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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第215回)

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「夏の甲子園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など
     
        わが蔵書棚より刊行順に並べる
 
             第215回


       浜田直也著『賀川豊彦と孫文』  

 2012年1月、神戸新聞総合出版センターより刊行された浜田直也著『賀川豊彦と孫文』をもって、「賀川豊彦」ぶらり散歩―作品の序文など」(再掲)は、ここまでとします。

 ここでは加山氏の「はじめに」と著者の「自序」並びに「あとがき」を取り出して置きます。



                    はじめに

                          加山 久夫

 賀川豊彦(一八八八~一九六〇)は、神戸貧民街での救霊・救貧活動から始まり、労働運動、農民運動、生協運動、普選運動、平和運動など実にさまざまの社会運動を切り拓いた。また、大正時代のベストセラーとなった自伝小説『死線を越えて』をはじめ、その生涯において三〇〇冊を越える著作を執筆した思想家でもあった。世界的に日本を代表する著名人であり、三度ノーベル平和賞候補とされたのみならず、日本人初のノーベル文学賞候補にも推挙されている。しかし、賀川は没後、急速に忘れられ、今日ではその名を知る人は少ない。

 だが、大正から昭和にかけて賀川が先駆的に取り組んだこれら多方面での社会運動は、いずれも防貧運動であり、貧困問題や貧富格差の問題が顕在化し、それが現代資本主義社会の構造的問題としてますます深刻化しつつある今日、賀川の思想や実践や志はいま改めて見直されつつあるといえよう。歴史が彼を呼び戻しているのである。その意味で、新たな視野からの賀川研究は緒についたばかりであり、本書もまさしくその一つである。これまで賀川は欧米との関係で語られることが多かったが、浜田直也氏は賀川を中国との関わりのなかで捉える研究を積み重ねてこられた点でユニークな貢献をしている。賀川と中国との関係については知られてはいても、言葉の壁があり、これまで氏のような実証的研究ができなかったのである。

 賀川豊彦は十数回にわたりキリスト教伝道や講演のため中国を訪れ、孫文、魯迅、陳独秀、誠静怡、薛仙舟など、中国の近現代史において重要な役割を果たした指導者らとも交友関係をもった。彼はまた、訪中時にスラムを訪れ、調査するとともに、極貧のなかに苦しむ人々を解放するための提言をしている。つまり、協同組合(合作社)による中国改造論である。日本の軍隊が中国の奥深くに侵略し、多大の惨禍をもたらしている現実を目のあたりにするようになると、賀川はその著作や講演で中国の人々に謝罪した。その謝罪行
為のために、後に渋谷憲兵隊に検束されることになるのであるが。

 賀川と中国に注目する著者は、賀川の著作を読むうえでも、新たな光を与えてくれている。たとえば、賀川の小説『鳳凰は呼吸する』中の中心人物として内山完造や孫文が登場していることを読み解いてくれる。また、『死線を越えて』の続々篇『壁の声きく時』や「身辺雑記」などにおける記述に賀川の貴重な歴史的証言を読み取ることができることにもわれわれの注意を喚起する。

 本書は論文集であり、類似のテーマの論文が幾つか収められているので、当然重複が散見される。しかし、別の見方をすれば、いわば「重ね絵」のように、さまざまの方向からの論述は内容に立体感をあたえているとも言えよう。

 二〇一一~一二年は辛亥革命からI〇〇年の記念すべき年であり、その意味でも、本書はまことに時宜に叶った出版となった。多くの読者に読んでいただきたいとこころから希っている。

                  (賀川豊彦記念松沢資料館館長・明治学院大学名誉教授)



                    自 序


 本書は、「賀川豊彦と近代中国」を主題とした論文集である。賀川豊彦(一八八八~一九六〇年)は、大正から昭和初期にかけて、多彩な社会的業績を残した基督教社会運動家である。彼が手掛けて成果をあげた活動のなかでも、全国の生活協同組合は、彼の名を創業の父として語り継いできた。彼は、起業家としても時代の先を見抜き、後世の社会に計り知れない影響をあたえているのである。

 今、若者で賀川豊彦の名前を知るものは少ないであろう。二〇世紀前半、国内外において彼の名声は世に轟いていた。この時期、賀川は、欧米で「カガワ、ガンジー、シュヴァイツァー」と並び評され、“日本の聖人”として崇められていたという。医師日野原重明氏の言によると、トヨヒコ・カガワという名前は二〇ヶ国語ちかい言葉に訳されたいろいろな書籍によってよく知られ、戦前のアメリカでは多くの私淑者をもっていたということである。

 賀川の名を世に知らしめたのは、神戸市葺合区(現、中央区)に嘗て存在した貧民窟「スラム」での貧民救済活動による。賀川は、神戸神学校の学生であった一九〇九年一二月二四日に、病身を顧みずスラムの五軒長屋の五畳敷き部屋に地域の人と共に住み、伝道活動と救済活動に身を粉にして働いた。結果、賀川のスラムでの献身的な活動は、瞬く間に世に知られ、当時の『大阪朝日新聞』、『大阪毎日新聞』、『神戸新聞』の報じるところとなり、彼は“貧民窟の聖者”と評された。また、彼がスラムでの体験を取り入れて描いた自伝『死線を越えて』は、大正時代の最大のベストセラーとなった。

 これまでの賀川豊彦に関する日本・欧米での研究の成果は、国内外で膨大な数量に達している。彼の著作・関連資料が多国語に翻訳され、彼の業績は多角的に考察され人物研究として出版されている。ただ、賀川と中国に関する事蹟は、その重要性は認識されてきたものの何故か見落されてきた。彼は、一九四〇年八月二五日に、東京世田谷区の松沢教会での礼拝直後に、渋谷憲兵隊に拘引され反戦容疑で取調べを受け、巣鴨拘置所に収監されたが、時の外務大臣松岡洋右の要請により釈放され、その後東京での活動を中断して香川県豊島に引き移り監禁状態におかれている。これからしても、彼の日中戦争に対する軍部批判、戦争回避の言動が官権の放置できないものであったことが窺われるのである。

 賀川と中国との拘わりは、実は神戸のスラムでの活動時代の一九一三年の孫文との出会いに始まっていた。孫文(一八六六~一九二五年)は、中国の偉大な革命家、国父と呼ばれる民国革命の指導者である。孫文は、辛亥革命(一九一一年)に成功した後、袁世凱に臨時大総統の役職を移譲し、一九一三年に全国鉄道督弁(国鉄総裁に当たる)として訪日している。その際、孫文は神戸を訪問している。その歓迎の群衆のなかに賀川豊彦がいたのである。賀川は、この時の感動を一九二〇年に上海で孫文と会談した思い出とともに記録している。彼は、よほど孫文から感化を受けたのか、弟子の武内勝に、神戸での仕事が一段落したならば中国で活勤したいと語ったという。

 作家大江健三郎は、賀川豊彦生誕百年の講演「信仰を持たない者の側から何ができるか」において、『賀川豊彦全集』を一瞥しての見解として、彼は中国人民の立場に立つことがなかったと結論された。だが、この大江氏の主張は、閲覧資料の制約からくる誤認であり正鵠を得たものとは言えない。賀川が中国人民の立場に立つことができた人物であることは、全集に収録されなかった第一次資料を調査・分析することによって明白になってくる。

 賀川豊彦は、吉野作造(一八七八~一九三三年の推薦によって、一九二○年八月に上海日本人YMCΛの夏期講座の講帥として中国に渡航した。その際、神戸での労働運動の協力者の今井嘉幸(一八七八~一九五一年)の紹介状によって、孫文と上海のフランス租界にあった邸宅で会談する機会をもっている。周知のように、吉野作造と今井嘉幸は、大正デモクラシーの渦中にあって、吉野は「民本主義」を提唱し、今井は「普通選挙法」の旗手として活躍している。

 たった一度の会見に終わったが、賀川は、孫文から、日中両政府が当面していた問題に対して、とりわけ日本軍部の大陸政策に関して辛辣に批判されている。孫文は、初対面にも拘わらず、賀川に対して真意を披瀝しているのである。そのなかで、孫文は、おそらくは感情を昂ぶらせて一九一三年の前首相の桂太郎との会談で出た密約談を吐露してしまったのである。しかし、帰国後、賀川は公式の場でこの桂太郎との密約を語ることはなかった。
 
 賀川は、孫文に日本軍国主義の中国侵略を叱責され、日本軍の蛮行に対して恥じ入り、中国の人民に慙愧の念を懐いた。彼は彼なりの立場で、日本の軍国主義と対峙するようになる。米沢和一郎氏によってその存在が露になった、賀川の著書『愛の科学』の中国語版(一九三四年刊)に書き添えられた「新序」がある(「賀川豊彦の戦時下における侵略謝罪の意義」『賀川豊彦研究』三一)。そこには、第一次上海事変(一九三二年)後の上海を視察して書かれた、彼の日本の軍国主義に対する批判と、中国人民への謝罪の言葉で埋め尽くされている。

 また、賀川は、反共産主義の立場から中国に建設的な未来社会を構築する方策として、協同組合を社会の生産と消費の基礎単位とする「組合国家論」への発言を繰り返している。故森静朗氏は、賀川と中国の協同組合(合作社)運勣との関連について、『中国復興と日本』(未定稿、一九四四年)の記載に沿って略述し、それが孫交の「民生主義」に受容された協同組合思想に適ったものであったと指摘している(「賀川豊彦と中国」『賀川豊彦研究』三三)。

 本書は、賀川豊彦と中国というテーマを設定し、全体を総論、論考、附論、雑説に分け、これまでに学界に発表した論文、講演録等を纏めその全体像を浮き彫りにしようとしたものである。ただ、論文集という性格から、論旨と資料が重複するところがあることは避けられない。また附論とした清末の革命家の康有為(一八五八~一九二七年)の論考は、私の中国近代史研究の礎であることから、賀川研究とは異なる論考であるが日中交流史の観点から収録することにした。

 本書は、これまでの賀川研究の視野になかった「賀川豊彦と近代中国」を主題とした論文集である。なにぶん、先行研究の乏しい分野であり、また能力的限界から、資料の細部にわたる考察に漏れ落ちが生じているであろう。しかし、賀川豊彦が孫丈と出会い、会談し、日中戦争時下に中国人民の立場になって行動したことは忘却されてはならないことである。後世の賀川研究の中国分野に対する敲き台の役割を担えたならば幸せである。



               あとがき―私の賀川研究史抄


 私の歴史学研究は、父から受け継いだものが多い。医師であった彼が、私に語ってくれた日中戦争の悲話からは、中国人民に対する謝罪の気持ち、十分な医療を受けることなく死んでいった日本兵への憐憫の情が伝わってきた。また、小中学校の教師から聞かされた戦争体験も、哀しいものであった。いつしか、私の心の原風景には中国の映像が映しだされることになった。

 私は、佛教大学文学部史学科に進学し東洋史を専攻した。佛教大学の東洋史の教授陣は、私のような凡才には勿体無いような錚々たる先生方であった。なかでも森鹿三先生、狭間直樹先生、清水稔先生には、東洋史の基礎を教えていただいた。その後、大谷大学の大学院に進み、碩学の野上俊静、佐伯富先生から、東洋史のみならず学問観まで教えていただいた。いま、学恩をいただいた先生の多くが鬼籍に入られ、不肖の弟子は慙愧の念にかられている。

 人学院終了後、父が学部在学中に死去したことによる経済的理由から学究生活への道は選べなかった。一旦、中国書籍の販売と学術雑誌の出版を手掛けている某出版社に入社が内定したが、狭間直樹先生から京都大学人文科学研究所の中国近代史の研究班参加のお言葉をいただき、再び、私の向学心は学問の世界に向かい、中学、高校の講師をしながら中国史研究を続けることになる。

 当時、私を除いて、京祁大学人丈科学研究所には新進気鋭の才能あふれる若手研究者が揃っていた、中国史の学術研究にとって至高の場であった。研究発表の責務を考えると、私には荷が重い場所でもあった。同世代だった研究班員は、現在順風満帆に業績を残され東洋史の大家になられ、各大学で教鞭をとられ束洋史学界の第一線で活躍しておられる。

 私は、一九八〇年から奈良育英高校の教員として三十数年に及ぶ教員生活を過ごした。職場では、同僚にめぐまれ、優しい生徒に出会うことができた。私は、同僚の理解と生徒たちの励ましを得て、教育活動と学問研鑽に専念することができた。私を思慕してくれた生徒たちは、心の糧となっている。これまでに、寸暇を惜しんで書き溜めた論文三十余篇は学術雑誌に発表した。それらは、『中国史の研究』(朋友書店、二〇〇六年)として発刊した。

 私の研究業績にあって、「賀川豊彦と中国」の研究は、先駆者的なものであり国内外学界から反響を得た。そもそも、私の賀川研究は中国史の分野から質的に距離があり、はじめ研究テーマに設定するつもりはなかった。それが、何時の間にか賀川豊彦の研究家と評価されるようになった。さらに、上海華中師範大学の劉家峰教授は、「孫文と賀川豊彦」を中文訳されて、中国の学術雑誌に紹介して下さった。

 また、国内では、明治学院入学で開催される賀川豊彦学会での発表、佛教入学文学部での発表、『賀川豊彦研究』への論文掲載、鳴門市の賀川記念館での講演、神戸新聞カルチャーセンター講座講師、旧神戸賀川記念館賀川講座講師、など思いもよらぬ賞賛を得た。

 私が、賀川研究に着目した学問的動機は、偶々教室から始まったのである。私が賀川に関心をもつようになるのは、二十年程前である。ある日、私か担任をしていた女子生徒が武藤富男の『評伝賀川豊彦』について尋ねてきた。当時、私は彼女の質問に答えることができなかった。私は、賀川豊彦を調べて、その生涯に感動を懐くようになる。それ以後、賀川は、私の教員生活の理想になった。私が、校務と授業の合間の僅かな時間を使って、一気に書き上げた論文には、元来の怠惰と研究条件の制限からくる不備が付き纏った。

 いま、「賀川豊彦と孫文」研究の深淵な歴史的意義を鑑みる時、私の凡庸な学才をもってしては、この書は到底完成され得るようなものではなかった。これを成し得たのは、恩師挟間直樹先生はもとより、旧神戸賀川記念館長村山盛嗣先生、元イエス団理事長今井鎮雄先生、元イエスの友の会会長緒方彰先生、賀川研究家鳥飼慶陽先生、神戸イエス団教会員の方々、東京の賀川豊彦記念・松沢資料館の加山久夫館長、杉浦秀典研究員、奈良育英学園の同僚・生徒等多数の方々の後押しがあってはじめてできたものである。とりわけ、挟間先生は、私の蝸牛の歩みのような賀川研究を、常々心に留めて下さり、励まし導いて下さった。

 最後に、神戸新聞総合出版センター出版部長・岡容子氏には、出版にあたって貴重な助言を頂くことができた。ここに改めてお礼を申しあげる。私は、これまでにお世話になった方々に対し、感謝をこめてこの論文集を上梓する。

  二〇一一年一一月
                               著 者
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連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第214回)

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「夏の甲子園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

      わが蔵書棚より刊行順に並べる

             第214回


       賀川豊彦記念松沢資料館編
       『日本キリスト教史における賀川豊彦―その思想と実践』


  
 本書は2011年5月に、新教出版社より刊行された、重要な論文集です。当初「賀川献身100年記念」の折りに刊行を予定されていましたが、諸般の事情で少々遅れましたが、先行研究の貴重な論文も含まれていて、今後の研究の基礎資料としても有益です。

 ここでは、雨宮氏の「はしがき」と戒能氏の「あとがき」のみ取り出して置きます。


                    まえがき


 若き賀川豊彦が、大八車に、布団、書籍、それに幾らかの手荷物を積み、当時「貧民窟」といわれていた神戸新川に入って居を構えたのは、今から一〇〇年前一九一〇年の前年クリスマスの夕べであったことはよく知られている。年号で言うと明治四二年十二月ということになる。これを記念して準備に準備を重ね「賀川豊彦献身一〇〇年記念実行委員会」が神戸、東京、徳島に作られ、この書物の刊行はこの記念事業の一つとして、そこから生まれたものである。

 ところで、彼の新川入りの目的としたところは、最初は住民の救霊事業にあった。賀川はこの年の九月から、新川近くでいわゆる路傍伝道を開始している。そもそもこの路傍伝道なるものは、道端に立ち、道行く人々に、ただひたすらにキリストの福音を伝える業であった。キリストの福音を伝えることによって、聞く人に呼びかけその人の魂を救済することが目的であったのである。今日の言葉で言うと「福音宣教」であり、又「伝道」と言うことであった。

 当時神戸の新川という地域は、如何なる地域であったであろうか。安保則夫氏の『ミナト神戸 コレラ・ペスト・スラム』によると「兵庫の一角にあった旧市街を除いて、ほとんど寒村に近い状態から明治以降急速に都市化した神戸の場合、スラム形成の過程は、江戸時代からの流民が沈殿して、早くから下層階級を形成していた東京や大阪の場合とは、おのずから異なったものであった」のである。この神戸新川の場合は、一八八三(明治一六)年外国人のための家畜処理場が、この場所に移転されたことと、関浦清次郎の二百軒長屋がここに移転されたことから「新川地区」が生まれたようである。ここに神戸市内の木賃宿が集められ、あわせて神戸市内から出されるごみの捨て場になり、埋め立てが行なわれ、木賃宿、長屋の密集する地域になった所である。それに神戸におけるペスト、コレラ流行の時には、この新川地域に患者の発生が少なくなく、あたかも新川全体がペストの病原地であるかのように見られた。そのような地域であったのである。

 賀川はこの地域を目指して、キリストの福音を宣教したいと願ったのである。そして、賀川が新川に入ったのは、この福音宣教の業は、新川の外に居を構えて出来るものではないという判断が、彼の中に生まれたからであろう。酷く困難な状況に生活する住人の中に入り、生活を共にすることなくして、キリストの福音宣教は不可能と考えたのであろう。そこで生活環境の劣悪な、スラム新川に入り、生活をともにする必要を痛感したからであろう。賀川が新川で最初に作ろうとした団体を称して「救霊団」としたことは、その目的をどの様に考えていたか明らかにしている。

 その救霊団に早くから参加した武内勝氏によると、『賀川豊彦とそのボランティア』という彼の著書に述べているのであるが、その新川という場所は、「最初ここに移住してきた人たちは、あらゆる段階の落伍者であって良いと思うのであります。たとえば事業で失敗した人、貧乏で行くところのない人、未亡人、身体障害者、老衰者、道徳的失敗者、病人、失業者等、不幸に陥った人たちが大多数でありました。それと共に落伍者の住み易い条件が自然に備えられ形成されていたのであります。即ち、
 第一に、居住者が多くなれば、それに応じて家賃の安い長屋が立てられていったこと、
 第二に、他で売れなくなった品物をここに持ってきて、安く投売りされたこと、
 第三に、どんなみすぼらしい風采でもお互い様で、恥じにならない気安さがあること、
 第四に、日雇いの雇い主が手配に寄ってきて、簡単に就職出来ること、
 等が挙げられます。新川に住み着く者の生活標準は最低と言うよりどん底でありましたから、彼らにとって、新川ほど住みやすいところはなかったのであります」(一七頁)とある。

 またこの書物には、地域の環境として、家賃のこと、共同便所、高利貸し、賭博、喧嘩のことが淡々として述べられている。

 あるいは第五章の「妨害、脅迫、迫害」の頂では、賀川が『死線を越えて』で描いている自分への脅迫の出来事が、日常のこととして述べられている。脅かされても、殴打されても、刃を突きつけられても、ただ無抵抗に徹して忍耐した賀川の姿が、その傍らに居た者の証言として語られている。いずれにせよ、今日では想像に困難な地域であった。

 ただ賀川の場合、伝道者であろうとするにしても、この新川入りに彼の独自性が見られる。つまり普通の神学生が、神学校を卒業して既成の教会に牧師として招聘を受け、そこに住居が与えられ、生活費も用意され、そこで伝道・牧会がなされる。これが通常の伝道者の歩む道である。賀川はそのような道を歩まなかった。自ら「非戦主義者」であること、また「社会主義者」であることを公表していた賀川である。普通な牧師として歩むことを断念していたに違いない。

 当時神戸に急速に拡大しつつあったスラム新川に、単身で住み込み、そこに在る長屋の一軒に居を設けることにしたのである。そこで伝道を試みたのである。恐らく彼をしてこのような新川に入ることを促したのは、長尾巻牧師との出会いがあったことは知られている。

 一九〇七(明治四○)年夏、神戸神学校に転校直前、夏期伝道の奉仕者として「豊橋教会」に行き、その教会の牧師であった長尾巻を知ったのである。この方は生涯清貧に甘んじ、貧困に苦しむものに対して、市中のホームレスに至るまで、求められれば惜しみなくあたえた人である。

 後に賀川は、長尾巻牧師召天三周年に行なわれた記念講演会で次のように語った。

 「長尾巻はこの世において位はなかった。牧師は皆貧乏だが、これくらい貧乏な牧師は見たことがない。自分は明治四十年、彼の伝道を助けるつもりで豊橋に行ったことから彼を知るに至った。自分は肺病で彼の家のぼろ二階に寝かせてもらい、親身も及ばぬ世話になった。
 彼は貧乏のどん底にいながら、愚痴、不平を一度だって彼の口から聴いたことはなかった。また彼が怒ったのを見たことがなかった。彼の行いは満点であった……長尾巻に接し、新約が日本人のものとなったと思った。こんなのを『聖人』と言うのだと思った。『隠れた聖徒』これが長尾巻に奉るべき、もっとも適当な称号であると思う。
 自分が神戸新川に入って貧民伝道を思い立っだのは、長尾巻から学ばされたからである。彼の生活それ自身が神の生活、それが真の宗教生活である」と述べている。その通りであろう。

 更に賀川の新川に入ることに影響を与えた人物として、ジョン・ウェスレーの存在が考えられる。賀川が新川にはいる前年、一九〇八(明治四一年「結核性痔痩」の手術を受けるため、京都大学付属病院に入院した時、ウェスレーの日記を読んで「貧民伝道」をひそかに考えたということもあったようである。

 賀川は退院した後、京都五条の穂波牧師の二階にしばらく静養させて貰った。その間、ウェスレーの日記を読んで、感激をしたらしい。ウェスレーが胸を患いながら、驚くべきキリスト教伝道のため大事業を展開したことを学び、そこから得た感激が、賀川をして新川伝道に赴かせたという説、がある。周知のように、ウェスレーは一八世紀のイギリスにおいて、信仰覚醒運動を起こし、当時イギリスの植民地であったアメリカ・ジョージアヘの伝道の旅をつづけている間、モラビア兄弟団の人々に触れ、その影響を受けている。またルターから学び、回心後、極めて熱心に伝道に励み、鉱山に入り、また貧しい人々の中に入り、ただひたすら伝道に尽くした。この日記が賀川に新川入りを促したというのである。大いにあり得ることである。

賀川は新川に入り、驚くほどの労苦を払っている。キリスト教を宣教するために彼は新川に入ったが、彼は住人の貧困に目を向けざるを得なかった。当然であろう。彼は人間全体の救済を願ったのである。新川住民の困窮を見ることなくして、住民の救いを求めることは不可能であった、この地城には、行き倒れの人、寄る辺なき病人、看取る者なくして死に往く者、捨て子もいる。賀川はそれらの人たちの世話をすることを厭わなかった。進んで世話をした。賀川の住いに絶えず病人が転がりこんでいた。彼は自分の課題は人間の魂の救済にあり、肉体的・物質的救済は自分の仕事ではないと、決して考えなかった。ひとりの人間の救済は、その人の全人格的なものであり、身体を捨象した抽象的な霊魂の救済のみを思考することは出来なかった。

 賀川は住民の救貧を求めた。神戸市内の諸教会に訴えて、新川住民のために物的救済の道を探った。しかしそれには限界かおることが分かったのである。上からの救済であり、施しである。そのようなことで真実な貧困の救済は得られない。

 彼は「救貧」から「防貧」の道を求めたのである。なんとしても住民が、自らの貧困を克服する手段を考えた。そのために地域住民のために「天国屋」と称する一膳飯屋を経営するが、見事に失敗するのである。食い逃げ、貸し倒れによる。本当の防貧策は何であるのかが、賀川の真の課題になったのである。その根底には、人間の全人間的救済が問題であった。

 賀川はそのような課題を抱きながら、アメリカに留学する。彼はプリンストンで多くのものを学んだのであるが、彼のもっとも大きく学んだものは、労働運動への参与であったと言い得るであろう。彼はアメリカ労働運動に直面して、労働運動に目を開き、真の防貧は何であるかを体得したのである。何よりも労働者の立ち上がることにあると判断した。

 賀川は帰国後、当時鈴木文治の指導で歩み出していた日本労働運動「友愛会」に加わり、たちどころに指導者の一人になる。当然である。彼には労働運動に対して独自の理論をもっていた。彼は労働者の人権と人格を尊重し、それを快復する運動理論を持っていた。単なる実践活動家ではなかったのである。彼は日本の労働運動のオピニオン・リーダーとして、注目を浴びた。彼の理論の根底に、新川における体験が存在していたのである。

 彼の労働運動は農民運動に及び、さらに生活協同運動に展開したことは知られている。
 しかし、彼のすべての活動は、彼にとってはキリスト教宣教の業であった。伝道者として当然の行為であった。彼なりのキリスト教理解が、その全部の行為と働きの背景に存在していたのである。

 このように顧みると、賀川の新川体験は、日本の社会とキリスト教会に極めて大きな意義を待ったことになる。ここに賀川豊彦獣身一〇〇年記念を行なう意味がある。そこで、この活動と理論は日本のキリスト教の教会史の中で、どのように評価されたかが、問題となるし、また問題となった。賀川は単なる実践家ではなかった。彼には理論がある。神学があるし、哲学がある。壮大な理論を展開している。彼の実践的な働きと共に、賀川の神学も研究されたことは当然であった。

 この書物には、今まで著名な研究者によってなされた、いわゆる先行研究が多く収められている。いずれも日本のキリスト教の歴史に残る貴重なものである。

 竹中正夫氏、武田清子氏、熊野義孝氏、工藤英一氏、金井新二氏、河島幸夫氏、鵜沼裕子氏、古屋安雄氏、土肥昭夫氏、小川圭治氏の諸研究である。

 それに幸いなことに、賀川の働きと神学は、先行者の研究に続いて若い研究者によって新しい視点から研究もなされている。これらの研究者の成果も発表することが出来た。

 加山久夫氏、倉橋克人氏、戒能信生氏、栗林輝夫氏、藤野豊氏、野村誠氏の諸研究である。

 恐らく賀川豊彦の研究は、これからも続けられるであろう。豊かな将来を期待したい。
 最後に大本英夫氏と古屋安雄氏の対談を付すことが出来たことは幸いであった。感謝したい。以上の言葉でもって「まえがき」とする。

    二〇一〇年十月                                  
                                 雨宮栄一



                   あとがき


 二〇〇九年十二月は、賀川豊彦が神戸新川に飛び込んでその活動を開始してから丁度一〇〇年目にあたっていた。そのことを想起して賀川豊彦献身一〇〇年記念プロジェクトが構想された際、その当初から本書『日本キリスト教史における賀川豊彦 その思想と実践』の企画があった。それは、賀川を始祖とする数多くの関連事業各団体の賀川評価と比べるとき、キリスト教界における賀川研究ははなはだ不十分だという認識、があったからである。社会事業家としての賀川豊彦、消費組合運動、労働組合運動、農民組合運動、普通選挙獲得運動、さらに戦後の世界連邦推進運動などの広範な分野における賀川の活動について、これまで膨大な量に及ぶ紹介や研究がなされて来た。例えば、これらの関連団体から刊行されている賀川豊彦の伝記の類だけでも三十数種に及ぶのである。あるいは、各研究機関や研修機関から発行されている紀要や研究報告を瞥見すると、賀川に関する言及、賀川とその周辺についての研究は膨大な件数に及ぶ。しかし、その一方でキリスト教界における賀川豊彦の評価はアンビヴァレンツなままである。神格化と言えるような絶賛に近い評価がある一方で、全否定に近い批判的な研究もあり、しかもその両者が全く噛み合わないまま放置されて来だのが、キリスト教界におけるこれまでの賀川評価の実態ではなかっただろうか。このような問題意識をもって、「日本キリスト教史における賀川豊彦」研究プロジェクトが発足することになった。そして賀川豊彦獣身一〇〇年記念事業プロジェクト実行委員会から推薦のあった加山久夫、金子啓一、栗林輝夫、倉橋克人、野村誠、藤野豊の諸氏が招集され、戒能信生かその責任者とされた。また賀川豊彦記念松沢資料館の学芸員杉浦秀典氏が、事務局として全面的にサポートしてくれることとなった。

 二〇〇八年三月一八-一九日、松沢資料館を会場に第一回の研究会が行われた。しかしこの研究会の中心的な役割を担うことが期待されていた金子啓一氏は、参加に意欲を見せながらも、健康上の理由で参加がかなわなかったことはまことに残念であった。集まった研究員たちは、先ず賀川豊彦についてのこれまでの研究状況について話し合った。重要な先行研究の多くが絶版であったり、容易に人手し難いものも少なくなく、賀川をまともに論じることの環境を整えることから始めなければならないというのが共通認識として確認された。そこで代表的な先行研究のリストを作成し、その中から本書第一部に掲載する十点の先行研究の掲載を確定した。しかしここに収録されたもの以外にも、例えば隅谷三喜男の賀川論や雨宮栄一の評伝三部作なども当然挙げなければならない。しかし特に単行本になっており、かつ版が生きているそれらの書物については、分量の関係で収録を断念する他はなかった。しかし、ここに上げられた一〇点の賀川研究だけでも、これまでの賀川研究の大筋を見晴らすことはできるだろう。そして、これらの先行研究の解題の意味合いを込めて、第一部の最後に「先行研究との対話を通して」を倉橋克人氏に書下ろしてもらうこととした。

 研究会で話し合われたもう一つは、賀川を研究する際の方法論、手法についてである。賀川は多様な領域にまたかって活躍した人であった。言わば境界を越えた人物であった。したがってその賀川を研究する方法論は、学際的、あるいは様々な学問的方法論の境界を越えてなされねばならないはずである。にもかかわらず、キリスト教界の賀川研究の方法は、従来の神学的枠組みに規定されて来たと言えるのではないか。つまり賀川を研究する方法論、その手法に欠陥があったのではないかという視点である。そもそもこの国の第二世代のキリスト教会の宣教の担い手として、例えば中田重治、山室軍平、そして賀川豊彦といった人たちが挙げられるだろう。この第一世代のリーダーたちは、第一世代の指導者たちが手をつけられなかった領域に、いずれも果敢に宣教的アプローチを展開して行った。それは、庶民・民衆、そして農民、労働者たちへの宣教という使命であった。あるいはそれらの人々に対する社会事業、社会福祉的な展開でもあった。そして、中田のホーリネス教会も、山室の救世軍も、賀川の社会事業や伝道活動も、大正から昭和の初期にかけて、それぞれ目を見張るような成果を生み出していった。にもかかわらずキリスト教界における中田・山室・賀川たちへの評価は依然として低いままである。中田を、山室を、そして賀川を十分に評価しうる方法論、研究手法が不十分なのではないか。そのような問題意識をもって、各研究員のそれぞれの問題意識からの賀川豊彦研究を新たに書き下ろしてもらうこととした。

 同年九月一一~一二日に二回目の研究会を行い、それぞれの研究発表を行い、相互批判を行った。その成果が、本書第二部に収録された研究員の各論文である。したがって、研究論文の大方は二〇〇九年の春ごろにはほぼ事務局に寄せられていた。それが本書の刊行が遅れに遅れたのは、第三部に収録予定であった大木英夫・古屋安雄両氏の対談を起こしてまとめる作業が大幅に遅延したためである。その責任はひとえに戒能にあり、この場を借りて心からお詫びを申し上げなければならない。

 ある意味で、これが賀川献身一〇〇年プロジェクトが展開された二〇〇九年の段階におけるキリスト教界の賀川研究の水準である。そしてここから、さらに次の時代の賀川研究が自由に飛翔してくれることを心から期待している。

 なお、本書刊行について、賀川豊彦献身一〇〇年記念プロジェクト実行委員会から多額の出版助成を受けたことを、感謝をもって記す。

   二〇一一年二月
                             戒能信生

連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第213回)

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      賀川豊彦の著作―序文など

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            第213回


    加藤重著『我が妻恋し―賀川豊彦の妻・ハルの生涯』

  
 この作品もUPが遅れてしまいましたが、瀬戸内寂聴さんの推薦文の帯のつけられた加藤さんの好著は、199年3月に晩聲社より出ています。賀川ハルに焦点をあてたまとまった作品はまだ出ていなかったなか、見事な書き下ろしが登場しました。

 「賀川ハル史料集」も出揃って、ハル研究も若い人々によって進められていくことでしょう。

 ここでは、加藤さんの「まえがき」を取り出して置きます。


                   まえがき


 私は長年、キリスト教主義の学校・横浜共立学園の国語科の教師をしていました。定年後の平成三(一九九一)年に横浜共立学園は創立百二十周年を迎えるにあたって、学園史(『横浜共立学園百二十年の歩み』)をまとめることになり、私も編集委員のひとりとして執筆することになりました。

 ひと口に百二十年といっても、その歳月はやはり相当なもので、集められた資料は膨大でした。私は、多くの資料を読みながら、卒業生の多彩な活躍ぶりに感歎しました。このとき、大正期のベストセラー小説『死線を越えて』で有名な賀川豊彦の妻ハルが、昭和十八(一九四三)年に廃校になった共立女子神学校の卒業生であることを、初めて知ったのです。

 数年前から『同窓会報』に「一二○年史こぼれ話」を連載することになり、共立卒業生で社会的に活躍された方々を何人か紹介してきました。あるとき、賀川ハルについて書いてみようと考えました。私はそのとき、賀川ハルはどのようなかたであるかもまったく知らないで、資料を集めはじめたのです。

 それから一年七ヵ月が経ち、多くの資料が集まりました。資料を読み進むうちに、私はすっかり賀川ハルの凛とした生き方に魅せられてしまったのでした。賀川ハルは、自身では「はる、はる子、春、春子」と、時によりいろいろ名前を使いわけて書いています。また、夫の賀川豊彦も愛をこめて「春子」と書いていますが、小学校の成績表や名誉都民賞を受けたときに「ハル」と書かれておりましたので、ここでは「ハル」と統一して書きました。

 賀川ハルは、夫の賀川豊彦が身命を賭して入り込んだ神戸の貧民街にためらうことなく住み、貧しい人びとに尽くし、三人の子どもを育てながらキリスト教の伝道に励み、悩める人びとの相談を聞き、多くの著作を書き、女性の覚醒のために活動しました。

 この事実だけでもすごい人だと感歎するのに、それだけではありません。キリスト教伝道のために奔馬のような勢いで駆けめぐる賀川豊彦の陰にあって、ハルは賀川がつぎつぎと興す社会事業の意義をしっかりと理解し、経済面でも掌握して、賀川豊彦が存分に働けるようにきめ細かな配慮をしていました。

 なにしろ賀川豊彦の社会事業は、とてつもなく他方面にわたって展開されています。そのどれもが、賀川豊彦の著作物から得る印税と賀川を支援する人びとの浄財でまかなわれているのです。そのため賀川家の台所は常に火の車でした。

 ハルの協力なくしては賀川豊彦の事業の拡がりはなかったでしょう。事実、賀川豊彦は「春子は僕のためによう尽くしてくれた。ようやってくれた。もし春子がいなかったら、僕の仕事はできなかったかも知れないよ」と、親しくしていた三浦清一牧師にしみじみと述懐しています(『神はわが牧者』)。

 賀川ハルは病気がちの夫の看護に献身し、夫を心の底から愛し、信頼し、夫の力を信じたよき妻であると同時に、賀川豊彦にとっては志を同じくするすばらしいパートナーでした。賀川ハルについて何人かの方々が研究し紹介していますが、まだまだ少ないのです。そこで私を魅了してやまない賀川ハルの九十四年の生涯をたどってみることにしました。

 ところが、賀川ハルについて調べているうちに私はもうひとつの壁につきあたりまた。それは、今の人は「賀川豊彦」のことをなんにも知らないという現実でした。

 大正期に百万部以上も売れた超ベストセラー小説『死線を越えて』の作家「賀川豊彦」と言っても、若い人はきょとんとしています。そんなことってありましょうか!

 そういう私自身も今回賀川ハルを調べるなかで、賀川豊彦の偉大な業績に驚嘆しました。賀川豊彦は、私の理解を絶するほどの偉大なキリスト教伝道者であり、生涯に百五十冊以上の著作を出版した著述家であり、また詩人です。そしてさまざまな社会福祉事業を興したパイオニアでもあります。賀川豊彦の仕事はあまりにも広く大きくて、書きつくすことはできません。

 「日本の賀川」「世界の賀川」と言われ、二度もノーベル平和賞の候袖に上がった人です。神学生であった賀川豊彦は、肺結核で何度か死の淵をのぞきますが神の摂理でしょうか、そのたびに生きかえりました。二一歳のときに、命あるかぎり貧しい人びとに尽くそうと決意して神戸にある「葺合新川」という貧民街に移り住みました。以来七十二歳(数え年)までの五十年間、さまざまな分野を開拓者的精神で切り開いてきました。

 社会評論家の大宅壮一は賀川豊彦を偲んで次のように記しています。

 「明治、大正、昭和の三代を通じて、日本民族に最も大きな影響を与えた人物ベストーテンを選んだ場合、その中に必ず入るのは賀川豊彦である。ペストースリーに入るかもしれない。(中略)賀川豊彦は、その出発点であり、到達点である宗教の而はいうまでもなく、現代文化のあらゆる分野に、その影響力が及んでいる。大衆の生活に即した新しい政治運動、社会運動、組合運動、農民運動、協同組合運動など、およそ運動と名のつくものの大部分は、賀川豊彦に源を発していると云っても、決して云いすぎではない。(中略)
 近代日本を代表する人物として、自信と誇りをもって世界に推挙しうる一人をあげようと云うことになれば、私は少しもためらうことなく、賀川豊彦の名をあげるであろう。かつての日本に出たことはないし、今後も再生産不可能と思われる人物1それは賀川か彦先生である。                                                     (『神はわが牧者』)

 賀川豊彦の活動範囲は日本だけではありません。世界各国を駆けめぐって伝道し、平和をよびかけています。いまでは賀川豊彦の名前は外国のほうによく知られています。

 この、実に裾野の広い賀川豊彦の活動を、ハルは力強くサポートしつづけたのです。賀川豊彦とハルは、いつも大勢の人びとのあいだにあって、家庭的な団らんをもつ余裕もなかったのではないでしょうか。でも二人の心は強く結ばれていました。賀川豊彦はハルにこんな詩を贈っています。


          妻恋歌

      わが妻恋しいと恋し
      三十九年の泥道を
      ともにふみきし妻恋し
      工場街の裏道に
      貧民窟の街頭に
      共に祈りし妻恋し
      憲兵隊の裏門に
      未決監の窓口に
      泣きもしないでたたずみし
      わが妻恋しいと恋し
      千万金を手にしつつ
      じゅぱん そで
      儒絆の袖口つくろいて
      人に施す妻恋し
      財布の底をはたきつつ
      書物数えて売りに行く
      無口な強き妻恋し
      あられに霜に雷鳴に
      傘もささずに走り行く
      強きわが妻いと恋し
      緑の髪は白くなり
      肌には深き皺よせて
      若きかんばせ失せゆけど
      霊のわが妻いと恋し
      めしいの夫の手を引きて
      みめぐみ数える妻恋し

         一九五〇・十二・六
         これだけが 私の あなたへの クリスマスプレゼントです

      主にある春子様


 深い敬愛の情が込められているこの詩は、賀川豊彦が六十二歳のときアメリカ伝道中に創ったものです。賀川豊彦はこの十年後の一九六〇年四月二三日、七ー歳九ヵ月で永眠しました。相思相愛であったハルは長寿を全うして、九十四歳で生涯を終えています。

 明治・大正・昭和という日本の現代史に偉大な足跡を残しか賀川豊彦を支えつづけた賀川ハルとは、どんな人だったのでしょうか。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第212回)

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        賀川豊彦の著作―序文など

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              第212回


         賀川豊彦写真集刊行会編
         『賀川豊彦写真集 KAGAWA TOYOHIKO』

  
 この連載ではUPが遅れてしまいましたが、本写真集は、「賀川生誕百年記念」として、昭和63年6月に東京堂出版より刊行されました。

 ここでは、隅谷三喜男氏の「刊行のことば」と賀川純基氏の「あとがき」のみを取り出して置きます。


                刊行のことば

                           賀川豊彦写真集刊行会会長
                              隅谷 三喜男

 1988年は賀川豊彦の生誕百年に当る。賀川豊彦は20世紀の日本にとって、忘れることのできない、忘れてはならない人物である。彼ほど広い分野で,深い影響を,日本のみならず世界に与えた人は少ない。その根底にあって、その思想を生み出した根源は、キリスト教信仰であった。彼は何にも増してキリスト教の牧師であり、伝道者であった。

 若くして胸を病み,残る人生を最大限有意義に生きようとスラムに住みこみ,最底辺の人たちの友となった。第1次大戦期に労働運動が胎動すると,請われてその指導に当った。また、大正末期に日本で初めての全国的な農民組合を組織した。と同時に、賀川が現代社会の病と闘う社会運動として情熱を傾け続けたのは,生活協同組合から産業組合にまで広がる協同運動であった。さらに世界平和の運動と思想にも力を注いだ。又かれが詩人であり、1920年代のベストセラーになった小説家であったことも忘れてはならない。

 その賀川豊彦の姿を見せてくれる写真集を刊行する運びとなった。文字を通してとは異なる鮮明なイメージを感じとっていただきたいと願っている。



                  あ と が き


 1987年9月に開かれた賀川豊彦生誕100年記念実行委員会で、賀川豊彦写真集刊行会が結成されました。一部の有志の間ではかなり前から計画され,また多少準備もされていたのですが、隅谷三喜男先生を会長とする刊行会の成立によって、この事業は軌道にのり編集に当たるために賀川純基、生協からの協力者として亀山孝之と中村陽一、英文を担当するG.W.ギッシュが選ばれました。

 写真資料は1982年に賀川豊彦記念松沢資料館が出来て以来、一万三千点にものぼる沢山のものかありましたが,分野によって数の多い少いがあり,また掲載するのに耐えるものの数は以外と少なく、編集には苦心をしました。

 見る賀川伝として文字を少なくし,英文も加えたレイアウトは字数の制限がきつく,やむを得ず略号(Kingdom of God Movement→K.G.M.,Farmers Gospe1 Schoo1→F.G.S.など)を用いました。人物の紹介も最小限に止めましたので、説明が少しが足りないのではないかと心配ですし、広い領域にわたる賀川豊彦の働きも、この一冊では充分表すことは出来ないのですが、この写真集の全頁から彼の生き方を感じとって頂きたいと頻っています。

 若いころ賀川豊彦の近くにいて,学生消費組合運動などに力を尽くされた山岸晟氏が会長を務める三秀舎は,この計画の当初から協力的に参加され,東京堂出版を紹介してくださいました。担当の今泉さんは熱心に松沢資料館に足を運び,まとめるのに苦心をしている私達の作業を,出版に到るまで忍耐強く導いて下さいました。またその間,煩雑な校正の作業は奈須英子さんに助けられました。

 松沢資料館が出来てから今までに、多くの方々が写真資料をお寄せ下さいました。また、予約申し込みをして資金の用意に力を注いで下さった方が数百名になります。これらのすべての人々のご協力を得て、この写真集は完成しました。神の御導きを感謝します。

  1988年5月7日
                             編集代表 賀 川 純 基


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第211回)

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        賀川豊彦の著作―序文など

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              第211回


       ロバート・シルジェン著・賀川豊彦記念松沢資料館監訳
       『賀川豊彦―愛と社会正義を追い求めた生涯』


  
 本書は、2007年5月、新教出版社より出版されました。難航していた翻訳作業は、幸いにも加山久夫氏の全面的協力があって仕上げられた好著です。
2012年9月には、シルジェン氏を迎えた講演会も開催されました。ここでは、古屋氏の「まえがき」と著者の「日本語版への序文」を取り出して置きます。

 (本書の第6章「農民と被差別部落民」の部分は、翻訳の時点で著者の同意のもとに110行ほど削除措置がとられている。私見では、やはり全文翻訳の上、必要な場合にその箇所についてコメントを付すのがベターな措置であったと思われますが、その点惜しまれます。)


                    まえがき

                            古屋安雄


 本書は、賀川豊彦(一八八八-一九六〇)の生誕百年の年にあたる一九八八年にアメリカで出版された、ロバート・シルジェン『賀川豊彦 愛と社会正義の使徒』(Robert Schildgen, Toyohiko Kagawa.Apostle of Love and Social Justice, Centenary Books,1988)の邦訳である。

 いまでこそ著者は、全国的な環境雑誌Sieraの編集局長(一九九八-二〇〇五)として有名であるが、執筆当時の著者は、カリフォルニア州の生活協同組合の週刊誌Co-op News1の編集長であり、むしろ無名の自由作家であった。しかし、彼は、賀川について予断のない立場から、かえって見事な賀川についての伝記を書いたのであった。

 まだ日本人全体の共通理解にはなっていないか、近代日本社会の人間化に賀川ほどの貢献をした人物はほかにあまり居ないであろう。ところが、日本では彼がその牧師であったキリスト教会においても高く評価されていなかった。けれども賀川ほど、特に戦前であるが、世界に知られた日本人は居なかったのである。本書の序で著者が述べるように、戦前の世界の聖人の一人が賀川であったからである。

 しかし、それゆえに戦時中の賀川は微妙な立場に立たされて、大変な苦労をしたのであった。そして、戦後はアメリカにおけるかつての名声ゆえに、戦時中の言動を厳しく批判された。また、遂にその名声のゆえに、進駐軍にそして戦後の日本の方向に大きな影響を及ぼしたのであった。賀川ほど死後も毀誉褒貶が激しい日本人は、日本のみならず外国にも居なかったであろう。

 したがって、賀川の生涯と業績を「客観的」に描くことは、決して容易なことではない。いずれは、包括的な伝記が日本人によって書かれねばならないであろう。けれども、そのためには、生前は日本でよりも外国でよく知られていた賀川像を知る必要がある。その意味で本書の価値はきわめて高いものがある。本書はまだヨーロッパとアジアの諸国にまで視野は及んではいないが、『クリスチャン・センチュリー』誌をはじめ、アメリカのマスコミには目をとおしているからである。それに、著者が本書のために研究調査をしているときに、たまたまアメリカで牧師をしていた賀川の次女籾井梅子をインタビューして、ほかでは得られない賀川像にも触れているからである。

 我が国でも、やっと本格的な賀川研究か始まったときに、本書の邦訳が出版されることの意義は大きい。これによって、賀川自身への関心が深まり、さらに賀川の主要関心事であった愛と社会正義、そしてその基本にあった信仰への研究調査が進められることを願って止まない。とくに現在の日本基督教団を分裂させている「教会派」と「社会派」を克服する道は、賀川豊彦の愛と社会正義が、そこから由来した「神の国」信仰ではなかろうか、と考えるからである。
   
  二〇〇六年二月十八日
              (賀川豊彦学会会長・聖学院大学大学院教授・国際基督教大学名誉教授)



                  日本語版への序

                            ロバートーシルジェン


 いかにして階級、宗教、人種、国家の対立をのり超え、兄弟姉妹として共に生きかつ働くか、そのことを言葉と行為をもって人びとにさし示すために、賀川豊彦はその生涯をささげました。賀川が最初に世界の注目を集めたのは、日本におげる最も貧しい人びとに救済の手をさしのべる、自己犠牲を伴った、彼の教えでありました。彼は、米国や他の国々を長期間訪問しては、兄弟愛、平和、正義、協同組合運動などを世界に訴えたのでした。

 戦争や貧困の恐るべき結果をよく知っていた賀川は、日本や世界で争いを惹き起こす原因を少なくするために、働きつづけました。彼は争いがどれほど容易に友愛を失せさせるかを理解し、暴力が、階級、人種、宗教、国家を利用してエスカレートする危険性について警告しました。二十世紀の未曾有の戦争や大量殺戮は、国際平和への彼の訴えがいかに緊急のことであるかを示すことになります。人類は平和な戦後の再建、貿易、条約、組織などをとおして、国際的調和を創造するための、いくらかの評価すべき努力をしてきましたが、わたしたちぱ今なお暴力的な世界に生きています。わたしの国は、過去半世紀、しばしば対外政策の手段として、戦争や暴力による威嚇を選び、他の多くの国々同様に悲惨な結果を味わってきました。それゆえ、賀川の平和のメッセージは、彼が十代の若者として日露戦争に反対した百年前と同様、今日でも重要なのです。戦後目本の「平和憲法」に対する心からの支持は、若き日の、軍国主義反対の、成熟した表現にほかなりませんでした。

 賀川は、ガンジーのように、西洋の理念の影響を受けたアジアの国際主義者であり、ガンジーのように、これらの理念が西洋において有していた影響力を獲得するために、それらを新しい形に変えました。(わたしたちは、ガンジーが米国公民権運動の指導者マルティン・ルーサー・キングに与えた大きな影響を想起します。)賀川の国際主義には、アメリカ経験から得た多くの撚り糸が見られます。例えば、彼は在米中、日本人労働者を支援するために、彼らを組織したが、その経験を日本に持ち帰り、労働運動の指導者となりました。彼はまた、ジェーン・アダムスが米国諸都市の貧困者に援助の手をさしのべたことから学んで、日本において貧しい人びとのための住宅や診療所をつくるために彼女の方法を用いています。賀川はキリスト教に入信し、キリスト教を日本的状況に適用したが、このことにより、彼は西洋のキリスト者たちに、彼らの宗教理解についての新たな見方を提供しました。例えば、彼は善意とユーモアをもって、日本的視点から、米国における多くの教派の必要性や教派間の不一致について、問いかけています。彼はまた、キリスト教的視点から、米国キリスト者らの人種主義を批判し、これほど豊かな国がどうして富の公平な分配をこの程度にしか実現できないのか、問いかけました。

 賀川の国際主義は協同組合運動への終生にわたる惜しみない支持にもっともよく表れています。賀川は、十九世紀初頭の英国における社会改革に根をおろした協同組合運動に触発され、日本に生活協同組合を組織しました。さらに、彼は著書や多くの講演をとおして、一九三〇年代、米国の生協指導者たちに大きな影響を与えたのでした。

 興味深いことに、わたしがこの伝記を執筆することのできた背後には、このような国際的な友好や生協運動がありました。そのことを少しく述べておきたいと思います。

 現代の協同組合運動は一八八〇年代、英国、口ツチデールで生まれました。ロッチデールで提唱された原則の多くは今日に至るまで世界のほとんどの協同組合によって堅持されてきています。協同組合の最も重要な原則のひとつは、「協同組合は、性別による、あるいは社会的・人種的・政治的・宗教的な差別を行わない」ということです。英国には、長年、政治的・宗教的対立の血なまぐさい歴史がしばしば繰り返されてきたので、ロッチデールの組合創設者たちは、もし分派的であったり、信条により人びとを排除するようなことがあれば、彼らの組織は成功しないであるうと考えました。

 バークレー生協はこれらの原則と真剣に取り組みました。大恐慌のとき、新たな経済の仕組みをもとめたフィンランド系アメリカ人、学生、地域住民らによって一九三〇年代に創設されたこの組合は、誰もが参加できるオープンな会員組織としました。その初期の指導者のなかのある人びとは賀川の講演を聴き、あるいは個人的に会い、経済的、社会的問題と取り組む方法としての協同組合に関する彼の主張からインスパイアされ、会員のみならずスタッフの雇用についてもオープンにし、まだ人種差別の強かったこの時代にアフリカ系アメリカ人や日系アメリカ人を雇いました。このような実践は彼らから歓迎され、日系アメリカ人とコープの絆を強固なものとしました。

 日本人との重要な結びつきはほかにもありました。第二次世界大戦下、日系アメリカ人への人種差別はもっとも過酷なものとなり、十万人以上の西海岸の日系人は政府がつくった収容施設に送られたのでした。徴兵を拒否し、その代わりに奉仕活動をするために収容所に送られていた白人アメリカ人たちがいましたが、ある日本人たちは彼らと親しくなり、収容所内に協同組合をつくり、戦後、アメリカの生協運動の指導者となりました。

 そのなかのある方々が、一九八八年賀川豊彦生誕百年に際して、賀川への敬意から、伝記の出版を計画したのでした。バークレー生協の指導者であった日系アメリカ人ジョージ・ヤスコウチぱ私に賀川伝を執筆するよう要請し、そのための財政的支援を賀川生誕百年記念委員会からいただけるようにしてくださいました。

 本書執筆は私にとって素晴らしい経験となり、賀川の働きや思想との深い出会いのときともなりました。それはまた、日本とその歴史を学ぶ機会、賀川関係の人々との恵まれた出会いを提供してくれました。読者の皆様が私か執筆者として得たのと同様に多くのものを読者として本書から得てくださいますよう、そして、さまざまの形で、賀川の平和と正義のための働きを継承してくださいますよう、心から願っています。
   
   二〇〇六年十一月




連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第210回)

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       賀川豊彦の著作―序文など

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             第210回

       作画・藤生ゴオ、脚本・大崎悌造、
       企画監修・賀川豊彦献身100年記念事業神戸プロジェクト実行委員会


       『劇画 死線を越えて 賀川豊彦がめざした愛と協同の社会』

  
 本書は、2009年11月に「家の光協会」より刊行されました。韓国語訳も先般完成しました。本書の制作にはいくらか関与させてもらったこともあり、よい仕上がりになっていることに満足しています。先のこの連載の折に本書の一部をスキャンして収めましたので、ここではなにも収めない事に致します。








連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第209回)

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       賀川豊彦の著作―序文など

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             第209回


      K=H・シェル著『賀川豊彦―その社会的・政治的活動』

  
 本書は、2009年8月に教文館より刊行された、シェル氏のドイツ・ハイデルベルグ大学神学部の学位論文の邦訳です。ここでは著者の「まえがき」を取り出して置きます。


                     まえがき


 一九八二年―八三年の冬学期に、東京の北東七〇キロにある国立筑波大学宗教学部教授、小川圭治博士が、ハイデルベルク大学客員教授として招かれ滞在した。彼はハンス・ヴエルナー・ゲンジッヘン教授との共同ゼミを持っていて、私はそれに参加したことで初めて、日本の文化、歴史、宣教史ならびに日本のキリスト教の神学的傾向と、その状況を知ることができた。

 この学期で私は、神学者にして社会改革者である賀川豊彦について、日本の神学とあわせて学んだのであった。学期の終わり頃、小川教授より筑波大学に来て自分の下で賀川研究をさらに深め、日本のキリスト教会の現状も現場で学んでみないかと勧められた。一九八八年八月、賀川豊彦生誕一〇〇年の年、私はドイツ学術交流会(DAAD)の研究奨学金を得て来日した。一年目は、東京新宿の朝日カルチャーセンターで日本語集中コースに入り、それから筑波大学哲学・宗教学科博士課程の入学試験を受けて、以来一九九〇年三月まで正式なドイツ人留学生として在籍した。

 さらに上北沢にある賀川豊彦記念・松沢資料館(賀川純基館長)をたびたび訪れ、賀川研究学会に出席して、大学での研究の足りない部分を補った。この学会は賀川研究の諸問題を取り上げ、毎月例会を開き、さらに年に一度の研究発表学会を持っている。この論文で引用している、多くの賀川研究者らとの出会いが可能になったのも、小川教授の尽力による。賀川記念センターでは、関西方面の彼の活動について調査した。私の理解する日本
と生きたキリスト教は、実質的には一九二四年創立の日本基督教団信濃町教会のことである。大きな教会で、およそ四百八十名の会員がいる。私はさらに、東京・横浜ドイツ語福音教会の牧師として一年間(一九八九-九〇年)の契約で奉什し、日本のキリスト者との共同生活を通じて、大切な経験をいくつも与えられた。中でも森田弘道牧師の指導するディアコニッセ施設、加須市(埼玉県)にある「愛の泉」と、その教会との関係は貴重なものだった。

 私はなによりもまず、小川圭治教授、―現、尚絧学院大学学長――に多くの点で研究を支えられてきており、深く感謝している。日本研究の情熱を引き起こしてくれたのは、彼のおかげであった。はじめは全く未知であった文化を詳しく学んでいく中で、多くの理解と忍耐を私に向けていただいた。そして研究の方向性を示してくれたのである。

 日本の文献を人手する際、以下の方々に大変お世話になった。ここに感謝申し上げる。カール・べッカー教授(京都大学)、松本知子夫人(ドイツ東洋文化研究協会)、ロペルト・シュティーバー牧師(大阪、日本基督教団部落解放センター)、伊藤朋世(みやぎ生協常務理事)の諸氏である。日本国際交流基金や東京の日本キリスト教協議会から、日本での精神科学の研究や、教会の展開に関する最新の情報を得ることができた。

 アメリカの文献人手については、オースティン長老派神学校教授ジョンーアルサップ博士(テキサス)にお世話になった。
 ドイツ帰国後、テオドールーイェッケル牧師(オーバーウルゼル)とヘルべルト・ヴォルム博士(ハンブルク大学、日本学ゼミ)に助言を頂いたことを感謝したい。ヴオルフガング・エガー博士、ガブリーレ・ステューバー博士と、シュパイヤー、プファルツのプロテスタント領邦教会資料室の方々によって、ドイツ東亜伝道会の資料が利用できるようになった。日本語資料の翻訳には、井上良雄教授(東京)、エクコ・バウムバッハ氏(ランパートハウム)、保呂篤彦博士(名古屋)の方々から援助を頂いた。

 教会の奉仕に従事しながらこの論文を完成するのには、かなりの時間を要した。最後に、私の博士号論文の生みの父、テオ・ズンダーマイヤ―教授(ハイデルベルク大学)に感謝を申し上げる。彼は、終始批判的な目を持ちつつ、励まし続けてくれた。この論文(表題「日本のためのキリスト――賀川豊彦〈一八八八~一九六〇年〉の社会的・政治的活動」)は、ハイデルベルク大学神学部から、一九九三年博士号修得学位論文として認定されたものである。

  一九九四年 夏  バート マリーエンベルクにて
                            カール=ハインツ・シェル



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第208回)

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「六甲高山植物園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223)


       賀川豊彦の著作―序文など
 
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             第208回


      阿部志郎・雨宮栄一・武田清子・森田進・古屋安雄・加山久夫著
      『賀川豊彦を知っていますかー人と信仰と思想』

  
 本書は、2009年4月に教文館より刊行されました。ここでは執筆者のひとり・加山氏の「はじめに」を取り出して置きます。


                   はじめに


 本書は、賀川豊彦献身一〇〇年記念事業の一つとして企画されたラジオ放送の講演集です。

 一九〇九(明治四二)年一二月二四日、二十一歳の賀川豊彦神学生は、余命長くないことを医師から告げられて、残された時を最も貧しい人々のために献げようと神戸のスラムに身を投じました。そこで考案し、実践した救貧・救霊の諸活動は、セツルメント、労働運動、農民運動、普選運動、無産政党樹立運動、協同組合運動など、その後同志らとともに切り拓いていった数々の社会運動の原点となりました。それらはすべて、賀川にとっては、キリスト教信仰に根ざしたものであり、イエス・キリストの福音を現代に身体化したものにほかなりません。

 したがって、賀川が関わった多方面の運動や多分野にわたる知的関心は彼の内面において統合されていました。「賀川豊彦の全体像」を捉えることはきわめて困難であり、これまでなされた幾つかの試みは必ずしも成功したとは言いがたいと思います。もとより本書は小著であり、その取り上げたテーマは賀川の全体像を捉えるには不ト分であります。しかし、賀川を内面から、内在的に捉えるという意味では、賀川理解に寄与するところ小さくないと思いますが、どうでしょうか。それは、賀川自身の表現で言えば、「贖罪愛」であり、「贖罪愛の実践」と言うことに集約されます。より一般的な表現で言えば、それは「愛と協同」あるいは「相愛互助」を基調とする人間理解であると言えるかもしれません。

 賀川豊彦が目指したものの殆どは、今日、実現しており、その意味で賀川の時代は終わったと言う見解もあるかもしれません。しかし、「労働者は人格である」、「労働力はモノではない」と語った賀川の発言は、人間が疎かにされる、現代の病める時代に、改めて傾聴されなければならないメッセージをもっているのではないでしょうか。また、社会主義が崩壊し、利益優先の資本主義が行き詰まりつつある現代世界において、賀川が指し示した相愛互助の協同組合主義による「第三の道」はいま、改めて注目されます。本書の読者にこれらのことを幾分でも感じ取っていただければ、誠に幸いです。

 ラジオ放送の企画(二〇〇九年四~九月、毎土曜日夜)については、キリスト教放送局日本FEBC(吉崎恵子代表)の協賛をいただきました。ご多忙の中、講演をお引き受けくださった先生方に感謝します。また、困難な出版事情のなか、本書の出版をご快諾くださった渡部満教文館社長およびお世話下さった出版部の倉澤智子さんに感謝いたします。

   二〇〇九年三月一〇日
                             加山久夫



連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第207回)

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「神戸文学館にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


       賀川豊彦の著作―序文など

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             第207回


      鳥飼慶陽著『賀川豊彦の贈りもの―いのち輝いて』

  
 本書は、2007年4月に創言社より刊行されました。鳥飼の賀川三部作の最終巻です。ここでは、「はしがき」を取り出して置きます。



          はしがき―「賀川豊彦献身100年記念」を前に
 

 不思議なご縁で「賀川豊彦」に魅せられ、はや50年が過ぎました。高校生のときに出合うことのできた牧師夫妻から、はじめて「賀川豊彦」について学び、その影響で牧師の道へと導かれ、いまにいたりました。


 この牧師夫妻は「鎌谷幸一・清子」御夫妻で、夫婦とも牧師でした。幸一先生はすでにその生涯を終えておられますが、清子先生は90歳をこえてご健在です。5年前『賀川豊彦再発見』を謹呈したおりも、わざわざ丁寧な御手紙を届けてくださいました。その文面には、つぎのようなことばが記されていました。


 「賀川先生は、私にとっては信仰の大恩人、そしてお兄さんの様に懐かしい人です。優しく厳しく導いていただいた、とっても身近に思える先生です。
私が幼少の頃、両親と死別し、親亡し児と言うことで、この世にすねてひがんでつっぱり、いわゆる問題児になってみんなに心配をかけ、親族会議の結果預けられたのが『武蔵野農民福音学校』、所謂『賀川農場・賀川塾』でした。全国から私の様な子供たちが預けられて塾生活をしておりました。(中略)
 昭和10年2月10日、雪の降る聖日、賀川先生より洗礼を受けたのです。20歳の時でした。賀川先生のその柔らかい温かい手のぬくもりは忘れられません。そしてえくぼのあるあの笑顔は、今もこの目に焼き付いています。(中略)
愛の人・赦しの人、徹底して愛の深い、寛い、赦しの人との印象が強く残っております。難しいことは、私にはわかりませんけれど、とにもかくにも素晴らしい先生でした。こうして書いてくださったこと、とても嬉しくありがとうございました。」


 賀川豊彦と同時代を生きてきた人々が、だんだんと少なくなるなか、賀川を直接知らない世代に属するものが書いたこんな小さな作品でも、こうして忘れえない日々のことが、いま新しく甦る契機にはなるようです。嬉しいお手紙でした。


            「賀川豊彦生誕百年」から20年


 ご記憶の方もあると思いますが、1988(昭和63)年は「賀川豊彦生誕百年」の記念の年でした。あれから早くも20年近くの歳月が過ぎました。


 あの年は映画「死線を越えて・賀川豊彦物語」をはじめ演劇、講演会やシンポジウム、資料展示や写真集の出版等々、多彩な事業が展開されました。当時は、賀川豊彦と共に歩まれた先達が、まだ多くご健在でした。いずれの企画にも、静かな熱気が漂う意義深いもので、いまもあのときの記憶が、鮮やかに想い起こされてまいります。


 とくにあのころ、キリスト教界の、なかでも日本基督教団にあっては、賀川没後20年以上を経たなかで、当時の部落解放運動による差別糾弾闘争の余波を受け、同時に教団の抱えた内部の事情もからみ、いわゆる〈「賀川豊彦と現代教会」問題〉といわれる「難問」に突き当たっていました。一般にこれは「賀川問題」とも呼ばれていましたが、それは賀川豊彦の「部落問題認識」と彼の「部落解放運動に対する批判と離反」、ひいてはその「福音理解の問題」にまでおよぶものでした。


 ここで展開された「賀川批判」は、あまりに一面的なものであったことから、同じ教団に属するひとりとして、1986(昭和61)年5月、直接当時の教団総会議長宛に「質問と希望・意見」を提出するなどした上で、もっぱらこの問題の解決のために、わたしにとって賀川に関するはじめての著作『賀川豊彦と現代』を、兵庫部落問題研究所より刊行したのでした。それが丁度この「賀川豊彦生誕百年」の年とかさなりました。


 これに対する教団関係者からの直接的応答はありませんでしたが、本書に対する一般読者からの、思いもかけない大きな反響をお受けしました。多くの新聞や雑誌でも取り上げられ、各種の集会において「賀川豊彦」を物語らせていただく機会まで与えられました。


 賀川豊彦は現在、その名前さえ知らない人々もけっして珍しくありません。しかし一方でなお多くの人々の心のなかには、彼の献身的な生涯の足跡が、ずっと消えずに生きていることを、再確認させられることになりました。


 そして、あれほど声高に取り上げられた「賀川問題」も、日を追うごとに影をひそめていきました。あの「賀川豊彦批判」は、新しい時代につなぐ積極的なものをほとんど残さず、未消化のまま「沈静化」していったように、わたしには映ります。


 逆に、あの乱暴ともいえる「賀川批判」を機縁にして、これまでにも倍して、身を入れて「賀川豊彦を学ぶ」幸運に恵まれることになりました。


 こうして第1作の『賀川豊彦と現代』から14年後の2002(平成14)年秋には、その間に与えられた愉快な諸経験を書きとめたものをまとめた小著『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』を創言社より刊行できたのでした。そしてこれも、お蔭様で第一作同様、多くの方々に受け入れていただきました。


 かてて加えて、柄にもなく幾つかの大学や専門学校で「人権教育」もしくは「人権論」を講じてきていましたので、第2作の刊行以後、これを授業のテキストに活用して、現代を生きる若い学生諸君に、いっそう新鮮な今日的な問題意識を盛り込んだ「賀川豊彦講義」をおこない、現在に至っています。


 そこで今回、前作からはまだ日を重ねていませんが、その後の諸論稿と講演記録などの中から、「賀川豊彦と部落問題」に言及した第3作目として、本書『賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて』を刊行することにいたしました。


 まずはこれで、わたしにとっての「賀川豊彦3部作」ということになります。


                   本書の構成


 本書第一章は、1960(昭和35)年にその生涯を閉じた賀川豊彦の「没後40余年」の時の流れを、私的な歩みと重ね合わせて、できるだけわかりやすく簡潔にまとめてみた「個人的ノート」です。


 はじめにこれは、兵庫県人権啓発協会の『研究紀要』第4輯に発表されたあと、『人権の確立に尽くした兵庫の先覚者たち』(同協会発行)その他でも、求めに応えて公開されてきたものです。


 つづく第二章では、これまで過熱気味に論じられてきた「賀川豊彦と部落問題」を、この段階で総括的に整理し、「部落問題の解決と賀川豊彦」として概観してみたものです。


 これも未熟な忘備録ふうのノートのままですが、最初、明治学院大学で開催された賀川豊彦学会の公開講演会で発表のあと、『賀川豊彦学会論叢』第14号に掲載され、このたび部落問題研究の老舗として知られる、京都の部落問題研究所の研究紀要『部落問題研究』の最新号(第177号、2006年10月)に補筆して収めたものです。


 右の第一章と二章のふたつの論稿をもって、これまで「賀川豊彦と部落問題」として論じられてきたものに、一応の決着をつけることができたのではないか、と考えています。


 なにぶん、「賀川豊彦と部落問題」と申しましても、一般にはほとんど関心もなく、正確な情報も届きにくい主題でもありますから、「賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて」という著書のなかで、この問題を直接扱うのには、正直なところ、少々場違いの感もあるかもしれません。


 しかし「賀川問題」が右のような経緯であっただけに、「賀川豊彦と部落問題」に関する基本的な理解と、それに対する自らの見解をもつことなしには、どこかほんとうには賀川豊彦理解に一抹の不安を覚えてしまう、といわれる方々も少なくないようです。


 もちろん、この問題はけっして難しいことではありません。この機会に、問題の所在がどこにあったのかを見ていただいて、わたしのような「ひとつの見方」もあることを、目に留めていただくことができければ、有難く存じます。そしてここに書き記した「ひとつの見方」に対して、こんごも読者の厳しいご批評を期待して、さらなる研鑽を重ねていきたいと願っています。


 ところで、第三章の「21世紀に生きる賀川豊彦」は、わたしの属する日本基督教団の、四国教区徳島分区信徒会の総会にお招きを受けたおりの、下書き草稿です。


 わたしにとってはこれまで、教団内部からのこうした講演依頼は、じつは大変稀なものでしたので、格別の印象を残しています。御覧のように、そこでのお話は、いつものようにまとまりのないずさんなものですが、講演のあとの皆さんとの「開かれた自由な意見交換」は、わたしにとってありがたい経験でした。


 本書でも記していますように、わたしたちは、1966(昭和41)年4月より、賀川豊彦の働きのなかで成長してきた「神戸イエス団教会」から招聘されて2年間、貴重な経験をさせていただいた後、1968(昭和43)年春からは、神戸における賀川のもうひとつの活動拠点として知られる長田区番町地域で、「在家労働牧師」としての新しい生活をはじめました。


 もう40年近くも前のことですが、当時はまだ、同和対策の特別措置法が策定される前で、「未解放部落」などという用語が違和感なく使われていた時代でしたし、この地域はとくに「大規模都市部落」として広く知られていて、解決すべき諸課題が山積していた時代でした。


 相方と共に「牧師としての按手礼」を受けた後でしたが、六畳一間の小さな我が家を「番町出合いの家」と名づけて、夫婦ふたりの牧師だけの(当時は幼いふたりの女の子がいましたが)、日本基督教団公認の伝道所としてスタートしました。


 わたしたちが「牧師」であることも、我が家が公認の「伝道所」であることも「知る人ぞ知る」ままに、「日々の出合い」を楽しんで、感謝のうちに歩んでまいりました。


 33年間という長期にわたる同和対策事業の法的措置の期間を終えて、はや今年(2007年)まる5年も経過しています。多くの人々の努力がみのって、かつての地域の生活環境は一変し、人々の暮らしも変りました。


 わたしたちも、ありがたいことに、いつも「大きないのち」の支えと励ましを受け、多くの先達や友だちにも恵まれて、「在家労働牧師」としての、小さな歩みを、こんにちまで継続することができました。激動の渦のなかにありながら、そのなかで「信じて生きる」ことを、いくらかでも学ぶことが出来たように思います。


 歩み始めたしばらくのあいだは、日々の労働とともに山積みされた地域の課題に没頭していて、まさにモグラのような暮らしに明け暮れていましたので、教区・教団との直接的な責任ある関係は、ほとんど持てず、「在家労働牧師」として生きるという「ひとつの実験」に打ち込むときがつづきました。


 ところが、1970年代になってから日本基督教団は、教団関係者の出版物に「差別表現」があるとして「部落解放同盟」による「確認会」をうける事態をむかえます。本書でふれていますように、1980年代には、日本の宗教界は、仏教教団を中心に「部落問題フィーバー」で大揺れいたします。


 それは、1979(昭和54)年の第3回世界宗教者平和会議における曹洞宗宗務総長の発言(「日本の国の中には差別待遇はない」として「報告書」から「日本の部落問題」を削除させた)をめぐる問題などを契機にして、日本の宗教教団に対する厳しい「確認・糾弾」行為が行われ、1981(昭和56)年には「同和問題にとりくむ宗教教団連帯会議」という、特定の運動団体との連帯組織がつくられていきました。


 わたしたちの教団もこれに積極的に加わり、教団内に「部落解放センター」を設立して連帯活動をすすめていきます。


 そして、特別措置法が策定されて31年も経過し、神戸では「同和対策事業」そのものを終結してしまった2000(平成12)年7月になって、わたしたちの教団では、はじめて「日本基督教団部落解放方針」を決めて、「教団・教区・教会として部落解放運動」をすすめようとしています。


 これは、右のような複雑な全国的な状況と教団内部の諸事情を反映したものとおもわれます。


 部落問題解決の歩みは地域によって大きく違いがありますが、神戸においては、すでに1971(昭和45)年の神戸市独自の詳細な「同和地区生活実態調査」を踏まえて「長期計画」を策定し、総合的な同和対策事業が開始されていました。


 ですから、1974(昭和49)年11月に引き起こされた、あの兵庫県立八鹿高校教師への「部落解放同盟」による「集団暴力事件」を契機に、行政も部落解放運動も、そして地元自治会組織などもこぞって、神戸市独自の計画方針を再確認して「長期計画」の完全実施にあたり、結果的に「部落解放同盟」との決別の道を歩むことになりました。


 神戸における部落問題の解決の独自な歩みについては、本書でもふれていますが、わたしたちの場合、教団および「部落解放センター」の右のようなとりくみには、こんにちにいたるまで、一定の距離を置いて批判的立場を頑固に貫いてきました。


 この間の、キリスト教界の部落問題への関わりについての批判的吟味は、右の事件が起こった年(1974年)の春に設立した「神戸部落問題研究所」(後に「兵庫部落問題研究所」「兵庫人権問題研究所」へと名称変更)の研究紀要『部落問題論究』などで「キリスト教と部落問題」や「宗教の基礎」といった諸論稿にまとめて発表してきましたし、それらはのちに『部落解放の基調―宗教と部落問題』(創言社、1985年)に収めましたので、御覧頂いた方もあると思います。


 震災のあとには『「対話の時代」のはじまり―宗教・人権・部落問題』(兵庫部落問題研究所、1997年)を、そして前掲『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』などで、日本の宗教界の抱えこんでいる基本問題を解くための「対話的解決のすすめ」を提起して、微力ながらその責任を果たしてまいりました。


 こうした歩みのなかでの、四国教区徳島分区信徒会総会における講演と「開かれた自由な対話の場」でありましたので、わたしには格別の喜ばしい機会となったのです。


そして第四章〈「賀川豊彦」小さな断章〉に収めた二篇の小品は「寄り道の一服」といったものですが、そのうちの一篇は、1988(昭和63)年4月以来18年間にわたって、神戸・六甲山の豊かな自然のなかで学ぶ「神戸保育専門学院」の学生たちとの恵まれた出合いを経験させていただきましたが、そこでの感謝の気持ちを記したものです。この学院は、賀川豊彦の遺志を受け継いで建てられ、惜しまれつつ昨年(2006年)3月末で35年の歩みを終えました。


 最後の第五章「いのち輝いて」は、賀川豊彦にふれた部分はわずかですが、2005(平成17)年の夏、京都府京丹後市の幼小中高の先生方の主催になる人権教育関係の研究大会での講演草稿です。


 今日の学校教育の現場は、教師の方々も生徒たちも、また教育行政に関わる人々も、地域の父母にあっても、複雑な新たな問題を抱え込んでいます。


 賀川豊彦の生涯がそうであったように、困難のただなかにあって、いつもあきらめずに、「いのち輝いて」生きることのできる「確かな土台」が、すべての人と共にあることを、読者のみなさんにお伝えしたくて、本書の最後に収めることにいたしました。


 2006(平成18)年の世相を象徴する「漢字」に「命」が決まり、清水寺管主による見事な「命」の文字が揮毫されたニュースが、昨年暮れに流れました。


 この「いのち輝いて」という言葉は、近年「人権教育」の講義の主題にしていますが、賀川豊彦の波乱に満ちた生涯は、まさしく「いのち輝いて」あゆむ一歩一歩でした。


 賀川自ら書き残した365日の日々の黙想『神と歩む一日(WALKING WITH GOD』(日曜世界社、昭和5年)にしたがって、実際に「新しい朝」を迎えてみるときに、あらためて今、そのような想いがいたします。


 「いのち」は確かに「天与の賜物」です。「いのち」は授かったものですから、自分勝手にはできません。授けていただいたお方の「いのち」だからです。
「いのち」は確かに、まず第一に「天与の贈りもの」です。


 賀川豊彦は「天与の贈りもの」である「いのち」に出合い、「いのち」のダイナミズムに、すべてを委ねて、無心に毎日を生きました。


 そうした想いを活かして、第五章の表題を、本書の副題に入れてみました。
 果たして本書の全体が、うまく「起(第一章)承(第二章)転(第三・四章)結(第五章)」とつながって、無理なく読みすすんでいただけますかどうか。


 書名とした『賀川豊彦の贈りもの』は、前作『賀川豊彦再発見』のなかに収めた小稿のタイトルですが、あの小稿は「2001年神戸聖書展」のときつくられた『神戸と聖書―神戸・阪神間の450年の歩み』(神戸新聞総合出版センター)に寄稿したもので、賀川豊彦の〈独自のコスモロジー〉と〈「生き方」の開拓〉を、そこでは取り上げました。


 自らつけたこの「賀川豊彦の贈りもの」というネーミングが、なぜかわたしには気に入っていましたので、ここで活かしてみたのです。先日、本書の目次を先輩の延原時行先生にメールしたところ、すぐに短い返信があって「題が良いですね。贈りものは、賀川が天与の贈りとして受けたものでしょうね―第一義的には。第五章が貴兄の本領でしょう。楽しみに存じます。」と激励されました。この簡潔な返信の言葉は、「賀川豊彦」を物語るとき、特に大切なことでした。


             「賀川豊彦献身一〇〇年記念」を前に


 ところで、間もなく2009(平成21)年の「賀川豊彦献身100年記念」の時を迎えます。すでに2005年5月には「記念事業委員会」の全国委員会が発足し、「関西実行委員会」の準備会も2006年2月にはじまりました。


 「賀川豊彦生誕百年記念」のときも、兵庫県や神戸市、コープこうべや神戸YMCA、神戸女学院や関西学院、そしてイエス団系列の諸事業体等々、関係する多くの団体や個人が名を連ねた「関西実行委員会」がつくられ、多彩な記念事業がとりくまれましたが、今回はさらに規模を大きくして、「賀川豊彦献身100年記念事業関西実行委員会」の組織化がすすみつつあります。


 東京には本格的な「賀川豊彦記念・松沢資料館」が機能し、四国徳島には「鳴門市賀川豊彦記念館」が開館し、神戸にも「コープこうべ」の素晴らしい研修施設「協同学苑」に記念の資料室もできています。


 また、東京「本所賀川記念館」も、神戸と同じく地域に根ざした隣保事業が展開されており、新しい時代に仕える「賀川記念館」の事業展開が、日々継続されています。


 地元神戸の「賀川記念館」は、賀川没後三年目に建設されてすでに四三年が経ち、あの大震災を経験して建物も痛んできたため、「再建計画」が練られているときに、奇しくも「献身100年記念」の年を迎えることになりました。


 現在、「イエス団」関連事業所の大きなサポートのもとに、「再生プロジェクト」がつくられて、新しい夢―「賀川メモリアルホール(礼拝堂)」「アーカイブ」「友愛幼児園」「子どもミュージアム」「コミュニティー・サポートセンター」「臨床保育研究所」など―が語り合われています。


 ともあれこの小著『賀川豊彦の贈りもの・いのち輝いて』が、今回も読者のこころに届き、賀川豊彦を活かした「大きないのち」の世界に、共に生きることができるように願っています。あわせてこれが「賀川献身100年記念」の取り組みの上に、何かのお役に立つことができるなら、これに過ぎる喜びはありません。


 今後も各方面からの厳しい批判をお受けして、真理・真実の前での、自由で真剣な「出合いと対話」の醍醐味を、お互いにエンジョイできることを楽しみにしています。


  二〇〇七年正月

                         鳥 飼 慶 陽


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第206回)

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「みなとこうべ花火大会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第206回


       雨宮栄一解説『日本の説教Ⅱ 2 賀川豊彦』

  
本書は、2006年5月に日本基督教団出版局より刊行されました。巻末に雨宮氏の「解説」がありますので、その一部を取り出して置きます。



                  解説(一部分のみ)

   説教

 ここでここに収められている賀川の説教について、そのいささか特別な性格について記しておきたい。説教というものは教会の講壇で語られるのが普通である。一定の会衆を前にして日曜日、日曜日の礼拝において語られる。説教者は自分が良く知り尽くしている会衆の前で話す。つまり説教者は常日頃牧会的な配慮を持ち、教会員である聴衆の生活を知り、その課題を知り、また問題を熟知している会衆を前にして話すものである。

 しかし賀川の場合は、ほとんどが全国に出掛けて、そこで初めて会う会衆を前にして語るということが特徴と言えよう。つまり賀川は全国の教会の求めに応じて、行く所、行く所、ほとんどが初めて出会う人たちに語りかける事が普通であった。もちろん、良く知っている人たちに語る場合も少なくなかった。それは新川の賀川のもとに集まった人たち、あるいは、イエス団の修養会、各地の同志的な集会、本所の教会、晩年、牧会に励んだ松沢教会等はそうである。

 けれども賀川は、既成の教会に受け入れられない人たちに対して、あるいは既成の教会 に入りにくい人たちのために、つまり労働者、農民に対して求められるまま全国を回り、語りかけたのである。そしてその賀川の下に多くの人がその名を慕って集まった。賀川から考えると熟知している人たちではない。しかし賀川はそれらの人たちに対して、大胆にイエス・キリストの福音を語って止む事がなかった。イエス・キリストの贖いを語り、神の愛について語り、悔い改めを大胆に求め、決心者を求めて、それを募り、カードに署名を求め、その人たちの配慮を土地の教会に託して次の地に行くというのが普通であった。

 したがって賀川にとって会衆との関係は、まさに一期一会の関係であったと言いうる。したがってそれなりに真剣そのものであった。賀川はただひたすら、神の愛を語り、その贖罪を語り、悔い改めを求めた。

 賀川の説教ぶりについても触れておこう。賀川と長期にわたり、賀川の大衆伝道の手助けをした黒田四郎牧師(『私の賀川豊彦研究』キリスト新聞社、一九八三年)によると、なぜこのように多くの人が賀川の伝道集会に集まったかというと、「ます第一に賀川先生の持つスター性の魅力であった。当時先生は超人スターで、先生の名を知らない者は日本人ではないというほどの時代であった。「賀川先生来る」というポスターだけで、どこでも総立ちになったように聴衆が押し寄せてきたものである」とある。そうであろう事は容易に想像がつく。
 
 またさらに「ただ名声だけでなく、先生自身が今日言うタレント性を身につけておられた……艶やかな両頬にたたえられた笑みは、万人をとろかすに十分な魅力があった。握手して貰ったことのある人は、その温かいふくよかな掌の感触を忘れられなかった」そうである。

 そしてその声は「天地も轟くような力強い言葉がほとばしり出て来る。堂堂たるその音声には、百万の軍勢も黙するほどの威力があった」と言う。黒田牧師自身が賀川にほれ込んでいた事を差し引いても実際に魅力ある話しぶりであったことは想像つく。

 「のみならず話し方がとても面白い。目の前で、演壇の後ろにある黒板に張った白紙にするすると漫画を書いてくれる。実に巧みでよく分かる。教育のない貧民街の人々に話しつけているので、何の予備知識をもたない人々にもはっきりと分かる。無学なおばさんたちまでが、難しい事が良く分かるので、犬変に喜ぶ。落語を聞いているうちに、大変な難しい知識をたっぷり味わえるようなものだ」とも言う。

 さらに賀川の説教の特徴の一つは、一九二九年から一九三二年にかけての「神の国運動」の時には、先に触れたように入場料を取った。当時十銭というから、蕎麦、うどん一杯分のものであつたらしい。これには反対する者がいたらしいが、賀川はこれを受け付けず、あくまでこの方式を貫いたらしい。おそらく賀川は、自分の話を聞きに来る者には、ある種の心構えを求めたのではないであろうか。けれども「先生の講演は実に面白いので、誰も彼も十銭払って喜んで集まってきた」とは黒田牧師の言である。賀川が説教あるいは講演をする際の、これらの特徴を読者は念頭において読んでいただければと考える。


                                  雨宮栄一


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第205回)

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「こうべ海上花火大会」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など

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               第205回


        雨宮栄一著『暗い谷間の賀川豊彦』

  
 本書は、前々回と取り出した雨宮氏の作品の三部作の最終巻です。ここでも、著者による「あとがき」を取り出して置きます。


                    あとがき

 二〇〇三年、新教出版社から出版した『青春の賀川豊彦』の続編になる『貧しい人々と賀川豊彦』を刊行したのは昨二〇〇五年であった。この『暗い谷間の賀川豊彦』はさらにその続編になる。従って、ここに賀川の評伝として、貧しいものながら三部作が一応完成したことになる。晩年になり三部作を思いつき、構想した筆者としては、病を抱えたまま書き続けてきた道を振りかえり、いくらか肩の荷をおろしたような、ある種の安堵感にひたっているというのが偽らないところである。

 賀川豊彦の評伝と言っても、三部作目のこの書物、大正デモクラシーの終わりより、日本敗戦の時までの賀川の歩みまでである。まさに暗い谷間の時代の、賀川の苦闘に満ちた歩みについて記したものである。その後の敗戦後については、ほとんど触れていない。別に興味がないからと言うわけではない。敗戦前後から、その召天に至るまでの賀川の歩みも、また一つのテーマであろう。しかし、それについては若い研究者に委ねたい。誰かが書くものと期待している。私は書けない。戦後の賀川については、歴史的評伝を古くに必要な、対象への時間的間隔・距離感を私は持っていない。考えてみると、近代日本のキリスト教史において、賀川豊彦ほど毀誉褒貶の激しい人物も珍しい。ある者は、賀川を聖人の如く崇め、ある者は、賀川を差別主義者として激しく弾劾する。スケールの大きな人物にしばしば見られる現象であるが、確かにそのように評価される両面を内蔵している。しかし、いずれもその一面でしかない。一面を見て、そのすべてであるように断定することも、確かに歴史的な判断かもしれないが、私はそのような手法を取らなかった。なしうる限り資料にあたり、歴史的な正確さを追及し、それぞれの時代における賀川の歩みを実践的に、また思想的に、内面史的に明らかにするために努力したつもりである。つまりひとりの人物の全体像を明らかにする努力をした。それが何処まで可能にされているかは分らない。もはや、読者の判断に任せざるをえない。

 ただ言いうることは、この書物もそうであるが、すべて資料に即して書いたものであり、ここには在来の賀川の伝記によく見られたフィクションの類のようなものは全くない。疑わしいものは、すべて避けた。より具体的に言うと、賀川には多くの自伝的小説がある。いくら自伝的といっても、多くのフィクションがある。小説である限り当然であろう。もちろん目を通したが、資料としては注意深くほとんど用いていない。

 私の願うところは、賀川豊彦を聖人化することでもなく、単に批判し去ることでもなく、ともかく明治から大正、昭和にかけて、怒涛のように波打つ歴史の只中で、贖罪愛を掲げて、懸命に生きたひとりのキリスト教伝道者の歩みを、客観的に描いて見ることであった。そしてそこから必然的に生まれてくる今日の教会への問いに、静かに耳を傾けてみることであった。それ以外の何ものでもない。

 この三部作を終わるに際して、多くの方に感謝を捧げねばならない。出版事情の厳しいこのときに、この三部作を刊行した新教出版社に、とりわけ校正のみならず、注意深く読んでくださった秋山憲兄、また森岡巌、社長の小林望さん達、また貴重な資料を提供してくださった賀川豊彦記念松沢資料館の加山久夫館長、杉浦秀典学芸員、雲柱社財団理事長斉藤宏牧師、東駒形教会の戒能信生牧師にはお世話になった。

 また私の責任になる校正を、個人的に、今は亡き広瀬泉造牧師の夫人、広瀬智恵子さんの助力を頂いた。感謝している。

 さらに今までの第一部、第二部の二巻を熟読して、幾つかの注意点を指摘してくださった明治学院人學歴史資料室の方々、賀川と中国の関係で貴重な示唆を示してくれた浜田直也氏、京都在住の松岡正樹氏、その他多くの方に感謝する。またこれらの書を今日、賀川ゆかりの施設で働いている職貝たちに、賀川の精神的遺産を継承するために読むことを奨励するだけでなく、読書会、研究会、発表会を開いてくださった雲柱社の社会福祉法人理事長の服部栄さん、本所賀川記念館の常務理事の鵜沢匡子さん、関西のイエス団の理事の方々にも感謝する。鳴門の賀川記念館の方々にもお世話になった。書けば切りがないのでやめるが、おもわない形で多くの方の励ましを、執筆中頂いた。感謝する。

 しかしこの書物の執筆に際して、資料を探すのに最も世話になったのは「国会図書館」である。ここにはまた通いつめた。パソコンで資料を探して見出し、時にはマイクロフイルムで読み、コピーして、満足しながらお堀端の道を帰るのが常であった。

 このつたない賀川研究に関する三部作が、これから若い人たちの賀川研究の捨石になることを願っている。批判克服されれば望外の喜びとなるであろう。

   二〇〇六年四月
               越中島にて     雨 宮 栄 一


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第204回)

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「六甲高山植物園」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第204回


       雨宮栄一著『貧しい人々と賀川豊彦』

  
 本書は、前回取り出した2003年9月刊行の『青春の賀川豊彦』(新教出版社)に続くもので、2005年5月に出版されました。

 ここでも、著者による「あとがき」を取り出して置きます。



                   あとがき


 この『貧しい人々と賀川豊彦』は、1年前に同じ新教出版社から刊行した『青春の賀川豊彦』の続編と見ていただければ有難い。つまり『青春の賀川豊彦』においては、賀川の両親の出自に触れながら、賀川の誕生(一八八八年・明治一八)から、彼が心に決するところから神戸新川に入った時(一九〇九年・明治四―)までの賀川の歩みについて、また思想の遍歴について記した。

 この「貧しい人々と賀川豊彦」は、賀川が新川に入ってから後、さまざまな試行錯誤を経ながら、アメリカに学び、帰国後、大正デモクラシーの渦中に身を投じ、無産者といわれる貧しい人々と共に日本労働・農民運動に参加したときのこと、さらに関東大震災を契機に上京し、貧しい被災者救援のため本所にセッツルメントを設け、本所基督数産業青年会を起こしたときのこと、そして暗い谷問の時代と言われる昭和の時代に至るまでの彼の苦闘について記しておいた。

 時期はまさに大正年問であり、換言すれば、大正デモクラシーの時でもある。この間の賀川の行動とそれを支えた賀川の思想について、その時代のうねるような流れと共に、筆者なりの理解するところを記しておいた。何時ものことながら、賀川にまとわりつく一方的一面的な礼賛からも、これまた一方的一面的な否定的評価からも自由になりながら記してみたいという思いのもとに書いた。成果のほどはわからない。読者の判断を待つのみである。当然のことながら、純粋に客観的中立的な歴史著述なるものはあり得ない。ある種の評価と批判的判断なくして歴史は書けない。歴史の名に値しない。その点でこの書物もあえて歴史であろうとした。

 先に『青春の賀川豊彦』を記した際に、賀川の新川入りにこそ、賀川の生涯の起点があり、また彼の全生涯の原像がある故に記すと述べた。貧しい物でありながら、不十分ではあるが一応の課題は果たし得たかと思う。しかしその原像となるべき新川入りについて記してみると、あの若き日の賀川の決断が、その後の賀川の歩みにどのような陰影を投げかけているのかについて、あるいはあの時の決断が如何なる形で再現されているのかについて、これまた筆者の興味をひどく、また強くそそることになった。なってしまったと言うべきかも知れない。申し訳ないが、そうすることに筆者の使命を感じたと言うような大仰なものではない。あえて言うなら、そのように考えるに至ったのは、賀川について書き出した、はしたない物書きの業のようなものである。

 この業のようなものに取り付かれ、冬の寒い日に、夏の暑い日に、どれだけ国会図書館に通いつめたか分からない。そしてこの間、二度に亙る大病と手術を経験した。余命いくばくもないという思いがなかったといえばそれは嘘になる。しかし自らは楽しくこの仕事を進めてきたことも事実である。

 最後に、この書物に使用させていただいた写真の多くは、賀川豊彦写真集刊行会編になる「賀川豊彦写真集」から使用させて頂いた。記して感謝する。松沢資料館、本所賀川記念館からも多くの資科を頂いたことはいうまでもない。また新教出版社の小林望さん、秋山憲兄さん、森岡巌さんの一方ならない配慮を頂いた。感謝している。

 またこれを執筆中、本所賀川記念館より出されている『賀川豊彦研究』の求めに応じて四七号(二○○四年六月号)、四八号(二〇〇四年一月)に、この書の1「賀川豊彦と芝はる」、1 結婚式場と賀川の袴、2 芝はるの歩みと賀川との出会い、を発表した。さらに付論として掲載しておいた「賀川豊彦と大杉栄」は同じ『賀川豊彦研究』三九号(一九九九年)に掲載したものである。記しておく。

   二〇〇五年四月 越中島にて
                       雨 宮 栄 一

付記

 この書物において、「新川」という表現が用いられている。今日においても、この衣現は差別的な意味に用いられている場合があると聞く。したがってその使用を躊躇したが、事柄が歴史的な出来事に関することと、この言葉でないと事実をより正確に表明できない場合のあることを考え、敢えて用いた。この衣現が、差別的な意味を持たなくなることを願いながら。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第203回)

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「六甲高山植物園のサギソウ」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


        賀川豊彦の著作―序文など

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              第203回


         雨宮栄一著『青春の賀川豊彦』
  
 本書は、2003年9月に新教出版社より出版されました。本書に続いて2冊の賀川関係の著作が出版されています。

 ここでは、雨宮延幸氏の巻頭の言葉と著者による「あとがき」を取り出して置きます。


               『青春の賀川豊彦』刊行に際して


 前東駒形教会牧師であり、本所賀川記念館の理事でもある雨宮栄一先生の『青春の賀川豊彦』が刊行されることになったことは、記念館として喜びと感謝に耐えない。なぜならこの著作は、もちろん先生個人の執筆によるが、記念館の大切な活動としている「賀川研究会」の中より生まれたものである。

 財団法人・本所賀川記念館は、一九六九年、賀川先生が残された日本キリスト教団東駒形教会と中ノ郷信用組合、それに雲柱社の三者が中心になり創設されたものである。この三者の拠出金と全国から応募された九八〇名の献金によって造られた。その目的は、この地において賀川豊彦の志と遺業を、何とか継承したいというものであった。そして初代理事長として賀川はる夫人を迎えたのである。その後三〇年余り、この地でその働きを続行していることを感謝している。

 省みると、この本所の地と賀川の関係は深い。言うまでもなく一九二三年九月一日、突如として発生した関東大震災により、東京全体、とりわけこの本所の地は壊滅的な打撃を受けた。当時、神戸の新川にいた賀川は、青年有志と共にこの地に来て、住民と苦しみを共にすべくセッツルメントを設け、救援活動に従事したのである。そしてここに「本所基督教産業青年会」が創設され、キリスト者青年たちの献身的な努力により、その活動領域は多方面に展開された。その宗教部が東駒形教会の前身であり、幼児教育が光の園保育学校になり、組合活動の部が中之郷信用組合となり現在も活動している。その他生活協同組合、教育活動、医療活動と展開したが、戦争中、政府の規制、あるいは統制経済政策、あるいは戦災によって壊滅した。ここよりさほど遠くない場所にあった、東大の新人会セッツルメントも同じ運命を辿るに至ったことは知られている。

 一九六九年に設立された「本所賀川記念館」は、この「本所基督教産業青年会」の志を何とかこの地で、新しく継承したいという思いで設けられたのである。したがってこの働きの中に、賀川精神の明確化を目指して「賀川研究会」が作られ、今日にいたっている。

 雨宮先生が東駒形教会に赴任されたのは、「本所賀川記念館」設立後三年目の一九七二年であった。先生は着任後、直ちにこの記念館の働きに積極的に参加して下さり、理事として責任を負って下さった。とりわけ「賀川研究会」における学習に際しては、指導的な役割を担ってさった。そして時折のシンポジウム、また講演会にも助言と協力を惜しまれなかった。理事長として、私は『賀川豊彦研究』の刊行に責任を感じ、ともかく今日まで続行できたことを喜んでいる。日本の賀川研究の水準を、いくらかでも高めることが出来たなら、幸せなことこれにすぐるものはない。

 雨宮先生のこの『青春の賀川豊彦』は、この研究会の中から誕生した。具体的に述べると、記念館の機関紙『賀川際彦研究』の刊行四五号になっているが、先生の執筆はその内二二号に及び、二八号から三八号に連載されたものの集成・加筆されたのが本書になる。

 先生はかねがね、数ある賀川伝には出自資料が乏しいことを指摘されていた。先生は資料のために、松沢資料館を何回となく訪ね、さらに神戸、さらに足を伸ばして徳島の賀川の故郷、また「死線を越えて」を賀川が書いた場所である、愛知県の蒲郡を歩いて巡られたとお伺いしている。

 『賀川豊彦研究』二九号(一九九五年二月)の編集後記に記した拙文には次のようにある。「雨宮栄一先生は、一定の学的水準を保った『賀川豊彦伝』が必要であるとし、それには賀川の出自から青年時代に光を照射して、謂わば『若き日の賀川豊彦』を書くことであるとされて…… 熱意をほとばしらせて筆をとりはじめられ……新鮮な感覚の『賀川豊彦伝』の実現に大きな期待が持てる」。
 これが達成され、今回、本書の出版の運びになったことは、感謝の至りである。

  二OO三年七月
                     本所賀川記念館理事長  雨宮延幸



                   あとがき


 この東駒形教会が生まれたのは一九二三年である。あの関東大震災直後、神戸・新川にいた賀川豊彦が救援のため、震災で一番ひどい災害を受けた本所の地に設けた「本所基督教産業青年会」の「宗教部」を前身とするものである。筆者がこの教会より招聘を受けて赴任した一九七二年には、木立義道さんを初めとして、まだ賀川より親しく指導を受けた方々がご存命であった。勿論現在でも健在の方がおられる。いずれも立派なキリスト者であり、そしてなかなかの器量人であった。当時、この教会から招きを受けた筆者は、賀川豊彦についてほとんど知らず、日本の若い教職が抱いている平均的な賀川理解--そこにはいくらか誤解を含めて―-より以上のものを持っていなかった。

 けれども、賀川に指導を受けた人たちに接して改めて考えさせられたことは、これだけの人達に深い影響を与え、また動かした賀川の存在の意義はなんであるのかということであった。また「本所基督産業青年会」の志を何とか継承しようとして設けられた「本所賀川記念館」――教会と光の園保育学校と同一の建物内にある――の働きに参加し、その一つである「賀川研究会」を場として、若者たちと共に賀川の生涯、また思想を学んできた。賀川の志を今一度発掘し、それを生かしたいと言う願いからである。「継続は力なり」という言葉があるが、細々としたものであったがともかく二○年以上続けられたし、今でも変わりはない。その歩みの中で考えさせられたことは、賀川豊彦の生涯を、その出自より神戸・新川までの二一年間に限定して研究し叙述する必要がありはしないかということであった。題すると「青春の賀川豊彦」ということになる。しかしそれは何故であるのか。

 今日、賀川に関する研究書はまことに多い。米沢和一郎氏の編になる「人物書誌大系二五 賀川豊彦」(一九九二)にある「参考文献目録」をみても驚くばかりの物であり、また賀川の伝記に至っては、何と三四冊挙げられている。

 しかし、省みるとその伝記を記した方たち、そのほとんどが賀川と直接、信交のあった方々であり、あるいは教えを受けたり、指導を仰いだりした人である。いわば賀川の手のぬくもりを知る人によって記されたものである。そのことにはそれなりの意味があり、いままでの賀川伝の特徴とすべきであろう。

 けれどもこの特徴は、同時に限界になる場合が多い。つまり著者が賀川より受けた影響力に圧倒され、賀川を師と仰ぎ、賀川を礼賛するあまり、その生涯を記すのにいくらか客観的な判断を欠く場合があるということである。やむを得ないといえばそれまでであるが、この方たちの賀川伝の特質であり、また欠点でもあった。

 しかし現在、賀川研究はようやくにして、第二の時代に入ろうとしている。つまり筆者を含めて、生前の賀川と直接交わりを得なかった人たちの手に移りつつある。このものたちの欠点は、直接、賀川を知らないことにあるが、しかしこの欠点は同時に利点になる可能性をもつ。つまり歴史理解に必要な客観的な判断が得られると言うことである。つまり歴史的な判断には、一定の時間的距離を必要とする。いや空問的な距離さえ必要とする。その距離を、この第二の世代の人たちは手にしているということでもある。つまり現在は、第二の世代の者たちによる賀川豊彦の伝記が可能にされつつある時期と言いうる。つまり、一方的な礼賛からも、また一面的な誤解からも自由にされてその研究なり伝記を書くことが可能にされていると言えようか。果たしてこの「青春の賀川豊彦」がどこまでその自由を生かすことが出来たかどうか、最早読者の判断を仰ぐよりほかはない。

 さらに今ひとつ、何故「青春の賀川豊彦」として、賀川の伝記を若き時代に限定したのかということである。その理由として、とりわけその晩年、各方面に多岐にわたり展開された賀川の全生涯を、全面的にかつ全般的に記すことは中々困難であるという消極的な理由なくはない。しかしより積極的な理由として、賀川の全生涯は、いわば若き日に彼が新川に入る際の決心と決断の繰り返しと連続ではなかったかという予感、予測がある。あの決心と決断が賀川の生涯の原点ではなかったのかという判断がある。

 新川に在りながら労働運動へ、また震災後の東京・本所におけるセッツルメント事業へ、また農民運動へ、生活共同運動へという賀川の働きの展開は、要するに、賀川の若き日になされた新川に入る決心の繰り返しであり、その決断の延長線上において理解されるべきことではないのかという判断がある。

 したがって、彼か新川に入るまでの、青春時代の賀川の内的精神的発展を追うことにより、その後のきわめて多岐にわたる賀川の活動の原点、あるいは原像が見出せるのではないかということでもある。ここに賀川の歩みを、その青春時代に限定した理由がある。これまたどこまで、それが出来たかどうか分からない。ここでもまた、筆者としては読者の判断にゆだねる他はない。

 この書物の大部分は、本所賀川記念館発行の『賀川豊彦研究』と『東駒形教会月報』に発表されたものの修正加筆したものである。時期的に言うと、東駒形教会牧師の時代と、中部学院大学教授の時代にまたがる。大学において〈宗教と人間〉という講座を持ちながら、そこで学んだものでもある。感謝している。

 ただ筆者の願いを記すならば、このようなつたない試みを契機にしてでも、賀川の研究がより活発になることである。そのための捨石ともなれば、これほどありかたいことはない。今日、日本の教会は重大な岐路に立たされている。このとき、在来の一方的な礼賛と偏見から自由にされて、賀川の歩みは見直されてしかるべきではないだろうか。

   二〇〇三年四月 東京/越中島にて
                           雨宮栄一

 付記 ここで大切なことを記しておく。この書物において、「新川」という表現が用いられている。今日においても、この表現は差別的な意味に用いられる場合があると聞く。したがってその使用を躊躇したが、事柄が歴史的な出来事に関することと、この言葉でないと事実をより正確に表明できない場合のあることを考え、敢えて用いた。この表現が、差別的な意味を持たなくなることを願いながら。


連載:賀川豊彦の著作ー序文など(第202回)

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「明石公園にて」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)


         賀川豊彦の著作―序文など
        
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               第202回


       米沢和一郎編『人物書誌大系37:賀川豊彦

  
 米沢和一郎氏の標記の労作は、前作『人物書誌大系25:賀川豊彦』につぐものです。本書も大変有益な著作のひとつですが、ここでは、米沢氏の「まえがき」と「あとがき」を取り出して置きます。


                    まえがき


 世に政治家の“改革”と称する世直しは多い。そうした試みのことごとくがうやむやに終わるのも日本的な傾向のようだ。それは“リンリリンリと鈴虫でもあるまいに”と改革を那楡した政治家の言葉に刻まれた如く、人間の精神の根幹にかかわる肝心なことが忘れられた改革であったからではなかったか。“日本は豊かな国になる しかし心の貧しい国になる”(1946年)は、生涯政治家にはならなかったというより、何度担ぎ出されてもなろうとはしなかった或る改革者の言葉である。その言葉は、日本の改革の廃れゆくうねりをあざ笑うかの如く、はからずも今の世を映し出しているではないか。その言葉の主で、過去に“大正デモクラシーの寵児”と呼ばれ、幾多の社会改革の潮流を起こす働きをした賀川豊彦は、今の日本では忘れ去られた存在になった。

 いや編者の視点から言えば、完全に忘れられた存在ではなかった。日本のバブル崩壊後、金融機関破綻の原因になった不良債権問題が世を騒がしていた時、東京下町の某信用金庫では不良債権ゼロという堅実な経営が話題になったことがある。その金融機関の創立者は賀川であった。勿論、不良債権ゼロと、創立者賀川とは直接の因果関係があるわけではない。だが創業精神との関係からいえば、金融のプロではなかった創業者の遺訓が効いたのではないかというのが話題になった。それに阪神淡路大震災が起った時、ボランティアの存在が社会の脚光を浴びた。そこでも賀川が神戸から関東大震災救援活動をした時のボランティア活動が、マスコミで取り上げられた。

 当時の社会と、現在の高度に組織化された社会では単純に比較は出末ないが、いつの世も行政の対応のまずさにつきもののボランティアの社会的ニーズに変りはない。それもありボランティアの先駆者としての活動が取り上げられたのである。それは単に原初的な使命感による日常的なボランティア活動だけでなく、その後の行政施策に対する苦言や提言をともなった現在のオンブズマンの役割や、ボランティアを地域で組織化するスーパーバイザーの役割をも担ったものであった。神戸スラムからいちはやく駆けつけて、東京・本所でボランティア活動を定着させたのも、ボランティアという言葉がまだ社会に定着していない時代であった。賀川自身の造語でいえば“義勇奉仕者”としての働きであった。ボランティアの先駆けと呼ばれたゆえんである。神戸スラムでの救済活動の義勇奉仕者の経験は、東京本所でより組織的な義勇奉仕者活動として生かされたのである。すべての点で行動が先であった改革者賀川が、本所で取り組んだのは“救貧より防貧”という地域定着の長期的な救護活動であった。前記した東京下町の金融機関は、そうしたユニークな取り組みから生まれ、地域に根ざした活動を展開して来た伝統があった。編者は賀川亡き後の社会に生き続ける賀川の働きの現代的展開を見続けてきたといっても過言ではない。

 日本のキリスト教界での賀川観を反面教師として考える時、こうした賀川の働きの現代的展開を考えることで、宗教と社会問題の視点から賀川の働きを浮き彫りにしようとしてきた。それは、日本の評価より高いSocial Reformer賀川への海外での見方でもあった。いつからかそうした日本と海外の賀川観の違いを浮き彫りにすることが、賀川の働きを書誌に刻む上で必要不可欠なテーマとなり、同時代人の視点から賀川を考え直す編者の座標軸になっていた。そのため、キリスト者に限定せず、光と影を包括する視点から発された各界人による色々な賀川観を収集して来た。

 『人物書誌大系25賀川豊彦』(以降前版と略記)上梓の1992年から時を経て、賀川豊彦書誌をまた世に出して頂くことになった。賀川の働きの資料は、直系・傍系に加えて派生するものを含めてそれだけ多い。それは前版のキリスト教関連の内容だけを見てもおわかりいただけること。実は、キリスト教社会運動家賀川の日本近代史における社会運動資科の大半の収録を、前版ではやばやと断念した経過がある。そこで前版編集段階で、以下のような事情により収容枠からはみ出した、主にこ近代史・キリスト教社会思想のものを主体にして今回出版することにした。

 その前に前版編集過程をかいつまんで説明する必要がある。まず、前版では著作・翻訳書の全容がわかるように重点を注いだ。それは『賀川豊彦全集』全24.巻が、実質『選集』でしかない内容であることに加えて賀川著作の中にある第三者序文が割愛されていることなど、その収録内容にも不備が目立つたからである。それを補完する意味合いもあり、執筆の全体像を浮き彫りにする為に、キリスト教部分でも賀川ミッション主体のものを主に網羅した。これには理由がある。当時在職していた賀川ミッション経営のパーソナル・ミュージアムにある資料では、賀川豊彦個人雑誌などの肝心の基本的資料が揃わなかったことを考慮して、欠本収集から始めた。それを復刻版(「賀川豊彦個人雑誌 雲の柱」「火の柱」「神の国新聞」「世界国家」)に作成しながら、その編集作業と並行して、書誌編集作業を進行させざるを得ない事情があった。いわば賀川の基本的な資料を網羅することに労力を注いだのである。そのためキリスト教資料に偏る形になった。敢えて舞台裏を明かせば、賀川ミッションのパーソナル・ミュージアムに所属して、レファレンスや、閲覧や、展示という通常業務を行いながら、書誌作成という二足のわらじを履いた作業であった。しかも、書誌作成の過程で、賀川ミッションから編集経費等の財政的措置はなく、もともと赤字の財団では書誌作成は無理な話であった。そうした前版の経過から海外の財団の個人助成を受けながら、いわば足で集めた賀川関係資料収集から構築した書誌となった。

 前販編集での舞台裏の事情で今も思い出すのは、日本社会の近代化の中での賀川の働きを読み通すことが出来なかったということであった。つまりめぼしい賀川研究は殆どキリスト教部分のものしかなかったのである。それ故、個人助成で多数収集していた近代史資料の収録は見送った。それには以下のような事情もあった。当時の賀川ミッションの状況からいえば、まだ“賀川教”と呼ばれる人たちが、賀川の評価を第三者に委ねられないでいた。編者は、当時賀川ミッションのパーソナル・ミュージアムで、賀川を公正に伝える仕事に従事しながら、そうした“賀川教”信徒とのせめぎあいを強いられた。つまり顕彰レベルの状況の中では、社会運動部分よりもキリスト教部分だけで伝えようとする賀川ミッションとしての趨勢があった。そうした状況を投影したキリスト教同志達による回想資料が大半だった。それはそれで証言として意味のあることではあったのだが、資料考証に基づく客観的な科学的研究は、まだ乏しいといわざるを得なかった。それもあり、第三者による参考文献より、賀川著作・翻訳書や賀川の雑誌掲載稿にこだわり執筆活動の成果を浮き彫りにすることを重視した。それでも色々な制約から収録できなかったものが多数あった。例えばGHQ接収資料のなかにある賀川豊彦執筆資料は格段に多かった。そわが日本で閲覧出来るようになる前から、編者はアメリカでデータ採川にとりかかっていた。そうした欧州と日本での賀川|情報採録の進捗状況を見据えた取材でもあった。それを今回一部ではあるが収録対象とした。あとは、戦時下中国で刊行された日本語文献のなかに出て来る賀川のものが課題として残った。それと“外地”すなわち旧植民地時代の満州、朝鮮、台湾での賀川情報である。それは量的にもGHQ資料中の賀川をはるかに越える膨大な資料であった。これとは別に戦前中国で刊行の賀川文献と、中国人牧師による中国語のものもあったのだが、全体として戦時下欧米のミッショナリーの外国人宣教師による欧文資村が多かった。そうした賀川著作の海外翻訳はその一部を今回収禄することにした。そうした一例の中にも賀川の見逃すことの出来ない働きがある。その現代的意義を伝える目的で、今回日本語版賀川著作の外国語翻訳版の展開が伺える内容を日本語に翻訳して一部収録した。だが“外地”と“日系人”資料は、包括してWorld Bibliographyに収録することにした。

 その間、筆者はMissionaryの援助によって3年半アメリカ各地で賀川資料収集取材を繰り返していた。それが『世界は賀川豊彦をどう見たか』出版のプロジェクトとなったのである。

 アメリカ・ヨーロッパ・オセアニア・アジアで収集していた賀川関係文献も含めて、その間、欧米で収集した資料と、前回前版で見送った近代史資料の活用を、どういう形で生かすかをいつも考え続けてきた。そうした積年の思いを、今後どう発表して行くかについて、ここでかいつまんで触れて置きたい。本来ならば、海外書誌によくある全ての言語を包括した完全なToyohiko Kagawa World Bibliography として一本化したかった。それが、光と影の交錯する賀川の海外と日本の評価の格差を考慮した場合、賀川の働きを伝えるベストな方法であろうと考えていた。だがそれは日本語分と、それを上回る海外分とであきらめざるを得なかった。それだけ海外での評価資料は突出していたのである。そうした経過により日本の諸事情から断念するしかなかった。

 そこで、『世界は賀川豊彦をどう見たか』欧米篇は、アメリカの某大学出版局から出版を予定している。『世界は賀川豊彦をどう見たか』極東篇ともいうべき内容のものが、本書『人物書誌大系37 賀川豊彦』である。当然この二書は、賀川の何の働きを、どう見たか、という第三者の参考文献主体の組み立てとなった。従来個人的に収集した賀川文献の補遺分を含めた近代史資料は、前版から漏れた新聞・雑誌の賀川豊彦稿を含めて殆ど本書に厳選収録した。さらに、欧米篇を睨み合わせた年譜を収録した。尚前記してきたように、近代史篇の収録基準ともいうべき視点は、宗教と社会問題を通して賀川の働きを考えるということに尽きる。

   2006年5月
                        編者 米沢和一郎



                   あとがき


 『人物書誌大系25 賀川豊彦』出版から時を経て、賀川研究を取り巻く事情もだいぶ様変りした。その原因の一つは、賀川を知る同志たちがこの世を去り、賀川教信者が少なくなってきたことがあげられよう。それに賀川豊彦令息の死去もある。編者が、パーソナル・ミュージアム館長であった令息に仕えたのは延べ14年に及ぶ。彼との話しを通して、賀川豊彦という人間を知ろうと、本音をぶつけ合ってきた。それが賀川を伝えることにプラスに働いているかどうかはわからない。だが、忘れられてゆく賀川を現代にどう伝えるかを考えるとき、今思い返して見てそれは無駄ではなかったように思える。思うに、ご遺族として賀川教信者が母体のイエスの友会を頼った顕彰レベルの活動に終始した令息は、日本での賀川評価に対してあきらめ切れない思いがあったのではないか。編者は今そう感じている。

 本書編集の際には、ここにお名前を出し得ないほど色々な方々の協力を仰いだ。今思い出すその顔の殆どは海外の人々である。 Missionary Libraryがない日本でまとめるよりも、むしろ調査の効率性を考え海外機関で世話になっていた。そうした関係機関の協力者諸氏に対してあらためて感謝の意を表したい。反面それは賀川豊彦をまとめることに対する日本の状況に、抜き差しならない不信感を感じた結果でもあった。それほど賀川に対して何かをするということに、日本からの援助は得られなかった。というより得にくい状況であったといった方が正解かもしれない。

 ただ例外もあった。現在編者は、大学の研究所に所属しながら、積年の賀川豊彦の取材資料を研究Toolsとして発表することに忙殺されている。この書執筆後に「明治学院大学キリスト教研究所紀要38号」に“Realistic Padfist賀川豊彦と中国”2006.2.20.と『賀川豊彦の海外資料一光と影の評価を読み取るためにー』2006.3.31.を発表した。これらは前記した過去の経過からすれば、例外的措置ともいえる恩恵であった。そうした機会を与えてくれた明治学院大学キリスト教研究所の元所長加山久夫名誉教授、前所長中山弘正明治学院大学経済学部教授、現所長橋本茂社会学部教授、前主任播本秀史文学部助教授、殊に研究所の賀川研究プロジェクトの責任者永野茂洋教養教育センター主任教授には、前教学補佐の竹野美保子さん、教学補佐の石垣博美さんともども、公私ともに色々な面で、この間ご面倒をおかけした。この場を借りて御礼申し上げたい。

 編者は海外取材を終え、16年半に及ぶ全ての取材のデータ・ベース化作業に2年間を費消した。その間、殆ど週一回のベースで、人力作業や、考証資料の人手まで、お手伝い頂いた中塩夕幾さん(東京都立大学大学院博士課程)には、言葉が見つからないくらい大変なご面倒をおかけした。ここに深く感謝の意を表したい。末筆になり恐縮だが、前版以来の本書の刊行を色々相談して大変ご面倒をおかけした、日外アソシエーツ社編集部比良雅治氏にも、その労に感謝の意を表したい。

 終りに、2年前に亡くなった母は、敬虔なカトリックのクリスチャンだった。それもあり、母として、また私設秘書として、編者がこの仕事をすることに、理解ある協力を惜しまなかった。例えば、秋田市大町教会で宣教師をしていたトラウトの秋田市中長町時代の生活をよく知っていた。その母の情報をもとに、トラウトと連絡がとれた時、彼女はやはり秘書だったタッピング同様、日本での賀川評価にやり切れない思いを持っていた。晩年まで秋田に格別の思いを持っていたトラウトは、中長町の隣町に育った編者の取材の目的を知り殊のほか喜んでくれた。前版のまえがきに記した母からの情報によって多くの恩恵を得て来た。いわば最大限の助力をして貰いながら、この書の完成をともに迎えることができない。その恩に報いることが出来なかったことが何よりも悔やまれる。ここに謹んで本書を母に捧げたいと思う。

   2006年5月
                       米沢和一郎


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