武内勝の賀川豊彦宛書簡(賀川豊彦米国留学中、大正4年正月)
今回は、賀川がプリンストン留学中(大正3年8月~大正6年5月)、武内勝が賀川宛に送った書簡のひとつを紹介したい。
米国留学中賀川は武内に、留守中の「イエス団」の一切を任せた。武内は賀川夫妻の生活したその場所に自ら住み込み、「私の生涯を通じまして、一番愉快な時でありました」と後に述懐する「共産生活の実行」を試みたことは、広く知られている。
留学先から賀川は、武内宛の書簡を何度か送り届けているが、残念ながら現物はすべて、未発見のままである。
ところで、2006年3月に財団法人雲柱社・賀川豊彦記念松沢資料館発行の『中間目録Ⅰ』には、「書簡・受信」資料リストがあり、そこには武内勝が賀川に当てた書簡が13通ほど残されている。
そのうち賀川の米国留学中の武内の賀川宛書簡は、僅かに三通のみ残されている。それは、大正4年のもので、1月2日、1月27日、5月10日のものである。今回、松沢資料館のご好意でその三通の写真を送付いただいた。ここでは、大正4年1月2日付けの一通のみをご覧いただこう。今回上に収めたものはオフィシャルサイトで掲載したもので、判読困難な上に、今回掲載した書簡ではなく大正4年1月27日付のものになっている。
賀川夫妻とは4歳年下の武内青年の、熱い心意気が伝わる手紙である。原文には句読点はない。判読困難な箇所もあり一部補正している。
なおこれら三通の書簡は、1995年の阪神淡路大震災のあと、村山盛嗣氏によって解説を付し「友愛幼児園だより」として紹介されたことのあることを、過日の会議(村山氏編『賀川豊彦とそのボランティア』(武内勝口述)新版刊行のの打合せ)で教えられた。(2009年5月30日鳥飼記す)
ところでこの機会に、上記「友愛幼児園だより」の当該部分を収めておきたいと考えたが、追って入手して補完したいと思う。(2014年1月25日記す)
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大正4年1月2日 武内勝から賀川豊彦への手紙 先生の事を毎日思て、絶えず祈りて居ります。先生、授業は如何ですか。医学の方はどうですか。神の使命は何処にあるか、考えては祈りて、神よ、我等何をすべきか、と伺て居ります。
神よ、イエス団の事業を委ね給え、アーメン。先生渡米後、神は何を与えて、貧民の為に事業を起て給うと感じられつつありますか。
渡米後、尚深く思い慕います。
イエス団独立後、恵みの内にクリスマスも終え、新年を迎えました。神、我等を祝福し給うと信じて起て居ります。
クリスマスは、例年と違い、金員故に、多数の貧民を喜ばす事が出来ず、唯八十名計りの子供と四五十名の成人と祝会を開いただけです。但し子供には、有志の尽力により善き物を与えられ、大いに喜びました。独立後は、尚々励まされて、新しき智と力を加えられて、善き働きの出来るを信じます。
青年も励んで信仰に歩んで居ります。
先生、私は未だ世に勝つ準備が出来ていないから、凡てを求め得ます。神は得させんとて選びたまいました。
今年は日曜学校の方法を改良したいと思うて居ります。又、伝道も色々の働きも、イエスに似た事を努めたく、祈りて居ります。去年の働きは、三百日の労働と、三千頁計りの読書と、二百回程の説教と、二百本の手紙と、其の他雑務であった。其の内、自己を忘れて人の為に務めた小事でありました。此の事の為に悲と苦労とは身に及びました。而し是によって、尚深くイエスと神と霊の働きを感知しました。
今年の働きは何をすべきですか。神の声に従い務めんとす。
去年、貧しき内に労働と涙と祈りにより、神の手に在りて、今に至りました。多くの涙はありましたが、悲しみの年でなく、感謝の年でした。新しく迎えた当年も、昨年に過る苦労と涙が入ると思いますが、祝福される年と思て居ります。私は今年は何んでも一万頁読書したく思て居ります。伝道の働きもより多く致したいと思います。
青年等も一層進んで神の子となり、善く勉強し、智と力を求め、聖書の意を知らんとしております。
而しイエス団にとりて困ることは、青年の職業が無い事す。今春は何か与えられると信じて居りますが、労働者が職業なき事は、生命を失た様なものです。神よ、職業を与えたまえ。
独立後尚深く、祈る精神と感謝の念が多くなりました。
先生が常に祈りて下さるを知りて喜ぶ。続けて祈りて下さい。
イエス団の信徒は皆、先生の為に祈りてをります。
武内 勝
大正四年一月二日
賀川先生
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この書簡に於いて、武内は「イエス団独立後」という表現を三度も用いている。賀川不在のこの期間の武内ら青年達は、ほかからの金銭的な援助を断って、自分達の労働で独立した自給の生活のかたちを創りだしていた。「独立イエス団」という武内らの意気込みが、なかなか面白い。
新版『賀川豊彦とボランティア』の第7章「渡米中のイエス団」のところには、留学中の賀川からの武内への手紙の事のほかに、「イエス団」という名称は「宇都宮」の提案を賀川も賛成して、それまでの「救霊団」を「イエス団」に改称したことや「青年による共産生活」などについて語られている。(2014年1月25日記す)
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ところで、既述のように、賀川の米国留学中の武内勝から賀川への書簡は三通残されていて、それが「友愛幼児園だより」で連載・紹介され、村山盛嗣園長の「解説」が付されていることを、以前村山氏より教えられていた。
そこで先日、賀川ミュージアムの西義人氏にその閲読方法につきご依頼したところ、早速昨日(2014年1月28日)、友愛幼児園の方のご協力もあって、そのコピーをファックスしていただいた。
いまこの貴重なドキュメントをテキストにしたので、不十分ながら参考までにUPさせていただく。
このときの、武内と賀川の書簡のやりとりは、双方にとって特別の意味合いを持ち、武内は賀川の書簡を持ち歩いて熟読していることが指摘されている。武内の口述記録『賀川豊彦とボランティア』(新版)にも、賀川からの書簡に関してたびたび言及されているが、その書簡そのものは現在では当時のそれらは確認することができない。
ここでの村山氏の「解説」と「あとがき」も重要である。なお、西義人氏によれば、残されている「友愛幼児園だより」には、村山氏の論稿が大量に残されていて、これは立派な書物になるものである、と語られていた。
ここにも記されているように、村山氏は若き日より神戸イエス団教会の牧師として、また友愛幼児園の園長として、さらに「賀川記念館」の建設とその館長として、「イエス団」の大役を担ってこられた御方であり、その企画が実現すれば素晴らしいことである。(2014年1月29日記す)
友愛幼児園だより」1995年5月 武内勝から賀川豊彦宛の書簡(l) 一解説一―武内勝氏は賀川先生の第一の弟子として、わがイエス団を守って来られた方である。昨年3月、東京の賀川資料館研究員・米沢和一郎氏より、賀川先生アメリカ遊学時に、武内氏から先生宛に出された手紙三通の写しをいただいた。当園の母体であるイエス団の歴史に関わる貴重な資料なので、ここに公にしておきたい。
できるだけ原文に忠実なることを心掛けたが、判読できないところは○○、推定は( )にしておいた。エスはイエスのことである。なお、元職員の木村正英さんには、読みにくい文をワープロに起し、助けていただいた。 (村山)
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先生の事を毎日思って絶ず祈りで居ります。先生の(授)業は如何ですか。医学の方はどうですか。神の使命は何処にあるか考へては祈りで神よ我等何をすべきかと伺って居ります。神よエス団の事業を委ね給ヘアーメン。先生渡米後神は何を興へて貧民の為に事業を興へ給と感じられつつありますか。今の処観察されて如何に思召になりますか。渡米後尚深く思ひ慕ひます。
イエス団独立後恵の内にクリスマスも柊へ新年を迎えました。神我等を祝福し給と信じて起て居ります。クリスマスは例年と違ひ(金欠病)に多数の貧民を喜す事が出来ず,唯八十名計りの子供と四五十名の成人と祝回を開いた○○。但し子供は有志の尽力により善き物を興へられ大いに喜びました。独立後は尚々励まされて新しき智と力を加へられて善き働きの出釆るを信じます。青年も励げんで信仰に歩で居ります。
先生私は未だ世に立つ準備が出来ていないから凡てを求め得ます。神は得させんとて選びたまひました。
今年は日曜学(校)の方法を改良したい思て居ります。又伝道も色々の働もエスにた事を務めたく祈りて居ります。去年の働三百日の労働と三千頁計りの読書と二百回の説教と二百本の手紙と其他雑務であ(りし)た。其(のため)自己を忘れて人の為務めたO事でありました。此事の為に悲と労とは身に及びました。而し是れによりて深くエスと神と霊の働を感知しました。
今年の働きは何をすべきですか。神の声従ひ務めんとす。去年貧しき(ため)労働涙と祈りにより神の手に在りて今に至りまた,多くの涙はありましたが悲しみの年でなく感謝の年でした。新しく迎へた当年も昨に過る苦労と涙が入ると思ひますが祝福さる年と思って居ります。
私は今年は何んでも一万頁読書したく思て眉ります。伝道の働きもより多く致したいと思いまず。青年等も一層進で神の子となり善く勉強し智と力を求め聖書の意を知らんとしてをります。
而エス団にとりて困る事は脅年の就職が無い事です。今春は何か興へらるを信じて居りますが労働者が職業なき事ば生命を失た様なものです。神よ職業を興えたまへ。独立後深く祈る精神と感謝の念が多くなりました。
先生が常に祈りて下さるを知りて喜ぶ。続けて祈りて下さい。イエス団の信徒は皆先生の為に祈りてをります。
大正四年一月二日
武内 勝
賀川先生
「友愛幼児園だより」1995年6月 武内勝から賀川豊彦宛の書簡(2) 解説一―先月から、わがイエス団を守ってこられた武内 膀氏から、アメリカ留学中の賀川先生に宛てた手紙を掲載している。
大正三年(1914)、それまで毎月50ドルづつ送金してくれていたアメリカの煉瓦会社の重役から、突然、送金を停止するとの通知を受け、イエス団の事業を縮小しなければならなくなった。賀川先生はこの機会にアメリカに行く決意をし、その年の8月2日、神戸港より出帆、武内氏に留守を託したのである。
武内氏を中心に青年等は、不況の中、苦労をしながら就職し給料をそっくり献げ、事業の維持に努めた。賀川26才。武内22才。(村山)
今静かに考えまして思います。日本青年は覚醒をせなくてはならぬと。今日の青年は人形ではないかと思います。
政府は増師について、政友金と政府に反対が出来て、伯は解散を命じました。今度は總選挙をやるそうです。
政治について、労働について、貧乏について、罪悪について、万事が覚醒すべき時です。殊に貧民労働者を醒まさなくてはなりませぬ。
私は今年一年、覚醒を叫びましょう。一歩も退きませぬ。大いに進歩します。そして集の青年特に貧民労働者間の骨の骨、陶の肉になります。エス団がなります。
どう考えましても、我々が彼等の霊の様に見えます。
今日の処青年も仕事がありましたので、景気がよくあります。但し未だ無職の人もあります。奥さんは学課に追はれて居らるると聞きました。
宇都宮兄は田舎より徳島に帰り今熱烈に伝道して居るとロ-ガン先生よりききました。白仁さんよりは近頃一度も便がありません。而し私はーヶ月こ二三回は励む様に手紙を出して居ります。小田兄も元気でず。富山で小島兄により喜ぶ事多くあります。深き同情以て書されます。芝房吉様は去年十二月中頃より病気です。島田の奥さんは先生の話を度々して居られます。手紙を出される時よろしくと度々申されます。植田兄は酒の人となりました。岸本の老夫婦も林のおばさんも皆天国に近ずきつつあります。岸本老人は去年より床に其儘です。青年は私とも九人です。
来会人は井上、田辺、佐々木、本多、橋本、濱田、升田、○○、私とです。娘は芝、大塚、須川、○○の四人です。その他皆変わりありません。青年らしくあります。
エス団はエス団らしくあります。この青年等を日曜学絞に用ふる考へです。
野戦は無論です。野戦に出る人は沢山です。聞く人も多くあります。大変でも善く聞きます。私は数倍の熱を以て話します。今年は私共青年生れて始めの寒きです。私が朝起手筆取りました処が筆のホのサキが氷りまして字が害けなくなりました。スズリの水も氷りました
御便り有難存じまず。一月二六日に看きました。
前○は正月に○て居りました、今又新しく記しました。
武内 勝
賀川先生
大正四年一月二七日
本江様よりよろしく
武内勝から賀川豊彦宛の書簡(3) ―解説――賀川先生は武内勝に、留学中の一切を委ねて米国に留学したが、米国の篤志家からの寄付金もストッブされ、それを機会に自主独立せざるを得なくなったイエス団を、大変心配されていた様子がうかがえる。
武内が返事を書いて、未だ投函せぬうちに、次の手紙がくるといった様に。
武内の方でも、先生からいただいた手紙は一日中持ら歩き、繰り返し熟読し、相当興奮され、かなり高ぶって返事をかいたとみえ、文章の乱れが目立ちまず。
前回(2)のなかで、増師とあるのは師団の増強のことで、軍備拡張のことであろう。
伯は大正三年、再び首相となった大隈重信改新党の党首、後の早大總長のことである。
徐々に、日本が富国強兵路線を強めつつある時代を伺わせる。(村山)
手紙を二回に書て居りました処へ手紙を受けまして又一筆述ます。
御手紙を数度読(み)ました。そして職場で朝より晩まで読(ん)では考へ読んでは考えました。
勝の血は湧て居ります。先生は先生の道を、勝は勝の道をとに互角に前進しなくてはなりません。エスは絶ず起よ○○、起よと命じ給(う)のです。この声を聞て勇しく起ちます。人を恐れません。
神戸の組合教会で去年信徒大会の時に、村松氏は述て「神戸の教会では米国より金○が来ない為に伝道に困りて居るそうである」と申しました。
聞いて居りた私は思いました。見て居れ我等は金と教会と美しい言葉にて伝道せず。エスを知り神を見たくば我を見よと云ひ得る人になりて、真のエスを伝へCOO励みました。
先生感謝して下さい、主によりて勇敢にやります。イエスよ英智を現拾へ。日本の国は亡びつつあるも、今の基督教が腐て居るも、真のクリスチンー人居れば、神はこの人に日本の救を委ねて救ひ給ふ。神学生や牧師によりてではありますまい。
先生。先生もし新川に居りしなら、共に抱き、共に泣きもし、共に祈りもし、共に苦しみもしたらんものをと申されますか。
けれども師よ、これは却て喜ぶべきです。師は望ありで私はこの事によりて互に大きく偉くなりて行くのでせう。私にとりてなくならぬ事は共に居るより離れ居る今日が身の薬です。心配の中にも喜で下さい。
日本を天皇を無くせよと云はれますか。愛します。凡てを愛します。唯愛すと申しただけではなりませぬ。真実にしこれから考へるも小さくなりませぬ。山へは入りません。大きくなる為に帰国なさったら多く教へて下さい。私は導かるる儘に歩みませう。
役者は新しき思想を舞台で演じますが、是で杜会を導くのですか。私は貧民窟の中で、世の人が馬鹿にして居る地のどんぞこで、命のつきる迄で実行で演じます。
先生は書物から書物へ、思想より思想へ、勝は之を現す為に実行より実行へ。
エスの如く宇都宮兄は大いに奮闘してをります。兄は常に私によりて励むと申してをります。兄は私の半身です。
イエス団独立に○して祝してくれました人が申さるるに、成人は毎日五十銭の献金する人あり、又電報以て祝される者あり、後の働きが心配であると云ひながら祝される人あり、更に日本の基督教は兄より始るみ励ましでくれる人あり。
先生よりの手紙私は忘れません。先生若し金を送らなくともこの書一対あれば充分です。忘れません。主ともに在し給ふ。
ア まだも一言、エス団は独立しても今のままではいかぬと申さるるか。私は善く知りて居ります。イエス団は世界に独立した労働者の真数を確立しますよ。貧民の肉に労働者の血に○の骨に宗教の霊になりますよ。神導きたまえ。
貧民と労働者ば自重心がないと思います。あるとするも間違った方面で、自覚して起つ者の少ない事。
けれ共彼等が真にエスに習てやれば世界は一変します。彼等を醒まして彼等を教へ導て、神によりてやりと一す決心を起し、祈りてやれば神恵みたまいまず。
毎日、時を用いて手紙を書きました。
大正四年一月三十日
「友愛幼児園だより」1995年7月 武内勝から賀川豊彦宛の書簡(4) 一一解説――これは大疋4午5月10日付の手紙である。長文なので分けて掲載する。
武内は賀川先生に出会う前には、内村鑑三に私淑され、個人雑誌「聖書之研究」を創刊号より、廃刊になるまで角からすみまで熟読されたと語っておられた。
武内の聖書の知識と信仰、そして自主独立の精神は大いに内村の影響があるとみる。
なかでも内村の非戦論には心から傾倒。「天皇の命令に従い、矛盾を繰り返していては永遠に平和は来ない」と戦争に反対。死を覚悟して徴兵を拒否する決心を固め、賀川先生より「小さきトルストイの子よ」とたしなめられた程であった。(村山)
欧州は戦争で多忙、米国は金儲絣で多忙、東洋は日支問題で新聞社が大多忙、今にも戦争かと思は(れま)したが、どーやら平和で解決ですが、多忙が世界の流行かも知らんが、私も多忙、何としても十時間が労働時間ですから。
先生は米国の汽車は曰本の最大急行より速いと申されたが、人の進歩も早い事。私がゴツゴツと仕事をして居る間に井上君は私より多くの文字を学び英語迄よほど上手になり、上遠の敏活なには驚きます。
然し兎と亀との競走にヌルイ亀ざんが勝ったと云うでせう。それで人が学問学問と云ふて空中飛行をや(つ)で居る間に、砂を(堀り取って)建つべき基いの岩を発見して居ります。ここで自己を発見します。ここで自覚を強をめます。大隈伯は百二十五才の長命を信ずるとか。
私は去年青島の戦の時に銃殺の覚悟をしでをりましたが、召集にならず其ですみましたが、今年も又日支戦争が起こりはしないかと思まして、若し召集されたら銃殺と定て居りましたが、平和で解決とか。私は愈々天命を全する迄は死なじとの自覚心が出来ました。
私は去年と今年の出来事によりて初めてゲーゼマネの祈りが解り又出来ました。今度の平和でも私にとりては自分の為に日支の問題が解決されたるとの如き感じがします、
一○ついでにイエス団の青年は皆銃殺ざれても戦争しないとの者計り。此の故に私は死なずば彼等青年に生命を興へず、若し死せば彼等は活きるのです。
誠に一粒の麦地に落ちて死なずばです。
「友愛幼児園だより」1995年8月 武内勝から賀川豊彦宛の書簡(5) 井上君は南極と北極の差程遠くもありませんが遠い。橋本君は活発な信仰のある、そして正直な愛のある勇者です。先日西川と云ふ奮い友が殺人犯で、○い石井監獄に入監しました。橋本兄は一日の労働を休み聖書と「平民の福音」を羞入て、後日猶も書面を送りておりましたが、西川より今は心より、悔改て忌ります。そして天の父が解りて毎日涙乍祈りて居るとの(葉)が来ました。私は皆の前で誉めました。
去年より今日迄の働きが悉く無になるも可なり。橋本君が悔改た時こは酉川は悪口と迫害を加へた。然るものを僑本兄は今西川の為に祈り愛を注ぎ其の真心を西川の心に現した。其の心が橋本兄の内に出来し、これ一つは私にとりて嬉しく心止まめところであると申しました。
其他の青年も元気です。仕事も今は残らず働いて居ります。本多兄はピカリと光りた者になり度いと甲します。
私は必ずなれると励ましました。六千度の太陽は宇宙唯一の光り、高熱度と思て(いたが)、人工で太陽以上に熱度が出ると云ふ。而も七千八百度も。本多兄よ光れるよ。熱が出るよ。七千八百度以上にと励ましました。
先生は植田兄の為に祈って居るとか申されましたが、先日又起た信仰が出来たそうです。私に告白しました。私は兄に過去の植田は見ない。今新しく信仰により起た植田を信ずると申しました。
それから日向より平田君が私も○神して愛友団の青年男女と倶に活た神の働をしたいと二度申しました。私は望むなら来たまへと云てやりました。彼もイエス団でなくてはならぬと見へます。白仁君が病気で困りて居りましたが、ここ10日計り便りがありあせん。慰○園は4月30日限りで出園した筈であります。私は仕方がなければ神戸に帰り来れ愛して上げるからと云てやりました。私か彼に対する愛は白仁君も嬉しいと申して居ります。
先日宇都宮兄が来神しました。実は名古屋行の為に。そして色々な話をしました。今後のイエス団についてもよく考え又祈りて居ります。5月10日、本日監獄へ迎に来ました。帰宅後(青木氏宅)前12時迄話をしました。彼の内なる子ブン等は沢山来りて酒を飲み始めました。而青木君は私と別室にて真面目に考へで心を語り合ひました。そして彼が本気になって居るのです、家内の者や子ブンは出獄を喜んで之を祝するとて酒を飲んでをるに、青木君は12時迄閉会する迄彼等各の問に一回の顔出しせず、唯帰る時、別の言葉を発した事、私と話をもちきりにしました。其内に23才の青年が居りましたが、この青年も改心して居りますので別室に二人が心を語りだ評でした。二人は私を尊敬して先生と云ふてくれました。私は却ってつら(いで)した。然し本当に新しい精神が出来て居るを知りまして非常に嬉しくありました。藤田三造君は痩身、4月15日に市役所の病院に渡しました。度々不足を云ふて来ます。 (つづく)
「友愛幼児園だより」1995年10月号 武内勝から賀川豊彦宛の書簡(6) ――解説――この書簡も、この号をもって終わる。
当園の母体である社会福祉法人イエス団の始まりの頃の姿が、赤裸々に記されているものとして、賀川豊彦に関する第一級の資料であることは言うまぐもないが、私にとっでも新たなる視点を与えられ、誠に興鉢深いものがあった。
この度の震災で、ボランティア活動が特にクローズアップされたが、初期イエス団を支えた青年等こそば、わが国における地域福祉ボランティアの原点であると断定しても、決して言い過ぎではないであろう。
賀川記念館そして友愛幼児園は、この宝を今日にふさわしく受け継ぐ使命を負っているのである。(村山)
先生。イエス団は愛の○なくではならぬと思ひます。されど兄弟姉妹の間に愛が欲しいと思へば、先ず心を互に語り合ってともに祈り度いと考へまして、私は青年の聞耳でなく娘さんにも近づいて居ります、そして接触しで思ります。
先日ある夜、文さんに私は貴方の心を聞いて偕に祈り度いと申しますと、文さんは私も貴君に心を残らずしかりお話したくあります、と云ひました。又浜田姉妹は私に貴君は私の真の兄さんです、私は永遠に愛しますと申しました。私は娘さん達に結婚問題についてハッキリとした事を赤裸々に話す考へです。
無し私は自ら注意して居ります。女に近よりますと何だか愛が変じ安くありますから、私が娘さんに会見ると叉話合ひますと、彼等に恋愛思想が充満して居る様に思ひます。けれ共私は高い思想を抱いてこれを高調して居りますと、其処には男女の別なく唯愛あル耳で真に自由の感じがします。私はこれを高上する考へです。
大塚姉妹は来る穴月こ結婚するそうです。私は姉に対して結婚を祝すると云へません。兎に角イエス団の内に間違いのない潔白な愛が青年男女に出来て、親善に交り愛の園と化して欲しいです。
青年達の事をー人一人記せばよいと思ひますが、今時が沙いので後にします。
マア先生喜んで下さい。脊年諸君は皆一ヶづづの笛管を以て居りまず。然も火薬は無煙無声です。社会自立煙は宥害になります。広告は実力を乏とします故に、私共は沈思熟考の態度をとりて居ります。其代り実力は驚くべき者です。
先生の帰国迄には偉くなります。額に汗しては潔い飯を食ひ、芋に豆をこしらへては霊魂を創造り、静に考へては新天新地を発見し、祈る度毎に力を得、聖霊によりては教示され、我が血肉は信仰の燃科となる、斯の如き日を送りては又一日を新しく迎る我等は幸福なるかなでず。
天の使も羨ましいでせう。
賀川先生。先生の事を思ひ毎日祈りて居る事を書き忘れてをりました。
武内 勝
大正四年五月十日午後十一時二十分
「友愛幼児園だより」1995年11月 武内書諭を読んで 園長 村山盛嗣
1958年10月29日(水)夕方。新婚はほやほやのわたくしたちは、賀川先生の招きに従って、神戸に赴任した。
そして、11月2日の日曜日。神戸イエス団教会礼拝にて、第一声をあげたわけである。
礼拝後、教会の皆様に、
一一わたくしたちは、未だ若い未熟者なので(26才になりたて)、どうかよろしくお願いします・・・。
と、へりくだった積りで挨拶をした。
すると、すかさず武内勝さん(当時イエス団常務理事・教会役員)が立ちあがって、
一一賀川先生は21才でイエス団を始められた。だから決して若くはない・・・。
と応じられ、教会員にわたくしたちを紹介して下さった。
恐らく、その時、武内さんは言外に、
一一わたしが賀川先生に出会い、イエス団に参加したのは18才の時だよ・・・、
と言われていたに違いない。
勿諭、大賀川・武内に比べようもないし、人生50年代とは単純に比較はでぎないとは思うが、わがイエス団は、いづれも結婚前の青年たちによって発足したのである。
アブラハムの故事にならって、イエス団の青年たちは「行き先も知らずに出発した」(ヘブル11:8)のである。
この度、少し場違いのきらいはあったが、武内さんから貿川先生宛の私信の一部を、掲載させていただいたのは、これがイエス団の始まりに関する重要な歴史的資料であること と、この機会に、特にイエス団の事業に従事している職員に、初めの心を記憶しておいて いただきたいと思ったからである。
わたくし自身、この書簡を拝見させていただきながら熱い思いで整理させていただいた。
その主な思いをまとめると三つある。
先ず、最初のイエス団の青年たちは、原始キリスト教会そのままの共産生活を試みたということです。
聖書には「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財屋や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。そして、「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒2)と記されているが、この様な共同体による実践を目ざしたということです。
次に、賀川先生はじめ、イエス団に集まった青年たちは、皆んなアマチュアのボランティアであって、一人として社会福祉のプロはなかったということです。イエスにならって隣人を愛し、地域を愛する心から出発し、困難な課題と取組むうちにプロとなっていったのである。因に、アマチュアとは“愛する人”を意味する言葉のようです。
第三に、外国からの援助を断り、悪戦苦闘をしながら、自主独立を貫いたということです。私立の原点である真の自由を選びとった先輩たちに、心から敬服ずるものである。
これらの書簡は、大震災を契機に、天国から送られて来たメッセージであるのかも知れない。