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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(44)

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    中村竹次郎:武内勝先生を語る 
 
 ただ今このサイト(現在は http://k100.yorozubp.com/ において公開中)で、武内祐一氏からお預かりしている「武内勝関係資料」の「玉手箱ふたつ」をこの場で少しずつ紹介させていただいているが、他にダンボール二箱を神戸イエス団教会で預かられていて、過日(2009年8月6日)これの整理のお役も引き受けることになった。

 そこには多くの雑誌類(「雲の柱」「世界国家」「湖畔の声」や武内氏の愛読された内村鑑三の「聖書之研究」など)が収まっていた。

 その中に、次の作品が眼に留まったので、「武内勝」という人をすぐ身近に接している人の大切な証言のひとつとして、ここでそれをご紹介しておきたい。
 (「雲の柱」の目次には「武内勝先生小伝」とあるが、本文のタイトルは下記のように「武内先生を語る」である。)

           *      *      *      *

表紙雲の柱


   「雲の柱」第16巻第4号(昭和12年4月号)所収

          武内 勝先生を語る
                         
                                  中村竹次郎

 「私は若い時、体を八つ裂きにして此の一身をキリストに捧げたいと思った。唯十字架の死を憧憬るるだけでは物足りないので」

 武内先生のかく語らるる言葉を聞いた時、私は慄然として先生の温容を今更の如く見守ったことだった。温容の言葉に相応しい先生のあの顔を。

 読者の誰でも、私が「慄然として」といふ驚愕の形容を使ふことを不思議とせられるかも知れない。私は読者に告げたい。事実、武内先生の温顔を知ってゐる者は、此の形容の真に妥当なることに賛成して呉れるに違いない。

 それ程武内先生の顔面は春風駘蕩である。それ程此の如き決意の表白が人に与へる印象は、先生の持つ温容さと或る峻烈な対象を為すのである。

 未だに矍鑠として御健在で、神戸市役所社会課の一吏員として救貧の業に勉励せられる武内先生を、日本基督教徒として持つことは我等の誇りである。

 武内勝先生の名は、私が想像する以上に日本の朝野に広く往き亘ってゐるかも知れない。近い所では、二月の中旬の神の国新聞に先生の簡単なアウトラインが出ていた。或いは基督教家庭新聞に、或いは諸種の小雑誌に先生は直接間接に我々に紹介されてゐられる。然し、卓抜なる才幹に恵まれてゐられない先生の名前は「輝きを放つ」にあらずして、所謂「地味浸潤」の類である。

 さりながら、天国に若し人間の真価を記載するノートの如きが備わってゐるなら、私は敢て考える。先生の如きは特筆大書さるべき位置の与えへれる人である。そして天賦の器とそれに準じて信仰を以て活き抜く比率を正確に計る機械が天国に備ってゐるなら、実に我が武内勝先生の計算表は殆ど百点に近いでだろう。或は満点を越すかも知れない。

 父なる御神の綻びてゆく笑顔を、私は眼のあたりに眺める気がしてならない。

 それ程、武内先生は逆境征服した健闘の人である。そして凡ての悲運を信仰を似て制御した勇者の例に洩れず、先生も血と涙の人である。涙の人である。

 先生は嘗て詠われた。

 “貧しき人の、友となります。
  死ぬ迄も、幼き子供に、御恵みを、与えてください。
  一枚の衣でも、悪い環境に育つ子に、天の恵みを祈ります。“

 此の小さい詩は数年前、先生の示された小さい紙片に記されてゐるのを一寸拝見しただけなので、或いは私の記憶に間違ひがあるかも知れない。

 私は此の詩を読んで事実泣かされた。今でも瞼の熱くなるのを覚えるが、此の余り上手とは見へない詩の一節に、先生の活ける四十四年間の貴い精神の結晶を見た感がしたからである。

 率直に言はう。武内先生は、「死線を越えて」に出て来る竹田なる篤実な青年のモデルである。又「一粒の麦」の主人公嘉吉の後半生のモデルでもある。そして私の信仰上の先生である。

 「体を八つ裂きにして此の身をキリストに捧げたいと思った。」

 昨日も今日も、又明日も天の運行に歩調を合わせて往く如く、業務の余暇を挙げて貧者の友と成って働かれる一見平凡に感ぜられる先生の肺肝かかる熾烈な信仰が潜められてゐる様とは思わなかった。

 私は只慄然として頭垂れ、先生の過去を追想せざるを得ない。

 二宮尊徳翁は幼児から独立の気性が強かったさうであるが、武内先生も赤貧の中から、不屈の魂を以奮闘された。

 十四歳の勝少年は既に人生の嵐を経験しなければならなかった。父用三氏は幾多の鉱山事業で失敗するし、幼い弟妹を抱えて母の面倒を一身に引き受けねばならなかった。勝少年はさぞ悲涙に暮れて、故郷備前の国長船の農村に訪れた冷たい逆風を恨めしく思ったことであろう。

 行き暮れた生計の中で食を採ることを潔しとせられ無かった少年勝は、単身岡山に出る覚悟を決めた。その血潮の中には名工長船の熱塊に等しい負けじ魂が在った。明治四十年五月二十四日のことである。

 寒村を跡にする少年の眼には尽きぬ涙があった。中国山脈の脚下に伸びて広がる八十戸から成る寂しい村の遠い外れに立った少年は、絶命の思ひの中から朧げに我が身を託する天地の霊に呼びかけたであろう。

 「草鞋を履いて私は遠い旅に上ります。母と弟妹に御恵みがあります様に。」

 さらば、故郷よ。

 彼は握り拳で両眼の涙を拭くのであった。草鞋は梅雨の泥土に濡れて行った。

 岡山へ辛うじて着いたが何処の世界も冷たかった。死の誘惑に打ち勝ってその年中、食ふ才覚をしなければならなかった。彼の無類の忍耐性は徐々に高められて行ったが依然糊口に窮しなければならなかった。

 東の風の便りに聞くと、大阪は景気が良いとのことだった。一面不安な気持ちがしたが矢も楯も堪らぬ気が、運を天に任しての旅路を急がせた。

 明治四十一年一月元旦の朝、笠岡発の和船は天保山に着いた。内海の航路の間中、彼は幾度星と波に己の運命を尋ねたことだろう。幾度冷たい蒲団の中から迫り来る死の予感に体を震わせたことだろう。

 来て見れば流石に大阪は大きい街であった。元旦の朝は景気が良かった。波止場の端に降りて大阪の土の臭いを嗅いだ彼は感慨無量だった。勇気を身内に覚えると共に郷愁の涙に誘われて行った。彼は繁華な通に足を入れると共に正月の賑やかさに丸い眼を瞠らせて、宿を探した。

 「それから黍団子屋を始めましてね。日本一と銘打ったのです。一日町を歩いて二升の団子が売れましたよ。六十銭の総売上高で口銭はその半分の三十銭でした。

 その時のことです。今でも忘れられぬ思ひ出話ですが、大阪の九条の花薗橋の上に荷物を肩にして差し掛かったのですが、実際寒くてね、手がちぎれさうでしたよ。すると前から四十格好の伯母さんがやって来るのです。私の顔をジーツと視てゐましたが、何と思ったのか私の傍へつかつかと寄って来ましてね、懐から焼き芋を取り出して私に食べなさいと言ってくれるのです。私はその時言葉が出ませんでした。受け取ってその焼き芋の暖かさで体を温めながら見知らぬ伯母さんの過ぎて往く後姿を合掌して拝みました。ホロホロ涙が出て仕方がありませんでしたよ。その時私は泣きましたよ。」

 武内先生は今でも此の思ひ出話をせられる時泣かれるのである。そして我々も貰い泣きをするのである。

 その中、日本一の少年に売られる日本一の黍団子の販路も少なくなって行った。春四月の初め、九条の宿屋の一室で勝少年は思案をした。

 「そうだ。蚤取粉を売ろう。夏は暑いから蟲も出るぢゃろ。」

 辛苦の中にも、楽天の気性を残してゐた少年は、人々の勧めに従って神戸に行くことにした。

 神戸の南京虫が、先生を神戸へ引き付けたと考えると、一抹の諧謔を覚えるではないか。善良なる精神に恵まれた勝少年だが、幸か不幸か、商才に欠けていた。蚤取粉屋から鯛焼屋に、ドラ焼屋に、更にマッチ貼りに、丸い額に思案の苦皺を浮かばせての奮闘生活が始まった。さうした間に故郷から家族を迎えねばならなかった。

 神戸新川貧民窟での丸半ヶ年間の木賃宿生活を引払って勝少年は三町程北の八雲通りの二階を借りることにした。己を加へて母子五人の血の滲む生活が之から始まるのであった。

 働き手は彼独りだ。東亜エナメルへ就職した時一日の日給十二銭を戴いたが、十二銭の銅銭を持って帰る彼の心は重く沈んでゐた。母は腎臓で寝たり起きたりだ。弟は三人あっても皆頑是ない。疲れた四肢を鞭打って夜業に出なければならなかった。

 武内先生は涙ぐんで語られるのである。

 「時世が変わったもんですね、あの頃は膏薬を売りに行くのに袴をわざわざ着けて提灯を持ったものです。鞄の中に膏薬を詰めて小路から小路を廻って、「ハー膏薬」と唸って歩いたものです。その唸り声が中々思ふ様に出来ませんのでね。人の居らないところで小声で稽古したもんですよ。恥しかったから――実際往生しましたよ。通行人から「こら新米」と言って冷やかされたり、「もっとはっきり言え、膏薬なら膏薬と」と怒鳴られたり、いや目も当てられませんでしたよ。」

 五十枚売る為に、少年はどれ程苦労したか。幾度星を見上げて泣いたことか。五十枚売って終ってやっと二十銭の利だった。売れても売れなくとも帰る道すがら、彼は彼自身に課せられた労苦に泣いて行った。

 帰宅すれば三つになる弟が食物をねだる。母の看病はしなければならず、薬代を差引いた僅かの金で食うべき運命にある一家族は、お粥と芋で一日を済ます時が幾度もあった。

 「三つの弟に食べさせるものが何も無い時は、貧乏の辛さを泌々と感じましたよ。近所の中学生の通行姿を見ては電柱の蔭で人知れない涙を流しましたよ。何しろ三百六十五日の間休みの日が一日もありませんでしたのでね。」

 かかる苦労を経た人が現在同じ時世に生きて、熱烈な信仰を以って生活と苦闘して行ってゐられる事実を、若き人々は忘れてはならないのである。寔に活ける証明である。失望に沈み易い弱き魂を叱咤する活ける証明である。武内先生の行路には、如何なる時にも奮闘の二字が流れてゐる。涙の生活の連続の中から立ち上がって生きるだけ生きて往かうとの不断の克己の記録であった。かかる生活の間に在っても些かの歪曲を霊魂に齎さないで、純に眞に純に次の生活を開拓されたことは驚嘆の他はない。

 現在でもさうであるが、先生と対座してゐると、絶望するな、必ず道は拓かれるとの励ましを受ける気がしてならない。恐らくそれは先生自身の苦闘とその勝利の結晶が、先生の心魂に宿ってゐて、弱い魂を無意識の中に鞭打って下さるからであらう。
 
 勝少年は独立の生活に憧憬れる様になった。或る日の事、工場主の前に出て素直に所志を披瀝した。

 「貝ボタンを自宅でやらうと思ふんです。少しでも生活の為に考えなければなりませんので」

 生活の問題を考えるべく宿命づけられた少年は真情を吐露して今後の方針を主人に話した。

 主人は泣いて引留め様とした。

 「お前に去られることはわしは子供に死に別れる思ひがする」

 主人の涙は止まらなかった。それに引き連れて少年勝も哀別の悲しみに沈んで行った。然し意志の強い此の少年は自ら発見した指針の下に生活を始めるべく工場の門を出た。

 勝少年は独特の計画に従って自宅を工場にした。必要な機械を揃へて先ず自分一人から貝ボタンの製造に着手して行った。

 先生の回想の物語を聞かう。

 「仕事って面白いものです。時計を傍に置きましてね。針が動くに連れて、歌を唄ひながらボタンを作るんですよ。どうしても一時間に二百個こしらえる積もりですと必ず出来ますが、時計なしですとつい能率が上がりませんね。つまり十五分間に五十個作るわけです。朝早うから夜遅うまで働きまして、二千個はきっと製造しましたよ。仕事って一生懸命やれば面白いもんですね。」

 機械も一台より二台へ、更にもう一台と言う様に追加された。従って自分一人では手が廻らないので雇わねばならなかった。勝少年は十七歳にして遂に二十名の雇用者を持つ親方となった訳だった。

 「それから賀川先生が、私の父の依頼に応じて、私の宅へ聖書講義に来て下さいましてね。私は耶蘇教を信ずる様になって現在に立ち至りました。それからべったり此のイエス団に来る様になりました。」

 武内先生は温顔を更に綻ばせてニッコリとせられた。

 武内先生の青春はかくして一回の失敗も無くして過ごされて行った。信仰を杷持してからの先生の活動は世間周知である。キリストの為に如何に十字架に架からんかが先生の全部であった。そして先生は賀川先生を唯一の師と仰いで尊敬してゐられる。

 父の御神よ
 我が世の旅路
 楽しかれとは
 祈りまつらじ
 負へる荷をさへ
 とりてとは
 いのりまつらじ

 三百六十一番のこの賛美歌は、武内先生の為に作られた様なものである。

 マーテルリンクは「蜂は暗黒裡に働き思想は沈黙裡に働き、徳は秘密裡に働く」と教へて呉れてゐるが、武内先生の今日の盛望こそ、徳は秘密裡に働くとの彼の言葉を雄弁に物語るものである。

 然し、先生自身は常に己の弱さと己の不徳とを人に訴へてゐられる。賛美歌が公衆に唱はれる最中、感極まってソーッと瞼にハンカチを当ててゐられる姿を見る時、此処にこそ弱きが故に我強しとのポーロの不滅の言葉を身を以って実証してくれてゐる活ける人間のあることを泌々と感ぜさせられる次第である。

 涙の人である先生の祈りは又いつも涙に依って始められ涙に依って終わるのである。眼を真っ赤にして涙痕の跡鮮やかな両瞼に白いハンカチを押し当ててゐられる姿は、私の大きい霊的魅力であった。

 パピニは言ってゐるではないか。

 「聖者にして、自らを聖しと思ふもの無し」とロダンは、バーナードショーの姿を三十分間に作り上げて、ショウの特徴を遺憾なく刻んだと言うが、先生のこの内部に悲しみを秘めて外に出さず、弱き己の中から常に新しい世界を創造して往く。貴いこの至愛の結晶の五尺二寸余の姿をロダンの前に三十分でもいいから置かせてゐただきたいものだ。否ロダンを武内先生の前に立たしたい。

 ロダンは言ふだろう。

 「武内勝氏の姿を刻む前には聖書のキリストの十字架に架かる條りを全部読んでかかりたい。勝氏の霊魂の立体化は、十字架への信仰なくして如何なる彫刻家も為し得ない」と。

 兎に角、先生はまだ生きてゐられる。心強いことではないか。嬉しいことではないか。諸君よ、共に欣ばう。我々の同志はまだ健在だ。そして我々自身が人生途上に逢ふ如何なる患苦も、それを共に悩み苦しんでくれる最も純粋の人がゐるのだ。否、遠方の人はよし武内先生の姿に触れることが出来なくとも、かかる人が日本の同じ土の上に今活き今生存してゐることを信じて、我々は励まされて共に元気よく立ち上がろう。

 その意味に於いて先生の姿は言葉なき激励の詩人である。(了)

     *      *      *      *

 「中村竹次郎」と言う方については、名前さえ知らなかったが、「雲の柱」昭和14年2月号を見ると、「武庫川の畔にて」という欄に、賀川豊彦が中村竹次郎氏について短く記していて、彼は「二代目クリスチャンで、帝大卒の同志」であるこという。

 何れ今後、この方に就いてもいくらか知る事が出来るはずである。

 (2009年8月24日鳥飼記す。2014年2月28日補記)


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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(43)

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   賀川の証言:キリストと「涙」と私の問答 

 前回では戦時下、東京における空爆の下で、神戸の武内勝に宛てた賀川の見舞い状を取り上げた。

 ここではその「追記」として、賀川の傑作のひとつ「小説キリスト」(昭和13年、改造社)を原作に、山路英世が戦後昭和22(1947)年に脚色して完成出版させた「戯曲キリスト」(新日本)の冒頭において、賀川が書き残した重要な証言があるので、紹介しておきたい。

戯曲キリスト


 これは1947年5月21日の日付のものであるが、いまでは余り人々の眼に留められていないものかも知れないので、戦時下と敗戦時の賀川の「魂の内側」を見る言葉としていま、心に留めておくのも意義深いものと思われる。
以下はその一部である。

       *     *     *     *


             キリストと「涙」と私の問答

「盲目の日本の指導者、私は監房に閉じ込められて、日本の落ちて行く将来が心配になる。」
私がそう言って、独言を言っていると、目頭の涙が小さい声でささやいた。

「実際、日本はだめですよ。すべてに行きつまっている日本に希望なんて持てるもんですか。今に見ていてごらんなさい。日本全体が涙の洪水にしたる時がありますから。」
 涙が恐ろしい預言をするので、私は身ぶるいした。私は二昼夜、東京渋谷憲兵隊の独房に端座したまま、横にならずに黙祷をつづけていた。するとキリストが、魂の内側から姿を現わして、私の肉体を占領し、肉体の内側から、皮ばかりになっている、私と涙に呼びかけた。

キリスト「私はあなたの霊の内側に住んでいるキリストです。あなたは救いを外側に求めてはなりません。あなたが尋ねない先に私はあなたを尋ね、あなたが愛さないうちに私はあなたを愛しています。私はあなたを誤解のうちに守り、ゴロツキの襲撃に対しても、常に保護し、悪漢のピストル、貧民窟のだらく、無知な軍閥から守って来て上げたキリストです。あなたは外側の奇跡を信じてはなりません。私は永遠のキリストです。病をいやし、罪人をなぐさめ、亡びた国を興し、叛ける放蕩息子を母の許にかえす愛の力そのものです。」

 その澄み切った声に、私は股の間に突っ込んでいた首をちぢめ、1900年前、十字架の上に死んだキリストが永遠に人間の悩みを負う強き霊力である事を発見した。御光は私のうちに住むキリストよりさし出て、抜けがらのようになった私の皮を貫いて、憲兵隊の監房を照らした。それは私に取っては生死を超越した絶対なる信仰である。神の救いの力を経験した、有難い瞬間であった。

 内側に住んでいてくれるキリストは、真昼でも真夜中でも私の行くところは何処にでも付いて行ってくれる。それで私は如何なる困難にも、如何なる強迫にも、大胆不敵なる行動を取ることに決定した。キリストが内側に住んでいるのだ。そう思う瞬間、歴史上のキリストは現実のキリストである。晴れに、くもりに、時雨に、暴風雨に私は少しも恐れる必要がない。

 1945年3月9日以後、東京は火の海と化した。その火の海の中にも私は内側に住み給うキリストを信頼して疎開することを肯じなかった。私は火の海の中に取り残された最後の悩める者の中に、十字架の愛をたてねばならぬと決心した。

 火の雨が天から降って来た。私の隣保館も皆燃えてしまった。私の軒先にも数十尺の火柱が立った。私は火の雨をさけるために逃げ廻った。然し私は太陽が出ると、また悩めるものを尋ねて徒歩で数里の道を往復した。栄養失調はつづいた。体重の四分の一を失った。然し私は内側に住み給うキリストを信頼して、少しも不安は持たなかった。

 キリストと共に十字架に死ぬのだ。そしてキリストともに墓から甦るのだ! そんなことを言いつつ、杖にすがりつつもキリストと歩む道をふむことを決心して悩める者を探して歩いた。

 1945年8月15日、日本は完全に敗退した。終戦後、私は暗殺する者があると言うので、私が栃木県の森の中に隠れた瞬間にも、又キリストは付いて来てくれた。

 キリストはいつも魂の内側から呼びかけていてくれる。キリストの眼は私の眼の内側から見、キリストの口は私の口の内側から、そしてキリストの耳は私の耳の内側から聞いていてくれる。キリストは内側に住んでいてくれる。そして私に限らず、愛の餓えている者に取っては、キリストは必ず、内側から魂の扉を開いて入っていてくれる。ただ魂の扉を開かぬものに取っては、いくら入りたくても、キリストは入って来られない。

 暴風に、疾風に、滅亡に、インフレーションに、人生の波頭がどんなに高くてもキリストは私の魂の内側から必ず守っていてくれる。そしてキリストはまた、凡ての日本人を祝せんが為に今日も涙を流して我等の為に祈っていてくれる(以下略)。(1~3頁)

     *      *      *      *

 「涙」と私とキリストと、豊彦らしい「対話」風の詩的な表現で、彼の見たこと、活かされて来た事実を、このように書き刻んだ。

 山路英世が脚色した「戯曲キリスト」(新日本、1947年、335頁)は、賀川豊彦の「小説 キリスト」(改造社、昭和13年、551頁)を原作としてなったものである。

小説キリスト


 今も注目を浴び続ける「小説 キリスト」は、最近(2014年)ふたつ、手に取って読むことができるようになった。
 一つは国際平和協会並びに賀川記念館において刊行案内が公開され(「Think Kagawa」2014年2月8日付のサイト参照)、もう一つは限定復刻版として松沢資料館の企画があります。参照のうえ、御一読あれ!

   (2009年8月21日鳥飼記す。2014年2月27日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(42)

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   大きな焼夷爆弾が私の家の軒先に  

 先に何度か、賀川が中国の旅先から武内勝に宛てて送った絵葉書など紹介した。豊彦にとって戦時下の年の旅は、戦後いちども出向く事がなかった中国の「最後の旅」となった。

 昭和20年2月5日に賀川は中国から戻り、東京において3月10日のあの「東京大空襲」で絶大な戦災を受けるなか、「戦時救済委員長」の任を引き受けて戦災者の救援にあたった。

 東京の空爆は4月13・15日、更に5月26日と立て続けに襲い、多くのいのちを失うのであるが、賀川は4月には厚生省の「健民局事務取扱」を委嘱され、6月に「戦災援護」の参与としても働いていた。

 この戦時下の賀川豊彦とハルの日記や雑誌・著作などでの記録がどれほど残されているのかわからないが、横山春一氏の「賀川豊彦伝」(昭和34年、警醒社版)には、このころの事の短い記述がある。それによれば、

 「賀川が多年物心の両面から力をそそいできた神戸イエス団、大阪の四貫島セツルメント、生野聖浄会館、東京の本所基督教産業青年会、江東消費組合は、建物がみんな灰塵に帰し、人も死んだ。
 日本の70余の都会はやけ、二百数十万個の家屋と一千万の同胞が、住宅と衣類と仕事場を失ってしまった。戦災孤児は巷にあふれた。賀川は、教団をうごかして、戦時生活活動委員会を組織し、戦災孤児、戦時伝染病の救護に乗り出し、食糧増産、純潔運動、親切運動などの指導にあたった。」(408頁)

 関係年表でも、わずかに「8月 賀川関係の社会事業施設の殆どを、空襲爆撃で焼失」と書かれているが、「建物がみんな灰塵に帰し、人も死んだ」とされる被災状況のいちいちについては、それぞれの場所で、写真其の他、忘れることの出来ない記録が残されている筈である。

      *     *     *      *

 今回取り上げる葉書は、神戸・西宮・大阪方面の爆撃で、神戸在住(?)の芝八重子氏の消息と吉田・金田両氏の施設の被害を案じ、賀川の働く東京の実情を報告する内容である。


賀川焼夷弾


 本文に日付はなく、消印を見ても20年8月とも読めなくはないが判然としない。

   差出 東京都世田谷区上北澤2丁目603
   宛先 兵庫県西宮市北口高木町南芝781 一麦寮 武内勝様

   戦局苛烈極むる際益々御奮闘の断うれしく存じ上
   ます。此度の爆撃で八重子が家を失ったでは無いないかと心配いたし
   て居ります。旅行困難につき何卒よろしく御援護御願い申上げます
   また大阪北港、今津、吉田源治郎氏、金田氏の施設は如何になりま
   したか? 心配致して居ります。私は一生懸命努力いたして居り
   ます。五十キロの大きな焼夷爆弾が、私の家の軒先に落ち
   ましたが、幸いに消し止め無事なことを得ました。然し、大崎治郎
   氏、小川清澄氏、その他教会員も多く家を焼失しました。私の
   家及び幼稚園には十数家族が這入っています。千代子の医学校
   は長野県白田に疎開しますので、千代子はその方に参ります。
   保険につき色々心配下され感謝申し上ます。東京では濠生活がめっき
   り植えました。御努力を祈りつつ     カガワトヨヒコ

      *     *     *     *


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 今年(2009年)3月から神戸文学館において「空襲と文学」展が開催された。現在も8月末までPartⅡとして好評開催中である。添付の写真は、昭和20年3月17日の神戸空襲で、元居留地と税関方面が延焼しているものである。神戸でもこの年1月から128回もの空襲を受け、葺合新川を含めて焼け野原となったが、もうひとつの活動拠点である長田の番町は、焼夷弾の火を住民がひとつひとつ消し止め焼失を免れた。

その後のブログUPの過程で、武内勝氏の所蔵資料に加えて吉田源治郎氏関連の諸資料によって、戦時下の様子などもいくらか明らかになってきた。

    (2009年8月20日鳥飼記す。2014年2月26日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(41)

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   戦時下、賀川純基・玉井道子結婚式御礼状  

 今回取り出す一通の葉書は、未使用の印刷葉書の上に筆書きをして活用した、珍しいものである。しかも未使用のこの印刷葉書は、ナント賀川豊彦と玉井太郎両名からの、賀川の長男・賀川純基と玉井道子の結婚式の御礼状である。


戦時下結婚案内


 礼状の日付は「昭和19年8月20日」となっているので、筆書きの方には日付はなく消印も剥がされているので正確にはわからないが、文面にある「5月13日」は、翌年敗戦の年(昭和20年)「5月13日」であろう。

     *      *      *       *

   差出 東京都世田谷区上北澤2丁目6の3
   宛先 兵庫県西宮市北口高木町南芝 一麦保育園 武内勝様

      謹啓 来る五月十三日(日)には神戸
      イエス団の礼拝に出席致す予定に致し
      て居りますから左様に承知下され度存じます
      何卒電話にて吉田源治郎氏 三浦清一
      氏にも御知らせ願い度願い上げます。目下論文
      執筆中の外厚生省をも応援して居
      りますので忙しく致しております。然し二三日
      は滞在する予定に致しております。
      愛隣館のことも相談したいと存じます。

      *     *     *     *

 ところで、上記の筆書きの下の隠れた文字はどうにか読み取れる活字印刷の「結婚式御礼状」の文面は、次のようになっている。

      謹啓 決戦下邦家の為益々御盡瘁の事と奉存候陳者
        賀 川 純 基
        玉 井 道 子 
      右両人今春来徳義憲牧師御夫妻のご媒酌により婚約
      中の處八月五日午後四時東京都世田谷区上北澤三
      丁目日本基督教団松沢教会に於て小川渙三牧師司式
      の下に結婚式挙行致候間此段御通知申上候年来の御
      厚情を感謝し向後一層御鞭撻の程御願申上候 敬具
       昭和十九年八月二十日
                   賀 川 豊 彦
                   玉 井 太 郎
 
       *     *     *     *

 この時「結婚家庭」をスタートされたご夫妻は、ともにその御生涯を全うしておられるが、ご子息の賀川督明氏はいま、持ち前の非凡な才覚を活かして、「賀川献身100年プロジェクト」の重要な推進役のお一人として活躍中である。

 前回は「徳憲義牧師」についてお尋ねしたが、早速ここに純基・道子ご両人の「媒酌人」として登場している。この頃、徳牧師は東京方面で働いておられたのであろうか。

 この御礼状を見ていると、結婚家庭を築いた当事者たちではなく、両家の戸主の名で差し出されているのも、今では驚きではある。当時の常識ではあったのであるが。

  (2009年8月19日鳥飼記す。2014年2月25日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(40)

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    戦時下、賀川最後の中国の旅     

 昭和18年11月以降、賀川は特高の監視下にあって、香川県豊島に渡り、そこで暫らく著作と農作業などにあたっていたことを、「戦時下の賀川・豊島で稲こぎ手伝い」として取り上げ、続いて翌昭和19年9月26日付けの書簡を「三浦清一牧師と啄木の妹・光子「神戸愛隣館」に」として紹介した。

 ところで、この26日付け書簡の末尾に、賀川は「私は十月七日頃西下する予定に致して居ります」と記していた。
 横山の「賀川豊彦伝」の「年表」には「昭和19年10月20日 中国に宗教使節として赴き、中国にて越年す。昭和20年2月5日 中国より帰国」とあり、「人物書誌大系:賀川豊彦Ⅱ」の「年表」には「10月20日 中国・中華基督教連盟の招待で、宗教使節として出発。11月4日 親友内山完造邸に滞在し、上海市内各教会を巡回講演」とある。
 
     *      *      *      *

 とすれば、今回取り出す2通の封書と葉書は、この時のものであることが分かる。
 
 「封書」1枚は、中国に出帆前のもの。
 差出 下関市田中町1006 河村方 賀川豊彦
 宛先 兵庫県武庫郡西宮市北口高木町南芝871 一麦保育園 武内勝
 消印 昭和19年10月22日

賀川の手紙


   冠省
    明日 朝鮮経由 上海 華中基督教連盟主催
    大会及練成会に出席することになりました。
    松山常次郎氏と同行であります。御祈り下さい。
    外の方々に申し上げませぬから、芝八重、三浦先生
    その他 イエス団の同志、徳牧師等にご通知お願
    申し上げます。お願いまで。
     二六〇四・一〇・二二
      主にありて 下関にて                         
                      賀川豊彦 
    二伸、愛隣館は当分の間、多少金が多く
    入りませうが、東京より支出しますから、
    よろしく御取り計い願上げます。斉木氏にもよろしく。


 一方「葉書」の方は、日本基督教連盟発行の「神もし我らの味方ならば誰か我らに敵せんや」(新約聖書ロマ書8の31)のことばとらくだの絵の入ったもので、「中華民国郵政」「北華」の切手が貼られているが、消印は読み取れない。

賀川のハガキ本文


  差出 北京 北池子 駿河桜39 日本基督青年会 賀川豊彦
  宛先 大日本 兵庫県西宮市北口 高木町南芝 一麦保育園 武内勝様

    謹賀新年
    昨年は色々お世話
    になりました。本年もよろ
    しくお願い申し上げます。
    クリスマス献金を三千円
    近く天津より御送付申し上
    げました。神戸イエス団宛
    でした。電報留替でした。
    「三井」の借金をあれで支払
    ひ、一部分は貴君の愛隣
    館への立替に御支払ひ下
    さい。

    三浦清一氏を是非 上海の新教会に迎へ
    たいとのことですから、愛隣館のあとつぎを
    御心配願ひます。私は二月上旬には一旦帰国いたし
    ます。華人が是非来てくれとせがみます。毎日忙
    しくして閉口しています。之も神ノ国運動として
    既に二ヵ月間に百数十回講演しました。物価が高
    いので、一寸車に十丁乗っても十数円取られ
    ます。インフレと云うものは妙なものです。
    此のハガキも列車中で書いています。それほど忙し
    いのです。一麦寮の二階の原稿をそのままにして
    来ましたが、大切に保存するよう埴生姉に
    ご依頼願います。一月三日より蒙古に向ひます。
    主において栄光を願いつつ
                     賀川豊彦

    *       *       *       *

 敗戦間際のこの中国訪問は、賀川にとって昭和2年暮れから始めた国内外の「百万人救霊運動」「神の国運動」の最後の旅となった。
 賀川は戦後、一度もこの国を訪ねることはなかった。

 この書簡の中に「三浦清一氏を上海の新教会に迎えたいとのことですから愛隣館のあとつぎを、御心配願ひます」とある。賀川は、三浦清一一家のよき働き場所を探していたと思われるが、しかしこれは前回ふれたように、三浦はこの招きには応じず、神戸愛隣館での働きを担うのである。

 また、このときハルの妹・芝八重は、イエス団の医師として働いていたことが分かるが、「イエス団の同志、徳牧師等」とあるこの「徳憲義牧師」は、米国からいつ帰国してイエス団の牧師として活動をされていたのだろうか。

 「徳牧師」は、この「お宝発見」第6回目で確かめた「賀川夫妻壮行写真」に収まっていた関西学院神学部の学生のひとりであり、渡米して後は度々イエス団の活動に金品を送り届けていた人である。また同氏の詩集「愛は甦る」(昭和4年)や「生命のあゆみ」(論集)「愛の本質」(論文)が新生堂から出ていることは、すでに紹介した事がある。「徳牧師」について何かご存知の方があれば、何でもご教示いただければ有難い。

 
 追記 
 その後、徳憲義牧師についてはいくらか明らかになってきた。いずれ学びなおしてみたい御方である。ここには、『愛しつつ祈りつつー故徳憲義記念」にある「略歴」のみを記して置く。


 明治25・3・16 鹿児島奄美郡徳の島にて誕生
   明治45・3    沖繩中学卒業
   大正 2・4    関西学院神学部本科入学
   大正 7・3    右卒業
   大正 7・4    神戸イエスキリスト教会副牧師に就任
   大正 8・9    日本メソヂスト高松教会牧師に就任
   大正12・     波米
   大正14・     プリンストン大学神学部入学
   昭和 2・5    右卒業
   昭和 2・5    ロスアンゼルス日本人合同教会牧師に就任
   昭和19・3    日本メソヂスト神戸平野教会牧師に就任
   昭和22・7    日本基督教団巡回教師就任
   昭和24・11   広島女学院にて講演中 脳溢血にて倒る
   昭和25・12   日本基督教団下落合教会創立と同時に牧師就任
   昭和35・3・27 牛前5時15分 永眠 69才


 「封書」末尾に賀川は「2604」という「皇紀」の年号になっている。賀川の書簡にはまことに珍しく、これは「皇紀2600年」(昭和15年)の名残なのか、どれほど当時一般的であったのか。因みに私はこの年に生まれたのであるが。
  (2009年8月16日鳥飼記す。2014年2月24日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(39)

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  三浦清一牧師と啄木の妹・光子「神戸愛隣館」に 
 
 先年、藤坂信子さんの労作「羊の闘い―三浦清一牧師とその時代」(熊日出版、2005年)が話題を呼んだ。日米混血の牧師と石川啄木の妹・光子の激動の時代を生き抜いた貴重な記録である。

 三浦は大正10年、26歳の時、はじめて神戸新川を訪ねて以来、賀川との交流は続き、昭和16年12月、三浦は治安維持法違反の疑いで逮捕され、半年余り獄中にあった。三浦は昭和17年12月、家族を伴って上京し、賀川の元に身を寄せる。

 同書に依れば、「昭和19年11月、東京に戒厳令が敷かれるというので、ブラックリストに載せられていた清一を賀川がきづかって、関西へ逃げろと勧めた。そこで家族を東京に残し、ひとまず単身で、賀川が神戸に持っていた免囚保護施設の愛隣館へと向った。免囚保護施設とは、窃盗をした少女や空き巣ねらいの常習犯などの非行少女を預かっている施設である。清一は愛隣館の館長に就任した、光子は東京の家の整理をし、翌年の3月10日、東京大空襲のなかをリュックを背負って関西へたった。」(212頁)という。

 光子は、寸断された列車を乗り継いで神戸にたどり着いたのが、4月13日で、啄木の命日であった。

           *      *      *      *

 さて、賀川の武内に宛てた書簡のうちで、三浦一家が「神戸愛隣館」に就任することに触れたものが2通残されているが、ここではその一つを取り出しておく。


武内手紙一枚目


 封書の速達便で4枚の筆書き。
 差出は、東京市世田谷区上北沢町2丁目603番地 賀川豊彦
 宛先は、兵庫県西宮市北口高木町南芝871 一麦保育園 武内勝様
 差出日、昭和19年9月26日

       謹啓
       先日中は色々お世話に相成
       御礼申し上げます。帰京後
       早速三浦清一氏に相談致し
       ましたところ一晩祈って考られ
       し上神戸愛隣館を引受
       けて下さる決心を付けられました。
       月給は「百二十円」と申し上げました。
       不足の分は私方の「雲柱社」で
       補給いたしませう。三浦氏は各
       方面の講演を引受けていられるので
       十月八日以後でなければ自由になれ
       無い由、しかしその前に一寸見に
       行くと云われています。それで愛隣
       館の平野氏夫妻、佐伯照代姉、吉田
       君にもお伝え下さい。だが此度は一人で
       西下せられ、夫人と令息は私方の
       教会に当分の中残留せられます。
       右ご通知まで。
       ご夫人にもよろしくお伝え願上げます。

       尚、佐伯照代姉は今後とも是非
       愛隣館に手伝って頂きたく存じ
       ますから、その由お伝え下さい。
       私は十月七日頃西下する予定に
       致して居ります。
        九月廿六日 
                    賀川豊彦  
        武内 勝様

    *       *       *       *

 神戸愛隣館は明治31年、篤志家・村松浅四郎が生田区(現・中央区)内に設立した「出獄者更正施設」がルーツ。外国婦人から1万円の寄付があり、明治39年、兵庫区楠谷町に木造2階建ての建物が新築された。収容者は年間650人、相談・指導は千数百人を数え、米国のミッションの教師たちが協力した。添付の写真は「大正期の神戸愛隣館」である。

 村松は昭和9年に賀川豊彦に事業の継承を頼み、賀川からさらに三浦夫妻に託された。戦後は児童福祉法に基づく養護施設として再出発した。

 三浦は戦後、灘購買組合文化部の聖書研究会のメンバーを中心に日本基督教団「観音林伝道所」(現・東神戸教会)を設立して牧師に就任。昭和26年には兵庫県会議員に当選して2期つとめ、昭和37年に67歳で没し、光子があとを継いだ。

 光子は、夫を看取った後、愛隣館にこもり、「兄啄木の思い出」(理論社、昭和40年)を書き上げ、3年後に生涯をとじた。そして「神戸愛隣館」も光子の死後数年で閉鎖された。


三浦新聞記事写真


 (この部分は木村勲氏の「朝日新聞」1996年1月7日付け「風景ゆめうつつ」17を参考にした。)

  *       *       *       *

 三浦清一には、数冊の著作があるが、晩年61歳で処女詩集「ただ一人立つ人間」(的場書房、1956年)を出版、翌年最期の好著となった「世界は愛に餓えている―賀川豊彦の詩と思想」を同書房より刊行している。

 これには、晩年の賀川と三浦の顔写真が巻頭に収められている。貴重な写真であるので、ここに記録として添付させていただく。


三浦お顔

賀川の写真


 三浦のこの最後の作品は、冒頭に見事なエッセイ「賀川豊彦は詩人である」を収め、賀川の詩集「涙の二等分」「永遠の乳房」「天空と国土を縫合せて」3冊を取り上げ、詩人・三浦清一ならではの「詩評」を展開する。そして終わりには、賀川の代表作のひとつ「愛の科学」への独自の読解を行っている。

 そして「巻末に」として、当時兵庫県知事であった畏友「阪本勝」が、二人の詩人・賀川と三浦をうたう、阪本らしい美しい「跋」を書き残している。

 三浦の「序」の中から、少し取り出しておく。

 「賀川に師事して三十年、私は彼から多くのものを得たが、最も大いなる影響を与えられたのは、「詩」に対する観劇と、「社会」に対する深い関心とであった。

 この小著は、その大部分は、太平洋戦争たけなわの日に筆を執ったものである。その時私の心は闇く、前途に希望を見出すことは困難であった。ややもすれば、魂の祭壇の上にかかげた灯火は、吹き消されそうであった。しかし賀川の詩の中に深く沈潜し、そこに堪えられている「いのち」に触れたとき、もう一度私にも「強く生きよう」というひとすじの光が射し込んで来た。その感激がこの小さな仕事となったのである。

 鉄窓生活七百日、キリスト教会に捨てられ、多くの友人に捨てられ、米塩の資得るに術なく、妻をかかえ児を擁して、まったく前途の光明を失ったとき、わがために家をそなえ、わがために読書の機会を与え、三つの生命をして餓えざらしめた賀川豊彦の愛情を思うとき、その深刻なる記念のためにも、なかなか筆を加うることは、わたしの感情がこれを許さなかったのである。」(5~6頁)
 
 追記

 先年、神戸の賀川記念館(ミュージアム)において、三浦清一のまとめた「賀川豊彦随筆集」(仮題)――三浦の解説と賀川豊彦の随筆・小品を独自に編集したものーーの草稿原稿が残されていたことがわかり、拝見する機会があった。賀川豊彦の随筆は膨大な分量になるが、散逸していた小品も数多く蒐集して独自に整理して解説を附した完成稿であるので、公開の待たれる作品である。

    (2009年8月6日鳥飼記す。2014年2月23日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(38)

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   戦時下の賀川「豊島にて稲こぎ手伝い」  

 戦時下の賀川の言動に関しては「特高資料による戦時下のキリスト教運動―昭和11年~19年」全3巻(新教出版社、1972年~73年)や特高資料「兵庫県要視察人ニ関スル情勢調」などで、当時の特高の目からの内偵記録が残されている。

 ここで紹介する戦時下の賀川豊彦が「香川県豊島村」にあって「稲こぎ」の手伝いをする一通の葉書が書かれたときも、賀川は「要視察人」としておかれていた事がわかる。

 例えば、昭和18年3月29日から4月2日まで、豊島村神愛館で開催された「基督教農村福音学校」の動向も内偵され、そこでの「特異発言」などをまとめて「特高月報」に記載されている(前掲特高資料第3巻9~10頁)。

 周知のとおり、この年5月27日の神戸での賀川の講演が「反戦的並びに社会主義的思想である」との理由で、相生橋警察署に一晩留置され、11月3日から9日間、賀川は、WRIメンバーのイシガオサムの徴兵拒否の取調べから、賀川の思想的影響を受けていたとの理由から、東京憲兵隊本部に連日呼び出され尋問されるなどして、特にそれ以降、公的な宗教運動は困難となるのである。

 こうしたなか、豊彦は、彼にとってすでに「夢の島」であった瀬戸内の島「豊島」に渡り、著作に励み、「稲こぎ」の手伝いをするなどするのである。

    *      *      *      *

 賀川は、1938(昭和13)年以来、豊島の「神子(みこ)ヶ浜」に、結核患者の保養農園をつくり、立体農業の実験場にも整えるべく、夢を膨らませてきた場所であった。

 そしてこの場所は、昭和15年8月25日、東京松沢教会で「エレミヤ哀歌に学ぶ」と題する説教を終えると同時に、反戦運動の嫌疑で渋谷憲兵隊に検束され、9月13日まで留置、10月から「隠遁」して著述活動に専念した場所としても、広く知られているところである。昭和15年10月4日付けで「瀬戸内海豊島にて」の「序」のある「日本協同組合保険論」(有光社)を仕上げている。

 あの時は、大正11年1月に創刊した機関誌「雲の柱」が発行停止処分となり「廃刊」に追いこまれた時でもある。

    *       *       *       *

 さて、今回発見された豊彦の書いた葉書の差出は、「香川県小豆郡豊島村家ノ浦 神子浜 賀川豊彦」であり、本文には日付はないが、葉書の消印「18・11・24」が残っていて、投函された日は「昭和18年11月24日」であることがわかる。

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宛先は「兵庫県武庫郡西宮市北口高木町南芝 一麦保育園 武内勝様」となっている。文面は、次の通り。

    前略 来る十一月廿八日(日)にはイエス団の
    朝の礼拝に出席いたす予定にいたして
    居ります。 私は十一月廿六日 神戸に向い
    ます。豊島に来て「稲こぎ」を毎日手伝って居
    ります。人手が少ないので広本さん作(?)さん
    も大変です。肥料が無いのと、作が悪いので、一反に
    六、七斗しか取れないのが残念です。宇都宮使徒
    君のため祈っています。 
                       賀川豊彦
 

    *       *       *       *

 昭和18年に出版された賀川の第3詩集「天空と国土を縫合わせて」(日独書院。表紙絵は賀川の作品)の中に、「瀬戸内海豊島保養農園」で作業をする2枚の写真が収められている。1枚は「山羊小舎壁下地作業に従事する著者」、もう1枚は「雑草刈の著者」と付されている。「稲こぎ」の写真ではないが、豊彦が麦藁帽子をかぶって雑草刈りの作業をする写真を添付しておく。

賀川の稲刈り


 文面にある「広本さん」は「広本久代さん」(1884~1963)、賀川の「天使の日記」のモデルにもされ、「現代のマグダラのマリヤ」と称されたとか。広本さんは、豊島では「耶蘇のヒモちゃん」の愛称で親しまれ、「香川豊島教会」の建設に大きく貢献した、ともいわれる。詳しくは、前に紹介した緒方彰「生命の水みち溢れて」(215~218頁参照)。
 
    *       *      *      *

 なお、昭和4年の「聖浄と歓喜」(日曜世界社)の改訂版「復活の福音」(同社)が昭和17年に出版されているが、その「序」を見ると「昭和十七年二月二十日」「瀬戸内海・豊島にて」とある。
 賀川のこの「序」には、次のことばがある。

 「死」を代償として支払わなければ、復活は無いのだ! 小さい自分が死ぬことによって、神の子の意識を着ることが出来るのだ! 死は成長の為めに支払われる脱皮だ!
        

 追記
 「広本久代さん」が設立の貢献したといわれる「香川豊島教会」の牧師として働いた小国清子が「豊島に賀川資料館を構想」という「山陽新聞」の記事の紹介を、先日(2009・7・29)の伴武澄氏のサイト「Think Kagawa」で行われていた。これも嬉しいつながりである。ご覧あれ!

  
 2009-07-29
        小国清子牧師が豊島に賀川資料館を構想

 7月29日付山陽新聞第2社会面右肩に以下の記事が掲載された。地方紙としては、この1年、神戸新聞、徳島新聞、中日新聞、岩手日報に賀川献身100年関連で記事が掲載されたが、それに続く地方紙掲載記事である。執筆した池本記者は編集委員で、豊島での賀川の活動を取材したことがきっかけとなって、賀川豊彦の全体像に迫ろうとしている。今後の山陽新聞に期待したい。(伴 武澄)
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 100年前に日本を覆っていた貧困に立ち向かい、世界的に「聖者」とたたえられた牧師・社会運動家賀川豊彦(1888~1960年)が香川県土庄町豊島に残した足跡を後世に伝えようと、賀川から引き継いだ教会を守る女性牧師が、所有する民家を提供し、資料館開設の構想を温めている。
 結核を患っていた賀川は、知人から療養適地として豊島を紹介され、1939(昭和14)年にサナトリウムを建設した。太平洋戦争勃発後は豊島で事実上の軟禁生活を送った。
 戦後の47年に日本基督教団(プロテスタント)が香川豊島教会を設立。現在の小国清子牧師(87)は58年、賀川から「豊島を頼みます」と言葉をかけられ、赴任したという。
 島内の神子ケ浜地区には、賀川が起居し、教会とサナトリウムが併設されていた「ウェスレー館」が残るが、激しく傷み、屋根や床が抜け落ちようとしている。賀川と同志は唐櫃(からと)地区に「農民福音学校・立体農業研究所」を開き、理想の農業を追求したが、今は跡地に記念碑が立つのみ。
 小国牧師は賀川ゆかりの場が時の流れに埋もれ、感化を受けた島民も減ってゆく状況に心を痛めていた。家浦地区にある現教会の隣に住む女性が島外の施設に入所し、居宅の買い取りを懇願されたのをきっかけに、賀川資料館としての活用を考え始めた。
 木造2階80平方?ほどの普通の民家だが、かつてのウェスレー館周辺の写真パネルなどを展示し、著書や書簡なども閲覧できるようにしたいという。
農民福音学校講師の子孫や卒業生、賀川が創設したイエス団(社会福祉・学校法人)関係者からの資料提供も望んでいる。
 賀川の孫のグラフィックデザイナー賀川督明さん(56)=山梨県都留市=は「豊島には教会のほかにイエス団の施設が3つもあり、『立体農業』を風化させまいという若者たちの動きもある。資料館ができれば大変意義深い」と話す。
 来年10月には、直島福武美術館財団が唐櫃地区に建設中の美術館が開館予定。小国牧師は「美術館を訪れる人にも豊彦先生の足跡を知ってもらいたい。何かを残しておかなければ分からなくなる」と話し、協力者を求めている。
                           (池本正人山陽新聞記者)

          (2009年8月5日鳥飼記す。2014年2月22日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(37)

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    賀川豊彦独特の飾り文字!  

 前回取り出した昭和18年10月5日の「斎木進之助・ミツル結婚式」に係わる、賀川の武内宛の頼みごとを記した書簡の中に、「葺合労働紹介所」の用箋のウラを用いた2枚の、豊彦得意の「飾り文字」(正確には何というのでしょうか「袋文字」というのでしょうか)の書かれたものが入っていた。

 これは多分、賀川の書簡には同封されたものではなく、そのころ賀川が、武内一家も生活の拠点としていた兵庫県西宮市の一麦寮を訪ねたときに、遊び心で書き残したものを、武内が大切にそれをここに差し込んだものではないかと思われる。

    *      *      *      *

君袋文字:


「君が代は千代に八千代にさざれ石巌となりて苔のむすまで」
「武庫 武内邦子 瓦木 勝 村 武内久仁子」


袋文字・瓦


 また、<「之は目ヲ閉ジテカク」??><「之はヨソミシテカク」??>というのもある。

 「君が代」と一麦寮のある「武庫郡瓦木村武内勝」、そして武内夫妻の「三女」(昭和20年の武内日記に「三女」とある)「武内久仁子」(昭和8年4月11日生まれ)。「武内邦子」は・・・

 もうひとつの方は、「目を閉じたり、よそ見したりして書いたもの」であるから、文字なのか絵なのか、いずれも何のことかさっぱり分からない! 

    *      *      *      *

 「新川献身」のはじめのノート「雲の柱 露の生命 千九百拾年 救霊団」の表紙は彼独特の「飾り文字」が見られ、この中の例えばあの「狂ひ」という処女詩集「涙の二等分」に収められた詩の題が、「飾り文字」である。

 また、同じく賀川の初期ノートで、「大正元年十二月十七日 溢恩記」にある詩「涙の二等分」もそうである。


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 また「福音書の現れたるイエスの姿」(別掲)「神との対座」(いずれも警醒社書店、大正14年)の表紙や「人間として見たる使徒パウロ」「神による解放」(いずれも同書店、大正15年)の背文字なども、賀川自筆の「飾り文字」である。


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    (2009年8月4日鳥飼記す。2014年2月21日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(36)

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   斎木進之助・ミツル夫妻の「結婚式」

 「玉手箱」のなかに「賀川原稿用紙」2枚に書かれた賀川豊彦の「速達」書簡があった。

 封筒も「東京市世田谷区上北沢町二丁目六〇三番地 賀川豊彦」と印刷されたもので、宛先は「西宮市北口高木町南芝 一麦保育園 武内勝様」である。

 書簡の末尾には「四月廿八日」とあり、消印をよく見れば「18.4.28」と読み取れるので、昭和18年4月28日に投函されたもののようである。

 内容はといえば、下記の如く、何だか慌しく感じられるもので、武内夫妻に媒酌人を依頼して、結婚式の日取りを決め、至急結婚式の印刷物をつくるよう、武内へ賀川が一方的に依頼する文面となっている。もちろん関係者にはこれで万事了解済みなのであろうけれども。


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    *      *      *      *

  武内勝様侍史

  前略 昨日木立義道氏と相談の結果、武内兄夫妻に媒酌を御依頼し、木立氏か
  深田氏のどちらかが、宮川さんの親代わりになって、神戸に行かれる由であり
  ます。何卒その儀よろしくお願い申し上げます。もしその段取りが悪ければ、
  平野夫妻に媒酌を依頼し至急印刷物を御作り下さい。私は五月八日、福知山、
  九日(日)丹波綾部、十日(月)神戸結婚式に出席いたします。司式は私が
  致します。
  右のように何卒斎木氏に御伝え下さいませ。
  私からも書きます。

    四月廿八日 
                             賀川豊彦


  *      *      *      *

 さてこの簡略な文面からだけでは、どなたの結婚式なのかもわからない。
 しかし末尾に「右のように何卒斎木氏に御伝え下さいませ。私からも書きます」とある。
 これを一読した折、「斎木氏」とは、ひょっとしてあの「斎木進之助」のことで、これは「斎木進之助・ミツル夫妻」の結婚式では?と予感した。

 斎木進之助は、1907(明治40)年、東京生まれ。大正13年に賀川と出会い、木立義道、深田種嗣、牧野仲造らに導かれて、昭和12年とお聞きした覚えがあるが、神戸税関の営繕課で働きつつ、神戸イエス団にあって武内勝らと活動した御方である。

 夫人となるミツルは、東京本所にあってすでにそこで信望厚い働き手であったが、賀川はこの二人の結婚を強く促し、住む場所も賀川と武内によって神戸市長田区四番町の旧家を買い取り、そこを「天隣館」と名づけて、そこを二人の新婚家庭に用意し、昭和18年5月10日に結婚式を挙げた。――というお話は、かつて斎木夫妻から直に、ご自宅において聞かせて頂いたことがある。

 ならば、結婚式の日取りが同じである事から、この書簡は「斎木夫妻の結婚式」の時の慌しい「速達便」ということで間違いはない。

  *      *      *      *

 賀川の神戸における活動拠点は最初の「葺合新川」と共に「長田番町」が早い時期から置かれて来た。大正時代からの馬島僴一家や芝八重などの献身的な働きについては、すでにこの「お宝発見」において少し紹介してきたが、この時結婚式を挙げた斎木夫妻は、戦前昭和18年から戦後昭和38年までの20年にもわたる期間、「番町」のど真ん中に建つ「天隣館」を拠点として働いてこられたことの中身は、これまで殆ど紹介されていないように思われる。

 戦後「天隣館」において、ミツル夫人が中核となり「神戸市立長田保育園」が運営されてきたこと、そこでの日曜学校には、関西学院神学部の学生だった賀川梅子や播磨醇なども熱心に参加していたことなども、充分記録化が出来ていないようである。(追ってこのブログUPの途上、いくらかの新たな歴史が明らかになっていき、さらのそのあとに手掛けることができた「吉田源治郎・幸の世界」の連載のなかでも補充ができたが、この段階では触れないでおく。)

 「番町」においては後に、白倉正雄牧師が番町地域の最初の隣保館「長田厚生館」の嘱託館長として働かれ、河野洋子や鈴木絹代らの「天隣館」での学童保育活動も大きな足跡を残し、武内勝夫妻らによって「神視保育園」「天隣乳児保育園」の開設運営もあり、現在もよい働き手を得て、イエス団の働きが継続されている。

 添付の写真は「賀川豊彦写真集」に収められている「天隣館」である。


館天隣


    *      *      *      *

 「斎木進之助」に関して、神戸イエス団教会の緒方彰が、以下の著書の中に行き届いた文章を残している。
 「生命の水みち溢れて―賀川豊彦とともに」(大阪キリスト教書店、1994年、219頁~222頁)。「賀川豊彦の心と祈りに生きた人々―イエスの友会人物伝」(2004年、67頁~70頁)

      ♯             ♯

 斎木進之助は、一級建築士の技術を活かして、前記の神戸税関、神戸生協、尼崎市役所で勤務し、戦後再建された神戸イエス団や豊島の建物の設計建築に貢献しているが、私にとっては1966年から2年間、神戸イエス団教会時代には、教会役員並びに教会学校の校長として、武内勝亡き後の大黒柱としての働き振りが、今も記憶に鮮やかである。武内勝の葬儀での弔辞は斎木進之助であった。

 斎木は1993(平成5)年7月、86歳の生涯を終えているが、幸い生前2度、明石のご自宅を訪ね、ご夫妻から親しくお話を伺う機会があった。いずれその記録をお目にかけたいと思う。

     (2009年8月3日鳥飼記す。2014年2月20日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(35)

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  豊彦とハルの結婚式が挙げられた教会の場所  

 「武内勝史料」の中に「財団法人イエス団友愛救済所」の用箋に記された武内勝による無題の覚書が残されている。執筆年代は不明であるが、この用箋からみて初期史料と見受けられるが、その中に次のメモがある。


  結婚 大正二年五月二十七日
  先生の結婚披露
  老人や不具者を教会一杯招待してすしの御馳走をし先生は一同に私はお嫁さんを雇
(この1字にペケ印)貰ったこれは皆様に奉仕する為めである家に病人が出来或い
は特別な用事のある時は何時でも相談しにいらっしゃいと挨拶された


 豊彦とハル夫妻の結婚披露のことは、広く知れ渡っていることである。
 ふたりが結婚式を挙げたのも、武内の記すとおり大正2年5月27日であり、挙式の時間は午後8時、神戸市下山手通7丁目にあった神戸日本基督教会において、マヤス博士が司会、司式は青木澄十郎牧師であったことも常識のうちであった。昭和9年に鑓田研一が纏めた「伝記小説 賀川豊彦」(不二屋書房)をはじめ、昭和34年版の「賀川豊彦伝」(警醒社)においても同様であった。
  
    *      *      *      *

 ところが過日、日本基督教団主恩教会(相浦和生牧師)から「主恩教会90年の歩み 2009」の寄贈を受け、その巻頭に「神戸日本基督教会(山本通5丁目)(1908年)」と説明のある写真が掲げられているのが目に留まった。この写真をよく見れば看板にも「山本通5丁目」が読み取れるのである。


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 同誌53頁以下の「教会年表」には、1908年(明治41年)5月、「神戸日本基督教会」は「下山手通8丁目電停近くの会堂から、生田区山本通5丁目58番地、武徳殿の西に移転」とある。神戸神学校が開校される1907年(明治40年)の翌年のことである。

 したがって、賀川夫妻の婚礼の場所はこれまで通説となっていた「下山手通7丁目」ではなく「山本通5丁目」の「神戸日本基督教会」であったことが、これによって確かめられるように思われる。

     *      *      *      *

 なお、同誌の「教会年表」によれば、1908(明治41)年5月の同教会長老として「吉田栄蔵」の名があげられ、1911(明治43)年7月には「間野松蔵・大村甚三郎」の名も見られる。
 
 賀川の最初期の重要な大著「精神運動と社会運動」(大正8年)並びに「人間苦と人間建築」(大正9年)(いずれも警醒社書店)の著作冒頭に、それぞれ次のような「献呈のことば」を、賀川は名前を挙げて書き残している。


     此書を私の貧民窟の小さき改良事業
     に同情さるるマヤス博士夫人、福井 
     捨一氏、大迫武吉氏、吉田栄蔵氏に捧ぐ
                       (精神運動と社会運動)

     此書を私の貧民窟の同労者なる馬島  
     僴氏、武内勝氏、また私の信好の友  
     なる間野松蔵氏、大村甚三郎氏に捧げます
                       (人間苦と人間建築)


 賀川豊彦にとって、結婚式の司式に当たった青木澄十郎牧師はもちろん、この教会の長老方との友誼の深さを、この「献呈のことば」に見る事が出来る。

     ♯             ♯

 なお、この「主恩教会90年の歩み」の上に掲げた写真の下には「中山手通7丁目にあった会堂(1919年頃)」と説明書きのある記念写真も収められている。


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 この年はこの教会が「神戸日本基督教会」から独立して単立「神戸イエス・キリスト教会」(代表・青木澄十郎)として再発足している年でもある。青木牧師の御顔はどれであろうか。

 これらに関してさらに立ち入って検証が必要があるが、今回はとりあえず「賀川夫妻の結婚の場所の発見」ということの報告である。
 
 (2009年7月31日鳥飼記す。2014年2月19日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(34)

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    印度の旅先からの絵葉書:タジマハール  

 「1938年11月15日 印度・マドラスで開催の世界宣教大会出席のため、日本代表21名と共に、伏見丸で門司より出発。上海、香港、シンガポールを経由して印度へ向う その上海、シンガポールで、それぞれ日本軍閥の中国侵略を批難する講演と、ラジオ放送を行う」(「人物書誌大系37賀川豊彦Ⅱ」628頁)

 賀川の「身辺雑記」には、この時の「印度の旅」の準備段階から旅を終えて帰国までの詳しい記録が、春子宛の4通の書簡と共に書き残されている(267頁~278頁)。

 はじめに記した「マドラスで開催の世界宣教大会」とあるのは、「身辺雑記」では「タンバラム(マドラスより16哩南)のキリスト教学校で、世界ミッション大会が、12月13日かの夜から開かれた。それには470名余り出席した。今ここに70カ国の代表が集まっているのだ。各国の人々と祈り、語り、相談する事は実に愉快である」とある。

 そして「1月12日ボンベイに着く。美しい街だ。小さいニューヨークの感じがした。・・田舎の修道院でガンヂーと会った。先ず印度哲学及び印度宗教と、ガンヂーの無抵抗主義の関係について質問して見る。ガンヂーは汎神論の立場を取り、サンカラという有名な紀元7世紀頃の哲学者の方向に自分が向っていると言っていた」などと記した後、2月2日 朝9時、ラクナウに着く。という記述がある。

 豊彦はここラクナウから、兵庫県武庫郡西宮北口 一麦寮 武内勝大兄宛に、次の絵葉書を差し出している。

      *      *      *      *

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     世界最美の建築で数億円を
     使用したと云われるタジマハールを
     見ました。全くその技巧に驚き
     ました。印度は建築に於いては
     世界的に進歩した力を持ってい
     ます。然し森林を伐採しすぎた
     為めに驚く可き危険に瀕しつつ
     あります。協同組合は全く失敗
     しています。二十人に一人しか読み書き
     が出来ないので無理もありませぬ。
     主にあれ ラクナウ  賀川豊彦

   *       *       *       *

 ラクナウに到着する前に豊彦は、文面にある「世界最美の建築」「タジマハール」に1月31日に出会っている。
 「身辺雑記」には、その美しさを、こう記す。

 「ジャムナ河畔に立つタジマハールの宮殿は美しい。実際言葉に尽くし得ぬものがあった。特に、それを王の宮殿より見た時の美しさは、譬えるに言葉がなかった。
それはコトンの聖堂に比すれば、大きくない。然し、其の美は、蝦の首のやうに見える対比を持っていた。
遠くより見れば、それは玉の如く、近寄れば逃げ、退けば追いかけてくるやうな気がするほど、よくできた建築である。或る米国婦人は、其の美に感激して、泣いたとのことである。」(275頁)

         *       *       *       *

 最後に、印度の旅の帰路、「3月11日 支那海より」豊彦が春子に宛てた書簡の一部を紹介しておく。

  印度では27夜を汽車で送り、10数万人の人々に話を致しました。
  然し例の入れ歯が全く悪くなり、演説が出来なくなりました。
  それで18日、神戸入港と共に歯の修復をして貰います。それまで報告演説など出来ないのです。
  何しろ前歯4枚が落ちてしまったのです。・・
  船はこれから上海を経て神戸に廻りますが基陸に立ち寄るので飛行便で手紙を送ります。
  今度の旅行は苦しかったですが、非常に有益でした。
  宗教学的研究にはなりました。(277頁~278頁)

           (2009年7月29日鳥飼記す。2014年2月18日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(33)

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   欧州15カ国の旅 巴里からの絵葉書 
 
 前回、1935(昭和10)年12月から翌年6月末まで、4度目の渡米における賀川の書簡を取り上げた。ここでは米国での仕事を済ませた後、その足でさらに同年7月初旬よりヨーロッパに渡り、ノールウエー、スウェーデン、デンマーク、ドイツそのほか、欧州15カ国を歴訪する大旅行となった。

 今回のこの絵葉書は、フランス・パリからのものである。


絵はがき

宛名


 宛先は、兵庫県武庫郡瓦木村 武内勝様。

      欧州は景気も全く直って
      きています。然し戦備に
      急しいのには驚きました。どう
      しても平和運動を新しく起
      さなければなりませぬ。
      私は靖国丸にて十月十日頃
      神戸に着く予定に致しております。
      皆様によろしく。
      七・三一 巴里  賀川豊彦

      *      *      *      *

 欧州の旅にふれて書き残している「身辺雑記」から、上記の賀川の書面内容に関係する部分を紹介しておく。

 独乙では協同組合と健康保険、失業保険を主として研究しました。独乙は驚くほど早く復興しています。日本が美しい国だと思っていると、北欧の天地は更に日本より以上に努力しているのに驚きました。大に考え直さねばならぬと思いました。然し独乙の教会はガラ空でした。淋しい感じがしました。「国教会」というのが駄目なのだと考えます。
 今朝巴里に立ちますが、明日はライン地方を船で見学する積もりです。巴里に三日居て協同組合と社会保険を研究し、その後ゼネバに行き、ゼネバより、ギリシャ、シリア等に行き、キリストの小説の下見分を、も一度したいと思っています。パウロの行った地方をも回りたいと思っています。パウロの生まれたタルソにも行きたいと思っています。ヨーロッパの為に祈ること切です。
 この文明でなぜ、戦争せねばならぬかと思うと悲しくなります。

 十一年振りに欧州に行って見ると、欧州があまりにも変わっているのに驚いた。欧州二十五の国のうち、十五に近い国が独裁政治をやっていた。
 今そのうちで最も感じたこと、私が一等いやに思ったことは、スイスまでが武装していることであった。
 スペインの右翼左翼の対立はヨーロッパ各国の対立である。ある方面の観察では、ここ三年間は戦争がないにしても、それから先は暗黒であると言っている。(以上「身辺雑記」全集24巻216頁)

      *      *      *      *

 米国と欧州あわせて10ヶ月あまりにわたる働きを済ませ、日本に帰国したのは10月12日のことである。
     
        (2009年7月27日鳥飼記す。2014年2月17日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(32)

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    四度目の米国の旅先Little Rockから 

 今回眺める賀川の武内宛書簡は、豊彦が1936(昭和10)年12月5日、横浜港から秩父丸で米国に向けて出帆し、18日サンフランシスコ入港、翌年6月まで6ヶ月あまりにわたる「賀川の四度目の渡米」となった旅先から差し出されたものである。

 この旅は米国での長旅を終えた後、さらに続いて同年7月初旬よりヨーロッパに渡り、ノールウエー、スウェーデン、デンマーク、ドイツそのほか、欧州15カ国を歴訪する大旅行となった。(欧州の旅は次回に)

 米国と欧州あわせて10ヶ月あまりにわたる働きを済ませ、日本に帰国したのは10月12日のことである。
 
 米国入国に際して、豊彦はトラホームや肺結核を理由に移民局に2日間拘束されたが、ルーズベルト大統領の特別措置で上陸が許可されたというハプニングのあったこともよく知られているが、前に取り上げた世界的に読者を得ることとなった「Brotherhood Economics」の「初稿は米国に向かう太平洋上で執筆した」(賀川の同書自序)ものであった。

      *      *      *      *

 賀川豊彦のこの便りは絵葉書ではなく、宿泊先のホテルの封筒と用箋を用いて、1枚の用箋裏表に用件などを記したものである。
 (只今、この封筒と書簡は、神戸文学館での公開のあと賀川ミュージアムにおいて展示中のため、手元にはない。)

表紙

中味


 差出 Little Roch, Arkansas のThe Albert Pike Hotelから 
 宛先 兵庫県武庫郡瓦木村高木 武内勝様
 
      *      *      *      *

  武内勝様

    三月二十二日                       賀川豊彦 

 米国へ来てもう満3ヶ月になります。都会を数十回回りました。数十万人に話しました。この後も数十万人に話をせねばならないでせう。

 留守中色々お世話になります。色々と米国の社会事業を見まして考えさせられて居ります。貴兄も良く考えていて下さい。新川の土地も是非此際買い取ってしまいたいものです。で、下交渉だけはして置いて下さい。また夜学校の先生たちにも適当に御礼をして下さい。また夏の下準備にお忙しいことと存じます。

 米国に来て是非日本でも「生命保険組合」を作らねばならぬことを痛感して居ります。米国の協同組合運動の為に今度はよく努力いたしました。

 私は欧州より印度洋廻りで帰る予定を致して居ります。

 愛隣館のことも気になって居ります。資金が必要ならば何卒春子に言ふて貰って下さい。また愛隣館の為に「農園」を是非手に入れたいと思いますので、明石以西(4字傍点)の何処かの開墾地でも手に入れるよう堀井順次(名前傍点)氏と良く相談して研究して下さい。そうしなければ前科者の精神治療を完全にすることは出来ませぬ。

 私は九月末日頃に神戸に帰りますから、その方面の研究を願っておきます。本多健太郎氏、中山日吉氏とも良く相談しておいて下さい。

 私も今度謝礼を少し貰いますが、これは全国伝道に全部使用したいので、社会事業への金がどれだけ残るか問題ですが、努めて努力します。然し瓦木(傍点)の方の借金(傍点)は全部返却しました。ご安心下さい。もう少し新川の伝道の為にも「新生」を吹き込みたいものです。

 私の協同組合主義に反対もあり、邪聞もありますが、大体は大賛成です。祈り続けています。努力しています。まだ3ヶ月の努力が必要です。生命がけです。良く今日までやれたとも思います。毎日五千人位の話をしています。
アルカンサス州リトルロックにて

      *      *      *      *

 賀川の「身辺雑記」によれば、船の遅れや移民局での足止めなどあって「プログラムは大番狂わせ」となり、「何しろ、北米全州を廻るので、何十哩を旅行すること」になり、同行の中山昌樹氏が「1月から南加、2月中は北加の巡回伝道を私の代わりにやって下さ」り、「渡り鳥のように廻っています。まるで、日本の神の国運動の時と同じ」であったようである。

 今年(2009年)5月ごろであったか、神戸文学館に中山昌樹氏のご遺族の方がお訪ねになり、中山氏と賀川の間に交わされた多くの書簡類を持参された。私達はそれを手にとって拝見する機会があった。
そこには、賀川が葺合新川に住み始めた場所から、中山氏へ差し出された古い書簡も含まれる、大変貴重なものばかりであった。

 ダンテ研究者として知られる中山昌樹氏は、賀川とは明治学院時代のクラスメートで、その晩年にいたるまで親しい仲であったようであり、あの貴重な書簡類も、許されるなら機会をつくって、ゆっくりと眺めさせていただきたいものであるが、まだそれは実現していない。

     *      *      *      *

 今回の渡米のことを記した「身辺雑記」(215頁)には、次のようなメモもある。

 「シラキュース大学から、博士号を贈るといって来ましたが、こんどロスアンゼルスで百人の魂を与えられるよう祈っ ていましたので、博士号より百人の魂が欲しい問いと云って断りました。幸い祈っていた通りの魂がロスアンゼルスで 与えられましたが、日本なら、千五百人位の決心者が与えられる程の集会でした。ロスアンゼルスの結氷しかけている 魂を呼び返すにはなかなかむつかしゅう御座います。」

 そして豊彦のこんなうたも。

    行き濡れて眠れぬ床に祈りつつ
    神の国おば幻に見る

        (2009年7月23日鳥飼記す。2014年2月16日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(31)

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   賀川3回目の渡米「三万五千哩の旅行」

 豊彦は「3回目の渡米」に向けて1931(昭和6)年7月7日、平安丸で横浜を出帆した。バンクーバーに7月20日着。シアトル、カナダトロント、ニューヨーク、8月4~9日The General World’s Conference,YMCA、Cleveland、シカゴ、オグデン、サンフランシスコ、ロサンジェルス、バークレー、ニューヨーク、帰路リンカーン号で11月12日横浜着。(以上は「人物書誌大系37・賀川豊彦Ⅱ」の「年譜」610~612頁にある詳細な講演日程から拾い出した略記。)

 今回紹介する賀川の絵葉書は、消印も差出年月日も不明であるが、賀川の文面にある「十一月十二日には日本に帰ります」から推測し、上記「11月12日横浜着」に符合するところから、「3回目の渡米」の旅先から、神戸の武内に送られたことが判明する。

 ところで横山春一「賀川豊彦伝」(警醒社版)巻末年表には「7月10日 カナダのトロントに開かれし世界YMCA大会の招聘に応じ、日本代表として第3回目の渡米す 随行者小川清澄、村島帰之、11月12日帰朝」(586頁)とある。帰国の日付は同一である。

     *      *      *      *

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 絵葉書の写真( Bowles Hall.U.of C.,Berkeley,Calif) からして、1931(昭和6)年「8月29日の晩、バークレーに到着」(同書)とあるので、そこからのものではないか。(上記「大系の年譜」には8月31日~9月3日Berkeleyとある)
 あて先は 神戸市吾妻通5丁目 イエス団 武内勝兄 

     三万五千哩の旅行に出て
     疲れました。十一月十二日には
     日本へ帰ります。すると
     すぐ大阪神戸へ行きます。
     主にありて祈りつつ
     貴兄の御事業の栄えんことを
               賀川豊彦


     *      *      *      *

 前掲横山「賀川豊彦伝」には、「第11章 北アメリカ伝道」という独立の章がたてられ、この絵葉書で賀川が「三万五千哩の旅行に出て疲れました」と洩らす4ヶ月間に及ぶ旅の模様が綴られている。(302頁~314頁)

 これの基礎資料となったものは、随行した村島帰之両氏の「アメリカ巡礼」という日記や小川清澄氏のもののほか、豊彦自身が書き残した「雲の柱」への活動記録(賀川全集第24巻所収)のようであるが、この旅ではジョン・R・モット、ハンター、石川栄、深田種嗣、徳憲義などとも出会い、帰路は今井よねも一緒であった。

 以下、「身辺雑記」(全集24:134~135頁)から、旅の出発と帰国のときのものを、一部分取り出しておく。

 「乗船に際して
  3年間も日本中をめぐりめぐって居りましたので、アメリカに旅立つといってもその気にならず、何の準備もしませ んでした。ラスキンの「ヴェニスの石」を旅立つ前の日まで読み続けていた次第です。(中略)
  ラスキンが「真の芸術家を見るなら、わざとらしい技巧などは見られない。わざとらしい純真でない芸術を研究して も駄目だ。赤ん坊のやうな心にならなければならぬ」といっていることを今更の如く感じるものであります。我々みず から何も持っていません。もし我々に何かあるとするなら、それは神につける赤ん坊の精神であります。私はアメリカ に行ってもありの儘の生活をしようと思っています。他人が英雄崇拝的に私を見ようと、また悪口を言おうと、私はあ りのままの、神に救われた、神に恵まれた生活をそのままいきたいと思っています。(以下略)
                 1931・7・10 平安丸にて渡米の日、横浜埠頭待合室にて)」

 「上陸の挨拶
  私は、こんどの旅では、アメリカが不景気だから、金をくれないでいい、私が金を貰うと、あなた方が自慢するから 貰わぬ。金の代わりに魂をくれといって廻りました。(中略)
  何といっても私はこんどの旅では非常に弱りました。つかまえたら離さないのだからやりきれません。御馳走を食べ させておいては1時間位演説さして、拍手してはぱっと散る。飯を食べさせては演説させられるんですからたまりませ ん。実にひどい目に遭いました。・・ですから私は、帰りの船の中ではずっと寝ていました。本も原稿も読む気がせず ぐったりして寝ていました。
  私は日本へ帰ったら一番さきに何が食べたいかと尋ねましたら、小川先生は「おでんのこんにゃく」を食べたいとい い、村島先生も「おでんを食べたい」といっていました。私は何より鰹節で茶漬けを食いたいと思います。私はアメリ カでずっと菜食で通してきました、腎臓のためには菜食がいいそうです。
  向うでは非常に愉快な友達が沢山出来ました。お話したいことが沢山ありますが、海があれたために一昨日朝食を食 べただけで、今日はひょろひよろですから、これで許して頂きたいと思います。(1931・11・12 横浜YMCAに て)」

     *      *      *      *

 「賀川豊彦写真集」47頁に、帰路、リンカーン号船上での写真が収められている。写真説明には、「右端小川清澄」氏とある。

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          (2009年7月18日鳥飼記す。2014年2月15日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(30)

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   上海基督教経済会議を終えた旅先から

     1927(昭和2)年 賀川豊彦から武内勝へ

 賀川豊彦は1920(大正9)年8月、「上海日本人基督教青年夏季自由大学講座」に招かれ内山完造や孫文とも出会った事はすでに「賀川の初めての中国の旅から」で触れたが、その7年後、1927(昭和2)年8月には「上海基督教経済会議」(8月18日~28日)に日本代表として再び上海を訪ねている。

 この時は、米国「カガワ後援会」がヘレン・タッピング女史をこの年5月に、賀川のもとに派遣しており、この会議には賀川に随行している。(人物大系27賀川豊彦Ⅱ、年譜615頁)

 横山春一「賀川豊彦伝」(警醒社版)には「8月11日から北京でひらかれる筈の、汎太平洋万国キリスト教青年大会が、中国の内乱で中止となったが、あらためて上海から中国キリスト教経済会議への招待を受けた。」「上海のキリスト教経済会議は、8月18日からひらかれ、賀川は10日間に、20数回の講演をした。阿片撲滅の会、医者の会、YMCA,YWCAなどと種々の会合が連続して催された。随行のミス・タッピングが、賀川の英語講演をすっかり筆記した。」(270~271頁)と記されている。
 
 8月28日までの会議を終え、29日には同じく上海のRoyal Asiatic Societyで「日本の労働運動」と題して講演を行い、賀川はすべてのスケジュールを済ませて、この絵葉書を、神戸の武内勝に送っている。

 29日上海で投函され「葺合」郵便局の消印は「2 9 2」の午後になっている。
 あて先は「日本 神戸市東遊園地 労働紹介所 武内勝様」である。

      *     *     *     *

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        上海は暑くて弱り
        ました。支那の戦争
        と言っても大砲も機
        関銃もなしでやるので
        すから今迄に三千人
        も殺されていないでせう。
        何してゐいのだかわかり
        ませぬ。9月1日に帰り
        ます。
               賀川豊彦
                上海

       *      *      *      *

 賀川は、前年(1927年)から「百万人救霊運動」をはじめており、この年を越えて翌1928年6月、大阪・神戸を皮切りに「神の国運動」をスタートさせ、1932(昭和7)年末まで「第1期神の国運動」に没頭した。

 この間、1928(昭和3)年12月にほぼ一月間「大連」へ、1930(昭和5)年7月には、秘書タッピングと共に中国へ、さらに翌1931年1月にもタッピングと共に中国北部、上海、蘇州、南京など各地を旅行している。

 そして1934(昭和9)年3月上海を訪れ、3月10日に内山完造につれられて魯迅宅を訪れている。翌11日に「上海Fitch Memorial Churchで「愛の科学」中国語版の出版を感謝し、あわせて「日本軍の中国侵略を謝罪」すると共に「東洋の平和」と題して講演を行ったという。

 ついでに其の後の賀川の中国訪問を拾い出しておけば、1938(昭和13)年5月に「満州農業信用組合及び満鉄(南満州鉄道)」の招待で、ひと月間「満州」各地で講演おこない、さらに同年11月にも、印度マドラスでの世界宣教大会出席の帰途、上海に立ち寄っている。

 さらに1940(昭和15)年5月には数日間、鎗田研一と共に「満州」伝道に、1942(昭和17)年8月にも「満州」伝道、戦前最後にもう一度、1944(昭和19)年10月「中国・中華日華基督教連盟」の招待で、宗教使節として派遣され、内山完造宅に滞在して上海市内の諸教会で講演を行っている。

 こうしてみると、賀川は戦前、中国へ10回以上足を運んでいることになる。しかし戦後いちども中国を訪ねる事はなかったようである。  
                 (2009年7月14日鳥飼記す)

       *      *      *      *

 追記 ところで有難いことに、賀川の「生活記録」は「賀川全集」24巻に「身辺雑記」(雑誌「雲の柱」より大正11年から昭和15年まで。「キリスト新聞」より昭和25年の「世界キリスト運動」と昭和28年の「ブラジル精神運動」、そして昭和25年の「欧米日記」)として、3頁から360頁まで収められ、年表並びに全巻の索引が付されており便利である。
 しかしうかつな事に、これまで殆どこの「身辺雑記」に書き残している豊彦自身の「生活記録」を参照することなしに、作業をすすめていることに気付かされている。

 その意味では、これまでのものはすべてにわたって、もっと面白く補筆を重ねることができるように思われる。なにしろ、今進めているこの作業は、間違いの多い試作品である。ご面倒でも何か補正等ご指摘いただける場合は、お手数ですが当方へ直接メール便ででも、よろしく御願い申し上げます。(torigai@ruby.plala.or.jp まで)。

 そこで、この「上海の旅」に触れた「身辺雑記」から、以下に少し抜き出しておく。
 
 「帰る日には女子青年会も御馳走して呉れた。面白かった。農民組合の報告や労働組合の報告をきいて愉快であった。胡適氏にも会った。大学総長連中にも会った。革命党にも会った。その中でも面白かったのは、古い友人である四川路の本屋の主内山完造兄の支那革命無駄話であった。ミセズ内山がニコニコ笑いながらお菓子を御馳走して呉れて、お茶を入れて呉れて、大いに歓待して呉れた上に、面白い話を聞かせて呉れるのだから、恐縮せざるを得ない。たうとう同家で結婚式まで一晩司式さされて、思いもうけぬ芽出度い1席を私は演じた。新婚夫妻丸林一家に祝福あれ。」
 「ミス・タッピングはよく働かれた。私の下手な英語の講演をスックリタイプライターにうってものにせられた。三度三度全部支那食で満足せられて喜んでいられた。(中略)世界がだんだん狭くなったから、日本のキリスト教もだんだん世界的になる。」

 ついでに、この「身辺雑記」の同じところに、武内勝らの神戸の働きについて記されているので、そこも付記しておく。

 「神戸で8年間続けてきた夏季貧民慰安会は、今年も明石で挙行した。それは10年間連続して教会に出席した感謝の意味で下駄直しをしていられる某氏(特に名を言わぬ)20円の金を持って来られて、貧しい子達を明石に連れて行って呉れといわれたものだから、忽ち寄付が集めて、貧乏な貧民窟同志達が80円を集めて、子供等を明石に連れて行ったのであった。貧しいもののレプタとは真に此の事を云うのである。
 私は最近ズート毎日曜の晩、神戸の貧民窟に行って説教している。武内勝氏が17年間相変わらず、私の代わりに、公務の余暇を利用して伝道していれ呉れることは、私にとって、どれだけ、幸福であるかしれぬ。貧民窟に帰ると恵まれる。」

         *     *     *     *

 追記の追記

 2009年7月6日午後、「武内勝玉手箱」ふたつを大切に所蔵し、今回閲読紹介を可能にして頂いた勝氏のご子息:武内祐一氏に我が家にお越しいただき、貴重な写真類の説明を受けた。続いてこれらの写真は、同時代を歩んでこられた方々で、神戸の緒方彰氏、村山盛嗣牧師、西宮の梅村貞造氏などに、撮影場所と時、お顔の特定などしていただく作業が残されているが、前記引用の賀川の記録にある「夏季貧民慰安会」の記念写真がアルバムの中に残されていたので、ここで紹介しておきたい。
 
 武内勝氏は、写真の中にペン書きで「一九二七・八・一四撮影」とあり、明石海岸にある大きな松の木の場所と明石公会堂の場所での記念写真である。
                      (2009年7月15日補記)

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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(29)

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     賀川春子の武内勝宛書簡 

 本年(2009年)5月30日、松沢資料館で「賀川ハル史料集出版講演会」が開催され、三原容子先生の「ハルの幸い、社会の幸い―史料に見る成長と活躍」のお話は、大変好評であったようである。
 ご覧の方も多いと思われるが、この「賀川豊彦献身100年事業オフィシャルサイト」でも案内された「T-KAGAWA PROJECT」で、三原先生の講演録画が公開されていることを教えられ、私もそれをパソコンで拝聴することができ、「賀川ハル」を学ぶ意義深い機会ともなった。

 今回の「賀川ハル史料集」には、ハルの処女作である名品「貧民窟物語」(大正9年)をはじめ「女中奉公と女工生活」(大正12年)「太陽地に落ちず」(昭和22年)「月汝は害わず」(同年)の4冊の小説、ハル日記、ハル書簡、その他貴重な関連史料が収められているようである。

 ハルを取り上げたいくつかの伝記などもここに収められているのかは分からないが、この機会に是非、私にとって未見の「ハル日記」や「書簡」を読んでみたいと楽しみにしている。「ハル日記」は「賀川豊彦と現代」を書き下ろす時、チラッとながめた記憶があり、ずっと手にして読みたいな、と願っていた史料である。
 
 「賀川ハル」に関しては、すでに加藤重先生の好著「わが妻恋し―賀川豊彦の妻ハルの生涯」(晩聲社、1999年)が誕生しており、広く読まれてきた。これには巻末に、賀川ハルの「著作の解説」やハルの書き残した詳細な短編作品リストを入れた「著作一覧」、ハルの行った「講演会・演説会」「アメリカ講演日程と演題」、そして豊彦と並べた興味深い「略年表」も収められている。
 もちろんこのたびの「賀川ハル史料集」には、編集に当たられた三原先生の行き届いた解説もあるはずで、期待が一杯である。

      *      *      *      *

 さて、「武内勝史料」には、豊彦の数多くの書簡に併せて「賀川ハルの書簡」も多く残されていた。ここでは、とりあえず次の10通を取り出してみたい。もちろん、これらの「ハル書簡」はこのたびの「賀川ハル史料集」のなかには収まってはいない。


         昭和15年の書簡

第1書簡(封書:賀川豊彦用箋2枚)

 差出 東京世田谷区上北澤町2-603 賀川春子
 宛先 兵庫県武庫郡瓦木村高木 一麦寮 武内勝様・御奥様

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 武内勝様
 御奥様

 一ヶ月に余る永い間御世話になりまして有難う存じました。特に少し健康を害して居りました為一層の御心遣いを頂き、行き届いた御手当てを頂きまして有難う存じます。御親切のほど衷心御礼申し上げます。
 福音学校と両方で実に一方ならぬ御骨折りで御座いました。どうか後の御疲労の御回復を祈って居ります。私共昨夜無事に帰宅致し、今朝は松沢教会の礼拝を致しました。
 昨日西宮の停留所で平沢夫人に主人がお話いたして居りましたが、平沢夫人が一麦寮に居って宮井医師に通ふと申していましたのに対し、主人は福音学校の後で武内夫人も外の者も疲れているので、食事の世話は一麦寮で出来ぬ、泊るだけであればと申しました。奥様の胸に御含み置き下さいませ。
 東京も一寸雪が降りました由ほぼ関西と同様でございます。御寒さの折御子様ご注意くださいませ。先ずは御礼に合せて右まで。
 御祝福を祈ります。
  二月四日                          賀川春子



第2書簡(封書:書留便:賀川原稿用紙1枚)

  差出 上に同じ
  宛先 上に同じ

 
 勝武内様

 常に社会の為御尽し頂き有難き事で御座います。ご健康で御座いませうか。長田の件はいづれ主人が御地に参りまして御面談申し上げる由で御座います。例月の補助二箇所 四拾円を御送り申し上げます。御受取り下さいませ。
 先は右要用迄申します。
                             賀川春子
  三月二十五日

(この封筒は「神戸市葺合区吾妻通5丁目神戸イエス団内 賀川豊彦氏新川改善二十五周年記念事業 代表者 武内勝 神戸イエス団、振替口座大阪57735番」と書かれたものを消して代用されている。「新川改善二十五周年記念事業」の事業内容は何であったのか。未確認)

    *      *      *      *

            戦後の書簡

第1書簡(昭和23年:封書:書留便:2枚)

   差出 上に同じ
   宛先 兵庫県御影町郡家宇殿7-1


  武内勝様

 先日は久々にて御宅様を御訪ね致し、奥様にお目にかか里又御近況を承りました。良い御住宅で田畑もお広く誠に理想的なお住まいで結構に存じます。
 御子様の御成長振りを拝見いたし御よろこび申上げます。どんなにか御楽しみのことと存じます。相変わらず御多忙誠にご苦労に存じます。
 イエス団の復興も喜ばしいことで御座います。
 主の御祝福を御祈り申上げます。       
                                賀川春子 
  十二月二十日

                 (この封筒には、賀川豊彦の書簡1枚が入れられている)


第2書簡(昭和26年:封書:書留便:1枚)

  差出 上に同じ
  宛先 上に同じ

 武内勝様

 主の御聖誕を御祝致します。先日来御請求のありました四貫島の修理費御送金が延引致しました。主人の申付け通り茲に大阪銀行小切手にて金弐萬五千円也を御送り致します。お納め下さい。
 色々と各方面に御面倒を掛けして居ります。宜しく御願い申し上げます。
  十二月二十六日  
                              賀川春子


第3書簡(昭和27年:封書:書留便:1枚)

   差出 東京都世田谷区上北沢2-603 財団法人 雲柱社
   宛先 神戸市東灘区御影宇殿7-1

 
 武内勝様

 残暑殊の外きびしゅう御座いますが、御健康を御祝い申上げます。只今邦子様御様子如何で御座いませうか。主の御守護を祈り申上げます。
 御手紙に依り金弐拾萬円也銀行小切手にて御送金致しました。御受け取り下さい。主人昨朝帰京致しました。明晩出発致し、二十九日朝八時三十分大阪着で御座います。
                              賀川春子
  八月二十七日


第4書簡(昭和27年:封書:書留便:賀川豊彦用箋1枚)

  差出 前と同じ雲柱社
  宛先 前と同じ


 武内勝様

 御健康にて御働きのこと御祝い申上げます。
 ミルク・プラントの為め当月も又銀行小切手にて金弐拾萬円也御送金致します。
 御調査の上にて御入手下さい。用件のみ。
   九月三十日      
                             賀川豊彦
                (豊彦の名前であるがこの書簡は春子の筆跡である)


第5書簡(昭和27年:封書:書留便:「農林金融」用原稿用紙1枚)

  差出 東京都世田谷区上北沢町2-6-3 賀川豊彦
  宛先 前に同じ


 武内勝様

 前略
 御申越しの金?大阪銀行小切手を以って御送金申上げます。
 御入手下さい。
 御事業の上に神の御祝福を御祈り致します。
 
   十二月一日      
                           賀川春子


第6書簡(昭和28年:封書:1枚:他に「銀行残高証明書」3通)

  差出 前に同じ
  宛先 前に同じ


 武内勝様

 御手紙拝見致しました。御用件の趣旨は承知致し早速預金の証明書を作成致しました。三通御同封申上げます。
 御事業に就いて御苦労の多いことと存じます。よき御仕事の出来ますことをお祈り致します。
 健かで御用をはげんで居る様子で御座います。此の上とも御加祈をお願い致します。
   二月二十七日       
                              賀川春子
        (残高証明書 普通預金 一金五拾萬壱千五百七拾六円也 住友銀行新宿支店)


第7書簡(昭和28年:封書:書留便:1枚)

  差出 雲柱社
  宛先 前に同じ


 武内勝様
                             賀川春子
 前略 御融通金五拾萬円也 御送金申し上げます。御落手の上に一寸請取書を御送り下さい。
 尚、これ迄御手元に送金致して居ります御手当て以外に御所の事業のため御送金致した金子は株券になるので御座いませうか。御伺い致します。御序の 節 御知らせ下さい。
 主人 今朝帰京致しました。  
                (日付はないが、消印で昭和28年7月6日と読み取れる)


第8書簡(日付不明:封書:書留便:調査部原稿用紙1枚)

  差出 東京都世田谷区上北沢町2―603 賀川豊彦
  宛先 前に同じ


 武内勝様
                             賀川春子
 御書面拝受致しました。
 白倉牧師移転荷持運送料と住宅の修理費 ご請求を頂きました。合計金四萬五千円也と御座いますが、白倉氏に主人より壱萬円と東京にて私が五千円をお渡し致しました故、運送料壱万五千円を差引かせて頂きました。大阪銀行小切手にて参萬円也を御送り致しました。ご調査下さい。
 送金御案内迄申上げます。
                 封書に春子の筆跡で「十月十四日」と記されている)

     *       *       *       *

 「賀川ハル」が戸籍上の正式な名前であろうが、この書簡ではすべて「賀川春子」と書かれている。「貧民窟物語」と「女中奉公と女工生活」の著者は「賀川はる子」であるが、「春子」という漢字名がご本人も豊彦も、気に入っていたのであろう。

 上に挙げた書簡を読むとき、その筆遣いに柔らかく暖かな情愛と共にすべての財布を預かる気丈な賢妻振りが伝わってくる。

 豊彦の没後3年、1963年に神戸「葺合新川」に「賀川記念館」が建設され、ここを拠点に活動が展開されてきたが、ただ今、新しい「賀川記念館」が再建工事中である。予定通り本年(2009年)「献身100年記念」の時には完成する。
 新しい記念館は「賀川豊彦・ハル記念館」と命名するのもいいね、などとひとりごちしている。夫妻は1988(明治21)年生まれの「同い年」というのも面白い。また4ヶ月ほどハルが「年上」というのも。
                        (2009年7月12日記す。鳥飼慶陽)

 補記 上記は古い既述のままであるが、神戸には立派な賀川記念館が再建され、「賀川ハル資料集」も見事に完成、「語り部」のみなさんの賀川ハルの熱心な学びと研究成果の発表の取り組みもあった。また、修士論文に賀川ハルを取り上げ、著作にまで仕上げる御方も出て来ている。
 これまで「賀川豊彦の畏友」として「武内勝」「吉田源治郎」「村島帰之」と進めていますが、何時の日か私も「賀川豊彦の相方・賀川ハル」をゆっくりと学んでみたいと思う。
                              (2014年2月11日記す)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(28)

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      New York Skyscrapers(1925) 

 1924(大正13)年11月26日、賀川は横浜より春洋丸で出帆、米国留学後最初の渡米の船旅をはじめる。全アメリカ大学連盟の招待を受けたのである。 

 12月4日ハワイに立ち寄り、ホノルルで講演を行い、12月16日サンフランシスコ着。この渡米の目的は「排日移民法による日米和解の対話のため」の渡米といわれているが、Union Theological Seminaryをはじめ各地で講演会や会議に出席し、ロスアンゼルスに「イエスの友会」も誕生したことは、すでに紹介した。

 すでに長期連載「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界を訪ねる」で詳しく見たように、このとき吉田源治郎はオーボルン神学校を卒業後ユニオン神学校・コロンビア大学などで学び、「労働者伝道」の志を抱き、賀川の欧州視察旅行にも一部同道することになるである。

 この絵葉書は、消印を見ると1925年2月26日に投函されたもののようで、3月14日、英国に向かってニューヨークを出発するまえに、「神戸市東遊園地内 労働紹介所 武内勝様」充てに送られたものである。

 珍しい折りたたみの記念絵葉書で、宛名書き以外の賀川の文章はない。
 16枚もの写真が入っている。

 では、宛名のある表書き最初に、いくつかを紹介してみたい。
   
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 賀川は、ニューヨークを後にしてイギリス、フランス、ベルギー、オランダ、デンマーク、スイス、イタリー、聖地を巡礼して、エジプト、紅海、セイロン、香港、上海を経て、7月22日長崎に着いている。

 吉田源治郎は賀川より少し早く帰国して、大阪における「四貫島セツルメント」の創設準備に取り掛かるのです。

 この長旅の中で生まれた詩作品は第2誌集「永遠の乳房」に、紀行文は「雲水遍路」に纏められたことは、先に記したとおりである。

      (2009年7月11日鳥飼記す。2014年2月10日補記)






賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(27)

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  厚生省顧問賀川豊彦と「神戸失業者共済組合」

 賀川豊彦は戦前1927(昭和2)年、東京市社会局の嘱託に就き、武内勝が神戸において取り組んでいた「失業保険」を東京市においても試みるべく模索して武内に問い合わせていた書簡と神戸の実験の内容を賀川は「友愛の政治経済学Brotherhood Economics」の中に記していたことを先に取り出しておいた。

 ところで賀川は敗戦後すぐ、1945(昭和20)年8月26日「東久邇宮内閣参与」、30日「読売報知」に「マッカーサー総司令官に寄す」発表。9月21日「マッカーサー訪問」、三日後24日には「厚生省顧問」就任、同省の財団法人国民栄養協会理事長、27日「国際平和協会」設立。翌10月、神戸市長原口統次郎の要請により「神戸市顧問」と戦後の新しい歩みを踏む出す。

 1945(昭和20)年3月10日の「東京大空襲」(10万人の死者と100万戸もの家屋を焼き尽くした)のなか、賀川は「戦時救済委員会委員長」を引き受け救護にあたり、4月16日厚生省より「健民局事務取扱」、7月12日「恩賜財団戦災救護会参与」で「敗戦」を迎えたが、前記の如く「厚生省顧問」として戦後の新しい時代の責任を担うのである。

 以下、賀川が「厚生省」から神戸の武内勝に投函した第1書簡並びに自宅から出した第2書簡を取り出してみる。
 ここでは賀川は、武内の試みていた「神戸失業者共済組合」を「厚生省」にあって国の制度として活かそうとするのである。

       *      *      *      *

第1書簡

 
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 差出は 東京都芝区白金台町1-39 厚生省 賀川豊彦
 大日本帝国政府用箋一枚 封書。
 あて先は 兵庫県武庫郡西宮市高木町南芝 一麦寮 武内勝様 消印不明


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  武内勝様侍史

 前略

 失業者出るやうな時となりました。厚生省でも至急に「神戸失業者共済組合」即ち労働者失業保険規約を厚生省内保険課内賀川豊彦宛に御送付下さい。一昨日、保険局長の名を持って電報を打っておきました。私は忙しく活動して居ります。
 
    八月丗日 

                               賀川豊彦
 二伸 
  新川の土地買い入れの件は如何になりましたか。
  ご一報を煩わしたく存じ上げます。

第2書簡

 差出 東京都世田谷区上北沢2丁目603 賀川豊彦
 賀川原稿用紙3枚 封書 
 あて先 西宮市高木町南芝 一麦保育園 武内勝様 消印不明


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  武内勝様侍史

  前略、芝八重子が神戸長田天隣館を再興し、徳憲義氏 教会にて、イエス団診療所分室を作る為め、再び神戸に帰り  たき希望を持って居ります。就いては、一麦寮にて、もと佐藤姉が泊まっていたところに泊まれませうか?
  もし可能ならば、神戸イエス団診療所再興の為帰って頂きます。
  従って、八重の布団、行李は東京に御送り願わなくても、そのまま止めておき下さるやうに願い上げます。

  「神戸労働保険」文献材料、感謝申し上げます。私は今後厚生省顧問になったので、色々御協力願います。神戸の失  業保険を、日本全体の失業保険制度にしたいので、一度「社会保険局」まで御出で下され、何卒局長、初め局課長一  同に御教示御指導を願います。西尾君でも結構です。何卒この点も至急に顧慮お願い申し上げます。

   九月十七日             
                                  賀川豊彦


      *      *      *      *

 「玉手箱」に残されていた「武内勝日記」は、先に一部紹介した「昭和2年から4年」までのもの以外は戦後のものである。それも殆どが「日記」というよりメモ帳である。
 
 ここには、昭和20年(1945年)の武内メモで、上記賀川の第1書簡の「二伸」並びに第2書簡の前半に係わる事項に対応すると思われる記述があるので、取り出して置く。

   土地買収ノ交渉 本多氏に委任スルコト
   長田ノ土地家屋ノ買収見込アリヤ否ヤ
   長田ノ診療ヲ継続スルヤ否ヤ
   長田ノ保育ヲ開始スルヤ否ヤ 
   愛隣館ノミシン加工場実現如何 (68頁)  

 以下の武内メモは、敗戦時の神戸を中心とした状況が記されている。
  
   第六軍 京都 25日和歌山ヨリ上陸 15000人 歩兵7000人 砲2500人 其他5500人。 
   神戸海軍部隊約1000人 神戸、宝塚、姫路三箇所駐屯 神戸ニ其他5500
   宝塚歩兵3500 西宮鐘淵工場 甲子園ホテル
   姫路砲兵2500人 歩兵3500 6000
   汽車16列車 トラック2000車両。
   25日午後1時~7時5分
   労政設置状況 新規雇入1件 労働紹介1件 進駐軍1件 労働組合状況  (1頁)

   労政係8名 労働行政把握 労働争議 賃金統? 工場? 工場給食 産業報国
   労報
   労政係70名配置
   朝鮮、台湾、中華等ハ内地人同様ノ取扱トスルコト。軍人ノ取扱ハ一般人ト同様トスルコト。                                                 (2頁)

   (6頁以下)
   敗戦ノ結果経済危機陥イル。道義ノ頽廃。不良少年少女ノ激増。養生?工ノ傾向。 
   復興闇市場。勇敢ナルガパンパン。生産方面ハ工員ノ募集ヲヤッテモ尚不足デアルガ闇市場ハ如何。或人は宿命    的。日本ノ滅亡ノ宿命的デアルト言フ。経済的ニ破産。賠償金。 
   食糧飢饉。眼前ニ危機ハセマッテイル。今度コソ日本ノ試練デアル。如何ニシテ此ノ危機ヲ切抜ケルカ。如何ニシ   テ道義ヲ高メルカ。如何ニシテ食糧、衣料等ノ不自由ニ耐忍ブベキカ。
   之ニ付イテ最モ大セツナルハ先ズ国民ガ希望ヲ捨テナイコトデアル。
   最近支那ヨリ帰ツタ人ノ話シ。インフレ、道義、物ノ量、日本トハ比較ニナラヌト言フ。明治、日清戦争ト比較ス   レバ人口ハ多イ生産力ハ高イ学校数モ多イ、農業モ進歩シテイル、交通ノ便モヨイ。必ズ復興出来ル。
   ?体、協力、相談、ココニ希望ガ生ジ事業ガ起リ目的ヲ貫徹スルコトガ出来ル。
   個人ノ場合貧困ニヨリ人生ノドン底ニ落チテ終ヘバソコカラ起チ上ル。
   消費組合 不良ノ防止 道義方面 精?を造る場合 善政 人物を出す。
   酒を造っても人物が出なくては駄目である。

   安定法。労働者・産業人に対する奉仕。事業主に対する産業奉仕。
   安定所の存在意義。従来の欠点非難、求人を待つ態度、安定所より積極的に求人を受けて行く。
   安定所の付近の事業主すら安定所を利用しないものがあった。付近の人の雇入れ全部安定所に申込みを受ける事が   理想である。
   此の理想の実現は事務所に止っていては成功しない。産業奉仕が出来ない。求人開拓に努力し、所から出掛けるこ   と産業奉仕である。所は企画を立てる必要がある。求人者に対し労働者の状況を示す準備をして置く。
   本省の指令に基づき之をたてる。実行方法、第一は大口求人を開拓すること。求人開拓の方法を計画して置く。
   外交員の如く活動する。
   安定所の重要性を認識する。
   失業者を就職せしめる。
   求人なくば政府の計画も無である。
   産業家との緻密な関係。安定所長は半分を之に当てる。
   求人・求職の会合には出来る限り出席するよう希望する。
   外交の際に情報を得る。工場の運営。労働問題。
   将来に対する傾向。所長が事務所に閉じこもるは反対である。
   所長は産業サービスに半日を奉仕せよ。

   外交係を置くこと。係りは外交日誌を作り日々の外交状況を記入すること。所長は日を定めて工場事業場を訪問す   ること。
   同時に就職困難な求職者の就職斡旋に努めること。之には履歴書綴りを持参すること。 
   産業奉仕の活動の範囲。厚生関係、労働観察。

   (57頁以下)
   神戸勤労署ハ調査ニ当ル 簡易公共事業、知識階級救済 1民需産業 2公共事業 3職業補導 4生活保護 
   勤労署内ニ民生委員駐在 勤労署ハ生活ノ全面保護ニ当ル。緊要労務 進駐軍、1日22万人 センイ労ム成績不   良
   失業者数 400万+300(潜在)=700万 年末ニ於テハ500万人 県下20万
   失業調整ニ依リ有業者無業者、失業者
   失業救済 民需産業復興ニヨリ職業ノ安定。
   日雇労務者ヲ常用化スルコト。

   屑鉄回収。公共事業就労手帳交付。場所ノ選定ハ市役所デ行フ。開墾ハ勤労課ガ責任ヲ負フ・・農具ハ農務課ニテ   準備中。 
   失業対策事業部。公有地 民有地 整理請負 監督者100人。
   11月ヨリ給食ス。                   (62頁)

 いずれ時間をつくって、「武内日記」を取り出しておきたいと思う。


              (2009年7月9日鳥飼記す。2014年2月9日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(26)

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 東京市社会局における「共済組合」(失業者救済)
  

 賀川は1929(昭和4)年7月25日、東京市長堀切善次郎から、社会局長への就任を要請された。この時「神の国」運動の最中であったこともあり、賀川は「社会局長」ではなく「嘱託」として就任した。

 就任後直ぐ、東京市社会局から、兵庫県神戸市東遊園地労働紹介所 武内勝宛に、次のふたつの書簡を送っている。

 第1書簡(封書、東京市社会局の封筒と便箋、2枚)


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 武内勝兄

 お暑う御座います。色々御世話になります。社会局のむつかしい空気の中に少しずつ啄をつき込んでやっています。どれだけ成功するか問題ですが、やれるだけやります。

 扨、本年末の失業者救済の素案に困って居ます。で、「共済組合」を通しての貴兄がやっていられる失業保険組合の模様を少しお知らせ下さい。東京でもあれ(傍点)をやってみたいと思っています。

 貧民窟のことよろしく御願いいたします。 

   東京市社会局にて 
                        賀川豊彦
  一九二九・八・九




第2書簡(封書、東京市社会局の封筒、東京市政調査会原稿用紙2枚)


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  武内勝兄

  色々御世話になります。
  あの案で、この冬は進んで行きたいと存じて居ります。

  すみませぬが宣伝の意味でウンと沢山「組合年報」を貰って下さい。

  また月曜日に県社会課に出張してお願いしておきました。
  何分よろしくお願いいたします。
                          トヨヒコ


   (本文には日付なし。消印は昭和4年8月20日と読める)

       *     *     *     *

 賀川の名著『友愛の政治経済学Brotherhood Economics』(日本生活協同組合連合会出版部、2009年)がこのたび翻訳出版され、いま話題を呼んでいる。

 賀川が1935年から36年にかけて全米で講演旅行を行い、そのときロチェスター神学校においてなされた「キリスト教の兄弟愛と経済再建」(Christian Brotherhood and Economic Reconstruction)というテーマの4回にわたる「ラウセンブッシュ記念講演」が纏められて、それが米国で出版された。

 本書は英・独・仏ほか25カ国で出版され愛読されてきたが、今年(2009年)「賀川献身100年記念出版」として、何と米国で刊行されてから73年ぶりに邦訳出版ということになった。

 翻訳された本書の中の第7章Ⅵ「共済協同組合」の項で、賀川は、神戸における武内勝の開拓的な取り組みに言及しているので、その個所を取り出して置く。


 「日本では、失業者のための共済協同組合が武内勝氏により組織されたが、彼は神戸の貧民街で長年私と一緒に働いてきた人である。私の指導のもと、彼はこの街で、不熟練労働者たちのための共済組合を組織したのである。1927年以降、彼はこれを失業者救済のための組合へと改組した。

 実を言うと、私自身、共済組合を失業者救済のための組合に改組できることは、武内氏が行なうまでずっと気付かなかった。彼の組織は単純であった。彼は全失業者に登録をさせた。失業者として登録をした者が1,000人いたとしても、最初の日には250人の働き口しか見つけられないかもしれない。この場合には、職にありつけた人がそれぞれ5銭を、雇い主からの5銭と神戸市からの5銭とともに一つの基金に払い込む。2日目にはもう250人の人が働き口をみつけることができるかもしれず、この場合には、彼らの雇い主や神戸市と一緒にその人たちも5銭を払い込む。こうして4日間の最後の日には、その間に何の働き口も得られなかった250人が残ってしまったとしよう。これらの失業者は、職を得られた人たちの支払いとその雇い主や神戸市の支払いによって生じた基金から、失業の3日間にたいし合計45銭を受け取ることになる。実のところ、神戸市は、私たちが想定したケースよりも多くの人々へ雇用を提供することに成功し、そのため失業者はおのおの、私たちが想定したケースで考えられていたよりも多くを受け取ったのである。

 私は失業者のためのこの互助システムを東京市に紹介した。今、日本の六つの大都市がこの制度の実施へ動いている。この互助の際立った特徴は、それが単なる失業手当となるのを防止するものとして導入されれてきたところにある。1か月間連続して働く者には、一定の払戻しが行なわれる。失業に脅かされる状況が続くかぎり、私はこの種の共済保険は大規模な救済制度よりはるかに効果的だと信じている。それは、労働者階級の士気を支える勤勉さを促進する。」(119~120頁)

       *     *     *     *

 ところで、今回の「玉手箱」の中には、武内勝の戦前の日記が1冊、1927(昭和2)年8月1日から1929(昭和4)年6月5日までのものが残されていた。
 ここにその中から、当時の神戸にける失業問題、日雇労働者の現実に苦悩する武内のメモを拾い出しておきたい。

       *     *     *     *

 「神戸市の屋外労働者殊に日雇労働者の賃金が一般に低下していることが知れた。社会政策位では追い付かなくなる。」(昭和2年8月18日)

 「失業者の訪問は次ぎから次へつきない。今日はマヤス先生からも紹介があった。失業ほど辛い経験は少ないであろう。お気の毒に堪えないが何ともすることが出来ない。日本の失業問題の解決は矢張り移民に待つより他に方法がなかろう。」(同年9月15日)

 「市吏員淘汰、壱百五十名に及び首の残って居る者も余りの移動に驚いている。噂に噂を呼び残留者迄が戦々恐々として居た。現代に於いては失職程無産者として強圧されるものはない。」(同年10月18日)

 「冬季失業救済事業案は原案通り可決した。之に依って毎日千五百人平均の日傭労働者が就業だけは出来る。自分等も意を強くする。多忙ではあるが、満足である。」(同年11月15日)

 「職業紹介委員会に出席。今日から失業救済臨時に土木事業に救済される労働者登録開始である。受け付けて驚いた。二千三百四十九人の申し込み者があった。去年五日間に申し込んだ数を当年は一日で受け付けた。当年の不況の深刻さと一つは救済事業の何であるかを労働者が充分に知ったからであろう。何にしても之だけ多数の人達が失業状態にあることは由々しき社会問題である。」(同年11月24日)

 「失業救済事業使用の人夫三百五十名を愈々断った。気の毒であったが仕方がなかった。働くに職がなければ金が儲からず金がなければ喰えず、喰わなければ餓死のほかはない。天の父はこの人達をどうして下さるかと心配でならぬ。」(昭和3年3月12日)

 「今日から失業救済事業の繰り延べ工事に着手した。使用人員壱百二十三名に休職申し込み者は五百を超過している。日本の失業者は日に増加して行きその救済名案はなく憐れむべき状態にある。」(同年4月8日)

 「西部に於いてのみでも七百名を数えた。此れ等の多数が全部アブレるので何たる惨憺であろうか。彼等は本当に飢えに迫っている。世には富んで喰い余り贅を尽くせる者もあるものを。」(同年4月9日)

 「救済事業での多忙も忘れられる程になった。日雇労働者の将来に就いて考えて見よう。唯にパンの途をのみの解決でなく本当の救済に関する実際問題を。」(同年4月14日)

 「日傭労働者を保護し救済する為には単に労働紹介のみの事業に終わってはならない。一大計画を立て政府当局を動かし救済資金を下付させなくては冬季に限られたる失業救済事業では徹底しない。少なくとも神戸市在住の日傭労働者は残らず救済し得るの方法を講じなくてはならぬ。」(同年4月24日)

 「今日はメーデーであるが雨天の為めに之に参加する者が少ないであろう。日本の労働祭は、最初に於いて余り振るわなかったが、二三回目には可也盛んになったものを、官憲の弾圧と雇い主側の排斥とに依って漸次下火となった観がある。神戸には特に著しいものがある。メーデーに参加した職工は解雇するとは何たる乱暴であろうか。」(同年5月1日)

 「最近は毎日失業問題を考える。之を救済するの名案がない。困ったものである。名案があっても之を実行しない今に於いて、対策を講ずるに非ざれば日本にも革命を観るの惨事が生ずるであろう。日本を失業から救済する為に更に考え祈ろう。」(同年5月4日)

 「河川工事に働く労働者中百二十名を馘首する事になった。日慵労働者程気の毒な生活者はない。自分はかかる人達の為に使命を負う可きであろう。」(同年5月8日)

    *     *     *     *

 賀川豊彦の東京市社会局の嘱託の期間は結局1年足らずで終わり、1930(昭和5)年5月15日に辞任している。 一方、武内勝は戦中戦後一貫して、この道一筋であった。

 なお、賀川豊彦の著作の『聖浄と歓喜』(日曜世界社、昭和4年)の101頁には、1927年7月のイエスの友夏期修養会における説教「職業をきよめ」が収められている。そのなかで、賀川は武内勝と杉山元治郎のことにふれて、次のように述べていたので、参考までにここに付記して置く。

 「職業を潔めよ、イエスの友は其処にある。私は自分で著述をして食っている。我々は一生を通じて神の国運動を実行して行きたいと思っている。時を得るも得ざるも伝道をしなければならない。
 神戸の武内君は17年間私を援けていてくれるが、今は神戸労働職業紹介所の主人として毎日六百人からの人を世話し、最近労働者災害保険組合を作って、三万人からの労働者の為に尽くし、政府も之に二十万円を出すという事になったが、一人のすることとして、これほど大きな仕事はありえない。それで同氏は相変わらず伝道をしておられる。
 杉山元治郎氏もまた然りであって、嘗て農村の伝道師であったときに、ミッションから、教会を移れという命令がきたものを拒んで移らず、焼き芋屋になってその地の伝道を続けられた。」

          (2009年7月3日鳥飼記す。2014年2月8日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(25)

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   「日本から善いキリスト教が出ねば嘘です」

    大正14年「サウスサンプトン沖」にて


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 この絵葉書は、消印から見て1925年3月20日のものか?

 もしそうだとすれば、賀川豊彦は、1914(大正3)年8月から1917(大正6)年5月までの米国留学以後、丁度10年後となる1924(大正13)年11月に横浜を出帆し、米国各地で講演を行ない、その後も欧州各地で交流と研鑽を重ねて、翌年7月に帰国するという8ヶ月余りに及ぶ長旅を敢行しているので、その旅のほぼ真ん中ごろ、英国「サウスサンプトン沖」で記したものである。


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 あて先は「神戸市東遊園地 労働紹介所 武内勝様」
 本文は、簡潔な言葉で、次のように記す。

      本日 英京ロンドンに入
      ります。米国で病躯を
      支えて奮闘しました。
      日本から善いキリスト教が
      出ねば嘘です。しっかり
      やりませんとね。之から欧州
      研究が始まります。皆によろしく
      サウサンプトン沖 
                  賀 川 豊 彦


       *     *     *     *

 「日本から善いキリスト教が出ねば嘘です。しっかりやりませんとね。」と武内に記す賀川の言葉は、自信に溢れた強い彼の意欲が響いている。

 彼の独自に証しする「認識」(大正10年「イエスの宗教とその真理」などに見られる)と「行為」(大正10年「死線を越えて」などに見られる)は、日本国内ばかりでなく、一気に世界に響き渡る手ごたえを、豊彦はこの旅先で強く自覚させられていたのであろう。

 この長旅から帰国後すぐ賀川は、あの「貧民窟詩集 涙の二等分」(福永書店、大正8年)に次ぐ第二詩集「永遠の乳房」(福永書店、大正14年)を出版した。


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 この詩集は、

 「凡てを、私は、凡てを、神に賭けた。恰も、博徒が、賭場でするやうに。私は、生命も、財産も、書物も、言論も、自由も、行動も、凡てを、神の賭場にはった。そこに私の詩の全部がある。」

 という「序」ではじまる411頁の及ぶ箱入り上製の詩集であるが、「涙の二等分」以後の作品に加えて、この長旅のなかで生まれた詩をここに百数十頁にわたり収めた。

      *     *     *     *

 この長旅では、ロスアンジェルスに「イエスの友会」が生まれたり、国際連盟で活躍中の新渡戸稲造とジュネーブ郊外で出遭ったり、初めての聖地巡礼を経験するなどしているが、その詳しい旅紀行を、先の詩集とは別に「雲水遍路」という作品として、大正15年に改造社から出版した。


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この作品は、眼病のため執筆も遅れたが、病床での口述などして仕上げられた名品である。
 
 「雲水の心は無執着の心である。
  風に雨に、私は自ら楽しむことを知っている。
  世界の心は、私の心である。
  雲は私であり、私は雲である。
  雲水の遍歴は、一生の旅路である。」

 という「序」ではじまる本書は514頁に及ぶもので、これも箱入り上製本である。
 ここには旅先で撮られた貴重な写真が16枚も収められている。

      *     *     *     *
 
 前に米国留学前の賀川夫妻壮行記念写真を取り上げたとき、関西学院の神学生であった徳憲義が葺合新川にボランティアとして参加し、その壮行記念写真に写されていたことを確かめたが、徳憲義は奇しくも賀川がこの長旅を始めた時、ロスアンゼルスで農園や市場などで働いていたのである。

 賀川の来訪を知った徳憲義は仕事を休み、約三週間賀川に随行し、賀川の「生命がけの伝道」の姿を身近に経験した。


 徳憲義は、昭和4年、新生堂より「詩集 愛は甦る」を上梓し、この時の喜びを書き上げている。
 この詩集の「序」で賀川は、彼を「私の同志」「変わらざる熱情の人、深い同情の持ち主」として讃え、大きな期待を寄せている。

 徳憲義は、米国から度々「イエス団武内勝宛」に金品の贈り物を届け続けたことは、武内の残した日記に深い謝意をこめて書き記している。

 なおその後、徳憲義の著作『生命の歩み』(大正15年)、『愛の本質』(昭和4年)、『歌ひつつ・祈りつつ』(昭和5年)、『ウエスレーの信仰』(昭和13年)などを入手して読むことが出来、さらに昭和37に出版された『愛しつつ祈りつつ――故徳憲義記念』で、その生涯を学ぶことが出来たが、それらについてはまた別の機会に触れてみたい。

 そして、賀川のこの1924年から1925年の長旅には、賀川豊彦のもう一人の畏友「吉田源治郎」の同道のあったことなどに関しては、かつて「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」で長期連載させていただいた「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」に触れているので、そちらに譲りたい。
 (2009年6月29日鳥飼記す。2014年2月7日補記) 

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(24)

武内勝の神戸市社会課長木村義吉氏追悼(つづき)

 予定通り、前回の「付録」として、『福祉の灯ーー兵庫県社会事業先覚者伝』におさめられている「木村義吉」の箇所(358頁~370頁)をスキャンさせていただきます。執筆者は記されていませんが、たいへん重要なドキュメントです。テキスト化すればよいのですが、とりあえずスキャンして収めて置きます。判読が難しいかもしれませんが、悪しからず。貴重な写真も入っています。


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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(23)

 武内勝の神戸市社会課長木村義吉氏追悼

 前回、賀川の武内宛書簡の中に、神戸消費組合の組合長人事に触れたところで、賀川はこう書いていた。
 「組合長の問題ですが、社会課長の木村義吉君から福井君を再度組合長にしてやって呉れ、と言うて来られましたが」云々と。

 賀川に進言したという「木村義吉君」とは、1920(大正9)年4月、神戸市が「救済課」を「社会課」と改称しその「初代社会課長」に起用され、大きな足跡を残した人物として知られている人物である。就任の翌月(5月)「生田川口入所」を継承し「神戸市中央職業紹介所」を開設した人でもある。

 木村義吉は、実務のみならず大変な論客でもあった。
 1921(大正10)年1月「神戸新聞」の「労働者余暇問題(上下)」や1926(大正15)年1月「大阪朝日新聞」の「真剣味を帯びた労働問題について」の論稿を読むだけでもその力量を知ることができる。(この論稿は神戸大学付属図書館「新聞記事文庫」にありインターネットで検索可能)

     *     *     *     *

 ところで、「玉手箱」に残された武内勝の手帳には、木村課長との仕事上の親密な関係が多く書き残されている。
 ここでは1949(昭和24)年の武内の手帳の中に、木村義吉氏を讃える文章が二箇所にある。下記のものは、見開きに鉛筆書きされたメモである。

  1 社会課長として全国一の名課長であった。
  2 神戸市に大きな貢献をした。
    食堂、宿泊、紹介、病院、救護、質、保育、住宅、巡回産婆、案内
  3 個人的に見た木村義吉。
    よき上司をもった課長は幸福である。
  4 社会問題は解決したか。
    これからである
  5 故人が復活して来たら各々の事業について喜んで頂けるであろうと思う
  6 もう一度、此の世で会えるものなら、会って見たい気持ちで一杯である。
    社会事業に最初に従事した当時の精神を、今一度再興し、日本の再興に奉公
したいものである。
    何人もの課長に仕えたが、木村課長程の人物はなかった。
    善き?であることを喜ばれると思う。

    一度もしかられなかった。
    計画について反対されなかった。
    立場をよく解された。
    部下を信頼された。
    働きよかった。

   十一月十三日一時、社会事業会館
   三十日発起人会 午後一時 交通局会議室 式執行案を決定
   木村課長に対する礼儀であり、又課長の我等に対する要求であろう。
     *     *     *     *

 別の頁にも、次のペン書きメモがある。上記と重複するが、挙げておく。

   木村氏は日本一の名社会課長であった。
   市政の貢献が大であった。
   各種社会事業を実施した。
   部下を信頼した。
   木村課長は死しても霊は生きている。
   私は度々木村氏と会っている。
   キリストのマタイ25の説話。羊と洋牛の話。
   貧しき者に善き奉仕をしたもの。
   木村課長は、君何うかと奨励される。
   自分の場合は、日傭労働者が働いているか、溢れているかということであった。
   課長は喜んでいる。
   我々の肉は変化するが、霊は永久に変らない。
   我々も木村氏の如く、奉仕しなければならぬ。
   そうして善き羊として数えらるるものでありたい。
   タラントの教訓。我々には木村先生の如き多くのタラントはないかも知れないが、与えられた能力を以って、
   善且つ忠なる僕として働きたいものである。
     *      *      *      *

 神戸市の「社会課」は、内務省が1919(大正8)年12月に地方局の「救護課」を「社会課」に改称したのをうけて、上記のように翌年(1920年)春直ぐ「社会課」とし、兵庫県もそのあと数ヶ月遅れて改称する。賀川の「死線を越えて」の出版と同じ年のことであった。
 賀川豊彦・武内勝の仕事と重ねて、改めて「神戸市社会課長木村義吉」の神戸における大きな仕事を学んで見たい。

     *     *     *     *

 こうして「木村義吉」を探していたところ、「保育の先覚者たち―人物でつづる兵庫・神戸の保育史」(昭和56年)を以前読んでいたことを思い出し、取り出してみると、その中に5頁に渡り「木村義吉と神戸市保育行政」の項があった。
そこには、木村の写真も収められていた。

「神戸市の社会事業の父」と小見出しがあり、明治15年岐阜県大垣市に生まれ、昭和12年に神戸報国義会で講演中に倒れ、56歳の生涯を閉じるまでの木村の生涯が、簡潔な筆致で綴られていた。

 「明治41年南カリフォルニア大学で神学と社会学を学び、大正4年帰国し新潟新発田教会で働き、大正6年横浜フェリス女学校高等部教授を経て、38歳の時、大正9年、初代の「神戸市社会課長」に就任した。」

 昭和10年に退職までの16年間、社会課長の職責を存分に発揮して、大きな仕事を担ったことが分かった。

 (上に取り出した武内の手帳は、昭和24年のもので、この時木村義吉が逝去したものと推測していたが、昭和12年に木村は生涯を閉じていて、没後12年後の「式執行」は如何なるものであったのだろうか。新たな問いを残す事になる。)

 なお、上記メモを延原先生に届けた折(2009年6月30日)、折り返しのメール便で次のコメントをいただいた。

 「新しい「お宝」有難う存じます。武内勝さんの上司、木村義吉氏(神戸市社会課長)は、明治41年南カリフォルニア大学で神学と社会学を学び、大正4年帰国して新潟新発田教会に赴任、とありますので、我々の大先輩ですね。クレアモント神学院は、もともとSouthern California Universityの一学部でして、1958年に独立して現在のクレアモントのキャンパスにLAから移ったものです。昨年、カブ先生の83歳のお祝いをいたしましたが、それは同時に、Claremont School of Theologyの移転独立50周年記念祝賀の意味もあって、Process Theology ProfessorのChairを設置するイベントの時でもあったわけです。事象は不思議に繋がりあっていますね。木村義吉氏の場合には、その在家社会神学が追究されなくてはならないことでしょう。」

 ところで、「木村義吉」に関しては、既述の『福祉の灯―兵庫県社会事業先覚者伝』(兵庫県社会福祉協議会、昭和46年]の358頁~370頁にわたって、重要な論考がある。本書の編集・執筆は小林武雄他7名が当っているが、それぞれの項目の担当者は銘記されていない。ここには最初の個所のみスキャンさせていただくが、大切なものであるので、次回に付録として、このドキュメントはまとめてスキャンしておきたい。(2009年6月23日鳥飼記す。2014年2月5日補記)

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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(22)


  賀川の眼病と阪神間への引越し予告
        春子ほか代筆の武内勝宛封書
 
 既述の通り、今回の「玉手箱」の新発見には120通を越える「賀川夫妻の書簡」が収められていた。
 これまでここで取り出したものは、主に賀川の神戸時代、旅先から武内勝宛に送られた絵葉書などで、まさしく「玉手箱」の「お宝探し」の旅であった。そして賀川の家族が東京松沢に移ったあとの書簡の中からも、神戸イエス団の「西川のおじさん」を悼む「馬の天国」に纏わる一文も眺めてみた。

 今回は、一つの封筒に収められていた「春子ほか代筆の三つの書簡」を、下に並べてみた。
 「春子ほか」としたのは、三つの書簡の内、春子の筆跡と認められるのは第三書簡のみで、第一・第二書簡並びに封書の表裏は、ほかの方の筆跡である(これは何方の筆跡であろう?)。
 三通とも200字詰めの「賀川原稿用紙」に書かれている。

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 封筒の差出には「府下松沢 賀川豊彦」だけ書かれ、表も「神戸市東遊園地労働紹介所 武内勝様 親展」とある。
 誠に簡略なもので、これで郵便は届いている。切手は「参銭」。

 この封書も消印はまったく読み取れず、春子代筆の第三書簡のみ「八月二日」と日付がある。
 
      *     *     *     *

第一書簡(3枚)

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  武内勝様

 長い間、ご無沙汰して居ります。私は眼病で約五拾参日間寝て仕舞いました。明日あたり一先退院したいと思いますが、それはあまり長々寝て居るので、神経衰弱や胃傷の方が悪くなったので、それを一先癒やして来たいと思って退院するのです。いまだに文字が見えないので弱って居ます。然し失明せずに済みました。
 先日神戸消費組合の事に就いて、中山君と本田君へ手紙を出したのですが、返事を呉れないものですから、貴方に手紙を書きます。
 れいの組合長の問題ですが、社会課長の木村義吉君から福井君を再度組合長にしてやって呉れ、と言うて来られましたが、他の理事の意見は何うなのですか知ら、他の理事が宣いと言えば、私に於いてはあまり反対はありません。然し従業員側の意見は何う言うふうですか。その辺の消息を至急お知らせ下さい。奥様の御様子は何うですか。御快癒をせられんことを、専一に祈ります。
代筆を御免下さい。
                             賀川豊彦


    *     *     *     *

第二書簡(2枚)

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 武内勝様

 前略 御手紙有難う御座居ました。
 日暮通り三丁目の家を明けることについてはあまり急がないで下さい。その理由は、私が神戸に帰って新川で眠る所がないと困りますから、私は阪神間にいま土地を見つけて居るのです。そうして九月の末頃には、適当な所を見つけて、道具と書物を移したらと思って居ます。それまで何うか家の方は早く処分しないでおいて下さい。何分よろしくお願いします。
 主にありて、イエス団の上に恵みあらんことを祈ります。
                            賀川豊彦(書名のみ賀川)
 乱れ書で代筆をお赦し下さい。


       *    *    *    *
 
第三書簡(2枚)

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 武内勝様

 毎日お暑う御座います。
 先日はお手紙を以って映画に就いてお問合わせで御座いましたが、御殿場に止まって居りましたので、今日まで拝見いたしませんでした。従って、御返事が延引いたしました。
 映画はいつぞや、神戸で普選運動の映画で、失敗いたしました事も有りますし、どうも成功は覚束ないと思います。
 兎に角、興行物は六ヶ敷様であります。私の考えでは、致すことに反対であります。

 旅行に疲れましたので暫く草津行も見合せ、松沢で静養いたしております。今夕は、武内周一様もお出で下されました。今日午後六時二十分過、強震が有りました。神戸は如何かと思いましたが、震源地が千葉であるため、安心いたしました。では、お返事まで 
                             賀川豊彦
 代筆
 八月二日  

        *     *     *     *

 豊彦は、眼病には生涯のうち幾たびも苦しんできた。
 春子は、豊彦より早く眼病に罹り、1917年(大正6年)に右眼の視力を失っていたが、豊彦も神戸時代、1923年1月トラホームが悪化して4月から4ヶ月も入院治療を強いられている。
 病み上がり直ぐ、関東大震災の救援で神戸を離れ、翌年(1924年春)にも眼病を悪化させている。

 今回の封書にある「眼病で五拾参日間寝て」いて「明日退院したい」という書簡は、下記の記述などから推測してみて、豊彦の三度目の眼病の悪化となった1926年(昭和元年)3月からほぼ半年、一時は失明状態になった、あの時の書簡ではないかと思われる。

 「賀川豊彦全集」24巻所載の「身辺雑記」には、1926年の頃のことを賀川は、次のように書き記している。

 「七月二十九日から開かれる、御殿場のイエスの友全国大会に私は出席したいと思って居ります」(61頁)「八月、草津に居る間、「魂の彫刻」という、一冊の書物を筆記して貰いました」「草津から帰って、私は直ぐ大島医院に入院して、眼球の鬱血療法を受けました。」(68頁)「十月七日家族を引纏めて、私は西に帰って来ました。子供の為に武庫川に沿うた野原に小さい一軒の家を借りました。」(68頁)

 豊彦の「死線を越えて」三部作に続く「自伝小説:石の枕を立てて」(実業之日本社、昭和14年)は、東京を拠点とした3年間の出来事を取り上げたものであるが、この小説の末尾には、

 「大阪と神戸の中心地である阪急沿線西宮北口に一軒の家を探して貰った。・・東京郊外松沢村の小さな家をたたんで東京駅に向かった。・・三年間東京のために尽くした報酬は、空っぽの飯櫃と何十円かの借金とであった。しかし、新見はその凡てを感謝した。喜代子は小さな蒲団を子供用のために延べて感謝の祈りを捧げていた。それで新見もそれに加わって、神の不思議なる恩寵に対して感謝した。外は暗かった、しかし、長屋の電灯は明るく光っていた。」

 小説のそこには「吉本健子も親切に東京を捨てて神戸に随いて行ってくれることになった・・」とある。
 どうも第一書簡と第二書簡の「代筆」をした人は、あの「吉本健子」さんのように思えてくる。これは彼女の筆跡かどうか、お教えいただければありがたい。

 賀川豊彦は、其の後も眼病の治療で、1940年4月、東京中野病院に入院している。
              (2009年6月19日鳥飼記す。2014年2月4日補筆)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(21)



  「死線」を書かぬと生活に窮する・・
         あまり人に言わないで下さい
 


 「玉手箱」に残されていた賀川豊彦の書簡のうち、特に薄汚れた「郵便はがき」が一通あって、どうこれにコメントをつけて紹介するか思案をしている。


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 表は、「神戸市加納町下 東遊園地内 東部労働紹介所内 武内勝様」とあるだけである。
 先に紹介した「中国の旅」と「台湾の旅」に使用された切手と同じ図柄の「大日本帝国郵便:壱銭五厘」の上に「?7 17」の日付が目視できる。


 そして裏の本文は「あまり人に言わないで下さい」と結ばれた走り書きのような私信で、次がその中身である。


    「死線」を書かぬと生活に窮するので
     仕事にアリマ(傍点)に来ました。お子供さんのこと
     が気にかかるのです。祈っています。
     日曜日は帰りますが、木曜日をよろしく
     お願します。近い中に六甲の茶屋に引っ越す
     かも知りませぬ。
                      トヨヒコ
     あまり人に言わないで下さい。



       *    *    *    *

 「「死線」を書かぬと生活に窮するので・・」というのはどういう意味なのか。
 「死線」は全三巻あるが、大正9年10月出版の爆発的売れ行きとなった第一巻を仕上げる時なのか。それとも翌大正10年刊行の「中巻:太陽を射るもの」の執筆の時なのか。はたまた賀川夫妻が震災復興のため神戸を離れた後、大正13年に出された「下巻:壁の声きく時」を仕上げる時なのか。

 賀川が「書かぬと生活に窮するので」ということばには、彼の生涯を通じて著述活動に打ち込むときの大きな要因のひとつであったと思われるので、とりたてて注目することもないかも知れない。

 しかし、ここに「「死線」を書かぬと」と言うには、また特別の思いがこめられているようにも思われる。
 特に「死線を越えて」の第一巻で莫大な収益を収めることになった賀川は、それらを「私する」ことなく、すべて関係する諸活動のために注ぎ込んだ。それが彼の生涯を貫く生き方でもあった。

 事実、第一巻刊行と同じ年、大正10年夏の川崎・三菱大争議で、多数の弾圧を受けた人々の生活支援に多大の資金を注ぎ込み、農民組合・消費組合・救済所・労働学校などにも活かしたことは、よく知られている。

 しかがって「第一巻」のベストセラーによる「生活の飛躍的拡大」は、いつも「生活に窮する」事態を生み、さらなる冒険的開拓を重ねることになる。

 すると、賀川は「死線」を書くために妻・ハルにだけ告げて、いっとき「新川」を離れ、1週間ばかり、密かに「アリマ」にこもって執筆する時をつくることは、大切な選択であったであろう。

 賀川は、ハルと共に厚い信頼を置く武内に、「木曜日」の集会の役目を任せる、これは「依頼便」である。

 文面には「お子供さんのことが気にかかるのです。祈っています。」とある。

 「玉手箱」の武内勝の手帳・日記には、賀川と共に過ごした大正時代のものは残されておらず、武内夫妻のご子息のこともわからず、結局「死線」を書くために「アリマ」に滞在した年を確定できず、お手上げ状態であった。

 ところが、この葉書の唯一の頼みとなる「消印」をスキャンし拡大して確かめると、何と「馬有 庫兵」「12 7 17」が浮かんできた。

 ならばこの葉書は、大正12年(1923年)7月17日、有馬から発信されたものであった。

 一ヶ月余りしてあの「関東大震災」が起こり、イエス団の人々は総力を挙げて救援活動に打ち込み、賀川は深田・木立・田井等と共に上京し、武内は神戸イエス団の全責任を託されることになる。

 「アリマ」で執筆していた「死線を越えて 下巻 壁の声きく時」は、巻末に大正11年の「台湾の旅」と長男・純基(小説では「真基」)の誕生、大正12年9月1日の震災救援に出向くまでを書き込み、「死線を越えて」三部作は完成し、大正13年11月、改造社より刊行されるのである。(2009年6月17日鳥飼記す。2014年2月3日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(20)


   「馬の天国」と西川のおじさんの死


 賀川豊彦の武内勝宛封書の中に、「イエス団」の西川のおじさんの悲報を耳に吃驚する賀川が、「涙が多くて泣きやみません」として、ご遺族への伝言を頼んだ、藁半紙一枚が収められている。

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 封筒の裏は「東京都本所区松倉町二丁目 賀川豊彦 本所基督教産業青年会」と印刷され、あて先は「神戸市加納町下ル東遊園地 神戸労働紹介所 武内勝様 侍史」とある。
 消印は「13.8.29」と鮮明であるが、大正13年のものだろうか。「西川のおじさん」の没年があきらかになればはっきりすろのだが、いまはそれもわからない。

 この中にはもう一枚、藁半紙に書かれた一文があるが、いまのところ私には書面の中身が分明でない。これは、例の「歯ブラシ工場」建設に関わる文面の様でもあり、武内らが大阪にその技術実習に出向いてことがあるので、その時の書簡だとすれば、時代は全く違って来る。
 賀川の筆跡は、両方とも同じようでもあり藁半紙に走り書きしたもので、署名が「豊彦」と「トヨヒコ」の違いがあるだけでもあるが、どちらも全く日付のないもので、もうすこし時を置いてから、謎解きをしてみたい。

       *     *     *     *

武内勝兄

食堂で会話をしていましたら、馬島ドクトルが西川のおじさんが死んだというているので吃驚しました。多感な私は、それからそれと涙が多くて泣き止みません。
「馬の天国」を書いた時に、私は西川さんを心から讃美していたのです。それであの親切なおじさんを書いたのです。
イエス団に、井上のおばさんの写真と、西川のおじさんの引き伸ばし写真を掲げて置いて下さい(17字傍点)。
プロレタリアの信仰の先駆として善き記念です。
「主にありて死ぬるものは幸いなり」
私は、西川のおじさんや、井上のおばさんのような善人に死なれて、悪人ばかりはびこる世界が悲しくなります。
西川のおじさんを、心より今も思うています。あなたからとくに遺族によくお伝え下さい。
愛兄は御自愛下さい。あまり無理をしないで下さい。
主にありて、凡てを愛の下に置き給らんことを アーメン 
                          豊彦


         *    *    *    *

 賀川の書いた童話「馬の天国」は、大正9年出版の「地殻を破って―散文詩」(福永書店)の巻末に収められた名品である。西川のおじさんは「石川常次」として描かれ、馬好きの常次が「馬の天国」の夢を見るお話になっている。ちなみに、その書き出しは、
 「石川常次は十二になる子供でありました。四度神戸の小学校を落第して、まだ尋常の三年生でありました。今度の学年試験にも四度目に落第して、三年級に三年居ることになって居ました。然し常次は平気なものでありました。・・・」
 ではじまり、
 「常次はその後段々大きくなって、馬に乗ることと、馬の気を知ることと、馬の食物に就いて日本一の物知りになりまして、立派な人になりましたとさ。」
 でおしまい。
        *    *    *    *

 この童話は、後に少し手を加え、他の「青芽の草笛」「驢馬とイエスさま」「大臼の案山子」「のぞみの国」4篇を入れ、これを巻頭に収めて、「賀川豊彦童話集 馬の天国」として、昭和8年に日曜世界社より刊行され、多くの人々に愛された。(2009年6月15日鳥飼記す。2014年2月2日補記)

    ♯       ♯

 追記

このブログで、かつて現在手元に所蔵している賀川豊彦の著作の序文を長期連載した時の第72回『賀川豊彦童話集・馬の天国』(昭和8年9月15日 日曜世界社 152頁)があり、それを参考までに再掲して置く。

 昭和8年に出版された本書『賀川豊彦童話集・馬の天国』は、昭和9年に再版され、第3版は昭和14年に出ています。そして私の手元にあるものは、昭和16年に出版された第4版のものです。そしてその「序」を収めます。また戦後昭和26年にも本書は早川書房より再販されていて、その新しい「序」もここには取り出して置きます。

 
  童話『馬の天国』序

 このお噺は、わたしか、創作したものであります。西洋人の作つたお噺とちがつて、日本人として生きて行かなければならないお伽噺の世界があります。
 私は、毎年、年を加へますけれども、一生、お伽噺の世界から抜け出すことが出来ません。私は、いつまでも、お伽噺の世界に住んでゐます。それで、こんな書物を書いたのです。日本の子供たちに限らす、大人が、私の童話を読んでくれると、非常に幸ひだと思つてゐます。

  一九三三年八月廿五日
      
            賀 川 豊 彦  武蔵野の森の中にて


 この童話作品は、前記のように戦後になって昭和26年8月に早川書房より『馬の天国―賀川豊彦童話集』として、以下の新たな序文を書いて出版されています。賀川全集では、上の初版はカットされて、以下のものが序文として収められています。


    馬の天国 序

 私の宅に黒馬がいた。
 阿波の田舎で育った幼い時の私の日課は、毎朝草刈りで始まった。その馬は二歳の時に片限になった。義理の祖母は日の出前に私を起して、裏の田圃の畝道の両側にはえた萱や茅、げんげなどを「ふご」一杯に刈ることを命令した。私は満六歳に足らない時から、馬と心安くなった。
 黒馬が他に売れて行き、鹿毛の牝馬が厩にはいって来た。祭の日には、徳川時代から伝って来た金蒔絵の鞍をその倉庫から収り出してきて馬の上にのせ、番頭が、村の鎮守に曳いて行った。
 私は、馬を羨やんだ、馬は私より大きく、私より大事して貰い、金ぴかの鞍を背中にのせて出て行く。馬の方が、私より遥にえらいと思った。
 十七になって、私は三河の山奥の津具村の馬と親しくなった。此処では、馬に柴をつけると、人問がいなくてもひとりで家に帰ってくる。
 馬と人間のまじわりには、全く私の想像以上のものがあった。
 だが、私か、神戸の貧民窟に住むようになって、近くにいた馬蹄鉄屋の西川のおじさんは私に親切にしてくれた。私はその人に馬に乗る秘訣を教わった。そして馬を心の友人とすることを覚えた。
 「馬の天国」は、その親切な西川のおじさんが筆を取らせたと考えてくれてよい。狂人と、乞食とゴロッキの多い貧民窟の近くにも、馬と西川のおじさんは、浮世をはなれて私をすぐ天国に導いてくれる親切さがあった。馬と西川のおじさんのような大の親切があれば地上も、天国に遠くはない。
 私にとって、お伽噺の国は昨日の話ではない。年を取っても私は「おとぎ」の国にいる。馬と犬と烏と、親切な人間に会う度に、私はすぐおとぎの国に帰って行く。

   一九五一・六・二五             

         賀 川 豊 彦 東京・松沢
      
 



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(19)


 賀川最初の「中国の旅」から武内への絵葉書

 前回は、大正11年(1922年)2月の「賀川夫妻の台湾の旅」の絵葉書2枚を眺めてみた。今回のものは、消印は「6」が読み取れるだけで判然としないが、表書きに「九月八日 北京にて」とある。


img471.jpg


 宛名は「日本神戸市 葺合区吾妻通五丁目 イエス団 武内勝様」とあり、
 本文は、

     支那は困った国です。唯今は飢饉の最初です。
     之から冬にかけ幾万人かが死ぬでしょう。
     留守を色々お世話になります。
     支那の平原を祈って通って来ました。
     十五日頃帰ります。          
                  賀川豊彦 
                   ペキンにて


img472.jpg


 この絵葉書を眺めているだけでは、これが何年に差し出されたものかを確定することは出来ない。しかし、有難いことに米沢和一郎編「人物書誌大系37 賀川豊彦Ⅱ」(日外アソシエーツ株式会社、2006年)599頁~657頁には新しい「年譜」が収められていて、特にそこには賀川の外国伝道の詳細が記されている。

 この絵葉書の本文にある「十五日頃帰ります」の文字と「九月八日 ペキンにて」を「年譜」に重ねると、どうもこの絵はがきは「大正9年(1920年)9月8日」に差し出されたことが判明する。

 「年譜」によれば、1921年8月19日から24日まで、賀川豊彦は、上海日本人会YMCAの第1回夏季自由大学講座の「応用社会学」の講師を務め、20日から25日までの5日間、青年会館において「聖書講義」を行なっている。

 この時、内山完造の仲介で、孫文とも会見。8月28日朝、上海を去っている。そして彼は中国各地を巡回して、9月15日夜遅く神戸貧民窟へ戻る、とあるのである。

 それは10月3日に「死線を越えて」を出版してベストセラーになる直前のことである。

 この書簡は、したがって前回の「初めての台湾の旅」(大正11年)より2年前の「初めての中国の旅」先から、武内勝に書き送ったものということになる。

 なお、前回の「阿里山登山記念」とスタンプの押された「阿里山扁柏林」の絵葉書も、そして今回の「支那風俗」(A Native Sedanchair in Shangha)の絵葉書(別掲)も、いずれもMADE IN JAPANであり、貼られている切手も日本国内と同じ「大日本帝国郵便」の「壱銭五厘」であるのも、当時の日本を伝えるものである。

 前記『書誌体系』の「年譜」をなどって見ると、賀川豊彦は戦前、敗戦までの9度にわたって中国を訪問している。ただし、彼は戦後一度も中国に足を運んだ形跡はないようである。(2009年6月13日鳥飼記す。2014年2月1日補記)


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