。病む日、悩む日、貧乏に苦しむ日、私は静かに神に跪くことをいつとはなしに教へられた。労働争議の激動の中に、小作争議の雄叫びを越えて、私は神に跪く瞬間を盗んだ。曙に、黄昏に、真夜中に、さらばまた真昼に、私は宇宙の創造者、私を放し給はざる天の慰め主に、ひそかに私語する秘密を學び得た。流れ行く激しき過労の生活にも、祈祷の思念は連続する。

 労働と祈りとは、私にとって二つではない。祈りつつ労作し、労作してはまた神を見上ける。祈りは私にとっては金城鐡壁の隠家であり、勝利の高殿である。その勝利の高殿が、低迷の罪の子等をさし招く。曙の空を揺がせて明日の祈りを報する鐘が鳴る。

 友よ、床を抜け出て神の前に跪かうではないか! 夕静かに薄れゆく夕陽を西にみつめる時、祈りの鐘が聞える。田園に、工場に、店頭に働く人々も鍬とハンマーと算盤を捨て、神の御前に脆くがよい。こみ上けてくる感激の泉は、貴き聖座の前に懺悔と感謝の祈りとなって注ぎ出される。病床に悩む日、獄房に泣く日、祈りの聖座には、神もまた御顔を向け給ふ。

 あゝ、物質の凡ゆるものが神の神秘として、私に跪座を勧める。私はあらゆる瞬間に、神の乳房に吸付く心持で、聖座に跳くことを無上の光栄と考へてゐる。祈りは、天の父に献けられる最上の燻香である。あがれよ、祈りの燻香よ! そして輝かしき宇宙の幔幕の蔭に、栄光のうるはしき香をたでるがよい。

   一九三二、一〇、二一

           賀 川 豊 彦
           
             武蔵野の森蔭にて



          例言

 この書は、過去約十余年間の私の祈りを、黒田四郎氏、吉本健子姉等が親切にも一々筆記して置かれたものを、二氏の手によって編輯せられたものである。それで殆んど凡てが公の機會に祈られたものである。わざわざ書いた祈りは、この中の数編しかない。愛する同志達が、キリストが教えられた通り無理のない祈りをこの上に加へられて、赤ん坊が、自由な気持で母に接近してゐるやうに、自由な気持で神に祈って頂きたい。

 私はこの祈り書物が前に出版した「神との對座」といふ祈りの書物にない新しいものばかりであることを喜んでゐる。

 この書が出版されるに当たって私は特にこれを筆記し、これを編輯せられた黒田四郎氏と吉本健子姉に感謝の意を表する。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第66回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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               第66回
    

   宗教芸術にもとづく宗教教育(中村獅雄と共著)

    6分冊:昭和7年10月25日(1)~昭和9年2月10日(6) 

        基督教出版社 6分冊計 174頁

 手元にある『宗教芸術にもとづく宗教教育』は、標記の6分冊です。
 昭和8年2月3月号の『雲の柱』の「武蔵野より」には「芸術を通しての宗教教育は、中村獅雄君と共同作業で日曜学校協会から今発表している。あれも将来教材化したいと祈っている」と記し、同年6月号の同誌でも「・・私は、軽井沢で幼稚園の保母さんに、自然教案の講習をしたいと思っている。8,9年ほど前に「魂の彫刻」を書いたが、その各分科を具体化して、芸術教案を中村獅雄氏と二人で書き、今、私は、自然教案をひとりで作っているのである。出来れば、松沢幼稚園の傍に、子供博物館を造りたいと思っている。私は、子供に教える前に、自分が学びたいと思うことの方が多い。それで、野の雑草、道端の小石、林の木、昆虫、星などについていつも子供のようになって勉強している」などと記しています。

 なお、この6分冊の共著は、昭和9年7月には、日本日曜学校協会編纂として『宗教芸術にもとづく宗教教育<基督教宗教教育講座>』が出版されています。

「序」はありませんので、冒頭の「第一章 宗教教育と宗教芸術の関係」のみを取り出して置きます。



      宗教芸術にもとづく宗教教育

    第一章 宗教々育と宗教芸術の関係

 宗教は常に二方面を持ってゐる。即ち神より人間に向ふ方面と、人間より神に向ふ方面とである。私がここで考へたい問題は、神より人間に向ふ方面が、美を通してどんなに表れ、また人間より神に向ふ方面が、美とどんな関係があるかといふことである。

 十九世紀の疑惑時代にさへ、ノヴアリスやシラーのやうなローマンチストは、理性を超越した美の方面から宗教に入らうとした。これは紀元二世紀頃のノスチツク時代に於ても同じ傾向が見える。日本に於るスペンサーやダーヴヰンの時代に、高山樗牛や姉崎嘲風が美的宗教を高調したのも、同じ傾向であるといへる。美のみから宗教に入ることは如何にも弱いことである。あるものは美のほかに宗教が認識出来ないやうに考へるものさへある。それは大きな誤謬であって、我々はカントのやうに、理性そのものに悲観はしない。然しカントが有限の世界の理性にのみ頼らないで、感情と意志の世界に、宗教生活の基礎を置かうとしたことは、必ずしも間違ったことではない。

 人間が無限と自在性の実在に憧れて行くとき、それは一つの生命の欲求として、たとひ理性が、物質の彼岸に理想の世界をよく発見しない時でも、生命の内に秘められた感情と意志はたかく理性のいふことを聞かない。それは生命の方が理性より長い経験を持ってゐるためでもあり、またより内なるものを持ってゐるためでもある。人間が今日のやうな感情を持つやうになったのは、理性を持つやうになった年代に較べて、遥かに長い。それで感情のうちに我々は生命力のある根強いものを発見する。そして我々はこの生命のは唯単に抽象的な概念ではなく、生き且生き給ふ神である。

 そこで理性は時によって疑惑的になっても、生命が爆発してゐる感情の世界に於て、我々は神を否定することは出来ない。殊に美の世界に於て、我々は理性ではわからない紳秘な宇宙目的の世界にぶつかる。確かに神は、宇宙に意匠を持ち、目的を持ち給ふことを美の世界に於て啓示されるのである。

 つまり美の世界に於ては、神と人間とが、一つの穴を両方から覗いてゐるのである。神はここに於て宇宙の完全なる姿を人間に見せ給ひ、人間はこの点に於て、神の完全なる恩寵に浴ずることが出来るのである。

 かく簡単に片付けてしまへば何でもないやうだが、我々が今までいってきたことを五つに分解することが出来る。

 (一)美の世界を通しての神の認識
 (二)理性を超越した美的目的世界の認識
 (三)理性と融和したる神秘的美的生活実現の可能性
 (四)宗教感情の芸術的方面の必要
 (五)宗教々育を宗教芸術的基礎に置く必要

  
      美による神の認識


 無神論者唯物論者は、字宙に於る目的の世界を否定せんとする。然し、内部的生命が既に実在である以上、生命が持ってゐる美の世界を否定することは出来ない。物的世界に於て目的の実在が否定されても、宇宙が包含する生命の世界に於て、美といふ目的の世界を否定することが出来ない。雲に包まれた富士山が全部見えなくとも、雲の上に少し頂上が見えれば、富士全体の山の実在を否定することは出来ない。それと同様に、生命の世界に示現する美的感受の実在そのものが、宇宙の根本実在にとっては一つの頂点であると考へることが出来る。その完全な美しい姿に、我々は他の凡てが雲に蔽はれて見えなくとも、神の実在とその完全さを認識する事が出来るのである。


     美と意匠の世界


 我々は生命の世界に内在的美の感覚が伏在するのみならす、また客観的にも――物質の世界にも美的宇宙の存在することを否定することは出来ない。たしかに萬物の凡てが美しいのではない。然し、醜いと見えるものが、ある角度を変へて見た場合、またある場所に於て見た場合、ある時間に於て見た場合、非常に美しくなることを我々は屡々経験する。そして単に無意味な世界であると考へた場合に、美しさが包蔵されてゐることを知って、我々は、生命の世界に於て、美といふ頂点を通して神を認識するばかりでなく、物質的自然的世界の美の存在によって、宇宙に美が偏在してゐることを発見するのである。即ち我々は、生命の世界のほかにも、雲を通し霧を通し、美的意匠の輪廓を窺ふことが出来るのである。然し理屈で、なぜ花が美しいか、なぜ木の葉が美しいか、それは解らない。然し兎に角花も美しければ、葉も、茎も、鳥も、みな美しいのである。それで我々はヴェールを蔽はれた神の面影を拝することが出来るのである。


    神秘的美的生活の可能性


 その上に我々は、日常の人間生活に、芸術的神秘を通して、神秘的な人生を実現することを、今日では科學的に知るやうになった。色彩の科學、音響の科學、リズムの科學によって、我々は目的の世界と調和した宇宙を、人間の努力によって実現し得ることを學び得たのである。即ち美の世界は、静的であるばかりでなしに、動的であることを我々は知り得た。即ち我々は、美の世界を通して神を認識するばかりでなく、美を実現することによって、より深く神の紳秘の奥殿に入って行かねばならぬことを學ぶのである。


    宗教感情の芸術化の必要              

 美が一つの可能性を持つ以上、我々は人生を芸術化し、その芸術化を、人生に於て最も本然的な宗教感情の上に現し、いつまでも神の不思議な意匠の世界から、自ら遠ざからないやうに努力しなければならぬことを學ぶのである。宗教生活がいつとはなしに美的になるのは全くこのためである。


    宗教芸術にもとづく宗教々育の可能性


 かうした宗教感情を美化し、芸術家する必要上、宗教々育と宗教芸術の教育が、同じ軌道の上にあることは決して不思議なことではない。宗致は人間から神へ向って進む時に、一つの価値運動の形式をとる。教育も價値運動なら芸術も價値運動である。たゞ芸術が情緒の美的教育を基礎にするに反して、教育は全体的である。即ち人格全般の発展を経済的に(最少のエネルギーを使って最大の効果を収めんと努力している)價値を実現する處に、教育が一つの人生芸術であることにも我々は気付かねばならぬ。

 かういふと、宗教々育そのものが、完全な一つの宗教芸術であるともいへる。其の宗教芸術は、人間そのものを神の子の美しさに入れることである。宗教々育もそれを目的にしてゐるのであるから、そこに宗教々育と宗教芸術の目的が一致する。もしも強いてその差を求ぬるなら、宗教芸術は宗教感情の中の芸術的情緒そのものを引張り出そうとする部分的なものであり、宗教々育はたゞ芸術的情緒のみに限らす、理性も意志をも、絶對者の啓示に触れしめようとしてゐる處に全般的な努力がある。


    宗教芸術の特異性


 宗教芸術は、単なる物的客観芸術をも含んでゐるが、生命そのものの情緒に関連することが多い。それで、詩、音楽、踊、劇曲、絵画、彫刻、建築、小説等の芸術の中でも、宗教芸術として最も発達したものは、詩であり音楽であり、舞踏である。それがキリスト教のやうな人格宗教に於ては、一層時間的芸術即ち、より心霊的な詩や音楽が発達し、佛教のやうに偶像を許容するものは、彫刻や絵画の方面にも著しい発達の跡とを見ることが出来る。これはギリシヤ宗教に於ても同様である。それで私はまづ宗教芸術の事実そのものをよく調べて、それがどんな形で宗教教育に提供し得るかを研究したいと思ふ。宗教芸術の世界に於て、世界に神の愛を教へたキリスト教芸術は、心霊の芸術としては世界無比、驚くべきものを我々に與へた。それを私は概観的に調べてみよう。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第65回)

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               第65回
    

    神と苦難の克服

       昭和7年10月21日 実業之日本社 362頁

 賀川豊彦が実業之日本社で著書を刊行したのは本書『神と苦難の克服』が最初です。昭和7年10月に初版ができていますが、手元のものは昭和12年4月の第10版です。

 ここでは「序」並びに第1章の「苦杯を前にして」の冒頭「悲しい時はどうするか?」を取り出してみます。
 なお長くなりますが、ここで重要な『尽きざる油壷』の「序」を最後に収めます。



      神と苦難の克服

         序

 熱帯の常夏は、人間を麻庫せしめる。私は赤道直下を旅行した時、衣食住に欠乏しない熱帯に住むより、寒温の差の激しい温帯に住みたいと思った。変化は喜の一つである。然し、その変化に、苦楽の落差があるとき、人々は驚嘆し、悲嘆する。然しこれもまた、大きな変化の交響楽であると思へば、我々の耐へ得る処には苦痛もまだ、一つの試錬の砥石と変る。

 ドイツの哲学者オイケンがいったやうに、人は苦痛の原理を知らないけれども、宗教によって苦痛を征服する力を持ってゐる、と理解することが出来たとすれば、我々は何の臆する処もなく、苦痛に向って挑戦し、苦痛を享楽することが出来るやうになる。十字架の真理はそこにある。

 苦痛の子として憂鬱の東洋に生れた私は、十字架の真理に、苦難を克服する秘訣を学び得た。神に生きるものには、自己のためまた人のためにも負はねばならぬ苦痛さへも、神秘なる戯曲の一節であつて、それによって私は、宇宙全休の不思議な摂理を疑ふことは出来ない。

 私は関東大震災以後、機会ある度毎に多くの日本の庶民階級の人々に、この真理について物語ってきた。今ここに、それを一纏めにして、行詰った農村に、都会に、家庭に、街頭に――苦難に打勝つべき宗数的真理を再考してもらふことにした。

 この書を読んで、なほ個人的に、煩問と苦痛を訴へられる方々は、喜んで相談にのりたいと私は思ってゐる。それで遠慮しないで手紙を送られるなら、少し遅れても必ず返事を書くつもりでゐる。

 今は日本の建直しの時である。臆病や逡巡は無用である。苦難を前にして怯まず、宇宙に溢れる霊気を渾身に覚えて、新しく精進すべき時である。朝日は昇る! いざ黎明とともに人生の門出に急がうではないか!

   一九三二・九・一八  

            賀 川 豊 彦

               武蔵野にて




    神と苦難の克服

    一 苦杯を前にして

      悲しい時はどうするか
 
      悲しみの原因

 一年の中には春もあれば秋もあり、夏もあれば冬もある。一日の中には晴れもあれば曇りもある如く、人生には嬉しい事もあれば、悲しい事もある。苦しい事と悲しい事は人生につきものと云はねばならぬ。いつも嬉しいものならば問題はない。

 私は何故『悲しい時はどうするか』といふ題をとったか? 吾々は悲しい時はすぐに調子を失ってしまって、取りかへしのつかない様になってしまふ事が多いので、それらについて話してみようと思ふからであふ。

 では悲しい時にはどうすればよいか。
 第一に心理的に考へねばならぬ。若い者には悲しい事が多い。米国の心理学者スタンレーホール氏は青年達の内六割五分位の青年はいつも悲しんでゐる、その内でも女子より男子の方が多いと言って居る。これは私も経験する所である。その理由は、青年達は高い理
想を持ってゐるのに、現実は理想といつもかけはなれてゐるからである。

 第二には生活難である。境遇とか家庭の事情のために苦しむ者が多い。立派な処に勤めて居られる人々でも、境遇とか家庭の事情のために苦しむであらう。この悲しみも亦男子の方に多い。それは自殺者を見ればわかる。自殺者の中には若い青年が多い。此の比例は
男子が十人ならば女子は七人である。理想と現実とかあまりに距離があるために、辛抱が出来ないで自殺するのである。女子には忍耐があるけれども、男子は女子に比べて忍耐が少ない。これらの理由のために、「悲しい時はどうするか」といふ題を選んだわけである。

 或人は、悲しみがあまりに大きかったり、あるひは大きな悲しみに遭遇したりすると、『つまらないから一杯飲まう』などと、酒を飲んで、苦しい事、悲しい事をまぎらさうとする。それは実につまらないことである。私はさういった人々に対してお話したい。

 人口の多い町程自殺者が多い。八百万の人口を有してゐるニューヨークが世界中最も自殺者が多いのである。マンハッタンといふ所では、人口の増加する率の殆んど十倍自殺者が増してゐる。此の街は細長い岬のやうな処で、東に川が流れて居り、幅八丁、長さ二百
五十丁もある町である。人口二百五十万を有し、今住んでゐる以上は人が住めないのに、それを無理に住むものだから、高い高い塔のやうな建物を造る。近時では塔と塔との間に橋を造ってその中に住むといふ有様である。所謂蜘蛛の巣文明である。この蜘蛛の巣文明
のために、却って悲しみが多くなって来る。人口が増加するに連れて自殺者が多いのはその理由である。原因としては神経衰弱が一番多い。日本でも最近は年々一万五千人の自殺者がおり、その六割までは十五歳から三十歳までの青年である。この事実が私をして[悲
しい時はどうするか」を話させる理由でみる。
 ではどうすればよいか? 私は悲しい時にする工夫の結論をさきに述べる。

   時を待て

 悲しい時には次の二つの事をすればよい。
 第一には待つ事であり、第二には信ずる事である。待つといふのは時を待つ事である。「待てば海路の日和」と云ふ。まだ全部を見なければ意味を知る事の出来ない活動写真のフイルムの如く、人生に於ても全部を見なければ解らない。即ち待つ事が肝要である。毎日勤めて居る間には、時には上役の人から叱られる事があるであらう。その時には誰でも悲観するけれどご「あゝ、つまらない」などと悲観しないで、叱られたのは活動写真の第一巻の終りのやうなものだと思って、終りまで待つ事である。二巻目になれば、だんだんと出世する事は確である。かういふ気持で待つといふことである。一体、日本の青年は短気である。悲しいとすぐにつまらない気を起してしまふ。私は大勢の青年と共にくらしてゐるが、常に『待ちなさい、待ちなさい』と言ってゐる。読書にしても、五百頁も一千頁も
一度に読んでしまはうといふ気持でやるから失敗が多い。一頁一頁ゆっくり読まなくてはいけない。一度に読まうとするから失敗する。

 総ての植物にも動物にも発展の順序かある如く、総て出世には順序がある。それを開序といふ。朝顔の蔓でも急には伸びない。少しづつ竹のまにりをぐるぐまひをして延びて行く。かういったやうに順序をふまなければ延びないと同じで、我々は順序を踏まなければ失敗する。富士登山の場合でも、同じ事である。富士山は一万二千三百六十五尺、真直に登れば、三十丁しかない。然し真直に登れるものではない。斜面を利用しなくては登れない。私も前に富士登山をした事かある。四合目位までは道を踏まずにどんどん強力より先に登ることが出来たが、五合目頃から苦しくなる。強力は後から足駄をはいてゆっくり登って来る。だんだん上になるに従って強力の方が先に行ってしまって、自分だけ取り残されてしまふ。道を歩まなくては登れるものではない。「道」を歩く方が、結局「徳」だといふことになる。それを「道徳」といふ。

 人生に於ても順序を踏んで出世しなければならない。順序を踏まないで力自慢で行くと、失敗する。天才肌の者は一息にやらうとするから度々失敗する。力自慢で行くならば、花火のやうなもので、その響きは大きいが落ちるのもごく早い。種子を蒔いたものは、時
が来なければ、稔るものではないといふ事を知らねばならない。

    信仰の力

 第二には信ずる事である。信仰とは、人生に於る可能性を信ずることである。即ち、もう一度悲しいことを見直し、悲しみを通して新しいことが生れること、悲しみを通して反省すること、悲しみを通して人を助けること、その可能性を信ずることを信仰といふので
ある。これを考へる前に、吾々は、信ずる時の態度を考へる必要がある。吾々は悲しい時に自分達の立場を考へなければならない。貧乏して悲しいのか、病気のために悲しいのか、無学のために悲しいのか、或は叉ある力の不足のために悲しいのか、失敗のために悲しんでゐるのか、其立場を考へて悲しみの相場をつけなければならない。つまらない事で悲観してはいけない。人間は狭い所に住んでゐる。前にばかり目がついてゐるから、自分で自分の後方がわからない。自分の立場をよく考へ理解して、ある異なった角度から考へる事が必要である。大阪の三越呉服店を見る時も、堺筋から見るのと、高麗橋筋から見るのとは、角度が違ふから、その見る感じも異なってくる。これを称して価値の測定といふ。第一、貧乏を我々はどう考へるか? 吾々は貧乏を悲観する。どうして悲観するのだらう。金持だったら悲観しないのか? 金持だったら何をするか? 遊んでゐるのか? 遊んでどうする? 夏は水泳、冬はスキーに出かける。では遊んでゐるのが楽な事かと云へば、決してさうではない。苦しいのである。働いてゐる方が却って愉快なのである。

 人生は工夫である。好きなものならば労働でも何でも悲しい事はない。貧乏でも、好きで貧乏してゐるのは、いやいやに貧乏してゐるのとは感じが大いに違ふものである。生れた時は誰でも貧乏である。裸体で生れて裸体で死ぬ。金持でも金を持って死ねるわけでは
ない。金銭について悲しむ事は何を意味するか? 金だけを考へることは最も卑しむべき事である。金は社会公共の事業に使へばそれでよい。望んで貧乏した方がどの位よいかわからない。望んだ貧乏はずゐ分楽しいものである。それは心の工夫である。金持は嬉しいかといふにやはり悲しいものである。金だけが人生ではない、人生は別にある。心が愉快でない人、心に工夫のない人は、幾ら金があっても愉快に暮す事は出来ない。金があっても愉快でない人を金持貧乏といひ、貧乏してゐても愉快に暮す事の出来る人を、貿乏金持と云ふ。総ては気持次第である。即ち心の工夫である。心の工夫をしない人には、悲しみは絶対的であり、それから永久に救はれる事は出来ない。

 日本は今前例のないほど不景気である。多くの商店にも、不景気は随分影響してゐる。けれども、我々の一人一人が心の工夫をするならば、この難局は決して打破出来ないものではない。
 私の住所は神戸新川の長屋街におった。十軒づつ二列並んでゐる中の北側の東から四軒目であった。其処に十四年間住んだ。この長屋の生活は実に愉快であった。九尺二間で隣室を職工さんに貸してゐたが、その職工さんは三畳に六人住んでゐた。私の家では、王様
と家来が同じ人間である。『電報!』と来ても、寝てゐて手を伸ばせば、窓から受け取ることが出来る。配達入を御殿の給仕のつもりで受取るのである。この気持で居れば天下泰平である。隣家には芸者上りのおかみさんがゐた。なかなか親切な人で、私か寝てゐると、粥をたいて、『賀川さん、お粥をお上りなさい』と持ってくる。男爵住友吉左衛門氏の隣のおかみさんが粥をたいて『右左衛門さん、粥をお上りなさい』と持って行くだらうか? 近所同志が近くて親しめるのは、貧乏のお蔭である。私はそれを享楽する。維摩経に、かたつむりの家の中には干畳敷の広さがあるとある。物は思ひ様である。室内旅行といふものがある。部屋の四つの隅を、仮に、自分の旅行したいと思ふ所、例へば、別府、日光、軽井沢、箱根としておいて、隅から隅へ次々に歩いて廻るのである。その歩き廻る事によって、別府といふ隅に行けば、入浴の気分にもなり、軽井沢といふ隅に行けば、避暑といふ気分にもなることが出来る。これを室内旅行といふ。

    人生の見方

 京都に智恩院といふ寺がある。智恩院の庭は狭いけれど非常に有名である。私も行って見た。そして非常に落胆した。竹垣があって小松が五六本あるばかりである。何処が有名なのかわからない。ところが、案内者が、竹垣の向ふを見よと云ふから限のつけ所を変へ
て見ると、山の緑や、清水寺の五重の塔、杉の木立等が視界にはいる。それが非常に景色がよい。それで有名なのださうである。自分の庭は狭くとも、人の庭が広くて景色がよいから、それで有名であることがわかった。これが貧乏人の工夫の一つである。

 我々も、大きなデパートメントーストーアは俺のものだと思へば、人のものでも気持が好くなるに違ひない。持ってゐる、持ってゐないの考へ方をすてて『総てのもの我々に働きて益をなす』と思へば愉快になる。ある目的があって貧乏することは、悲しい事ではない。仕事があって貧乏する事は愉快である。目的があれば道が開かれる。だから貧乏に対して判然たる態度を取らねばならない。

 支那の西太后は非常に気のきい七人であった。御殿の部屋の飾を皆取りのけてしまってテーブルとばらの花とを置いてゐた。その質素な部尾の中に、綺麗なばらの花があると、それが非常に美しく見える。西太后はさういふ賢さを待った人であった。そこに気のつかない人々は何でも彼でも持ちたがる。吾々は目的をきめて質素にしなければならない。
 俳句は十七文字で総ての意味を現してゐる。私が曾て米国にゐた当時、米国人から東洋精神について尋ねられた事があった。その時私は俳句のやうなものだと答へた。俳句とは何だと訊くから、『古池や蛙飛び込む水の音』のやうに、十七シラブルで出来た歌だと云
った。然し勿論彼等には解る筈がないから、これを訳して言ったが、それでもわかる筈がない。然し我々日本人はその意味を通じて十分目的を知る事が出来る。

 人生の意味の発見出来ない人に金を持たしても、人生の意味を発見しないで死んでしまふであらう。貧乏なサラリーマンでも、意味がわかれば非常に豊かなのである。

 俳人一茶が前川侯に高禄をもって抱へられやうとした侍、『何のその百万石は笹の露』と歌った。その気持ちで人生を送れば、千万長者より豊であり愉快である。

 百万円持って、二百万円の仕事をして、百万円足りないで暮すよりも、五十円でも、一円をのこして四十九円で満足して暮す方がどれだけ豊であり愉快であるか解らない。

 哲人パウロは『足る事を知るは大いなる利なり』と云った。実に然りである。胃袋も同じことである。胃袋は最もデモクラシーである。誰の胃袋でも八分目位しか食ふ事は出来ない。百八十億円持ってゐる米国のロツクフェラーでもさう多く食ふ事は出来ない。食ふのは大抵みんな同し位である。

    病気は気から

 次は病気の問題である。健康者ほど病気を悲観する。日本では年年七万九千人が肺病で死ぬ。日本には現在八十万人の肺病患者がゐるが、病気が治らないと思ふと悲しい。然し治ると考へれば悲しくはない。病気は心で治るといふことを考へなければならない。肺病
になると治らないと悲観するものが多いのは誠に遺憾である。「死線を越えて」には私か肺病の保養中に言いたもので、肺病だからといって治らない事はない。現在私はその肺病が治った。病気以上に神経を病むから治らないのである。病気よりも神経を治す方が先決問
題である。雑誌「改造」の元編輯長横関愛造氏は安静主義を取って、病気の時は静かに床に寝て居たが、寝て居ると悲しい事が多いので、病気は神経より起るものであると思ひ、気分を治すに如くはなしと思ひついて、病床からはね起きて銀座を散歩した。それで病気
は快くなって、氏は今でも一日一度は銀座を散歩するさうである。我々の内にも病気のために苦しむ者があらうが、大部分は「気分」で病気にしてしまふのである。今までは薬を飲まねばならないとなって居たが、その外に自然療法が必要である。例へば、吹雪の夜でも窓を閉めないで寝る。身体だけは十分温めてゐるが、肺に入る空気は外の零下何度といふ空気を吸ふ。これを自然療法といふ。この療法で十中八九までは治る。私は日本の病院に入院して何所でも部屋に入らなかった。自然抵抗の意味に於て入らないので、飯の時だけ部屋にはいるやうにして居た。

 食物にしても同じ事である。肉は食へば食ふほど滋養になるけれども、肉ばかりでは、ためにならないのみならず、却って害があり、香物、野菜等の方が腹のために好いことがある。
 自分等の無学も亦同じ事である。決して無学を気に病んではいけない。電気を発明したのはトーマス・エヂソソ氏である。彼は尋常一年の時落第した。母は彼を家へ連れ帰り、駅の切符切りにした。駅の助役が化学の実験をしてゐるのをみて、彼は電気を発明するに至ったのである。彼は又蓄音器、フイルム等の発明、世界の大発明の内約八百種の発明をしてゐる。駅の一切符きりに過ぎなかった彼が、かくの如き大偉人となったのである。無学は決して悲しいものではない。「智」は世の中の如何なるものでも持ってゐる。順序立てて研究するならば、五年十年の後にはきっと一人前の人間として世に立つ事か出来るものである。トーマス・カーライルは『ある目的をきめて一日に五分づつ十年やれば、世界的偉人になることが出来る』と云ってゐる。何でもない事ではあるが、それを実行しないからいけないのである。信州諏訪の中学の先生が、太陽の黒点を毎日五分間づつ五年間続けて見た。世界の誰でも太陽を見ない人はないが、五分間づつ目的を以て見た人はない。その研究の結果を持って山本理学博士は汎太平洋学術会議に提出した。その結果これが世界的の研究とせられたのであった。又大阪道修町の薬屋の番頭大賀氏は、十年間ダソテについて研究した。その結果、ダンテについて彼程よく知ってゐるものはない様になった。トーマス・カ―ライルの言った言葉は実に然りである。それは、我々が一日に五分間づつ目的を以て考へるならば、如何なる事でも出来ないことはない事を裏書する。

失敗に対しては責任を負はなければならない。失敗してももう駄目だと悲観しないで、『望がある、自分に望がなくとも、天地の間には不思議な――何と云ふ名か知らないが――力があって、自分を聖め、力づけてくれるものがあるから、宇宙に自分の不足を償って貰はう』といふ信仰が出来さへすれば、失敗は大きな激励となる。私は信仰をもって悲しみを打破せよ、といふ。信仰がなければ多くの人はひるむものである。『自分以上の力が宇宙にある』といふ事を信じて進むならば、悲しみは喜びとなる。聖書に『悲しむ者は幸なり、その人は慰めを得べければなり』とある。

    悲哀の快感

 或は又父に別れ、妻子に死別して、悲観の結果自殺する者かおることをしばしば聞く。もしそのやうな悲しみに遭遇したならば、『人生は狭い自分だけではない、自分より広い大きなものが自分を引きあげてくれる』といふ信仰を発見しなければならない。

 死は悲しいものかもしれない。けれども、もし死後の事を悲観するならば、生れない前の事も悲観しなければならないわけである。元来吾々は天地万物の不思議な力によって五十年の生を与へられた。その僅な五十年の生はスクリーンと同じ事であるを思はねばならない。決して悲観するものではない。死は自然の法則である。
 鉄は熱してゐる中に鍛へ上げられる。悲観も錬鉄と同じことで、悲観あるが故に人は鍛へ上げられるものと考へなければならない。悲しい時でも、信仰といふ槌をもって居さへすれば、総ての悲しみ――無学、不景気、貧乏――も総てその人を鍛へ上げるものである。悲しみは一つの鉄槌である。その鉄槌によって自分が鍛へ上げられるものと思へば、悲しい時、淋しい時にもきっと打ち克つことが出来る。

 イエス・キリストの十字架とは、人の悲しみをも自分が引受けて進むという意味である。悲しみを引受けて、喜んで突進する意味である。或目的で他人の悲しみをひきうけることは悲しくはない。却って愉快なのである。我々が、悲しい芝居を見て、涙を流して泣いて
も、我々は愉快である。泣いてゐても『好い芝居だ』と嘆賞するであらう。何となれば、悲しむ目的を持って悲しい芝居を見に行ったからである。その涙は愉快な涙である。キリストは人の悲しみを目的の一つに選んだ。これを悲哀の快感といふ。即ち進んで悲しみに
入り、人の苦しみ悲しみを取る事がキリストの精神であった。

 この精神を互ひに持ち合ふならば、非常に愉快である。友人の悲しみ苦しみを引き受け合ひ、上の人は下の者のために尽し、下の者は上の人のために労を取り、互に悲しみを引き受け合ふならば、悲哀を通じて一つの霊となる。これが家に入れば一家和合となり、国
に入れば発展の原因となるのである。『悲しみに負けるな。非ししみを貫いて進め。ひるむな、突進せよ』かういふ元気と信仰を持って進みたいものである。



 付録
       尽きざる油壷 

         序


 悲しむ者、女よ神のために苦しむ者にとって行詰りはない。

 さういったエリシャは、シュナムの貧しき予言者の妻に、油壷を借り集めることを命じた。そして、その借り集められた油壷の中に、ゆふべ、瓦器けの底に、僅か残された漁の数滴を注いだ。

 おお、湧く! 湧く! かり集められた空っぽの油壷の中で、口にまで溢れる美しい油が湧く。それは貧しい寡婦の驚きを越えて、愚にもつかぬ過去一切の労苦を反古にし、油が溢れる。

 そして、この貧しい寡婦にも等しい経験を、私は毎日毎月繰返してゐる。さうだ、シュナムの貧乏女の油壷の見るやうな経験を、私は過去数年来繰返した。それを恩寵といはうか、荒野のマナといはうか、人間の想像以上に、不思議に尽きざる生命の清水が、滾々として、深まった油壷の底に湧いてくるのを、私は見つけてゐる。それを疑ふ余地は、私には少しもない。

 エリシャに付き纏ふ神の力が、貪しき者への祈となって溢れ出づるやうに、飛行機文明の新しい時代にも、神への精進者には、不思議に油壷が付いてまわる。それはあり余った人の貸してくれる凡ての甕に溢れ満つる。

 私は見た、紫色に透きとほった、どろどろした橄欖油が、音を立てて茶褐の甕の底から盛上ってくるではないか。何といふかぐはしい匂ひだらう。白い泡が表面に浮上ってくる。何の仕掛もない、何の胡魔化しもないに、まがひもない純粋の油が、噴水のやうに溢れ出るではないか。

 私にとって凡ては神の油壷である。生命も、智慧も、愛の生活も 記憶力も、聯想も、凡てが借り集められた油壷に等しい。その借り物の器具に、神は私にと新しい油を盛って下さる。私の過去一切の負債も、私の怠惰も、私の魂の甕のかけらさへも無視して、神の油は溢れる。それは土の器であるけれども、恩寵に於て変りない。

 太陽は油を注がずして燃え出で、星は仕掛なくして万空に輝く。そして不思議な私の魂は、私の理解し得ざる不思議な奇蹟によって、不可解の謎の如く、私の顔を見つめる。一つの扉を開けば、なほ一つの扉が残り、その奥の扉をひらけば、また他の扉にぶつかる。ああ神の神秘は深い。生命の尽きざる油壷は無窮の神秘を包蔵して、永遠の戯曲を私の前に展開する。不滅の愛の織物は真の横糸によって綴られ、生命の彫像は、神妙な物質の衣を着せられて、無窮の恩寵に歓喜する。神への祈に、その日の経つのを忘れるのは、ひとりエリシャだけではない。千差万別の木の葉の美しさに魅入られた我々も、神秘なる神の恩寵に、地球そのものが大きな尽きざる油壷そのものであることを意識せざるを得ない。手品師が不思議な物を取り出す二重底の神秘より、丸いこの不思議な直径八干哩の地球と云ふ土器ほど不思議な見世物はない。

 すべてが、尽きざる油壷である。私のこの五尺の体、生ける土の器、それがまた一つの尽きざる油壷ではないか。滾々として尽きざる生命の水は、シュナムの油壷に比べて、より不思議でないことはない。ただもう私は茫然として、大能の父が天地の上に為し給ふ業を讃美して、闇に、白日に、神の前に跪座して、侭きざる油壷を凝視するほかはない。苦難も、迫害も、疾病も、死も、この尽きざる油壷の中の不思議なる油の上に漂ふ七色の色彩にしかすぎない。

 湧く! 湧く! 不思議なる生命の油壷は止まることなくして、恩寵の油を湧き溢れしめる。

  一九三一・一二・一

          賀 川 豊 彦

             武蔵野の森にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第64回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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             第64回
      
    コドモキリスト物語

     昭和7年7月25日 教文館出版部 89頁

 今回の小著『コドモキリスト物語』も前著と同じく教文館出版部より刊行されました。挿絵のたくさん入った子供向けの読み物で、賀川ならではの作品です。残念ながら、これも全集には入りませんでした。
 
 「序」にあたる「ことば」が最初に記されていますのでそれを取り出してみます。



      コドモキリスト物語

       こ と ば

 幼いときから、キリストの弟子になることは、よいことです。わたしは十五の春、イエス・キリストにしたがふ決心をして暗い阿波の田舎で、ほんとにうれしい生涯を、おくるやうになりました。

 それまでは、野の百合の花や、空の鳥が、私と何のかんけいもないと思つてゐました。しかし、神様が空の鳥や、野の百合の花を、まもってくださることがわかつて、私の心は、初めてひらかれました。

 それで、私は今も日本の田舎の隅つこにゐる幼い子供に、神様とキリストをおしらせする、やさしい書物がかきたくてしかたがないのです。

 この本は、幼児を中心にしてキリストをみた、風変わりのキリスト傅です。

 不思議にキリストは子供がお好きでしたから、キリストと子供の開係だけを、しらべてゆけば、キリストの一生がわかります。

 この本は、その角度からみたキリストのお話です。そのつもりで、みなさんよんでください。

   一九三二年七月一六日

             賀 川 豊 彦 

                四國放浪の日の朝

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              第63回
      

    キリストに就いての瞑想

       昭和7年6月30日 教文館出版部 200頁

 本書『キリストに就いての瞑想』は『神に就いての瞑想』(昭和5年)『十字架に就いての瞑想』(昭和6年)に続いて3作目になるもので、いずれも教文館出版部より刊行されました。これも賀川の講演筆記で、吉田源治郎・黒田四郎・吉本健子各氏の手になるものです。

 早速、本書の表紙と序文、そして「著者より読者へ」を収めて置きます。




      キリストに就ての瞑想

          序

 黒土を破った青芽に、露がそそがれ、茎が伸び、花が綻び、そして結実の秋が来たやうに、人間の歴史に一つの結実が見せつけられた。それはほかでもない。ナザレの大工イエスに於て、宇宙の底にあった不思議な愛の霊力が、露に表面に出て来て、最も貴い人間の結実を示してくれたことである。

 それは、使徒パウロがいふやうに、人体に譬ふれば首ともいへよう。キリストは首である、歴史の完成である。彼に於て、宇宙を支配し給ふ神は、思ふままに大御心を表現し給ふた。この意味に於て、キリストは神の像であり、神の性質を持ってゐられた方だといひ得る。

 愛に於ひてのみ、無限と有限が、絶対と相対が、大きなものと小さきものが、王者と乞食が、霊と肉が、民族と民族が、階級と階級が――そして神と人間とが、合一し得る唯一の機会を与へられる。智者と愚者は、愛に於て、連結点を発見し、病人と看護婦は、愛に於て連り、善人と悪人が、愛に於てのみ一致点を発見する。

 かうして、イエスは、愛の化身者、愛の顕現者として、地球の一角を歩いた。彼の一生は短かった。彼が旅行せられた範囲内も、数百哩の狭い圏内に限られた。然し、彼に於て、愛は全意識の上に爆発し、その吸引力は、人間の壊れた魂を神にまで吸上げる力を持つてゐた。何といふ大きな愛であらう! その不思議な贖罪愛の意識が、神から出て来ることを誰が否定し得ようぞ! この厳粛な血の意識に、私は、生き給ふ神が、入類の迷ひと罪悪を憂ひて居られることを感ぜずには居られない。

 愛を信ずることは、迷信ではあり得ない。さうだ! 愛に於てのみ、新しき宇宙の創造性と、その世界の持続性と、たとひ失敗することがあっても、必ず補償し得る愛の可能性を我々は見出す。

 愛の意識は、愛の信仰であり、愛の信仰は、愛の行動を要求する。キリストに於て、まことに、信仰と実行は、二元的なものではなく、全く愛に於て撃がってゐた。我々もかくありたいものだ。

 ガリラヤの野辺に、ゲネサレの湖辺に、ヘルモンの雪峯に、さてはまた物いへぬ唖者に、捨てられた癩病人に、石打たれんとする娼婦に、爪弾きされたる収賄官吏の一群に、常にその翼を伸べ給ひしキリストよ、イエスよ、この非常時の日本に、あなたの手を伸べて、愛の飢饉に泣いてゐる日本の農民に、漁民に、都会の失業者に、九十万の肺病人に、百万の前科者に、今日も、新しきあなたの愛を湧き溢れしめて下さい。私等は、言葉の宗教に飽いてゐます。頂きたいのは、あなたの愛であり、愛の社会組織であり、愛の復活であります。

 然し、人は馬鹿にしても、背の高い茅の葉のかげに、白菊が咲き乱れる如く、日本の山里に、波の白く砕ける磯に、あなたの愛にほだされながら、こつこつやってゆく小さい群が、あちらこちらに出来ることが私に陪しくてならないのです。このあなたの白菊の群を見棄でないで、勇敢な十字架の苦杯の人として、日本の非常時に、更に大きい十字架を荷ふに相応しい者とし見下さい。

 日本を救い得るものは、愛であり、十字架であり、逆風に怖れざる十字軍の戟士であることを私は意識します。果敢にも、エルサレムに頭を向け給ふたキリスト、我々にもまた、十字架より顔をそむけない新しき決意を与へて下さい。

  一九三二年六月十日
 
          賀 川 豊 彦

                 武蔵野の楡の蔭にて




          著者より読者へ

 過去数年に亘って、私がキリストに就て瞑想したことを、同志吉田源治郎氏、黒田四郎氏、吉本健子氏が、筆記せられたものを一纒めにしました。ここに改めて三氏に感謝の意を示します。

 尚、わからない点があれば、いつでも御質問下さい。いつでもお答へいたします。宛名は、東京市外松澤村上北澤六〇三にお願ひします。その他、東京であれば、本所区東駒形四丁目キリスト教産業青年會、また大阪であれば、大阪市此花区四貫鳥セッルメント、兵庫県武庫郡瓦木村日本農民福音學校一麦寮、そして神戸市吾妻通五丁目イエス團等の宛名でも、私の手許に手紙が屈きますから、一番覚え易い處を記憶してゐて、遠慮なく質問をして下さい。いや質問のみでなく、キリストに属ける愛の実行を一緒にやりませう。この書物は、読んだ後直ちに、ほかの人に読んでもらふやう御努力下さい。

 この書物は「神に就ての瞑想」「十字架に就ての瞑想」と共に三部作として書いたものですから、他のものも参考に読んで下さると結構です。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第62回)

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              第62回
       

   子供の叱り方と叱らずに育てる工夫

      昭和7年6月12日 日曜世界社 45頁


 本書『子供の叱り方と叱らずに育てる工夫』は45頁の小さな冊子です。私の手元にあるものは、これと同じ日に発行の奥付のある「奈良県禁酒連盟」の発行した「普及版」で「定価十銭」となっています。そして堀江敏が夫要二郎一周忌のおり特別に「序」を書いて、表紙絵を升崎外彦に依頼したことが記されています。

 これには、賀川の二つの講演――「子供を叱らずに育てる工夫」(1930年11月1日、高崎能樹25年記念会)と「子供を叱る工夫」(1926年3月6日、芦屋甲陽園母の会)――が収められています。本書には賀川の「序」はありませんので、少し長いものですが、最初の講演を取り出して置きます。こういう講演記録を現在の私たちが読むと、賀川の生きた時代を彷彿させ、優生学的独断などマジメに語られているところなども記録されていて、大切な資料でもあります。



    子供を叱らずに育てる工夫

     親は子供のための技師

 私は小さい時によくおぱあさんに叱られた。叱られて辛かったので、どこの子供も叱られると辛いものだと思ってゐる。で、出来るだけ叱らずに育てたいと思ふ。子供が失策して後に叱ることは、親として恥かしい。人が叱ってゐるのを見ると、体裁が悪いものである。私は感情の経済から考へて、叱らなくとも済ませるものを叱らなければならないといふのは、感情を無駄に用ひすぎるからで、できるだけ叱らすに子供を育てたいと思ってゐる。あまり子供を叱ると厳格であり過ぎるためにいぢけてしまって、親の前でちりちりして、かへって反動がくる。

 アメリカは、禁酒法案が出来た結果、刺戟を要求する反動で煙草をのみ始めたのは今から五年程前である。貴婦人達が坐るとすぐ煙草の箱を配って廻る。禁酒法案が通過すると、一方に煙草をのみ始める。これが最近アメリカの女が煙草をすふ理由である。これと同じように、子供が叱られると、抑圧されてゐる気持をどこかに出さなければならない。で、子供は親に叱られたと同じことを友達などにいふものである。神戸の貧民窟の子供は「ど畜生」「ど狸」といふやうに親から叱られるので、同じことを友達にいってゐる。で、私は、子供は叱らすに伸びのび育てたいと思ふ。

 然し私は叱ることに賛成する。自分の子は放っとけといふなら間違ひであって、放っておくよりも叱って悪い處は直す様にしなければならぬ。然し、叱る母は叱らない母よりは段が下である。大体私は叱らすに育てなければならぬと思ふ。

 我々は存外教育ある家庭で叱らすに育てる事は自由教育になってしまふと考へてゐる。さういふ家に行くと襖障子に穴があいてゐたり、親が小さくなって、子供が成張ってゐるといふ状態である。さういふ教育をするのでなく、子供の自発的生育の順序にしたがひ、生理的、社会的、そして道徳的宗教的な教育をしなければならぬ。そのためには親は一技師として子供のために存在しなければならぬ。

    遺伝学上の注意

 子供を育てる時に、何よりさきに考へることは、一体子供の持つ性質は誰の性質かを考へてみることである。「この子は仕方のい子だね」といふ前に、まづ自分を考へてみなければならぬ。私の子の泣きじやくりや笑ひ方、或はめかしたい気持は、私の癖がみなそのままはいっている。だからさういう気持ちを持たないで、私は私で、子供は子供だと思ふことは間違ってゐる。であるから、遺傅的な素質を考へなければならぬ。既に結婚した人は仕方がないが、自分の娘などを嫁にやる時には。遺傅的調査なくして嫁にやってはならない。

 私は優生學的立場からいふのであるが、昔から喧しくいふ血系を考へなければ、子供の教育は絶對に出来ない。この頃は自由結婚を主張するものがあるが、その遺傅を調べなければ、親戚に発狂者がゐた場合に、自由結婚によって生れた子供は、まだ幼い時はいいが、廿歳位になると発狂する。これは発狂系統の遺傅である。或は不艮性の遺傅が入ってゐたりする。だから、親や祖父母を調べただけでは足りない。親の兄弟、従兄弟にどんな者がゐるかを調べなければ、自分の娘が子供を生んだ時に、従兄弟の性質が出てくるものである。であるから、結婚する時には血系を調べなければ取返しがつかないことになる。これは、子供を育てる時に大事な点である。

 東京の少年審判所の統計表を見ると、昭和三年に不良少年が、東京横浜から六千人きた。その中、低能のために不良化してゐるものが三割二分、性格異常者が三割五分、全然精神 病者が六八パーセントである。かういふことを知るなら低能は六、七割まで遺傅である。途中で脳膜炎を患ったりするものもあらうが大体は黴毒、アルコール、毒質遺傅からきてゐる。例へば婦人病で手術の時、もルヒネの注射をする。十年位経つとその毒気がぬけるが、その毒気がぬけないうちに妊娠すると、その毒が子供にきてゐる。また産児制限をしようと思って、薬物を使って、間違って姫娠した場合に、低能の子が生れる。であるから、我々は遺傅といふことを大事に考へる必要がある。恋愛開係が出来る時にも、盲目的恋愛をしてはならぬ。盲目的恋愛のために、黴毒や毒質の者と結婚すると、その生んだ子供のために、一生悩まなければならない。親はさういふことを知らすに、やたら子供を叱るのであるが、いくら叱っても駄目である。
                                 ’
 私が遺傅をやかましくいふのはその点であるが、医者は正直に、遺傅とはいってくれない。然し、流産する者には黴毒が半分まで占めてゐる。私の身内の者に流産したものがあるが、よく調べてみると、黴毒性があった。本人は知らないのであるが、医者と、その医者からきいた私だけが知ってゐる。流産の原因の五割まで黴毒である。黴毒の子は、発狂するか、白痴かである。だから放蕩した男と身体検査をしなければ結婚してはならぬ。もし結婚した場合には、一生親は泣かなければならぬ。千人赤ん坊が生れると、その中二人五分までは発狂筋に関係してゐる。それは黴毒と酒の原囚である。

 東京府下松澤病院には二千四百人の患者がゐるが、その中一千人位は酒に関係があるために発狂してゐる。であるから、主人が毎晩一合か二合づつ飲むのが習慣だからといって、主婦が晩的を勧める時には千人の中一人位はかういふ人間が生れることを決心して、お酌をしなければならぬ。千人の中一人だなんて、まるで籤引するやうなものだと思って飲む事を勧めてはならない。また五百人のうち十人位まで黴毒に関係がある。黴毒に開係があると、麻痺性の発狂者が出る。酒からくる発狂者と、黴毒からくる発狂者とは違ふ。黴毒からくるものは舌など半分麻庫するので、それを麻痺性痴呆といつてゐる。それが二十才前後から起ってくる。黴毒からくる痴呆は毎年六パーセントの割で日本には出てくる。であるから、日本の今日の事情から見るなら、厳格に廃酒廃娼蓮動をしなければ、いい日本を築くことが出来ない。日本が一番悩むのはこれである。そして日本の女は子供を産みつけられて泣いて暮らさなければならないのである、早発性痴呆などは、小さい時にわからないが、二十才より二十二、三才になると出てくるものであるから、母親はこのために悲しみの生活を送るのである。で、絶對に家庭内に黴毒を入れないやうに努力しなければならない。それは宗教的純潔運動の他に道はない。それをいい加減に、まあ禁酒廃娼運動もいいから、入っておこう位では駄目である。子供のために、お互いに注意しようといふことを相談しなければならぬ。

    生理學上の注意

 まづ第一に栄養について考へなければならぬ。落第する子が、何故落第するかといふに、その原因の殆ど六、七割までは栄養に関係かある。栄養と落第に関係があるとは思はれないが、実際は大いに闘係がある。春に子供の身体の身丈は大きくなり、夏にはちょっと止まり、秋にまた伸び、冬にとまる。植物と同じやうに春先に伸びて、肩揚げを二寸も伸ばしたものが、夏にはやゝ成長が減退し、秋になってまた少し伸びて、冬には伸びない。だから春に、寄生虫がゐたり、肋膜が悪かったり、発熱したりすると、その年の成績が悪くて、落第するやうなことになる。然し、それは母親が悪いので、母がよく注意してやらなければならぬ。例へば、朝、子供がぐすぐずいふ。母親が菓子を与える。すると甘いものをさきに食ぺたので、朝飯が食べられない。さういふ日が続くと、子供の顔が焦茶色になって斑点が出来る。そしてそういふ年に限って落第する。だから我々が叱らなければならない時でも、焦茶の顔になってゐる時は叱ってはならない。さういふ親は、親としての義務を果してゐないのだから怪しからぬ。親として落第である。

 然し栄養についてはそれでも考へられてゐる割に睡眠に注意されてゐない。母がご自分が活動写真を見たいものだから、子供を背負って活動写真を見に行く。それを文化生活と考へてゐるものがある。さういふ母親の子は、理科が出来ない、算術が悪い、物覚えが悪い、そして神経衰弱になる。これは六才頃までに気をつけなければ、一生駄目である。私がこういへば人は信じないかもしれない。私は神戸にゐた時、一萬一千人位も住んでゐる貧民窟の不良少年を取扱ってゐたが、その不良の原因は遺傅もあるが多くは睡眠不足からである。貧民窟では二畳の部屋に九人位寝てゐるが寝られない。中産階級の奥様に、睡眠の不足を知ってゐながら、つい無理をするために、子供がヒステリーになってキーキー泣くやうになる。泣くから叱りたくなって叱る、子供は泣くといふ具合で、両方ともに神経衰弱になる。

 一体睡眠は、晩の九時頃にとらなければ浅いものである。それを十二時頃までひっぱって寝かさないと眠りが不足になる。九時前に子供をねかすと、子供は朝五時頃になると目を醒まして喜んでゐる。もしも活動写真をみに行って、十一時頃まで寝ないでゐると、朝、目を醒ましてぐずぐずいふ。すると親は叱ってみたくなる。さうしてゐるうちに、子供の習慣に親が負けて、その習慣が一ヶ月位も続く。そして親は、子供に睡眠を充分とらせなかったことを忘れて叱る。さうぃふ場合はいくらでもある。また活動写真へ行かなくとも、都市の家の構造が悪いから、電車やラジオや、自動車の音のため熟睡できないから、都市の子供は神経衰弱になる。で、子供に睡眠を輿へない時は、親はどうしても叱らなければならなくなる。

 次に考へる事は運動の不足であるが、母が忙しくしてぬる間、子供は勝手なことをしてゐるものである。私の通ってゐたある眼科医の家に、四つになる女の子がゐたが、その教育ある母親が「この子は毎日ヒイヒイ泣いてばかりゐるのですが、どうしたら直るでせうか」と私に相談された。私は「あまり大事にし過ぎて家から出さないからで、外へ出したら一日で直りますよ」といった。母親はすぐ、その子を外へ連れて出たら、すぐ直ってしまった。これなどは、運動不足の結果、子供が神経衰弱になることを示してゐる。また温度の闘係、光線の不足、塵埃などが子供に影響する。温度の強い時は、気持が悪い。晩方に特別子供は淋しがるものである。一日の疲れが出る、友達がかへる、日が暮れる、すると子供は圧迫を感じて、さびしがつて機嫌が悪い。私はこれを黄昏病といってゐる。

    心理學上の注意

 まづ刺戟の強弱に就て注意するが、何といっても、大都會に於て子供を育てることは困難である。それは恰も、火事場で道具をとり出すやうなものである。やむを得ないことではあるが、つとめて郊外か農村かで育てるのが一番よい。大都會にゐるなら叱る事より外仕方がない。子供は親の刺戟では間に合はなくなってくる。街頭を活動のビラ撒きが通る、飴屋がどんちゃんどんちゃんやってくる。町に居れば次から次に刺戟があるから、母の刺戟だけでは足りなくなる。また貧民窟には淫買婦がゐる。子供はそれを真似て遊ぶといふ風である。

 マイケル・ゴールドの「金なきユダヤ人」を読むと貧民窟に三歳位まで育ってゐる子が淫買婦の行動を知ってゐると書いてある。さうなった子供はもう駄目である。大都會といふものがこの貧民窟から僅かしか進んでいない。大都会は貧民窟を拡大したものである。だから、大都會で子供を育てる人は余程注意をしなければ、それがやがて習慣になる。人間は二十四、五歳の時に習慣が止ってしまふものである。六歳までの習慣は一生を支配する。だから、小學校に入ってあとで、いくら喧しくいっても大して役に立たない。だから、學校に行けば、子供がよくなると思ふのは間違である。読本と算術はよくなるが、人間の習慣と良心生活は、最も成長の早い時に於て決定するものである。つまり子供の習性は発育の程度に比例する。だから、その間に運動の注意をしなければ、その手をぬいた處だけが駄目になる。後になって後悔しても駄目である。

 今は多収穫運動がさかんであるが、六歳までは苗時代である。學校は移植される田である。だから苗時代に注意したければ駄目である。ところが、母が大事な役目にゐることをしらないで、何もわからないといってゐるが、すると、子供の方でも何も判らない。

 一番強い教育をしてゐるものは母である。母は乳を飲ませ、本能的であるし、子供と同じ遺傅性を持ってぬるから六歳までの子供が家にゐるなら、母は犠牲にたらなければならぬ。母が犠牲になるといふことのない社会は駄目である。私は社会運動をする人間だし、農民組合運動もし、労働組合も作る人間であるが、母がしっかりしてこない處は、社会運動もしっかりしない。結婚も自由、離婚も自由、子どもは國有にして、母は若き燕と飛んでしまふ。すると、それは民族として大きな堕落である。

 東京の芝に鴨を二十五年間養ってゐる人がある。雌の鴨が雛を抱いて水に泳ぐ、雌鳥がゐると雛が水のなかに沈むことがあってもごの中につけてみると、雌の親が居た時には沈没しても浮き上ってくるものが、鶏に抱かして沈ますと入ったきり浮いてこない。結局はそれは雌鴨の主として心理的な強い力を持ってゐることでわかる。で、子供を育てるのに、託児所や乳児場に子供を預けても、母のついてゐる乳児と、母のつかないものとは違ふ。母が側にゐると沈没しても浮いてくるものである。だから、私は子供の教養に就て考へるのに栄養は國有に出来るが、子供の教育は國有にできない。母が専門につかなければならぬと思ってゐる。それ位母の本能がその子に入ってゐるものである。

    見童の好き嫌ひ

 児童の好き嫌ひでは六才までにきまるものである。病気した時などに、その習慣がついてしまふ。西洋に育てばパンとバタがうまく、日本に生れて育ったものはこうこがうまい。乳離れした時に、母が子供のロの中につっこむと、それが好きになるものである。だから子供の習慣は、母親が大部分決定する。であるから母が注意しないと、子供は台なしになる。子供が赤や青の色のついたお菓子のお土産を貰ふと、色つきの赤や青の菓子が好きになる。すると、子供は、その毒々しい外の甘い菓子が好きになる。そして味覚が麻輝してしまふ。味は初め苦いものを食べてそれから酸いもの、次に辛いもの、最後に甘いもの、といふやうに順序があるものであるが、初めから甘いものを食べると、味覚を麻輝してしまってあとのものは食べられない。だから子供におやつをやる時は、午後三時にやってしまひ、味覚の回復した時に飯を食べさすやうにする。私が自分の子供に對して、一生懸命苦心してゐるにも拘らす、客は赤い青い菓子を食べさせるやうにするのである。そして赤や青の甘い菓子が残ってゐる間、子供の味覚は麻蝉してゐる。

 かういふことは一例であるが、我々の習性に開係がある。十二三才位の子供は生意気である。十七才位の頃は不良少年になる率が一ばん多い。日本は十四才位が悪かったのであるが、この頃の日本は西洋並になった。その時に母が手をゆるめると駄目である。不良少年になる一番悪い原因は、母が子供を放ったらかして、子供を単独に残してゐることが間違ってゐる。であるから、近所の母親が五人くらいになって、一人が玩具の研究を専門にやり、一人は栄養をうけ持ち、一人は習慣をみるといふやうになるといいが、個人主義的良妻賢母時代は、今は流行らない。何人かゞ組んで共同的にやる時代である。すなわち、複合性良妻賢母にならなけれぱならぬ。理想的の良妻賢母といふのはないものである。だから三人よれば文珠の智慧で、五人なら五人が持ちよってすれば、一人で出来ない事が出来る。然しあまり多数になっても失敗する。

 子供は親や友人の模倣をし、街頭より模倣を受けろものであるが、悪い模倣はどうしたら直せるか? また子供には競争性がある。競争性は四才から十二、三才位までに出てくる。余程注意してよい方に導かなけれぽ、その時に乱暴になる傾向があったり言葉遣いが荒くなる。その時に注意していってきかせなければならぬ。それも人の前でいはず、一人の母にいってきかせなけれぱならぬ。双児は八十人に一回づつ生れる割になってゐるが、母は大抵一人づつ子供を生む。だから叱らなければならない時にも一人のときを選ぶやうにしなければならぬ。子供を抱いてそのI人にいひきかせると、子供はすぐにやめてしまふものである。叱るにも時が必要である。午前九時と午後の四時頃は、子供の脳髄が一番はっきりした時であるから、午前九時には子供の注意力がしっかりして、午後四時には記憶がしっかりしてゐるものである。だから朝寝坊する母親や、午後四時頃に買物にゆく母親は、于供を育てる資格がたい。だから子供を叱るには、これを覚えてゐなければならぬ。

    社会的環境に就て

 社会的環境について考へて見やう。私は十一才頃まで叱られてばかりゐた。沖野岩三郎氏は少しも叱られなかったといふが、私は、さう悪いことをしたと思はれないのに、よく叱られた。私の義理のお祖母さんは、噛付くやうに私を叱ってゐた。沖野氏は、和歌山県の山奥に育って、四才の時に始めて隣に行ったといふ。そして沖野氏のおぢいさんは、沖野氏がすきで、一度も叱らなかったといふ。また大自然に居れば叱る必要もない。大都曾にゐるから叱らなければならなくなる。然し、森にゐると叱らないですむ。村に行けば、小石があり、ぱったが飛んで居り、水の流れがあるから、大自然の懐で、おのづからいい習性が出来て、荘厳なる感じで、子供が堕落せすに済む。私は十五年間、貧民窟の子供を見てゐた闘係で、私は自分の子を森で育てる工夫をしてゐる。折角教育運動に熱心な人が森のことがわからすに郊外に引越す人があるが、郊外に行く位なら、森の近く、畑の近くに住み、一反歩位耕すやうにしたいものである。だから村の教育をするなれば、子供は叱らずに育てられるし、子供も叱られないで愉快に遊ぶことが出来る。

 都市児童の不幸は、落着の與えられないこと、精神統一の失はれることであるから、自然的環境に子供を置けば、玩具も要らす、落着も回復され、大自然の探求によって、変化の美、成長の美を発見することが出来る。だから子供を叱らすに育てる工夫は田園都市の気持でやる事である。

    叱らずに育てる心理的工夫

 叱らすに育てるには、秘訣が五つある。第一、変化による工夫である。家にある時は外に出させ、外にある時は家に呼び入れ、部屋が暗ければ明るくするとか、明るければ電気を消すとか、変化性を與えること、第二は、隔離法で、街上の誘惑から隔離することである。これを社会的に応用したのが刑務所である。刑務所の大きな使命は隔離にある。だから子供にも同じやうな方法を用ひる。他の子供と喧嘩している時は、叱る必要はない。「坊やちょつといらつしやい、散歩に行きませう」といへば止めてくる。これをしたのが孟子の母であった。孟母の道は変化性と隔離性を二つ利用したのである。第三は心理的適合性による工夫である。子供に好きなことをさせること、話の好きな子供には話をするとか、絵をかくことの好きな子供には絵を描かせるとか、散歩の好きな子供には散歩させるとかすること、第四はすかす工夫である。すかす工夫は注意の転換である。注意の転換には心理的法則が要るから、子供を注意しないときは、すかせられない。だから注意を転換する時に泣きつかれてゐては駄目である。泣きつかれた時は心理的工夫では遅いから、変化性を與えるやうにする。前にもいったことであるが、黄昏病の起こる頃は子供はさびしいのであるから叱ってはならない。腹は減る、一日の疲れは出るといふ時に決して叱ってはならぬ。

 疲労と叱ることは並行するものであるから、叱る時にはだからよく注意しなければならぬ。第五は、子供に作業を命することであるが、これが一番大事でむつかしい。例へぱ、子供が、隣の子を泣かした場合に「ちょっと坊や、豆腐を買ってきて下さい」といふと、子供は喜んで「はい」と答へる。松澤病院にはこの作業治療法といふのがあって、軽い気狂の病人には何か仕事をさせると、作業によって病気を治すことが出来る。何もさせないで置くと、かへって煩悶ばかりするから箱を貼らせるとか、竹細工をさせるとかする。すなわちある目的を與えると治るものである。我々も家庭が不満の時にはぢっとしてゐると、気持がいらいらして煩悶するが、気の毒な人を助けるとか、病気の人を見舞ふとか、何か人の為にしてゐるうちに治ってくる。そのうちに主人の機嫌も直ってくるといふやうに、子供にもちょっと何かさせ「水を吸んで下さい」と仕事をいひつけると他の事を忘れてしまふ。であるから、子供の記憶、推理、判断を一つの作業に集中せしめ、他の仕事を忘却せしめること、使ひに出すこと、親の仕事の手伝いをさせる事は、叱らすにすませることになる。

 然し、すかす時に注意しなければならないことは、うそをつかぬごと、例へば「巡査がくるよ」とか「鬼が出る」とか「閻魔さんが舌を抜くよ」、「お父さんに叱られるよ」といふやうな嘘をいふと、親の信用を落すことになる。或は威嚇せぬこと、恐怖心を與えぬこと、親が親切でないと感じさせることなどは下手なすかし方である。
                         ’
 従って叱らすにすませる親の態度を研究しなければならぬ。それにはまづ落付いて、(一)親の短気を直すこと、(二)親の無智を恥かしく思ふこと、(三)親が修養すること、(四)親が子供になること、(五)親が真実の子供の友になること、(六)親は親らしくする事、(七)親は神の子の資格を有することが大切である。親の親切を示さないで、たゞ叱りとばすことは悪い。親は子供に関する研究會などにも出席する必要がある。動物に芸を教える場合に、食物を與えて教えるのであるが、子供に對しても、食べ物を與え、着物を與え、親切にすると子供は親のいふ通りついてくるものである。親は子供の犠牲になって、第一に自分をたてず、子供を第一に立て、活動を見る時にも、子供と一緒にみ、散歩に出るときも子供と一緒に行くといふやうにしなければ、母が勝手に活動に行って、自分だけいい着物を着てゐると、母のいふことを子供はきかない。であるから、親がまづ宗教的になり、大自然に接近し、親が、神の気持になって、子供を愛し、敬し、育てなければならぬ。

      道のべに流るる清水ながめつつ
                きよむる力忍ぶ黒石。

      岩木山沈む夕日の影うけて
                林檎畑は紫に染む。

                    (1頁~16頁)




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第61回)

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「今朝の日の出前」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作―序文など

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         第61回
       
    神と永遠への思慕

       昭和6年10月10日 新生社 190頁

 本書『神と永遠への思慕』を出版した「新生社」は、賀川豊彦とどのような関わりがあったのかはわかりませんが、「新生社」は、この歳の暮れには『尽きざる油壷』を出版しています。この『尽きざる油壷』はあいにく手元にありませんが、吉田源治郎・黒田四郎・今井よね・吉本健子・深田種嗣によって賀川の講演筆記がなされて出来た作品で、賀川全集にもはいりました。

 ところで、本書『神と永遠への思慕』も「著者より読者へ」の頁には、「この書は、私の最近の宗教思想をまとめたもの」で「これを筆記してくださったの方は吉田源治郎氏、黒田四郎氏及び吉本健子姉である」ことを記して謝意を述べています。

 ここでは「序」に加えて、特に本文の中から、賀川豊彦の「なぜ私が愛の宗教・キリストの信仰にはいったかを告白」した箇所(19頁~23頁)を取り出して置きます。同様の告白は、何度も何度も話して書き残しているものですが、何度読んでも印象深いものでもありますので・・・・。



       神と永遠への思慕

          序

 多数の人々は、大通を行く。砂塵が舞ひ起る。路傍で物乞ひしてゐた盲目のバルテマイは、時ならぬ人混みに、道ゆくものにきいてみた。それは葬式か、婚礼か、大名の行列か、将軍様のお通りか? そして知れたことは、ナザレのイエスが自分の前を通って行くとい
ふことであった。

 そのナザレのイエスなら、今の時を外してはまた会ふ機会はあるまい。長年困ってゐた限病を彼に治してもらふのは、今この時だ。さう考へた乞食のバルテマイは、群衆の過去ったあと、大声をあげて努鳴りつづけた。『ダビデの子イエスよ、我を憐みたまへ。我を憐みたまへ』 弟子はそれを止めた。しかし機会は一度しかなかった。それで、彼はその機会を失ふことを欲しなかった。彼はなほも続けて叫んだ。その声が、イエスの耳に入ったと見えて、彼は足を止められた。

 『何の用ですか?』イェスはきき質された。
 『主よ、光が見たいんです』
 『さうですか、信仰の通りになりますよ』

 さうしてイエスは、この盲者に光を回復し給ふた。

 『光が見たい、光が見たい! 宇宙の奥底まで光が見たい。なぜ、動物と植物と違った形で、宇宙の生物が伸びて行くか? なぜ、生物は数十万種類に分れて、進化の道を辿らねばならぬか? 人類の運命はどうなるか? この痛ましい人間の闇路を、どう切開いて行けばいいか? 光が見たい、光が』

 私は、エリコ街道の盲目のバルテマイである。光を見たいのは、千九百年前の乞食だけではない。私も、永久の光の乞食をして、イエスに光を回復してほしい。そして恐らく私の光に対する慾望は、永久に止まることはないだらう。あゝ光が見たい、光が見たい。
真夜中に、真昼に、黄昏に、夜明に、光がみたい。まばゆい太陽の光線の奥に秘められた不思議な真理について、光が見たい。あゝ光、光! 私は永久の光が見たい。私は、貧しくとも、神についての光を見究め得るなら、これで死んでもよい。恐らく人間は、富むことより光を見ることの方を望むだらう。

 ソロモソ大王が、神より祈の許可が出た時、彼は、富も権力も希望しなかった。彼は、智慧を与へ給へ、と神に祈った。そして私の祈も同じことである。私は、神と永遠についての光を毎日祈ってゐる。

 私は、大陽も月も不要な光の世界に住みたい。私は、鉱物に近づけば、鉱物の真理を悟り、植物に近づけば、植物の腹に徹する光を欲しい。更に、動物の愛と生存競争につき、人類の煩問と、社会の改造と、宇宙の運命について光が欲しい。私は永久の求道者である。そしてありがたいことには、光線体の如く、イエスは真理を体現して、歴史の上を闊歩せられた。私達は、彼を見ることによって、宇宙実在者の姿がわかったやうな気がする。即ち宇宙の本質に愛かあるといふ、愛の真理か、彼によって、よく徹底した。

 宇宙は光で出来てゐるのだ。物理学者はさう教へてくれる。それを我々がゆがんだ眼で見てゐるために、光として見えないのだ。それにしても、宇宙の構造は、深くさぐりを入れれは入れるほど、我我を不思議な世界に導く。それはもう精神といふ言葉で現すことさ
へ、言葉が足りない。私はただ、光で出来た社会が、艶消しをして、いろいろな形に現はれてゐることを、虹の世界以上に不思議に思ふ。私は、大自然の不可思議に驚倒して、ただ、神が私に何を語り給ふかを静座して待つ。私はしづかに神の黙示に瞳を据える。神は物質と見えるスクリーンの上に、いろいろな不思議なる現象を私達のために現し給ふ。そして、私それ白身も、またこのスクリーンの上に躍らねばならぬ役目を持ってゐる。不思議、不思議! 私はただ、大能者の前に跪座して、その後光を拝するのみである。

          賀 川 豊 彦

           (一九三一・六・二四 武蔵野の森にて)







             第二章 神と永遠への思慕

(前略)

 此処で、何故、私か愛の宗教キリストの信仰に人つたかを告白しなげればならない。

       私の懺悔

 私の父は阿波の人間だった。私が何故、宗教もあらうに西洋から来た宗教を信じたか? 併しも早や、私の宗教は西洋の宗教ではない。私の宗教である。私の家は阿波の板野郡の十九箇村の大庄屋たった。父の正妻には子がなかった。私は妾の予て、私の母は芸者だった。私は妾から貰はれて来て、父の正妻の予になった。戸籍の表面はきれいで私は公民権を持ってゐるが、私は小さい時から日蔭者として育った。私は母の事を聞かされると胸の中が膿付いた。私は義理の母から、お前の母は芸者だとよくいはれた。
  
 人間は不思議なもので、自分の予供に、自分の長所も短所も現れてゐるものである。不思議に人間は子ども、孫、曾孫の系統に対し、魂のトンネルを掘つてゐるものである。自分の魂と子の魂に聯絡がある。私は母の系図を知らない。私はさういふ家庭に育ったから、
純潔に就ては特別に感じた。私には、父の放落と母の芸者だったことが遺伝してゐるだらう。だから自分もその道に行くだらうと思つてゐた。

 十一歳の時、禅宗の寺に毎日通はされて、論語と孟子の教を聞かされた。そして聖人になれ君子になれと教へられた。が、私の血の中には君子の血筋はない。之等の書物は実に厭な感じを私に与へた。家は淋しいし、蔵の中には文化文政吽代の淫本が沢山ある。さういふ家庭にあつて、神聖なる教育をうけなかった私に、論語と孟子の教は役に立たなかった。これは駄目だと思った。

 私の兄は十六の時から妾狂ひを始めた。兄は数人の妾を持った多淫な生活をしてゐた。私は中学へ行くのに芸者の家から通った。兄は放蕩だし、私も芸者の家から学校へ行つてゐた位だから、私もまた沈没するだらうと思つてゐた。芸者の家には仏壇もあり、神棚もあって、朝々塩をまき、盆には美しく飾るが、さういふことは別に魂に閃係がなかった。

 私の魂はいつも泣いてゐた。孔子は何千年か前に出たが、私に関係がないと思ってゐた。その時に聖書が私の手に入った。『凡て労する者、重荷を負ふ者われに来れ、われ汝らを休ません』(マタイ一一・二八)とか『健かなる者は医者を要せず、ただ病める者これを要す』(マタイ九・一二)とか記されてゐた。私は医者の救を要求してゐた。キリストは罪人の医者だった。神の力をもって魂の中に傷ついた者を癒してくれた。「女を見て心の中に色情を起すものは姦通したのと同じだ」と聖書に書かれてゐた。自分も罪人だ、どうしたら、けがれざる者になれるかと考へた。日本の学校生活はどうしたらきよめ得るか、今も私はそれを考へてゐる。

       遺伝の幽霊

 私に英語を勉強することを勧めた兄は、耶蘇牧だけにはなるなよと注意してくれた。そして兄はとうとう芸者を家に入れた。イブセンの「幽霊」といふドラマを読むと、父が妻を棄てて女中と一緒になった。息子もさういふ道をたどって、罪悪が幽霊のやうになって呪ってゐることが書いてあるが、私も、罪悪の幽霊が私を悩ましてゐる、いつになったら私は救はれるかと思ってゐた。

 ところが、キリストの宗教は、何と高く、また低いことだらう。私は聖書を読んで、さうだ、野の百合のやうに天真爛漫にかへらなければならないと思った。私を生かしてくれてゐる生命の神を私は信じ、百合の花を生かし給ふ神を私は信じようと決心した。

 それから毎晩、私は床の中に這入ってお祈をした。『私にきよい生活を送らして下さい、父や兄貴の道を踏まないやうにさして下さい。どうか日本を娼妓のない国にして下さい』と祈った。

 今でも、その時蒲団の中でこっそり祈った祈を、私は忘れてゐない。そしてこの祈が私の一生を支配してゐる。日本の多くの青年に、これと同し煩悶があるのを私は知ってゐる。聖書に出てゐるこの純潔さを忘れて、何の人間であるか! 私はこの宗教を一時だって忘れることは出来ない。私がキリスト教になったといへば家を追ひ出されるから、私は黙っで蒲団の中でお祈を続けた。

 明治三十七年一月三十日に、私は西洋人の先生の処にキリスト教の本を借りに行った。その先生は『賀川さん、あなた、神があると思ひますか?』ときいた。『はい、あると思ひます』『祈ってゐますか?』『祈ってゐます』『何処で祈ってゐますか?』『蒲団の中で祈ってゐます』『ではあなたはキリストを信じてゐるんですね?』『はい信じてゐます』『では洗礼を受けませんか?』『洗礼を受けると家を追出されます』『卑怯ですね』『卑怯? それなら私は洗礼を受けます』それから私は洗礼を受けた。

 父も祖父も歴代放蕩であった私の家は、四代の間妾の子が家を継いだが、私の代になって初めて消えたのである。これはキリスト・イエスの力である。無限の神を地上に引下して、神のやうに地上を歩いたけがれないイエス・キリストの血により守られたのである。
        
                  (20頁~23頁)


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第60回)

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「須磨浦公園のさくら」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)




   賀川豊彦の著作―序文など

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               第60回
       

    小説『柘榴の半片(ざくろのかたわれ)』

       付録『黄昏の道』『軽業師』

       昭和6年8月25日 教文館出版部 174頁

 小説『柘榴の半片』は「神の国新聞」の昭和5年1月から3月まで連載された廃娼運動に関わる社会小説で、付録に入った小編二つは、いずれも講談社の雑誌『キング』に掲載されたものでした。

 『柘榴の半片』には、賀川の描いた挿画が9枚ありますが、既に先の連載で本書の表紙・扉と共にそれをスキャンして収めていますので、ここではすべて略します。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第59回)

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「須磨離宮公園の梅」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作―序文など

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         第59回
        

    現代日本文学全集59『賀川豊彦集』

          昭和6年6月15日 改造社 551頁

 改造社は、先に取り出した<世界大衆文学全集第33巻>としてジョージ・エリオット著『ロモラ』の賀川豊彦この翻訳本を世に出した後、およそ2年ぶりに、今度は<現代日本文学全集第39巻>として『賀川豊彦集』を刊行しました。

 この『賀川豊彦集』には、賀川の超ベストセラーとなった『死線を越えて』の三部作を手がけた改造社の刊行物でもあることから、ここでははじめて三部作の全てを1冊に収めて出版しています。(賀川没後に刊行された『賀川豊彦全集』の第14巻にも三部作がまとめて収められ、昭和50年にもキリスト新聞社より『死線を越えて(全一巻)』として上梓されました)

 杉浦非水装幀の<現代日本文学全集>は廉価なこともあって当時読書界を賑わしたようで、箱入りのものだったようですが、手元のものは箱はありません。

 既に本書の扉と賀川の写真、目次と賀川の筆跡となる「序詞」、並びに巻末の「年譜」をスキャンして掲載済みです。昭和6年6月の時点での「年譜」は特に興味深いものですが、この「年譜」をつくった人は誰なのか記載はありません。
 なお、本書の「序詞」は有名で、徳島市の眉山山頂近くに建てられている賀川豊彦の文学碑にも刻まれています。折々わたしもこの「序詞」に注目して、これまで文章にもしてきましたので、ここでは重複をさけて、何もおさめないことにいたします。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第58回)

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「王子動物園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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         第58回
        
     十字架に就いての瞑想

        昭和6年6月10日 教文館出版部 196頁

 1年前(昭和5年)に『神に就いての瞑想』を教文館出版部から出版した賀川は、続いてここに『十字架に就いての瞑想』を、いつものように講演筆記者の協力を得て刊行し、このときは何と初版2万部という大量印刷で、「10銭」の本を普及させました。手元のものは昭和7年1月の再版ですが、再販も2万部と記されています。

 今回も早速、「序文」とそれに続く「著者より読者へ」も取り出して置きます。




        十字架に就ての瞑想

           序

 私は見た、カルバリーの丘に、十字架を負ひつつ登ってゆく人の子のやつれ衰えた姿を。彼は十字架の重みに沈み切って遂に道の上に倒れた。その日の光景を見るために、道を急がせたルフの父シモンが、兵卒の命令で十字架をかつぐお手伝いをさせられた。田舎者のルフの父は、びっくりした顔をして、人の子の十字架を、ぶつぶついひながら荷ふてゆく。

 イエスも亦十字架の分担を我々に要求してゐるのだ。三年の悪戦苦闘に、そして幾日か続いた徹夜の祈に、その上受難週の最後の目標の晩の、徹夜の責苦に頑強な労働者としてのイエスも、もう十字架をになふてゆく体力を残してゐなかった。

 彼は人を救ふて自らを救ひ得ない運命の道に、自らを導いた。彼は文字通り聖き受難の大道を歩むことを決心し、天父の大愛に生きるために、宗教に名をかる支配階級の搾取施設と、正面衝突することを辞せなかった。彼はその子羊を贖ふために、狼にくはれることをさへ、辞さなかった。彼は無限の聖愛に生きるために、喜んで自分を十字架の上に捨てた。

 赤ん坊が成長して、花嫁になるまでに順序があるやうに、人類の成長にも歴史的階級がある。土に蒔かれた種は、茎をのばし、穂を出し、そして蕾が開いて、花が受精するやうに、人間の歴史に一つの大きなみのりの時があった。エデンの花園から追はれた夢の子等が、曙に目醒めて神の恩寵と贖いの愛に、全意識を霊に盛り得たのは、キリストに於て最初の実を発見する。彼は誠に神の独児であるといひ得る。

 噫人類の冬枯に、大愛の春が帰って来た。私達はイエスに於て、宇宙の大愛の結実を見る。イエスは人間として、宇宙の全体意識に目醒めた最初の人であり、罪人にすら責任を感じた最初の人間であった。花がみのって叉冬が来るやうに、イエスの胸に愛の花が咲いてから、叉人類の冬枯れが度々めぐって来た。そして未だにイエスのような愛を根本として、宇宙の花を咲かせてくれる集団は地上に現れない。

 おおそのために、私の胸はうづく。不甲斐ない人類生活と、見下げ果てた霊魂の弱さに、ただ私達はキリストを振りかへって見て今日の自己の姿に飽き飽きする。かうした気持でパウロも古き自分をキリストと共に十字架に曝したく思ったのであらう。かうして我々は、自分を一先十字架にかけて、自分を殺し、この後自分のためでなく、人のために死んでゆく宇宙の愛に目醒めたいものである。

 生命の世界は、水遠につきざる愛の世界である。愛と犠牲なくして、この驚くべき生命の殿堂は維持することが出来ない。それは昆虫の世界に於ても鳥類の世界に於ても、哺乳動物のうちにも変らない一つの法則である。然し科学者の指ざす世界は本能愛の世界である。キリストに於て我々は、本能より脱皮して、最初の自由なる贖罪愛が、人間として目醒めたことを発見する。この領域に於てのみ、神聖な社会は創造せられる。社会革命も、独裁政治もこの本能愛を脱皮した十字架意識に比して、影にもひとしいナンセンスとして、取扱はれる。十宇架愛の意識は、人類歴史にとつては霊の内部創造である。人類の此の意識に目醍めない前に、社会革命は絶対に不可能である。蛹になることを躊躇するものは蝶々になることは出来ない。十字架の道を通過せずして、社会創造は絶対に不可能である。然しこの道は人間の小細工て出来た道ではない。生命の噴火にほとぱしり出た血潮の軌道のそれである。生命本能を貰いて、天に迄伸びあがる最も勇しい愛の芸術である。それは最大の愛の冒険であり、宇宙がかつて見た最高の芸術である。これなくして地球の歴史は、虚無にも等しい。キリスト愛の運動は、十字架の一言にてつきる。十字架はキリストの凡てであり、愛の凡てである。十字架に於いて、神はその胸底に秘めた、愛の神秘を人間に物語ってくれた。血みどろの十字架を守ることを恐るものは、キリスト愛を知らざるものである。神の認識を倫理学で認識するのは、ギリシャ人にまかせておけばよい。神の愛の認識は血みどろの十字架によってのみ認識せられる。愛なきものに、神の愛がわからう理由がない。人を愛せずして、象牙の塔にのみたてこもる偽非学者を書斎の中に捨てをけ。我等はキリストの脇腹より滴る十字架の血を浴みて、更に今日の愛の戦いを継続しなければならない。

 友よ、君の愛の砦は充分築れたか? 癩病院に肺病院に、身を殺して人に奉什する十字架の相続は充分出来たか? 台湾の蛮界に、オホツク海の氷磐に、十字架の進路は決定せられたか? 泣くな友よ! その十字架なくして勝利はない。人にピストルを擬する前に先づ自己の霊を狙撃せよ。世界歴史を十字架の歴史たらしめよ。社会の上層建築が如何やうに変らうとも、十字架なくしで人類の高挙は不可能である。十字架よ、追撃せよ。人の罵倒と脅迫にひるまず、十字架をになふて進め、ビアドロロサの悲しき道に、パタリパタリ滴たるその血しほのうちに、やがて人類が更生すべき歴史はかかれるであらう。私はその血潮の聖痕をたどって、よろめく足どりを前に進めよう。おお、今日も私の血潮はその聖痕の継承のために流れ出なければならぬ。

  一九三一・五・二五              
     
             賀 川 豊 彦

                樺太豊原の旅の宿にて


                著者より読者へ

 この書は一九三〇年より三一年の春まで、日本各地で講演したものを同志吉本健子姉と黒田四郎氏の手によって筆記せられたものを、編輯したものであります。ここに改めて二氏に感謝します。何分にも忙しくて北海道樺太の旅行中に校正した為め、行屈かない点があらうけれども他日それを訂正したいと思ってゐます。

 此書を読んで質問のある方は、遠慮なく私宛にお送り下さい。私の住所は東京府荏原郡松澤村上北澤六〇三、東京市本所区東駒形町四丁目キリスト教産業青年會、大阪市此花区四貫島大通三丁目四貫島セツルメント、神戸市吾妻通五丁目四番地神戸イエス團、兵庫県武庫郡瓦木村字高木日本農民福音學校の五ケ所、何所でも結構です。もよりのおぼえやすい所へ書いて下さい。必ず返事を書きます。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第57回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第57回
        
     小説『一粒の麦』

       昭和6年2月1日 大日本雄弁会講談社 374頁

 小説『死線を越えて』3部作の後、昭和3年に『南風に競ふもの』を小説として完成させた賀川は、ここにさらに小説『一粒の麦』で人々の心を掴みました。

 版元は、大正15年に『賀川豊彦大講演集』を出版した大日本雄弁会講談社です。

 本書に関する「解説」は、武藤富男氏のものがあるので、それを今回ここには取り出して置きます。

 本書は戦後早く(昭和22年)、読書展望社より再刊されていますが、手元にある原書とその扉、そして昭和28年に社会思想研究会出版部の発行する現代教養文庫の表紙と扉にある賀川の写真、並びに同社刊行の教養文庫の「新版」、そして2007年に本書を再販する会の出した『一粒の麦』を、既にUPしています。
 なお、現代教養文庫には木村毅氏の「解題」が入り、教養文庫には尾崎秀樹氏の「解説」が、最新の再販には日野原重明氏の「序文」が収められています。



  武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』276頁~280頁

        『一粒の麦』について 

   一、声価と梗概

 小説『一粒の麦』は雑誌『雄弁』の昭和四年十一月号から昭和五年十二号に至るまで、十四回にわたって連戦されたもので、当時『雄弁』は三万部の発行部数をもち、主として目本の青年層に読者をもっていた。この小説の評判がよいため『雄弁』の発行元である講談社はこれを単行本として昭和六年二月一日附で出版した。初版の発行部数は、講談社に問合せても不明であるが、版を重ねて売上部数が八万六千部に達したことは、同社の記録に示されている。

 このことは『一粒の麦』が当時の青年男女にどんなに深い感激をもたらし、一般社会にどんなに広く道徳的宗教的感化を与えたかを証明している。

 そこで先ずこの小説の梗概を述べた後、文学としての評価、作者の意図、元デルとなっている人物などについて語ろう。

 豊橋の材木屋に勤めていた十九歳の嘉害は色町の誘惑に落ちて、店の売掛代金五円を着服する。それが苦になって彼は店を飛出し、豊川の上流にある上津具の生家に帰る。彼の生家にはアルコール中毒の父と、心やさしく勤勉な母と、せむしの弟と一人の妹とがいる。一番上の姉は名古屋に芸者に売られ、次の姉は朝鮮へ娼妓に売られ、兄は岐阜の傘屋に丁稚(でっち)にやられていた。

 嘉古が帰ってくると問もなく、父は中気になり、せむしの弟は踏台から落ちて立てなくなる。生家の苦境を見て嘉古は近所の水車小屋に勤めて、一家の生計を助けることになった。

 或る目、彼は水車小屋に犬九匹と猿一匹をつれた猿まわしの男が泊まっているのを見出し、これと知合いになる。また隣家の鍛冶屋のおかみさんの親切によって、ここに働くことになり、このおかみさんに誘われて下津具に伝道所を開いている村野与吉先生の集会に出るようになる。

 正月になって嘉言は山の仙人と呼ばれる猿まわしについて信州に近い町や村をまわった。門づけをする仙人の後にいて太鼓をたたく役を承ったのである。この仙人から彼は立体農業による日本の開発と食糧政策について話を聞き、山と農業とに興味をもつようになる。

 村野先生の集会に出て、嘉言は初めてさんびかをきき、聖書について話をきき、天地の唯一の神について知るようになる。

 春になって嘉古は、母の父の三年忌に列するために、母の里、蒲郡の伯父の家を訪れることになる。彼は鍛冶屋の主人から賃金五円を前借りして、蒲郡へ行く。そこへ行った翌日、彼は豊橋に向かい、横領した五円を主家に返し、良心の苛責を免れる。

 蒲郡の伯父は船大工である。嘉吉は法事に列した後、蒲郡名物の帆走会見物に連れて行かれる。伯父の操る帆船はこのレースで一等になったか、敗れた他の町の若者たちが殴りこみをかけてきたため、喧嘩となり、流血の惨事が起ころうとした時、嘉吉は中に割って入り、擢で頭を打たれたが、ひるまず「けんくゎをよせ」と叫び、そのため騒ぎを食いとめることができた。

 負傷した嘉吉は村の英雄のように扱われ伯父の家で静養する。その間に、女工の芳江と知合いになる。傷が治って津具の家に帰った嘉古は芳江からしばしば手紙をもらう。

 嘉吉の兄佐助は岐阜の不良少年団の仲間に入り、検挙されて入牢する。名古屋にいた姉は遊廓を逃げ出し家に帰ってくる。保釈になった佐助はルパーシカを着て家に帰ってくる。姉の恋人という男も家に入りこむ。佐助とこの男とは共産主義者を気取り酒を飲み、姉は懶惰な生活をして一家を困らせる。

 嘉吉は村野先生の感化を受けてキリストの愛を実践するようになり、村はずれの木賃宿の納屋に寝ている癩病人とその子とを見舞い、傷の手当や糞便の世話までしてやる。

 やがて彼の姉も家を去り、姉の恋人も兄の佐助も家を去り、嘉古と母は、厄介者から解放される。しかし佐助は警官を殺して起訴され未決監に入れられる。苦難の中にあって嘉古は次第にキリストの贖罪愛の信仰に入って行き、迫害のうちにあって村における禁酒運動を開始し、癩病人とその子のめんどうを見つづける。朝鮮に娼妓に売られている姉は死に、父の中風は悪化する。間もなく徴兵検査があり、嘉言は甲種合格となって、翌年の入営が予定される。

 この頃になって蒲郡で知合った女工の芳江は嘉吉のもとに熱烈な恋文をませる。嘉古は豊橋の未決監にいる兄に面会に行く途中、蒲郡によって芳江に会う。芳江は結婚前に嘉吉の家に行って手伝い、彼の入営中一家のめんどうを見ようと申し出る。嘉吉は芳江を『神様が与えて下さった天使』としてこの申し出を受け入れる。

 嘉吉の下座奉仕が、名古屋の新聞に報道されたため、彼は一時は村の誉め者になるが、間もなく村の背徳分子の策謀により地方新聞に中傷記事を書かれる。しかし山林を広く所有する水車の父さんは、嘉吉の人物を見込んで山林を任せるから、これを開発して立体農業をやれとすすめる。山の仙人の話に感動していた嘉古は、村野先生はじめ村の道徳的勢力を結集して協同組合組織を作りこの事業をやることを決意する。

 女工芳江は嘉古の家に来て、母の手助けをし、二人の病人の世話をし、機を織って稼ぎ、家計を助ける。しかし嘉古は芳江と床を別にし、兵役か終ってから結婚することにする。

 山林の開発事業は嘉古への迫害にもかかわらず、着々として進み、同志の協力を得て十町歩の植えつけがすみ、父さんは栗、くるみ、あんず、けやき等の苗木五万本も名古屋へ行って注文して帰ってくる。

 間もなく嘉言は入営し、軍隊生活を経験する。キリスト者としての彼の行動は、しばしば彼に困難をもたらしたが、彼はよく忍んでキリスト愛を軍隊の中で実践する。入営中、兄の佐助は死刑となり、芳江は過労のため病気になる。

 済南出兵で山東に出征した嘉吉は、青島にいる時、父の死の報せを受ける。ついで芳江が病気になったことが母から知らされる。彼は一家のため犠牲となって働いている芳江を思うて祈る。

 午前三時、芳江か青島の兵舎に会いに来たところを嘉吉は夢に見る。間もなく村野先生から芳江の死を報せる電報がとどく。芳江は嘉古の除隊帰郷を待たずに世を去ったのである。

 入営後二年たって、嘉古は村人の歓迎を受けて母のもとに帰る。村野先生と水車の父さんと嘉吉とは芳江の遺骨をもって、立体農業を実行している田口の裏山にこれを葬り、芳江の記念碑を建てることになる。山の仙人も九匹の犬をつれて参加する。

 嘉古の入営中、芳江はしばしばこの裏山に来て植林を助けた。彼らはここを『処女の森』と名づけて棒杭の碑を立てる。それに村野先生は『細野芳江記念碑』と記し、裏に「一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし、千九百二十八年十月十八日昇天』と書く。

 かくて酒と賭溥と女色とに毒されていた村に、立体農業と協同組合運動による産業の興隆を見、信仰による道徳復興が起こったのであった。

 
   二、文学としての評価と作者の意図


 この作品は賀川の小説としては、文学的価値の高いものである。『死線を越えて』は彼の体験を叙述したもので、自伝小説であるから、これだけをもって賀川の作家としての力量をはかることはできない。しかし「一粒の麦」は作家として書いたものであるが故に、小説の名に値するものである。

 この作品は、文学の型からいえば、純文学ではなく大衆文学である。芥川や藤村や漱石のように、彫身縷骨の苦心をしつつ、芸術品として仕上げた文学ではない。誰にでもわかり、誰にでも読まれるようにと、筆の動くままに書いたフィクションであり、形式からいえば、どの雑誌にでも見出せる大衆交学である。

 しかし内容的にいえば、一定の目的をもつ作品であり、これを貰くものは、キリストの贖罪愛であり、これを縫うものは、立体農業と協同組合思想である。賀川はこの小説により伝道をなしつつ、彼の抱懐する経済思想を宣布しようとしたのであった。

 小説家としての賀川についていえば、恐らく日本の文学界は彼を作家としては受け入れまい。しかし『一粒の麦』は彼を小説家たらしむる潜勢力を具えている。第一にその中には事件(イソシデソト)が豊富である。いわゆるスリルとサスペソスとに満ちており、読者をして巻を措く能わざらしめる。

 太宰治は『人間失格』を書いて名声を博した。失格する人間を書くことは、及格する人間を書くことより容易である。『人間及格』を文学にすることは、なかなかむずかしい。ビクトル・ユーゴー級の作家であって初めてできることである。然るに、賀川は『一粒の麦』において、『人間及格』をとも角も文学にしたといいうる。その意味において、彼は日本の生んだ作家の一人であるといえよう。

 自然や人物や事件の描写力においても、彼は時に大家の筆致を見せる。(時に粗雑なこともあるか。)『説明よりも描写』ということが小説家にとって至上命令であるが、賀川は描写力においてすぐれた素質をもっていたといえよう。ただそれがプロフェッショナルになるには、洗練されていなかったと云える。


    三、作中のモデル


 主人公嘉古の純真な性恪と信仰的な行動とは、賀川の貧民窟伝道を初期の頃から助けつづけた武内勝氏にヒントを得たものと思われる。もう一人のモデルとしては、賀川の少年時代、徳島にあって癩病人の世話をしていた森茂氏が考えられる。五円を横領した事件はこの人に関するそうである。賀川は森茂氏を大へん尊敬しており、貧民伝道への献身は、少年の時この人から受けた影響によるといわれる。山の仙人は武内勝氏の父君を素材としている。この人に犬九匹をつれさせ、猿まわしに仕立てて、賀川の風流雲水的心境と立体農業政策とを現わそうとしたのであろう。武内勝氏の父君は八卦見で、貧民窟の伝道所において賀川に会見し、その人物に惚れこんで息子の武内勝氏を托したのであった。

 一粒の麦となったヒロイン芳江は、賀川夫人春子女史の令妹ふみ子さんで、勝氏と婚約していたが、結婚前に病没した。

 村野先生は、賀川が神戸神学校在学時代(二十歳)胸を病んで蒲郡に静養している時、交わった同地の牧師をモデルにしたものであろう。蒲郡における船大工の生活、帆走会の模様、漁夫たちの喧嘩など、場面が殊に生き生きと描写されているのは、この頃経験したことの印象が深かったためであろう。

 鈴木伝助氏が『百三人の賀川伝』に寄稿した『賀川豊彦素描』によると、何百という蒲郡の漁夫たちが、海岸で二組に分かれ兇器を手にし喊声をあげて突撃し、今にも血の雨を降らそうとした危機一髪の瞬間、賀川がその間に割って入り、喧嘩を仲裁した物語が出ている。帆走会における嘉吉の働きは、この時の思い出を書いたものであろう。





連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第56回)

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「画家・宮崎潤二さんの作品(御逝去を悼む)」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第56回
        

     神と歩む一日 日々の黙想
   WALKIBG WITH GOD 
   THE DIARY MEDITATION


         昭和5年12月15日 日曜世界社 366頁

 前回、賀川豊彦の『クリスチャンダイアリー』(昭和4年版)を取り上げましたが、今回の『神と歩む一日=日々の黙想』も一日分を1頁をもちいて、365日分の賀川の短い珠玉の文章が収められています。

 このような作品に編纂しあげた人のことには触れられていませんが、賀川豊彦が自ら仕上げたとは考えられません。

 本書は年年歳歳版を重ね、戦後昭和24年7月には日曜世界社と同じ版のまま、版元を「キリスト新聞社」に移して出版され、読み継がれています。

 なお、2年後(昭和7年)には、追ってとり出す予定の『神に跪くーその日その日の祈』が同じ日曜世界社より編纂されています。

 では早速、賀川の記している「序」を取り出して置きます。




       神と歩む一日
         序

照る日、曇る日、我等は、人生の一日を最も有意義に生活しなければならない。
暴風雨に、雲崩に、出産に、お通夜に、
神の不思議なる御手の動きを発見しなければならない。
食ふに、眠るに、我々の行事が、神聖な神の姿に肖たものであらねはならぬ。

エデンの花園から逐はれ、煙突の杜と、瓦の沙漠に追い込まれた、所謂文化人は、
硫酸の雨と、煤煙の霞に、霊魂を旱しにしてしまった。

この末の日に、神と偕に歩む一日は、至聖者の姿を肉塊の上に現像させたイエス
のごとく、足どりを決定するほか道はない。

彼が、馬槽より 十字架まで歩いた不思議なる足跡は、
五尺の受肉者が体得し得る至高の道であった。

彼は、聖書をそのまゝ自己の生活の上に実現さした。
そこに預言は成就し、神の言葉が、肉体として現された。
不思議なる歴史の変転の上に、不思議なる愛が盛られ、
自己の安全を棄てて、人の罪のために、
新しき約束の血を流した潔い恙の血こそ、
罪に悩む者にとつての永遠の福祉の源である。

この現実の血を、我々の血脈に輸血して、神の愛に甦る日、
「我」は死んでまことに神の霊が私の胸に甦る。
かうして私は、新しく造り変へられ、醜い歴史は、
新しき愛の歴史として醗酵し、愛の血は新社會に躍る。

不思議なる愛の洪水に、古き家々は洗ひ流され、
醜き我慾は、すべて姿を没してしまふ。

おお愛の水準よ高まれ! 
脛を浸せよ、腹まで浸れ、頸も、頭も、浸つてしまふがよい。
降れよ、愛の五月雨よ! 剣劇の血雨にもう我々は飽いた。
我々は、十字架から迸り出る愛の洪水に
すべてを圧し流してもらはなければならない。          
 
おお、友よ、洪水にそなへる準備は出来たか! 
この洪水のために、ノアの箱舟を造る必要はない。
勇敢に飛込んで、沖へ沖へ押し出されるがよい。

けがらわしい国境も、民族的皮膚の色も、好色も、詐譎も、
みんな洗い流してもらふがよい。

愛の洪水は、フランスと独逸の国境を拭い消し、
黒人と白人の皮膚の色を拭き消してくれるだらう。

天地の創出に、すべての動物は、
海水のうちに湧いたと、生物學者が教へくれる。
然し冷たい海水から冷血動物が生まれ、
温かい血から温血動物が生れるのだ。

新しい血から創造された新しい温血動物は、
愛するために、新社會を創造しなければならない。

湧けよ、赤き血の海よ、
愛の海潮は、我々の胸に轟け! 

民族と階級と、貧富と伝統を蹂躙して、天にまで湧き上るがいい。

あゝ、湧けよ、湧けよ! 
赤き血潮の海潮音よ! 
地球の地軸が、真直に舞ひ戻るまでたかまれよ。

魂のサハラに、ゴビの廣土に氾濫せよ! 
コンゴ低地に海水を入れたゞけでも、
地軸の歪みが、変るといふではないか。
さては、コンゴ低地にも浸水せよ! 
魂にうけたる十字架の潮よ!

地球の表面を包む海潮には、一日二度の変化のあるものを、
なぜ魂の世界に、十字架の血潮は高まらぬか。

おお、高まれよ、高まれよ。
愛の血潮の満潮よ。
ヨーロッパは、戦筝と革命のために、千萬の人骨を平野に撒き、
世界は腐肉で臭くなってしまった。

あゝ、愛の血潮の満潮よ、
この白骨と、この人体の腐肉を一刻も早く包み隠してくれ。
海はすべてを浄めてくれる。
そのごとく、愛の血潮よ、浄めの力を持ってくれ。
            
もう潮がさしてくる時ではないか、
おゝ友よ、魂の砂時計が、それを報じてゐるではないか。

今日の潮時は子の刻か? 丑の刻か? 
カルバリの丘より、絶えず霑してきた不思議なる愛の潮よ、
もう私と、そして私の住んでゐる地球の表面に、
愛の満潮がさしてきてもいい時ではないか!

一刻、二刻、魂の砂時計に、私は愛の水準の高まるのを覚ゆる。
あゝ、至聖者よ、神よ、
私はあなたの脈拍を、私の心臓に感じます。

  一千九百三十年十二月十一日
  
         賀 川 豊 彦

           武庫川のほとりにて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第55回)

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「王子動物園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作―序文など

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               第55回
        

    クリスチャンダイアリー 昭和四年
    Christian DIARY 1929


        昭和3年12月10日 柳沼書店 およそ400頁

 少し後先になりましたが、昭和3年12月に賀川豊彦の編集として『クリスチャンダイアリー』の1929年用を柳沼書店より出版しています。

 これはたまたま見つけたもので、このような日記帳はこれが最初であったのか、それとももっと以前から出していたのかは確認できていませんが、この後にも出版されていたのかもしれません。

 手元にあるものは、1月16日までのところが抜き取られていて、月ごとにカラーの絵が添えられていますが1月のそれもなく、賀川の「序」も入っていたのかもしれませんが、それも欠けています。毎頁に賀川の短い言葉はもちろん、聖書や華厳経、徳冨蘆花やパスカル、ルターやテニソン、フランシスやガンジーなどなどの言葉が掲げられています。

 多忙の賀川がこれを編纂したのかは疑問も残りますが、選ばれている言葉もまた、興味深いものがあります。

 大変立派なつくりになっていますが、ここでは前記の2月4日のところから2月15日までのものを取り出してみます。



            *            *



          二月四日 月曜  神に孕れたる者

 さうだ、噫さうだった。私が神を信じて居るのではない。神が私を孕んでゐるのだ。此麼に永く私が眼を閉ぢねばならぬと云ふ事も其処にあるのだ。窮屈な思ひをせねばならぬと云ふ事も、矢張そこにあるのだ。私は胎まれて居る。神に胎まれて居る。神が私達に何か大きな期待を持って居られるのだ。苦しいから、悲しいからと云って、自暴自棄に陥ってはならない。神が私を胎んで呉れて居るのだ。


          二月五日 火曜  高笑せよ

 我等は高い聲して、笑はなけれぱならぬ。凡ての偶像を笑ひ、几ての虚栄を笑ひ倒さなけれぱならぬ。アリスタイデスの笑ひに、ギリシヤの偶像は低められ、ルシアンの笑ひに、ローマ帝國の偶像は無価値なものにせられた。サーバンテスの笑ひに、封建の騎士は鍋を冠る夢遊病者の扱いを受けた。ボルテールの笑ひにフランスの権力階級に地位は危うくなり、新しき時代がそこに生まれた。笑ふが善い。


  ‘       二月六日 水曜  東洋精紳

 維摩の世界は贖罪の世界である。それは東洋に於ける、至大の芸術である。私はその見地を歩きたい。然し維摩には贖罪の世界に到建する、求道者の道を書いて呉れてゐない。求道者の道を教へて呉れるのは華巌経である。華巌の世界に於て私は、私の魂が地に着い
てゐることを発見する。人はそれを哲學だと云ふ。然し私はそれを、道徳心理學だと考へてゐる。そして私はキリストに於いてのみ東洋精神の完成をみる。


          二月七日 木曜  鉄槌の打おろさるる所

 刻々の生活が、神の心境であり、一切の作業が燃焼したる神の焔である。台所に行っても、神に逢ひ、井戸端に行っても、神にみいられ、エ場に急ぐ、電車の吊革にぷらさがる時も、神に呼吸し、鉄槌を振上げて、鋼鐡版を打ちなめず時にも、神の懐にあることを知
る。これが真正の魂の姿である。


          二月八日 金曜  慈  愛

 聖者は此丈慈悲行に促されて深妙な心を起し、萬有救済の佛智を体して大施行を完ふする為に、自已の一切を捧げて惜むところがない。金、銀、瑪瑙、瑠璃、珊瑚、琥珀、真球などの珍賓、装身具は元より、愛する象、馬、輦與、下僕、婢女、国土、城邑、公園、劇場、妻妾はおるか自らの頭目四肢までも與へて、毫しも惜まぬ。これ全く萬有救済を生命とする佛智を体現せんとするからで、そこには一切を施し尽した上に施に就て與へるとか、受けるとかの考さへ止めぬ。(華厳経)

      
          二月九日 土曜  柔  順

 イエスには柔順な神が現れた。理屈でなければ判らない、現代人には理屈ばかりの神しか現はれて来ない。私はあまリに理屈を云はないで、ごぐ柔順な心で宇宙の心を父と呼んで居る。理屈を言ひたい人が、それを宇宙の法則と云はうが、また宇宙のエネルギーと云はうが、それは私に関した事ではない。私は柔順で居りたい。兎に角私は、宗派の相違で喧嘩するのは大嫌ひである。私に柔順でありたい。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第54回)

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「後藤書店ギャラリーでの<大震災とヴォーリズ展>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




   賀川豊彦の著作―序文など

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               第54回
        

     フレデリック・D・リート著
     『キリスト教兄弟愛史』

              賀川豊彦・内山俊雄共訳

          昭和5年9月10日 日曜世界社 560頁

 この年(昭和5年)既にステッド著『キリスト教社会愛史』を翻訳出版していた賀川は、今度は内山俊雄との共訳で本書リート著『キリスト教兄弟愛史』を完成させました。前書は新潮社でしたが、今回は馴染みの日曜世界社の出版です。

 先に取り出した昭和4年の『ジョン・ウェスレー信仰日誌』の翻訳を皮切りに、ゼ―・ラッセル・スミス著『世界食糧資源論』、ジョージ・エリオット著『ロモラ』、さらに4巻にもわたるフリードリッヒ・A・ランゲ著『唯物論史』など大著の翻訳をこの2年間ほどでなし終えています。さらに翌年(昭和6年)には賀川自らジョン・ラスキン著『ヴェニスの石』の翻訳も手がけ、その後も数多くの翻訳をすすめました。

 では今回も、賀川豊彦の書き上げている「序」を取り出してみます。



        キリスト教兄弟愛史
       
         は し が き

 祈ることと愛することとは一つである。我々は神の愛を信ずるが故に祈るのである。我々の祈りは我儘な祈りでなく、愛の祈りである筈である。キリストの道は愛一元である。教儀も、教條も、愛に就ての説明にしか過ぎない筈だ。

 それをどう間違へたか、我々はあまりに長く、教條の闇にさ迷ふて、愛することを拒絶して来た。私は、キリストの教をもう一度、この愛の世界にとり戻したい。

 それで、私は十九世紀間に、イエスの愛が歴史的に、どんな形で発展したかを調べる必要があり、前には竹中勝男氏と共に、ステッドの『キリスト教社会愛史』を翻訳し、今また茲に、リートの『基督教兄弟愛』を内山俊雄氏と共訳することの出来たことを愉快に考へる。

 全編凡て感激の愛史である。そこに霊魂のオアシスが発見される。私は愛の勇者をそこに発見するばかりでなく、神の愛をそこに見出し、キリストの十字架が、今猶連続してゐることを見て喜んでゐる。

 日本に於けるキリストの運動は、この道に従って発展すべきものである。ただ、古代より最近代にまで愛の歴史を辿る中に、近代になって愛の運動が、社会全体に對する愛の責任より、漸次教會内に引込み、その教會内の愛の実行すら、生活の根本に触れないで、資本主義の罪悪と戦ふ大きな使命を忘れてしまつたかの如き感を與へられ、私は多少悲しみを覚える。

 我々は、キリストの愛の使命が生活全部に及ぶべきことを考へる。近代のやうに、ばらばらになった兄弟主義を、生活全部に對する兄弟愛にひき直して実行せねばならぬと思ふ。

 即ち、教会は、個人的の祈りのみをする處でなく、愛のために祈り、愛の実行機関であり、完全な共済組合組織と、完全な社会愛の実行機開であらせたい。

 私は幼稚な日本の教會が、この方向に向き直るために、我々のこの小さい努力が、少しでも參考になるならば、この栄光を凡て神に帰したいと思ふ。

  一九三〇年五月廿六日

             賀 川 豊 彦

                武蔵野にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第53回)

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「高取山の鳥の巣箱」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第53回
         

        家庭科学大系

     宗教教育入門(附・宗教入門)

        昭和5年7月10日 家庭科学体大系刊行会(編集人賀川豊彦)

           宗教教育入門 132頁 宗教入門 188頁

 「非売品」として刊行されている「家庭科学大系」の一連の企画については、既にここでたびたび触れてきましたが、本書『宗教教育入門<附・宗教入門>』がこの企画の賀川の著書としては最後のものになるようです。

 附録の『宗教入門』の方が分量が多く、『宗教教育入門』と独立した2冊の書物が合本になっていて、ノンブルも別々につけられたままで、双方ともに賀川の「序」は書かれていません。前に取り出した『宗教教育の本質』は、多忙の中を賀川が自ら執筆して完成させた作品ですが、本書の場合は、講演記録としてできています。

 従っ別掲のように本書の表紙と扉、そして2冊の著書の目次を既にUPして置きましたので、今回ここでは、序文のないままになります。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第52回)

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    賀川豊彦の著作―序文など

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                第52回
                
      神に就いての瞑想

         昭和5年6月15日 教文館出版部 191頁

 教文館出版部の手がけた本書『神に就いての瞑想』は、続く『キリストに就いての瞑想』『十字架に就いての瞑想』、そして『精霊に就いての瞑想』という四部作として名高い作品で、『賀川豊彦全集』にも収められています。

 本書は、賀川の「序」のあとに記されている「著者より読者へ」によれば、「吉田源治郎氏、黒田四郎氏、吉本健子姉の努力によって出来たもの」であることが記されています。

 彼の「序」の中でもこれは、私にとって大切なものです。早速表紙と共に、それを取り出して置きます。



         序

 瞑想の森に分け入ることを覚えた私は、露のやうな滴りをその森から容れるやうになった。

 真夜中に、白昼に、曙に、黄昏に、私は何処にも瞑想の扉が開かれていることを知った。電車の中、汽車の中、待合室、獄房、路上、到る処で、私は瞑想の休息所を与へられ、そこで泌々と、私の胸に宿り給う大能の神に就て静思することが出来る。

 アッシジのフランシスは白日の太陽を仰いで、瞑想し祈をしたと伝へられ、ソクラテスは弟子達と歩いてゐて、突然数分間路上に佇立して瞑想をしたと、弟子プラトンが伝えている。阿含経をみると、釈迦もまた同じ習慣があったらしい。

 イエスは、四十日四十夜、荒野に退いて瞑想し、ある時はまたガリラヤの山地に徹宵して、祈と瞑想に送られた。

 瞑想の泉を汲むものは、神が我々の棟に密接して住み給ふことを経験する。けたたましく忙しい機械文明の今日に住んでゐて、猶、太古の静寂を発見したいものは、瞑想の領城に辿り着くより仕方がない。

 私は、視力を失って後、この聖域に接することか出来て、新しい泉を発見したやうに喜んでゐる。

 無為のときも、無策の日にち、瞑想は先方から私を訪問してくれて、神殿のとばりを高くあげてくれる。

 私は、芝居の舞台裏に、台風の夜に、忙しい熱閙の巷に、瞑想を通して神を讃美する。神は、私の安息所であり、私の蓄電池であり、瞑想の前に、死も青醒めて消え去り、苦痛も、その威力を麻痺させる。無学な私にも、大能の神は、瞑想の裡に安んじて憩ふべきことを教へて下さる。

 私は、神経衰弱に疲れた現代人が、見る前に、読む前に、歌ふ前に、戦ふ前に、まづ本然の瞑想に帰らんことを要求する。

 胎児は母胎の十ヶ月に、読むことなく、走ることなく、瞑目して安居する。瞑想の工夫は神の懐に倚る胎生である。

 私は静かに神の脈博を瞑想のうちに感じ、神の血に肥らされ、瞑目のうちに、光の世界へ踊り出づる日を待つ。私は呼吸することなくして、生き、動き、且つ在り得る。

 ああ、不可思議な胎生よ、地球は大きな母胎であり、また乳房である。私は人類の凡てが、もう一度この大きな母胎に復帰し、神の血脈に、自分を繋がんことを祈って止まない。

  一九三〇・五・二九   
      
            賀 川 豊 彦

                武蔵野の森の一隅にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第51回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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               第51回

           
      神と聖愛の福音

       昭和5年6月10日 下関福音書館 198頁

 ほぼ1年前に賀川豊彦の著書『神による新生』を出版した下関福音書館が、引き続いて本書『神と聖愛の福音』を刊行しています。廉価なかたちで初版から1万部を印刷して版を重ねています。

 本書の「著者より読者へ」の頁には、「この書は、昭和4年から昭和5年にかけて講演(筆記者吉本健子・黒田四郎)をもとにしている」ことが記されています。

 これも『賀川豊彦全集』には収まっていませんが、とりあえずここでは、重要な「序」を取り出して置きます。



         序

 不思議なのは、宇宙の現象であり、私の存在である。

 ぢっと眼を据えて、私の目の前に置かれた机、椅子、紙、書物、畳、靴下、障子、土、樹木、葉・・・花を凝視していると、私は、無生物と生物が、私の前に描く不思議な戯曲そのものに昏倒する位、驚異の世界に釣込まれて行く。それだけで私の宗教が、既に成立するに拘わらず、私はさらに、第二の不思議に送り込まれる。

 其処は、静かに秩序を保って呉れる「物」の世界ではなく、一秒間に十九哩走る地球の速力と、八分間に九千三百万哩走って来る光線の速力と、その光の速力をもって、百年かかってもまだ走り了せないと云う、大宇宙の大速力の驚異の世界である。その不思議な凡百の世界に統一があり、統一のうちに、複雑な組織が横たえられ、宇宙の力は盲目ではなく、人間以上の意匠によって設計せられたることを、私は沁み沁みと教えられる。これを見ただけで、充分私の宗教が成立するに拘わらず、私は更に、第三の不思議なる世界に送り込まれる。

 其処には、芥子だねの中に大きな幹と枝が蓄えられ卵のなかに雄鶏が胚胎され、赤ん坊の脳の中に、ニュートンやアインシュタインの法則が秘められ、アミーバより人類までの進化が、不思議なる展開として、時間の行進曲の上に展列される。私にとっては、成長の事実ほど不思議なものはない。この不思議な事実を見ただけで、私は驚異の讃歌を歌え得るに、更に私を、第四の不思議な世界に連れ込むものがある。

 其処は、太陽の輝きと、星と月の色彩によって飾られる。幾十萬種の植物の葉が、一つとして同じ形のものはなく、みんな違った形をして天地を飾る、一つとして同じ花はなく、凡て人間の目には、美しい曲線美と色彩を以て、空間の世界にえぐりつけられて行く。その美の世界、それにもまして、動物の不思議な形体と、人体の美の不思議なる組み合わせによって、私は、宇宙を衣とし給う神が、単に力のみではなく、単に成長のみではなく、美と、優れた姿に、凡てを芸術化し給うことを信ぜざるを得ない。これだけでも、私は、私の宗教の事実を疑えないに拘わらず、私は更に、第五の不思議なる世界に導かれてゆく。

 其処は、人間の凡ゆる経験を通じて、宇宙を着給う神が、人間の胸に良心を植え付け、その良心を通し、後に来るものに、朗らかに叫び給う神秘なる歴史の世界である。歴史の水平線に聳える良心の絶頂がいくつか並ぶ。その架空線を連絡させると、神の足跡が印せられている新しい雪線が発見せられる。それこそ、神の黙示であり、永遠より永遠に物語り給う神の放送である。

 旧約より新約への物語は、ただ一編の歴史ではない。それは、良心の峰より峰に歩み給う神の足跡の印象記である。

 おお、絶望と憂慮に慄えている失敗の子よ、お前の上に希望の太陽が昇っているではないか。宇宙を着給う神が、十字架の上に絶対の愛を現し、人間の魂に復活のあることと、凡ての失敗を神自らが尻拭いし給うことをし給うたではないか。洞穴に隠れて、神の審判を呪詛する狼の子よ、お前の恐怖は見当違いだ。

 神はおそれの神ではなくして、至愛の神だ。審判の神ではなくして、贖罪の神だ。愛だ、愛だ、愛だ、至高の愛だ! 

 全世界に責任をもって、全世界の最後の欠点まで責任を負い給うは、キリストの「神意識」のうちに目醒めた、最悪者に対する贖罪の責任感ではないか。この世界凡てに対する責任の意識なくして、人類最後の解放は期待出来ない。

 この最微者、最悪者に対してさえ、責任を意識する神の如き自覚の中に、経済的解放も、政治的解放も、社会的解放も、肉体的解放も、精神的解放も凡てが含まれている。これは解放の解放である。それで、紀元一世紀の聖者たちは、これを福音と呼んだ。

 人類を解放せよ! 資本主義的圧制より階級制度の桎梏より情欲の鉄鎖より、野獣の暴虐より、人類を解放せよ。そして我々は一つの解放に、更に新しき一つの解放を加えるとき、人類の解放が、キリストの十字架の上に流した贖罪愛の解放以上に出ていないことを発見する。

 福音の鐘よ、高鳴れよ! 村に、町に高鳴れよ、そして最後の人間を解放するまで、鳴り続けるがいい。

 あゝ、福音よ、踊り出でよ、日本のために忍耐したる福音よ、日本の最後の最微者を贖ってくれ、日本は福音を待つことが久しい。

 日本の暗い台所の押入れの隅まで、福音の高潮で浸してしまうがいい。あゝ、福音の津波よ、日本の罪悪をかっさらえて行ってくれ、生命の台風が南から北へ進むとともに、私はその福音の津波の来襲することを待っている。聖霊の台風よ、真っ直ぐに、日本の上を南から北に通過してくれ。

  一九三〇年五月二十三日

           賀 川 豊 彦
  
              武蔵野の森にて
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Author:keiyousan
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