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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第170回)

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「我が家の熟年文鳥」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



        賀川豊彦の著作―序文など

       わが蔵書棚より刊行順に並べる

               第170回


      ウイリアム・アキスリング著:志村武訳

      『軛(くびき)を負いてーいちアメリカ人の見た賀川豊彦苦闘史』

  
 標記の翻訳書は、昭和24年3月に白亜社より出版されました。アキスリングについては、沢野正幸著『最初の名誉都民アキスリング博士』などでもよく知られていますが、本訳書の「日本語版序文」「改訂増補版への序文」、そして「まえがき」を取り出して置きます。

 訳者の志村武は、あの『青春の鈴木大拙』などを著した人ではないかと思いますが、巻末の「あとがき」も重要ですが、ここでは略します。




               日本語版出版に際しての序文
                

 この賀川豊彦の傅記はフランス、ドイツ、オランダ、スカンヂナヴィア、トルコ、メキシコ、インド及び支那からの切たる要望の下に、ドイツ語、フランス語、オランダ語、スカンジナヴィア語、トルコ語、スペイン語、インドの方言、支那語(但し縮少版)、の九ケ國の言語に翻訳、出版された。

 その他、英國に於て英國々民とその植民地の人々の為に出版されたブリティッシュ版のものもあり、これも廣く江湖の読者の支持を得てゐる。

 賀川が今日、世界的な人物であるといふことは、衆目の一致する所であり、彼は全世界の視聴を一身に集めてゐる。‘                  

 彼こそは、洋の東西を問はず、一市民としては最も著名な日本人であると云ふことが出来よう。そうして彼については、國内よりも海外に於て一層著名であるといふことが屡々云はれてゐる。若しもそれが真実であるならば、彼を日本国民にあらためて紹介し、彼が今日まで日本人全体の福祉厚生の為に、幾多の風雪を忍び、總ゆる難難辛苦に耐え、苦難と犠牲の一途を辿り、遂ひにイエス・クリストの旗を天空高く掲げるに至った、その逞ましき信仰の一生について述べることは、決して無意味な試みでないことを確信する。

     一九四八年十一月
                    在  東  京
                             ウイジアム・アキスリング




                改訂増補版への序文


 この本が一九三二年に始めて公けにされて以来、早くも十四ヶ年の年月をけみした。

 この十四ヶ年は、世界の為にも、賀川一個人の為にも、実に数奇極りない年月であった。

 その間、彼の精神はひたすら前進し続け、彼の哲學は人生の総ゆる領域と密接なる連関をもつに至り、彼の生活は常に目まぐるしく展開する活動的分野に於いて、激しい労働と共にいとなまれまた。                                  

 この為に、彼の傅記には改訂増補が必要となり、こゝに、一九三二年から太平洋戦勃発までの間を取扱った「怒濤はるかに越えて」と、「風雲を衝いて]という二つ新しい章を付け加へた次第である。

    一九四六年一月
                   ボ ス ト ン
                            W・ア キ ス リ ン グ





                 ま え が、き


 賀川豊彦の人生は、今なほ進展の一途を辿りつつある。彼の前途にはより豊かな、そしてより円熟せる人生が洋々としで横たわってゐる。従って、いま彼の傅記にペンを執ることは、早きに失すると云はねばならない。

 彼の全人生の物語を記録するといふ興味深い仕事は、やがては専問の研究家の手を通して永く後世に傅へられることであらう。
                 
 この熱烈なる精神の持主――神秘なる東洋の申し子とも云うべき彼のメツセージは、その偉大なる魂と変転する現実の奥底から湧き起こり、灼熟せる焔となって、冷淡と皮肉と閑暇とに満ちてゐる世界に真正皿から挑戦した。 
       {
 即ち彼こそは、二十世紀の舞台上に於いて預言者の聲をもって語る神の如き人間であ り、その英雄的なる生活の中に、あらゆる時代をとおして救済と創造の力を発揮した幾多の原理を実際に体現した偉大なる人物である。
                           
 彼の中には相反する二つの人間性が存在してゐる。その一つは、友人達の熱烈たる信仰によって神化され、理想化された賀川であり、他の一つは、輝かしい理想の為に全力を挙げて闘う一個の血の通った人間としての賀川である。

 著者は、彼の四十四年間にわたる人生と仕事について、不滅の物語を紹介することに今日まで、長い間努めて来た。彼のかくされた人生と、その精神の働きをあらはす為には、数多なる著作の奥底に飛び込み、彼自身の言葉を織り込むことに努力した。

 各章の前後に對照的にのせてある短文と本文中にあらわれる引用文とは、賀川が眼を病んだ時、東京で書いた瞑想録の中から抜粋したものである。この書物にある引用文は、すべて日本で刊行された賀川の著書か、演説を英訳したものである。これらの資料の英訳は本書が始めてでる。

 「光は東方より」という東洋の諺があるが、社會的な連帯責任に對して明確なる意識をもつ西洋が渇仰してゐる光は、すでに東洋に於いては燃え上ってゐる。もしもこの書物が澄明となって、光を酉方に運ぶ役割を演するならば、著者の幸ひはこれに過ぎない。
             ’
 著者は、個入的な綴ぢ込みや、他の有益で必要な資料を整へるに当たって、有力な御協力を賜った賀川氏や、最初の草稿を読み、貴い暗示を輿へてくれたエデイナ・リッスリー・グレジット嬢や、その速記術で、熱心に、暖かい心をもって援助して下さったエデイス・E・・ボツト嬢に對し、深く感謝の意を表する次第である。最後に、私の妻が或いはよき相談相手として、或いは友情ある批判者として、はかりしれぬ助力を惜しまなかったことをここに記して置く。

    一九三二年一月
                     日本・東京
                            ウイリアム・アキスリング









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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第169回)

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「昨日午後のぶらり散歩で」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

        わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
              第169回


       A・C・クヌーテン著:村島帰之・小川清澄共訳

       『解放の預言者―日本社会史より見た賀川豊彦の研究』

  
 標記の翻訳書は、昭和24年2月に警醒社書店より出版されました。本書の成り立ちと翻訳の経緯については、巻頭にある著者の「序文」と巻末の「訳者の言葉」を、以下に取り出しておきますので、一読いただけばと思います。

 この翻訳は、賀川の還暦祝いと献身40年の記念も兼ねてすすめられたようです。




             A・C・クヌーテン著『解放の預言者』

                    序 文


 日本の社會的・経済的・宗教的生活の趨勢に開する最初の研究に於いて私の意図した所は、『日本國民の社會的・倫理的構造の諸要素を分析するため、賀川豊彦の生涯、事業及び彼の基督教哲學を検討する』にあった。この事は表明せられた諸思想を実証せんとする多くの資料のため可なり尨大なものとなった著作之の中になし遂げられたのであった。

 本書に於いては、日本の社會的・倫理的構造の発達を示す多くの歴史上の詳細な点は省略されている。それは、日本人の生活に於いて躍動しつつも屡々熾裂に相反撃してゐる諸潮流の記録をモツト読み易いものとするためであった。これらの潮流は、日本の歴史の中に、昔も今も変ることなく激しいものである。

 翻訳者村島帰之、小川清澄両氏は、その見事な忠実な翻訳によって、本研究の焦点たる賀川豊彦の人格を浮き出させられたが、その結果、その背景となる學的資料を制限されたのは已むを得ざる所であった。

 この短い序文に於いて、封建時代を通じて日本を形成し、明治維新と共に始った近代へと導いて来た日本の社會的・倫理的影響たる五大潮流に就いて、注意を喚起して置くことは適当なことと思ぽれる。これ等は、謂はば、日本に於ける賀川豊彦と幾百萬の人々の生活の中に演出されて来た劇の背景をなすものである。五大潮流と言うのは次の通りである。

 1 第一は、日本人生活に於ける自然的な固有な力としての神道の宗教的・倫理的基礎であって、この基盤の上に、またその周通に、他の多くの勢力が貢献したのであった。氏族組織に於ける単純な日本人の家庭生活、即ち『氏の神』を持った『氏』や『氏神』の発達は、凡ゆる忠誠と責任を件ふ近代の家族國家を齎したのである。
     
 2 登展しゆく日本の生活の初期に入って来た儒教の倫理哲學は、祖先崇拝と社會機構とに影響する所があり、典型的な忠誠の標本を作り出したが、國民の大多数たる農民、労働者、主婦、青年たちに関する所ぱ余りなかった。

 3 これ等の倫理哲學に、佛教はその宗教的儀式主義と華飾と共に、或る種の形而上的概念を附け加えたが、民衆の日毎の生存競争に於ける状態の改善に資ずる所は殆どなかった。

 4 イヱス會修道士達によって基督教傅道が日本に開始されてから、基督数的愛が強調されると共に、社會観念に對する攻撃が始めてなされたのであるが、これは宗教的政治的勢力として、日本人の生活より追放せられてしまった。追放することにより、之を全く抹殺してしまったと思はれたが、この時代に説かれ生かされた神の言は、日本に於いて決して空しくならす、または影響なくはなかった証跡が現存するのである。

 5 第五の大なる潮流、即ち発展しゆく社會的倫理的運動の中に根拠を持つ所の騎士道は、上述の諸潮流の一つ若くはその幾つかのものに属するものと見倣すが至当かも知れない。然し、それが二つの流れ、即ち一つは侍の騎士道即ち武士道、他は侠客の騎士道即ち侠客道(軍事的騎士道と社會的騎士道)として流れて来たのであるから、これは独立した一個の渦巻く流れと見倣すべきである。明治維新や近代日本の活劇が表面化して来るのはこれ等の二つの騎士道の葛藤に於いてであった。

 暫くして、荒涼たる戦の中から生れ出づる近代日本は、新しい未来に直面するのであるが、そこにはこれ等凡ての潮流が強力熾裂に相互に作用し合って居り、更に現下の社會生活、経済行為、宗教信仰の領域に於ける新しい潮流が加っている。そして猛り狂ふこれ等の諸勢力は、日本の凡ての男、女、小児童の生活と性格に影響を輿えているのである。

 個々人に對する解決策は、細密な点に於いては夫々異るであろう。然し結局、基本的問題は、日本人各自が一個の人格となるか、或は機械の一つの歯車となるか、神の指導の下に霊的の力としての完成を追求する尊厳なる人格となるか、若くは粗野な唯物論の夢幻的目標を求めてゆく平凡な物品となり終わるか、その何れかであろう。

 賀川豊彦は若くしてこの挑戦に応じたのであった。近代日本の渦巻の唯中に於ける彼の奮戦は、正に新日本の建設に役立つ典型と解決策とを示すものである。翻訳者は、この研究の再叙述により、彼のこの連闘の物語をこの時代に我々に輿えて呉れたのである。その労に對して私は衷心より個人的謝意を表したいと思う。そして訳者と共に、これがこの様な時代の日本の青年諸君に役立って、青年諸君が人生最高の目的・父なる神、イエス・キリストによる解放――を自覚せんことを心から所るものである。

   一九四九年一月
                            アーサー・シー・クヌータン






                    訳者の言葉


 現在もそうであるが、戦時中もアメリカにおける日本研究は、われわれの想像以上に盛んだったらしく、日本に関する研究書というと争って読まれたという。その中に交って、戦前にも増して売れた一日本人の傅記があった。そしてこの日本人の傅記は、営時アメリカの敵國人伝記中のベスト・セラーであったともいう。

 そればかりではない。戦時中、一人のアメリカ人牧師が、一人の一日本人の研究をこつこつとつづけて、これをアメリカの大學に提出し、見事に哲學博士(Ph.D)を獲得したというから驚くではないか。

 戦時中よく売れた日本人傅記の主人公も、また博士論文の主題となった日本人というのも、共に賀川豊彦氏であっ。アメリカにおける賀川氏の人気が、戦争中も戦前に劣らぬもののあったことが判る。尤も賀川伝や賀川研究書がアメリカで出版されたのは今回が初めてではない、プリンストン大學での賀川氏の同窓バン・バーレン(Van Barlen)が”Kagawa,the Christian”を出し、またヘレン・タツピング嬢(Helen Topping)が“ lntroduction Kagawa “というのを出版し、アメリカ以外でも三四種類出ている。また賀川氏の傅記だけで一巻としているのではないが、コロンピア大學教授ベーカー(Baker)の近著Darkness of thc Sun(1948)はその一章を割愛して戦時中の賀川氏の行動に詳細の論評を加えているが、しかし前記の賀川傅と博士論文は、その規模の大さにおいても研究の深さにおいても圧倒的である。

 伝記の方の標題は、“Kagawa” ニューヨークのハーバー・ブラザースの出版、著者はアキスリング(Axling)というバプテスト教会の宣教師である。この著は一九三三年に初版を出したが、戦争後二章を追加し一九四六年改訂増補版を出した。新版は表紙に戦前の元気な賀川氏の写真と戦後の樵悴した賀川氏の写真を並べて出してあるのもアメリカ人好みらしく、博士論文の筆者はクヌーテン(Kunten)といいシカゴの産、本年五十二歳。一九二〇~三五年と一九三七~四一年の前後二十年、ルーテル教會の宣教師として日本に滞在し、戦争勃発と共に帰米、戦時中(一九四一~四四年)は太平洋沿岸で教會を牧し、在留日本人のためにも善く面倒を見てくれた。そして牧會の傍ら南加州大學に席を置き學位請求諭文として“ Toyohiko Kagawa and modern tendencies in Japan”を執筆し、一九四六年見事に Ph.Dを獲得し、一昨年一九四六年再び日本に来朝、目下日本神學校教授の任にある人。
                              
 論文はタイプで三百頁を越え、引照文献にあげられた賀川氏の著書百十三冊というから、賀川氏の主なる著書は殆ど渉猟した訳である。日本人でもこれだけ多く賀川氏の著書に目
を通じた者は恐らくないであろう。

 さて、論文の内容であるが、クヌーテン氏はこの論文の目的を次のように述べている。

 本研究は日本國家の社會機構と現代日本の社会、経済、宗教生活における諸要素を分析することを目的として、賀川豊彦の生活、事業、基督教哲學を研究するにあると。

 つまり、日本人賀川豊彦という一個の人格を通し、彼の生涯と事業を検討することによ って、日本における社會経済宗教の諸動向を見ようというのである。これがため、次のよ うな順序で賀川豊彦が如何なる人物であるかを研究しているのである。

 1 非基督教的環境に育った彼が基督教に触れたことにより、彼の人生観が如何に変わって行ったか、また  2 日本になお陋乎として残滓をとゞめていた封建的遺産と如何に戦い、また如何にこれを改造するに役立ったか、そして 3 彼の基督教としての行き方が日本の将来に如何なる意味を持つか。

 クヌーテン氏は賀川氏を検討するに先立ち最初の数章を近世日本社會史の研究に割いて、これはわれわれ日本人には別段珍らしいことはないが、ただ興味を惹くことは、被圧迫階級擁護のために、圧迫階級特に武士階級に對抗して侠客道が発生したと述べ、これが賀川氏の血液の中に黒々として傅わっているとし、賀川氏の犠牲と奉仕の精神およぴ後年の華々しい社會活動はこれに胚胎している――としている一事である。

 北村透谷は日本の封建思想は市井の間に二つの形をとって現れた、一つは艶、もう一つは侠――といっていたが、クヌーテン氏は後者を指摘し、これを賀川氏の人生観と結びつけている、この点など面白いと思う。
                 
 明治四十二年のクリスマスの前夜、二十一歳の侠客的神學生賀川は神戸貧民窟の中へ自ら車を引いて引越して行った。そこで彼は愛の飢饉と貧困の諸相に泣き、深刻な人間苦と社會苦の存在を嘆かしめられた。そして基督の救いは単なる教え、Teachingにあるのではなく、基督を実践する道way にあるということを悟った。――という。しかし賀川氏は「基督道」の実践のために、傅道と同時に救貧事業を起したが、それも砂上に楼閣を築くに過ぎないことを、ほどなく悟った。貧之をなくすために無産者を組織せねぼならぬ――かくて彼は労働蓮動に突進して行った――と見る。

 また、精紳運動には社會運動と兄弟愛運動の二面のあることを多くの教會の人々は忘れているが、賀川氏は克くこの両面を活かして、日本における社會秩序建設の一大推進力とすることを得た――とする。さらに、賀川氏は、日本を救う道は社會連帯の精紳を基盤とし、互助犠牲による外はない。つまり、十字架意識に目覚め、イエスの贖罪愛を現代に実践する事こそ日本を救う唯一の道だ――とした。彼のスラムにおける働き、労働運動や農民運動の陣頭に立つのも、協同組合に精進するのもみな贖罪愛の実践の一つ一つに外ならなかった――とクヌーテン氏は見ている。

 だが、オーソドックスの人々はこれを外道だとし、そして「賀川に神學ありや」と嘲る。これに對し氏は賀川に神學はオーソドックスの人々の如く偏侠でないだけである、という。

 基督教の分野で賀川氏に對する避難のあるように、社会運動の陣営でも氏は左右両翼から批難をうけた。左方では唯物論と暴力には真っ向から反對し、右方では資本主義と保守思想に反對する彼には当然のことだった。だが彼は毅然として軍國主義と階級闘争に反對し、イエスの無抵抗愛を堅持して、トインビーやキングスレーと同じ行き方をしつづけて来たとある。

 彼は教會と社會を結びつけ、精神運動と社會運動を結びつけ、さらにイエスの贖罪愛まで持って行こうとして彼はそのため自ら教派も作らす、各教會の傅道を扶け神の國運動の推進力たることを期し、一方、政府と国民に呼ぴかけて愛と互助による日本の再建に精励し、また無戦世界の実現を期して、戦時中もその説を曲げすに来た。そのため昭和十五年には小川清澄――訳者の一人――と共に非戦論者として憲兵隊に拉致され、約一ヶ月囹圄の裡にあった。この事を当時渡米していたクヌーテン氏は新聞の東京電報で知って、賀川の健在を知ったといっている。終戦直前、賀川氏の対米放送が東亜共栄圏を是認するものだとして非難のあったに對しても、ク氏は、賀川氏の平和主義に微動もなかった事を述べて毛をふいて傷を求める論者をたしなめている。

 クヌーテン氏のいわんとするところは、要するに賀川氏が日本の社会維新の動揺期に生れ、基督に對する献身と貧民窟及び社會運動における涙ぐましき体験を通じて愛と犠牲を基盤とする哲學を打ち建て、爾来約四十年、保守過激の両思想に挟撃されつつも、日本の再建が軍國主義及び階級闘争によって得られず、愛と互助によって得られるものであることを力謝して絡始変わらざりしことを指摘し、今後もイエスの贖罪愛を日本的に消化して日本の社會秩序の推進に努めて行くであろうことを期待し、「最近日本の諸動向の検討」の結びとしているのである。

 クヌーテン氏の賀川研究は賀川氏の全貌を活寫しているというよは政、よくその精神を把握しているといいたい。猟師は山を見ずという。日本人は却って日本人を知らない。外國人が却って日本人を知悉する。賀川氏の知己は今日においては日本よりも、むしろ海外にあるといえよう。クヌーテン氏はその一人だ。日本人は多分、賀川氏が棺を覆うて後、はじめて賀川氏の真価に気づくのであろう。

 本年は賀川氏の生誕六十年、いわゆる還暦である。また氏が貧民窟に挺身して以来、四十年に当たる。われわれ同志はこれを祝いたいと願ったが、賀川氏はこれを斥けて「祝ってほしくない。それよりもみんなのたましいをほしい」と諧謔した。そこでわれわれ両人はこのクヌーテン博士の研究を翻訳し、たましいに添えて、氏にささげようと考えついた。幸いクヌーテン博士は快く翻訳を許諾され、小川は賀川氏の事業財團雲柱社及び國際平和協會の専務理事としての用務の、また村島は乎和學園の経営と早大における講義の余暇を盗んで、こつこつと翻訳の筆を進めたが、博士は常に訳者に對し奨励と助言を惜しまれなかったのみならず、原文が前記の如き長篇で、訳書にはその全部を収録することが困難となり、博士の苦心になる冒頭の日本社會史の記述と、周到綿密なる各章の引照をカットするのやむなきに至ったに對しても唯々諾々凡てをわれわれの意に委せられ、また本書がアメリカにおいて出版の予定になっていたにも拘らず、これに先んじてタイプの論文原本から直ちに翻訳することを許るされた博士の寛容と好意に對しては只だ感謝のほかはない。

 なお本書の翻訳は前半を村鳥が、後牛は小川が担当したが、中途にして両人とも健康を   
害したため、村島健一及び出本賀代手嬢の助力を得たことと、校正その他についても同様の理由で出版元の福永孝一、會田七郎両氏及び高橋碞、黒田四郎両氏を煩した。記して感謝の意を表する。

    一九四八年十一月二十日

                          訳     者


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第168回)

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「長田区役所正面」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第168回


       鑓田研一著『伝記小説・賀川豊彦』

  
 前回は横山春一氏による『賀川豊彦伝』を取り出しましたが、ここからは、賀川豊彦に関する伝記のような書籍を並べておきたいと思います。

 まず最初は、標記のように鑓田研一氏(1892~1969)が昭和9年12月に不二屋書店より出版した『伝記小説・賀川豊彦』(575頁)です。鑓田氏はこの後、『石川啄木』『山室軍平』(いずれも昭和11年)『徳冨蘆花』(昭和12年)、そして『島崎藤村』(昭和13年)などを著わしています。

 鑓田氏と賀川との関係などは、すでに賀川の作品(『宗教読本』『人生読本』など)を刊行して、それを取り出した折りに触れていますので、ここでは、本書の「序」を書いた安部磯雄の文章と、鑓田氏が本書とほぼ同時に、同じ出版社から出した『基督教と歎異鈔』の「序」を賀川が寄せているので、それを取り出して置きます。



              鑓田研一著『伝記小説・賀川豊彦』

                     序

 古来、大宗教家であって文學に傑出した人が少なくない。然し、賀川氏の如く、宗敬と文學を両手に握り、同時に社會事業の経営に敏腕を有する者は、極めて稀ではないかと考へられる。殊に、蒲柳の質であり、視力に不自由を感する賀川氏が、この三大資格を具備してゐるといふことは、全く一大驚異であると言はなければならぬ。

 私は、昨年京城に旅行する途中、関釜聯絡船内で一米國人に面會したが、彼は少年時代の賀川氏に基督教を傅へた宣教師であった。彼の語ったところによって、賀川氏が如何に宗致家としてのスタートを切ったかを想像することが出来た。賀川氏は宗教を単に自己修養の方便とは考へなかった。人類愛の教訓を實現するために、彼は紳戸の貧民窟に身を投じた。彼はかうして、文學者たり社會事業家たる前に、先づ熱烈な宗教家となった。彼は筆の人であると同時に、口の人、實行の人である。若し我國に世界的人物があるとすれば、それは救世軍の山室軍平氏と『死線を越えて』の賀川豊彦氏であらう。

 宗教と文學とは、多くの場合両立し得るけれども、この二者が事務的手腕と並立することは、全く稀有のことである。然し、賀川氏の場合には、これが立派に澄明されてゐる。現在の消費組合はどうか。医療組合はどうか。賀川氏は實にこの方面でも鮮な手腕を示してゐる。初めて賀川氏に會って對話する人は、賀川氏を単に才子肌の人と見るかも知れないが、私は最近賀川氏が鐡石の如き意志の人であることを知った。私は、賀川氏指導の下にある大學消費組合聯盟の役員であったが、或る事情のため憤慨して役員を辞した。その後、賀川氏に面會した時、氏はかう言ったものである。
『僕は一度喰ひついたたら、どんなことがあっても離しません。』
賀川氏が社会事業家としても成功したのは、この意気かあるためである。

 かうした意志の人賀川豊彦氏の生涯を描いた傅記小説が、今度いよいよ世に出ることは、実に喜ばしいことと思ふ。作者鑓田研一氏の才筆は、主人公の頭脳と心臓にまで迫ってゐる。

 私は、この小説を、近来の快著として人々に薦めたい。

    昭和九年十二月十二日
                            安  部  磯  雄





         鑓田研一著『基督教と歎異鈔』への賀川豊彦の序文

                      序

 内務省の統計に依ると、今年は、一週間に一つぐらゐの割合で新宗教が製造されたといふ。

 唯物論や暴力主義が一世を風廳した後に、どこからともなく宗教復興の聲が起って、それが時代の流行となってしまふのは、歴史的公式の一つである。我々の立場から見て、喜ばしい事には違いないが、どうも、昨今の風潮は、少し常軌を逸してゐると思ふ。

 理智にも情操にも富んだ、真に健全な人々は、迷信的なものを厭がるが、さういふ人々の気持にぴったり合ふのは、基督教を除けば、佛教である。そして、佛教諸派の中で一番基督教に近いのは、やはり、親鸞の起した浄土真宗である。

 真宗のどこに力があるか? それは他力本願の信心一点張りでゆかうといふところにある。

 彼等真宗の人たちは、とんな悪人でも、必ず阿弥陀によって救はれると信じてゐる。地方へ行くと、数百年来、この信仰を持っていて、彼等は、自分が餓死しても本山に寄附したいと考へてゐる。

 これは絶對帰依の境地であって、法然、親鸞を経て完成されたものである。真宗が基督教と一致するのは、この点である。そしてかういふ美しい他力宗教の極致が、親鸞の弟子唯圓が先師の言葉をそのまま傅へたといふ歎異鈔に描かれている。そこには親鸞ならでは見られぬ剛健な気魄が溢れてゐる。

 しかし、悲しいことには、この宗教を奉ずると称する者の中から、沢山女郎屋が出た。

 これは女郎屋その人が悪いからであらうか? それとも、そんな人が出るのは、真宗のどこかに欠陥があるからだらうか?

 私の友人鑓田研一氏は、最も巌正な立場から、歎異鈔を研究した。そしてその研究の結果が、『基督教と歎異鈔』となってあらはれたのである。

 私は、傅統的な宗教的雰囲気の中に育った開係から、歎異鈔も早くから読んで、感心するところには感心したのだが、根本的な点ではどうしても首肯できなかった。それで私は基督教に這入ったのである。

 私は、基督教側の人は勿論のこと、佛教側の人にも、鑓田氏のこの書を是非読んでいただきたいと思ふ。

    一九三四年十二月三日
                                賀 川 豊 彦




                 は し が き

 今ここで、基督教と、親鸞の宗教、即ち浄土真宗との全体的比較をすることは出来ない。私はただ『歎異鈔』に對して、基督教の精神と比較しながら、巌正な批判を加へるに過ぎない。しかし若し、『歎異鈔』が、親鸞の宗教の真髄を傅へたもの、そして梅原真隆氏などの言ふやうに、『愛読書といふよりは、もっと深刻な感じを与へてくれる聖典』、失ふことの出来ない『永遠の書』、見捨てることの出来たい『生命の書』、『いちばん度数おほくくりかへして拝読し、もっとも深いこころもちになってひもとき、ひさしく涙ながらに魂をうちこんで見つめる』ことの出来る書であるならば、この書を選び来っただけでも、基督数と親鸞の宗教との、全体的ではなくとも根本的な比較考量をすることは出来るといふものであらう。

 若し、私が、浄土真宗に對して少しでも自分のもの足りなさを表白するとすれば、それは決して頑迷な宗派心からではない。それは私自身の純粋な價値判断からである。それは全く私が基督教そのものに對してさへ取ってゐる態度と同じである。

 何物にも依存したい唯一不二の自己を尊重して、それを生かさうとし、それを生かしてくれるものなら、初めて自分以外のものをでも肯定する――そこに現代人の生活熊度と生活意識があるのである。

 私は、さういふ生活態度と生活意識とをもって、基督教の真髄を訣り出し、同時に、浄土真宗を批判しようとしてゐるのである。

 勿論、一口に基督教と云っても、何を基督教とすべきかは、大きな問題である。

 トルストイは、孟子が孔子を誤ったと同じやうに、パウロはイエスを誤ったと云った。有島武郎氏は、『イエスは二度十字架にかけられた。一度はユダヤ人に依って、二度目はパウロに依って。一度目の時、イエスは昇天した。二度目の時には地にまで踏み躙られた』と云った。

 現代の基督教研究者や神学者や牧師は、イエスとパウロとの宗教的相異に對して、少し無頓着過ぎるやうである。

 私は、この書で、かうした問題にも触れるつもりである。

                                     著   者


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第167回)

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「お隣の公園のアジサイ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第167回


       横山春一著『賀川豊彦伝』

  
 賀川豊彦の伝記的な著作は、賀川の生前にいくつも出版されていますが、特に標記の横山春一氏による『賀川豊彦伝』は、最初に昭和25年8月に新約書房より482頁の上製版として刊行されました。

 手元にその版がありますが、賀川の写真と巻頭には、齋藤潔氏の「序にかへて」と横山氏の「自序」(このふたつは今回取り出して置きます)があり、賀川豊彦のサイン(「死線を越えて我は行く 賀川豊彦 1951・1・22」)があります。

 この『賀川豊彦伝』は翌年(昭和26年)2月には、キリスト新聞社よりいくらかの補正を加えて出版されました。そして本書は、昭和34年10月20日、賀川豊彦の生前ですが、警醒社より箱入りの上製本として、新たに写真や索引も付けて「増訂版」として刊行されました。

 個人的なことですが、賀川豊彦生誕百年の時に『賀川豊彦と現代』を書き下ろした折りに、横山春一氏ご夫妻のお招きをいただき、一度だけご自宅でしたしくお話を聞かせていただいたことがあります。私にとっては、あとで取り出しておく予定ですが、横山さんの著書『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』が、賀川に関する初めての著作でしたので、横山氏にはご恩があるのです。



                   序にかへて

               生命存在の像―賀川豊彦氏をうたふ


 賀川豊彦よ
哭きゆく鶴よ 歌ひつつゆく雁(かりがね)よ
島々の夕栄えを忘れぬ燕(つばくらめ)よ
風の中の蘆よ さびしい舟よ 雪の降る中にみのる果樹園よ

 賀川豊彦よ
真昼の天よ 正午の太陽(ひ)よ そして月明の魂よ
泉のそばの花苑よ 真紅の詩よ
蒼い湖よ 血汐を噴く珊瑚樹よ
「始めに歌ありき 行為(わざ)ありき」 賀川豊彦の創生記はかくで始まる

 生命の中から生れたものは 生命的ならざるを得ない
彼の心は息(やす)まない 彼の手も停止しない 隣人の涙へ差出される心
 隣人の苦しみへ伸べられる手
そのための彼の心は常に腫れ 彼の手は燃えてゐる

 彼はよく泣く 男泣きだ 雄々しい涙だ 涙は紛々としで花と散る
なみだの花吹雪のなかに彼はぢっと耐へる
(天界では天使が祷ってゐる 清々しい音色の鐘を鳴らしてゐる)

 星が輝く 日が照る 魚介が躍る 潮が流れる 月が渡る
花が開き花が落つ 風が吹く 雨が降る 雲がとぶ 蟲が這ひ山肌が笑ふ
かくて「あ行」から「わ行]までの 賀川豊彦の索引が活気を帯び始める
森羅萬象が彼のために自由自在に智慧の 市場を開く
百千萬の道が 繚乱たる花叢群落のごとく その首(こうべ)の上に
感情のイルミネーションを縫ふで 知性の強い光をふりまく

 彼は愛の翼をもって地球から飛び上がる
天空は彼の第二の散策の公園である
夜な夜な銀河の岸へ立って乳白の水に口そそぐ
火星の印で宇宙に懸かる虹のやうな詩の行線を高らかに読む
金星の家で彼は地上で失った想像を発見するのだ
北斗七星の燭台の裸火は彼を美しい郷愁へ誘(いざな)ふ

 彼の心は生の歓喜に帆船になる
天地の事々物々の諸々の名の上へ乗って奔る
数學の本に詩の花が咲いて星々の果實が美事に熟した
愛の色彩が すべての苦しみと涙と悲しみをよろこびの色調に染め出す
痛悩の鐡鎖が いつしか楽しい歌の環(たまき)となって溶ける

彼は無限生命の化身だ 萬華鏡の幻燈だ その転身のいそがしさ
園丁になる 天文學者になる 農夫になる 船長になる 技師になる 
土木者になる 坑夫になる
漁夫になる 建築家になる 地質学者になる 医師になる 発明家になる 
歴史家になる 植物と昆虫學者になる 画家になる 演出家になる――
それから琴になる 鼓になる 風になる 水になる 雲になる 波濤になる
 山になる 草になる 木になる 道路になるのだ――
 
 彼はゆく けふも彼はゆくよ
雲の柱をしたひつつ
波の上を 丘を 峠を 尾根を 雪の上を 砂地を 沙漠を 牧場を
地平線の霞む彼方を 水平線のとけ入るあなたを
彼はゆく どこまでも
その足跡の黄金色は天界の住家へしるされてゐる 彼はゆく 
けふも明日(あす)も 明後日(あさって)も
いっも あの鋼鐡のやうな顔を 正面へむけて
鷲のやうに 疾風のやうに

                                   齋藤 潔



                     自 序


 先生は荒行をいとはない修道者です。書斎と三等列車と講壇とはその道場、祈祷と瞑想は絶對者との對話です。その生涯の基調となってゐるのは一巻の聖書です。それによって、全我を賭けた精神史が開拓され、社会悪への挑戦が展開されました。

 アッシジのフランシスとジョン・ウェスレーとの遺鉢をついで、とこしへに絶えることなきイエスの愛の福音を、あまねく世界にのべつたへ、ことにまだ福音のつたへられない山間僻土に、礎石をおくことに努力されました。

 この修道者は、雲とともに行き、水とともに流れる心の奥に、たくましい贖罪愛と同時に、鋭い文明批評の刄をそなへてゐます。そこにはジョン・ラスキンとアプラハム・リンカーンの影響が多分に見出されます。それ故、修道者ではあっでも詩と科學を愛する第一級の近代人ともいへるのです。

 先生は一種の泣き虫です。雷のやうに怒ることもあります。しかしそれは愛するが故の最微者(いとちいさきもの)への奉仕です。

 先生の雷ははげしいものですが、あの清純無私の怒りこそ、起死回生の原動力でもあります。虫と語りあひ、雲とともに歌ふ先生は、人の悲しみに泣き、人の貧しさに最後の一枚の衣をもぬいでしまひます。不治の眼病は、泣き虫の故なのです。その涙からあの香はしい多くの散文詩が生れ、各種の社会事業、労働運動、協同組合、立体農業、農民福音學校などが生れできたのです。

 先生は己か語らず、また過去を語らぬ人です。後方にあるものを忘れ、前方のものに向っで淮むことこそ、先生の喜びであります。時には誤解され無理解な批判が寄せられたことがないでもありません。先生の思想と業績には、異國の匂ひがすると言ふ人もありますが、幼い日に阿波の國でみた、編笠に「同行二人」の文字を染めた巡礼を慕ふ心は年とともに深められてゆくやうです。

 私のこの著書では、潮騒のはなやかさに眼をうばはれないやうにつとめ、百尺の地下にひそむ水の心をもとめました。そのために十年の歳月を費してきましたが、私の筆は、泉の深さまではとどきかねました。

 先生の苦悩の日には、私の筆もにぶり、先生が憐憫の情をおさへ得ないで、床を蹴って起きあがる日には、私の心も躍りました。傅記作者の根本的な心構へをわきまへないわけではありませんが、敬愛する先生の感情が、その時その時の私の心をとらへてしまふのを、どうすることも出来ませんでした。

 私があやまりなく先生の姿を抽きだすことができ、これによって先生を正しく識る人がふえるならば、どれほどの喜びでせう。

 これを書きあげるについでは、多くの人のお世話になりました。終戦直後、ともに筆をとることを約束した齋藤潔氏の姿は、今は地上になく、ただ序にかへた詩が、私の卓上にのこってゐるばかりです。また村島帰之氏と鑓田研一氏のお力添へも忘れることができません。

 とりわけ、鑓田氏は全ページにわたって親しく斧鉞の労をとって、私の筆を生かしてくれました。また中村蔵人氏夫妻は、上梓に際して、煩瑣をもいとはず、友情をそそいでくれました。ここに特記して謝意を表する次第であります。

    昭和二十五年七月十五日
                         武蔵野にて
                                 横  山  春   一

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第166回)

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「昨日のぶらり散歩」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


      賀川豊彦の著作―序文など

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           第166回


      明治学院大学基督教学生会編
      『KAGAWA―二十世紀の開拓者』


  
 前回取り上げた著作と同様に、賀川の没年の年末に、明治学院大学基督教学生会編『KAGAWA―二十世紀の開拓者』が、教文館より出版されました。

 これには、都留、鑓田、黒田、村田、遊佐、村島、杉山、木村、木立、小塩、横山、タッピングの12名の諸氏の寄稿があり、これも重要な著作のひとつです。

 巻末には「賀川豊彦の著書」「賀川豊彦年譜」が収められています。ここではふたつの「序」のみ取り出して置きます。

 

                序


 賀川先生に満ち溢れたキリストの愛が私達を捕えました。貧しき者の為に自らの衣を脱ぎ、悩める魂の為に涙をもって十字架の愛を説いた先生の力が私たちにこの出版を計画させたのです。

 先生は、神の前に跪き祈りの中から神秘な熱愛の力を汲みとる敬虔なクリスチャンであると同時に、人間の理性を最大に利用した科学者でもありました。先生はその熱愛と知性とによって数多くの分野において開拓者となりました。先生の活動は伝道はもちろん、労働運動、農民運動、協同組合運動、平和運動、社会事業等に広く及んでいます。

 先生はその広い活動分野において人類に一つのことを教えようとしていたように思います。それは「生きる工夫」です。「如何にして人類は愛しあって生きることができるか」という課題迫求は、先生のすべての事業の誕生の原因であったように思われます。故に先生の事業は複雑多岐であると同時に単一目的的です。

 先生の数多くの事業と、その単一目的性を理解するためには、先生の多方面での同労の方々にペンを執っていただくのが最良の方法と思いました。幸い十二人の方が私達の願望に応えて下さいました。十二本のペンによって先生の人格、思想、事業が描き出されました。

 本書ができるまでには多くの方々のお世話になりました。北川信芳氏は出版の企画その他あらゆる点て私達をお世話下さいました。横山春一氏は編集面において、未熟な私達を親切に御指導下さり、又種々の資料を提供して下さいました。明治学院では園部不二夫教授、若林竜失教授、村上和男助教授をはじめ多くの方々のお世話になりました。高橋源次学長の御激励も忘れることができません。学生自治会、ラマート文庫、生活協同組合からはあたたかい御援助を頂きました。叉本書の出版の為に陰でお祈り下さった多くの方々のあることを憶え、心から感謝致します。

 最後に本書の出版でお世話になった教文館社長武藤富男氏、同出版部三好昭太郎氏に衷心からの感謝を捧げます。

   一九六〇年十一月
                           明治学院大学基且教学生会





                     序


 賀川先生の伝記は、アメリカでは何種類も書かれましたが、日本では横山春一氏のものだけでした。「百三人の賀川伝」は賀川先生の御病気中に私が編集し、その召天後に出版したのですが、これが日本における第二の賀川伝です。ところが本年秋、明治学院大学基督教学生会の学生諸君が、十二人の方々に原稿執筆を依頼し、十二の観点から賀川先生の生涯を書くという企画を私のところに持ってきましたので、私はこれに賛意を表わし、出版を引き受けました。

 それは第一に、学生諸君が、明治学院大学の先輩である賀川先生の伝記編集を計画し、実行に移すということが、この上もなく尊い仕事であると感じたからであり、第二に、十二人の執筆者が、賀川先生と親しい交わりをもち、またその事業を助けた方々であり、賀川先生の生涯を書くのに最もふさわしい方々であると思ったからです。

 「百三人の賀川伝」は、編者が特定の人を意図せず、おのずから盛上がる賀川崇拝と賀川追想とを集めたものですが、この賀川伝は、編者が一つの目的をもって十二人の方々に、偉人賀川を書いていただいたもので、賀川伝としては、一つの特色をもち、また賀川研究の資料として貴い記録をなすものと存じます。

 今後、いろいろな人たちによって、あらゆる角度から賀川豊彦が、記録され研究されて二十世紀の偉人が後世によき影響を与えるようになることを祈りつつこの書を世に送ります。

   昭和三十五年十二月五目
                               武 藤 富 男



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第165回)

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「神戸ポートアイランドにて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第165回


      田中芳三編『神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業』

  
 前回の武藤富男編著『百三人の賀川伝』は東京において刊行されましたが、そこに寄稿された関係者も含めて、大阪在住の田中芳三氏を中心とした標記のような賀川豊彦追悼集が賀川没年の1960年の年末に「イエスの友大阪支部」によって刊行されました。

 重要な写真も満載で、大変行き届いた編集がなされて、広く普及されて版も重ねた作品です。ここでは、「西坂保治・吉田源治郎・金田弘義」3氏連名の「はじめに」を取り出して置きます。



                  ま え が き


 この度、畏友田中芳三兄が、〈神は我が牧者〉”賀川豊彦の生涯と其の事業″を編集され、イエスの友大阪支部より発刊されることになり、私達もいささかその編集に協力した。

 私達は校正のために今稿に目を通し、そして賀川といういわばマンモス・ビルのような特異なパアソナリチーを今更の如く驚嘆の目をもって眺める思いをした。

 この追憶集は、編集者の賢明な配慮と熱意とにより、各方面の寄稿を結集、そうした大ビルヂングの地下室からルーフに至るまで多方面に亘ってよく描かれてしる。これについては、寄稿者である賀川先生の先輩、同労者、門下生達の御協力に深甚の感謝を捧げ度いと思う。

 賀川先生の生涯とその事業を私達は、イエスの友の五綱領にそって歩んだ一生だと考えている。即ち

 一、イエスにありて敬虔なること
 一、貧しき者の友となりて労働を愛すること
 一、世界平和の為に努力すること
 一、純潔なる生活を貴ぶこと
 二、社会奉仕を旨とすること

 と云う五つであるが、本書はその歩みをくっきりと浮き彫りにしている。

 とにかく本書が世に送られるについて、田中芳三兄の超人的熱意は驚くべきもので、多忙な業務の傍ら、原稿の整理に徹夜することも度々、関係者の間をボロ自転車で走り廻り、身に粗衣をまといながらも、多額の出版費を惜気もなく献げられたことは、測り知れない同兄の賀川先生に対する追慕の熱情を察することができる。同時に、この夫君の企画に全面的に協力され、み名の栄えのために、蔭にかくれて、ひたすら完成を祈って居られる田中夫人に深く敬意を表する。本書は在天の賀川先生への報告中の最大々ものであることを堅く信じる。

   一九六〇年十月一日

                              西 阪 保 治
                              吉 田 源治郎
                              金 田 弘 義











連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第164回)

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「女性コーラス・こぶし」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第164回


      武藤富男編著『百三人の賀川伝』


  
 『賀川豊彦全集ダイジェスト』『評伝 賀川豊彦』などの著者・武藤富男氏には、豊彦の生前に「みんなで賀川伝」を書こうという呼びかけで原稿を集め『百三人の賀川伝』を編集していましたが、惜しくもこれは賀川の生前には出版されず、賀川の没後4ヶ月して、昭和35年8月に、キリスト新聞社より刊行されました。

 箱入りの上製本とは別に、普及版として分冊され、上巻は「ぼくは待っている」、下巻は「無言賦」という副題を付けて出版されました。

 ここでは、編著者の武藤富男氏の「序」と、分冊された下巻の「序」をUPして置きます。



                      序


 みんなで賀川伝を書こうということになり、原稿を募集したのは、昭和三十四年一月、賀川先生が高松にあって療養中の際でした。二月末、百名近くの方々から集まった原稿を整理しつつ、私は「この本が出版される頃には先生が再起して伝道戦線に立たれますように」と祈りました。この年の春、先生は東京の自宅に帰り、次第に快方に向い、この伝記が出版されるのを心待ちにし、「類例のない伝記の書き方である」と言っていました。

 昭和三十四年秋になって、先生の病状が悪化したので、私はあせり出し、何とかして在伊中に出版しようと努力しましたが、とうとう間に合いませんでした。先生に対し、また寄稿者各位に対し、まことに相すまぬことと思っております。おくれた理由はいろいろとありますが、原稿整理に手聞どったことが主なものです。殆んど手入れを要しない原稿もありましたが、充分に手を加えないと出版できないものもありました。しかし折角投稿して下さったものですから、どんな文章であっても、その中に何とかしてよいものを発見して、これを読み易く、形のととのったものにしようとして苦心しました。一人分十枚の原稿を整理するのに、十時間を要するものもありました。というのは、どんな原稿でもくり返し、くり返し読んで行くうちに、その紙背にある信仰と愛とが感ぜられ、賀川先生の人格が、かがやき出してくるからです。まるで金鉱でも精錬するように、丹念に整理訂正をして行くと、純金のような光が原稿の奥から射してきます。しかも表現が拙で素朴な文章ほど、よいものが現われてくる場合が多いことを経験しました。

 投稿者が賀川先生を描くに当っては、投稿者本人のことを書く必要があるのですが、それが多くの部分を占め過ぎて、自叙伝を書いてしまった方も幾人かありました。しかし自叙伝的部分をはしおると、なかなかよいものが残るのが常でした。

 原文の味はできるだけ重んじましたが、或る程度の文体と用語の統一とを図りました。賀川先生は、口語訳聖書を作る時も、敬語をやめようと提言し、敬語を好まず、簡潔な表現を好みましたので、原則として先生について敬語を用いることをやめ、会話の中で用いるか、婦人の原稿の或るものに残しました。

 編集は原則として年代の順により、一代記的なものは巻頭にかかげ、評論的なものは巻末におきました。

 一人が描いた賀川豊彦もすばらしいが、百人が集まって書いた賀川豊彦はもっとすばらしいと思います。

  昭和三十五年五月                武 藤 富 男




 (下巻の序)
                      序


 百三人の賀川伝下巻は、四十五人の方々が投稿して下さったものを、昭和九年から昭和三千五年に至るまで、年代別に整理し、評論に属するものは巻末に集録するという方針で編集しました。

 「私の見た賀川豊彦」はキリスト新聞に発表したものに三話を加えて、皆さんのお仲問入りをさせて頂きました。私のものだけが頁をよけいとり過ぎたのは、寄合の上席に大あぐらをかいて坐りこんだような感を与えますが一年半にわたる編集の苦心に免じて許して頂きたいと思います。

 百三人の賀川伝は、もし横山春一氏の賀川伝をルカ伝型とすれば、マルコ伝型とヨハネ伝型とを合せたものといえましょう。

 後世、何人かが賀川先生の語録を中心に伝記を書くならば、マタイ伝型のものができ上がるかも知れません。それを期待します。

 ともあれ、大賀川の人物と信仰とを描き出している百三人の賀川伝上下二巻が、大賀川の背後にいます主キリストの栄光をあらわすようにと祈りつつ、これを世に送ります。

  昭和三十五年五月七日
                                    武藤富男




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第163回)

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「湊川神社:徳川光圀像」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/4023/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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            第163回


       武藤富男著『評伝 賀川豊彦』


  
 前回の『賀川豊彦全集ダイジェスト』の著者・武藤富男氏には、賀川に関しては『使徒パウロと賀川豊彦』『賀川豊彦の六面』といった小品もありますが、キリスト新聞に長期連載されたものを纏めて、1981年に出版した『評伝 賀川豊彦』(キリスト新聞社)があります。

 なお、この連載でも紹介しましたように、武藤氏に最晩年でしょうか年団不祥の、賀川の初期資料を扱った貴重な作品『溢恩記注』を書き残しています。

 ここでは、本書の「序」を取り出して置きます。




              武藤富男『評伝 賀川豊彦』

                  まえがき


 青年時代に私はキリストに捉えられた。壮年以後、幾度もその捉えから逃れようとしたが、キリストの握力は私の霊性の深みにまで達しており、逃れることができなかった。

 賀川豊彦先生に出会ったのは私の後半生の始まる頃であった。先生は、私へのキリストの把握を外側から囲んで、この世から私を隔離するかのようであった。

 一九四六年四月、『キリスト新聞』第一号が発行されるや、先生は「これをあなたの新聞と思ってやって下さい」と言われた。これは私有の意味ではなく、「全責任をもて」との意であると私は解した。私はこれに従って三十五年問、新聞の責任を担って今日に至った。

 このようなわけで、先生と私との後半生の交わりは深かった。先生の傍に坐ることによって、先生のお心が伝わってくる思いがした。先生が私を叱責するのは、新聞に欠けているものを補うために、財的に助けようとする意思表示であった。私を励ますことにより先生は私に未来への展望と使命とを与えて下さった。

 新約聖書口語訳に当たりコリント第二の手紙を、原文に忠実で、しかも原文のニュアンスをかなり通俗な日本語で表わした時、先生はこれを一読して、私の室に入られるや否や、「武藤さん、パウロが尻をまくった、パウロが尻をまくった」と歓声をあげられた。

 世を去られる三年前、先生の脚のもつれに気づいた私は、伝道旅行を以後やめるようにと忠告した。その時、先生は「武藤さん、こうなりゃやけくそ伝道だ」といわれた。このやけくそこそ神のためのやけくそで、これが死を決してスラムに入られた時の心境であった。

 評伝賀川豊彦を書くには、戦後の先生を描いたぼうが、私にとっては容易であるが、先生生涯のハイライトは、スラム伝道と労働運動にあるので、ます一九〇九牛のクリスマスーイブに先生がスラム入りをなさった時から一九二三年の関東大震災罹災者救済に乗り出すまでの十四年間を前篇として『キリスト新開』に連載し、これを本書にまとめて世に送ることとした。

 巻末には「賀川豊彦前史」として誕生からスラムに入るまでの生涯の概略を加えた。
 本書の著述に当たっては、横山春一氏著『賀川豊彦伝』、隅谷三喜男氏著『賀川豊彦』、及び村山盛嗣氏編『賀川豊彦とそのボランティア』の内容を採用し、あるいは参考にさせて頂いたところが多かった。ここに深く謝意を表わす次第である。

 なお巻頭には、『キリスト新聞』に連載された際、長尾己画伯が百六回にわたリ描いて下さった挿絵のうち、傑作と思われるもの数葉を選んで掲げた。賀川先生を最もよく知っておられる八十七歳の老大家の作である。

  一九八〇年 クリスマス
                                 武 藤 富 男










連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第162回)

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「恵みの雨:住宅の花壇の花たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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            第162回


       武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』

  
 『賀川豊彦全集』の配本を取り出してきました。今回は、出版元のキリスト新聞社創立20年の記念として、出版の実質的な責任をになってきた武藤富男氏の著作『賀川豊彦全集ダイジェスト』を収めます。

 毎月刊行で予定通り2年間で完結させて2年後、昭和41年8月にキリスト新聞社より出版されました。

 本書には、20頁分の写真が収められて、巻末には「賀川豊彦年表」(400頁~448頁)が作られており、大変便利なものでした。

 別のところでも書きましたが、ある時期にこの著作の英訳の企画があって、惜しくも頓挫した経緯がありました。

 ここでは、著者の武藤氏の「序」をUPいたします。



                      序


 昭和三十七年から三十九年までの二年間、賀川豊彦全集二十四巻の解説を書くに当たり、私は各巻のダイジェストを解説に加えました。これは読者のみなさんが、本文を読まずとも、その梗概を理解して下さるようにと志したからです。そこでどの巻についても、原本を一回通読し、それから第二回目を精読し、そのあとで筆をとって、解説を書いた後、必ず作品のあらすじを書き加えました。

 読者のみなさんにお目にかかると、本文はあとで読むことにして解説だけ読んで、賀川全集を読んだことにしたと言う方があり、また解説だけをまとめて本にするとよいとおすすめ下さる方がありました。そこで賀川全集二十四巻をお買いにならなかった方々のために、私か書いたものをまとめて一本とし、賀川豊彦全集ダイジェストとして出版することにいたしました。

 これをお読みになれば、みなさんは賀川先生の作品を大体において理解しうると存じます。それではどうも物足りないと感ずる方は、全集を持っておられる個人や学校や図書館について、必要なところを調べれば、くわしい内容を知ることができますので、この本は、そのための手引の役割もいたします。

 賀川先生がキリスト新聞を創刊してから今年は二十周年なので、それを記念する意味で、この本を世に送ります。これは作品を通して見た私の賀川観をも含んでおります。

   昭和四十一年七月
                                    武藤富男











連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第161回)

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「明石公園にある二つの図書館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



       賀川豊彦の著作―序文など

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             第161回


     『賀川豊彦全集18』(第22回配本「月報22」)


  
 『賀川豊彦全集』の第22回配本は、昭和39年6月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他)」として分類されている第18巻が刊行されました。

 今回の「月報22」には、「“私がひきうけた”」と題して平山照次氏(東京山手教会牧師)、「飛躍の信仰」と題して筧光顕氏(立教大学教授)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集18』第22回配本「月報22」

                 “私がひきうけた”

                  平山 照次


 一九二八年、私が小樽高商(現商科大学前身)一年の秋、全国協同伝道北海道に来られた賀川先生は、中央座だったかの映画館で「神による新生」という題で講演された。私が賀川先生を知ったのはその時が初めてだった。満堂の聴衆だった。私は試験中だったがちょうど小樽公園通教会で求道中だったのでききに行った。講演が終る頃、賀川先生は右足を折って前方を踏まえ、右の手で階上階下の聴衆を指しながら、
 「わたしは芸者の子です。母は貧乏で身売させられたのです。どんなに恥ずかしかったことか。ここにおられる方々の中にもそういう貧乏な方がおられるに違いない、わたしはそういう方々が神の愛によって新しい生命に立上って下さるためにここに来ました! 希望を持って下さい。決して絶望するにはあたらないのです!」

 そう叫んで満堂を見渡した時、会場はシンと静まり返った。ライトに照された賀川先生の眼から涙が流れ落ちていた。その涙の中に光る真実が、躊躇なく決心カードに記名さしたのであった。

 一九四六年終戦翌年の一月、中国の華北から復員帰京した私は、自分が知らない間に「福音伝道団」の主事にさせられていることを知った。すなおにその役を引受けた。終戦の年早くも労働組合や政党や民主団体等は総会なり大会なりを開いて立直りを示していた。

 私は当時霊南坂教会の牧師だったが、キリスト教が大会も総会もせず萎縮しているのを残念に思い、当時の富田満教団統理に臨時総会開催を要望した。食糧事情、交通事情、宿泊事情が悪いからとの理由でことわられた。政党や労組の働きで条件が出来上ってから開催するようでは、何の面目があって「救世」を語ることができよう。

 私は八方信徒大会開催の説得に努めた。福音伝道団委員会にかけたら、一同共鳴し賛成してくれた。ところが資金をどうするかには思案投首だった。神田錦町の基督教会館四階の私たちの室の隣りにある「世界平和協会」室から、賀川先生は弁当箱を左手に、右手に箸を持ったままはいって来られた。

 「何の相談ですか」「これこれしかじかで募金の相談中です」「いくらいるのですか」「十万円です」「よし、引受けた、募金運動を極力やって下さい、不足分は私が全部引受けた!」

 六月九日全国信徒大会開催はここに決定した。(そのお蔭で教団の臨時総会も開けたのだった)私はその総務主事ということで、散文館、聖書協会、明治学院、YMCAなど歴訪して訴えた。結局賀川先生には一文も出して貰わずに出来た。何千人かの信徒が参集した。

 会場の青山学院正門正面には、私が作った標語「全日本ヘキリストを!」の横幕が掲げられた。そこから「新日本建設キリスト運動」が出発した。賀川先生と共に私が、その特別請師に任ぜられた。

 「食糧救済、伝道救霊、道義高揚」の三目標を掲げて火の玉のように、全国を伝道して廻り、私だけでもその三年間に、講演一千回、聴衆七万人、洗礼決心者三千人ぐらいの集会をしたかと思う。もとをただせば「私が引受けた」という賀川先生の一言が、キリスト教戦後立上りのきっかけを作ったのであった。

 場所は前と同じ神田錦町キリスト教会館四階廊下でのこと、パッタり出会った賀川先生は、いつになく不機嫌な顔で、私を怒鳴りつけるような調子で「平山さん、あなたは今度代議士に立侯補するそうですね」「いいえ、しません」「いやあなたはする! 碓かな筋からきいている」「いいえ、そんな話はありましたが、私は立候補のつもりはありません」

 「本当ですか、それきいて安心した。平山さん、わたしたちは、全国各地の淋しい人たちを慰めて廻りましょうね」
 賀川先生はやっと手を差出して握手してくれた。その手は暖かく柔かった。

                                 〔日基教団東京山手教会牧師〕



               

                  飛躍の信仰
              
                  筧 光顕


 それは何年何月であったかはっきりと記億して居ないが、我々が戦争の痛苦をひしひしと身に覚えはじめた頃、暖を取る火もない冬であった。或る寒い朝、私は賀川、小川清澄の両君を連れて目白の有田八郎氏の私邸をおとづれた。当時貴族院議員で、大臣の前官礼遇者の政治家で、しかも自由主義の立場を守って、国際的見識の高い有田氏と、絶対平和主義である賀川君との間に、戦争と平和について意見をたたかわす機会を与えたかったのである。後年有田氏は社会党に入って平和主義者になったばかりでなく最後の東京都知事選挙の際は賀川君がその後援会長をつとめたような両者の関係が出来たが、その時は初対面であり、外交界政界の先輩と野人賀川豊彦との会談であった。

 国際平和の問題に関して有田氏は、「今の世界では、平和は国際的な力の均衡か保たれている場合にのみ保持し得るものだから、われわれ政治家は、常にそういう力の関係に自国を置くように常に努力しなければならない。歴史的にみて力の均衡のみが現実の世界における平和の基礎である」と主張した。それに対して賀川君は、「有田先生は政治家だから、そう考えられ、またそのように努力されているので、私はそれに対して敬意を払いますが、私は宗教家としてそれ以上に進まなければならないと考えています。宗教家というものは常に現実の上に常識の上に飛躍する理想こそが、平和の基礎であると信じなければなりません」と自己の信念を語った。

 この飛躍の理想、飛躍の信仰こそが、賀川君を動かした力であった。私は、今でも国際危機という事態が起りかける時にいつも、この意味で賀川を思うのである。彼こそは如何なる危機にも、行詰りにもこの信仰で立向って行き得る人であった。
                                       〔立教大学教授〕





                 貧しき人々の友

                 今村 好太郎
 

 私が神戸神学校本科一年に入学したのは、明治四十二年九月のことであった。当時新学年は九月に始まった。神戸神学校は、東京の明治学院神学部から分離して、明治三十九年米国南長老教会伝道局によって、あらたに設立されたもので、私が入学した年の六月最初の卒業生として富田満君を学校から送り出した。当時学生も教授も発足間もない時代として、きわめて少数であった。学生は本科三年に東京から移ってきた学生が二名、本科二年には、これも東京から転校してきた賀川豊彦君とほかに四名、本科一年に私のほかに三名、予科に五名計十六名の学生に対して教師陣は外人教師三名、邦人教師三名計六名という状態であった。そのため、よく上級と下級との合併授業が行われ、おかげで私は度々賀川豊彦君と机を並べて勉強する機会をえた。

 当時、賀川君は二十一歳、下級の私が二十五才であった。その頃、彼の健康はきわめて不良であった。彼は度々喀血して学校を休んだが、殆ど彼は自己の病気を意に介しないかの如く、自己本来の使命だと言って、新川のスラム街に移り住んでいた。当時の神戸新川のスラム街は、通路の極端に狭い、悪臭をはなつ路道の両側に建ちならんだ、二帖一間、三帖一間の古い茅屋であった。賀川君はこの狭い部屋二戸を打ぬいて一間として、そこで日曜学校も開けば、説教もし、祈祷会も開く集会場としていた。彼の語るところによると、毎朝六時にはスラム街を廻ってさんぴかを歌って歩いた。これは時計のない貧民たちには、起床のサイレン代りになると言うので喜ばれたとのことであった。

 彼は神学校の授業をおえて帰ると、夜は毎夜のように路傍に立って街頭説教を試みた。彼は胸の疾患に悩みながら、病者の世話、困窮者の救助、失業者や、酔漢の金銭の無心に悩まされながら、モの間には読書もすれば、研究もし、また執筆もした。小説『死線を越えて』『貧民心理の研究』『主観経済学原理』その他の著書もこの茅屋の中から生れた。彼はさらに消費組合運動、医療伝道、東京、大阪、神戸のセツルメント設置やイエス団の組織などを計画し、また川崎造船所の大ストライキ事件にも、陣頭に立ってその指揮にあたるというように、彼の活動は年とともに発展した。

 彼は、頭脳明晰な天才肌の人であった。そのため天才に共通する半面の短所欠陥をももっていた。彼の計画、彼の研究と読書はきわめて多方面であった。後に彼は世界的な大宣教に運動をも試み、世界を旅して活動し、社会党の前身労働総同盟や農民組合、消費組合運動など活動して、一躍世界の名士となり、福音の実践者、基督愛の行者となって各方面から聖者のように仰がれる人となった。

 けれど、学友であった私の心を引くのは、そうした政治運動や、労働運動、消費組合運動に活躍し、二百冊におよぶ著書を書いた同君ではなく、プリンストン大学の神学校を卒業して帰朝しても、当初の志を変えず、ハル子夫人と共に貧民窟に起居しながら、病苦に悩まされつつ、貧しい人々の友となり、彼らの救霊と救済のために千苦万苦をしのんで働いていた当時の君であった。『残されしただ一枚の衣だに、友のためには脱がんとぞ思う』と歌った彼の歌の言のように、また貧民窟で書いだ彼の詩集『涙の二等分』のごときも、その標題の由来をきいたとき私は感動した。それはある時一人の婦人から赤ん坊の世話を頼まれた、空腹に啼き叫ぶ赤ん坊に彼は与えるミルクを買う金さえもなぐ、困感のあまり自分も涙にくれて自らの涙をスブーンにうけて子供にのませたところから、『涙の二等分』と名付けたといっていた彼の言に、私も胸を打たれたのであった。

 要するところ、彼は身をもてイエス・キリストの愛を実践しようとした、愛の使徒であり、貧しい者の友となり、彼らの救済を救霊のために全身全霊を傾けて、働きぬいた基督教の戦士であった。前途に大なる夢を描きつつ貧民街で苦労していた頃の賀川豊彦君を、今も私ば心に思いいでて、尊敬となつかしさを禁じえないのである。
                                   〔日本基督住吉教会牧師〕







連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第160回)

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「神戸大学と神戸映画資料館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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            第160回



     『賀川豊彦全集13』(第23回配本「月報23」)


  
 『賀川豊彦全集』の第23回配本は、昭和39年7月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第13巻が刊行されました。

 今回の「月報23」には、「最後の無理」と題して松前重義氏(東海大学学長)、「誤解に苦しむ」と題して賀川益慶氏(賀川商店社長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集13』第23回配本「月報23」

                   最後の無理

                   松前 重義


 賀川先生にお目にかかったのは終戦後間もない頃であったと記憶する。何かの座談会で先生より物質の構造に関して特に原子物理学についてのお話を承って、私は先生の原子物理学に関する否自然科学についての造詣の深いことに驚いたことがあった。先生は『わしは戦時中わしの発明した整流器の特許による電源社からの特許料でめしを食っていた』との言葉を聞いて先生は自然科学者であり技術者でもあることを知っていよいよ先生の偉大さを知った。その後先生が『希望的宇宙観』なる著書で自然科学と宗教との一致の中に大宇宙の生成発展とその完成の希望を托した字宙の見方をものされたのもむべなる哉であった。

 先生は社会運動家として社会党の顧問であった。前回の総選挙の時私の願いを容れられて私の応援に遠路わざわざ熊本までお出で下さった。その時の先生の体は最早少々不自由に見受けられ本当に相済まぬと思い心から感鮒したのであった。先生は私にいわれた。『私は杉山元治郎君と君と二人だけ応援することにしている』私は先生のご厚意にただ感謝するばかりだった。

 先生は熊本市公会堂の私の演説会で私か科学技術者であるためか、次の様な面白い先生らしい講演をされた。このことは今だに忘れることは出来ない。

 『わしは何時も考えている。関門海峡と豊後水道と鳴門海峡と淡路海峡に網をはって瀬戸内海を鯨や鮪の養魚場にするくらいのことを考えねば日本民族は生きてゆけない。さしむき熊本では有明海の入口に網を張って鯨や鮪の養魚をやったらどうだろう。これらはすべて自然科学の力によらなければならない。そして不可能のことではない。今日のような目先のことばかり追っかけ廻すような近視眼的な政治では日本は救われない』

 と絶叫されて科学者としでの私を推薦されたのであった。

 この時の先生の一時間半にわたる演説は初めより最後まで科学溝演であっだ。この時、私は科学者としての先生を再び深く認識したのであった。

 先生はかつて私に『わしは国民の科学知織普及のため「原子双六」をつくっている。これで子供のうちから遊びながら知らず知らず宇宙の構造や自然科学に親しむようになる、いつか君にお目にかけよう』

 といわれたことがあった。この原子双六の行方は如何になったことだろう。

 私はお礼のためにお宅にお伺いしたとき奥様は『今新潟から長野に伝道旅行に出ている。身体は不自由でも約束を果すためには無理から無理を押し通す人ですから』といっておられた。どうもこの無理は私の選挙とともに最後の無理ではなかったかと本当に申し訳なく思っている。

 先生の病重しと伝えられた時には私共は国会を中心として杉山元治郎先生の提唱で先生をノーベル平和賞の受賞者として推薦の運動中であった。そして著しく有望を伝えられた。先生の生命にしてあと数ケ月を許されたならば恐らくこのことは実現したであろうと私は信ずる。然し先生はこんな世俗の名誉等には目もくれずして静かに召天された。偉大な生涯であった。

 先生の思想はキリスト教の信仰に根ざすとともに完全に二十世紀の科学をマスターしておられた。十九世紀までのニニュートンカ学による因果律を基調とする所謂当時の科学的歴史観即ち唯物史観に対して先生はマックス・プランクの量子力学、アイんシュタインの相対性原理、ハイゼンペルグの不確定性の定律を始め字宙線、原子物理学に到るまでを完全にわがものとして、この二十世紀の科学の証明する神秘的宇宙観の下に科学と信仰との一致に到達せられたと私は思う、

 先生は愛の人であった。先生は正義のための戦の人であった。そして先生は科学者でもあった。勿諭、大伝道者であった。われわれは先生を世界に誇る。そして限りなき感謝を神に捧げる。われわれは今先生の屍を乗り越えて、先生の跡を前進しなければならない。
                                       〔東海大学学長〕

  


                誤解に苦しむ

                賀川 益慶


 私たちの古里は阿波吉野川のほとりだった。美しい 清い流れがサラサラ流れていた印象が焼きついている。今では徳島県板野郡大麻町堀江東馬詰村と変っている。

 明治三十三年のことだったが、兄豊彦は徳島中学へ入学した。ちょうどその時、後に堀江小学校の校長になった石川先生が、兄の同窓で師範学校に入学した。当時は教育に関心がなかったのと、子供を上級学校にやる家はよほどの金持ちだった。村でも二人のほかは、小学校から上級学校へ進学する者はなかった。賀川家は村では、分限者といわれていた。

 父のなき後の神戸の賀川回漕店は、長兄端一が二十三、四歳の若さで経営していたが、持船の遭難があったりして、大きな損害をうけ、挽回できぬまま家運は傾いて没落した。

 私は長兄の家で暮していたが、六歳になり、小学校へ入らねばならないので、神戸より徳島の実家にやられた。

 そのころのこと堀江高等小学校四年生の兄豊彦が、学校の小使の娘を洋傘で殴ったという事件があり、それか原因でその娘が肋膜となった。小使は娘をひどい目にあわせたというので『賠償せよ』と強談判に及んで騒ぎは大きくなった。賀川家は金持ちだからと、背後でそそのかす者があったのだろう。その時のことは子供心に、私は今でもよくおぼえている。

 兄はそんな乱暴はしたおぼえがないのに、とんだ誤解をうけたのに心を痛め、非常に苦しんでいた。兄がクリスチャンになった原因はこのことと、『めかけの子だ』とかげぐちをきかれることを苦にしていたので、自分が大きくなったら、妾をなくそうという夢を持っていたらしい。この二つの原因からではないかと思う。

 私が十歳になった、ある日のこと、兄は徳鳥のローガン先生のお宅へ私を連れて行うだ。私にすれば何のために私を連れて行ったのかわからなかった。その時はじめてバンを食べた。食事の前に祈りがあったので、ヤソ敦の先生であると知った。

 当時兄は徳島の伯父、森六兵衛のところで世話になっていたが、伯父は日ごろロぐせのように『ヤソは家に入れぬぞ』といって、兄にいやみをいうていた。

 その後、数年すぎて、私は大臣の親類の肥料店へ奉公に出た。ある日店先きに見なれない、洋服を着た若いハイカラな人が立っていた。そのころ軍人でも将校のきる真赤な裏地の外套を着て、さっそうたる姿は、ひときわ目をそばだてた。『ヤソの兄さんが来はりましたぜ』という声に出て見ると、中学生姿のなつかしい兄だった。

 ずっと後になり、明治学院を卒業して、神戸の貧民窟で伝道し、アメリカに留学することになり、私のところに来て『「貧民心理の研究」の原稿が銀座の讐醒社へ五百円で売れる予定だから、それまで旅費に三百円貸してくれ』といった。当時五百円あれば二等船客としてアメリカまで行けるのである、二十歳の私には三百円は大金であったが、すぐ用立て、兄はアメリカに向った。
                                   〔株式会社賀川商店社長〕
   





                  日米開戦を予言
                   
                    園部不二夫


 一九四一(昭和十六)年七月の最後の日曜日、平和使節で波米した賀川先生は、サンフランシスコ合同教会で、お別れの説教をして下さった。礼拝後、中華料理店で午餐会がひらかれ、僕らも招待されたが、その席上先生は驚くべき事実を語ってくれた。

 「実はいままで誰にも話さなかったが、諸君は牧師さんなのでお話ししておこう。今度の渡米の目的には一つの大きな使命があったのです。近衛公からひそかに依頼されてルーズベルトに日本と支那との間の調停をしてもらうために来たのです。いま日本は日支事変で勝った、勝ったと景気の良いことをいっているが、実は四年間も戦っていて収拾がつかないで弱っている。終止符を打つためには調停者に頼まなければならない。日露戦争のときには前のテオドール・ルーズベルトが調停役を引き受けてくれたが、今度蒋介石と近衛さんとの間に立つものはフランクリン・ルーズペルト以外にない。そこで近衛さんは私にルーズベルトを説き落してくれというのです。こうして私は、おみやげに大続領の立派な肖像画を持参しでアメリカにきました。最初シャトルに上陸しようと思ったらトラホームのため検疫が通らない。仕方なく大統領に電報打ったら、早速カガワを上げてやれという。ただし伝染してはいかんので、ほかの人と梶手まかりならぬということでしたが……。とにかく上陸がゆるされ、ルーズベルトと会って彼をとうとう説ぎふせたのです。そして近衛さんと洋上会談するなり、何なりして日支問の調停役を引き受けてもらうようにチャンと取りきめてきたのです。ところが、どうですか、一ヶ月前の六月二十二日には独ソ戦が開始された。つい一週間前の七月二十三日には突然日本軍が仏印に進駐し出したではないですか。ワシントンぢやカンカソですよ。わたしの計画は全く水泡に帰してしまいました。ルーズベルトから“ガガワ、これではどうにもならない。近衛さんとの会談の仲は取り消してくれ″というて来たのです」

 先生はいかにも残念そうにそういわれた。一座のものはびっくりしてしまった。僕はこの話を聞いた時ほど“貿川豊彦”の偉大さに打たれたことはなかった。日本の外交官、政治家百人よりも、一人の宗教家カガワをルーズベルトは信用していたのであった。日本軍部の無思慮な攻撃のため、近衛・ルーズベルト会談は失敗に帰した。しかし大統領をここまで動かしたのはカガワの人格であった。

 先生はこうなったら日米戦争が遠からず起るのではないかとおそれ、牧師たちに極力米国市民と融和を計るように助言した。この時アメリカは日本の資産凍結を宣して報いていたからである。

 中華料理店を出たあと、先生は僕をつかまえて、しんみりいわれた。

 「ミスター・ソノベ! ヘたをしたら戦争おこるよ!あぶないネ、キミぐずぐずしていると帰れなくなるよ、この船のがしたら船、来ないよ!」

 先生は二、三度繰りかえして同じことをいわれた。

 ぼくは実際のところ、その時は事態がそこまで切迫しているとは思っていなかった。しかし先生が“戦争はおこるよ”“この船のがしたら船、来ないよ!”と繰りかえしいわれたことを忘れることができなかった。

 ちょうどロサンゼルスでは、カガワ・サソデーが守られるはずだったが、先生はこれを放棄して帰国されようとした。それは近衛公への重大使命報告があったからであった。

 一方、賀川先生は近衛・ルーズベルト会談を開いて戦争を防止するにしかずと考へスタソレー・ジョーンズを通じ、再度交渉にあたっていた。ジョーンズからは、

 「ここ一週間があぶない、ワシントンでも徹夜の祈祷会を開くから、東京でも開くように」と打電して来た。先生は同志たちと連夜祈祷会を開き、一週間つづけた。ローソクの灯が消された十二月八日早朝、ラジオは軍艦マーチとともに日本軍の真珠湾攻撃の報を高らかに報じた。

 先生の。戦争の予言はエレミヤの予言の如く悲しくも実現したのだった。
                                     〔明治学院大学教授〕









連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第159回)

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「ぶらり散歩:新湊川公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


      賀川豊彦の著作―序文など

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          第159回


     『賀川豊彦全集18』(第22回配本「月報22」)

  
 『賀川豊彦全集』の第22回配本は、昭和39年6月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他)」として分類されている第18巻が刊行されました。

 今回の「月報22」には、「“私がひきうけた”」と題して平山照次氏(東京山手教会牧師)、「飛躍の信仰」と題して筧光顕氏(立教大学教授)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集18』第22回配本「月報22」

                 “私がひきうけた”

                  平山 照次


 一九二八年、私が小樽高商(現商科大学前身)一年の秋、全国協同伝道北海道に来られた賀川先生は、中央座だったかの映画館で「神による新生」という題で講演された。私が賀川先生を知ったのはその時が初めてだった。満堂の聴衆だった。私は試験中だったがちょうど小樽公園通教会で求道中だったのでききに行った。講演が終る頃、賀川先生は右足を折って前方を踏まえ、右の手で階上階下の聴衆を指しながら、
 「わたしは芸者の子です。母は貧乏で身売させられたのです。どんなに恥ずかしかったことか。ここにおられる方々の中にもそういう貧乏な方がおられるに違いない、わたしはそういう方々が神の愛によって新しい生命に立上って下さるためにここに来ました! 希望を持って下さい。決して絶望するにはあたらないのです!」

 そう叫んで満堂を見渡した時、会場はシンと静まり返った。ライトに照された賀川先生の眼から涙が流れ落ちていた。その涙の中に光る真実が、躊躇なく決心カードに記名さしたのであった。

 一九四六年終戦翌年の一月、中国の華北から復員帰京した私は、自分が知らない間に「福音伝道団」の主事にさせられていることを知った。すなおにその役を引受けた。終戦の年早くも労働組合や政党や民主団体等は総会なり大会なりを開いて立直りを示していた。

 私は当時霊南坂教会の牧師だったが、キリスト教が大会も総会もせず萎縮しているのを残念に思い、当時の富田満教団統理に臨時総会開催を要望した。食糧事情、交通事情、宿泊事情が悪いからとの理由でことわられた。政党や労組の働きで条件が出来上ってから開催するようでは、何の面目があって「救世」を語ることができよう。

 私は八方信徒大会開催の説得に努めた。福音伝道団委員会にかけたら、一同共鳴し賛成してくれた。ところが資金をどうするかには思案投首だった。神田錦町の基督教会館四階の私たちの室の隣りにある「世界平和協会」室から、賀川先生は弁当箱を左手に、右手に箸を持ったままはいって来られた。

 「何の相談ですか」「これこれしかじかで募金の相談中です」「いくらいるのですか」「十万円です」「よし、引受けた、募金運動を極力やって下さい、不足分は私が全部引受けた!」

 六月九日全国信徒大会開催はここに決定した。(そのお蔭で教団の臨時総会も開けたのだった)私はその総務主事ということで、散文館、聖書協会、明治学院、YMCAなど歴訪して訴えた。結局賀川先生には一文も出して貰わずに出来た。何千人かの信徒が参集した。

 会場の青山学院正門正面には、私が作った標語「全日本ヘキリストを!」の横幕が掲げられた。そこから「新日本建設キリスト運動」が出発した。賀川先生と共に私が、その特別請師に任ぜられた。

 「食糧救済、伝道救霊、道義高揚」の三目標を掲げて火の玉のように、全国を伝道して廻り、私だけでもその三年間に、講演一千回、聴衆七万人、洗礼決心者三千人ぐらいの集会をしたかと思う。もとをただせば「私が引受けた」という賀川先生の一言が、キリスト教戦後立上りのきっかけを作ったのであった。

 場所は前と同じ神田錦町キリスト教会館四階廊下でのこと、パッタり出会った賀川先生は、いつになく不機嫌な顔で、私を怒鳴りつけるような調子で「平山さん、あなたは今度代議士に立侯補するそうですね」「いいえ、しません」「いやあなたはする! 碓かな筋からきいている」「いいえ、そんな話はありましたが、私は立候補のつもりはありません」

 「本当ですか、それきいて安心した。平山さん、わたしたちは、全国各地の淋しい人たちを慰めて廻りましょうね」
 賀川先生はやっと手を差出して握手してくれた。その手は暖かく柔かった。

                                 〔日基教団東京山手教会牧師〕



               

                  飛躍の信仰
              
                  筧 光顕


 それは何年何月であったかはっきりと記億して居ないが、我々が戦争の痛苦をひしひしと身に覚えはじめた頃、暖を取る火もない冬であった。或る寒い朝、私は賀川、小川清澄の両君を連れて目白の有田八郎氏の私邸をおとづれた。当時貴族院議員で、大臣の前官礼遇者の政治家で、しかも自由主義の立場を守って、国際的見識の高い有田氏と、絶対平和主義である賀川君との間に、戦争と平和について意見をたたかわす機会を与えたかったのである。後年有田氏は社会党に入って平和主義者になったばかりでなく最後の東京都知事選挙の際は賀川君がその後援会長をつとめたような両者の関係が出来たが、その時は初対面であり、外交界政界の先輩と野人賀川豊彦との会談であった。

 国際平和の問題に関して有田氏は、「今の世界では、平和は国際的な力の均衡か保たれている場合にのみ保持し得るものだから、われわれ政治家は、常にそういう力の関係に自国を置くように常に努力しなければならない。歴史的にみて力の均衡のみが現実の世界における平和の基礎である」と主張した。それに対して賀川君は、「有田先生は政治家だから、そう考えられ、またそのように努力されているので、私はそれに対して敬意を払いますが、私は宗教家としてそれ以上に進まなければならないと考えています。宗教家というものは常に現実の上に常識の上に飛躍する理想こそが、平和の基礎であると信じなければなりません」と自己の信念を語った。

 この飛躍の理想、飛躍の信仰こそが、賀川君を動かした力であった。私は、今でも国際危機という事態が起りかける時にいつも、この意味で賀川を思うのである。彼こそは如何なる危機にも、行詰りにもこの信仰で立向って行き得る人であった。
                                       〔立教大学教授〕





                 貧しき人々の友

                 今村 好太郎
 

 私が神戸神学校本科一年に入学したのは、明治四十二年九月のことであった。当時新学年は九月に始まった。神戸神学校は、東京の明治学院神学部から分離して、明治三十九年米国南長老教会伝道局によって、あらたに設立されたもので、私が入学した年の六月最初の卒業生として富田満君を学校から送り出した。当時学生も教授も発足間もない時代として、きわめて少数であった。学生は本科三年に東京から移ってきた学生が二名、本科二年には、これも東京から転校してきた賀川豊彦君とほかに四名、本科一年に私のほかに三名、予科に五名計十六名の学生に対して教師陣は外人教師三名、邦人教師三名計六名という状態であった。そのため、よく上級と下級との合併授業が行われ、おかげで私は度々賀川豊彦君と机を並べて勉強する機会をえた。

 当時、賀川君は二十一歳、下級の私が二十五才であった。その頃、彼の健康はきわめて不良であった。彼は度々喀血して学校を休んだが、殆ど彼は自己の病気を意に介しないかの如く、自己本来の使命だと言って、新川のスラム街に移り住んでいた。当時の神戸新川のスラム街は、通路の極端に狭い、悪臭をはなつ路道の両側に建ちならんだ、二帖一間、三帖一間の古い茅屋であった。賀川君はこの狭い部屋二戸を打ぬいて一間として、そこで日曜学校も開けば、説教もし、祈祷会も開く集会場としていた。彼の語るところによると、毎朝六時にはスラム街を廻ってさんぴかを歌って歩いた。これは時計のない貧民たちには、起床のサイレン代りになると言うので喜ばれたとのことであった。

 彼は神学校の授業をおえて帰ると、夜は毎夜のように路傍に立って街頭説教を試みた。彼は胸の疾患に悩みながら、病者の世話、困窮者の救助、失業者や、酔漢の金銭の無心に悩まされながら、モの間には読書もすれば、研究もし、また執筆もした。小説『死線を越えて』『貧民心理の研究』『主観経済学原理』その他の著書もこの茅屋の中から生れた。彼はさらに消費組合運動、医療伝道、東京、大阪、神戸のセツルメント設置やイエス団の組織などを計画し、また川崎造船所の大ストライキ事件にも、陣頭に立ってその指揮にあたるというように、彼の活動は年とともに発展した。

 彼は、頭脳明晰な天才肌の人であった。そのため天才に共通する半面の短所欠陥をももっていた。彼の計画、彼の研究と読書はきわめて多方面であった。後に彼は世界的な大宣教に運動をも試み、世界を旅して活動し、社会党の前身労働総同盟や農民組合、消費組合運動など活動して、一躍世界の名士となり、福音の実践者、基督愛の行者となって各方面から聖者のように仰がれる人となった。

 けれど、学友であった私の心を引くのは、そうした政治運動や、労働運動、消費組合運動に活躍し、二百冊におよぶ著書を書いた同君ではなく、プリンストン大学の神学校を卒業して帰朝しても、当初の志を変えず、ハル子夫人と共に貧民窟に起居しながら、病苦に悩まされつつ、貧しい人々の友となり、彼らの救霊と救済のために千苦万苦をしのんで働いていた当時の君であった。『残されしただ一枚の衣だに、友のためには脱がんとぞ思う』と歌った彼の歌の言のように、また貧民窟で書いだ彼の詩集『涙の二等分』のごときも、その標題の由来をきいたとき私は感動した。それはある時一人の婦人から赤ん坊の世話を頼まれた、空腹に啼き叫ぶ赤ん坊に彼は与えるミルクを買う金さえもなぐ、困感のあまり自分も涙にくれて自らの涙をスブーンにうけて子供にのませたところから、『涙の二等分』と名付けたといっていた彼の言に、私も胸を打たれたのであった。

 要するところ、彼は身をもてイエス・キリストの愛を実践しようとした、愛の使徒であり、貧しい者の友となり、彼らの救済を救霊のために全身全霊を傾けて、働きぬいた基督教の戦士であった。前途に大なる夢を描きつつ貧民街で苦労していた頃の賀川豊彦君を、今も私ば心に思いいでて、尊敬となつかしさを禁じえないのである。
                                   〔日本基督住吉教会牧師〕











連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第158回)

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「映画<一粒の麦>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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             第158回


     『賀川豊彦全集10』(第21回配本「月報21」)


  
 『賀川豊彦全集』の第21回配本は、昭和39年5月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第22巻が刊行されました。

 今回の「月報21」には、「“世界連邦運動”生みの親、育ての親」と題して小塩完次氏(国際平和協会常務理事)、「尻のやぶれたズボン」と題して山崎宗太郎氏(大阪クリスチャンセンター総主事)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集10』第21回配本「月報21」

             “世界連邦運動”生みの親、育ての親
                 
                   小塩 完次


 一九六三年の世界連邦大会のファイナル・セッションで、事務総長の西村関一氏があいさつして「この機会に、いまは地上になき方々ですが、忘れることのできない三人の先覚者がある」とて、尾崎行雄、賀川豊彦、下中弥三郎の名をあげ、大きな感動をよんだ。

 もしも賀川先生がおられたら、どんなにかこの大会を喜んでくださったことであろうとは、誰もが思ったことであった。「日本で世界連邦大会をひらく」ということは、一九五〇年、賀川先生が、招かれて英国伝道におもむかれたとき、一日、英国国会内に本部のある「世界連邦のための国会議員団」を訪問せられたとき、労働党の若手議員のチャキチャキで、百万人に一人の代表を選出して「世界憲法起草人民会識」をひらこうという計画を提唱していたへンリー・アスボーソ氏が。
「カガワさん、日本で世界連邦会識を開催していただけませんか」
と、熱心にもちかけてきた。これかキッカケであったといってよいであろう。

 もっともそのころ日本において、毎日新聞は社説で「世界連邦の可能性」を書いたし、NHKは日比谷公会堂で放送討論会をひらいて「世界国家はできるか」を、まともに採りあげていたし、わたしたちとしても、はじめて東京市民にデビューした「世界連邦東京大会」で、「世界大会の日本招致」を決議しでいたのだから、賀川先生を介してのアスボーン提案は、渡りにふねというか、魚ごころに水ごころですらあったのだ。

 アスボーンの申出は、「できるならヒロシ々で……」ということであった。賀川先生からは、すぐさま、ときの首相吉田茂氏、衆院議長の松岡駒吉氏、それに広島市長浜井信三氏らあてに、それぞれ電報が発せられた。私はときをうつさず広島に走り、楠瀬知事、浜井市長らとこの件について話し合った。その前の年の五月三日には、賀川先生のお伴をして広島に出かけ、市主催の憲法記念日講演として先生は、「世界永久平和の創造」の題で語られ「平和への道は世界連邦あるのみ」とのタネまきをしておられたことでもあり、県市とも、二つ返事で、「やりましよう」、「お引受けしましよう」ということになった。そうはいっても、赤ハダカに焼けただれたままの広島であり、ホテルらしいもの一つあるでなし、地元だけで、どうにもなるものでない。国として相当力を入れてくれるならお引受けする、というのが各方面有力筋の意向であった。私は、かまわず「出来ます」という返事を、ロンドンの先生あてに打ってしまった。何んとしてでもやるべきであり、やらねばならないと考えたからで、先生からの電報なるものが、一応可能性の検討をという形をとっているものの、じつは、「やれ」という鶴の一と声だ、と読んだからである。(翌二十七年の十一月、第一回世界達邦アジア会議は、賀川議長のもとに、見事に挙行された。)

 そのころ、世界連邦建設同盟は、録な事務所にもありつけず、あちこちを、さまよい歩いていたのだったが、「うちへ来なさい」と、先生から拾われて、神田錦町の「カガワ事務所」に引取られた。以来八年有余、賀川先生の主宰する国際平和協会と同居し、協会の機関誌「世界国家」を、賀川豊彦主幹―同盟編集―協会発行という形にして、同盟の機関誌に代用させていただいた。

 こうなった一、二年後のこと、武藤富男氏に、同誌の編集を一任して、面目一新の大発展をやったこともある。当時、毎号の「少年平和読本」が呼び物だったが、これは貿川先生の講演を台にして、村島帰之氏が麗筆を揮ったもの。チョコザイにも、ここはこうしたほうが世連理論にかなうから……などと、私が勝手な筆を加え、どうでしようかと先生に見ていただくと、「きみは、うまいね」とほめて下さるので、いい気になって、なおも朱を入れるという大それたこともやった。これと併んでの呼び物に、「新しいまぼろし」と題する続き物の大フィクションがあり、筆者ムラヤマ・タケシは、当の武藤氏であった。武藤流の型破り編集で、常識では巻末に六号活字でゴチャゴチャ詰めこんでおくていの内外情報を、巻頭にもってくるというドンデン返しをやり、それを、先生を「面白いね」と、ケシかけるので、編集委員会はケンカにもならぬという一と幕もあった。

 昨秋の京都会議のあと、私は、世界連邦運動の草分けの一人といわれているスイスの国際法学者ハビヒト博士、アメリカのメソジスト派社会総局「平和と軍撤、世界機構部長」という肩書をもつロドユー・ショオ氏らとチームを組んで、金沢市を訪れたが、車中、ハビヒト博士から、若かかりし日、ジュネーブでカガワ講演を聴いて興奮したものだと聞かされ、さてさて賀川先生の世界連邦歴も永いものだと感激一入なものがあった。
                                  〔国際平和協会常務理事〕
    




                尻のやぶれたズボン

                 山崎宗太郎


 衆議院選挙があると、大阪からは賀川先生に縁故のふかい人がいつも三人立候補した。杉山元治郎、西尾末広、大矢省三の三氏がそれである。

 賀川先生は、このうち杉山、西尾両氏の選挙にはつねに深い関心をもち、とくに杉山氏は先生の政治的身代りともいうべき人であったから、その応援には万難を排して出てこられるのであった。

 昭和三十年二月の選挙であったと思う。当時右派社会党大阪府連の事務局長をしていた私は、先生の大阪応援には必ずお伴をして演説会めぐりをした。ときに先生の前座をつとめて、向う見ずの演説をプッたことなど、いまはなつかしい思い出である。

 「杉山元治郎は山の杉のようにマッ直ぐな男である。しかも元を治める男である。同志杉山は、日本の政治界に必要な人物だ……」
 火のような熱弁が先生の口をついて飛び出すと、満員の聴衆は万雷の拍手に湧き返る。先生は夜おそくまで河内平野をかけめぐって、いくつかの演説会場を声をからして杉山氏のために応援された。
 「アア疲れたヨ……」
 健康でない先生は、控室にもどるとよくグッタリした姿を見せ、壁に背をもたせてジッと瞑目されているときもあった。何とかせねばと傍らで私は気を使うのだったが、ソッとして置くのがいちばんよいと、人を入れず静かにさせてあげるよう配慮した。
 「行かんヨ! ボクは病人だよッ……」
 約束以外の会場に運動員たちが出演を懇請しても、駄々ッ児のようにガンとして聞き入れぬかたくなさもあった。

 「西尾君はどうかネ?」
 杉山氏の応援のさなかにも、先生は第二区から出ている西尾氏のことを心配してたづねるのであった。苦戦を告げると
 「ヨシ、あした行こう」
 それは冬の寒風が吹き荒ぶ日であったが、西尾氏とともに選挙用車に乗って街頭演説に出かけた先生は、やがて何回かの応援を終って、福島区の西尾氏の支援者早川さんの宅に休憩のために戻ってきた。

 車から勢いよく降りて、家に入った先生の後姿を見て、早川の奥さんがスットン狂な声をあげた。
 「マア……先生!‥ ズボンが………」
 その声におどろいてよく見ると、黒い洋服のズボンの尻が大きく破れて、白いワイシャツの端が垂れ下がっているではないか。
「とうとう破れよったか。アハハハハ」
 先生は大口を開いてらいらくに笑ったが、一同もつりこまれて大笑い。
 奥さんが急いで針と糸をもってきたが、古びてスリ切れたズボンは縫いつぎもできぬ。 
「先生、サラのん買いまひよか?」
「いらん、いらん。ツギ当ててくれ給え」
 奥さんはしかたなく、紺のハギレ地をもってきて、お猿の尻のような大きいツギをあてた。
「これでまた、当分いけるよ。ハハハ」
 気軽に笑った先生は、ふたたび夜の演説会に出かけるべく車上の人となった。

 先生は印税、寄付、献金など、おそらく今日の時価に換算すれば、何億をもって数える財を身にうけた人であろうと思う。
 ところが、先生はこれをわが身のためには用いなかった。みんな伝道のため、教会のため、社会事業のため、すなわちキリストのためにささげてしまい、自分は簡素な生活に徹しでその生涯を終られた。

 晩年の病床の先生を見かねて、何人かの有志が献上した新築の小宅も、そこに入ることを拒み、ついに古家に臥したまま召されてしまった先生であった。「世の富を持っていながら『兄弟が困っているのを見て、あわれみの心を閉じる者にはどうして神の愛が彼のうちにあろうか」(ヨハネ第一、三ノー七)先生はこの聖句を実践された人だ。愛による行いと真実をもって。私は、先生に学ばねばならぬと思う。
 
                            〔大阪クリスチャン・センター総主事〕






連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第157回)

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「白鶴酒造資料館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第157回


     『賀川豊彦全集22』(第20回配本「月報20」)


  
 『賀川豊彦全集』の第20回配本は、昭和39年4月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他)」として分類されている第22巻が刊行されました。

 今回の「月報20」には、「お祈りの用意」と題して秦孝治郎氏(同志社理事長)、「新語の天才」と題して吉田源治郎氏(西宮一麦教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集22』第20回配本「月報20」

                  お祈りの用意
                       
                  秦 孝治郎


 それは、去る昭和三十一年(一九五六年)七月のことでありました。「基督と教会の為め」を標語として、過去七十五年間世界的に連絡し、奉仕している万国基督教共励会はダイヤモンド記念を各国で守ることとなったが、世界を二地域に分け太平洋地域は、日本に開催することとなり、長野県軽井沢の星野温泉をその会場と定めました。

 太平洋会議の第二日である七月三十一日には、賀川豊彦先生の講演を、万国連合基督教共励会会頭ボーリング博士の懇請から特別に依頼していました。当日の午後賀川先生は、星野温泉にお着きになり、旅装も解かず、兼ねて予定していた部屋にもお入りにならないで、私共が忙がしくしていた狭い事務室の椅子にお座りになりました。

 開口一番、かなり強い調子で
 「お祈りが出来ていますか」との一声でした。
 早遮、それに応じて私は答えました。
 「第一日の夜九時から三十分間この会議のために、然も米国のゲーツ博士の指導で祈祷会がありました』
 先生はすかさず
「それはそれでよろしいが、私が頼まれている第二日日の夜の講演会の為めに、神の祝福を祈ってくれましたか」
 私は、その用意が全然無かった事を告白しました。
「何しろ、共励会が日本にその種が蒔かれてから五十年以上になりますが国際的の大会を開いたのは初めてであり、米国を始めカナダ、濠州、香港、台湾、韓国からの出席者とドイツからのオブザーブもあって、この盛会はまことに感謝ですが、全く準備が不充分で先生に対して申訳がありません」
 と平あやまりにあやまりました。

 先生の顔がやや柔和に還りほころびかけて来ました。さらに一寸手をあげ仰しゃいました。
 「それや、よかった、私は昔は、共励会の集りに出たのだが、終戦後は、こん度が始めてで、一体どんな充実した集会になるのか、心配して来たのです、さあ、今晩の講演会の為めに祈ろうじゃないですか」
 
 祈るべく余りにも雑然とした室であり、心の底から祈祷すべく余りにも心の準備が出来ていませんでしたのと、そこへ万国基督教共励会総主事のウェスタ―ホフ氏が顔を出しました。賀川先生を歓迎すべく駆けつけたのですが、その挨拶も交わさず、立つたまま祈りの仲間に入ることを、私は要請しました。

 まず、賀川先生が不充分な準備ではあるが、神のお護りを祈られ、私と、ウェスターホフ氏との三人が、日本語と英語との区別こそあれ今夜の大集会に神の御支えと恩寵とを祈りました。熱のこもった大変よい祈りが出来ました。

 演題は「日本基督教の一般情況」でありましたが、二時間に瓦る長講演の内容は新教が日本に渡来した背景とでも云うべきものであり、近世基督教論と云った纒まったまれに見る秀れたものでした。例の如く大きな紙に墨書されたものの中から、今なお私の保存している一枚には、景教とか大泰寺とか書いててあります。海外からの出席者が異口同音に世界的の伝道者と敬服したのもこの時でした。共励会に「お祈りの用意」が中心となったのもこの教訓に由来して居ります。
                                       〔同志社理事長〕
   





                   新語の天才
              
                   吉田源治郎


 賀川先生は、新造語の天才であったとは定評のあるところ。例えば、神の国遷動、キリスト運動、キリスと新聞(普通は、キリスト教新聞とするところ)、キリスト愛、死線を越えてとか等々。又、書名にはいつも工夫をこらした。「涙の二等分」(詩集)、とか[雲水遍路]などその最も典型的なもの。

 A・シユワイツァーは、ゲーテのことを「宇宙的人格]と評価したが、賀川先生は正にゲーテに劣らない「宇宙的人格」であった。その高さ――彼は高層ビルであり、同時に地下何階もの底層をもつ稀な人格構遣であった。その面積――幅は無限大にひろがった。それは、微視的な原子核の世界から巨視的な宇宙の構造にまで及んだ。賀川先生が、原子番号の一(水素)から九二(ウラン)までを、独特な語呂のいい言葉で暗記していたことは知る人ぞ知る。「君は原子番号をみな言えるかね、ぼくは二分間で全部言えるよ」といって、(一)水素、(二)ヘリウム……(八八)ラヂウム、(九二)ウランと得意になって読誦した。それは「いの一番に水素」「パッパともえるラヂウム」といった工合にリズムのある言葉で一~九二の原子番号全部を暗記していたからであった。彼はまた、「原子将棋」を考案、原子名と番号を一々、将棋のコマの上に記入、そして、その遊び方を同志たちに教えた。原子番号を憶えることは科学教育の土台をつくると考えたからであろう。彼の名著「宇宙の目的」の読者は、もしも原子番号を知っていれば、随分、役立つことと思われる。

 昭和九年の頃の一年間、東北六県――殊に旧南部藩の岩手県、山形県方面は冷害のために極度の不作、農民は飢餓に瀕した。この事が新聞に報道せられると、賀川先生は、親類運動という名の救済運勁を提唱、その陣頭に立った。


 関西では、大阪TMCA内に、親類運動の母胎、大阪キリスト教幸仕団(当時の大阪YMCA主事、小倉源二氏担当)が、広くキリスト教界にアッピール。東北貧窮家庭の親類となる有志を募った。その間、賀川先生や小倉氏それに同じYMCA主事の井口保男氏らは、数回に亙り東北六県を巡回、不作地の実状をつぶさに視察、これを関西にもち帰って弘報した。


 それで、大阪市及びその周辺で約二〇〇人の親類ができて、これが、岩手県達曾部村青寵村、久慈町、下閉伊郡の一小学校、山形県、最上郡の一小学校、谷地町等の災害地の家族(約一〇〇以上)と結びつけて、金品を一年間、継続して寄贈し感謝された。


 その方法としては一教会各個人で三世帯乃至十五世帯の親類と附き合いをすること、また実情に応じて現地のキリスト教会や、キリスト教幼稚園を介して援助の手を差しのべた。当時、東北の冷害地では欠食児童二万一千人以上、母乳のない乳児一万二千人以上に達したという。児童の弁当はトウモロコシ、ナラの実、トチの実、カエデなどであった。


 賀川方式の救済事業は、助けるものと助けられるものとの間を「親類」という名でつないだ所に新らし味があり、人格的交流があった。不特定多数を対象に金品をばらまくのでなくて、くわしくケースカードに記載されている調書に基づきその家庭で最も必要とするものを、例えば学童のための教科書、学資、母乳のない乳幼児にはドライミルクの配給という方法をとった。


 この運動の長所は、特定の個人又は団体が、特定の家族に一年間月一回、継続的に「臨時親類」となったという点にある、小学校を対象とした場合も学校の調査にもとづいて、同様な救済を実施した。これらの方法は正に、賀川先生の好んでよくロにした、いわゆる「人格的社会事業」の一事例であったと言えよう。関東方面では、関西のやり方とは多少方法を異にし、直接、クリスチヤンの家庭に災害地の学童を引取り一年間世話をした。現に賀川先生の如きは率先して、十数名の貧困学童を自ら引取り、或いは他へ輯旋することにより、親類の暖か味を冷害地に示した。「親類運動」という名称はいかにも賀川式で、魅力のある造語であった。

                                    〔西宮一麦教会牧師〕
   




                 るすいばん奉仕
           
                  斎木進之助


 関東大震災の翌年、大正十三年九月ある夜、私は本所基督教産業青年会に賀川先生の話をはじめてききに行ってからは引続いて熱心に足繁く通い出した。

 当時私は十八歳であった。その頃親しく迎えてくれたのは手足の不自由な井上勝造君や松村信幸氏等であった。多忙な賀川先生には会えなかったし、少年であった私は直接お話しすることもなかった。しかし其の頃先生の個人雑誌「雲の柱」が発売されている事を知り、月々愛読してゐた。中味の諸諭文はさておき『アンペラ小屋より』と題した小活字組の便りが一番やさしく興味があった。之を読むと先生が今何を計画し、何時実行しようとしていられるか等が判り一方的ではあったが先生と自分が一つのつながりをもっている様な気がして何んとなく嬉しかった。しかも其の便りの中に労働者伝道の一環として労働中学を開校すること、そして中学の理想や参加する講師の紹介等々を読んだ時は本当に嬉しかった。当時工手学校建築科を卒業していたが、出来ればもう少し中学の課程(今の高校)を勉強したいと思っていたからであった。

 大正十五年四月労働中学第一回入学の許可を得て黎明寮に泊めてもらった夜、母からもらって来た一か月の生計費二十円を何者かに盗まれて、一時は途方に慕れたが牧野仲造氏や原沢直三氏の好意によってピンチを切り抜け希望通り中学に於いて新しい友達と勉学に励んだ。しかし半年程して自分の専門職場が横浜の方に決まったので地理的時間的に無理が生じ、止むなく退学しなければならぬこととなって親しい友達に別れを告げた。しかし労働中学で多くの友人が出来、中でも服部正男君や小林好雄君とは特に親交を結び、其の後此の二人が揃って本所青年会の木立義道主事等を助けて賀川先生の愛の実践の奉仕の生活をしているのを見て私は心をうごかされたのであった。

 昭和十年秋、私は神戸税関営繕係で働くことになった。早速算合新川の神戸イエス団を訪ねて行った。古臭い会堂に建て増した教会を中心に診療保育隣保の事業が細々と遮営されていた。教会は無牧で聖日礼拝は午前七時で精々集っても二十名位で武内勝氏、中村竹次郎氏等が講だんを守り、月一回平均伝道旅行途中の賀川先生が立寄られて其の時は百名位の人が集ったりした。

 私が通い始めてまもなく留守居番役の青年が病気で帰郷したので、独身の私に留守居番をしないかと言う話があった。間接的に社会奉仕になると思い母と一緒に有難く引受け泊り込むこととなった。保育と診療の方は専任の奉仕者がいたがみな通勤で、こちらは、戸締り第一火の用心、朝夕の清掃、昼日中は自分の働きに出かけ、夜間は水曜をのぞき週三晩は学習会、日曜日は朝から晩まで礼拝の準備、日曜学校の準備、そして其等の跡片付と言うことで朝五時から就寝は十時すぎ、相当の重労働になる訳で、時々は辛いと思う日もあったが、そんな時は何時も本所の労働中学の時の友達の事を思い浮べ、おくれをとってはならぬと心に鞭打ったものであった。しかし此の奉仕の中で一番困ったことは、定期集会の時に講師が都令悪く来られない時のあることで、定刻になると入れ換り必らず誰か予期していない人がボツリとやって来るもので、一人でも二人でも集れば放っておく事も出来ず、最初のうちは思い出話で済まされるがそう同じ話も出来ない、元来人を指導説得する等と言うことは考えたこともない私は全くこれには一番困った。

 或る時本棚で種さがしをしていたらザラ紙の十銭本の「神による新生」が出て来た。立読みしていたら興味が出て来て、これは何か受け売りが出来る様な気がして、それから一生懸命精読し「宗教は生きる工夫」以下キリスト、十字架等、賀川先生の定めたコースに従って準伽をはじめた。途がひらけ出し私の心の目が開かれ奉仕は人のためでなく私にも大きな恵みを与えて下さることを知って感謝した。

                                  〔尼崎市建設局土木部技師〕


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第156回)

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「福寿酒造にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第156回



     『賀川豊彦全集9』(第19回配本「月報19」)


  
 『賀川豊彦全集』の第19回配本は、昭和39年3月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第9巻が刊行されました。

 今回の「月報19」には、「『預言者の子ら』の一人」と題して古屋安雄氏(国際基督教大学教会牧師)、「神視社と兵庫信用組合」と題して谷部光司氏(中ノ郷信用組合企画室)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。



           『賀川豊彦全集9』第19回配本「月報19」

               「預言者の子ら」の一人
              
                 古屋 安雄


 一九六二年は米国長老教会の最古最大の神学校である、プリンストン神学校の創立百五十周年であった。カール・パルトの連続講演をもって一昨年四月に開幕した、多彩な記念諸行事は、昨年の六月、パウル・テイリッヒによる卒業礼拝の説教をもって閉幕したのであるが、卒業式の当日、記念事業の一つとしてかねてから企画されていた本が出版された。題名は「預言者の子ら」(Sons of The Prophets)であるが、「プリンストン神学校からでたプロテスタントの指導者達」(Leadrs in Protestantism ffrom Princcton Seminary)という副題がついている。過去百五十年間に同神学校で学んだ学生のみならず、教授として教え、また理事として援助した、多くのプリンストン関係者の中から、今日なお現代のキリスト者にチャレンジするところのメッセージをもち、信仰の生涯を生きぬいた十二名をえらんで、その人々について書かれた評伝論文集である。その十二名の中にはアメリカ以外ではほとんど知られていないアメリカ人もいるが、わが国にも知られているアメリカ人では、「組織神学」のチャールス・ホッジ、「もう一人の博士」のヘンリー・ヴァン・ダイクや、「キェルケゴール」のウォルター・ロウリーなどがいる。アメリカ人以外では二人だけで、一人は最近来日したチェッコスロヅアキアのジョセフ・ロマドカ、もう一人はわが賀川豊彦である。(ブルンナーも予定されていたが、執筆者の都合で、他の論文集に収録された)

 私が同校の同窓生でもあるよしみもあって、賀川先生については私が害くようになったが、プリンストン神学校は開校からでた誇るべき「預言者の子」として賀川をえらんだものである。非欧米人は賀川だけである。しかし賀川は一九一四年(大正三年)からわずか二年間、同校に在籍していたばかりでなく、当時の極めて教条主義的な同校の神学には興
味がもてず、「特に学ぶものはない」 といって、むしろ隣接のプリソストン大学で心理学、数学、生物学の勉強に専心したのであった。神学の講義よりも教室の机の上の落書きをしらべて、アメリカの学生心理を研究する方がおもしろく、ある机で「四十二の女の顔」を数えていた神学生であった。この落書きの件は私の原稿を読むまで、編集者の教授達は御存知なかったであろう。しかし彼らは賀川のいわゆる反神学主義については承知の上で、いやむしろそれ故にこそ、賀川を十二名の「預言者の子ら」の一人としてえらんだのであった。

 賀川の反神学主義といったが、厳密にいうならぱ賀川はある種の神学に対して批判的であったのであって、彼自身は常に神学していた神学者でもあった。彼が排撃したある種の神学とは、神御自身よりも神についての知識、キリスト御自身よりもキリスト論を愛するような誤れる神学のことである。よきサマリヤ人になることよりも、隣人愛とは何かと議論することの方が、信仰的であり、福音的であるかの如くに説く、頭だけ口だけのインテリ信仰と神学主義を激しく批難したのであった。日本で賀川はほとんど評価されなかったという「神話」が、今なお外国でも信じられているが、その原因の一つはわが国のキリス
ト教界の一部、しかも極めて影響力のある一部が、神学主義者であったからである。逆説めくが、賀川ほど故郷のキリスト教界内外の一般大衆から広く敬愛された預言者の子はこの国にはいなかったであろう。しがし有弁な神学主義者達が彼を無視しようとしたために「神話」が出来上ったのである。今日神学界ではブルトマンの提唱した新約聖書の「非神話化」が論ぜられているがそれが、遂行されたときよりも賀川評価の「非神話化」が完遂されたときの方が、わか国の教会の体質改善と福音の前進とがみられるときであろう。
                     
                          〔国際基督教大学教会牧師〕
   




                神視社と兵庫信用組合

                  谷部 光司


 墨田区東駒形にある中ノ郷信用組合は、先生が東京で組織された協同組合運勁の数ある実践の一つともいえよう。他に中野医療協同組合があり、かつては江東消費組合があった。

 大正十二年九月に関東地方を襲った大地震は東京を未曾有の大混乱と焼野原におとしいれた。賀川先生はこの報を聞きいち早く海路上京して、当時本所松倉町と称したこの地区に本拠をかまえて、神戸からいっしょにきた青年だちとイエスの友会の人々と共に、救護運動に大活躍をされた。精神面の混乱をさけるために伝道集会を各地に開き、物資面では神戸より送ってくれた救援品を配布し、人事相談、職業紹介と日夜奮闘を続けた、現在でも墨田区横綱町にある東京都慰霊堂(昔は震災記念堂と称した)には当時の惨状を語る絵や写真が保管されている。

 当時或る篤志の人から賀川先生のこの仕事に敬意を表され金一千円を寄付されたことがあった。先生はこの金で金融面の救済を行なおうとし、その名も神視杜(神がこれを見給う)と名付け、無利息で附近の人々に貸付けた、しかし実際にやってみると、返済の滞るもの、行先不明になるものが続出した。またそれ以上悪いことには、金融の知識が皆無で、借りた金を貰ったつもりになる人が少なくなく、感謝の気持を表わす人々が少なかったのである。いわゆる救護ズレをしていたのであった。この様に金融事業の難かしさが痛感されたものである。

 さきに先生は、東京の隣保事業を続けるために、本所基督教産業青年会を創立し、この人々と共に簡易宿泊所、日曜学校などを行なってきたが、神視社で金融問題の必要性を痛感せられ、金融面を徹底するために、信用協同組合の設立を考えられていた。

 現在地の旧地名を採ってその名称も「中ノ郷質庫信用組合」として、昭和三年六月に設立認可を得たのである。

 この信用組合の最初の事業は質屋であった。現在でも質庫を事業分野におさめて、全国でも唯一つの空前絶後の特色ある信用組合で、政府はこれ以外は許可していない。

 最初は「ヤソが質屋を始めた」と好奇の眼で見ていた周囲の人々は、中ノ郷が低率の利息と流期の長いことなど、当時の質屋金融では考えられないような、有利な庶民金融を行っているのを知り、「あの質屋は俺遂のためになるところらしい」と変って行き、利用者も日を追って増加して行っだ。また各新聞はこの特異な質庫信用組合を宣伝報道してくれた。

 しかしながらなれぬ仕事の悲しさ、鰹節の桶詰めと思って質に預ったところ、上辺だけで鰹節であとは籾殼や石であったりのインチキもの、朝食を済ませてご飯の入ったお櫃を質入れして電車賃を借り、夕べに手間賃をもらってから受出しにくる常連。

 それでも金融の知識を徐々ながら、附近の人々に知ってもらった。

 一方では組合員の貯蓄心の育成と、質貸付の資金源として小額の日掛積立金貯金を始めた。中ノ郷賃率信用組合の役職員は、毎日家庭を廻ることによって組合員の人々と接することが出来、いろいろな相談相手になることも出来た。これが現在の貯金部の前身である。

 初代の組合長は当時明治学院総理の職にあった田川大吉郎先生、賀川先生は他の仕事の都合で理事に名を運ねた。そして第二次大戦後田川先坐は健康上の理由で辞任され、賀川先生が組合長の職につかれた。

 賀川先生の永眠後、神戸から先生に従って上京し終始先生を助けてきた木立義道氏が、第三代の組会長に就任し、理事は現在においても、ほとんどが創立当初よりの人々である。職員一四〇名の大世帯になった現在でも、賀川先生の遣志を継ぎ、愛の奉仕の気持で庶民金融に徹することを使命と考え信用協同組合事業を続けている。
                                  〔中ノ郷信用組合企画室〕
   




                賀川先生の想ひ出(下)

                  木立 義道


 もともと無口の私は、同時に他人の語る言葉よりも実際の行状、生活に目をつけるくせがあるらしくこの出来事を見てから、先生の社会的名声よりキリストに対する忠誠と、その行者的態度にうたれた。それからというもの私は先生のその信仰にあやかりたいと聖書の講義にも出るようになり研究するようにもなった。それにも拘らず頑くなな私の魂はなおも低迷を続けて信仰の告白に践み切れなかった。先生は意識してか無意識にか私に聖書講義の梗概の作成(当時先生は毎週の聖書講義に半紙いっぱいの梗概を謄写されて使用された)の手伝いや、聖句の引用、照合など指導された。このようにして私の聖書に対する限は少しずつ開かれキリストの血による贖いよらねば救にはいることの出来ぬことを悟り、遂に入信を決意して先生から洗礼を受けるに至った。イエスが耳が聞えず、口のきけない人を群衆の中から連れ出して両耳に指を入れ、またつばきでその舌を潤してその耳を聴えしめ、舌のもつれを解いた(マルコ七ノ三三)の奇蹟は、私にとっては賀川先生であったのである。

 大正十二年八月末東京イエスの友会の後藤安太郎氏等の努力によって、御殿場東山荘において「イエスの友第一回修養会」が開かれることになった。先生は私をとくに伴われた。静寂な山荘における祈会の経験、又先生の「ヨブ記の研究」は来会者一同と共に大きな感動を受け、私の耳は神の言葉を判っきり受入れるようになった。

 帰途、東京における社会事業を見学するよう賀川先生にすすめられ上京したが、二ッ日目の九月一日の関東大震災に遭遇し、辛じて七日神戸に帰ったが、賀川先生は早くもこの間海路上京されて具さに惨状を視察され引返されて救援運動を起されているところであった。早速先生のお伴をして学校、教会等に実状を報告訴えて救援物資を集めこれを携え、先生は深田種嗣氏(現国分寺教会牧師)薄葉信氏と私の三人の青年を率いて長崎丸に乗じ東京に向った。

 東京における先生の活動は誠に超人的というの外なく、私には現在もなお生々とし想出となるのである。本所松倉町に設けられた天幕、バラックを本処とした本所基督教産業青年会のセッツルメント事業は、罹災者救恤、附近勤労庶民階級のため各種の施設をしたか、その後幾多の変遷を経て、今日では東駒形教会を中心として光の園保育学校、中ノ郷信用組合が残されて継続されているに過ぎない。しかし先生の信仰、思想は広く高く多くの人の魂に植えつけられたことと思う。

 昨年十月二十日東駒形教会において創立四十周年記念の礼拝と感謝の集りが催されたが、私にとって土にまぶれた一介の鋳物工が、先生のお導きによって今日あることにただ感謝せずにはおれなかった。
              
                             〔中ノ郷信用組合長〕








連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第155回)

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「神戸灘の酒蔵<福寿酒造>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



     賀川豊彦の著作―序文など

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            第155回


   『賀川豊彦全集14』(第18回配本「月報18」)


  
 『賀川豊彦全集』の第18回配本は、昭和39年2月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第14巻が刊行されました。

 今回の「月報18」には、「『死線を越えて』についての疑問」と題して鑓田研一氏(作家)、「僕は失望した」と題して長尾已氏(画家)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集14』第18回配本「月報18」

              『死線を越えて』についての疑問

                   鑓田研一


 「死線を越えて」は――正確にいえば、その前半の、初め「鳩の真似」という題で書かれた部分は、果して「遺書」としての性質を持っているかどうか、というのが私の疑問である。

 私の書いた伝記小説「賀川豊彦」(昭和九年十二月刊)に、次のような一節がある。

 「ある日の午後だった。八太がめづらしく遊びに来た。賀川は机にかぢりついて、右手にかたく筆を握ってゐた。そのそばには陶器の痰壷が置いてあった。
 「何を書いてゐるんだ?」八太は机の上をのぞき込むやうにした。
 賀川は答へないで突っ伏した。
 「君、どうしたんだ? あまり真面目すぎるのも程度だぜ。」と八太はきめつけるやうに言った。
 賀川はやっと顔をあげ、手の甲で荒く涙をふいて、
 「俺の淋しい生涯を書き遺すんだよ。」と言った。
 改めて机の上を見ると、なるほど、厚く綴ぢ合はされた原稿が置いてある。そしてその表紙に『鳩の真似』と書いてあった。」

 これは想像で書いたのではない。材料の提供者は、文中に登場している八太という人である。
 八太の名は舟三といい、のちにアナーキズムの大立物になった人だが、当時は明治学院普通部に席を置いていた。神学予科の賀川にとっては、一種の先輩であった。
 「俺の生涯を書き遺すんだよ。」という涙まじりの言葉は、真実だったにちがいない。なぜなら、肺結核になって「死」と対決するという極限状況が、それを虚構と見ることを許さないからである。
 一言でいえば、『鳩の真似』は遺書として書かれたのである。少なくとも、この処女作を書き出した動機は、自分の半生涯を描いて、遺書としてこの世に残すということだったのである。

 ところが、いま改めて『死線を越えて』(『鳩の真似』に重点を置いて)を読みかえしてみると、何よりも先に、フィクションがあまりに多いことに気づく。
 フィクションという語には、作り話とか作り事とかいう意味がある。小説をフィクションと呼ぶこともある。小説は事実と対立し、事実は素材としか言えないからである。
 『死線を越えて』の全編にわたって、事実とフィクションとのふるい分けをすることは、紙幅がないので許されないが、明治学院時代の賀川は、すでに出生地の神戸にも、少年期をすごした阿波にも、帰るべき家を持っていなかった。父も故人になっていた。

 作者自身だと信じられて来た新見栄一は、悪徳の名の高い父を持っている。新見自身も、茶屋(待合)で二人の芸者に挾まれて川の字になって寝たりする。 
 こんなフィクションで飾られた「死線を越えて」は、極限状況のきびしい雰囲気の中で書かれるべき、事実の追求を生命とする遺書とは言えないと思う。『死線を越えて』はあまりに小説的である。

 この作品が書き出されたのは明治四十年で、この年の九月には田山花袋の『蒲団』が発表されたし、前年の三月には島崎藤村の『破戒』が自費で出版された。絢爛な形式美に最高の価値を求めた硯友社文学を否定して、最初の一歩を踏み出した自然主義は、早くも全盛期を迎えようとしていた。

 賀川は新鮮な自然主義文学に、どれほど広く、どれほど深く接触したか、それを実証するに足る確実な資料を私は持っていない。しかしこごで断定的に言えることは『死線を越えて』の表現技術は非常にリアリスチックであり、その限りにおいてこの作品は自然主義文学の系列に属するということである。                                                 〔作家〕

   




                   僕は失望した

                    長尾 己


 賀川豊彦君、なつかしや賀川豊彦君、私には賀川先生とはどうしても呼べないのだ、豊彦君と呼ぶのが一番親しく感ずるからだ、それは彼と共に青年時代から我家で寝食を共にし兄弟のように育って来たからだ。

 君がはじめて私の家にやって来た時、紺かすりの着物を着てぽろに近い袴をはいていた、彼の十九才の時である、やせ細っているくせに比較的大きな声を出してしやべる、しかもそのしゃべることがどんな話でも話が大きい。もしかしたらこの男誇大妄想狂ではなかろうかと思ったこともあった。しかし月日が立つにつれて、なんでもよく知っている男だと言うことに気がついた。この時既に明治学院のライプラリーはみんな読んでしまったと言うていたから驚く。

 私の家にやって来てもはじめの頃は家の中で読書ばかりしていたがのちには外出して外の空気を吸うようになった。その頃なんとのうさみしそうな男に見えたのは家庭愛に恵まれなかったせいであったのだろう。だが私の家にやって来てからはだんだんと朗らかになって来たように思える。

 平和な貧乏伝道者の家族の一員に加わって彼は幼き頃の朗らかさを取戻して来たのだろう。夕食の時には大きな声を出して笑うようになった。

 或日笑ったはずみに喀血した。既に胸を患って三期に達していたのだ。彼が憂欝な顔つきをしていたのは胸を患っていたせいもあったのかも知れない。血の仕末は私の母と姉とでしたが、わが子を十人抱えた上の豊彦君の世話は、母にとって並大抵のものではなかった。しかし母はなんらいやな顔一つしなかった。豊彦君をわが子同様にもてなした。

 一番上の姉は胸を病む青年の身の上にいたく同情を寄せ、あとう限りの世話をした。豊彦君も姉の愛情に心うたれ思慕の念を抱くようになったのも当然であったろう。のちに彼は友人富田満を姉と見合せたが、二人の結婦後、豊彦君は姉に対して「僕はさみしく失望した」と告白している。

 豊彦君はのちに『死線を越えて』を著わしているが、あの中に出てくる女性のモデルの中に、ひそかにありし日の姉との思情を物語っているのを見るのも宜なるかな。

 君は菜食主義だと言って肉を喰わなかった。母が肺病患者は野菜ばかり食べていたのではカロリーが足りないと言って魚肉をすすめたが、君ははじめの中は中々母の言うことを
きかなかった。だが、のちには母の説得ににが笑いをしながら、しぶしぶ食ぺはじめた。

 君は一度言い出すと自説をくつがえさない強情さと信念とをもっていたが、私の母と父の言うことはすなおにきいていたようである。よほど信頼していたものと見える。

 高木誠一と言う不良青年の長髪をたしなめるに、父は自らの頭髪とあごひげをすり落した。この父の身をもって範を示した態度を見て、豊彦君はキリストの愛に依る実践の哲理を学んだ。

 父が或日の夕暗近く外出先からの帰途、小出三吉と言ういざりの乞食を引張って来た。母が自分の夕食を与え、父が聖書を渡して話をしている様子を見て、賀川は「基督教はこれだ」と叫んだ。君のひとみは美しくかがやき、口元はしかと堅く結ばれた。異状な決意をしたのである。彼は其後、神戸の新川の貧民窟に身を投じた。

 その後、父は名古屡に転居し、賀川は神戸に去ったので、小出三吉は引つづいて愛の手を差しのべてくれる者がなく世をはかなんで自殺した。

 或家の物置の片隅で父から貰った聖書をしかと胸に抱き、エンピツのはしりがきの遺書を傍にして、首を縊って死んでいた。遺書には
 「長尾先生は神様だ、賀川さんはえらい人、わたしは主のところに来ります」
とたどたどしい字で書いてあった。神戸の賀川に小出三吉の自殺したことを伝えたら、彼は慟哭久しうして顔を上げ得なかった。
 
 あゝ豊橋時代の賀川豊彦君、懐しき限りだ。             
                                           〔画家〕






               賀川先生の想ひ出(上)

                 木立 義道


 大正十年一月、神戸葺合新川にある賀川先生の事務所で私は働かせてもらうことになった。それまで、私は神戸兵庫の西端にあった橋本汽舶の苅藻島造船所に鋳物工をしていた。たまたま大阪藤田造船所職工をして友愛会の幹部だった野田律大氏(後に労働総同盟が分裂して労働組合評議会の委員長となった)が、組合の組織宣伝にやって来て、私をいつの間にか「友愛会苅藻支部幹事を依嘱する」といった、友愛会長法学士鈴本文治名の辞令めいたものが与えられた。

 不景気首切りで同造船所にストライキが勃発するや若輩の私が代表におしあげられ、これが契機となって神戸の労働運動にも顔を出すようになり、連合会の会合などで賀川先生を知るようになった。

 もっとも、当時神戸には毎日新聞には村島帰之さん、朝日には岡成志さんというような
立派な記者がいて労働運動には好意をもって書いていたし、賀川先生のことについてはよく紹介されていたので、その程度の先生の思想や事業は承知していた。

 先生の許で直接働くようになった機縁は、先生や川崎造船所職工の青柿善一郎氏等の首唱で発起された神戸消費組合創立準備のため、鷹取工場支部の堀義一氏の推綬によったものであった。
                     
 このような事情からであったので、私としては当時は先生の信仰や思想に共鳴し、又貧民窟事業に情熱を燃したものではない。多くの青年立ちが出入りした中に、労働組合側からは行政長蔵、安藤國松氏等の名が記憶に残っている。

 北本町六丁目の貧民窟の表通りの見すぼらしい二階家が先生の事務所で、階下が伝道所、診療所に使われ、二階は先生の書斎であり、又関係の社会運動、社会事業の会合に使われていた。

 私の仕事は消費組合の設立準備ということになっていたが、事実は先生の多方面にわたる活動のお手伝いの方がむしろ多かった。間もなく賀川先生、杉山元治郎先生と共に日本農民組合の組織が発表され、そのお手伝い、また労働組合との連絡、地区困窮者の世話等々、このほか未信仰の私に聖書研究の助手めいたことまでやらせられたのには閉口した。

 私は先生の社会運動における思想的立場には幾分の理解をもっていたが、こと信仰上のことについては個人の自由に属することとして、礼拝や、祈会等の集会からはいつも逃避していたものである。

 そのころ、貧民窟に松井という沖仲仕をしていた男がいた。賀川先生もずいぶんめんどうを見たらしいが、酒癖が悪く、当時先生の『死線を越えて』の莫大な印税が入ったことを耳にして、俺達のことを書きやがってもうけたんだろうとたかりに来ていた。一夜事務所で大暴れをしたことがあり、周囲の者もハラハラしたが、先生御夫妻は少しもあわてずただ黙然と祈られていた。このときの光景は私の魂に深く印象づけられた。
                       
                            〔中ノ郷信用組合員〕








連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第154回)

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「灘の酒蔵」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



       賀川豊彦の著作―序文など

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          第154回



    『賀川豊彦全集4』(第17回配本「月報17」)


  
 『賀川豊彦全集』の第17回配本は、昭和39年1月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第4巻が刊行されました。

 今回の「月報17」には、「イエスの“めしうど”」と題して都留仙次氏(前明治学院院長)、「若い日の先生」と題して牧野仲造氏(松沢教会会員)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集4』第17回配本「月報17」

               イエスの“めしうど”

                 都留 仙次


 賀川豊彦はパウロと同様、一生涯キリストにつながれた囚人であった。イエスはベテロやヨハネに『今から後、わたしはあなたがたを「しもべ」と呼ばないで「とも」と呼ぶ』と告げた。弟子達の実質は僕であり、また友であった。友は王子婚宴の客である。王子と悦びを分つ者である。賀川はイエスの僕であり、また同時に友であった。彼は一生、主のくびきを負うたが、それは感謝であり、また歓喜であった。彼はイエスの友会を主催した。

 主の僕として、また「めしうど」として緊縛されたが、それは真実の自由であった。バウロはこのような自由をガラテヤ書に説いている。主の僕は王侯の前でも迫害者の前でも、恐れることなくひるむこともない。

 賀川豊彦は魂(こん)かぎり主を愛した。しかし、彼の愛にもまさって主は彼を愛した。彼には人に吹聴すべき系図はなかった。頼むべき手蔓(てずる)も学閥も持だなかっだ。彼は直接に神から召され、選ばれ、捕えられた聖なる器であった。彼はキリストから立てられた万国民への予言者であった。彼による福音の証言は地上の国境を越えて拡がった。彼はイギリスにも、独仏にも、南北米にも、中国やインドにも主の福音を宣べ伝え、地球を前後幾巡廻したであろうか。数えきれないほどであった。

 賀川は決して頑健な体躯の持ち主でなかった。彼はむしろ病弱であった。しかし、主は彼を支えていた。彼は弱い脆い土の器であったが、主は驚嘆すべき程の―-彼自身があやしみを感ずるほどの――力を宿してくれた。彼は四方から患難を受けたが窮しなかった。途方にくれたが行き詰まらなかった。迫害にしばしば遭ったが見捨てられなかった。倒されたが滅びなかった。彼は世をも人をも惑わす者のように誤解されたが、しかも真実であっだ。攻められたが殺されなかった。死にかかっているようであったが、見よ、生ける者であった。悲しんでいるようであったが常によろこんでいた。貧しくあったか多くの人々を富ませた。何も持たないようであったが主にあって凡ての物を持っていた。彼はしばしば鞭打たれ、つばきされたが呟やかず、また人を呪わなかった。彼は嘲ける者に「平安」をもって答えた。彼は罵しる者に「祝福」をもって応えた。彼は神と人とに見すてられたような時にも神にむかって愚かなことを言わなかった(ヨブ記一・二二)。

 賀川はどんな境遇にいても足ることを学んだ。彼はありとあらゆる境遇に対処する秘訣を体得していた。彼は貧に処する道を知っていた。彼は富におる道をも心得ていた。彼は飽くことも、飢えることも、富むことも乏しいこともよく承知していた。そして富にも婬せず、貧にも屈しなかった。

 彼は極度の苦離、絶望、非境の社会に突入し、同棲して神気悦楽、浄潔であっだ。彼は悲親者の唯中で徹底的に楽観した。彼は「くらやみ」の中に置かれた光であった。悩み苦しむ人々と共に泣いたが、創造者による宇宙目的の達成を確信する楽天家であった。

 賀川はその地上生活終焉の数刻前、最愛の妻春子と、親しい友人三人と握手を交わしてから、次のように祈った。

  神様感謝いたします。
  教会をお恵みください。
  日本をお救いください。
  世界の平和をお守りください。
  すべてをみ手に。安心。
  イエス・キリストのみ名によりて。アーメン。

 これは彼の最後の発言、最後の祈りであった。これは彼の信仰、思想、生活、事業の要約、エッセンス、結論である。

 彼は一切を創造者のみ手にゆだね、安心して復活の主のもとに帰った。
                                     〔前明治学院院長〕
  




                 神の人だった

                  正木良一


 それは昭和六年のことだった。神戸YMCAで会計がこまっている、帳簿にくらべて現金が足りなくなっているという。理事会から精査を頼まれたわたしが調べると、会計組織が乱雑で複式簿記を大福帳式でやっており、三種の会計が区画されていない。伝票も不完全で、結局赤字は六百円ないし千四百円と判定するほかなかった。貸借対照表の科目にまちがいのあることを理事たちも気づかなかったのだ。その年の六月四日に開かれた理事会で、私はこの報告をした。理事一同が対策に苦しんでいるとき、少しおくれてこられた賀川さんが大札を一枚わたしの前に置いて。
 「僕はこれだけ出します」
とただ一言。しばらくして退席された。わたしはあっと驚いた。――賀川さんにしていただくには及ばない、失礼だが、たくさんおかねがあるはずはない、大切な仕事にいくらでもおかねが必要だろう、わたしでもそのくらい出せない身分でもないが、出す必要を感じていない、賀川さんという人は何という向う見ずのことをなさる方か、とその時に思った。

 稿料かなにか、ちょうど手にはいったのだろう。ほかの理事は誰も出しはしなかったと記憶する。もしわたしなら、大きな支出はかれこれ考えて比較検討してかたく決意して実行する。賀川先生の態度を長いあいだわたしは考えた。会計係をせめないで、理事がまず責任をとり応分のつぐないをする。事業を平和に運ばなければならない、と先生は直感して即行されたのではないか。やっぱり神の人だった。

 終戦後のある年NCC(日本キリスト教協議会)の総会が銀座教会で開かれた際、賀川、富田両先輩が伝道方針について衝突、大激論をした。場内手に汗をにぎるような場面だった。富田牧師は最有能な指導者、賀川先生は燃えたつ伝道者、教会が主のからだであり、それなくては伝道はみ心にそわないと一方は主張する。福音に感激し、救いに泣く身が、み声を民衆に伝えないでおれるか、教会は伸びようが縮まろうがそれは主にまかせると一方はさけぶ。方策と熱情と、地の声と天の声と。両先生の激した顔と声、わたしは今も忘れない。

 近年信徒の使命が強調されるが、教会人のわくをはめる論もある。教会を忘れたり、離れた信徒伝道は孤立のはかなさがあろうが、社会生活に信仰を生かそうと志すとき、教会のさしずを待ち牧師の賛同を求めていてはまにあうまい。あのときの大論戦は今もつづいている。

 一九二三年九月八日、神戸市内全教会の代表が中央教会に集まって関東大震災の救援方法を協議していた。熱弁が続き方法は立たない。うしろの方にわたしは座し、右隣りが賀川さんだ。東京の様子がわからないので相談がまとまらない。すると賀川先生が立って、
 「いま救援の船が出る、利用するが良い」
と発言されたが、誰が行くか、何を積むかと問う人ばかりで煮えきらない。先生がまた立った。私はその顔を見あげた。
 「僕は行く」
と一言、そのまま出て行かれた。おどろいた、なんと果断な人だろう、身ひとつでどうなるのだろう。そのあとの先生の行動は皆の知るとおりだった。わたしは今にして思う。
 「行け、何も持たないで行け、必要なものはその時にわたす」
と主のみ声をきいておられたにちがいない。たしかに賀川さんは神の人だった。

                               〔日本基督教団信徒会専務理事〕
   



                   若い日の先生
                   
                    牧野 仲造


 川崎造船所のストライキ(大正十年)の直後から先生のお宅で居候になること二年間、その間に思い出されることを書いてみました。先生はストライキの犠牲者の生計を心配し、困っている者にはその生計費を届けに行ったことが思い出されます。神戸イエス団の会員の病気見舞の使い走りも私たち居候の仕事でありました。先生は藤永田造船、藤田農場の争議の指導に日夜奔走され、私も先生にお供して講演会に行くこともありましたが、臨監の警官から“弁士注意”“中止″を命ぜられることが常でありました。

 新潟県木崎村の小作争議の時、小作人の子弟だけの小学校の指導をしておられたのは大宅壮一氏であったかと思います。当時アインシュタイン博士が改造社の招きで来朝され、大都市で講演会があった際、賀川先生と会談されたことを思い出します。大杉栄、鈴木文治、久留弘三、青柳善一郎、安部磯雄、西尾末広、村島帰之氏等労働運動の指導者がしばしば先生を訪ねてこられたころでした。

 毎日曜日の早朝、さんびかを歌って貧民窟の路地を歩き、夜は路傍説教で街角に立ち、迷わざる九十九匹より迷える一匹を探ね喜び給うキリストの心をもって力をつくしておられました。私も神戸イエス団の“神は愛なり”と書いた十字架のチョウチンを持って出かけました。先生の朝の講義と礼拝が終ると、出席者は朝食をいただいて先生と親しく交りました。今日朝食祈祷会が各地でもたれておりますが、先生は四十年前から実行されておりました。

 賀川先生ご夫妻が台湾伝道から帰宅されるや酒乱の松井さんに前歯を折られた際、奥様が後からとめられましたがかえって倒されてしまったことを目撃して、何ともできなかった私自身の憐れさが思い出されます。また正月に神戸雲内教会の伝道集会に出かける際、食堂で酒乱の松井さんに短刀で刺されようとしたところ、先生は大喝して彼のそばによって行かれたため、彼はなすすべを知らずうろうろしていたことが思い出されます。先生はパウロのいう、神の僕として人を惑わしているようであるがしかも真実であり、人に知られていないようであるが認められ、死にかかっているようであるが生きており、懲らしめ
られているようであるが殺されず、悲しんでいるようであるが常に喜んでおり、貧しいようであるが多くの人を冨ませ、何も持たないようであるがすべての物を持っている、融通自在の信仰に徽しておられました。紙屑も再生産されればきれいな白紙になる様に、人間の屑の中に再生力を見出されて「だれでもキリストにあるならばその人は新しく造られた者である」(第二コリント五・一七)の原理に基いて、至難な人間再生を信じて貧民救済に心血をそそがれました。

 貧民窟にイエス団友愛救済所を設けて、病人に無料で治療を続けておられました。当時の医師は馬嶋僴氏でありました。賀川夫人の妹本多歌子さん、馬嶋夫人の妹さんか病人の世話をしておられました。貧民窟では、その日の糧に困る者で助けを求めに来る者には、賀川夫人も母堂にあたる芝ひろ姉も惜しみなく与えてくられました。賀川先生の結婚式に招かれた人は、聖書に書いてあると同じように貧乏人、不具者、足なえ、盲人でありました。聖書は多く真理がかくされていることを先生は身をもって具体化されました。先生は貧民窟の中で臨床社会病理学を研究され、「貧民心理の研究」を著わされました。生活不安に充ちた貧民窟にて、主の祈りを心からささげられていたことは忘れられません。貧民窟に「神は愛なり」と書いたチョウチンをともしてこられたその神様の心を、身をもって示された賀川先生の貴い人格と業績は、我国キリスト教史、社会運動史上に銘記されて感謝されることです。

 賀川先生の愛唱さんびかは四九五番、

  「我はほこらん ただ十字架を
   天ついこいに 入るときまで」

でした。自分を捨て、自分の十字架、いな民族の十字架を負うてキリストに従われた貴い生涯でありました。
 
                                  〔日基教団松沢教会会員〕












連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第153回)

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      賀川豊彦の著作―序文など

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          第153回


    『賀川豊彦全集12』(第16回配本「月報16」)


  
 『賀川豊彦全集』の第16回配本は、昭和38年12月10日に「哲学・経済・社会学」として分類されている第12巻が刊行されました。

 今回の「月報16」には、「“立体農業”の生みの親」と題して藤崎盛一氏(豊島・武蔵野農民福音学校校長)、「先生のお顔が、お声が」と題して中田功氏(高遊原伝道所牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




          『賀川豊彦全集12』第16回配本「月報16」

              “立体農業”生みの親
            
                 藤崎 盛一


 賀川先生が百科大辞典のような頭脳の持主であったことは周知のとおりであります。専門の宗教はもちろん、あらゆる面に造詣が深く、殊に社会科学、自然科学に対しては非常な趣味を持たれ、専門書を熟読されると共に、機会あるごとに標本の蒐集、実地見学視察に骨身を惜しまれなかった知識欲には驚嘆させられることが多くありました。

 世人がよく自然科学については素人だと言いましたが、先生は専門書を実に広く数多く読まれていました。ただ多くの学者のように、研究室に引籠って実験しつつ、その研究に専念することができなかったことは事実ですが、これは忙しい先生には到底望めないことであります。また先生は詩人であり、理想家であり、預言者であったために、時々いわれることが飛躍して、我等平凡人には夢のように感じられた点がないでもありませんでした。

 しかし先生の知識は専門の学者以上で、原書を読破し、それを頭の中に整理箱の引出しに専門別に整理しておられたと思うくらいに記憶されておりました。先生は進化論、岩石学、土壌学を得意とせられ、自然科学者であるばかりでなく更に技術的研究書までよく読まれていました。

 かつて先生が満州から帰国された時に、荷物殊に書籍類の整理をしたことがありますが、驚いたことはその本が科学書で、主として岩石学と緬羊の専門書で、三十冊余を船中で読了され、主要な点にはマークされていたのです。

 ある日、先生と二人で農林省の林業試験場に研究に出かけたことがあります。当時先生は幼稚園の子供に自然を教えるために、自然教案についての研究に専念されていました。子供に樹木の形(樹冠)を教えるためと、立体農業の大敵である天牛(かみきり虫)の研究が訪問の目的であり、それぞれの専門の技師に逢いました。樹冠の研究をしたいが適当な書籍はないだろうかときかれると、某技師が図書室から二、三冊の最新の本を持って来られました。それを先生はパラパラと頁をくって、これは二、三年前に読んだといわれました。私は、こうした専門家以外は読まないような本までも読んでおられた先生には感服しました。

 次は天牛の研究のために昆虫室を訪ね、某技師(有名な昆虫学者)に先生が名刺を出して、
 「今後よろしくご指導を賜りたい」
とていねいに挨拶されたところ、その技師が、
 「指導どころではありません。私は若い学生時代に先生の甲虫の研究論文を読んで教えられたもので、かえってこちらがご指導を仰ぎたい」
との挨拶で、私は二度びっくりしたものです。

 賀川先生の農業に対する考え方は、こうした広汎な専門的基礎知識と、世界を広く幾度も見てこられた博識と、日本における長い社会運動――米騒動や小作問題や食糧問題や人口問題等に関係して――と、先生の宗数的熱情と理想と堅い信仰、殊に聖書に立脚した農業思想によって基礎づけられた農法が、立体農業の構想であります。

 先生が社会運動、政治運動、経済運動の最前線に立って活躍された長い経験の結果、生産をぬきとしてはこの運動は解決できないという結論から、國土の狭い日本の将来の食糧問題を憂慮され、生産の増強化、農家の有富を計るためには国土の立体化を計る外に道なしと恩われたのです。

 国土が狭小の上に、山野が八〇%以上を占める我が国土の実情を活用するためには、今までのような米作中心の農業――米作農業は代表的な平面農業である――に偏重していることが食糧の行詰りであり、又国土の低利用度が解決されねばならぬことに着目されたのであります。

 米作農業は長短があり、長所は更に増強すると共に短所を補強して、農業の完成を目指し、その補強工作として樹木農業と草生農業により家畜導入を強化すると共に、農村の工業化をも含めて、土地の立体的利用と生活の立体化を計るような農業のしくみ(営農)を強調されたのであります。

 先生にはこうした構想が先生自身の頭に画かれていたのですが、更に先生に大きな影響を与えたのは、米国の元コロンビア大学教授で有名な農業地理学者ラッセル・スミス氏であります。同先生の著書「世界食糧資源諭」(賀川先生の訳)の姉妹縮である“Tree Crop”を先生が「立体農業の研究」として日本に紹介されたのが昭和八年で、立体農業ということばが初めて日本の活字として現れたのです。

 畑違いの先生の造言であり主張でありますから、官学の学説、官制の技術万能に立った米作重点主義の農業政策で、米作と芋作の批判をすることさえ非国民扱いされた時代に、余り注目されなかったのは当然のことであり、かえって弾圧されるような状況でした。

 農林省の農務局では取り挙げられませんでしたが、林業界の大先輩本多静六博士が立体農業の構想に共鳴され、低級林業(今日までの林業は用材と薪炭を目的とする林業)から高級林業(樹木農業を意味する)を提唱すると主張されましたので、林野庁関係は協力的で、林業の在り方について新しい構想が現れてきました。このあらわれが特殊樹木の栽培の奨励ということになりました。これは確かに立体農業の構想の影響の賜物と思います。

 今回の世界戦争は新しい時代の転機となり、殊に敗戦日本にとってはあらゆる面に大きな転回をよぎなくさせられました。なかんずく農業はその転回を大きく要求され、米作中心の農業から一歩前進して、畜産、果樹という線に、今日までと変った意味と広さで大きく要求されてきて、戦前馬鹿にされていた立体農業の主張が、今日の農業構造改善の内容を持つものと思います。

 農業というものは本質的観点から見るならば、日本のように勝負によって農業が変り、景気不景気によって営農が盛衰すること自体が問題で、農業が正しい型で営農されていれば、時代の移変で手の平を返すように変革するものではないと思います。農業が正しい型で指導され営農されるならば、恒久的なものであり、恵まれる訳であります。

 恒久農業こそ立体農業の農法であるといって過言でないと思います。この意味で賀川先生は偉大な農村指導者であったと敬意を心から表すると共に、先生の構想を現実化し、乳と蜜の流るる郷を建設することが先生に対する報恩であると共に、日本への農民の救国愛国の運動であると信ずるものです。

 賀川先生は立体農業を提唱されたと同時に農民教育に終始されました。これもあらゆる社会運動をされた結論として[人作り]が先決であることをさとられ、昭和二年、自宅(現在西宮市高木町)を開放して日本農民福音学校を起し、農閑期を利用して1ヵ月間寝食を共にする塾教育による三愛主義―-愛神・愛人・愛土――に立って青年の教育に非常な努力を注れたのでした。

 この小さな塾教育事業は賀川先生の事業としては大きな事業で、卒業生は約二千人に及んでいます。かつての青年であった同志達が今は働き盛りの年令に達し、あらゆる運動の原動力となり、立体農業の実現化に挺身し、農村教会の中心となっています。同志の中には伝道を決心し、神学校に入学して伝道者となった二十八名の牧師があり、これだけでも大きな功績といえると思います。

 貿川先生の多くの事業の中、農民福音学校と立体農業運動は永久に残る事業であり、この運動は南米のブラジルに、東南アジアに延びつつあります。
 武蔵野と豊島は先生亡き後も継統され、先生の遺志をつぎ、有為な青年の教育と立体農業の実践を計りつつあります。
                     〔豊島、武蔵野農民福音学校校長、農村伝道神学校教授〕





                 先生のお顔が、お声が
                    
                   中田 功


 拝復 お手紙感謝いたします。阿蘇高遊原の開拓地の伝道の御困難を察し申しあげます。
 就ては第一以下の点を御報告下さい。
  一 水はどこから取っていますか?
  二 集会所を建てるとすれば何坪ですか?(二万円は悦んで私方で負担します)
  三 托児所を開くとすれば村で世話する娘さんはいませんか?
  四 乳山羊を入れてあげたいですが隈府――特に癩療饗所――あたりによき種山羊を売ってくれるものを見    つけて下さい。それを先づ二、三匹入れて増加させませう。この金も私が負担しませう。
  五 豚の種も入れたいものです。これも周旋してあげて下さい。之も私が寄附しませう。
  六 無尽頼母子講を作り、家屋を改良する必要ありと認めます。何かの工夫はつきませぬか。落花生を    売り出して互助的に家屋を修善する工夫を教へてあげて下さい。
  七 天水を屋根から取れば善いから(但し天水だけのめば純粋すぎるからその中へ小石を入れて、化合    させて無機塩類をも飲むこと)
    そのために是非樋をつける工夫を教へること。

 右のようなことが出来るか御返事下さい。
 主にある御平安を祈って
                                 トヨヒコカガワ
   中田均様待史

 右は原文のままです。私はこの先生の農村伝道の教書をいただいて高遊原に来ましたが、まだ先生の御計画を実行することができませんでした。最近、かつてなかった農民の困窮を見る時、私は先生のこの農村伝道教書を高遊原に実行したいと祈っています。

 高遊原開拓地の伝道は、賀川先生がアメリカ伝道の際シアトルで元田清子さん御夫妻初め彼の地の有志達が祈祷会を開いた時、この伝道が始まったと先生から承わりました。帰国後先生は、このシアトルの祈祷会で開いた仕事を私に託されました。先生は終戦後三回熊本に見えて、高遊原伝道について祈られました。

 亡くなられた年、私は先生を松沢のお宅に訪ねました。既に重体で面会謝絶になっていました。一泊することになり、奥様が私の寝床を病室の隣にとってくださいましたので、できるだけ足音のしない様に二階への階段を上って室にはいろうとしましたところ、病床の先生が、
 「中田君よく来たね、ちょっと来てちょうだい、君に頼みたいことがある」
としゃがれた声で呼ばれました。その時先生は私の手を長いこと握って御自分の胸のところにもってゆかれました。そして、

  一 熊本の農民伝道を君にたのむ。
  一 高遊原の託児所はどうなったか?
  一 自分の家を建てるな、いつでもどこへでも飛んでゆけるように腰をからげていること。
  一 子供達を勉強させること。
  一 帰りに神戸で途中下車して武内さんに上京するよう伝えるとと。汽車賃はあげるから、そう伝えな    さい。

 そのようなことを私に依頼ざれ、仮睡なさるまで私の手をはなされませんでした。私は今も、先生の笑顔とお言葉と温かさ柔かさを忘れることができません。私は先生に叱られて、しばらく恐ろしい先生と思ったこともありましたが、今日もう懐しいばかりです。私には今も先生のお顔が見えます。先生のお声がきこえます。
                                 
                             〔高遊原伝道所牧師〕




















連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第152回)

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「須磨離宮公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



        賀川豊彦の著作―序文など

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           第152回


     『賀川豊彦全集2』(第15回配本「月報15」)


  
 『賀川豊彦全集』の第15回配本は、昭和38年11月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第2巻が刊行されました。

 今回の「月報15」には、「燃えたぎっていた伝道者」と題して太田俊雄氏(日本聖書神学校教授)、「“オムツ教”の教祖」と題して田中芳三氏((財)イエス団理事)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集2』第15回配本「月報15」

               燃えたぎっていた伝道者

                  太田 俊雄


 伝道者賀川豊彦の内には火が燃えていた。「わたしはそうせずにはいられないから」福音を宜べ伝えているのだ(1コリント九・一六)というパウロの気持は、そのまま賀川の気持であった。「キリストの奴隷」「キりストに捕えられた」「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストがわたしのうちに生きているのだ」などというパウ口言葉は、賀川にふれた時に、はじめてわかるような気がした。

 賀川は、「キリストのゆえにすべてのものを失ったが、それらのものをふん土のように思った」パウロに、あまりにもよく似たものをその身辺にただよわせていた。「キリストのゆえに愚かな者となり」切ったパウロの熱情は、賀川のうちにも燃えさかっていた。

 「極度に、耐えられないほど圧迫されて、生きる望みをさえ失っでしまい」もはや神を頼みとする以外に道のなかったパウロのような苦境に、賀川がおかれたことは何度あったことであろう! しかも、パウロのように「神が今後も(このような死の危険から)救い出してくださることを望んで」すこしもたじろぐことなく、彼は前進を続けたのである。

 軍国主義のいやが上にも燃え上っていた昭和十四年六月中旬、青森市の女子師範学校宗教講演をしたとき、絶対平和主義者賀川は声をからして絶叫した後で、はるか後方の左右の座席の方を指さし、「その辺で筆記をしている人々に言いますが、わたしは……と言ったのですよ。筆記にまちがいはないかよくたしかめてください」と言った。怒りにふるえているようでもあり、むせび泣いているようでもあった。そばにおられた中山真平牧師が、わたしにソッとささやいた。「刑事がはり込んでいますね!」 首都エルサレムを望み見て泣かれたイエスのように、賀川のうちには焼きつくすような愛国の熱情が燃えたぎっていた。それが「神と共に進め、大和民族」というような説教となってあらわれた。

 ある説教で、ハウロが列挙した苦難の数々(Ⅱコリントー一・二三~三三)を読んだ後で、賀川は冗談まじりに「僕はもっと多くの苦労をしているよ。スリの難、満員列車の難……」といって笑ったが、それは敗戦後の日本の各地を、あの列車地獄といわれた満員列車でとびまわって伝道していた頃のことである。

 「キリストの愛に迫られ」て、福音を宜べ伝えずにはおられないという燃え上るような熱情がうちになくて、どうしてあのような無理な伝道ができよう!

 伝道者賀川は、このように内に燃え上る熱情をもっていたから、全国いたるところで若人の心の内に火を燃え上らせていった。「道々お話しになった時……お互の心が内に燃えたではないか」と言い合ったイエスの弟子たち(ルカ二四・三二)のように、賀川にふれて、心の内に火を点ぜられ、今もその火を燃やし続けている人々が、全国にどれほどいることであろう。伝道者賀川は、こうして今も人々の心の中に生きている。

 昭和二十九年で日本聖書神学校の卒業式の特別説教に招かれて講壇に立った時、貿川は声が出なかつた。「…他の若い連中が・・喫茶店だ、映画だ、と遊びまわ時に……諸君は・・日本にキリストの福音を宜べ伝えようとして……汗とほこりにまみれ、つかれたからだで……毎晩毎晩こうして夜学に来て……四年も五年も勉強してくれたのかと思うと……わたしゃありがたくて……」と、賀川ははじめから泣きながら、とぎれとぎれに語った。これは真に賀川らしい姿として忘れられない。

 「世を救うためには癩者の膿をも吸う覚悟」で伝道し、奉仕した賀川から点火された焔を消してはならないと思うこと切である。
                        〔日本聖書神学校教授・日本基督教団教育委員〕
    




               “オムツ教”の教祖

                 田中 芳三


 この間の新聞やラジオに、一映画女優さんが医科研究とその奨学資金の基金として一億円を投げ出したことが報道されていた。自分のつまらぬことに多くの金を使うこの時代に、実に感心な話だと思った。

 しかしマスコミに大きく報道されないが故にあまり多く知られていないのが、賀川財団の実状ではなかろうか?

 私はある日、私の家にお泊りくださった賀川先生と珍問答をしたことを覚えている。
 「先生、先生は一生“オムツ教″(人のしりふきをせよとの教)をといて廻られたが、『賀川宗』というような自分の宗教を創作してその教祖になっておられれば、信者も金もたくさんでき、もっと有名になってその名声もいつまでも続いたでしょうね!」   ト
 「君、今さかんになっている○○宗は○○さんがつくったものだが、その○○さんが僕のところに逢ってきて勉強していたものだ。それでOO宗は僕の『説』が半分入っているよ。面白いね!」
「先生は今までに、今の金にして何億、何十億円という収入があったでしようが……」
「“死線を越えて”なんか、あんな下手くそな小説が気狂いのように売れて、当時の金で毎月何万円、何十万円と印税が入ってきた。でも、お金を持っているとたかられるので、金部ひと様にあげてしまったよ」。
とおうしやった。このようにして、己のものは何一つ持たなかった先生は、昭和三十四年一月、伝道旅行中に倒れた。東京の自宅といっても個人名儀の建物ではない。長年先生の陰の人となって奉仕してきた杉山健一郎氏らが心配して、現在の建物の隣りに静かに養生できる一部屋を建てようということになり、その了解を得るため、療養先の高松市ルカ病院に数人でお見舞に行ったことがある。
 「先生、東京へお帰りになっても足がご不自由では、二階の上り下りは大変でしょうから、ゆっくり養生される平屋を一部屋建てさせてください」
 「純基(先生のご長男)が改良して階段をつけている筈だから、いりません」
 「先生、弟子たちが孝行したいと言っているのですから、受けてください」
「いりません。キリストは何と言ったかね、『人の子は枕するところなし』と、僕も伝道して道の端で死んだら本望だ!」
 「先生、人の好意は受けるものですよ……」
すると先生は語気を強め、首を横にふりながら、
 「受けません、いりません。金田先生(大阪生野教会牧師)、田中君らにいらんと言ってくれ給え」
 (その後、弟子たちはレプタを出し合って一部屋を建て増した。先生も気分のよい時は夫人に背負われて二階からその部屋を眺めて喜ばれたとか……。永眠二十日前に四月四日には、死期の近づいたのを感知され、自らすすんでそのお風呂に入って湯あみされたとか……。そしてその柩が新居に安置され、始めて新居に一夜を明かされた。)

 このように、個人のものは何も残されなかった先生であったが、賀川財団として実に多くの物を残された。その関東方面における伝道、医療、社会、経済、教育事業を包含して雲柱社、関西方面におけるものをイエス団と名付けた。
 財団法人並びに社会福祉法人雲柱社には、教育事業五力所、厚生事業三ヵ所、伝道事業十ヵ所、保育事業八力所、簡易アパート二カ所等がある。この他に、開拓伝道、弱小教会、乏しい伝道者らに毎月生活費を助成する所十五ヵ所、社会事業助成四ヵ所がある。

 財団法人並びに社会福祉法人イエス団には、教育事業一ヵ所、保育事業九ヵ所、隣保事業二カ所、養護施設一ヵ所、診療所一ヵ所、簡易宿泊一ヵ所、母子寮一ヵ所、厚生事業二ヵ所等がある。(雪柱社ならびにイエス団所有敷地約十四万坪)

 また雲柱社及びイエス団が、土地や建物を提供し、賀川先生の伝道によってできた教会、それに類するものは、全国に二十数ヵ所ある。

 今は韓国領になっているが、済州島には千四百万町歩の“豊幸農場”がある。ここの平地では米麦が作られ、山腹には、松、杉、檜が植林されている。

 その他にも形の変ったものが種々あるが、以上のように賀川財団の事業は各地に散在しているばかりでなく、その業態も多種多様でありとうてい一個人の事業としては経営できないほどの大きなものである。そしてそれを貫いているものは、“我汝らを愛せし如く、汝らもまた互に相愛せよ″とのみ言葉、すなわちキリスト愛を実践せんとする賀川先生の精神運動の事業である。

                     〔財団法人イエス団理事、「荒野に水は湧く」の著者〕










連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第151回)

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「須磨離宮公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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           第151回


      『賀川豊彦全集16』(第14回配本「月報14」)


  
 『賀川豊彦全集』の第14回配本は、昭和38年10月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第16巻が刊行されました。

 今回の「月報14」には、「やわらかな握手」と題して石田正弘氏(天満教会牧師)、「天成の詩人」と題して竹内良雄氏(松沢教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集16』第14回配本「月報14」

                 やおらかな握手

                  石田 正弘


 昭和二十一年の夏、イエスの友夏期聖修会が比叡山で開かれた時に初めて参加したのが賀川豊彦先生を親しく知る機会となった。それ以来、私はイエスの友同志に加わって、毎年、正月と夏に催される聖修会に出て先生の人格に触れ、活ける生命の糧とするのが何よりの楽しみとなった。

 三年計画で「新日本建設キリスト運動」の火蓋がきられ、先生は中心講師となり、黒田四郎牧師を伴って長途の旅に出た。全国の都市という都市は荒廃にきし、人心の動揺もおさまらない只中にあって夜を日についでもなお足らない多忙さであった。当時、私の属していた大津教会も市内諸教会との連合で、大伝道集会を中央小学校で開いた。広い講堂一杯に莚を敷き、それでも足りないものは講壇の周辺にうずくまるほどの超満員で立錐の余地もない盛況であった。

 「世のたのしみうせゆき、
  人のなさけきえはて………」(旧讃美歌五四四)

 一際高く会場を圧する先生の声は、敗戦の苦悩を負い、窮乏と悲嘆に暮れている人々に非常な慰めと力となった。それから「社会革命と精神革命」と題して二時間以上に及ぶ熱弁、時計が午後九時半を打つというのに、誰一人席を立って帰るものがなく、満堂の聴衆は吸附けられてしまった。集会が終り、くたくたに疲れ果てていたにも拘わらず、そのまま会場から次の旅先に向って直行するという有様であった。駅頭に見送った私達は、神の使徒としての厳しくもまた尊い姿に襟を正す思いであった。その夜は、琵琶湖上に描く満月の美しさと共に、生涯忘れ難い伝道者の姿に接した。

 今日は西に、明日は東にと全国をくまなく伝道する賀川先生にとっては、何物にもまさって祈りの力添えが嬉しかったに違いなかった。伝道集会の準備として祈祷会が熱心に開かれる教会では不思議に講演に実がはいり、回心者の数も多かったようである。このことは先生自身、昭和二十八年九月、東京で開かれた全国宣教会議の特別講演の中で、「私は敗戦日本の有様に、あまり惨憺たる日本の形相を見て涙ながらに全国をぐるぐる廻っている。国亡びて山河すたれ、山河すたれて良心まで荒れすさんでしまった日本を興すには、祈りの外には絶対に不可能であります。………私は全国を廻って見て町々に着いた瞬間、出迎えに来た人の顔をみてすぐわかる。ああこの人は祈っている。祈っていたら、祈っているところには妙なくらい必ず奇跡が起きる」といわれている。“祈りなければ、奇蹟なし”とは、先生の五十年の信仰体験から得た貴重な確信であった。

 昭和三十四年初頭に、恒例の西宮一麦寮で冬期福音学校が開かれ、私も講師の一人として「己が生命を賭け」、「絶えず祈れ」と題し、二回にわたってビリビ書簡の奨励を行った。先生は、ストーブの傍に腰かけ、終始慈父のまなざしをもって、この若き伝道者の言に耳を傾けて下さった。諮り終えて近ずくと誰もが温かく触れたであらう柔かなあの手で私の手を力強く握りしめて、
 「石田君、しっかり頑張って頂戴よ」「ハイー」と、後は唯、固く両手で握り返して応答した。だが、この言葉が先生との最後の会話になろうとは……。二目後、「伝道者が伝道に倒れるのは本望だ」と言い切って、四国伝道に旅立たれ、遂に再起することが出来なかった。しかし、あの聖修会での標語は、「されど、今日も明日も次の日も我は進みゆくべし」(ルカ13の33)であったが、先生は、自分の屍を乗り越えて、日本教化と世界平和のために献身する若人のある事を期待されていたに相違ない。今にして宣百記念大会の録音のメッセージを想起する。今回、刊行された賀川豊彦全集は、幾千幾万の若き魂に、先生の人格と思想を植え付け、その衣鉢を嗣いで奮斗する人々が現われることを確信し、この企画に欣びを禁じ得ないものである。  
                                     (天満教会牧師〕





                天成の詩人

                竹内 良雄


 『繁忙な社会運動に疲れて、我々が帰って来る処は矢張詩であり詩篇である。』(聖書社会学の研究三七頁)とあるように、賀川先生は、旧約の詩篇に深い慰めを得た人であった。そして、繁忙な中にあって、多くの詩にその詩想を昇華させた詩人であった。

 私は若き日に、朝日新聞に載った「復活」についての先生の短文を初めて読み、その詩のような文章に魅せられたことを覚えている。それから間もなく、「賀川豊彦人生読本」(鑓田研一編)をもとめて愛読した。その中の、生命のほとばしるような人生詩、素朴にうたわれながら深味のある宗教詩のいくつかが、私の若い魂にやきつけられ、賀川豊彦は宗教詩人として印象づけられた。

 全集第二十巻に収録されている、詩集「涙の二等分」「永遠の乳房」の中に、それらの詩を見出し、懐しい思いに迫られている。

 神学校を卒業して、私の最初の任地であった伊豆の宇佐美で伝道していた頃、賀川先生は二度伝道にきてくださった。最初は昭和二十三年、二度目は二十六年の五月であった。
 
二度目のとき、伊豆の山と太平洋にはさまれた宇佐美村(現在伊東市)は、田植えを前にして初夏の太陽に照らされていた。海に近い川端の牧師館で小憩されているうちに、先生は私のノートに次の詩を書いて下さった。

            宇佐美の初夏

         せせらぎの  小川の流れ
         草蔭に聞き  露の行末
         見守れば
         鎮守の森に緑ふかし
         苗代作りは  畝に立ち
         天地の声に  耳すます
         字佐美の初夏 空は晴れ!

 先生はベンを手にして、しばらく考えていられたが、数分の間に書きしるされた即興の自然詩であった。この詩とともに、次の二首の歌もスラスラと書いて下さった。

         苗代見守るこの日 日本に
             魂稔る 秋の待たるる
         せせらぎの小川の蟹をさがし行く
             宇佐美の児らを我は羨む

 この歌のあとに「九坪の王者良雄兄」と書き添えて、先生は面白そうに笑われた。苦労して建てた牧師館は九坪の小さいものであったが、せせらぎの音が聞こえ、すぐそばで、海から上ってくる石垣の大きい蟹を裸の子供達がとっていた。

 「先生はこうして旅先で作られる詩や歌を書きとめておかれないのですか。」
と、私は尋ねてみた。すると、
 「黒田先生が一緒だと、書きとめておいて下さるのだがね」
といわれて、自分では書きとめようとされなかった。最初のときはごいっしょであった黒田四郎先生は、このときはお出でにならなかった。このようにして記録されずに、あちらこちらに書き残された作品はすくなくないであろう。

 その頃私は、宇佐美の隣の漁港綱代にも伝道しており、受洗した数名の若い漁師か中心となって、賀川先生を迎えた。「海国日本とキリスト精神」という講演をされた先生は、青年漁師のために、

          海洋をわが故郷と知りぬれば
          わが領域に太陽没せじ

と墨痕鮮かに書いて与えられた。そのとき、もう一人に別の歌を与えられたが、それはどうしても思い出せない。
 いつでも詩や歌が生まれてくる、賀川先生は天成の詩人であった。
                                   〔日基教団松沢教会牧師〕




                 何度でも赦された

                  黒田 四郎


 私が先生の仕事に加わったのは昭和三年の六月でした。しかし中学生の時から、先生のクラスメート鈴木伝助氏が、私の家に泊まっていられたので、新川の話をよく聞きました。また神戸神学校に入学してからは、よく新川へ出入をしました。引続いて、最初赴任した二宮教会が新川のとなり町でしたので、それからはグループの一人として手伝をおおせつかっていました。それで先生のことは相当よく知っているつもりでいたのであります。

 ところか、神の国運動の助手として先生と起居を共にし始め、まだ知っていなかったいろいろな面を発見して、びっくりいたしました。そのうちで、一ばん驚いて大きなショックを受けたことを記して見ましょう。 
                 
 それまでに、『賀川の事業はみな失敗する。成功したものは一つもない』とか、『賀川のぐるりにおる人間はろくなものはいない。だからどの仕事もめちゃくちゃになる』とか批難をされていました。私はそれをなさけなく思っていたので、一つでもよいから、仕事をまともにしあげたいと思いました。それで秘書の吉本健子姉とも話しあい、先生から私に託された一つの仕事を、最初から計画を慎重に立て、経理の点もしっかりし、事務も整然とするように注意しました。半年も経過したころ、その仕事もやっと軌道にのり、この調子で進めば、どうにか失敗せずに完成するのではないかと考えられるまでになりました。

 ある日、先生の書斎に見知らぬ人が訪れてきました。聞いてみると、何度も金と女で失敗した人で、数年前にも先生に非常な迷惑をかけて飛び出しながら、それ以来各所で先生の悪口を言いふらしているということでした。私はクリスチャンの母にきびしく育てられていましたので、そんなふしだらで無責任な人物は、ほんとにきらいでした。それで、非常に不愉快に思い、一刻も早く先生が彼を追いかえしてしまえばよいと、考えずにはおれませんでした。ところがです。隣室の私が先生からよび出されました。

 『黒田先生。XX君に、例の仕事をしてもらうことにしますから、事務を引きついで下さい』
と言われるのです。青天のへきれきというのでしょう。私は息もつまるほどびっくりいたしました。私は一瞬間、言葉も出ず、頭の中は混乱してしまいました。

 『こんな男に、あの仕事を渡したら、たちまちめちゃくちゃにされる。どうして先生はそれがわからぬのか。誠心誠意苦心してきたことも考えずに、…………』

 しかし仕方なく、その仕事を彼の手に渡す外はありませんでした。涙をのんだ気持をもって。案のじょう、二三ヶ月して、彼は先生のところから突然姿を消してしまいました。例の事業は根こそぎ破壊しつくされてしまいました。私は先生の事業の経営法に絶望を感ずる外はなく、泣くにも泣けぬ思いでした。

 けれども、その時私はつくづくと知らされました。先生は事業家ではなく、救う人だ。仕事よりも人間を大切にされる。何回失敗した人でも、何回でも赦される。すると何十人の中の一人か二人は立派に立ち直るかも知れない。先生が捨てたら、その人は亡びる外に道がないのだ。だから人を救う必要から、先生の仕事はいつも失敗を賭けられているのだ。これが先生の仕事の失敗の根本原因だ。

 そしてその時、ふとまた思いました。私が大失敗をして、誰からも捨てられるようになっても、私が悔いてあやまってゆけば、賀川先生だけは快く赦して、その日から私にやり甲斐のある仕事を与えて下さる。ありがたい。

 そう思って、私はそれまで少しも人を赦したことのなかった事実に気がつき、愕然といたしました。先生こそ、主の御言葉通り、七度を七十倍も赦して下さる方だと思いました。またその先生のもとで使って頂く光栄をしみじみ味わうことができました。
                                     (東駒形教会牧師)















連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第150回)

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「須磨離宮公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



         賀川豊彦の著作―序文など

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            第150回


      『賀川豊彦全集6』(第13回配本「月報13」)
  
 『賀川豊彦全集』の第13回配本は、昭和38年9月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第6巻が刊行されました。

 今回の「月報13」には、「居候の食客」と題して清水安三氏(桜美林学園長)、「人を信じまかせきった」と題して小川秀一氏(四貫島教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




            『賀川豊彦全集6』第13回配本「月報13」

                   居候の食客
                        
                   清水 安三


 確か大正九年だったかと記憶する。賀川先生が北京へ行かれるからヨロシク頼むと言う電報が、上海の牧師から来たので、わたくしは日本人居留民団で一回、北京大学で一回、前者は日本人のため、後者は中国人のために講演会開催をアレンジし、お宿には北京飯店にルームをリザーブしてお持ち申しあげた。ところが駅のプラットホームで、
 「僕はホテルには泊まらない、君のところに泊まる」
 と言われたので、
 「僕は実は電話局の傭聘技師の家庭に居候しているのですから」
 と言って断ったが、
 「そんなら僕も食客になる」
 と仰せになったので、やむをえずお伴して、僕はグブルベッドで先生と同?することにした。そうして今は故人ではあるが、家内はユカの上に眠った。翌日朝食のテーブルで、家内が二人の顔をじろじろ見くらべて、
 「アンタの眼と賀川先生の眼をくらべると、アンタの眼は死んでいるが賀川先生の眼は生き生きしている」
 と言った。わたくしはその時はそうかと言って笑っですませたが、貿川先生がお帰りになった後に
 「お前は賀川さんのヨメさんにもらってもらえ」
 と言ってドナッテくれたものだ。死んだ家内は以来賀川崇拝であって、賀川先生の著書は一つ残さず蒐集していた。そして後年彼女は病を得て帰朝、京都の府立病院で死亡したが、死するに当って、賀川先生に来てもらって、お祈をして頂いた。お忙しい賀川先生がよくも来てやって下さったものだ。

 終戦の前の年即ち昭和十九年の十二月に、賀川先生は中国へ例の贖罪講演旅行を試みられた。その折も北京では六国飯店にご滞在になったが、わたくしがお訪ね申しあげると、
 「君のとこへ行く、泊めてくれ給え」
 と言って朝陽門外の崇貞学園にお泊まりになった。そしてクリスマスを崇貞学園の中国人や朝鮮人の生徒と共に楽しまれた。

 戦が終って昭和二十一年の三月二十二日わたくしは、リュックサックを担いで引揚げて帰って来た。翌朝わたくしは東京名物の朝風呂を神田の銭湯で浴びて後、濡れタオルをさげて美土代町のYMCAの前を歩いていると、小川町の方から賀川先生がテクテク歩いて来られるではないか。
 「ヤア、命持って帰って来てよかったネ」
 とお言葉をかけて後、
 「君はコレから何するツモリだ」
 「僕は農村に学校と教会と病院を建てよう思っとるのドス」
 と答えると、               
 「ヨシ、それじゃ学校にすればできる大きい建物を借りてあげる。やり給え」
 と言って、今日の桜美林の旧校舎を借りて下さったのである。わたくし共はそこで賀川先生を学校法人桜美林学園の理事長として、先生を仰いで学校を経営し始めたのであった。勿論賀川先生あらざりせば否先生に小川町で邂逅せざりせば、わが桜美林学園は必らずや、この世に存在せざりしならむであります。

 ところがわたくし共が学園をば男女共学としたために、賀川先生は理事長をよしてしまわれたのである。実は賀川先生が日本では、男女共学は絶対ダメだと言われたので、わたくし共は桜美林を高等女学校として出発したのであったが、或る時、
 「清水君、君の学校に十二、三名生徒を頼む。入れてやってくれ給え」
 と電話されたので、ハイハイ承知しました」と答えた。ところが、送られて来たのはなんと、男生徒だったのである。なんでも先生が理事をしていられる学校にストライキが起ったとかで、その扇動者の英語の先生とストで騒いでやまぬ学生が賀川先生に訴えたんだとのことである。

 わたくしは天性極めてデリケートな神経の持主であるから「うちの学圃を共学にしたのは先生じゃござんせんか」等々と啖呵を切るだけの気力如きはいささかも持ち合せて居らぬので、遂に先生をしてご了解を得ないままにお見送りすることになった。わたくしは男の生徒を送られたので、てっきり共学論ご変説遊ばしたのであろうと、早合点申しあげたのである。

 桜美林学園は丘の上に1000坪の土地を購入して、その頂きに丸太のサクラの十字架(多分東洋一の大きさ)を建てて、その下に先生のお骨の一部分を頂戴している。そこに聖書に出て来る植物を悉く植えて、聖書植物園のガーデンを設け、あちこちに賀川先生の短歌を彫刻した群馬産の石塊を幾つもころがして置くつもりである。
                                    〔桜美林学園長〕



             
                人を信じまかせきった
                        
                   小川 秀一


 昭和二年一月、霊南坂教会の特別伝道集会で賀川先生に始めて接した。そのころ昭和記念特別伝道が行われ、私はYMCAにあったその事務所で、竹中勝男氏と共にポスター作り宣伝印刷物の発送等のアルバイトをしていた。YMCAで「兄弟愛運動」が石田友治氏等を中心にして行われ、賀川先生がよくこられ指導しておられた。賀川先生の書物「神に就ての瞑想」「苦簸に克つ工夫」その他もよみ、大体のことは知っていたが、講演をきくのは始めてであった。贖罪愛の実践、キリスト教でなくキリストに従って生きよというような、愛国的伝道説教であったと思う。同志社神学校に入学準備中の私には大きい力をもって先生のアッピールがこたえた。「贖罪愛に生きよ」この先生のアッピールが今日まで私の心に生き私を支える柱となっている。

 その後同志社で先生の話をきき、四貫島セッルメソト、神戸新川の先生の事業を見て、親しく先生に接するようになり、先生の中にあるキリストが私の中にも生き給うようになった。

 終戦後、東京で先生にあった。日本で一番伝道のおくれているのは徳島だ。私の郷里にいって伝道してくれというので、天羽、伊藤氏と共に徳島にのりこんだ。二十一年六月である。九月に賀川先生を迎えて一週間余り県内要所要所に大伝道会を開いた。この時以来先生と密接な連絡のもとに伝道の歩をすすめることとなった。

 最初は服部女学校の校舎を借りて伝道していたが、牧師館が建ったので伝道するようになった。たちまちここも狭くなり、教会建設を祈っている時に先生が来られ、先生にお話してあった、ポートランドの東野初太郎氏の土地四○○坪の寄附を受け、そこに徳島兄弟教会が建った。先生は郷里伝道のため常に祈り、一年に一度は出かけて行って伝道し、いつも手紙には徳島伝道の進展のため力をつくすようにたのむと記し、伝道集会の謝礼等は一切受けず、自弁で伝道につくされた。先生の故郷伝道に対する熱情は、パウロのイスラエル民族伝道に対する熱情に比すべく、私どももその熱情にどれだけ励まされたか知れない。

 二六年の暮れ三十日ころ先生から電報がきた。西宮で会いたいからこいというので、こえて二十七年一月二日、西宮一麦教会に行った。丁度イエスの友新年聖修会が開かれているので私も出席した。正面に「ゆけ、そこは荒野なり」(使徒行伝八ノ二六)と今回の標語がはってある。誰もいなくなってから先生は、四貫島の責任者がなくて困っている。公園の中に教会がたっていて将来移転の問題がある。保育園の経営がある。四貫島に来てくれないか、徳島の後任は心配する。大体以上のような話だった。私はできるだけ早く返事しますと答えた。四貫島にまわって様子をみ、天保山から徳島に帰った。教会やその他関係の者と協議し、結局四月一日から四貫島に行くことになった。ここから先生と直接関係が生じた。

 イエス団の理事長が先生、私はその経営するところの友隣館々長というわけ。それから今日までイエス団、まだ先生と密接に関連してきたが、こういう関係を通しての先生の経営ぶりは、先生は全く人を信じ任せる方である。問題が起れば別であるが、問題がなければ全く任せきりで、思う存分各地の責任者が自由に活動できるようにしておられた。

 そのために先生は各地の責任者の失敗のしりぬぐいを沢山せられた。この先生の信頼に対して私共は大いに責任を感ずるのである。

 「小川先生、四貫島のことはしっかりたのむよ」といって柔かい手で握手をされた先生。「やりますよ」と答えた私。神と共に人を信じ、だまされてもだますよりはよいとニコニコしておられた先生。そして神を信じ隣人を信じ、喜んで尻ぬぐいをした先生、このように先生をつくりかえた主イエスに感謝の祈りをささげた。
                                   
                              〔四貫島教会牧師〕




                  武蔵野の欅

             本田清一〔日基教団新栄教会牧師〕


          大空を摩すほどに
          けやきの大木が
          枝をひろげている
          小鳥はきて遊び
          微風は緑なす葉をゆすぶる
          けやきは
          武蔵野の王者だ
          ゆったりと
          動じないで
          黙々として
          そびえ立っている
          賀川豊彦は
          武職野のけやきを愛した
          その雄大さを
          その剛健さを――
          彼ゆいて三年
          今も 貿川は
          けやきの大木のように
          その巨大な魂のかげを
          私たちの上に
          投げかけている














連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第149回)

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「神戸映画資料館」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jop/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第149回



      『賀川豊彦全集23』(第12回配本「月報12」)


  
 『賀川豊彦全集』の第12回配本は、昭和38年8月10日に「文学作品(随筆・旅行記・その他」として分類されている第23巻が刊行されました。

 今回の「月報12」には、「善事不怖」と題して池田鮮氏(日本YMCA同盟総主事)、「日米会談の裏舞台」と題して阿久沢英治氏(東駒形教会会員)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。





            『賀川豊彦全集23』第12回配本「月報12」

                    善事不怖
                 
                    池田  鮮


 「君は賀川さんをよくご存じでしたか」と、ごく最近聞かれたことがある。所はワシトンD・C郊外アーリソトソである。人はアメリカYMCA同盟前総主事ユーヂン・バーネット博士であった。

 氏はアメリカにあるカガワ・フレンド協会の一員であると言い、「あまり熱心ではないがね」とすまなそうにつけ加えられた。

 さて、どれほど私が賀川先生を存じあげているかという問題になると、直接的、間接的の二方面にわかれる。

 幾度か壇上縦横に、白紙に墨で書きつつ語る先生を見上げたことがある。「神による新生」その他の小誌の幾冊かを感激をもって読み、かつ友人らに贈ったこともあったし、時に京王線に乗車するお姿を見かけた。さらに三等寝台の朝、静かに拡大鏡をもって十銭の紙表紙聖書を読んでおられる先生の横顔を見た……等、すべて間接的である。

 大戦中のある時期、私は上海におったが、中國基督教界の人々は、この時期に賀川さんは何を考え、何をしておられるのだろうということが問題になった。色々と情報が人々を通してもたらされた。国家主義に迎合しているというような噂、また憲兵隊に軟禁されて活動出来ないというような話、そして或る日、当の賀川さんがやって来られた。

 昭和二十九年頃であったろうか。隣あって食事をした時、先生はご自分の皿からハムを私の皿にのせた。 「僕の眼には豚肉がわるい」というようなことをいわれた。食糧事情がわるい日本から来られた先生に私は今度は自分の皿から鶏を先生の皿にうつした。「肉のうちでは羊の肉が一番身体にいいんだ、聖書に書いてある通りだね」ともいわれた。これは比較的直接的経験に属する。が、バーネット博士にいわれた時、反射的に思い出した、より直接的なものは次のようなものであった。

 終戦直後のことだから、学生達はアルバイト等で苦しんでいた。銀座二丁目か三丁目の中通りだったと思うが、学徒援護会なるものの事務所があった。学生らが商品の販売をするのである。ところが学生達は経営者が搾取するといって、賀川さんに調停を依頼した。

 賀川さんは経営者と会って、再組織をすすめ、賀川さん自ら理事長となり、YMCA同盟の来包敏夫氏、それに学生部主事をしていたので私も理事の末席に加って、学生達の希望するようなものにしてゆかうとした。

 その第一回理事会の印象が、賀川先生というと直ちに思い起されるものなのである。

 従来の経営者はむろん基督者ではなかったが、先生には一目も二目もおいていた。或は畏敬の念さえあったように思う。彼らは「先生の言われるとおりだが、今日の政治状況では、よいことでもそのとおりには出来ないところに私共の苦衷があるのです」というようなことを述べるのであったが、先生は断乎として言われた。

 「よいことがとおらないということはありません。法律といえども、政府といえども、よいことには反対することはできません」

 そしてこのヤクザのような連中に、親分のような親しみと包容力とを示して、
 「君やろうじゃないか」
 と言われた。

 この言葉、この碓信、この態度は、すべてを圧倒した。私はその時しみじみ先生は偉大であると感じた。

 私は先生を多く知らない。しかしこの小さな事件を通して、貿川先生を知ったと思う。賀川先生を生かしていたスピリット、信仰と愛とに、私はじかにふれたと今でも思っている。
                                  〔日本YMCA岡盟総主事〕




                 曰米会談の舞台裏

                  阿久沢英治


 昭和十六年四月二十二日に渡米した賀川先生は、同年八月十八日に帰国されたが、横浜港へ迎えに行った私の顔を見るやいなや、
 「阿久沢君、日米会談をどう思うか」
 という質問を発せられた。
             r            I  JI
 その当時日本は支那事変という泥沼に足を踏み入れて進退難に陥り、国民を挙げて心を痛めていたのであった。

 日米会談というのは、時の内閣総理大臣であった近衛文麿公が事変の収拾をもてあましていたおりから、十五年十一月二十九日、米国力トリックの最高学校メリーノールの事務総長でカトリックの神父補助監督ドラウト師が産業組合中央会理事井川忠雄氏と会見したのに端を発し、近衛ルーズベルト会談の案が持ちあがり、その計画は近衛総理の共鳴となり閣議を動かし、十六年一月二十三日野村大使の特派にまで進展し、ついで井川氏及び当時陸軍軍事課長であった岩畔豪雄氏等の出発となったのである。

 野村、井川、岩畔氏等の努力が漸次功を奏し、日米会談も順調のうちに展開するかに見えたが、時あたかも、独伊両主脳と会談、帰途モスコーに立寄り、スターリンと中立条約を締結、日本の運命を独りで担って立つが如く自信過剰に陥り、軒昂たる意気と凱旋将軍のような思いあがった態度で帰国した松岡外務大臣は、根本的に時局認識の見通しを誤り、近衛総聡の日米会談に非協力であったばかりか、むしろこれに妨害を加える態度に、せっかくの日米会談も殆ど頓挫するかも知れぬ状態に陥ったのである。

 天皇陛下もお心をいためられ、近衛総理も遂に松岡首切りのために十六年七月十七日内閣総辞職をなし、翌十八日第三次近衛内開を組閣、八月四日近衛ルーズベルト第二次会談を決意して野村大使に訓令を発し、八月二十八日近衛文書をルーズベルトに手交、近衛ルーズベルト第二次会談は本格的に軌道に乗り出すかに思われたのである。

 賀川先生は在米中、この会談成立のために三度もルーズベルト大統領に会い、井川、岩畔氏等と共に野村大使を助け尽力された結果、第二次会談即ち近衛ルーズベルトハワイ会談のお膳立ても一応の目鼻がついたのであった。よって井川、岩畔氏等と共に急拠帰国してその達成に没頭されたのである。

 私はそんな事情は全然知らなかったので、「どう思うか」と言われても「かいもく見当がつきませんね」と返事をするよりなかった。すると先生は、
 「日米会談はまとまるよ!」
 と先生一流の直截的な言葉で断言されてから、
 「僕は全力を挙げてこの会談成立に協力しているのだ。君も応援してくれよ」
 と言われた後、当時の国内情勢についていろいろと質問され、
 「これから出来るだけ機会をつくって世間話を聞かせてくれ」
 と言われた。

 当時の国内情勢は、このせっかく希望をかけた日米会淡は全く行きずまり、日本は何とも形容し難い重苦しい空気に包まれ、国民の意気は極度に阻喪沈滞し、証券市場の如きも全く火の消えたような閑散状態を辿っていた。

 それが先生らの帰国後間もなく、八月二十八日には近衛文書が野村大使を通じてルーズベルト大統領に手交され、第二次日米会談は急に曙光を見せはじめ、九月に入ると同時に 「近衛ルーズベルトハワイ会談近く開かる」という各新聞いっせいの報道に国民の愁眉は夜明けが来たようにひらかれ、証券市場も急に活況を呈し始めた。

 しかしこの好機も、軍部のうちにあった支那事変の解決を好まぬ勢力によって、九月六日には日米会談よりも戦争に重点をおくような御前会議の決定があり、南仏印の進駐となって、すぺての努力は画餅に帰してしまった。

 この会談が成果を収めていたならば、日本はあんな哀しい敗戦焦土の憂目も見ず、世界の歴史も今と全く異っていたであろうに、すべては夢のように消えた。苦い思い出の記録である。

 しかし、賀川先生の人類愛から出発した、平和を希う祈りは永遠に続けられて行くであ
ろう。      
                                  〔日基教団東駒形散会会員〕











連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第148回)

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「カトリック神戸中央教会にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jo/40223/)



       賀川豊彦の著作―序文など

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          第148回



     『賀川豊彦全集1』(第11回配本「月報11」)


  
 『賀川豊彦全集』の第11回配本は、昭和38年7月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第1巻が刊行されました。

 今回の「月報11」には、「キリストに近く生きた人」と題して小崎道雄氏(霊南坂教会名誉牧師)、「淡々とした無の生活」と題して緒方彰氏(神戸職安次長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。





            『賀川豊彦全集1』第11回配本「月報11」

                キリストに近く生きた人

                   小崎 道雄


 それは一九六〇年四月二十三日早朝、賀川先生夫人春子さんより電話で、先生の容体がよくないとの連絡があった。妻の静と二人で賀川先生宅に行ったのはその朝十時頃であった。都留先生も来訪されておった。春子夫人の案内で二階の先生の病室に入ると、先生は静かに病床におられたが、久しぶりに見る先生はその顔が非常に小さく、少年の如くやさしく見えた。

 私と都留先生と握手に続いて短い祈祷を捧げると、直に先生も祈祷を捧げられた。その声は小さくてよく聞えないので、私は耳を先生に近く持って行った。先生は、
「世界に平和を与え給え。日本の教会が強くなって充分に福音を宣教できるように助け給え。アーメン」
と祈られた。短いが、この祈は先生の全生涯を表現する真に完全な言であると思われた。

 私共はしばらくしてお別れしたが、その夜ついに先生は最も有意義な生涯を終られたのであった。

 不思議にも先生と私は同じ明治二十一年の誕生で、私の方は十一月十六日で少し先生の弟である。人生の最も不思議なことは、神の摂理により各人がそれぞれ様々の人々と知合となり、又面識の折を与えられることである。

 私が先生を知ったのは大正十一年十月北米の留学を終って帰国してからであるから、ざっと四十年の昔であった。特に大正十二年の関東大震災に際して、先生は直に上京して専ら震災救済に日夜指導の任に当られ、私は今の基督教協議会により組織された基督教震災救護団の主事として、海外諸教会よりの協力援助により救済と伝道と慰安の事業に当ったのであった。それより引続いて「神の国運動」の全国伝道等、協議会は全面的に賀川先生のご計画で活動をすることとなった。

 右の様な関係で協議会を中心に先生の奉仕活動に参加することとなり、昭和十六年の第二次世界大戦の始まる年の春にはキリスト教の親善使節の一員として先生に従い北米に旅行することとなった。

 日米の不幸なる戦争の起らんとする時に、日本の教会が賀川先生を中心としてこの使節団を送り得た事情に就いては、過日、筧光顕氏が「最後の日米和平工作」と題してキリスト新聞に連載されたが(キリスト新聞八一二~八二六号)、今から考えると、これこそ歴史に働き給う神のみ手であって、このことのため戦後直に教会は日米協力を実現できたばかりか、タリスチャンは平和時にも戦時にも一つのキリストの体に属するものであることを具体的に記録する結果となった。

戦後先生は、実に百パーセント以上の活動と奉仕をキリストに献げ、文字通り最後の血の一滴までもキリストに献げ尽されたのであった。

 北米の人々が、印度のガンヂー、日本の賀川と言って、この稀に見る人物に絶大な尊敬を払ったことは世人のよく知るところである。私共はこの歴史に数少い神の人に直接、近く接触し、よきご指導を受けることができたことは全く神の特別な御恵みとして、感謝する言もないのである。先生の偉大なことは賀川全集だけでも証明することができるが、全くキリストに近く生きた人であった。

 神が賀川先生を日本に与え給うた恵みは実に大きい。神は日本民族を救うため多くの証人を与え給うが、先生の如く広くかつ徹底的に日本人全部を救うために遺された方はほかにないように思う。

 「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永逮の命を得るためである。神が御子を世につかわされたのは世をさばくためではなく、御子によってこの世が救われるためである」(ヨハネ三・一六~一七)

 先生は一人残らず救われることを信じた人であり、神はさばく神でなく救う神であることを先生の全生涯で立証された。永遠の生命は先生の如く永逮の生命を持つ人を知ることによって最も容易に人々に与えられる。先生が日本に誕生して七十年の生活を許されたことは実に神の大なる恵みである。

 先生を想うことにより与えられる神の恵みと感謝は、如何に尊いもの、またありがたいものであるか分らない。

                               (日基教団霊南坂教会名誉牧師〕






             生涯のお友達 賀川先生と父(下)

                  山室 民子


 賀川先生と父との交りは、その後も長く続いた。父は先生の招きで再度廃娼運動の会合のために神戸に赴いた。賀川夫人には、社会事業に携る者はその家庭を犠牲にし、妻たる者も負担が重いので注意するようお話したと言うが、これは彼自身の辛い体験に基く忠告であった。

 大正十年十二月一日号「ときのこゑ」掲載の父の文中に「賀川豊彦君と邂逅す」という一項があり、次のように記してある。

 「十一月五日(土)朝大会席にて久し振に賀川豊彦君に出あふ、別室にて一時間ばかり話し合ふ、真に益ある対談であった。同君の健康が益々宜しいのが何より嬉しく覚えられた」

 昭和二年三月十六日(水)の父の日記に次の一節がある。

 「綾部ニ到着、賀川豊彦君ガ三日ノ特別運動ノ後、中耳炎二罹リ高倉氏方ニネテ居ラルルト聞キ見マヒニ立寄ル、共二祈ツテ別ル」

 昭和五年三月Ξ十一日付の父から賀川先生に送った手紙には次のように書いてある。

 「『基督教世界』を見て岡山で病気せられたことを知り驚き入りました。其後如何でせうか。何分無理が続いて居りますから御体にさはらぬやうにと、それのみ心配するのであります。」

 昭和八年九月四日の日記に父は次のごとく記している。

 「賀川君の親切により服部弥二郎博士来診、余の病気は動脈硬化の初なりとのことなり、そのつもりにて養生せざる可からず」

 昭和九年四月、父は石井十次氏永眠後二十年の記念の催に参列のため茶臼原に赴いたが、途中賀川先生らと同車した。夜は同じ旅館に泊り、次の日には先生も父も共に諸集会に出た。父は朝の式で説教し、夜は先生の語られた後で父も講演した。その日、先生と父とは石井氏の慕前で互に腕を組んで記念撮影した。

 昭和十五年三月父が重態に陥った時、旅行中の先生は賀川夫人に私たちの家を見舞うようはかられた。同年六月神戸で開催の父の追悼講演会では、「霊魂の熱愛者、労働者山室軍平氏の瞑想」と題し、一時間二十分にわたって語られた。

 昭和三十一年三月十一日の東京神田の救世軍中央会館における父の記念会においても、賀川先生は「宇宙創造と創造精神」なる講演をしてくださった。

 なお先生の著書の中には救世軍や山室軍平夫妻について語られた個処が少なくないが、それは別の機会に一層よく調べて述べさせていただくこととしたい。

                                     〔前救世軍書記長官〕





                 淡々とした無の生活

                   緒方 彰


 私が賀川先生に直接お世話になったのは昭和十三年八月である。ちょうど瀬戸内海の豊島に胸部疾患者のため、保養圃を開くことになったという記事をイエスの友機関誌「火の柱」で知り、早速先生あてお順いし、豊島を訪ねることとなった。かくして開設早々の保養園で、日曜学校のお手伝やその他の雑用をさせていただきながら療養生活を送った。

 ところが開園後数ヶ月、「神愛館」の建設が完成しただけで、第二棟の基礎工事の最中に村会議員全員の署名による反対決議がなされるところとなり、先生は躊躇することなく、

 「皆さんのと要望に副い速かに保養農園を閉鎖いたします」

 と宣言され、あっさり島から退却されたのです。その際の実にいさぎよい淡々とした先生の態度に、私は大変教えられました。

 その後昭和十七年の夏から一年八ヵ月にわたり、第二回目の療養生活を豊鳥神子ヶ浜で送ることとなったのですが、折しも、平和運動の○により、憲兵隊に捕囚後の心身の静養をかね、病人の世話を直接されていた際でもあり、先生と起居をともにする機会が与えられたのであります。

 早朝に起きて読書され、朝食前にゲッセマネ(先生の命名による岩山)で静かに祈られる姿、また食前の讃美歌を大きな声で歌い、病人の癒えるために熱心に祈られる敬虔なお姿は、療養する者に強い慰めと快復への希望を与えずにはいられませんでした。

 特に感激したことは、先生と一緒に入浴するたびに、背中を流していただいたことです。私が「先生の背中を流させてください」と言っても、「僕はよいから」と言って、どんどん洗ってくださるのには恐縮しました。

 それはイエスが弟子の足を洗われた故事にも似て、いつまでたっても忘れえぬ先生の立派なしかも愛情あふれる生きた教訓でした。

 私の病気も大変快方に向った翌年の正月早々、西宮市瓦木村の冬期福音学校へ講師として出席されるので、私も鞄持をして先生に同行することとなった時のことです。

 三等車の狭い席で揺れながら一生懸命ノートにペンを走らせておられる先生に向って、
 「何を書いておられるのですか」
 とたずねたところ、
 「これは『宇宙目的論』といって、自分の畢生の論文だ、これを書いていると楽しくて、宇宙の神の意匠がだんだんと深くわかるのでこんなに興味深いことはない」
 と、寸暇を惜しみ、車中でも筆を休ませぬ熱心な様子は、
 「わたしの父は今に至るまで働いておられる。わたしも働くのである」(ヨハネ五・二七)
 といわれたイエスの御言葉に似て、何ともいえぬ感激を覚えたものです。

 やがて、阪急西宮北口駅を降りて一麦寮へ向う途中、先生は私の持っているボストンバッグを「僕が持ってあげよう」
 といって、どんどん歩いて行がれるので、辞退しようと追いかけても
 「いいよ、君は病人だから」
 といってサッサと足速く進んで行かれる様子を見て、感涙にむせんだことでした。

 さらに、その福音学校開校中のある時、無名の一青年が先生の宿舎(武内勝氏宅)を訪ねてきた際のことです。その何年が金を使い果して困っていることを聴かれた先生は、
 「君これを持って行きなさい」
 といって金一封を渡されたのです。その時先生の財布には五円しか入つていないことを自分は知っていましたが、先生はそれをそのまま渡してしまわれたのです。青年が帰った後で、
 「全部あげては困るのではないのですか」
 とたずねたところ、
 「神様がまたくださるよ、僕の生活はいつもこんな無の生活だよ」
 と至極平気な様子に、またまた強く感動させられたのです。

 かくして数ヵ月の短い期間でしたが、先生と同じ釜のめしを食べる光栄ある機会を与えられ、先生の言葉だけでない実生活に触れて、ますます賀川先生の真価の偉大さを知り、爾来先生が亡くなられるまで、否先生なき現在に至るも、実践された贖罪愛が永遠の生きたことばとして私の魂に内住しているのであります。

                             〔神戸職安次長・イエスの友中央委員〕












連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第147回)

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「須磨離宮公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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             第147回



    『賀川豊彦全集20』(第10回配本「月報10」)


  
 『賀川豊彦全集』の第10回配本は、昭和38年6月10日に「文学作品(詩歌・童話」として分類されている第20巻が刊行されました。

 今回の「月報10」には、「伝道に心血を注ぐ」と題して織田金男氏(自由メソジスト世界連盟副議長)、「考えたらこぼして行く」と題して長谷川初音氏(芦屋浜教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。





           『賀川豊彦全集20』第10回配本「月報10」

                 伝道に心血をそそぐ

                  織田 金雄


 賀川豊彦はいったい何者であるか、何を主なる職業としていたのだろうか、社会事業家として病院、孤児院、セッツルメント、保育園、その他の社会事業を経営しておられた。労働運動家として農民組合、共済組合、労働組合を組織し指導せられた。彼自身の職業らんには著述業とあったのを見たが、先生ほどたくさんな種類の書物を書かれた人もない。晩年は科学者として、ことに電気に関して一家言をなしておられたらしいが、いずれの分野においても名声を博されながら、専門家からは芸達者な素人扱いを受けておられた感かないではない。

 賀川豊彦をして賀川たらしめるところは何といってもその伝道にあるのである。その方法、手段、メッセージは時代と環境に応じて異った。神戸新川における路傍説教より神の国運勣、百万人救霊運動、全国都市伝道と規模も方法も内容も時代とともに変化した。けれどもそのキリストヘの赤誠と霊魂への熱愛は日とともに深重を加えた。その内容はますます豊富となり。そのテクニックはその聴衆の層によって心を捕え、地の涯より最も多くの共鳴者を起し、悔改めへと導かれた。多くのクリスチャンを愛の実行者、祈りの実行者としてイエスの友の会を創設し、今なお日本のみならず南北アメリカの邦人中にも先生の足跡をふむ者が多い。先生の伝道は世界的である。このような伝道をした人は日本人としては他にあるまい。

 私も北米に六度、南米に一度伝道旅行をし、北支に七年間宣教師として伝道して外国伝道を少々は知っているが、先生のそれに比すればものの数ではない。しかも私の七年の支那伝道中、終戦の年の一月、先生は支那伝道に来られた。私は北京から石家荘、済南、青島、天津と二週間の伝道旅行のお伴をした。そして大伝道者の日常生活の姿を近く見る機会を得た。

 まず第一に驚いたのは、北京に来られる前に手紙で北支の地質学の有名な書物(英語)を買っておいてくれとのことであった。自分がこれから講演に行く地の地質学を研究しておかれる用意の周到さである。果せるかな、説教中にもそれが出てきた。大学での講演中、 「この地方からはウラニュームが発見せられるのだ」には学生がビックリしていた。精力絶倫なのにも驚いた。青島では一日七回の集会が組まれた。日本人の牧師が、
「先生が何回でもよいとおっしやるし、中国側からも申込みが多いのでこんなになりましたが、どれでも自由に取捨してください」
と苦労のほどをおっしやった。すると、
「僕が勝手に取捨すれば、やめられたものは軽視されたと思うじやないか。皆やるよ」と早天祈祷会から夜の伝道会まで大学の講演、婦人大会、教役者大会、病院伝道、政府の歓迎会、一般伝道会、その一つ一つを熱心に説教されたのにはまったく感心した。
    
 次に驚いたのは、旅行中に原稿を書かれることである。我々でもひっきりなしの講演と説教、その間に個人面接の人があるのだから少しの間でも休もうとするが、その時に日本への新聞、雑誌及び単行本のための原稿を書かれるのには驚かされた。

 ただ何にもいっていない時は汽車旅行中であった。これがまた大切な時であった。即ち次の講演地での想をねられる時であり祈りの時であった。私は済南から青島への汽車中、弁当をさしあげる時と、お茶や支那大根をさしあげたり日本の羊羹をさしあげた時のほかはほとんど話をせずに沈黙を守って、先生の瞑想を破らぬようにつとめた。青島につくと、「織田君、君はよくわかってくれていいよ、何もしやべらなかったからね、よく休まった」とおほめの言葉をいただいた。伝道者として自分の経験がそうさせたまでであった。だまってほめられたのはこの時だけである。
                     〔自由メソジスト世界連盟副議長・大阪基督教学院院長〕




           結婚までは一枚  賀川先生と父・山室軍平 (上)

                  山室 民子
 

 賀川豊彦先生が、数多い著書の中で最初に書かれたのは「友情」と題するこども向きの本であった。その中で先生は、ヨナタンとダビデの交友の物語に托して、友情の貴重さをこどもにもわかるように示しておられる。その先生は、神戸の貧民窟から始まって、世界の人々の友情を一身に集められるようになった。ほとんど無限に拡がるであろうところの先生の交友録の中で、特に初期のころからの先生の知友として、見落されてならない人の一人に亡き父、山室軍平があると自負している。

 明治四十四年一月、私たちの家は火災に遭ったが、その直後、武甫(軍平の長男)は賀川先生からフランネルのシャツと新刊の「友情」を贈られた。大正二年の暮発行された「預言者エレミャ」の巻頭に父の序文が掲げられているが、その中で彼は若き先生をアシシのフランシスの流を汲むものと紹介し、深き敬意をもってその本を推せんしている。その挿画を描いた長尾己氏によれば、先生は「日本で一番尊敬する人に序文を書いて貰う」と言って、父に依頼されたとのことである。

 「人生読本」(昭和十一年八月、第一書房)の中に先生は次のように言っておられる。「私は結婚するまで、衣類は凡て一枚で満足してゐた。結婚する時に紺の木綿の紋付と袴を人から贈ってもらった。然し、友人の忠告に従って、結婚後文字通りの一枚をやめた。それは妻の面目を思ふたためであった」 鑓田研一氏の註によればこの贈主も友人も共に山室軍平であるが、私はこの註に太鼓判を押す。なぜなら、救世軍士官が和服を着ていた明治三十年代に、父は紺の木紬の紋付と袴で結婚式を挙げたので.そうした式服をそのまま先生に贈つたに違いない。父以外に、だれもこんな式服や贈物は思い付かなかったろう。それから右の忠告もフェミニストであった父にふさわしい。私は彼が他の後進に同様の助言を与えるのを聞いたことがある。

 「山室選集」(第九巻巻頭)に賀川先生の文章が掲載してあるが、それによれぱ、先生は神戸におられたころ、父がその方面で集会を営む時にはいつも出席された。又父の著書「平民之福音」を愛読し、これを高く評価しておられる。先生が神戸の神学校を卒業すると、父は先生に救世軍士官学校教官になることを依頼したが、先生は労働組合を作る意志を述べて、それを辞退されたとのことである。
                                     〔前救世軍書記長官〕




               考えたらこぼして行く

                 長谷川初音


 それはわたしがまだ姫路の日の本女学校に勤めていた時でした。

 雷門教会の牧師館の緑先に腰をかけて編物をしていますと、フトコロ袖をした男が入って来て、ヌッとわたしの前に立ちはだかりました。それが賀川さんでした。初対面です。

「この人だよ」と敞(故長谷川敞牧師のこと)がいいますと、
「わかってるよ」といった格好で、
「ありがとうございます。ほんとうにごくろうさまです。こんな貧乏伝道者の片棒をかついでくださることになりまして………」

 そんなことをアケスケにいいながら、座ぶとん一枚分くらいの間をあけて並んで腰をおろされました。しかし部屋の中に敞や母がいましたので、二人は自然にななめに向き合う格好になり、たびたび目が合うのですが、そのたびにニッコリとされるので、初めのごあいさつで少々あきれていたわたしの心も、だんだんとなごんでゆくのでした。

 その次の出合いは壇上と壇下とだいぶへだてた空間が二人の間にありました。やはりわたしは姫路でしたが、雷門訪問の帰りにすすめられて神戸教会にまわったのでした。

 賀川さんは「ピーターパンとアリス」という演題をかかげていました。ところか壇上に立つなり、大きな備えつけの聖書を無雑作にさげて、後方の牧師用の椅子の上ヘポイとおかれたものです。

 若かったわたしは、またそれにあきれたのでした。でも座を立つことはしませんでしたので、そのうちに話につられてしまって、帰るころには自分がピーターパンになったようなよい気分になっていました。

 結婚して雲門教会の牧師館に住むようになってからは毎日出会いました。どうかすると朝来て昼来て晩に来てという日もありました。別に用事もなかったのですから、あのころはお互いにひまだったと見えます。

 でも、いつでも何か考えている人でした。世には石橋をたたいて渡らない人もたくさんいますが、あの人は橋なんかあろうがなかろうが「行くんだ」と考えたら行った人でした。

 神戸の消費組合も、昼わたしが塩鮭を焼いている前にすわり込んでいい出し、夕方にはガリ版の定款を持って来で、という早さでスタートしましたし、「覚醍婦人」という勤労婦人のための新聞も、朝の訪問で「やろうよ」といわれた翌日には「保証金を納めてきた」の矢つぎ早さで、わたしは主筆にされてしまっていました。

 しかし賀川さんには、成るを守る型の助手がいります。考えたらこぼして行く賀川さんのあとから、それを拾って守り立ててゆく人のあったものは成功しています。
                  
 でもわたしはどっちかというと、小さいながらも考える方、こぼして忘れて行く方なので、よい相手ではありませんでした。
    
 それをはっきりと別れさせたのは関東の大震災でした。大きくゆれた翌朝早く、賀川さんは玄関口から敞に
「君は陸を行ってくれ、僕は海から行ってみる。東京にはいれた方がこっちへ指示を送るのだ。では」
と飛び出して行かれました。
                  一
 敞は沼津から帰って来ましたので、わたしたちは物資集めにかかりました

 賀川さんの舞台はそれっきり東京に移りました。それから日本全土に、世界に。
     
 最後の会話は浜教会の特伝のあとでした。
 「なにか助けようか」 
 「イイエ」
 「あんた、貧乏志願者だネ」
 「どうして?」
 「こんなにあき地をほっておくんだもの、くるみでも植えなさいよ」  
 「イイエ、このあき地は今にせまくなってしまうのですよ」

 実は今はもうそうなっているのですが、これを見てもらえないのが残念です。
                 
                                 〔日基教団芦屋浜教会牧師〕






連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第146回)

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「姫路・好古園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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               第146回



      『賀川豊彦全集11』(第9回配本「月報9」)


  
 『賀川豊彦全集』の第9回配本は、昭和38年5月10日に「哲学・経済・社会科学」として分類されている第11巻が刊行されました。

 今回の「月報9」には、「物心両面の支え」と題して黒川泰一氏(全国共済農業協同組合連合会参事)、「情熱を注いだ生協運動」と題して中林貞男氏(日本生活協同組合連合会副会長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。。




             『賀川豊彦全集11』第9回配本「月報9」

                  物心両面の支え

                   黒川泰一


 関東大震災の直後、賀川先生が本所区松倉町にテントを張られ、罹災市民の救援に奔走されると同時に、連日連夜、市内の教会で説教をつづけられたとき、既に受洗者であった私も、毎晩、先生の後を追って説教を聴きまわった一人であった。当時商業関係にいた青年、私の煩悶時代でもあったので、間もなく松倉町に先生を訪ねて、私の悩みをきいて頂いた。先生は私の相談をきかれるや即座に、「君は協同組合運動に従事するのが一番よろしい」といわれた。私も即座に「是非やらせて下さい」と答えた。「それじゃ木立君にいっておくから、同君の指導をうけなさい」ということで、それ以来、今日までその道に入って四十年を経た。

 したがって、私の先生についての思い出は「賀川先生と協同組合運動」に関係したことだけでも、尽きないほどありすぎる。

 先生の事業は、いづれの方面でも他人が手をつけない、先駆者的であり、開拓者的なものばかりであるが、協同組合運動もその例外ではなかった。消費組合然り、質庫信用組合然り、医療組合、保険(共済)協同組合等々みなそうである。そしてこれらは日本のみならず、国際的関係を含めての協同組合運動に大きな影響を与えているものであるが、残念なことには、既刊の賀川先生の伝記には、その記録も評価も不充分であり、軽く扱われていることである。これは申訳ないいい方だが木立さんあたりが中心になって、ぜひまとめていただきたいところである。

 私が賀川先生の指導下にあって、直接関係したものについて特に印象の深い先生の思い出では、まづ医療組合の設立運動である。

 それは昭和六年一月から始まった。当時は農村恐慌の真最中で、農民は窮乏のどん底にあって蟻地獄のように医療地獄に落ち込んでいた。政府はそんなことには見向きもしないで、ただ経済更生運動の掛声をするばかりだった。医療地獄から農民が抜け出さぬ限り経済更生も空念仏に終る。そして農民自身の協同の力による外に医療地獄から抜け出すことはできない、というのが先生のお考えだった。

 しかし、これを一挙に全国の農村に普及するためには、最も目立つ場所にモデルを作ることが早道と考えられた結果、その条件に合う場所として東京を選ぱれた。それで始められたのが東京医療利用組合の設立運動であった。

 しかしこれには医師会という開業医の団体が、全国の勢力を結集して猛烈な政治的圧刀をかけての大反対運動を起してきた。そのため設立認可は一時は絶望視されたが、翌七年に突発した五・一五事件の余波が幸いして、一年がかりで滑り込み認可となった。そして、この間の医師会の全国的反対運動が却って刺戟となって、その後全國の農村に医療組合設立運動が燎原の火の勢いで拡がった。賀川先生の狙いは不思議にも短日月で結実していった。

 その後、昭和九年には当時の内務省社会局から主として農村を対象とした国民健康保険組合制度要綱試案が、賀川先生からの示唆を得た馬場蔵相の発意をもとに発表されたが、この時も先生は逸早くその促進運動と既存の協同組合たる産業組合を基礎に実施すべきだとの主張をつづけ、ついに政府当局と産業組合を動かし、その方向に進められた。

 これに対しても全国の医師会の猛反対運動が起され、あわやひねり漬されようとしたが、賀川先生を先頭に立てた全国産業組合の支持運動が強力に展開され、昭和十二年に国民健康保険組合法が成立し、全國市町村の三分の一は産業組合の事業として実施された。この間の先生の努力と産業組合の熱意と協力は、当局の作った国民健康保険史には意識してか無意識なのかは知らぬが、ほとんど記録されていない。

 日本の協同組合連動の質的変革をもたらすものとしての組合保険(共済)は、今や大きな驚異的発展を遂げつつあるが、これまた賀川先生が昭和十年以来、協同組合保険の必要性と実施をつよく主張しつづけ、その指導下に立ち上った産業組合の動きは、戦前には遂に政治的圧力のため一旦は漬されてしまったが、敗戦を機として遂にその実現を見ることができ、かつ予想以上の発展をつづけているところである。

 いつも思うことは、消費組合にしても、医療組合にしても、また戦後逸早く、戦時中禁圧されていた協同組合運動の再建のため、賀川先生を会長に発足した日本協同組合同盟(現在の日本生協連の前身)にしても、賀川先生からバク大な私財の援助を受け、物心両面に大きな御負担をかけながら、その償いをすることもできないまま過ぎていることである。
                            〔全国共済農業協同組合連合会参事〕




                情熱を注いだ生協運動

                  中林 貞男


 「一人は万人のために、万人は一人のために」各地の生協を訪れてこの文字をみると、私は賀川先生を想い出す。先生は生協の仲間から額や色紙などの揮毫をたのまれるとよくこの言葉をかかれた。この十八文字は簡単だが協同組合の精神を非常によくあらわしている。先生の協同組合運動に対する情熱はすべてこの言葉から出ているのではないだろうかと私は思っている。また伝道者としての情熱でもあったであろう。

 そして先生は人格主義を説かれ、よく数字をあげて青少年の犯罪のふえるのを嘆いておられた。先生はまた科学を愛された。先生と話をしていて一番まいったことは、巧みに数字をあげて煙にまかれることであった。私はいつか先生が役人の汚職を憤慨して数字をあげられるので、その数宇はほんとうかと思って後で年鑑を調べたところ、ぴたりとあたっていたのに驚いた。

 従って先生は協同組合運動の根本は教育だということを主張され、人の養成を強調された。いま私達全国の生協の仲間が、先生の記念事業として神戸に生協学校をつくろうと着々準備をすすめているのも、そのご遺志にもとずいたのである。

 この根本的な考え方にたって先生は平和を愛し、戦争には絶対反対の意思を常に堅持しておられた。私はよく先生と話していて、こと平和の問題になると先生の強い信念におどろかされ、激励されることがしばしばであった。

 数年前、警職法のことが問題になり、日本生協連としてその扱いを相談に行った時、先生は再軍備を中心に再び軍国調がつよくなって来たことを憂い、
「生協運動は平和運動だ、そんな法律は絶対反対だ、いまの日本にとって一番大事なことは平和の問題だ、戦争に反対して憲兵隊や進駐軍にひっぱられるのならかまわんではないか、君! そんなときは一緒にひっぱられよう」
と語気はげしくいわれたのには驚いた。その時の先生の姿はいまも私の脳裏にのこっている。人間賀川は徹底的な平和主義者であった。この先生の崇高な精神が日本の生協運動に大きく影響していることはもちろんである。

 先生は友愛と信義、協同の精神を強調し、自らも尊重することにつとめられた。そして力の強いもの、権力を持っているものがこれを理解することが民主々義にとって一番大切だと私に教えられた。

 当時よく日本生協連の総会で元気のよい代議員や大学協連の若い代議員から、私達に鋭い批判がむけられた。のんきな私でも時にはおこりたくなることがあったが、こんな時会長はいつも私にむかって、
「君達は執行権をもつているのだから、黙ってみんなの意見を聞くことが大事だよ、ことに若い学生の意見には、お互に耳をかたむける必要があるよ、若い連中の意見をきかなくなったら人間はだめだよ」
と私をなだめられた。

 会長はこと曰本生協連の問題になると、いつも大同団結と運動の統一を私に注意された。おそらく先生は戦前からのながい労働運動、農民運動などの経験から、力の弱い生協は何より運動の統一をはかることが一番大切だと痛感されていたからだと、私は先生のその信念を肝にめいじている。これは今後も大事なことだと思っている。とにかく、労働者は大きく団結すべきだということを常に強調され、従って社会党の分裂等については、病床にありながら強く批判しておられた。

 先生のこの態度はいつも、日本という立場よりむしろ人類という立場にたっての主張であった。その意味では先生はすばらしい国際主義者であった。日本人で先生ほど国際的にその人格や業績が高く評価されている人は少いのではないだろうか。

 私は国際協同組合同盟の会合等に出かけてみて、先生に対する評価が国内においてよりも国際的に高いのに驚いたのである。日本の主張をする場合に、ドクター賀川も同意見だというと皆拍手をしてくれるので、私は度々先生のお名前を拝借させていただいた次第である。

 先生が国際的だということにからんで、私は一度先生に一喝されたことがある。それは社会党の故三輪寿壮氏が選対委員長をしていた時、
「鈴木委員長と相談して都知事候補に賀川さんを推そうというのだが、君から先生の内意をうかがってくれないか、もし引受けてくれられそうなら、党からも正式に頼みに行くから」
といわれ、私も名案だと思って先生に話した。ところが、
「君! 俺は泥臭い江戸川の水は呑まないよ! それよりもいま、人類の破滅を憂い、一生懸命原稿を書いているのだ。そんなことを考える暇はないよ」
といわれたので、更に社会党の真意を説明しようとしたら、
「君! 馬鹿なことをいうのはやめ給え、君はわしと幾年つきあっているのだ」
と大喝されたので、ほうほうの体で引きあげた。先生の頭には人類の幸福、世界の平和ということ以外にはなかったのであろう。晩年ノーベル平和賞の候補にあげられ、国際的運動に発展しながら、その結実を見ずに他界されたことはかえすがえすも残念でならない。

 日本生協連が実力以上に国際的に評価され、現在世界各国との交流がスムーズにいっているのも、先生の力に負うところが非常に大きいと思っている。われわれが現在やっている協同組合貿易についても、先生は当初からの最も熱心な主張者であった。

 私はいま戦後十七年間の日本生協連の歩みをふり返ってみると、その一つ一つが先生に負うところの大きいのに驚かざるを得ないのである。そもそも終戦直後の昭和二十年十一月十八日に新橋蔵前会館で、日本生協連の前身日本協同組合同盟の結成大会を行って、運動を開始した時の資金は誰が出したのだろうか、現在の新しい連動の仲間は殆んど知らないだろうが、それは外ならぬ先生であったのだ。

 先生が某会から百万円借りてこられてポンと投げ出されたのが、戦後の運動のはじめだったのだ。百万円といえば簡単だが、今日に換算すればいくらになるだろうか。そしてその後先生は一人でその全額を原稿を書いて返済してくださったのである。

 私は先生の崇高な精神、そして現在の運動の姿を思い感慨無量である。また先生は、中小企業団体法や小売商業特別措置法等の生協抑圧法が国会に上提され、反対運助をやっていると、いつも卒先して国会に陳情に行ってくださった。最早私達は先生のその姿を見ることはできない。

 大正のはじめ神戸の貧民窟の伝道から大阪の共益社や神戸の神戸生協、灘生協(この四月に両生協合併)、また関東大震災後の東京に江東消費組合、つづいて中野の組合病院の設立に力をつくされた。キリスト者としての先生は、生協運動を通じてその理想を実践されたのではないだろうか。

                              〔日本生活協同組合連合会副会長〕
                            




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第145回)

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「姫路城・千姫の小径にてーでんでんむし」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



  賀川豊彦の著作―序文など

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             第145回


    『賀川豊彦全集17』(第8回配本「月報8」)


  
 『賀川豊彦全集』の第8回配本は、昭和38年4月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第17巻が刊行されました。

 今回の「月報8」には、「童心」と題して小田切信男氏(小田切医院院長)、「日本はアジアと共に」と題して吉村静枝氏(豊島神愛館館長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




           『賀川豊彦全集17』第8回配本「月報8」

                  童   心

                  小田切信男


 世にはエライ立派な人は少なくありません。しかし、そのような人で心から好感のもてる人はそうざらにあるものではありません。徳富翁が同時代の日本人の、しかも対照的な内村・貿川の両先生を讃えたことは特筆すベきことでありますが、私には両先生こそ最も敬し愛しうる稀な人格でありました。しかもこの両先生には特に心ひかれる共通点を見出しているのであります。それは、その人の偉大さにおおわれてしばしば見失われがちな童心であります。もちろんこれは神を父と呼ぶ子の自覚から自然に流れ出たものでありますが、私は、この神による童心にこそ愛すべき「人」を見出したのであります。なぜなら童心の人なる信仰者には老人なく、英雄・超人・聖人もあり得ないからであります。

 賀川先生は診察の目的ではなしに新宿時代の小院をご訪問下さったことがあり、無理に尿を採って頂いて顕微鏡検査を行ったことがあります。その折、短い会話の中に終生敬愛すべき童心の人を発見したのであります。その後四谷の医院新築感謝会において、激励のお言葉を頂いたことも忘れ難い感謝であります。

 私の五人の子供等は賀川先生の松沢教会の幼稚園や日曜学校で育てられ、いずれもすごい賀川先生のファンでありました。夕の祈りに、賀川先生のご健康とお仕事とを守り給えと祈る小さな末の娘の祈りには、ハッと心を打たれるものがありました。それが人を尊敬することを知らぬご時勢であっただけに、子供等に「尊崇の人」貿川先生のあることは誠に嬉しいこと、有り難いことでさえありました。

 昭和三十五年四月二十三日夜、私はお宅にお見舞をかね、渡独のご挨拶にお伺いいたしました、その時奥様から、先生は四時間程前から意識不明と告げられ、驚いて二階のお部屋に伺ったのであります。ベッドに横たわり、その身に「キリストの傷痕」(ガラテヤ六・一七)を刻む先生のお顔には、もはや生気なく、意識なく、血圧も極めて低く辛うじて計れるくらいのものでありました。慢性の腎炎から心筋梗塞症、そして、その後しばしば出没性の垂下性肺炎に襲われ、次第に心力を低下し、今や危篤状態に陥ったものと判断せざるを得ませんでした。しかし、常に巨大な人格はヨハネ伝の宣言にも似て(一一・二五~二六)そのまま不死であります。ご家族の方々は、たとえ死の不安を抱いていたとしでも、今がその時とは到底考えられないという、その心情はよく分ります。もちろん入院中も、しばしば危篤と告げられながら幾度も危機を脱し、そのため賀川先生には医学的判定は定め難いと医師達をして嘆かしめた程でありました。しかし「今」が「その時」であると知った医師は真実を語らねばなりません。奥様はじめご家族の皆様にご臨終の近接を告げると共に、私は病院から最後の治療としての注射薬を急ぎとりよせたのであります。

 特にうす暗くしてある電燈の下に、先生の喘ぐ呼吸の荒々しさは、きびしい定めの時に
急ぎつつあるものの如く、人々の心に痛みとなって反響して来ます。父と子との繋りを手に握りしめるご長男、或はひざまづき或はベッドに寄り添い見守る人人、奥様はやや離れて祈るが如くでありました。側に立つ私は突如先生が――あたかも眠より今目醒めたかの如く目を見開き、あの童心の微笑を浮べて、挨拶なさいましたのを見てびっくりいたしました。しかも、そのまなざしは、その瞬間天を仰いで祈るように見えました。「先生!と呼びかけますと、先生は重々しく頭を廻らしはじめ、周囲の人々を見渡されるのかと思わしめましたが、その頭の重さを支えかねるものの如く、ガクッと左側に頭を落すと共に、世を去られました。大いなる「瞬間死」の終焉! その時奥様はツト手を差し延べ、先生の頭にやさしく触れ「よくお働きになられました」「御苦労様でした」と万感を胸に秘めてお別れのご挨拶を述べられました。私は襟を正し、声を出して祈りました。この人を日本に遣し給いし神に感謝し、その信仰と戦闘の生涯を讃えつつ。

 数日後、私はアンカレッヂよりハンブルグヘの空の旅で賀川伝を読み続け、北独乙巡回講演の旅ではしばしば求められて賀川先生を語り、会衆の共感と偉大な日本人キリスト教徒の死に対する弔意をうけたのであります。

 ドクトル・カガワは独乙では「世紀の聖者」であり、私には大いなる、神の「童心の人」であります。                                 
                                  〔小田切病院院長・医博〕




                日本はアジヤと共に

                  吉村 静枝


 百三人の賀川先生を思慕する人々によって語られたキリスト新聞社発行の「百三人の賀川伝」は、それぞれの異なった立場から、その多彩多方面な賀川豊彦先生をあらゆる角度から書き記されております。私はそれを読んで、私の知っている賀川先生が、先生の全人格のほんの一部分でしがなかったということを知って驚いております。

 そしてその多くの人を感動させた出来事の全ては、賀川先生が純粋にイエスにならおうとなさったそのおん足跡でしょう。

 私がある年のイエスの友会の新年修養会に出席して間もなくのことでした。イエスの友会というのは、次に記す五つの綱領をもっていて、社会奉仕に専念しようとする人々の集りでした。その綱領というのは、
 一、イエスに在りて敬虔なること
 一、貧しぎ者の友となりて労働を愛すること
 一、世界平和のために努力すること
 一、純潔なる生活を尊ぶこと
 一、社会奉仕を旨とすること
以上のようなものでした。小さいながらも、私もその綱領に従おうと努力しはじめました。

 先生は以前外遊の時、インドで自動車事故にあわれて、ひどく背骨を打って痛み始めたころ、足がはれて呼吸も少し困難だといっておられました。一度阪大の外科で診察を受けたいとおっしゃって、その日診察を受けるために西宮を出られました。幸い私は自由になる時間がありました。それに私は看護婦の資格も持っていました。又先生が診察を受けたいと申される岩永外科の勝手もよく知っていましたので、お供をする光栄に浴したわけです。

 酉宮を出て梅田で降り、大阪駅前を通りすぎようとしますと、大ぜいの人の波が寒い正月の風に吹きさらされた中に、兵隊が一群となって、日の丸の旗のはためく中で訣別の挨拶をしておりました。先生は黙々とふり向きもせず、歩いておられます。私はその後を追っかけるように、小走りに追いすがりながらききました。
「先生、今度の戦争はどちらが勝つでしょうか」
 先生はちょっと立ちどまって、奇異な面持ちで私を見つめられました。そしてあの悪い目をしょぼしょぼさせながら「どっちが勝っても悲惨だよ」「でも日本が勝つでしょう」

 私はそのころの多くの日本人が考えたように、日本は闘えば勝つもの、勝ったらいいじゃないか、貧しい日本の生きる道は戦争に勝って領土を拡げるより方法はないのだと考えておりました。

 「戦争はね、両方とも傷つくものなんだ。剣で勝つ者は剣で破れる。ましてアジヤが闘ってはいけない。日本はアジヤと貿易することによって、はじめて生きる道があるんだよ」

 岩永外科での診察は、思いのほかに暗いものであったように記憶しています。
 病院を出ると先生は、私を映画に案内しようとおっしゃってくださいました。そこで私は、いつか見た戦争映画の帰りにつくった俳句を示しました。
  月ふくれ月地平線に触るる怒り
というのでした。

 賀川先生は字に書いてみるようにといわれますので、電車のゆれ動く中で下手な句を書きつけました。先生は眼鏡に紙片をくっつけるようにして読みながら、
 「十分戦争の怖ろしさを知っているじやないか。よくできてるよ。句集を出すといいね……」
とおっしゃってくださいました。私は得意になってしまいました。そこで私の好きな句を二、三お目にかけました。

  バタ煙逃げゆく窓のうろこ雲
  鶏頭が夕焼雲につゞく道

近詠で良い句評をとったもの

  住吉の年老る松に月凍てき

があるんですと話しますと、
 「君は月だの雲だのが好きなんだね――」
と、じっと句を見つめておられました、

 その時にいっしょに見た映画は、天然色の珍しいものでした。アメリカもので、私がはじめて見た美しい映画でした。北野劇場であったように紀憶しています。「石の花」などのソ連のものが出たのは、それからもう少し先ではなかったでしょうか。先生はきっとその天然色の映画というのがどのようなものかごらんになりたかったのではないかと思われます。その時私は私のお供の労をねぎらってくださったと考えて、良い気になっておりましたけれど。
         
 映画の筋はアメリカのある有名な男優が、田舎から出てきたまだ幼いように若い女優志望者に新鮮な才能を見出して、彼女を愛し、その娘が成功するようにいろいろ尽力するのでした。その新進の女優が名声をかちうるにつれて、その有名な男優は酒に身を持ちくずし始め、映画をとるにも時間をまちがえたり、酔払って、さんざん監督や助手に苦労をかけ、演技も不真面目になり、人気を落してゆくという筋で、最後にはその女優の別荘でアル中の身体を養生していましたが、失望のはてに海にはいって自殺するというもので、最後のシーンは、真赤に沈む夕陽が血のしたゝりのようで、印象的でした。
       
 私は映画が終るまでの間、こんな人間臭い映画を賀川先生はどんなに考えて見られているだろうかと、時々不思議に思ったり、また途中で立ちあがって、外に出られるのではないかとさえ心配して、先生の横顔をちらちらと盗み見たりしました。
             
 先生はあの弱い限で一生懸命に見ておられるではありませんか。私は不思議なものを見る思いでした。
               一
 そのころ先生は「魂の彫刻」だの「銀鮫の進路」だの、次々に発表しておられた時でした。「死線を越えて」は、今の石原慎太郎以上に若人の血潮を湧き立たせ、また美しいヒューマニズムをうたいあげたものでした。                         

 やがて映画が終り、外に出ました。全く陽がくれていて、往く時あの駅前をさわがせていた人波も今はまばらの淋しい駅前風景でした。
 「ありがとうございました。よい映画を見せていただきまして……天然色は私はじめてでした」

 私がていねいにお礼を申しますと、
 「馬鹿だねえ……あの男は、酒のんじやって海にはいって死んじやったよ、はっはっはっはっ」

 突然、先生はお腹の底からおかしそうに笑われるではありませんか。驚きました。全く。

                                     〔豊島神愛館館長〕





連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第144回)

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「姫路城西御屋敷跡庭園<活水軒にて>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


  賀川豊彦の著作―序文など

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             第144回


   『賀川豊彦全集7』(第7回配本「月報7」)


  
 『賀川豊彦全集』の第7回配本は、昭和38年3月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第7巻が刊行されました。

 今回の「月報7」には、「天才的な学者」と題して白山源三郎氏(関東学院大学学長)、「いくども脱した危篤状態」と題して内田三千太郎氏(前中野組合病院院長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。





             『賀川豊彦全集7』第7回配本「月報7」

                  天才的な学者 

                  白山源三郎


 賀川先生が、普通の意味における教育者として、学校などに関係を持って、普通の意味における教育に従事されたというようなことは殆どないようである。それには余りに活動的で、また学校といういわば象牙の塔に閉ぢ籠ることなく、実際社会の生々しい実際生活に突込んで行って、身を挺して働かれたことの方が多いからであると思う。

 先生の経歴を一通り目を通して見ても、多少ともいわゆる教育、または学校と名のつくものに関するものは少ない。一九二六年自ら起された農民福音学校、一九三三年に始められた日本協同組合学校の二つが学校と銘打って教育機関となっているが、之とていわゆる学校というより、極めて特殊な教育機関で、各々その運動に従事する人を養成するためのものであり、目的は他にあったといえる。

その他、或は明治学院や若干の他の学校の理事などをして、教育のために、その意見を述べられた事もあろうし、一九四五年には日本教育者組合を組織してその会長になり、教育のために間接ながら努力されている。このような、普通の教育のための脇からの尽力というものは少くないであろうと思う。しかしこれらはそのために賀川先生が教育者であったというのには十分でないと思う。

 賀川先生は、祈りとキリスト伝道にその生涯の最も多くの時間と精力とを捧げられた方であると私は思っている。色々とその他の運動をされたのはいうまでもないが、どれもがこれと連り、これが元になっていたと私は受取っている。その意味では不出生の伝道者であるのか賀川先生である。このことは何人も否定することはできないと思う。それはそれとして強いていうなら、先生に教育者としての資質と、またその一生においてその実践と業績があったといえないこともない。それには私は二つの点を挙げて見たい。一つは、先生は多くの人々のことに青年の心をユサブリ、少なからずこれに影響を与えたということである。

 明治、大正から昭和にかけでの日本の変動期に、無産者の地位向上のために主としての戦いを、単に理念としてだけでなく、実践を通して戦い抜くその勇敢な行動は、特に多くの青年の心を動かしたものである。

 「死線を越えて」は著書の題目であったけれども、自ら生死を割切つだ先生の行動は、哲学的な深いものを青年の心に植え付けるものがあった。果せるかな多くの人がこれに動かされ、影饗されたのである。そしてその実践を唯実践だけにとどめず、著書、論文、講演、説教を通して、広く人々に解説し、説得されたのであって、ここに、先生の教育者として、いわば社会教育者というのがよいかも知れないが、大きな業蹟があったと思う。此意味で賀川先生は偉大なる教育者の一人であったといってもよいのでないか。私の如きも、特に青年時代、このような意味では、賀川豊彦通信大学の学生として可なり勉強させられた一人である。

 次に、教育者は常に自らの研究、学習を怠ってはならないのであっで、優れた教育者は優れた学者でもなければならない。賀川先生が非常な読書家であり、勉強家であったことは知るところで、一日二時間の読書を欠かされなかったとも聞いている。

 直接キリスト伝道に関するもののみならず、文学、社会科学、人文科学、自然科学に亘って研究され、それが、また著書にもなって著れていることも驚くべきものである。このことは全集刊行のこの際私が申述べる必要もないが、私は学生時代賀川先生が「顔の研究」について二時間以上の講演をされたのを聞いで驚いた記憶が未だ残っている。科学的研究の真摯な態度に驚いたのである。あれだけの忙しい社会運動実践の傍であれだけの研究がこともなげに出来る先生は、学者としても十分の資質を具えていられるのであって、先生は天才的な学者である、のみならずその表現力も十分具えていられる。従ってまた立派な教育者であったと断定出来ると思う。
                                  
                                〔関東学院大学学長〕





                いくども脱した危篤状態

                  内田三千太郎


 賀川先生が底知れぬ強い精神力をお持ちの方だったことは周知のことであるが、それは病床の上でもよく読みとられた。

 ずいぶんお苦しい時でもわれわれには一度も苦痛を訴えられたことがなく、また治療に対する不満を口にされたことがなかった。それどころか回診の時にはいつも笑顔で「ありがとう」といわれるか、握手または手を挙げて感謝の意を表されるのが常であった。また私の方からおすすめしない限り、ほかの医師にみてもらいたいとは一度もいわれなかった。  

 体力が弱って起きあがるのも無理と思われるようになってからでも、たいていは人手を借りて床から離れ、椅子に寄って食事をされた。

 二階の病室から階下へ降りることは無理と思われるようになったある日、「こから神戸へ行くからすぐ仕度をするように」といって、奥様やご令息を困らせたこともあった。

 待望の伊豆長岡温泉療養所が竣工した時は非常に喜ばれて、どうしても長岡へ行くといってきかなかった。その時私が奥様に「自動車で静かに行かれるとして必らず途中で危篤に陥るとはいいきれない。或はそのままの状態でまたお帰りになれるかも知れないが、しかしそれは危険を覚悟のうえでなければ」と申しあげたら、奥様はこの私の言葉に大いに力を得られたとて「それならあれほど行きたがっているのだから」と昭和三十四年の九月二十八曰ついに奥様とお嬢さん(女医さん)とお孫さんをつれ、箱根を一越えて長岡まで行かれた。先生にとってはこれがご家族との最後のドライプとなったのである。

 後に萱沼孝文氏からだったか「行く人も行く人だが、行かせる医者も医者だ」という声があるときいた。ところがどういう理由からか長岡療養所には一泊されただけで、翌日電車で帰京されたのには驚いた。私が翌日うかがったらさすがに疲労の色が見えたが、とにかく先生の身心と行動には普通に考えられないものがあった。

 先生は医学的知識も豊富であり、特に水治療法には強い自信と執着があったようだ。長岡温泉療養所の建設も水治療法の功徳を大衆にも及ぼしたいというお考えから出発したもののようである。

 「病床を遭場として」という先生の著書には精神面のことばかりでなく、具体的な医療法までくわしく書かれてある。私はその全部に賛成するものではないが、精神身体医学の特に注目されつつある今日、以前に先生が精神の疾病治療に如何に大きな影響を及ぼすかを身をもって体験せられ、これを病者に教えられたことは大きな意義がある。

 先生の病状については別に詳記したいが、私が知ってからでも、先生は幾度か危機を脱していられる。昭和三十四年一月六日高松市への船中での心筋梗塞症の発作、三月二十三日帰京後流感にかかって肺炎を併発した時、その他呼吸困難、呼吸停止、意識混濁、記憶喪失、心臓衰弱、肝臓肥大、全身の水腫等の症状が見られたことはしばしばで、われわれからみると死線をさまよう日の連続とも思われる時期が長かったにもかかわらず、不思議に危機を脱してはわれわれを驚かせ、われわれに一縷の望みをもたせたのであった。

 しかし如何に強籾なる精神も肉体の支えなくしではその偉力を発揮することは不可能で、食欲不振による体力滅退とそれに基く心臓衰弱により昭和三十五年四月二十三日午後九時十分、ついに偉大なる生命の終焉を告げたのである。

 私は先生の恩顧を受けて四年あまり、おなくなりになるまでに医師としてお傍にうかがったことも数十回に及んだが、果して治療の万全を果し得たかを疑い(大家数氏の御協力を得たが)苦悩を未だに解消し得ないと同時に、私は医師としてまたは一人の人間として先生を見る明があったとは思わないので、折角命題をいただいたが、単にいくつかの事実と印象的なことだけを記してお許しを乞う次第である。
                                    
                           〔前中野組合病院院長〕
                                     














連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第143回)

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「新著『宇宙時代の良寛ーエコ神学者トマス・ベリーと共に』」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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              第143回


    『賀川豊彦全集5』(第6回配本「月報6」)


  
 『賀川豊彦全集』の第6回配本は、昭和38年2月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第5巻が刊行されました。

 今回の「月報6」には、「なみだの神学」と題して岸 千年氏(日本福音ルーテル教会総会議長)、「“いつ殺されてもいいよ”」と題して木村毅氏(作家)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




            『賀川豊彦全集5』(第6回配本「月報6」)

                  なみだの神学

                   岸  千年


 賀川豊彦の神学を性格づけるとすれば、「涙の神学」といえるのではないだろうか。彼のおいたちを見ると、キリスト教入信にいたるまで「涙」を友とした日も多かったようである。敏感多才の彼は、入信後人間的な感傷の涙を、十字架の愛にむすびつけて、聖化された涙とした。いわば、「聖涙」をいっぱいあのただれた目のなかにもっていたようである。彼の著作には、「涙」がよく出てくるのであるが、講演中にもよく泣いた。彼は、涙の予言者エレミヤがすきのようであったが、相通じるものがあったのかも知れない。

 彼の思想は、時に、楽観的進化論と評価されることもある、科学をとき、字宙の再生力を説明するので、多少そのような印象を与えるのであろうが、不可知諭のダーウィンよりも、神の不思議なみわざを認めるファーブルに組する彼は、必ずしも直線的な進化論に立っていたといいきれないように思われる。

 彼は、異邦人の使徒をもって誇りとしたパウロの神学を身につけた。すくなくとも、彼は、そのように確信したようである。ことにキリストの十字架に対するパウロの深い理解は賀川の心を強くとらえたようである。

 「神による新生」の一節を引用しよう。
 「神の愛は十字架において現われている。ロマ書八章の三十五節から三十九節に記されているように、バウロはキリストの愛から離れることができない。この愛は単なる歴史的なキリストでない。死も生命もみ使いも権威ある者も破り得ない過去現在未来を通じての絶対的な法則である。それ自身がキリストである。これを悟ったパウロは、今まで拒んでいた神を人間に伝えるために志を立てたのであった。時はロマの道徳的退廃時代、地中海沿岸は悲しみに満たされ、悩みの声が津々浦々に溢れていた時に、再生の力を求めでいる無数の人々に、この十字架の愛を伝えようとして彼は起ったのである。」

 これは賀川豊彦自伝のなかにいれても、ぴったりと、はめこむことのできるような一節である。

 彼は、パウロを通じて、十字架の愛に対する深い反応を示した。その反応が、彼の社会的苦悩に対する反応に、ぷっつかったのである。神戸の貧民窟、新川にはいりこんだのも十字架の愛への反応と社会苦に対する反応との交差の結果であり、川崎造船所の大ストライキの先頭に立ったのもそれである。彼は、キリストの十字架をあおいで、そこにしたたりおちる宝血を人のために流された神の涙と見、社会のどん底にうちひしがれている同胞を見ては、涙せずにはおられなかったようだ。神の血涙で、彼の涙はきよめられ、自分のことをわすれて、うちひしがれた同胞のために前進せざるをえなかった。

 パウロは、十字架を逆説と見、その逆説をとらえて、これを一流の表現をもって伝えることに成功した。神でありながら奴隷の身にまで下って人間の重荷をになうという「しもべ神」については、パウロ流の逆説によるのでなければ、理解できないのである。

 この点をうまくとらえ得る者が、神学者という名をうけるにふさわしい者である。教会史上、この名をうけるに価する者は数すくないが、ルターは、その少数者のうちの第一位におかるべき人物と思う。

 ルターはいわゆる組織神学者ではなかった。しかし、「しもべ神」キリスト・イエスにおいて、現実に生きて活勁する神と生命的な交わりにいる道を会得し、それを逆説的表現で伝えようと努力した。ここに彼の神学の中心があった。

 神学者賀川もいわゆる組織神学者ではない。しかし、彼は、バウロが問題にし、ルターがうけついだキリストによる神の愛の理解とその実践に、一生をささげつくしたことによって、それ自体が、偉大な神学のように思われる。

 神の涙は、ラザロをよみがえらせた。それはめぐみであり、あわれみである。これに対して反応する人間の涙は、聖められて、宣教、教育、社会福祉の各領域に奇跡をあらわす。賀川神学は、このことを実証しているように思われるのである。この意味で彼は、神が、日本にさずけたもうた大きな賜物である。
                   〔日本福音ルーテル教会総会議長・日本ルーテル神学校校長〕





               ″いつ殺されてもいいよ″

                  木村  毅


 賀川さんのことは、方々にかいて、新らしい話材は、タネぎれである。

 十年ぐらい前だが、冨士での夏期大学に紹かれたとき、私はクーデンホフ・カレルギの活動の話をした。「汎ヨーロッパ」運動というので、それがEECの淵源となったこと、今ではだいぶ知れ渡ってきている。彼がこの運動を最初にはじめたのは一九二三年の大正十二年で、それから四五年して、アメリカの経済記者のバウル・ハッチンソンが、わざわざ、その調査に出かけ「欧州連盟の必然性」という本をかいている。

 その話をしたら賀川さんは、
 「話に出たパウル・ハッチンソンは侯の友人だ」
 と言って、いろいろのことを話してきかせた。私は今更のように、その世界的に顔のひろいのに驚いた。

 クーデンホフ・カレルギの母は日本女性であることは、早くからわかっていた。 
 私がその旧性が青山であることをつきとめ、その生家をさがしだして、その母の感化が如何に子のクーデンホフに及んでいるかをかいたら、一ぱんに敏感に、それに注目して、その原稿を「世界連邦」に転載さしてくれと言ってきたのは賀川さんのところだった。たしか村島帰之君から手紙で交渉があったのだとおぼえている。終戦後、間のない時のことだった。

 こういうことから考えて、いまのEECにたいしても、生きていたら賀川さんは、きっと多くの意見をもっていたにちがいないと思える。

 東京が都政をしいて、満十年になったとき、何を記念事業にしたらよかろうということになって、私がピカンを取りよせて植えたらどうだと提案した。

 しかしその種子をアメリカでは輸出禁止にしていて、普通では輸入できんが、ギリスド教団の手をかりれば、海外にもち出せるともきくから、賀川さんにたのんだらよかろうと、私は安井前知事にいった。

 安井知事の社会局長時代、賀川さんに顧問をたのんでいて、そのころ二人は交渉が深かったのだが、長い間、中絶していた。しかし安井氏が懇請すると、賀川さんは快諾して、おかげで東京都は五万個のビカンの実を入手し、それを植えて、五万本の苗をつくった。方々の都の農地に分植した筈だが、いまは、かなり大きくなっているだろう。

 賀川さんは、社会のため、人類のため、働いて、はたらいて、働きづつめにして、休養が不足して早世した。

 支那事変で、日本がニッチもサッチもゆかなくなった頃のことだが、新宿駅の前で、偶然出あって、しばらく立ち話をした。

 「憲兵隊がねらっているから、少し用心した方がいいですよ」
 と注意したら、慨然として賀川さんは、
 「僕はね、木村さん。こうなったら、いつ殺されてもいいと思っている」
 と言った。死ぬ用意はいつも出来ていたのだ。

 これで思い出すのは、吉野作造博士がサナトリュームに入った時、
 「だいじにして下さいよ」
 と言ったら、
 「いや、日本がファシズム化してしまうのを見る位なら、その前に死んだ方がいい」
 と言ったことだった。

 昨年の四月に、私は初めて賀川さんの生れ故郷の阿波にいって、ニカ所で講演して、その中に賀川さんの話もした。

 一面で、まり千代や、武原はんを出し、一面で賀川さんや新居格氏の出ている阿波という国は、じつに面白い国だと、つくづく思った。一種かわったカラーと魅力のある国で、近くもう一度いってみたいと思っている。                                      
                              〔作家〕
















連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第142回)

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「姫路の好古園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


   賀川豊彦の著作―序文など

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             第142回



    『賀川豊彦全集19』(第5回配本「月報5」)


  
 『賀川豊彦全集』の第5回配本は、昭和38年1月10日に「文学作品(小説)」として分類されている第19巻が刊行されました。

 今回の「月報5」には、「小説家というより詩人―賀川豊彦の文学」と題して関根文之助氏(東洋英和女学院短大教授・文博)、「未曾有の“Made in Japan”」と題して上沢謙二氏(基督教児童文化協会会長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。




          『賀川豊彦全集19』(昭和38年1月「月報5」)

            小説家というより詩人―賀川豊彦の文学

                  関根文之助


 おそらく多くの人びとは、賀川豊彦という人から、「小説」などということは、期待していなかったであろう。ところが、そこへ登場したのが、「死線を越えて」であった。

 白樺派の人道主義は、たしかにふうびしていたが、一面では、多少の臭味を不満足と思っていた人びとも、かなりあったようである。というのは、「死線を越えて」もやはり、人道主義という文学の類型にはいるものであった、それにもかかわらず、絶大な歓迎を受けたという事実を無視することかできないからである。こういう点については、近代文学における一つの新しい課題として、今後の文学研究者に投げかけているものではないだろうか。 

 「キリスト教文学」という名称を、文学史的に固定させうるかどうかについては、なかなか問題があると思うが、もし、そうしたものを設定しうるとしたら、「死線を越えて」の作者賀川豊彦は、すこぶる意欲的なものを感じさせられるひとりだと考える。

 それは、賀川豊彦の「キリスト教文学」のうちには、それの是非論は、もちろんあるとしても、伝道者として、社会事業家としての、かれの熱情をそのまま、文学の形式にもりこもうとしているからである。

 賀川豊彦の本来的なものは、どうも詩人のようである。小説家というより、詩人としてのかれの立場の方が、「キリスト教文学」としては意味が濃いように思われる。

 しかし、これを逆に言えば、そうした詩人だったから、かれの熱情的小説が生まれたとも考えられる。ここで、有島武郎が、「賀川豊彦の作品の題には詩がある。」と評していることばを、もう一度新しく思い起こしてみたいと思うのである。

 賀川豊彦の小説は、いわゆる一般文学史の立場から言えば、やはり人道主義のなかに入れられるであろうし、もし、「……小説」というような言いかたをすれば、「社会小説」あるいは「理想小説」と言うことができるであろう。しかし、「母」「子」などの作者鶴見祐輔などの「理想小説」とは違うように思う。

 そうかと言って、いわゆる社会小説、理想小説でもない。やはり「伝道文書」という性格を内蔵しているところに、大きな特色があるように思う。だから、文壇的に評価されるかどうか、一般の小説家と並べて論じられるかどうか、そこには、おそらく違ったものが存在するであろう。それは、またやむを得ないことであろう。

 また、賀川豊彦の小説は、その意味において、読んですぐに、作品の中核をはあくしうるかどうか、そうしたところに、一般文学史上おいては、他の作家と、かなりの取り扱いが違うように思うのでる。だから、また繰り返すようだが、そこに賀川文学存立の意義が
あのである。

 わたしは、賀川豊彦の詩のうちで、つぎの短いことばに、いつもをひかれる。それは、なにか、このわずかなうちに、かれの文学の本領が、さだかに表現されているように思うからである。

   神は愛だ
   深い愛だ
   こじきの子を抱きしめて
   わたしは言う
   神は愛だ

 こじきの子を抱きしめて、[神は愛だ]と叫びうるこの作者の詩のうちには、全世界をも動かしうる神の愛の力のあることを、明確に歌い得ている。

 これが、賀川文学の本流なのだ。

 わたしは、キリスト教と日本文学とを語るとき、いつも、四人の作家をあげている。すなわち、徳富蘆花、木下尚江、沖野岩三郎、賀川豊彦である。

 日本文学に及ぼしたキリスト教の影響という点からすれば、かなり多くの作家の名をあげることができよう。しかし、信仰と文学という接点にある作家は、そう多くはない。そうしたいみで、わたしは、この四人をあげるのである。

 そして、賀川豊彦といちばんよく以ているのは、「火の柱」「良人の自由」などの作者木下尚江であろう。

 なお、賀川豊彦を世に紹介したのは、じつは、沖野岩三郎であって一九一九年(大正八年)、「雄弁」という雑誌に「日本基督教会の新人と其事業」と題する一文を書き、そのなかにおいて、賀川豊彦と、杉山元治郎とのふたりを、世に広く紹介したのである。
                      〔東洋英和女学院短大教授・文博〕





             未曾有の“Made in Japan”

                   上沢 謙二


 私は賀川先生を知り、賀川先生も私を知って居られた。しかし直接の交際はなかったし、特別の関係は結ばれなかった。けれども何十年間、絶えず先生に見入り、先生を見詰めて過ごした。同じ時代に同じ国で、先生に出会ったことは、そうして離れてはいたが、多少ともつながりていたことは、私に取って、まことに有意義であり、幸いであったと思う。

 先生は、文字通り「稀代」な「稀世」な「稀有」な存在だった。

 正に、当代に稀なる存在であった。が、単に一つの時代だけではない。この現世(うつしよ)において、稀なる存在であった。が、それにとどまらない。人間の中において、稀に有る存在だった。

 万人が万人この世に生きている間は、自分の生活に捉われる。したがって「自分の経済」からぬけ出ることはむずかしい。そのために心配もするし、努力もするし、競争もする。人と人との間のみにくい争いの多くは経済から発するといえるだろう。

 この点は、いわゆる偉人といわれ、豪傑といわれ、権力者といわれ、大学者といわれる人も、凡人、平常人と、大凡おなじである。中にはそれ以上に祝着する向もある。

 賀川先生はまったくこれを超越したといえよう。先生の許に集まる印税や、謝礼や、献金は、巨額なものがあったろう。しかしけっしてこれを自分のポケットにしまいこまなかった。時に応じ、事にしたがって、右から左へと散らした。先生の小切手帳は自分のためでない、他人のために書かれたといえよう。

 しかしそこにはただ一つのきびしい条件があった。「神の国のため」というそれである。まことに先生は「自我経済を超越した神の国経済人」ともいうべきだろう。

 一つの教会または施設を建てるのはたいへんな仕事である。このために全能力を費やし、一生をささげる人さえある。それは実に聖い、尊とい。

 ところが、賀川先生は陰に陽に、幾つかの教会または施設の建設の中心または先駆に立った。そのあらわれとして。賀川先生の名を連ねた教会乃至施設が、いかに多かったか。それか成立し実現すると、先生は他の人に明け渡して、また別な計画と組織にたずさわって倦むことを知らなかった。まことに先生は「自己教会施殼の建設を跳躍した神の国建設者」ともいうべきだろう。

 「賀川先生は神学がない」といわれるとか聞く。

 私はその方面はまったくの素人なので何ともいえないが、先生の興味、関心、熱意、研究の広さは、神学の範囲だけにとどまっていなかったのだと思う。科学、文学、哲学の世界にまでひろがらないではいなかったのだと思う。それは何よりも今回出版される全集の内容が証明している。

 これほど広汎なしかもそれぞれにおいて組織立った研究と、自然の披巧と、しかも熱烈な信仰が融合して生み出された著述は、少ないのではないかと思う。まことに先生は「自家神学を突破した神の国哲学者」ともいうべきだろう。

 戦後、先生は、精神生活指導のため、芙米へ招聘された。実に未曾有の生きた“Made in Japan”である。

 私は「百三人の賀川豊彦伝」の中で、先生がノーベル賞を受けても受けなくてもよい。何よりもキリスト賞受賞者だと書いたが、わが国からも湯川博士がそれを受け、谷崎氏その他が噂さにのぼるのを聞くと、いかにも残念であり、いささか不満でもある。その残念と不満をどこへもっていいかわからないのだが。
                         
               〔基督教児童文化協会会長・鹿沼幼稚園園長〕



















連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第141回)

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「修理中の<天空の白鷺>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



   賀川豊彦の著作―序文など

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             第141回



     『賀川豊彦全集8』(第4回配本「月報4」)

  
 『賀川豊彦全集』の第4回配本は、昭和37年12月10日に「哲学・経済・社会科学」として分類されている第8巻が刊行されました。

 今回の「月報4」には、「政治家以上の人」と題して西尾末広氏(民主社会等委員長)、「贖罪愛の活動」と題して今井新太郎氏(兵庫県知事)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく月報の前記二つを取り出して置きます。。

 なお、付言するまでもなく、この全集第8巻は発刊の企画段階で問題提起を受けて、不幸な顛末を迎えましたが、詳細については、現在連載中の『賀川豊彦と現代』(絶版・テキスト化)(ブログ「対話の時代 宗教・人権・部落問題」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan/ )などで論究していますので、ご笑覧・ご批評願います。





            『賀川豊彦全集8』第4回配本「月報4」

                  政治家以上の人

                   西尾 末広


 わが国の労働運動や社会運動は、とくにその初期において、キリスト教の影響をうけることが多かったし、クリスチャン出身の優れた指導者が輩出して、大きな功績を残している。その中でも、私にとって忘れることのできない人は、安部磯雄氏と賀川豊彦氏である。

 両先輩ともに、今の言葉で言えば民主社会主義者であり、議会主義者であった。そして何よりも、徹底した信念の人であった。

 賀川さんは、大疋七年から十一、二年ごろまでの数年間、関西における労働運動の中心的指導者だった。賀川さんが労働運動に入った動機は深くは知らない。それは多分、神戸の貧民街でのイエス団の運動から生れた必然の発展だったのであろう。また第一次世界大戦のさなか、二年九ヵ月にわたって米国に遊学し、キリスト教の伝道に従事するかたわら、先進国の労働運勁を実地に見聞して帰国した直後のことであることも見逃すわけにはいくまい。

 そのころ、私もまた関西にあって、当時の友愛今のもの日本労働総同盟の大阪連合会の資任者になっていた。自然、賀川さんと私とは労働組合運動の同志として、また同じ友愛会ないし総同盟の瞬部として、常時顔を合わせるようになったが、その間、一貫して賀川さんが健実な労働組合主義者であり、民主主義、議会主義を通じて労働階級の地位を向上させ、革命なくしてそのいわゆる「人格的社会主義」を実現しようとする、今でいえば民主社会主義の思懇の持主だったことをなつかしく憶い出すのである.

 賀川さんが労働運動に挺身していた時期は、第一次大戦後の激動期で、革命的なサンヂカリズムの思想が一世を風靡していた感があった。今日からみれば妙な話だが、当時の急進的な労働運動者は普選獲得運勁にさえ反対した。有産、無産の区別なく選挙権を与えて、勤労者の声を議会に反映させようとする運動に対して、議会否認の立場から反対したのである。議会はブルジョアのものであって、これにプロンタリヤを参加させようとするのは、直接行動による政権奪取、つまり革命への労働階級の情熱をマヒさせようとするものだというのが、その反対の理由であった。

 このような議会否詔、普選反対、直接行動謳歌の風潮に対して、賀川さんは敢然として立ち向い、これと闘かった。そして常に、じゅんじゅんとして議会主義を説き、漸進的な労働組合運動の必要を力説した。殊に、私の印象に残っているのは、大会や集会などで激越なアジ演説が会場の空気を支配すればするほど、賀川さんは一層冷静な調子で持論を説き、過激分子の反省を求めたことである。のちに、大正十三年の大会で総同盟は有名な方向転換宣言を行ない、その運動方針を現実主義の方向にあらため、普選獲得運勧についても積極的にこれに協力することとなったが、これには賀川さんの努力が大いにあづかって力があったこというまでもあるまい。

 その後、サンヂカリズムに代って、マルクス・レーニン主義が盛んになっても、賀川さんはその態度を変えなかった。実に、信念の人だったと思うのである。

 賀川さんは、優れたキリスト教の信者であると同時に、その教義の実践者であったが、しかし、いわゆる政治家の部類に入る人ではなかった。既に述べたように、立派な政治的見識と実行力を持っていたが、同時に夢多き詩人であった。生前、賀川さんを政界に出そうとする動きはしばしばであったが、私はいつも反対したものである。賀川さん自身はどう考えていたか知らないが、私にとって貿川さんは政治家以上のものであったからである。
                                    〔民主社会党委員長〕



 

                  贖罪愛の活動

                  今井新太郎


 賀川先生の人間像、聖者と言うには、余りに活動家であり過ぎた。預言者と呼ぶには余りに科学者でありすぎた。然し祈りの姿の先生は全く聖者であり、社会革命の情熱は、預言者的であった。

 全国に子供の保育所を十七か所も経営し、農民運動、労働運動、生活協同組合運動、医療組合運動、神国運動等社会改良運動に終始した活動家、その精神的エネルギーの根源は祈りであった。

 四十六年前に神戸の貧民窟に入って、九尺二間の家に住みながら、貧民窟生活を享楽している。『私は多年貧民窟に生活したが、貧民生活は信仰をもってとぴこむ入間にとっては享楽に値ひする』と言って居られる。

 『然し貧民窟で私が世話していた人殺しの三公も、「うかれぶしの松公」も、みな亡霊に苦しめられて、私に救ひを求めた。三公も、出獄後も夜寝静まると殺した者の亡霊に悩まされて、発狂者の如くになってしまった。喧嘩の好きな村田は貧民窟の済生会病院に入院したが「亡霊が出て私を喰い殺しにくるから、早く来て亡霊を払うお祈りをしてくれ」と。殺人犯の「三公」も「松公」もキリストの贖罪愛の十字架を抱いてその亡霊の悩みから救われた。』

 賀川先生の貧民窟伝道は全く贖罪愛の活動であった。

 受難週の金曜日の早天祈祷会が大阪の労働街生野の聖浄会館で開かれた。床を抜け出して、会堂に出てみると、十人位いの青年労働者ばかりが熱心に祈っていた。

 或る者は鉄工所に、或者は金属工場に、或る青年はミシン工場に働いていた。それが、後に、立派な指導者となり神戸市になくてはならぬ人物となった。

 賀川先生は祈りの人であった。賀川先生は、よく、祈りの人を語った。電信を発明したウィリアム・モールスも祈りによって発明を完成した。マルコニーも無線電信を祈りと共に発明した。電動機を発明したファラデーも祈りの人であった。新しい科学的発明も祈りによって与えられたと祈りの力を礼讃しているのは賀川先生であった。

 預言者エリヤが鳥に養われたことは、賀川先生の信仰と生活であった。満洲事変以後、十数年間、憲兵隊に監禁され、巣鴨の刑務所に拘置され、人間的には全く絶望していた。雑誌に新聞に、いつも悪評がかかげられた時、飯を食ふ途がたたれたかに思われたが、人間の形をした天使達があすこから少し、こちらから僅か、一家族が飢えない程度に食を運んでくれたので恩寵録をつくった。

 人間には、病気、廃疾、老衰、虚弱、いろいろな悪条件がある。賀川先生もあらゆる病気に、殊に眼疾に悩まされたが、信仰と祈りとで、これを克服して奉仕的活動をつづけられた。先生曰く、跛者のニュートンは引力を発明した。セムシのスタインメッツは電気の方程式を発案した。盲聾唖のヘレン・ケラーは霊能を現わして文化に貢献した。人間は信仰によって、悪条件を克服して奉仕することが出来るのだと賀川先生は不遇に泣く人々に勇気を与えてくれた。

 神国実現の理想と情熱に燃ゆる信仰と祈りの賀川先生は、著述に講演に、日本全国津々浦々に活動をつづけられ、又東南アジヤに欧洲に、到る処に神国運働を展開されて、その雄弁と慨博な智識と殊に科学的な理諭とにもとづく情熱とにうたれて改悔して信仰に入り、神国運動に参加したものの数は数えきれない。

 近世日本の産める最大の予言者、信仰的英雄として、その感化は永久につづくであろう。
                            
                〔東京家庭学校校長・上水保育園園長〕















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このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

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