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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第201回)

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「姫路のお城まつり」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第201回


       鳥飼慶陽著『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』

  
 本書は、賀川に関する関する初めての書き下ろし『賀川豊彦と現代』のあと、2002年11月に創言社より刊行されました。

 ここでは、本書の「はしがき」と「あとがき」を取り出して置きます。



                    はしがき


 「賀川豊彦生誕百年」を迎えたのは一九八八年でした。早くもあれから一四年の歳月が過ぎました。賀川は一八八八年に神戸で誕生し、一九六〇年に東京で七二歳の波乱の生涯を終えましたから、「賀川豊彦没後」を数えても四〇数年を経たことになります。過日、兵庫県人権啓発協会より「研究紀要」第四輯への寄稿依頼をいただき、賀川豊彦に関する自由な論稿を求められました。いまその構想を練っているところですが、仮のタイトルを「賀川豊彦没後四〇余年―-二I世紀を生きる・私的断片ノート」として、没後の賀川を振り返ってみようと思っています。また先日は、東京の賀川豊彦記念・松沢資料館より今年は開館二〇周年記念を迎えられるそうで、「二一世紀へ継承するもの」を「研究紀要」に特集し、自由に書くように誘いを受けました。

 二一世紀がスタートしている現在、若い人々の間では「賀川豊彦」の名前も知らない世代が増えています。それはそれで仕方のないことですが、戦前戦後を通して世界に羽ばたき、日本国内津々浦々にまで足を運んで、人々の心のうちに「いのちと光」を呼び覚ました彼の足跡と「熱いおもい」は、現在も私たちのうちになお燃え続けていることも確かな事実です。

 賀川が生涯を閉じた一九六〇年は、ちょうど「六〇年アンポ」で沸き立ったときでした。私は京都で学生生活を送っていましたが、不思議なご縁でこんにちまでずっと賀川豊彦という「人と生涯」に心魅かれてきました。とりわけ、まだ青春時代の一九六六年春、賀川の本拠地であった神戸の教会にお招きをうけたことで、日々「没後の賀川」に親しんできました。「生誕百年」のときには、部落問題との関連で『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)という小著を刊行し、数々の思いがけない愉快な経験をいたしました。

 一九六八年の春からは、賀川の神戸におけるもうひとつの活動拠点である長田区の下町で「在家牧師」の実験をはじめ、部落問題解決の疾風怒濤の激動期を多くの関係者と共に歩むことになりました。問題解決がほぼ見通しの立った一九八〇年前後から、キリスト教界を含む宗教界が、部落解放同盟の「差別糾弾闘争」によって大きく揺れ動き、「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」といった組織もつくられて、「宗教と部落問題」に関連する研究活動も一定前進いたしました。

 一九八五年一一月には、その激動期に模索を続けた拙いノートの中から、一九八〇年代半ばまでのものを取り出して『部落解放の基調-宗教と部落問題』としてまとめて発表しましたが、今回はその後のノートの中から特に「賀川豊彦」と「宗教と部落問題」に関連するものを引き出して『賀川豊彦再発見――宗教と部落問題』として刊行することになりました。前回同様に、未熟で独りよがりなノートばかりで、まとめて公表してご批評を仰ぐには気が引けます。しかし、私にとってその時々に求められて言葉にしたものばかりで、今後の新しい歩みを踏み出すための、自分のための捨石にしたいと願っています。厳しいご批判をいただければ有り難く存じます。

 これまで私は、幸いなことに多くの恩師にめぐまれてきました。先の「部落解放の基調」に収めた作品は、その一人の恩師・滝沢克己先生に送り届けていたノートばかりを編んで、先生の没後に刊行いたしました。今一人私に取ってこれまで大きな影響を受けてきたのは、同書に度々言及した延原時行先生です。長期間にわたって米国やベルギーなどで教鞭をとり、一〇年程前から帰国して新潟の敬和学園大学にあって旺盛な活躍を続けておられます。今年の五月には東京・国連大学での「国際哲学オリンピアード」の会長を務めて成功を収め、「キリスト教と仏教の対話」を中心とした学問的探求に一層の意欲を燃やしておられます。もしもこの方との出合いがなければ、「小さな出合いの家・労働牧師・在家牧師」といった私たちの冒険と実験は始まらなかったかもしれません。前書でも本書でも、滝沢先生と延原先生の思索のあとを未消化のままにして、勘違いしているところも少なくないかもしれませんが……。

 いずれにいたしましても、本書が、いくらかでも「賀川豊彦再発見」の誘い水となり、現在もなお問題を山積したままの宗教界に「聞かれた自由の風」が吹き通る機縁になれば、著者としては満足です。これからさらに研鑽を重ね、新しく与えられる諸課題に、日々微力を傾けたいと思います。

  二〇〇二年一〇月
                               著  者



                    あとがき


 本書に収めた一一の文章は、『賀川豊彦と現代』(兵庫部落問題研究所)を一九八八年に刊行して以後一〇年余りのあいだに発表したり下書きノートとして残されていたものです。野外での短いお話や小さな研究会での座談、大きな集会での講演や研究紀要の論文、雑誌その他に寄稿したものなど雑多なものばかりです。話し言葉のものもあれば論文調のものもあるので、この際にできるだけ全体を纏まった構成にして文体も統一してみたいと試みたりしてみましたが、結局ご覧のかたちになりました。それぞれ元のままで題も発表の時のものに変更を加えませんでした。時の移り変わりは激しく、こうした社会問題を扱う場合は「状況への発言」といった性格は避けがたく、むしろ「その時のまま」といたしました。また「賀川豊彦」や「宗教」「部落問題」といったことについては、あまり共通の理解を前提にして語れない側面がありますので、せめて適切な補注を加えれば分かり易いとも考えましたが、結局それも割愛いたしました。探し求めてきた「基調」のいくらかでも受け止めていただければありかたいと思います。

 今も柄にもなく、神戸市外国語大学と神戸保育専門学院の依頼に応えて、「部落問題と人権」「人権教育」といった講義を続けています。このような拙い書物が、どれだけ現在の新鮮で切実な「基本的問い」に響き合い、新しい飛躍のきっかけとなり、共に「発見の喜び」を楽しむことができるかどうかおぼつかないことですが、「今を生きる」若い学生かちとの「出合いと対話」は、私にとっていま、誠に「ありかたい」ひとときとなっています。

 最後に、古くから格別の御友誼を受け、御助言をいただいてきた創言社の村上一朗氏と坂口博氏には、この度もまた本書の刊行には多大なお骨折りをいただきました。心からの御礼を申し上げます。

  二〇〇二年一〇月
                             鳥 飼 慶 陽


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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第200回)

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「星まつりコンサート(岩田愛子さんと実くん)」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第200回


       辻川忠隆著『友愛てなんや・私だけの賀川論』

  
 本書は、「賀川豊彦記念松沢資料館 選書1」として、1996年4月に刊行されました。

 ここでは、本書の巻頭に記されている本所収録の發出に関する記述と、高村氏の「序文」並びに発行元の松沢資料館による「あとがき」を取り出して置きます。



 本書に収録した二冊の初版は左記の出版になる。
 第一部 『友愛てなんや』
      社内講話記録 阪神友愛食品株式会社
                 社長辻川忠隆 一九九四(平成六)年三月二十日発行
 第二部 『私だけの賀川論』
                 辻川忠隆著二九九五(平成七)年十二月十六日)私家限定版

 いずれも非売品である。この度、阪神友愛食品株式会社社長中西紀雄氏と、辻川忠隆氏の版権譲渡の快諾を得て、二部構成として本書に収録することとした。

  一九九六(平成八)年二月二十八日



        序文  「生協経営と賀川の精神」

            高村勣


 奇しくも、私は今年賀川召天の年令に達したことを自覚して、賀川への想いしきりであった。昨年の賀川記念講座で「私と賀川」と題して話す機会が与えられ、また一九六一年のその第一回講演による隅谷三喜男博士の旧著の再刊を見だのは私にとって大きな喜びであった。そして同友辻川忠隆氏の「私だけの賀川論」を贈られ、ゆっくりと熟読の時間をもった。

 率直に言って今日賀川がどれだけ理解され評価されているのか、生協の世界でさえ疑問である。この半世紀は、この偉大なる人物について語るにはあまりにも騒々しい時代で、顧みる余裕もなかったといえよう。そしてそれにもまして、戦後の風潮の中では、あえて賀川を無視することを進歩的思想と見なす傾向が強くあったことも事実である。

 私は賀川が創立にかかわった生協コープこうべに半生を捧げ、また賀川が初代会長をつとめた日本生協連の第五代会長を経歴した。七〇才を期に現職を去り、今つくづく考えるのは、私の人生は賀川によって導かれ、私の生協歴は賀川なくしてはありえなかったということである。もとより賀川の学識を追う能力もなく、キリスト信徒としても熱心ではなかった。しかし地の上に神の国をという賀川の実践が私の生協人生の支えであったことはまぎれもない。賀川が生協運動を通じて実現しようとしたものを荷うのが生協経営者としての私の生涯の使命であることを自覚し努めてきた。

 私の生まれた年(一九二三)に関東大震災があり、賀川は被災者救援のため居を東京に移した。そしてそれから七二年目に神戸を大震災が直撃した。この地で古い生協の建物などの被害は甚大であったに拘らず、コープこうべはこの地域の被災者の救援に獅子奮迅の働きをした。全国の生協がこれを支援した。地域の人々の生活に密着した生協ならではの活動に「神戸に生協あり」の評価が全国に高まった。そしていま日本で一番古い生協コープこうべが、ICA一〇〇周年ステートメントに謳われているような二一世紀を拓く最も新しい社会的役割を果たすシステムヘと創造的復興の最先端に立っていると思う。賀川が神戸の地によみがえったのである。

 辻川さんは牧師を志しながら、生協という経済事業に身を転じた。それは恰も街頭伝道からスラムに身を移した賀川に似ている。貧民救済の事業は困難を極めたが、戦後の生協の事業もまた生やさしいものではなかった。しかし辻川さんは信仰とともに、賀川への信奉を支えに生協運動を賀川・理想に近づける実践に努め、自らは「小さな実践」と言われる大きな足蹟を残した。そしてこの「賀川論」を通じて賀川の本質に迫る論理を我々に提示いただいた。このような賀川研究が、コープこうべの中での研究会で継続して行われてきているが、この一石を通じて、生協運動の中での賀川復活の機縁になれば、大変嬉しいことである。

                        (現コープこうべ 名誉理事長)



            賀川豊彦の精神を伝える書 あとがき


 一九九六年一月 賀川豊彦記念・松沢資料館前館長賀川純基が、旧知の明石市在住で元コープこうべ勤務、前阪神友愛食品社長辻川忠隆氏より送付されてきた一冊の本を、資料館に持ってきた。『私だけの賀川論』と題された辻川氏執筆になる私家限定版の回想自伝は、以来、松沢資料館の経営母体である財団のみならず、創業者賀川豊彦の精神を継承する社会福祉・学校の三法人による雲柱社の中で、創業者の精神を伝える書として生かすことが話し合われてきた。それは難解な賀川の理論を自分なりにわかりやすく説いているばかりでなく、辻川氏の生き方の中に賀川の精神が色濃く投影され、実践された経験が綴られていたからである。

 昨年の賀川豊彦記念講座委員会で、S氏が「他の社会運動ではともかく、生協の関係者には賀川(の精神)が生きているようだから」という意味のことを述べられ、それがキッカケとなって「生協人による賀川論」を、前コープこうべ理事長高村勣氏に昨年一〇月の賀川豊彦記念講座で話して頂いた経過かある。同じ生協人として、辻川氏の私だけの賀川論は、そうしたS氏の指摘を裏書きしているように思える。

 賀川の理論は難解で、必ずしも実践向きとはいえない。辻川氏は敢えて賀川と向き合うことで、それらの矛盾を感じ、現場で賀川の精神を生かそうと努力された。世に熱烈な賀川ファンによって、自分だけの思い出を綴った回想書は多い。しかし自らの人生の中に、冷めた眼で賀川を論じつつ、指針とした実践書はどれ程あるだろうか。その意味においてこの書には、凡百の回想記より説得力がある。賀川に影響を受けた世代では稀有な賀川論は、そうした意味においても私的なものを越えているのではないだろうか。”賀川によって生かされた”(辻川氏)人によって記された賀川精神には、弱者の側に立つ経験則のみが持つ強みに満ちている。それが賀川への理解に貫かれた生き方の重みなのかも知れない。

 松沢資料館は色々なかたちで〈現代に賀川豊彦を伝えて行く〉使命を負っている。

 それは賀川自身が、難しい学術論文よりも、小説に社会啓発の目的を託したように、賀川が生きた時代の中に追い求めた精神をわかりやすく伝えるものであることが望ましい。その意味で、自らの言葉で回想された実践的賀川論は、大切にしたいと考えている。

 ここに辻川忠隆氏及び阪神友愛食品現社長中西紀雄氏の諒承を得て、より多くの方々に提供する目的で、二冊を合本し再版することにした。御二人及びコープこうべ竹本成徳理事長に記して感謝したい。

   一九九六(平成八)年四月一日           賀川豊彦記念・松沢資料館


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第199回)

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「姫路<街・発信>(岩田健三郎の版画と岩田愛子の写真)ギャラリー)(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第199回


      神戸学生・青年センター編『賀川豊彦の全体像』

  
 本書は、1988年12月、神戸学生・青年センター編として、同出版部より刊行されました。表紙にも記されているように、山口光朔・笠原芳光・内田政秀・佐治孝典・土肥昭夫の五氏の貴重な講演記録です。

 ここでは、同センター理事の西原基一郎さんの冒頭の文書「刊行にさいして」を取り出して置きます。



                   発行にさいして


 今年十六周年を迎えた神戸学生青年センターは、大きな事業の一つとして、創立以来、朝鮮史、食品公害、近代日本とキリスト教を三本柱とするセミナーを継続してまいりました。朝鮮史および食品公害セミナーは、年間に約十回、十六年もの長い間、続けることができ、多くの参加者を集めることができました。セミナーの記録も、出版部から、すでに朝鮮史関係六冊、食品公害関係二冊を刊行しています。しかし、キリスト教セミナーに関しては、十三年もの長期間続けながら、参加者の対象層をつかみ切れず、企画もかなり苦しい思いをしてきました。時代別、テーマ別、人物別、さらには「神戸とキリスト教」のように地域性を生かしたテーマを設定したり、開催日時を変えるなどして、工夫して開催してきましたが、企画の苦労は絶えませんでした。

 ところが本年三月に第二期「神戸とキリスト教」が終わったあと、「賀川豊彦の全体像」をメインテーマに、六、七月に集中して特別セミナーを持ちましたところ、時期を得たことから、これまでになく好評で、多くの参加者がありました。そこで今回の講演に、以前、キリスト教セミナーで行なった山口光朔先生の賀川豊彦をテーマにした講演を加えて、講演録を出版することにいたしました。キリスト教セミナーとしては、十三年目にして最初の出版であります。

 「発行にさいして」は河上民雄理事長が、辻建館長が書くのが適当と思われますが、今回のセミナーを企画し、司会もうけたまわったところから依頼を受けた私が、担当することになりました。

 今回のセミナーを企画したのには二つの理由があります。一つは、賀川豊彦の名前すら知らない人たちに、こんな人もいたということを知っていただきたいということであり、いま一つは、教会内の問題からです。

 数年来、日本基督教団で「賀川豊彦と現代教会」、とくに部落差別文書が問題となり、一九八六年二月の第一次討議資料に続いて、本年三月、第二次討議資料が出されました。他方、賀川豊彦生誕百年を記念して、式典、講演会、シンポジウム、演劇、映画製作、展示会などが、東西の実行委員会によって展開されました。

 こうしたときに、いまふうに言えばマルチ人間の賀川を、ある一面からだけの批判や、逆に、あばたもえくぼ式の全面礼賛ではなく、近代日本の激動期に、教会内の牧師にとどまらず、他に類を見ないほどの広い分野で中心的指導者として活勤し、それだけに問題もまた多い賀川豊彦の全体像を、できる限り批判的に明らかにし、現在の教会やキリスト者にとっても、非キリスト者にとっても、賀川豊彦が一つの踏み台になればと意図して、今回のセミナーが聞かれました。

 私事で恐縮ですが、教団が成立する一年前の一九四〇年、同志社の神学生のときに、学校の配慮で短期間ではありましたが、日本組合基督教会の本部にアルバイトに行っておりました。楽しみは昼食時、近くの食堂で、偉い先生方に、当時の私にはめったに口にできないランチを、ごちそうになることでありました。その折、食後の茶飲み話で、お仲間の牧師の裏話、慢評、酷評を聞かされましたが、なかでも「今の教会には大ぼら吹きが二人いる。ほら安の清水安三と賀川豊彦だ」というのにはまいりました。二人とも大いに尊敬し、賀川豊彦にいたっては関西講演時には、できる限りついてまわって出席し、自然科学などの大展開に煙に巻かれながら、心を熱くして聴いたものでした。当時の私にとって賀川は、貧民、被差別部落民、農民、労働者、病者など、社会の底辺の弱者と共に生きている、まことに大きな存在でした。

 それから数十年たって、『貧民心理の研究』などの差別記述が問題化したのを契機に、賀川豊彦再検討が自らの問題として迫ってきました。今回のセミナーでは、賀川の情熱的で幅広い先駆者的活動に驚きを新たにするとともに、あの賀川豊彦にも根深くて重大な問題点がこんなにもあったのかと、目を開かされる点が多くありました。

 いまさら賀川、などといわれる向きもあるでしょうが、されど賀川、と思われるほどにその活動分野は多様で、現代の状況に通底する問題はきわめて多いと思われます。本書を契機に、人それぞれに、自己検討の問題として、賀川の全体像をその時代的社会的背景のなかで把え直すことによって、「古人のあとを求めず、古人の求めたるを求む」(空海)る、機縁の一つともなり得るのではあるまいかと思われます。

 もっとも全体像とは銘打ってはいても、全体というにはもとより欠けるところはきわめて多く、それを満たすにはなお相当の量を必要とすると思われます。まずは本書を読んでいただき、「賀川豊彦と現代教会」の討議や、その他色々な意昧での資料として、多用願えれば幸いです。

 最後に、きわめて御多忙な先生方には、十分な準備のもとに、熱心に講義をしていただいたうえ、短期間に加筆や修正をしていただき、心より感謝申し上げます。おかけさまで充実した内容のものを出版することができました。また、神戸学生青年センターの「朝鮮語講座」および「食品公害を追放し安全な食べものを求める会」のメンバーである西咸子、今田裕子氏には、テーブ起こし、ワープロ打ち、編集、校正にお骨折りいただきました。あわせて感謝申しあげます。

  一九八八年一〇月五目
             神戸学生青年センター理事
                            西 原 基一郎


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第198回)

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「岩田健三郎版画展」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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             第198回



      河島幸夫著『賀川豊彦と太平洋戦争―戦争・平和・罪責告白』
  
 河島幸夫氏は、前回取り出した著書に続いて標記のタイトルの作品を、前著同様に福岡・中川書店より1991年に刊行しています。

 ここでも、前回と同じく「はじめに」と「むすび」を取り出して置きます。



                    はじめに

 一九八八(昭和六三)年は、世界的に有名な日本のキリスト者賀川豊彦が生まれて百年目に当たる。そのため同年には、一連の賀川豊彦生誕百年記念行事が東京と関西を中心にして大規模に開催され、彼の生涯を描いた映画『死線を越えて』(彼のベストセラー小説と同名)も製作された。今日の若い世代には賀川豊彦の名を知る人はきわめて少ない。しかしこの映画を見て、はじめて賀川を知った人びとの大部分は、深い感銘を受けたようである。賀川についてかなりのことを調べているつもりの私も例外ではなかった。ただし、わずか二時間余という上映時間の制約もあったせいか、賀川の太平洋戦争中の生き方が充分には描かれていない。この映画だけでしか賀川を知らない人は、南京大虐殺の生フィルムを背景とする賀川の東京・松沢教会における説教と逮捕、尋問のシーンだけから判断して、賀川を生涯一貫した反戦・平和の信念の人としてのみ受けとったことであろう。

 しかし実際には、賀川は、太平洋戦争が深まるにつれて、従来の平和主義的な姿勢から日本の戦争行為を支持する方向へと転換したのであった。こうした姿勢の変化は内外の賀川崇拝者たちに少なからぬ衝撃や失望を与えることにもなる。それではこうした賀川の変化はなぜ生じたのであろうか。われわれは、その原因を探ることを通じて、賀川のみならずわれわれ日本人の心の奥底にも潜んでいる共通の問題点に迫りたいと思う。

 さらに、賀川豊彦がそのような変化を経て日本の敗戦(八・一五)を迎えた時、それにどのように対応したのか、とくに戦争責任の問題をどのように受けとめて戦後の時代を生きようとしたのかについても、触れることにしたい。こうした作業を通じて、現在と将来に生きるわれわれ日本人が何らかの教訓を引き出すことができれば幸いである。


                    あとがき

 この小冊子の基礎となった論文は、「賀川豊彦と八・一五」と題して『福音と世界』新教出版社・第四五巻九号(特集 八・一五解放一日韓キリスト教の新視角)一九九〇年八月の六六~七五頁に発表したものである。このたび、単行本として出版するにあたり、本文を大幅に増補し、また新たに注をつけ加えた。本文および注の中の〔……〕は、河島が説明のために挿入したものである。

 もともと私は、かつてドイツ留学中(一九七一~七三年)にかの地の人びとから賀川豊彦という人物の重要性について教えられて以来、自分の専門(ドイツの政治と宗教)研究以外に、少しずつ賀川のことについても調べ続けてきた。そのささやかな成果の一つが、賀川豊彦生誕一〇〇年を記念して一九八八年に中川書店から出版した『賀川豊彦の生涯と思想』である。そこでは、「社会運動家としての賀川豊彦」と並べて「平和活動家としての賀川豊彦」について論じている。

 このたびの小冊子『賀川豊彦と太平洋戦争』は、前著の発行以後に新たに発見した賀川豊彦の平和思想・平和運動のいくつかの側面を書き加え、賀川の生涯における《戦争・平和・罪責告白》の問題を、太平洋戦争期を中心にまとめてみた。その際に私の心をとらえたのは、まず第一に、あれほど戦争に反対し続けていた賀川がなぜ太平洋戦争における日本の戦争行為を支持するようになってしまったのか、その原因・理由はいったい何なのかということであり、第二に、そうした挫折を体験した賀川が日本の戦争責任や自己の《転向》を、戦後になってどのように受けとめ、再出発したのかということであった。こうした点を念頭に置きながら、このたびの小冊子では、前著で触れなかったガンディーとの出会いや李承晩・韓国大統領への罪責告白の公開書簡などをとりあげたしだいである。

 もちろん、この小冊子の場合にも、《賀川豊彦における戦争と平和》の問題を充分に考察したとは言い難い。とくに前著『賀川豊彦の生涯と思想』ですでに論じた部分については、今回はできるだけ重複を避けようとしたから、それだけこの小冊子の内容が舌足らずに終わった感じもないわけではない。それゆえ、読者の方々は、できるだけこの小冊子と前著との双方をつき合わせながら読んで頂ければ幸いである。そして、これら二つの小著が補いあって、賀川豊彦の全体像への理解を深めるうえで少しでも役立ってくれれば、著者にとって大きな喜びである。

 末筆ながら、このたびもまた資料の問い合わせと複写サービスに快く応じ、また賀川豊彦の写真掲載を許可して下さった賀川豊彦記念・松沢資料館(賀川純基館長)、初出論文の転載を了解して下さった『福音と世界』誌の新教出版社(森岡巌社長)、それに今回も前著に引き続いて出版を引き受けて下さった中川書店(中川信介氏)に心から感謝申しあげたいと思う。

    一九九一年七月三〇日
                        福岡にて  河 島 幸 夫


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第197回)

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「近江平安教会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第197回


        河島幸夫著『賀川豊彦の生涯と思想』

  
 福岡・中川書店より賀川豊彦生誕百年の1988年に出版された標記の著作は、「社会運動家としての賀川豊彦」と「平和活動家としての賀川豊彦」の二部構成の研究的な作品です。

 ここでは、本書の成り立ちなどを記した著者の「はじめに」と「あとがき」を取り出して置きます。



                    はじめに
 一九八四年版の『キリスト教年鑑』によれば、一九八三年現在の日本におけるキリスト者の総数は約一二七万人(プロテスタント約八四万人、カトリック約四一万人、正教会約二万人)である。これは国民総人口の約一パーセント強にすぎない。ところで、キリスト教のうち、カトリシズムは一五四九年にわが国に伝えられ、プロテスタンティズムは一八五九年に日本の宣教を開始した。十九世紀の後半に渡来した多くのプロテスタント宣教師は、主としてアメリカの改革派(カルヴァン派)を中心とするピューリタン(清教徒)の人びとであった。

 日本が明治維新(一八六八年)による近代国家へのスタートを切って以来、キリスト教信仰は、旧武土層や知識人を中心とする小市民・中産階級の中に受け入れられていった。しかし労働者や農民のキリスト者は少なかった。そして日本人のキリスト教信仰は、はしめから個人主義的・私的信仰の色彩を強くもつようになったのである。とりわけ一八六八年から一九四五年までの日本は、天皇を現人神とする絶対主義的な憲法体制によって支配されており、信教の自由もまた、そうした国家体制の枠内においてのみ許容されるにすぎなかったから、当時は真の信教の自由は存在しえなかったのである。その中で、キリスト教会は困難な道を歩まねばならず、またしばしば天皇制の支配体制に順応することを余儀なくされた。こうした天皇制と資本主義との結合した社会体制の下では、キリスト教は、社会主義と同じように、長らく世間の人びとから白眼視される存在であった。

 ところで、社会主義運動とキリスト教会との関係を見ると、キリスト教会自身は、一定の社会事業、慈善事業を推進したけれども、労働運動や社会主義運動に対しては、単純な福音信仰第一主義の口実のもとに、概して冷淡な態度をとり続けた。その結果、日本のキリスト教会は労働者や農民の中に宣教の基盤を見出すことができなかった。しかし、興味深いことに、初期の社会運動、労働運動の指導者や活動家の中には少なからぬ注目すべきキリスト者を見出すことができる。たとえば日本最初の社会主義政党である《社会民主党》 (一九〇一年)の創立者たちは、大部分がキリスト者(木下尚江、安部磯雄ら)であり、また一九一二年に創設された日本最初の労働者の全国組織である《友愛会》の創立者・鈴木文治もまた、キリスト者であった。しかし、彼らの運動が日本のキリスト教会そのものによって暖く支援されるということは、なかった。そうした困難な状況の中で、牧師と社会運動家と平和活動家という三つのものを兼ね備えるなどということは、キリスト教社会主義者の中でもきわめてまれであった。こうした賀川の思想と行動は、キリスト者と非キリスト者との双方の中に、一方では熱烈な支持者をつくり出すとともに、他方では少なからぬ批判者をもつくり出した。本書においては、そうした賀川に対する様々の評価をひとつひとつ全面的に点検する余裕はない。むしろここでは、賀川の社会運動家としての側面と、平和活動家としての側面とを中心にして、彼の生涯と思想とを、私なりに概観して見たいと思う。



                   あとがき


 私が賀川豊彦という人物を再認識するきっかけとなったのは、一九七一~七三年にドイツ学術交流会(DAAD)の奨学生として西ドイツに留学中、シュトゥットガルトで開催
された「ヴィヘルン・シンポジウム」の際に、幾人かのドイツ人から《日本の偉大なキリスト教社会運動家カガワ》について語りかけられた時であった。これに対して、日本人である私が、恥ずかしながら、賀川についてほとんど何も知らなかったのである。もともと、ドイツの政治と宗教、とくに「ドイツのキリスト教社会主義」を主な研究テーマにしていた私にとって、日本のキリスト教社会運動家は、専門的な興味の対象外だったからである。しかし、これでは、外国の人びととの対話や交流も、十分には成立しえない。そこで、それ以来、私は、自分の専門研究のかたわら、賀川豊彦のことも少し調べてみようと思うようになった。

 そうした折、在独中にドイツのプロテスタント系の社会福祉事業の連合体である《ディアコニー事業団》の求めに応じて、” Johann Hinrich Wichern und Toyohiko Kagawa. Zur sozialen Aufgabe des Protestantismus in Japan”と題する小論文を、同事業団の学術誌『内国伝道』(Die lnnere Mission,Jg.64,3./4.1974)のために寄稿した。これは、ドイツのプロテスタント系キリスト教社会事業(かつては《内国伝道》、こんにちでは《ディアコニー》と総称されている)の先駆者ヨハン・ヒンリッヒ・ヴィヘルン(一八〇八~一八八一)と日本の賀川豊彦とを、比較して論じたものである。このドイツ語論文は、のちに大幅に補充して日本語に書きなおし、「ヨハン・ヒンリッヒ・ヴィヘルンと賀川豊彦」と題して、拙著『信仰と政治思想』(創言社、一九八五年)の中に収められている。

 その後、私は、恩師の宮田光雄教授(東北大学法学部)のおすすめにより、賀川豊彦の没後二五年を記念して、“Toyohiko Kagawa.Christlicher Sozialreformer und Friendenspraktiker” と題する小論文を、東ドイツの教会誌『時のしるし』(Die Zeichen der Zeit,Jg.39,April 1985)のために寄稿した。これが、本書に収録されているドイツ語論文である。このドイツ語論文を日本語になおし、大幅に加筆したものを、「賀川豊彦――キリスト者・社会運動家・平和活動家」と題して、『西南学院大学法学論集』(第一八巻一号、一九八五年八月)に発表した。これが本書のもとになった論文であるが、賀川豊彦の生涯・思想・活動を総合的に把握し、分析・解説しようとしたものである。具体的には、賀川の生涯を貫く内面的支柱としてのキリスト教信仰と社会問題(貧困問題、労働運動、農民運動、生協運動)との関わりをIの「社会運動家としての貿川豊彦」において論じ、次に、彼の信仰と戦争・平和の問題との関わりをⅡの「平和活動家としての賀川豊彦」において論じつつ、彼の生涯の歩みを辿った。

 さいわい、この小論文は、発表以来、お読みいただいた方々から予想外の好評を得ることができた(たとえば、大谷恒彦「賀川豊彦をめぐって」『九州大学新聞』一九八七年一月二五日号)。そこで、このたび賀川豊彦の生誕一〇〇年にあたり、この小論文に若干の加筆をし、より多くの旁々にお読みいただけるよう、中川書店の中川信介氏のお力添えによって、ささやかな小冊子として公刊するはこびとなったわけである。すでに賀川豊彦については何冊もの伝記や書物が出版されているけれども、彼の生涯・思想・活動を全体としてコンパクトにまとめ、総合的に評価した書物は、案外少ないのではないだろうか。そうした意味で、この小冊子が、不十分ながら、読者の方々にとって、賀川豊彦の全体像を、より正確に理解するための手がかりとなってくれるならば、本書の刊行目的は達せられたと言えるであろう。

 末筆ながら、賀川豊彦の写真の掲載を快く許可して下さった御子息の賀川純基氏(賀川
豊彦記念松沢資料館長)に、心からお礼申しあげるしだいである。

     一九八八年七月二五日
                       福岡にて    河島幸夫


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第196回)

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「韓国レストラン<百済>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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               第196回


        米沢和一郎編『人物書誌大系25:賀川豊彦』

  
 1992年7月に刊行された本書は、当時賀川豊彦記念松沢資料館研究員として在任中の大きな仕事として完成にこぎつけた大著で、賀川豊彦の「著作目録」「参考文献目録」、そして「年譜」が整理されていて、賀川愛好家としては、これまで大変便利な道案内として、座右に置いてきたものです。

 ここでは、米沢氏の「まえがき」のみを取り出して置きます。


                   ま え が き


 私がキリスト教社会運動家賀川豊彦を知ったのは大学時代であった。ちょうど大学在学の頃に賀川豊彦旧蔵書の仮目録が発行されたのを記憶している。その後大学図書館員の道を歩んだ私は近代史の資料に接しながら賀川の名を目にすることが多かった。そうした中で私に賀川のことを深く知るキッカケを与えてくれたのは、愛知県豊田市に住んでいた大伯父Kであった。賀川の熱烈なシンパで片腕でもあった精神科医の兄の影響を受けて、Kも兄に劣らぬカガワイヤン(賀川宗徒)を自任していた。ともに医者であったこのK兄弟を通じて、賀川の人と仕事の一端を知らされたことが、賀川の個人書誌を手がける上で有形・無形の財産となった。その財産のひとつ<秋田医療組合運動史>の資料編集で、日本の医療組合運動の揺藍期に模範とされた組合運動史をまとめた時、若きKが石田友治の兄謹吾医師や鈴本真洲雄秋田医療組合長等の賀川ゆかりの同志達と行動を共にしたことを知った。この秋田と密接不可分な兄弟の如き関係で進められた<東京医療組合運動>では、Kの兄が石田友治牧師と共に賀川の両腕となって活動していた。この二つの医療組合運動が賀川と深く絡みながら行われたことと、この運動の指導者達が私にとって幼い頃から知っていたなじみの人々であったことが、ライブラリアンとしての私の心をつき動かして資料編集をすることになったのである。

 Kは医師会の反対にあい難航していた東京医療組合病院長の職を待ちきれずに、結局賀川の命を受け秋田医療組合病院長として赴任した。熱血漢であったKは獅子奮迅の働きをしたが、秋田県医師会の反発を食らい医療過誤訴訟(結果は全て無罪)を起こされ、責めを一身に負う形で秋田を去った。この時Kを慕って秋田の病院に来た甥が生涯会う事のなかった父であり、医療過誤裁判でKの弁護人を引き受けたのが母の父であった。この血族としての思い出を語ったKは、賀川の期待に答えられなかったことを悔いていた。そのことを心の糧としてその後の人生を歩んだKから、賀川のためにできることは私の代わりにやってくれと言われていた。“私(K)の秋田行きがなければ、お前の出生もなかった。その意味において賀川のために一肌脱ぐのはお前の義務である”この言葉は今も私の思い出の中に聞こえてくるKの遺言である。東京医療組合でKをよく知る黒川泰一氏から、<賀川豊彦書誌>の話を聞かされたのは、秋田医療組合運動史の編集を終えた頃であった。黒川氏の中野総合病院の一室で、『東京医療組合50年史』編集の話を断ったいきさつもあり、黒川氏には心の借りがあった。氏は新しくできた賀川豊彦記念・松沢資料館に、明治学院大学図書館から賀川豊彦文庫が移管されたこと、そこで賀川豊彦の書誌を作りたい意向があることを話してくれた。それから少しして黒川氏は召天された。こうした私的経過を辿りながら、昭和62年から賀川豊彦記念・松沢資料館館長賀川純基氏の依嘱により書誌編集を開始した。翌年の賀川生誕百年の諸行事を含めて、賀川豊彦記念・松沢資料館の通常業務と並行して編集を進めてきた。その間、賀川の主要な論稿が収録されている新聞・雑誌他を網羅して、『賀川豊彦関係史料双書』(緑蔭書房)を監修復刻した。こうした双書の発行は、書誌の発行と絡めた形で、沈滞気味であった賀川研究の質的活性化を狙ったものである。従来の研究で、賀川の一部取り巻きによる評価の信用性に疑義をはさむ研究者が多いことも考慮して、主観的切り捨てをせず清濁併せ飲む形でデータの網羅的収録を心がけた。ために収録量がかさみ、日外アソシェーツ社に多大の労力を煩わしたが、ようやく出版できる運びとなった。こうした考えに基づいて収録した先行研究に見られる<光と影>の膠着した評価に、あらたなデータ(明治38年一平成4年3月収録)を提供できたと信じたい。だが賀川の著作・新聞・雑誌への執筆は、全幅の信頼を置いていた<カガワの万年筆>を自称した数人の秘書達により筆記されたこともあって、その<ペンの福音>は膨大な量に及ぶ。さらに行動的牧師としての伝道活動や、広範な社会運動への物心両面にわたる援助行為もある。こうしたカガワ・ワークと称される運動及び事業は、<ペンの福音>による印税などの<筆債>によってあがなわれていた。この書誌が、こうしたペンと行動の全容を明らかにする一助となれば幸いである。

 終わりに、書誌編集を始める以前から私の賀川に関するデータは少なくなかったが、始め出してその量の多さに改めて苦闘の連続であった。このあしかけ5年間の生みの苦しみを支えてくれたのは、書誌作成にあたって御世話になった多くの方々の御助力であった。ここで厚く御礼申し上げたい。それとこの間編集者を影で支え、書誌の発行のために協力してくれた賀川事業団 雲柱社(田中英夫・小礒満・小川真登文)及び賀川豊彦記念・松沢資料館(倉田良美・鹿野美保子)の方々にも心から感謝の念を捧げたい。末筆になったが、賀川豊彦の長男賀川純基・長女冨沢千代子・次女籾井梅子諸氏の熱意に対し深甚の敬意を表したい。賀川家の方々の協力がなければ、この書誌が世に出ることもなかったであろう。

   平成4年6月1日
                             米沢和一郎


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第195回)

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「中庭の蝉たち」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第195回


       賀川豊彦記念講座委員会編『賀川豊彦から見た現代』

  
 1999年5月に刊行された本書は、ここに隅谷三喜男氏の「まえがき」と金井信一郎氏の「あとがき」を収めて置きます。


                    まえがき


 賀川豊彦なる人物は、大正初期から第二次大戦後にかけて、次に述べるように、日本社会において、多くの人々に大きな影響を与えた人物としても、またその社会的活動の広さとその見識の高さにおいても、忘れられてはならない人物である。世界的にも最も広く知られた日本人であった。しかし残念なことに、近年日本社会において、彼の名は次第に忘れ去られようとしている。歴史的に影響力のあった人物については、多くの場合、その人物を絶賛する人がいる他面で、批判をする人々もいる。後述するように賀川の場合もそうである。

 賀川は明治の末年、神戸のスラムに入り込み、そこに住む色々な問題をかかえた貧しい人々の友となり、彼流の知識と筆とをもって『貧民心理の研究』なる一書を世に問うた。明治三〇年代から大正初期に、新聞・雑誌記者などで貧民街に興味をもった人々が、そこに入りこんで書いた文書がいくつかあるが、それは一般に「貧民街探訪記」的なものであった。賀川のようにその中に住みこみ、生活を共にし、それを分析したものは無いと言ってよい。その意味で賀川は日本におけるスラム解放運動におけるパイオニアーであった。

 その彼が次に関係を持つことになったのは、第一次大戦末期からデモクラシー運動とロシア革命の影響を受けて、急速に活発になった労働運動であって、その実践的・理論的なリーダーとなった。当時の労働組合の全国組織であった労働組合友愛会の一九一八年の総会で、新綱領とも言うべき「宣言」を起草したのは賀川であった。この労働運動がアナーキズムの影響で賀川の念願する方向に背を向けた時、彼は労働階級より大きな問題を抱えた農民の解放運動こそ緊急の課題と考え、一九二二年春には農民組合を組織し、その創立大会を開くのである。その農民組合運動は、その頃から影響力を持ち始めた共産主義運動の影響の下で分裂を見るようになると、賀川は運動の中心を、労働運動のリーダーとして活躍していた頃からその背後の運動として手をつけていた生活協同組合運動に移していった。彼は日本における生協運動の理論的・実践的な開拓者であり、これとの関連は戦後も続き、彼の影響は彼の死後今日まで続いている。このように、彼の社会運動との関係は全分野に亘り、それぞれの時点で開拓者として、又理論家として、大きな影響力をもった。このような人物は日本の近代史の中では他に見出すことはできない。

 ここで一言申しておかねばならないのは、平和運動とのかかわりである。彼は早くから平和について書き、語ったが、特に日米関係が緊迫した時には、平和使節の一員として訪米し、平和を訴えた。それゆえに、彼は憲兵隊から睨まれ、拘束もされたのである。戦時中の言論については問題がなかったわけではないが、戦後も世界連邦の提唱者として活動した。

 なお、彼の運動分野は上述したような社会運動の領域に止まらず、彼の人生がよって立つキリスト教関連の運動に於ても、比肩する人物を見出し得ないほど幅広く強力であった。彼はもともとキリスト教の神学校の卒業生であり、一九一四年にアメリカに留学したのも、神学の勉強が中心であり、一六年にはプリンストン神学校から神学士の学位を得ている。そして、一九年には牧師となる按手礼も受け、二二年には彼をリーダーとして「イエスの友会」が発足する。それは活発な活動を展開し、今日に至るまで存続している。その側面で、全キリスト教会を捲き込み、彼が中心となって全国的に展開されたのが、二六年に発足した「神の国運動」である。それは二九年、三〇年の大恐慌・大混乱の時期には、いっそう活発に日本のキリスト教界の力を結集し、全国的に運動を展開した。賀川の赴く所、会衆は堂にあふれた。

 だが、賀川を理解するためには彼のもう一つの側面を紹介しなければならない。それは詩人・小説家としての賀川である。この側面で彼が最初に刊行したのは詩集『涙の二等分』(一九一九年)である。そして彼を社会的に有名にしたのはその自伝小説とでも言うべき『死線を越えて』(一九二〇年)である。これは当時ベストセラーとなり、彼の名を広く社会に知らしめるとともに、彼の活動資金の供給源ともなった。彼はその後いくつもの小説を書いている。

 本書はこの広く社会運動の理論家・実践家であり、キリスト教界の指導者であっただけでなく、詩人・小説家であった賀川豊彦と、そのどこかの分野で交友関係をもったり、影響を受けたり、関心をもったりした方々の、これまで必ずしもよく知られていない関係を語って頂いたものである。その点で賀川の多面性と独自性とがいっそう明らかにされている、と言ってよいであろう。

 ところで、そのような賀川の多面性と独自性は、時に軌道を、特に理論的分野で外れることがある。たとえば、私の専門分野である経済学についていえば、一九二〇年に出版された『主観経済の原理』などは、マルクスの唯物論的な経済学を批判して、ドイツ観念論などを持ち出し、唯心的な経済哲学を論じるが、経済の原理にはなっていないと言ってよい。従って彼の社会運動の原理としては傾聴に値する点もあるが、経済学者は賀川理論に全く関心を寄せないのである。

 無視される所があるのはよいとして、非難される点も出現した。それは部落問題についての賀川理論である。賀川は前述したように神戸のスラムに入りこんだが、そこには「部落」関係の人も少なくなかった。そこで彼は彼流になぜ「部落」の人々がスラムに多いのか、どういう背景をもつのかというような問題を、当時の有力な説などを参照しながら論理を形成し、『貧民心理の研究』などの中に展開し、発言したのである。当時の有力な説から見た、彼の議論が特別に差別的とは言えないと思うが、彼の言説は社会的に影響力が大きかった。しかも戦後、部落解放運動が活発に展開し、研究も急速に進展している中で、『賀川豊彦全集』が刊行され、賀川の部落問題をめぐる言論が原型のままで特別の注記もなく刊行されたので、大きな差別問題として取り上げられ、批判されることとなった。それは確かに賀川の言論が時にもつ欠陥であり、経済理論の欠陥などとは異質の問題で、その関係者に大きな社会的・精神的打撃を与えることとなった。このことを我々賀川に関心をもつ者は謙虚に受け止めたいと思う。

 しかし、賀川が近代日本における最も幅広い活動家であり、理論家であったことは否定しえない。人は皆神の前で罪人であり、問題をかかえている。しかし、そのマイナスも背負いつつ、どこまで神の僕として神の栄光を現わしたか。この点を踏まえながら、この賀川論をそれぞれの思いを抱きながら、ここに刊行する次第である。

   一九九九年四月
                            隅谷三喜男




                   あとがき

          賀川豊彦記念講座委員会委員長 金井 信一郎


 本書は、一九八八年、賀川豊彦生誕百年を記念して行われたいくつかの講演およびその後十年の間に行われた賀川記念講演を収めたものである。

 賀川豊彦がわが国の近代化の過程において開拓者的に関わった分野の多面性については、本書「まえがき」でも述べられているとおりであるが、賀川豊彦生誕百年記念のために組織された実行委員会(委員長隅谷三喜男)には賀川が生前に関わった四〇を越える団体の代表が参加した。この年には「総合・平和・未来」のテーマのもとに、東京、大阪、神戸、徳島、さらにはアメリカでも、後援会やシンポジウムなど多彩な催しが行われた。本書に収められている「人間性の探求としての平和」(武者小路公秀)、「いと小さき者と賀川豊彦」(三宅廉)、「信仰を持たないものの側から何かできるか」(大江健三郎)はいずれも賀川豊彦生誕百年記念行事の一環として行われた講演のテープから稿をおこしたものである。その他の講演は賀川豊彦記念講座委員会主催による講演である。

 賀川豊彦記念講座委員会は、一九六〇年、賀川豊彦の死去により米国カガワーフェローシップ(賀川後援会)が解散した際に送られてきた活動資金をもって発足した。これまでさまざまの分野において第一線で活躍してこられた方々を講師として招き、次のような講演会を開催してきた。

 第一回(一九六一年) 隅谷三喜男 「社会改革と人間変革-賀川豊彦の社会思想」
 第二回(一九六二年) 湯川秀樹 「軍縮問題と世界連邦」
 第三回(一九六三年) J・ロマドカ 「共産圏におけるキリスト教」
 第四回(一九六四年) 木村健二郎 「原子力利用の現在及び未来」
 第五回(一九六五年) 渡辺善太 「聖書学体系論」
 第六回(一九六六年) 村田四郎 「新約聖書のキリスト教」
 第七回(一九六七年) 嶋田啓一郎 「社会思想史より観たる賀川豊彦とその時代」
 第八回(一九六八年) 大槻虎男 「自然科学的生命探求の進歩」
 第九回(一九七〇年) 横田喜三郎 「人類の危機を打開する道」
 第十回(一九七一年) 金井信一郎 「賀川豊彦の社会政策思想」
 第十一回(一九七二年)ニーマ・ゲッフェン 「イスラエル共和国と旧約聖書」
 第十二回(一九七三年)鷲山第三郎 「ユグノー運動の顛末」
 第十三回(一九七四年)桑田秀延 「日本の神学思想史に現れた神学の問題と人物」
 第十四回(一九八八年)武者小路公秀 「人間性の探求としての平和」
 第十五回(一九八九年)坂本義和 「いま、平和とは」
 第十六回(一九九三年)森静朗 「賀川豊彦と世界通貨-Ecの通貨政策」
 第十七回(一九九四年)磯村英一「いま、なぜ賀川豊彦なのかI現在に生きる賀川豊彦」
 第十八回(一九九五年)高村勣 「賀川豊彦と生協運動-現代に生きる賀川精神を生協運動に見る」
 第十九回(一九九七年)日野原重明 「いま賀川先生が再現されたら何を語るか」
 第二十回(一九九八年)金井新二 「現代日本とキリスト教-問題状況と展望」

 この間、一九七四年以後、諸般の事情により活動の停滞を余儀なくされていたが、武者小路講演を賀川豊彦生誕百年記念実行委員会との共催とし、これを契機に活動を再開して今日にいたっている。

 この講演集の公刊にあたり、講演者の諸先生にはご快諾いただくとともに、ご多忙のなか原稿にお目どおしいただき、心より感謝申し上げます。誠に残念なことに、三宅廉先生と磯村英一先生はすでに帰天されている。このような形でご講演を本書に収めることをご快諾くださった両先生のご家族に深く御礼申し上げます。三宅稿および磯村稿の変更については最小限にとどめたが、とくに三宅稿に目を通していただくなど、村山盛嗣氏にご協力いただいた。深く感謝申し上げます。なお、大江稿の初出は『賀川豊彦研究』一七号(財団法人本所賀川記念館)、坂本稿の初出は『世界』一九九〇年二月号(岩波書店)である。

 本来なら、賀川豊彦生誕百年記念実行委員会の解散後、関連行事の記録を出版する計画があり予算化もされていたが、この度、このような形で刊行することができたことは誠に幸いである。教文館の渡部満氏および所桂子さんにはさまざまのかたちでお世話になった。ここにしるして感謝申し上げたい。

 本書が多くの読者に読まれ、思想的に空洞化し、混迷の度を深めつつある現代世界、特にこの国にあって、新たな示唆を与えるものとなるよう心から希う次第である。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第194回)

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「住宅の花壇」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


          賀川豊彦の著作―序文など

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               第194回


          鳥飼慶陽著『賀川豊彦と現代』


本書については、ここで特に記すことは控えますが、本書は絶版ですので、全文テキスト化して、同時進行の別のブログで公開しています。http://d.hatena.ne.jp/keiyousan/

以下に、「はしがき」の一部を取り出して置きます。



                 は し が き


               I 生誕百年と「賀川問題」

 ことし(一九八八年)は、賀川豊彦・ハル夫妻生誕百年の記念の年を迎えます。日本の近現代史に残した賀川の大きな足跡に学び、その大いなる遺産をさらに継承・発展させるべく、社会事業関係者をはじめ学校・生協・宗教者など、ひろく市民的ひろがりをもつ人びとの手によってすでに、生誕百年の諸行事や諸事業がすすめられています。これには、東京と神戸を中心とした取り組みにとどまらず、日米両国をまたぐ国際的なプログラムが企画準備中と言われます。

 しかし、そうした流れとはべつに、「賀川豊彦と部落問題」とか「『賀川豊彦と現代教会』問題」とか言われる、新しい問題が提起され、とくにキリスト教界において複雑で不透明な状況が継続していることも事実です。

 すでにご存知のように、近年部落問題をめぐって、日本の宗教界は大きく揺れ動いています。とりわけ、一九七九(昭和五四)年の第三回世界宗教者平和会議における曹洞宗宗務総長(当時)の、いわゆる「町田発言」問題(注1)と言われるものや、以前から知られていた「差別戒名(法名)」問題(注2)などに対するはげしい「確認・糾弾」行為がつづき、これにこたえて宗教界はついに、一九八一(昭和五六)年三月「同和問題に取りくむ宗教教団連帯会議」(略称「同宗連」)とよばれる組織をつくって、特定の運動団体(部落解放同盟)との「連帯」行動をすすめてきました。

 宗教界のこうした動向に対しては、すでに宗教教団内部から深い憂慮と不信の声がわき起こってきておりますし、研究者の間でも『宗教と部落問題』(部落問題研究所、一九八三年)などで、率直な批判的見解が公表されています。こうした新たな取り組みが現在各地で目立ちはじめていますが、宗教界の多くは今なお旧態依然とした状況がつづいていることも否めません。

 そこで、以上のような実情をふまえて、宗教および宗教者の課題と方法を積極的にさぐり、幅広い自由な討議を促していくために、主として仏教界を中心に龍谷大学の加藤西郷氏(注3)が、キリスト教界を中心にわたしが、それぞれ分担してまとめる企画が兵庫部落問題研究所において立てられました。しかし、わたしに与えられた「キリスト教と部落問題」については、とりあえず旧著『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、一九八四年)でいくらか、その問題の所在並びに解き方の吟味を加える機会が与えられましたので、ここでのわたしの課題はむしろ、先にもあげた今日のキリスト教界が直面している大きな問題のひとつである「賀川豊彦と部落問題」に照準を合わせ、「差別者・賀川」などと一方的に断罪されている問題に、正面から取り組むことにいたしました。

(注1)「町田発言」「人権と人種及び民族グループ」の報告書を作成する過程で、「日本の部落問題というのは、今は有りません。だが、これを理由にして、何か騒ごうとしている一部の人達はあるようですが、日本の国の中で差別待遇ということは全くありません。だから、これは(報告書の中から)取り除いて欲しい。日本の名誉のためにも、と思います。」として削除させた発言。
(注2)「差別戒名(法名)」戒名(法名)をつける習慣は、一七世紀に封建制が確立し身分的、宗教的支配が強化されるなかで定着してきた。命名には死者の生前の身分が反映し、穢多身分には畜門・畜女など差別的位号を付加する場合があった。
(注3)加藤西郷(一九二七-)長崎生まれ。龍谷大学助教授。同大学同和問題委員として和歌山県吉備町の『トーン計画』を調査し、「宗教の役割と意義」を解明して注目される。

                2 賀川豊彦研究

 ところで今日、「賀川豊彦」といっても、とくに若い人々の間では、その名前さえ知らない人の方が多いのではないでしょうか。まして、名前ぐらいは知っていても、彼の部落問題との関わりがどうであり、今日のキリスト教界における「賀川問題」とは何なのか――となると、多くの方々にとってははじめて耳にされることであるかも知れません。その意味では逆に、改めてここで「賀川豊彦」を取り上げ、歴史的にその全体像を浮き彫りにしつつ、部落問題との関係をも少しなりとも明確にすることの意義は、それなりに大きいと言うべきでしょう。

 先に、賀川の名も知らない世代のことにふれましたが、日本の近現代、「明治」「大正」「昭和」の、とくに第二次世界大戦をはさむ激動期を生き抜いてこられた多くの人々にとって、賀川豊彦のドラマティックな、まさに冒険的な人生の一端に、何等かの関心を示さなかったひとは、おそらくないと言ってよいでしょう。賀川が全力を傾けて奮闘したフィールドは、社会活動だけとってみても実に広大無辺であり、その行動範囲は日本全国津々浦々におよび、さらに欧米・アジアにも度々でかけ、その名は世界に知れ渡りました。

 先般、惜しくも早逝された石田真一氏(注1)の遺稿『部落の子ども記・青春記』(部落問題研究所、一九八六年)のなかにも、氏が高等小学校のころ、賀川の小説「乳と蜜の流るる郷」が連載されていた『家の光』を毎号むさぼり読み、さらに農学校に入学のあとにもこれを再読し、「農村のゆくえを考え、自分のこれからの進路に深い関心をもち悩みはじめていた」と述懐しています。あとで立ち入って述べることになりますが、全国水平社(注2)の創立者たちと賀川の関係も、限られた期間とはいえ、きわめて親密なものがあったことは、少しずつ知られるようになっています。

 そうして幸いなことに、近年「賀川豊彦研究」が急速に活発化しつつあります。神戸には「賀川記念館」が、東京には「雲柱社」がそれぞれつくられ、地道な研究活動もつづけられてきていますが、一九八二 (昭和五七)年には、賀川に関する総合的な資料館が「賀川豊彦記念・松沢資料館」として東京にオープンしています。そして、同年五月には『雲の柱』と『賀川豊彦研究』がそれぞれ創刊され、一九八五(昭和六〇)年には「賀川豊彦学会」が設立されるといった動きもみられます。

 そうした中で、『賀川豊彦伝』(キリスト新聞社、一九五一年)の著者・横山春一氏は、新しい伝記の完成を目指して執筆中とも言われます。ここ数年の間でも、賀川に関する注目すべき評伝が次々と出版され、人々の関心を集めています(本書末尾に、入手可能な主な参考図書をあげておきます)。そしてさらに、賀川夫妻の生誕百年を記念する『写真集』や『書誌』の刊行と共に、映画制作・演劇公演など、ことしはとくに「賀川年」の観を呈しつつあるようです。

(注1)石田真一(一九二一~一九八六)京都府亀岡市生まれ。全国同和教育研究協議会副委員長、京都府立高校校長、京都大学・神戸大学などで非常勤講師、部落問題研究所常務理事、国民融合全国会議常任幹事など歴任。
(注2)全国水平社 一九一一二年三月三日、京都の岡崎公会堂で結成された部落解放運動の最初の全国組織。この創立大会で採択された「水平社宣言」は、わが国最初の人権宣言とも言われる。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第193回)

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「神戸・須磨の海」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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            第193回


       武内勝口述:村山盛嗣編『賀川豊彦とそのボランティア』
  
 標記の作品は、1973年4月に同書の刊行委員会によって出版されました。賀川豊彦と明治末の初期の段階からその生涯を通して歩みを共にした武内勝氏のことについては、賀川献身100年記念の折りに長期連載させていただき、現在もhttp://k100.yorozubp.com/で閲読いただくことができますので、本書に関してもそこでもご覧いただくとして、ここでは、本書の序(今井鎮雄氏)と「あとがき」(村山盛嗣氏)を取り出して置きます。

 なお、本書は、「献身100年記念」として新版が刊行されていますので、追って改めてこのブログで掲載いたします。



                


 一九五〇年のことであった。あるドイツの神学者とアメリカで出合った。そこで私たちは、戦後の復興をいそいでいる日本とドイツの状況等を、それぞれ交換しあったのである。その時彼は「今後の自分の歩みのために、何としても手に入れたいのは、賀川先生の著作集である。英語で書いてある著作集を探しているが、どうしても手に入らなければ日本語の全集でも手に入れたいがその方法はないか」と真剣にうったえるように云うのである。その後、たまたま帰国の船の中で日本のキリスト教界のある指導者にお目にかかり、その方から「賀川先生はやはり指導者なんでしょうか」と不思議そうにいわれた言葉を思い出す。

 日本における賀川先生の評価はこのことばが示すように、いろいろな評価があるようだが、世界では賀川先生は絶対のものとして輝いていて、奇妙な対照をみせつけられたのである。この違いはどこからくるのであろうか。少なくとも日本の社会運動の歴史の中で、彼ほど先駆的な役割を果たし者はないであろう。例えば、日本の労働運動は賀川先生の論理と指導性の中で出発したという事実は誰もがよくしっている。

 日本最初の農民組合は、賀川先生の家を仮事務所として出発したし、協同組合においても又同様である。神戸にある日本一の灘神戸生協は、特に賀川先生の指導の下に大きく成長していったということは、その歴史をふり返った時に誰もが認める事実であろう。又、賀川先生が展開した神の国運動は、日本のキリスト教史上もっとも成功した救霊運動ということが出来ると思う。そのビジョンは、当時のキリスト者の心をわきたたせるのに十分なほど壮大なものであったし、神の国運動が教会の形成に十分役だったことも、又皆の認めることであろう。

 これほどの大きな仕事と先駆的な役割を、こんなに多方面に、一人の人格として展開した人は数少ないし、そのゆえに、外国の人々は彼の思想をもう一度研究しなおしたいといったのだと思う。しかしながら、私達の国ではそのいずれの面からも先生の評価は必ずしも高いとはいえない。

 先生は、単なる労働運動のための労働運動をやったり、農民運動のための農民連動をやったり、又神学的論理に基づいたキリスト教運動を展開したのではない。先生がもっとも大切に考えたものは、現実の状況社会の中で生きて苦しんでいる人間の魂の救済であった。したがって、一人ひとりの人間とかけ離れたところに運動の論理が進むときに、彼は人間
をとって論理をすてた。先生には論理の流打は関係がなかったに違いないし、又、その故に日本のあらゆる層の主流から遠ざかることもあったであう。

 私たちは今、賀川先生がいかに新生田川地区で生き、いかに苦しんでいる人と苦労をともにし、彼等を愛していたかという事実を先生の真近にいた武内勝氏の言葉を通してここに聞き知ることか出来る。先生の人格が、現実に人の中で如何に対応したかという事実を知ることが出来るのである。そして真に歴史を変えるのは言葉の上の論理ではなく、人がいかに生きたかという事実を通してであるということを思い知らされるのである。

 私達は、賀川先生の人格そのものにふれることの方が、彼の論理にふれること以上に大切であることをこの書を通してしみじみ教えられるし、又、その展開が実は真の社会運動であり、真の証の運動であることを信ずるのである。

   一九七三年三月二十七日
                                 今井鎮雄




                    おわりに


 いつの時代でも偉大な人物の周りには、それを支える有名無名の人々の群がいたことを忘れてはならない。賀川豊彦についてもそれは例外ではない。

 賀川は、伝道・社会事業・労働運動・農民運動・生協運動等を通じて、全人的解放運動のために一生を献げられた偉大なボランティアであった。それが、これらの分野において常に先駆的役割をはたした所以のものであった。「死線を越えて」を始め多くの著作も文学作品のためのものというより、ボランティア精神のほとばしりの結晶とみるべきであろう。しかし、それも賀川一人の手によって成就されたものではなく、その背後に彼を慕い、彼に共鳴して従った忠実なボランティアたちのあったことを忘れてはなるまい。この口述はこのことを如実に立証しでいるのである。

 賀川の公けの活動は、明治四十二年十二月二十四目のクリスマス・イブより始まる。教会のなかでしか、クリスマスの喜びを分ち得ないキリスト教界のあり方に義憤を感じつつ、この喜びを味わえない人々と共にこそ重荷を分ち合おうと決断して、新生田川地区に献身したのがこの出立の時点であった。その後、米国留学をも含めて約十五年間、関東大震災を経機として東京に居を移されるまでの期間、この地域を拠点として活躍されたのである。

 この口述は、この時期に焦点を合わして語られたものである。口述の動機にあるように、賀川の献身五十年目を記念して、神戸に於ける初期の事業について、資料を残こしておこうということで、計画されたのがその切っ掛けであった。口述者は当然のことながら最初の弟子であり、また死に至るまで忠実にその任をはたされた武内勝氏によってなされた。

 口述は「創業当時の回想」という題のもとに、昭和三一年十月十四日より十回に渡って、次のような日程で行なわれた。
  第1回「新川について」           10月14日(日)
  第2回「救霊団のころI            10月21日(日)
  第3回「若い人々」             11月4日(日)
  第4回「新川の奉仕について」        11月11日(日)
  第5回「迫害についてJ           11月18日(日)
  第6回「予言と評判について」        11月25日(日)
  第7回「渡米のころ」            12月2日(日)
  第8回「帰朝後のこと」           12月9日(日)
  第9回「時来る」              12月16日(日)
  第10回「その使命」             12月30日(日)

 聴衆は、神戸イエス団教会の夕拝に参加した人々であった。そのため、やや伝道的色彩がつよいが、そこにイエス団の精神的原点かあることを心う時、それはかえってふさわしい場であったともいえる。にもかかわらず、ここには、社会福祉、社会活動への出発点としての貴い体験としての資料が豊かにもられている。そしてここには、所謂、賀川を神格化しようとする神話はない。人間賀川と人間武内がキリストを中心に出会いそして展開するドラマについての素朴な記録があるのみである。その意味で今後、賀川について研究する者は必ず目を通さなければならないものであるといえるであろう。

 口述は一旦テープに治められ、それをそのまま原稿にうつし、三百五十枚を越えるものであった。武内氏自身、これに目を通し、訂正もされているが、何分文章自体はテープからおこしたままであったので、武内氏の口調をくずさない範囲で、相当部分に手を加えた。又、各章も内容に従って改めて題をつけなおし、読みやくするために、更に項目に分げそれぞれの内容に見出しをもつけた。

 昭和三十三年、私は賀川先生の招きで、イエス団の事業にたずさわることとなり、この口述のことを知り、是非これを本の形で保存しておきたいと、既に武内氏の了解を得ていた。しかし、その後、賀川記念館の建設等、雑務においまくられ逐に武内氏生前にはその約束をはたせないままに今日に至ってしまった。この度、賀川記念館十周年記念を迎えるに当り、その記念とするために一気にこれをまとめたものである。もう少し、時間をかけて整理をし、また関連資料や註を詳細に入れたいとも思ったがこの度はこの程度に止めておくことにした。

 この出版は、武内氏が且って園長としてその重責をになわれた天隣乳児保育園(現園長武内雪氏)・神視保育園(現園長竹内正枝氏)・友愛幼稚園そして賀川記念館の四者の協同でなされたものである。

 原稿整理のためにイエス団関係の次の方々-川崎福蔵兄・沢守佐理以姉・細川秀子姉・近藤孝子姉・加藤季代子姉・西内芳子姉・新居千代子姉・大熊かつ代姉・山本薫姉・村山和子姉の方々に特にお世話になった。それぞれ多忙な仕事をもちながら心よく協力をしていただき、心より感謝をする次第です。これで私も天国にいらっしやる武内さんへの約束を責すことができ、ほっとしている。

 次は武内氏自身「仕事が一段落したら、イエス団の歴史を書き残したい」と云っておられたその仕事にとりかからなければと思っている。

   昭和四十八年三月三十一目(武内氏召天八周年記念日)

                               編者 村山盛嗣



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第192回)

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「神戸・長田の海」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第192回


       松本清子著『劇画:賀川豊彦物語―日本の生協運動の父』

  
 標記の作品は、昭和59年6月に灘神戸生活協同組合から発行され、話題を呼びました。

 本書には、著者が聴き手になって、賀川純基氏の「父を語る――賀川豊彦は、人に“生き方”を伝えることが、楽しくてしょうがなかったんですね。――」という貴重な記事も盛り込まれています。

 ここでは、当時の組合長理事の高村氏の「まえがき」(当時の新聞に掲載された「随想」と共に)と著者の「あとがき」を取り出して置きます。


                    まえがき

                    高村 勣


 賀川についていま語ることの重要性を一番感じている一人として私はこの刊行を心から喜んでいます。賀川自身の著作を集めた全集をはじめ賀川をテーマにした著書は数多いが、これを劇画に仕たてたのは初めてのことではないでしょうか。現代は若者たちだけでなく活字離れとかで、どんな立派な論文を書物にして出版してもなかなか読まれないそうで、著者も出版社も大変な苦労のようです。

 そこで賀川についても、映画や芝居にして見てもらおうという試みがあるのですが、これも費用と観客見込みが相応せず、脚本ができていてもなかなか実現が遠いようですし、実現してもそう多くの人に見てもらう機会にはなり難いのではないでしょうか。巷に見るマンガブームからして若い人々向けには、今度の松本さんの労作は賀川への関心を高めるいとぐちとしては好個の材料になります。

 劇画と言えば荒唐無稽の作品が多く目につきます。私も子供のころはマンガをはじめ少年もの空想物語の世界にひたり込んで、忍者ごっこなどに無中になっていました。そしてそれなりに豊かな情操をはぐくんでくれたものと思っています。

 松本さんは賀川について二十数巻の書物などを資料とし、しっかり考証済みの材料でこの劇画を書かれたということです。その努力に敬意を覚えますが、そのような真剣な取り組み態度そのものが非常に大切なことです。絵の巧拙は私にはわかりませんがこれだけの材料を読ませる力を持っていることは確かで、構成の土台がしっかりしているからでしょう。

 この「賀川豊彦物語」が灘神戸生協の職員や組合員に広く読まれるだけでなく、日本中の仲間にも、広く社会的にも推奨したい。そして賀川を通じて生協を理解し、賀川の生涯から灘神戸生協に息づいている組織の精神に目覚め、生協運動への情熱に火をつけられる人が出てきてくれるのではないかと期待しています。

                  灘神戸生協組合長理事



      付録:掲載紙の典拠不詳ですが、高村氏の当時の「随筆」が残っていますので、
         ここに収めて置きます。


                   賀川と神戸

                    高村 勣


 賀川豊彦生誕百年を四年後に控え、いま賀川の再発見の動きが関係者によってすすめられている。賀川全集二十四巻に収められた著述や、新しくできた松沢資料館に見る彼の幅広い才能と実践に驚かされるのであるが、彼が神戸に残した足跡は大きい。

 大正七年の米騒動は、神戸では鈴木商店焼き打ち事件となり、大正十年の川崎・三菱の長期ストライキは戦前の労働運動史上特筆されている。明治四十二年のクリスマスイブの日に二十一歳の若さで貧民救済に身を投じた賀川は、自らかかわったこの二つの事件で大きな衝撃を受け、その思想と行動の軌跡は変わっていった。スラムの生活で貧乏が人間をむしばむ姿を見たし、暴動や争議の闘いも挫折と分裂を味わことになって、彼の期待はひとつひとつ裏切られていった。そしてこの年に神戸でも貧乏をつくらない社会の仕組みをめざす生協運動が始まり、“灘”“神戸”の二つの生協が同時に誕生した。

 私は外国旅行しで灘神戸生協を紹介するのに、「あのドクター賀川の創った生協」と言えば足りる。彼の真骨頂はもちろん牧師としての神の国伝道にあろう。灘区に住むスウエーデン人の宣教師グンナルさんは、ストックホルムでの賀川の野外伝道集会で数千人の聴衆が集まり、雨が降りだしてもだれ一人さるものがなかった、と若い日の感動を語っておられる。アメリカでも熱狂的ともいえる追随者たちがあったが、聴衆の一人は彼の英語での熱弁に「彼の日本語はすべて分かった気がする」と語ったという笑い話が伝えられている。プリンストン大学をでた彼の英語以上に、訴える力をもっていたようだ。アメリカでの生協の多くは賀川の伝道の影響で生まれ、私どもと姉妹関係にあるバークレー生協もその一つである。
 
 戦後、平和と暮らしを守るために全国の生協運動再建の先頭に立ち、また神戸市の復興の顧問に迎えられた。東西に対立する二つの社会体制は自由か平等かの選択であろう。賀川の唱えた第三の選択である友愛の理想は、今日輝きを増しつつある。
                (灘神戸生活協同組合組合長)




            あとがき

            松本 清子

 入所してもうすぐ一年たとうか、というころのこと。スキー帰りの列車の中でたまたま同席した男性に、「灘神戸生協を起こした人、知ってる?」とたずねられた。私は首をプンプンと振ったが、横にいた先輩が答えてくれた。「賀川豊彦さんでしょう」。

 その後、三ヵ月もたたないうちに、私も当時の「婦人学級」(職員教育のIコース)で生協の起こりを学び、再びその名前と出会うことになった。が、入所後丸一年もたつまで賀川豊彦氏を知らなかったとは、今思えば赤面モノである。

 時は過ぎて、昭和五十五年暮れ。来年度の『にじの友』の企画会議の中で、「賀川豊彦の一生をマンガで紹介しては」という提案があった。だれが言いだしたのかは思い出せないが、「やろう、やろう」とホイホイムードで決まったのは確か。それまで、カットやイラストは描いていたが、劇画なんて全く初めて。なのに、作者も私、と決まった。実にオソロシイ話である。初めてとはいえ、小学四年生のころマンガ家を夢みてエンピツでストーリーマンガを描いていたことはある。ところがたいていの場合、タイトルページを念入りに書き、登場人物を紹介するあたりでおしまい。根気というものがおよそない人間なのだ。だが、世の中よくできたもので、連載は毎月三ページずつになった。根気がつき果て、「も
うアカン」というころ、出稿というわけだ。

 まずは下調べというわけで、賀川氏の著書や伝記などを読むうちに、賀川豊彦の若かりしころの写真に出会う。なんと、中原中也か篠田三郎かというような男前! 当時芳紀まさに(?)二十四歳だった私の胸はドッキンと高鳴る。また、賀川ハルさんという女性の魅力にもグイグイとひかれながら、実に楽しく描き進むことができた。当初一年間の連載の予定が、友貞理事(当時の担当理事)の一声で半年のばすことになったり、連載中に結婚して子供が生まれたり、いろいろと思い出も多い。

 単行本になるなんて、うれしいけれど恥ずかしい。マンガの描き方は素人まる出しだし、説明文が多すぎたり……。「プロじゃないんだから、ゆるしてン」と甘えてみるには少々トウが立ちすぎているしなあ、などと自己弁護のしかたをあれこれ考えてみたりもする。今のところは「純基氏のインタビュー記事、いいですよオ」でなんとか五千部いくんじゃないか、なんてムシのいいことを考えているのだが……。

  一九八四年六月十二日


      松本清子(まつもと・きよこ)

 1957年4月長崎県佐世保市江永町生まれ、28歳。県立佐世保南高校を卒業後、1975年灘神戸生協に入所。観光部(現在はコープ観光株式会社)に配属。生協内部の資料にカットなどを描きはじめ、1978年10月から職員向けの内報『にじの友』の編集を担当。 1981年4月から同誌に17回にわたり「賀川豊彦物語」を連載。1982年8月より、機関紙『協同』の編集を担当し、現在に至る。広報部主任。一児の母。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第191回)

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「神戸・長田の海」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第191回



     神戸淳吉著『歩もうともに手をつないでー愛の心を実践しつづけた賀川豊彦』

  
 標記の作品は、「PHPこころのノンフィクション(小学上級以上)」の一冊として、賀川豊彦生誕百年記念の年(1988年)に、PHP研究所より出版され、広く読まれなものです。

 著者の「あとがき」には、貴重なことばが添えられていますので、ここではそれを取り出して置きます。絵は上総潮さんです。



                あとがき


 太平洋戦争中の数年間、私は賀川豊彦先生のお宅でお世話になっていました。森の家といって、東京、世田谷の先生のお住まいから少し離れたところにある林の中の一軒家です。

 ここには私のような寄宿生や、地方からこられた方の宿舎にあてられ、常時十名はおられたと思います。

 賀川先生のお宅では、戸に鍵をかけないと、どなたかが書いておられましたが、森の家でも鍵の記憶はありません。森の家は名前のとおり林の中の一軒家の平家建てで、雨戸はなく、だれかが入ろうとすればどこからでも入れるという、おそろしく不用心な家でした。

 私はここから先生の関係の工場へ通っていましたが、はじめの一、二年はほとんどお目にかかったことはありません。戦時中でも、あの三ベン旅行で、全国を伝道しておられたためです。

 ところが、ある時からお宅におられる時が多くなり、森の家へみえると、神戸でうつったトラホームのため、よくルーペ(拡大鏡)を手に本を読んでおられました。

 いま思うと、戦争激化に伴い、先生の平和への説教、講演に、警察や憲兵隊が危険を感じ、非公式ながら禁足をいいわたされたためのようです。

 その頃、工場から帰った私は、よく賀川先生に本を読まされました。先生は目が悪く、ことに夜は鳥目の状態のようで、代わりに私か声を出して読むのです。

 ところが、先生の講演などでもわかるように、先生は話題が非常に豊富で、関心の対象かきわめて広範です。
 天文、地学から工学、動植物、建築……と、はなはだジャンルの広い読書で、それらの本を、うすぐらい灯火管制のもとで読むわけです。

 文学青年気どりの私には、どの本も異質で、まったく味気ないものばかりでした。そのせいか、時々先生から「神戸君」と声をかけられました。はっと気づくと、どうやら一、二行すっとばしていたようで、先生は眠ったようでいながら、ちゃんときいておられたのです。

 また、私か童話作家志望と知って、「これ、ぼくの本だよ」と、一冊先生の童話をいただいたことかあります。

 ところが、なんとも貧乏くさい内容で、ファンタジックなものを書きたいと考えていた私はおおいに不満でした。率直に感想をのべると、「神戸君、日本ではまずしい人の方が多く、そのためにもこれは、ぼくには一番関心のある題材なんだ」

 と、じゅんじゅんとたしなめられたことを、いまもって忘れられません。

 賀川先生に対するこうした個人的な思い出はつきないのですが、このたび機会を与えられ、先生の伝記を書かせてもらったことは、なによりもの喜びです。

 なお、取材にあたり、先生のゆかりの地をまわり、また、ご関係の方々からお話を伺い、いろいろとお教えをうけました。

 また、多くの先輩の著書や、雑誌などを参考にさせていただき、これも非常にありかたく感謝しております。共にあつくお礼申し上げます。

 〈お教えを受けた方々〉

賀川豊彦記念松沢資料館館長賀川純基氏、本所賀川記念館理事長雨宮延幸氏、主事渡辺義也氏、賀川記念館館長村出盛嗣氏、谷口治道氏、日本キリスト教団東駒形教会牧師雨宮栄一氏、同志社犬学宗教学部長深田未来生氏、日本生活協同組合連合会名誉会長中林貞男氏、同参与勝部欣一氏、灘神戸生活協同組合組合長高村勣氏、キリスト新聞社編集局長大浦八郎氏他 (順不同)

 〈参考資料〉

『賀川豊彦全集・全二十四巻』(キリスト新聞社)、『女中奉公と女工生活』賀川はる子(福永書店)、『賀川豊彦伝』横山春一(警醒社)、『評伝賀川豊彦』武藤富男(キリスト新聞社)、『人間賀川豊彦』黒田四郎(キリスト新聞社)、『私の賀川豊彦研究』黒田四郎(キリスト新聞社)、『炎は消えず・賀川豊彦再発見』林啓介編(井上書房)、『百三人の賀川伝』武藤富男編(キリスト新聞社)、『神はわが牧者』田中芳三編(イエスの友大阪支部)、『陶工』深田種嗣牧師帰天十周年記念会編・刊、『コープさん・灘神戸生協の六十年』(毎日新聞社神戸支局)、『劇画・日本生協運動の父賀川豊彦物語』松本清子(灘神戸生活協同組合)、雑誌「雲の柱」(雲柱社)、雑誌「火の柱」(イエスの友会)、雑誌「ボランティア」(賀川記念館)、雑誌「協同思想研究」(灘神戸生協・同研究会)、雑誌「生協運動」(日本生活協同組合連合会)、雑誌「キリスト教社会問題研究」(同志社大学人文学研究所)

  昭和六十三年一月
                              神戸淳吉



著者・神戸淳吉(かんべ・じゅんきち)

1920年東京生まれ。日本大学専門部社会科卒業。社会事業大学の職員をつとめたのち文筆業につく。著書に『愛をつたえた青い目の医者・ヘボン博士と日本の夜あけ』PHP研究所』『キリスト』(講談社)『新渡戸稲造』(あかね書房)などがある。現住所〒351朝霧市根岸台1-9-55

画家・上総 潮(かずさ・うしお)

1926年東京生まれ。日本画を学んだのち出版美術の世界に入る。作品に『志摩の海にかけた夢・真珠づくりに一生をささげた御木本幸吉』『幸せをありがとう・手足をなくしても明るく生きる田原米子』(以上PHP研究所)『豊田佐吉』(講談社)などがある。現住所〒108東京都港区三田4-12-24泉荘



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第190回)

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「神戸・長田の海にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第190回


      林啓介著『阿波の偉人伝:賀川豊彦―時代を超えた思想家』
  
 林啓介氏は、阿波の歴史を小説にする会会長・ドイツ館友の会会長・徳島モラエス学会理事長・賀川豊彦鳴門記念館設立をめざす会広報委員長であった平成12年4月に、標記の大著を「株式会社阿波銀行」より出版されました。

 本書はその後に、「賀川豊彦記念・鳴門友愛会」によって文庫版として、平成14年12月に徳島出版株式会社より出版されました。現在も最も手頃な「賀川豊彦入門書」の一冊として読みつがれています。

 ここでは冒頭に書かれている著者の「文庫本『賀川豊彦』の刊行にあたって」のみを取り出して置きます。

 なお、もとの豪華本は、2009年1月には、韓国の牧師・金在日(キム・ゼーイル)氏によって韓国語版が翻訳出版され、話題を呼びました。



             文庫本『賀川豊彦』の刊行にあたって


 二〇〇二年三月二十一日、鳴門市賀川豊彦記念館が開館しました。当記念館は六年有余にわたる県内外の団体、企業、個人の募金による浄財によって建設され、館内の展示もほとんど有志のボランティアによるものです。

 その意味からも、友愛・互助・平和を求め、常に社会的弱者の立場に立って行動し、清貧の生涯を貰いた賀川豊彦の精神を継承するにふさわしいユニークな記念館といえるかと思います。

 幸い開館以来、同じく平和・友愛をアピールする隣接のドイツ館との相乗効果も加わり、全国各地から訪れる人が絶えません。

そうした方々から「なぜ鳴門に」「平易な解説書は」といった声が寄せられるようになりました。そこで二〇〇三年度からNPO法人として鳴門市から館の運営を委ねられることになった賀川豊彦記念・鳴門友愛会(理事長 勘川一三)では、賀川豊彦の理解と顕彰に活用できる刊行物を逐次出版することになりました。

 その第一弾として本書が選定されましたことは大変光栄であり、館の企画運営にいささかなりと役立つことができれば幸いと考えております。私が二十年前に出版した『炎は消えず―賀川豊彦再発見』は、「劇団徳烏」によってドラマ化され、県内をはじめ神戸、東京でも上演されました。賀川豊彦再評価のうねりは、その頃からゆかりの地を中心に静かに胎勤し始めていたような気がいたします。

 そして今、賀川の活躍の舞台となった神戸、東京に続いて彼のふるさと徳島にも、その業績を追暮し、受け継ぎ、さらには発信してゆく拠点が完成した訳であり、平凡な一同郷人として感慨無量のものがあります。

 再版にあたり原本『時代を超えた思想家-賀川豊彦』を発行して下さった株式会社阿波銀行(古川武弘頭取)に文庫本化のご許可をお願い致しましたところ、ご快諾いただきました。そして印刷製本は原本でお世話になった徳島出版株式会社が引き受けて下さった訳です。

 内容的には阿波銀行発行の豪華本と全く同じですが、紙面の制約もあり、文庫本では原本の八ぺージのカラーロ絵写真と文中の写真、資料の数点を割愛せざるを得ませんでした。
 その点ご了承下さいますようお願い致します。

  二〇〇二年十二月
                     著   者











連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第189回)

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「花壇の植え替え」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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            第189回


      林啓介著『炎は消えず―賀川豊彦・再発見』

  
 林啓介氏が昭和57年3月に井上書房より出版された標記の著書は、林氏の関係する「劇団徳島」によって演劇上演されるなどして、賀川生誕百年記念の諸行事とも重なり、大きく話題を呼びました。

 ここでは、林啓介氏の「はしがき」と「あとがき」を取り出して置きます。



            ま え が き


 賀川豊彦は涙もろい人だったといわれています。しかし、その涙は常に他の人々のために流す涙だったのです。未曽有の繁栄と平和を享受している現在の日本で、今なぜ賀川豊彦なのでしょうか。

 経済大国の発展に酔って、ともすれば私たちは、わが国の歴史がつい先頃まで貧窮と欠乏と混乱の長い歩みだったこと、そればかりか現に世界の多くの国々で生活や平和が脅かされていることを忘れてしまいそうになります。

 けれども、誰もこの繁栄がいつまでも続くとは思っていないはずです。八十年代に入って賀川精神の再発見が叫ばれる理由もこんなところにあるのではないでしょうか。

 彼が社会的に恵まれない弱者に捧げた涙と汗と祈りは、決して昔語りに終るものではないと思います。

 彼の偉大さについては評論家大宅壮一氏の
「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベスト・テンを選んだ場合、その中に必ず入るのが賀川豊彦である。ベスト・スリーに入るかも知れない。
 西郷隆盛、伊藤博文、原敬、乃木希典、夏目漱石、西田幾多郎、湯川秀樹などと云う名前を思いつくままにあげて見ても、この人達の仕事の範囲はそう広くない。そこへ行くと我が賀川豊彦は、その出発点であり、到達点である宗教の面はいうまでもなく、現在文化のあらゆる分野に、その影響が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない……
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙し得る者を一人あげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物――それは賀川豊彦である」
 という言葉が、すべてを語り尽くしているように思われます。しかし一方で、その天才的で強烈な個性と社会改良の斬新な方式から、その人物像に多くの誤解や偏見を生んでいることも否定できないようです。

 そうした事情も絡んで、数多くの専門的、宗教的な研究書がおりながら、彼の人と業績を知る人が、意外に限定されてきたのかも知れません。

 キリスト教徒でもなければ、社会学者でもない、いねば平凡な一同郷人に過ぎない私が、あえてこの巨大な峰に挑んだ真意は、優れた先人の研究を紹介し、平易に要約して、賀川豊彦のひたむきな生涯とその開拓的役割を、多くの人々、とりわけ若い世代に中継ぎしたかったからであります。

 賀川豊彦が片時も郷土徳島を忘れず、毎年一月上旬の十日間を徳島伝道にあて、ふるさとの自然や人々との再会に限りない安らぎと喜びを見出していたという事実が、とどのつまりは、私の不遜な試みへのためらいをふり切らせることになったのであります。



                あ と が き


 かねがね親しくお付き合いを願っている井上書房社長の井上涼男さんから、阿波文庫の一冊として賀川豊彦を取り上げたいというお話しがあった時、正直なところ私はためらいを覚えた。井上さんは阿波文庫シリーズの発行や阿波文化サロンの開設等を通じて、文化不毛ともいわれる阿波徳島の地にささやかながらも地方文化の灯をともそうと献身的な努力を続けておられ、私も常々心からその理念に敬意を抱いていた。

 しかし、賀川豊彦というこの巨大で伝説的な、それ故にまた評価をめぐってもさまざまな見解のある人物となると尻込みせざるを得なかった。私も多くの人々がそうであるように、賀川豊彦についての関心や知識をあまり持ち合わせていなかったのである。

 とにかく調べてみることを御約束してその場は別れたものの、同じ大麻町出身ということをのぞけば、賀川豊彦との縁は昭和二十三年旧徳島中学校の最後の生徒として、氏の講演を聴いたことが唯一度あるきりなのである。ともかくそれ以後私は彼の伝記や著作を集めて、暇を見つけては読み耽けるようになった。すると執筆ということを離れて、彼の生涯にわたる思想や言動に不思議な親近感と魅力を覚えるようになった。

 東京の本所賀川記念館、松沢記念館、神戸葺合の賀川記念館をけじめ、地元大麻町の古老や各地の賀川を知る人々をたすね歩いて、私は賀川豊彦がその主義主張、立場を超えて徳島が生んだ最大の人物であり、国際的に通用する数少ない日本の偉人であることを、深く信じるようになったのである。

 賀川豊彦に関しては全集二十四巻をはじめ、彼の身近かな宗教家による数々の専門的な伝記が出版されている。深く研究する人々にとって資料に不足はないはずである。しかし一般の読者に対しては、それ等をダイジェストし、平易に人間賀川を紹介する書物が必要である。それは決して屋上屋を重ねることにはならないだろう。私はそう考えることにした。それが井上さんから依頼を受けて二年後に、おこがましさをふり切って筆を取ることになった心境であった。

 くどくなるが本書は賀川研究書でなく、紹介書である。従って記述も新事実の発掘というよりは、先人の研究を要約、引用させてもらった部分か大半であることをおことわりしておきたい。とりわけ、一々言及しなかったけれども横山春一氏の「賀川豊彦伝」に負うところが大きい。その他武藤富男氏「評伝 賀川豊彦」黒田四郎氏「人間賀川豊彦」佃実夫氏「緋の十字架」隈谷三喜男氏「賀川豊彦」田中芳三編「神はわが牧者」からもかなり紹介させていただいた。

 また松沢資料館建設世話人代表の石田博英先生や地元鳴門市の谷市長から推薦のことばを、西田素康、。岩村武勇両氏から貴重な資料を、ご提供いただいたことにも厚く感謝申し上げたい。

 なおさし絵の長尾己画伯は賀川豊彦が師と仰いだ長尾巻牧師のご子息である。

 ところで昭和五十七年四月には、全国の有志から寄せられた浄財による賀川豊彦記念、松沢資料館が完成し、六年後には生誕百年行事が予定されている。全国的にも賀川豊彦を再評価する気運が高まっているといわれる。

 ゆかりの地わが徳島においても、資料館建設の声や私たちの同志「劇団徳島」による賀川豊彦劇上演の動きがでてきている。キリスト教徒でも、その道の研究家でもない平凡な一学徒のつたない解説書が一人でも多くの人に賀川豊彦とその精神を知っていただく道しるべともなれば幸いと思っている。

    昭和五十七年三月
                            林  啓 介

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第188回)

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「鳴門・活魚料理<びんび家>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第188回



          佃 実夫著『緋の十字架』上下

  
 著者の作家・佃 実夫氏は、昭和50年11月にこの『緋の十字架』を東京・文和書房より上下2分冊として刊行しました。もちろんこれか「賀川豊彦の伝記」となっています。

 下巻の巻末に短い「付記」があり、それによれば、作家で賀川の伝記作者でもあり、賀川と歩みをともにしてきた鑓田研一との交流があって、本書の執筆になったようであり、本書は「鑓田さんの霊に捧げる」ともなっています。

 ここでは本書の下巻の短い「付記」のみ取り出して置きます。なお、付記に記されている「新川」の表記に関しては、当時「新川という呼称は差別である」という表現上の無用の自己規制がおこなわれていた頃の反映でもあります。



                 『緋の十字架』下巻

 〈付記〉

 小説の文中に「新川」という表現かしばしば出てくるが、作者はこれを十分考え、意識的に用いたものであることをことわっておきたい。賀川豊彦とその時代、武内勝とその時代ならびにこの二人の行った事業を描く上で、この語を用いないと十分現せない部分もあるためである。同じ意味で、引用文に用いられているこの語もそのままにしたことを記しておく。

 最後になったが作者は、作家・故鑓田研一氏の晩年に親しくなり、賀川豊彦のことをいろいろ教えていただいた。賀川先生の小説を書くことをお約束して十年余になる。いまようやくその責めを果すことができた。本書をつつしんで鑓田さんの霊に捧げる。また、この小説を執筆中に亡した母佃フジノにも捧げたい。                                 
                             (佃 実夫J












連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第187回)

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「鳴門の水田」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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         第187回


     高山徳太著・賀川豊彦あとがき『花のように―高山徳太詩集』

  
 標記の詩集については、すでに「KAGAWA・GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」の連載の折りに何度か取り上げてきましたので、そちらをご覧いただくとして、ここではただ、賀川豊彦のあとがき「ある新聞記者との対談」を取り出して置きます。



  『花のように 高山徳太詩集』(世界文学社、昭和23年8月)あとがき

           ある新聞記者との對談

               賀川豊彦
   
           所 京都府下奮長岡皇居跡  時 四月六日 桜さくころ


            児童の感覚と自然

記者 「毎日新聞紙上で、あなたの経営せられている一麦保育園出身の高山徳太君の『詩』と自筆の挿画を発表しましたところ、非常に反響がありましてね。こんど世界文学社が出版してやろうといって下さるものですから、徳太君のお母さんとも相談していよいよ出版することになりました。ついてはあなたに一言感想を書いていただきたいのです」
    
私 「それはどうも有難うございます。あの子は親孝行の息子でしてね。画もなかなかうまいですよ。この間宮沢賢洽氏の童話の挿書を紙芝居に描いたものを見せて貰いましたが、全く感心しましたよ。心理的描寫が実によくできていたので、これは感覚の鋭い子供でなければかけぬと思いましたね。大人になるとどうも敏感な感覚がにぶれて、高山徳太君が持っているような、いきいきした大地からすぐ芽をふき出したような鋭い感覚がにぶれて来るようですね。」

記者 「徳太君の絵を見ると、自然のことがよく出て来ますね。又、詩をよんでも我々が感じないような自然の観察をよくしておりますね。それはあなたの保育園でうけに感化だって、本人もお母さんもいうていますが、あなたはどんな教育をなさったのですか?」

私 「別に私がしたわけではなくて、私の方針にもとづいて埴生操先生がこつこつやってくださったんですよ。埴生さんは子供らに雑草を教えたり、昆虫を教える点においては、恐らく関西一のいい先生でしょうなァ。とにかくこつこつ辛抱づよくやる人ですから、あんな先生に教わる保育園の子供は仕合せですよ。教場は野原と小溝で、教科書は草木と自然界に動いている小動物其物ですからね。子供らは幸福ですよ。」

記者 「うちの子供も少しおうちの保育園に世話になっていたんですが、雑草園をつくるといって、野原から色々役にたたない植物をとって来て植えていたのを、私か葱を植えようと思って、みんな引きぬいてしまったら、子供が、『私のかわいいかわいい草を抜いちゃって困ちゃったわ』と泣くようにいうていました。子供らは特別な感覚をもって野原の草花を愛するものと見えますね。」 

             自 然 教 案

私 「あなたは葱さえ植えればよいと思っていらっしゃるでしょうが、うちの保育園では埴生先生が苦心して子供らに食える野原の雑草を幾十種類も教えていらっやるのです。それで子供さんは恐らくそれらの雑草を植えておけば食えると思って――葱以上に値打ちのあるものとして庭に植えたのでしょうね。私たちの方針は子供らに植物を教える場合に、目、ロ、鼻、耳、手、の五つの方面から教え込むようにしているんです。目でよく見て、鼻でその植物の匂をかぎ、手でさわり、口で味い、そこの植物のことを歌でうたうようにして、五感の凡ての方面からその雑草のもつ特徴を教え込むようにしているんです。

 こんな教育は幼稚園時代でなければ、できないことで、小學校や中學校のように、四十五分や一時間のうちに鐘が鳴っては表に出、自然観察も何もしないで、教室を出たりはいったりしているばかりでは、うちの保育園のような面白い教育はできません。私はフランスのファーブル先生がかいて下さった「昆虫記」を地でゆきたいと思って埴生先生に頼んで、木蜂(ワスプ)の研究をする時などは、四時間でも五時間でも、或は次の日も、叉次の日も、その叉次の日も木蜂が巣を作る観察をして貰っているのです。小學校では、こんなのんびりした教育は絶對に出来ません。私は私自身が阿波の田舎の自然の中で一人育ったものですから幼稚園時代にうんと自然を子供に吸い込ましてやりたいと思っているのです。自然を離れて絶對に宗教教育は出来ないと私は思っているのです。

 残念ながら文部省の発表している教育の基本原理などを見ても、幼稚園時代の自然観察の重要性を全く無覗しているようです。しかし私の考えでは、幼稚園時代の子供ほど感覚の鋭いものはなく、幼稚園時代の子供ほど目然に溶けこみやすい幸福な時代はないと思うのです。」

記者 「そうですね。僕らは自然というものを知りませんね。ですから徳太君のような自然と親しく交わっている子供らを見ると、羨しくてたまりませんよ。この間も徳太君の家にゆくと、兎と問答しているじゃありませか!

『おい兎君、あすはコンクールだぞ、ぼくのためにお祈りしてくれよ。うまく行ったらお前に人參をうんと喰わしてやるから』といっているじゃありませんか? 徳太君はこんどの唱歌のコンクールに入選しまして、唱歌も仲々うまいということが解りましたが、めすらしい子ですね。

 ずっと前にも、とんぼの幼虫を鉢の中でかっていて、それがだんだん発生して水の中から羽根を生して空中に飛び立つのを見ていましたよ。私か徳太君の家を訪問するとお母さんと徳太君とが『さあとんぼさん、もう表へ行って遊んでいらっしゃい』といいながら戸をあけて、あちらこちらにとまっている幼虫からかえった羽根の生えたとんぼを、五ひきも六ひきも表に逃がしているではありませんか。羨しいと思いましたね………。あゝした教育はあなたのやっていられる保育園の特徴でしょうね。外に余り聞いたことがありませんから。」

            幼稚園は小學校の準備ではない

私 「そうかも知れませんね。私は幼稚園を小學校の準備数育と思っていないのです。幼稚園は幼稚園の使命があって、子供らは自然の生活を先生から指導せられながら、もっとも幸福になすべきだと思っているのです。つまり子供心が自然の中に溶け込んでゆけば、それほど子供らにとって幸福なことはないのです。私はリトミックダンスも賛成ですし、和音感教育も大賛成なんです。一麦保育園では吉田幸子女史が、その方を受持っていて下さいます。しかし私はそうした文化教育は主として自然教案の間にはさんでゆくようにして貰っているのです。西宮の瓦木村では小溝の流れは美しいし、其の近くには鎮守の美しい森もあるし、先生が四季とりどりの植物、昆虫について日課をきめ、子供らの注意力を一点に集中させ、教育學的に児童の心理的発展に応じて、自然教案を組立てゝゆくようにして貰っているのです。埴生先生は『母子草』のことを教えるのに紙芝居まで面白くつくって、上手に教えているんです。

               自然と宗教と詩の調和

 この自然教案が埴生さんを助けて私の方の保育園の保母をしていた徳太さんのお母さんにうつって行ったんです。――あのお母さんは東京女子医学専問學校に勉強していたような賢い人ですから、すぐ自然教案を呑み込んで徳太君にも家庭で自然教案を教えるふうにしていられたらしいんです。徳太君の作品に、自然と宗教の感覚が本然的にとけ合っているのもそのためです。大地から湧いたような美しい童謡調になって、作詩せられているのは、リトミックの調子と宗教的自然観とが一致したからでしょう。徳太君の作品は、あれだけで児童文學として、私は物になっていると思っています。出来れば友人の作曲家に作曲して貰って、私達の保育園や幼稚園で唱えばよいと思っているのです。徳太君のお父さんは肺病で徳太君がまだ幼い時になくなってしまったもんだから、お母さんは徳太君一人を抱いて一麦保育園の保母になられたのです。ですから徳太君はお母さんに對する感謝で、いつも胸が一杯なんです。徳太君の詩をよむとそれがよくわかります。」

記者 「徳太君はこんど闘西学院の中學部に入學しました。これから勉強して立派な人物になって貰いたいものです。慢心されるとこまりますが、あの詩と絵とは立派なものですから、出版することに世界文学社の方でしてくれたことを私はうれしく思っています。」

私 「ほんとに才能を持っているものを慢心さすと困ります。その点は注意しなければなりません。が、あの雑記帖にかいた詩集は、あれだけで充分物になっていますから、葬り去るのは惜しいです。あれだけで天下に紹介されてよい立派な作品だと思っています。とにかく満十歳や十一歳の頃に作ったものと思えない純真なものがありますから、あれはあれとして、是非発表していただきたいものです。」

記者 「日本全体に早くおうちの保育園で行われているような自然教案が行われるとよいですね。皆今日では教育の方針について迷っていますからね。』

私 「今度児童福祉法も出来ましたし、みんな子供のことを心配している時ですから、徳太君のような少年の作品を発表することは、意義のあることですね。一麦保育園からある程度教育の効果を表してくれに作品が出ることをほんとに喜んでいます。」

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第186回)

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「鳴門:漁師料理<びんび家>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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            第186回


       徳憲義著・賀川豊彦序『詩集 愛は甦る』

  
 徳憲義氏は前著(大正15年10月、新生社)のあと、昭和4年6月に『詩集 愛は甦る』を同じく新生社より上梓しています。これにも賀川豊彦の序文が収められていますので、ここではそれを取り出して置きます。



            序


 南加州の空は曇ったことはない。熱帯でなければ見られないやうなヘゴの並木さへ立ち並んだ處がある。そこはまだ新開地そのものの、何となく初々した處がある。其處に徳憲義氏が落付かれて、かれこれ足掛六年になる。生一本なそして純情の愛の行者としての同氏は、南加州の荒削りの殖民地から奔放な呼聲を我々にかける。彼は変わらざる熱情の人であり、深い同情の持主である。彼はナザレの聖者に身を寄せて、預言者ホセアのやうな体験を嘗めつつある。そこに、彼が「愛は甦る」ことの宣言をする理由があらう。

 私の同志として徳憲義氏は、精神的に、物質的に、故國に始められた大阪の労働者教化事業を、過去五年間、五千哩の郷里を離れて相も変わらず応援してくれた。私は彼の深き同情に、言葉で尽くし得ない感謝を持ってゐる。私は、十七八年前、徳氏と一緒に約二年間、神戸の貧民窟で共に宗教運動をした想出をもって、同氏の著作の、彼の体験より滲み出てゐることをいつも考へてゐる。「文は人なり」といふが、私は徳氏の場合に於て、特に、この事の真理なることを痛感するものである。この書物は、同氏の思想の一半面を示すにしか過ぎないであらう。同氏が更に進んで、深い経験より多くの宝石を堀り出されることを私は信じてゐる。然しこの書物を読まれただけでも、多くの人は必ず南加州の空の如く、輝かしい人生の晴れ渡った空を発見することを私は信する。いや、長い人生の旅路に疲れかかった者にすら、ヘゴの並木は、彼の上に影を落すことを忘れないといふことを、この書は教へてくれる。南加州の空は永遠に明るい。そして明るい徳氏の魂と筆は、我々を更に、明るい世界に導く。

    一九二九・四・四

          摂津武庫川村塾にて
                            賀  川  豊  彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第185回)

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「神戸中央体育館あたり」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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             第185回


        徳憲義著・賀川豊彦序『生命の歩み』
  
 大正15年10月に新生社より出版された徳憲義氏の著作には賀川豊彦の重要な序文が収められています。徳牧師は、関西学院神学部の学生の時から、賀川の初期の活動に加わり、神戸イエス団にとっても関係の深い方で、昭和37年には追悼集『愛しつつ祈りつつー故徳憲義記念』が出されて、武内勝氏の寄稿しています。

 ここでは、本書の賀川の序文を収めて置きます。



              序


 貧民窟では、毎年関西學院神學部から、応援者を迎へるのが恒例であった。その年も、私は、二人の新らしき神學生を迎へた。それは私が貧民窟へ入ってから三年目の四月であった。神戸の空は晴れ渡り、桜が綻んで皆浮れて居た。殊に原田の森は緑なす六甲の輝きをうけて、社會の嘆きを忘れるほど若い人の胸を溶けさせて居た。さうした中から、特に撰ばれて、貧民窟に応援に来られた兄弟は殊勝な魂の持主であると、私は心からの尊敬を捧げたのである。最初別科から送られて来た、坂本、矢田、山中の三君は、日曜學校に専念して呉れた。その中に送られた今琉球那覇で働いて居る伊東平次君と、シャトルで働いて居る兄弟とは、叉一生懸命に日曜學校や路傍説教を手傅って呉れた。そして徳君と平野君とが、第三年目に神戸の貧民窟に送られた人々であった。

 孤立無援の私には、その常時の思ひ出が最も深い。坂本君の大きな聲、矢田君の静かな物語り、歌の上手な伊東君、自分の家に貧乏な公卿華族が六人も寄留して居るといふ、雷の逃げ出す様な大聲の持主の平野君、そして脊の低い、色の黒い徳君、私は、関西學院から送って来られる神學生の方々に、非常に面白い對照を発見して、皆が熱誠をこめて、私を援けて呉れることを心から戚謝して居った。

 勿論私は其当時、最極端な青年であった。発狂して居たと考へられて少しも差支へない。そのとき私の最好きな文句は、『心狂へるならば是神の為』といふ文句であった。然し、その当時の思ひ出は嬉しい。徳君は、學校の都合で一年しか貧民窟を援けて呉れることは出家なかった。然しその一年が私にとっては実に感謝すべき一年であった。私は、その常時のことを思ひ出すと、涙が眼ににじむことを感ずる。多情多感の肯年として、棺桶に片足をつき込んで居た私が、死線を越えての奉公であるだけに、真剣であったことだけは認めて貰ひたい。友人といふものは廿歳前後に出来る友人が最親しいものと見えて、私は今も貧民窟を援けて呉れた此の神學生諸君に、心から感謝と、愛着をもって居る。

 徳君は、まだ故郷の中學校を出たばかりであつた。私も若かったが、徳君も若かった。然し徳君は不思議に話の上手な青年で何時もまとまった話をして呉れた。教会堂と云っても珍無類の教會で、六畳長屋を三軒ぶっ通した柱ばっかり真中に突立って居る、バラックよりも悪い教會であった。然もその入口が三尺しかない通り道を、二度もうねりくねって這入って行かねばならない、妙な奥まった所にあった。青年の元気がなければ、迚(とて)もそんな所で傅道は出来るものではなかった。然し幸に吾々は青年であった、集會は少くて三十人多くて六七十人集るのが常であった。そのときでも吾々は、一町四方にきこゑる様な大聲で、一萬人位が眼の前にあるかの様な、ロ調で預言者的口吻を以って絶叫したものである。ある人は、それを犬が吼えるのだと云ったが平田君や坂本君の聾は確かに犬以上で獅子に近かったことは、近所があまりに八釜しいので迷惑を咸じたことでも解る。私も勿論、平野君や坂本君には負けなかった。その常時私の聴衆の一人であった妻が遠方から聞いて居ると喧嘩して居る様です、と云ったことがあるが、それは本当である。そんな大きな聾を出さなければ、悪魔が逃げないと思ったのである。聴衆は、紙屑買のお婆さんや、豊年屋のおかみさんなどが多かった。それに向って平野君は哲学講演をよくしたものである。無限絶對の奥義については勿論のこと相対、神秘、プラトニックラプ、因果律、何でも知って居る六ヶ敷い言葉は若い神學生のロから洩れた。之を、笑ってはならない。理解させ様と、努力した所を買って貰はねばならない。

 徳君はそのうち學校で非常に評判がよくなった。よく読むのと、頭がいいので友人の間に重んぜられた。そして雄辨大曾には、いつも関西學院を代表して出られる様になった。然し、君の名聲が高くなると共に、他の教会倉の懇望で、貧民窟には、見えられなくなった。卒業後、徳君は青木澄十郎先生の教会を援けることになった。そして、アメリカに行く準備をせられて居たが、その教会が日本基督教会から独立することになって、高松のメソジスト教会に移られた。私は高松でも徳君に逢って非常に嬉しかった。一九二五年ローサンゼルスに行ってみると徳君が、東に行く為めに、労働して居るのを見て吃驚したのであった。然もその店の経営者である永峰氏が、十数日間も徳君に暇を呉へられて、私との奮交を温めさせて呉れたことを、心から感謝したのであった。摂理といへば摂理だが、ローサンゼルススで永峰氏の仲介で、徳君と私が、もう少し深く交はり得るとは考へなかった。

 徳君は、情熱の人である。汽車の動くのは熱で動くのだが、人間の動くのも矢張り熱だ。そして徳君は人を動かす力の持ち主である。彼の容貌をみて居ると、そんな熱情の詩人らしくは見えないが、彼が一旦口舌を開ぐと、彼はデモスデネスの雄辨を持って居る。私は、徳君を幸福な人であると思ふ。ローサンゼルススで同志たちが作ったイエスの友は、当番幹事の一人に徳君を挙げて、遠いインペリアルバレーまで遠征を試みた。そして、不思議にも神の祝福は、彼の行く所を開いて、聖霊の使徒として徳君を迎へた。コーチュラーバレーで一村全部が基督教信者になったことなどは有富虎之助君や他のイエスの友の助力があったとは云へ主として、その勝利を徳君の努力に帰せねばならぬ。

 私は徳君が幸福なる人であることを云うた。実際此書が世に出るのも、彼を愛する友人達が、その原稿を日本に持って帰って家て主としてアメリカの同志たちに頒ける為に、印刷したのである。

 徳君は今、私の母校プリンストンに居られる。帰って来られたら、叉日本が賑かになることであらう。私は日本の田の面が色づいて来たときに、徳君の様な有力な戦士を日本に與へられたことを心から威謝せざるを得ない。此書は、必ずしも徳君の思想体系の全部ではない。恐らくは、その片鱗にしか過ぎないであらう。然し、徳君がどんな考へを持って居らるるか、吾々に物語らんとするかは此書を読めばよく解ると思ふ。只不幸にして、彼の魅力ある雄辨が紙面に音符として表れて居ないことである。

  一九二五年十月五日                    賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第184回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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            第184回


     井上増吉・賀川豊彦序『貧民窟詩集:日輪は再び昇る』

  
 賀川豊彦が神戸の下町で歩みを初め、この地域の中から多彩な人々との出会いが起こりましたが、今回取り出す井上増吉氏はここの出身で、既に別のブログの「武内勝関係資料」のUPの際の連載でも取り上げてきました。

 本書は警醒社書店より大正15年に刊行されおり、その前には大正13年に東京・八光社より『貧民詩歌史論』(第一巻)を出版し、このあとも『貧民窟詩集・おお嵐に進む人間の群れよ』、徳富蘇峰の序文を収めて刊行されています。

 ここでは、賀川豊彦の「序」のみを取り出して置きます。



              序  文


 日本に詩人は多くあるだらう。而し、井上君の様に自らの悩みを真摯に打込んで書く詩人は少からうと思ふ。

 私は眼病で寝てゐる時に或る朝、この詩集を人に読んで貰つて、一時間ばかり泣き続けた。――

 大抵の人は、この詩集を読んで、此處に書いてあることを、ほんとにしないであらう。

 然し私は、井上君の書いてゐることを、一つも疑ふ事は出来ない。私は、神戸の葺合新川貧民窟に居つた時のことを思ふて、あの厳粛な井上君の触れた心持ちを、涙無しには思出すことは出来なかつた。

 私は、この詩集に就いて感ずることは、一つや二つではない。井上君が、この誘惑の多い人間の最暗黒の世界に住んでゐて、その聖浄を穢さないと云ふ、まことに尊い経験が、この詩集の到ゐ處に現れてゐゐことが、その第一の理由である。

 井上君が幼い時から悩みの子であり、この書の中に現はれて居る如くに、父と一緒に放浪した幾年かの悲しみ、また、活動写真の旗持ちになって、市中を練り歩いた尊い経験など、君がプロレタリア作家として、生れつきの資格を備へてゐることなどが、この書の尊い第二の理由である。

 井上君が、その穢れた貧民窟に對して、救はんとする意志を起し、絶望と煩悶の中に懊悩してゐゐ姿が、この書の尊い第三の理由である。

 この書は、人間記録(ヒューマン・ドキュメント)として、まことに得難いものである。

 私などは、永く貧民窟に住んでゐたとは云へ、井上君の様に、その旋風濁人塵の中央に座ってゐるのと異って、私はかほどまでに、深刻な感覚を持つことが出来なかつた。私はたった一つの小さい貧氏窟をすら救ひ得なかったと云ふ悲しみと、私か出てからの貧民窟が、昔ながらの貧民窟であることを考へつつ、この詩集を読んで、悲しかったのである。

 私は、井上君を小さい時から知ってゐる。君のお母さんは、実に立派な婦人であって、私は人間として、井上君のお母さんの様に愛に満ちた人は少からうと思ってゐる。貧民窟の天の使の様に生れつきの親切心を持って、誰、かれとなしに世話した君のお母さんの愛は、いまだに貧民窟の物語りになってゐる。

 そのお母さんの遺言を守って、君は貧民窟の為に一生を捧げゐ心でゐられる。その尊い志を私は尊敬せずには居られないのである。

 井上君は珍らしい程の読書家である。私は君が今後一層精進努力し、貧者及び弱者の為に献身せられることを祈って止まないものである。

                            賀 川 豊 彦
                                    一五、九、二一

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第183回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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           第183回


      吉田悦蔵・賀川豊彦序『ナザレのイエス』

  
 さらに続いて吉田悦蔵著『ナザレのイエス』(昭和3月年、春秋社)を取り出して置きます。これも箱入り上製本で、貴重な写真も入っていて、ここにも賀川らしい特別の逸品! 賀川豊彦の序が収められていますので、ここにUPして置きます。



                序


 ギレアデの山々は俎のやうに広がり、ガリラヤの湖面は青錆びた古鏡のやうに輝く、あの美しいタイベリアスを、六月の黄昏に見た風光が忘れられない。

 微風だに吹かない六月の朝、玄武岩の突立つ湖水の東岸を見詰め乍ら、合歓木(ねむのき)の林を賞でつつ、水の豊富なマグダラ村や、シモン・ぺテロの生れ故郷と考へられてゐるベテサイダの人なき廃墟をひとり歩いたことは、私にとって一生忘れられない思ひ出となった。

 カペナウムは、三方小山に囲まれ美しい村である。浜は、小さな丸石の多い、夾竹桃の吹き乱れた、視覚的にも美しい幻影の與えられるところであった。

 ここで、あゝ、ここで、イエスがあの美しい自然の讐喩を説かれたのはあたりまへだ、と私は考へた。たとひ、私であっても、あの美しい自然に接し、あの玄武岩層で成立した澄み切った湖畔に少しでも住むことが出来るなら、イエスの説かれた天國の真理にあやかることが出来るであらうと思ふた。

 ガリラヤは全くの詩である。そして、あしこで人類の進路を指示せられたイエスの輝ける一生も、詩である。

 さうだ! さうだ! 天から人間に福音を運び、愛を以って死を蹂躙することを教へ給ふた十字架の神の子こそ、詩人の中の詩人であると云はねばならない。

 エズドライロンの平野を見下し、サマリアの山々を雲霞の中に仰ぎ、聖者エリヤとエリシャを偲ぶカルメル連峯を右手に望むナザレは、美しい詩の村だ! ヨナの生れたのも程遠くは○○メギドの古戦場も平日で行かれる。そこはエヂプト文明とバビロン文化の合流地であった。

 さうだ! さうだ! タボルの孤山も、小ヘルモン山の孤影も、全く、世界の他に見られない或る印象的なものを與へる。私はあれほど詩的なガリラヤを、嘗て世界の他の處で見たことはない。

 南の日が小ヘルモンの斜面に光を投げると、ナインも、シユナムも、エズレルも、みなその斜面の上にパノラマの如く浮び出る。半圓形の泥屋根、豆腐形の四角な家、その配合は砂漠に近い澄み切った空を通して、眼底に彫り付けられる。そこを、山地のナザレから、とぽとぽ歩いて、天國の近きを説いて廻られたことだと思ふと、イエスの一生は全く澄み切った空の中に浮き彫りの如く描き出された蜃気楼であったのだ!

 ほんたうに、イエスの一生は完き神の芸術であり、詩であり、表現であり、神の言葉であり、真理そのものであった。彼の一生は、神の内容を人類に告知した、はじけた柘榴のやうな生活であった。ナザレのイエスが出現しなければ、恐らく、恐らく人類は、神が愛であることを知らなかったらう。彼は神の内容そのものを人類に啓示した。神はイエスを通して、初めて内容を人間の方へはみ出したのだ。この意味に於て、イエスは神の初子、神の独り子である。

 日本のガリラヤ湖は琵琶湖である。そこには、イエスの弟子の一群が居る。

 愛を通してでなければ解らない神の真理が、そこでよく理解せられて居る。

 そこから産れるイエス傅は、愛ゆゑに書かれる意味に於て最も至純なものであり得る。

 吉田悦蔵は、イエスの忠実な弟子だ。彼はイエスをキリストとして仰いで居る湖畔の弟子の一人だ。彼はぺテロやヨハネの如く、漁夫ではない。然し、マタイであるかも知れない。彼の優しい性格は、優しいイエスを発見した。そして近江の兄弟達は、イエスに對する愛を包蔵して居る点に於て、ガリラヤの昔の一群に似てゐる。

 吉田悦蔵の書いた日本の福音書も、また新しい使命を持つと云はねばならぬ。種は湖畔に落ちた! 中江藤樹先生の隠栖せられた近江に、ナザレのイエスの種が落ちた。それは安土の近く、アウガスチン石田三成の城跡とも遠く離れてゐない八幡町に根を持ち、琵琶湖岸の四方にひろがる。

 福音は、千九百年昔に限られてゐない。ナザレから響いた福音は、今日も日本のガリラヤ湖に生きて居る。

 その生ける福音の証者が、今も死なない福音傅を記述することは、何と云ふ適当なことであらう。この書物は生きてゐる。それは、この著者自らが福音に生きてゐる証しそのものであるからである。

 響けよI ナザレよりの福音よ! 日本の隅々、隈々まで鳴り響け! そして傷つける魂と、抑へつけられたる無産者とを解放せよ!

 光栄の十字架よ輝け! 私は永久にその影に立たう。

 琵琶湖畔に落ちた種よ! 日本にひろがれ! 安土の真理は、今日も日本の真理であらねばならぬ。

    一九二八・丸・二〇
                        摂津、武庫川のほとりにて
                                    賀 川 豊 彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第182回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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             第182回


        吉田悦蔵・賀川豊彦序『湖畔聖話』

  
 前回に続いて吉田悦蔵著『湖畔聖話』(大正15年、春秋社)を取り出して置きますが、本書も吉田の筆が発揮された逸品で、賀川豊彦の「序」も吉田悦蔵との友情を印象深く書き記しています。

 上製本で、貴重な写真も入っていますが、ここでは賀川豊彦の序を収めて置きます。



              序
     

 何年前であったか、もう余り久しいことなので、判然した事は忘れてしまった、確か大正七年の春ではなかったかと思ふが、私は吉田君に連れられて、琵琶湖畔の村落傅道に出かけたことがあった。

 それはガリラヤ丸が出来て間の無いことであった。私は自転車でガリラヤ丸を繋いである堀割の奥まった所まで駆け付けて、気持ちのよい船長さんに迎へられた、そして近江の酉北部の傅道に出かけた。

 一行は吉田君の他に武田猪平氏、青年のチヤタニ君の二人が、私と一緒に行くことになってゐた。ガリラヤ丸は美い堀割の茅の繁った間を、湖水の方へ出て行く。あの辺りの景色は琵琶湖でなければ見られない柔かさがある。強いてその例を求めるなら、支那の楊子江の沿岸に似た柔かさである。殊に長命寺(私の記憶が間違ってゐるかも知れぬが)の附近に出て行くと、ピラミッド型になった山が湖水と相對して非常に美しい。それにチヤタニ君の出身地であると聞かされた大きな島が私の眼には、瀬戸内海の何處かで見る様に、実に美しくまた大きく見えた。

 琵甕湖は湖水の様な気がしない。ガリラヤ丸は瓦斯エンヂンの据った、相常に大きな船であるが、竹生島の辺りに出ると、太平洋にでも出た様に、船が揺れる。安土の城址が右手に輝いて見える。船は北西に進んで行く。二時間も走ったかと思ふうちに、中江藤樹先生の郷土に着く。私はあの感化の多い尊敬すべき近江聖人の跡を尋ねて、また船に引返した。西近江と東近江は文化の程度に於て、余程異った所がある。安土の文化は今日まだ八幡を中心にして、その面影を近江商人の豪放なやり方に残してゐるが、西近江は何がか遅れてゐる様に思はれてならなかった。

 その遅れた――然し考へ様によっては湖面が水準に落付いてゐる如く、変わらざる落付きを持ってゐる――その保守的な湖畔の村々に、ナザレのイエスの福音を話して廻ることは、何となくガリラヤの湖畔を擾がせた漁夫の一群に似ないわけでもないと思った。昼の間にビラを刷って、晩になると村の公會堂や、放館の廣間で、子供の會や、大人の會を次々に催して行くのであるが、何とも云へぬ風変わりな傅道旅行であると思った。大抵私は船で寝た。そんな放行を四日許り続けて、私はまたガリラヤ丸で近江八幡の堀割に帰って来た。

 この風変わりな傅道を思立ったのは、勿論、ヴォーリズ氏である。彼が約二十年前一中等學校の英語数師として、近江に来てから吉田兄を初め、村田兄佐藤兄の様な有力な弟子をつくり、近江に新しい空気を吹き入れたことは全く奇蹟的な出来事であった。

 織田信長が何故あんな便利の悪い安土に、あの様な尨大な城を築いたか、私は知らない。恐らくは北陸と東海道の敵があすこで防けると思ったからであらう。然し、彼處に咲いた南蛮文明はまた、一種特有のものであった。信長の信じたキリスト教は、愛の宗数ではなくして、一種のマホメツト教の様なものであったらう。然し、今日ヴォーリス君を中心とする近江の兄弟達の手によって、新しい装ひを以て安土の山蔭に、再興せられようとは何人が期待したであらうか。

 信長の雄圖は、近江商人の資本主義的実力の中に今日も残って居る。大阪に於ける近江商人の勢力と云ふものは、実に絶大なものである。恐らくは信長の後を嗣いだ秀吉の城下に近江商人が喰入って、今日尚世襲的勢力が、今なほ保存せられてゐるのだと私は思ふ。そして、不思議にも近江の資本主義の中心は大津市ではなくして、ヴォーリスの群が居る八幡町である。であるから近江の実力は八幡町にあると云っても差支へない。そこに不思議な歴史的発展があって、今日まで全く忘れられた八幡町が、この芥種の一群で、世界に再び知られる様になったのである。つまり近江の兄弟達は、信長時代のキリスト教を、全く新しい型に於て再興すべき使命を負はされてゐるのである。これらの兄弟達は全く、愛と柔和の信條の外何物も持ってゐない。ヴオーリス兄弟も柔和であれば、吉田兄弟も柔和である。吉田兄はあの忙い経済上の心配の間に、何時も傅道に努力して居る。結核療養所の仕事だけでも、一つの大きなものであるに拘らず、毎年数萬圓を投じて、ガリラヤ丸を 中心とする近江各地の傅道事業は、普通の人間に出来ない大運動である。私はこの兄弟達に何時も敬服してゐるので、十数年前から、腹蔵なき相談に乗ってゐる。兄弟吉田は私の心より愛慕する友達である。彼は商買人の仕事をして居る。然し彼は天幕を縫ひつつ傅道した聖パウロの心持ちで、メンソレータムを賣ってゐるのである。彼の得る利益は、決して、一文だって彼が私するのではない。それを私は保証する。幾分でもその利益か残れば、結核療養所の経営と、数萬圓を要する湖畔の傅道に使はれてゐるのである。兄弟吉田は、人好きのする男である。永年つき合をしてゐても、厭になる所が少しもない気持ちのよい男である。彼のお母さんが篤信の婦人であった如く、彼もまた忠実なるイエスの僕である。私は彼を最も親しい友人の一人として持ってゐることを、私の幸福の一つに数へてゐる。私は彼の要求することは嘗て拒んだことはない。彼もまた私の要求を一つも拒んだ事を知らない。彼はどんなに忙くても、機會ある度毎に貧民傅道や、社会運動に疲れてゐる私を慰めるために、種々と心配して呉れる。彼の文章は平明で且つ優雅である。彼はその文章の様な人物である。彼がなければ、今日のヴオーリスがあったかないかは、私は疑問にする。兄弟村田が、ヴオーリスの左手なら、兄弟吉田はヴオーリスの右手である。実業家としても彼は、毛色の変わった実業家である。これ以上私は多く云ふ必要はないと思ふ。彼は必ずしも、仙人の真似をする男ではない。そうかと云って、極端な主義主張に現実の人間苦を忘れるような男でもない。私は彼のなすことの凡てに、理解と尊敬を持ってゐる。彼の云ふことを聞いてくれる人は、また私にとってもよき友人であると考へる。所謂世の実業家と云ふ人々が兄弟吉田の様な男になれば、日本の問題は大部分かたづくと思ふ。
 私は書物の序文の代りに、永年の友人としての吉田悦蔵を世間に紹介了る。

  一九二六年六月三〇日            
                武蔵野アンペラ小屋にて

                      賀   川   豊   彦

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第181回)

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「神戸森林植物園の長谷池」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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            第181回


        吉田悦蔵・賀川豊彦跋『近江の兄弟ヴオーリズ等』

  
 既に別のところで取り上げたことのある吉田悦蔵著『近江の兄弟ヴオーリズ等』(大正12年、警醒社書店)には、賀川豊彦の有名な「跋」が収められています。

 賀川豊彦とヴォーリズの間の長い友情について、また本書の著者・吉田悦蔵との関係などは、興味の尽きないものですが、前回このブログで連載の折には、本書に収められている多くの大切な写真をスキャンし、加えて賀川の長文の「跋」もスキャンをして取り出しています。したがって、すべてそちらを再見いただくことにして、ここでは割愛しておきます。

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第180回)

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「宮本牧子さん記念会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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            第180回


      黒田四郎著・島村亀鶴・武藤富男序『私の賀川豊彦研究』

  
 黒田四郎氏は、前回取り上げた『人間賀川豊彦』の著作を仕上げたあと、氏の最後の作品となった上製本『私の賀川豊彦研究』を1983年に、前回と同じくキリスト新聞社より上梓されています。

 ここでは、本書に序文を寄せている島村亀鶴氏と前著と同じく武藤富男氏の「序」を取り出して置きます。そして、本書の奥付にある黒田四郎氏の「略歴」も。

 黒田氏とは、一度もお目にかかることはありませんでしたが、「黒田四郎関係資料」はいま、身内の方のもとで大切に保存整理されているそうですので、いつの日か公開されていくものと期待しています。

(なお、全く個人的な思い出ですが、ここに序文を書いておられる島村氏は、私の牧師試験の面接の折、牧師となると同時に「在家労働牧師」の実験を始めることを申し上げましたら、「そうか、それは残念だね。しかし、その労働牧師という実験も、楽しみだね。」と笑顔で応じてくださったことがありました。)




                

                   
             島 村 亀 鶴

 本書は、黒田四郎先生の日本のキリスト教界に送る、最後の書物である。先生からの、私宛の手紙に、そう書いてある。それだけに、それこそ心血をそゝいで、書いてあることがわかる。

 賀川豊彦先生と、黒田四郎先生夫妻とは、その青年時代からの知己であって、賀川先生の事なら、箸の上げ下げまでも、くわしく知っておられるのである。そのため、本書に書いてある一つ、一つの内容も、みんな目撃したものであり、また生涯忘れることの出来ないものばかりを選んで、書いてある。

 ことに、これらの内容は、今後の賀川豊彦研究のためには、なくてならぬものであり、日本の全教会の教職と信徒とが、明確に把握しておらねばならぬものである。

 今日までの日本のキリスト教界の人びとは、貧民伝道者賀川豊彦、社会事業家賀川豊彦、世界平和実践者としての賀川先生、を知ってはいるが、日本伝道者としての賀川先生の真面目に目を注ぐことを忘れている。賀川豊彦先生こそは、まさに「使徒行伝に一章を加えた」日本の伝道者であり、地の果てにまで福音を宣べ伝えた、キリストの証人であった。ことに、贖罪を神学論的に述べたのでなく、十字架の福音を、身をもって生きた伝道者であった。

 「キリストを見たければ、俺を見よ!」と、真実に言い得た人として、私たちは賀川豊彦先生を、見直さねばならない。

 本書の中に「賀川先生の初恋の女性について」の目次がある。人間賀川の側面がよく出ている。これも、著者ならでは、書けない文章である。

 私は、著者黒田先生に、感謝すると共に、目本の全教職、信徒に、本書を読んで頂きたいと、願っている。

     一九八二年八月




              序―日本のボズウェル

                武 藤 富 男


 黒田四郎先生が賀川豊彦に関する書物をあらわす毎に、「ここに『サムエル・ジョンソン伝』を書いたジェームス・ボズウェルに比すべき人物がいる」と感じてきた。

 サムエル・ジョンソンは古本屋の子として生まれ、独力で『英語辞典』をあらわし、晩年には『英国詩人伝』を書いた十八世紀の文豪であった。ボズウェルはジョンソンより二十一歳若い貧乏弁護士であったが、文筆に志し、いくつもの作品を出した後、ジョンソンと知り合い、その生活を日誌に記録し、共にヨーロッパを旅行し、その間ジョンソンの人物と行動と思想とをおのがものとし、これをことこまかに描写することによって、ジョンソン伝の大著を世に送った。

 黒田先生は賀川より八歳の年少であったが、この偉人と生活を共にし、いっしよに伝道旅行をし、彼の口授によりいくつもの本を造ってその著として出版し、偉人の言行はもちろん、彼の思想、殊に彼の信仰とその実践とを知りつくした。

 この度、手持ちの資料のほか、多方面から資料を集め、これを九項目に整理分類し、これを研究した成果を本書として発表した。すなわち世界平和、農村革新、著述、伝道、祈祷生活、神学思想、幼児教育などの分野である。最後に「賀川先生の初恋の女性について」があたかも一輪の花のように添えられている。

 これら各項には、黒田先生が賀川と親しく交わったその体験と感想とが織りこまれているので、一般の「研究」とちがい、賀川の生活と信仰と思想とが、著者の体験を通して生き生きと描かれている。他の賀川研究家のあらわしえない作品である。

 この作品が、もし美訳されて読まれるならば、「黒田の賀川研究」として、ボズウェルの『ジョンソン伝』に劣らぬ名声を欧米において博するであろう。

     一九八三年一月



                  あとがき


 私は九歳の時、日本基督堺教会で伝道者にして頂く決心をしました。それで三、四年してある若い伝道師が赴任して来られた時、母はその若先生にお願いして、母一人子一人の私の家の二階に住んで頂き、私を指導して下さるように頼みました。その方こそ若き日の鈴木伝助先生です。鈴木先生は各地で立派な伝道牧会をされ、また賀川先生の無二の親友であり、若き日の北村徳太郎氏を導き、大戦中は東京で神学校の校長もされた方です。数年前に召天されるまで六十年間も私を導いて下さった恩師です。

 その若先生が私の旧制中学一年の時、神戸神学校へ私の家から通学されるようになりました。そして賀川というすばらしく頭のよい同級生かいるといって、いろいろと話をして下さいました。その話を聞いて子供心にも大変感心していると、一年後にその賀川先生がとうとう新川に身を投じられたと聞いて、私は深く感動しました。そして鈴木先生が最初に新川のため当時の金で五十銭献金をしたら、賀川先生が大変に喜ばれたという話をされ、美しい友情だなあと思いました。

 そして四年後、私も中学を卒業するとすぐ神戸神学校に入学させて貰いました。その翌日直ちに新川へ行き、賀川先生にお目にかかり、早速新川のグループに入れて貰い、それ以来いつも出入りさせていただきました。その上私は神学校を卒業すると、新川と川一つ隔てた日本基督二宮教会に赴任したので、それ以来十年間は新川の伝道師をも兼任するような形となりました。先生が有名になって日曜にも旅行することが多くなると、その留守中はよく早朝の礼拝説教を代行させて貰いました。

 そして十一年後の昭和三年からは、神の国運動のために文字通り二人三脚で、五年間日本全国を何回も巡回伝道しましたし、そして私はいつとはなしに、巡回伝道のみでなく、先生の著述の手伝いや、賀川グループの教会や福祉施設の働きまでもさせて頂き、とうとう先生が召天されるまで、ほんとうの弟のように可愛がって頂きました。

 それで賀川先生のことは、表も裏もよく知っているので、他の人に先生のことをありのままにお話すると、よく「そんなことは絶対にできるはずがない。君はあまり買いかぶっているんだ。つまり贔屓(ひいき)の引き倒しだよ」と一笑に付せられました。しかし私はそのたびに、「ほんとうの事実を知らないからあんなことを平気で言っているのだ」と心の中で叫ぶのでした。先生が召天されてすでに二十三年、そんな思いでこの一書を書きました。

 最後に私のような者が書いたものを出版して下さったキリスト新聞社の皆様とご多用中にもかかわらず、序文を書いて下さった先生方に心より御礼を申し上げます。

   一九八三年二月
                                黒 田 四 郎



         本書の奥付

         黒 田 四 郎

         1896年5月 東京に生まれる。
         1918年6月 神戸神学校卒業。
         1918年から44年間 灘,岐阜,南京太平,松沢,東駒形の諸教会牧師を歴任。
          うち6年間神戸神学校講師を兼任。
         1928年から5年間 神の国運動のため賀川豊彦と巡回伝道。
         1946年から3年間 キリスト運動のため賀川豊彦と巡回伝道。
         現在 日本キリスト教団石井教会名誉牧師,日本キリスト伝道会エバンゼリスト。
         著書 『世の光』『暗黒アフリカの聖者リビングストン』『神の恩寵を語る』
          『信仰偉人群像』『続信仰偉人群像』『人間賀川豊彦』他
         訳書 ウェスレー『信仰日誌』『リビングストンの心臓』
            メチェン『パウロ宗教の成立』マヤス『神への飢渇』
         住所  779-32徳息県名西郡石井町石#556-5


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第179回)

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「百日紅の花」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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             第179回


      黒田四郎著・渡辺善太・武藤富男序『人間賀川豊彦』

  
 標記の著書は、賀川豊彦没後10年(1970年)、賀川と歩みを共にした黒田四郎氏の作品で、キリスト新聞社より出版され、旧約神学の長老・渡辺善太氏と武藤富男氏の「序」が収められています。その「序」ふたつを取り出して置きます。



                  序


 賀川豊彦君を識りえたのは、私の生涯の一つの感謝すべきことであった。私は彼について知れば知るほど、他の友人には余り用いたことのない「畏友」という語を用いてきた。この「畏」という語を、彼の場合、とくに用いるのは、次の理由によるのである。

 この理由のその一は、彼が「教会の福音宣教」という線と、「教会外社会活動」とを、混同することなく、それぞれの本質を保たせ、かつその死にいたるまでこの二点を筋を通して貫いたという点である。理由のその二は、この二点を彼は、理論だけでなく、周囲の人々からも、また多くの知人からも、彼の弱い肉体への影響がどうあろうと、心配されたほど、かつその全存在をかけて実践した点てある。

 私がなぜこの二つのことのために、彼を私の「畏友」とよんだかというと、この点において彼は私という人間とは、同じくキリスト者であり、同じく伝道者であるという点で共通性をもちながら、その現われ方は私と全く異っていたためである。否・私にはやろうとしても出来ないやり方だったからである。

 私とてもキリスト者であり、伝道者であるから、これに当る使命の遂行には、今年数え年八十六歳になるまで、全存在をかけてきたつもりである。だがその私はこの使命遂行を「聖書解釈の理論」の追求と建設とにより、教会の生命力を盛んならしめんとつとめてきた。そして社会的活動などということは、意図的ではなかったが、ほとんど注意をも向けず、ましてやそれに対する努力などをしたことはなかった。一言でいえば、賀川が教会内外に血の汗を流しながら、肉体的にまで影響を及ぼすほど活動したのに対し、私は書斎で、聖書と取り組み、聖書自身の「かくあるべきだ」というその自己主張にのみ耳を傾け、学校の教場と書斎とで、ふつう珍らしいほどの長い生命を与えられながら、その全部を費やしてきたのであった。つまり賀川豊彦なる「人間」は、前述のごとき信仰的共通点をもちながら、私という人間とは、根本的? に違った人間だったのである。
                                   
 それだけではない。私の長い信仰生活の間に、前述の「福音宣教」と「社会活動」との何れかに傾き、他の一つを失ってしまった誠実にして真剣な伝道者があったが、彼らの多くは、この二点のうちのどちらかにその全存在をかけてしまって、他を失ったという人々が非常に多かったことをみてきている。しかるに、くり返していうが、賀川は、この両点を生涯保持しつづけ、貫き通したのであった。これが私をして彼を、「畏」友と呼ばしめた理由である。

 だがこの黒田四郎氏の書全体を通読しても、次の点に関する賀川の「苦悩」したということは一言も書かれていない。その点とは、私か悩みに悩んだ「キリストを信ずる信仰に入る時のそれ」と「その為に全き献身をするのに苦しんだ」という点とである。このことは私には理解できない。私には「この『苦悩を』味わないところに、本当のキリスト信仰なるものがあるだろうか」という疑問さえもたれる。しかも今日まで長い信仰生活にこの苦悩の絶対的必要を考えつづけてきたことである。いうまでもなく、異教徒なる日本人が、キリスト信仰に入るには、これがあるのが当然だという、渡辺自身の経験を前提した、この考え方があったわけである。

 だが賀川にはこれが全然なかったようにさえ――この黒田さんの書物を通読すると感じられる。しかもこんな苦悩などがなくても、賀川はあの偉大な福音宣教者として、また社会活動家としての、「献身」より勝っているとさえ――こんな表現ほまちがっているが、表現のために用いる――想われる生涯を送ったのである。

 この点が、黒田さんのこの書にしるされていないのは、「彼にはあったが、他人にそれを語るのを好まなかったため、黒田さんがそれを知らなかったのか?」という疑問がもたれる。黒田さん赦して下さい。こういうのは、これほど私がこの一点を重んじてきたのだということをいいたいためなのです。たしかに賀川は、この苦悩を味わなかったのだろうと、今は考えています。

 この意味においても、この賀川豊彦なる「人間」は、私に対しては確かに「畏」友とよばなければならない友人であったのである。

 その賀川の一印が明らかにせられているこの書が、今や黒田四郎さんの筆によって書かれ、キリスト新聞の手で刊行されるようになったことは、私には歓び以上の感謝である。この書がのこっていれば、今の青年の「造反時代」が過ぎて、一応しずまれば、賀川豊彦の名とその生涯の意義とが、もう一度日本全国に示されるようになることと、その時の来ることを、私はここに信じてこの言葉をかいている。

    一九七○年七月
                              渡辺善太
 



                    
  

 賀川先生の運動は先生一人で行なったものではない。多くの人材が賀川という偉大な人格のまわりに結集し、集団としての力を発揮し、日本の社会に働きかけたものである。

 この集団を内閣にたとえ、賀川を首相に見立てると二人の有力な閣僚があげられる。その一人は亡き小川清澄先生であり、もう一人は黒田四郎先生である。小川先生は賀川先生の運動における外交方面を担当とした人物であり、外務大臣にあたる。賀川先生が外国伝道に出かける時は、小川先生は影の形に添う如く賀川先生と行を共にした。国際平和協会や世界連邦運動など、みな小川外相が賀川首相を立てて推進したものである。

 小川外相に対して内相の役割をはたしたのは黒田四郎先生であった。小川外相が先生の後半生に奉仕したのに比べ、黒田内務大臣は貧民窟時代から賀川首相を助けた。国内伝道における賀川先生の大きな働きの蔭には黒田先生の人知れぬ苦労と奉仕があった。この内相は首相と起居をともにし、食事を共にし、風呂を共にし、首相から背中を流してもらった。数千の聴衆の前で獅子吼して熱狂的拍手を受ける賀川先生、福音を語って満堂に悔改めを促す賀川先生、貧しき者、弱き者のために涙して、有り金をはたいて与える賀川先生、詐欺師、ペテン師をそれと知りながら欺かれたふりをして、その後姿に向かって祈りをささげる賀川先生、こうした偉人と苦楽を共にした黒田先生は日本において賀川先生の人物と生活とを最も深く知っている人である。単にこれを知るというだけでなく、これを味わい、これを究めた人であるというべきである。更に進んで賀川の信仰を受けつぎ、その人格を継承した人であるといいうるであろう。

 この書はその意味において賀川豊彦に関する著作のうちで特異なる存在であり、英文学の古典たるボズウェルのジョンソン伝の様式をもつ賀川伝である。

 賀川豊彦の名が若い世代に忘れられつつある時、またその信仰と人格と事業と精神とを歴史の記録としてとどめず、進んで現代に再現すべき必要に迫られている時、黒田老牧師によりこの本があらわされたことを、日本のため喜ぶ次第である。更にこの本が翻訳され世界各国に行き渡り、全世界の賀川観に補完がなされることを待望するものである。

  一九七〇年七月
                          武藤冨男



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第178回)

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「Joint concert 2013」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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              第178回



       黒田四郎筆記・賀川豊彦序『神の恩寵を語る』

  
 前回は黒田四郎氏の筆記でなる『H・W・マヤス説教集:神への飢渇』を取り出して賀川豊彦「序」UPしました。今回はその黒田四郎氏の著作『神の恩寵を語る』(昭和9年5月に教文館出版部刊行)を取り出して置きます。

 本書の成り立ちなどについても綴られている賀川豊彦の「序」をここには収めて置きます。昭和初年の貴重なドキュメントです。



                     序


 「神の恩寵を語る」は、同労者黒田四郎氏が、私と共に、四年半の間日本を廻って、集められた信仰事実談の収録である。

 宗教は言葉ではない、それは事実である。神の恩寵は思想ではない、それは事実である。神の恩寵の事実は、昨日も今日も、荒野にマナを降らせ、ナインの寡婦の娘をよみがへらせてゐる。日本のキリスト教は、由来あまりに理屈っぽい。理屈からきたキリスト生活には、生活革命がともなはない。私は理屈が悪いとはいはない。しかし、神の恩寵は、愛を通して生活を改造し、理屈を超越した驚くべき力を持ってゐる。黒田四郎氏の収録せられたるものは、神の力が、如何に生活革命の原動力であるかを証明すらものである。

 事実は理論よりも有力である。恩寵の記録は、一冊の神学書を読むより有難い。黒田四郎氏は、飾り気なく、而も少しの誇張もなくして、多くは本人に信仰の事実を尋ねて、之を書きとめられた。善行の人は決してみづからその善行を他人に告げない。それを、我々がその家を訪問し。或ひは友人を通して材料を集め、日本にも斯くの如く、聖霊が働きつつあることの事実を、茲に集めたのである。

 我々は、唯々、神の深き恩寵に感激しつつ、敢てこの書を日本の民衆に奨めるものである。

      一九三四年四月二十三日
                     賀 川 豊 彦
                              武 蔽 野 に て

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第177回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


      賀川豊彦の著作―序文など

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            第177回



      H・W・マヤス説教・黒田四郎筆記

      『説教集:神への飢渇』賀川豊彦「序」

  
 ここで黒田四郎氏の『人間賀川豊彦』に続く予定でしたが、昭和8年12月に日曜世界社より刊行された標記のH・W・マヤスの説教を黒田氏が筆記した著作を取り出して置きます。

 ここに収められている24編の説教も、私たちにとって重要なものですが、本書の巻頭に寄せている賀川豊彦の「序」は、是非再読いただきたい作品ですので、ここではそれを取り出してご覧にいれます。

 本書は版を重ねなかったかも知れず、賀川の「序」もあまり目に止まっていないものではないかと思われます。



             神への飢渇 序

                 一

 私がマヤス先生に會ったのは、中學校の二年生の時であった。私が、中學校の英語の先生の片山正吉氏の塾に、下宿さして貰ってゐる時であった。然し、その時は、ただお辞儀しただけで、宗教上の交渉はなかった。中學校の三年の時に、ローガン先生が、徳島市通町の日本キリスト教會で、英語でキリスト傳の講義を始められた。その時に、初めて私は、西洋人から英語を研究する機會を得た。

 然し、ローガン先生は間もなく中止せられて、マヤス先生が、新約聖書を、通町の教會堂で、英語で教へて下さるやうになり、後には、徳島本町の自宅で、聖書の講義をして下さるやうになった。

 かうして親しくなった私は、遂に決心して明治三十七年の二月二十一日の日曜日に、マヤス先生の手からバプテスマを受けに。その時私は、満十五歳七ヶ月であった。親切なマヤス先生は、その後も、私を個人的に指導して下さって、プリンストン大學總長パトン博士の『キリスト教々義要綱』といふ、非常に簡潔ではあるけれども、要領のいゝ神學書を教科書にして、個人数授をして下さった。私の英語の力も、哲學的思考の力も、かうした機會に呉へられたことは、否定出来ない。

 かうして英語の力をつけてくれられた為に、私は十五の春から、マヤス博士の圖書棚からいろいろの書物を取出して、自由に讃む機會を得た。カントの『純粋理性批判』の英訳を読み出したのも、この頃からであった。そして私は、徳島を離れて、東京の明治學院に入學し、マヤス先生の厚意によって、叔父と意見のちがったために、學費の途がなかった時でも、明治學院に學ぶことが出来た。

                      二

 十七歳の夏、ミセス・マヤスが一足先に米國へ行かれた時、私は四十日の間、マヤス先生と同じべットに寝る機會を得た。かうして私は、日本人の間にも発見出来ないやうな大きな愛をマヤス先生から受けたことを、永遠に忘れることが出来ない。

 マヤス先生は、幼い頃から、植物學に趣味を有たれ、天文學に興味を注がれ、いまだに――六十歳を越えても――日本アルプスなどは、毎年数回縦走さるゝ日本の外人の間でも有名なアルピニストである。

 それで、私は、マヤス先生に連れられて、吉野川の山奥へ傅道に出かけた楽しい旅行を今も忘れることが出来ない。もし私が、キリストのために熱心な傅道者となることが出来たとすれば、師父マヤス博士の感化であるといはざるを得ないであらう。

 私は今も覚えてゐる、十七歳の時、私はマヤス夫人の女乗りの自転車を借りて、吉野川の上流まで遠乗りして、傅道旅行について行つた。私はその時恐ろしく下痢してゐた。それで、毎日の旅行が非常に苦痛であつた。然し私は、マルコがパウロに叛いたやうな悲しい記録を作りたくなかつたので、下痢を辛抱してついて行つた。マヤス先生は、通る人毎にリーフレットを渡し、乞食小屋にも頭を低うして、永遠の生命の道をお説きになつた。

 『――西洋人がこれほどまでに熱心に、日本人を救はうとしてゐられるなら、僕ももう少し熱心にならなければならぬ――』

 斯う考えた私は、伝道のためにメートルをあげることにした。

                      三

 不幸にして私は、十七歳の冬から肺病にかゝつた。そして、明治四十年の夏には、もう医者に、『死ぬ』といふ宣告を下され、もう少しで私は死ぬ處であった。不思議に癒された私は、マヤス生先の厚意で、明石の湊病院に入院し、更に、三河蒲郡に、漁師の家を借りてそこで九ヶ月保養した。そのあばら家に畳も、机もないので、蓆(むしろ)敷き、石炭箱を机にしてゐた――マヤス博士は三晩も泊って、私を慰めて下さった。普通の日本人でさへ、私の肺病を怖れてなかなか泊ってくれないのに、三晩も、私のきたない蚊帳の中で、肺病を怖れないで泊まって下さったこの先生に對して、私は心より感激した。

 肺病が治って、私は神戸の神學校に入學したが、間もなく、私は貧民窟に這入る決心をした。そしてその貧民窟の苦しい多くの経験を通して、絶えず慰めて下さった人は、マヤス先生夫妻であったことを、私は忘れることが出来ない。私は、神學校から學費だけ支給して貰ってゐた。然し、それだけでは貧しい人を助けることが出来ないので、神學校の煙突の掃除をしたり、マヤス先生のお宅の煙突掃除をさして貰って、毎月十圓の金を携へ、貧民窟の病人を世話することにしてゐた。マヤス夫人はまた、私を、三人の子供のうちに加へて、私のために、特別の椅子と、特別のナプキン・リングまでを備へて、いつ如何なる時に飛込んで行っても、私に食事を、家の者同様にさせて下さった。かうして私は、マヤス家の一人に完全になりきってしまった。

                      四

 その後私は、マヤス博士とローガン博士に金を借りて、米國に渡り、プリンストン大學に人學した。アメリカに居るうち、私は、マヤス先生の故郷であるヴアジュヤ州レキシントンを訪問する機會を得た。レキシントンは、有名なワシントン・アンドリー大学のある處で、そこで、マヤス街といふ通りを私は見付けた。

 マヤス先生のお父さんは、土地の大きな金物屋であったさうである。非常に傅道に熱心で、みづから出資して、支那に宣教師を送ってゐたといふことを、私はうっすら聞いた。この金物屋のマヤス家は、ニューヨークの最初の市長の一人であるマヤスの後裔であって、オランダ人の血を承けてゐるといふことである。

 また、マヤス夫人の系統は、ミズリー州の判事で、米國独立戦争の時からの家柄で、シカゴの大きな商賣人のマーシヤル・フイールドー族と開係があることを私は學んだ。

 兎に角、私は、プリンストンから、わざわざ、クリスマスに、ヴアジニヤまで出かけて行って、この慕はしい一族とI週間ばかり贈った嬉しい思出を、今も、ありありと目の前に浮べてゐる。

 私は、煩雑な世の中にも、一人の青年の指導に、これほどまで親切な指導をしてくれる教師が、ほかにあるかどうか知らない。しかし、もし私に、先生らしい先生をいへといふなら、私は、恩師マヤス博士を指さすであらう。

 私は、神學校で、マヤス博士から、ギリシヤ語と、教會歴史と、キリスト傳を學んだ。私は、マヤス博士が特別な大學者だとは思はない。マヤス博士がそれを希望してゐられたなら、必ず大學者になってゐられたらうと私は思ふ。その緻密な頭脳と、科學的な傾向は先生をさうさせないでは置かなかったであらう。然し、マヤス先生は象牙の塔を出て、東洋の傅道に来られたのであった。それで、全く書物と訣別しなければならない位置におかれてゐた。それで、私が、マヤス先生から學んだことは、その緻密な分析と、對比と、順序立てた綜合的研究方法であった。これに對して私は、いゝ教師を得たと思って、マヤス先生の時間を、いつも楽しみにした。

                      五

 マヤス先生は、今も私の先生である。毎年私の経営してゐる農民福音學校に、望遠鏡を運んで、全國から集る學生達に、星と、星の造主である神を指さして下さるのは、私の尊敬するマヤス博士である。

 マヤス博士の生活は、実に簡粗で、その食物などでも、謹厳なモナスタリーの僧侶を思はしめるやうな質素さがある。

 兎に角、私は、マヤス博士からずゐぶんいゝものを學んだ。私はかういふやうな、すぐれた師父を、自分の先生として仰いだことを心より神に感謝してゐる。

 幸ひにも、親友黒田四郎氏が、マヤス博士の宗教説話の断片を筆記して下さったので、その出版を西阪氏に計った處が、西阪氏も喜んで、これを引受けて下さったことを、非常な幸ひだと思ってゐる。

 マヤス博士の愛は、私自身にとって、掘抜井戸のそれの如く、深くそして清いものである。私は、この深く清い愛を、更に日本の隅々へ押広める義務を荷ふてゐる。私は断言する。マヤス先生の宗教説話は、決して、マヤス先生の人格そのものより優れたものではないだらう。寡言な先生は。科學者の如く、星や雑草と親しむ多くの時間を有つてゐられた。自分の行動について語らるゝ處はまことに少い。然し、日本は、かうしたよき贈物を神から賜つたことを、必ず記憶する日があるだらう。

 この書は、さうした神の恩寵を物語るよき記念品として、受取りたいものである。

   一九三三年十月七日

                         賀川豊彦
                                武戴野の森にて

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第176回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第176回


       藤阪信子著『羊の闘い―三浦清一牧師とその時代』

  
 前回、三浦清一氏の『世界は愛に飢えている』を取り出したので、引き続いてここでは2005年8月に熊本日日新聞社より刊行された藤阪信子氏の力作『羊の闘い―三浦清一牧師とその時代』を挙げて置きます。

 賀川豊彦と三浦清一の関わりなどは、その関係年表を含めて本書で立ち入って触れられているので、お読みいただくとして、ここでは著者の「序文」と「あとがき」のみ紹介させていただきます。

 そして、「啄木と光子」に触れて書かれた木村勲氏執筆の文章(「朝日新聞」平成8年11月7日付け)のものも参考までにテキストにして打ち出して置きます。



                    まえがき


 出会いは一篇の詩から始まった。その詩には、働き手を失った阿蘇の老農夫が、見舞いにもらったカライモを前にして、つつましく感謝する姿がうたわれていた。ありきたりな阿蘇讃歌ではなく、社会の底辺に目が向けられていることに感銘した。作者は三浦清一。はじめて聞く名前だった。解説者の話によると、熊本県出身の牧師で、夫人は明治の天才詩人石川啄本の妹光子だったとのこと。啄木との意外な縁に驚きながら、どんな人物だったのか、ほかにはどんな作品が遺っているのか知りたくなった。何年もかけて手探りで少しずつ調べていくうちに、一篇の詩の背景とそれに対する作者のスタンスが見えてきた。

 昭和初年。なんと暗い時代だったことだろう。世界恐慌のあとの豊作飢饉と翌年の大凶作。学校へおべんとうが持って来られない子どもたちがいた。家族を救うために泣く泣く身売りされる娘たちがいた。清一は貧しい農村を伝道しながら、彼らの悲しみを知ったのだろう。わずかなカライモを前に老人は「なんごつもなあ、おてんとうさんのおかげでござりますたい」と言うのだった。おてんとうさん(超越者)に対する絶対の服従と謙虚さ。拝金主義がはびこる現代では、かけらも見ることができない人間精神だ。

 日米の混血児として逆境の中で育った清一は、若い日から貧しい人や弱い人の味方になろうと志した。社会主義を学んだのも、キリスト教の牧師の道を選んだのも、同じ心から出たことと思われる。彼の近くには、社会的関心の強いキリスト者の群があった。彼らの思想を一言でいうなら「自分一人の魂の平安にとどまらず、神の愛を社会へ広げよう」ということになろうか。いわば「一匹の羊」であった清一のこの世との闘いには、この国とキリスト教のありようが、少なからず絡んでいるように思う。こういうわけで、まずはキリスト教が、あけぼのの明治に入ってきた経緯から始めたい。

 お断りしておきたいのは、本書でいうキリスト教は十六世紀にザビエルによって日本に伝えられたカトリック(普遍的・公同的という意味)ではなく、形式化し、腐敗した当時の教会を批判して立ち上がったプロテスタント(抗議する者の意味)の流れである。キリスト教は、わが国では長い間、邪教視され、ほとんど根こそぎになるくらいに弾圧された。明治六年の開教と同時にカトリックもプロテスタントも伝道を開始したが、カトリックを旧教、プロテスタントを新教と呼んでいる。


                     あとがき


 清らかで、豊かな水流を誇る熊本県南の緑川。そのほとりの竜野村出身だった三浦清一。石川啄本の望郷の歌で知られる岩手県北上川の渋民村で生まれた石川光子。南と北の、出会う機会とてなさそうな二人を結んだのはキリスト教であった。啄木一家の悲惨をつぶさに体験した光子は、自立したくて、聖公会の婦人伝道師となり、神学生の清一と熱烈な恋愛の末に卒業と同時に結婚した。長身でハンサムな清一と七歳年長ながら、色白で小柄な光子は、似合いの夫婦に見えたという。

 阿蘇から出発した結婚生活は伝道生活と重なっており、はじめから世間並みの家庭生活ではなかった。牧師一家の暮らしは、ただでさえ私的な部分が犠牲にされがちだが、清一には社会改良の夢があったために、一層の困難を伴うものだった。炭鉱地帯や離島・僻村への伝道、キリスト愛の実践活動としてなされた信仰共同体「阿蘇兄弟団」の結成…。彼の伝道力には目を見張らせるものがあり、どの教会に赴任しても、たちまち教勢(教会員の数)を伸ばした。その情熱的な説教は若者や学生たちを感奮させ、ぞくぞく教会の門を叩かせたという。彼らを夏期キャンプなどに誘えば、満天の星の下で夜を徹して祈ることができる牧師だった。弁舌が巧みだっただけではない。ペンを執れば、内にあふれる思いを自在に表現できる文章力をも持っていた。伝道のための宗教小説やエッセー、評伝を書いたばかりか、なかなかの論客でもあり、詩も書いた。

 光子は牧師夫人の役をけんめいにつとめた。しかし、清一の社会主義的傾向には早くから危うさを感じていたようだ。不安は的中して、CMS(英国聖公会宣教協会)による念願の英国留学は敵性人物と断じられて差し止められてしまった。それも教会内部からの密告だった。また第二次大戦が始まると、治安維持法違反の疑いで逮捕され、鉄窓の生活を送るという憂き日にち遭った。孤独な獄中での転向と敗戦後の再転向。思想や信念が日常の魔によって浸食されて行く過程は今後さらに解明されなければならないと思う。

 世間では光子を頑固で冷たい女だと見ているようだが、筆者は純粋一途な面を待った不器用な女性だと感じている。時に激しさを丸出しにしてしまうのも、そのせいだと思うのだ。繊細な光子に比べると、清一は、大らかで逞しい。義侠心から厄介な仕事にも手を出さずにはいられない。戦後は免囚保護施設「愛隣館」の館長をしながら、兵庫県の県議として恵まれない人たちのために働いた。次第に政治にのめり込む姿を見て光子は嘆いていたという。過労のため、ついに清一は倒れた。葬儀が終わって、党旗の赤旗を柩から外させて、神の前に送る光子の行為は、彼女の生涯のハイライトではないかと思う。このとき二人の心はピタリと一つになった。光子はどんな場合でも、清一に天上へのまなざしを忘れさせないマリアであったといえよう。

 実をいうと、本書は一九九六年四月から翌年三月まで熊本日日新聞の夕刊に宮崎静夫さんの静謐重厚な挿絵付きで連載したものを見直し、大幅に加筆したものである。本書を未熟ながらようやくまとめることができたのは取材に応じてくださった方々のご支援があったればこそ。なかでも熊本日日新聞の井上智重さんには始終気にかけていただいた。門外不出の書類を提供してくださった神戸の三浦哲朗さん、資料収集の面で長い間、根気よく協力された東京は松沢の賀川豊彦記念松沢資料館の元研究員米沢和一郎さんにはお礼の申しようもない。それに弟の藤坂史人は煩わしい事務処理の一切を引き受けてくれた。出版に際しては熊本日日新聞情報文化センターにお世話になった。その他、協力してくださった方々のお名前は巻末に記すことでお礼のしるしとしたい。

 本書は幾度となく取材に同行し、おぼつかない仕事のゆくえを案じながら、病で逝かねばならなかった亡夫神津正巳に献げるものである。ことばでは、とうてい言い得ない思いも共に受けとってもらいたくて。

  二〇〇五年五月
                  若葉かおる夢窓文庫にて
                                藤坂信子





     関連資料 「朝日新聞」平成8年11月7日付 木村勲氏執筆の記事

            「風景:ゆめうつつ」(17)
      
               石川啄木と妹・光子
               透徹した兄への視線


  船に酔ひてやさしくなれる
  いもうとの眼見ゆ
  津軽の海を思へば

 明治四十年(一九〇七年)五月、明星の新進歌人・石川啄木(一八八六~一九一二)は津軽海峡を渡る。二歳年下の妹・光子を伴っていた。そのときの歌である。

 妻子、母も続いて郷里・岩手の渋谷村をたち、函館に着く。

 小学校の代用教員だった啄木のストライキ扇動事件、そして寺の住職をしていた父・一禎が檀家に相談せずに裏山の木を売却した問題などがこじれたあげく、「石をもて追はるるごとく」の一家の出郷だった。

 函館、小樽、釧路、そして東京と、困窮の生活が続く。啄木が結核で短い生涯を終えるのは海峡越えから五年後のことだ。

 それから半世紀、昭和四十年(一九六五年)二月、大阪府高槻市の啄本研究家・天野仁さんは、神戸市兵庫区楠谷町にある社会福祉法人の養護施設「神戸愛隣館」を訪ねた。かねて会いたいと思っていた理事長との約束がとれたからだ。

 理事長は三浦光子、旧姓・石川、つまり啄木の妹である。このとき七十七歳。

 愛隣館の玄関を入ると、奥の部屋から電話で激しく応酬する女の人の声が聞こえた。四、五十代くらいの、歯切れのいい関東弁だ。相手は新聞社で、記事への抗議らしい。電話が切れ、一転して愛想のいい、小柄な女性が現れた。その人たった。

 光子は函館時代、キリスト教 の婦人伝道師と親しくなり、名古屋の聖使女学院に進む。卒業後、布教活動に入り、大正十二年に牧師の三浦清一と結婚して、夫婦で各地を布教した。 

 啄木は明治四十四年、二十四人もの死刑判決者を出した大逆事件に衝警受付「時代駱の啓ヽ光ぶ暑中休暇霜用の現状」を実感し、急速に社会主義思想に接近している。だが、光子のキリスト教とのもともとの出あいは、生来の唯物論者だった兄の示唆によるという。

 光子が渋民の高等小学校を終盛岡女学校に入学が決まったとき、「これを読め」と兄は ぶっきらぼうに「旧・新約聖書」を手渡した。

  クリストを人なりといへば、
   妹の眼がかなしくも、
    われをあはれむ。

 死の前年の夏、東京・小石川の家で、光子が暑中休暇を利用して啄木を看護したときの作だ。二人はいつのまにか宗教論争を始め、盛んに妹を冷やかしていた兄がまくら元のノートを一枚破り、「これを読んでごらん、ふふふ」と笑いながら見せたのがこの句たった。

 昭和十九年、三浦夫妻は、クリスチャンで社会改良家の賀川豊彦から神戸愛隣館の経営を任される。東京に住んでいた光子は翌春、寸断された列車を乗り継ぎ神戸にたどりつく。四月十日、啄木の命日だった。理事長の夫は昭和三十七年に没し、光子が跡を継いだ。

 夫をみとった後、光子は交際を避け、愛隣館にこもり、『兄啄木の思いで』(理論社、昭和四十年刊)を書き上げる。序に書く。

「世の多くの啄本研究家は木をあまり小説の主人公にしすきている。そろいうところははっきりけじめをつけて赤裸々な啄木を理解することこそ必要なことなのではないか」

 啄木の小説化、そして演劇・映画化は戦前から始まった。劇的効果を高めるパターンさえ成立した。「困窮の中に天才歌人を支えた貞淑な妻(節子)」に対して、「兄嫁いじめの小姑(光子)」というものだ。 

『兄啄木の思いで』にはこれに対する女性らしい反発も含まれるが、人間・啄木を見る視線は透徹している。刊行から三年後の秋、光子は七十九年の人生を終える。六甲の緑に抱かれる土地で、数十人の子らの母として生きた最後の四半世紀だった。

 彼女は「津軽海峡の荒い波のうねり」と重ねて兄を思いだしたという。兄の知らぬ西の国で、思想的には一見対立する荒波の人生を歩んだが、実は啄木の目指すものを地道に実践したのが光子であったように思う。

 啄本にこんな歌もある。

    わかれをれば妹いとしも
     赤き緒の
    下駄など欲しとわめく子なりし 
 ’
 自分譲りのきかん気、手ごわいケンカ相手、兄にはそれがまた愛らしかったのだろう。

 神戸愛隣館は光子の死後数年で閉鎖された。今は、木造二階の校舎風の建物があった敷地に、民家が立ち並ぶ。地元でもかつてのことを知る人はほとんどいない。
                                     (木村勲)
   


              啄木の熱情引き継いだ三浦


 神戸愛隣館は明治三十一年、篤志家・村松浅四郎が生田区(現・中央区)内に設立した出獄者更生施設がルーツ。外国婦人から一万円の寄付があり、明治三十九年、兵庫区楠谷町に木造二階建ての建物が新築された。

 収容者は年間六百五十人、相談・指導は千数百人を数え、米国のミッションの教師たちが協力した。村松は昭和九年に賀川豊彦に事業の継承を頼み、賀川からさらに三浦夫妻に託された。戦後は児童福祉法に基づく養護施設として再出発した。

 三浦清一は熊本県出身で、福岡の神学校時代に賀川の著作に接し、神戸に来て師事した。詩人でもある。昭和十八年に発表した「熱帯の空、秋漸く動き ほのかなる郷愁、わが心に在り」などの一節を含む「郷愁」が反戦詩だとされて、七百日間の獄中生活を送った。

 賀川は三浦の戦後の詩集の序文に、「彼は小作人と無産者のために、その血涙を捧げ、石川啄木の熱情を現代生活に織り出さんと努力してきた」と書いた。戦後、社会党の兵庫県会議員を務めている。



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第175回)

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「神戸森林植物園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第175回



       三浦清一著『世界は愛に飢えている―賀川豊彦の詩と思想』

  
 標記の著者・三浦清一氏は「詩人」として知られていますが、本書の「跋」で阪本勝氏も記しているように、本書は詩人・三浦清一でなければ書けない作品として逸品です。

 明治28(1895)年に生まれ、昭和37(1962)年になくなっているが、本書は亡くなる5年前(昭和32年)に射場書房より出版されています。

 此処では、三浦氏の序文と阪本氏の「跋」を取り出して置きます。

 なお、三浦氏の妻「三浦光子」は、石川啄木の妹ですが、夫・清一氏の没後に理論社より『兄啄木の思い出』という作品を発表しています。


                      序


 詩人はいつも社会運動の先駆に立つものである。中世紀に於ても、近世紀に於ても、目醒めた先駆者となったものは、みな詩人であった。ダンテはあまりに古いとしても、バイロン、シェレー、ゴドウヰン等、決して我らから遠いところに立っているのではない。彼らは詩人であった。同時に新しい時代への先駆者であった。アイルランドの独立運動にも詩人が加わっていた。イタリーの国民運動には、詩人ダヌンチオが、第一線に立っていた。

 特に一九二七年ロシヤ革命勃発以来、全世界にわたって捲起された革命と解放と自由の嵐は、数うることのできない程、多くの詩人をおこした。アールスキーの「闘いの歌」を読むとき、我らは革命の嵐に包まれたロシヤを忘れてはならぬ。一九二一年以降、ドイツに於てはナチスが党の結成に成功し、イタリーに於てはファシストと共産党とが深刻な闘争を展開し、引きつづいて或はトルコの革命となり、或は日本における第一次共産党事件が生じ、或はレーニンの死等、次から次に歴史的の事件が現出した時、ロビンソンの「詩人」が世におくられ、ジョンソンの「アメリカ黒人の詩」が活字となり、エリオットの「荒地」が世に問われ、郭沫若、将光慈の「上海的清晨」「中国労働歌」があらわれた意味を忘れてはならぬ。

 日本においてプロレタリア詩運動が漸やく活発となつたのは、一九二八年頃からだと思うが、その歴史的背後に、三・一五事件、世界経済恐慌、スペイン革命、ヴェトナム共産党結成等があつたことを記憶せねばならぬ。

 マクリーシュぱ現代の激動を敏感に把握した「恐慌」を発表し、スルコーフは[戦線ノート」に由つてスターリン賞を受け、パルタはチェコに於て処刑され、アラゴンは「異国の中の祖国にて」をまとめ、エリュアールは「時は溢れる」を出し、続いて「政治詩集」を出し、ネルーダ、ヒクメッ卜は世界平和文学賞を受け、林和の「英雄伝」は若人の血をわかせた。

 そしてその間に、世界は大きく転回し、植民地制は大崩壊を始め、民族解放の闘いはいよいよ熾烈化してきた。

 日本解放の歴史を見ても、我らはそこに多くの詩人が、先駆的役割をはたして来た事実を取上げることができる。しかし残念なことには、近代の日本は、たとえばドイツのハイネやフライリッヒラートのような、またロシヤのデカプリストやネクラーソフのような、革命的な解放詩人の、思想的にも芸術的にも、高い詩強い伝統をもっていないのである。このことは日本の解放闘争が、いわゆる自由民権運動の挫折によって、一時停滞したことと密接な関係があるのであるが、しかしそのような伝統は、日本においても弱いながら、明治以来詩壇の底流として流れており、これが時にたとえば児玉花外や、輿諭野晶子の「君死にたまうことなかれ」や、石川啄木の詩や短歌となってあらわれ、特にデモクラシーの運動、プロレタリアの自覚に伴なうて、烈しい奔流の如くに、ほとばしり出たのである。そして、それが強い大きな流れとなって、戦後のわが国の、新しい民主主義への叫声となりつつある。

 わたくしがこの小著を以て世に問わんとする賀川豊彦の詩も、この流れの中から生れ出たものである。賀川豊彦を詩人とすることについては、或はいろいろと意見もあるであろうが、しかし私はなんら躊躇の色だに示さず彼を詩人――社会詩人とするものである。読者は次の詩を知っているであろうか。

      悲しき日よ
      街に出て
      号外くばりに
      会ったばかりに
      凡ての努力が
      無効であると知った――

      今井博士が
      落ちた――
      声を嗄らして
      叫んだ幾十日
      凡てそれが
      無効であつたのだ――

      貧民と
      労働者は
      救はれない!

      乾き切った
      貧民窟の街路に
      無意味に下駄が鳴るよ――

      私は大阪を呪ふ
      日本を……
   
      大阪に
      煙はあがっても
      自由は
      あがらない!
   
      あゝ 暗い
      日本は暗い!

      太陽の煙は
      無意味に立ちのぼる

 普選の幕が切って落された時、無産運動の先駆者今井嘉幸博士は落選したのであった。そのとき賀川は「選挙の後」と題してこの短かい詩を発表した。これで充分ではなかろうか、彼が詩人――社会詩人たるの名を受くるには!

 詩人が社会的使命を持つことについて、賀川は次のようなことを、「聖書の社会運動」.の中に述べている。第一には、詩人は鋭い感覚の所有者であるということ。それは彼らは普通人の気のつかないものを嗅ぎ出すからである。第二に、彼らは、鋭いセンスからして、すぐれた良心を持つこと。バイロンが自由を称え、ギリシヤの独立運動に参加したこと、法王の堕落に奮起したダンテの如き、何れも鋭い良心から起された運動である。そして第三の理由として、詩人たちは、より近く神を見んとする努力を有つことを挙げている。「彼らは自己の魂の外に飛ぶ。彼らはその深刻な宗教的観念からして、痛々しい魂が自ずからに神の方に向くのである。こういった理由が詩人をして先駆者たらしめ、そして詩人の叫びは我々を目ざめしめるのである。」

 これは彼が、詩人が社会的使命を持つに至る理由として述べた大要であるが、私はこれらの言葉をそのまま、彼自身に呈すべきであると信じている。賀川に師事して三十年、私は彼から多くのものを得たが、最も大いなる影響を与えられたのは、「詩」に対する感激と、「社会」に対する深い関心とであつた。結局私に於ても、「詩」と「社会」とは、絶対に切り離すことのできないものとなった。

 この小著は、その大部分は、太平洋戦争たけなわの日に筆を執ったものである。その時私の心は闇く、前途に希望を見出すことは困難であった。ややもすれば、魂の祭壇の上にかかげた燈火は、吹き消されそうであった。しかし賀川の詩のなに深く沈潜し、そこに湛えられてある「いのち」に触れたとき、もうI度私にも「強く生きよう」というひとすじの光が射し込んで来た。その感激がこの小さな仕事となつたのである。爾来十年間、古新聞紙に包まれたまま匡底深くしまいこまれていた原稿は、漸やく陽の目を見ることになった。脱稿十年の今日、ふたたび原稿を読み直してみるとき、その思索において、その表現において、幾多足らざるところを見出すのであるが、敢てこれに筆を加えず、そのまま梓に上すことにした。鉄窓生活七百日、キリスト教会に捨てられ、多くの友人に捨てられ、米塩の資得るに術なく、妻をかかえ児を擁して、まったく前途の光明を失ったとき、わがために家をそなえ、わがために読書の機会を与え、三つの生命をして飢えざらしめた賀川豊彦の愛情を思うとき、その深刻なる記念のためにも、なまなか筆を加うることは、わたくしの感情がこれを許さなかったのである。

 いまやこの書を世におくるに当り、敗戦十余年にして未だ行くべき道を見出すこと能わず、不安と疑惑の中にたたずんでいる多くの同胞が、この民衆詩人より、何ものかを得、何ものかを発見し、何ものかを把握し、何ものかを直覚して、新しき明日への糧とされんことを望むものである。兵庫県知事阪本勝君はこの書のために跋を書いてくれた。神戸合同労働組合の田巻米子君は原稿の浄写をひとりでやってくれた。心から両人に感謝する。

  一九五七年三月余寒ややゆるみたる日に

                    霙の音を聞きながら
                             三浦社会問題研究所にて
                                 
                                 三 浦 清 一 




                    巻 末 に

                   阪 本  勝

 賀川豊彦……それは一つの宇宙である。
 三浦清一……この天文学者は、その宇宙の解説を試みようとする。
 賀川と三浦の魂がここに交響し、竹林のうぐいすが鳴きかうように、春の野にときめきわたる。

 けさ、私は朝の新聞のきれぎれのニュースを眺めていたが、ふと小さな記事に眼がとまつた。フランスの老政治家、エドアール・エリオ氏の訃を伝えた外電である。混沌を極める欧州の政界の中で、誇り高いボン・サンスの一つといわれるフランス急進社会党の統率者、八十四歳の老エリオの死は、朝のひととき、私の心をしばし静かな思いに沈潜させた。その瞬間ふと私は思い出した。「世界は愛に飢えている」という三浦君のさけびである。

 世界は愛に飢えている……その飢えたるものの幸福のために戦いつづけたエリオの闘争の生涯を私は思った。そして、三たび宰相の印綬を帯びたこの高名な政治家の魂に思いをはせた。エリオは、政治家である前に詩人だった。文学者だった。アカデミー・フランセーズの会員であり、文学博士である。第二次大戦のレジスタンス運動を指導して、ナチスの牢獄に捕えられた彼の激しい精神を支えたものは、何よりもまず彼の詩魂であったに相違ない。

 賀川さんはその詩魂の持主である。非類まれなる持主である。いや天才である。
 詩人三浦がそれを解説する。
 けだし壮観だ。

 放浪の美少女、エスメラルダを創造した詩人、ヴィクトル・ユーゴーも政治に魂を燃焼した。ラマルチーヌも詩魂の情熱を政治にたたきつけた。社会党のレオン・ブルムも詩人だった。そしてエリオだ。

 社会革命のプレリュードは、つねに詩人の情熱の歌によって奏でられる……。私もはっきりとそう思う。詩人三浦清一が、愛に飢えた世界を提訴する。天に冲する爆発だ。彼はこの一書に魂を寄せて、賀川豊彦と組み打ちする。賀川の腸をつかみとった彼の掌は聖者の血にまみれ、むせかえるような薫香をあたりいっぱいまきちらす。賀川豊彦の詩に合わす合唱がこだましてははねかえる。

 ああ、賀川先生。

 詩集「涙の二等分」を読んで涙を二等分したのは、三十余年の昔。風霜ここに年あり。先生壮にしてかっ健。よろこび何ものかこれにすぎんや。

 いま三浦は大賀川の伴奏をする。

 かつて三浦は、詩集「ただひとり立つ人間」を世に問うた。それは彼の壮絶を極める孤高のソロだった。悲愁大地に雨ち、義憤一世を払う粛殺の独奏たった。だがこのたび彼は伴奏者として立つ。詩人賀川豊彦に従横からライトをあて、メスをふるい、ピアノのキイをたたきまくり、躍りあがつて歌っている。見事な伴奏、美しい合唱、壮烈なデュエットである。

 詩のある政治、愛のある政治、彼はそれをもとめて歌っている。ほえている。泣いている。

 三浦よ。賀川というピアノを思い存分たたいて、歌え、泣け、ほえろ。

 世界中でこの役は君以外にないはずだ。

 私もまた、双手をさしのべ、声をはりあげて、このコーラスに参加しよう。

 ああ、世界は愛に飢えている。世界に愛をとりもどそう。この書をひしと胸に抱いて。














連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第174回)

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「田端義夫の記録映画<オース! バタヤン>」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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                第174回


        薄井清著『一粒の麦は死すとも―賀川豊彦』

  
 標記の著者・薄井清氏は「農民作家」として知られていますが、本書の奥付には、次のように記されています。

 薄井 清(うすい・きよし)
 昭和5年,東京都町田市の農家に生れる。24年より47年まで東京都農業改良普及員。31年『燃焼』で第1回農民文学賞,55年『権兵衛の生涯』で第28回地上文学賞受賞。
 主な著書に『都は土を狂わせる』『証言・農の軌跡』(家の光協会),『農業の崩壊と抵抗』(三一書房),『あの鳥を撃て』(日本経済評論社),『土は呼吸する』(社会思想社)など。
 日本良民文学会,新日本文学会各会員。

 本書の成り立ちに関しては、著者の「あとがき」に記されており、以下に取り出して置きますので、そちらをご覧いただくとして、賀川生誕百年記念のときに作られた映画「死線を越えて」では、山田監督はこの薄井氏の作品を参考にして脚本を練り上げておられるのではないか、と思った記憶があります。一読されて良い作品のひとつです。



                     あとがき

 賀川豊彦が偉大なキリスト教徒であったことは、ずっと前から知っていた。また戦前に大ベストセラーになった、『死線を越えて』や『乳と蜜の流るる郷』の作者であることも、よく知っていた。しかしそれ以外の賀川豊彦についての知識は、ほとんど持ちあわせていなかった。

 身近な出来事をとおして、賀川豊彦の名を耳にしたことは一度だけある。終戦直後だった。

 戦時中に陸軍兵器学校の将校宿舎が私の家の近くに建てられたが、米軍が厚木進駐と同時にそれは接収され、米軍宿舎にかわった。はじめてみるアメリカ兵は、まるで赤鬼のように、恐ろしい存在だった。そのはずである。まだ敗戦から一か月もたっていなかったのだ。アメリカ兵は永久に住みつくらしい、といった噂に村民はふるえあがった。

 ところが数か月でアメリカ兵は消えた。
 「賀川豊彦というひとが、マッカーサーと談判し、アメリカ兵を追い出して、学校にするらしい……」

 こうして生れたミッションスクールが、数年前に夏の甲子園大会で優勝した、桜美林(オベリン)学園である。

 賀川豊彦という人間はドえらいやつだと、その当時びっくりしたのを、いまにして思いだしている。

 それはそれとして、一昨年の夏、日本農業新聞の岡部博圀氏から、全共連のページに『農協共済の父・賀川豊彦伝』を劇画(一乗寺光画伯)にして連載したいが、それの台本を書いてくれ、という依頼を受けた。そのときにはなんとなし引き受けてしまい、それからのにわか勉強で、賀川豊彦を知ったというのが実情である。

 参考文献を調べ、関係者からおはなしをきくにつれ、私はやみくもに賀川豊彦にのめりこんでいった。労働運動や農民運動の指導者としての在り方には、いささかの反撥や疑念もあるが、「農村・農民」を愛する賀川豊彦の生き方は、深く触発されるところがあったからである。

 これが“偉人″の魅力とでもいうのだろうか。

 いつしか私は波瀾に満ちた偉人の軌跡にまきこまれた。一途にその軌跡を駆けた。七十二年の足早の巨きな足跡を、息をはずませて追っているうちに、本書ができたというのが、書き終えたあとでの実感であった。

 いま読み返して思うのは、農業協同組合は戦後にマッカーサーからあたえられたものではなくて、賀川豊彦を含めた産業組合運動家たちが、血みどろの戦いの末に勝ちとった組織である、という感慨である。

 その農協は、昭和四十年代には「中国の長征」にもたとえられるような、大躍進を遂げた。だがいま、米価据置、減反、自由化、それに構造的な金融不況が重なり、農協は一つの岐路に立たされている。賀川豊彦が生きていたら、どのようなアドバイスがあるか興味のあるところだが、それは不可能である。本書に描かれた“農協の父″といえる偉人の生きざまをとおして、農協運動の原点をさぐり、新たな農協運動展開の糧になればというのが、著者としての、祈りであり、願いである。

 執筆にあたってとくに全面的なご指導をいただいたのが、東京医療生活協同組合理事長の黒川泰一氏である。また出版にさいしては、家の光協会の伊藤正徳氏に親身にまさるご協力をいただいた。――この場をかり、心から厚くお礼申し上げます……。

 じつは私も地元町田市忠生農協の、理事の立場にいるものである。

 一人の組合員として、一人の理事として、『農協の父・賀川豊彦』の魂の前に、農協運動をますます発展させるための努力をお誓いし、ペンをおくことにする。

  昭和五十七年十二月
                                 薄井 清



 主な参考文献

横山春一著『賀川豊彦伝』(新約書房)
鑓田研一著『賀川豊彦先生』(日曜世界社)
賀川豊彦著『樹木作物とその収穫』(林野庁)
賀川豊彦著『病床を道場として』(福書房)
隅谷三喜男著『賀川豊彦』(日本基督教団出版部)
黒田四郎著『人間賀川豊彦』(キリスト教新聞社)
黒川泰一著『沙漠に途あり』(家の光協会)
青木恵一郎著『日本農民運動史』(日本評論新社)
                     その他


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第173回)

1

「神戸森林植物園のあじさい」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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               第173回


       横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』

  
 横山春一氏の『賀川豊彦伝』は既に取り出しましたが、標記の著書は昭和27年10月に新教出版社より出版されました。ほかでも書きましたように本書は、高校生のときにはじめて賀川に関する著書を読み、大変啓発された思い出の作品です。

 賀川がまだ生前の時のもので、たくさんの写真も収められており、読みやすい入門書となっています。



                       序


 賀川豊彦先生の生涯は、傅道と奉仕の生涯である。それは初めから神と人とにささげられて、今日に到った。

 ゆたかな智慧も、あふれる信仰の熱情も、愛も、すべて日本の教化と神の國建設のために、惜しむところなく用いられた。

 先生は日本を熱愛する。しかし、それは決して日本の「血と土」を無批判に誇るのではない。

 享棄と、犯罪と、暴力革命をさけぶ急進論者の破壊行為は、常に先生を涙の谷間にさそう。

 先生は世界人である。日本を熱愛することと、世界人たることとは、先生においては少しも矛盾しない。

 ところが、極端な國家主義者は、先生の國際主義を、反民族的なものときめてしまい、「私
にもし百の生命があれば、ことごとくそれを祖国のためにささげよう」と叫ぶ先生の憂國の悲願を理解しない。

 自由主義者の中にさえ、歴史の流れにうかぶ泡沫に目をうばわれて、太平洋戦手中の先生の言動が本質的に如何なるものであったかを、理解しない者がある。

 どんなにはげしい戦いの日にも、先生の口から、平和をもとめる祈りの言葉が絶えなかったことを知る人はすくない。平和は、先生が初めて聖書を手にし、洗礼をうけた日から、神聖な生活信條であった。先生の生涯は、平和と愛をもとめる祈りの上に展開された。

 遂には、キリストの使徒、パウロの、
「もしわが兄弟、わが骨肉のためならんには、我みずから呪われてキリストにすてらるるも亦ねがうところなり」
という悲壮な至情が、平和主義者賀川先生の心ともなった。
 
 賀川先生こそ、よきサマリヤ人の道を歩む隣人愛の闘士であり、平和の使徒である。

 私は一九五〇年に「賀川豊彦傅」を世に問い、ここにふたたび、別の角度から本書を書いた。もちろん、不備な点は多いが、それは今後さらに研究をすすめて、訂正したいと考えている。
 
 この度も鑓田研一氏に隈なく原稿を見ていただいた。それによって本書は一段の光彩をもつことができたと思う。

 また、長崎次郎氏、杉山健一郎氏の激励がどれほど力になったか知れない。心からの感謝をささげる次第である。

   一九五二年六月十二日
              イエスの友會間安使として放立つ前に
                                横 山 春 一











連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第172回)

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「昨日の神戸森林公園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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               第172回



       村島帰之著『賀川豊彦病中闘史』
  
 村島氏のこの作品は大阪の「キリスト教文書伝道団・ともしび社」より、昭和26年8月に出版されました。村島氏についてはこれまでたびたび触れていますが、このとき村島氏は「学校法人平和学園の学園長で、同高等学校長でもありました。

 本書に綴られている「賀川伝」は、私にとって最も気に入った作品ですが、手元にあるものは、昭和27年の第2版です。本書には賀川の「序」と共に賀川夫妻の写真と「序」の元原稿も入っています。

 なお、昭和33年11月には第3版が出ていて、最初に賀川夫妻の写真が取り替えられています。

 ここでは、賀川の「序」を取り出して置きます。



               序


 一生病気で苦しんだ私は、六十才を越えて、腎臓炎と心臓病に困難している。幼い頃阿波の田舎でマラリアと赤痢に毎年苦しめられた私は、十二才の時、中学佼の校医が、肺炎カタルと助膜がわるいから、休学するようにすすめてくれたが、卒業するまで押通した。だが、十七才の時、東京の学校で血啖をはくようになり、助膜炎が悪化した。十九才の時は、三河の豊橋の東八丁のキリスト教会で夏期傅道を手傅っていた時、遂に血と啖が気管支につまり、死の宣告を受けた。だが、不思議に、天父の癒しによって、その時は救われ、神戸の神学校に入学した。しかし、すぎ、少量ながら喀血するようになり、紳戸衛生病院に入院し、すぐそこから更に、明石の湊病院に、秋から冬まで約四ヵ月入院した。入院料がつづかないので、三河の国蒲郡府相村の漁夫の家を月一円で借りて自炊を始めた。そして「死線を越えて」を書き始めた。

 三河蒲郡府相村では約十ヵ月位もいたかと思う。少し決方に赴いたのでまた神戸神学校の一年生から始めた。今度は結核性痔瘻に苦しみ、京都大学猪子博士の手術を受け括約筋を一部切断した。之が一生、腹液の漏出となり、年を取ると共にいつも苦しんでいる。今度はまた鼻の蓄膿症の手術を兵庫県立病院で受け、これまた、大手術後血がとまらす、「死」の宣告を二度目に受けた。然し不思議に、最後の祈祷会を開いてくれた後に復活する元気をとりもどした。

 天に見放され無いことを知った私は、せめて、二十六、七才まで生きると有難いと思っていた。そして死ぬ前に神への御報謝として、貧しき者に仕えたいと、一九〇九年十二月二十四日、クリスマスの前夜、神戸葺合区新川の貧民窟に這入った。たえず午後になると三十八度近くの熱が出た。そして血粒もよく喉から出た。然しうち通した。そして、精神療法で決方に向った。その当事、九年十ヵ月菜食主義を守り、腹は一回も悪くした事はなかった。喀血していた間、牛乳と卵はとったが、肉も魚も食わなかった。蛋白質は主として豆腐と「油揚げ」でとった。

 二十六才の時、貧民窟で結婚し、大正二年(一九一四年)七月末、神戸を出航、アメリカに留学した。プリンストン大学在学中、菜食主義が持続出来ないので、やむを得ず肉食に変った。そして二年後シカゴ市に来て、また血痰が出だした。それで慌しく、日本へ帰る決意をしたが、旅費がない。ユタの沙漠で半年旅費を稼ぎ、日本に帰ったのは一九一七年四月であった。

 すぐまた貧民窟生活をはじめたが、不思議に、健康がよくなり、労働運動や農民運動をつづけた。

 だが、大正九年~十年の労働運動の盛んな時には、無理をしたために、痩せてしまい、また血痰も出たし、血の汗が出たことああった。そしてトラホームが悪化し、失明の恐怖が加わった。

 大正十二年九月一日、関東震災後は無理ばかりするために、それから二十八年、健康の善いという日は一日も無かった。震災救護に来て「土べた」の上に長く寝たことの冷え込みと、毎夜百七十四日間一日も休むことなしに、東京地方の精紳運動に、奔走したため、慢性腎臓炎と眼病が悪化した。遂に医者の注意で、本所の細民街から、武蔵野の松沢村に引越した。そのときオートバイが転覆し、一生脊椎病にかかることになった。そして右眼は、角膜離脱になった。それが不思議に平癒し、見えていた左眼の黒玉を電気で手術した所が傷になって、左眼の視力を失ってしまった。丹後の震災には、中耳炎に苦しみ、右耳が遠くなった。

 一九三一年アメリカ四キリスト教連盟の招待で渡米したが、大統領の個人保証で、トラホームで送還される代りに、医者と看護婦をつけて、アメリカの巡回講演を始めた。その時、腎臓が悪化し平田博士は私の血尿を見て驚き「寿命はもう五年しか持たぬ」と宣告した。しかしそれからもう二十年働いている。その後神の国運動の時一年間に九回も血痰を吐いたが、四年半の運動を継続した。

 戦時中に、栄養失調に苦しみ、桑の葉を食っていたが、長期にわたる下痢に苦しんだ。だが、不思議に戦後三年間、混乱に耐えつつ働いた。そして一九五〇年、まる一年間欧米で送ったが、あまり病気も重くならす、弱化する視力を気にしつつ戦った。合衆国七十万人に一日平均二~三回話をさせられた。日本に帰ると、すぐ、汽車にスチームが通っていないためにまた血尿が出るようになり、狭心症で四回倒れた。で、冬の間は、懐炉を脊に二つ腹に二つ入れて、全国の宗教運動にかけ廻った。夜は数回便所に行く。安眠の出来ない腎臓炎には、肺病以上に苦しむ。

 だが「我弱き時に、最も強し」と聖書に書いてある通り、私は自分を頼まないで、キリストの父に凡てまかせている。凡ては感謝である。生きていることも感謝、天父にありて生を後にして天国に行くことも感謝である。私は病気に對して不平は言わない。神よりの鞭として、感謝して之を受ける。「病中闘記」は私の感謝である。

 友人村島帰之氏も、病中闘記の人である。彼の雄渾な筆を以って、私の闘病記を綴られた事もまた感謝である。闘病の同志に精紳治療の一助とならば、村島氏に感謝すべきだと思う。

      一九五一・七・二
                         賀川豊彦
                                眠らざる東北の旅より帰りて








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