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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第140回)

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「天空の白鷺:修復中のテッペンより」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


  賀川豊彦の著作―序文など

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              第140回



   『賀川豊彦全集15』(第3回配本「月報3」)


  
 『賀川豊彦全集』の第3回配本は、昭和37年11月10日に「文学作品」として分類されている第15巻が刊行されました。

 今回の「月報3」には、「愛・人格の創造」と題して野呂芳男氏(青山大学文学部教授)、「生きた本を読め」と題して阪本勝氏(兵庫県知事)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集15』(第2回配本「月報3」

                 愛・人格の創造

                  野呂 芳男


 賀川豊彦先生に個人的にお会いしたことは、唯一度しかない。それは、一九五八年九月十五日のことで、当時私の牧していた青山学院教会の特別伝道集会に講演をお願いするためであった。教会員の三木弘さんと一緒に、松沢のお宅を訪問したのであるが、既にそれ程健康ではなかった先生が、いろいろと話をして下さり、私たちは時間の立つのも忘れてしまって、単に先生から講演の承諾をいただいたばかりでなく、強烈な印象をいただいで帰って来た。

 私は元来、有名人にお会いするのにいつもためらいを感じる人間である。忙しいのにやたらに人に訪ねられたら、随分と迷惑だろうと想像するからである。だから、賀川先生を前から尊敬し、何度もいろいろの機会に講演をうかがい、その著書を多く読んでいながらも、決して近づこうとは考えなかった。

 先生を最初に知ったのは小説「死線を越えて」を、都立三中(今の両国高校)の生徒の頃、夢中になって読んだ時であった。それがきっかけで、だいぶ先生の小説をあの頃読んだ。文学としての価値は私には分らないが、下町に育ち、洗礼を受けて間もなかったその当時の私には、とても大きな喜びであった。

 また、今でも強く印象にのこっているのは、終戦後間もなくのこと、たしか小岩のある教会でのことだったが、先生の講演を聞きにいって、大きな紙に筆で画をかいたり、数字を書いたりされて、話しを進められるのを面白く感じたこと、アメリカに留学していた時に、教授たちや他の神学生たちが先生のものをよく読み尊敬していたののに、これは日本以上の知られ方だと驚いたことなどである。

 私は自分の専門が組織神学の勉強とジョン・ウエスレーの研究なので、そういう角度から少し先生の思想を考えてみたい。先生がウェスレーに共感されていたことは周知の事実であるが、このことは先生の思想の根底が体験論的であるのと呼応している。キリストとその十字架の愛についての考えも、「キリストの贖い物をいれ換えるごとき、いわば物々交換的な考え方をすることは、今日通用しない。贖いとは、キリストという完全な坩堝に『私』が浴かされて、新しく創造されることである」(日本書房版―現代知性全集(39)『賀川豊彦集』一八八頁)というように、客観的にどういう手段で神が私を贖って下さるかということ――例えば「刑罰代償説」――よりは、私自身がキリストにおける神の愛を知ることによって変えられて行くという体験において考えられている。先生の場合には、こういう考えは、どうもわれわれが「近代紳学」と言っているものから来ているようである。愛ということを人格の創造として把えていることも、ここから来ているのだろう。自分を創造的に生かすものが、愛であり救である。だから、先生にとっては、救いとは自己否定ではなく、最後のところで本当に自己を生かすことなのである。

 先生は科学と宗教とを混同してしまっているとよく批難される。ところが、先生が、人間が、科学からいきなり宗教にこれると考えていたとは私には思えない。科学的な世界の観察は、いつも世界にある悪の存在のために、神信仰をそのまま生み出すものではないと、先生も考えている(前掲書一〇二頁)。むしろ、目に見える不完全な現実にも拘らず、生き創造せんとする意志が自分の中に、また、周囲に躍動するのを感じて、それへの共感に踏み切ることを信仰として考えたのである。これは、悪の存在を論理的には神から来ているものとしない勇気であって、ここから、先生の神が全備でない(神が全能でない)という主張(同)も生れて来ている。神そのものよりも、体験にあらわれてくる神の働きが中心になって思想が展開されている。

 バルト神学の全盛時代の日本のキリスト教界を、このような近代主義の思想をゆうゆうと保持して生きた先生に、深い感謝と尊敬とを抱くのは、私だけではないだろう。特に現在、バルト神学が批判され、新ためて近代主義の再評価がなされ、また、実存論的神学が台頭して来ている時に、先生の思想は新たな魅力をもってわれわれに迫ってくる。
                                  〔青山学院大学文学部教授〕





                 “生きた本を読め”

                   阪本  勝


 賀川さんは、私の生涯のコースを変えた人だ。
 昭和二年の夏のある日、今から数えて三十余年昔のことだが、私と賀川さんは、神戸の関西学院の校庭を散歩していた。ポプラの若葉が繁っていた記憶があるから、初夏だったと思うのだが、はっきりおぼえていない。

 われわれは広い学院のあちこちを歩いた。先生は雄弁にいろいろのことを話された。私は先生の博識に感歎しながら、だまってその話にきき入った。

 関西学院は今西宮市にあるが、当時はもとの神戸市上筒井、原田の森にあった。すなわち発祥の地にあったわけだ。赤レンガの建物が点在するなつかしい学舎であった。私はそこの謝師をしていた。先輩には、河上文太郎さんなどがいられた。

 賀川さんと私は、中学部の方に歩いて行った。そのとき、賀川さんは、立体農業について、さかんに論じられた。

 「阪本君、ポプラを植えて、いったい何になるんだ。せめて、リンゴだとか、ナシだとか、クルミだとか、人間生活にプラスになる樹を植えるということ、つまり立体農業というものを、学院ともあろうものが知らないのかね……」

 そんなことを言いながら、先生は、スウェーデンやデンマークの立体農業の話をし、舌端火をふく慨があった。

 それから話はつぎつぎと発展し、ついに選挙のことにおよんだ。

 昭和二年秋九月は、わが国において、普通選拳法による地方選挙が行われた最初の年である。昭和三年春に普選下で始めての国会選挙があったのだから、それに先立つ半年前の県会議員選挙は、日本の政治史上特筆すべき選挙だった。

 学院の校庭を散歩しながら、賀川先生は、きり出した。

 「阪本君、どうだい? ひとつこの秋神戸市から県会議員に立候補してみないか。勝っても負けてもいいじゃないか。やってみろよ」

 私は拒否しつづけた。だいたい私は政治というものが厭だったのだ。選挙なんて、とんでもない、けがらわしい、と私は思いこんでいた。だから賀川さんの意向をまっこうから拒絶した。

 しかし賀川さんの気持は十分理解できた。新川のスラム街から巣立った賀川豊彦が、普選という日本史上重大な時を迎えて、誰か立候補させ、世の中のすう勢を探りたかったのだろう。しかし私はいわゆる“象牙の塔”に立てこもりたかった。志は東洋における“H・G・ウェールス”たることにあった。街頭に立つことを私はきらった。

 賀川さんはボプラの下で、こんこんと私をくどいた。しかし私はこばみつづけた。

 そろそろ二人とも疲れかけたとき、賀川さんは、つぎのようなことを言った。

 「阪本君、人の一生は短かい。夜も寝ずに本を読んだところで、一生のうちに読める本はタカが知れている。それよりも、阪本君、社会という生きた本を読む気持になれないかね……」

 そのひとことが、ぐさっと私の胸をつきさした。先生はさらに続けてこんな風に言われた。

 「プロフェッサーの部屋で、外国語の本を読むのもいいだろう。しかし一生かかっで何ほどの本が読めると思うかい? それよりも、社会という本は、読んだその日から、血がにじみ出るんだ……」

 ああ、死線を越えて、人生に体あたりしている賀川さんなればこそ、言える言葉だ。

 私は敗けた。賀川さんの尊い言葉のもとに私は屈した。

 昭和二年秋九月、賀川豊彦、河上文太郎、森戸辰男諸先生の応援のもとに、私は神戸全市最高点で兵庫県会議員に当選した。

 賀川さんの一言は、私を象牙の塔から街頭へ引っぱり出した。賀川さんこそ、私の人生
のコースを決定した偉大なる先覚である。(昭和三十七年七月二十八日)
                                       〔兵庫県知事〕
















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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第139回)

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「姫路城御屋敷跡庭園:好古園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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             第139回


    『賀川豊彦全集21』(第2回配本「月報2」)


  
 『賀川豊彦全集』の第2回配本は、予定通り昭和37年10月10日に「文学作品」として分類されている第21巻が刊行されました。

 今回の「月報2」には、「賀川豊彦の神学」と題して桑田秀延氏が、「やめておき給え」と題して難波紋吉氏の寄稿があります。

いずれも、貴重な文章ですので、月報の二つを取り出して置きます。

 特に、私にとって桑田秀延氏は、高校生のときに初めてキリスト教会に出向き、牧師館にあった神学書をお借りした著書が『キリスト教神学概論』という桑田氏の大著でした。桑田氏は賀川豊彦や吉田源治郎と明治学院の同窓だったことなどは、後に知ることになりました。





           『賀川豊彦全集21』第2回配本「月報2」

                 賀川豊彦の神学

                  桑田 秀延


 これが私に与えられた題だが、賀川はいわゆる神学者であるよりも、より多く伝道者・詩人・社会運動家であったと思う。たしかに彼はたぐいまれな博識者であり、天才肌の先駆的指導者であった。思想家でもあったが、普通に神学者とよばれるような狭い型でなく、もっとひろい視野をもった思想家であった。

 処女作「基督伝諭争史」は大正二年(一九一三)に出版されたが、これはアルバート・シュワイツァーのイエス伝研究史と、イエス伝研究に潜在意識をとりいれだウィリアム・サンデーの説との学問的な紹介であって、当時の曰本にあっては、新約聖書の学問のまさに尖端をいったものであったろう。シュワイツァーという人とその学問上の主著を日本に初めて紹介したのは賀川であった。大正三年に出た「貧民心理の研究」は、神戸新川における賀川の生活体験を資料とした独創的な科学的研究である。二十才代の賀川が天才そのもので、このような学問的な労作を残していることを私は高く評価したい。しかしその後の賀川は、労働運動にたずさわり、雑誌改造に論文をかき、「死線を越えて」によって一躍時の人となり、その活動の領域が社会的に大きくひろがっていったので、学問に沈潜することを許されなかった。

 徳島中学の時代、賀川は南長老派の宣教師ローガンやマヤスに導かれて、キリスト教に入信した。私は招かれて今秋南長老派の外国伝道協議会へ出席の予定であり、この派の日本伝道の一大成果が賀川豊彦を信仰に導いたことではないかと考えている者であるが、南長老派の神学はウェストミンスター標準に拠った甚だ保守的なものであるのに、賀川の神学思想がむしろリベラルなものであるのを不思議に思っている。

 賀川の神学思想乃至キリスト教理解について、二つの点を述べたい。その一は彼の方法論である。賀川の学問と思想には、自然科学の知識が極めて豊富に駆使されている。ファブルの毘虫記やダーウィンの種の起原は神学生時代に読んだそうだが、その後も物理学や生化学等科学関係の本をずうっと読んだようだ。最後の著作「宇宙の目的」がこのことをよく実証している。自然科学と同様社会科学への関心も早くから示された。後になって、聖書とともに資本論をよめ、と青年にすすめたのは賀川であった。もちろん科学だけでなく、哲学もある。賀川の哲学は精神的な世界観でありまたテレオロジーである。

 さて賀川の方法は、キリスト教の説明にあたって、キリスト教独特な方法(たとえば啓示に基く神学的方法)を用いず、むしろ科学や哲学の知識を自由に援用することであった。賀川にとっては、科学も哲学もキリスト教も、それが真理である以上どこかで相通じ統一されていると直観され、学問的領域の上での越境など問題とならず、キリスト教の解説に科学や哲学を援用した。

 次に賀川のキリスト教の内容乃至思想的特色はいかなるものであったか。大正十年に出た「イエスの宗教とその真理にはこの目的のためにはとくに注目されてよい本であろう。賀川にはもちろん神の経験、祈祷、救の経験といった倫理以上の宗教体験があり、従って神学がある。しかし賀川の神学は、神学的な神学というよりも、倫理的特色の強い神学であったところに、彼のキリスト教の思想的基調があると私はみている。

 彼は宣教師の人格に生きている信仰にうたれて入信したが、そこにある倫理的な清潔さと貧しいものに対する愛と同情とにとくに心を打たれたようで、これは新川の生活とその後の社会活動とに一貰している。トルストイと同様賀川も、イエスの山上の説教に強く感物している。もちろん賀川は、単なる倫理主義者ではなく、人一倍人間の弱さと罪とを知り、イエスを信じ、彼の十字架のみが人間と世界の救であることを信じている。しかし賀川の宗教は、世ばなれした神秘主義には強く抵抗して、神を愛することが隣人を愛し世を愛することと結びつくことを要求した。

 新川の賀川はアッシジのブランチェスコの近代版であり、その後の社会活動も同じ特色から出ている。ピリー・グラームとラインホート・ニーバーに現れているように、大衆伝道と社会思想運動とは両立しないものだが、賀川の場合にはこれが統一されでいる。この点ウェスレーに以ている。賀川は神学者バルトによりも伝道者ウェスレーに近い。     (昭和三十七年七月)        
                           〔くわた・ひでのぶ=東京神学大学学長〕






                 “いやめておき給え”

                   難波 紋吉


 賀川先生は、私が最も敬愛する教師であった。私との関係は、同志社在学中に始り、先生の御永眠のころまで続いたのである。

 一九二五年のことである。私はコロンビア大学社会学部の大学院で学び、ギディングス教授に師事して社会学を専攻していた。この当時、社会学は、わか国においては、かけだしの若い学問であり、学者の数は少なく、体系も未熟であった。米国においても、社会学は、主として理諭社会学が旺んであり、必ずしも魅力的なものではなかった。社会学を講じていない大学もかなりの数にのぼっていた。

 たまたまこの当時、賀川先生が紐育に来られて、数回の熱烈な講演をされたことがある。それは、先生の貧民窟の生活や社会運動を通じて得られたところの生きた体験談であったが、同時にキリスト教の信仰によって貫かれた力強いものであった。とりわけ、青年への呼かけは、年若く血の気の多かった私を魅了し、私をして異常な感激にひたらしめた。私はその晩、一睡も出来なかった。早朝、早速、先生のところへかけこんで個人面接を申込んだ。お目にかかったのは、多分、紐育の第七街の百二十三丁目あたりにあった日本人教会の一室ではなかったかと思う。そして、私は憶面もなく言った。

 「先生!! 私は今、コロンビア大学で社会学の研究をしておりますが、コロンビアでM、A、をとれば同志社に帰り、教壇に立つことになっております。しかし、先生の御話を聞いていて、私の人生観は根底からゆり動かされました。どうか私を、先生のやっていらっしゃるキリスト教的社会運動に参加させて下さい。如何でしょうか。私は真剣に考えているのです。」

 先生は、しばらく目を閉ぢて黙想しておられたが、やがて目をお開らきになり、極めて率直に、しかも冷静に、「やめておき給え。君は同志社大学へ帰ることを約東されている以上、同志社へ帰り給え。その方が君のためによいと思う。」と、言われたのである。私は一言一句も言葉を返すことが出来なかった。ただ、うつむいで沈黙してしまった。しばらくして、先生は、御自身の写真をとり出して署名し、私に渡された。見ると、

  わが狂るは神の為
  心儙なるは汝等の為

 と認めてあった。闘士としての先生の心情と面目が躍如しているではないか。写真をいただいて、私は深い失望と感激に満たされて下宿へ走った。私は先生から社会運動家としての面接試験を受けて、直ちに落第したのだと失望した。同時に、先生が菲才にも拘らず、私に進むべき方向を示し、学究への決意を新にして下さったことに感激した。この瞬間に、私が将来辿るべき運命が決定附られたといってよいのである。この後も、同志社においで、或いは教会や消費組合等の会合において屡々先生に御目にかかる機会があったが、しかし、私の一身上の問題について話すことは全くなかった。

 今から十年前、私は神戸女学院へ来たが、二、三度先生をお招きしで、学生のために講演をしていただいた。一九五八年十一月十二日の講演は、神戸女学院における最後のものとなった。この頃、先生は御病気勝ちであったためか、お声は小さく、往年のような発刺さは感せられなかったが、解脱した禅僧の説教から受けるような、今までになかった深さと広さとしぶさが感ぜられた。私が紐育で先生からいただいた、片目を繃帯しておられる写真をお見せしたところ「若いな!」と言われた。そしてこの写真の裏に、

  晴に曇りに
   主と共に
  歩むその日は
   輝きの
  正道うれし
   神の国

 と認められた。秘書が色紙を持って来たら、また同じ詩を書かれた。その後、一年数か月にしてごの詩を思い出す毎に、私は先生のお姿と、その生涯がありありと限前に浮ぶのである。(一九六二・七・一六)         

                         〔文学博士・神戸女学院院畏〕










連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第138回)

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「わたしたちの花壇のアマリリス」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第138回


  『賀川豊彦全集3』(第1回配本「月報1」)


  
『賀川豊彦全集』の第1回配本は、昭和37年9月10日に第3巻からスタートしました。毎月刊行して2年間で完結させる大きな企画でした。

かつて長期連鎖をした「武内勝所蔵資料」の中の「武内日記」には、この全集刊行と普及に努力される様子が書き込まれていたことを思い起こします。

配本された各巻ごとに4頁の「月報」が付けられましたが、ここではケースの表紙と本体のはじめに収められた写真並びに「月報」の中から、寄稿文章を選んで取り出しておくことにいたします。

今回はその第1回ですので、「月報」の武藤富男氏の「本全集かの刊行について」と西坂保治氏の「賀川書の出版と私」を収めます。西阪氏のことに関しては、これも長期連載の「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」に、いくらか触れさせていただきました。




          「賀川豊彦全集」月報1(昭和37年9月)

               本全集の刊行について

                 武藤 富男


 賀川豊彦全集を出版したいという願いは、賀川先生在世中からみんながもっていたのですが実現しませんでした。先生の召天後、昭和三十五年になって賀川豊彦伝の著者横山春一氏は、賀川全集の出版を企画し、全三十六巻を三年がかりでやることになり、雲柱社が出版元となってカタログを配布し、数十名の申込を受けたのでした。

 しかし、雲柱社関係者の中に、その実現をあやぶむ方が出てきました。その理由は、三年がかりでは長期に過ぎること、全巻三万円では読者の負担が多すぎること、採算がとれる見込みが立たないことなどがありましたので、私はキリスト新聞社の幹部と相談しました。その結果次のような試案ができました。

 一、賀川全集は八ポニ段組とし、二十四巻に圧縮し、全巻一時払二万円とすること。
 二、賀川全集刊行会を組織し、賀川先生と関係の深かった方々を刊行会員にすること。
 三、刊行会は一口二万円の会員を募集し、千口を集めること。
 四、刊行会において約千口を集めた時は、刊行会はキリスト新聞社をして発行させること。
 五、キリスト新聞社は刊行会員に頒布するもののほかに、全巻二万四千円にて一般にも市販すること。

 以上のような試案を、昭和三十六年十月に組織された刊行会に提出しましたところ、その賛同を得ましたので、刊行会理事会の御指導のもとに、刊行会事務局長及びキリスト新聞社職員が刊行会員を募りました結果、日本において約九百名、アメリカにおいて約百名の刊行会員(二万円払込み又は払込み約束の方)ができましたので、いよいよ予定通り昭和三十七年九月から発行する運びとなりました。

 ここに本全集に御協力下さいました刊行会の方々に厚く御礼を申しあげます。

 さて各巻解説の件ですが、各巻毎に各方面の方々に解説の執筆を御願いするという案が ありましたが、そうなると解説が間に合わないことがあり、解説が間に合わないために、 全集の発行がおくれては相すまないと思いましたので、潜越ですが、私が全集各巻の解説 を引受けることにいたしました。

 全集一巻は、四六判の本にすると約千頁ありますので、毎月賀川先生の等作千頁を読ん で、これを咀嚼し、その成立の由来、内容の要点、味うべきところなどを書くわけですが これはなかなかの仕事です。       
 私は個人的に永く賀川先生に接しましたので著作を読むに当っては、単に著作として読 むだけでなく、生前先生と親しく交わった体験や先生が私に与えてくださった教えや感化なども織りまぜて書きたいと思っております。

 賀川先生の宗教的著作は講演筆記か多いのですが、これを集大成して理論づけると賀川神学が成立し、後世を益するのみならず、現代の教職信徒をも益するところが多大であると存じます。その意味で、この全集は、必ず日本のキリスト教界に貴重な材料を提供することでありましょう。

 先生の詩、随筆、小説等は、もう一度読み返すと、新しい時代に明治大正時代のよいものを再現することになり、単なる懐古趣味ではなく、永遠に生きる先生の思想と信仰と贖罪愛とを、二十世紀の後半の人々の心に印刻することになります。

 先生の経済論、科学諭、協同組合諭等は宗教的著作に劣らず重要なものであり、私は解説を書くことにより、これらの著作の中から先生が胸中に描いていた先生の理想と神の国の思想とを学びとりたいと思っております。

 二十四巻の解説を書きあげてしまうならば、賀川先生の人格と著作との両方に親しくふれたこととなりますので、この上もない恵みであると思い、感謝してこの仕事をさせて頂きます。(昭和三十七年七月)





               賀川書の出版と私

                 西阪 保治


 賀川全集の一部分が、待ちに待った申込者の手元に送られる日が近づいた。当事者の骨折りは大したものに相違ない。わけても、これを完成するまでには、まだまだ苦労か多いことと思う。当事者の上に主のみ助けとみちびきを祈るや切である。

 賀川先生の処女出版といえぱ「貧民心理の研究」(大正四年)で、その頃神戸にあった福音舎から発行された特異の研究害であった。次に同じ福音舎がら出版されたのは「友情」で、これはダビデとヨナタンの児童向き聖書物語である。(卸高評を乞う、西阪兄、豊彦)と自署して私に送って下さった。当時私は「日曜世界」というキリスト教の児堂文学雑誌を出しいた関係かも知れない。

 それまで私は賀川先生とは余り親みはなかったが、この「友情」を機縁に賀川先生と私の間に、次第に主にある友情が深まっていった。あの小便の流れている新川の貧民窟に先生をたびたび訪ね、先生もまた今宮宅をお訪ねくださったのはそれからのことである。

 その後、私は重病で大阪市民病院(現在の大阪市大附属病院)に入院することになった。当時市民病院は死人病院ともじられる程評判はよくなかった。容態はいよいよ悪化、どうやら病院のもじり名が私の上に実現しそうになった。後できくと、身ぶりや関係筋では、ぼつぼつ葬式の支度までしていてくれたそうだ。

 私のこの様子をきかれて病院にかけつけて下さった先生は、私の枕辺に立って、私の頭に手をおいて熱心に祈ってくださってから、「君! 奇蹟は今もあるよ!」と、力強く私の耳もとでささやいて帰っていかれた。そして1ヵ月程経過して、再度先生か病院にお訪ね下さった時は、私はべッドの上にあぐらをかいて、食堂から取りよせた定食をがつがつと食っていた。

 「奇跡だ! 奇跡だ!」これはその時、私の前に立って、しょぼしょぼとした両限を見開いて、私を見つめながらくり返された先生の思い入った、そして如何にも嬉しげな言葉であった。私に「逆境への福音――残された刺」の約束をして下さったのもこの時であった。

 「この書は、吉田源治郎氏、村島帰之氏及び今井よね姉が筆記して下さった私の宗教講演集をまとめたものであります。酉阪氏が多年宿病に苦しまれつつ尚努力して居られることを見て、私は感激の思をもって、同氏にこの宗教講演集一冊を捧げるものであります。我等の同志である太田又七氏は、西阪氏慰問の目的を以って、経済問題を離れ、労働を捧げ、これを印刷、単行本に仕上げて下さったのであります。酉阪氏は確かに、我々のこの心持ちを受取らるべき価値ある人だと思います。以下略」

 以上は「残されたる剌」の序文の一節で、これを私の見舞として下さった初版一千部は忽ち売れ切れ、つづいて先生の許可を得て、日曜世界社に版権をいただき再版重版することとなった。そして遂に(一版を一千部とするならば)三十幾版を重ね、凡そ日曜世界社出版書の最高峯を実現するに至ったのは全く嬉しいことであった。定価は、物価の安い時代であったとはいえい 一部十銭としたのは、いささか神と先生とへの感謝の微意に他ならなかったのである。

 「残されたる剌」につづいて出版したのは「山上の垂訓」、これもまた奉仕価十銭で相当に版を重ねた。「神と歩む一日」も好評、これは戦後キリスト新聞社に譲った。現在同社で版を重ねて発行している。その他日曜世界社で引き受けさせてもらうたものは、比較的伝道ものが主であった。また児童ものも相当にあった。それらの総数は今記憶にない。不思議なのは、ただ一冊「約束の聖地」と題した小説があったが、どうしたものか、これに限って再版どころで、それ以上に伸びなかった。折角のものが、日曜世界社の色合いにそぐわなかったのだろうか、残念至極であった。

 先生の著書が全集となって世に送られることは真に結構なことではあるが、その中で伝道に関するものは、ただまとめて置くというだけでなく、岩波、角川、新潮あたりの安価な文庫本となって、全集以外に広く文書伝道に使用されることを念願するのは私のみであるまいと思うが?(一九六二・六・七) 
       〔にしざか・やすじ=牧師、大阪女学院理事長、新教出版社取絲役、元日曜世界社社長〕














連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第137回)

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「海外移民と文化の交流センターにて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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            第137回



   『溢恩記』(武藤富男著『溢恩記注』)

  
 賀川豊彦の日記などは『賀川豊彦初期史料集―1905(明治38)年~1914(大賞3)年』として既に平成3年7月に緑陰書房より刊行されていますが、大正元年12月17日付の賀川豊彦の日記『溢恩記』(NOTE BOOK)(コピー版)を、1987年10月に賀川純基氏より寄贈を受けておりました。

加えて、武藤富男著『溢恩記注』(発行など奥付のなどのない45頁の珍しい作品)の行き届いた作品もあり、大変参考になりました。

 なお、その前の賀川の日記で『雲の柱 露の生命』(千九百十年・救霊団)」(230頁)のコピーもいただきました。この日記は、布川弘氏の「史料紹介・賀川豊彦の『日記』」(『部落問題研究』(103号、1990年1月)で部分紹介がおこなわれており、同じく布川氏の長期連載「近代の社会的差別」(『月刊部落問題』1995年~2005年)に於いても、賀川の日記などを取り上げた検討が行われています。布川氏のこの労作は、私の仕事場在職中にご寄稿いただいたもので、いずれ著作として刊行されることを期待しています。

 すでにこのブログで『溢恩記』と武藤氏の『溢恩記注』、そして『『露の生命』の表紙のスキャンしたものはUPすみですので、このでは上記資料のことに触れるのみにしておきます。
















連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第136回)

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「神戸・須磨離宮公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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            第136回



    『賀川豊彦集』(現代知性全集39)


      昭和35年2月27日 日本書房 283頁


 本書『賀川豊彦集』(現代知性全集39)は、上記のように昭和35年2月27日の奥付で出版されましたので、賀川豊彦は前年(昭和34年)「1月6日に急性肺炎より心筋梗塞症を併発して病臥し今日に至る。」(本書巻末の「年譜」記載)とあるように、4月23日に自宅において召天するおよそ二月前のことです。

 本書の「序」は「1960年2月」と記されていますから、この序文が賀川豊彦の最後の遺稿と見られるかもしれません。この序文は拙著『賀川豊彦の贈りもの』でも取り上げたことがありますが、ここまで「作品の序文など」を連載してきた最後にふさわしい、賀川ならではの文章です。

 本書は「一粒の麦」「表現の世界」「黙想断片」「愛の科学」「自然が芸術となるまで」の5章構成ですが、編者の名前はあげられていません。賀川生前の最後の「年譜」も貴重なものです。当時、『賀川豊彦伝』を纏めた横山春一氏も、賀川と歩みをともにしてきた村島帰之氏も、また『百三人の賀川伝』を準備中だった武藤富男氏もご健在でしたから、本書の編者として考えられますが、本書の性格からして、恐らく鑓田研一氏がこの作業に当たったのではないかと、勝手に想像していますが、どうでしょうか。

 なお、本書は『人物書誌大系:賀川豊彦25』によれば、昭和35年8月20日付けの版並びに昭和35年5月15日の「召天記念版」が出ているようですし、先年、内容はそのままにして復刻版も刊行されています。





         現代知性全集39『賀川豊彦集』

               序


 意識を持つ者が意識の本源を尋ね、宇宙意識と自己意識を連絡せんとする努力が発生する。この努力が本書になった。

 大きく分けて、東洋流の意識運動は、自己以外に意識の本源を探がし、西洋の宗教哲学は、自己のうちに宇宙を探がさんとする努力であった。この二つの傾向を一つにせんとするのが我々の任務でなければならぬ。

 生まれ落ちてから今日まで我々は、一種の大砲の方針として存在する。刻々の生活は、実弾発射の訓練であると考えてよい。世界の宗教史はこの訓練の上にひろがっている。あらゆる努力、あらゆる修業は、この範囲を出ない。このうちで最も純粋なものは歴史的発展の記録を残している。これが経験である。それで我々は、おごそかな気持でこの経験をしらべる、経験は七種類に分類出来る。

   一、神を知らんと努力した者
   二、神の子にならんとした者
   三、自然を通じて宇宙の本体と同化せんとした者
   四、歴史科学のうちに自然以上のものを発見しようとした者
   五、美及びその類似したものに宇宙の方向を発見せんとした者
   六、善のあらゆる努力のうちに宇宙の悪を克服せんとした者
   七、最暗黒の奥にも失望しない努力を払わんとした者

 素直にこの七つの方式を調べると、一つびとつ特長を持っている。私は組織的に記述していない。確かにこの書には、筋道を書いている。宗教で云う救いというのは結局、悪が勝利でないと云うことを証明せんとしている。キリスト等は、義のために責められる者は幸福なり天国はその人のものなりと、悪の世界を慴れないで、突進すべきことを教えた。ここにキリストの強い信仰があった。

 私は凡ての行者、凡ての経典に教えられて、路傍の雑草にも生命の生き抜く道が何処にあるかを知らんとしている。それで私は、科学と宗教を一つにし、芸術と倫理生活を統一せんと努力して来た。結局私自身の日常生活が、神に向って発射された砲弾である。この砲弾は神が準備し私がその引き金を引かねばならぬ運命にある。それで私は、神を信じ、霊魂の不滅を信じ、神の国の実現を刻々待つているのである。

   一九六〇年二月
       
            賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第135回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第135回


   『空の鳥に養われて』


     昭和33年7月10日 キリスト新聞社 198頁


 本書『空の鳥に養われて』は、前回の『宇宙の目的』のひと月後に仕上げられたもので、戦後賀川自身が創刊したキリスト新聞社の創刊号(昭和21年4月27日)から昭和35年1月1日までの13年間、小さなコラム「不尽油壷」に連載した随筆集です。このコラムのあと、1959年12月の最後の作品までは、賀川豊彦全集24巻に「続・空の鳥に養われて」として収められました。

 ここには本書の序、そして武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」を取り出して置きます。



       『空の鳥に養われて』

           序


 敗戦の真最中、憲兵の一人が、私を殺そうと待ち構えていた。その時、友人の一人は茨城県の森の中に隠してくれた。

 ダンテがイタリー、フローレンスを追われて長い期間、放浪の旅に出たように、私は、瀬戸内海の孤島に自らを幽閉した。その時も、預言者エリヤを守られた創造主は、私をも守護し給うた。私は不思議に、その日の糧には困難しなかった。旧新約聖書の物語は昔話ではなかった。私の一生は、旧約聖書の物語を限の前に見た。天から火の雨が降った。百四十九の大都市が全部焼けてしまった。原子爆弾が廿一万の人間を焼殺した。死骸の山を乗り越えて、私は新しき神の国建設のために働いた。                     
 ダンテは「神曲」の天国篇に、『神が笑い給う』と書いているが、私は、神の咽び泣きを戦歿者の死骸の間で闘いた。この神の咽び泣きを耳にはさみながら、過去十三年間のみめぐみを綴ったのがこの一篇である。日本も十三年間に変った。敗戦後の闇はややあかるくなった。しかし、闇の力は衰えないで、国民は相変らず苦しんでいる。

 しかし私は、新約聖書の十字架愛がロマ時代の暗黒に打勝ったように、アジアにおいても勝利であることを信じている。

   一九五八・五・二五
     
            賀  川  豊  彦




      武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』370頁~372頁

           『空の鳥に養われて』について


 昭和二十一年三月、賀川の発案によってキリスト新聞社が創設され、同年四月第一号が発刊されるや、社長に就任した彼は毎号『不尽油壷』と題して第一面右側下段カコミの中に随筆をのせることを買ってでた。海外旅行などでたまに中断することがあったが、この時から昭和三十四年に至るまで、四百字原稿紙二枚の短文を十三年間書きつづけたのである。

 昭和三十三年(一九五八年)に、その時まで賀川がキリスト新聞に連載した短文を一まとめにして出版しようという議がもち上がり、その結果、同年七月十目、キリスト新聞社から発行されたのが本書である。

 『不尽油壷』という本は本全集第二巻に宗教論文集として収録されており、その口頭にエリシャの故事(旧約聖書列王記下第四章)を引いて由来を記してある。本書にも見出しの中に同じ表題がある。本書の書名をなす『空の鳥に養われて』というのは旧約聖書列王記上第十七章一節乃至七節に記された故事から取ったものである。迫害を避けてケリテ川のほとりに身をかくした預言者エリヤは、ガラスが朝ごとにパンと肉を運び、夕ごとにパンと肉を運んでくれたので、生命を保つことができた。賀川は満洲事変以後、その平和思想のため、また平和運動のため、官憲及び社会の圧迫を受けて、生活に苦しんだが、カラスがエリヤを養ったように『天の使が、あすこから少し、こちらから僅か、一家族が飢えない程度に食糧を運んでくれた』のであった。エリヤのカラスは今日も日本の空を飛んでいるというわけである。

 随筆集であるから各篇については系統的な解説ができないので、筆者が興味を感じた句を次に抜き出して感想を述べよう。

 第二章『空の烏に養われて』の中に、『四十を過ぎて』という一文がある。『性欲も物欲も名誉欲も権力欲をも離れて、天父のことをのみ思いうるのは六十才からである……みめぐみによって病気しながらも六十の坂を越した。そして霊魂の聖化ということがやっと判ってきた。宗教はやはり永生の問題である。』六十に近づき、八十を過ぎた人がここを読むといろいろと考えさせられるであろう。

 第四章『桑の新芽』にある「多忙」中の一句。『多忙なものほど規則正しく生活すれば、多忙のうちにも神よりの慰安が与えられる。神なき多忙は天罰である。』神なき多忙にある人は、あゝ忙しい、あゝ忙しいといいながら生命を浪費しているのである。同じ章に『雲雀よ!日本に讃美歌を教えてくれ』の中には次の句がある。『青空でなければ歌わない雲雀は、地上のほこりを離れて、二つのつばさを激動させながら心臓がはりさけるような大声で創造者への讃歌をうたいつづける。』大空におけるひばりの讃美歌は、詩人賀川ならでは感じえないところであろう。

 第五章『路傍の小石との立話』の中にある『平凡の黙示』の一節――『平凡は神の黙示であり、神の黙示は良心の至聖所に受取られる。』これは預言者エレミヤが鉄瓶に吹く湯気、土中の帯、破壊された甕など平凡な事物を実例として神の黙示を語っていることを述べたものであり、一瞬間のささやきに神の大方針が火柱の如く照りかがやくことを示したものである。

 同じ章の『パン屑』の項には『たばこ銭と酒代とを節約すれば、子供一人学校へやるだけの資力はできる』の一句があり、これまた教育論として今日の社会にあてはまる。

 第六章『宇宙を裏側からのぞく』の中にある『天井裏の凪』には山上の垂訓をもじった句があって面白い――『屋根裏の凪を見よ、彼は武器も持たず、原子爆弾も作らない。しかしこの種属を神はなお繁栄させ給う。まして日本民族をや、ああ信仰うすき者よ。』賀川は子(ね)の年生まれである。

 同じ章の『天の導き』には『日本の伝道は西から来たポルトガルは失敗し、東から入ったアメリカのキリスト教が成功した』とあり、英国の伝道が廻り道をしてアイルランドに入り、スコットランドに及び、次いで英国全土の教化が実現したことと対比している。

 第八章『海潮は我等の前に退く』の中にある『夏の夕立』で、夕立をさして『三千尺も五千尺も上から落ちてくる大きな滝だ!』というところは、賀川流である。同じ章に『合掌する心』という一文があり、天の父を『常住の衛士の如く、私につきまわり、大黒柱の如く私を支え、杖の如く私の弱い体をもたげてくれる』というのは、詩篇を読むような感を与える。

 第九章『植物に成ってみる』の中にある『栗の秋』には猿カニ合戦の話がでており、カニのように横ばいしなければならぬ時代には、我々は蜂(蜂蜜)、栗(殼果)臼(製粉)の応援を得なければならぬといっている。戦後の食糧事情と立体農業とを比喩的に説いていて面白い。『植物に成ってみた』賀川は、片目に眼帯をかけ、片眼で木の枝先を見つめ、『全身病の問屋のような私でも、生命がつづいてきただけ宇宙の戯曲を永く見てきた面白さはあった……天とにらめっこをすると、青空が枯枝の先端に輝き、私はもう永遠に引越したような気になる。』永遠に引越すとは永遠の中に転居するの意である。

 第十章『山茶花の囁やき』の中にある『独居』の中には次のような面白い句がある――孔子は小人閑居すれば不善をなすといっているが、閑居して最善をなしうる者にのみ天下をまかせうると私は考える。『満足生活』の項には『足らぬ、足らぬといつもこぼしている金持に比べて“兄弟持って行け”と、困っている友人に末代を持たせる労働者のほうが、はるかに金持である』とあり、パウロがコリント後書八章に書いているように『恵みのわざに富む』ことが真に富むことであるのを示している。

 第十一章『収穫への感謝』に『屋根の落葉が話す』くだりがある。屋根の落葉が土になり、その上に雑草が若芽を出しかわいらしい畑が出来ていることに心を打たれているのである。

 第十二章『恒星を凝視する心』においては『鏡』という一文が印象的である。眼がわるい賀川は、時に鏡を見ても、自分の顔に目がついていない顔がうつる。その時鏡を見る気がしない。魂が濁ってくると、鏡としての神が邪魔になることを、この比喩をもって説いているのである。

 その他この書には敗戦直後の日本の混乱と腐敗をなげき、日本民族の再起への祈りが満ちている。そこに本書の特質があるといえよう。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第134回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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            第134回


    『宇宙の目的』


     昭和33年6月25日 毎日新聞社 365頁


 本書『宇宙の目的』は、賀川豊彦の代表作です。『死線を越えて』や『小説・キリスト』なども勿論彼の代表作といっていいのですが、やはり賀川豊彦が72年の生涯を貫いてたどり着いた最大の労作は本書『宇宙の目的』であると言えるでしょう。

 ただし本書の扱う内容は、彼の著作の中では最も難解なもので、毎日新聞社から刊行されましたが、多分初版が出ただけで、版を重ねることはなかったのではないかと思います。

 しかし、生前に本書が完成して、関係者がその出版を祝す集いも持たれたことも、喜ばしいことでした。

 難解な中にも、「私の友人武内勝氏」のことなども書き込まれていたり、とりわけ本書には、賀川の思想の芯にあたる、現在に、また未来に受け継がれる表現が刻み込まれていて、ひきつけられるものがあります。

嬉しいことに、本書の英訳が出版される運びになっています。

 ここでは、本書の「序」、そして全集の武藤富男氏の解説も取り出して置きます。




        『宇宙の目的』

           序


 宇宙悪の問題と取り組んだのは、私の十九才の時であった。私は原子論を研究するために京都大学の水野敏之丞博士を尋ねた。それは一九二一年ごろであった。一九一四年七月第一次世界戦争の勃発とともに、米国プリンストン大学におもむいて「哺乳動物の進化論」を専攻した。その後私はいそがしい日本の社会運動の暇をぬすんで「宇宙悪とその救済」を研究しつづけた。シナ事変のとき平和運動のために東京渋谷の憲兵隊の独房に拘置せられ、さらに巣鴨刑務所に移された。そのときも私は「哺乳動物の骨格の進化」の書物を獄中で読んでいた。

 太平洋戦争が始まる少し前から、私は宇宙悪の問題を宇宙目的の角度より見直し、宇宙の構造に新しい芸術的興味を感じるようになった。私は宇宙の構築に神秘的発展が、まだ進行中であることを深く感じる。それで、私は、それに結論を出すことをいそがないで、宇宙の一大演出をただ見ておりたいと思う気がする。しかし、私かあまりひとりで考え込んでいることも周囲の人々にすまないので、私の宇宙の見方の一端をここに発表し、宇宙芸術の味わい方を世界の人々に知ってもらいたいと思うのである。

 校正のために努力せられた吉本浩三氏に感謝する。眼病の私に、校正は困難であった。それを吉本氏が助けてくれた。このほか、微生物の食物選択について御教示をいただいた中村浩博士と原稿を整理してくれた黒田四郎氏、外国の科学者ではノーベル賞受賞の諸学者、特にミリカン博士、パウル・コンプトン博士、パウリング博士、アーネスト・O・ロレンス博士たちは、実験にあるいは疑問に未熟な私をいちいち手引きされた。また本書の出版についてお世話になった毎日新聞社会長本田親男氏にも改めてここで感謝を捧げる。

     一九五八年初夏
     
             賀  川  豊  彦






        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」より

          『宇宙の目的』について(冒頭に部分のみ)
 

    一、畢世の著作

 人間社会の罪悪、自然界に起こる災害、個人の悪性、非行、病気、貧困、死、苦難等を綜合して賀川は『宇宙悪』と呼んだ。宇宙悪への疑問は、彼が、明治学院神学部予科を卒えて神戸神学校に移る頃、すでに心中に萌していた。すなわち十九才の時、彼はこの問題と取組み、これを解決しようと志したのである。

 宇宙悪の謎を解くためには、宇宙そのものを探究しなければならない。すなわち天文学からはじめて、地質、生物、物理、化学等の自然科学部門を究め、社会、法律、倫理、宗教等人文科学部門に及ばなければならぬ。賀川は一九一二年、二十四才の時当時学界に波紋を起こしつつあった原子論に興味をもち、京都大学に水野敏之丞博士を訪ね教えを乞うている。二年後、プリンストン大学に入学するや、彼は生物学を学び、『哺乳動物の進化論』を専攻した。プリンストン大学入学試験の時、彼がすでに進化論について教授たちを驚かすだけの学殖をそなえていたことは横山春一著『賀川豊彦伝』に記されているところである。

 帰朝後、社会運動や伝道に没頭している時も、彼は暇をぬすんで『宇宙悪とその救済』について研究をつづけた。『苦難に対する態度』(本全集第二巻収録)『残されたる刺』などは宗教的方面から観察した宇宙悪の解釈であり、『生存競争の哲学』(本全集第九巻収録)は生物学の方面から宇宙悪を取扱った著作である。

 字宙悪の問題と取組んで半世紀を送った賀川が何故に『宇宙悪』という書を著わさずに『宇宙の目的』という本を書いたかということは興味ある課題である。宇宙悪の研究から出発した学徒賀川は、宇宙そのものの研究をして行くうちに、天体から原子に至るまで、人間から微生物に至るまで、すべての存在に目的のあることを発見したのである。そこで彼の哲学は次第に目的論に傾いて行き、宇宙悪の問題は宇宙目的との対比において、彼の表現を用いれば『宇宙の目的の角度から』解決されなければならぬこととなった。更に宇宙目的を探究して行くうちに、目的論のほうが賀川哲学の主題となり、宇宙悪はその副題に転じてしまったのである。このことは本書の自序及び全休の構成を見れば明らかである。

 晩年の賀川が、どんなに本書の著述に力を注いでいたかは、彼が口癖のように『宇宙目的論を書かなければ』と言っていたことに示される。講演や伝道の依頼、面会の申込みなど断る時、彼はいつも『宇宙目的論を書かなければならないから』といっていた。世を去る前に、十九才の時から念願していた著述を完成しようとして、彼がどんなに焦慮していたか、また絶えざる研鑽を積みつつあったかを、このことによって知るのである。

 宇宙目的論を導き出す契機となった宇宙悪の着想を彼はどこから得たかということもまた興味ある課題である。この点について彼は自ら語っていない。これを次の四点から推定してみよう。

 第一は彼の境遇である。妾の子として生まれ、幼にして両親を喪い、孤独のうちに生育した彼は、少年時代においてすべて人生の不幸や苦難について思いをめぐらせていたのではあるまいか。

 第二は旧約聖書のヨブ記である。十七才にして明治学院に入学し、その図書館にある本をすべて読みつくそうと志した彼は、恐らく旧約聖書ヨブ記を精読したにちがいない。ヨブ記は宇宙悪の問題を提起した書物として古今無双の名著である。ヨブの苦難及びヨブが友人たちと行なう問答、そのうちに盛られた深遠な思想は聡明にして多感な青年賀川をして、宇宙悪の問題と取り組みこれを解決しようとする志を抱かせたにちがいない。

 第三は彼の病気である。結核のため死を宣告された青年賀川が、どんなに煩悶したかは想像に難くない。病気と死について、彼は深く考えたにちがいない。学問の課題としてよりも、むしろ体験として彼は宇宙悪と取り組んだのである。

 第四は二十一才の時入って行った貧民窟の体験である。彼はここで人間社会の貧困と悲惨と罪悪とをつぶさに観察した。そしてその因って来るところが、単なる経済や社会制度の問題でなく、更に深いところに存することを見出した。そして宇宙悪の救済についての研究にいよいよ本腰を入れようと決心したようである。

 かくて宇宙悪を解決せんがための宇宙学あるいは宇宙哲学は、天才が五十余年に亘る研鑽の結果、宇宙目的論となって世にあらわれたのである。(以下、長文の「解説」が続く)






連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第133回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第133回



   賀川豊彦の寄稿歌集

   『発車―基督者詩歌集』


  昭和30年12月20日 キリスト新聞社 301頁


 本書『発車―基督者詩歌集』は、昭和26年創刊の雑誌「草苑」の同人誌のメンバーが、標題の詩歌集を企画し、キリスト新聞社より刊行されました。

 この同人には賀川豊彦のほか、賀川と歩みを共にした人々、例えば由木康・三浦清一・本田清一・河野進・山室武甫などが加わり、雑誌の出版を重ねていました。

 本書は、田中忠雄の装丁で箱入りの上製本、1000部の限定出版です。編集代表の松本宗吉氏によって、長文の「基督教詩歌略史」と「後記」が収められています。

 ここでは箱表紙・本体表紙などと共に、武藤富男の「序」並びに賀川豊彦の掲載箇所を取り出して置きます。加えて、武藤の賀川全集で触れられている短い文書も添えて置きます。





        歌集『発車』


  賀川豊彦

 明治廿一年七月十目神戸市の生れ。基督教伝道者、また社会事業家として知られ、協同組合運動の先駆者として「無血精神革命」を主唱、現在日本社会党顧問、キリスト新聞社社長。各種公職の数は列挙のいとまがない。詩集『涙の二等分』『銀色の泥蔀』の他『死線を越えて』『一粒の麦』『キリスト』等小説集、童話集、論文集等著書百五十余冊。『草苑』同人。            (東京都世田谷区)



        あゝ日本は降伏した

      南に去りしもの遂に婦らず
      北に往きしもの遂に戻らず
      空に飛立ちしもの
      永遠に帰らず

      海に行きしもの
      まだ姿を見せず
      母親は戦死せし子等の写真を胸に抱きて
      敗戦を迎え
      妻らは父を失ひし
      子等の手を引いて

      終戦の詔勅に耳を傾く
      英雄は地下に沈黙し
      憂愁は国土を蔽ふ
 
      あゝ日本は降伏した!

      涙の洪水に
      飢民は押流され
      咽び声は街頭に漂ふ

      平和よ、おまへの扉は
      心の内側に開いてゐる!
      光栄よ、おまへを探すものは
      霊魂の内側に尋ねるべきだ
      あゝ日本は降伏した

      それは予期されし如く来たり
      予期された結果を生んだ!
      歴史は透明なものだ
      歴史は硝子張りの室だ
      見透しがきく万化鏡だ!

      あゝ日本は降伏した
                  一一九四五・八・二六-



        森の小笹よ途ひらけ

      松よ 檜よ 杉の木よ
      間々田の森に 呼吸する
      鳳凰(ほうわう)の子らを 翼(はぐく)めよ!

      世紀の焔 身を焼けど
      あゝ胤凰は 甦る
      灰塵よりぞ 甦る!

      苦難の嵐 猛る時
      静けき森ド 巣籠れば
      梢の鳥よ 糧運べ!
 
      今日勤労に 身を固め
      日本のなやみ 背負ふ身に
      森の小笹よ 途ひらけ


   憲兵隊が私を殺すと云ふ注意を受けて森に隠れし時、詠ひし歌
           ――一九四五・八・二五、栃木県間間だ田の森にて


        日本娘

      試練は汝をきたえ
      苦悩は汝をねる
      逞しき日本の娘よ
      封建の鉄鎖、汝の胸より落ち
      日輪は汝のために輝く
      秀麗の子、日本娘
      逞しくも立ち上り
      裾(すそ)短く、腕まくし上げ
      活溌に労作に急ぐ、日本娘

      終戦と共に涙をぬぐい
      微笑もて颱風をむかへ
      地辷に、地震に、低き下駄穿(は)きて
      髪の毛も短かく
      永遠の処女の悦びを持ちつつ
      青空に躍る光波を浴びて
      「水遠」に接近するその柔和なる心
      日本娘よ、海洋の子よ!

      数多き娘ら、駅より溢れ出で
      さっそうと群をなして
      家路に帰り行く女学生、工女たち―
      身軽きジャケット、靴下もはかず
      胸をはり、肩をいからせて歩む
      若きしとやかなる姿
      汝らの母が
      重き帯にしばられ
      長き袂に苦しめられし
      昔を忘れ、敗戦を区劃として
      勇躍(ゆうやく)立ち上る勇しき姿!
      過去を葬り、未来に生き
      むくむくと春の若芽の如く
      立上るそのかんばせ!
      日本の為めに
      私はおまへ達を祝福しよう
      日本娘-―
         ―一一九四七・一〇・三 出雲今市にて


        林を縫ふ小川

      林を縫ひ 森を貫いて
      釧路(くしろ)川は 走る
      摩周(ましゅう)山麓 白樺の原生林をかすめて
      八月・・・秋、北海道の高原
      永遠に下へ下へと 俗塵を押しやる
      藍の色 絲葉にはゆ
      弟子屈(でしかが)の宿 静かな朝!
                ―北海道阿寒国立公園にて


        駿馬の子を 借りて来い!

      ラッパに響け、角笛よ呼ばはれ
      日本の再出発だ
      キリストの約束で、三千年の暗黒を打破り
      平和と希望の 解放の時が来た!

      軒の雀も 野原のひばりも
      声を合わせて 呼はるが善い
      神の出御だ、光明の日だ!
      坑内深く うづくまる鉱夫も
      海洋遠く 波濤にもまれてゐる
      ゼベダイの子等も 見上ぐるがよい!
      そら、あそこに、希望を教へる
      ベッレヘムの星が
      光ってゐるではないか?

      罪に泣く 日本の民衆は
      キリストの出御に 間に合せるために
      綜欄の杖を折って来い!
      そして驢馬(ろば)の子を 引いて来るがよい!
      これからキリストが その驢馬(ろば)に秉って
      東京に行進せられるのだ!
                      一九五四年

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第132回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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             第132回


    『天の心 地の心』


     昭和30年9月7日 実業之日本社 274頁


 本書『天の心 地の心』は、前著『聖書の話』が出版されて2年半ばかりの空白の後の作品です。第一部「天の心を地の心とせよ」、第二部「天の心を地の心とせし人々」の二部構成ですが、第二部の多くは戦前の作品が多く収められています。

 「1955・7・9」付けの賀川の「序」には、本書を仕上げる支援者のことは記されていませんが、前回の『聖書の話』に協力した鑓田研一氏かもしれません。それとも村島氏か武藤氏か。

 ここでは「序」並びに「序」の前に「著者略歴」もありますので、それらも取り出して置きます。また、本書は全集に収められており、武藤氏の解説もありましので、それも加えます。



        『天の心・地の心』


          著者略歴

 明治二十一年七月十二日神戸市に生る。
 同四十年明治学院神学予科卒、神戸神学校に入学、四十四年同校卒業。
 神戸市葺合新川の貧民街においてキリスト教布教に往事。
 大正三年奨学金を得て米国プリンストン大学及同神学校に入学。
 同五年同校卒業後シカゴ大学に学ぶ。
 帰国後大正七年には関西労働総同盟会長となり、また神戸市細民街に隣保館設立。
 その後労働組合、農民組介、協同組合等あらゆる組合運動の先鞭をつけ、関東大震災には
 難民保護に当り、また帝国経済会議々員、中央職業紹介委員会委員、済生会評議員、東京
 市社会事業協会評議員等を委嘱された。
 昭和二十年には、厚生省救済委員会委員、同省顧問、内開総理大臣官参与、内閣議会制度
 審議会委員、日本社会党を組織し顧問となるなど、終戦後の混乱した社会に活躍し、
 同二十一年には貴族院議員に勅選され、全国農民組合会長に就任す。その後も終始キリス
 ト教布教に従事、貧民救済事業、社会事業等の措導実践、啓蒙宣伝を行う。
 現在、都社会事業協会、中央児童福祉審議会、済生会等各役員、全国農民組合長、雲柱社
 理事長、世界連邦副総裁等多くの面に活躍、また前後九回世界各地に渡航。著書は「死線
 を越えて」「一粒の麦」「主観観経済学の原理」等多数がある。            /


                                           
           序


 支那の聖人孔子は、時代の激しい変転期には「天」を基準として人の心を易(かえ)るようにと易経を編集した。

 キリストは『私は一人じゃない、天の父といつも一緒にいるのです』と十字架を選んだ。

 フランスが百年間もイギリスに占領せられていた時、十六才の小娘ジャン・ダ・アルクは天の声を聞いて祖国を解放した。

 デンマークがドイツに占領せられた時、二十八才の青年グルドウィヒは、天の心を国民の心に植えつけてデンマークを再興した。

 ノルウェーがスウェーデンに占領せられていた時、南ノルウェーの農村青年ハソス・ニールソン・ハウゲは、天の声を春の雪解け時、畑の中で聞いた。それが、ノルウェーの再建の礎となった。

 日本の再建は、天の心を、地の心とすることから始まる。

 それを忘れて、唯物論に迷い、汚職に没頭し、刑務所を新設し、最高裁判所に防塞を築き、ゆがめられた地の心を以って、天の心に置き換えようとしている。ここに日本の新しき悲劇がある。

 明治維新は、まだ天の声に聞かんとする熱意を持っていた。明治六年切利支丹禁断の制札は撤去せられ、迫害を怖れず、多くの青年は、救国の祈りを天に捧げた。それが死を怖れざる熊本バンド、札幌バンド、横浜バンドの結成とたった。そして、この熱意が国会の設立となり、民主々義国家の運動として発展した。

 アブラハム・リンカーンは、徹夜の祈によって「奴隷解放」の宣言文を起草し、その精神を日本に運んだ横井小楠は京都御所に殺され、森有礼文部大臣は憲法発布の日に兇漢の手に倒れた。それにもかかわらず、日本の婦女子は、白色奴隷解放の祈に燃え、婦女禁売令は、明治五年の太政官布令となり、貯妾制度の廃止は法令なくして、民衆の常識となってしまった。

 しかし、軍閥の台頭は日本を遂に敗戦に導き、日本は遂に二千六百年の輝しき独立の歴史を反古にしてしまった。

 私は嘗て、満州の首都より追放令の予告を受けたことがあった。それは、私か新京で貯妾制度反対の演説をしたことが満州政府主脳部の忌むところとなったためであった。そして、太平洋戦争によって、日本は天を見失い、敗戦と共に唯物辨証法は「天」を嘲り、倫理道徳は日本を見捨てた。日本そのものが、軍閥下に於ける満州国のようになってしまった。

 今日の日本はダンテの画いた地獄以上のあさましい悲曲の連続である。

 私は、も一度、「天」を呼び、天の心を日本の心とする為めに、この書を戦災に焼け残った、日本の若き良心への遺産とする。

   一九五五、七、九、午前四時
     
         賀  川  豊  彦





          武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』より

             『天の心、地の心』について


 『天の心、地の心』は東京の実業之日本社から昭和三十年九月七日に発行された。

 賀川が六十七歳の時、すなわち晩年の作品である。しかもこれは講演筆記でないから、文体がよく整い、内容も他の宗数的著作のように、同じことは、同じ表現の重複がなく、殊に後半は宗教的偉人の人物、事業を記述しており、読む人の興趣をそそるものがある。

 実業之日本社はこの時すでに賀川の著作として『石の枕を立てて』『処世読本』『東雲は瞬く』などを出版しており、キリスト精神をあまり表面に出さず、内に秘めながらじわじわと日本人の心に泌み通らせるような企画をもって賀川に書かせたものと推定される。本書もまたそうした型に属する著作であり、宗数的修養書とも名づくべきものである。

 本書は第一部「天の心を地の心とせよ」第二部『天の心を地の心とせし人々』に分かれており、前者は著者の見解を述べたもの、後者は人物評伝である。

 第一部の内容を紹介しよう。『天を基準とする生活』の項においては、太閤秀吉が『戦争に勝った時、勝に乗じて敵を追かけずに、一たん四辻に引返して、八方ににらみをきかせ』という四辻戦法の教訓を引き、『天に通ずる聖き野心』をもち見通しをきく目で事業をやれ、実業に従事する人は専門的知識だけでは経営ができない、寛容の気持、強い意志、その上、人の苦労を自分の苦労にして社会全体を引上げてゆく社会連帯意識の深みに徹せよ、これが宇宙精神に通ずることであると説く。(賀川はここで神といわずに天といい、キリストといわずに宇宙精神といっているのである。)

 悪につく下向きの生活をせず、天と自分とを一直線において誘惑に勝ち、一時の繁栄を目当てにしないで、天を基準とする生活をせよという。

 『日本を明るくする工夫』の項においては、日本は国土は狭いが自然に恵まれているから、生活教案を作り、樹木作物農業、有畜農業等より生ずる産物を加工することを学び、生活を豊かにせよ、『日本の青年よ、大自然に帰れ』と叫ぶ。

 『労働享楽時代の創造』の項においては、労働をいやがる国民か亡びるという実例をローマ、インド、清朝において示し、『わが父は今に至るまで働き給う』という聖句を引いて、労働神聖視による世界観の革新を説き、敗戦後の日本人が、賭博行為によって遊び暮しているのを批判し、更にこの頃から盛んになってきた労働争議による工場の休業に及び、昭和二十七年、二十八年の大工場や鉱山が、どんなに永い間争議による休業をし、そのため損失を招いたかを語っている。
 (資本家の暴威に対し労働組合の結成を促進し、自ら労働争議を指導した賀川も、戦後の労働争議のやり方に対してはよほど強い反対意見をもっていた。松岡駒吉君が、自分たちの作った労働組合がこんなものになろうとは思わなかったと嘆いていると賀川は当時私に語ったことがある。)

 労働争議に対しては争議前に労働調停裁判所を通過すべきである。さもないとロックアウトやストライキによって、完全雇用の理想が破られ、資本家も社会主義者も自らを裏切ることになり、自ら貧乏を製造することになると主張している。

 次に労働が面白くやれる方策を提唱し、経営者は、労働者の生活不安をなくし、労働過重にならないようにし、単調になる場合はリズムをつけたりラジオをかけたりして作業に変化を与え、作業工程やその目的を理解せしめ、生理的、心理的に作業の適格性を定め、労働者を人格的に尊重し、互助友愛の精神に満ちるようにし、つまらぬ作業でも宇宙目的、人生目的に合致することを教える等のことを提唱し、こうすれば、争議が起こらず、経営の不振が起らぬと結論している。

 次に日本人は男子も女子も敗戦から立上がり、世界に卒先して労働享楽の時代を創造すべきであるという。
 『激変する社会に処する道』の項においては、天を中心とする易経の教訓に従い、行き詰まったら零から再出発し、頭たらんとする者は人の僕となるべしというキリストの教えに従い奉仕の生活をすれば失業はない、大きな困難にぶつかった時は天に向かって立直れ、きれいに失敗する者こそ勝利者となる、正しい道を歩く者こそ勝利者となるという。

 『不景気を突破する精神』の項においては社会連帯性の経済を主張し、完全雇用の社会組織を協同組合によって実現し、これを世界全体に及ぼすべきことを提唱している。

 『現代にも立身出世はありうる』の項においては、労働階級から出て代議士になった大矢省三、現代の幡随院長兵衛といわれる武内勝、浪速銀行の小僧を振出しに大蔵大臣になった北村徳太郎等の実例をあげ、共産主義国においてすら『労働英雄』『技術英雄』『発明英雄』などがあって勲章をもらっている。アトリー内閣の外務大臣ベビンは炭坑夫出身であり、その他研究室の女性英雄があり、マーク・トインの如き河蒸気船のボーイが文豪になった例がある、人類社会に指導者を要する限り必ず立身出世があると結ぶ。

 『生き甲斐のある生活』の項においては、肺病院にて奉仕生活をした肺病患者の話、公正都市の建設者ジョンソンの話、カーネギー、フォード、ロックフェラーなどの話を語り、使命感に生きるようすすめ、生き甲斐のある生活とは『二度くり返したい生活』であるという。

 『割切れる理屈と割切れぬ人生』においては、理屈で割り切れても、人生には割り切れぬことが多いという主題で、左翼学生運動を批判し、礼儀と行動の美を論じ、社会風習を解剖し、マルクス、ジェームス、ランゲ等の哲学に言及し、永遠に割切れない生命の世界と信仰とがあるといい、理論を超越し、宇宙の志向性の指さすところを信じて良心生活を営むことが宗教であると結論する。

 『道徳復興なくして経済復興はない』においては、敗戦の結果起こった道徳の腐敗につき語り、ローマ衰亡史は日本への予言者であるといい、慢性インフレ下の慢性ストライキ、麻薬の流行、娠娠中絶等、日本の衰亡が露骨になったことを指摘し、公用族(社用族)資本主義の堕落を論じ、公用族の犯罪統計をあげ、道徳なくして経済の復興なく、宗教的基礎なくして国民を退廃から救うことはできないと結論する。

 『世界平和と世界危機』においては、レニンの暴力国家論の批判からはじまり、今日の解放運動には民族解放と無産者解放の二潮流のあることを指摘し、結局世界連邦制度によって世界平和を実現しなければならぬと提唱する。

 『天の心、地の心』は問いと答えの形式による解説であり、宗教とは? 宗教の四つの目的は? 新興宗教は迷信か? 神はあるか? 愛こそ神の心、生命は心を産む、科学で解けない生命の神秘、善と悪、平和と世界連邦運動、霊魂は宇宙の中にある、死は悲しからず等の諸項目に亘って賀川の見解を述べてあり、多くは『神による新生』をはじめ、その他の講演集にあらわれたものを集約したものである。

 第二部『天の心を地の心とせし人々』は宗教的偉人伝であるから一気呵成に読むことができる。

 一五四一年インドに渡って伝道し、一五五〇年日本を訪れて初めて日本にキリストをもたらしたポルトガル人ザビエル、信仰に生きた小西行長、キリスト教思想をいだいた近江聖人中江藤樹、印度の使徒靴屋のケエリー、中国への伝道者で聖書の中国語訳を完成したモリソン、中国キリスト教の開拓者ハドソソ・テーラー、奴隷解放の恩人リンカーン、日本黎明期の伝道者海老名弾正、インドの解放者マハトマ・ガンジー等九人の人物について語る。殊にケエリー、モリソン、テーラー等の伝記はくわしく記されており、ガンヂーについては一九三九年一月、賀川とガンヂーとの会見記から始まっているのが興味をそそる。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第131回)

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「神戸・相楽園の旧ハッサム住宅」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza/rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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              第131回


    『聖書の話』


     昭和27年3月30日 要書房 205頁


 本書『聖書の話』は、最初「要選書」のひとつとして刊行された後、昭和32年には社会思想研究会出版部より「現代教養文庫」に納められたことから、晩年の賀川の作品としては、長く人々の手に渡った好著でした。この作品も鑓田研一氏の協力で仕上げられています。

 残念ながら賀川豊彦全集には入っていませんが、先に上げた『キリスト教入門』と共に重要な作品と思われます。

 ここでは要書房版の「序」に加えて、文庫版の賀川の新たな序も取り出して置きます。



        『聖書の話』

          序


 古き低気圧が去って、新しき低気圧が来襲する。人間の低迷が、深度を加えると共に、新しき低気圧の頻度は激しくなる。
      。
 第二次世界大戦は過ぎて、また第三次世界大戦が準備されている。十一世紀に始まった十字軍の頻度と同じ歩調で世界戦争が来るのかも知れない。それにしても、悲しきは人間の無智と狭量である。その悲哀を貫いて、なお変わらざるは宇宙創造主の慈愛の深さである。人間が神に反逆すればするほど、その罪悪を越えて人類再生の途を開いて下さる。罪のいや増すところに恵みもいや増し、もう世界の週末かと思われる時に、また春の芽生えが、黒土の下に準備されている。

 めぐみの記録はかくして、歴史を貫く天啓となり、これが綴られてユダヤ民族の体験として、恩寵史は書かれた。これが旧約聖書である。その恩寵史を意識の上に乗せ、天父の慈愛を人間社会に生かす場合に、罪をも赦す「血肉」の運動として、他人の為めに、「血」となり「肉」とならねばならぬと贖罪愛の地上生活を書き出したのがイエスであった。彼は「神」の愛の受肉者として地上を闊歩し、神の國を地上に縫いつけたのであった。これが新約聖書である。

 人類がイエスに同化すれば、地上に神の國が来るのは必然であり、人類史は、全人類がイエスの如き意識に到達する日に、神のるを地球上に顕現させ得名のである。

 この意味において、私は聖書のあらゆる批評を歓迎する。然し、それらの低等、高等……文學的、思想的の凡てを越えて、私は、更に神と私とを如何に結びつけてくれるかという点から聖書を涜む。それで、思想の時代的発展以上に、私を天に引上げてくれるものを私は探す。で、それが年代的にどうであろうと、私が歴史の頂点に立っていると考えている以上、私は、歴史の中にこみあげてくる神の恩寵の高潮に、私が乗っていることを自覚すれば、それで、私はその聖霊のみめぐみに凡てを委ねる。

 この本は、聖害の一章一節の意味をこまかに解きあかした註解書ではない。註解書なら私の先輩や友人の書いた本がすでに何十冊、何百冊といって出ているから、それを読んでもらいたい。私は、旧約聖書と新約聖書を構成する、両方あわせて六十六巻の記録について、各巻の根本的な主題と、思想の特質と、登場人物の風貌を明かにすることを主限とした。
 
 友人鑓田研一氏の協力がなかったら、私は時間的にこの本の執筆に困難を感じたであろう。ここで同氏に心からの謝意を表する。

  一九五二年二月二十二日
        
        賀  川  豊  彦


         現代教養文庫

         文庫版への序


 原子力時代に生れあわした私たちは、あたらしい恐怖と文明の終末を予覚させられる。この文明の崩壊は創造主が宇宙と人類をつくられた目的であったろうか?

 原子力時代の悲劇は神を否定し、社会協同体をふみにじり、唯物主義と、暴力と、肉慾のみを肯定するところの神への反逆にはじまる。過去は過去に葬ればよいですまされない。良心がうずく。創造主がかくまで、宇宙を美しくつくり人類を愛し育てて下さった大愛にたいして、責務を感じる。

 新宇宙の再創造のためには、世の始まりから今日にいたるまでの建設についやされたエネルギーを弁償せねばならぬ。そう神と人との間にはさまって悶えたのがナザレの大工イエスであった。その総対的連帯意識に目ざめた贖罪愛の発展史が「聖書」全巻の記録である。

 それは階級意識ぐらいの局部的なものではない。イスラエル民族解放史のかげに天地の創造主がひそんで助けてくれた。神は解放者だというのが旧約聖書の編まれた理由である。その解放者にすまない道徳的堕落がイスラエル民族の良心をむしばんだ。それが民族興亡史の背景として『精神覚醒史』が書かれた理由であった。預言者の声を旧約聖書が集録し、その究極の完成者としてのイエスの贖罪愛の死と、その死を突破しだことを新約聖書は教えてくれる。

 新約聖書の教えるところは、天の父なる全能者は人間の罪悪と欠点にたいする協同の責任を感じ、連帯責任をとり、神のなやみを神の子としてひきうけたその自覚の悲痛なる嘆きを福音書として記録した。

 しかし、原水爆のなかった古代ローマ時代は人類の終末とならずにすんだ。だが、今はそんな生やさしい時代ではない。われらはもういちど聖書をかみくだいて味わい、あたらしい時代の贖罪愛と、あたらしい時代の再創造のために、あたらしい復活を準備せねばならぬ。

  一九五七・二・二七
         
         賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第130回)

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「神戸・相楽園にて」(「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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              第130回



    『続人生ノート:人生苦の解決』


      昭和27年1月25日 梧桐書院 182頁


 本書『続人生ノート 人生苦の解決』は、このとき梧桐書院で出版された一連の賀川作品のひとつで、編者の鑓田研一氏の労作といえるものでしょう。

 本書には、賀川の序文も鑓田の編者の言葉も全く添えられていませんので、ここでは、本書の第一章を取り出して、賀川の序文に代えたいと思います。愈々、賀川の著作も最後の段階に入ってまいります。


       『続人生ノート 人生苦の解決』


          新らしき人格への飛躍

    新らしさの意味

 一体、新らしいとは何を意味するのでしようか?
標的がハッキリしていないと、どこまでが古くで、どれからが新らしいのか、サッパリわかりません。人間にとって、究極の目あて――理想とは「より人格的」ということ以外にはないのです。
 では、より人格的とは何を意味するかといえば、「より自由であること」を意味するのです。
 たぜ正月には、人が喜ぶのでしょうか。それは、平素の拘束から、少なくとも正月三が日の間は、解放の自由を味うからです。小説を読む愉快、芝居、映画を楽しむ理由も、それが何らかの自由を味わせるからです。
 『もう少しの自由を!』というのが、社会運動の原理であり、また、大きなその理想です。より人格的であるとは、だから、より多くの自由の享受を意味します
今日の時代は、あらゆる方面に、其の自由が保証せられていません。労働者はエ場にしばりつけられ、役人は官廳に、妻君は台所に、女中は流し元に、それぞれ束縛を受けで『自由を! 自由を!』と自由を求めてあえいでいるのです。
 しかし、ある者は、金を手に入れると、自由を求めると称して、放蕩無頼の生活に向っで走って行きますが、それは本とうの自由でしょうか。

   自 由 の 種 類                  、
 
 自由にもいくつかの種類がありますが、放蕩をすることを本とうの「自由」とは呼ばたいのです。
 自由には二種あります。横の自由と縦の自由です。
 第一の自由は、思うまま、気まま身ままにしたいという自由です。それは妾狂いをする自由であり、娼婦を弄ばんとする自由です。
 神戸に、某という大親分が居ました。賭博の常習者でしたが、その行為をとがめられると、『おれの金で、おれが打つのにどこが悪い』といつで、喰つてかかるのが常でした。しかし、真の自由とは、かかる横への自由ではないのです。
上の方への自由――つまり・偉くなりたい、飛躍したい、発明したい、そのために要求するのが縦の自由であり、真の自由であります。
 横幅の自由を求めることはやさしい。けれども、上の方へ飛び上りたいという自由を得ることはむつかしいのです。が、この第二の自由、真の自由こそが、われわれの望みでなくてはならぬのです。
 一人の娼妓なく、虐げに泣く一人の労働者のない社会を求めてこそ、真の自由への要求というべきでしょう。
 横幅の自由は、自由の成りそこねです。それは、自由ではなくて、放縦です。

   人格の要素としての自由と秩序

 人格の要素として二つを挙げることができます。自由と秩序です。
 一人が自由を楽しむのみでなく、自分以外の他人もまた自由になりたい要求を持つているのですから、他と共に自由を亨受しょう――というときに考えられるのが秩序の問題です。
 昔は、金持であれば、他人のことなぞは考えないで、自分の自由に振舞えました。ゴロツキの連中もほしいままに横行しました。しかし、真の自由は、秩序ある世界を要するのです。
 秩序とは、即ち、「法」という意味です。変わらざる法を指して秩序と呼ぶのです。
 われわれは、各種の「法」の裡を歩んでいます。例えば、生理的法に従って生きています。もちろん、これを破ることができます。酒飲がそれです。その意味で、酒飲は自由であるかも知れませんが、秩序よくは歩けないのです。
 人格とは自由と秩序との組合わせです。自由とは変って行くものです。移り行くものです。『今日では、フランス語も自由に読めるようにたった』というのは、不熟練から熟練へと変って来たことを意味するのです。われわれは、発明に対し、学問に対し、常に自由を保つものとならたくてはなりません。しかし、単なる変化のために自由を握るという外に、人格の成長には今一つの方面――秩序のあることを知らたくてにたりません。
 青年期の誘惑は、秩序を重んじないことです。
 自転車のベルには、たいてい、七つから二十一ぐらいの仕掛があります。ペルーつ鳴るのにもある一定の秩序があって響を出すのです。わたしは嘗である大学の心理学教室で、実験するために時計の機械を壌してみました。壊すことは容易でしたが、さで、一旦こわした二十一の部分品をもう一度、組み立てようとしても、なかたかできません。
 しかし、その次には、最初、七つの部分品から組立てられている時計を、充分注意してこわしてみて、それからそれを組立ててみると、こんどは二分間でスツカリ完全に仕上げることができました。その後でもう一度、二十一の部分品でできた精巧な時計の組立てをやつてみると、今度は五分間でできました。この一事は何を示すかというに、学習には一定の原理があるということです。即ち七つのものができるたら、次には、二十一のものが容易に組立てることができるのです。このように、やさしいものがつくれるなら、進んで、こんどは、むつかしいものでもできるというのが学習の原理です。
 人生において、もし、成功せんと思うたら、このことを先すわきまえなくてはなりません。すなわち、一足飛びにむつかしいことを試みないで、最初は容易な方をかたづける。即ち学習には順序があって、その順序を踏まぬと物事はできないのです。
 われわれは、何かのことに熟練しようと思えば、漸次に秩序を踏んで熟練の方へとのし上げで行く工夫を要するのです。

   人格の成長と刺戟

 そのために必要なのは、第一に刺戟です。これを週期的にもたなくてはなりません。雀がまだ生れで間もたい頃、二週間位、鶯のそばに置くと、鶯の真似をするようになります。しかし、その発声練習を一日ぐらい構わたいだろうと思って、棄てゝ置ぐと、もうだめです。
 われわれが人格を練磨する場合でもこれは同じことで、偉くなろうと思えば、必ず一定の刺戟を絶えず週期的に與えるようにエ夫せねばなりません。青年時代に、目的を確立せずして、二十日鼠のように、あちらを少し、こちらを少しという風に、噛じりちらしているなら、決して人格は完成しません。ある定ったものをグウツと、間断なしに乗せて行かぬ限り、成就は覚束ないのです。
 これは記憶作用でも同じことで、実験してみるとよくわかります。われわれが何かある事柄を記憶して、どれほど、覚えているか調べてみると、たいてい、最初の五分間に、約六分位は忘却するものです。しかしたびたび、繰返すならば、だんだんに忘れなくなります。だから、事物を習練するには、定まった生活をするととが必要です。七日目、七日目に、一年中、五十二回繰返して、宗教集会に欠かさす出るということも、前述した学習心理の原則にかなった所のもので、そういった週期的な宗教的刺戟がないたらば、人格が、ただれてしまう恐れがあるのです。

   新らしさと人格の成長
 
 秩序のあるところに自由があり、そして次第に三、四、五、六というようにその範囲が広くなつて行きます。これが成長です。
 代数なり英語なりが、今年は昨年に比して自由になりたということは、学習の結果、成長かあり、ある新らしい部分が加わったことを指すのです。伸び上った部分だけ、つまり新らしいのです。
 秩序のある新らしさ、より大いたる自由を持ち新らしさがそこに生じます。生長する人間は、常に新らしさを要求します。青年は急速に成長します。すべての過去を踏台にして伸び上るのです。
 新らしさとは、要するに人格の自由と秩序と成長との問題です。だから、本当の人格の外に、真に新らしいというものはないわけです。
 恋愛は人類の歴史とともにあったもので、その事自身は古いことですが、たぜ、これがあなたの経験としては、新らしい気持があるかといえば、それは、人間の大きな運動だからです。
 自由は冒険性に富みますが、秩序を失うと転覆する危険性をもちます。学問というものは、幾何にしろ、物理にしろ、必ず一定の法則に従っています。そして、メンデレーフの週期律の法則によって学習そのものも進んで行くのです。
 この変るものと、変らざるものとの二つの配合によって、進歩かあり、成長があります。古い歴史を秩序立っで研究すると共に、そこに何か新らしいものを発見して行くのです。

   優れたる人格を踏台として

 われわれが聖書を研究し、孔子、孟子を研究するのは、それを土台として、その人格の上に新たに何かを組立てて行くためでなくてはなりません。この外別に新らしいと呼ぶ道はないのです。かかる偉大たる聖人の道を外にして、新らしいといい、古いといっても、それは無意味なことです。
 われわれは、キリストという人格を踏台にして、伸び上ろうとするのです。
 人を愛し、宇宙の構造を研究し、発明をし、人を引き上げる――即ち、一つでも、二つでも、三つでも、これまであるものの上に、成長せしめて行く、そういった行動の外に、どこに新らしさがありましょう。人格の成長がありましょう。
 かっで猿類が泥酔したという事実がありますか? ゴリラが、アフリカの砂漠で酔っ払ったという新聞の報道がかつてあったでしょうか? 猿や、駝駱は酔っ払わず、彼等の間には梅毒はないというのに、人類のみ、アルコホルに中毒し、梅毒を受けて血を濁すというのであれば、どこに人間の進化があるのでしょう? われわれはかえって、アダム、エバより退化したといわなくてはならぬではありますまいか?
われわれは生命の道に自らの確立を計らなくてはなりません。
 リンコルンの道を棄てた米国は、古くなるばかりではありませんか?
 われわれも目醒めて、聖徳太子、弘法大師、の人格の上に、さらにある立派なものを加えて行くことを考えるのでなくてはなりません。
 日本の農民が二宮尊徳の美徳を全くかえりみす、たゞマルクス主義に走るならば悲しいことです。尊徳のもった謙譲の精神の如きは、優れたものです。
 日本の農民運動の精神も日本のもついいものの上に、更により善いものを加えて行くのでなくてはなりません。
 資本家は搾取のみを考へ労働者は少しでも多く取ることのみを計るというのでは、とうてい真の自由世界は来ません。憎悪のみ教えで、自由と秩序の原則を忘れては、日本の国の前途もみじめです。わたしは、新らしき時代をつくるものは、人格運動の外にないと考えて、、その方面に懸命になっているのです。     
 人格運動の外に経済学はありません。人格の平等を求め、人格の自由を求め、人格の尊厳を回復する以外に、社会主義の目的はありません。資本主義制度と称する唯物的社会制度から解放されたいというのが今日の嘆きではありませんか。
 真の革命運動とは、だから、人格運動の外にはないのです。
 人格を離れて、何がわれわれを昂奮せしむるか?
 母の愛、お互同士の奉仕、社会の愛――こういうものが、一歩一歩深まることを指して、箇性に、社会に「新らしみ」が加わるというのではありませんか。
 われわれを昂奮せしむるものは、人格です。芝居をみてなぜ感動するか? そこに演出せられた人格の断片に触れるからです。われわれは、革命主義の小説を読んでなぜ昂奮するのか、そこに人格の断片を見るからです。
 しかし、芝居や小説に見るところのものは、人格の断片であって、人格全部を握ることではないのです。

    社会運動の人格主義的動機

 人格主義とは、発明と発見とに飛躍することです。空腹である時には、飯を要求するでしょう。しかし、満腹の次にはどうするつもりでしょうか?
 社会主義の運動も、その究極は、人格の外の何ものでもないのです。人格が今日では機械の番人になっています。それで、もう一度、人格の自由を取り返そうというのが、園運動の最後の理想です。そのために、人格の成長を妨げるものを取り除こうとして、わたしたちは力をつくすのです。
 わたしは、日本の無産運動のよき生長を祈ってやみませんが、もし、無産運動というものが、人格主義的に行かぬなら、全く甲斐のないものになるでしょう。政治もそうで、政権の獲得に熱中するのみでは、真の政治は決してありえません。せめて、日本の政治界にも、ドイツに於けるくらいの人格運動が起ってほしいと思いまず。フィヒテが日本にも出なくてはなりません。しかし、わたしは絶望してはいません。
 ここ、百年も辛抱して、日本の人格の畑を耕すことに努力するなら、決して、絶望することはありません。わたしは百年を待とうと思うのです。
 ロマン・ローランは、近代の英雄は、実験室の中に居るといっています。われわれは、新らしき時代の人格としで、科学的知識の世界に、またキリスト愛の運動に、自由と秩序とを以で一層の突進を試みましよう。新時代の理想主義達成のためには、人格主義の外に向うべき路はたいのですから。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第129回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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            第129回



    『永遠の再生力―十字架宗教の絶対性』


      昭和26年9月15日 新約書房 182頁


 本書『永遠の再生力―十字架宗教の絶対性』は、米国ロサンゼルスのイエスの友会の25周年記念事業として出版されています。

 これには賀川の「序」もあり、武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』での「解説」もありますので、ここに収めて置きます。



     『永遠の再生力―十字架宗教の絶対性』

            序


 端折られた葦に、また若芽がふき出した。

 亡びた日本にまた再生の希望が持てることになった。しかし、この敗戦後の六年問は、あまりにも気狂はしい惨憺たるものであった。雨親殺しは培加し、パンパン・ガールぱ蝗の如く群をなして移動した。刑務所は収容力の三倍の犯罪者であふれ、日本全國が貧民窟になってしまった。中國が共産化し、北鮮と満洲が赤軍の占領地となったために、日本の海外貿易は萎縮し、糸へん、金へん、紙へんの悪性インフレは、悪質の恐慌に移行し、出版會社のつぶれるもの、織物問屋の倒産、鐡屋の破産、昨日の栄華は今日の嘆きと変らざるを得なかった。

 唯物脅迫主義は、全日本を蔽ひ、たとひ、講和條約が結ばれても、経済復興の前途が猶暗澹たるものがある。

 全能者の庇護がなければ日本の再生は不可能である。――それでゐて、私は、キリストにある大能者の再生力を信する以上、失望することができない。罪のいやますところにめぐみもいや増す。聖書の記録は恩寵の記録である。悔改めのあるところに必ず再生も保証せられる。

 この再生力を信じて日本は再び立ち上る。

 軒の燕は土をもて巣を作り、秋の初めに南に帰って行く。日本にまだ一握りの土が残り、一塊の小山さへ残って居れば、大能者は、日本の悲しき児らの為に、土もて巣を作り、やがてくる秋の日の巣立ちを待たせ給ふのである。

 國亡びて千九百年目に、イスラエルはパレスチナに婦り、イスラエル民族の独立の旗をあげた。それは、彼らに力があったのでは無い。全く聖書の約束により、全能者への信仰によったのである。

 二十六年前、私ぽ小アジアパレスチナの一角、エルサレムに残ったダビデの城壁の前に立った。散十のユダヤ娘か麻をかぶり、唇を石灰岩にすりつけて、
  「――シオンを再び興し給へ!
   ――この城壁をも一度造りなし給へ!」
と泣きながら、城壁に接吻の唾を以って洞窟をうがってゐた。彼らは千九百年間、この祈りをつゞけて遂にきかれた。 
                 ’
 日本にはこの祈りの悲願をきかなかった。しかし、大能者は再び、日本に独立を保証し、日の丸の國旗を竿の上に高く掲げることをゆるし給ふた。

 されば、大能者よ、日本の罪を赦して新しき國を造らせ給へ! 懺悔も足らず、愛も徹底しない、この高慢な日本を、も一度、みめぐみによりて囲み、みさかえの故に、歴史を貫く、至愛の世界の創設の為めに用ひさせ給へ!

 ひでりが少しつゞけば、天を呪ひ、五月雨が少し長びけば飢饉を憂ふるこの日本民族に、サハラの沙漠に逃れ出たイスラエル民族が、四十年間天よりのマナによって養われた摂理の歴史を教へ給へ!

 試練を受く可くして、あまりにもそのきたはるる日の短かりしこの六年間に、神の愛は未だ徹底せす、唯物意慾のみ國民を風靡したこの悲しみの日に、十字架の真理を心の奥ふかく刻むことを許し給へ!

 無防備、無武装――その新憲法にキリストの歌訓を、そのまま生かさんとする日本民族の理想を将来に、創造主よ、嘗て、あなたが、紅海に於てイスラエルに示し給ひし大能を現し給へ!

 カルバリの山の満月の日の悲しみを三日目に勝利の復活として、世界歴史を書き改め給ひし、再生の神よ、日本の再生を期として、世界歴史にも再生を約束し給へ!

   一九五一・八・十一

      日本再生の感謝の涙に沈みつつ
     
    賀 川  豊 彦
       
         信越高原にて


 附  記

 本書は日本敗戦後、各地で行った私の講演を同志か筆記してくれたのを編集したものである。
 また北米ロサンゼルスのイエスの友が四半世紀に渡る祈りと共に、日本再建の希望に燃え、祈りの中に二十五周年を迎えたその記念事業として、この書を出版し得ることを私は悦ぶものである。彼ら諸兄姉及び、北米全土に散在する日本人同胞の祈りの友に、此處に改めて心よりの感謝の辞を捧げるものである。






       武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』より

        『永遠の再生力』について


 『永遠の再生力』は昭和二十六年九月十五目、東京の新約書房から発行された。これは敗戦後、各地で行なった賀川の講演筆記である。北米ロスアソゼルスのイエスの友が、その結成二十五周年を記念して、その記念事業として出版したもので、巻末には、久保田憲三、藤坂君代、釜薗兵一、国分壬午郎、桝中幸一、境弘、坂田徳一、佐藤久子、末広栄司、恒吉国治、角替美之吉、谷口顕実、横川全助各氏の賀川への感謝と証言と日本再建への祈りの文が附されている。

 この書の内容は必ずしも系統的ではない。第一には、永遠の再生力としてのイエスの堕罪愛を説く。

 次いで『イエスの受難と堕罪愛』を語る。社会共同体の原理、キリストの使命、その人類を救おうとする至誠至愛、人間再生のため、最微者の高挙のための十字架の死、人間の罪を贖うための化身、永遠の贖罪愛のための復活等が語られる。更にイエスの受難の自覚、革命を避けて受難を選び、これを目的、理想となし、神の命令として受けたことか説かれる。

 『その骨くだかれず』の項においてはヘブル書の贖罪思想が説かれている。イスラエルの律法による犠牲の儀式は形式、型、表象であり、イエスの十字架の死はこの表象を完成したものである。ヨハネ伝においては『言は肉休となって我らのうちに宿り給へり』とあり、キリストの一粒の麦としての死は、永遠の生命を与える。キリストの愛に生きたものは死の恐怖をもたない。

 『十字架宗教の絶対性』においてはイエスの受難、十字架上の七言が語られ、『人間悪とその救済』の項では道徳的標準について論ぜられ、絶対的標準と人間的標準とが示される。天から与えられた生命から出発するものは前者である。生命を物と同一視する時は後者となる。罪悪は七つに分類される。第一は神との絶縁、第二は生命への尊敬の喪失、第三は人間に与えられた力の濫用、第四は変化性の乱用、第五は天の方へと成長せず、自分の貪りに耽けること、第六は選択性を失って迷いを起こし宇宙を混乱におとし入れること、第七は宇宙の法則に反し、宇宙目的を知らずに下向きの生活をすることである。これらはいずれも生命の力、成長、変化、選択、方法、目的の七つの要素に関連する。しかし神は常にこうした罪から人間を救おうとしているのである。

 「贖罪愛の哲学」の項においては、神学としての贖罪論を概説し、贖罪要素として、神とやわらぐこと、迷える者が神にかえること、救われて世嗣になること、弱い者が力づけられること、死者が復活させられることをあげる。

 贖罪は、神が痛める部分を回復し、全体を意識し自覚した部分としての個体を、傷ける個体に犠牲として与える、回復した個体が全体に和解するという過程を経てなされる。

 次いで本体論と宇宙論と贖罪論との関係が論ぜられ、更に目的論と贖罪愛とが語られ、贖罪愛の絶対性が主張される。そして贖罪愛を具現して、苦悩の底に陥った日本の民衆に救いの愛を実践したいという。

 『人生創造と文化創造』の項においては 『古きはすでに過ぎ去り、見よ、新しくなりたり』という聖句を主題にして、キリストによる人生再創造をするとともに、伝道だけでなく、学問に、政治に、経済にキリストの精神が浸透しなければ、日本は破滅するよりほかにないと主張する。

 『ギリシャ文明は何故キリスト愛に降伏したか』の項においては、ギリシャ文化の歴史を述べ、ギリシャの宗教を説き、ギリシャ人は良心なきギリシャ本来の宗教に満足せず、結局良心宗教であるキリスト教に帰依したのであると述べる。

 『キリストの奉仕精神』の項においては、キリストの宗教が祭祀宗教でなく、意識宗教であるため、神と一つになった時、はじめて発意的奉仕ができる、キリストの愛には救貧、防貧、福利の三つが入っており、奉仕の歓喜がある。キリスト自らの生活が生きた隣保館であったともいえると説く。

 『キリストと経済生活』の項においては、天国に積む宝が強調され、『宗教はキリスト、実践は共産党』(これは当時赤岩栄が信仰はキリスト、実践はマルクスといったことから来たものであろう)という考え方をまちがいであるとし、神は生命と労働と人格を地上において神の国出現のために資材として用い給うので、人間は神の使用人として神から委託されているものを喜んで増大し、これを倍加し増殖するよう計らねばならぬ、キリストは利益を神に返すよう示していられるから我々は発明発見をし、助け合いによって神に利益を返すことができると説く。

 『キリスト精神と教育革命』の項においては、マルクスとペスタロッチを比較して論じた後、学校教育の矛盾を突き、宗教家教育家たる者は七つの点において教育を実施すればよいと提唱する。それは生命尊重の教育、自然愛の教育、勤労愛の教育、博愛の教育、組織化の教育、敬虔の教育である。

 『キリスト精神による学問と勤労の調和』の項においては、友の会(クエーカー)、メノナイト、セブンスデー・アドヴェンチスト、ユナイテッド・ブラザレンの沿革とその信徒たちの生活と勤労と奉仕とを述べ、キリスト教による勤労教育を強調している。またム―ティー神学校その他三つの大学における勤労教育を紹介している。

 『キリスト精神と民主主義』の項においては、書経と易経とを論じた後、易とは変化の哲学であり、天に従って変って行くことを説いたものであるといい、イエスは易経の教訓を完全にそなえた方であると結論する。

 次いでイエスの生活を示し、下座奉仕の道、神第一の生活、自己否定、洗足の精神について語り、戦後の民主主義はこうした精神に基づかねばならぬと論ずる。

 最後の『神の国運動よりキリストの運動へ』は一九二八年から始められた神の国運動の実績を示し、一九三二年に至り、次いで日本の政情の変化により伝道が困難となり、二二六事件以後、次第に迫害が加わり、第二次大戦勃発するや、宣教師の引揚げ、教会の閉鎖、ホーリネス教会の牧師たちの逮捕が起こり、賀川白身も東京憲兵隊に拘束され、キリスト教の講演を禁ぜられてしまい、瀬戸内海豊島に隠棲したが、戦後となって一九四六年六月九日、青山学院に全国信徒大会が開かれキリスト運動が決議され、戦後の食糧、交通の困難の中を全国に伝道しまわり、一年十ヶ月の間に九百八十七回の集会をいとなみ、五十六万四千九百三十八名の聴衆を与えられ、一九四九年末までの間に二十万名の決心者を与えられたことを述べている。

 当時共産党の勢は盛んになりつつあったがその中で賀川の運動は力強く展開された。
 賀川はこの運動において、この際奮起して日本に十字架精神が徹底するよう努力すべきを説き、神の霊火が日本に燃え上がることを祈るのであった。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第128回)

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「邦楽演奏会・神戸相楽園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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             第128回



    『私の人生観』


      昭和26年5月30日 梧桐書院 178頁


 本書『私の人生観』は、既に取り出した『宗教読本』『生活としての宗教』を底本として一部削除と新たな追加をして梧桐書院より出版されました。

 本書も著者の賀川の序文は入らず、編者の鑓田研一の「編者の言葉」が巻末に収められています。それも「1951年5月」の日付のみ変更して『宗教読本』の文章と同じですが、ここでは「編者の言葉」を収めて置きます。



        『私の人生観』

         編者の言葉


 賀川豊彦氏は。宗教界の偉材である。
 賀川氏を印度のガンジーと比較するのは、外國から起つだ事で、どこの國でも、宗教的生活者の良心と情操は、國境と人脈の別を越えて伸び上る。フラソスあたりの片田舎でも、日本人を見かけると、カガワつてどんな人かね、と訊くさうである。ジイドが日本でもてはやされても、まだそれほど一般化してはゐない。

 ところで、賀川氏とガンジーとの比較だが、宗数的気魄に於いて、瞑想的気分に於いて、正義と愛への傾倒に於いて、両者の間には著しく共通点のあることが、アメリカ人やフランス人の闊達な心の窓にはそのままに映るらしい。だが、その体験する宗教の色彩又は味覚といふ点になると、近代人は賀川氏の方にずつと魅力を感ずるであらう。

 賀川氏の宗教経験とその文學的表現は、実に多彩である。それは第一に氏の豊富な知性から来てゐる。メレジコフスキイの『神々の復活』の中に描かれてゐるダ・ヴインチは、最後には知性の破産を嘆く段取りになつてゐるが、賀川氏にはそんな事がない。それでは知性が信仰に打ち克つてゐるかといふと、さうでもない。氏は信仰に最高の王座を呉へてゐる。あらゆる知識は、全力的に、しかもその有効性の限界を越えることなしに、いはば信仰に仕へてゐる。信仰が女王なら、知識はその美しい侍女たちだ。氏が星を覗く望遠鏡を据ゑつけ、結晶体の標本を誂へ、ランゲの『唯物論史』や、ラスキンの『ヴェニスの石』や、ジーンズの『科学の新背景』を側近の者に翻訳させる時、氏の頭の中にあるものは、また、信仰と知性との問に置かれた正しい秩序である。

 賀川氏の宗教を多彩ならしめる第二の要素は、氏が文学者であり、詩人であることである。氏の百冊に近い著書の序文は大部分散文詩であるが、そこには、宗教的気醜と芸術的感動、純真な霊性と官能的感情が縦横に交錯して、高らかな交響楽を奏してゐる。ああいふ文章の書ける者はこの國にもちよつとゐない。

「生命芸術としての宗教」
「神の潮が良心の岸辺に高く渦巻く」
「聖浄は私の空気である。神の御顔ぽ拝せずとも、神の蝕指の爪先は、いっも私の眼に映る」
 かういふ表現の出来る者は、賀川氏を措いて他にない。

『聖書』は、新約、旧約を併せて、霊性の泉、生命のパンの貯蔵所だが、それと同時に、氏はそこに偉大な文學を見る。氏の小説の題は屡々『聖書』から取られる。『一粒の麦』『幻の兵車』『石の叫ぷ日』『乳と蜜の流るる郷』などがそれだ。                           ‘
 賀川氏の宗教に光彩を添へるもう一つの要因は、氏の生涯と性格が驚くほど特異なところにある。
 氏は芸者の子であり、氏の実兄にあたる人は、十六歳の頃から妾狂ひをして家産を蕩尽した。
 好色と淫乱の巷から、巌かな神の聲に呼び出されて、聖浄の生活に人つたのが賀川氏なのである。
永遠への思慕は、氏にあっては絶対感をおびてゐる。氏が肺患にかかつて長い間生と死の境を彷徨したこと、いっそ死ぬなら貧民のために尽くして、と覚悟して神戸の貧民窟に身を投じたこと、等等が、氏の宗教をどんなに香気に富んだ芳醇なものにしてゐるか知れない。

 だが、もし氏の人柄が控へ目で、もの静かで、つつましい一方だったら、これほどの結果は予定されなかったであらう。賀川氏の父は、官界に腰を据ゑてゐれば大臣にもなれる人物だったが、役人なんかつまらぬと放言して、弗相場に手を出し、企業熱に身を焦がした。冒険的と投機的――それを賀川氏も自らの性格の中にそのまま受け継いでゐる。しかし氏はそれを惜しみなくそっくり宗教の方へ持って行って、神のためにすべてを賭っだ。それを思ふ度に、私は心の愉悦を禁じ得ない。

 賀川氏は非常に瞑想的な性質で、森の中、道のほとりで、夜露に濡れそぼちながら長い間析ることの出来る人だが、さういふところだけが氏の本領ではない。氏の宗教的情熱は、深く内部に凝ると同時に、外部に向って、驟雨のやうに放射される。沈潜的であると同時に高踏的、個人的であると同時に社会的――病躯を駆使しながら、さういふ進み方をしてゐるのが氏である。神聖な冒険、神聖な投機の好愛が、この傾向に拍車をかける。後から後から社会事業を繰り拡げて、貧乏と借金に追はれながらも、氏は平然としてゐる。氏は奇蹟に期待する。氏にあっては、冒瞼と奇蹟はいつも背中合わせをしているらしい。

 氏を売名家のやうに云ふ人があるが、実を伴わない名に、さう簡軍に買ひ手がつくものではない。世の中はもっとせち辛くなってゐる。それを颯爽と切り抜けてゆくには、どうしても賀川氏のやうな性格が必要なのだ。

 氏の性格に私は歴史的意義を見る。
それでは、賀川氏の宗教は何派に属するか?
 この疑問はちよっとややこしいやうに見えるが、事実はさうでない。『聖書』一冊が氏の宗教の典拠である。氏の愛好する「生命宗教」といふ言葉にしても、イエスが「我は生命なり」と言ったのをそのまま取ったのだ。キャベツのやうに、必要な衣は幾枚かつけてゐるが、それを剥いでしまへば、中には蕊があるだけだ。もれが『聖書』である。だから、賀川氏の宗教の本質はごくごく単純であり、単純であるだけに、清く且つ美しい。氏の宗教に普遍性があり大衆的背景があるのは、そのためだと私は思ってゐる。

 古今の思想家、宗教家の中で、賀川氏に影響を及ぼした人は多い。理想主義哲学の祖プラトンなどもその一人であろう。トルストイ、ラスキンの影響も濃厚であった。とりわけ、トルストイには全部的に打ち込んだ時期がある。しかし遂には、そのトルストイをさへ訂正し得るやうな高さに氏は達したのである。

  一九五一年五月
                     編     者

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第127回)

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「春の薔薇」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


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             第127回



     『少年平和読本』


      昭和26年1月1日 世界文学社 315頁


 本書『少年平和読本』は、村島と賀川が創立した平和学園(茅ヶ崎市)での賀川の講演や雑誌「世界国家」に連載されたものを村島が編集し、養徳社より出版されました。

 現在も賀川豊彦オフィシャルサイト http://k100.yorozubp.com/  において「世界国家」に連載されていた作品などを閲読可能です。また、本書のテキスト化されたものが、神戸の賀川記念館のHP、賀川ミュージアムの研究所「語り部の部屋」で閲読できます。

 ここでは賀川・村島連名の「あとがき」などを収めて置きます。


         『少年平和読本』

          あ と が き


 戦争が放棄され、軍備が全く撤廃されて、いささか不安をだいているやに見える、日本人、特にこれから成長して、新生日本、平和日本をせおって立つ少年少女の頭に、生存競争のみが、真の生命の進化を促すものではなく、むしろ反對に、武装を放棄したものが永く栄えて行くという事実を、動物の進化の歴史に徴して教える必要がある。

 こういう考えをもって、わたしたちは、自分たちの経営する神奈川県茅ヶ崎海岸の平和學園で、小、中學および高等學校生徒の前に、幾度かそうした生物界の真相を語り、また自分たちの國際平和協會から発行する雑誌「世界國家」に少年向読み物として他の平和問題に関する記述といっしょに二ヵ年にわたってこれを連載したのであった。

 近ごろ、平和問題に関する日本人の関心が漸く高まって、世界平和に関する多くの著作や記事が散見するようになったことは、よろこばしい傾向である。ところがその大部分、というよりは、その全部が成年向の「平和論」であって、一ばん、必要とされる少年少女向のものはI冊もない。

 小、中學校の「社會科」の単元を見ると、六學年には『世界中の人人が仲よくするには、わたしたちはどうすればよいか』があり、また九學年(中學三年)には『われわれは世界の他國民との正常関係を再建し、これを維持するために、どのような努力をしたらよいか』があり、そしてそれぞれ、ごれに伴う學習活動の例が当局によって指示されているが、生徒たちは(いいや、ある場合には教師諸君も)どういうものを參考に読めばいいのか、きっと迷うのではないかと思う。わたしたちは、いささか學校教育に関係する者として、この点に思いをいたし、右の生物講話を主体とし、これに平和問題や戦争の害悪に関するものをあわせて、一書にまとめ、愛ずる少年少女に贈ろうと思いついたのである。

 もしこの書物が、少年少女によって読まれ、平和日本の建設、無戦世界の実現のために、勇気と確信とをもって直進するそれらの諸君に、いくらかでも役立つことができるなら、わたしたちの望みは足るのである。

   昭和二十五年十一月              
      
      賀 川 豊 彦  村 島 帰 之

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第126回)

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「花壇の植え替え」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


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              第126回



    ルコント・デュ・ヌウイ著・賀川豊彦訳

    『人間の運命』


    昭和25年12月1日 世界文学社 315頁


 本書『人間の運命』は、ヌウイの市民向けの宇宙論で、賀川豊彦の訳とされていますが、した訳が誰なのかは記されていません。巻末に著者の略歴が記されていますが、この文章は賀川によるものかどうかも確かめることができませんので、ここでは、本書の巻頭に、著者の「序」が収められていますので、それを収めて置きます。



    ピエール・ルコント・デュ・ヌウイ著『人間の運命』

              序


 この本は平易を旨として書いた、そして専門語の使用は思想の正確さに影響を与えないかぎり、出来るだけ避けた。従って教養ある男女には容易に理解されると思う。

 ぞれにも拘らず本書は種々新しい思想、新しい解釈を提出すると共に、また思索に訴えるのであるから、読者諸君としては注意力を異常に集中する必要があるかも知れない。ゆっくりと読まねばならないかも知れず、或る部分は二度読まねばならないかと思う。ただし、知識人が理解し得ないようなことは何も書いてない、理解しようと心掛けさえすれば出来る程度である。
       ’
 食物は嚼み砕かなければ消化されないのと同じように、思想も反省し理解することなしには同化し難いものである。著者は明晰を期して最善を尽した。しかしある機械の使用法が如何にはっきりと書かれていても、それを通読しただけでは機械を使いこなせるものでぱない。それを実際手がけて見なければならぬ。私は諸君が親しみのない思想を批判し、分解し、また他の思想で置き換えることによって、その思想を手なづける努力を払われんことを切望するものである。

 今日の諸問題は非常に複雑になっているので、表面的な生噛じりの知識では教養ある素人に問題をすッかり把握させるには不充分であり、況んやこれを論議するなどは以てのほかである。この事実は故意に真理を曲げて、大衆を間違った方向に引きつける為に時おり悪用され来った。だが、もしも現在のキリスト教文明がなお持続すべきものならば、今や善意熱誠の士はこぞって立ち上り、自己の演じ得る役割を自覚し、生涯をかけてこれを果そうと決心すべき時代が来たのである。

 人はみな、未来に対しての責任を分担している。しかし、この責任を建設的努力にまで具体化しようとすれば、人は先ず自己の生命の意味を充分に理解し、何故に労苦し奮闘せねばならぬかをよくわきまえ、また人間の高貴なる運命に対する信仰を維持してゆかねばならぬ。

 本書の目的はこの信仰に科学的基礎を与えることによって、それを実質化することにある。読者諸君に課された努力があらゆる時代を通じての最大問題に対するより明かな展望によって報いられんことを著者は希望して已まない。

   ピエール・ルコント・デュ・ヌウイ

     一九四五年コロラド州ティー・ラ・ウケト農場にて
     一九四六年カリフォルニア州アルタデナ・ラ・キンタにて 

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第125回)

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「神戸六甲・森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


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            第125回



    『信仰・愛・希望』


      昭和25年8月15日 梧桐書院 323頁


 本書『信仰・愛・希望』は、既に取り上げた『人生読本』と同じ内容で一部を改めたものです。前回の『キリスト教入門』の仕上げに協力した鑓田研一氏の編纂した作品で、今手元にあるものは、昭和27年版のものですが、ここではその表紙と編者である鑓田氏の「はしがき」を取り出して置きます。




        『信仰・愛・希望』

         は し が き


 賀川氏は世界を照らす太陽か何ぞのやうに偉大な存在である。かういふ人は、一世紀に一人か二世紀に一人しかあらはれないだらうと思ふ。それほど、その生活ぶり、活動ぶり、人生の生き方、考へ方が特異性を持ってゐる。日本人の血統と日本の士壌の中から、かういふ特異な人がよくあらはれたことだと、不思議に感じられるくらゐである。

 傅道、貧民救済運動、労働運動、農民組合、消費組合、震災救護運動、医療組合、各種の社会事業、立体農業の実施、農民福音、看護婦や女子の指導、等々と、氏が過去四十十年に亙ってやって来た仕事は実に廣汎であったし、これからも氏は、あの病気がちな、しかも頑丈で実軟性に富んだ肉体が続く限り、精力的な活動を見せるであらう。

 氏の學問は驚くほど多方面に亙ってゐる。明治學院在學中は、一切教室には出ないで、図書室から、カントや、ショーぺンハウェルや、シュライェルマッヘルのものを引き出して、どんなに厖大なものでも、三四日で読破してしまひ、米国のプリンストン大學に入ってからは、神學や実験心理學や数學以外に、生物學、殊に比較解剖學、古生物學、遺傅発生學、胎生學を専攻した。氏が神戸神學校の寄宿舎で書いた、一九〇九年、氏が二十二歳の時の日記を見ると、巻末に、その年に読んだ書物の名が列記してある。その中には、ロッツェの形而上學、プルターク傅、独歩の『欺かざるの記』前後二巻、クレオパトラ傅、頼朝、菩提達磨、タロムエル傅、ヘロドトス、スピノザ、マルクスの『資本論』、クロポトキンの『パンの略取』、論語、禅學法話、菜根譚、二宮尊徳などがある。宗教、哲學、科學、経済學、社會學、歴史の諸部門の中で、氏が手を着けないものはほとんど無いと云っていい。最近は天体物理學、天文學の書を漁って、アマチュアの域を脱してゐるし、文學的素養だって、あれで氏は一人前以上のものを持ってゐるのである。氏の書いたものを理解するには、だから、本当を云へば、氏に劣らないくらゐの予備知識が必要である。だが幸ひ、氏は大衆の言葉を持ってゐる。氏の胸には大衆の血が流れてゐる。氏が言はうとする事、訴へようとする事は、犇々と誰の胸にも迫る。氏は永久に青年である。氏は永久に童心を失はない人である。それに、何より嬉しいのは、氏の言葉の一つ一つが、氏自身の生々しい体験から生れ出てゐることである。どんな言葉の切れ端にも、氏自身の心臓の鼓動が脈搏ってゐる。

 氏の著書は既に九十冊からある。その中から必要な部分を抜葦して本書を編んだのだが、この仕事は、氏の側近者の一人となって二十数年になる私にとってさへ、予想以上に困難であった。私は屡々自分の知識の浅いことを歎かざるを得たかった。従って、編輯を終え、校正の朱筆をおいた時にはほっとした。

 この書は、苦熱や貧困や病気で喘ぐ者に、魂の涼風を送るであらう。どのページを開いても、死線を越えて信仰と愛と希望に生きてゐる者の颯爽たる気魄と情熟が溢れてゐると私は信する。朝食前、又は夕食後に、一家団欒して、一人が朗読するのをみんなで聞くのも面白からう。そんな場合、朗読する方も、聞く方も、そっと顔を染めなければならたいやうな文句は、この書には絶無である。再読し三読して、この書で満足できなくなったら、直接に賀川氏の九十冊の著書を読破したまへ。

 賀川氏は生れながらの詩人である。第一詩集『涙の二等分』が、与謝野晶子女史の序文附きで上梓されたのは、一九一九年十一月のことである。私は思ひ出すが、その時氏は早速それを、当時私か席を置いてゐた大阪神學校の寄宿舎へ持って来て、あちらこちらを読んで聞かせてくれたものである。三十幾歳になっても、氏には青春のスリルがあった。氏にとっては記念すべき詩集であるから、この中からも私は数篇抜粋した。

 第二詩集は『永遠の乳房』(一九二九年一二月刊)で、これももちろん見落とすわけにゆかなかった。

 氏の出世作は自傅小説『死線を越えて』(一九二〇年十一月)である。あれが出た時、読書界に起こったセンセイションは非常なもので、おそらく五十萬部から買れたであらう。今年三十一二歳になる者が呱呱の聲を揚げた頃の事件である。それを思ふと、時が経つのが恐ろしいみたいだが、それから後も氏は十幾篇の長篇小説を書いた。とりわけ『一粒の麦』は『死線を越えで』についでの買れ行きを示した。そして二つとも、今では幾つかの外国語に翻訳されてゐる。

 この書を編むに当たって、私はしかし、小説からは一切抜粋しなかった。といふのは、賀川氏の小説は、一節、一章を抜粋して、その技巧や表現を味ふべき性質のものではなく、全体を読んで初めて意義を持つべき性質のものだからである。それほど氏の小説は全体性を持ち、その全体性は芳醇な人生的價値から成り立ってゐるのである。

 散文詩の方で氏が特異な技量を持ってゐることを知ってゐる者は、小説家としての氏、宗教家、社会運動家としての氏の存在が華やかなだけに、わりに少ないのではないかと思はれる。それで、この書には、氏の散文詩の中でも、最もすぐれた部分を取り入れた。『地殻と破って』(一九二〇年十二月刊)や、『星より星への通路』(一九二二年五月刊)や、『雷島の目醒むる前』(一九二三年三月刊)や、『地球を墳墓として』(一九二四年六月刊)からの抜粋がそれである。そこには神と共に歩む者の朗かな歓喜と魂の香気が漲ってゐる。

 珠玉のやうな短文に充ちてゐる『暗中隻語』(一九二六年十二月刊)は、この書を編むのに一番役立った。英語にも支那語にも訳されて、世界中の人々に熱読されてゐる『愛の科学』は、この書の至る所に、高らかな調べと音楽的なリズムを輿へてくれた。

 この『愛の科學』が上梓されたのは、一九二四年五月のことで、大阪毎日の村島帰之氏と私とが、本所のバラックで、震災救護運動で寸暇もない賀川氏の横顔を目のあたり見ながら、十幾日かかって編輯と校正をやったものである。さういふ思ひ出のある書物が今ここで再び使用されたことは、私にとっては二重の喜びである。

  一九五〇年七月
     
        編  者

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第124回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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             第124回



    『キリスト教入門―入門百科叢書』


      昭和25年6月20日 大泉書店 344頁


 本書『キリスト教入門』は、大泉書店の企画出版「入門百科叢書」の中の一冊に入れられたもので、鑓田研一氏の協力によって完成させています。

 第一部が19章、第二部が11章の構成ですが、大変読みやすい入門書となっています。鑓田氏はこれまでも賀川の著作を編集して数冊も重要な作品を完成させていますが、本書は賀川自ら執筆したものも多いと思われます。

 この作品は25年に刊行されて26年、27年と版を重ねて読み継がれていますが、賀川全集にはおさまりませんでした。現在賀川作品の復刊の企画もありますが、是非本書もその中に含めていただくことをお薦めしたいと思います。

 ここでは賀川の「はしがき」を収めて置きます。



       『キリスト教入門』

        は し が き


 この本はキリスト教の単なる解説書ではない。さういふ種類のものなら、幾つも出てゐる。

 私が、六十一年といふ長い生涯を通じて、世界に二つとない『聖書』をどのやうに読み、どのやうに味ひ、そしてイエスの精神をどのやうに体験したか――それをわかり易い言葉で書いたのが、この本である。だから、この本は自叙伝的な性質をもおびてゐる。

 私が少年時代をすごした阿波の吉野川の流域には、奮幕時代から白壁を誇る豪家が沢山あった。そしてそれらの豪家は、大抵家と家とが血縁で結ばれてゐた。私の父の家はその中の一軒であった。

 明治の中頃から、どういふわけか、吉野川の流域に淫蕩の気風が傅染病のやうに蔓延して行った。私の村でも、豪農の大きな倉が、私の見てゐるうちにいくつも倒れた。そして子供にまで道徳的頽廃の気分が乗り移った。

 私は十一歳の時から毎日禅寺へ通って『論語』や『孟子』の読み方を教はった。しかし自分が聖人になれさうな望みは少しも湧いて来なかった。私は暗い寂しい生活をつづけた。私がクリスチャンになるには余程の決心が必要であった。私の家は破産し、三十五銭の『聖書』を買ふのに幾日も躊躇しなければならなかった。それほど私は貧乏であった。私は教会へ行くことを許されなかった。親戚のすべては私がクリスチャンになることに反對した。

 しかし、たうとうただ一度の機會が来た。私は十五歳のとき徳島でアメリカの宣教師からパプテスマを受けた。私の胸は躍った。私は宣教師とその夫人の生活を通じてイエスを見た。そしてイエスが歩んだ道の正しさがよくわかって来た。

 私の一生を通じて最も涙ぐましい徳島の空と、その下で生活してゐるアメリカ人たちの精神が、私に愛を救へてくれた。愛する心は美しい。自然の中で愛するのは善い事である。若い時代に互に愛し合ふのは、最上の喜びである。

 私は、十五歳の時から六十一歳の今日まで、廣大な神の愛に抱擁されて、その恵みの一日一日を意味深く生きて来た。貧乏が貧乏でなくなり、寂しさが寂しさでなくなり、死にかかった時でも、憲兵に拘引された時でも、神の愛は私を別人になったほど強めてくれた。

 私は、イエスが千九百年前のユダヤ人であったことをいつも忘れてゐる。イエスは今も生きてゐる。私は、イエスによって無数の友人を得た。イエスによって妻をも得た。子供も、學問も、著書も――何もかもイエスが私に與へた。
 
 私はイエスのために何もした憶えがない。しかしイエスは私にすべてを輿へた。

 私がこの本の中に書いたのは、これらの体験である。私はそれを臆さすに書いた。

 わかり易い言葉で書いたのは、キリスト教にたいして漠然とした憧憬を抱いてゐて、まだ、どこの教會にも近づく決心のつかない人々に、ぜひ読んでもらひたいと考へたからである。もっとも、求道中の人々や、すでにバプテスマを受けて、クリスチヤンとしての生活をしてゐる人々が読んでくれても、失望させないつもりである。

 第二部の各章は少し程度が高くしてあるけれど、第一部を読んだ頭で読んでもらったら、容易に理解できると思ふ。

 この本に出てくる人名には、外國人であっても日本人であっても、すべて敬称を省いた。
 最後に言っておきたいのは、この本を書くにあたって友人の鑓田研一氏に協力してもらったことである。同氏0協力がなかったら、この本は書けたかったかもしれない。

  一九四九年十二月十八日
     
         賀  川  豊  彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第123回)

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「初夏の神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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             第123回



     『人格社会主義の本質』

      昭和24年12月20日 清流社 371頁


 本書『人格社会主義の本質』は、賀川にとって、戦後最初の、そして生涯最後の社会思想に関するまとまった論文集で、「人格社会主義の本質」「唯物共産主義哲学の批判」「人格社会主義の運営」の三編で構成されています。

 此処では賀川の「序」並びに武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」の一部を取り出して置きます。


        人格社会主義の本質

            序


 どん底生活四十二年年間の苦い経験が、私にこの書をかかせた。貧民窟を救ふために出発した私は、労働組合の組織に没頭し、農民組合運動に着手し、これに平行して勤労者間の協同組合運動の畝作りに、骨を折った。そのお蔭で、裁判所で有罪の判決を四回も受け、警察の監房に二回、未決監に二回、憲兵隊の独房に一回収容せられ、資本生義経済の法律が、どんな形で運営せられてゐるかを詳かに知ることができた。

 私は明治三十七年頃から社会主義文献に親しみ、「新紀元」の思想に共鴫し、木下尚江や徳冨蘆花の演説を楽しみに開きに行ったものでふる。若い時から、マルクスや、エンゲルスを読んでゐたが、彼らの無産者解放に賛成しながらも、彼らの唯物思想に常に反撥を感じてきた。それは、どん底生活の長き経験によって、道徳生活の欠除が、如何に多くの窮迫者を作るかをあまりに眼のあたりに見せつけられたからであった。その当時の研究は大正三年(一九一四年)拙者「貧民心理の研究」に採録しておいた。その後「主観経済の原理」を著作し、唯物史観、唯物弁証法を基礎とするマルキシズム反対の社会主義を主張してきた。

 敗戦後、日本人の性癖を多少とも知ってゐた私は、左翼への転移かあることを予期して、色々と研究を進めてゐたが、敗戦後のどさくさに稿を纏め得ないでゐた。然しいつまでも捨ててをくことが出来ないので、この形にしてみた。実は「経済心理学概論」と云ったものを先に出し、その後にこの書を出したいと思ってゐたが、材料の整理が充分つかないので、この書を先に出版することにした。

 私は飽迄「経済」を「人間」の為めの「人間能力」の経済と考へてゐる。白然資源と云ふものも、人間と人間能力の補強的役割しか持ってゐないと私は考へてゐる。この人間中心に考へることが、始めから唯物弁証法的に問題を進めるマルクス的立場と異なった方向を私に指ざした。

 勿論、私はこの書で、私の云ひたいことの凡てを書きつくしてゐない。然し、私が日本と世界に向って、かくあって欲しいと云ふことを卒直にのべねぱならぬ任務を果したと思ってゐる。

 生命と、労働と、人格を連帯意識的に組立てて行く運動を社会主義と考へてゐるので、人間能力が高度に進むと共に、社会化の必要が深く、広くなると思ってゐる。

 日本の如きドン底に落ちた国を救ひ、文明の危機に立ってゐる世界を建直す方策は、私が此書に記述した方法の外に、絶対に無いことを確信するものである。「人格社会主義」と云ふ言葉を西洋ではどんな人が使用していつか、私は知らない。私は、東洋に於ける敗戦国民として、社会科学に新しき分野を開拓して、少しも差支へはないと考へてゐる。社会科学が百年前と同し方程式で行く必要はないと考える。だが、多くの叱正を待って、初めて完成し得ると思ふからら、あらゆる方面の厳正なる批判を仰ぎたく思つてゐる。

  一九四九・八・三一  颱風来襲の夕

                      賀 川 豊 彦
                               東京・松沢





      武藤富男氏『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」の一部(232頁)

             『人格社会主義の本質』について


 本書は昭和二十目年十二月二十日、東京清流社から発行された。昭和二十四年は、敗戦の荒廃が底を突き、ようやく復興の兆が見え始めた年である。救国の情熱に燃える六十一才の予言者は『日本の如きドソ底に落ちた田を救い、文明の危機に立っている世界を建直す方策は私かこの書に記述した方法の外に、絶対にないことを確信するものである』との信念のもとにこの書をあらわした。

 これは三つの編から成っている。第一は本書の表題をなす『人格社会主義の本質』、第二は『唯物共産生義哲学の批判』、第三は「人格社会主義の運営」である。

 四六版三百七十一頁に及ぶ本書は賀川の大著の部に属するが、内容は新しいものではなく、従来の賀川哲学、賀川経済学を、人格主義という立場から編み直したものである。本書の持色は、むしろ唯物共産主義批判にある。それも決して新しいものではなく、貧民窟時代から賀川が折にふれて書き又は論じた共産主義批判をここでまとめたものである。但し『主観経済の原理』に現われた分析の鋭さと立論の精緻さは、この書では見出ししえない。前書においては、壮年学徒賀川はマルクスの学説を咀嚼し解明した後、唯心史観の立場から鋭くこれを批判しているが、本書においてはその鋭鋒が鈍っている。そこには生涯をかけて資本主義と闘い、唯物共産主義と戦い抜いた老学者の疲労の色がうかがわれる。

 賀川が本書の一篇を共産主義批判に向けたのは、本書著作当時の政治情勢に影響されたところがあると思われる。新憲法による第二回衆議院総選挙は昭和二十四年一月に行なわれ、日本共産党は衆議院において三四名、参議院において四名の議席を得た。この現象は人心に不安を与え、日本は共産党に支配されるのではないかという危惧をいだく者もあった。この情勢に対処して賀川に人格社会生義によって日本を救おうと志し、本書をあらわし、その百頁を共産主義批判に向けたのであろう。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第122回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第122回



     『嵐にたえて』


     昭和24年6月15日 ポプラ社 236頁


 本書『嵐にたえて』は、戦後ポプラ社が「少年少女小説」として火野葦平・北条誠・吉屋信子などの作品を出版していたなかに、かつて賀川が『南風に競う者』として書き上げた作品を改題して、それに加えられたものです。

 賀川は本書の巻頭に新しく「作者のことば」を添えています。



       『嵐にたえて』

        作者のことば


 雪を犯して寒紅梅が咲く。何という勇ましい姿であろう。梅が去って、梢の先に木蓮が開く。その大きな花辨は、青い大空に美しい模様を染め出し、明朗な春のおとずれを傅えてくれる。環境ばかり気にしているなら、花は盛夏に、すべて同時に咲くはずだ。だが山茶花は霜と争って咲き出で、桐は五月雨を無視して開花する。苦境を押して美しく吠きいでる、そこに花の使命がある。花は新しい時代を創り出す運命をになっているのだ。唯物主義の逆風に敢然として、反撃し、梢の木蓮として、寒風に反抗するところに、花の面目
があるのだ。

 花粉よ、花の花粉よ、風に散れよ。そうして新しい生命をつくり出せ。日本の若き魂たちよ、悲しむことはない、嵐にたえて美しく大きく咲き出でよ。

 附記 なお本書は出版書肆の希望により、『南風に競う者』を改題せるものである。

  一九四九・三・二三
       
        賀  川  豊  彦
   
             武蔵野の森にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第121回)

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「母の日」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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             第121回


    『歌集・銀色の泥濘』


     昭和24年5月1日 桜美林学園出版部 220頁


 本書『歌集・銀色の泥濘』は、作者の賀川がその「序」で「過去四十年間、私は泥濘の道を歩いて来た」という書き出しのある「歌集」です。「泥濘」は、本書216頁の「泥濘」のルビを「ぬかるみ」とされていますので、本書の署名はそのように読むのがよいかもしれません。

 岩波文庫のような体裁の仕上がりですが、賀川は「この歌集を関東平野の男女青年・特に南多摩桜美林学園に学ぶ農村出身の男女青年諸君い捧げる」と記しています。

 本書には賀川の写真もあります。ここでは賀川の「序」と共に武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の短い「解説」を掲載して置きます。


        歌集・銀色の泥濘

           序


 過去四十年間、私は泥濘の道を歩いて来た。然し、それはめぐみの光に守られた銀色の泥濘であった。泥濘の深みにふみ込んで、抜きさしのならぬ無駄な日を送ったことも多かった。然し、私はその泥濘の中に立ちすくみつつ大能者に感謝して来た。そして、日本は今、泥田の中に足をつき込み、ぬきさしならぬ状態になってゐる。だが、私を救ひ給ふた全能者が必ず日本を救ひ給ふことを堅く信じてゐる。

 この拙ない短歌は発表する為めに書かれたものでは無かった。この歌集は地方の同志に、何か書けと短冊をつきつけられ恥かしくも無く、即興的に書きなぐったものが大部分である。それを同志黒田四郎氏が、刻銘に一々、ノートせられて編集してくれたものである。黒田氏はまた、漏れてゐるものを、各方面にわざわざ問ひ合せて拾集してくれた。黒田四郎氏の親切と、努力が無ければ、この歌集は産れなかつたと思ふ。此処に改めて同氏に心より感謝する次第である。

 即興的に書いただけに、庭先で書いたもの出発の際の混乱中に書きなぐつたもの等が多く、推敲は全くしてない。だから、また、その日その目の『感情の日記』に成つてゐるかも知れぬ。私はその点から、この歌集に一種の執着を持つ。下手、上手が問題で無く、私が、全能者の手に守られて来た「歌日記」として新しい宗数的感謝の念に燃えさせられるからである。

 まだ各地で書き残したものも多くあると思ふ。然し、黒田四郎氏の親切に感謝しつつ、一とまづ、この形で発表することにする。

   一九四八・一二・二六 
     
        賀 川 豊 彦
   
             東京・松沢





      武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』346頁

            『銀色の泥濘』について


 この著は昭和二四年五月一日東京の桜美林学園出版部から出されたものであり、賀川が戦争直後から力を入れていた桜美林学園を助けようとの意図をもって清水安三氏に協力したものであろう。献呈の辞にはこう記してある――この詩集を関東平野の男女青年、特に南多摩桜美林学園に学ぶ農村出身の男女青年諸君に捧げる。
 
 『銀色の泥濘』は三十一文字の短歌集であり、『一枚の最後に残ったこの衣神のためには猶悦がんとぞ思ふ』の名歌を冒頭に『監房に一杯の水うくるとき人のなさけのありかたくもあるか』というような賀川ファンの吟誦に堪える歌が一千首収めてある。

 一九〇九年新川に入ってから四十年間に亙る作品が集められている故に、これは和歌による賀川の自叙伝と呼ばるべきである。三十一文字の歌人としては、賀川は自分白身の贖罪愛的生活を歌った作品においてもっともすぐれている。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第120回)

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「神戸六甲:森林植物園の長谷池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第120回



     『北斗星の招宴』

      昭和24年4月10日 若芽書店 179頁


 本書『北斗星の招宴』は、「戦争前後の散文詩を中心に関東大震災後」書き綴られたもので、賀川ならではの名品です。

 ここでは賀川の「序」と武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」も添えて置きます。



     『北斗星の招宴』

        序


 明星は、まだ消えない。空は紺色に、山は紫だ。河は銀色に、個体と、個体は紺碧につながれ、太陽は、まだ、昇らない。

 清朗の気は四界を包み、昨日の塵埃は、深く地上に沈み、倦み疲れた世界が元気を回復して、太陽と共に、目醒めるのを待つてゐる。

 鶏は、もう、さめた。然し、大衆は、まだ睡つてゐる。「私」だけは、黎明の近づく前に、目をさまし、永遠の朝を迎へる準備をしてゐる。雀も、鳩も、まだ、目醒めない。だが、神さまだけは、夜寝ずに、我らを、うち見守つてゐて下さる。

 東雲も、まだ瞬かない。アオロラも、ささないので、物質に影も無い。あま♭の空気の透明に、萬物が、みな透明に考へられる。静かに、静かに、「あした」が、私を迎へてくれる。いつまでも太陽が、出なければ、よいのにと思ふ。太陽が出ると、敗惨の醜さと、人間の醜悪が、まざまざと書き出されることに、私は恥しくなる。もう少し長く、かうした瞬間が続けば善いに――。晩秋の夜明け前、歌もなくひとり、天空を静視する。驚異の瞬間――太陽がなくとも、神に感謝出来る。いや、太陽を、もう少し長く、地平線の彼辺に、隠しておきたい。自然に溶けて行く私は、特の慈愛にも、溶けて解く。

過くる日、日本を荒した颱風も、今は去って、静かな、明星が、東に輝く。紫の雲は、地平線を飾り、闇黒の夜は逃げて行く。北斗星だけは、かすかに、私を相変らず見守ってゐる。北斗星よ、おまへだけは、昼になっても、同じ位置に坐ってゐるのだね。よく辛抱してゐるね。太陽が、出たり、はいったりしてゐる中に、おまへだけは静かに、地球を見守って怪我がないように気をつけてくれるのだね。私も人生の航路難に、おまへを見失はないようにしようね。太陽が出て、世間が、騒がしくなりおまへの姿が見えなくなっても、心の底に、おまへの位置を据えておかうよ――永遠にね。

 そして、日本も、おまへと縁を切らねようにしてくれると、よいね――永遠にね!

 附 記
 この書は大平洋戦争前後の散文詩を中心に関東大震災後、私が書き綴ったものを、ひとまとめにしたものである。まだ、この中に入れないものも数多くあるが、私自ら興奮を咸じるものだけにした。人に読んで貰ふ前に、自分が読みたい心持で、こんなに綴ってみた。

 これらの散文詩は、わざと書いたのでは無く、ひとりで湧いたように思ふ。自分の今尚生きてゐることが、不思議に思はれるままに、ただ、天父への感謝にひたりつつこの散文詩を編集した。

  一九四七・一一・一九
    
           賀  川  豊  彦





    武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』346頁

        『北斗星の招宴』について


 『北斗星の招宴』は、その序文にも示されている通り、太平洋戦争前後の散文詩を中心に関東大震災後書きつづったものをまとめた詩集であり、『わざと書いたのではなく、ひとりでに湧いた』詩歌である。しかしこれは詩というよりは随筆である。むしろ随筆と詩との中間に位する詩形であり、典型的な散文詩である。そしてこの詩形が賀川にはもっとも適していたと見え、賀川の胸中にはこうした詩が次から次へととめどなく湧き出たものらしい。『尽きざる油壷』にはこのような散文詩がおぴただしく収められている。

 そこには自然への讃美があり、神への感謝があり、苦難への礼讃があり、人間性への洞察があり、霊的瞑想と内省がある。こうした散文詩だけ集めて、これを類別大成するならば、賀川経典が成立する。散文詩こそは賀川その人であり、文学であり、生活であり、体験の記録であったといえよう。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第119回)

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「住宅花壇のジャスミン」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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              第119回


     『東洋思想の再吟味』


      昭和24年2月15日 一灯書房 234頁


 本書『東洋思想の再吟味』は、その多くが戦前に執筆されたものですが、標題のもとに「宗教的道徳心理よりの精神分析」という副題が付けられています。

 1947年11月22日付けの「序」がありますので、此処では賀川の「序」と武藤富男氏の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の「解説」の一部も取り出して置きます。



        東洋思想の再吟味

           序


 狼が犬となり、虎が描と化し、毛虫が蝶々になれるならば、戦争の好きな二足動物も天の使になれない事もあるまい。ましてや、はじめから神の胤をもつてゐたとするなら、その遺伝と成長は各種の屈曲をもつてゐるにしても、決して無視は出来ない。印度、支那、日本に数千年間生え茂った思想の森の中には、絶対至愛の接木するにふさわしい良樹もある。環境と時相の紛乱に災されて、少からず昏迷を続けてゐた霊の世界にも、深く味つて見ると、宇宙連帯責任の意識にまで伸び上がりたいと悶えてゐた美しい努力の跡もあつた。熱帯の印度に、熱帯の支那と日本に、戦争は幾千年か続き、霊魂の砂漠は自由を待つ事久しかった。東洋の聖典を読むと、人間文化が必ずしも自己の贖罪を完成しないといふ事をを強く教えられる。毛虫はひとりでに蝶々になったのではない。天の力がさうさせたのである。天を見失った日、尚天が人間の心に覗き込んでくれて、天の方に引上げんとする神聖の秘儀を示してくれる。それは決して人間の力ではない。それは勿論人間を無視するものではないが、人間を内側から高めてくれる超越的根本実在である。その至高者が宇宙全体に対する責任意識をもってくれる為に、我々の霊魂を内側から温め、我々、有限者に対して過去の悪を贖罪愛を以て修繕し、復活の希望に満してくれる歴史的表現をとる尊い意志の持主である事も信じ得る。東洋思想を通観するに、支那は天から出発したが、その天が贖罪愛をもってくれるものとしては体験されなかった。又印度に於いては、人間に内在ずる霊性を発見したリグウェダより出発したが、解脱の道を探し廻って、救ひの幻影を幽かに見ただけで、贖罪愛の生命に辿りつく事が出来なかった。敗戦の日本は新生の道を辿らねばならない。それは人よりの至高の愛に槌る他はないが、愛に溺れる事は出来ない。天上の愛に接がれんとするならば、古株の腐つた部分は捨てなければならない。そして天上の樹液が朽ちつつある古株に廻る為に適しいだけの粘液がゐる。この粘液は生命の原理そのものでなければならない。十字架の愛はこの生命の原理であり、日本贖罪の原理であるとも考えられる。キリストの意識した宇宙意識は贖罪愛の連帯意識を日本にまで拡張してくれる。

 神が日本にまで拡張してくれる贖罪愛の連帯意識は、その意識内容として新しく抱擁すべき、東洋精神によって培われ日本の精神的遺産が如阿なる遺伝囚子を持つてゐるかを、見極めておく必要がある。神によって浄められる為には悪質遺伝を去り、世界に残しておいてもよい日本の素質だけは更に伸ばして行かねばならない。東洋思想の再吟味はかうした贖罪愛の観点からなされる必要を感じた。

 私は道徳心理学を精神分析の立場より、三十数年間に至って研究して来た。そしてその間に読み散らした書物の多くの中から、ノートして来たもの、又話して来たものをここに綴って私の同志達に読んで貰ほうと思ってこの書を編輯した。

 この書を纏めるに当って私を援助してくれた多くの友人、同志達に感謝する。特に、筆記を担当してくれた神戸章子姉、岩浅農也氏に対してここに感謝の意を表する。

  1947年11月22日
    
         賀 川 豊 彦




       武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の解説

          『東洋思想の再吟味』について


 本書は敗戦の傷がまだ癒えやらぬ昭和二十四年二月十五目の発行で、発行所は東京の一燈書房である。序文の日付は一九四七年十一月となっているので、終戦後二年目に書かれたものである。昭和二十年八月十五目の降参は日本人の傲慢を打砕くとともに、その誇りをも奪ってしまった。マッカーサー治下においては、日本的なものが蔑視され、東洋的なものが侮られる傾向が生じた。この時に賀川が、贖罪愛の見地から東洋思想及び日本思想を再吟味したのが本書である。

 第一章の『易経に学ぶ』は、賀川としては、他において未だ語らなかったことで、読者にとってはフレッシュである。易は占いが目的でなく精神修養が目的であり、逆境に処する道、変化に処する道、貧乏に処する道など示されているという。

 第二章の『孔子の論語を読む』においては、貿川が九才の時から禅寺へ漢学の稽古にやられて、大学、中庸、孟子の素読をやり、反省ということが頭から消えなかったこと、孔子の論語は聖書とともに家庭に一冊備えておくべきことなど述べた後、孔子の略伝を語り、その謙遜を讃え、彼のすぐれているところは、内部生活における反省であったという。賀川は論語にいう『仁』とキリストの『贖罪愛』とを比較し、『天』の思想においてキリストの孔子とは互に接近する、我々はキリストによって天の父の完全を学び、天の神の贖罪愛を意識して孔子の『仁』の足らないところを補い、神による精神生活を完成するように常に反省を怠ってはならぬと勧める。

 第三章「老荘学派の精神」においては、支那の民衆が孔子よりも老子荘子についており、それが道教として宗教的の力を支那民衆の間にもっている、(日本では孔子の教えが基礎となり、これを釈迦がつちかった形になっている)その理由は老荘の思想には、孔子に見当たらぬ精神的、宗教的のものがあるからであるという。老子の思想は無限絶対者への信仰であり、荘子は造物主についての考え方をもっている、老子は無用の用、無欲の欲を説き、政治の根本を無事においており、また敵を愛する精神を説いて、悪に報いるに徳を以てすべきことを教え、この点でキリストに接近している、荘子は融通自在の心持を強調し、キリストが赤ん坊を尊敬したような心持がある、老荘の欠点は本能肯定に走ったことにあり、それが仙人道に移行し、神仏の霊術と化し堕落の道を辿った、それは罪に関する意識が稀薄であったからである、こうした東洋思想の足りないところをキリストの精神によって補って行くべきであると説く。
                                      (以下略)


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第118回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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            第118回



    『社会革命と精神革命』

     昭和23年12月31日 清流社 190頁


 本書『社会革命と精神革命』は、『書誌大系・賀川豊彦』によれば、昭和21年6月から始まった「新日本建設キリスト運動」での講演記録が多く、第1章の「社会革命と精神革命」は昭和21年9月の『民の声』(新日本)を改稿して収めたもののようです。

 ここでは賀川の「序」、そして武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の本書の「解説」も取り出して置きます。



     社会革命と精神革命

         序


 地震は破壊し、春風は蕾を温める。日本は、その二つを持つ。だが、私はその後者に、信頼をおく。

 日本の没落は一瞬に来たのではない。それは、川端の朽ちた柳が大風に倒れるやうに、倒るべき運命にあったのだ。軍閥は鉄砲虫として、柳の幹を喰ひ荒してゐた。

 私らは倒れた柳の跡に、幾千年経っても絶対に朽ちない、神柏を値ゑなければならない。

 日本は再生するために、倒れたのだ。日本は、倒れたことによって、一人前になるのだ。たよりにならぬ偶像と、地獄から吹く淫蕩を焼きつくすために、日本は火によって浄められねばならなかったのだ。イスラエルは幾度かの試錬にも、猶、霊性の復活を無視したために、永遠にさすらひの民族となってしまった。そして、日本がもし唯物主義といふ新しき偶像と、唯物弁証法といふ神否定の迷路に陥るなら、もう、日本は再び救ひ得ない太平洋の孤児となってしまふであらう。

 人口の多いことを誇ってはならない。浮游動物も、人口だけは多いのだ! 過去の栄華を誇ってはならない。地下の石炭も、繁栄してゐた時代があったのだ。誇るべきは、良心と霊性に於ける、発明と発見の力だ! それ無くして、日本の再建と勇躍は絶対にあり得
ない。

 砂地に芽生える小松よ、日本に、再生の工夫を教へてやれ! 萌芽さへあれば、小松も、いつの日にか大木になるのだ。焼払ふだけで、砂地に緑土は出来ないのだ!

 火山の斜面に延び上る熊笹よ、おまへの生活力の秘密を、日本に種明してやれ! 表面は、いくら刈取られても、地下、幾尺か下に深く茎根が――人の見えぬ霊の世界に――延びてゐる間は、絶対に、再生の可能はあるといふことを!

 桜花に酔うた日本は亡びた! 娘らよ、もう、桜音頭に合せて、踊ることをやめてくれ! おまへは、花は咲いても、果実を結ばぬ、桜花に迷うて、滅亡したのだ! 私は桜の代りに梅を植ゑ、桐の代りに、胡桃を植ゑよう。

 気狂はしきまでに、私は、爆撃の猛火の中で、祈ってきた。この浄火をくぐり抜けて、日本を再建しなければ、天父に申し訳が無い!

 雲雀よ、つぐみよ! おまへ達は、野火に、幾回、巣を焼かれても、次の年には、ちゃんと、また卵をかへすために、新しへ巣を造る工夫を、神から教へられてゐる。その秘密を、日本の若者に教へてくれ!

 鰯も、さんまも、幾千万匹、大謀網に引っかかっても、また次の年には、新しい元気な群として頭を揃へてゐる。その再生力を、日本に教へてやれ! 鰯よ! さんまよ!

 この国民は、たよりにもならぬ財宝に血迷ひ、敗戦と共に、集団強盗と化し、ガードの下のパンパン・ガールになってしまった。

 秋風にも悲しむことを知らぬ野菊よ、雪と結氷をも恐れぬ山茶花よ! 日本に、秋風にも、泣かず、厳冬にも、屈せぬ精気を、吹き込んでやれ!

 黒潮に踊るまっこう鯨よ、ちよっと待て! おまへは水面下四千尺の海底にもぐり、氷点下九十度に近い北極に、温き床を楽む工夫を日本に教へてやれ!

 絶対者は、豊かに雨を、日本に与へると、日本人は、それを洪水と云ひ、地殻の下に、利用さるべき火熱のあることを示し給へば、日本人は、それを噴火と、呼ぶ! 創造主よ、この小さな浮游動物をも、見捨て給はず、いつの日にか、これに、ぼうふらの秘密を教
へ、彼らに、空中に飛び上り得る翼を授け給ヘ!

 再生は、日本を待ってゐる。今は日本の繭造りの日だ! さらば、全能者よ、永き睡りの後、日本をも、呼びさますことを忘れ給ふな!

 あけの明星は東雲の上より、日本の眼醒めを待ってゐる! さらば、日本の若き魂よ、大能者の呼びさまし給ふままに、もう、眼をさましてもよいであらう。

   一九四七・一〇・一五 
         
武蔵野の一隅にて

    賀 川 豊 彦





      武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』より

         『社会革命と精神革命』


 『社会革命と精神革命』は昭和二十三年十二月三十一目、東京の清流社から出版された。この書店も出版業ブームの波に乗ってできた出版社であると推定され、原本はいわゆる仙花紙本であり、装訂もすこぶる粗末である。

 しかしその内容は昭和二十一年七月から始めた新日本建設キリスト運動の講演集であり、賀川の愛国心のほとばしりである。昭和二十三年はアメリカボ占領後三年目であり、敗戦の窮迫状態が底を突き、インフレと物資不足、食糧難、共産党の台頭、ゼネストの不安等が日本国民を脅かし、人々が将来への希望を失っていた時である。この時に当たり、日本社会の変革は、日本の心の内からなされなければならぬ、暴力による革命ではなく、精神革命により日本の再建をなさねばならぬことを説いたのが本書である。

 愛国者賀川は、日本人がキリストの贖いにより罪から救われ、道徳的にすぐれた民族となり、これにより経済的にも豊かな国民となることを戦前、戦中、戦後を通じ一貫して祈りつつあった。賀川のこの祈りは軍国主義者から誤解されたため、彼はしばしば迫害を受けた。軍国主義の敗退とともに、賀川の祈りはいっそう声高く唱えられた。本書は正にその祈りである。

 第一章は敗戦と食糧不足と堕治の貧困には革命がつきものであることを述べ、フランス、ロシヤ、ドイツ、オーストリヤ、イタリヤ、ルーマニヤ、ブルガリヤ等に起こった革命の例を引き、昭和二十二年二月一口に目本の労働者八百二十万人が起こそうとしたゼネストに言及し、革命の結果起こる社会的混乱と飢餓とを述べ、革命が無効力であり、唯物共産主義者によっては日本は救われないことを主張し、ウェスレーによるイギリスの精神革命が如何にイギリスを救ったかを述べ、協同組合による社会組織に希望をつなぎ、日本の新憲法の三つの特色-主権在民、永久平和、生活権の保障に言及し、日本は精神革命によって社会の変革をすべしと唱えている。

 この章の終りには当時の物理学の発達と新物理学による宇宙論及び物質観が唯物論を超克して、物質の先験的確率性、選択性、合目的性を示していることを説き、神は愛であることを附言し、更に日本の各地にあって窮乏のうちから多くの人々を救った人物の事蹟を述べている。

 第二章は再建日本の精神的基礎を発明発見と信仰とに見出だし、戦敗国興隆の跡を尋ね、アシジのフランシスを語り、ローマの衰亡を論じ、生物社会に道徳が存在することを説きラスキンの『ヴェニスの石』を引用して、時代精神が如何に建築に現われるかを述べた後、文化は生産の形式によって決定されるものではなく、時代精神が文化を作っていることを主張し、オーストリヤ、デンマーク、スエーデソ、フィンラソドの再建と復興を論じ、精密工業で国を興しているスイスを範とせよと提唱し、日本における多くの人々がキリスト愛の実践によって国を興そうとするならば『太陽いまだ地に落ちず』であると結ぶのである。

 第三章においては社会革命と新道徳とを論ずる。第一次大戦後のロシヤ革命の直後には性道徳の楽乱が起こったが、今日では再び子が父と呼び母とよぶ道徳に帰った。生物界にも母性愛が存在する。天地には悪を救おうとする意識がある。これがキリストとなって現われた。本能による生活は無意識的、道徳的生活は半意識的、悪人をも救い、罪ある者を救わんとするのは全意識的である、我々は全意識にめざめ十字架意識をもち、道徳的基礎を確立せねばならないという。

 第四章乃至第七章は宗教講演である。自然の秩序、目的性、生命の神秘を通して神を見る、宇宙は神の衣裳である等の論述があり、昭和二十二年当時における自然科学の新知識を加えつつ語る。『歴史を通して神を見る』においては歴史を神の恩寵史と見て、世界歴史とイスラエルの歴史とを概説し、キリストの出現について語り、日本人が敗戦の苦杯を通して新生に至るべきを説く。

 第八章は『日本再建と社会事業の重要性』について語る。災害救済事業、救貧事業、協同組合の使命等につき年来の所見を開陳し、経済民主主義の実践を提唱している。

 経済民主主義とは、生産消費、信用、販売、購買、利用、救済等すべてを協同組合でやることであり、たとえば生命保険を協同組合の信用組合で経営し、その保険金で諸工場をやり、その諸工場も協同組合でやるというようなことである。ここでもマルクス主義を批判し、マルクスの資本論は『資本主義の病理学』としては実に正しいが、社会治療学としては誤っていると述べている。

 第九章は『女性解放の根本精神』について語る。新憲法により法的に解放された女性は母として『尊厳の地位』を保ち、夫に対しては争うことをやめて夫の欠点を辛棒して導く態度をとるべきである、悪質遺伝もないのに産児制限はしないほうがよい、台所から解放される工夫をなし、健全な美を創り出し、内側の霊性美、すなわち善をきずき上げ、聖なる気持をもつようにすべきであると説く。

 第十章は『民主革命における労働組合の使命』を語る。敗戦以来、日本の労働組合はちょっと変調を来したようであるが、一時的な病的な現象であるから間もなく粛正されると信ずると述べ、民主主義時代における労働の尊厳、奉仕性、労働組合の互助性、労働組合による世界平和への貢献、労働意欲の精神性の五点について述べている。

 この章の最後の句は印象的である。『私も半生を顧みて労働運動のために戦って来たことを自ら誇っている。四回も牢屋に投ぜられ、四回も罰金刑に処せられたことも私は今も誇りに思っている……私はどうしても理想の世界は労働者が労働の尊厳を自覚し、奉仕性を知り、互助性を活用して世界平和建設のため労働意欲を燃えあがらせるのでなければ実現できないと思ったので、戦いつづけて苦心してきた。そして今やその時が来た……労働組合の人々も唯物的な理論に走り、無神論的観念に捉わるることをやめて、理想の追求に努力を集中したいものである……黎明を呼び醒ます者こそ真に崇敬すべき人類の解放者である。」

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第117回)

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   賀川豊彦の著作―序文など

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              第117回


    『人生ノート』

     
     昭和23年6月20日 神田出版 162頁


 本書『人生ノート』は、大正時代を含む戦前の作品を集めて神田出版より刊行されています。ところが、なぜか神田出版では60円の定価だったものが、4ヶ月後(堂年10月)に梧桐書院より頁は162頁のまま装幀を代えて140円に改めた同じ内容のものが出版されています。

 手元にあるものは、梧桐書院の昭和27年7月のものですが、内容は同じものです。本書を編纂した人は、恐らく鑓田研一氏ではないかと推測していますが、本書には賀川の「序」は入っていません。

 ここでは第1章の書き出しの箇所のみ取り出して置きます。内容的にはもちろん、14章構成どれも、読ませる内容になっています。



         『人生ノート』

          人生の目的

         何のため生れて来たか


 人間が生きてゐるのは何のためでせうか。

 花火のやうに筒口から吐き出されて、ぽっと花を咲かせたかと思ふと、わづか五十年そこそこで音もなく消えてしまふのでは、折角この世に生れて来た甲斐がないのではありませんか。或人はあまりにも生活が苦しいので自暴自棄となり、人生の目的がわからないといって、虚無的となり、人生盲目論を唱へます。また或人は境遇の圧迫におぢけて宿命論に傾き、人生機械綸を唱へて、人生に何の望みもないといひます。人生け果してこれ等の運命論者や虚無主義者のいふやうな盲目的な、機械的な、望みのないものでせうか。私はそうは思ひません。人生には目的かあり、もちろん十分、望みがあるのです。

 人生盲目論は極端になると、所謂ダダイズムの傾向を帯びて来て、道徳を拒否し、人生を根本的に否定し、また善悪を顛倒してありとあらゆる罪悪をよしとさへ見るやうになり、さらに、無政府主義を唱えるなど、さまざまの気違ひじみた思想傾向に進むものなのです。

 また宿命論者は古い時代の暖かい農村の生活、太陽の光線、空気、小鳥、森のささやき、さうしたものが失れて、密閉された地下室や工場の中で長時間の労働時間を強ひられ、その鬱憤を晴らしたいといつた気持から、暴力的革命主義にまで進んで行く傾向かあるのです。そして彼等は人生を一つの運命の廻転にすぎないと見、或は目的の全くわからないのだと考へて、だから人生は盲目滅法に生きてゐればいいんだ、努力なんかする要はないと断定するのです。果して人生はそんなものでせうか。
      

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第116回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


  賀川豊彦の著作―序文など
     
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            第116回


   『自然美と土の宗教』


     昭和23年8月26日 新光社 114頁


 本書『自然美と土の宗教』は、戦中を含む戦前に書かれた随筆集です。編集に当たった人のことは記されていませんが、賀川自ら編集してなったものかもしれません。

 ここでは賀川の1948年7月13日付けの「序」と、これは賀川全集に収められているので、武藤富男氏の「解説」も収めて置きます。



     『自然美と土の宗教』

         序


 どんなに自然が怒っても、私が自然の子である事は間違ひない。地震も揺れよう、颱風も日本を苦しめるであらう。しかし、私はそのすべてを通して、神の摂理を悟る。自然に偽りはない。自然の怒りはすぐ解ける。我々が罪を犯さなければ、自然を通して神の暖い手は我々の心の傷を癒して余がある。

 私は幼い頃、農家に育ち、貧民窟の仕事をしてゐる間も、貧しい子供たちを自然に帰してやりたいといふ事ばかりを考へて来た。土と自由に憧れて、農民運動を始めたけれども、日本の農民運動が唯物主義と無神論に傾く悲しさをしみじみ味っだ。この書は土の本然に帰る私の宗教的情熱を綴ったものである。貧しきものに奉仕する者ほど、自然の恩恵を受ける。

 アシジのフランシスは小島と狼の友だちであった。都會の雑音が我々を苦しめるほど、私たちは自然を通して、神の懐に復帰したい。「土を耕して、自然の美しさを知らだい農民がゐる」と、クロポトキンがこぼしてゐるが、日本の農民が物欲の迷ひより覚めて、自然と神と隣人への愛に早く復帰してくれる事を私は祈るものである。叉都會の人々も自然と良心に復帰しなければ、神を発見する事は困難である。かうした心持でこの小さい書を日本再建の同志に贈る。
                                    
    一九四八年七月十三日

          賀  川  豊  彦
   




  武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』の解説より

        『自然美と土の宗教』について


 『自然美と土の宗教』は昭和二十三年八月二十六日東京の新光社から発行された。これは賀川の随筆集であり、自然への讃歌であり、土の宗教詩であり、自然美論である。ここには自然と産業との調和が論ぜられ、自然美と農村との関連が取りあげられ、土の心、草木の心が探究され、茶道の奥義が語られ、土質が食物の味覚に及ぼす影響が論ぜられ、小鳥のさえずりが聞かれ、美の祭壇に、肉体を油壷とし霊魂を油として、天よりの火を点ずることがすすめられる。

 第十四章と第十五章は、昭和十五年十月巣鴨の刑務所を出て瀬戸内海豊島に潜んで自然を相手として農耕に従っていた時の記録で、自叙伝の一齣をなす貴重な文献である。豊島における生活がくわしく語られ瀬戸内海の風物が美しくえがかれており、失意のうちにある賀川の姿が読む者をほほえましめるものかある。それは賀川がこの隠棲を享楽していたことを示す。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第115回)

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「ベランダのクンシラン」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


  賀川豊彦の著作―序文など

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            第115回



     『新協同組合要論』


      昭和22年11月25日 日本協同組合同盟 132頁


 本書『新協同組合要論』は、戦後昭和21年6月に出版した『協同組合の理論と実際』(ラッキー文庫)につぐ賀川の重要な協同組合論です。後に昭和43年10月に、明治学院生活協同組合より、賀川の論攷「家庭と消費組合」を併せて『賀川豊彦協同組合論集』として刊行されました。それには、畑井義隆・金井信一郎の一文と市瀬幸平の「賀川豊彦の協同組合論」という解説が収められています。



         『新協同組合要論』

             序


 人間だけが協同社会を組織するのではない。鳥も、獣も、昆虫も、その本能に応じて協同社会を組織する。干鳥はシべリアを出発して赤道を南に越え、オーストラリアの南端、タスマニアのバス海峡で産卵する。彼等が組織する集団は、おどろくべき市街地の形を備え、街路をつくり、区画をとり、丸石を置き、一つの画に夫婦が一番づつはいって、おどろくべき社会組織を形成する。そこには暴力もなければ、武力も無用である。幾十万年間、彼等はその本能を変えない。シベリアを立つ時には、雄と雌とが別々の集団をなして南に飛ぶが、赤道を越えても決して乱婚はなく、そこには道義と秩序が人間の想像以上に完全に守られている。

 私は千鳥のことを思うと、人間であることを恥しく思う。「空の鳥を見よ」とキリストは烏を指さしたが、私は小鳥から学ぶことが多い。干鳥には、敗戦もなければ革命もない。幾十万年間、赤道を北に南に人類の興亡を下にみて悠々と転地する。もし、干鳥類があのうるはしい道義世界をつくり得るとすれば、人類に協同組合社会をつくり得ないという理由がない。人類は、いまや進化の過程にある。おそらく、近いうちに干鳥のごとく高度に進んだ協同組合社会を創造し得るだろう。私はその日のために、あらゆる努力を惜しまない。三十年近く、私は目本の協同組合運動のためにたたかって来た。左翼からも右翼からも烈しい圧迫を受け、愚者のごとく組合運動のために努力してきた。そして、私はアメリカ政府の要求に応じて、一九三六年には、アメリカ合衆国四十七州協同組合運動の組織をお手伝いした。終戦後、日本を再建する唯一の道が協同組合運動にあることを信じて、同志とともに力闘した。

 この書は、古くから私か抱いている協同組合思想を要約したものである。友人、斎藤潔、黒田四郎、岩浅農也、神戸章子の諸氏が私の講演を筆記し、さらにこれを編集してくれたものである。

 「米国華府消費組合条例」は、米国でも標準的な消費組合法として広く知られているものなので、日本協同組合同盟中央委員竹内愛二氏の訳出されたものを、特に巻末に付録として掲げたものである。
 ここに改めて諸氏に感謝する。

  一九四七年大月九日
       
         賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第114回)

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「須磨離宮公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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             第114回



     『新協同組合要論』


      昭和22年11月25日 日本協同組合同盟 132頁


 本書『新協同組合要論』は、戦後昭和21年6月に出版した『協同組合の理論と実際』(ラッキー文庫)につぐ賀川の重要な協同組合論です。後に昭和43年10月に、明治学院生活協同組合より、賀川の論攷「家庭と消費組合」を併せて『賀川豊彦協同組合論集』として刊行されました。それには、畑井義隆・金井信一郎の一文と市瀬幸平の「賀川豊彦の協同組合論」という解説が収められています。



         『新協同組合要論』

             序


 人間だけが協同社会を組織するのではない。鳥も、獣も、昆虫も、その本能に応じて協同社会を組織する。干鳥はシべリアを出発して赤道を南に越え、オーストラリアの南端、タスマニアのバス海峡で産卵する。彼等が組織する集団は、おどろくべき市街地の形を備え、街路をつくり、区画をとり、丸石を置き、一つの画に夫婦が一番づつはいって、おどろくべき社会組織を形成する。そこには暴力もなければ、武力も無用である。幾十万年間、彼等はその本能を変えない。シベリアを立つ時には、雄と雌とが別々の集団をなして南に飛ぶが、赤道を越えても決して乱婚はなく、そこには道義と秩序が人間の想像以上に完全に守られている。

 私は千鳥のことを思うと、人間であることを恥しく思う。「空の鳥を見よ」とキリストは烏を指さしたが、私は小鳥から学ぶことが多い。干鳥には、敗戦もなければ革命もない。幾十万年間、赤道を北に南に人類の興亡を下にみて悠々と転地する。もし、干鳥類があのうるはしい道義世界をつくり得るとすれば、人類に協同組合社会をつくり得ないという理由がない。人類は、いまや進化の過程にある。おそらく、近いうちに干鳥のごとく高度に進んだ協同組合社会を創造し得るだろう。私はその日のために、あらゆる努力を惜しまない。三十年近く、私は目本の協同組合運動のためにたたかって来た。左翼からも右翼からも烈しい圧迫を受け、愚者のごとく組合運動のために努力してきた。そして、私はアメリカ政府の要求に応じて、一九三六年には、アメリカ合衆国四十七州協同組合運動の組織をお手伝いした。終戦後、日本を再建する唯一の道が協同組合運動にあることを信じて、同志とともに力闘した。

 この書は、古くから私か抱いている協同組合思想を要約したものである。友人、斎藤潔、黒田四郎、岩浅農也、神戸章子の諸氏が私の講演を筆記し、さらにこれを編集してくれたものである。

 「米国華府消費組合条例」は、米国でも標準的な消費組合法として広く知られているものなので、日本協同組合同盟中央委員竹内愛二氏の訳出されたものを、特に巻末に付録として掲げたものである。
 ここに改めて諸氏に感謝する。

  一九四七年大月九日
       
         賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第113回)

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  賀川豊彦の著作―序文など

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            第113回



     『生命の宗教と死の芸術』


      昭和22年9月5日 福音書房 36頁


 本書『生命の宗教と死の芸術』は、上巻として昭和22年6月23日に、下巻として同年8月5日に、福音書房より出版されたものを、合冊して仕上げたものです。

 いずれも戦前の「火の柱」に掲載されたものですが、賀川の「序」は、「1947・4・30」の日付のあるものです。



        『生命の宗教と死の芸術』

             序


 人生には二つの極がある。始めについているのは生であり、終わりについているのは死である。東洋の宗教は死を起点として始まり、西洋の宗教は、生をもって始まった。一を零にまで分割すると、その距離は無限である。この無限の縮小のうちに、消極的な無限性を見たのが印度思想である。西洋はそれと反対に

 「生」の上に発展する創造的無限の生命を宗教の内容とした。
 我々日本人は、進行する「無」は意識の上に浮かぶ「無」限の「無」であって、限りを「無」にした「無」であることにも注意する必要がある。かく見れば、印度思想の「無」の引き算に於いて、加え算の西洋思想と一致点を発見する。然しその一致点は二つの軸の合致する意識の世界であり、心の焦点である。

 刻々に死ぬものにとっては、刻々に創造主の霊力にふれることが出来る。大空襲に遇って死んでいた筈の私が、今尚生きているのだから、死んだと思って居れば不平も何もないはずだ。名誉も地位も財産も死んでしまった自分にも必要はない。不滅の財産は智慧であり、善であり、聖である。私はその不滅のものを探して、他の一切のものを捨てる。

 生命の世界に於いては、死もまた芸術として完全に利用せられている。そこに死を通しての生物の進歩があり、発展がある。母親は、子供のために死んでいく。そして全能力は彼の愛を死をとおしてすら表白する。歴史が愛の発展史だとすれば、愛が死をすら吸収して人類の罪悪を自己の死によって一身に引き受け、自己の死によりて神への謝罪が完成出来ると信じ得る位まで心の領域が広くなれば、神も人類の失敗を許してくれるであろう。世界の精神史に於けるキリストの愛はこの結節に当たる。イエス・キリストの死は完全なる死の芸術であり、生命の宗教であった。自己に死んで、神に生きその生命芸術に於いて、我々は神の生活と同化することが出来る。

 ここに大自然は心の芸術と変化し、自然を神と人との両面から互いにのぞき込むことが出来る。神から見た自然は人間への発言(ロゴス)であり、人間よりの自然は神が彼に着せてくれた最も美しい衣である。小さき自己に死んで、大きな神に生きることは人間の特権であり、歓喜の泉でもある。自己に死んだ日、黒土も若芽も小溝のめだかもみんな私の新しい衣として神への讃歌と変化する。自然は新しき神殿の新しきとばりである。厳粛な思いをもって私は自己を葬り去り、古い私の様をぶちこわして、絶対者の呼びたまうままに永遠不滅の生命の世界に曙の明星を仰ごう。

   1947・4・30
     
          賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第112回)

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    『戯曲・キリスト』
     
      原作・賀川豊彦、脚色・山路英世

      昭和22年8月20日 新日本 335頁


 本書『戯曲・キリスト』は、原作者である賀川の作品を山路英世が戯曲化して仕上げた作品です。本書の冒頭に「キリストと『涙』と私の問答」という、面白い賀川の文章が収められています。

 ここでは、この「問答」を収めて置きます。



    『戯曲 キリスト』


    キリストと「涙」と私の問答


私「盲目の日本の盲目の指導者、私は監房に閉ぢ込められて、日本の落ちて行く将来が心配になる。」
私がそう云つて、独言を云つてゐると、目頭の涙が小さい聲でささやいた。  

涙「実際、日本はだめですよ。すべてに行きつまつてゐる日本に希望なんて持てるもんですか。今に見てゐてごらんなさい。日本全体が涙の洪水にしたる時がありますから。」    

 涙が恐ろしい預言をするので、私は身ぶるいした。私は二昼夜、東京渋谷憲兵隊の独房に端座したまま、横にならず黙祷をつづけてゐた。するとキリストが、魂の内側から姿を現わして、私の肉体を占領し、肉体の内側から、皮ばかりになつてゐる、私と涙に呼びかけた。

キリスト「私はあなたの霊の内側に住んでゐるキリストです。あなたは救いを外側に求めてはなりません。あなたが尋ねない先に私はあなたを尋ね、あなたが愛さないうちに私はあなたを愛してゐいます。私はあなたを誤解のうちに守り、ゴロツキの襲撃に對しても、常に保護し、悪漢のピストル、貧民窟のだらく、無智な軍閥から守つて来て上げたキリストです。あなたは外側の奇跡を信じてはなりません。私は永遠のキリストです。病をいやし、罪人をなぐさめ、亡びた国を興し、背ける放蕩息子を母のもとにかえす愛の力そのものです。」

そ心澄み切つた聲に、私は股の間に突っ込んでいた首をちぢめ、一九〇〇年前、十字架の上に死んだキリストが永遠に人類の悩みを負う強き霊力であることを発見した。御光は私のうちに住むキリストよりさし出て、抜けがらのやうになった私の皮を貫いて、憲兵隊の独房を照らした。それは私にとっては生死を超越した絶対なる信仰である。神の救いの力を経験した、有難い瞬間であった。

 内側に住んでゐてくれるキリストは、真昼でも真夜中でも私の行くところは何處にでも附いて行つてくれる。それで私は如何なる因難にも、如何なる脅迫にも大胆不敵なる行動を取ることに決定した。キリストが内側に住んざゐるのだ。そう思う瞬間、歴史上のキリストは現実のキリストである。晴れに、くもりに、時雨に、暴風雨に私は少しも恐れる必要がない。一九四五年三月九日以後、東京は火の海と化した。その火の海の叫にも私は内側に住み給うキリストを信頼して疎開することを肯じなかつた。私は火の海の中に取り残された最後の悩める者の中に、十字架の愛をたてねばならぬと決心した。

 火の雨が天から降って来た。私の隣保館も皆燃えてしまった。私の軒先きにも数十尺の火柱が立った。私は火の雨をさけるために逃げ廻った。然し私は太陽が出ると、また悩めるものを尋ねて徒歩で数里道を往復した。栄養失調はつづいた。体重の四分の一を失った。然し私は内側に住み給うキリストを信頼して、少しも不安は持たなかった。

 キリストと共に十字架に死ぬのだ。そしてキリストとともに墓から甦るのだ! そんなことを云いつつ、杖にすがりつつもキリストと歩む道をふむことを決心して悩める者を探して歩いた。

 一九四五年八月十五日、日本は完全に敗退した。終戦後、私は暗殺をずるものがあると云うので、私が栃木県の森の中にかぐれた瞬間にも、又キリストは附いて来てくれた。キリストはいつも魂の内側から呼びかけてゐてくれる。キリストの眼は私の眼の内側から見、キりストのロは私のロの内側から、そしてキリストの耳は私の耳が内側から聞いてゐてくれる。キリストは内側に住んでゐてくれる。そして私に限らず、愛に飢えてゐる者に取っては、キリストは必ず、内側から魂の扉を開いて入っていてくれる。ただ魂の扉を開かぬものに取っては、いくら入りたくても、キリストは入って来られない。

 暴風に、疾風に、滅亡に、インフレーションに、人生の波頭がどんなに高くてもキリストは私の魂の内側から必ず守ってゐてくれる。そしてキリストはまた、凡ての日本人を祝せんが為に今日も涙を流して我等の為に祈ってゐてくれる。

 このキリストを紹介する為に私はキリストを小説体に書いて見た。その為、私は二度まで、パレスタインを訪問した。又、フイニキアにも、スリアにも、デカボリスにも行ってみた。そしてキリストが旅行せられたコースを、ずっと廻って来た。その「キリスト」を山路英世君が戯曲化してくれたものが、この一篇である。本当は私自身が戯曲化して、イースタ―やクリスマスの度毎に、日本の民衆に見て貰おうと思ったが、忙しくて書き下せなかったために、山路英世君がものしてくれたのであった。ロマのセントピータ―聖堂は、中世紀の無学な人々に、キリストの戯曲を通してキリストの福音を説いた。私も宗教劇をしようと思って、東京郊外、松沢につくつた教会は、皆ステージ代用の大きなテレスを南側に附けておいた。農村の青年諸君も、自然の舞台を用いて、この戯曲を読みながら、霊魂の内側に住んでくれるキリストを日本に生かしてほしい。

    一九四七年五月二十一日

       賀  川  豊   彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第111回)

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「須磨離宮公園の花の庭園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)


  賀川豊彦の著作―序文など

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           第111回


    『小説・二羽の雀』


     昭和22年6月30日 明星社 200頁


 本書『小説・二羽の雀』は、三つの短編――「二羽の雀」(昭和7年1月から12月まで「神の国新聞に50回連載」、「谷間の姫百合」(昭和8年1月から3月まで同じく「神の国新聞」に7回連載)、そして「溶岩地帯」(昭和12年刊行の小説『荒野の呼ぶ聲』所収)――を収めた作品です。

 昭和23年に、この小説の印税を活かして「小雀保育園」(長野県佐久市岩村田1158-17)が建てられたことを、HPで見たことがあります。

 本書の装幀は田村孝之介が当たり、表紙と背の文字は賀川が書いています。



        『小説 二羽の雀』

            序


 地上の生活は凡て芸術である。殊に良心の芸術は至上の芸術である。この三編は生命芸術としての人生苦悩を通り抜けて行く宗数を取扱つたものである。

 私はかうした作品を通して、無限絶体者の愛に触れる同志が一人でも、多く日本に現れることを望むものである。戦争前に書いたものではあるが、宗教が永遠性を持つてゐるので、今読み直しても新しい感じがする。私は読み直したがら神の愛に自ら感激を感じてゐる。それで同志にも読んで貰ひたく思つてゐる。

     一九四七・六・一
          
            賀  川  豊  彦
       
               武庫川のほとりにて
プロフィール

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Author:keiyousan
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