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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(18)



   賀川豊彦・ハル夫妻の「台湾の旅」
 
 前回、1922年(大正11年)3月3日、京都岡崎公会堂で創立の「全国水平社」のことに言及した。そして「総裁は賀川豊彦氏の呼声が高い」とする朝日新聞京都付録の報道を紹介し、実際はその時賀川は、ハル夫人と共に台湾にあって、創立大会には参加していないことを記した。

 同年2月8日、門司港からの一ヶ月余りの「台湾の旅」は「視察と伝道の旅」であるが、この旅は期せずしてハル夫人を同伴しての旅となった。

 それは度重なる暴漢による脅迫のため、ハル夫人を残せない事態が生じて、急遽同道することになったようであるが、結婚後9年目にしての「はじめての二人旅」は、賀川夫妻にとって、恐らく生涯忘れることのできないものであったに違いない。

 かてて加えて、それまで10年間、新しい命の誕生の喜びを経験することのなかった二人の間に、ナントこの「台湾の旅」のなかで、「天与のいのち」を授かる事になったのであった。ご長男「純基」の「いのちの誕生」である。


 ところで「玉手箱」の中に120通余りの武内勝宛書簡の中に、「台湾の旅」からの2枚の絵葉書が残されていたのである!

 1枚目の絵葉書は、はじめ「二月二十七日」という差出の日付だけあって、消印からも差出の年も確定できなかった。

 絵葉書に「阿里山登山記念」とスタンプが押されていても、わたしには台湾のことも全く無知の身、日本にこんな山が何処にあるのかな?などと思いめぐらすだけ。

 ただ、短い文面の最後に「豊彦」と「ハル」の、お二人の名前が並んでいて、これは大変珍しいものだな、と思ったものの、初見ではこれを見過ごしていた。

 あて先は、「神戸市灘道下ル 神戸市立労働職業紹介所 武田勝様」である。


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 本文は、

     阿里山より
     お便り申し上げ
     ます 
     皆さまによろしく!  
              豊彦
              ハル 
      八千尺の高地より通
      信いたしました



 絵葉書の写真は「阿里山扁柏林」の説明があり「阿里山登山記念」のスタンプがある。

 調べてみると「阿里山」は台湾の有名な観光地。森林鉄道に乗って遊楽区があるとか。


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       *    *    *    *

そして2枚目の絵葉書のあて先は

「神戸市吾妻通五丁目 イエス団 武内勝兄」

 差出場所は「台湾高雄港」 差出人はハル夫人と連名ではなく「賀川豊彦」。


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 本文は、

      色々留守中は御世
      話になります。高雄では
      子供たちが海水浴をいたして
      居ります。凡て植民地
      の整理が著しく発達し
      て行くやうであります
      私はただ十字架のイエス
      だけを凡ての人に紹介いた
      して居ります。何分よろ
      しくお願いいたします。
       二月十七日
 


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 この「台湾の旅」は、賀川にとって「台湾初体験」である。

 これから丁度10年後、1932年に「台湾の旅」経験している。
 この時は、黒田四郎氏を伴って、3月5日に神戸港を出て、およそ一月間にわたり台湾各地で、54回もの集会を行なったことが知られている。
 その後、賀川の三度目の「台湾の旅」は何時だったのか? あったのだろうか。


 追記

 ところで、『人物書誌大系37』の巻末の「年譜」によれば、

1922年
2月8日午後4時 亜米利加丸で門司出港、暴漢に脅されることを心配した見送りの人々の勧めに従い、夫人春子を連れ、台湾へ蕃族視察と伝道へ
2月8日午後4時 亜米利加丸にて、夫人春子をともない台湾を訪問 台北、高雄、台南、全島の基督教伝道状態、並びに蕃界を視察
2月11日~14日 日本基督教会堂で宗教講演をした後、労使協調、普選問題、思想の趨向の論陣を展開
2月13日午前9時半 “新文明に対する婦人の使命”
2月13日午後10時 ”イエスと弟子との関係“
2月14日午前7時 ”イエスと祈祷の心理“
2月14日午後7時 ”イエスと信仰“を台北日本基督教会で講演
3月2日 新竹発桃園より角板山に至り、蕃界を視察、基隆、台東花蓮港方面へ
3月5日午前9時半 台北日本基督教会で説教」

とある。そして10年後の1932年のところには、

1932年
3月5日 台湾での神の国運動の伝道に、黒田四郎を同行、神戸より朝日丸で出発
3月8日 朝日丸で台湾・基隆着。基隆入港から23日まで、主に神の国運動の為、台北、台中、基隆を回り講演。集会54回、聴衆者合計175,082名、決心者1,030名
3月23日午後4時 基隆発の瑞穂丸で離台」

戦後、台湾の訪問は確認できない。(2009年6月12日年鳥飼記す。2014年1月31日補記)


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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(17)


    井上貞蔵の「馬島・武内」宛書簡
   
    (付録「水平社創立」直前の朝日新聞記事)


 「玉手箱」の中に、井上貞蔵氏(神奈川県都筑郡長津田)から、大正9年1月1日の消印と読み取れる一枚の絵葉書が残されている。

あて先は「神戸市吾妻通五丁目 イエス団 馬島・武内様」と両人宛である。


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文字が薄くて判読は容易でないが、本文には、次のように記されている。


相変わらず貧民教化の事業にお尽くしのことと敬意を表します。どうぞ皆さんにも宜しくお伝え下さい。
目下「六大都市の貧民窟」を学校の雑誌の為に書いております。
最近何かの雑誌に出る「特殊部落民の解放」では、馬島さんのお話を大分お借りしましたが悪しからず。
堺利彦氏に言わせると、大正8年の半年は福田時代で、後半は河上時代だと言うが、大正9年は恐らく「賀川時代」であると、私は思います。
御両君の健闘とイエス団の発展とを心から祈ります。



 絵葉書の絵は、クリスマスと新年を祝うもので、「1月1日」の消印の年賀状でもある。


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 井上貞蔵(1893年生れ)は「貧民窟と少数同胞」(東京・巌松堂書店、1923年)などで知られる人であるが、この文面からみて、賀川豊彦との交流だけでなく、イエス団の馬島医師と武内勝両氏との浅からぬ関係があったことを伺わせる。


     *      *     *     *


 ところで、井上貞蔵氏とは直接関係するものではないが、ここに付録として、大正11年1月13日付けの「大阪朝日新聞京都付録」を紹介する。


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 この記事は最初、拙著「賀川豊彦と現代」(1988年)で一部紹介し、その後「賀川豊彦再発見」(2002年)、「賀川豊彦の贈りもの」(2007年)でも取り上げているが、先年上山勝氏より当該新聞のコピーを頂いたので、それもご覧頂く。

 なお、杉山元治郎氏によって、次のような証言が残されていることは、広く知られていることである。


 「日本農民組合創立の打合せを神戸新川の賀川宅でしていたころ、全国水平社創立の相談を同じく賀川宅でしてい た。その人々は奈良県からきた西光万吉、阪本清一郎、米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔をあわせたことがある」(「土地と自由のために-杉山元治郎伝」昭和40年、205頁)


 「全国水平社」が京都の岡崎公会堂で開催されたのは、大正11年3月3日のことであるが、賀川はこの創立大会の頃は、同年2月8日より一ヶ月余りの予定で、ハルと共に「台湾伝道」に出掛けており、日本にはまだ帰国していなかったので、当然この大会には参加はしていない。


 またこの組織には「総裁」というポストは存在せず、朝日新聞の下記の予想記事、「総裁は賀川豊彦氏の呼声が高い」とするものは間違いであった。(2009年6月9日鳥飼記す。2014年1月30日補記)


     *      *     *     *


          一萬の受難者が集って

         京都で「水平社」を組織

         総裁は賀川豊彦氏の呼声が高い

          先づ社会に向って差別撤廃の宣戦を布告する

 今春二月中旬、京都市で開催される全国部落民大会は、夕刊記載の通りであるが、楽只青年団を始め、田中、崇仁、其の他京都府下各団体を始め和歌山、滋賀、奈良県下から約一万人の少壮者が会合する筈で、当日結党される「水平社」の総裁には、賀川豊彦氏推薦説が最も優勢である。

 そして社会に向かって差別撤廃の宣戦布告をすると言えば不穏なようだが、内容は頗る穏健なもので、正義人道に訴えて舌戦を闘わすと言うのであるが、是等の目覚めた人達が来るだけ、腹の底からの叫びが出て熱が高く、既に奈良、和歌山方面から六百、滋賀県から一千名は確実に出席の報告が達した。京都府下からは全部参会する意気込みで、奈良から河内方面へは目下自動車で宣伝されている由、京都の宣伝文、大会趣意書は一旦印刷されたが当局の注意があったのでやり直した。

 之に関する官憲側の意見は、法制上よりは全然差別がない。差別されていると考えさせる社会にも責任があるけれど、殊更差別されていると思う彼の人達自身の主観的な考えも亦反省の必要があろう。教育を第一に尊重する気風を養い、風紀、衛生上の弊風を矯正して、社会的に活動する実力をつけたら、自然に偏見が消滅しよう。然し先進者の吾々は、彼の人達の目覚めた人と共に一致協力「人類の幸福」を目標に進みたい。要するに「愛」の問題である云々

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(16)


      遊佐敏彦と生田川口入所


 標記の「遊佐敏彦」は、賀川豊彦と同い年(1888年生まれ)で明治学院高等学部神学予科の後輩でもある。

 賀川が留学から帰国(大正6年5月)してすぐ関係を持つことになったことのひとつに、設立準備中の「兵庫県救済協会」(清野長太郎知事を筆頭にする団体)があった。

 賀川はその協力を得て、新川地域の数箇所に洗い場を設置するなどしているが、同年11月に協会は正式に発足し、賀川もそこの嘱託に就くのである。

 そして翌大正7年6月には、失業者救済の目的で「兵庫県救済協会生田川口入所」を開設する運びとなった。

 当初、武内勝がこの仕事に適任とみられていたが、賀川はすでに東京で実績を積み活躍していた遊佐敏彦をその主任として招き寄せ、神戸における職業紹介所事業の口火を切ることになるのである。

 遊佐は、昭和45年(1970年)82歳で生涯を閉じるまで、職業紹介をはじめ「社会福祉の先覚者」のひとりとして、ひろく知られているが、今回の「玉手箱」の中には、遊佐敏彦が武内勝に宛てた一通の絵葉書が残されていた。

 文面からは、夏であることはわかるが、日付はなく消印もわからない。
 あて先は、武内の仕事場であった「神戸市東公園 東部労働所 武内勝」である。


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 「旅から 遊佐敏彦」とあって、

 暑中御見舞 平素御無音に打過ぎて居ります 忍ぶ事を示し給ふた主は誉むべきかな 神の国の御用のために 仕事のために 忍んで働き得ることは感謝です。御恩寵を祈りつつ 上田の講演旅行中

 と記されている。

 絵葉書の写真は、「北海道旭川の名所」として立派な「商業学校」が写されている。


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         ♯         ♯        ♯

 
 ところで、「大阪朝日新聞・神戸付録」の大正7年6月8日付けの記事があるので紹介しておく。
 これは拙著「賀川豊彦と現代」(兵庫部落問題研究所、1988年)で一度紹介したものであるが、そこには「男女口入 職業紹介 生田川口入所」という看板のある紹介所の前での写真も収められている。

 開業前の記事であるが、写真説明には「葺合の口入所 門前の人々は向かって右二人目から遊佐主任、貧民救済事業篤志家賀川豊彦、山田兵庫県救済協会嘱託の諸氏」とある。

 なお、この「口入所」には、武内勝氏の妻・雪さんが開所当初事務職員として勤務されていて、当時の遊佐氏のことなども、雪さんから直接お聴きしたことがある。(2009年6月7日鳥飼記す。2014年1月29日補記)

       
         ♯           ♯          ♯


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県救済協会の口入屋

     十日から正式開業 申し込みは弗弗と来る
 
 兵庫県救済協会の新事業に数えられる職業紹介所は、愈々十日から執務することとなった。場所は吾妻通四丁目、小ざっぱりした家。葺合方面の貧民を世話するのが主眼だけれど、其の他でも申込みに応ずるそうな。
 
 手続きは至極簡単で、先ず本人直接同所へ出頭し、求職申込書に住所姓名以下型の如く記入する。すると紹介所では金五銭也の通信実費と引き換えに雇い入れ紹介書を本人に渡す。本人はそこで指定の雇い主方へ赴き相談を纏めるのである。愈々雇い入れられるに決定したら、別に紹介所が渡す身元引き請け書に保証人の記名捺印を乞い、雇い主へ差し入れる。これで目出たく就職の段取りとなるわけだ。

 この紹介所の特長は、第一確実で求職者も雇い主も安心のできること、手数料は僅々五銭で足りる、とこの二つである。
 それに今度新規に来任した主任遊佐敏彦氏は、明治学院英文科の出身で、来任前まで東京日暮里の貧民窟に貧民と十年一日の如く同居し、献身的に救済事業に務めてきた人。

 貧民研究には充分経験と知識があるそうだから、万事に便利であろう。特別の事情のある人には身の上相談にも応じると言っている。

 なお、同紹介所の件が新聞紙上に紹介せられたと共に、早くも五月中旬から雇い入れ申込みの葉書が毎日舞い込み既に三十通、下女を欲しいという向きが七八分を占め、丁稚、職工などの要求も若干ある。また求職者も弗弗来訪しつつある。

        
      ♯          ♯         ♯


 さらに「神戸又新日報」大正7年6月10日付けの報道記事も、ここで取り出しておく。


無料口入所の開始
  
  開業前に既に申込みが七十余口 不幸な人の身の上相談にも応じる
  救済談に花の咲いた始業式

 兵庫県救済協会が事業の第一着手として今回、市内葺合吾妻通四丁目四番に生田川口入所を設置し、無手数料で職業紹介を始めること、既記の如くであるが、同口入所は愈々各種の準備整い、今十日から業務の取り扱いを開始するので、昨九日各関係者を同所に招待、従来の経過及び今後の希望などに就き詳細報告する所があった。

 生田川口入所は、小野中道と阪神電車筋との中間の格好な地位を占め、屋根には「兵庫県救済協会職業紹介」という看板が懸けてあって、男女の入り口を別にしている。十三円の家賃にしては比較的広々とした家で、紺の背広を着た主事サンと袴をはいた臨時事務員二三名が忙しそうに事務を執っている。

 当日招待された者は救霊隊、愛隣館、保育所、孤児院、其の他既設の慈善団 体に、船越三宮署長、藤本保安課長、協会側から森本、寺崎両弁護士、嘱託の小田氏などが加わって約二十名。

 先ず遊佐主事から「自分はこういう仕事に何の経験もないが一生懸命にやってみるつもりです」という挨拶の後、色々面白い談話が出た。
 
 その話によると、同口入所ができるという新聞記事によって、既に七十五六通という少なからぬ申し込みがあった。中にはお役所の願い届けのような四角張ったものもあり、又同所の主義として、周旋を拒絶している料理店から綺麗な所を二三名という注文を受けた。夫婦が労働に出た留守中だけ子供を預かって貰いたいからというようなものもある。

 七十五六通の内を調べてみると、女中に関するものが一番多く、その次には丁稚小僧、それから運搬の人夫などが多いそうである。

 同所で雇い主へ紹介した者は、通信費として五銭を申し受けた上、その求職票を渡す。その票は、紹介三回まで有効とある。而して身元引受人の件に就いて、両者の間に直接取り決め、口入所では絶対に引受人にならぬが、その世話は親切にしてやる。なお、場合によっては職業紹介のほか、不幸な人々の為に身の上相談にも応ずるそうである。然し、芸娼妓仲居の斡旋は一切取り扱わぬ事になっている。

 同日この簡易な開業報告式に集まった人々の内から、種々口入所や救済事業に関する件につき意見が吐露され、中には無料よりも三四十銭程度の有料紹介の方が、各種の方面から見て返って効果が多いだろう、との説も出た。

 又、三宮署長は近く大鉄槌を頭上に見舞わるべき運命にある淫売常習者の救済を如何にすべきや、只本県下を放逐するのみにてやむべきや如何になどの興味ある研究問題や、所謂不良少年と老朽者との救済方法如何という問題も論議され、口入所の階上が救済気分に横溢した。 


          ♯       ♯       ♯


 遊佐敏彦の神戸における働きについて『福祉の灯―兵庫県社会事業先覚者伝』(兵庫県社会福祉協議会、昭和46年)の344頁~352頁に取り上げられているので、参考までにここに取り出して置く。ここには「口入所」の内部の写真もある。(2014年1月29日補記)


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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(15)


  馬島僴とイエス団友愛救済所(続)
 
 「玉手箱」に残されていた馬島医師の武内勝に宛てて出された2通の絵葉書のうち、前回はシカゴ大学留学先からのものを取り出してみた。ここではもう一枚、1922年(大正11年)9月30日の消印のある絵葉書を紹介する。


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 あて先は「神戸市(市役所)相生橋下、中央職業紹介所 竹内勝様」(「武内」の間違い)。
 本文は、


 ドイツは何処までも戦争的に、と申して特にベルリンの市街を通りますと、到る処、王像と剣と馬との恐ろしい姿を見ます。日本人には立派に見える事ですが。但 不思議な事は独での失業者の少い事でありませう。此から暫く此処で勉強をさして頂きます。
 皆様の御健全を祈り。                      僴生



 絵葉書の写真は、「ベルリンのブランデンブルグ門」である。


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        ♯      ♯      ♯



 ところで、下記の「毎日新聞・兵庫県付録」(大正10年7月21日)の記事は、神戸長田の番町に家族と共に居住してイエス団友愛救済所の医療活動に打ち込んでいた馬場ドクトルが、7月20日神戸港から米国シカゴ大学へ留学に旅立ったときのものである。

 この記事には、大きな写真が収められている。


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 その写真の説明には、

 「馬島氏の家庭 向かって右より博子夫人と長男ポーロー君、馬島氏令妹久子、馬島ドクトル、長女洋子」とある。


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 「地の塩なり 身を捧ぐる馬島ドクトル」という見出しで、馬島医師が賀川と出会うまでの経緯と彼の意欲的な志、そして献身的な仕事ぶりと番町の人々との親密な関係などが、ここに詳しく刻まれている。

 賀川の記した大正12年(1923年)2月の「身辺雑記」には、「馬島ドクトルが欧州から帰って来られました。又貧民窟の施療事業に従事して下さいますので私達は喜んで居ります。」と馬島医師の帰国のことが報じられている。

 これも試みに句読点をいれ、改行して少し読みやすくしてみた。

       (2009年6月4日鳥飼記す。2014年1月28日補記)
 


     #           #          #


 地の塩なり 

 山高く水清き小丸川のほとりに呱々の声を上げ、世界的偉人として知られたる石井十次氏に私淑せる 

 貧しき人々の為に身を捧ぐる馬島ドクトル

 繚乱と咲き誇る草花も、?門勢家の庭に咲けば、唯一個の秘められたる花にすぎぬ。若し一茎の百合の花も、荒涼たる原野に笑めば、無限の情趣を多くの人々へ与えるものである。


         *    *    *


 神戸新川及兵庫五番町部落の数万の貧民のために、限りなき熱と愛とを捧げ、病みと餓えとに嘆く人々に、唯一の慰安者であり救済者であったドクトル馬島僴氏は、二十日神戸出帆のエムプレス・オブ・ジャパン号で、米国シカゴへ医学研究のため留学することになった。

 馬島氏は明治二十七年、彼の武者小路氏が現に建設している新しき共産村の付近、小丸川の辺り=宮崎県児湯郡高鍋町に生まれ、幼児から岡山県孤児院の創立者石井十次氏に私淑し薫陶を受け、長じて徳島中学に入学し、徳島の若林病院長若林虎吾博士の玄関番となり、苦学を続け中学卒業後、名古屋医専に入学。苦学力行の末、大正七年同校を卒業すると直ぐ、徳島の若林病院に戻って一般医術の診療に従事していたが、

 同郷の先輩賀川豊彦氏が、神戸新川の貧民窟裡に貧民救済のために全力を挙げて奮闘せるに感激し、自ら仁術を施すを以って医師の本懐とする以上、須らく誰一人として顧ない是等無垢の貧民の友となり、命の親とならむと発奮し、折から賀川氏の懇請を心克く容れて来神、

 寓居を兵庫五番町の部落内に構え、爾来今日に到るまで、朝は同氏の邸宅なる友愛救済所で、午後は新川部落賀川氏方のイエス団救済所で、毎日数十名の病める貧民達に、無料で基督の愛と熱とを以って診療に従事し、餓えたる者には薬と食とを与え、心の悩める者には道を説き、何等の名聞利達を求めづして、隠れたる地の塩(以下数行欠ける)・・

 今日賀川豊彦氏が日本に於ける貧民研究者として第一人の名声あるとせば、その功績の過半は、賀川氏の蔭に隠れて氏の事業を献身的に援助して来た馬島氏の賜である。


       *         *        *


 一日留学前の馬島氏をその寓居に訪へば、温容迫らざる態度で、いと謙遜に語る。

 私の畢生の目的は、貧民窟に衛生思想の普及を計ることである。
私が神戸に来て貧民の診療に従事してから約数千人を治療したが、医薬の資料と衛生の思想とに乏しき人程悲惨な者はない。私の洋行も、期する処世界の貧民窟の衛生状態の視察に外ならぬ。

 今回は先ずシカゴに行き、日本基督教青年会館に落ち着き、ドクトル・ヂー・ライラー氏及びミス・ゼー・アダムス氏等の経営になるセツルメント・ウォークの手伝いをなす傍々、彼地の貧民窟内に生活して、親しく貧民の心理及び生活状態等を調査し、帰りには英、独等に立ち寄り、貧民窟を一々視察して来るつもりで、旅程は約二箇年です。

 何れ私が神戸に帰った暁には、再び新川及び五番町部落民のために、厭くまで初一念に向かって進むつもりである

 と。因に新川及び五番町部落の有志連は、馬島氏の過去の労苦に感謝し、合わせて其行を旺にする目的で、大挙して同氏の乗船を見送った。

 又馬島氏の渡米中、友愛診療所及びイエス団診療事業は、医師於生泰造氏が引受くることになったが、同氏も賀川氏の主義に感激して、挺身貧民救済事業に従事することとなったとのことである。


       ♯       ♯       ♯


 なお、いま手元には、賀川豊彦が米国留学から神戸の「イエス団」に戻ってきた大正6年5月9日より間もなく書き上げたと思われる活版印刷の小さな冊子『慈善・イエス團醫院設立趣意書』(11ページ分。8~9ページが欠ける)と賀川記念館所蔵の「『イエス団友愛医院』救済所設立許可願資料」(20枚)コピーがある。重要な基礎資料であるので、いずれ整理をして置く必要がある。

 間島医師については、御長男の医学博士・間島保羅(ぽうろ)の「解説」の付された和巻耿介著『怪物医師』(光文社文庫)のあることはよく知られている。また、和巻耿介氏によって『評伝 新居 格』(文治堂書店、1991年)が纏められている。(2014年1月28日記す)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(14)

   馬島僴とイエス団友愛救済所
 
 馬島医師の神戸における働きは少しの期間であるが其の足跡は大きいものがある。

 今回の「玉手箱」のなかに、馬島医師から武内勝宛に留学先から送られた絵葉書が残されている。これの消印をみると留学中のシカゴ大学のあるシカゴから投函され、1921年(大正10年)9月2日と読み取れる。


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 表には「神戸吾妻通五丁目賀川様方武内勝様」とあって、本文は、


 ご健在を祝します。不断の御奮闘に感謝致します。職業紹介の方は如何ですか。アメリカの様な馬鹿に富んだ国で数十万人の失業者があるなどとは変な事です。昨日も今日も四ヶ月五ヶ月の無職者に会いました。何が一体その根本でしょう。何処かにまちがいがなくてはなりませぬ。私も失業者でありますが。

 とあり絵葉書の絵は、シカゴ美術館のWinslow Homerの絵のようである。
 その欄外の空白に馬島医師は、次の熱いことばを添えている


 打ち壊される大浪を眺めて 噫 平和が何時? 祈りませう 泣きませう


           *         *


 ところで、馬島医師の神戸での働きについては、葺合新川での「イエス団友愛救済所」(財団法人、大正7年8月27日設立)での働きがよく知られているが、彼が一家を挙げて住み込んで診療活動を行なった私たちの暮らす当時「林田区」(現在は長田区)「番町」が彼の活動拠点であったことの詳細は、これまでよく知られてこなかった。

 賀川豊彦は、「番町」の名望家として知られる大本甚吉氏の協力もあって、その持ち家のひとつ(五番町5丁目81)に診療所を設け、「新川」の「イエス団友愛救済所」の「番町」の「出張所」を「長田出張所」として活動をはじめたのである。

 下記に紹介するのは、大正9年(1920年)3月7日付けの「神戸新聞」である。
 時代を髣髴させる記述であるが、今ではこれも貴重な記録である。殆ど句読点のない記事であり、ここでは段落をいれるなど、いくらか読みやすくして取り出しておく。(2009年6月3日鳥飼記す。2014年1月27日補記)



       *      *      *


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   虐げられた人々の為に身を委す若き医師 

   新川部落の憐れな貧困者を闇から救ふ友愛診療所

 昨年七月頃から、市内の葺合新川及び長田番町の二ヶ所に友愛診療所というのが置かれて、貧困者に対し無料で診療が施されている。同所のお医者さんは、すべての病者に対する取り扱いが丁寧で、動かせぬ患者には往診もしているが、親切なその診察振りに部落の人達は、あたかも神様のように崇めている。

 そのお医者さんというのは、一昨年名古屋の医専を卒業した馬島僴氏で、一年ばかり郷里の徳島に帰り、祖父である若林医学博士のもとにあって医学の研究をしていたが、同氏は中学時代から杜翁の著書を好んで読んでいたが、医専を卒業して実社会に触れるようになってからは、気の芽生でか少なからず杜翁に私淑して何かやらなければならぬという心の悶えで、南洋を志しては南洋方面に関する書籍を渉猟し、北海道を志してはさらに北海道に関する書籍や田地を知る人達の意見などを叩いて見た結果、どうしてもジッとしていることが出来なくなり、

 昨年五月、名をレントゲンの研究に籍りて郷里を飛び出し、当地で計らず賀川豊彦氏に邂うて、一夕氏から虐げられている暗黒な社会層の有様を聞き、解放されたといっても繋縛から免れ得ず、益々藻掻きに藻掻きつつある彼等の生活、氏のこれに関する研究を聞いて、心は頓に動いて、遂に賀川氏と約束して、米国の伝道局から資金を仰ぐことになり、翻然北海道行きを廃めて、これらの社会層を研究し、自らその中に投じて、之が救済の手を差し伸べるべく、

 昨年七月、先ず新川の賀川氏の許に友愛診療所を置き、次いで間もなく番町大本氏方に同様の診療所を設けて施療することになったが、徹底的に彼らを研究し救済するには、彼等の部落に全然身を投じなければならぬというので、今まで須磨町西代に私宅を構えていたのを、

 先月二十日に家族全部を引具して、前記番町の診療所に引き移ったが、この時などは同町青年団の連中が勇み立って、氏の一家を連へ引越しの準備万端を整えて呉れたというが、現在同所には氏の妻女を始め母堂、令妹、令息などを迎え入れ、現に令妹はまだうら若い身をこの部落に投じ、白い看護婦服に包んで令兄の手助けをしているが、

 馬島氏は曰く「只私は、人間として一切平等であるべき筈の人が、習慣の為に、社会の繋縛から脱し得ずに苦しんでいる人達を憐れに思うのです。先ず私は、茲二年なり乃至三年なりを只黙して研究し、この不幸な人達の真の友人として生きねばなりませぬ。これが私の一生の仕事になるでしょう」と深い決心の色を示している。


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 ところで、大正11年1月10日付けの「大阪毎日新聞」の「兵庫県付録」に、間島医師が「M兄」あてに書簡が届けられた記事があることを知ったので、ここに追加して置く。

 当時、村島帰之は毎日新聞の記者として活躍していたことは周知のことで、ここで「M兄」というのは、村島宛ての書簡であることは確実であり、この記事そのものが、村島記者のものである。

 この新聞資料は、神戸大学図書館の長年にわたる労作によって、パソコン上で閲読できるものである。これまでは、図書館に出向き、マイクロフィルムにむかって、時間をかけて検索して接写して、それを文字にしてきたが、こんな便利なサービスが存在していることに、ビックリ仰天している。数年前にいちどだけ、これを活用させていただいたことがあるが、これからは、もっともっとこの作業でも活用させていただきたいと思っている。

 なお、村島に関しては、神戸の賀川ミュージアムのサイト「研究所」のところで、村島の著作ふたつ『労働運動昔ばなし』と『預言詩人・賀川豊彦』を収めて頂いているので、一読いただければ有難い。(2014年1月27日補記)


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大阪毎日新聞 1922.1.10(大正11)
兵庫県附録
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  殺人―強盗―酔っぱらい―喧嘩
  警官と労働者の戦闘の連続
  シカゴの貧民窟ウッドロウン街で移民教育事業に従事せる馬島氏からの便り
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 賀川豊彦氏主催のイエス団、友愛救済所の主治医として神戸新川及び兵庫番町六万の貧民部落民の為に無料診療に従事していたドクトル馬島僴氏は、目下米国シカゴの貧民窟ウッドロウン街でシカゴのセットルメント・ウォークの研究に従事しているが、最近同氏から次のような通信があった。

 M兄
  十二月十日
                                    馬島僴

 クリスマスが近づいて来たので、シカゴで有名なダウン街の賑かさはまた一入ですが、一方では、物騒なピストル騒ぎが繁くなって来て、並外れて団体の愛らしいお巡りさん連も、泥棒と見れば早速ヅドンと一発お見舞する仕末で、強盗と来たらどれもこれも自動車に乗って、双手にピストルを持ってるから甚だ仕末が悪い。彼等は昼夜の別なく、又場所構わずに縦横無尽に横行闊歩していて、少しでも金のありそうな男が、夜中一人歩きでもしておれば、何等の挨拶なしに後から射殺して、懐中から金銭や貴金属類を掠奪して終う有様で、其間髪を容れない位の機敏な動作だから、大抵の連中は全く縮みあがっていますが、私などは御蔭様で懐中がいつも素寒貧ですから、こんな心配とは心配の内容が異っていますから、生命の方は一先ず安心です。

 それにしても、禁酒国の此の街で飲酒事件の多い事には驚かされました。泥酔した亭主を射殺した細君等の事件は、ちっとも珍しくありませぬ。酔払いの自動車運転手がさる貴婦人であったり、ホテルで半死半生になる位にまで毒酒をあおっている妙齢の失業婦人のある事などはまだしものことで、ダウン街の中央の大きな警察署と一町と離れぬ処で、半ば公然の酒場があって、その酒場の亭主が労働組合の幹事だったり、酒場の亭主が酔い潰れた客の喧嘩を仲裁して、其場でピストルのお見舞いを蒙ってお陀仏となったりして、さてもさても物騒な次第です。

 しかしながら、かかる事件があったため、これまで有名無実であったブルドッグの禁酒令が喧しくなって来て、近くムーン、シャインで通っていた数百の酒場に、市長さんから禁酒令がやかましく通達されました。五日程前から北部合衆国のパッキング・レーバアーユニオン(荷造業者組合)が大同盟罷業を初めました。

 シカゴでは例の世界一の称あるユニオン・ストックヤードにも、遂に騒ぎが蔓延して来ました。既に此の二三日は毎日、警官と労働者の実戦が連続して、十数人の労働組合員が警官のために射たれたり殺されたりして、頗る物騒な場面を現していますが、一般の米国人はデブ君のアーバック君が美しい女優を殺した事件程の興味も持っていませぬ模様ですから、米国の労働運動も随分と骨の折れることと想われました。過激派の横暴を怒って、ポーランドやフィンランド辺りから来た青年達が米国に来て、此色彩の強いキャビタリズムの影を目の辺りにつきつけられて、再び過激主義を恋しがるという不思議な現象もちょいちょいあります。

  世界的防貧事業家テイラー氏が今春来朝

 話は変りますが、世界的に有名な防貧事業界の第一人者なるドクター、グラハム・テイラー氏が、近い裏に日本を訪ねられるそうです。

 私も先生の事業を見学するために、先生の研究室に伺いますが、先生は一八九四年以来二十有七年間、愛の人人格の人、社会経済学の権威者として、又シカゴ大学の教授として、実に敬慕に値する人です。

 先生は日本及支那の社会事業を視察するために、陽春四月頃に渡日される予定ですが、来られたら大歓迎をして貰いたいのです。

 シカゴは由来排日の気分はあるようで又ないようですが、大学でも団匪事件の賠償金で留学して来てる支那学生の多いのには驚かされました。

 シカゴ大学の教授中にも、一も二もなく日本を不快に想っている人もあるが、中にはマシュウス学長スタール博士やテイラー博士のように、ピンからキリまで日本びいきの教授もいられます。

 米国の社会事業、就中防貧事業は日本のそれとは異った性質を帯びています。シカゴでは貧民窟が大小取りまぜて十八箇所ありますが、シカゴ・コンモンスを筆頭に有名なハルハウス、シカゴ大学セツルメント、ノースウェスターン大学セツルメント等の防貧的社会事業が、これに向って全精力を傾倒しています。

 米国には、新しい移民達に向って、アメリカ化を一番大切な事業として行っていますが、貧しい労働者の多くは無教育で、且東南部欧州から来た人々ですから、かかる人達を相手にしてのアメリカ化事業は仲々難しいことだと想われました。

 私はアメリカ化そのものには多大の疑問を持っていますが、兎に角言葉の通じない十数箇の民族の人達を、隣人として愛してはぐくんで行く事業は、仲々至難事です。

 さりながら米国は富の国黄金の国ですから、同じ貧しいとはいえ日本の貧しい人々とは比較になりませぬ。がその代りに、人種の異った言語習慣の異った且無教育な人々を救済して行くには、どうあっても宗教的信仰が必要だろうと想います。

 テイラー先生の愛嬢ミステイラー女史は、三十名の義勇婦人及十数名の義勇青年と協力して、年三十万円の巨費を投じて、貧民窟の唯真中で奮闘していられます。

 私も目下ポーランド人かイタリヤ人かの貧民街に居を転ずるつもりで、一生懸命に家探しをしている次第です―左様なら
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データ作成:2009.12 神戸大学附属図書館



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 「間島と友愛診療所」については、次回にもういちど続くが、東京の「財団法人雲柱社・賀川豊彦記念松沢資料館」の纏めておられる『中間目録1』(2006年3月)には、「イエス団長田友愛救済所設立許可願」の資料が残されているようである。これを見るとさらに詳しいことがわかるかもしれない。先日、この資料のことで東京の資料館あてに閲読方法など問い合わせたところである。(2014年1月27日記す)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(13)



  「福祉の灯:兵庫県社会事業先覚者伝」武内 勝

 標記「福祉の灯:兵庫県社会事業先覚者伝」(兵庫県社会福祉協議会編、昭和46年)の中に「武内勝」の記述がある(382~388頁)。
 執筆者を確かめていないが、参考までに打ち出しておきたい。ここには武内の顔写真の他に2枚(彼の仕事場であった「東部労働紹介所」と「神戸市最初の職業紹介所内部」)の写真が収められている。

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 文中にあるように「武内の人や事業を語ることは容易ではない。とり立ててかれのおこした事業や著作で自らの思想や信仰をのべたものもない」といわれる。

 「武内勝」の相方である雪夫人(明治34年生まれ。大正9年5月~11年12月まで神戸市立中央職業紹介所、昭和9年4月~20年3月まで西宮一麦保育園園長補佐、昭和33年4月~11月まで神視保育園園長、昭和38年4月~天隣乳児保育園園長・・)の貴重な証言を交えて執筆されており、大変興味深い記述になっている。一度わたしも、生前の雪さんのお話を、1980年2月29日に親しく伺う機会があった。

 所蔵資料の中に、雪さんの写真も含まれていたので、武内勝氏没後の昭和46年、天隣乳児保育園のクリスマス・生活発表会における写真並びに撮影日不詳の写真であるが、雪さんの少しお若い頃の一枚もここに収めさせて頂く。

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 なお、1989年に刊行されている田代国次郎・菊池正治編著「日本社会福祉人物史(下)」第4編「現代社会福祉人物史」の中に「武内勝」の項があるようであるが、これは未確認である。

 次の写真は、今回の「武内氏所蔵資料」のもので、武内氏が所長を務めた「神戸市立中央職業紹介所」の全景と紹介所の内部で、二枚とも「郵便はがき」として作製されたものである。

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 『福祉の灯』には、冒頭に「兵庫県社会事業の変遷」が記され、「賀川豊彦」はもちろん「寺島ノブへ」「城ノブ」「遊佐敏彦」「木村義吉」「那須善治と田中俊介」「三浦清一・光子」など、イエス団と深い関係の有る人物の貴重な評伝が収められている。

 今回掲載するものは、2009年12月に刊行された『賀川豊彦とボランティア』(神戸新聞総合出版センター)の「付録」として収めることができた。(2009年6月1日鳥飼記す。2014年1月26日補記)


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           武内  勝

 「その頃から多くの青年が栄一のところに集まるようになった。最初に来た青年は竹田という善良な青年であった。この青年に導かれたのは五月雨のふっている時分であった。(中略)秋の立つころ、竹田がまづ第一に来た。頭を丸坊主に刈って、まるまると肥えた竹田は丈の短い法被(はっぴ)を着たまま、説教を聞きに来るようになった。彼は小さいときに日曜学校へ行ったとかで、よくキリスト教を理解していた。」(『死線を越えて』下巻より)
 
 若き日の賀川豊彦はかれと武内勝との人生における出会いを、このように描いている。栄一は賀川であり、竹田は武内のことである。ことに武内の風采の描写は語りえて妙である。その頃というのは賀川が新川貧民窟に入って一年近い明治四十三年の夏のおわりと思われる。賀川にとっては悲惨で残酷で、それまで想像もしたこともない人々の生活にもなれ、貧民窟のなかにも多くの友だちもでき、伝道や救済のしごともやっと目途がつきはじめた頃であったろう。

 もともと賀川が武内たちを導くことになったのは、当時神戸の町で易者をしていた勝の父から「是非キリスト教のバイブルを青年たちに教えてくれ」と依頼されたからであったが、まだ若年で無名の賀川をわが子の師としてえらんだ眼識はなみなものではないといえる。灸に長じ、九州など遠方からききつけて治療をうけにくるものもあり、ときに癩患者などを自分の家につれて来たりしたが、ほとんど無料で世話をしたという。
 
 こうした貝釦工場などの青年労働者たちが集まることは、それまでの貧民たちとは社会的な意味では異なったものであり、そこから賀川にとっても労働問題という、あらたな問題ととりくみことになったのである。

 それよりも賀川と武内にとっての、この出会いは、二十二歳と十八歳という二人の若者に、神の導きともいうべき生涯の師弟、「最もよき協力者」とのちにいわれた二人の交わりがはじまったことであった。

 武内はそれ以来、賀川のかげのように終生イエス団を守り育み、伝道と社会事業にその一身を変わらぬ誠実をこめて捧げたのである。

 武内は明治二十五年(一八九二)の九月、岡山県邑久郡長船町に生まれた。生家は長男が近衛兵にとられたというから中農以上であることはたしかだが、父が鉱山事業に手を出して失敗し家、土地を手離し、家族を捨てて、家出したあと、当時の高等小学校を出ただけの十七歳の勝は母、弟三人を伴い故郷を捨て大阪に出た。

 しかし、縁故も技能ももたない少年の勝には満足な職などあるはずはなく、昼はこども相手の「おきびちゃん」売り、夜は「のみとり粉」売りの必死の昼夜にわたる行商生活も母と弟三人との五人の生活は容易でなく貧窮のどん底に、おかゆがすすれず飢えを訴える幼い弟たちに、ひと知れず泣いたという。ひとにすすめられ一家は神戸に来たものの三度の食事にもことかく日もすくなくなかった貧しさは変わらなかった。

 やがて、琺瑯工場で働くようになり、器用な勝少年はすぐになれ、ようやく一家は“おかゆ”が満足にすすれる境遇になり、さらに利発な勝自分で仲間たちと貝釦工場をはじめ、かれの父もふたたび家族とくらすようになった。

 その頃はじめられたイエス団の早朝学校(旧制中学程度、年表では「救霊団実業学校」とあり)では武田のことを「善良で利発な青年なので賀川はこれに望みを託した」(『太陽を射るもの』賀川の項)という。
 
 イエス団の救霊事業や夜間の路傍伝道にも武内は賀川をたすけて熱心にはげみ、しだいにその中心になっていった。賀川の渡米にあたっては武内とその家族がイエス団に移り住んだ。

 「先生(賀川)不在中、貧民窟の伝道を続けたのは、武内勝と青年労働者達でありました。全部で十人の青年達は初代教会の使徒達のような協同生活を始め、誰一人不平を言う者も口論する者もありませんでした。」(田中芳三『神はわが牧者抄』より)というまでになった。

 また、賀川の帰国後はじめた授産事業(歯ブラシ工場)では、その準備、機械の買入、技術の習得、作業などに賀川の指示をうけ、その中心となってつとめた。授産事業は結局不成功におわったが、その後は遊佐敏彦の生田川口入所の事業に従い、イエス団の教会に通った。

 そしてこの頃、賀川の世話で現在の雪夫人と結婚した。ふたりは南紀勝浦で見合いし、その後信仰にもえていた夫人は自分の目で武内をたしかめるため、家族の反対をおしきって木の本の家を離れて来神した。

 「おまえは何のために来たのか」
 挨拶にいったかの女に、いきなり賀川がいかめしい顔付きできいた。かの女は知っているのにと思ったが黙っているわけにいかないので、来神の目的をこたえると、
 「覚悟はできているか」
 と賀川は重ねていう。父のような温厚な遊佐にくらべて、なんとこわいひとだとかの女は思ったという。壮年の賀川の意気さかんなようすが見えるようだ。聖書学校で勉強したいというかの女に、賀川は言下に「武内学校におれば充分だ」といったという。
 
 武内の結婚についての賀川の奔走は、かれの米国留学中のことなども考えていたのかも知れない。賀川の小説『一粒の麦』の主人公嘉吉は武内にヒントをえたのだといわれている。

 結婚後は二人は労働紹介所の二階の八畳と六畳の一間に新婚の生活をはじめたが、一方には職員やその他職を求めて訪れた宿のない人たちの住まいとして、つねに多数の、ときには二〇人ぐらいも泊まりこんだ。

 武内はひとを差別せず、宿や職がなく困っているものと見れば、仕事や職の見つかるまで親身に誰でもそこへとめ世話をした。

 大正九年、生田川口入所は公営となり、神戸市中央職業紹介所となり、武内も神戸市職員として採用され、中央職業紹介所に勤務することになった。
 賀川から職業紹介所か生協(大正九、神戸購買組合創立)か、いずれかを選べといわれた武内は即座に月給では半ばに近い紹介所をえらんだとおいう話は、おそらくこのときのことであったろう。
 
 当時の紹介所の事業はいまの労働行政とちがい、行政のうえでも社会事業の一分野としてあつかわれ、事実まえにのべたように、職も宿もない日雇労働者たちの世話が多かったのである。武内はそれを天職として自らのぞんでとったのであろう。

 かれは大正十一年には、書記に昇進し、東部労働紹介所兼西部労働紹介所長となった。これは口入所設立以来の遊佐が東京に転じたあとをついだものであろう。

 つづいて昭和十三年、職業紹介所事業が国営に移管となるや葺合労働紹介所長となり、戦時中は勤労署とよばれた時代をへて、昭和二十六年、神戸公共職業安定所長の職を退職するまで、約三十数年にわたり一貫して職業行政に従事することとなった。
 
 毎日、朝は二つの弁当をもって家を出ると昼間は労働紹介所の仕事を、夜はイエス団へというのが当時の日課であったと夫人は語っている。

 この頃、賀川は労働運動からさらに農民運動へと東奔西走に日がつづくことになり、ことに関東大震災の救援を機に、賀川は家族をあげて東京に移り住んだので、そのあとには武内の家族がはいり、貧民窟でのイエス団の伝道と社会事業活動はしぜんに武内の肩にかかっていたのであろう。

 かれは寝食を忘れて賀川の留守を忠実に守ったのである。一日として路傍伝道をかかさず、行路病者の世話をし、また祈ったという。それは武内にとっては水の流れるように賀川の教えを守っただけである。

 だから戦時中の賀川が危険人物視される時代にあっても、特高警察に尊敬する人物はときかれて、ためらいなしに賀川先生だと即座にこたえたという。
 
 武内の人や事業を語ることは容易ではない。とり立ててかれのおこした事業や著作で自らの思想や信仰をのべたものもない。

 しかし、かれはその師賀川の教えのすべてをもっとも忠実に寸分たがえず実践した唯ひとりの人間といえるだろう。また、あくまで賀川の事業を守ることに、文字通りその生涯をささげたといってよい。「五十年を一日の如く仕えた」(岸部勘次郎牧師)というのがもっともかれを正確につたえることばかも知れない。またいう、「イエス・キリストはわからないが武内をみてキリストが好きになった」と。夫人は「武内によってどんなに清められたかわからない」と在りし日をふりかえっていう。
 
 武内の仕事であげなくてはならないのは、労働紹介所長時代、他都市に先んじて「労働保険組合」(大正十三)を創設したことであろう。これはわが国社会事業史上注目されるべきことであった。
港湾作業の労働者たちなどが傷病になったり仕事にあぶれることが多かったが、当時は何らの救済もなかった。武内は友愛会神戸連合会とのかかわりもあったこととて、早くからこうした制度について感心をもち心を痛めていたが、神戸市の吏員の立場もあり、篤志家の寄付をつのることもできず悩んでいたという。

 おりから神戸市社会課長のもとへ千円の寄付があったことからかれの好意によって基金とすることをえ、日雇労働者の生活を守るための共済制度として発足したのである。(「木村義吉さんを語る座談会」昭和十二年十二月、於大倉宅)
 
 かれはまた日雇労働者たちを心から大切にし「日雇労働者の親」としたわれたという。その頃常時あったよっぱらいの乱暴も気にせず、どんなときもいやな顔をしないで何時間でも話をきくのがつねであった。

 だから、昭和四、五年頃、部下の金銭上の不始末を自分の責任として職を辞し、自己の退職金を提供、弁済した。武内の辞職を知った多くの日雇労働者はかれの復職を求め、市役所におしかけ、当時の木村社会課長が自ら自動車で武内を迎えに走り、結局あらためて雇員として新採用のかたちで前職にもどらせたという。日雇労働者たちは新川や番町での武内のことをよく知っており、かれのいうことにはよく従ったからである。
 
 こうして職業行政にあっても功労者として知事、労働者職業安定局長の表彰、感謝状をうけたが、イエス団のほか神戸、灘両生協(合併以前)、愛隣館、兵庫県労働保険組合などの役員として社会的活動も多い。

 ことにイエス団は財団、社会福祉両法人として、関西での賀川の社会事業体として、教育・保育・隣保・用語・診療・簡易宿泊所・母子寮・厚生など多面的かつ多数の施設と事業をいとなんでいたが、賀川の補佐の役割を担う武内は事実上その管理運営の責任者として、心を砕くことが多かった。

 武内は一方ではこうした経営と管理についての面ではすぐれた能力をもっていたと思われる。少年のときすでに家庭を養い、工場をみずから経営したこともあったことは、前に述べた通りである。その頃賀川に十銭の下駄をやめ十二銭(もっとも安くつく)にした方がより経済的だと献金をして賀川より叱られたという。

 賀川の死去後ほぼ六年目、昭和四十一年の春、武内も師のあとを追うようにこの世を去った。そしてかれの生前の功労に、正六位勲五等、雙光旭日章がおくられ、兵庫県知事よりは永年の社会福祉事業につくしたことへ感謝状がおくられた。夫人はいまもかれの社会事業のいとなみの場であった長田区三番町でイエス団のゆかりの名をもつ「天隣乳児保育園」を開いている。

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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(12)

武内書簡



   武内勝の賀川豊彦宛書簡(賀川豊彦米国留学中、大正4年正月)

 今回は、賀川がプリンストン留学中(大正3年8月~大正6年5月)、武内勝が賀川宛に送った書簡のひとつを紹介したい。

 米国留学中賀川は武内に、留守中の「イエス団」の一切を任せた。武内は賀川夫妻の生活したその場所に自ら住み込み、「私の生涯を通じまして、一番愉快な時でありました」と後に述懐する「共産生活の実行」を試みたことは、広く知られている。

 留学先から賀川は、武内宛の書簡を何度か送り届けているが、残念ながら現物はすべて、未発見のままである。

 ところで、2006年3月に財団法人雲柱社・賀川豊彦記念松沢資料館発行の『中間目録Ⅰ』には、「書簡・受信」資料リストがあり、そこには武内勝が賀川に当てた書簡が13通ほど残されている。

 そのうち賀川の米国留学中の武内の賀川宛書簡は、僅かに三通のみ残されている。それは、大正4年のもので、1月2日、1月27日、5月10日のものである。今回、松沢資料館のご好意でその三通の写真を送付いただいた。ここでは、大正4年1月2日付けの一通のみをご覧いただこう。今回上に収めたものはオフィシャルサイトで掲載したもので、判読困難な上に、今回掲載した書簡ではなく大正4年1月27日付のものになっている。


 賀川夫妻とは4歳年下の武内青年の、熱い心意気が伝わる手紙である。原文には句読点はない。判読困難な箇所もあり一部補正している。

 なおこれら三通の書簡は、1995年の阪神淡路大震災のあと、村山盛嗣氏によって解説を付し「友愛幼児園だより」として紹介されたことのあることを、過日の会議(村山氏編『賀川豊彦とそのボランティア』(武内勝口述)新版刊行のの打合せ)で教えられた。(2009年5月30日鳥飼記す)

 ところでこの機会に、上記「友愛幼児園だより」の当該部分を収めておきたいと考えたが、追って入手して補完したいと思う。(2014年1月25日記す)

 
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       大正4年1月2日 武内勝から賀川豊彦への手紙

 先生の事を毎日思て、絶えず祈りて居ります。先生、授業は如何ですか。医学の方はどうですか。神の使命は何処にあるか、考えては祈りて、神よ、我等何をすべきか、と伺て居ります。

 神よ、イエス団の事業を委ね給え、アーメン。先生渡米後、神は何を与えて、貧民の為に事業を起て給うと感じられつつありますか。
 渡米後、尚深く思い慕います。

 イエス団独立後、恵みの内にクリスマスも終え、新年を迎えました。神、我等を祝福し給うと信じて起て居ります。

 クリスマスは、例年と違い、金員故に、多数の貧民を喜ばす事が出来ず、唯八十名計りの子供と四五十名の成人と祝会を開いただけです。但し子供には、有志の尽力により善き物を与えられ、大いに喜びました。独立後は、尚々励まされて、新しき智と力を加えられて、善き働きの出来るを信じます。
 青年も励んで信仰に歩んで居ります。

 先生、私は未だ世に勝つ準備が出来ていないから、凡てを求め得ます。神は得させんとて選びたまいました。

 今年は日曜学校の方法を改良したいと思うて居ります。又、伝道も色々の働きも、イエスに似た事を努めたく、祈りて居ります。去年の働きは、三百日の労働と、三千頁計りの読書と、二百回程の説教と、二百本の手紙と、其の他雑務であった。其の内、自己を忘れて人の為に務めた小事でありました。此の事の為に悲と苦労とは身に及びました。而し是によって、尚深くイエスと神と霊の働きを感知しました。

 今年の働きは何をすべきですか。神の声に従い務めんとす。

 去年、貧しき内に労働と涙と祈りにより、神の手に在りて、今に至りました。多くの涙はありましたが、悲しみの年でなく、感謝の年でした。新しく迎えた当年も、昨年に過る苦労と涙が入ると思いますが、祝福される年と思て居ります。私は今年は何んでも一万頁読書したく思て居ります。伝道の働きもより多く致したいと思います。

 青年等も一層進んで神の子となり、善く勉強し、智と力を求め、聖書の意を知らんとしております。

 而しイエス団にとりて困ることは、青年の職業が無い事す。今春は何か与えられると信じて居りますが、労働者が職業なき事は、生命を失た様なものです。神よ、職業を与えたまえ。

 独立後尚深く、祈る精神と感謝の念が多くなりました。
 先生が常に祈りて下さるを知りて喜ぶ。続けて祈りて下さい。
 イエス団の信徒は皆、先生の為に祈りてをります。
                          武内  勝
      大正四年一月二日
 賀川先生

     
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 この書簡に於いて、武内は「イエス団独立後」という表現を三度も用いている。賀川不在のこの期間の武内ら青年達は、ほかからの金銭的な援助を断って、自分達の労働で独立した自給の生活のかたちを創りだしていた。「独立イエス団」という武内らの意気込みが、なかなか面白い。

 新版『賀川豊彦とボランティア』の第7章「渡米中のイエス団」のところには、留学中の賀川からの武内への手紙の事のほかに、「イエス団」という名称は「宇都宮」の提案を賀川も賛成して、それまでの「救霊団」を「イエス団」に改称したことや「青年による共産生活」などについて語られている。(2014年1月25日記す)


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 ところで、既述のように、賀川の米国留学中の武内勝から賀川への書簡は三通残されていて、それが「友愛幼児園だより」で連載・紹介され、村山盛嗣園長の「解説」が付されていることを、以前村山氏より教えられていた。
 そこで先日、賀川ミュージアムの西義人氏にその閲読方法につきご依頼したところ、早速昨日(2014年1月28日)、友愛幼児園の方のご協力もあって、そのコピーをファックスしていただいた。

 いまこの貴重なドキュメントをテキストにしたので、不十分ながら参考までにUPさせていただく。
 このときの、武内と賀川の書簡のやりとりは、双方にとって特別の意味合いを持ち、武内は賀川の書簡を持ち歩いて熟読していることが指摘されている。武内の口述記録『賀川豊彦とボランティア』(新版)にも、賀川からの書簡に関してたびたび言及されているが、その書簡そのものは現在では当時のそれらは確認することができない。
 ここでの村山氏の「解説」と「あとがき」も重要である。なお、西義人氏によれば、残されている「友愛幼児園だより」には、村山氏の論稿が大量に残されていて、これは立派な書物になるものである、と語られていた。
 ここにも記されているように、村山氏は若き日より神戸イエス団教会の牧師として、また友愛幼児園の園長として、さらに「賀川記念館」の建設とその館長として、「イエス団」の大役を担ってこられた御方であり、その企画が実現すれば素晴らしいことである。(2014年1月29日記す)



友愛幼児園だより」1995年5月

 武内勝から賀川豊彦宛の書簡(l)

 一解説一―武内勝氏は賀川先生の第一の弟子として、わがイエス団を守って来られた方である。昨年3月、東京の賀川資料館研究員・米沢和一郎氏より、賀川先生アメリカ遊学時に、武内氏から先生宛に出された手紙三通の写しをいただいた。当園の母体であるイエス団の歴史に関わる貴重な資料なので、ここに公にしておきたい。

 できるだけ原文に忠実なることを心掛けたが、判読できないところは○○、推定は( )にしておいた。エスはイエスのことである。なお、元職員の木村正英さんには、読みにくい文をワープロに起し、助けていただいた。 (村山)


      ♯       ♯      ♯


 先生の事を毎日思って絶ず祈りで居ります。先生の(授)業は如何ですか。医学の方はどうですか。神の使命は何処にあるか考へては祈りで神よ我等何をすべきかと伺って居ります。神よエス団の事業を委ね給ヘアーメン。先生渡米後神は何を興へて貧民の為に事業を興へ給と感じられつつありますか。今の処観察されて如何に思召になりますか。渡米後尚深く思ひ慕ひます。

 イエス団独立後恵の内にクリスマスも柊へ新年を迎えました。神我等を祝福し給と信じて起て居ります。クリスマスは例年と違ひ(金欠病)に多数の貧民を喜す事が出来ず,唯八十名計りの子供と四五十名の成人と祝回を開いた○○。但し子供は有志の尽力により善き物を興へられ大いに喜びました。独立後は尚々励まされて新しき智と力を加へられて善き働きの出釆るを信じます。青年も励げんで信仰に歩で居ります。

 先生私は未だ世に立つ準備が出来ていないから凡てを求め得ます。神は得させんとて選びたまひました。

 今年は日曜学(校)の方法を改良したい思て居ります。又伝道も色々の働もエスにた事を務めたく祈りて居ります。去年の働三百日の労働と三千頁計りの読書と二百回の説教と二百本の手紙と其他雑務であ(りし)た。其(のため)自己を忘れて人の為務めたO事でありました。此事の為に悲と労とは身に及びました。而し是れによりて深くエスと神と霊の働を感知しました。

 今年の働きは何をすべきですか。神の声従ひ務めんとす。去年貧しき(ため)労働涙と祈りにより神の手に在りて今に至りまた,多くの涙はありましたが悲しみの年でなく感謝の年でした。新しく迎へた当年も昨に過る苦労と涙が入ると思ひますが祝福さる年と思って居ります。

 私は今年は何んでも一万頁読書したく思て眉ります。伝道の働きもより多く致したいと思いまず。青年等も一層進で神の子となり善く勉強し智と力を求め聖書の意を知らんとしてをります。

 而エス団にとりて困る事は脅年の就職が無い事です。今春は何か興へらるを信じて居りますが労働者が職業なき事ば生命を失た様なものです。神よ職業を興えたまへ。独立後深く祈る精神と感謝の念が多くなりました。

 先生が常に祈りて下さるを知りて喜ぶ。続けて祈りて下さい。イエス団の信徒は皆先生の為に祈りてをります。

   大正四年一月二日
                                    武内 勝
 賀川先生




「友愛幼児園だより」1995年6月

  武内勝から賀川豊彦宛の書簡(2)

 解説一―先月から、わがイエス団を守ってこられた武内 膀氏から、アメリカ留学中の賀川先生に宛てた手紙を掲載している。
 大正三年(1914)、それまで毎月50ドルづつ送金してくれていたアメリカの煉瓦会社の重役から、突然、送金を停止するとの通知を受け、イエス団の事業を縮小しなければならなくなった。賀川先生はこの機会にアメリカに行く決意をし、その年の8月2日、神戸港より出帆、武内氏に留守を託したのである。
 武内氏を中心に青年等は、不況の中、苦労をしながら就職し給料をそっくり献げ、事業の維持に努めた。賀川26才。武内22才。(村山)



 今静かに考えまして思います。日本青年は覚醒をせなくてはならぬと。今日の青年は人形ではないかと思います。

 政府は増師について、政友金と政府に反対が出来て、伯は解散を命じました。今度は總選挙をやるそうです。

 政治について、労働について、貧乏について、罪悪について、万事が覚醒すべき時です。殊に貧民労働者を醒まさなくてはなりませぬ。

 私は今年一年、覚醒を叫びましょう。一歩も退きませぬ。大いに進歩します。そして集の青年特に貧民労働者間の骨の骨、陶の肉になります。エス団がなります。

 どう考えましても、我々が彼等の霊の様に見えます。

 今日の処青年も仕事がありましたので、景気がよくあります。但し未だ無職の人もあります。奥さんは学課に追はれて居らるると聞きました。

 宇都宮兄は田舎より徳島に帰り今熱烈に伝道して居るとロ-ガン先生よりききました。白仁さんよりは近頃一度も便がありません。而し私はーヶ月こ二三回は励む様に手紙を出して居ります。小田兄も元気でず。富山で小島兄により喜ぶ事多くあります。深き同情以て書されます。芝房吉様は去年十二月中頃より病気です。島田の奥さんは先生の話を度々して居られます。手紙を出される時よろしくと度々申されます。植田兄は酒の人となりました。岸本の老夫婦も林のおばさんも皆天国に近ずきつつあります。岸本老人は去年より床に其儘です。青年は私とも九人です。

 来会人は井上、田辺、佐々木、本多、橋本、濱田、升田、○○、私とです。娘は芝、大塚、須川、○○の四人です。その他皆変わりありません。青年らしくあります。

 エス団はエス団らしくあります。この青年等を日曜学絞に用ふる考へです。

 野戦は無論です。野戦に出る人は沢山です。聞く人も多くあります。大変でも善く聞きます。私は数倍の熱を以て話します。今年は私共青年生れて始めの寒きです。私が朝起手筆取りました処が筆のホのサキが氷りまして字が害けなくなりました。スズリの水も氷りました

 御便り有難存じまず。一月二六日に看きました。

 前○は正月に○て居りました、今又新しく記しました。
                                   武内 勝
 賀川先生
 
   大正四年一月二七日
                本江様よりよろしく
                  




   武内勝から賀川豊彦宛の書簡(3)

 ―解説――賀川先生は武内勝に、留学中の一切を委ねて米国に留学したが、米国の篤志家からの寄付金もストッブされ、それを機会に自主独立せざるを得なくなったイエス団を、大変心配されていた様子がうかがえる。
 武内が返事を書いて、未だ投函せぬうちに、次の手紙がくるといった様に。
 武内の方でも、先生からいただいた手紙は一日中持ら歩き、繰り返し熟読し、相当興奮され、かなり高ぶって返事をかいたとみえ、文章の乱れが目立ちまず。
 前回(2)のなかで、増師とあるのは師団の増強のことで、軍備拡張のことであろう。
 伯は大正三年、再び首相となった大隈重信改新党の党首、後の早大總長のことである。
 徐々に、日本が富国強兵路線を強めつつある時代を伺わせる。(村山)
   


 手紙を二回に書て居りました処へ手紙を受けまして又一筆述ます。

 御手紙を数度読(み)ました。そして職場で朝より晩まで読(ん)では考へ読んでは考えました。

 勝の血は湧て居ります。先生は先生の道を、勝は勝の道をとに互角に前進しなくてはなりません。エスは絶ず起よ○○、起よと命じ給(う)のです。この声を聞て勇しく起ちます。人を恐れません。

 神戸の組合教会で去年信徒大会の時に、村松氏は述て「神戸の教会では米国より金○が来ない為に伝道に困りて居るそうである」と申しました。

 聞いて居りた私は思いました。見て居れ我等は金と教会と美しい言葉にて伝道せず。エスを知り神を見たくば我を見よと云ひ得る人になりて、真のエスを伝へCOO励みました。

 先生感謝して下さい、主によりて勇敢にやります。イエスよ英智を現拾へ。日本の国は亡びつつあるも、今の基督教が腐て居るも、真のクリスチンー人居れば、神はこの人に日本の救を委ねて救ひ給ふ。神学生や牧師によりてではありますまい。

 先生。先生もし新川に居りしなら、共に抱き、共に泣きもし、共に祈りもし、共に苦しみもしたらんものをと申されますか。

 けれども師よ、これは却て喜ぶべきです。師は望ありで私はこの事によりて互に大きく偉くなりて行くのでせう。私にとりてなくならぬ事は共に居るより離れ居る今日が身の薬です。心配の中にも喜で下さい。

 日本を天皇を無くせよと云はれますか。愛します。凡てを愛します。唯愛すと申しただけではなりませぬ。真実にしこれから考へるも小さくなりませぬ。山へは入りません。大きくなる為に帰国なさったら多く教へて下さい。私は導かるる儘に歩みませう。

 役者は新しき思想を舞台で演じますが、是で杜会を導くのですか。私は貧民窟の中で、世の人が馬鹿にして居る地のどんぞこで、命のつきる迄で実行で演じます。

 先生は書物から書物へ、思想より思想へ、勝は之を現す為に実行より実行へ。

エスの如く宇都宮兄は大いに奮闘してをります。兄は常に私によりて励むと申してをります。兄は私の半身です。

 イエス団独立に○して祝してくれました人が申さるるに、成人は毎日五十銭の献金する人あり、又電報以て祝される者あり、後の働きが心配であると云ひながら祝される人あり、更に日本の基督教は兄より始るみ励ましでくれる人あり。

 先生よりの手紙私は忘れません。先生若し金を送らなくともこの書一対あれば充分です。忘れません。主ともに在し給ふ。

 ア まだも一言、エス団は独立しても今のままではいかぬと申さるるか。私は善く知りて居ります。イエス団は世界に独立した労働者の真数を確立しますよ。貧民の肉に労働者の血に○の骨に宗教の霊になりますよ。神導きたまえ。

 貧民と労働者ば自重心がないと思います。あるとするも間違った方面で、自覚して起つ者の少ない事。

 けれ共彼等が真にエスに習てやれば世界は一変します。彼等を醒まして彼等を教へ導て、神によりてやりと一す決心を起し、祈りてやれば神恵みたまいまず。

 毎日、時を用いて手紙を書きました。
 
  大正四年一月三十日




「友愛幼児園だより」1995年7月

   武内勝から賀川豊彦宛の書簡(4)
           
 一一解説――これは大疋4午5月10日付の手紙である。長文なので分けて掲載する。
 武内は賀川先生に出会う前には、内村鑑三に私淑され、個人雑誌「聖書之研究」を創刊号より、廃刊になるまで角からすみまで熟読されたと語っておられた。
 武内の聖書の知識と信仰、そして自主独立の精神は大いに内村の影響があるとみる。
 なかでも内村の非戦論には心から傾倒。「天皇の命令に従い、矛盾を繰り返していては永遠に平和は来ない」と戦争に反対。死を覚悟して徴兵を拒否する決心を固め、賀川先生より「小さきトルストイの子よ」とたしなめられた程であった。(村山)


 欧州は戦争で多忙、米国は金儲絣で多忙、東洋は日支問題で新聞社が大多忙、今にも戦争かと思は(れま)したが、どーやら平和で解決ですが、多忙が世界の流行かも知らんが、私も多忙、何としても十時間が労働時間ですから。

 先生は米国の汽車は曰本の最大急行より速いと申されたが、人の進歩も早い事。私がゴツゴツと仕事をして居る間に井上君は私より多くの文字を学び英語迄よほど上手になり、上遠の敏活なには驚きます。

 然し兎と亀との競走にヌルイ亀ざんが勝ったと云うでせう。それで人が学問学問と云ふて空中飛行をや(つ)で居る間に、砂を(堀り取って)建つべき基いの岩を発見して居ります。ここで自己を発見します。ここで自覚を強をめます。大隈伯は百二十五才の長命を信ずるとか。
 
 私は去年青島の戦の時に銃殺の覚悟をしでをりましたが、召集にならず其ですみましたが、今年も又日支戦争が起こりはしないかと思まして、若し召集されたら銃殺と定て居りましたが、平和で解決とか。私は愈々天命を全する迄は死なじとの自覚心が出来ました。

 私は去年と今年の出来事によりて初めてゲーゼマネの祈りが解り又出来ました。今度の平和でも私にとりては自分の為に日支の問題が解決されたるとの如き感じがします、

 一○ついでにイエス団の青年は皆銃殺ざれても戦争しないとの者計り。此の故に私は死なずば彼等青年に生命を興へず、若し死せば彼等は活きるのです。

 誠に一粒の麦地に落ちて死なずばです。




「友愛幼児園だより」1995年8月

  武内勝から賀川豊彦宛の書簡(5)

 井上君は南極と北極の差程遠くもありませんが遠い。橋本君は活発な信仰のある、そして正直な愛のある勇者です。先日西川と云ふ奮い友が殺人犯で、○い石井監獄に入監しました。橋本兄は一日の労働を休み聖書と「平民の福音」を羞入て、後日猶も書面を送りておりましたが、西川より今は心より、悔改て忌ります。そして天の父が解りて毎日涙乍祈りて居るとの(葉)が来ました。私は皆の前で誉めました。

 去年より今日迄の働きが悉く無になるも可なり。橋本君が悔改た時こは酉川は悪口と迫害を加へた。然るものを僑本兄は今西川の為に祈り愛を注ぎ其の真心を西川の心に現した。其の心が橋本兄の内に出来し、これ一つは私にとりて嬉しく心止まめところであると申しました。

 其他の青年も元気です。仕事も今は残らず働いて居ります。本多兄はピカリと光りた者になり度いと甲します。

 私は必ずなれると励ましました。六千度の太陽は宇宙唯一の光り、高熱度と思て(いたが)、人工で太陽以上に熱度が出ると云ふ。而も七千八百度も。本多兄よ光れるよ。熱が出るよ。七千八百度以上にと励ましました。

 先生は植田兄の為に祈って居るとか申されましたが、先日又起た信仰が出来たそうです。私に告白しました。私は兄に過去の植田は見ない。今新しく信仰により起た植田を信ずると申しました。

 それから日向より平田君が私も○神して愛友団の青年男女と倶に活た神の働をしたいと二度申しました。私は望むなら来たまへと云てやりました。彼もイエス団でなくてはならぬと見へます。白仁君が病気で困りて居りましたが、ここ10日計り便りがありあせん。慰○園は4月30日限りで出園した筈であります。私は仕方がなければ神戸に帰り来れ愛して上げるからと云てやりました。私か彼に対する愛は白仁君も嬉しいと申して居ります。

 先日宇都宮兄が来神しました。実は名古屋行の為に。そして色々な話をしました。今後のイエス団についてもよく考え又祈りて居ります。5月10日、本日監獄へ迎に来ました。帰宅後(青木氏宅)前12時迄話をしました。彼の内なる子ブン等は沢山来りて酒を飲み始めました。而青木君は私と別室にて真面目に考へで心を語り合ひました。そして彼が本気になって居るのです、家内の者や子ブンは出獄を喜んで之を祝するとて酒を飲んでをるに、青木君は12時迄閉会する迄彼等各の問に一回の顔出しせず、唯帰る時、別の言葉を発した事、私と話をもちきりにしました。其内に23才の青年が居りましたが、この青年も改心して居りますので別室に二人が心を語りだ評でした。二人は私を尊敬して先生と云ふてくれました。私は却ってつら(いで)した。然し本当に新しい精神が出来て居るを知りまして非常に嬉しくありました。藤田三造君は痩身、4月15日に市役所の病院に渡しました。度々不足を云ふて来ます。   (つづく)




「友愛幼児園だより」1995年10月号

   武内勝から賀川豊彦宛の書簡(6)

 ――解説――この書簡も、この号をもって終わる。
 当園の母体である社会福祉法人イエス団の始まりの頃の姿が、赤裸々に記されているものとして、賀川豊彦に関する第一級の資料であることは言うまぐもないが、私にとっでも新たなる視点を与えられ、誠に興鉢深いものがあった。
 この度の震災で、ボランティア活動が特にクローズアップされたが、初期イエス団を支えた青年等こそば、わが国における地域福祉ボランティアの原点であると断定しても、決して言い過ぎではないであろう。
 賀川記念館そして友愛幼児園は、この宝を今日にふさわしく受け継ぐ使命を負っているのである。(村山)
  


 先生。イエス団は愛の○なくではならぬと思ひます。されど兄弟姉妹の間に愛が欲しいと思へば、先ず心を互に語り合ってともに祈り度いと考へまして、私は青年の聞耳でなく娘さんにも近づいて居ります、そして接触しで思ります。

 先日ある夜、文さんに私は貴方の心を聞いて偕に祈り度いと申しますと、文さんは私も貴君に心を残らずしかりお話したくあります、と云ひました。又浜田姉妹は私に貴君は私の真の兄さんです、私は永遠に愛しますと申しました。私は娘さん達に結婚問題についてハッキリとした事を赤裸々に話す考へです。

 無し私は自ら注意して居ります。女に近よりますと何だか愛が変じ安くありますから、私が娘さんに会見ると叉話合ひますと、彼等に恋愛思想が充満して居る様に思ひます。けれ共私は高い思想を抱いてこれを高調して居りますと、其処には男女の別なく唯愛あル耳で真に自由の感じがします。私はこれを高上する考へです。

 大塚姉妹は来る穴月こ結婚するそうです。私は姉に対して結婚を祝すると云へません。兎に角イエス団の内に間違いのない潔白な愛が青年男女に出来て、親善に交り愛の園と化して欲しいです。

 青年達の事をー人一人記せばよいと思ひますが、今時が沙いので後にします。

 マア先生喜んで下さい。脊年諸君は皆一ヶづづの笛管を以て居りまず。然も火薬は無煙無声です。社会自立煙は宥害になります。広告は実力を乏とします故に、私共は沈思熟考の態度をとりて居ります。其代り実力は驚くべき者です。

 先生の帰国迄には偉くなります。額に汗しては潔い飯を食ひ、芋に豆をこしらへては霊魂を創造り、静に考へては新天新地を発見し、祈る度毎に力を得、聖霊によりては教示され、我が血肉は信仰の燃科となる、斯の如き日を送りては又一日を新しく迎る我等は幸福なるかなでず。

 天の使も羨ましいでせう。

 賀川先生。先生の事を思ひ毎日祈りて居る事を書き忘れてをりました。
          
                                  武内 勝
  大正四年五月十日午後十一時二十分




「友愛幼児園だより」1995年11月

    武内書諭を読んで

                             園長 村山盛嗣

 1958年10月29日(水)夕方。新婚はほやほやのわたくしたちは、賀川先生の招きに従って、神戸に赴任した。

 そして、11月2日の日曜日。神戸イエス団教会礼拝にて、第一声をあげたわけである。

 礼拝後、教会の皆様に、
 一一わたくしたちは、未だ若い未熟者なので(26才になりたて)、どうかよろしくお願いします・・・。
 と、へりくだった積りで挨拶をした。

 すると、すかさず武内勝さん(当時イエス団常務理事・教会役員)が立ちあがって、
 一一賀川先生は21才でイエス団を始められた。だから決して若くはない・・・。
 と応じられ、教会員にわたくしたちを紹介して下さった。

 恐らく、その時、武内さんは言外に、
 一一わたしが賀川先生に出会い、イエス団に参加したのは18才の時だよ・・・、
 と言われていたに違いない。

 勿諭、大賀川・武内に比べようもないし、人生50年代とは単純に比較はでぎないとは思うが、わがイエス団は、いづれも結婚前の青年たちによって発足したのである。

 アブラハムの故事にならって、イエス団の青年たちは「行き先も知らずに出発した」(ヘブル11:8)のである。

 この度、少し場違いのきらいはあったが、武内さんから貿川先生宛の私信の一部を、掲載させていただいたのは、これがイエス団の始まりに関する重要な歴史的資料であること と、この機会に、特にイエス団の事業に従事している職員に、初めの心を記憶しておいて いただきたいと思ったからである。

 わたくし自身、この書簡を拝見させていただきながら熱い思いで整理させていただいた。

 その主な思いをまとめると三つある。

 先ず、最初のイエス団の青年たちは、原始キリスト教会そのままの共産生活を試みたということです。

 聖書には「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし、財屋や持ち物を売り、おのおの必要に応じて、皆がそれを分け合った」。そして、「民衆全体から好意を寄せられた」(使徒2)と記されているが、この様な共同体による実践を目ざしたということです。

 次に、賀川先生はじめ、イエス団に集まった青年たちは、皆んなアマチュアのボランティアであって、一人として社会福祉のプロはなかったということです。イエスにならって隣人を愛し、地域を愛する心から出発し、困難な課題と取組むうちにプロとなっていったのである。因に、アマチュアとは“愛する人”を意味する言葉のようです。

 第三に、外国からの援助を断り、悪戦苦闘をしながら、自主独立を貫いたということです。私立の原点である真の自由を選びとった先輩たちに、心から敬服ずるものである。

 これらの書簡は、大震災を契機に、天国から送られて来たメッセージであるのかも知れない。

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(11)


   「善隣幼稚園午後の部」の沿革
 
 1896年(明治28年)、アメリカのバプテスト派宣教師R・T・タムソン夫人が、旧小野浜町(現小野柄通7丁目)の民家を利用して善隣幼稚園を開設して、開拓的な仕事を続けてきたことが知られているが、賀川豊彦が「葺合新川」で新たな生活を開始してすぐ(1910年・明治43年4月)、「善隣幼稚園午後の部」と言われる付属事業が、吾妻通り5丁目に開設している。

 賀川の筆跡とおもわれる下記の文書は、その付属事業の「沿革」が年次的に簡潔に記された重要な覚書である。

 イエス団は、下記のような経緯の後にこの事業を引継ぐことになり、1935年(昭和10年)1月「友愛幼児園」として活動を開始し、戦中戦後を経て現在に至っている。
 「友愛幼児園」の初代の園長が武内勝であった。


       #                 #

「第一玉手箱」(文書資料B-5)4枚の用箋にペン書きされ封書の表には「善隣幼稚園沿革在中」と記される。
 本文は以下のとおり。


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              私立善隣幼稚園午後の部沿革

 当園は、紀元一千九百十年即ち明治四十三年四月、神戸市吾妻通り五丁目善隣幼稚園の附属事業として、近隣の紊乱家屋より将来有意の民を育てんとの目的を持って、米国バプテスト教会宣教師ミセス・タムソンによって設立せらる。(欄外に鉛筆で「明治四十二年五月 同 九月十四日建築竣工」と記される)

 善隣幼稚園午後の部と称し、幼児の為には保育部を、学齢児童の為には小学部を設けて、昼間近隣の恵まれ無い家庭の子女教育の為に勤む。

 同時に金曜学校を設け、近隣の児童の為に、日曜学校の形式を持って働きをはじむ。
 大正八年九月、米国よりウイルキンソン女史派遣せられタムソン夫人を助けらる。
 大正十二年四月、吾妻小学校の設立により小学部を廃し、保育部のみを設置して、益々事業の円満発展を期す。
 大正十五年、ウイルキンソン女史園長として就任せらる。
 昭和五年四月、都市計画により国道の為、幼稚園の土地五十三坪を削除せられ、建築の一部を改築す。
 昭和六年三月、タムソン夫人ウイルキンソン園長共に帰米せられ、フート夫人代理園長として就任せらる。
 昭和八年四月、新に理事会を設け理事六名選ばれ、重要なる問題はすべて理事会に於て決定せらるる事に決す。
 昭和九年三月、突然米国婦人伝道会社より、本園の独立を要求せらる。
 昭和九年四月、フート夫人帰米せられ、ビックスビー女史園長として就任せらる。
 同時に午前の部善隣幼稚園は、神戸市葺合区神若通り六丁目八、葺合バプテスト教会に移りたれば、午後の部を廃し独立の幼稚園として事業の発展を期す。
 午後理事会に於て、祈りの中に種々協議せられしも、事業の永久継続困難なりと認め、昭和九年十二月限り、米国バプテスト婦人伝道会社の経営を閉鎖す。
 昭和十年一月より神戸市財団法人イエス団によって、同じ目的のもとに保育事業を継続せらる。

 顧れば、本園は二十五年の昔より今日迄米国バプテスト教会婦人宣教師方が、基督教主義により善隣の名のもとに、近隣の人々の為に喜ばるる働きを続けられ、今や六百名余りの卒業生と現園児八十名を有する事は、此の上なき感謝である。

 二十五年の我が善隣幼稚園史に、神が強き御手を加えられ(数文字判読困難)、今後の御指導をも大胆に信じ、益々本園の上に天父の御祝福を祈ってやまない次第である。


           ♯         ♯        ♯


 付記 「武内勝資料」閲読トレトレを「お宝発見」として丁度今回10回目になる。次回からは「賀川豊彦・春子夫妻の武内勝宛書簡」の「お宝」が大量に残されているので、少しずつ取り出してみたい。

 先に一箇所のみ紹介した「武内勝の日記・手帳」は「お宝の中のお宝」であるが、これの閲読はなお暫らく時を要するので、アルバムの中の貴重な写真とともに最後に回すことになる。

 私たちにとって「賀川献身100年記念」のこの時に「神戸イエス団の武内勝」を「お宝」を通して追想できるのは、大きな喜びである。(2009年5月22日鳥飼記す)


 昭和52年6月に神戸市保育連盟で編纂発行された『神戸の保育園史』がある。其処には「善隣幼稚園」に関する立ち入った記述と「友愛幼児園」へと受け継がれる経緯が記されている。
 しかし、今回取り出す賀川豊彦による「善隣幼稚園沿革」は参照されていなかったようであり、賀川の記す「沿革」とは多少の違いもあるようである。

 また本書には、「戦後公立第一号」となった「長田保育所」の場所であるイエス団の長田区四番町4丁目の「天隣館」と、戦前大正期より五番町にあった間島医師らの「イエス団友愛診療所」とは場所的にも別であるが、少しく混同されて記述になっている。(2014年1月24日記す)
         

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(10)


    神戸市生田川共同住宅完成記念写真 


 武内所蔵の「第一玉手箱」神戸関係絵葉書の中に「神戸市生田川:生田川共同住宅第1・2・3号館絵葉書」と封筒に印刷された8枚組が残されていた。

そこには見事に完成した建物と完成模型と共に「生田川東星塾」に集う子供たちの写真も含まれている。


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 この「塾」は1933年(昭和8年)3月、共同住宅管理事務所において、吾妻小学校の教師たちの協力を得て始められた夜間学習であったはずである。

 これまで「絵葉書」の所在も知らなかったが、はじめて目にする貴重な写真である。


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 これにはイエス団関係の崎元氏が、神戸市の共同住宅管理事務所の嘱託となり、此の仕事に打ち込んでおられたことを、神戸イエス団教会の役員でもあった斉木進之助氏から生前、ご自宅でお聞きした覚えがある。

 賀川はこの「生田川共同住宅」に関して「自伝小説:石の枕を立てて」に次のように書き記していることは広く知られている。

 「新見の住んでいた神戸葺合新川の汚い家が破壊せられ、その代わりに鉄筋混凝土の四階建ての御殿のような家がそこに実現した。それを見た新見栄一は、貧民窟を改造しようとした多年の祈りが聴かれたことを、心より神に感謝した。」(97~98頁)。

 なおここにもう一枚、当時の共同住宅と思われる写真を収めて置く。

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 「生田川共同住宅」の建築の経緯については、さしあたり拙著『賀川豊彦と現代』(1988年)『賀川豊彦再発見―宗教と部落問題』(2002年)『賀川豊彦の贈りもの―いのち輝いて』(2007年)などにも言及している。
(2009年5月20日鳥飼記す。20014年1月23日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(9)

大阪イエス団教会会報

上記のコピーは「オフィシャルサイト」に掲載したものであるが、あらためて今回は、ガリ版刷の二枚をスキャンして置きたい。


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     「大阪イエス団教会々報 第1号 」

 「第一玉手箱」(文書資料A-1)に謄写版でつくられた標記の「大阪イエス団教会々報 第1号」が含まれていた。「大阪イエス団教会」なるものが1926年(昭和元年)に創立というのは初耳である。

 賀川の新川献身でスタートした「救霊団」は「イエス団」になり、財団法人、社会福祉法人、学校法人としての「イエス団」として発展してきているが、現在の「神戸イエス団教会」の名称は、1941年(昭和16年)の日本基督教団成立の時のようである。

 (2010年3月発行の『神戸イエス団教会―100年記念誌Ⅰ』の末尾の「教会史年表」によれば「1951年1月27日 日本基督教団より、第一種教会として承認された」と記されているが、1941年の教団創立の時の「イエス団教会」の名称をふくめて詳しい経緯についての記述はない。「神戸イエス団教会」という名称は、たぶん「大阪イエス団教会」が創立される前には用いられていた可能性がありますが、詳細は知らない。東京の「本所」の方も「本所イエス団教会」という名前もあったのでは? 「イエス団」というは内実的には「教会」と同義であったのだが)

 ともあれ1926年創立の「大阪イエス団教会」のこの「会報1号」の存在には驚かされる。
 発行者は記されていないが、このとき信徒は11名、牧師はおそらく前年大阪此花区に開設していた「四貫島セツルメント」の吉田源治郎氏であろうか。(この経緯については、のちに「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界を訪ねて」でいくらか明らかになっていった)

 賀川はこの時、家族と共に東京を離れ、兵庫県武庫郡瓦木村に移り住んで直ぐの頃である。

 「会報」に報告されている「西九条青年会館での賀川の伝道講演会」記録は翌年、日曜世界社から「キリスト一代記の話」として刊行され、広く読まれた作品である(「賀川全集」には入っていない)。

 この「会報」は何時まで続き、教会の其の後の進展はどうであったのであろうか。いずれにせよ「大阪イエス団教会」というのは現在の「四貫島教会」であるはずなので、詳しくはそちらで確認する必要がある。(2009年5月17日鳥飼記す。2014年1月22日補記)
 

            *  *  *


     大阪イエス団教会々報 第1号 1926・11・23

 この度、神の御加護の下に大阪イエス団教会が、我々西大阪に於て、新に生まれたる少数の同志に依って創立されました。

 我々量に於ては極僅少なりと雖も、質においては各自一騎当千の意気をもって、先に赦されたる恵を、未だ愛の神を知らざる西大阪に身を以て証しよう。

 神の愛の洪水よ、西大阪の煤煙を押流してしまえ。愛の洪水の中の一滴となり得る我等の光栄は身に余る。

 西大阪を神に捧げるため
 11月14,15,16の三日間於西九条青年会館、賀川先生による伝道講演会開催。

 西九条の伝道会に於て、新に信仰決心をなさった兄弟姉妹を11月18日(木)セツルメントに御招待申し上げ、午後7時から歓迎懇談会を開きました。

 11月21日(日)左の3兄姉が、賀川先生に依って洗礼をうけ、主の名に入れられ我等の同志に加えられました。冨樫正蔵兄、植田ふみ子姉、阪本凰子姉

 冨樫兄は、東京に於て賀川先生の下で働いて居られ、大阪に未だイエス団の創立されなかった3年も前から、一人大阪イエス団員と名乗って、大阪に行ってからでないと受洗しないと、ガン張って居られたのですが、今度賀川先生と共に西下され、受洗されたのです。かかる一騎当千の士を迎えて、我々は本当に力強く感じます。

 大阪イエス団教会会員名簿

 ―大阪イエス団にて受洗せられし人々
 藤谷延雄兄、田辺敏雄兄、羽生文彦兄、羽生静代姉、椋橋春子姉、村井みさ姉、高橋伝次兄、中勇四郎兄、冨樫正蔵兄、植田ふみ子姉、阪本凰子姉

 集会案内

 毎日曜 午前6時より 早天礼拝
  同  午後7時より 伝道集会
 毎木曜 午後7時より 聖書学校

 (この「会報」は2枚のガリ版印刷で、「西九条青年会館に於る伝道会人員」「伝道会会計報告」「イエス団各部報告(日曜集会報告・聖書学校・少年少女会・西成SS」ほかが綴られている。)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(8)

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    武内勝の見た「賀川先生の生涯」

 この資料(「第二玉手箱」資料番号3-3)は、藁半紙の領収書の裏4枚に記されている。タイトルはなく、横書きのメモである。執筆年代は不明であるが、文面からみて恐らく戦後早々のものであろう。書き出しには戦後の「予言時代」を挙げているが、本文には其の項目もない。ここでは、文章の書き出しを参考にして「武内勝の見た『賀川先生の生涯』というタイトルにしておく。

 なお、この原資料は神戸文学館での展示のあとに賀川記念館のミュージアムに移されていて、いま手元にはないので、とりあえずここでは書き出し部分のコピーがあるので、それを収めて置く。(2009年5月9日鳥飼記す。2014年1月21日補記)

 (追記 本日この原資料がミュージアムより返却を受けたので、早速それと以下の文章と突き合わせてみたところ、いくつかの補正箇所があった。草稿自体が下書きのメモの段階のものであることを念頭にして一読いただきたい。2014年1月24日記す)


               ♯     ♯     ♯


 賀川先生の生涯を、便宜上四期に分けて考えて見たい。
 一は準備時代(試練の時代)、二は活動時代(全盛時代)、三は沈黙時代、四は予言時代とすることが出来る。
 準備時代は、大正六年プリンストン大学を卒業し日本に帰られるまで(7年6ヶ月、数え30才)である。活動時代は、昭和十五年迄であり、それから20年終戦までが沈黙時代であって、以後は予言時代であった。

   一 準備時代(試練時代)

 勉強

 毎朝五時に起床して読書した。一日に一冊56百頁ある洋書を読むので、「若し一冊読めないときは、何か悪いことをした感じがする」と言った。勉強の出来る者がしないのは犯罪であると心得ていた。
 学校に通学していたが「学校の先生より僕の方がよく知っている」と言われる。「何故ですか」と聞くと、「先生より僕の方が多く本を読んでいるからである」と言われた。
 プリンストン大学に在学していた時も、「日本で習ったことばかりで詰まらないから、毎日顕微鏡をのぞいて、生物学の研究をしています」との通信があった。「米人の学友が、日本には君の様な勝れた人物がいるのであれば、日本に行く必要がないと言った」それ程よく勉強された。

 (4枚のうち1枚は「準備時代の初めに入れる」と記されているので、それをここに入れる)

 聖者の生活 聖書の実行者

 二枚の衣を持たない     午前5時に起床して読書
 麦飯に焼味噌        神学校に通学
 無抵抗主義者        子供の友
 求むる者を拒まない     路傍説教
 家に施錠がない       行路病者の収容保護 
 鬼の婆さんの盗みを許した。 
 金があってではない。煙突掃除をして儲けて来ての人助けであった。余ったら助けるのではない。
 十銭の下駄 十銭の足袋 
 与えるもののないときは祈った。自分が欲しいからではない。与えるために求めるのであった。
 尚、同情の涙で目を真っ赤に顔をぬらしていた。
 「死線を越えて」の小説其の他の印税、原稿料、講演料等により多くの収入のあったとき、その一部の15000で財団法人イエス団を組織した。他は失業者其の他の救済に使用したのであった。

 先生の行為は「山上の垂訓」を其のまま実行されていたと思う。
 先生は「愛の科学」に「愛は私の一切である」と記していられる。
 フランシスの血を受け継いでいた。奉仕に努力した。

 行路病者を収容して大小便までとって面倒を見るのは普通では出来ない。
 社会には老幼、病者、身体傷害者、前科者等、働く事が出来ず、生活に困難する者が沢山ある。此れ等の人に対し、元気なものが奉仕をするのは当然と考えていた。

 貧しい者の友
 大阪で事業を始める。日本に貧乏人がなくなれば支那に行く。
 
  二 活動時代

 時は来る。希望をもっていた。30才になったら立つ。
 明治四十三年、幸徳秋水の死刑になったとき、「幸徳秋水は死刑になっても、十五年後には日本にも社会主義の許される時代が来る。其の時は旗を挙げて起たなければならぬ」と言われた。
 当局の弾圧がきついので、世間では社会の社の字も使用しなかった時に、先生は其の準備をしていた(知識に於いて)。
 浜田君が「先生と伊藤博文とどちらが偉いか」と質問したとき、先生は「僕の方が偉い」と言われた。「伊藤と同じ位生存すれば、伊藤より大きな事業を行なう」。実に自信満々たるものであった。

 新聞を発行する

 米国からの通信で「僕は日本に帰ったら新聞を発行する。そのとき君は原稿の記けるように勉強して置きなさい」

 キリストの偉大を再発見

 米国行には二つの目的があった。一つは、十万円金を貰って来て、新川に施療病院を建てること。次は、金が出来なければ博士の学位をとって来る。然し、大正六年帰朝の前に、はがきで「私は米国にもキリスト以上のものはない事を発見して、日本に帰ります」との通信を受けた。 
キリストの愛で日本を動かし、日本を救うとの決心であった。

 使徒行伝に一頁を加える

 「使徒行伝は二十八章で終わりになっているが、これはその続きが出来なければならぬものである。誰が二十八章に続くのか。我々がそれを綴らねばならぬ」と、先生の中には、実に大伝道心が燃えていたのである。
此の様にして、先生の大伝道が150冊の著述、各種の事業として行なわれたのである。

  三 活動時代(全盛期時代)

 防貧運動

 新川で貧しい人達をいくら助けても、次から次へと労働階級から貧困者に落ちて来るのでは助けきれない。「大阪湾の海水は、おたま杓子ではかえきれない」と言って、労働階級から貧民に落ちないために、労働階級で団結し、組織の力によって防貧すべきことを主張し、労働運動に参加し、之を指導し、大正十年には川崎、三菱の大ストライキの指導者となった。

 続いて農民組合、生協運動等、防貧運動のひとつとして考えていられたのである。
 先生は、組織の力で防貧の問題は解決がつくと考えていた。

 不良住宅の改良については、国の力で行なうことを主張し、「死線を越えて」の一部を切り抜きにより、これを政府は議会での説明材料として予算案を通過させた。

 暴力革命から日本を救う秘訣

 フランス革命を起こしても、英国は之を避けた。それはウエスレーやブース大将の宗教運動が盛んで、その効果によったものである。日本も宗教運動を盛んにすれば、国民の道徳は高まり、道徳が高まれば、血や火を見る暴力革命は避け得られる。伝道を盛んにし百万人運動を起こした。
 かかる意味からも大伝道の必要は迫っていた。
 先生は共産党から殺害を受ける覚悟の上であった。

 著述、講演、原稿

 面接来客が多くて専任の係りを置いた。
 行政 労働問題 小宮山 婦人問題 植村秘書
 社会事業の組織化 
 財団法人イエス団友愛救済所

  四 沈黙時代

 満州事変から支那事変となり、戦争が漸次拡大されるに従って、先生の原稿は書けなくなり、講演する事も禁じられたのであって、一時は四国の豊島にのがれたこともある。終戦まで全く沈黙であった。

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(7)

壮行記念写真

上の写真は「オフィシャルサイト」に掲載されたものであるが、今回あらためてスキャンして収めて置く。

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  「大正七年三月賀川先生プリンストン大学留学のため新川尻海岸にて記念撮影」

 「玉手箱」の中には、賀川豊彦・ハル夫妻から武内勝に宛てた120通ほどの手紙類(封書と葉書)をはじめ、長期間にわたる武内の手帳などに加えて、貴重な写真類も多く含まれている。

 今回はその古いアルバムの中から、関係者の間ではひろく知られている一枚の写真をご覧頂く。沢山の子供たちに囲まれ、豊彦とハルが真ん中に並んで座って撮られているので、二人の結婚(大正二年五月)の後ではないかということは誰でも想像はつく。しかしこのような場面で正面に二人並んで写されるのには、何か特別の意味合いがありはしないかというおもいは残っていた。

 ちなみに、賀川豊彦生誕百年記念の折に刊行されたあの豪華な『賀川豊彦写真集』(1988年、東京堂出版)にも、当然この一枚は収まっている。それを見ると、103頁の写真番号223の説明には「豊彦とハルはよくスラムの子供達を郊外に連れ出した」とだけあって、撮影の時期と場所については何も触れられていない。

 ところがこの度の「第二玉手箱」所蔵アルバム(資料番号17-2)には、貼られた写真の上に下記のメモが記されていて、時期と場所に加えて、撮影の意図も分かる簡潔なことばが記されていた。もちろん武内の筆跡である。

 「大正三年七月賀川先生プリンストン大学入学のため新川尻海岸にて記念撮影」

 この説明の通り大正三年七月の写真とすれば、豊彦とハルは新婚まだ一年少々が過ぎ、翌月二日には、豊彦は留学のため神戸港から丹波丸で出帆するわけで、武内の記す如くその「記念撮影」「壮行記念写真」ということになり、この写真の持つ「特別の意味合い」が了解できた。
 豊彦が米国に旅立ってほぼ一月後(九月五日)ハルも神戸を発って、横浜の共立女子神学校で学ぶことになるのであるから、まさにこれは「賀川夫妻の壮行記念写真」ということである。

 この後、賀川が再び新川に戻るまでの期間、一切を任せられイエス団の留守をまもった武内勝ら「青年たちによる共産生活」の実行は、武内自ら「私の生涯を通じまして、一番愉快な時でありました」と回顧するように、まさに武内勝らしい生活が続くのである。

 なお、この写真の左下角には、小さな紙が張られ、名前が書かれている。
 少し説明を付しておくと、もちろん前列中央の二人は「賀川豊彦と春子夫人」。左端大人は「吉岡」。前列右端は「小田佳男」。その上は「伊藤平次」。最上段の学生は「平野」。その前は「徳憲義」。

 武内勝の口述記録『賀川豊彦とそのボランティア』によれば、伊藤、徳の二人は関西学院大学の神学生たちで、吉岡、平野も日曜学校や路傍説教に加わった青年たちである。(2009年5月12日鳥飼記す)


 このアルバム写真は、すでに武内祐一氏に返却済みであるが、神戸文学館での展示のあとに、接写した写真は神戸のミュージアムにあって、上記のコメントを添えて展示室に公開されている。
 また、「賀川豊彦献身100年記念出版」の武内勝口述・村山盛嗣編集『賀川豊彦とボランティア(新版)』(神戸新聞総合出版センター)の45頁に「大正3(1914)年7月、プリンストン大学留学前の記念写真。子供たち、関西学院のボランティアと新川尻海岸にて(前列中央が賀川夫妻)」という説明が施された。(2014年1月20日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(6)

履歴書

上の写真は「オフィシャルサイト」に収められたものであるが、今回あらためてスキャンして収めて置く。賀川の「東京府」時代の住所の入った封書に、自筆で「履歴書」と記して、少し書き方が変わっているところもあるが、二通が入っていた。

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      賀川豊彦の履歴書と武内勝の履歴

 「賀川豊彦の履歴書」は大変珍しく初見のものである。松沢資料館刊行の「中間目録1」(2006年)にもあげられていない。これが書かれた昭和7年は、所謂「神の国運動」第一期終了の年であり、3月にはほぼ1ヶ月台湾伝道、5月から年末まで国内を駆け巡る前の4月、これを書き上げている。この賀川の履歴書は何のために書かれたのか、なぜこれを武内氏に託されたのか分からないが、「履歴書」とペン書きの封書に2通残されている。当時は勿論和紙に筆書き、紙縒りで結ばれている。


「第一玉手箱」資料番号B-14

        履歴書

現籍地 兵庫縣神戸市兵庫区島上町一〇八番地
現住所 東京府荏原郡松澤村上北澤六〇三番地
族 籍 平民     戸主  賀 川 豊 彦
            明治廿一年七月十二日生

      学業

明治三十八年 三月  県立徳島中学校卒業
明治四十年  三月  東京市私立明治学院高等部
             神学予科卒業
明治四十三年 六月  神戸市私立神戸神学校卒業
大正 五年  六月  米国プリンストン大学及同大学神  
             学院卒業「神学士」学位ヲ受ク
大正 五年 十月迄  米国シカゴ大学大学院ニ学ブ
昭和 四年  四月  北米カナダパインヒル神学院ヨリ
             「神学博士」ノ学位ヲ受ク

      職業

明治四十二年十二月  神戸市葺合区新川ニ神戸イエス団ヲ組
             識シ牧師トナル
大正 七年  六月  同所ニ於イテ細民救済ノタメ無料施療
             友愛救済所ヲ設立ス
大正十一年  八月  財団法人ノ許可ヲ得 理事長トナル
大正十二年  九月  関東大震災救護ノタメ上京シ本所区
             松倉町ニ本所基督教産業青年会ヲ創
             立シ隣保事業ニ努力ス
大正十三年  二月  中央職業紹介委員並ニ帝国経済会議
             議員ヲ命ゼラレル
大正十三年 十一月  米国大学学生連盟ノ招待ニヨリ渡米
大正十四年  八月  世界一周シテ帰朝ス
大正十五年  十月  大阪市此花区四貫島ニセツルメントヲ設
             立シ隣保事業ニ従事ス
昭和 二年  二月  兵庫県武庫郡瓦木村ニ日本農民福
             音学校ヲ設立
昭和 四年  七月  東京市嘱託トナル
昭和 六年  七月  米国エール大学及ビ基督教青年会
             ノ招聘ニ依リ渡米ス
明治四十四年 以 降 著 書 六十余種

     右之通相違無之候也

    昭和 七年 四月
                      右 賀 川 豊 彦 印



             *     *      *


 武内勝氏も昭和20年の手帳のなかに、戦前・戦中の詳しい御自分の履歴を記録している。
 ここに賀川の履歴と並べておく。本人記載の履歴は最も信頼性が高く、武内氏の人と生涯を理解する上で欠かせないからである。同氏の戦後の履歴も追って明らかにできるはずである。


 「第二玉手箱」(武内勝の手帳)資料番号1-2-2

      履歴

本籍地 岡山県邑久郡行幸町大字長船464番地
                        武内   勝
                        明治二十五年九月一日生

明治三十九年三月 本籍地行幸尋常高等小学校高等科二年修業
仝     四月 前記学校終了後工員、工場長、自営工業、商業等に従事
一 明治四十年三月ヨリ仝四十二年末迄主トシテ琺瑯焼鍋製造業ニ工員トシテ従事
二 明治四十三年一月ヨリ仝四十五年四月迄貝鉛製造工場自営
三 大正元年五月ヨリ仝六年三月迄琺瑯焼工業ニ従事
四 大正六年四月ヨリ大正八年八月迄大正歯刷子製造所工場長勤務
五 大正八年八月ヨリ仝九年八月迄?料商自営」

大正九年二十七日 神戸市雇員ニ採用 日給二円十六銭
          職業紹介所勤務ヲ命ズ
大正十年  一月 神戸市書記補ニ採用 月給六十五円
仝 八月二十八日 西部労働紹介所勤務ヲ命ズ
仝 十月 十五日 東部労働紹介所勤務ヲ命ズ
仝 十二年四月一日 神戸市書記ニ任ズ
          東部労働紹介所長兼西部労働紹介所ニ命ズ
昭和六年二月十四日 依願免神戸市書記
仝  三月一日  神戸市雇員ニ採用 月俸八十七円
          職業係主任ヲ命ズ
仝 十一年二月 十三日 神戸市就労統制員ヲ命ズ 百五円
仝 十三年六月二十五日 神戸市書記ニ任ズ 月俸百十二円
            東部労働紹介所長ヲ命ズ
仝    六月三十日 依願免神戸市書記
仝    七月一日  葺合労働紹介所職業主事補ニ任ズ
            三級俸給与
            葺合労働紹介所長ヲ命ズ
仝 十四年七月十九日 神戸労働紹介所長心得ヲ命ズ 兵庫県
仝  十二月二十七日 職業主事ニ任ズ 内閣
            高等官七等ヲ以テ待遇セラル 厚生省
            十給俸下賜
            神戸労働紹介所長ニ補ス
仝 十五年四月二十九日 叙勲八等瑞宝章授ケラル 百四十給与
仝 十六年十二月二十一日 九給俸下賜
仝 十七年一月三十一日 高等官六等ヲ以テ待遇セラル 厚生省
仝     十一月一日 勅令七七〇号待遇官官制改正ニ依リ地方職業官ニ任ゼラル
仝    三月 十日 神戸国民職業指導所勤務ヲ命ズ
仝 十八年六月十五日 叙正七位
仝    六月三十日 大級俸下賜
仝 十九年二月二十九日 尼崎国民職業指導所長ニ補ス
仝   十月 二十日 勅令第六〇〇号中地方官官制改正ニ依リ地方事務官ニ任ゼラル
仝   十一月三十日 高等官五等ヲ以テ叙セラル
仝 二十年三月三十一日 五級俸下賜
仝          国民勤労動員官ヲ命ズ 兵庫県

神戸消費組合理事        神戸労働保険組合幹事
財団法人イエス団友愛救済所理事 財団法人愛隣館理事
兵庫県司法保護参与 
昭和十九年四月十一日 尼崎市常会協議員ニ選任ス


       (2009年5月6日鳥飼記す。2014年1月19日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(5)

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  資料番号1-8-1(昭和27年日記)記載分

      春と聖書 3月16日夜イエス団 23日四貫島

 春が来た。暖かくなった。身軽になる嬉しさ。何万円もするオーバを着て歩くよりオーバなしでおれる春を有難く思う。兎に角活動が自由になることは楽しいことである。ストーブの熱より太陽の熱がうれしい。雪国の人達も春はうれしいであろう。

 自然が美しく変化する。枯れ木に芽が出花が咲く。昆虫が甦って来る。かえるもとかげも、ふなもどじょうも皆気になって来る。山に野に、川に海に、人間は親しみ易くなる。

 わらびがりよし、しじみとりよし、魚釣りよし、自然に接する喜びは清くて幸福である。

 山で楽しい最も大きな一つは小鳥の声である。此の付近で最もうぐいすの多いのは六甲山である。山でうぐいすの声をきいて私はとてもたまらなく嬉しくなる。人間が自然を愛していたら、このうぐいすも自分の手のひらの上でも鳴くものと思う。

 花の美は実に楽しい。花にも特長があり梅の花は香りがどこかに淋しさがある。桜は寿命が短く遊女の如き憾みもある。ボタン、シャクヤク、次から次へと美しい花が咲く。実に見事である。

 またあるものは、花に美がなくとも香りが高いくちなしや、木犀の金や銀の如きものがある。花も香りもよくないが柿や栗がある。ザクロの如きは花が美しく果が美しく芽も美しい。花や果は駄目でも、梅の新緑は花より美しい。春は実に愉快である。何故に春の自然は美しいのであろうか。

 神の栄光を顕すためであろう。何うして地球の表面も、かくも美しくなるのであるか。神様は性格が美であるからであろう。私にはその秘密が解らない。

 花は美しく咲くために全力を費やしている様である。小鳥もきれいな声で唱うが、力一っぱいであろう。神の栄光をあらわすために全力を用いているのである。

 春は人生の最も楽しい時である。楽しかるべきときに、楽しみ得ないことがあるとすれば、それは病気しているのである。

 何故花の様に、力いっぱい神の栄えのために美しくなれないのであろうか。人の目から観て美しくなれないか。美しくなると言えば、服装やパーマのことばかり考えるのは何故であろうか。

 何んなに多くの金をかけて作っても、心が神の栄えのためになっていなければ立派でない。

 人間にも香りがある。その香りは神の香りであろうか。電車の中で隣りや前に来る人が実に香料をぷんぷんさせているのであるが、人間らしい品位のある香りはない。

 人間の姿を最も美しくする方法は、心を美しくすることである。美顔術の、鼻を高くしたり、色を白くしたり、赤くすることより、心を美しくすることである。

 春は多くの教訓を与えるが、一番大切な教訓は、人生に新しい希望を与えて呉れることであります。

 何人にも然り。失敗者にも亦希望を与える。枯れ木に花が咲く。冬眠の昆虫も元気になる。人間にも春がある。

 キリストは復活した。自然が復活しても、キリストが復活しても、自分が出来なければ詰まらないが、人間にも春がある。

 第一は、時期を待つことである。待つことは静止することや眠ることだけでなく、時の来る準備をすることである。

 準備なきものに春はないであろう。勉強、技術、貯蓄、修養、職業、努力等々。然し、より大切な点は、神の栄を現す準備であろう。

 第一は救われること、第二は清められること 第三は奉仕することである。

 人が罪を犯さず、潔い心をもって、神と人とに愛の奉仕をする処に春は来る。否それを出来ること自身が有難いことである。

 希望のない人生は地獄に等しい。世に最も気の毒な人がある。それは無希望の人である。

 自殺者は失望者である。失望者が沢山ある。入学が出来なかった。結婚が出来ない。就職が出来ない。病気が治らない。商売に失敗した。

 入学が出来なくても勉強は出来る。頭が悪くとも技術は習得できる。失恋したって世界に人口は二十数億ありその半数は異性である。一人の男に一人の女は用意されている。何が心配か。

 就職が出来ない。ただで働く気なら何時でも働ける。一燈園に失業はない。宇都宮式保育園。或る女医の就職相談。商売に失敗した。儲けようと考えるから損をする。奉仕をするつもりなら食うだけのことは心配ない。 

 不治の病気は気の毒である。然し此の世には何うせ永くは住めない。永遠の生命を得て、気は治る。信仰すれば病気も殆どなくなる。失望するな。艱難は却って我等を強くする。

 試練にあって人はきたえられるのである。世の多くの苦労こそ勉強である。金持ちになったら此の経験が出来ない。


       *       *       *      *


 武内勝氏は明治25年生まれであるから賀川豊彦より4歳年下である。賀川が神戸の「葺合新川」での新しい生活を開始した明治42年(1909年)12月の、そのほぼ最初期の時から、武内は賀川と歩みを共にした「生涯の友」として知られる。
 ご子息の武内祐一氏のもとに大切に所蔵されていた貴重な資料が、奇しくも「賀川献身100年」を記念するこの年に閲読を許されることになった。

 資料はふたつの箱に収められ、ひとつには「賀川先生の手紙」と書かれた箱で、武内宛の賀川豊彦・ハル夫妻の書簡が、およそ120通などが収められ、ひとつは「武内勝の手帳」33冊のほか写真や重要書類、武内勝の珍しい下書き原稿などが入っていた。お預かりしたその時から当方で勝手に「お宝の入った玉手箱」と名づけて、いま少しずつこの資料の整理に当たらせて頂いている。

 この度、祐一氏のご好意で所蔵資料の「お宝」を、いかようにでも適宜公開することが可能になり、「賀川豊彦献身100年事業オフィシャルサイト」を主宰しておられる伴武澄さんのもとに、ためしにメール送信したところ、嬉しい事にこのような大変読み易いかたちでの掲載となった。これまで三つの「お宝」を紹介したが、今後も不定期便で伴さんのもとにメール送信をさせて頂き、伴さんのご判断で取捨選択の上、公開いただく予定である。

 ところで、武内勝氏に関しては、1973年に村山盛嗣氏によって編集された『賀川豊彦とそのボランティア』(本年(2009年)末「献身100年記念」の一つとして再版予定)で、武内氏の神戸イエス団教会での貴重な講演記録が残されているが、これまで武内勝の書き残したものは極端に少なく(なぜかあの『百三人の賀川伝』のなかにも武内の寄稿がない)、今回の「お宝」の閲読によって、その働きの一端を知ることが可能に成る予感がする。そのことによって神戸を中心とした「イエス団」の歩みも、その全容がいくらか明らかになるのではないかと期待している。
 本年すでに『中国史の研究』(朋友書店)で知られる浜田直也氏の労作のひとつとして「神戸イエス団教会」の1909年から1941年までの歩みを纏めた第一次草稿が完成しているが、今回の「玉手箱」は、それらを肉付けする第一次資料として活かされることが期待されている。

 ともあれここでは、おぼつかないことではあるが、少しずつ「武内勝の手帳」からも、自由に書き写し、「武内勝の世界」を想起させていただくことにする。この第1回は、昭和27年の手帳の中に残されている、「イエス団」における武内のお話のメモである(同じお話を四貫島でもされたようである)。なお、武内氏のメモは殆ど句読点がないが、便宜のため句読点や改行をしておく場合があることをお断りしておく。

(補記 私にとって武内勝氏はむかし、1966年3月、神戸イエス団教会に就任する際、一度その面接の場でお会いし、その折かけていただいた氏の温かい言葉のひとことが忘れがたく(このことについては拙著『賀川豊彦の贈りもの―いのち輝いて』(2007年、創言社)にも収めている)、その面接の後、忽然と武内氏は生涯を閉じられ、武内氏のご葬儀の仕事がわたしの初仕事であった。以来ずっと私にとって「武内勝の世界」は是非ともいちど親しくお訪ねしてみたかったものであった。奇しくもその機会がここに到来したというわけである。)(2009年5月5日記す 鳥飼)


 補記 
 「オフィシャルサイト」で公開された時は、武内氏の御話の文章だけを掲載していただいていたので、コメント部分は今回が初出である。
 お話の題のところに書かれているように、「愛と聖書」というお話は「神戸イエス団」と「四貫島」で語られているが、これをUPしていただいた時点では、まだ大阪「四貫島」での働きに関するわたしの知識は皆無に近かった。
 ところがこれまた不思議なご縁で、大正時代の末期の「四貫島セツルメント」の開設当時から活躍された「吉田源治郎牧師」の残された膨大な資料を、ご御子息の吉田摂氏よりお預かりする機会に恵まれた。それは、1995年の「賀川献身100年記念」の終わってからのことだったと思う。
 これらの資料は、吉田摂氏が長年にわたって蒐集してこられた貴重なものばかりであったが、これもまたまったくの手探りで、取りあえずの作業として資料整理を進めることになり、武内勝氏の資料紹介に引き続きこれも、伴武澄氏のサポートをうけながら、150回にもわたって長期連載をさせて頂いた。それは「KAGAWA GALAXY <吉田源治郎・幸夫妻の世界>を訪ねる」というタイトルで纏める事で、その責任を果たすことが出来た。
 これらの作業を続ける事で、賀川豊彦・ハル夫妻、武内勝・雪夫妻、そして吉田源治郎・幸夫妻の、それぞれの生涯と思想とそこに形作られて来た「イエス団」と「神戸イエス団教会」、「一麦寮」と「西宮一麦教会」、そして「四貫島セツルメント」と「四貫島教会」などの歩みや幅広い信徒運動でもあった「イエスの友」の活動など、まだまだ断片的な素描とはいえ、凡その輪郭のようなものが、ようやく描けるようになってきたように思う。(2014年1月18日鳥飼記す)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(4)

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  武内勝氏の証言

  賀川先生の献身についての証し


 本草稿は、400字原稿用紙41枚に記されている。執筆年月日は不明であるが、本文中に賀川の最晩年の著作「宇宙の目的」の完成のことや杉山元治郎氏が昭和30年に衆議院副議長に就いていることなどに言及していることからから推測して、『賀川豊彦とボランティア』に纏められている武内氏の10回にわたる講演(昭和31年)前後に記されたものと思われる。
 原稿の冒頭には「証言」と記されているが、本稿の書き出しに「賀川先生の献身についての証し」とあるので、仮にここでのタイトルはそのようにしておく。
 なおこの草稿は「賀川関係の社会事業概要を作成する」ためのものようであるので、このあと刊行された冊子が存在するはずであるが未確認である。完成した草稿ではないが、武内氏の貴重な証言となっている。
              

*            *          *


 今回、賀川関係の社会事業概要を作成することになったので、私はこの機会に、賀川先生の献身について証しをしたいのである。
 先生が二十一才の若輩で、神戸葺合新川の貧民窟において、神と社会に奉仕するために「一粒の麦」として死を覚悟して献身されたことは、周知の事実である。その新川はどのような部落であって、先生はそこで何をされたかということについては、先生の著作で明瞭であるが、私の見た実体の立証と新川の改善について如何にすべきかを、簡単に申し添えることをご了承願いたいのである。
 詳細にわたるご報告は別に機会があろうかと存じ、また紙面の都合もあるので、その一端を記して概要のご理解を願う資料に供し、将来いっそうのご指導とご鞭撻と御協力とを仰ぎたく衷心よりお願い申し上げる次第である。

 一 神戸葺合新川の沿革

(原稿用紙最初が欠ける)
 ・・・その上に年中、賭博、喧嘩が絶えず、犯罪が多く殆ど毎月殺人事件が起り、罪悪の巣窟の感があったからである。

 二 住宅

 新川の住宅はほとんど棟割長屋で、多くは一戸当りの総面積が一坪半であった。それに畳二枚を敷き半坪は土間になっていて、台所も押入れもなく、便所は長屋の端に設けてあって共同になっていた。朝は超満員で溝が便所となり、戸のない便所も使用されていた。
 借家人は畳二枚の一間に夫婦二組が同居している者もあれば、四畳半に十一人居住している家族もあって、一戸当り平均四人二分居住していた。畜舎に劣る不良住宅は、街を不潔にし風紀を乱し、また様々な罪悪を醗酵させるのである。

 三 職業

 技能者は珍しく本当に少数であって仲仕、土方、手伝、人夫等の日雇労働者が多数であり、鋳掛、下駄直し等に従事する者がこれに次ぎ、或は飴、団子、辻裏等の行商人も相当にいた。その他当時の神戸における拾屋、乞食の大部分は新川に居住していた。何れも収入が著しく低くて而も不確定であるから、貧困者となるのも当然であって、貧困の最も大きな原因は技能をもっていないことである。

 四 教育程度

 明治四十三年の調査によれば、児童のうち昼間小学校に通学している者は、百人中僅かに三人であった。また新聞を購読している者は実に稀であり、婦人にしてはがきの書ける者はほとんどいなかった。従って、不衛生であり病人や身体障害者の多数であることも、迷信にとらわれやすく、道徳が低く犯罪の多いことも道理であった。

 五 男女の関係

 葬式はよく見るが結婚式は滅多に見られなかった。新川では「寝た者夫婦」が多く、自分の夫の渾名のみを知っていて姓名も年齢も知らず、しかも永年同棲している者もあった。甚だしきに至っては妻に淫売を強制し、夫は家の外で見張りをしていて妻の姦淫を営業と心得ている者があり、夫を貸して金儲けをしている人もあった。淫売婦の多いせいもあって性病患者が多く、頭や首に穴があきそこから膿のじくじく流れている者があり、鼻のない人もいた。

 六 簡単な言葉

 飯を食わないことをノーチャブと言い、それが二度以上続くときは、ノーノー、チャブチャブと言っていた。野宿するときはハウスと言う。友人を呼ぶ場合にも通称であってオイ東京、大阪、岡山、土佐と言った調子で、その人の郷里の地名をとって渾名とする。首に穴があるのでトンネル、頭に穴があれば噴火口、肥ればデブ,痩せたらいかなご等その人の特長によるもの、或は動物や植物の名称で適当な名付けをする。それを無遠慮に呼び捨てにしているが、馴れると妙なもので失礼とも思わず、呼ぶにも呼ばれるにも双方便利であり、喧嘩の際は更に簡単になる。その他合言葉があり隠語がある。

 七 酒と間食

 部落の各四つ辻に酒屋があり、小路の中にも飲食店や菓子屋があって、酒をよく飲むこと、間食の過ぎていることには驚かされる。これだから貧乏するのだとさえ考えさせられるが、習慣は恐ろしく改めることは容易でない。酒飲みは冬は飲むさに寒さ、寒さに飲むさと言うが、飲むので被服が買えない、薄着だと寒いのでまた飲む、飲むから寒く、寒いから飲む。妻子が飢えていても日給を貰ったら帰りにはきっと飲む。年中どこかで酔っ払いが倒れているし、それが冬になると凍死者も出るが、酒飲みは酒でどれほど失敗があっても損失があっても、妻子が飢えてもいても矢張り飲む。酒は天から俺の分を俺に授けられていると解釈している。間食は食事の補いだと言うが、間食費が食事費の不足となり困った循環をしているのである。

 八 ものを言う暴力

 労働能力があり元気であっても徒食し、金の欲しい時は「俺は無学だ」と無茶を言い「前科者だ」と言っては腕力を振るい、恐喝して儲ける者がある。不労所得で生活し、なおかつ賭博に耽り酒に酔っ払っては威張っているのである。殺人罪による前科があっても街の顔役になっている者もある。「人殺しは一生涯食うには困らぬ」と賞讃する者があり、これを羨望する青年たちもいた。新川では腕力の強い者が兄貴になり、最も強い者が親分となっていた。傷害罪は自慢となり、殺人罪は親分の資格となる。弱くてにぶい者は働くのである。

 九 勝手な権利と義務

 十二、三歳で売られて行く娘は沢山あった。「わたしゃ売られて行くわいな、父さんは無事でまた母さんも」とよく歌っていたが、歌詞そのままが実行されていた。「親は娘を売る権利がある」と思っていたし、娘はそれを孝行と諦めていた。中には自ら売り出して行く勇敢娘も珍しいのではなかった。「私は若いとき女郎になりたくて仕方がなかったが、親が許して呉れなかった」と残念そうに若き日の思い出を語るおばさん達もいた。少しでも気の利いた家に住み、ましな着物を着て、食べ物に心配のない生活をしようとすれば、身を売る以外にその実現の見込みが立たなかったからであったと思う。

 十 新川は市の癌

 ドン底生活に落ちて自殺か革命か忍従か、この三つの何れかを考えない人はないと思う。自殺は卑怯であり、革命は容易でなく、忍従するより仕方がないと言う結論になっているようである。けれども忍従は耐え難い苦痛であるが、自殺する者は稀であり、生活の向上は容易でなく、大多数は自暴自棄となる。良心を失い非常識となり、利己主義となって犯罪を恥じず、暴力を頼みとし、肉を売ることも希望となるのである。倫理・道徳を失うばかりでなく、社会の秩序を無視するようになる。それは自分の殻を自力で破るには余りにも無力であるからであって、貧乏で無学で無技能であり、協同の精神がなく団結の力もない。社会は冷たく同情もしない。却って差別視するからである。子供らは歌う。「あっちの方日が照って、こっちの方日が照らぬ。照る照る坊主に言うていこう」と。成人は言う。「新川には水がなく、落ち込めば最後で何時までたっても浮かべない」と。新川は豊年であっても好景気であっても別世界であって、光もなく潤いもない。生活に疲れ、愛に飢え、霊は衰えひからびている。この環境に生まれ、ここに成長して、不良化しない者があれば不思議なことであり、善くなる人があればそれは実に奇跡であると思う。かかる環境が、都市の一角に永年存続していて癌となっていることは人道上の問題であり、市の恥辱である。破壊か改善か救済か何等かの対策が講ぜられるべきであった。しかし矯修会が拾屋の集めたものを買収しその便を計っていたものと、善隣幼稚園が無料保育を併設していた外はどんな社会施設もなく、全く放任されていたのである。

 十一 献身

 明治四十二年十二月二十四日、現在社会福祉法人イエス団及び同雲柱社の理事長賀川豊彦先生は、若輩二十一才にして神戸中央神学校在学中に、神戸葺合新川に伝道と救済とを目的として献身された。

 十二 救霊団設立

 新川部落の中心である北本町六丁目二二〇に、新家定吉と言う親分の所有している借家があった。かつて殺人があり、幽霊が出るという噂で借り手のない空家である。面積三坪で日家賃七銭の長屋であって、これを借家し「幽霊長屋」に救霊団を設けた。これが教会であり救済所でありまた居宅でもあった。然し教会らしい什器備品もなく、救済所らしい何んの設備もなかった。日本一の小教会であったと思う。後日、隣接していた三戸の長屋をも漸次借家し、中間の壁を抜き三戸を一室として教会と事業所に使用し、残りの一戸を食堂に当てていた。

 十三 名称変更

 救霊団を設立して二年後に、救世軍神戸小隊長金子氏は、救世軍を退き救霊隊を組織したので、救霊団と名称が酷似していてまぎらわしくなり、双方の迷惑を避けるために「イエス団」と改称した。

 十四 最低生活

 先生は、頭はハイカラで顔は美しく、首から上は立派で勝れた気品があった。然し服装は二枚の衣を持たずまことに粗衣であり、下駄は一足十銭で最低であり、袴をぬげば新川によく似た風采であった。食物は肉や魚は一切れも食べず、絶対の菜食主義で、麦飯に焼き味噌を常食とし、最高の御馳走は金三銭也のキツネうどんであって、十日に一度位このために散財した。体重は辛うじて十一貫台を維持していたに過ぎず、誠に極端な粗衣粗食であって、どう考えてもパンのみにて生きている人とは思われなかった。先生は常に貧乏に堪える工夫と努力を続けられていた。

 十五 熱心な勉強

 先生は年中午前五時に起床し、日曜日の他は直ぐに読書をはじめる習慣があって、五六百頁ある洋書を一日に一冊は読まないと罪を犯した感じがすると言い、努力せざるは罪悪と考えていられたようであった。多く読み多く語り多く書き、それが現在に及び、その著書は百五十冊となり、このたび完成の大著「宇宙の目的論」は、その頃から研究されていたもので、二十才にして計画し七十才に及んで完成されたのである。

 十六 よく泣いた貧民の友

 先生には貧困者を見捨てることの出来ない情けがあった。痩せた赤ん坊を見ては泣き、捨児を抱いては泣いた。蜜柑箱を棺桶にした赤ん坊の葬式に泣いた。新川の乳児死亡率が日本一高いことを発見して驚き、高利貸しの利子に難儀をしていると言っては泣き、金がなくて助けることが出来ない時にも泣いた。社会の無慈悲に泣いた。救済費のない国家の予算に憤慨し、その都度目は充血し、瞼は腫れ上がり、涙が両頬を流れていた。

 十七 午前五時の礼拝

 日曜礼拝は、年間を通じて午前五時に始まり六時に終った。労働者の就業に支障のないためであって、冬期にあっても時間は厳守された。それにも拘らず礼拝に遅刻する者は殆んどいなかった。礼拝後は直ぐに讃美歌伝道に出掛け、小路から小路を歌いつつ巡回した。寝床の中で「ヤソが来た、今日は日曜日だ」と言っている者があり、「めさめよわがたまこころはげみ」という讃美歌をよく歌っていたので「ヤソは朝寝坊しないように起こしに回っているのだ」という者もあった。
 朝食は七時から八時であって、この食事中に先生から様々な話を聞くことは、私どもの楽しみであった。わけても人物についての批評は大きな教訓となった。九時から一時間、日曜学校を開いた。子供たちは時間が解らないので待っていたのでは出席しないが、先生たちが街頭に出て讃美歌を歌えば百人二百人は忽ち集まって来た。子供等は親から毎日何回となく「奴阿呆、奴馬鹿、奴狸、奴狐、奴多福、奴盗人、奴淫売、すっとこ、ひょっとこ」など罵られたり、叱られたりしているのである。単に口先ばかりでなく、打つ叩くの暴力を加えられていて、親切に飢え切っていたから、先生に近づき先生に言葉をかけられ、その上手を引いて貰うことは無上の楽しみであり喜びであった。羊は羊牧の声を知っていた。

 十八 伝道集会

 夜の集会は日曜と水曜の週二回であって出席者は二十人内外であった。路傍説教は毎晩であって、太鼓と提灯とあればどこでも集会は出来た。提灯の一面は赤で十字架を記し、両面は墨で「神は愛なり」と書いたものと「罪を悔い改めて天の父を信ぜよ」と書いたものがあった。特に大きな高張り提灯もあって、これが先頭にたって前進していた。説教は普通四辻で行い、聴衆は大抵三十人から五十人位であって、多い時には百人近くも集まった。信徒は信仰の体験を語り、先生は知識と知恵と大声と熱とをもって福音を説き、聴衆をして常に感激させた。路傍説教は犯罪の防止に相当効果があったと思う。屋内集会の出席は二三十人程度であって、老人と病人とが多数を占めていた。新家の身内であった土建請負業、出村親分の妻はイエス団の集会に出席するようになり、同じく新家の身内であって何時もピストルを話さなかった小寺は、己が罪を反省し腹を切ったが自殺未遂に終った。後には自宅を町会の事務所に提供し本人は町会長に推されていた。更に殺人事件が起らなくなったことなどがこれを証明している。

 十九 無頼漢の迫害

 伝道の妨害や迫害は充分覚悟の上ではあったが、打たれ叩かれる辛抱はともあれ、出刃包丁、短刀、刀、ピストル等の兇器を突き付けて脅迫されることは、幾たび経験をつんでいても実に不快なものである。先生は脅迫の都度、聖者を思わしめる態度で静かに祈り、殴られても蹴られても、祈りの姿勢は変えられなかった。「為すところを知らざる者のための祈り」であったと思う。脅迫はしばしばあり傷害の危機は幾度もあったのであるが、常に天の父の守りのあったことは、今も涙に咽ぶ感謝である。
 夜の集会では、屋内でも路傍でも度々妨害者が現れ、兇器を逆手に飛び込んできて乱暴する者があり、提灯を一度に十四個も叩き破った者もある。彼等の中には、前科五十六犯の刑務所を本家としている大男もいたし、説教の最中に馬を挽き入れて聴衆を散らして得意になる変わり者もいた。
 最も?猛な無頼漢は松井であった。彼は、「賀川は新川をだしにして『死線を越えて』その他の本を書き、それで多く儲けているから、その配当を出せ」と強く要求するのであった。彼は常に短刀を懐中に持っていて「賀川を殺すことは銀と鉛の交換だ」と口癖に言いふらしていた。松井は教会に来て畳の上に痰唾をはき、床の間に小便して平気であり、金を取るまでは何時間たっても動かないのであった。先生の前歯を折ったのも彼であり、夫人に短刀を突き付けて常に悩ましたのも彼であった。
 村田は恐喝が専門であり、傷害罪の前科者であった。身体に数十箇所の刀傷があった。目はナイフで刺されて一つとなり、頭と顔に刀の傷が数ヶ所あり、両手両足、背に腹に実に多くの傷跡があった。彼が教会に来て刃物を畳に突き立て、出席者を睨み付けて恐喝したことは、五十回や六十回ではなかった。しかし彼等の終わりは憫れである。
 村田も元気が衰え,済生会病院に収容されていたとき、四方八方から刀の刃が飛んできて危険で堪え難く、この病室には居られないと看護婦を通じて助けを求めて来た。彼は人をいじめた如く人からいじめられているような錯覚を起こし、恐怖の余り呻吟していた。「汝らの仇を愛し、汝らを責むる者のために祈れ」との祈りを覚えることは尊い経験であり、かかる機会を得ることは感謝であった。

 二十 奉仕の協力者

 イエス団開設当時、関西学院の神学生であった矢田文一郎、伊藤平次、徳憲義、米倉次吉、その他吉岡、鈴木、平野等の諸氏は毎集会出席され、児童の指導にまた伝道によく奉仕された。忘れてならぬ感謝である。
 (本郷氏七十焼判の老人 本郷氏は焼判を造って渡世をしていたが、奉仕に少しで御役に立ちたいと七十歳過ぎた老人でありながら、生徒の希望もあって漢文を教えられた。)
 時代はずれるが、佐藤一郎氏は「死線を越えて」を読んで感激した一人であって、東京において数年丁稚奉公をし、貯蓄した金壱千円也をイエス団に献げ、賀川先生の弟子として新川に献身することを申し出た。彼は関西学院神学部に通学しつつ、イエス団の書記をしていたが、不幸にして肺結核で退学し、その後夫人と二女を残して永眠した。夫人は今もイエス団に奉仕されている。
 杉山健一郎氏は、イエス団の第一回林間学校開設から児童の指導方法に先鞭をつけた。また古着市にも努力され、貧しい人たちによく奉仕された。同氏が神戸を去った後も、林間学校は戦争による食糧事情で実施の出来なくなるまで継続していた。
 高比良佐馬太氏は、昼間は失対事業に就労し、日給一円二十五銭を儲け、夜は学童の予習・復習の指導をしていた。特にボーイスカウトに参加して労働賃金の三分の二までは児童の服装と指導に使っていた。同氏は現在長崎県下において学校教諭に奉職中である。
 森氏はスタンダード石油会社の通訳であった。同氏は「善人たらずば悪人となる。クリスチャンは進んで善事に参加すべし」と主張され、イエス団夜学校の英語教師を無報酬で担任されていた。イエス団の歳末奉仕は二つあった。ひとつは餅をつき恵まれぬ家庭百戸に対し一戸当たり一升分を贈呈していた。しかし米が配給制度になって廃止した。いまひとつは、毎年古着の寄付を各教会に依頼し、これを纏めて古着市を開き貧しい人たちに最低値段で分配し、更に売上金をもって児童の学用品その他を支給し、多くの人たちに奉仕をしている。
 神戸生活協同組合の家庭会は、貧困者に対し歳末奉仕として会員の手によって古着を集め、毎年イエス団において古着市を開催されている。
 夏は裸でも暮らせるが、冬は裸では過ごせないのでご協力をお願いしている。古着市は毎年行事の奉仕運動である。
 従来献身者があり奉仕者があり、または協力者を与えられ応援者が現れ、多くの支援のあった事は、衷心より感謝に堪えないところである。

 二十一 慈善

 新川には病人が多く欠食者があり、出稼ぎまたは旅人も多数であった。それで病人には医師の治療を施し、飢えた者には給食し、旅人には汽車または汽船の切符を買って能う限り支給した。我に金銀なし、ナザレのイエスの名によりて助言のみの場合もあるが、能う限り支給した。
 行路病者、老衰者、身体障害者等については常時数名を収容し、先生は病者と同室に起居し、大小便に至るまでの面倒をみつつ保護されていた。
 救済費の予算は、先生の労働による収入でそれに当てられ、「五つのパンと二つの魚」をもって祝福を祈る慈善であった。後日、後援者による寄付金はその全額が救済費に使用されていた。

 二十二 食堂の開設

 新川には十四軒の木賃宿があり、宿泊者は千人を越えていた。宿では一切給食していなかったので、外食者のために食堂が必要であった。
明治四十三年教会員の失業対策を兼ねて「天国屋」と称する食堂を開設した。食堂の利用者は相当にあったが、「ここは天国屋だから」と言って飯を食っても代金を支払って呉れない者があり、収支が相償はないために、やむを得ず閉鎖した。神戸市が市内の数箇所に「公設食堂」を設けたのはそれから八年後のことであった。

 二十三 青年の指導

 青年男女のために小規模ではあったが「夜学校」及び「裁縫塾」を設けその教養に努めていた。しかし予算、講師その他の諸種の事情により永続することが出来なかった。もしこれを継続していた場合は、新川以外にあっても独立生計の立つ人たちを産み出す大きな力となっていたに相違なく甚だ遺憾であった。

 二十四 先生の結婚

 大正二年五月二十八日、賀川先生は神戸福音印刷株式会社社員芝房吉氏の長女春子様と神戸日本基督教会において、青木澄十郎牧師司式のもとに結婚式を挙げられた。
 先生の夫人となるには、次の資格を具備していることが必要であった。
 1 健康にして労働能力があること 
 2 住宅が不潔であって蚤、南京虫、虱等の巣のような不潔な居間の中に起居すること 3 菜食主義者となること
 4 病者や身体障害者の看護をすること 
 5 夜は毎夜路傍説教に参加して証をすること 
 6 貧民窟を訪問して女中代わりの奉仕をすること 
 7 日々の如き無頼漢の脅迫を忍耐すること
 以上の適格者は容易に得難く、神様は善き半身を揃え給うた。私は結婚の際に祝辞としてこのことを述べたく考えたのであるが、式場には先輩者が多く、また説教じみたことを申し上げることは却って失礼かとも考え、遂に躊躇して述べ得なかった。

 二十五 洋行

 大正三年八月二日、先生はアメリカのプリンストン大学に入学するために、神戸から丹波丸にて出航された。その節、神もし許し給はば、米国において金十万円の寄付金を得、これを以って新川に施療病院を建てること、募金が困難な場合は博士の学位を得て帰ることであった。然し二年七ヶ月の後、先生から「米国にもキリスト以上のもののないことを発見して日本に帰ります」と書いたはがきを貰った。キリストの如く祈り、キリストの如く人を愛し、キリストの如く十字架を負う、この「キリスト精神」を再確認して、大正六年五月四日帰朝された。
賀川夫人は先生渡米後、横浜の共立女子神学校に入学し、先生の帰朝後共立を卒業して神戸に帰り、先生と共に伝道及び社会事業に協力して一層精進されることになった。

 二十五 弟子どもの共産奉仕

 先生の不在中も天の父の御恵みにより、伝道と社会奉仕は継続した。青年たちは少数であったが、使徒行伝四章三十二節に記されている初代のキリスト信者たちの共産奉仕に習い、各々が労働によって得た収入を共にし、最低の簡易生活に満足し、各自の小遣銭は、散髪代と風呂代と下駄代位のものであって、残りは全部奉仕に捧げることが出来た。
なお伝道と事業の実施を便にするために、教会の新築を計画し、三間に八間,二十四坪の設計図をもつくって、適当な土地を求めていた。幸いにして現在イエス団の表の東隣りにあった酒屋が空き家になったので、これを借家してここに教会を移し、夜学校も開校することが出来るようになった。先生の不在中大過なくご奉仕に当たり得たことは、誠に感謝の至りであった。

 二十七 教会員

 イエス団の創設当時の集会には老人が多く出席していたが、その中には次のような人たちもあった。
鬼の婆さんは貰い子殺しをしていたので「鬼」の渾名がついていた。人相もよくなかったし窃盗の癖もあった。彼は教会に来て説教を聞き、涙を流して懺悔していた。
 杉本は無頼漢であったが、改心し救われて一家を整えた。彼は或る暴風の夜、静かに祈りかつ考えていて、モグリの拾屋を考案した。神戸港には多くの船舶が出入りするので、その荷役には海に落ち込む荷物の幾多あり、殊に暴風による沈没船があり、海底の藻屑となる損失の膨大であることを考え、これを潜水夫により引き揚げる事業を神戸で最初に考案し、その許可を得た。この潜水業に成功したので、息子をして帝大を卒業させ、数ヶ所に借家を所有することが出来た。彼は「真心になって依り頼めば、神は必ず恵み給う」と何時も変らぬ証しをしていた。
 植田の職業は豆腐屋であった。彼は呑み助でありインチキ博徒であって、人を切ることは八回、人に切られること十三回、前科三犯の極道者であった。嫁を貰っても愛想つかされ、六人貰ったが一人も残らず、みな逃げられた。彼は生活にも行き詰まり、自殺か夜逃げかの岐路に立ち、やけの一杯飲んでいたが、路傍説教を聞き、それが動機で改心した。或る夕方、教会員が訪問した時、植田は真っ赤な顔をして涙を流していた。一杯飲みたくて堪らなくなったが「一升徳利に負けてはならぬ」と赤い唐辛子を噛んで我慢し、「いま戦いの最中だ」と禁酒の断行に努力していた。
彼は路傍説教に参加し、「私は七人目の嫁を貰ったが、目はひとつで、私が片目だから、二人で一人前だ」とか上手に面白く話していた。後には、大安亭市場の中で「ヤソの豆腐屋」で有名になった。
 軽焼屋の新造さんは、朝起きると聖書を読み、「一日のパンを恵まれること」と「悪魔に心を汚されないこと」を祈っていた。しかし貧乏に追われて、洗礼を受けていたのに心が汚れたと、清い心が欲しさにひとり海に飛び込んで、再び洗礼を受けた人である。
 豊年屋のお作さんは、目がカンチで顔一面にあばたがあったが、新川にいた企業者の親方であった。彼はお祈りをするとき、弘法大師の姿が現れる、これがイエス様の姿に変るようにと、一生懸命祈っていた。
 通称「三公」は豆腐屋の売り子であって、ある日行商先で、豆腐の荷を荷馬車が引き倒した。それに腹を立て馬子を天秤棒で殴り殺したので、懲役七年の前科者となった。彼は心臓と腎臓と梅毒を患い、全身が腫れ上がり、頭にも首にも穴があき、年中膿が流れていた。教会はお粥を炊いて施していたが、三公に死が近づいたとき、毎夜幽霊が出ると怖れていた。
 新家の親分には数百名の子分があって、子分は親分のためとあれば人殺しもするし自分の生命も献げるのである。親分は偉いと自信し、人も偉いと思っていた。けれども夫人は洗礼を受け教会員となっていて、「ひとり息子が親の真似をしないで真面目な立派な人になって欲しい」と祈っていた。
 島田は、無頼漢「目玉の文」を切り殺した前科があった。ある日妻から「妾に五十銭やる時は私にも五十銭貰いたい」と要求され、それが癪に障り妻を丸裸にして両手を後ろに縛り上げ、太股に刀を突き刺した。また夜遅く帰宅した時、戸を閉めてあったのが立腹で、村田銃で息子を撃った。幸いにして弾は急所を外れていたが、太股貫通の重傷を負わせたこともある。彼も教会員となっていた。妻は信仰に熱心で、夫に太股を刺されたとき騒ぎもせず声も出さず、ひたすら「天父の神様、私の霊を今み前に献げます」と祈ったのである。
 井上きぬさんは、稲荷落しであって仙吉と言う主人があった。主人は一杯飲むと直ぐ、ぐずぐず言うので「ぐず仙」の渾名がついていた。きぬさんは路傍説教に参加して、「私は鳥の鳴かぬ日があっても夫婦喧嘩をしない日がなく、夫が短刀で来るときは、私は出刃でかかっていた。しかしイエス様を信仰するようになってから、喧嘩はひとつもなくなった」と証しをしていた。一人の息子は神戸中央神学校を卒業し、後には米国から欧州を「賀川の弟子である」と言う理由により、多くの援助を得て視察旅行に成功した。
 猫のお婆さんはイエス団のラザロであった。天涯孤独であって拾屋をして生活していた。淋しいためか好きであったのか、猫を十三匹飼っていた。雄は息子の如く雌は娘の如く、小さいのは孫の如く可愛いのであった。お婆さんの体は、顔も手も足も皆猫がナメてきれいになり、冬は煎餅布団一枚に十三匹の家族がみな這入り、湯たんぽも炬燵もいらなかった。けれども八十二歳で病気し、教会は五日目毎に精米一升を寄贈していた。近所の子供が猫のお婆さんの「扶持をおくれ」と使いにきていたが、猫が一匹去り、また一匹去り、十三匹がみな去ったとき、ラザロのお婆さんは永眠した。
 岸本老夫婦は、年齢のため無職となり、大阪で靴屋をしている息子に生活扶助を頼んだが、「親は俺を産んだであろうけれど、俺は親に育てて貰らわなかったから、親を扶養する義務はない」と断った。生活に窮した二人は、教会の保護により収容されて飯炊きをしていた。岸本氏が七十二才の時、老衰のため意識不明となり二十四時間後には永眠したが、無意識のまま「有難いなあ、有難いなあ」を何十回となく言い続けて息が切れた。
 山科のお婆さんは七十才を越えて失明していたが、何時訪問しても縫い物をしていた。お婆さんは「眼は見えないけれども神様は有難い」と感謝し、「聖書は読めないけれどもイエス様は私をお守り下さいます」「私が針の耳に糸を通しボロの修理の出来るのは信仰のお蔭です」と涙ながらに感謝していた。何度会っても一度も愚痴を漏らさず、感謝と喜びに満ち溢れ、顔は美しく耀いていた。三十五年信仰生活を続け、戦時中永眠した。

 二十八 授産場設置

 大正六年七月、先生が発起人となり、「大正歯刷子製造所」と称する刷子工場を創立した。ここに二十数名の青年たちを就職させ、約百名の婦人たちに刷子の毛植を授職した。青年たちは讃美歌を歌いつつ、喜び勇んで働いたが、技能の進歩は容易でなく、高級品の製造は困難であった。また婦人たちの内職は相当経験を要し、歯刷子の毛は高価であって、物を粗雑にする習慣のある新川には不適当であった。工場の運営は製品が輸出向きであって、二年後には貿易不振により注文が途切れ、製品のストックは資金難となり、継続の名案なく遂に解散した。

 二十九 無料診療所開設

 大正六年の夏、賀川夫人を中心に訪問看護が開始せられ、長屋の戸毎を訪れて病者の手当てに奉仕するのであった。特に貧民窟にはトラホーム患者が多く、その治療に日々巡回点眼を実施した。それが直接の原因か否かは不明だが、賀川先生夫妻は共にトラホームの感染により視力を半減され、そのまま慢性となり、幾度治療しても全快に至らず、生涯の苦痛となっている。
 その翌年七月、イエス団内に「無料診療所」を開設した。これは先生の九年にわたる永き祈りであった。部落には貧乏で医者に一度の診察も受けず病死する不幸な人たちもあったので、それ等の人達にたいし救済の目的が達せられるようになった事は、新川の喜びであり感謝であった。

 三十 法人組織

 大正十一年三月、先生は著書「死線を越えて」の印税金壱万五千円を基金として「財団法人イエス団」の設立を計画し、同年七月二十九日、内務大臣の許可を得て事業を組織化した。
 さらに人事相談、労働問題、婦人問題、児童教化等それぞれ専任の担当者を置き、隣保事業の強化を計り部落の福祉を増進した。

 三十一 社会福祉施設の動機

 明治四十三年、幸徳秋水の明治天皇不敬事件後には、御内ど金を基本とする恩賜財団法人が組織され、新川にも「済生会病院」が開設された。その後大正七年、米騒動の後には「方面委員制度」が設けられ、また「救護視察員」の実現となり、「デモクラシー」が謳歌され、「普通選挙」が実現された。さらに小学校が開設されて不就学児童が殆どなくなった。
 「死線を越えて」の小説は、政府における全国の不良住宅改善の予算審議の資料となり、新川の不良住宅も部落の一部ではあるが鉄筋コンクリートのアパートが建設された。敗戦後においては生活保護法が制定され飢死者がなくなり、乞食もその跡を絶つに至った。これを明治の末期に比較すれば著しい進歩であって、貧しき者の大きな福祉となっている。ただ遺憾に堪え難く思うことは、貧民部落の改善は、社会に大きな変遷が動機となって行なわれるのであって、平時にあっては改善されないことである。これでは社会に大変遷の起ることを期待させることになる。波風の起らぬ平時にあって、貧乏の福祉対策が一段と進められたいものである。

 三十二 貧民窟の膨張

 外部から新川に落ち込んで来る者はあるが、新川から外部に出て行く者は稀であった。もし出て行っても多くは元の古巣に帰って来た。それに貧乏人の子宝でもって人口の自然増加は著しく、貧民窟は膨張するばかりであった。賀川先生は「大阪湾の海水はおたま杓子ではかえ切れない」と言われたが、新川で貧困者をいくら救済しても次から次へと要救護者が出るのでは全く救い切れないのである。

 三十三 防貧運動

 一、 労働者は個々においては弱者であるが、団結すれば非常に強力となる。先生は労働組合を組織し、その団結の力により労働条件を改善し、また友愛互助による防貧運動を構想されていた。大正七年、労働運動に参加し、労働組合の組織についてその指導、奨励に努力し多くの組合の結成に成功した。特に大正十年七月、三菱・川崎両造船所の従業員三万近くの者が、一ヶ月にわたり大ストライキを起こした時、その指導者として第一線の先頭に起ち、炎熱に暴されつつ、連日市内を練り回り、凡てのものを犠牲にして闘争を続けた。当局は、争議がより以上に永引く場合は暴動化する恐れがあるものと見做し、姫路第十師団より歩兵の派遣を受けて警戒に当たり、さらにこれが解散のために幹部を悉く未決監に拘置した。勿論賀川先生も収監されたのであった。争議は当局の弾圧により遂に惨敗し、多くの罷免犠牲者を出した。しかし犠牲は労働福祉の種となり、労働時間の八時間制は全国に波及し、労働条件の改善が漸次実現するようになった。先生が労働運動に消耗した金と時間と勢力は実に莫大であった。
 二、 消費生活を合理化し、防貧の効果を挙げるために「生活協同組合」について研究し、かつ計画し大阪、神戸、東京に相当な私財を投じて組合を設立した。その他多くの組合の指導、奨励に当たり、その発展に努力された。現在日本生活協同組合連合会会長に就任され、その発展に努力されている。
 三 都市の労働者の生活がたとい豊かになっても、農村が貧乏である限り農民は都市に集まり、都市は失業洪水になる恐れがある。従って農家の生活は農村において安定させる必要があり、農民の生活安定化には「農民組合」の結成が優先であって、先生は農民組合の組織化に努力された。現在衆議院副議長の杉山元治郎先生等の協力を得て、大正十年、イエス団児童館に於いて組合活動の準備が進められ、翌十一年四月には神戸YMCAにおいて「農民組合第一回全国大会」を開催するに至った。また農村経済解決の一助に「立体農業」を考案し、クルミとペカンの種を年々輸入した。これを全国の所要地に分配し、山に植えることを奨励した。現在、既に相当な収益を挙げている処がある。更に昭和二年より毎年二月の農閑期を利用して「農民福音学校」を開設し、農村の青年たちを指導した。

 三十四 宗教運動

 大正七年、米騒動においては、日本にも共産党活動が漸次盛んになり、労働階級、青年層、学生間にはこれに共鳴する者が日々増加し、赤化の傾向が見えて来た。賀川先生は暴力革命に反対し、唯物主義の不合理の暴露に努めた。同時にかつて英国が宗教運動の旺盛により暴力革命を避けた如く、日本も同様にこれを免れるために祈りかつより重い十字架を負い、大正十四年には「百万人救霊」のため、昭和三年には「神の国運動」として、いくどか死を決し全国を巡回して「血味泥伝道」に従事された。

 三十五 社会事業の発展

 明治四十二年、「幽霊長屋」において煙突掃除の収入をもって人助けを始めた慈善が年々飛躍した。あるいは同志を得、又は協力者を与えられた。事業は組織化し、施設は発展し、神戸に止まらず他府県に及ぶことになった。特に大正十二年九月一日、関東大震災の際は、翌二日の各新聞はその被害状況を伝え「東京全滅」の記事で満載していた。先生は新聞を立ち読みしながら東京救済援助を決意し、直ぐに上京の支度を整え、神戸より乗船し一路東京に向かった。東京本所松倉町に診療所を開設し、宿泊所、夜学校、女学校等を設け漸次事業を拡張した。

 三十六 新川の現状

 昭和二十年六月五日、戦災により新川は鉄筋コンクリートのアパートのみが火災を免れ,その他は全部灰儘となった。然し終戦後、市内の復興に従い、新川にも畜舎に劣るバラックが建つようになり、戦前不良住宅改良により一部住宅を撤退した跡の空き地も、或いは新生田川の両側も、又は部落の東に北に粗末なバラックが多く建ち、貧民窟が拡大されるに至った。新川及びその付近の人口、失対事業登録者、要生活保護等を数字で示すと次の通りである。
一、戸数
二、人口
三、失対事業登録者
四、要生活保護者
五、要医療保護者
六、不就学児童 

 三十七 新川の改善

 新川の改善については、外部からのものと内部からのものと二つの方法があると思う。
 外部からの改善にも部落の分散と固定との方法があって、部落を分散して全然なくすものと部落自体を改善するものとがある。神戸市は固定改善の方法により既に一部不良住宅を鉄筋コンクリートのアパートに改良している。住宅改良は結構ではあるが、部落の缶詰となり外部から受ける差別扱いは容易に解決のつかない結果となる。
 分散の方法は、部落外に分散的に住宅を建設し、それに順次移転させることである。立ち退きの跡は公園若しくは工場地帯等適当に使用し、再び不良住宅建築の許可をしないことである。改善費の予算については、部落内と外と何れに住宅を設けることも大差はないが、効果においては雲泥の相違があって、部落の撲滅か存続かの岐路になる。
 内部からの改善は、技能と道徳の問題であると思う。部落の生活困難の最も大きな原因が二つある。世帯主のほとんどが無技能者であることと、青少年が技能習得の出来る職場に就職することが困難であることである。労働能力があってもニコヨンでは常時失業状態にあるから貧困者になることは当然であるが、技能者として就業する場合は、生活保護を受ける必要がなくなるのである。一世帯に一人真面目に働く技能者があれば、その一家の生活は保障される。それにも拘らず新川の青少年たちは、将来性がある技能の習得の出来る職場からは敬遠され差別扱いを受けている。それは使用者側のみに責任があるのでなく、就業希望者側にも過去において種々敬遠される行為があったからである。原因は、環境が悪く道徳の水準が低く、常識の発達が遅れているからであって、多くの実例がある。
 イエス団では、これ等の問題の解決のために夜学校、林間学校、日曜学校等を開設しその教養に努めて来た。しかし従来の設備と予算では充分な効果を挙げることは困難であった。それ故に部落改善の目的を達し得る施設のために祈っている次第である。
 少年三十名を収容する設備を整え、中学校三年生の男子を日々学校終了後収容し、宿泊させ、食事は家庭に於いてとり学校の復習の他教化に努めることともに職業指導をなし、学校卒業後の就職の場合は技能の習得できる職場の就職を容易にする。
 児童の教化と技能の習得こそ真の部落改善となることを確信するものであって、五十年一日の如く努力している訳であり、近き将来において生活保護の必要なき改善を目標として努力することが、私どもの念願して止まざるところである。


           *           *         *

 追記
 内容的には別稿と思われるが、同じ原稿用紙で紛れ込んでいた文章が残されていた。青年武内の魂の目覚めの記録として重要であるので、参考までにここに添付しておく。

 「先生は実に偉大なる引力をもっていて私を引き付けて、私の求道心を起こさせたのであります。それで私は、キリストを知る為に新聞を読む時間があったら聖書を読みたいと思い、毎朝五時に起きて聖書を読むこととし、創世記から読み始め一ヵ月後に黙示録の終わりまで一読したのであります。
 聖書は解らないところが大部分であったが、私の頭を根本的に変えたのであります。私は私で私を駄目だと断定していたのに、聖書はそうではないことを示して呉れました。無学な労働者達がキリストの弟子となっているから、私でも救われると考えたのであります。私も主の祈りが出来る、人を愛することも出来そうだ、レプタの献金は出来るなど、次から次へと頭の中は進展し、キリスト信者になりたいという希望が起こったのであります。
それで朝早く起きて救われるために祈りました。その瞬間に心の中に変化・」

                                    (2009年5月1日鳥飼記す)


 今回ここに掲載するに当たり、草稿原文に当たりながら訂正を加えることができた。武内氏は多くの文章を残していないが、前掲『賀川豊彦とボランティア』に纏められた武内の口述記録でも明らかなように、武内氏の講演は真実のこもったもので、その人柄が今回の文章の中にもよく現れているように思われる。
 なお、武内の語りの中には今日用いない表現や考え方があるが、その歴史性を読み取っていただけるものとして、このブログでもそのままを提供しておく。この点に関しては『賀川豊彦とボランティア』(新版)の「あとがき」を担当させてもらった折に少しく触れているので一読いただければ幸いである。(2014年1月17日記す)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(3)

絵葉書第2回の

武内第2回はがき


  賀川豊彦が米国留学先より認めた春子への絵葉書

    大正4年「貧民窟主題の小説」を書きたい!

 2009年4月、PHP出版より、賀川豊彦の代表作である小説「死線を越えて」の復刻版が刊行された。本の帯には「大正時代の大ベストセラーがいま甦る」「2009年は賀川豊彦献身100年の記念すべき年」とある。

 実はこの度、賀川豊彦の一番弟子として知られる武内勝氏(小説「死線を越えて(中巻)太陽を射る者」で「竹田」の名前で登場する)のご子息・武内祐一氏より「武内勝所蔵資料」の閲読を許されることになった。

 とりあえずいま資料の分類整理を始めたばかりで、まず一つ目の「玉手箱」のなかに賀川豊彦・ハル夫妻からの120通近い武内勝宛の書簡が収められていた。

 そのなかになぜか、新婚早々のハル夫人に宛てた一枚の貴重な絵葉書が保存されていた。

 昨日、武内祐一氏が、二つ目の「玉手箱」を拙宅にお届けいただいた折、資料のブログ公開のご了解をえることができたので、早速この一枚の貴重な絵葉書をUPさせていただくことにする。

 周知のとおり賀川夫人は、戸籍上の名は「ハル」であるが、早くから自他ともに「春子」と呼んでいたようであり、この資料紹介でもその呼称のまま用いることにする。


 さて、この絵葉書は、賀川豊彦が留学先より「神戸市脇浜2丁目 芝房吉様方 賀川春子」宛てに送られている。絵葉書の絵は、Kip's Castle,Montclair,N,J.のものである。

 よく見ると、「ニューヨーク 1915年(大正4年)6月19日」の消印がある。

 Mrs.H.Kagawa % F.Shiba Wakinohama Kobe Japan


本文

(書き出し数字分が消えている)に泣き笑ひして居る。此夏はどうせ本は読めぬなら暇があれば貧民窟主題の小説を暇をぬすんで書きたい。時間は一日に一時間! 之がほんとの小説よ。お父様によろしく。一生懸命努力して居ます。


賀川豊彦の年譜によれば、「1913年(大正2年)結婚。翌年アメリカへ留学のため1914年8月2日、日本郵船丹波丸にて神戸出帆。8月17日サンフランシスコ上陸。9月11日プリンストン到着。1915年夏期休暇を利用してニューヨークでアルバイトを探す。モント・クレアにて給仕として40日働いてプリンストンに帰る。1916年5月BDを得る。1917年4月オグデンを去りシアトルから出航。5月4日横浜到着)」とある。

 賀川のこの絵葉書は、ニューヨークのモント・クレア(Montclair)より投函されて「KOBE」の消印には「13.7.15」とある。


 ところで、小説「鳩の真似」は、賀川が神戸神学校で学び始め、病気療養で蒲郡で過ごしていたときにひとまず仕上げられて、それを島崎藤村に見せたのは明治41年のことであった。

 その後賀川は、明治42年12月24日「葺合新川」での新しい生活をはじめ、前記のようにその数年後には春子と結婚、その翌年留学して、その旅先となったニューヨークで、新しく「貧民窟主題の小説を書きたい」という構想が生まれたというのである。

 しかしこの構想が宿ったときからすぐ、既に書き上げていた「鳩の真似」の続きとなるのちの小説「死線を越えて」の完成にむけて「一日に1時間!」「ほんとの小説」を実際に書き始めたごとくであるが、果たして賀川豊彦は、その願いどおりにそれを書きすすめられたのかどうか、それは不確かである。

 新聞記者の村島帰之の口添えなどもあって、賀川の小説「死線を越えて」が「改造」に連載しはじめるのは大正9年のことであり、この雑誌には小説の最初の22節までが連載され、それに後半部分を追加して、大正9年10月1日改造社より単行本として世に出たのであるが、この絵葉書にある大正4年6月の時点での、賀川の心のうちに「貧民窟主題の小説を書きたい」という彼の熱き構想が宿っていたことだけは、この手紙で一応確認できるのである。

            (2009年4月12日鳥飼記す。4月29日補記)

 なお、賀川豊彦の代表作『死線を越えて』の生まれる詳しい経緯などに関しては、村島帰之氏の最晩年の重要な連載論稿「労働運動昔ばなし」(「労働研究」誌に14回にわたって連載されたものを、このブログの2012年12月12日から2013年1月8日までテキスト化して閲読可能にしている)に書き残されている。

 この絵葉書の現物は、2009年の「賀川献身100年」の折に神戸文学館で「賀川豊彦の文学」特別展に公開のあと、その年に新装再建された「賀川記念館」の4階の「賀川ミュージアム」の展示場に置かれている。2014年1月16日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(2)

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1963年6月6日「毎日新聞」夕刊

   一粒の麦は生きている 50年なお救貧運動

               故賀川氏の遺志ついで 

 神戸の武内さん
日本が生んだ世界的社会事業家、故賀川豊彦氏の小説"一粒の麦"の主人公がいまも豊彦氏の遺志をついで恵まれない人たちのために神戸の裏町を歩き回っている。偉大な師であり親友でもあった豊彦氏がなくなってすでに3年あまり、しかし"一粒の麦"のモデルはいまなお、約50年前、豊彦氏とともに毎夜「新川」を辻説法に歩きまわった情熱を心の奥深くたぎらせて生きている。その人の名は神戸市葺合区吾妻通5、神戸イエス団常務理事、武内勝さん(70)。(ここに賀川豊彦の写真)


 武内さんは明治二十五年七月ニ十日、岡山県邑久郡の農家の長男に生まれた。裕福な農家だったが父、用三さんが鉱山に手を出して失敗、家出してから武内さんの苦労がはじまった。日露戦争後の明治三十八年、当時十三才の武内少年は母と弟三人を連れて大阪市西区の九条にやってきてアメ、キビダンゴの行商で細々と一家を養った。父からはハガキ一本も来なかった。翌三十九年六月「ノミとり粉を売ったらもうかるで・・」という友だちのすすめで梅雨でノミがはびこる九条の裏町を「ノミとり粉いらんか」と売り歩いていると、アンチャンふうの男が「大阪なんかあかんわ。神戸へ行ってみ。南京虫がウヨウヨしてるわ」とひやかして通りすぎた。

 ノミトリ粉を売る

 武内さんは当時日本一のスラム街といわれた神戸新川のキチン宿に宿をとり、手当たり次第に南京虫を数えはじめた。いるわ、いるわ、殺した南京虫はなんと四百ピキ。いまならさしずめ"市場調査"というところ。「これなら商売になるわい」と翌日からノミとり粉を売りはじめると、売れる、売れる、いっぺんに五円ももうかってちょっとした金持ちになってしまった。

 「南京虫」のおかげでフトコロが安定したので同年九月、武内さんは一家を神戸に呼びよせ、昼はほうろう製造所に日給十二銭で働き、夜はコウヤク売りやヤキイモ屋などをやって一家を支えた。こうして武内さんは貝ボタン製造の機械を買い、職工約二十人を使う工場長にまで出世した。

 賀川氏の説法に心酔

 神戸に来て三年目のある日、父用三さんがどこで武内さんの居所を知ったのかひょっこり姿をみせた。「すまん、すまん。ようここまでやってくれた」父と子は十三年ぶりの涙の対面だった。ある日まだ二十才をすぎたばかりの神学生らしい男が武内さんの工場にやってきた。「私は賀川豊彦です。お父さんに頼まれて説教に来た」というが早いか、大勢の工員たちの前で一席ぶちはじめた。説得力にみちた説法と若々しい情熱に武内さんらはあぜんとした。こうして武内さんは豊彦氏の弟子としてまた友人として結ばれ、豊彦氏の先生、マヤス神父から先生を受けるまでになった。あとでわかったことだが父、用三は「新川」の貧民くつの伝道所で豊彦氏に会い、その人物にほれこんで武内さんの将来を託していたのだった。

 辻説法の提灯もち

 当時、日本一のスラム街といわれた「新川」は仲仕、土方、人夫のほか身体障害者、失職などで生活能力を失った最下層の人々が約七千世帯(現千六百)もいた。殺人事件も毎月のようにあった。豊彦氏は幽霊が出るとうわさされて借り手がなかった葺合区北本町六の長屋を借りてイエス団を創設した。「ボクは伊藤博文よりえらい」「ボクの仕事は歴史に残る」と大言壮語する賀川氏に、最初はあっけにとられた武内さんらも毎夜、辻説法に出る豊彦氏の提灯もちをするうち次第に豊彦氏を尊敬できるようになった。
 「神学校でもらう十二円のうち四円だけは自分のことに使い、あとはみなスラム街のために使っていたようです。そして金がなくなったら外人宅のエントツ掃除をするのが常でした」と武内さんは豊彦氏をしのんでこういう。

 悲し!婚約者の死

 大正三年八月、豊彦氏は「イエス団の運営を君に一任する」といったままアメリカ、プリンストン大へ留学してしまった。武内さんはがんばった。武内さんと結婚することになっていた六つ年下の芝文子さん=はるさんの令妹=も一生懸命だった。しかし、大正六年二月、文子さんは無理がたたって肺病で死んでしまった。豊彦氏の留学中の悲しい出来事は、そのまま日本の救貧活動と尊いギセイでもあった。同年四月、豊彦氏は帰国、再び神戸「新川」にもどってきた。豊彦氏がいなかった二年八ヶ月の苦しい救貧活動―娘たちは女郎屋に売られていく、殺人事件が毎月のようにおこった―武内さんは豊彦の留守中の出来事を原稿用紙五枚に書き上げて豊彦に出した。「これは立派な文だ。この作文をわたしにくれ」と豊彦氏はいって何度も武内さんの作文を読み返した。「これが十余年後の昭和四年、小説"一粒の麦"のタネになったのです」といっている。

 暗い現実が小説に

 小説"一粒の麦"は雑誌「雄弁」の昭和四年十一月から五年十二月まで十四回にわたって連載され、発行所の講談社は翌年二月、単行本として出版、その後、版を重ねて売り上げ部数は八万六千部に達し当時のベストセラーになった。「豊橋の材木屋に勤めていた十九才の嘉吉は色町の誘惑にまけて店の売上金五円を着服する。しかしその後、山の仙人といわれるサルまわしや伝道所の集会の話を聞いて神を知る。兄が警官を殺す。姉が娼妓に売られる―こんな不幸な嘉吉の身にも芳江という女工が恋文を寄せたことから嘉吉と芳江の間に恋が芽ばえる。嘉吉らの信念である山林の開発事業は迫害にもかかわらず着々と進むが嘉吉がやがて入営、出征しているあいだに伝道所の村野先生から芳江の死を知らせる電報がとどく。入営後二年、村に帰った嘉吉は裏山に芳江の記念碑を建てる」―ざっとこんなすじ書きの"一粒の麦"は賀川氏がめざした立体農業、協同組合運動を書いた理想小説でもあり、美しいロマンスを秘めた純愛物語でもあった。

 嘉吉が武内さん、芳江が故文子さん、サルまわしが武内さんの父用三さんをモデルにしたことはもちろんだが、「作中の嘉吉は夜遊びをするが私はそんなヒマはありませんでした」とモデルの武内さんは小説と事実とのちがいを指摘している。キリスト新聞社発行の豊彦全集十五巻はつぎのように述べている。

 「主人公嘉吉の無口で純真な性格と信仰的な行動とは賀川の貧民くつ伝道を初期のころから助けつづけた武内氏にヒントを得ている。・・山の仙人は武内氏の父君を素材にしている。この人をサルまわしに仕立てて賀川の風流運水的心境と立体農業政策とを現わそうとしたものであろう。」

 いまもまく一粒の麦

 「本が出たときは私に"本をくれ"という人が多くて十冊ばかり同じ本を買っては人にあげました。もう二十年以上も"一粒の麦"は読んでいませんが・・。ほんとうに賀川先生は私の最大の師でもあり友でもあった」―その豊彦氏も三十五年四月二十三日、七十二才で他界した。しかし豊彦氏とともに五十年、片腕となり救貧活動をした武内さんはいまも健在、ことし四月十三日、完成した賀川記念館の常務理事をするかたわら、長田区三番町で乳児保育園園長をしている妻の雪さん(61)を助けて貧しい人、恵まれぬ子らのために"一粒の麦"の努力を続けている。


 この記事は無署名であるが、神戸在住の元毎日新聞記者の津田康氏からは以前、「武内勝さんの取材をして記事にしたことがある」ということを聞いていたので、今回の「武内祐一氏所蔵「玉手箱」」に遺されていたこの新聞記事を見て、多分これはその記事ではないかとおもい、早速この新聞をコピーして津田氏に御送りしたところ、2009年4月22日付けの返信書簡が届き、次のように記されていた。

 「・・「毎日」入社3年目、神戸支局時代、確かに小生が書いたもので、「一粒の麦・・」の見出しとか、武内さんの写真(小生の撮影)は、よく憶えています。・・それにしても、当時の新聞記事は、活字も小さく、"短編小説"くらいの分量書けたのですね。まだ25~26才くらいでしたから、支局内に泊まって、多分徹夜で書いたのでしょうね。・・」)

 もちろん武内祐一氏にもこの新聞記事はコピーして一番に手渡し、喜んでいただいた。(2009年4月26日鳥飼記す)


津田康氏は毎日新聞の編集委員をされたり「陽は舞いおどる甲子園」「蔦文也の旅」「くるまろじい」「天保山物語」など多くのヒット作品で知られているが、京都大学法学部時代には村山実と同時期、京大野球部のエースでもあった人で、神戸在住のジャーナリストである。いまも山登りがお好きで、ときどきお誘いをうける。

 なおこの新聞記事はそのまま、武内勝口述・村山盛嗣編集『賀川豊彦とボランティア』(神戸新聞総合出版センター)に収められた。2014年1月15日補記)


 なおもうひとつ、「賀川豊彦」に関するわたしの最初の書き下ろし『賀川豊彦と現代』を「賀川生誕100年記念」の年(1988年)に出版した時に、当時「毎日新聞大阪本社編集委員」をされていた津田康氏が、わざわざ我が家に取材にこられて、毎日新聞の「ひと」欄に紹介してくださいました。これにはたいへん驚きましたが、このとき以来、津田氏はいろいろな機会に拙著を紙上で紹介しつづけてくださいました。むかしの記事ですが、ここに加えて置きます。(2014年1月16日補記)

毎日新聞

賀川豊彦の畏友:武内勝氏の所蔵資料より(1)

武内顔

賀川と武内顔

上の二枚の写真は、神戸市中央区にある「賀川記念館」の一階入り口のところに掲げられている肖像画です。

冒頭はここで連載をはじめる武内勝氏の肖像画です。そして上の写真は左の武内氏とともに右は申し上げるまでもなく賀川豊彦の有名な肖像画です。

一昨年(2012年)9月11日に、武内勝氏の御子息:武内祐一氏より神戸イエス団へ、この肖像画が寄贈され、その時からこの場所に、賀川豊彦と並んで武内勝が、こうして掲げられることになりました。(番町出合いの家のブログhttp://plaza.rakuten.co.jp/40223/ の2012年9月22日付け参照)


ところで、わたしの同時進行のブログのうち、このブログはしばらくお休みしていました。お休みの間は、別のブログ「延原時行著作集ブログ公開」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+torigai/ において次々と掲載させていただいている延原先生の1960年代から今日までの膨大なドキュメントをテキスト化する作業に没頭しておりました。

いまようやくその作業が一段落いたしましたので、ふたたびこの「賀川豊彦の魅力」のブログを活用して、標記のような新しい連載「賀川豊彦の畏友:武内勝氏の所蔵資料から」をスタートさせてみようと思いたちました。


武内祐一氏より武内勝氏の所蔵資料の整理と公開の許諾をいただいた経緯を含めての詳細なレポートは、かつて「2009賀川豊彦献身100年記念事業」オフィシャルサイトにおいて、当時当サイトを主宰しておられた共同通信社の伴武澄氏のサポートを受けて、「賀川豊彦のお宝発見」というタイトルのもとに、94回にわたる長期連載を許されて、多くの方々の目に留めていただきました。

このオフィシャルサイトは、残念ながら記念事業が終了して後閉じられてしまい閲読不能となりましたが、伴武澄氏の個人的なご厚意で、現在もこのサイトの中身はすべて復活継続され、ひろく閲読可能となっています。http://k100yorozubp.com/

2009年の「賀川豊彦献身100年」の記念事業が、1988年の「賀川生誕100年」の時の記念事業とは比較にならないほどの組織的な広がりを見せたこともあって、このサイトに収められている数多くのドキュメントは現在でも大変貴重なものばかりです。ですので、この「オフィシャルサイト」は、東京の松沢資料館あたりで末永く公的に保存・公開しておかれるのは必要ではないかと思われます。

それはともかくとして、いまのところこの「オフィシャルサイト」が公開されているうちに、まずはそのなかの「賀川豊彦のお宝発見」の連載分は、少しでもこのブログに再掲するかたちで保存・公開しておきたいと考えました。

なお、このサイトには「賀川豊彦のお宝発見」の連載のあと、賀川豊彦のもうひとりの畏友:吉田源治郎氏の関係資料を御子息・吉田摂氏のご厚意で閲読の機会をいただくこととなり、これも伴武澄氏の絶大なご援助を得て、「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」というタイトルのもとに、150回にも及ぶ長期連載をさせていただき、これらも現在、閲読可能になっています。

いずれの連載もまことに不十分なもので、とりあえずのお宝の資料紹介をさせていただいた、ということにすぎません。今後、これらの第一次資料をもとにして、研究的な検討とまとめが重ねられていくことを期待しての「下準備」というものです。

したがってここでも、とりあえずこれから時間を見つけて少しずつ、すでに掲載したことのある諸資料を再掲しておくことに主眼をおいて、ぼちぼちと楽しみながら、その作業をすすめてみたいと思っています。

                                      (2014年1月13日 鳥飼記す)




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このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

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