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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第109回)

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「春の山野草展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten,co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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            第109回



    『神よりの福音』


     昭和21年8月20日 愛育社 150頁


 本書『神よりの福音』は、戦後に書き下ろされたものではなく、戦前昭和3年~4年にかけて発行されていた「信仰リーフレット」を一部改稿されたものを編集して出来た作品ですが、賀川によって、「1946・6・24」付けの「序」が入っています。

 発行元は「愛育社」で、ここからは昭和23年に『死線を越えて』の再販も出ています。

 


         『神よりの福音』

            序


 うるさい事が起れば逃げ出したいのが東洋風だと考へる人もある。それを儒者と云ひ、隠居と云はれ、それをしも喜ぶ人もある。老人になれば東洋風が善いと或る人は云ふ。またニーチェは超越を説き愛と奉仕を侮辱し、十字架の道を奴隷の道徳だと罵った。
             
 然し、超越の道を説いたニーチェが脳黴毒の患者であったことを知れば、超越的自我狂は、黴毒性の麻痺性痴呆であることを知らねばならぬ。天上より地上に降る受肉化身の道は、芸術的表現と軌を一にする。人生創造は表現と受肉性の中に仝能者の意志を傅へ、絶對者の愛を有限の色相に翻訳しなければたらない。
                                       
 キリストの道は絶對より相對へ、無限より有限へ、神の愛を翻訳するごとにあった。それは穢れたもの、吐棄すべきものとされた。この誘惑多き肉体の世界にすら、神の聖なる光栄の姿を顕現させることにあった。此意味に於て預言者マホメットの途と、キリストの途は全く違っていた。キリストの途は化身顕現の超越逃避の弁償法ではなかった。キリストの道は有限の世界に人類を救ふ可らざる弱体者として見捨てるのではなく、贖罪愛によつて、有限を無限に、相對を絶對に結合せしめんとの苦闘にあつた。そこにキリストの福音による勝利が保証せられる。
    ’
 化身せよ! 十字架の上にまで救はんとする意志を持つ天父の愛を顕現せよ。人間の原罪をのみ恐怖して、原罪を滅し得る受肉化身者の愛を忘れるな! 我等も勇敢に愛による化身奉仕の道を選ばねばならぬ。

   1946・6・24

          東京松沢にて
     
             賀 川 豊 彦
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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第108回)

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             第108回



   『THE LECTURE 講演 日本復興の精神的基礎』


    昭和21年7月15日 東京講演会 31頁


 これは「東京講演会」というところが、「THE LECTURE 講演」という表題で、30頁ほどの小冊子を編み、この号は「644号」です。

 これには、「日本復興の精神的基礎」と題する講演のほか賀川の二つの作品―「キリスト教兄弟主義」(「火の柱会報」に掲載された松沢教会における説教)と「世界連邦制度の創造」(おなじく「火の柱会報」に掲載されて一部改稿したもの)―が収められています。

 いずれも重要なドキュメントですが、ここでは講演の冒頭のみを取り出して置きます。



        日本復興の精神的基礎
         
          民族滅亡の原因


 歴史めあとを顧みると、或る民族が興って倒れて行く順序は多くは内部的原因にその要素を発見致します。勿論外部的原因も数へ得るけれども、文化が進むと労働を忌避する傾向になり、労働を忌避する傾向はやがて文弱に流れて、それぼ身の破滅に陥ってしまふのであります。例へば、最も顕著な例がローマ帝國の滅亡であります。ローマ帝国はローマの市そのものが人口六十萬くらいで、奴隷がその四倍の二百四十萬くらゐあったといはれてをります。そしてローマ帝国は御承知の通りにデモクラシーを持ってはゐたけれども、それは種族的デモクラシーで、自分の国を一旦出てしまったらデモクラシーは作用せす、他民族は奴隷にするといふやうな非常に偏頗なデモクラシーを持ってをりました。それで奴隷をつれて来るといふと、市民は勤労を拒否し、奴隷に労働をさして自分等は失業保険金のやうな一日五十銭くらゐの金を貰って、朝から闘牛を観に行くといふやうな妙な風潮を帯びて参りました。それで、ドイツ民族が北方から迫って来て、ローマの内部にゐる奴隷になって来たところのドイツ人と外部のドイツ人とが一緒になって反乱を起すと、帝國ぱ瞬く間に顛覆してしまったのでありまず


              ローマ帝國滅亡前奏曲


 そのことが新約聖書に載ってをります。新約聖書ロマ書第一章の終わりには、ローマ帝國の滅亡前奏曲ともいふべき光景が書いてあるのであります。
第十八節に・・・・・       `
 
 
                   性道徳の堕落

 かういったやうに、ローマ帝国に於ける偶像礼拝といふものは、ローマ帝國の國民の内部的精神の現はれであるといふやうにとつて、宇宙の根本の神ぞのものを第一原理としないで、偶像主義的傾向にも・・・・

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第107回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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             第107回



  『LUCKY SERIES 協同組合の理論と実際』


    昭和21年6月20日 コバルト社 58頁


 本書『協同組合の理論と実際』は、「新生活のパイロット・ラッキー文庫」の第3冊目として企画刊行された小冊子です。これの第1冊目は賀川の『新生活の道標』でした。

 本書は「世界平和と組合国家」を構想する重要な道案内となったテキストで、別の連載で取り上げた武内勝氏の神戸で手がけた「失業共済保険制度」に関しても言及されています。

 このような重要な論考は数多くあり、全集にも収められていませんが、ここでは賀川の短い「序」を収めて置きます。



         LUCKY SERIES『協同組合の理論と実際』

                   序


 社會は意識によって繋がる。「社会は精神の衣である」と、社会學の創始者アウグスト・コントは云うた。意識の日醒めの無いところに計画経済も無ければ、統制経済もあり得ない。自然のまゝに生活するものに経済は不必要である。経済は意識と共に展開する。利己意識に資本主義は根ざし、国家主義にナチスとファシストが産まれ、階級意識と共にマルクス経済が成長する。全世界の全人類を包括し得るものは蓋し全社會連帯意識を基礎とする協同組合経済でなければならぬ。國際聯合が国際協同組合本部をサンフランシスコ会議に招待したのも故あるかなである。協同組合の目醒めの外に世界平和の道なく、侵略戦争絶滅の道は無い。全世界四分の一の人々が今や協同組合に加盟しでゐる。この為にこそ我等は奮起して、日本の協同組会化に専念すべきである。協同組合は産業民主の根本方策であり、政治的民主主義の根底をなすものである。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第106回)

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   賀川豊彦の著作―序文など
     
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            第106回


    『小説・再建(さいこん)』

      昭和21年5月20日 大阪新聞社 164頁


 本書『小説・再建(さいこん)』は、敗戦後に出版された賀川の小説第一作です。賀川戦前戦後一貫して目指したのは「協同組合運動」による社会形成でしたが、戦前に活躍した大阪「共益社」の中心人物「間所兼次」の働きなども取り上げて著した「協同組合小説」の一冊が本書です。

 「間所兼次」に関しては、「吉田源治郎・幸の世界」で詳しく取り上げる機会がありました。(http://ameblo.jp/taiwa123/ を経て該当箇所を検索してみてください)

 小説ですので序はありませんが、ここでは間所兼次のこととと思われる箇所のひとつを取り出して置きます。この小説も、全集には入りませんでした。



      『小説 再建(さいこん)』

        新日本の殉教者


 火葬場から大谷兼次の、白骨を聖隷保養農園まで持って帰った兼次の長男一郎と、小林藤吉の二人は、汽車の時間の都合で、お骨の入った白い包みを一郎と共に酉に送り、藤吉も一緒に大阪まで引返すことになった。三十年近くも、困難な商業都市で、消費組合運動の為に闘った戦友の遣骨を抱いて列車に乗ると新しい感想が胸に湧いた。

 千載一遇の社會革命期に際して果して、協同組合が勝利を得るか如何かは日本歴史を支配するとしみじみ感じられた。資本主義は、日本を敗戦に導いた。その敗北に導いた資本主義をもう一度跋扈さすならば、日本は永遠に立ち上り得る道が無い。東海道の凡ての都會は空襲で焼け野原になつてゐる。そして、焼けずにに残つてゐる人間の心までが焼野原になつてゐる。今日、これをどうして再建するか、結局帰って来る所は大谷兼次のやうな純情な協同体意識を持つ殉教的精神の他にないと藤吉ぱ考へた。養老山脈の上に夕日が没して行く濃尾の平野は日本の敗戦を知らぬかの如く、平和な空気に包まれ、春の芽生えの下準備をしてゐた。はや、麦は鳶色の土を破って、一寸位も延び、長良川も揖斐川も、水晶のやうに澄んでゐた。「國破れて山河あり」の言葉が思ひ出されてならない。然し支那の聖人孔子は、亡國の悲哀を見た殷の子孫であり、印度の聖者釈迦の王國は彼の遊行中に滅亡した。そして、世界の聖者と崇められるユダヤの國のイエス・キリストが、ローマ帝國に滅亡させられた敗北の子であった、さう考へると、日本は、敗北によって、却って世界を澗歩する神聖なる思想を生み得る好機會に恵まれてゐることを思はざるを得なかった。

 「お父さんの遺志を継いで、君は日本の協同組合運動のために一生懸命勉強しなけりやいけないよ、日本を協同組合化するには一代や二代では出来ないんだからお互ひにしっかりやらうぜ」

 さういって、大阪駅頭で、小林藤吉は、今年十八歳の青少年大谷一郎の手を握った。
 父によく似た柔和な顔をした一郎は、目に涙を浮べて、答へた。

「必すやります、私は父の遺志を継いで、一生を協同組合運動のために捧げます。そしてこの日本を救ぴます」その言葉に小林藤吉も、貰ぴ泣きをした。       ’

 終戦後、六ヶ月経った大阪には辛うじて梅田駅前に少しばかりのでバラック店が建ったばかりで、息を吹き返す気配も無かった。その晩彼は、夜遅く、自宅に帰ったが藤吉の弟照夫と、妻の妹やす子が相変わらず、仲善くして留守番をしてゐた。久し振りに兄を迎へた照夫は、學校の話をしないで、大阪の消費組合が勢よく名方面で組織されつつあることを兄に報告した、そしてやす子も面白さうに藤吉に云った。

「私の會社にも今度職域消費組合が出来ましたのよ、此の間、高い高い鰯が入りましたわ、あんな消費組合なんか、出来たって仕方がありませんね、オホ……」

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第105回)

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「神戸布引ハーブ園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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            第105回


    『新日本の衣食住―かくすれば困らない』

         (朝日時局新輯)


       昭和20年12月30日 朝日新聞社 51頁


 本書『新日本の衣食住―かくすれば困らない』は、敗戦後に「時事選書」の一冊として31頁建ての冊子『デモクラシーー民主主義とは何か』に続いて刊行された朝日新聞社による「朝日時局新輯」の51頁の講演記録の一冊です。敗戦の年(昭和20年)は、この2冊のみです。

 この講演記録には「序」はありませんので、冒頭の短いことばと、講演の最後の箇所だけを取り出して置きます。




         新日本の衣食住

        ―かくずれば困らない―


 (本講演の冒頭に言葉)

 昭和二十年八月十五日は、日本にとって最も悲しき日となった。しかし、武装解除による新日本の誕生は、世界に對する新しき出発点を與えることになり得る。曾ってスエ―デンは十七世紀の初頭より、いはゆる三十年戦争の指導國であったが、矛を収めて自ら武装を解除するや、文化の点においては、國こそ小さけれ、世界一の優秀國となった。斯くの如く、恐らく日本も武装解除によって、新しき文明を産み得る可能性の最もある東洋の指導國として再出発することが可能になるであらう。


 (本講演の末尾の言葉)

         組合都市を創れ                                                                                           

 若しも大規模、都市生産消費組合を発達させようと思へば、南ドイツ、オーストリヤ地方に於てやってゐるやうに、都市を組合化すればいいのである。ウヰーンは、公設市場等も、消費組合と市役所が半分半分に出資してゐる。税金でやる事業は非常に限られてゐる。殊に現今の日本の市役所の如きは、生産事業は出来ないことになってゐる。そんなことではこれからの市民に、食糧を十分賄ふことは出来ない。これからの市政は、最低生活を保証しなけれぼならぬ。従って牛乳や主要食糧の如きは、市自ら生産する必要がある。従って周園の農民と直結する必要がみる。その運転資金は、生産消費組合で集めればよい。そしてその本部を市役所内に置き、市長自らがこれを管理すれば良い、このくらゐの大きな組織を持たなければ市民の生活の安定は出来ない。

 ウヰーン市の百貨店も矢張りこの式でやつてゐる。日本の百貨店組合會長里見純吉氏の如きも、私にもらされた意見であるが、「百貨店自身が消費組合の使命に目覚め、百貨店の一部分を消費組合的に直し、周囲の何十町かの町會に奉仕すぺきである」を主張してゐる。ボストンで最大のデパートを経営してゐる米國で有名な百貨店組合の組合長ハアイリン氏も、同じことを私にいってゐた。

 贅沢品は何も消費組合で販売しなくてもいいが、最低生活に必要なだけの物品だけはどうしても消費組合式の方式で発達さすべきが、今日の使命であると私は考へる。

 ウヰーン市の如きは、この組合都市経営を完全にやってゐるために、一九一八年以後の欧洲大恐慌の真最中においてすら、銀行の取付けも無く、失業問題も起らす、市民の一人さへ餓死しなかった。然かもオーストリヤは、敗戦の結果、國土は七分の一に減じ、國民の半数がウヰーンの都市に集中するといふ珍らしい現象を示したのであった。このやうな悪條件のもとに、一人の失業者も出さなかつたといふことは、全く都市行政を協同組合化した結果であったと、オーストリヤの協同組合主義者は私に誇ってゐた。                   
 ウヰーン市の住宅政策は世界一であることも周知の事費である。これは住宅組合と富籤の二つの方法によつてゐる。いづれにしり、都市行政といふものを、税金のみによつて処理するやうた原始的考へをを拾て、組合経済及び組合社会政策を完全に取入れなければ、都市の良糧問題も、叉被服問題も、住宅問題も、失業問題も、庶民金融問題も絶対に解決出来ない。

 市役所を行政の一地区と考へる時代は、もう過ぎた。都市には都市社会政策がなければならぬ。都市の社会政策は市営だけではうまく行かない。市営だけでは官僚化する恐れがある。矢張りウヰーンの如く、市営の要素と、協同組合の要素を、並行して行く新しき都市行政の如きが、最も能率的であることは既に実証せられた事実である。

 日本においても、この方向に進むのでなければ、絶対に戦災にによって焼失した七十七の都市を、近代的都市として復興することは出来ない。六坪二合五勺位のバラックを建築する位の程度であれば、協同組合の力を借りなくてもいいけれども、全部に四階建ての鉄筋コンクリートの家を造ろうと思えば、どうしても協同組合式に都市行政を持って行かなければ、資金を豊富にすることは出来ない。そしてその資金も、市役所と協力する生命保険組合に資金を仰ぐ必要がある。生命保険の金は、無利子で長期に使える。そして住宅が改良せられれば、せられる程、死亡率は減退するから、生命保険会社の方も利益になる。かうした都市死亡率の減退運動と、市役所の住宅政策が一致するやうにならなけrば、真の都市行政は出来ない。

 今日のやうに、住宅政策においては貧民窟をつくり、伝染病の発生した時だけ市の術生課が走り廻るやうな低能なる都市行政では、市民の生活は安定しない。

 要するに、都市の行政といへども、市民各自が、有機的に市役所と結合し、都市生産消費組合及び都市信用組合、都市生命保瞼組合等の機構が、市役所内に入って来る時代が来なければ、理想的な都市行政といふものは不可能である。これは都市の教育、育英資金等の問題についても同じことがいへる。

 中世紀のギルド都市が、組合と取り組んでゐた如く、近代の都市も亦資主義的搾取を免れんとするならば、市自らが各種の産業を経営するのみならず、市民自らが組合員となる、都市組合事業を根幹とする各種社会経済施設及び社会事業を、組合的に市役所自身が経営する必要がある。この方法により始めて近代都市は生れるのである。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第104回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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             第104回


    『詩集 天空と黒土を縫合せて』

     昭和18年5月20日 日独書院 234頁


 本書『詩集 天空と黒土を縫合せて』は、『涙の二等分』『永遠の乳房』に続く賀川の詩集作品です。ここに収録された作品は、主として海外伝道(オーストラリア・ニュージーランド・フィリピン・北米・インドなど)に出かけたときのものです。


       『天空と黒土を縫合せて』

           序


 南海の龍巻は、千萬噸の海水を、天に送る! 熱帯の太陽は、スコールの彼方に光り、永の柱は、天と地をつなぎ、天界は、沃雲に閉さる。

 不義の低気圧に、正義の火柱は立ち、民衆の血潮は、天空に向つて、龍倦の如く、たぎり立つ!

 ルーズベルトの國民のみが、自由を持ち、アジアの民族のみが奴隷にならねばならぬと云ふ不思議なる論理に、太陽も嘲ふ。

 太平洋の海鱸も、北氷洋の飛魚も、不可解な、ルーズベルトの独善主義に、迷惑をしてゐる。彼がもし、アメタカ大陸に、モンロー主義を布き、アジアをも、その領域に含まんとするならば、太平洋の海鱸と、北洋の飛魚は、何處に引越すれば善いのだ! 海鱸はルーズベルトの為めに、安眠を失ぴ、飛魚は寝床を奪はれてしまつた。太平洋の水は、永遠に青く残されたものを、アジアを保護國の如く考ヘたチャーチルとルーズベルトは、遂に血を以つて、太平洋を永遠に赤く染めた。

 血潮の龍巻は起つた! 真珠湾の勇士等の血潮に、ソロモン列島の尽忠烈士の熱血に、義憤の血潮は、天に向つてたぎり立つた。

 「---大君のへにこそ死なめ、省みはせじ―-」私心を打忘れ、生死を超越し、ただ皇國にのみ仕へんとするその赤心に、暁の明星も、黎明の近さを悟り得た。

 ただ、私慾のみで、血潮を天には送り得無い! 血潮が、天に達するには、深き理由がある。日本民族は、楠正成の血と、幡隨院長兵衛の血を持つ。

 カルフォルニアに土地問題が起り、排日運動が勃発しでも、日本人の血は、龍巻とはならなかった。移民法の制定となり、日本人が北米に移民出来ねことになつでも、まだ龍巻は起らなかった。ルーズベルトはこの忍耐深き日本國民の寛容を打忘れて、日本民族一億の民衆に煮湯を呑ませた時に、日本民族の血は沸騰した。

 あゝ、血潮は沸騰して、天に冲した。歴史を貫いて指を運び給ふ全能者は、この血潮の龍巻を通して、人類解放の新しき頁を書き給ふ。
 
 嗚呼、アジアは目醒めた! 印度は解放を叫び、中華民國は米英に向つて呪の声をあげた! 天空と黒土を縫ひ合せて、新しき歴史は綴られて行ぐ。全能者は前進し給ふ。前進し給へ、全能者よ、汝の外に、驕れる者を低くし、曲れるを直くし給ふものはないのだ!  汝は創造し、汝は修繕し給ふ! 涙もて、黒土をこね恩讐をかこつ幾年が続くとも、全能者よ、汝のみは、歴史を支配し給ふ。されば、私は、新しき詩篇を綴りて、汝を讃美し、汝のみが、新しき黎明の彼方に立ち給ふを告白しよう。
         ‘
 大和民族の血潮は龍巻として、天に冲する。されば、全能者よ、我等の血を以て新しき歴史を書き給ヘ!

 天に連るもののみ永遠を獲得する! 血潮の持主よ! 天まで上れ!

  昭和十八年一月十日
      
         賀 川 豊゛彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第103回)

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            第103回


     『改定版 復活の福音』

      昭和17年5月1日 日曜世界社 126頁


 本書『改定版 復活の福音』は、先に紹介した昭和4年に出版された『聖浄と歓喜』を改めて昭和17年時点で改訂を施し、二分冊とし、一冊は当初と同じ『聖浄と歓喜』の署名で、一冊はこの新しい『復活の福音』と名づけて出されました。

 戦時下にあって賀川は「瀬戸内海・豊島」における生活を強いられ、そこでの執筆活動を続けますが、とりわけ本書には、ここでの新たな「序」を書記していることで注目させられます。



      『復活の福音』
         
         序


 冬枯の忍苦は新春の回帰によって祝福される。春よ、春よ、梅は綻び駒鳥は帰ってくる。然し、人間にはいっ春が帰ってくるのだ? 

 人間の胸底には幾筋かの虧裂が這入り頭脳骨の縫合せには罪悪の腐りが廻って、善を志す神経さへ麻痺してしまった。あゝ太陽は南より帰っでも、魂の新春は何處から、どう帰ってくるのだらう?

 泣くなよ、悲める子らよ! 救の太陽は霊魂の底より昇り、宇宙修繕の原則は、人類意識の更改より始められるのだ!

 罪悪の結氷は贖罪愛の熱に溶け、汚血の継承は輸血されたる義の聖潔によって、断滅するのだ!

 信ぜよJ それは可能なのだ! 可能の道は信ずる外は無い1 霊魂の復活は十字架に始まり、生命の代償は母の死によって、子供らの胸に傅はる。十字架は復活のために準備せられるのだ! イエスにとっては死は生命聖化の門出なのだ!

 苦悩もまた大能者の計書だ! 凡てが摂理なのだ、進行する宇宙は駅々の停車時間が短い! 此處が目的地かと云へばまた、発車し、此處が絡鮎かと思ふとまた、動き出す。さうだ全能者は自己の姿に似た賞在――自在性の意識者を作り出すまで、停車なさら無いのであらう。我等は彼の世嗣にせられ、彼の相続者として登記せられるのだ!

 あまりにも勿体ない光栄よ! 地上のあらゆる苦悩も、来る可き光栄に較ぶるに足り無いてあらう。何たる祝福! 何たる約束だらう!

 創造に預るさへ光栄であるに、さ迷ふ霊魂に回復と修繕の原理を告げ、血によって潔むるキリスト原則とその意識を顕現し、死を通してすら尚救はんとする大なる企圖を我等に啓示し給ふとは!

 死すら役に立つのだ! イエスに於ては、死さへ人類修繕の役割を有ってゐることが啓示されたのだ! 死は滅亡であり、破壊であり、絶望であり、断絶であると思ったのは間違いであったのだ! 「死」を代償として支払は無ければ、復活は無いのだ! 小さい自分が死ぬことによって神の子の意識を着ることが出来るのだ! 死は成長の為めに支払はれる脱皮だ!

 あゝ、もし人類に真の脱皮が許されるなら、私建は蠶(かいこ)のように四回でも五回でも脱皮して、蝶々になる準備がしたいものだ! おゝ絶望と憂鬱に閉されて居る霊に、復活の約束は與へられた! 私らは辛抱強く、その日を待たう!

  昭和十七年二月二十日
      
        賀  川  豊  彦

               瀬戸内海・豊島にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第102回)

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            第102回


    『宇宙修繕と人生修繕』

     昭和16年12月20日 聖化社 43頁


 本書『宇宙修繕と人生修繕』は、「賀川豊彦述、他日本基督教団成立感謝大会祝辞」の小さな記録冊子です。岩波文庫版のような仕上がりで、初版は「京都支教区版」ですが、手元にはもう1冊昭和17年3月の第5刷で「聖化社」版となっています。

 この講演記録は、口述そのままを忠実に筆記されていて、読み物としても興味深くもあります。

 ここには安田忠吉の「序」、そして当時の同志社大学総長の牧野虎次の「感謝の辞」を収めて置きます。周知のように、牧野虎次は賀川とは深い友情を結んでいました。




      『宇宙修繕と人生修繕』

          序


 日本基督教団成立記念の為に、感謝大会と記念講演会とを当支教区主催の下に開いた。何れも誠に恵まれた集会であった。此の喜びを永く記念し、又広く頒たんが為に霊感に溢れた賀川先生の大講演と感謝会の祝辞等を録して一小冊子を編んだ。若し是が一人でも多くの霊が神に結ばるる助けとなるならば誠に教団成立の此の上なき記念であり、感謝である。

 此の小冊子編纂の為に尤も多くの労苦を捧げられし、岸千年牧師及び谷畑佐一牧師と賀川先生の講演を速記清書せられた岩谷貞代姉の労に対し此の際厚く感謝の意を表す。

  昭和十六年十二月
                   京都支教区長
                 安  田  忠  吉




       感謝の辞
 
                   
       同志社大學總長    牧  野  虎  次


 基背教が日本のものなるかとの問に答へて、然り日本の基督教は出来上れりと、立派に指示し得るは、今回の日本基督教團の成立である。何となればプロテスタント数十派の大合同と云ふことは、教會史上、未曾有の盛事であって、何れの時代、執れの國にても、首唱する者は多くあったが、未だ曾て賞現することが出来なかったのである。斯かる大事件が爰に見事に出来就いて、我等は

 第一に日本の國であったればこそと、深く國恩に感謝せねばならぬ。全く我が国体と我が日本精神とが背景となって、この盛事を見るに至ったのである。八紘一宇の犬精神がここにも現はれて、我等の原動力となりしを思ふ時、我等は感激の涙禁ずる能はざるを覚ゆるのである。

 第二に昭和の御代であったればことそと、我等はこの聖代に生を享けたことを感謝せねばならぬ。明治に創め、大正に仕上げたる日本文化は、昭和に至って実を結ぶに至った。十六年前のクリスマスの朝より出発したエンライツンド・ピースの時代は不思議にも、我等の前途を照して居るではないか。

 第三に我が先輩と同志とであったればこそと、我等は同胞に對する感謝の念に溢れるのである。自給教會の主唱者であった深山牧師、愛國的良心教育の実践者であった新島先生を始め、捨て石ともなり埋め草ともなった多くの功労者あったればこそ、今日この盛事を見るに至ったのである。

 更に一言を加ふれば宣教師諸君、ことに初代に於ける有数なる宣教師諸君の公平にして識見にぜる長貢献を感謝せずには居られぬ。ことに彼等が一般文化の進運に寄与した功績は、斯道を我民心に浸潤せしむる上に、与って力ありしを認めざるを得ない。

 神学や芸文の専門的技術に属するものは暫く措き、信仰的生命は慥かに我國土に根を張り、幹を太らせ、今や亭々として空に聳えんとしつつあるを見て、我等は賞に感謝せずしては居られないのである。滾々として内より湧き出る霊泉は、慥かに我同胞の生命に宿ってあるを信ずる、他より汲み来つた水は、飲めば減り、輿ふれば無くなるにきまつてある。さらばとてこれを用ひず、徒らに貯へておけば、終には腐敗するを免れないではないか。たゞ内より湧き出る泉のみ、いかに小なりとは云へ、汲めども尽きざるのみか、盆々その清冽を加ふるのみでないか。我等は今その霊泉を各自の胸裏に感ずるのである。

 光り暗より照り出でよと宣ひし神はイエス・キリストの顔にある神の栄光を知る智識を輝かしめん為に、我等の心を照し給へるなりとは、使徒保羅の述懐であるが、同時に又我が日の本の日子、日女たる人の子等の朗かなる心事を道破せる一大名句と云ふべきでないか。

 されど我等は徒らに過去を顧み、自画自賛に陥ってはならぬ。今は一億同胞がその運命を賭すべき超非常時局に直面して居る秋である。徒に自己満足に陶酔したり、自派自宗の拡張に専念したりすぺきではない。三十萬同志よ、挙って、一人残らず悉く邦家に奉仕すべき覚悟を固むべきではないか。いかに奉仕すべきかと、日々我等の死所を求むる覚悟を忘れてはならぬのである。

 東亜共栄圏の確立と、大陸新秩序の建設とは、我等の子孫と後裔とをかけての大問題である。天父を信じ、同胞を愛し、天涯地角いづくの果て迄も、我が墳墓の地と親しみ得る者でなくては、この尊く聖き使命を達成することが出来ないのである。我等はこの大使命を思ふて胸戦くを禁じ得ないのである。我等を取り囲める奈何なる障碍をも征服し、奈何なる試錬をも突破し、この大目的に向ふて精進努力せねばならぬ。

 昔、若き牧羊者たるダビデは、艱みの日に我を護り我を導ぐ上天の加護を感謝しつつ

   今我が首は我を繞れる仇の上に高く挙げらるべし

と歌ふた。我等同志の現在の抱負も亦斯くあるべきにあらずや。夫れ信仰は望む所を確信し、見ぬものを真実とするなりとはヘプル書記者の云ふ處、願はくは我等をして現代に處する我等の鑑識を謬らざらしめよ。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第101回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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            第101回



     『日本協同組合保険論』

      昭和15年10月20日 有光社 262頁


 本書『日本協同組合保険論』は、有光社という賀川にとって初めての出版社より出版されています。本書の序文は、「2600年10月4日」付けで「瀬戸内海豊島にて」しるされています。

 手元のものはこの初版ではなく、昭和46年7月に家の光協会発行の「協同組合の名著」第9巻として出版されたものです。本書は15章構成ですが、「名著」版では第2章から第5章は省略されています。

 その代わりに「名著」版には、黒川泰一氏による重要な「解題」(「『医療組合論』と『日本協同組合保険論』」が収められています。

 ここでは「名著」版の賀川豊彦の「序」を収めて置きます。なお、武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』には、関連する「解説」があります。




      『日本協同組合保険論』

           序


 貧困の原因は、主として、自然的災厄と人間的災厄の二つから来る。しかし、これらの災厄を予知して、これを防止し得ることは非常に困難である。近代科学の任務は、その災厄を予知し、その災厄を克服することが最大の任務ではあるけれども、不幸にして、近代科学はその領域にまで達していない。

 この自然的及び社会的災厄を克服出来ない場合には、せめて、相互扶助の力によって災厄を救済したいという社会心理的努力が、社会保険として現われて来た。

 生物間に於ては、極端なる個人主義者というものは非常に少ない。何故なれば種の保存の必要上、親は子供のことを是非考えなければならない。そこに時間的差こそあれ、一種の時間的相続性を持つ社会性が認められる。更に子供を生む為めに雌雄関係が成立すれば、恋愛が発生し、家庭が出現する。家庭が出現すれば種族性が現われ、茲に新しい社会問題が起って来る。こうして社会性と時間上に発展する相互扶助の思念は、人類にとって殆ど本質的なものである。

 不幸にして斯く本質的な、社会的互助思想は資本主義の勃興と共に営利化せられ、人類を最も宜しい蓑虫のようなものにしてしまった。しかし余り極端に闘争が続く結果、その修正が計画せられ、終に各種の社会立法が現われるに至った。

 日本に於ける社会保険は、その本質的発達に於ては、決して西洋諸国に劣っているものではない。頼母子講の組織にしても、報徳支法にしても、或いは旧幕時代、一一箇国一三藩に実施せられていた洪水救済の地割制度にしても、或いは又、幕末より行なわれていた、福岡県宗像郡に見られるような一種の農民健康保険組合制度の如き、我が国の互助経済思想が相当に根深く、民衆の問に潜在意識として働いていたことが認識ぜられるのである。

 だが、前に述べた通り、こうして優れたる社会保険的施設は、個人主義的資本主義の悪夢によって意識化することなくして葬り去られんとした。

 この点に於てドイツ、英国、スカンジナビア諸国は早くより目覚め、殊に宗教的意識の背景を持つ民衆、或いは社会意識的運動の隆盛を極めた国家に於ては、各種の社会保険が計画せられた。そのうちでもドイツの国民健康保険、或いは英独の失業保険、スウェーデンの生命保険、ハソガリーの火災保険の如きは実に特色あるものである。殊にドイツ、ライファイゼンの協同組合を基礎とする生命保険組合は、画期的新時代を創始した。

 不幸にして目本に於て、生命保険組合は未だ法律上許されていない。しかし協同組合的精神は、社会保険の各部門に於て採用せられた。国民健康保険組合法は、その中に於ても新しき出発であると見てよいと思う。

 労働者健康保険に於ても組合保険の部門が認められ、その後に設けられた各種の社会保険に於て、組合意識的役割の与えられていないものは殆ど無いと言ってもよい。

 こうして、相互扶助的経済組織が我が国に於ても社会保険となって現われて来た以上、又それが社会性を取る以上、意識化する必要を認めざるを得なくなった。そして意識化せしめる為めには、単なる法律や、単なる機構だけでは運用出来ないことが分って来た。即ち、組合意識というものが社会保険に採用せられるようになったことは、こうした社会経済の意識化の必要上、必然的に考えられるに至ったものである。

 こうして曲りなりにも我が国に於ける社会保険は、協同組合保険の形式を備えるものが、だんだん増加して来た。そして今や十数種類に達せんとしている。

 多年協同組合保険を研究し、その組織に専念して来た私は、我が国に適当なる組合保険の書物が一冊も無いことを憂え、新体制に即応する為めにも、是非、国民に社会保険の必要性を理解してもらいたいと思って、茲に目本の協同組合保険を中心として、その西洋に於ける淵源を尋ね、更に東洋に於けるその将来性を考慮して愚見を披瀝した。

 各種の社会事業に多忙なる暇々に、寸暇を利用して纒めた結果、非常に不備な点が多いと思うが、他日これを正して更によきものとしたいと思っている。ただ日本に於ては、協同組合というものは保険事業などに手を出してはならない、という謬見を持つ人々がおることを憂え、計画経済の発達と、統制経済の運用の為めに、組合保険は意識経済の発達上、必然性を帯びるものであることを、敢て此処に論述したわけである。

   二六〇〇年十月四日

       瀬戸内海豊島にて 賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第100回)

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「新湊川公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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            第100回


   賀川豊彦・杉山平助共著『我が闘病』

    昭和15年8月15日 三省堂 158頁


 本書『我が闘病』は、三省堂より出版され、手元のものは昭和15年9月発行の第7版です。8月に初版が出て9月に7版とは驚きですが、奥付には前回指摘した「停」の字の丸印が印刷されています。前回これはその筋の販売停止か何かと憶測しましたが、この印は別の意味のものかもわかりませんね?

 賀川豊彦にとっては「闘病」はほとんど生涯にわたるものでしたから、昭和5年には『心の養生―病気に勝つ精神的準備』とか『女性賛美と母性崇拝』『神と苦難の克服』『生命宗教と死の芸術』などの著作のなかにも、「闘病」に関連する文章を書き刻んでいます。そして追って紹介する賀川の著作『病床を道場としてー闘病精神の修養』が仕上げられていきます。

 今回の書物は、評論家として知られる杉山平助との共著で、本書の序文は杉山が執筆しています。また装幀には既に以前UPしたように漫画家の横山隆一が担当しています。

 ここでは杉山の序を取り出して置きます。

 なお、2006年には『我が闘病』という同名の書物が、今吹出版社より出版されています。本書の賀川執筆分と村島帰之の名著『賀川豊彦病中闘史』と共に収められていますが、惜しいことにそこでは多くの箇所の書き換えが行われており、せっかくの復刻が残念な仕上がりとなっています。



     『吾が闘病』

       序


 世間の病人たちのいちばん大きな慰めは、自分の病気の話を、他人に話すことである。

 それにくらべると、他人の病気の話を聞かされることなんぞは、はるかに面白くない、ちっぽけな慰めにすぎない。それでも、患者によると、他人の病気の様子について、根ほり葉ほり知りたがることは、法廷にひっぱり出された被告たちが、判決例について、急に熱心に知りたがるやうになるものと同じ心もちであらう。

 一般に病人たちは、自分の病気が、他人の病気よりもはるかに重くて、難病だと考へることによって、ひそかな満足を感じる変態的な心理を所有してゐるものである。だから、彼等が、自分の病状について語る時は、たいがい誇張される傾きのもるものだ。

 或る患者が、十グラムほとの「ケチ」な喀血をしたのを、看護婦がその通り医者に報告をしたのを聞くと、勃然として憤り、
 「嘘を云ふな、あの喀血は五十グラムは下らんぞ」と、怒鳴りつけた患者を、私は見たことがある。

 私が今、「吾が闘病」について語るのは、ひろく世上の同病者に、この病気についての正確な判断力を輿へるためであり、その萎靡しかかつてゐる精神を激励するためでもあるが、或る意味においては、何だ、お前の病気は、それつぽつちの病気か、俺の病気は、その十層倍も重いたいしたものなんだぞ、といふやうな優越の快感に耽らせてあげたいためでもある。

 出版者が、賀川豊彦さんと私の闘病記を並べて印刷することを思ひついたのは、賀川さんと私の生活気分が、坊さんと浪花節語りほど違つてゐるのを見て、病気の療法にも千差萬別のやりロがあり、ちがつた心がけのあることを、世間にわからせるためであろうと、私は、勝手に推測してゐる。

 闘病といふものは、一般に「悲壮」であり、「深刻」でありたがるものである。この本が、さういふ「深刻」な表情からまぬかれるために、漫書家の横山隆一君をわずらはして、装幀をしてもらふことにした。そのことは、私が、漫画といふものを、真面目に考へてゐることを意味するのである。

  昭和十五年夏
            杉 山 平 助

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第99回)

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「我が国ゴム工業勃興の地」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


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              第99回


    『銀河系統』

     昭和15年5月18日 改造社 490頁


 本書『銀河系統』は、雑誌『家の光』(産業組合中央会)の昭和14年12月から12月までの1年間連載された「銀河系統」(229頁まで)と、もうひとつの作品「隅の首石」(233頁から490頁。これの初出は未確認)と併せて、この書名で出版されています。

 なお、『銀河系統』は、上記の連載の前に「小説・銀河系統」として「神の国新聞」において昭和9年7月から昭和10年2月まで19回にわたって連載されたことがあり、この短編は、2010年7月に「賀川豊彦『一粒の麦』を再販する会」より出版されています。この短篇と、今回の長編小説とは、内容は重なりますが、同じものではありません。

 ここでは「序」がありませんので、武内勝の「労働紹介所」のことや「神戸愛隣館」のことにも触れられる箇所のひとつを取り出して置きます。ここは武内の開拓的な「失業保険組合」の箇所ですね。小説では武内は「武田」として登場しています。



      『銀河系統』(220頁~223頁)

          失業保瞼組合の勝利            


 「さっきの方が、失業保険組合という言葉をたびたび使っていらっしゃいましたが、さうしたが、さうした組合もこちらで作っていらっしやるんでございますか。」

 高木恒子は、両手を膝の上において、つつましやかに武田に質問した。

 「えゝ、共済組合として自由努働者の間に始めた試みなんですが、幸ひ神戸市内の雇主の側でも、非常に理解してくれましてねえ、自由労働者が就業すると、毎日一人当たり五銭づつ失業保険金として掛金することになっているんです。それに対しまして、雇ってくれる方でも、一人の労働者に対して五銭づつ、賃金の外に失業保険組合の掛金として支出してくれることになっているんです。」

 さう答えた武田の言葉を聞いて、恒子あは全くびっくりしている様子だった。

 「さうですか、それは驚きましたねえ。私はまた、日本には失業保険なんていうものは全然なく、西洋だけに実行されていることだと思っておりました・・・では、やはり協同組合的保険制度もやれるわけですねえ。」

 武田は火鉢の灰を掻きよせながら、じっと恒子の顔を見て、明確に答えた。

 「全くさうですな。日本の各都市でも私たちがやっているようにやれば、失業者が何十万人出ても、決してこまることはないと思います。もう私たちは神戸で、大正12年の震災前からやっているんですが、失業登録をしている自由労働者であれば、ひと月三十日とみて、十八日間は失業保険組合の方え3、毎日毎日六十銭の恵與金を保証しているんです。それでもう十五六年やってきているんですが、いまだに資金に困ったということはありませんからねえ。私はたしかに、日本のやうな貧乏国では、失業保険制度も協同組合的にやると、労働階級が非常に助かると思いますねえ。また、国家の財政からいっても、イギリスやドイツでっもやっているやうな、おほげさな強制的国営失業保険制度では。国家の財政に破綻をきたすと思いますねえ。」

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第98回)

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「明石城」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.co.jp/40223/)


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              第98回


     『日輪を孕む曠野』

     昭和15年3月7日 大日本雄弁会講談社 285頁


 本書『日輪を孕む曠野』は、講談社の雑誌『現代』の昭和14年1月から昭和15年3月まで連載された「満州移民」を題材にした作品です。

 この作品も『賀川豊彦全集』には収められていません、これには、賀川の「序」が書かれています。

 なお、本書は初版が出て3ヶ月後の昭和15年6月に再販が出ていますが、奥付に○で囲んだ「停」の印が押されています。これは販売停止の印なのかどうか。前に挙げた『約束の聖地』は4頁分が、その筋より切り取る措置のあったことを指摘しましたが、今回の「停」の意味合いはどういうことでしょうか。





     日輪を孕む曠野

         序


 春風に氷土は解け、梅雨に黄塵は鎮まる。満州こそは不思議なところである。公主嶺を境にして南に落ちた水は遼河に注ぎ、北に落ちたものは松花江にあつまる。そして図満江は長白山脈に並行して東に流れ、屈曲して朝鮮に水そそぐ。

 満洲の文明は、これらに黒龍江を加へて、四河の文明であるとも言へる。曠野数千哩、昔は遼河の流域全部が渤海湾につづく内海であったことを、地質地圖によって知ることが出来る。しかし、地層の隆起によって、蒼海変じて豆圃と化した、それは岩石の物語る地球の歴史によってよく分る。

 満洲國の最北端は北緯五十三度である。塞気を恐れる熱帯人ならいざ知らす、雪を恐れない人間ならば満洲こそば珍しい肥沃の土地である。しかし、最近三十五年間、ここに移住した漢民族は南方に偏在し、公主嶺を越えて沃土数千平方哩の地域は、のろと羚羊と野鴨の居住に任され、土を耕してゐるものは僅かである。この無住地帯に人類が移住することは、天の與へたる恩恵である。

 しかし、未開拓地を開墾するに当たって、土を愛せざる者が権利のみを主張してその地に徒に境界線を張ることは許されない。『柔和なる者は幸なり、その人は地を嗣ぐことを得べし』とキリストもいうてゐる。土を愛する者はまた隣をも愛さればならぬ、殊に氷土を溶かしてそこに日輪の光熱を導かんとする者は、愛隣、愛神の原理に基き、隣保相愛の国土を建設すべきである。即ち満洲にこそ五族協和の精神が具現さるべきである。五族協和の精神は満洲国民のみならす、世界到るところに培ふべき人類生活の根本原理でなければならぬ。

 日本民族も満州に発展するがよい、支那民族も満洲國に発展せよ、朝鮮人も蒙古人も白系ロシア人も満洲國に殖えよ。五族協和の精神によって相抱け。大陸は廣い、曠野は日輪を孕む、満洲國こそ世界歴史に新しい一頁を加へる愛の國でなければならぬ。

 私は満洲移民を祝福する。そして私は東亜の五民族をも同時に祝福する者である。

    二六〇〇年一月三十一日                  ’
  
      賀  川  豊  彦
    
          摂津武庫郡瓦木村にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第97回)

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「明石公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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              第97回



    『自伝小説 石の枕を立てて』

      昭和14年3月20日 実業之日本社 310頁


 本書『自伝小説 石の枕を立てて』は、実業之日本社の雑誌『新女苑』昭和13年2月号より連載された『死線を越えて』第4巻として書き始められた作品です。大正12年以後3年ほどの自伝です。

 実業之日本社では『長編小説・東雲は瞬く』に続く作品で、『処世読本』『神と苦難の克服』なども出版しています。

 小説ですので賀川の「序」はありませんので、今回も武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。




    武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』335頁~337頁

       『石の枕を立てて』について


 これは大正十二年十月十九日、賀川が東京本所松倉町に基督教産業青年会を設立して、関東大震災救援のセッツルメント事業を始めてから満三ヶ年に亙る期間の自伝小説的記録である。『死線を越えて』の三部作を読み、『地球を墳墓として』『鳳凰は灰燼よりよみがえる』をひもとき、それから本書に及ぶならば、明治三十八年より大正十五年に至るまでの賀川の生活と事業とは、ほぼこれを理解することができる。

 本書が初めて発行されたのは、昭和十四年三月二十日であり、発行所は実業之日本社であるところから推察して、賀川は当時実業之目本社から『死線を越えて』の続篇のようなものを言いてくれと頼まれ、大震災後の生活を書きおろして、その頼みに応じたのであろう。従って書きおろしたのは、震災後十六年も経た後であり、当時の記憶をたどって、イソシデソト(事件)を描き出し、これを小説風にまとめようとしたものと思われる。

 このことは主人公の名を『死線を越えて』と同じく新見栄一とし、妹を笑子として登場させていることでわかる。この小説が『死線を越えて』のような爆発的売行きを示さず、版を重ねることがなかったのは、『死線を越えて』のように若き日の情熱を注がず、思いつくままに無雑作に筆を走らせ、小説としての構成についても筋の運びについても、作家的良心を働かせていないことによるのであろう。この頃の賀川はその名声の故に、作家として文の推敲を重ねることもできなかっただろうし、伝道と社会事業との多忙の故に、そうする暇もなかったようである。

 従って本書の価値は、小説あるいは文学たることよりも、賀川の伝記の一部たることにある。殊に失明の記録や、電車とオートバイとの接触により九死に一生を免れた記録の如きは貴重である。

 何よりも心を打たれるのは、賀川が絶えざる資金不足に苦悩し、資金を作ることに追われて、原稿を書いては、稿料をかせぎ、それをセッツルメント事業、協同組合事業にみつぎ、その上に個人の苦境を救うために金を与えている事実である。事業の種類と範囲とをひろげすぎ、これに奉仕して働く人材が十分でないため、運営上の資金不足や借財がかさみ、その尻拭いを賀川は絶えずしなければならなかった。そのため出版社、雑誌社から原稿を頼まれれば、これに応じて自ら書き、また口授して書かせて原稿料をかせぎ、これを事業にみつぐのであった。稼いでも稼いでも足らず、苦心惨僣する賀川の日常生活がこの書にはありありと描かれている。そして成るほど、賀川の壮年時代に出版された書物に推敲の足りないわけが、さこそとうなずかれるのである。

 殊に「家庭百科全書」出版が失敗したことから借金を負わされ、その尻拭いをするくだりを読むと、深い同情を賀川に寄せざるを得ない。

 世間的には華やかに見えた賀川の壮年時代の生活は、その内輪を見れば、人のための借金による『火の車』である。しかもこの『火の車』が賀川を駆って多くの著作をなさしめた。『苦難に対する態度』『愛の科学』『地球を墳墓として』『イエスの内部生活』『壁の声きく時』『福音書に現われたるイエスの姿』『神との対座』『神の懐にあるもの』『永遠の乳房』などはことごとく当時の『火の車』の所産である。

 本書に記されている事件のうちで、賀川の一身上の重大事件は、失明と輪禍である。彼は眼疾のため大正十二年の春にも失明し、六ヶ月の療養の後、奇蹟的に回復したが、大正十五年三月には腎臓炎のために両眼に雲がかかり、五本の指さえ見えなくなった。須田病院に入院した後は『尻尾に火をつけた野牛が、脳髄の中を駆けまわるような痛さ』が数日間つづいた。医師は視力の回復は絶望的であるといったが、賀川自身は回復を信じた。一週間失明がつづき、角膜か離脱した後十日たって右眼に視力がよみがえってきた。そして医師の驚きのうちに視力は元通りになったのであった。

 も一つは大正十四年九月九日に玉川電車の宮の坂踏切で、賀川の乗っていたオートバイが電車と衝突し、線路の傍にほうり出された事件である。

 『ブレーキをかけることを忘れた電車は、彼の顔の上を横切って、母体の車軸よりはみ出したところを彼に見せながら、するすると五六間すべって行った。その刹那、彼は彼の顴骨を横切って電車の車輪か通過したと思った。しかし次の瞬間に気がついて見ると彼は生きていた。』

と賀川は叙している。腰骨をひどく痛めたが、これも十日間の安静により回復してしまった。

 この二つの事件は、神がいかに賀川を用いようとして、その生命を守って下さったかを示している。第二の事件については賀川は次のように書いている。

 『いよいよ半身不髄の人間になってしまつたかと、少なからざる不安に襲われた。しかしその一瞬間、彼にとっては実によき教訓を受けた。彼は若い時、神に約束した神への誓いを離れて、地上の名誉や政治的権勢に走ることの危険を慎しむようにと、神から警告を受けたのだと信じた。それは丁度ユダヤ民族の師父ヤコブが神からの訓戒を受けて、一生跛とせられたようなものだと思った。』

 『石の枕を立てて』という表題は創世記三十八章十節以下にある。ヤコブが石の枕を立てて眠り、天に達する梯子に神の使の上り下りするのを見た物語から取ったものである。

 この作品のモデルは殆んど実在の人物であり、実名をその通り用いているところもある。差支えない限り下にこれを表記しよう。

  徳本久代   広本久代(通称ひもちゃん)
  有田夫人   有田すて
  木村     木立義道
  磯村ドクトル 馬島 澗
  今泉ちか子  今井よね
  吉田源治郎  (本名)
  山口英世   山路英世(逝去)
  吉本健子   (本名、賀川の万年筆といわれたがアメリカにて客死)
  三上千代子  (本名)
  深井種次  深田種嗣
  喜代子夫人はもちろん賀川春子夫人のことである。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第96回)

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「安野光雅の世界展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


  賀川豊彦の著作―序文など

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             第96回


    『約束の聖地』

     昭和14年3月10日 日曜世界社 302頁


 本書『約束の聖地』は、昭和12年に「中央産業組合新聞」に連載された長編小説で、日曜世界社で刊行されました。これは「組合運動の教科書とも又産業組合運動読本ともいうべき内容」(米沢和一郎)ともいわれています。

 賀川豊彦の著作は、検閲による発売禁止や伏字の多い作品がありますが、本書は何と完成した著作の2枚分が切り取られています。日曜世界社は、賀川の「序」の頁にそのことを告げる文章を印刷した紙をノリで張り付けています。こういう処置は今回初めて目にしました。

 ここでも「序」を収めて置きます。なお本書は『賀川豊彦全集』には入りませんでした。



       『約束の聖地』

         序


 『神様、約束の聖地にいつ私達は這入ることが出来ませうか?』
 さう、奴隷解放の先駆者モーセは創造主に質問した。

 すると、神は簡単に答へ給ふた。
 『「我」を主張するものは、一切約束の聖地には這入れ無い。おまへも荒野で死なればならぬ。それはおまへは神を中心にしないで「我」を出した場合があつたからだ…………』

 約束の聖地はパレスチナだけの問題では無い。人類理想の聖域は凡てこれ約束の聖地である。然し神が人類に約束されたこの聖域に『利己』を主張し『自我』を高調する者は這入ることは出来ない。

 三千五百年前、奴隷解放の恩人モーセを叱責せられた神のみ馨は、今もなほ我等の耳に響いてくる。

「我」をのみ主張するものは、約束の聖地には這入れ無い。――機械文明の現代生活にそれが如何に現れてゐるか?
 資本主義も、共産主義も、ファシズムも、何々主義も、・・・・凡て「我」の変形である間約束の聖地には這入れ無い。

 然らば、如何にして約束の聖地に這入るか? 約束の聖地は、西方浄土でも無ければパレスチナでも無い。          ・
されば約束の聖地を何處に求めるか? 私は沙漠を彷徨するエヂプトの奴隷のやうな気持で此の小説を書いた。

 人類生活の続く限り、人類に「明日」が約束せられる間、この小説に盛られた問題は永遠の真理として残るであらう。

 では、約束の聖地を探すために我等は出発しよう。

   一九三九・三・二二
         
      印度より帰りて

             賀  川  豊  彦
   



   本書本文九一、九二頁は其の筋より削除を命ぜ
   られましたから切や取りました。各位の諒恕を
   願ひます。

     昭和十四年五月
                  日曜世界社


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第95回)

1

「ボストン美術館の至宝の里帰り」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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              第95回


     『小説・キリスト』

     昭和13年11月20日 改造社 551頁


 本書『小説・キリスト』は、雑誌『改造』で昭和10年10月から昭和11年3月まで「長編小説・キリスト」として連載された作品で、小説の末尾に賀川の「跋」が添えられていて、この作品への賀川の特別の思いが書き込まれています。

 平沢定治の装丁で多くの宗教画も収められています。ここでは賀川の「跋」と武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の本書の「解説」も収めます。



    『小説 キリスト』

       跋

 私の手は慄へてゐる、私のからだはわなないてゐる、脈拍は結滞勝だ、人類五十万年の歴史にまだ姦悪がうち続き、流血の惨事が歴史を色彩って行く。かうした時代に、私は科学と文明を信用することは出来ないのだ。

 「人もし新に生れずば神の国に入る能はず」とキリストは叫ばれたが、ローマ帝国時代に言はれたキリストの言葉は、二千年を経た今日も同じ意味を持つてゐる。飛行機が飛び、潜水艦が突進し、ラヂオとテレビジョンが発明せられても、霊魂の改変があり得ない以上凡ゆる発明も発見も全く無価値に等しい。

 ローマ時代から人間はどれだけ霊魂の身長を加へたらうか? それを思ふとき私は、キリストの霊魂の身長の基準にまで伸び上る義務があると思ふ。

 霊魂の身長とは何をいふか? 彼の心が天より最微者へまでの距離を持つてゐるか、否かといふことである。キリストは大工として生活し、宇宙の創造者の全的意識を彼の自覚に収め、創造の目的をもって人類の歴史を見直した。そして神より離れた、最微者が罪と穢れに悩んでゐることを見て、これを批判する前に、これと協力して再生せしめんと努力した。

 ああこの再創造の意識こそ、キリストの霊的身長が歴史の基準となつた理由だ。

 国は興り国は亡び、民族は起り民族は消滅する、その間にあって独り、霊魂の身長に神の基格を特つ者のみが、歴史の尺度を決定した。

 私は、かうし霊魂の呻きをもつつ、このキリストの小説を綴った。ある人は私を冒涜者といふかも知れない、さう言はれても私はその批判を甘受する。私は、キリストの霊的身長の基格をもう一度現代に持っで来たいために、かうした表現の方法を取るより道が無かったのだ。

 この小説を書き出してから私は満五年になる、筆を執っては考へ筆を置いては祈り、人類の低迷に、人間の無為に、至聖者に訴へつつこの書を完成した。

 贈罪愛の意識をもったキリストを表現するには、私の筆はあまりに無力であらう、しかし、幾度でも努力してゐるうちに、人類の更改の日が来ないとは誰が保証出来ようぞ。

 あゝ太陽よ、星よ、暴風よ、洪水よ、如何にかして私は霊魂の潔められんことを待ってゐるのだ。熱化し、風化し、浄化してくれ私の魂を……そして世界の霊魂を神の国にまで引上げてくれ、あゝ、砕けたる私の魂に、殆ど自らの涙の洪水に溺れんとしてゐる私を救うてくれ! あゝ太陽よ、星よ、暴風よ、洪水よ!

  一九三八・一一・一〇

           賀 川 豊 彦





        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』327頁~332頁

            『小説キリスト』について


             著作の年代とモチーフ

 第二次世界大戦勃発の一年前、すなわち一九三八年十一月にこの書は改造社から出版された。賀川が自ら記した跋によれば、彼は満五年を費してこれを書き上げた。
 『筆を執っては考え、筆をおいては祈り、人類の低迷に、人間の無為に、至聖者に訴えつつこの書を完成した」と彼は書いている。
 践には更に
 『人もし新に生まれずば神の国に入る能わずとキリストは叫ばれたが、ローマ帝国時代に言われたキリストの言築は、二千年を経た今日も同じ意味をもっている。飛行機が飛び、潜水艦が突進し、ラジオとテレビジョンが発明せられても、霊魂の改変があり得ない以上、あらゆる発明も発見も全く無価値に等しい。ローマ時代から人間はどれだけ霊魂の身長を加えたろうか? それを思う時、私はキリストの霊魂の身長の基準まで伸び上がる義務があると思う』と記されている。しかし賀川はキリストを描くことによりこの時代の批判をしてはいない。むしろ彼は『革命か? 十字架か? 悪魔は革命を指差し、聖霊は十字架を彼にささやいた。それで彼は新しく瞑想のうちに十字架を覚悟した』という見方によってイエスを描こうとしている。        
 読者は『キリストについての瞑想』(第三巻)のうちにおいて、賀川がキリスト伝について次のような独特の意見を提示していることを知るであろう。
 『キリストが、華々しいガリラヤ伝道を続けている中に、突然ヨハネは死刑になつた。それによって激昂した民衆は、約五千人位集って、キリストが湖水を渡り山に退いて祈ろうとしているのを無理についてきた。その数五千を越えたものがキリストにつきまとうてくる程熱心だった。この記事は、マルコ伝やルカ伝を見ても、なぜ集ったか全然わからないが、マタイ伝とヨハネ伝をひっつけてみると、これは革命の相談が出来ると思ったからついてきたのである。(ヨハネ六・一五)これは大変な事件だった。そしてこの事実によってキリストは殺されたのである。民衆はキリストを無理矢理に王になさんとした。その群衆が五千人あった。キリストは幼い頃に、ユダが革命しようとしたことを知っていられたので、今更革命することを好まず、キリストは旅行に出られた。それからキリストの隠世時代が始まる。
 第一の旅行は、カペナウムを出て、ツロ、シドン、それから湖水の東側に出て、ユダヤの様子をさぐってみた。すると、まだ革命熱は醒めていず、集まるものが四千人あった。ある人は、これは問違いだ、五千人の記事が重複しているのだというが、それは奇蹟ばかりを読もうとするからで、実際は、革命から隠れたキリストが、再び帰って来られた時に、集ったものが四千人あったので、マルコ伝を見るとよくわかる。マルコ伝第六章四十四節に、男子のみ五千人とあって、女がなぜそこにいないか? 女は革命の邪魔になるから、男のみついてきたのである。これは面白い。
 第三インターナショナルは、スイツランドのゼネヴア湖畔の二箇所の森の中で隠れて相談された。そして独逸の軍用車に乗って、ロシヤに乗込んだ連中があの革命を起したのである。革命はこっそり計画するものである。山の中に入って来たのは、奇蹟のみでなく、革命という意味があるからであったろう。彼等が帰る途中で餓死する恐れがあったので、キリストはパンを与えたのである。私はこれを深刻なる事実として信ずる。
 そこで、次にキリストはすぐ旅に出られた。(マルコ七・二四)なぜ、人に見られざるように隠れようとしたか? あまりに卑怯ぢやないかと思はせられる。がそれはいたずらにヘロデ・アソチパスの激昂を受けて断頭台に死にたくなかったからである。で、キリストは奇蹟を実行してもう一度帰って来られた。(マルコ七・三一)デカポリス(十の町)は比較的繁栄なギリシヤ人の土地で、ユダヤ人の中を通ると危いから、ギリシヤ人の間を通って、こんどはガリラヤの海に来られた。それからマルコ伝第八章一節の四千人の事実が続く。まだキリストの評判は去っていなくて、前より一千人少かったが、また四千人集った。これは決して同じ事実を二度書いたものではない。ある人のごときは、二度そんな事件かあったのではない、一度だというが、それは社会運動を知らない人のいうことである。いかにユダヤ人が革命を望んでいたか! この種の革命は紀元二世紀頃まで続いている。いつも革命をやりたいと思っていたが、しまいに国を全部ローマ帝国にとられた。』(二一二頁―二二一頁)
もう一つ興味がおるのは、ヨハネによる福音書の作者に関することである。
 「ヨハネ程、キリストを官憲の眼からみたものはない。第一章から官憲の気持で書いている。エルサレムの官憲の気持からみている。バプテスマのヨハネに対しても、例えば解らぬことが書いてある。なぜか? そこに理由がある。キリストの弟子の中に、高位高官の人が大分いた。ニコデモ、アリマタヤのヨセフ、ヘロデの大臣クーザの夫人ヨハソナ、へロデの乳兄弟のマナエン等が改心している。(使徒行伝一三・一)クーザの如きは知事官邸に出入したから、タイベリアス皇帝の孫姫にあたるピラト夫人などのことをよく知っていたと想像できる。そして、その材料をヨハネに提供しのである。だから、主観的な註釈的な部分が多過ぎるが、註釈的なものをぬかしたりヨハネ伝なしにはキリスト伝は絶対にわからない。
 例えば、キリストが神殿を破壊するといったことが、死刑の理出となっていることは、ヨハネ伝だけにしか書いてない。ヨハネ伝がなければ、キリスト伝は書けないというのはそういう処である。その中でも特に、ペテデについてこいとか、ヤゴブの兄弟についてこいといったことは、ヨハネ伝に依らなければ判らない。であるからキリスト伝をみる時、マルコ伝を基礎にせず、満遍なく、公平な学理的立場から、現代的のキリストを研究したいと思う。』(二〇二頁)
 以上二つの見解は本書のモチーフをなすもので、賀川の胸中には、こうした考えが十数年の間潜んでおり、それが昂じて彼にこの本を書かせる動機となったのではないかと思う。しかも政治革命か精神革命かの岐路に立った青年賀川が、敢然として政治革命家とたもとを分かって、伝道者として一生を貫いたのは、聖霊のささやきに従って十字架を目指すというキリスト観にもとずいたためであろう。否、こうした賀川の態度がこのキリスト伝を生み出したのであろう。その意味において、賀川はこのキリスト像に自己の姿を描いているといえる。

             資料部分と創作部分

 ここに記されたキリストの生涯はバプテスマのヨハネが処刑された直後の物語から始まって、キリストの十字架と葬りのところで終っている。復活について賀川は事実の描写や説明をせずに、彼一流の散文詩によってその意味を強調している。
 青年時代のイエスについては、『七〇人生の真夜中』の項において、イエスが十年前ナザレの大工として働いていた頃の思い出をえがくことによって叙述している。ここにはいかにも田舎大工らしいイエスの生活と人に親切なイエスの姿とが描かれている。バプテスマのヨハネから洗礼を受けるイエスに関しては、『八〇 八サバラ』の項において、三年前の回想として記している。二つの場合、イエスの母マリヤは、イエスを変り者とし、家族のために尽すことが足りないといって非難しているのが注目される。
 物語は共同福音書とヨハネ伝とを巧みに組み合せつつ、ロマンティクな味を出すように構成されているが、福音書に全く根拠のないエピソードも随所にあらわれてくる。これは全く賀川の創作であるといってよかろう。ところどころヨセフスのユダヤ古代史からヒントを受けたところもある。
 そこで先ず福音書に記されていない面白い物語りを拾って紹介し、次に賀川のイエス観及びイエス像のうちに画かれた賀川自身の像を語ることにしよう。

              創作された部分

 革命旋風を避け、六人の弟子をつれてツロ、シドンの方に旅行したイエスは、北進してダマスコに出た。ここで。バプテスマのヨハネの弟子サラテルを訪れ、ヨハネの首を見る。サラテルはヘロデの干卒長からヨハネの首をもらい受け、ダマスコに逃れていたのであった。イエスがヨハネの首と対面する場面は、息ずまるような迫力ある。ここの描写については賀川は精魂を傾けて筆を進めたにちがいない。サラテルはイエスに復讐をけしかける。しかしイエスは沈黙を守ったままでここを辞した。
 イスカリオテのユダについても賀川は独特な解釈をしている。ユダは熱心党の人々と同様にイエスを政治革命の指導者として仰ぎ、エルサレムの大祭司とイエスとを握手させ、ローマ帝国に対する独立運動を企てる。ユダの見解によれば、イエスがイスラエル氏族の権力者である大祭司と結ぶのでなければ、革命は成功しないというのである、ユダはこの運動を試みたが、イエスに革命の意志のないことを知って絶望し、それが裏切りを誘発したのであった。
 熱心党の闘士であり、革命資金を得るため強盗にまで転落したエヒューは、脇役として登場する。これが実に三本の十字架の一つにかけられ、『御国に入り給う時我をおぼえ給え』とイエスに呼びかけた強盗の一人なのである。その娘をドルシラといい、遊女に売られていたのをイエスは自由にしてやる。ドルシラは捕えられている父親エヒューを助けようと口―マ官憲への贈賄資金を得るために苦しむ。牢獄の父に面会しようとしてアントニアの塔の西門を叩くドルシラを助けようとして、イエスは牢獄を訪れ、ローマ兵の病気を癒してやり、ドルシラを父親に面会させてやる。取税入ザアカイの家に宿った時、イエスがエヒューを助けるため百五十シケルの寄附を求めるところなどいかのも賀川流である。ドルシラの救援は間に合わず、エヒューはイエスと共に処刑される。その場にかけつけたドルシラは、十字架に釘づけにされつつある父の脚にすがって泣く。
 もう一本の十字架につけられたのは、アキバであり、もとはバプテスマのヨハネの弟子で、後に革命を志し強盗にまで落ちていった人物である。これはイエスを罵る。この人物も物語りの中にしばしば登場する。
 賀川はへロデ・アソテパスの内大臣クーザの妻ヨハンナに特に深い興味をもったと見え、本書の初めから、すなわちカぺヘナウムにあるぺテロの家にイエスか滞在している場面から、彼女の姿を現わさせ、セフォリスにあるヘロデの宮殿における場面、イエスに従うため家出するところ、イエスの捕われた後、ベタニヤのマリヤの訪問を受け、二人してピラト夫人にイエスの釈放を運動するところ、十字架より少し離れてイエスの母マリヤ等とともに立ち、イエスの処刑を見守るところなどを、詳して描いている。
 ヨハネ伝の作者がヘロデの宮廷及びカヤパの官邸の事情に涌じている者によって書かれたという賀川の推測が、この辺にもにじみ出ている。
 エッセネの生活のイエスに及ぼした感化も賀川は推量によって書いている。『四五 エッセネの感化』という項目を設けて愛の行者たるイエスがエッセネから受けた感化を説明し、更に母マリヤがイエスに結婚をすすめるくだりにおいては、特にエッセネの影響を強調している。エッセネは当時、俗世から離れ、独身を守り、祈りと愛の奉仕とに献身する人々の集まった教団であった。

               イエス像と賀川像

 イエス像を描くに当たって、賀川はあまり克明な描写をせずに、淡々と書いている。イエスのことばづかいは至って平明率直で、賀川自身が平常用いた語調をそのまま出している。その意味ではイエスの威厳をやや損ねている感なきにしもあらずであるが、イエスを庶民的人物として表現する点においては成功しているといえよう。
 『食事はあとにしよう。イスラエルの悩みを先に負いましょうかい』とか「マルタ、マルタ、あなたはそんなに苦労しなくともよろしいよ。さう人間に必要なものっていうのは沢山ないんだから―一つあれば沢山です。マリアは、その一つを選んでいるんだから、あの娘からそれを奪うことはできませんよ、わはわは』『ヘテロは魚をとるのは上手だが、城を取るのはできそうもないな。わはわは』といった調子である。
 イエスの内面描写は、賀川自身の内面描写である。
 『――何という平安、何という静けさ、生存の不可思議、星の光栄、風の神秘、宇宙全体が神の胎盤の如く感ぜられるではないか………神に可愛がられている、神の独子、そうだ、指光の延長が山であり、河であり、星であり、宇宙の物質は、すべて神の言葉であり、彼の魂は直接、天の父の魂に吸いついていることを深く感じた』
などこの例である。
 ベタニヤのマリヤは、イエスが伝道を始めた頃は、弟のラザロとともにカペナウムの貧民窟に住んでおり、後にベタニヤにいる姉マルタのもとに転居することになっている。イエスがこの貧民窟を訪れ、病める青年ラザロとマリヤとに金を与え、病人を癒してやるところなどは、貧民窟経験をそのまま出している。
 イエスがベタニヤでマリヤと話している場面――マルタが入ってきて、不平を言う前――においては、賀川はイエスをして賀川神学を語らせている。『神の心を人間の心としてその日その日を送る』『天地の神様の胸のうちに抱きしめられる有難さを忘れない』『神様の気持になって世界を見直すこと、それは聖霊の働きです』ということばなどがそれである。
 姦淫の女を人々が連れてきた時、イエスはかがんで地にものを書いていたとヨハネ伝八章に記されているが、ここのところで、イエスは魚の画を地上にかいていたことになっている。賀川は画を描くことを好んだからであろう。
 捕えられる前、イエスがエフライムの山地で羊を飼っている場面かある。ベタニヤのマリヤがそこに訪ねてくる。イエスはマリヤに向かって言う。(マリヤはヨハンナと同様この物語の脇役である。)
 『マリヤよ、私はあなたが知っている通り、今日まで黙って、人の尻拭いをしてきた………それで私には人の責任を自分のものとして引かぶるということがよくわかる。私の一生は人の失敗を尻拭きして廻る役目であった……』
 『尻拭き』は賀川の常常套語であった。賀川はキリストのことばのうちに、このような自分の生活と使命観とを表現している。しかし賀川の尻拭きがキリストの贖罪愛の実践であったことはまちがいない。
 イエスか笞刑を受ける場面で、ローマ兵の一人か『この男は表面はおとなしいように見えるけれども、内心はローマに対し革命思想を抱いているらしいな』という。このことばは賀川が川崎造船のストライキの直後、投獄されて検事の取調べを受けた時、検事が調書に記した一句『表面穏健に見ゆれども内心に革命思想をいだけるものの如し』から取ったのであろう。「空中征服」の中で賀川市長が十字架刑を受ける場面にも出ている。
 人はキリスト伝を書くことによって、自己の精神的成長の限界を示す。人がキリス卜を如何に把握しているかは、彼の思想、生活、人格、信仰の何たるかを決定するからである。その意味において賀川のキリスト伝は、賀川がキリストを如何に把握していたかを物語る。否、キリストが如何に賀川のうちに生きていたかを示すのである。
 この書にあらわれてくるキリストは柔和にして、人の罪を負う小羊の姿をもつキリストである。どちらかといえば、男性的な厳しさがなく、女性的な柔しさをもったキリストである。政治に巻きこまれることを極力避けつつ、あくまで救主メシヤとしての使命、贖罪を完成しようとするキリストである。宇宙生命の体得者として、神と一つとなって生き抜くキリストである、坦々たる、そして清澄な心境をもって十字架につけられるキリストである。賀川は十字架に釘づけされる時のキリストを次のように描いている。
 『イエスは荊の冠をかぶせられたまま、顔に露ほどの悲しみの表情もあらわさないで、まるで寝床にでも入るような調子で十字架の上に仰向けになった。彼は大きな瞳を据えて、澄み切った蒼空を見上げていた』          ゛
 も一つ賀川のキリスト観の特質がこの書にあらわれている。それは『教会』のうちに立てこもるキリストではなく、社会の中に広く深く入って行くキリストである。その点は次の二つの表現によりて明らかにされるであろう。
 『バルヨナ・シモン、お前は仕合せ者だ。お前の名は巌だとはよく附けたもの              だ。その信念の巌の上に新しい社会を築いてくれ』(二五 メシヤの告白の項)
教会といわずに社会といったところが面白い。
 『ぺテロ、ぺテロ、そんな時にはね、君ひとり行って先ず忠告してさ。まだきかなければ、こんどは二三人行って忠告したがいいだろう。もしそれでもきかなければ、団体で諌めるんだね。』(二八 カベナウムの籠居の項)
 ここも教会のかわりに団体といっている。
 全体的に見て、賀川の『小説キリスト』は『キリストについての瞑想』に肉づけしたものである。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第94回)

1

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第94回


   M・W・チヤイルヅ著

   『中庸を行くスヰーデン―世界の模範国』

      賀川豊彦・嶋田啓一郎共訳

      昭和13年11月15日 豊文書店 286頁


 本書『中庸を行くスヰーデン―世界の模範国』は、賀川の意向を受けて嶋田啓一郎が翻訳して雑誌『雲の柱』の昭和13年3月から9月まで連載され、賀川の校閲を経て仕上げられています。この出版社では、前に『女性讃美と母性崇拝』も出しています。

 箱入りの上製本です。ここでも賀川の「訳者序」を取り出して置きます。





    M・W・チャールヅ著『中庸を行くスヰーデン―世界の模範国』

         賀川豊彦・嶋田啓一郎共訳

             訳者序


           一

 何を言ってもスヰーデンで最も驚くことは、犯罪率の非常に少ないことである。刑務所に行く者は、一年間を通じて約千百人であり、(日本は十二萬六千人)殺人犯は十年間平均で約十一人くらゐだと記憶してゐる――一九三一年恐慌時には少し悪かったが――そのためにストックホルムは刑務所を廃したと聞いてゐる。その筈である、妊娠に對しては妊婦保険組合があり、病気に對しては疾病保険組合があり、癈疾に對しては癈疾保険組合があり、老人に對しては養老年金制度があり、死亡に際しては生命保険組合があり、日用必要品は搾取なき消費組合から求め、住宅は搾取を離れたる住宅組合から借り、又世界一立派な生命保険組合が営利を離れて無産階級の生命保険を司ってゐる。それに被服は手工組合で織り、教育は中等程度まで義務制であり、それより以上は、學費の半額まで政府の補助がある。政府は軍備を廃して教育費にそれを使用する。かうしたところに窃盗の必要がない。梅毒患者は実に僅少になり、アルコールの遺傅は少なく、変質者が全くない状態であるために、世界に珍らしい道徳國が出末上つたのである。

 かういふ國では盗棒をすると損をする。僅かばかりの金、五十圓か百圓の金を盗んで、國民としての何萬圓かの権利を失ふことが厭であるからである。実際國民といふものは、生活権と労働権と教育権を保澄してくれるたらば、そんなに多く罪を犯すものではない。

 スヰーデンはルーテル教會一つで殆んど固まつてゐる。その信仰は必ずしも進歩的ではないであらう。しかし、三十年戦争を指導した人々が、スヰーデンから出たくらいであるから、その熱狂的信仰は、チュートン民族のうちでも特異なものである。

            二

 スヰーデンの女は白晳人種のうちで最も世話女房的典型であると言はれてゐる。非常に柔和で温順である。紐育に居る日本人でスヰーデン人と結婚してゐるものが、五百組以上あるとある人が言うてゐたが、スヰーデン人はそれ位、人種を超越して人を愛し得る力を持つてゐる。勿論スヰーデンは数百年館、フィンランドを領有して、蒙古人種と雑婚した過去の経嶮も持ってぬることは事実である。しかし、それらの人々はフィンランドに残ってゐて、スヰーデンには純粋のチュートン民族だけが現存してゐる。

 私は一九三六年の旅行で、スヰーデン人のやさしいことに驚いた。禁酒、廃娼の民族が、このやうに柔和な民族になるのだといふことを始めて知った。

            三

 スヰーデッの芸術は、今日フランス及びアメリカを風靡してゐる。その特徴は建築及び彫刻に顕れれてゐる。スヰーデンの建築は街路に面して屏風形に建ってゐる、その独創的な発明には、私も吃驚した。しかし、光線を得るためにはこれが一番いいのだ、又美的でもある。面白いのは芸術ばかりではたい、自然科學の分野に於てもスヰーデンは大きな貢献をなしつつある。植物學はスヰーデンから始まった。リンネがその創始者である。寒帯農業もスヰーデンが最初研究に手を着けた。寒帯地に於ける小麦の適種を選別したニコルソンの貢献は不滅である。光學に於て光線の波長を測定するのに、アングストロームといふ標準尺度を用ひる、それは一粍の一億分の一を意味してゐる。このアングストロームこそはスヰーデン人の名であって、アングストローム氏の創始したものである。通例「○A」といふ記号を使用して、一アングストロームの記号として使用してゐる。

 然るに最近になって、スヰーデン人ゴールド・シュミツド博士は結晶化學に於て一大発見を遂げた。彼は米國のポーリングと並び称せられる有名たる結晶体の學者である。彼は結晶体内の原子の大きさを測定した。すなわち水素の大きさは一・五Aであり、炭素は〇・七七A、窒素は〇・五三A、酸素は一・四Å等々と明確に測定を完成したのはスヰーデン人であった。

 スヰーデン人ヘデンの中央アジア探検の勇敢なる記録は世人のよく記憶するところである。又近代心霊科學の進歩によって、スヰデンブルグの真価が盆々認められて来た。彼又天才的スヰーデン人である。

 二十世紀の初頭、ノルウェイが、スヰーデンより独立せんとした時、スヰーデン人は喜んでノルウェイに独立を與えた。それでノルウェイの國家は、スヰーデンに對する感謝の言葉から初まってゐる。嘗て国際聯盟に於て、ブラジルが、理事國の一つになりたいと主張して譲らたかった時、スヰーデンは喜んで理事國たる名巻を自から辞退し、ブラジルをそのあとに据ゑだ。スヰーデン人は個人として麗しき道徳をもっているのみならず、国際道徳に於ても世界稀に見る標準を保持してゐる。

 平和二百年、このスヰーデン國は地球の表面に於て最も理想に近い、社會的水準を我々に示してゐると考へざるを得ない。東洋平和の実現に努力してゐる日本は、大にスヰ―デンに學ぶところがなくてはならぬ。この書の翻訳は専ら島田啓一郎氏の努力によったものである。私はたゞこれを原書と照し合せて處々筆を入れたにしか過ぎたい。

 原著は米國の読書界に於て廣く読まれた名著である。幸にして日本に於てもこの名著が廣く読まれるたら此上なき仕合せである。

    昭和十三年十月十三目

          賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第93回)

1

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   賀川豊彦の著作―序文など

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               第93回


      『第三紀層の上に』

      昭和13年6月20日 大日本雄弁会講談社 384頁


 本書『第三紀層の上に』は、雑誌『雄弁』講談社の昭和12年1月から昭和13年4月までの「長編小説・第三紀層の上に」に連載された作品です。この出版社からは『一粒の麦』『海豹の如く』『その流域』などを出して話題となりました。

 ここでも賀川の「はしがき」を取り出して置きます。




        『第三紀層の上に』

          はしがき


 北氷洋にすら、エスキモーは住む。天与の国土に、人類の住めない理由は無い。
 ゴビの沙漠にすら、蒙古人種の住んでゐるものを、天与の国土に、人間の住め無い理由は無い。
 日本は、海国で、若も山国だ。八割五分は山を以つて蔽はれ、村落は山と山の間を流れる渓谷に多く作られてゐる。
 然し、その八割五分を占める山岳地帯は、このまま捨てて置いてよいか? 瑞西ではアルプスの七千フィートまでを、牧場として、山の斜面の雑草を食料に変へてゐる。日本の国土には、支那大陸には珍らしい、第三紀層が発達してゐる。その山の絶頂は、準平原と称する高原地帯を成してゐる。
 この準平原を征服し得るなら日本の耕地は、一躍倍加するであらう。水平線に近い渓谷の流域に眼をつけると共に、日本人は準平原である第三紀層に眼をつけるべき筈である。
 然し、豊葦原の開拓者か苦しんだ以上に、第三紀層を開拓する大和民族は、新しい覚悟を以って突進しなければならない。殊に、霊魂の第三紀層を拓くためには一層の努力が必要である。
 人間の第一紀は、肉の世界であった。人間の第二紀は、霊の世界であった。人間の第三紀層に於て、我々は霊肉融合の世界を顕現せねばならぬ。そこに於て、肉は霊の表象であり、肉は霊魂の言葉として、我々に物語られねばならぬ。
 神の言葉である物的宇宙は、神秘なる愛を我々に物語る。
 行け! 豊葦原の若人よ、霊魂の第三紀層を開拓するために、日本国土に発達したる第三紀層を開拓しようではないか。

  昭和一三・五・二九 
         
        賀 川 豊 彦

                大連満洲牧場にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第92回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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              第92回


     『神と贖罪愛の感激』

      昭和13年5月23日 日曜世界社 148頁


 本書『神と贖罪愛の感激』は、これまで多くの「普及版」「奉仕版」を出してきた日曜世界社の出版物です。ここでも賀川の「序」とともに武藤富男氏が『賀川豊彦全集ダイジェスト』に短く書いている「解説」も収めます。



      神と贖罪愛への感激

         序


 反逆、反逆、神への反逆は地に満ちた。人類は道徳的に発狂し、善の標準を見失ひ、悪を善といひ、邪を正といふ時代が来た。

 道徳は階級付けられ、階級の道徳は他の階級に通用しなくなってしまった。一国民の道徳は、他国民への道徳でなくなり、分裂対立は日常茶飯事となり、真理のための真理が蔽われてしまふ時代が来た。

 それが紀元一世紀のろおま羅馬帝国の実状であった。その時にすら神はなほ人類にあいそをつかさず、神と人類の仲なほりのために贖罪愛の道を開いで下さった。

 神への反逆は売国奴以上の刑罰に値すべき筈だ。それにも拘らず神はこの戦慄すべき罪人に、特赦令を発布廿られて、恩赦の道を開き給うた。

 しかし、これは神がただ盲目的愛の持主だからではなかった。キリストは自らの血を代償として支払ひ、我々を神にひつ付けで下さつたのだ。

 聖なる父は義と愛の二つの端のある指揮棒を持って居られるのだ。神は愛するが故に不義を許し給はない。

 不義を捨て置くことを愛とはいはない。不義を賠償して正義に立ち帰らしめることを贖罪愛といふのだ。そして義なる天の父は贖罪愛を通して、その正義を完成し給うた。

 その正義のための犠牲としで、イエスは自らを十字架の上に曝した。彼は自らを反逆者の型として、自我を十字架の上に傑殺した。

 イエスは自我を完全に克服することが、神の厳罰を甘受することであり、その死によって罪よりの解放が可能であると信じた。醜い人間の自我の完全な葬式だ。そして、この毒瓦斯を包蔵する醜い自我の袋が潰れるまで、永遠に神への反逆はつづく。

 で、イエスが十字架の上に自己を死刑に処したことは、完全なる神への謝罪であり、神に丈払ふべき代価を完全に支払ったことになったのだ。

 さうだ! その代価は命を俸に振っだ贖罪そのものだ。死を賭した贖罪愛に、義と愛の二重奏がかなでられたのだ。自己を滅却したことによって、神の厳罰を甘受し、それによって義の代価を支払ひ、かく人類を愛する贖罪愛の行為によって、愛の代価を支払ったのだ。

 罪の代価を丈払っただけで、人類は復活しない。義の代価と愛の第かを支払い得たことによって、人類に神と和解するただひとつの道が開かれたのだ。

 あゝ、反逆者に赦免の布告が発せられた。身代りに立ったイエスの血を見で、創造主は人類再生の道を開き給うた。おお、獄窓に悩む死刑囚も、このカルバリの丘に流された血を浴びて罪を赦されるがよい。信ぜよ、信ぜよ、お前の罪は完全に、イエスの身代りによ
って赦されたのだ。

 闇に泣く淫婦の群よ、人知れず懺悔の涙に暮れる時、十字架の上に曝されたイエスの顔を見上げて、贖罪愛の歓喜に、再生の希望を見出すがよい。勝利だ、勝利だ、イエスは贖罪愛を完全に我々に示すことによって、地獄を蹂躙し、死を完全に征服した。罪に泣く私
の魂よ、知れ! キリストの贈罪愛にこそ、全能者の最後の言葉が発せられたのだ。それは究極に於て『神は愛だ』と我々に物語ってをられるのだ。

 御恵みの主よ、憎しみと、憎しみに参与する凡ゆる行為によって、死刑に値すべき我々をなほかくまで愛し給ふあなたの御慈愛に鎚りたてまつり、ただ信じ、ただ望み、この後は戦ける霊としてではなくあなたの子として進みたいと思ひます。我々に潔めの霊を授けて下さい、贖罪愛の血が空しく流れないやうに私を先づ潔めて下さい。まことに、まことに。

  昭和13年5月1日

            賀 川 豊 彦





 武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』67頁

        『神と贖罪愛への感激』


 晩年の賀川は自然科学に心酔した感があり、その宗教講演も自然科学の知識についての引用が多すぎ、しばしば批判を受けたが、昭和初期の賀川の講演は、彼自身の体験と証しに満ち、また彼自身の経験した事件や交わった人物を引用し、福音の真髄を伝えようとしたため、彼の名声によって引きよせられた超満員の聴衆に深い感銘を与えるのが常であった。

 本書は前四書において賀川が説いている贖罪愛を、以上のような体験と証しとによって、語った講演集であり、賀川講演集中の逸品である。信徒にとっては、信仰をつちかう書であるし、未信者にとっては恰好の入門書である。

 これは昭和十三年五月、大阪の日曜世界社から発行され、二万部が売られ、更に昭和二十四年二月、キリスト新聞社から出版され、一万部が売られた。




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第91回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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            第91回


    アルフアデス著『動物社会学概論』

       (賀川豊彦・西尾昇共訳)

        昭和13年5月12日 第一書房 238頁


 本書『動物社会学概論』も前著『世界を私の家として』とほぼ同時に第一書房より出版されました。出版にいたる経緯は、賀川による本書の「訳者序」にしるされていますので、早速今回も賀川豊彦ならではの「序」ですので、一読いただきたいと思います。



  アルフアデス著『動物社会学概論』(賀川豊彦・西尾昇共訳)

      訳者序


 本能の世界は人間が考へているより遥かに、調整せられている。それを私はアルファデスの動物社會學』で學ぶことが出来た。

 本能は盲目だ! 本能は無智だ! と私達は教へられて来た。然し『動物祀會學』に於いて學ぶことは、本能に近く生きてゐる蜂や蟻の方が必ずしも人間より馬鹿で無く、また人間が馬鹿にしてゐる猿が、却って人間より愛情に富んだ生活をしてゐることを知って、驚嘆するものである。

 私は若い時、クロパトキンの『相互扶助論』を読んで動物界に互助愛のあることを知り、人類の互助愛がその衝動の延長され、登達させられたものであることを學び得たのであった。その後、ヘンリー・ドラモンドの『人類の上進』を読んで、ダアウィンの云ふ、生存競争の外に母性愛の進化のあることを知り、母性愛の進化が、生物進化に一大貢献をなしてゐることを學び、更に、私はプリンストン大學で、比較解剖學を學んで、ドラモンドの私に教へてくれなかった点を知らんとした。

 私は、その後、「生存教祖の哲學」を一生懸命に研究し、暇ある毎に文献を渉り、研究室を訪問し、生存競孚の意味を続けて研究してゐる。その中、フアブルの『昆虫記』を見出し、之を日本の読書界に初めて紹介する光栄を担ったこともあった。

 然し、私はこの廣大な世界に於いて無限の神秘を探るものとして、永久の求道者として科學の森に真理を尋ねてゐる中に、また今度は、永年私の考へてゐた「動物社会學」をドイツ、ハレ大學動物學教授アルファデデス Alverdes博士が既に出版してゐることを最近になって濠洲に行った時に発見した。でこれを日本へ帰る途中汽船の中で読み耽ったのであった。この書は誠に簡潔に書けたものである。然し、その組織的分析は真に敬服すべきものがある。勿論その材料には蒐集すれば、まだまだ多数私の如きものでも持ってゐるが、「概論」としてはこの書に及ぶものは他に発見する事は出来ない。

 この書は実にその科學的な点に於いて新しき暗示を「社会學」一般に輿へるものである。私は、之を「人間社会」に比較して、動物社会殊に、鳥類社会を心より羨しく思ふ。私は鳥になりたい、私は人類の如き迷妄と相剋の罪悪より一日も早く逃れたい。

 私がこの書を西尾昇氏と共訳する動機は仝く此處にある。私は動物社会學からもう一度出直したい。下等動物の方が人間より遥かに社会愛に則して生活してゐることを、所謂高等動物が知る必要がある。

 私は動物社会學の名によって、人類社会學を恥ぢる。で、読者諸賢も、新しき意識を以てこの書を読まれんことを熱望する。

 此書を訳するに当たって、西尾昇氏は全篇に渡って、筆を探り、私はそれを細かく補筆した。それで、誤謬がありとすれば、私が全責任を持つ。この書の翻訳に当たって、各方面の専門的名詞を教示せられた諸先輩に心より改めて感謝する。

    一九三八・四
               
             賀 川 豊 彦
                  
              武蔵野の森にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第90回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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            第90回


    『世界を私の家として』

      昭和13年5月10日 第一書房 334頁


 本書『世界を私の家として』は、再び第一書房の出版で、賀川豊彦がヨーロッパ・アメリカ・ニュージーランド・オーストラリア・フィリッピン・中国などに出掛けた折りの旅の記録です。
 本書には賀川の序文はありませんので、武藤富男氏の「解説」を『賀川豊彦全集ダイジェスト』から収めさせていただきます。


        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』381頁~384頁

            『世界を私の家として』について


 昭和十年(一九三五年)十二月から六ヶ月間に亙るアメリカ、ヨーロッパの巡遊記、昭和十年一月支那を訪問した時の感想記、昭和九年(一九三四年)のフィリッピン訪問記、昭和十年のオーストラリヤ、ニュージーランド、南太平洋諸島の旅行記、これらを集録したものが、本書である。昭和十三年五月十日、東京の第一書房から発行された。

 賀川のアメリカ訪問はこの時が四度目である。『雲水遍路』を書いた後、昭和六年七月、カナダのトロントで開かれた世界YMCA大会に招かれた時、小川清澄、村島帰之を随行者として訪米したのが第三回目であり、昭和十年には明治学院同窓の友、中山昌樹を伴なって渡米した。アメリカのキリスト教連盟及びアメリカ政府の要請により主として協同組合指導のために赴いたのである。

 第二回訪米の頃は、賀川の名声が世界的にあがりつつある時であったが、第四回目の訪米の時は、世界的人物としての賀川の地位が確定している時代であった。トヨヒコ・カガワという名は多くの雑誌において人物評の題目となり、彼の伝記もすでにいくつか発行されていた。(昭和四年、ヒッバート・ジャーナルにおいて、カガワに関する論文を私は読んだ。それは佐波亘牧師のもとにおいてであった。佐波は私に向かって、外国ではカガワをガンジーと同じくらい偉いと思っているよと言った。)

 賀川の第四回目の渡米に際し、アメリカ国内に反カガワ運動が起こった。その一つは信仰的なもので、賀川の抱懐する思想信仰を自由主義的であるとして攻撃するファンダメンタリスト(綱領主義者)であり、も一つは賀川の協同組合主義を赤であるとして排斥する資本家ダループであった。このことは本書のうち各処に現われている。

 この旅行記は『雲水遍路』に比して、事務的である。前者が詩的、ローマソ的であるのに比べて、本書のほうはアメリカの協同組介運動の視察報告を主眼としている。しかし『米国の地方色』『米国の黒人文化』『ロマンチックになった米国女性』など文明批評として面白い。『科学実験室を覗く』『自然博物館』は、科学好きの賀川の学問と趣味があらわれていて興味が深い。

 『米国宗教界の動向』は、賀川へのファンダメンタリスト(綱領派)の反対運動を叙述しつつ、プロテスタント各派の動向を説明したもので、メソジストとメノナイトに頁を多く与えている。セブソスデー・アドヴェンチストの宗教的勤労教育を紹介し、その他数個のこの種大学のことを書いている。

 米国人の宗教心理については、青年型と老人型をあげ、学生義勇伝道のような積極果敢なものは青年型であり、社会改造を嫌い、神秘的、神癒的、再来的なのは老人型であるという。

 アメリカ紀行のうちで読みごたえのあるのは『リンコルンの足跡』の一章である。賀川はリンカーンの生まれたケンタッキー州ホゼンヴィルの訪問から始まって、リンカーンが育った丸太小屋を訪ね、少年時代を送ったソート・クリーク、ピジョン・クリークと足を延ばし、オハイオ河に沿うて西南に走りロツクボートに到って彼の青年時代を偲び、更に進んでニューサレムの丘にのぼり、リンカーンが二十才から二十六才まで商売をし、郵便局の下受人となり、自治村の区長となり、法律の勉強を始めたことを思い起こす。更にイリノイ州のスプリングフィルドに、リンカーンが二十四年間住んで一男二女をあげた家を訪れる。ここにリンカーンの墓と記念碑とがある。最後に賀川はゲッティスブルグの戦場を訪れ、ゲッティスブルグ演説の時、リンカーンが立つたといわれる場所にある記念碑の
上にうずくまって、『解放者の心情を瞑想し、現代社会の解放について神に祈る』のであった。

 この書におけるヨーロッパ旅行記は、『雲水遍路』ほど内容が豊富でない。『墺国の権威者政治』においてオーストリーが、ナチスでもファシストでもない『権威者政治』を実行しており、中世ギルト式のものが新しい形をとって現われたと論じ、その政治形態を説明している。(しかしこの時から三年後にオーストリーはヒトラードイツに併合されてしまった。)

 『アラブ同盟と猶太国民運動』においては、盛り上がるアラビヤ人の力と、ヒトラーのユダヤ人迫害によって急激に増加するユダヤ人移民とにより、アラブ同盟とユダヤ人との衝突の必至なことを予言している。今日のイスラエル民族とアラブとの対立が、すでにこの頃において始まっていたことを賀川の一文が示している。

 『ギリシャの秋』においては、風物を叙さずに、もっぱらギリシャの政治情勢と社会状態とを述べ、ギリシャは古のギリシャではなく、トルコ的ギリシャになってしまったと言い、ギリシャは今や人間の秋だ、淋しい秋だと歎じている。

 『協同組合行脚』の章において、ポーランド、ドイツ、フランス、スイス、ハンガリー、ギリシャにおける協同組合の実情や農牧畜の状況を紹介している。

 『スカンヂナヴィヤ旅行印象後記』においては、ノルウェーが軍備を撤廃して常備軍は楽隊だけにしていること、スヱーデンが平和主義の国であり、その建築夫のすぐれていることをあげている。フィンランドとラトヴィアにおいて貿川の心に映じたものも興味が深い。

 『支那雑感』の中では、曲阜訪問記がよい。孔子の墓に詣で、孔子の人物業績を思い、『孔子は実際的にはさして大きな業績を残さなかったけれど、教育方針がえらかったのである。儒教がかくして成立した』と言っている。(満洲建国のため中国の排日がひどくなってきたのだが、賀川はこの時は自分はひどい目にあわなかったと見えて、一言も中国の排日にふれていない。)

 一九三四年(昭和九年)二月、フィリッピンキリスト教国民同盟の招きを受けた賀川は、十九日間の講演のかたわら、フィリッピンの研究に専念した。彼はマニラに着くや直ちにキリシタン大名高山右近の遺跡を訪れ、その墓と推定されるところを発見したにとどまったが、この日の遍歴によりフィリッピンにおけるカトリック教会の勢力、宗教都市としてのマニラの全貌をつかむ。次いで賀川は、フィリッピンの国民を構成している諸民族、混乱せる言語の問題を論じ、その農業、鉱業、林業に言及し、アメリカの埋藩政策を賞賛し、フイリッピン人の気質を次のことばで言いあらわしている。

 『比島人は、教育を重んじて、実業を卑み、支那人は教育を卑しんで実業を愛し、日本人は教育と実業とを共に愛するから尊敬に値する。』

 次いでフィリッピンにおける日本人の生活を調べて報告し、フィリッピン共和国独立の準備に言及する。賀川がフィリッピンについて言おうとすることは次のようである。

 『フィリッピン人が最も熱愛しているのは闘争ではなくて互助であり、戦争ではなくて、平和である。世界各国がフィリッピンを、ジャワを、その他の島々を、いつまでも自国の桎梏の下におこうとしている間、太平洋に平和は来ず、その波は静かでない。』
 (太平洋戦争は、結果として、これらの島々を白人の桎梏から解放し、太平洋の波を静めた。)

 『赤道を越えて』以下はオーストラリア、ニュージーランド訪問記である。濠洲には小川清澄を伴なって行った。濠洲では六十七日間に百七十八回、ニュージーランドでは三十三日間に九十回演説したというから賀川の名声と活躍とがどんなものであるか想像できよう。『オーストラリヤの最初の移民は一千人の囚人であり、ニュージーランドのそれは三百家族のスコットランド人であり、目的地に着くや彼らは先ず教会を建てた。ここに両者のちがいがある。しかしオーストラリヤも二世になると人柄がよくなった』これが賀川の両植民地沿革論である。オーストラリヤでは賀川は文明を学ぶよりも主として自然を学んでいる。殊に生物学の好きな彼は、到るところで動物や地質を学び、殊に石類について視察と研究とを行なっている。世界最古の地層をもっているオーストラリヤには珍しい標本が
豊富であるため、賀川の筆にその見聞記に向けられている。

 オーストラリア人の気質や、政治経済については『濠洲印象記』にくわしい。最後に『日濠間の貿易問題』を論じ、輸入羊毛の買付けや鑑別法にまで及んでいる。

 『南極大陸の分割問題』は南極探険時代を過ぎて、南極調査時代に至った今日においても、なお且つ面白い問題である。ニュージーランドの生んだ南極探険家スコット、オーツ、ウィルソンの物語は、少年たちに聞かせたい話であり、賀川はリビングストンを尊敬すると同じようにこの探険隊に尊敬を払っている。

 賀川はオーストラリヤを辞して、フィジー島、ソロモソ島、その他南太平洋の島々を廻り、そこで漁業を営んでいる者が殆んど日本人であることを発見して驚いている。そして南太平洋を鯨の牧場にせよと提唱している。(今日、各国の捕鯨協定により年間の鯨の捕獲量を一万頭とし、日本の取り高を四千百頭と定めたことを思うと、たしかに太平洋は鯨の牧場になりつつある。)

 『南太平洋諸島の教化』の項において、賀川は白人の奴隷狩りや、武力による征服が如何に原住民の教化を妨げたか、宣教師による伝道が如何に食人種を教化し、獰猛なマオリ人種を信仰に導いたか、しかもなおマオリ人種が、賀川に向かって『貴下が白人にキリスト教を説くことを喜ぶ。彼らこそ教化を要するものである……』と言ったかを語る。

 この書の最後において賀川は『日本を顧みる』という一文を書き、日本商人がユダヤ人に辵(しんにう)をかけた民族、世界の辻さんとして活躍していることを述べ、しかも同族相そこなって損をしていること、道徳的関心が足りないため経済道徳についても国際的発展にまで至らないこと、日本商品の敵は日本人であること等につき注意を喚起し、だから日本精神に宇宙精神を加えよと叫んでいる。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第89回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第89回



     『女性賛美と母性崇拝』

          昭和12年6月28日 豊文書院 431頁

 本書『女性賛美と母性崇拝』は、豊文書院という恐らく初めての出版社と思われるところより出ています。この出版社と賀川はどのような関係をもっていたのか、これ以後、ここからどのような作品が登場したのかも未確認ですが、本書は立派な上製本で、本書の発売所は別にあって「慶文堂書店」となっています。

 ここでも序とともに武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。



      女性讃美と母性崇拝

          序

 もう斯うなっては、女性の再生力を待つ外人類に望はなくなった。

 神が、人類を創造しだのは相剋を目的とするためではなかつた筈だ。恥しいことだが、今や人間は殺し合ひすることの外興奮を感じなくたってしまった。人類は猿より進化したといふが、擬人猿類には大砲もなければ、爆撃機も無い。人類が猿より進化したなら、もう少し上等な文明を持つべき筈だ。今の形の文明は悪鬼より人類が相続したのだ。

 呼、今になっては、女性の優れた道徳的保存力と、その柔和と、謙譲と、母性愛にすがるより、人類更生の途はない……。

 蜂と蟻は、女性の集団によって王国を建設してゐる。その支配者は母性であり、その勤労者は女子ばかりであり、男性は交尾の後は全部除去される。

 何故に蜂の国家と、蟻の社会は、雄を生殖作能の後に之を死刑に処するか? 私はこの解答を人類社会に於て見る。雄性は相剋を喜び、戦争の外に興奮を感じないからであらう。男性は性能を遊戯化し、女性を娼性化する傾向かあるからではなからうか?

 兎に角、昆虫社会では、婦性の権限を男性の上に置き、母性の力に依って社会を統括してゐる。人類は、昆虫に学ぶ可きである。

 私は、もう人類相剋の狂気沙汰に飽いた。宇宙にはまだ開拓されでゐない処が無限にあるのに、何故、人類は相剋のために最大のエネルギーを使ひ、その青春をこのために浪費するであらうか?

 桜は美しく笑ひ、薔薇は香しき匂を放つに、これらの植物にも劣りて、人類が斯く醜くあらねばならぬ理由は、何処にあるであらうか? 純真さを失つた人心は、醜さをさへ理想とし、犬儒哲学者は汚衣を誇り、修行者は美の一切を否定することをすら得意とする。而して斯く歪められたる人心は、凡てを相剋のために犠牲にせんとする。

 戦争のために科学は卑怯になり、人類相剋のために、芸術は歪められ、道徳は不具者となり、絶対の道はかくれ、至聖者の彫は見失はれてしまった。

 かうして、贖罪愛は嘲られ、聖者は石打たれ、廿世紀の今日、電気文明の名によって、軍神マーズは宇宙創造者の名の上に置かれる時代となった。

 憂鬱の子として生まれ私は、欧州大戦に発狂しさうになったが、二十世紀の暗黒に、人類の痴呆症に、植物に生れてきた方が、余程増しであつたように思ふ。

 創世記は、最初の女エバの堕落を書いてゐうが、私に創世記を書かしてくれたなら、世界最初の男アダムの堕落を、もう少し詳しく書く積りだった。

 噫、私か全能者であれば、世界の兵隊を全部女に造り換へて、世界の戦禍を一日にして断切ってしまうであらう。私は、壮漢としで、人類相剋の罪を作るよりか、女として、純情な聖愛に歩みたい!

 私が、女性に希望を持ち、母性に新なる趨異を要求するのは、全く宇宙進化の新開展を望むが故である。

 あゝ! 私は、古き口―マの利己的相剋交明に疲れ果てた。私は、人類社会の罪悪を女性の再生力によって、浄化し、聖化し、相剋に使用するエネルギーを、真理と科学と、美と芸術のために捧げたいと思ふ。

 で、私の女性に対する希望は、どこまでも生物学的であり、宗教的である。今日の人類社会に対する絶対的失望は、私を此処にまで追詰めてしまつに。

 再び云ふ――私は、一人の女、一群の女性への讃美を書いてゐるのではない。生物学的、宗数的意味に於て、母性と女性への讃歌を捧げてゐろのである。

 この爛れた痴呆症の男性文明を、女性のみが贖罪してくれるだらう。母よ! 人類の母よ! そのことをよく自覚してくれ!

 過去十数年問、随所、随時に語り且つ書いた女性に関する私の感想が、この書物となった。演説の筆記も二三ある。然し書き足らないところを補足するために入れておいた。

 だが、私は、思想より実現の方に、更に人きな希望をかける。私は目本の女性が、一日も早く参政権を特ち、今日の曲れる政治をため直し、世界の凡ての婦人が、蹶然立って、相剋の文明を足元に蹂躙して貰ひたい!

 その日のために、私はこの書を目本の若き女性に捧げる!

    昭和十二年六月二日

        賀 川 豊 彦 
           
          津軽海峡にて






      武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』133頁~134頁

           『女性讃美と母性崇拝』について

              本書の成り立ちと基調

 この書の自序には『昭和十二年六月二日、津軽海峡にて』とある。恐らく北海道伝道への途中に書いたものであろう。自序によると過去十数年間、随所随時に語り且つ書いた女性に関する感想をまとめたものである。三十の作品と一つの結語から成っている。発行は東京慶文堂書店、昭和十二年六月廿八日に初版が出て、この年の七月五日までに三版を重ねている。

 賀川の女性観は自序にもっともよくあらわれている。先づ彼は人類の狂気沙汰を嘆く、それも相剋殺りくのためにエネルギーを浪費することを悲しむのである。昭和十二年六月二日は支那事変勃発の三十五日前であり、世界情勢は大戦前夜の様相を呈していた。この時、賀川は女性の再生力によって人類社会を浄化し、聖化し、相剋に使用するエネルギーを真理と科学と美と芸術のために捧げたいと思ったのである。世界の兵隊を全部女性にすれば戦争はやむ、壮漢として人類相剋の罪を作るより、女として純情に歩みたいと貿川はいう。

 これが本書の基調である。賀川はやさしい心の持主であった。感激的な話を聞くとすぐ涙ぐんだ。男らしい戦斗的なところのある反面、彼には女性的なところがあった。そして日常の言葉使いにも、女性語が入っていた。女性礼讃と母性崇拝は、賀川の『生物学的、宗教的』なところからだけではなく、その性格からも来ているといえよう。


                 本書の内容

 四百頁に亘るこの書の内容は一々紹介できないが、三十の作品を分類すると大体次のようになる。第一は婦人の権利である。食う権利、産み育てる権利などが権利であるが、婦人参政権については賀川はもちろんこれに貰成するが、婦人が政治家になったり大臣になったりすることには賛成していない。婦人が選挙権をもってよい政治家を選べとすすめている。

 婦人の責任、使命については、『非常時日本と女性の覚悟』『婦人の民族的責任』『現代婦人の使命」『女性論片々』『近代母性の煩悶』『近代家庭婦人の採るべき態度』などで語っている。

 宗教的なものとしては『現代婦人と宗教』『聖書に現われた母の研究』などがある。

 『我子の発見』は子の教育についてお母さんの心得べきことを教えており、『子のため守れ』は私生児論である。

 『生みの力、母の力』においては婦人の職業問題、良妻賢母主義を論じ、『働く女性に青春を与えよ』においては、働く女性にその生活と精神を安定することにより、美と青春を与えよと要求している。

 『針の穴から』は随筆的で面白い。モダーン・ガール論、お友達論、産児制限論である。モダーン・ガールは震災後に現われた女の型である。産児制限に賀川は反対しないが、色欲中心のそれには絶対に反対するという。『魂の身仕度を忘れるな』『恋愛と自由』『恋愛に悩む若き日の友に』『新貞操論』は恋愛と結婚を論じ、あるいは説いたもので、賀川は純真な恋愛を人格の結合として讃美している。

 協同組合論は別に何冊も著書があるが、ここでは協同組合運動における婦人の役割について論ずるかたわら、協同組合の目的、精神、組織、運営、実例などを説いている。『婦人運動より見たる協同組合』『婦人消費組合運動の鍵』『婦人の力と消費組合運動』がそれである。

 『衣裳と精神』は『衣裳の心理』と共通なものをもつ講演筆記である。

 『廃娼運動者に訴う』『性生活の粛清』は廃娼への烈々たる叫びであり、戦後、売春禁止法をもたらした予言者の声である。

 『看護婦崇拝論』は読みごたえのある論文である。十字架の戦士、下坐奉仕の実践者としての看護婦を五つの理由をあげて崇拝している。

 『女よ病者を慰めよ』は病人看護法である。賀川自身何度も難病をやっているので、病人としての体験から、看護人の態度や看護の仕方についてこまごまと注意を与えており、至れり尽せりである。

 以上の二篇は看護婦学校の読み物として推奨に値する。

 『近代婦人への宣言』は、今までの諸論文と重複した論旨が多い。食物論と台所改造論は異色がある。この頃農家の台所も次第に改善されてきたので、賀川がこれを見たなら喜ぶことであろう。

 『結語』は賀川流散文詩である。春の太陽よ、女の上に昇れ! と歌うのである。




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第88回)

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「須磨・妙法寺川のさくら」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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               第88回
 

    『荒野の呼ぶ聲―小説集』

         昭和12年6月15日 第一書房 275頁

 本書『荒野の呼ぶ聲』は「溶岩地帯」「瑞穂の国」「荒野に呼ぶ聲」の三作品をあつめてできたもので、「荒野の呼ぶ聲」は、雑誌『現代』昭和7年1月から6月まで連載されたものです。

 ここでも序、そして武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を収めて置きます。




    『荒野の呼ぶ聲―小説集』

         序

 日本にはまだ三百五十萬町歩の原野が残ってゐる。それは、しかし多く火山の裾野であったり、第三紀層に属する高原地帯である。私は日本の北から南へ放浪する度毎に、これが瑞西の農民であれば、容易にこの原野を開拓して熔岩地帯、乳と蜜の流るる郷を建設するであらうと思ふ。

 山東の移民は、チーフから大連へ、一九三一年までは毎年百萬人近く流れこんで行った。多い年には一年百二十五萬人も流れこんだことがあった。支那の流民は、満洲を天國の如く考へて、二十数年前には總人口八百萬しかなかったところへ、短い期問に二千萬人以上の大衆を、移動させた。

 支那人が、保護を受けたくとも行けるところに、何故、日本人が行けないのだらうか? 熔岩地帯も満洲の荒野も、アブラハムが約束せられたパレスチナの一郭に較ぶれば、まるで天國のやうに善いところである。日本民族が、そこへ行かないといふのは、日本人に行く気がないからだ。行く気がないのは、住むべき方法を知らないからだ。住むべき方法を知らないのは、さうした款育を受けてゐないからだ。私はこの小説集に於て、滞洲の荒野 と日本の熔岩地帯に於て、いかに住むべきか、いかに食ふべきか、いかに生くべきかを書いた。

 私は、自然の神秘に取り憑かれてゐる人間だ。自然の外に何物も私を慰めない。熔岩は私の友であり、荒野は私の親戚だ。私は開拓が好きであり、原野も私を見離さない。さうだ。去年北米大陸の彷徨に私は倦み疲れて曠野に花摘みをした。その時私に急に元気が甦った。それから私は単調な大陸を行く時に、いつも地上の星を拾ふやうな気持で、曠野の草むらに野花を探した。

 熔岩地帯も、アジアの荒野も日本人を呼んでゐる、行かうよ、日本の若人よ、彼等の招くがままに。

    昭和十二年春

           賀 川 豊 彦
     




    武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』315頁~320頁

        『荒野の呼ぶ声』について


 これは『熔岩地帯』『瑞穂の国』『荒野の呼ぶ声』という三部作を集めたものである。このうちでも、『荒野の呼ぶ声』は満洲を題材としているのでもっとも興味が深い。

 発行は昭和十二年六月十五日、支那事変勃発一ヶ月前である。発行所は東京の第一書房、発行部数は初版二千部である。

 第一の『熔岩地帯』は、山岳農業の仕方をわかり易く書いたものであり、小説というよりは教科書に近い。主人公幸七は、美作(みまさか)の人であるところから、賀川は現在、立体農業で大をなしている久宗壮をモデルにしたか、あるいはこれからこの作のヒントを得たのではないかと推定される。あらすじは次のようである。

 宮田幸七の父は生糸に失敗して村の信用組合の金を無坦保で借出し、背任罪に問われる。幸七は東京へ出て職を得ようとしたが思うようにならず帰村する。母は大家の主婦であったために勤労をいとう。幸七はローサンゼルスで植木屋をした後帰村している杉谷与二郎の指導を受けて、『山の平』を開墾することとし、そこに小屋を建てて大きな家を引払い移り住む。杉谷から山羊の子をもらい育てる。鶏を飼う。小屋が整備されたので、母と姉とを説いて小屋に転居させる。そして母にアンゴラ兎を飼ってもらう。姉は山の生活を喜び、谷川から水を汲む役を引受け、山羊の乳と馬鈴薯の食事に満足する。彼女は杉谷がくれた燕麦の粉で団子を作り、母と弟とにすすめる。母も貧乏と戦う勇気を出すようになる。

 井戸を掘って水を得、蜜峰を飼って蜜をとる。豚を飼う。馬鈴薯から澱粉をとる。そしてアンゴラ兎の毛でスエーターを作る。幸七は川へやまめを釣りに行き楽しむ。ネムの木は成長し、豚の糞は熔岩地帯を良田に変化し、幸七の作った胡瓜は村一番といわれる。幸七は胡瓜を一輪単につけトラックに積み変えるため村に下る。その時姉が腹痛うで苦しんでいることを聞き、『山の平』の小屋に帰ろうとする。そこへ杉谷の姪の近藤秀子が来ていて、幸七に紹介される。

 小屋で姉の背をさすっていると、近藤秀子が訪ねてきて、歯磨粉を飲ませることをすすめたので、これを与えると姉の腹痛が治る。その夜秀子は小屋に泊まり食事を共にする。秀子は羊毛のホームスパンについて語り、羊を飼うことを幸七にすすめる。

 その夜幸七は秀子を送って杉谷の家まで山路を歩く。秀子は女子師範出で高等女学校の家事科の文検をとっていた。彼女は日本の農村問題について語り、殼果の各種類をあげ、この実を豚や山羊の飼料にしている村があることを語る。二人は牽牛、織女の星を指さしつつ、腕を組んで歩く。

 九月になり幸七は冬ごもりの準備を始める。秀子は岡山の町へ帰る。幸七は開墾が馬鹿臭く思われてきたが、教育のある女と結婚するよりは自然と結婚すべきだと思い直し、宗教の必要を知る。そして畝の間にひざまずいて天に祈る。

 森林に落ちる樫の実を拾い集め渋抜きをして豚に食わせると喜んで食うことがわかり、杉谷は村長から山中の樫の実を採集する権利をもらって、豚や鶏の豊富な飼料を得る。また『立体農業の研究』という本を読んで、幸七とともに研究を重ね、殼斗科の実がすべて飼料になることを知る。

 アンゴラ兎は毛を産し、山羊の乳房はふくらむ。福島県川俣からは羊が着く。杉谷の隣家の主人が卒倒する。彼は酒の害を受けたのである。幸七が医者を迎えてきた時はすでに死んでいた。そこで杉谷と幸七は医療組合の必要性を感じ、また飲酒の害を痛感する。隣家では葬式に七、八百円もかかるが金がないといって心配している。幸七は禁酒の葬式を主張し、村の信用組合から五十円を借りてきて、部落全体が集まって荘厳な葬式を営む。

 その時幸七の父が執行猶予になったという電報がくる。幸七は父を小屋に迎える。母は要領よく機を織り、ホームスパンを作るようになる。かくて幸七の家では小屋に建増しをして杉谷の隣家の娘、春枝を幸七の嫁にもらうことになる。

 『瑞穂の国』は米産国である日本において、米と肥料の販売組織にどんなに大きな欠陥があり、米を作る農民がどんなに苦しみ、資本の搾取による社会悪がどんなに根を張っているかを暴露した小説であり、目的小説であることはもちろんであるが、類型としては、昭和の初期に流行したプロレタリヤ小説に属するといえる。

 賀川の小説としては、異色ある作品であり、恋愛、性の誘惑、投獄、冒険、理想への献身といった常套的形式から全く離れた作風である。

 神田河岸の米屋に奉公していた江見秀次は、米屋が商売の上でごまかすことを知り良心の苛責に堪えられず、ひまをもらって叔父のもとに身を寄せる。叔父は期米の相場師であったが、秀次はここにも居れず、日向の郷里に帰る。父母のない彼は、そこに自分の家があるのでもなく、離縁になって高鍋で産婆を開業している姉のもとに帰ってきたのである。姉はこころよく迎えてくれる。彼は姉の預かっている亡き父の遺品や亡き母の写真など見せられて感動する。

 姉のところに、手伝いに来る犬島友子という娘がある。友子の父大鳥幸蔵は高利貸に金を借りて苦しんでいる。秀次は幸蔵を訪ねて、四段五畝の土地を耕している農家がどんなに苦しい生活をしているかを知る。その時から五日後、秀次が幸蔵を訪れると、彼は娘友子を三百円の約束で下関に芸者に売ったか、いろいろな費用を差引かれ四十円しか入らぬという。秀次は幸蔵を連れて姉のところに来る。姉は友子に産姿を習わせてよい収入を得させるつもりだったと歎く。そこへ肥料商の井谷俊三が来る。友子の話がでて、まだ幸蔵は契約の金をもらっていないことがわかったので、すぐ友子を取返すことになり、姉は幸蔵に二十円を渡し下関に立たせる。友子は無事に帰ってくる。

 秀次は井谷俊次の肥料店に勤める。産業組合が進出してきて、米穀商や肥斜商のもうけが少なくなることを井谷とその仲間は憤慨する。秀次は米問屋のカラクリを知っているので、米穀統割法にも産業組合にも賛成である。農民が米を作っても肥料代が払えず、肥料代だけが借金として残って行くことを秀次は知ったのである。

 盆が過ぎて四日目に、俊三の店に磯野音吉が里芋を一俵運びこむ。百円足らず肥料代がたまっているために、言訳に来たのである。俊三は彼のもっている畑地の名義を自分に書換えろと要求する。音吉は涙ながらにこれを承諾して帰って行く。

 産業組合の活動が盛んになるにつれて、米屋と肥料屋のこれに対する反対宣伝がはげしくなる。米穀商組合副会長の石井定蔵と秀次は店で語る。秀次は米屋も産業組合の配給所になれば、三等郵便局の一家が食って行けるようにやって行けるという。定蔵はそれではもうからぬから面白くないという。秀次はそれでは堅気商売よりも。ハクチを面白いというのかと言って笑う。そこへ音吉の妻が駈けこんできて、音吉が家を出たきり二晩も帰って来ないという。

 大分県と福岡県の米穀商同業組合の有志は農林大臣に陳情するため上京する。米穀統割法への反対陳情である。井谷俊三は秀次と一行を駅に見送る。帰途秀次は俊三と米穀統制法によって米屋が困ること、全購連の進出によって肥斜商の立ち行かなくなることなどを論じ合う。秀次は俊三の意見に反対する。その夜秀次は井谷の店をやめさせられる。

 翌朝早く町外れまで散歩に行った秀次は水死人があがったことを知る。うつぶせになった死骸の頭部をあげて見ると、それは磯野音吉である。彼は肥料代のかわりに、先祖伝来の畑地を俊三の名義に変えねばならぬことを悲しんで自殺したのであった。

 秀次は音吉の死を俊三に知らせる。俊三の妻は死んだ音吉の姿を幻に見て、卒倒する。俊三は音吉から取った名義書換の公正証書を音吉の妻に帰してくれと秀次に頼む。秀次はそれを返しに行く。しかし音吉の妻は証書を突返しに俊三の店に来て、喚きつつこのありかたい瑞穂の国に生れて、米作る百姓が肥料代さえ払えず、百円足らずの借金のために先祖伝来の土地を取り上げられ、先祖に申訳ないと身投げして死んだ、それを外国人が聞いたらどんなに思うでしようという。

 第三の『荒野の呼ぶ声』は満洲の遼陽と四平街と長春と大連と古林省の奥地とを舞台として流転する一日本人青年の物語である。時代は張作霖奉天爆死事件の直前から直後である。作者の意図は満洲の自然と原住民の生活とその中に入りこんで働く日本人の姿とを描き出し、日本人に大陸雄飛の志を与えようとするにあったようである。しかしこれは目的小説というよりは、ロマンチシズムの要素が濃く『文学とはアミューズメント(娯楽)である』という定義にピタリする作品であり、檀一雄が書いた『夕日と拳銃』のように読者の興味をそそる。その意味において、賀川のものとしては異色ある作品の一つといえるのであろう。

 賀川は数回満洲を訪問しているので、自然の描写はリアルである。原住民の生活も比較的よく描けているが、筋の運びにはやや非現実的なところがある。殊に後半においてそれが著しい。しかしフィクションとして、小説家賀川の実力を示す作品であることは争えない。あらすじは次のようである。

 山根文雄の父は、福川県折尾駅の前で運送店を営んでいたが、炭坑経営に手を出し大正九年の恐慌時に失敗し、店を人手に渡して行方不明になる。文雄は中学校を出て門司九鉄の手荷物係になったが、満洲にいるといわれる父を尋ねる心持も手伝って、人陸に雄飛しようと志し、遼陽に行き、実業教習所に入る。ここは支那人と同じ生活をし、支那人の行商に混って活動し、訓練を受ける場所である。

 十五、六人の学生の集まっているこの教習所で、文雄は納屋の片隅のような狭い部屋に入れられ、高梁飯を食う。そして浅葱(アサギ)の支那服をきて薬の行商をして歩く。

 一週間の行商から帰ってきて二年生の一団と風呂に入っている時、同県人の磯貝という男に会い、父が長春のロシヤ人町で酒場の支配人をしていたという消息を聞く。文雄は父を訪ねて長春に行き、ロシヤ人街で父の居所を突きとめ、ステーション前のレストランに父を尋ね再会する。父は外に出て山根と語る。山根は父に抱きついて泣く。外は零下四十度に近い。行倒れが路上にいる。二人は内に入り食事をともにして別れる。父はロシヤ女といっしょになっていたので、山根は家の窮乏や母や妹や弟の苦しみを打明けずに去る。
 
 春風が吹き亙って、大地が地平線の限り、高梁畑に変ってしまった。同室の誠静之はこれから馬賊が出るから晩は五時から町に出ないようにしようという。実業教習所の先生崎本愛次郎は、文雄を勧誘して遼陽ホテルで馬賊の親分と合せる。仲介したのは、大連の実業家花井の息子俊吉である。崎本は馬賊の親分に、教習所の生徒が奥地を旅行するから、掠奪せずに保護してくれと頼む。

 六月末に学校の授業が終り、七月から生徒は行商に出かける。文雄は同室の誠静之の家へ行き泊めてもらう。附近に行商に出ることになる。誠の家は四平街の大きな薬屋である。誠の父は四人の妻をもち、誠は第二夫人の長男で、同腹の妹がある。

 四平街に行って四日目にお祭があり、誠の妹が大連から帰ってくる。日本人の女学生のように見える美しい娘で正蘭という名である。文雄は誠と妹とともにお祭に行き、誠ははぐれてしまい、玉蘭と文雄と二人だけになる。彼は若い娘の皮膚にふれて興奮する。

 翌朝、文雄は玉蘭と階段のところで抱き合う。誠は二人の間を察知して不機嫌であるが、朝食の席では誠の父はおおらかな態度を示す。

 文雄は四平街を出て、雙城子方面に薬売りに出かける。暑熱にまけて日陰に寝転び、白分のふがいなさを憤る。日射病にやられていることがわかり、ようやく驢を見つけて乗せてもらい、四平街の近くまで来て日が暮れる。苦しくて辛抱できないでいると街の入口に日本の国旗を見る。そこを頼って行って泊めてもらう。この家の主人は日の丸の旗を立てて、麻薬の密売をやっているのであった。その晩、馬賊がこの家を襲う。家人も文雄も針金で後手にしばられる。賊が去ってようやく縛を解かれて寝につき、朝になって洋車(人力車)で薬屋に帰る、四十度の発熱で床につき玉蘭の看病を受けて治り、九月になって遼陽の学校に帰る。大連の学校に帰った玉蘭から手紙が来るが、文面は頼りないものである。

 内地の母が病気であるという手紙を受けて間もなく、ハハキトクという電報が来る。長春の父に電報を打つと、その晩三十円の電報為替が着く。文雄は朝鮮を通って門司に着き、折尾の我が家に帰る。平家の五軒長屋の一つに母と弟妹一家四人が住んでいたのである。母はすでに死んでいた。彼は位牌にあかしをともし焼香する。妹には長春にいる父の消息を伝え、自活している上の妹妙子に、も一人の妹を託し、弟二人を親類に預け、妙子の作ってくれた二十五円の旅費をもって再び満洲に向かう。妙子は許婚者の春田とともに彼を門司港に見送る。彼は満洲で成功するまで日本の地を踏むまいと決心して海を渡る。

 遼陽の教習所に帰った彼は、大豆の取れる秋、通弁に雇はれて、長春の奥地に大豆の買出しに行く。そこで日本人がどんなに狡猾なやり方をして農民から大豆を買っているかを見る。彼は大連にいる玉蘭に毎日手紙を書く。そして三十円の手当をもらうや仕事をやめて玉蘭に会うために大連に行く。玉蘭を下宿先からステーションに呼び出して再会する。二人は駅前の旅館の一室で語り合う。玉蘭は、来年三月卒業したら許婚の人と結婚せよと兄に強いられている、しかし、それを断って彼について行くという。そして二人は古林省の奥地にかくれようと約束する。

 遼陽に帰った彼は満洲の土が次第に彼のうちに食込んできて肉体の一部になるように感ずる。そして満洲の満洲人の中に入って満洲人の生活がしたくなる。父を訪ねると、父はレストラン・キクチを去り、駅前の富士旅館にいた。父に会って、母の死や弟妹のことを告げてもウイスキーを飲んでいて無気味な表情をしている。彼が農業をやりたいから資本を出してくれと頼むと、父は奉天にある満洲物産会社の社長にあてて紹介状を書いてくれる。彼はそこを訪問して土地課長から百五十円を貸してもらい、古林省の奥に向かい、陶頼昭で下りて、初冬の空のもと、はてしなく続く大地を独り歩き、大三家子の一番貧相な家を訪れる。そこには張玩という男が山東から出稼ぎに来て病気のため帰れなくなって独居している。彼はここに同居することになり、村外れの広い土地を翌年春から耕作することとなる。張は十五円くれればこの家を譲るというので、これを承諾し、豚も鶏も譲り受
ける。張は蒲団や着物や手廻り道具をたずさえて去る。

 家に帰るや彼は玉蘭に手紙を書く。そして家の中を修理してできるだけ美しく見えるようにする。冬籠りの間、彼は村の子供たちを集めて日本語や算術を教える。雪が融けて耕作が始まると、村の青年たちは鍬や鋤をもって手伝ってくれる。玉蘭から和歌を書いた手紙が来る。彼はそれを肌につけて寝る。

 三月十二日の卒業式が終ったのに玉蘭は来ない。彼は欺かれた思いで彼女の手紙を焼き捨ててしまった時、大ぜいの子供に囲まれて玉蘭が現われる。彼女は父と兄の許しを得てきたことを告げる。王蘭は常用服に着かえて彼の仕事を手伝う。

 高梁が伸びて馬賊の跋扈する秋となる。奉天事件以来排日がひどくなり、誠静之が玉蘭を迎えに来る。そこに馬賊の一隊が襲来し、玉蘭を捕え連れ去ろうとし、彼は有り金全部を渡し玉蘭を助けようとしたが、馬賊はきかず、彼を捕えて玉蘭を放し、この男が欲しければ千両持って来いといい、彼を馬にのせて走る。玉蘭はそこに倒れて咽びつづける。







連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第87回)

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「妙法寺川のさくら」(今日のブログ「番町出合いの家」http;//plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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            第87回
 
  
   『処世読本』

   昭和12年5月5日 実業之日本社 404頁

 本書『処世読本』は、昭和8年6月に『東雲は瞬く』を刊行した実業之日本社によって4年ぶりに刊行された作品です。これも『賀川豊彦全集』に収められませんでしたが、好著の一冊でもあります。




        『処世読本』

          序

 眼が醒めた時、それは真夜中であった。周囲は真暗闇で、硝子越しに見える空に一つの星さへ見えなかった。

 だが、私は淋しく無かった。光は私の胸底に火皿に灯っていた。

 私は楽観もしなければ、悲観もせぬ。私の胸底に神より受けた灯が点っている間、私は、少しも悲観はしない。必要ならば、私はその火を口火として、世界に火をつける勇気を持っている。

 私の眼が醒めた時、周囲は暗かった。然し私は、少しも悲観はしない。胸の火皿に沈殿する埃をかきのけて、灯心の先をつき出すことを忘れないだけの用意はある。

 列國は再び軍備を急ぎ、民族は闇を利用して憎悪の福音を播く時、私は心細い胸底の火皿に油を充して、光の打消されないように、身を以て風除けを作る。

 迷妄は深い。邪淫は扈る。蛙聾の偽預言者は絶對者を嘲笑し、聖者は石にて打たれ、暗黒は地上を支配する。それでも私はまだ私の胸底に秘められた光明に信頼を投げかける。私に悲観も無ければ楽観も無い。私にあるのはこの至聖者より輿へられた灯への信頼あるのみだ。

 発明は進み、機械は進歩する。ただ進捗しないのは、人類の意識内容の拡大性である。
 私は悲観楽観を超越する。もし悲観すべき暗黒の世界に置きざりにされたにしても、光明への復帰の糸筋を私は知ってゐる。

 人体の血は汚血を肺によって浄化して貰ひ、また心臓を遠して四肢の指先まで廻して行く。その浄化されたる赤血は疾病を癒し、傷口を縫ひ合せる力を持ってゐる。私は霊魂の世界にも同じ贖罪の法則の働いてゐることを信ずる。

 部分が部分の為めに悩むことを犠牲と云ふ。全体が部分の為めに犠牲になることを贖罪愛と云ふ。神はその贖罪愛の持主である。

 私は血を持って神の贖罪愛を啓示した大工イエスに、新しき人類復活の糸口を発見する。

 罪のいや増すところ恩寵もいや増し、暗黒の深まる所、星の輝きは一層増す。実にこの宇宙の神の摂理こそ、私に取りで唯一の處世道である。

 この書は私が十数年間瞑想して来たことを、その都度、友人達が筆記してくれたもの
である。で私はここに新しく友人達の好意を感謝し、世の多くの同志達が一層神に就い
ての信愛を増さんことを祈るものである。

  昭和十二年三月復活祭の前日

         賀  川  豊  彦

             武蔵野の森にて



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第86回)

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「お隣に咲くハナカイドウ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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              第86回
  

     『宗教読本』

      昭和12年4月15日 第一書房 373頁

 本書『宗教読本』は、昭和11年8月の『人生読本―春夏秋冬』以来、『随筆集・黎明を呼び醒ませ』『颱風は呼吸するー長編小説』に続いていずれも第一書房より刊行されています。

 『人生読本』とは姉妹編となるもので、いずれも鑓田研一氏によって賀川の著作から抜粋して構成されています。『人生読本』の場合は、抜粋された出典が明示されていて便利でしたが、今回はそれが省かれているために、少々不便なところがあります。但し、箱入りの上製本で、立派な出来栄えです。

 本書は戦後早々昭和21年7月には、全国書房より書名を『生活としての宗教』と改題のうえ、簡易な仕上がりで再版され、その2刷では当時の事情を反映して全く紙質を変更した著作として読みつがれています。




       『宗教読本』編者の言葉

 賀川豊彦氏はご宗教界の偉材である。いつか某誌の各方面の名士に頼んで、現代日本の十傑を選出してもらったら、その時も宗教界からは賀川氏又は山室軍平氏を拉して来た人が多かったやうに記憶してゐる。

 賀川氏を印度のガンヂーと比較するのは、外國から起った事で、どこの國でも、宗教的生活者の良心と情操は、国境と人種の別を越えて伸び上る。フランスあたりの片田舎でも、日本人を見かけると、カガワつてどんな人かね、と訊くさうである。ジイドが日本でもてはやされても、まだそれほど一般化してはゐない。

 ところで、賀川氏とガンヂーとの比較だが、宗教的気魄に於いで、瞑想的気分に於いて、正義と愛への傾倒に於いて、両者の間には著しく共通点のあることが、アメリカ人やフランス人の闊達な心の窓にはそのままに映るらしい。

 だがガンヂーは今年六十九歳、賀川氏は丁度五十歳である。人格の圓熟、人格的魅力といふものは、努力や精進の反映であるよりも、より多く時間の象徴だと思はれるが、その意味では賀川氏はなほ将来の人である。だが、その体験する宗教の色彩又は味覚といふ点になると、近代人は賀川氏の方にずっと魅力を感ずるであらう。

            *

 賀川氏の宗教経除とその文學的表現は、実に多彩である。それは第一に氏の豊富な知性から来てゐる。メレジコフスキイの『神々の復活』の中に描かれてゐるダ・ヴィンチは、最後には知性の破産を嘆く段取りになつてゐるが、賀川氏にはそんな事がない。それでは知性が信仰に打ち克つてゐるかといふと、さうでもない。氏は信仰に最高の王座を與えてゐる。あらゆる知識は、全力的に、しかもその有効性の限界を越えることなしに、いはば信仰に仕へてゐる、信仰が女王なら、知識はその美しい侍女たちだ。氏が星を覗く望遠鏡を据ゑつけ、結晶体の標本を誂へ、ランゲの『唯物論史』やごラスキンの『ヴェニスの石』や、ジーソスの『科學の新背景』を側近の者に翻訳させる時、氏の頭の中にあるものは、まだ、信仰と知性との間に置かれた正しい秩序である。

 賀川氏の宗教を多彩ならしめる第一の要素は、氏が文學者であり、詩人であることである。氏の百冊に近い著書の序文は大部分散文詩であるが、そこには、宗教的気魄と芸術的感動、純真な霊性と官能的感情が縦横に交錯して、高らかな交響楽を奏してゐる。ああいふ文章の書ける者はこの國にもちよつとゐない。

 「生命芸術術としての宗教。」
 「神の潮が良心の岸辺に高く渦巻く。」
 「聖浄ぱ私の室気である。神の御顔は拝せずとも、神の触指の爪先は、いつも私の眼に映る。」

 かういふ表現の出来る者は、賀川氏を措いて他にない。

 『聖書』は、新約、旧約を併せて、霊性の泉、生命のパンの貯蔵所だが、それと同時に、氏はそこに偉大な文學を見る。氏の小説の題は屡々『聖書』から取られる。『一粒の麦』『幻の兵車』『石の叫ぶ日』『乳と蜜の流るる郷』などがそれだ。

                   *

 賀川氏の宗教に光彩を添へるもう一つの要因は、氏の生涯と性格が驚くほど特異なところにある。
 氏は弱者の子であり、氏の実兄にあたる人は、十六歳の頃から妾狂ひをして家産を蕩尽した。
 好色と淫乱の巷から、巌かな神の聲に呼び出されて、聖浄の生活に入ったのが賀川氏なのである。神と永遠への思慕は、氏にあっては絶對感をおびてゐる。氏が肺患にかかって長い間生と死の境を彷徨したこと、いっそ死ぬなら貧民のために尽くして、と覚悟して神戸の貧民窟に身を投じたこと、等、等が、氏の宗教をどんなに香気に富んだ芳醇なものにしてゐるか知れない。

 だが、もし氏の人柄が控へ目で、もの静かで、つつましい一方だったら、これほどの結果は予定されなかったであらう。賀川氏の父は、官界に腰を据ゑてゐれば大臣にもなれる人物だったが、役人なんかつまらぬと放言して、弗相場に手を出し、企業熱に身を焦がした。冒険的と投機的――それを賀川氏も自らの性格の中にそのまま受け縫いでゐる。しかし氏はそれを惜しみなくそっくり宗教の方へ持って行って、神のためにすべてを賭(は)った。それを思ふ度に、私は心の愉悦を禁じ得ない。

 賀川氏は非常に瞑想的な性質で、森の中、道のほとりで、夜露に濡れそぼちながら長い間祈ることの出来る人だが、さういふところだけが氏の本領ではない。氏の宗数的情熱は 深く内部に凝ると同時に、外部に向って、驟雨のやうに放射される。沈潜的であると同時に高踏的、個人的であると同時に社会的――病躯を駆使しながら、さういふ進み方をしてゐるのが氏である。神聖な冒瞼、神聖な投機の好愛が、この傾向に拍車をかける。後から後から社会事業を繰り拡げて、貧乏と借金に追はれながらも、氏は平然としてゐる。氏は奇蹟に期待する。氏にあっては、冒除と奇蹟はいつも脊中合せをしてゐるらしい。

 氏を買名家のやうに云ふ人があるが、実を件はない名に、さう簡雖に買ひ手がつくものではない。世の中はもっとせち辛くなってゐる。それを颯爽と切り抜げてゆくには、どうしても賀川氏のような性格が必要なのだ。

 氏の性格に私は歴史的意義を見る。

             *

 それでは、賀川氏の宗教は何派に属するか?

 この疑間はちよつとややこしいやうに見えるが、事実はさうでない。『聖書』一冊が氏の宗教の典拠である。氏の愛する「生命宗教」といふ言葉にしても、イエスが「我は生命なり」と言つたのをそのまま取つたのだ。キヤベツのやうに、必要な衣は幾枚かつけてゐるが、それを剥いでしまへば、中には蕊があるだけだ。それが『聖書』である。だから、賀川氏の宗教の木質はごくごく単純であり、軍純であるだけに、清く且つ美しい。氏の宗教に普遍性があり大衆的背景があるのは、そのためだと私は思つてゐる。

 古今の思想家、宗教家の中で、賀川氏に影響を及ばした人は多い。理想主義哲学の祖プラトンなどもその一人である。トルストイ、ラスキンの影響も濃厚であった。とりわけ、トルストイには全部的に打ち込んだ時期がある。しかし後には、そのトルストイをさへ訂正し得るやうな高さに氏は達した。

 最初に平を取って、かういふところまで氏を導いて来た人は、宣教師のマヤス氏とローガン氏であった。二人とも今なほ健在である。

              *

 この『宗教読本』は、賀川氏の宗教と宗教的生活が、端的に窺ひ知られるやうに編纂したものである。それは去年出た『人生読本』の姉妹篇である。

 『人生読本』とくらべると、『宗教読本』は、その性質上、より多く理論的であり解説的である。しかし一方で、『人生読本』と『宗教読本』とのけぢめは紙一重である。生活印宗教、宗教即生活といふ立場が賀川氏の立場であるから、これはむしろ当然であらう。それだけ編纂に苦心を要したわけである。『人生読本』と重複した文章はここには一行もないことを、私はわざわざ云って置きたい。

  昭和十二年三月

           鑓  田  研  一




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第85回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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             第85回
  

    『颱風は呼吸するー長編小説』

      昭和12年2月20日 第一書房 288頁

 本書『颱風は呼吸するー長編小説』も前回の『随筆集・黎明を呼び醒ませ』と同様に第一書房より出ています。この「長編小説」はどの雑誌に掲載されていたのか確認できていませんが、ここで収める本書の序文「颱風に備へよー序に換へて」は、昭和12年2月号の『雲の柱』に掲載されています。また今回も、武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の本書の「解説」も加えて置きます。


         颱風に備へよ

          序に換へて

 人間も呼吸すれば、颱風も呼吸する。悪血を浄化するために、人間は呼吸し、地上を浄化するために、颱風は呼吸する。

 おお颱風は呼吸する! 赤道を北に颱風ぽ呼吸する。烈日は低気圧を作り、熱線は北に動く。然し、熱するものは大気だけではない。人間の血もまた熱する。寒流は北より流れ、低温は南する。悪逆の血の反乱する日、天恩は豊かに人類を育み、罪のいや増すところ、恩(めぐみ)もいや増す。

 日本の上空を通過する低気圧に、東亜は震駭し、大陸の空気ば瞼悪を加へる。

 そも、日本をのみ通過する颱風は、何を意味ずるか? 米の鳥人リンドバアグも日本の北海には、不時着陸し、佛の空の勇者ジャピーも玄海には、その翼をすぼめた。日本列島にのみ、颱風はそのコースを選ぶ!

 台風過ぎて、更に新しき颱風は起り、屋根を飛ばし、家を倒し、船舶を沈め、人畜を傷ける。

 颱風は呼吸するよ! 颱風は! それは時計の針とは反對に螺旋を画いて北に進む。見よ、「通り魔」は、一進一退、根強く呼吸をつづける。かくして、歴史は繰返し、氾濫はつづく。

 然し、その几てを貫いて宇宙意志の標的は変わらない! 罪のいや増す所に、恩(めぐみ)もいや増す。発熟する所に治癒は始まり、痛傷のある所に、恢復も約束せられる。されば南風よ、呂宋(ルソン)島を西北西に吹く風よ! おまへの吹く日に、私は雨戸を閉し、閂(かんぬき)を入れ、屋根瓦を網で蔽ひ、颱風の呼吸するを待たう! やがて、西は白み、乱雲はとぎれ! 太陽は積雲を裂き、また青空が日本に親しむ日がこよう!

 南の測候所の旗は、なんと予報するか?

 秒速二十五メートル、颱風! 中心地、支那海!

 私の霊魂よ! 静かに、慌てすに、台風を迎へる為めに、準備せよ!

    一九三七・一・一八

             賀 川 豊 彦
            
                武蔵野の森にて




   武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」より(306~308頁)

              『颱風は呼吸する』について

 この書は昭和十二年二月二十日、東京の第一書房から発行された。昭和十二年七月七日に中国事変が勃発したのであるから、その時から五ヶ月前のことである。表題を見、序文を読めば、当時の日米間の雲行き、満洲国建国後の中国の動きが、いかに賀川の心に影響していたかがよくわかる。

 この書には、アメリカにおける日本人の生活と排日的空気とが克明に描写されており、また植民都市上海の状況とそこにおける日本人の生活とがかなりよく描かれている。いずれも賀川が生活し、体験し、あるいは見聞したものを材料としたのであろう。

 この年には第一書房の長谷川己之吉が賀川を高く買っていたと見え、『黎明を呼び醒ませ』『荒野に呼ぶ声』という本もそこから出している。表題がいずれも息づまるような感じを与えているところに、この書との共通性かおる。

 次にあらすじを語ろう。
 関東電機会社の事務員斎藤駿治は、見込まれてアメリカのサンフランシスコの支店に一年間派遣され、見学してくることとなる。彼は新宿のカフェーの女給松代に入れあげたり、悪友に誘われて玉の井に行ったりするが、どうにか誘惑を退けて渡米することになる。

 サンフランシスコのポスト街の米人未亡人の家に下宿した駿治は、そこの娘アンナと仲良くなり、結婚の約束をする。それがわかって未亡人から下宿を追われ、アメリカ人を呪ってついに堕落し、ルンペンになってしまい、日本人移民のごろつき仲間に入る。

 アンナは彼を棄てずに、彼のために祈り、彼の回心を待つ。自動車事故で大怪我をした駿治は、入院してアンナの看護を受け回復する。それから農業移民の成功者で、金持の田代に助けられ、いっしょに日本に帰ることになる。日本人と婚約したアンナはK・K・Kにさらわれてしまう。

 田代とともに船にのった賢治は、船の中でヴァイオリンを弾く青年遠藤光三と知合いになり、また莫大な遺産をもって帰国する未亡人早川千鶴子の鼻血を治してやり仲良くなる。

 帰国した駿治は、千鶴子から出資してもらい、遠藤光三とその妹幸子とともに上海に行って電気器具の商売をやることになる。上海には千鶴子もやってくる。商売は繁昌する。幸子は駿治を恋するが、駿治はアンナとの約束を重んじて幸子の愛を容れない。そのため幸子は中国共産党に入って、中国人と活動を始めるようになる。上海に排日運動か盛んになる。そして上海には便衣隊が出没する。国民党政府は共産党狩りをやる。

 こうした騒ぎの中にアンナが結婚につき母の許可を得て、上海にやってくる。上海に着いたアンナは女子青年会の廻転式階段から落ちて脊椎を打ち不具者となる。しかし駿治はアンナと病室で結婚式をあげ、妻として愛する。

 幸子は中国共産党に入ってつかまり銃殺されるところを駿治が領事館に頼んで助けてもらう。アンナは駿治の店の二階に寝たきりで、手を動かして夫のためにスエーターを編む。また編物をしてはみんなに贈物をする。

 満洲事変が勃発する。抗日ボイコットが起こって駿治の店は苦境に立つ。幸子は再び店を飛び出してしまったが、この頃銃殺されてしまう。

 千鶴子は風邪で寝つき、目が見えなくなって入院する。梅毒による白内障である。亡夫から毒をうつされたのであった。駿治は資金難に苦しむ。アンナの母からの送金があって、苦境を凌ぐ。アンナの親友のミス・クックから百ドルがアンナに送られる。これで千鶴子の入院料を支払う。

 この頃になって駿治が渡米前に入れあげていた女給の松代か梅毒に侵された姿をあらわす。その夫である麻薬売りの河野竹次郎が駿治に対しあばれる。そして松代を保護して病院に入れてやった駿治を領事館に訴えたり、駿治を売国奴呼ばわりをして殺すといって脅したりする。

 この頃上海では便衣隊が出没するので、便衣隊狩りが盛んに行なわれる。幸子の知人であった共産党員の陳栄芳が逃げてきて駿治の家の二階にかくれる。駿治はこれをかくまってやる。このため駿治は嫌疑を受け河野のさし金で、自警団の分隊長のところに連れて行かれ銃殺されることになる。

 河野は自ら銃をとって駿治を狙ったがその銃丸は駿治の頭上を掠めただけで飛去る。アンナが河野の妻に負われて現われる。『シュソジ、あなたはそこで、何してるの?』とアンナがいうと、駿治は『今銃殺されるところだ』と答える。分隊長は駿治と他の七名の支那人を自警団の本部に連れて行く。駿治は陳栄芳のため命乞いをする。駿治と七名とはいずこか連去られる。アンナは毎日、河野の妻に負われて自警団の本部まで夫の安否を尋ねに来る。

 三年たって南京の中山路で、自動車の中に並んでいる駿治とアンナの姿を見た人のあることが伝えられる。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第84回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第84回
  

    『随筆集・黎明を呼び醒ませ』

       昭和12年1月20日  第一書房 338頁

 本書『黎明を呼び醒ませ』は、賀川豊彦の久々の「随筆集」です。ここでも本書の「序」、並びに武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。



      『黎明を呼び醒ませ』

          序

 師走のどす黒い夕雲が、日本の空に懸る。これは、自分の煙突から吐き出した煤煙だ。大阪には年八百萬貫の煤煙が降る。日本は今その煤煙に中毒してゐるのだ。

 師走のどす黒い陰惨が日本の魂を被うてゐる。真夜中に起きた時、私はこの憂鬱を思うて涙することが屡々だ。娼妓五万二千、芸妓八万、女給九万、そして闇に咲く醜業婦は猶この外に五万を数える。三年前から、大阪、神戸の街頭には、男娼まで進出して来た。

 師走のどす黒い憂愁が、日本の戸口を覗いてゐる。純潔は失はれ、騒擾は繰り返され、強盗と殺人は激増し、刑務所は増築を急ぐ。おお、東方の君主國! その名のために私は日本の不義を自ら恥ぢる。

 闇は深まり、暴風は加はる。ああ、それは物的の昏迷ではなくて、霊の痴乱だ。桜が咲いても、菖蒲が開いても、私の憂鬱は少しも晴れはしない。盗賊の忍び入る如く、不義は、愛國心の名を籍りて民族の霊魂の殿堂を脅す。民衆はその仮装を看破して、黎明の近づくのを待つてゐる。

 黎明は何時だ。日本の暗黒に代る黎明は何時だ。黒土は嘆き、禿山は泣いてゐるのに、狼はまだ闇を楽しんでいる。

 明星を呼び起し、太陽に覚醒を輿へよ。鶏よ、早く鳴け。燕は何時北に帰り、春は何處まで来てゐるのだ。結氷よ1 結氷よ! 日本の霊魂の結氷よ! お前は氷の下の鯉を窒息さぜるつもりか?

 鶯よ、加勢してくれ。雲雀も春を督促しろ。あまりにも長い日本の結氷をあらゆる方法で恥ぢるがいい。

 三原山は忙しく自殺者を呑み干し、阿片商人は専買制度の蔭に隠れ、酒精は免許制度の城壁に立篭り、発狂者は十萬人を数え、出獄人は百萬を越えるに至った。犬吠岬は悲しみ、伊良子岬は憂ひ、冨土山もまた首を傾けてゐる。彼等には、秋津洲の現状に異変の前兆が見えるのだ。

 嘗ては、聖徳太子を生み、光明の基礎を仁義に即せしむべきを自覚し、それを憲法にまで認めた日水民族は、密雲に太陽を見上げることさへ無くなった。

 弘法は、千百年の昔、「十住」の心諭に絶對無障の哲理を指示して、日本の哲學に新しき紀元を開いたが、法界聲無くして、絶対の境地は、弊履の如く拾てられてしまった。

 親鸞の末裔は、愚禿の昔を忘れ、日蓮の亜流は清澄山の体験より離れ、徳愛は蒸発して、日本は蒙古の砂漠と相連るに至った。

 太古、日本海は沙漠であった。近代に至って、その沙漠がまた日本の霊魂に復活した。旱魃に私の眼の涙まで蒸発した。おお、沙漠の暗闇に黎明を告ぐる乙女星スピカの昇る日は何時か。私は凍えつつ、砂漠の端に黎明を待ってゐる。鶯よ、雲雀よ、早く新春を督促しろ。沙漠の端の闇の中に、独り立ってゐる私を憐れんでくれ。

   昭和十一年十二月十六日
       
          賀 川 豊 彦





      武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』367~370頁

           黎明を呼び醒ませ

      エッセイ作家賀川とその著作の特質

 散文詩人である賀川はまたエッセイ作家であった。随筆家というよりは、エッセイ作家と呼んだほうが、彼の作品にはしっくりする。それは彼の思想内容や考え方や表現方法が日本的であるよりは、どちらかといえば、西欧的だからである。

 彼のエッセイを土にたとえれば、地層の底に固い岩があることがわかる。そこにさぐりを入れると、カチンと当たる。それは彼の宗教的信念であり、信仰である。どんなにやわらく、美しく、詩的に見える短文でも、その底には信仰という岩盤が横たわっている。彼は『岩の上に』文を築いた人である。

 彼は自然を愛した。吉野川のほとりに幼少年時代を送った彼は自然の子であった。自然の美からおよそかけ離れた貧民窟や本所のバラックにおいて、人の子の悩みを担いつつあった時も、彼は常に自然へのあこがれをもって文を書き、自然の中に身をおくことのできない時は、雲や星や雨を相手にした。伝道旅行は彼にとっては自然との交わりの好機であった。大正十三年東京郊外松沢村に転居してからは、彼は自然の中に身をおいて生活を楽しみうるようになった。

 自然を愛した彼は、自然を自然として愛したのではなく、一目一草のうちに、一鳥一虫のうちに、神の創造の妙なる業と意匠とを発見し、これを讃美した。彼は神を呼ぶに『宇宙生命』なる語をもってした。彼のうちに内在する宇宙生命は、超越的なる創造主であり、天地宇宙の支配者であった。彼は人間のうちだけでなく被造物のうちにも宇宙生命の宿るのを見た。

 こうした自然観、自然讃美は彼のエッセイの随処にあらわれている。その意味において彼は単なる自然詩人ではなく、宗教的自然詩人であった。

 次に彼はそのエッセイにおいて絶えず社会時評を行なった。それはジャーナリストとしての批評でなく、予言者としての論評であった。日本民族のうちに潜み、あるいは露出する罪悪を彼は鋭く指摘した。しかしこれを指摘するに止らずに、常に救いへの祈りをもって結んだ。その祈りのうちに彼は希望をいだいた。それは旧約の詩篇作者と同じ態度であった。従って彼のエッセイには人生を題材とする作品がかなり多い。彼は人間を愛した。ごろつきでも、ペテン師でも、乞食でも、淫売婦でも、どろぼうでも、彼はこれを愛した。彼は人間の表面を見ずに、その内奥にある本性を見通した。更に彼は人間社会の改造を絶えず考えており、生物学の知識、進化論への見識、動植物界への見解は、人間社会に応用され社会改造への提言となった。

 自己を題材とするエッセイ、すなわち『私』を主語とする随筆は甚だ多い。賀川への悪評の一つは、彼がセルフ・センタード、すなわち自己中心に偏しすぎるということである。エッセイのうのも、ややこの批評が当たるようなものがないでもない。殊に投獄、病気等については、しばしば言及するため、少しくギラつくところがある。しかし彼は自己の成功を誇ったり功績を自慢したりしないで、パウロのように『キリストのためならば、弱さと侮辱と危機と迫害と行き詰まりとに甘んじよう』(コリント後書十二の一〇)というところがあったのである。

 四百字乃至一千字をもって書いた彼の散文は、一つの型をもっている。七言絶句のように起承転結から成り、結句は多くの場合、詩篇のように祈りとなる。また時に檄文となり、詠歎となり、待望となる。

 長文のものは物語風に書かれている。これは短文に比べ、文学的にはすぐれており人をひきつけて終りまで読ませる魅力をもっている。そしてこれには、自己中心的なギラつきがない。

 賀川が短文のエッセイを書くスピードは驚くほど速いものであった。キリスト新聞社に姿を現わすや、『不尽油壷』への投稿を催促すると、彼は密室に退いて十五分か二十分で原稿を仕上げて提出するのであった。そして原稿の表題は複線を使って大きな字であらわすのが常であった。彼のうちには思想、感情、知識が豊富に蔵められていたので、静かな時さえ与えられれば、それが短時間であっても、彼のうちにあるものが蚕の糸の如く、彼のペン先から綴り出されるのであった。
 本巻はそのようにして綴られた彼のエッセイの集大成である。

      『黎明を呼び醒ませ』について

 この書は昭和十二年一月二十日、東京の第一書房から発行された。すでに用紙の統制が始まっていたためであろう、奥附には初刷二千五百部と印刷されている。

 書題をなしている巻頭の一文『黎明を呼び醍ませ』は元旦の辞である。序文の日附は昭和十一年十二月十六日となっているので、この文は昭和十一年の年頭のことばであろう。『太陽の周囲を一定の軌道に乗って廻って来るだけが新年というのではない。黎明を呼び醒ませ、魂よ、昨日の藻抜けの殼の生活より、今日新しき第一歩を踏み出せ』という書出しをもって、唯物論に捉われている魂、物質の彼岸に法則の叡智を見出しえない人に、覚醒を促している。

 この文章に比して序文には日本をおうている暗黒を示し、『不義は愛国心の名を籍りて民族の霊魂の殿堂を脅す。民衆はその仮装を看破して、黎明の近づくのを待っている』と述べ、自らを『凍えつつ砂浜の端に黎明を待っている者』となしている。昭和十一年は二二六事件の起こった年であり、ミリタリズムの暗雲が日本においかぶさりつつある年であった。賀川は来らんとする日本の危機を洞察し、この序文と巻頭文とを書いたものであろう。

 これら二つの文を除いては、本書に収められている六十一篇の作品は明るく、面白い。殊に人物評伝が光っている。『懺悔僧としての徳富蘆花』『北氷洋の聖雄グレンフェル』『ジョン・ラスキソ』『支那における太平天国運動』『無人島の王者』『徳富蘆花氏の思ひ出』などは、くつろいで読める文章で、しかも読者をインスパイヤすること大である。

 『東京と大阪』は社会時評として、すこぶる興味ある随筆であり、今日でもなお両都市比較の参考となる。

 科学に関する短文としては『新天文学の方向』『天文学から見た新天地創造諭』『物質に対する新しい考へ方』『宇宙一元』などかある。当時の天文学者、自然科学者が宇宙の神秘に驚異したのと同じ驚異をもって感想を記したものである。

 『死線を越えてを書いた動機』『夫婦の苦闘の跡』『最徴者への奉仕』は自叙伝の重要な一餉をなすもので、殊に『夫婦の苦闘の跡』は春子夫人との結婚の動機を記したものである。

 宗教的エッセイは『深夜の祈祷』『静思断片』『現代人と信仰』『不思議な世界』『神と永遠への思慕』『魂の芸術』『物質を凝視する瞬間』などである。『神と永遠への思慕』は同名の講演集(本全集第二巻)の要旨をなす。

 ユダヤ人とシオニズム運動を解説的に書いた『放浪民族の運命』は読みごたえのある諭文である。当時はユダヤ禍を唱導し、世界の紛争や動乱は、ユダヤ人の陰謀であり、日本にもこのユダヤ禍が及びつつあると宣伝しまわった人物がいた。(四方伝陸軍中将その他)。賀川はこれを反諭し、ユダヤ人及びシオニズム運動に正しい解釈を与えたのである。

 その他本書には、産業、経済、科学、芸術、演劇等百般の事項についての小文が収められている。特に徳富蘆花との交わりは印象が深かったと見え、『徳富蘆花の思ひ出』のほかに『武蔵野の魂の記録』『小説富士』において蘆花のことを述べており、いずれも心温まる作品である。




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第83回)

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             第83回

  
   『BROTHERHOOD ECONOMICS』

      昭和11(1936)年  Harper&Brothers

 1936年にアメリカのHarper&Brothersで出版され、翌1937年にはイギリスでも刊行された本書『BROTHERHOOD ECONOMICS』は、2009年6月に、日本生活協同組合連合会出版部において、加山久夫・石部公男共訳・野尻武敏監修として邦訳されました。

 ここでは邦訳された賀川の「序文」を収めます。そして参考までに加山久夫氏の「訳者あとがき」もUPして置きます。



   『BROTHERHOOD ECONOMICS』

           序 文

 「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行なう者だけが入るのである」。 20世紀の今日、私はいま改めてこのイエスの言葉に思いをめぐらしている。

 今日ほど、キリストの教えが挑戦を受けている時代はかつてなかった。もし教会が社会において愛を実践しようとするのであれば、その存在理由はあるだろう。私は、信条だけで世界を救い得るとは考えない。信条が重要でないというのではなく、信条や教義とともに、社会での贖罪愛の適用が必要なのである。

 今日、資本主義は、漁に出かける漁師のようなものである。漁師は棹や餌を準備しているが、魚はかれら自身の考えを持っているのである。漁師と魚の内なる目的の間には一致ではなく、むしろ対立がある。新しい時代には、私たちは需要と供給という、本来あい伴っていくべき二つの、この不自然な矛盾を解決しなければならない。生産者と消費者の間の溝を兄弟愛をもって架橋しなければならない。さもなければ、社会は決して救われず、不況、恐慌、失業がいつまでも続くことになる。

 相対性や量子力学の理論は19世紀の物質概念を完全に放棄し、固定的な決定論を可能性の世界へと転換させた。かくして、20世紀には、物質主義的資本主義と物質主義的共産主義は共に放棄されなければならないのである。

 私は、本書において、心理的ないし意識的な経済を通して新しい社会秩序に至る新たな道を見出そうと試みた。

 本書は、1936年4月、コールゲイト・ロチェスター神学校のラウシェンブッシュ基金の招きで「キリスト教的友愛と経済再建」という表題のもとに4回にわたって行なった講演を収録したものである。

 本書の初稿は米国に向かう太平洋上で執筆した。もし鈴木荘介氏が荒れる航海の途上で助けてくださらなければ、本書の執筆を終えることはできなかったかもしれない。最初に日本語で執筆した原稿を日本に送り、ジェッシー・M・トラウト嬢と小川清澄牧師に英訳の労をとっていただいた。

 さらに、コールゲイト・ロチェスター神学校、アンドヴァー・ニュートン神学校およびシカゴ神学校の数名の学生諸君が英文原稿の表現を検討してくれた。その後、多年にわたり私の助手を務めてくれているヘレン・F.タッピング嬢、国際宣教会議の秘書であるエスター・ストロング、ラウシェンブッシュ講演委員会委員長のアール・B・クロス教授らのご好意により、幾分か拡大され、形も整えられた。本書の出版のためにご助力くださったこれらの友人たちに心からの謝意を表したい。

           賀川 豊彦
                 




     訳者あとがき

 1935年12月、賀川豊彦は、経済恐慌からの復興のためにニューディール政策を推進中であったルーズベルト政府から招かれ、協同組合運動の指導者として全米講演の旅に出かけた。この多忙な講演旅行中のもう一一つの目的は、ニューヨークのコールゲイト・ロチェスター神学校でのラウシェンブッシュ記念講演であった。

 キリスト教の社会的使命を掲げる「社会的福音」で世界的に著名なウォルター・ラウシェンブッシュを記念するこの講演には、やはり世界的に著名な人士が招かれ、その講演は刊行される慣例となっていた。賀川の講演がbritherhood Economics(Harper&Brothers、1936)として出版されることが予告されるやいなや、3、000部の予約が出版社に殺到し、広く読者の関心を集め、その後、世界的に多くの言語に翻訳され刊行された。

 カナダ、イギリス、スコットランド、フランス、中国、オランダ、スウェーデン、ルクセンブルク、デンマーク、ノルウェー、ウェールズ、アンドラ、イタリア、スイス、ベルギー、リヒテンシュタイン、リトアニア、エストニア、ラトビア、ポーランド、サンマリノ、トルコ、ユーゴスラビア、オーストリア(ドイツ語およびエスペラント語)、ドイツなど25力国、17言語で出版されている。

 当時、米国発の金融恐慌で苦しむ世界において、キリスト教的兄弟愛に基づく人類社会の新秩序樹立への提言がどれほど多くの人々の関心と共感を呼んだか、よく窺われる。

 ところが、残念なことに、日本語では出版されず、話題にもならないままとなった。

 因みに、1978年、当時EC(現在のEU)の議長であったE.コロンボ(イタリア外相)が日本の国会に招かれた際、事前に国会に宛てたメッセージの中で、「競争的経済は、国際経済の協調と協力を伴ってこそ、賀川豊彦の唱えた『友愛の経済』への方向に進むことが出来るのである」と述べている。しかし、どれだけの国会関係者が、賀川の唱えていた「友愛の経済」について知っていたのであろうか。

 もっとも、賀川豊彦が渡米船上で執筆した元の原稿は『キリスト教兄弟愛と経済改造』として、ただちに『雲の柱』誌に連載されている(1936年3月~6月)。(『賀川豊彦全集』11巻に所収。)しかし、本として出版されたものは増補、編纂され、書名も変わっている。また、『雲の柱』誌は賀川の個人誌の趣があり、読者層も限られていたので、この時も、その後も、残念ながら、広く話題とされることにならなかった。

 賀川豊彦の思想や社会活動についての紹介や本書の意義については、監修者により行き届いた紹介がなされているので割愛する。

 本書は、米国での講演であり、しかも、キリスト教の背景をもつ聴衆に語られたものであるので、その点で多少の違和感があるかも知れない。また、なにぶん70年前の講演であり、時間的距離もある。しかし、本書が提言し、目指しているものには、時代や状況を越えた普遍性があると思う。

 しかも、本書が出版された1936年は、すでに述べたように、経済恐慌の荒波に翻弄されていた時代であり、現在の状況と大きく重なっている。賀川がある意味で共感しつつも、厳しく批判した社会主義体制が崩壊し、独り勝ちしたかに見えた資本主義体制も行き詰まりつつあるいま、第3の道が求められている。その意味で、本書のメッセージは、今だからこそ正しく読まれ、理解され得るものがある、とも言えよう。

 この度、賀川豊彦獣身100年記念事業の一つとして、ぜひ本書の邦訳出版をと思い立ち、石部公男教授(聖学院大学)と共訳し、野尻武敏先生(神戸大学名誉教授)に監修をお願いした。野尻先生は訳稿全体を原著とつき合わせ詳細に手を加え、事実上、監訳者の労をとってくださった。

 厳しい出版事情の中、コープ出版が本書を刊行して下さった。日本生活協同組合連合会の関係者の方々に心から感謝申し上げたい。

読者諸賢が、閉塞状態にある現代の状況において、本書からひとすじの光を見出し、さらに未来への希望の道を切り開くことに寄与することができるなら、望外のよろこびである。

 なお、原文中、現在では不適切と思われる表現や明らかに事実誤認と思われる記述は部分的に手を加えたが、なるべく原文を尊重した。この旨諒解していただけると幸いである。

                 加山久夫

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第82回)

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「会下山の桜」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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             第82回
  

   『人生読本―春夏秋冬』

         昭和11年8月20 第一書房 446頁

 本書を編集したのは鑓田研一氏で、賀川の詩集『涙の二等分』『永遠の乳房』、随筆『地殻を破って』『星より星への通路』『雷鳥の目醒むる前』『地球を墳墓として』、そして『暗中隻語』『愛の科学』といった諸作品の中から抜粋して、1月から12月まで月ごとにおよそ20篇ずつほどに並べて完成させています。

 第一書房では、漱石や子規、藤村や菊池寛などの「文学読本」のシリーズをはじめ、「人生読本―春夏秋冬」のシリーズでも山本有三・萩原朔太郎・野口米次郎・井上哲次郎などの作品が続けて刊行していますが、賀川豊彦もここでその一冊に加えられました。

 ここでは「編者の言葉」がありますので、鑓田研一氏の文章を収めて置きます。


       『人生読本ー春夏秋冬』

          編者の言葉

 賀川氏は世界を照らす太陽か何ぞのやうに偉大な存在である。かういふ人は、一世紀に一人か、二世紀に一人しかあらはれないだらうと思ふ。それほど、その生活ぶり、活動ぶり、人生の生き方、考へ方が特異性を持ってゐる。日本人の血統と日本の土壌の中から、かういふ特異な人がよくあらはれたことだと、不思議に感じられるくらゐである。

 傅道、貧民救済運動、労働運動、農民組合、消費組合、震災救護運動、医療組合、各種の社會事業、立体農業の実施、農民福音学校、看護婦や女子の指導、等々と、氏が過去三十年に亙ってやって来た仕事は実に廣汎であったし、これからも氏は、あの病気がちな、しかも頭丈で柔軟性に富んだ肉体が続く限り、精力的な活動を見せるでもらう。

 氏の學間は驚くほど多方面に亙ってゐる。明治學院在學中は、一切教室には出ないで、圖書室から、カソトや、ショーペンパウエルや、シュライェルマッヘルのものを引き出して、どんなに厖大なものでも、三四日で読破してしまひ、米國のプリソストン大學に入ってからは、神學や実験心理學や数学以外に、生物學、殊に比較解剖學、古生物學、遺伝発生學、胎生學を専政した。氏が神戸神學校の寄宿舎で書いた、明治四十二年、氏が二十二歳の時の日記を見ると、巻末に、その年に読んだ書物の名が列記してある。その中には、ロッツェの形而上學、プルターク傅、独歩の『欺かざるの記』前後二巻、クレオパトラ傅、頼朝、菩提達磨、クロムエル傅、ヘロドトス、スピノザ、マルクスの『資本論』、クレオパトラ伝、頼朝、菩提達磨、クロムエル伝、ヘロドトス、スピノザ、マルクスの『資本論』、クロポトキンの『パンの略取』、論語、禅學法話、菜根譚、二宮尊徳などがある。宗教、哲學、科學、経済學、社會學、歴史の諸部門の中で、氏が手を着けないものはほとんど無いと云っていい。最近は天体物理學、天文學の書を漁って、アマチュアの域を脱してゐるし、文學的素養だって、あれで氏は一人前以上のものを持ってゐるのである。氏の書いたものを理解するには、だから、本当を云へば、氏に劣らないくらゐの予備知識が必要である。だが幸ひ、氏は大衆の言葉を持つてゐる。氏の胸には大衆の血が流れてゐる。氏が言はうとする事、訴へようとする事は、犇々と誰の胸にも迫る。氏は永久に青年である。氏は水久に童心を失はない人である。それに、何より嬉しいのは、氏の言葉の一つ一つが、氏自身の生々しい体験から生れ出てゐることである。どんな言葉の切れ端にも、氏自身の心臓の鼓動が脈打ってゐる。

 氏の著書は既に九十冊からある。その中から必要な部分を抜粋して本書を編んだのだが、この仕事は、氏の側近者の一人となって十数年になる私にとってさへ、予想以上に困難であった。私は屡々自分の知識の浅いことを歎かざるを得なかった。従って、編輯を終へ、校正の朱筆を擱いた時にはほっとした。

 この書は、苦熱や貧困や病気で喘ぐ者に、魂の涼風を送るであらう。どのページを開いても、死線を越えて信仰と愛と希望に生きてゐる者の颯爽たる気魄と情熱が溢れてくいると私は信ずる。朝食前、叉は夕食後に、一家団欒して、一入が朗読するのをみんなで開くのも面白からう。そんな場合、朗読する方も、聞く方も、そっと顔を染めなければならないやうな文句は、この書には絶無である。再読し三読して、この書で満足できなくなったら、直接に賀川氏の九十冊の著書を読破したまへ。

 賀川氏は生れながらの詩人である。第一詩集『涙の二等分』が、与謝野晶子女史の序交附きで上梓されたのは、大正八年十一月のことである。私は思ひ出すが、その時氏は早速それを、常時私か席を置いてゐた大阪神學校の寄宿舎へ持って来て、あちらこちらを読んで聞かせてくれたものである。三十幾歳になっても、氏には青春のスリルがあった。氏にとっては記念すべき詩集であるから、この中からも私は数編抜粋した。

 第二詩集は『永遠の乳房』(大正十四年十二月刊)で、これももちろん見落すわけにゆかなかった。

 氏の出世作は自傅小説『死線を越えて』(大正九年十一月)である。あれが出た時、読書界に起ったセソヒイションは非常なもので、おそらく五十萬部から売れたであらう。今年十七八歳になる者が呱呱の聲を揚げた頃の事件である。それを思ふと、時が経つのが恐ろしいみたいだが、それから後も氏は十畿篇の長篇小説を書いた。とりわけ、『一粒の麦』は『死線を越えて』についでの売れ行きを示した。そして二つとも、今では幾っかの外國語に翻訳されてゐる。

 この書を編むに当たって、私はしかし、小説からは一切抜粋しなかった。といふのは、賀川氏の小説は、一節、一章を抜粋して、その技巧や表現を味わうべき性質のものではなく、全体を読んで初めて意義を持つべき性質のものだからである。それほど氏の小説は全体性を持ち、その全体性は芳醇な人生的價値から成り立ってゐるのである。

 散文詩の方で氏が特異な技量を持ってゐることを知ってゐる者は、小説家としての氏、宗教家、社会運動家としての氏の存在が華やかなだけに、わりに少ないのではないかと思はれる。それで、この書には、氏の散文詩の中でも、最もすぐれた部分をかなり沢山取り入れた。『地殻を破って』(大正九年十二月刊)や、『星より星への通路』(大正十一年五月刊)や、『雷鳥の目醒むる前』(大正十二年三月刊)や、『地球を墳墓として』(大正十三年六月刊)からの抜粋がそれである。そこには神と共に歩む者の朗かな歓喜と魂の香気が漲ってゐる。

 珠玉のやうな短文に充ちてゐる『暗中隻語』(昭和元年十二月刊)は、この書を編むのに一番役立った。英語にも支那語にも訳されて、世界中の人々に熱読されてゐる『愛の科學』は、この書の至る所に、高らかな調べと音楽的なリズムを輿へてくれた。

 この『愛の科學』が上梓されたのは、大正十三年五月のことで、大阪毎日の村島帰之氏と私とが、本所のバラックで、震災救護運動で寸暇もない賀川氏の横顔を目のあたり見ながら、十幾日かかって編輯と校正をやったものである。さういふ思ひ出のある書物が、今ここで再び使用されたことは、私にとっては二重の喜びである。

  昭和十一年八月九日   鑓  田  研  一

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第81回)

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「春の球児たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

     わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
             第81回
  

     小説『その流域』

     昭和10年11月30 大日本雄弁会講談社 369頁

 本書『その流域』は、講談社の雑誌『雄弁』の昭和10年1月から12月まで1年間連載されたものです。戦後昭和23年6月には、読書展望社において『その流域―小説』として発行されて読み継がれました。ここでは賀川の短い「序」を収めます。
 なお、武藤富男氏の『賀川豊彦ダイジェスト』に本書の「解説」がありますので、少し長いものですが、参考までに入れて置きます。


         その流域

           序

 一國の文化は河川の流域に沿うて栄える。支那は黄河の文化によって始り、印度はガンヂス河をその脊髄とした。そして日本の文化も、六百有余の流域が凝集したものである。日本の文化は流域の文化である。その流域を守ることなくして、日本は救はれない。水は源を浄めて初めて、デルタに潅漑することが出来る。これは心田の開発に於ても同様である。今や日本の心田の旱魅は甚だしい。その流域を守る者は誰であるか? 民草は枯れ、赤土は慨く。誠にその流域を護るものは誰であるか?

  昭和十年十一月

         賀 川 豊 彦




   武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』310頁~315頁
 
   『その流域』について



   一、著作の年代と梗概

 本書は昭和十年十一月三十日、大日本雄弁会講談社から発行された、『一国の文化は河川の流域に沿うて栄える』という想定にもとずいて、阿波国、那賀川の流域からはじまり、一人の青年の各地における遍歴を描き、ついに郷里那賀川の流城に帰ってその地域の開発に献身するという物語である。あらすじは次のようである。

 那賀川の流域の或る村で小学校教員をしている松下正市は、村長や村会議員や校長などの集まった新年宴会に列して、酒と芸者に金を貸し、貧しい人を顧みず、また教育に資金を用いることをしない村の政治家や教育家の態度を憤り、酒席を逃れて、自分の宿に帰る。そこへ隣村の安永きみ子が訪れる。彼女は正市のところで、他の青年たちと夜、英語を習っており、彼女自身講義録をとって勉強し、専門学校入学資格検定をとろうとしている。正市は彼女に愛情を感じている。

 翌日正市は校長の前に呼び出され、夜学をやっていることを叱責され、三日目に県から来た視学によって転勤を命ザられ、那賀郡の奥の分校に移ろことになる。暗い心で下宿に帰ってくると、きみ子が来て待っており、縁談が始まっていることを告げる。正市は自分の境遇を思い、彼女への恋を打明けることができない。

 分校へ転任した正市は、下宿がないので炭焼小屋を修繕してそこに住み、不精者で人の好い分校長のもとで女子師範出のかたくなな女教員とともに働き、複式教育(二学年を一教室で教える)の授業を行なう。そして酒毒や梅毒の遺伝が子供からを不幸にしていることを知る。正市は村の子供たちをその能力や性格を超えて深く愛する。

 春休みになって三木よし子が転任したので、正市は分校の宿直室に移り住んで、本科正教員の試験を受けるために勉強する。彼の父はすでに世を去り、母は椿泊の故郷で行商をして独りで暮しでいる。村の疲弊のため俸給は一月分の半分が渡っただけで、二月分も三月分も渡らない。彼は母への送金もできずにいる。

 彼が宿直室にあって勉強していると、安永きみ子が訪ねてくる。彼女は正市とともに柴を燃して麦を炊き、赤味噌を焼いて、夕食をとる。翌目もきみ子は正市を訪ね、食糧を運び、正市の仕事を手伝う。

 新学期が始まっても分校長はよりつかず、他に転任することになり、正市は一人で二百人にあまる生徒を引受けねばならない。欠食児童が多くなってくる。安永きみ子も来なくなる。正市は正教員の試験を受けようとしたが、学校を休みにしなければならぬので、断念し、東京に出て苦学をしようと思いつく。安永きみ子は他へ嫁ぐことがきまったらしい。

 夏になって正市は八里離れた椿泊の母を訪れ、学校を変わろうかと相談すると、母は月給の支払いがおくれても、自分は働いて生活を立てるから村の教育のために尽してくれといって、行商でかせいだ金の中から十円札一枚を正市に渡す。正市はこれに励まされて分校に帰る。次の土曜日に彼は徳島に行き、安永きみ子が嫁入り姿をして美容院から出てくるのを見る。彼は乗っていた自転車のペダルを踏む勇気もなくなって麦畑に入って泣く。

 県庁から給料の補助額が増加され、分校に働く新任分校長と女教師がきまったが、分校長はよぼよぼの老人で、女教師は女学校を出たばかりの小娘である。正市は宿直室を分校長に明渡し、女教師を近所の家においてもらい、自分の手で炭焼小屋のそばに四畳半一間の小屋を建て、生徒たちに手伝ってもらって完成し、そこに移り住む。彼は生徒たちに岩石の名や雑草の名を教え、殼斗科の果実についての知識を与える。

 分校長は正市の教育の仕方に反対し、ことごとに意地悪い妨害をする。そして生徒たちの態度が気に入らないと生徒をなぐる。或る日、分校長は酒乱者大吉の子虎松が他の生徒の墨を盗んだというので、鞭をもってなぐり、失神させてしまう。正市は虎松を介抱し意識をとりもどさせるが、大吉は夕方、酒に酔って、分校長が夕食をとっている時に乗りこんで食卓をひっくり返してしまう。正市は大吉をとめる。分校長は逃げ、大吉は警察署に引かれて行く。翌日、正市は分校長に呼び出され、彼が大吉をそそのかしたという理由で退職願いを書かされる。正市は弁解せずに村を立去る。そして母の承諾を得て大阪に出て勉強することになる。

 大阪に出た正市は、遠縁の親類の世話で、四貴島セッツルメントの吉武玄次郎のもとに泊まり、吉武からモレヴィアン教徒の話を聞く。そこにいて職を探した結果、糞尿汲取の肥船専門の会社に雇われる。彼の仕事は肥船を木津川尻にまわして、積んでいる肥を淡路の船に汲取ってもらうことである。

 この仕事は真夜中から始まり、夜明け前に終るのであり、月給は二十円である。正市は、人のいやがる仕事であるが、吉武先生の教えを体してこれに従事し、関西大学の夜学に通う。彼は河岸における船頭から誘惑を受けるが、これを斥ける。船の中へお末という売春婦が乗りこんできて、正市を誘う。正市はお末の純情に引かれるが、心を動かさない。お末は正市と腕の血をすすり合って兄弟分の契りを結ぶ。

 関西大学の夜学では法律を教わっているので、正市は実業補習学校の機械科に転じようとしていた矢先、勤務先の肥料会社の支配人夫妻から呼び出しがあって、その親類である遠山家の息子の家庭教師になってくれと頼まれる。正市の苦学していることに感心したためであった。その日の午後天下茶屋の遠山家に連れて行かれることになったが、船が心配になるので一旦帰ると、お末がきていて、今夜ここで寝かしてくれという。そして馬券を買ってもうかった金百二十円を正市にあげるという。正市は家庭教師となることをお末に告げると彼女は失望し、百二十円入った財布を川に投げこむ。正市はこれを柄杓で救いあげる。

 遠山家へ連れて行かれた正市は、そこの息子市太郎の家庭教師となる。そこには、京都祇園のお茶屋の息子に嫁に行って子供を残して実家へ帰ってきた由子がいる。遠山の主人は貸座敷を三軒もち、食堂も経営しているが、妾のところへ行っていて、月に一度位しか帰家しない。

 市太郎は中学生であるが父の生活に影響されて脱線している。正市はその教育を引受けることになる。由子は学問があり、博物に興味をもち正市に好意を示す。

 正市は一旦船に帰るが、お末がいないので、宿を尋ね、財布を渡してくれるよう宿のおかみさんに頼む。それから跡片附けをして遠山家に引越し、二階に住んで市太郎と起居を共にする。押入れを片附けると春画や猥画が出てくる。正市は自らを叱責して性欲の誘惑を逃れ、近くの機械博物館に入って勉強し、あるいは古本屋を見て歩く。

 由子は遊郭業者の中に育ったにかかわらず、教養が高く、絵をかき、香をたき、服装の趣味もよい。そして宝石のあらゆる種類を秘蔵しており、鉱物に対する興味も深い。由子は美人ではないが、正市は由子と会ってから人生観が変ってきた思いがする。しかし初恋の女安永きみ子をあきらめることができない。

 市太郎は正市の指導で少しはよくなったが、生駒山へ散歩に行くといって出たきり三日も帰らず、『同性心中未遂』ということが新聞に出された後、平気で帰宅する。正市は責任を感じ辞職しようと申出たが、市太郎の母が引止めるので、市太郎の教育に力を入れることにする。市太郎は学校をやめてしまい、明年、東京の私立中学校に入ることとなる。

 明年四月までの期間、正市は市太郎の教育のため、由子の知人である東北出身の女学校の先生に頼んで、東北で最も困っている村に行き、無料で小学校教育のために奉仕することとし、岩手県軽米町高家の小学校を応援することとなる。正市は由子、市太郎とともに、十月二十九日の晩、大阪を出発する。由子を見送りに来た娘たちの中に白井竜子という美しい人かおり、安永きみ子に似ているので、正市は心を引かれる。正市は食堂車の中で由子を姉さんと呼ぶことを約する。由子は離縁になった事情を話している時、京都駅から彼女の先夫が芸妓数人をつれて入ってくる。由子と先失とはさり気ない挨拶をうわず。

 三人は岩手県北福岡の駅に着いて乗合バスで目的地に向かう。同乗した鉱山技師はこの地帯が第三紀層で地質研究の上に興味があることを語る。市太郎はこれに心を引かれる。目的地の軽米町高家の小学校に着き、正市は生徒の学力の低いこと、欠食児童の多いことに心を傷める。由子は村の娘たちの夜学を始め、また欠食児童のための給食を受持ち、その時開設された村の托児所を受持つ。正市は三年四年の生徒を受持ち、村の青年たちをも指導する。市太郎は友だちがないので淋しがって帰るといい出すが、正市は彼に生物や鉱物の知識を教えつつ彼を導く。

 十一月になって兎狩りに行った市太郎は帰宅して発熱し、由子と別の室に寝る。そのため正市と由子とは床を並べて寝ることとなるが、正市は安永きみ子のことを思い誘惑に陥らず、由子もまた正市の爪を切ってやるが性欲の入らぬ愛を讃美する。そこへ大阪から白井竜子が訪ねてくる。そして三人とともに住むこととなり、正市の仕事を助ける。

 十二月になり村は雪に閉じこめられ、村人の生活はいよいよ苦しくなり、欠食児童の数は増加する。正市は遠山家から送られる俸給を全部投げ出して子供たちのために自宅で給食し、復習をしてやる。

 南の山の中に住んでいる作太郎が永く欠席しているので、山奥に彼を見舞ってやると、敷藁の上に寝て高熱を出して苦しんでいる。正市は敷藁を変えてやる。父親は酒に酔って帰ってきて病児を処置する工夫も考えていない。正市は一旦帰宅しで馬橇で作太郎を連れてきて看病してやることになる。

 母から十円のかわせが入った手紙がきている。母の激励文に、安永きみ子が離縁になり、大阪へ女中奉公に出るといっていたこと、岩手県に行きたいとも言っていたことを書添えてある。

 正市と竜子は馬橇に乗って山奥へ向かう。二人は毛布をいっしょにかぶる。竜子が抱きついてくる。彼女は正市に愛を打明けるが、正市は安永きみ子のことを話し、彼女の愛を受入れない。二人は作太郎を馬橇にのせて託児所に運ぶ。作太郎は回復する。正市、由子、竜子の親切は山奥まで聞こえ、奥地からわらびやくず粉など幾袋となく届けられる。

 市太郎はよく勉強するようになり、元日には代数の問題がよく解けるようになったといって喜ぶ。

 村の青年たちの希望で正市は託児所で夜学を開き、由子、竜子とともに青年たちに教えることとなる。更に村の青年は何人か泊りこんで早朝学校もやることになる。

 作太郎は寝小便をする上に盗癖がある。彼の父は彼を時々連れてきて託児所に泊まらせる。すると物がなくなる。正市は森に連れて行って訓戒するが効がないので、教育家としての自らの資格を疑う。

 竜子の金時計が見えなくなる。託児所の青年たちが作太郎を縛って、白状させようとする。そこへ彼の父作平がきてそばにいた市太郎をステッキで殴る。作太郎はテンカンの発作を起こして口から泡を吹く。市太郎は傷の苦痛を訴える。

 作平は巡査を連れてきて正市を讐察に連行させる。正市は監房に入れられ、寒さに悩みつつ、日本に光明を与え給えと祈る。

 正市は窓から月世界を見つめつつ、自己の霊魂と対談し、キリストのように十字架を負うところまで行こうという。彼が留置されたのは、彼が左翼運動者で村の青年に革命思想を植えつけようとしていると誤解されたためであった。町の新聞社は『小学校教員の児童殺傷事件』という見出しで、正市が児童を虐待したかの如く記してある。正市は十日も留置所に入れられていた後、ようやく釈放される。

 市太郎の怪我は治ったので正市は由子竜子とともに村を去る。親しい村人たちは彼らと別れを惜しむ。正市は新約聖書コリント後書十二章の『我弱き時に強し』を読み力づけられる。彼らは天王寺の遠山家に帰る。

 東北における奉仕生活の収穫は市太郎が立派な少年になったことである。遠山家ではこれを喜んでくれる。市太郎の母は、正市にむかつて、この上はうちのお父さんに貸座敷業をやめてしまうように言ってくれと頼む。

 そこへ安永きみ子が訪ねてくる。正市はきみ子を連れ、築港に出て、小さな旅館に上がり、語り合う。きみ子は親に強いられて結婚したところ夫は放蕩者で病気をうつされて苦しみ、母の許しを得て実家に帰り離婚しようと思うが、先方がこれを承諾しない事情を打明け、正市の懐に飛び込んできたという。正市は彼女が法律上人妻であることを思い、抱擁してやらない。そしてきみ子を連れ、四貴島に出て吉武先生に彼女を頂けることにする。

 きみ子は四貫島セッツルメントで吉武先生の助手として働くことになる。正市がセッツルメントの保育学校を手伝っていると、母の病気が電報で伝えられる。阿波の郷里に帰ると母の従妹が母を看病している。母は行商から帰ってきて、籠をかついだまま卒倒したのであった。病床で母は瞳を開いて正市を見たが、うなづいただけで口をきけない。着物を脱がせると、銀の十字架が頸にかけてある。正市はこれを外そうとしない。母は若い時に信仰を得ていたのである。

 正市は母をその従妹に頼んでおいて、昆布の行商に出る。三日日の朝、由子から百円の為替がとどく。市太郎と由子と竜子が訪れる。由子は正市の母を看病してくれる。母は全快する。三人は医者の未亡人岡田さんの家に泊めてもらう。そこで村の子供たちへの日曜学校が始まる。きみ子から手伝いに行くという手紙がくるが、正市は当分の間大阪にいて勉強するように言ってやる。

 夜になって正市は市太郎とともに外に出て星座表をひろげて、星の勉強をする。そして星座の歌をうたう。由子も仲間に加わる。

 母の健康が回復したので、正市は那賀川の流域において山村更生のため働く決意をする。由子もこれを助けて村塾教育をすることになる。岡田未亡人の弟の岡田獣医は、聖書を読んでおり、大寺に畜舎をもっているので、その二階を解放して農民福音学校を開くことを申し出る。
 正市は阿波の国の特権は吉野川の流域であることを知っているので、大寺に根を生やして霊魂教育を始めることとなり、一家をあげてそこに移り住む。

     二、モデルと作風

 本書の主人公松下正市は、肥船に乗りこんでいた二十五才台の青年で、当時、吉田源治郎が四貫島セッツルメントにある大阪イエス団教会の牧師をしていた頃、日曜日朝六時から始まる礼拝に出席していた人物である。吉田源治郎はその氏名を忘れてしまったが、徳島県板野郡勝瑞(しょうずい)の出身であるといっている。早朝礼拝は労働者のための集まりで、礼拝がすむと皆が十銭で牛乳とマントウとを食べたものだそうである。

 吉田源治郎が賀川にこの活をすると賀川はこれに感動して小説の主人公としたものである。作中吉武玄次郎とあるはもちろん古田源治郎のことである。

 この小説は前半は筋も描写もよく整い、文学としては上出来であるが、後半は、目的あるいは意図が強く出すぎ、やや不自然の観がある。全体としては、恋愛、売笑婦、誤解、投獄、理想への献身という賀川小説の型に従っている。

 松下正市が那賀川の流域で小学校の教師をするところは、殊によく書けている。横山春一著賀川伝には、賀川が小学校の先生をしたことは記してないが、「死線を越えて」の上巻の初めのほうには、新見栄一が小学校教師をするところが出てくるので、短い期間ではあるが小学校を教えたことがあると推定される。

 安永きみ子には『死線を越えて』に出てくる鶴子の面影かある。これは初恋の人として生涯の間賀川の胸底にひそんでいた女であろう。





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