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賀川豊彦の畏友・武内勝の所蔵資料より(63)

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    開拓的事業継続に伴う苦労     

 今回取り出してみる賀川豊彦の書簡は、昭和13年3月と4月のふたつである。「時局の影響をうけて、書物の売行が全く止ってしまひ、原稿の注文が無く・・」といった賀川自身の「苦労」の実情は、個人雑誌「雲の柱」などにも決して書かなかった内容である。

 「時局の影響」といえば、例えばあの「約束の聖地」(昭和14年、日曜世界社)に於いては「91、92頁は其の筋より削除を命じられましたから切り取りました」という紙を貼り付けて読者に届けられた。

 「死線を越えて」では「その筋の」検閲で伏字も多く、「労働者崇拝論」は発売禁止となってしまったが、完成した本の一部を、こうして「切り取る」命令も存在したのである。

 こうした中にあっても、翻訳を除く自著だけみても、昭和13年には「世界を私の家として」「神と贖罪愛の感激」「第三紀層の上に」「小説キリスト」が、昭和14年には「沈まざる太陽」「約束の聖地」「自伝小説:石の枕を立てて」などが、次々と出版されている。

 賀川とその仲間たちは、次々と新しい事業を開拓・継続する苦労を積み重ねたのであるが、今回発見された120通余りにのぼる賀川書簡には、その日常の金銭上の苦労や細やかな気配りが認められており、そこがまた重要で面白く貴重に思えてくる。

     *      *      *      *

 「賀川原稿用紙」1枚 上北沢町の自宅から昭和13年3月15日に差し出され、宛先は「兵庫県武庫郡瓦木村高木 武内勝学兄」とある。

学兄宛書封書

 「武内勝学兄」と書くことは多くはないが、本文冒頭には「武内勝教兄」という珍しい書き方がなされ、その下に「賀川豊彦」の署名があって、さらに文面末尾にもう一度「賀川豊彦」の署名がある。
 
時局の影響



    武内勝教兄
                                賀川豊彦
  冠省
  時局の影響をうけて、書物の売行が全く止ってしまひ、原稿の注文が無くなりましたから、
  神戸への送金も、何割か削減せねばならなくなりました。何卒御研究下さい。大阪消費組
  合の方は幸ひ「灘」が引受けてくれてほんとに助かりました。
  主にあれ
  月末に一日だけ「灘」に行きます。 
                                賀川豊彦

      *      *      *      *

 賀川豊彦の住所と名前が印刷された罫入り用箋4枚に記された速達便である。差出は同じく上北澤町から、昭和13年4月12日投函されている。宛先は「西宮市西宮北口 南芝781 一麦寮 武内勝様」

  武内勝様
  前略 速達を拝見いたしました。電報と御手紙で申上げました如く、林彦一氏より五千円の送金
  あり、灘購買組合より借入れました一万一千円の内金として金五千円を直ちに四月九日附を以っ
  て送金返却いたしました。
  それで、後の七千円を一時三井銀行より融通し、そのうち、又、三井銀行へ支払って行きたいと
  思って居ります。それで何卒、三井銀行よりは、七千円以上お借りにならない様御願ひいたしま
  す。

  造作費一千五百円也、承知いたしました。床の間を取り払う事も、良いと思ひます。然し、南側
  へ薬局を持って来る事は反対であります。
  その理由は緑がある為に暗くて昼間、はかりのめもりが、見えません。その上に、診察室は第一
  診察室、第二診察室と、広く取って頂きたいものです。でないと、若し、眼科と、内科を開く場
  合に、困難を来します。
  で、どうしても、最初、貴方が設計せられた通り、東側の窓の下に薬局を、お設けください。こ
  れは芝八重の家の所から云ふならば、むしろ近い方でありますから、無理ではないと思ひます。
  本田君の方に、金が、千円ばかりある筈ですから、造作費の一部分を、その方から融通してでも、
  大至急、始めて下さい。
  私は、今週木曜日の晩、東京を出発、金、土、日と三日間位の予定で、銀行の交渉なり、造作の
  都合なりを見に参ります。それで、中田均氏を上京せしめられなくとも、よいと存じます。
  一番心配してゐるのは住み込む人がない事です。その為に祈ってゐます。
  その為に特に御祈り下さい。御願いいたします。
  主にありて   
                                 賀川豊彦


    *       *       *       *

 「世界を私の家として」生きた賀川であるが、いつも自らの足元の諸課題を気に掛けながら、一番信頼を置く武内勝と、その苦労を分かち合って歩んでいた事が、これらの書簡に伺える。

 先日(2009年10月14日)、待望の「賀川ハル史料集」(三原容子編:全3巻:緑蔭書房)を読ませていただく機会をえた。
 ただ今、これを読み始めているが、豊彦以上に「開拓的事業継続の苦労」を背負っていたのがハルであり、そこでの見事な手綱捌きのわざを味読したいと思う。
 これまでにもここで紹介してきた多くのハル書簡にもそのことは明らかであるが、この度の「史料集」には残念ながら今回の「お宝」は収録できなかった。
  
   (2009年10月16日鳥飼記す。2014年3月31日補記)


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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(62)

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  中井一夫神戸市長、賀川に「神戸市顧問」要請 

 昭和20年の敗戦直前7月27日、神戸市議会の全員一致で中井一夫が市長に推薦され、8月11日内務大臣から神戸市長に任命された。

 一方賀川は、敗戦後すぐ9月24日、厚生省顧問を引き受けている。

 今回取り出す賀川の10月10日付けの武内宛書簡には、「新市長中井一夫に神戸市顧問を要求せられ」たことが、記されている。

 中井市長は賀川の紹介で、昭和20年11月7日マッカーサー司令官を訪問して食糧危機を訴えるなどする。中井は賀川より1歳年したになるが、衆議院議員や神戸弁護士会長などを務めた。

 中井と賀川の関係は途絶えることなく、賀川没後の記念館の建設や賀川全集の普及にも協力し、賀川生誕百年の記念式典にも御高齢を押して矍鑠とした勇士を見せた。

 その翌年(1989年)には「神戸市名誉市民」の称号を受け、満百歳を記念し、須磨離宮公園に「中井一夫先生百寿像」と「平和」の文字を刻む大きな記念碑が建てられている。

               中井市長


 なお、「人物書誌大系」37の「年表」によれば、「1945年10月1日、原口統次郎市長の要請により、神戸市顧問となる」とあるが、賀川の記すとおりこれは「中井一夫市長に要求せられた」のが正しいのであろう。
 
     *       *       *       *

 この書簡は、本文と封書に「十月十日」とだけあり、封筒の消印は消えているが、内容からして敗戦後直ぐの昭和20年10月10日と見てよい。

 差出元は、「東京都神田区錦町1丁目6番地 日本基督教団事務局」で、印刷封筒に賀川豊彦の署名がある。中身1枚の速達便である。

 宛先は、「兵庫県西宮市北口高木町南芝 一麦保育園 武内勝様 侍史」
 本文は、

   前略
   御手紙拝見いたしました。新川の建築何卒よろしく「十五坪」位のもの至急願上ます。
   また誠行さんの豊島行はもし御希望なら空室を用い、荒地開墾利用下され結構であります。
   然し何分にも不便につきその点良く御諒承下さるやう御伝へ下さい。

   私は此度「神戸市顧問」になってくれと新市長中井一夫氏に要求せられ、本月末に四五日
   参上いたします。その際、色々詳しく申上ます。吉田源治郎氏にもよろしく御伝へ下さい。
   何分にも寒気に向ひつつも家なく食なき人々多き為め、日夜努力しつつも、結果が報ひら
   れずに居ります。
   ただ伝道だけは少し目鼻がつきさうです。
    十月十日 
        主にありて
                            賀川豊彦
    武田勝兄

      *       *       *       *

 賀川豊彦はその最晩年、昭和31年10月1日、神戸市教育委員にも就任し、特に神戸市の「愛護教育」(一般に当時「同和教育」と呼んでいたが、和歌山県では「責善教育」、岡山県では「民主教育」などと名称は多様であった)に強い関心を持ち続け、神戸市内の関係行との具体的な関りを持っていたことは、拙著のなかでの紹介している通りである。

     (2009年10月12日鳥飼記す。2014年3月29日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(61)

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  賀川豊彦40代の抱負あれこれ
   大正15年2月10日付武内宛書簡

 賀川は、大正13年暮れから14年7月末まで米国・欧州旅行を試み、帰国後11月には吉田源治郎と共に「日本労働者伝道会社」を創立し「四貫島セツルメント」を開設した。そして12月には、ジョン・R・モット博士を迎えた鎌倉の協議会で、あの「百万人救霊運動」私案を発表して、この大正15年を迎えていた。

 今回取り出す大正15(1926)年2月10日付けの武内宛書簡は、彼の活動拠点が、従来の神戸・東京に加えて新しく大阪に出来た事から、居住場所も大阪近辺に移し、大阪を中心にした都市伝道と杉山元治郎と共に農村伝道に打ち込もうとする「私の四十時代」を目前とした新たな抱負を述べたものとして注目させられる。この時、賀川は38歳である。

 賀川はこの書簡を送った後、翌月にはトラホームが悪化して入院、失明常態となり、9月にも眼科への入院を強いられるが、10月には予定通り、兵庫県武庫郡瓦木村高木東口に移り住むのである。

    *      *      *       *

 「本所基督教産業青年会 東京市本所区松倉町二丁目六十二番地」と印刷された用箋7枚に書かれた書簡が、同住所と「賀川豊彦 本所基督教青年会 電話墨田三七六四番」の印刷された封書に入り、宛先は「神戸市東遊園地 神戸労働紹介所 武内勝様侍史」、そして珍しく「親展」と書かれている。
 消印から、大正15年2月10日と判る。
 文面は次の通り。

             賀川の武内宛書簡


 拝啓
 先日御話のありました鐘淵紡績会社の高砂療養所の世話する人がゐるという話でしたが、只今、伯爵 勝家に家事見習いをして居られる田邊さんは、そういった方面に行き度い事を希望して居られます。
 私の集会で決心せられた為に、勝家の妾をして居た人と折合いが悪くって、此の四月から何処かに出たい希望で居られるのです。勝家にはもう五年以上務めて居られるので、それだけでもよく素質の善い婦人であることが解ります。履歴書を入れて置きますから、当って見て下さい。若しも駄目でしたら更に送り返して下さい。

 私が来る廿二日に一寸神戸に帰ります。
 其際またお話をしたいと思ひます。此度、智識階級専門の職業紹介所ができる事に委員会では決定致しました。

 神戸の伝道もも少し力を入れて見度いと思ひますが、ご承知の如く、私は昔より、より多く筆をとらなければ、神戸・大阪・東京の三ヶ所を支へることが出来なくなりました。その為に、どうしても、どこか郊外に仕事場を作って置かなければならないのです。そのために、書物などは全部仕事場に移し度いと思って居ります。或は、今津の吉田源治郎先生に全部書物を管理して頂いたらばよいがと思って居ります。
 私はもうそろそろ東京を引上げる準備をして居りますから、阪神間に於ける仕事場を考えてゐます。
 東京の伝道は実に面白くって沢山決心するのですが、本所の伝道は特別に愉快です。然し大阪は、日本で最も道徳的に腐敗した街であるし(私生児は日本一だし、公娼の数も人口割にして日本一だし、私はどうしても大阪で伝道しなければならぬと決心して居るのです。)何だかもう大阪に行く頃だと思ひますから、私の四十時代を大阪を中心にした都市伝道と農村伝道に集注して見度いと思って居ります。只今の所では、伊丹付近に杉山さんと一緒で松沢の様な村のセツルメントを設け度いと思って居るのです。そして私は、四貫島を中心にした伝道と西野田を中心にした伝道に努力したいと思って居ります。

 神戸の方は、どうしても、も少し労働者中心の伝道にしなければならぬから、伝道所を春日の道の方に寄った処に設けるか、それとも日暮れ通りで集会をするようにでもするか、も少し労働階級一般に接近出来るような方法をとらなければならぬと私は思ひます。それ等の点に就いて、私は、あなたに御考へを願ひ度いのです。も少し経済的にもやり度いし、能率も上げたいし、今の様にしてゐては駄目だと思ってゐます。
 長田の方でも出来るならば、宗教座談会の形式で何かの方法で伝道が開拓されればよいと思ひますし、御蔵通の方も手を着け度いと思ひます。

 徳廣さんが井上君の説教が余り講談が多いので困ると言って来ました。少し注意してやって下さい。余り伝道的でなければ、あなた自身がやって下さい。そして若しも出来るなら、徳廣さん等を中心にして、長田方面の宗教座談会を別に開いて頂いても結構です。此度私が大阪に帰れば、神戸の方の伝道も少しは目鼻が着くと思ひますが、も少し確かりしたいと思ひます。

 私は今、旅行日記雲水遍路を執筆で昼飯も毎日餅ばかり食って書いて居ります。併し、各方面の講演に忙しく引張り出されるので弱って居ます。公娼制度破壊論、禁酒問題、消費組合、次から次へと忙しいので困って居ります。それに、農民組合の仕事はあるし、労働党に関する問題にも参集するし、毎日忙しくて困って居ります。

 入院して居る姉の事に就いても何分よろしく御願いします。まことに済みませんが、本田君にいうて小遣を五円位送って上げておいて下さい。本田君に手紙を書く代わりにあなたから電話ででも云うておいて下さい。此間三百円送りましたから、其中から出して下すって結構です。

 来る廿五日に、日本全国の青年団の指導者に此度出来た神宮外苑の会館で講演します。何だか伝道の新しい糸口が開けた様に思ひます。各地の伝道は非常によい結果を挙げて居ります。
 今年も祈って下さい。
 
 武内勝大兄                  
   二月十日
                            賀川豊彦拝
 

    *      *      *      *

 この書簡の中に登場する吉田源治郎は、前記「四貫島セツルメント」の初代館長であり、昭和2(1927)年2月、同セツルメント内に設立されたに「大阪イエス団教会」の初代牧師であるが、大正9(1920)年に出た豊彦の作品「イエス伝の教へ方」(日曜世界社)の編集を手がけ、翌年(大正10年)の賀川の名著「イエスの宗教とその真理」(警醒社書店)は、吉田の見事な筆記によって完成された。その他も賀川の作品を多く仕上げ、自身の論文も多く、甲子園二葉教会や西宮一麦教会などの牧師を歴任したお方である。

 吉田源治郎については、御子息の吉田摂氏の御好意で膨大な関係資料の閲読を許され、その後「賀川献身100年記念事業オフィシャルサイト」において長期連載が可能となった。本ブログでも改めて新たに再掲して置きたいと思っている。

       (2009年10月9日鳥飼記す。2,014年3月27日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(60)

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   賀川豊彦と武内勝:ふたりの役柄関係   

 今回から再び、賀川夫妻から武内に宛てられた書簡を取り出して置きたい。

 愈々「賀川献身」の日ーー1909(明治42)年12月24日ーーより「100年記念日」(2009年12月24日)が目前となった。新しい賀川記念館も完成間近である。

 豊彦は「葺合新川」での「新しい生活」をはじめて、ほぼ初期の段階から、その71年の生涯を閉じるまで、途切れることなく、歩みを共にした稀有の「友」が、いま取り上げている「武内勝」であった。

 豊彦は、神戸時代初期のあの米国留学の時より、神戸の留守を、すべて武内に託した。

 武内は、賀川の米国留学の間、それまで賀川が受けていた、マヤス先生などからの経済的支援を一切断り、青年たち17人が「共産生活」を試みており、武内は自ら「生涯のうちで、あの時が、最も愉快な時であった」と述懐する。

 あの3年足らずの期間を武内は「独立イエス団」と称して、大きな実験をかさねて賀川夫妻との再会を待ったのである。

 そして賀川夫妻が再び新川に戻り、労働運動や農民運動、そして救済運動や消費組合運動など開拓的な諸活動を繰り広げ、1923(大正12)年9月1日の、あの関東大震災を契機に、賀川夫妻などの仲間たちが神戸を離れて震災救援活動に打ち込んで行った後、神戸イエス団の働きの中心となったのは、専ら武内勝であった。

 賀川豊彦にとっては、同時にまた、生涯を貫いて、「新しい生活」をはじめた「神戸」はつねに、「出発の場所」であり「帰る場所」「帰りたき場所」であったことも、武内の証言においても、良く知られている事である。

 豊彦はすでに神戸時代、特に留学から帰国後の賀川は、国内はもとより世界を股にかけての活躍が続くのであるが、賀川は神戸の働きを事実上責任を担い続け、武内はその指示を受けつつその活動を支え続けたのである。賀川は神戸の働きを常に気に懸けながらの、疾風怒濤の東奔西走であった。

 そのことを示す二つの書簡を、次に取り出してみる。

       *      *      *       *

 一つは、東京上北澤から、西宮一麦寮の武内に宛てて、昭和18年3月16日投函された速達便で、「賀川原稿用紙」2枚に記されている。

                              武内宛賀川の書簡封筒表紙

 その文面は、

       武内勝様
       謹啓 来る三月廿七日(土)神戸イエス団財団法人理事会
       並びに財団法人愛隣館理事会及び評議員会を開いてくださ
       いませ。各方面に通知願います。
       時間はご都合により午後1時からでも、或は少し遅くても
       結構です。食事が出来ないでしょうから、時間は都合よく
       ご配慮願いあげます。
       又、廿八日(日本復活節)には、朝神戸イエス団にて礼拝を
       致します。
       又午前十時の礼拝を大阪聖浄会館 夜7時大阪四貫島にて
       各々礼拝説教を致しますから電話にてご通知願います。
       雲柱社の理事会は本日無事終了致しました。右にお願
       いまで
        主にありて                
                            賀川豊彦 
       尚、神戸イエス団報告書御作成願い上げます。
       また予算も作成願い上げます。

       
          武内宛の賀川の書簡


        *      *      *      *

 もう一通は、同じく東京上北澤から、西宮一麦寮の武内に宛てられた速達のハガキである。文面には日付がないが、消印から、昭和20年3月2日に投函されたことが判る。この後、賀川は5月27日、反戦並びに社会主義思想の容疑で、神戸相生橋署に留置されるのである。

 その文面は、

      冠省 小生こと来る三月十一日に西下いたし、愛隣館
      及びイエス団理事会を開催いたしたく存じて居ります。
      十一日午後二時頃、愛隣館で開催しては如何でせうか?
      ご都合伺います。愛隣館又、イエス団の予算及決算書
      を御作成願い上げます。
      右は御急ぎ御願まで 
                           賀川豊彦


       *      *       *       *

 武内は、初期段階ら一貫して、独立した職業人である。自らの日々の仕事をこなしながら「救霊団」「独立イエス団」「神戸イエス団」の働きに参画した人である。

 賀川豊彦が神戸を離れて後も、ここの牧師は賀川であったが、長期間に亘って武内が、信徒伝道者として「礼拝」「祈祷会」その他の役柄も、誠実に担い続けたのである。その日々の一端は「武内勝日記A」(昭和2年~4年)を閲読いただいた通りである。

     (2009年10月7日鳥飼記す。2014年3月25日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(59)

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 お宝発見「武内勝日記B」(4) 昭和36年10月~12月

 今回の日記の中に「賀川豊彦全集」全24巻普及の取り組みが記されている。
 全集の配本毎に収められる「月報」に、武内も寄稿予定であることが残された手帳にあったので、松沢資料館の杉浦先生にその「月報」を依頼したところ、過日全24巻全ての「月報」をお送りいただいた。当時の証言では「百三人の賀川伝」や「神は我が牧者」など知られているが、この「月報」に寄せられた多彩な証言も、大変興味深いものがある。

 ここに添付する写真は、「月報4」に収められているもので、鮮明な印刷ではないが、「全集刊行感謝会で挨拶する賀川ハル氏と隣は純基氏」とある。残念ながら「月報」には、お目当ての武内の寄稿はなかったようである。

ハルと純基


    *      *      *      *

         昭和36年10月~12月
10月
1日
 礼拝。

2日
 10時、大阪クリスチャンセンター総合協議会に出席の予定であったが、尼崎の薄井市長が、記念事業の募金に就いて面談したいとの連絡で、市長を訪れたが、市長の登庁が遅いので昼までかかり、午後センターに行ったらキリスト新聞の楯岡氏が、賀川全集の予約に就いて待っているので、同氏と共に灘生協、神戸生協等を訪問し、協議会には出席しなかった。

3日
 森短大、頌栄、啓明、農業会館、平井、十字屋、松蔭、ルーテル神学校、神戸改革神学校、YM、YW等を訪問した。

4日
 今日は関学の大学・高校、聖和、神戸女学院、中井一夫、岡部五峯、神戸新聞社等を訪問した。
神戸で(県下)200部は予約可能かもしれない。兎に角努力しよう。

5日
 安田信託を訪ね、東京の協会に記念事業のため寄付に協力されるよう依頼した。
片山、村井、神戸佐野氏等来団。

6日
 本多氏とイエス団の預金先につき協議したが、預金先を変更することに反対であった。イエス団全体の有利な預金をしたいと思うが、記念事業は他人の事に考えていて、頑として反対であった。
久仁子が外泊した。

7日
 イエス団の35年度の事業概要の原稿で終日かかった。
久仁子は今日も自宅。

8日
 礼拝司会。
午後畑仕事、よく働いた。自分でも感心するほど働けた。有難い事である。

9日
 久仁子の退院。
神視の事務打ち合わせで終日を費やし、イエス団の方は欠席した。

10日
 イエス団36年度の事業概要出版のための原稿で終日。
夜は、今津吉田牧師宅において、1月修養会の打ち合わせをした。出席者は少数であった。金田、天満教会牧師、緒方、武内、住道教会牧師。

11日
 今日も原稿だ。
ユニオンチャーチから保育園に贈り物が届けられた。外人ではあるが、毎年1回これを実行されるのは感心である。日本人にして、海外でこれに類した何かを実行しているであろうか。
久仁子は正式に退院した。先日中は外泊で帰宅していたのであったが、誠に感謝である。何うぞ再発しないように、感謝と祈りをした。

12日
 井上秀吉氏はイエス団助成金を辞退した。幾らかの家賃としてでもイエス団本部に納めたいと考えているので、助成は辞退するとのことであった。
2万円で全集を買い、3万円で調査し、残りの使用に就いては特に考えたい。

13日
 35年度の年報の原稿をやっと書き上げた。
賀川先生が、原稿書きが一番疲労するといわれたが、そのとおりであるとつくづく思わされる。
永井君、昨夜から来ている。結婚準備で気分の疲労が多く、殊に金のないのに金が必要なので、家内は神経を病んでいる。可能の範囲内でやれば幸せな事が、無理をしようとするから心配となり、苦となるのであるが、それが解っていて、そうした気分になれないらしい。多くの母親がこんなものであろう。

14日
 神視運動会及びバザー。天気がよくて結構であった。子供は運動会が好きで張り切っている。お母さんたちも百人ばかり集まっていた。弁当持ちのお母さんたちもあった。
バザーはいい品物がないためか、余り売れなかった。衣類に就いては矢張り見栄を張るのかもしれない。古着を買うのは少ない。

15日
 礼拝。役員会。伝道集会について。
永井君が帰京した。久仁子の結婚式で、何かと毎日忙しいと雪子が言う。出来るだけのことをしたらそれでよいものを。

16日
 終日イエス団にいて、賀川全集予約に就いて、学校名とその所在地其の他、依頼先を検討した。
生駒の土地買収に就いての登記、細川書記が登記に出張した。
村山牧師は東京出張。

17日
 尼崎に出張し、商工会議所に於いて尼崎市秘書課長、会議所の工業課長渡辺氏、専務新宮氏、商工連盟の稲垣氏、生駒、武内が記念事業募金に就いて懇談した。
専務は非常に協力的であり親切である。こちらの願いたいと思う事を全部承知してくれる。渡辺氏は信者であり僕とは同県人であって、またずっと以前から僕をよく知っている人であり、嘗ては職業相談もした事のある人であった。何かと話しに理解があって、仕合せな事であると思うた。
何れ募金計画の詳細を調べた上、尼での協力方方針を、市と協議の上決定されるであろう。

18日
 賀川全集予約について、キリスト新聞楯岡局長より協力を求め、殊に官公関係につき三浦先生に依頼して来ているので、三浦先生と打ち合わせ、楯岡氏に回答した。
兵庫県で200部予約を取りたいというが、果たして取れるか。
近藤氏と面会、宇都宮の件について。

19日
 村井、堀田両氏が山田の土地について買って欲しいと頼みに来た。
坪当たり100円でも場所があるという。但し山地であって、利用が容易でないであろう。山の利用に就いては研究の必要がある。残念にも思うが仕方がない。

20日
 高槻出張で、阪急の終点まで行って30分待ったが、本多氏が来ないので帰った。
給料日である。皆に支払った。岡田も訪問した。

21日
 港の祭りで休み、畑仕事をした。畑の仕事は実に愉快である。自分は生まれつき労働者であろう。狭い畑をよく耕作し、花に野菜、来年は果樹苗を植え、生涯の楽しみに、この土地を有効に使用する。
畑で労働の出来る事は、自分の生涯の最大の幸福である。

22日
 礼拝に家族全員が出席し、久仁子の退院と結婚に就いて教会員に挨拶した。
午後は宇都宮と土地を見に行った。土地の価値が上がっているので売りたいという者と、まだ上がるであろうし上がれば儲かるといって買う人がある。世はさまざまである。
後は仕事で、予定通り片付け、百合も250球植えた。球根が小さいので来年は花にはならないであろうが、再来年は見事に咲くであろう。これも楽しみである。

23日
 園児が相撲を取って、左腕を骨折したので見舞いに行った。
今日は市の監査を受けた。監査員はよくできて居ると評し、更にイエス団の仕事は市も同様なやり方で結構ですが、寺や個人の経営は営利的で感心しないとの意味であると、感想を述べた。監査が、園に来ただけでも雰囲気が違っていると誉めてくれた。神視は、番町でもっと地区の為になる仕事をやりたいものである。

24日
 久仁子の結納で休み、家にいて雑用に当たった。
永井理一氏は10万の結納金を置いて帰った。先日、長男の結婚式が済んだばかりで、負担の多い事に苦労された事であろう。形式的なことに金をかけすぎると思うが、社会的地位上止むを得ないものと考えられる。
式への出席は43名で、披露には一人当たり2000円以上を要するという。勿体ない事である。

25日
 修養会準備と理事会の準備をした。
午後は堀田氏の案内で、山田の土地を視察した。8万坪あり坪当たり100という。神戸の裏は山ばかりであるが、利用方法を考えれば役に立つものが多くある。営利を目的としないで利用法を研究すれば、大きな財産であるが、欲の為に何にも使用できないものの多い事を知った。
山で4時過ぎとなり、帰途散髪した。

26日
 午前中はイエス団で、村山牧師とさまざまな問題で懇談し、午後は一麦で土地買収の件で相談した。土地は甲が所有していたが、土地を担保設定して借金し、それが返済できないので、弁済に貸主乙が名義を変更しているので、現在居住者と地主との関係が明瞭でなく、また土地を買収してもイエス団で整地、利用は困難で、そのまま買い手がある場合、ハッキリしない限り買収は出来ない。田中久雄氏が報告してきた場合、それに基づいて更に協議する。

27日
 吉村館長宛、豊島の担保抹消と坂出の土地所有者の名義変更に就いて、文書を発送した。
神有電鉄の重役と会社沿線の土地に就いて懇談した。駅前で坪当たり500円とは安いと思う。27万坪買って欲しいと言う。現地を一度視察することにした。
祐一が帰宅した。

28日
 日雇労働者調査について労働組合と交渉中、兵庫県労働保険組合監査につき相談を受けたが、久仁子の結婚式の為変更してもらった。
結婚式の準備で、家内はバタバタ走り回っている。これで正式武長入社が決定した。彼は旅費10400円を支給され、それで写真機の付属品やフィルムを買ってきた。久仁子の写真をとるためである。

29日
 礼拝後、YMCAに於いて本城氏と賀川記念館募金につき打ち合わせた。
毎日雨が降る。洪水で大変な騒ぎである。本年の天候は不順である。秋はそれとしても冬は何うか。
久仁子の結婚準備は終わったようである。

30日
 今朝はこの間中に晴天で、気持ちのよい天候になった。
何か、久仁子のための晴天のような気がする、と家内は言う。有難い事である。
式は予定通りクリスチャンセンターで挙行した。式場の費用103350円という。貧しい者の家庭で、かかる金のかかる式の出来た事は誠に奇跡である。
久仁子を理学士にする事のできたのも、また奇跡のように考えられる。式が終わって、重荷が降りた感である。新郎新婦は、神戸の布引観光ホテルに宿泊した。

31日
 新郎新婦は三宮を8時58分のつばめで九州に向かった。天の父が彼らを祝福し、永井にも救いを給うことを切に祈る。


11月
1日 賀川全集予約の為、キリスト新聞楯岡氏と三浦先生、村山牧師、武内4人が医大、神大、外大、神大分校、薬大、商船、武庫川大学、夙川学園を訪問し、5校の申込みを得た。無駄になるのは商船大学のみであろう。知事の紹介と三浦県会議員のおかげである。甲南大学、甲南高女

2日 修養会準備のため楯岡氏案内せず午前中それに当たり、午後1時半YMCAの本城氏と共に村山、武内は随行し、大丸百貨店神戸市店長に面会し、賀川記念館建設費募金の依頼をした。どれ程寄付されるか知れないが、大丸其の他計は30万から50万までのような感じがした。
3時半、雷声寺に上がり修養会場で財団、福祉の理事会を開催し、5時から修養会を予定の如く開催した。出席者 名、イエス団創立以来嘗てない試みであったが、是非必要な会合であり、有益であったと思う。年1回は毎年実行したい。

3日 修養会を午前中で解散し、午後は観光バスで六甲登山を計画していたが、雨降りで中止し解散した。
南部の升崎外彦氏より、同氏の経営する事業も是非ともイエス団に合併さして欲しいと、講壇の上から全員に対する依頼があった。理事会にはずっと前から申し込みのあったことである。ただ手続きのみが遅れていた。

4日 特別伝道集会のため、夜は映画会を催した。但し金10円入場料をとったためか、客は案外少数であった。
理事会の議事録作成、見舞金分配方法等に従事した。

5日 礼拝後、大阪クリスチャンセンターに行き、結婚式の費用一切の支払いの為、永井氏と合同し全部の支払いを済ませ、堤繁先生宅を訪問し、媒酌人の礼を述べ、金壱万円也の礼をして帰り、夜は大阪女学院長西村次郎先生の説教で伝道集会を開催した。
出席者数を問題にしていたが、割合多く、殊に新川の土着の人たちが来ていたので、新川の人々に福音の伝えられる事を感謝した。

6日 水害と台風の見舞金分配と、石井の助成と吉村姉の契約書を作成する事で半日を費やし、午後本多氏と事務打合せをしたが、本多氏は母子寮と宿泊所の見舞金に就いて3万ずつとし、石井に就いては更に理事会にはかってからでないと送金はしないという。吉村姉の誓約書については、公正証書を作成する必要があると主張する。

7日 永井新郎新婦は九州旅行より帰ってきたが、永井は夜中下痢でそのためか発熱した。
本多氏と宝塚の土地の視察に往った。2000坪3000万円という。高い土地だとは思われるが、尚専門家に就いて相場を調べる必要がある。
見舞金分配。

8日 久仁子は堺の永井家へ土産を持っていくはずであったが、永井の病気で中止し電報で断った。永井ではびっくりして、父と娘とが見舞いに来られた。但し大病ではないので心配の要はないと思われる。

9日 兵庫県労働保険組合の監査をした。赤字で困るかと心配していたが、幸いにも厚生省の助成金が600万円増額になったのでどうにか辻褄があった。
36年度の上半期の成績は、去年よりずっとよくなっているので、下半期の見通しは明るい。有難い事である。
大正10年8月16日、西出町の公設市場の物置で日雇労働紹介を開始し、二三人の労働者が求職に来た当時を思い出す。

10日 尼崎市秘書課長に面会し、更に商工会議所に於いて産業連盟関係と募金に就いて懇談した。中々一度や二度足を運んだ位では寄付はいただけないものである。当然な事でもあろう。
永井君が帰京した。15日のバンコック往きには、よう見送りしないので大阪駅まで見送りに行った。まだ健康が勝れないからと一等寝台に乗った。僕は70歳でもまだ一等寝台に乗ったことがない。僕は貧乏に生まれついているせいか。

11日 神視で措置費変更による研究をしたが、川崎氏が赤字赤字とそれのみ不安に思って、正確な数字をよう出さないでいる。自分で検討する。

12日 礼拝に家族全員が出席した。

13日 徳島の黒田牧師が、社会福祉事業の認可を得たいのでその書類の申請についてやってきた。神視へともに往って神視の認可申請書の控えを貸した。
 尚、本日中に徳島に出張し、同氏ともに石井町長を訪問することを約した。
川崎氏は依然としてベースアップの案が立たないと嘆いている。

14日 妻と久仁子が永井君の見送りの為、上京した。今晩は旅館泊まりで明朝9時の見送りは羽田である。千恵子が病気でなければ、共に行ってもよいが仕方がない。
午前は給料の値上げで検討し、午後は尼崎に出張し、三和シャッターで5万円寄付していただき、次は商工会議所を訪問し、渡辺、専務両者に面会した。但し寄付金は急に運ばない事である。
久し振りの晴天で好い日であった。朝は霧で白くなっていた。従って冷たくあった。

15日 9時に永井君が羽田を出発したであろう。今日も昨日同様、朝は霧で冷えたが晴天で、気持ちのよい日である。飛行上も気持ちのよいことであろう。
高木氏(仮名)が面談したいというので訪問した。枝肉市場が出来るのでその元締めをやりたいとして、神戸同業者の約半数の委任状を集めているが、資金の不足と上の牧場との関係で一向に進展しないと泣き言を聞かされた。神戸で唯一の枝肉の配給元締め機関の大将をするには、他に適当な人物がありそうなものである。高木(仮名)もその器ではないと思う。

16日 イエス団の建物を移転するに当たり武田、竹中両所に往って懇談した。但し、竹中は道路敷地内に移転するようにというが、現在建物は幅が5?あるので道路敷きは4?でムリである。建物を切って移転すれば経費は高くなる。更に検討を要する。

17日 建物移転に就いて設計してみるが妙案はない。

18日 神視に行き給料を受け取った。24日職員会議を開く事を決定した。
竹中訪問。

19日 礼拝。家族4人全員が出席した。夜は自分が奨励した。話した後で説明の足らない点を発見したが、後の祭りであった。話す時は、やはり原稿の用意が必要である。

20日 神戸駅7時54分発で大津に出発した。日本基督教社会事業同盟の研修会に出席した。
真鍋理事長は精神の高揚に就いて述べられ、長井牧師の説教も精神的であった。然し同大の小倉先生の講話は設備、従業員の待遇に就いて多く述べ、また労働組合に就いても語られたのであって、出席者がよく理解するかどうか考えさせられた。

21日 前日の3氏の話に基づいた分断協議を行った。然し結論が出たのではない。
リクレーションは八景めぐりであった。水族館で淡水魚ばかり見た。時間の都合で充分見る事が出来なかったのは残念であった。

22日 分団の結論は出なかった。丹羽理事から労組に就いて、東京YMCAの組合活動の事実問題を取り上げ、組合の要求に対し理事者はある線を出して話し合いがついた。それに上部組合である総評から、組合員に対しその程度で妥結するなんて馬鹿らしいではないかと、上部からけしをかけられ、組合員は迷惑していたとの事であった。
保育所の施設長は、使用者であっても他の従業員と同様一定の給料で働いているのであり、他の職員を安い月給で使用し、その利益を取ることはできないものであって、一般の労組と同じようには出来ない。また少数の職場であって、施設長と対立になる必要はないであろう。

23日 勤労感謝の休日である。勤務は休んだが、家には用事が多いので、とりあえず今日はストーブ二つを取り付け、あとは納屋の片づけをした。終日働き通した。然し別に疲労を覚えなかった。健康の証拠であろう。感謝の至りである。

24日 神視の職員会議に出席した。但し重要な問題については、次回に延期した。給料値上げと賞与に就いてである。
イエス団の敷地内に福井(仮名)の家が出張っているいるので、立ち退きの交渉に家主の福井(仮名)を訪問したが不在であった。今度の日曜日の夜6時、訪問の約束をした。

25日 賀川記念館の設計変更の図が出来たので、これを検討した。今回の図は、大体理想的に仕上がっている様に思われる。但、延べ600坪であるから建築費も6000万円程度になるのではないか。その支払い方法如何。
けれども1階の290坪からは、毎月30万円の利益は上がるのではないかと考えられる。10年後には毎月の純益となる。これが否でも竣工させたいものである。大いに祈る。
一麦保育園に於いてイエス団理事の委員会を開催する。土地の売買に就いてである。

26日 礼拝。役員会。
教会裏の不法占拠に就いて村山、斉木、武内の3人が交渉した。イエス団の建築に支障のないように立ち退き致しますと口約した。

27日 財団法人イエス団、社会福祉イエス団、財団法人賀川記念厚生事業団と3団体が、賀川記念館を建設するに当たり、種々申し合わせ取り決めなどしなければならず、法的措置もあるので、これが協議事項に就き村山牧師と協議の上作成した。

28日 協同牛乳の関係で裁判所に出頭した。早川(仮名)は証人調べの問いに対し全く嘘を答弁した。
三島氏(仮名)が来て電車賃100円也貸せと言うので貸した。
記念館の建設に就いて、竹中工務店の設計図に基づき専門委員、竹中の技術、村山、武内とが協議した。
間所氏の追悼会が大阪クリスチャンセンターで開催されるので、出席の通知を出していたが、時間の関係で断った。
近藤氏に記念館の1階使用に就いて、借り手を世話してくれるように依頼した。会館の1階は使用料1か月30万、屋上の広告は年間150万、計年500万の収入は確実に上がるように考えられる。有難い事である。感謝に堪えない。

29日 大丸百貨店訪問。
記念館募金に就いて三浦氏訪問。30日のイエス団理事会についての打ち合わせ。
神視保育園の給料・賞与の決定について、給料・賞与とも市の通達どおりとすることにした。

30日 午前は理事会の準備をし、午後1時三島氏(仮名)の依頼で森岡弁護士を訪問し、3時より大阪クリスチャンセンターでイエス団の理事会を開始した。これで賀川記念事業団とイエス団との関係をはっきりする事が出来た。


12月
1日 午前は教会と社会福祉法人との財産に就いて研究し、午後は竹中工務店の設計係りと打ち合わせた。充分ではないが、図面で話し合っていると暫時進んでいくようである。特に実務者の意見を充分参考にしている。

2日 午前中はイエス団で教会と社会福祉の共有財産について検討し、両者の協約案を作成した。
午後は神視に廻った。神視は5日、4施設の餅つきを引き受けた。当番制であろう。

3日 礼拝。家族全員が礼拝出席できる事は有難い事である。
午後は天気はよし。たまねぎ100本追加植え付けと草取りと下稗をとって、疲労するまで働いた。

4日 午前中、教会と社会福祉との共有財産を、どう双方都合のよいように、永久双方の争いの起こらないように取り決めておくべきかを検討した。最も困難な問題であるが、双方の為に是非とも決定しておかないと、必ず後日大きな問題となるであろう。これを未然に防止の出来る方法を講ずることは、僕のみに課せられている使命と思う。他の者には出来ないと思われる。

5日 神視、餅つき当番。
11時、大阪に出張し近畿百貨店協会を訪問、記念事業について寄付金を依頼した。協会の係りは一応取り上げてくれた。多分何十万かの寄付はいただけるだろう。50万も寄付されたら有難い事である。
尼崎の山下栄次氏と募金の打合せをし、商工会議所も訪問した。会議所では各会員から直接送金することにしたということであったが、果たして送金されるかどうか。

6日 徳島出張。村山牧師の運転で石井と大幸との用件を片付けた。
石井の助役は、保育設置に就いては消極的であった。磯部氏の宅に一泊さして頂いた。

7日 市橋に面会し教会、石井の保育設置、豊島の山林、記念事業等に就いて懇談し帰途に就いた。
行くよりも帰りは順調であった。二日間とも天候に恵まれた事は、仕合せであった。

8日 真珠湾攻撃20年の日である。日本の失敗は世界の方向転換の動機となった。特に東南アジアに於いて植民地の解放は大変な出来事となった。
大阪、奈良に出張し、4箇所の保育、乳児の施設を訪問した。
朝、西明石駅で左足のかがとの上3寸位のところを捻じたか、痛み、ちんばになった。

9日 年末手当を貰った。神視保育園としては昨日渡したが、自分のものは出張の為今日となったのである。

10日 足が痛むので、礼拝を欠席し終日在宅した。

11日 宝塚の土地買収に就いて、土地所有者に面接してくれと、本多氏の依頼があり、午前本多氏と面談し、午後宝塚に出張した。土地坪当たり15000坪数2000坪で34万円となる。本多氏は馬鹿に乗り気だが、安いとは考えられない値段である。
午後7時、村山牧師の按手礼が栄光教会で、他の牧師たちと共に行われ、これに出席した。

12日 金田理事より電話で、大川と本多と両氏の土地買収案につき宜しく頼むとの事であった。
午後、大川氏来神され、土地に就き種々承った。山林の買収は投資ではあるが、賭博に似た点があるけれども、同氏は3年後には1億円位の値が出てくると思うとのことであった。兎に角、14日11時、YMCAで委員会を開催する事とした。

13日 共栄、労金を訪問した。
午後、神視でクリスマス礼拝、祝会に就いて打合せをした。大阪では警察署長がサンタクロースになり、ヘリコプターで空からプレゼントを持って降って来た。子供は大喜び、これをテレビで観て、時代は変わった。犯罪者専門の大将がサンタクロースとは。

14日 YMCAで委員会を開催し、土地買収の件を決定した。本多案は全額が予定超過で否決となり、大川案の山林を買収することとした。尚、平地については16日現地を視察した後に決定する。
イエス団では古着の整理の為、数名の婦人が奉仕をした。
(ここまでで「日誌」は終了している)

      *      *     *     *

 武内の纏まった日記AとBの2冊を、ここにすべてを書き留めておく事ができた。
 武内所蔵資料の中には、戦後の折々のメモを記した「手帳類」が多数存在する。それらを丁寧にたどれば、空白の経過がいくらか埋めることが出来るはずである。その作業も、少しずつ進めて行けたらと願っている。

 思いがけない事であったが、既にこのサイトで60回近く「お宝」を掲載してきたが、今後もこのたび新しく発見された120通以上もの「賀川豊彦・ハル夫妻からの武内書簡」の未紹介分を、取り出して行く事にする。

       (2009年10月1日鳥飼記す。2014年3月23日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(58)

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  お宝発見「武田勝日記B」(3)  昭和36年7月~9月
 
 今回の武内の日記の中に、この地域の住宅問題への言及がある。戦前、賀川らの努力が実り、「不良住宅地区改良法」が制定された。その第1号として、神戸のこの地域が指定され、昭和6年から10年までに鉄筋共同住宅326戸と木造住宅60戸が建設された。

 しかし、ここで紹介する武内の日記に依れば、昭和36年段階でも、戦災で焼け残った鉄筋共同住宅の屋上に90戸ものバラックが建ち、改善の方途も確定していない状況にあった。この頃漸くにしてというべきであるが、国を挙げた根本的な解決の方策を本格化させる時を迎えていた時であった。

住宅生田川共同

 添付の写真は、武内日記から10年近く経た昭和45(1970)年のものであるが、神戸市内においてもこの数年後から、集中的な環境改善事業が取り組まれ、共同住宅そのものも姿を消した。そして今日在るような、高層の市営住宅郡の建ち並ぶ、新しい街へと大きな変貌を遂げたのである。

 残念ながら、この急激な地域の変貌過程は、武内没後のことである。21世紀を迎えた街の現在を、もし武内が見るとすれば、如何なる感想を抱くのであろうか。

    *      *      *       *

          昭和36年7月~9月

7月
1日 
終日、神視にいて賀川記念の免税認可申請の一部作成。

2日
礼拝後、終日教会に残り、夕拝の証言を済ませて帰宅。妻と二人連れで二食の弁当持ちであった。
話の最中、岸本君が持病のてんかんを起こしたので、看病に医師の依頼に皆が協力した。幸い集会閉会後、やや元気になったので、寿君に岸本君を自宅まで見送ってもらった。

3日
終日、イエス団立ち退き後始末。前不法占拠者の一人に依頼した。

4日
記念館の屋上に広告塔を建てることについて、知事の了承を得た。これで年額200万の前金を得、記念館の維持費に心配がなくなった。

5日
兵庫県労働保険組合の役員会が労働会館で開催され、10時から6時まで出席した。
理事長に対する反感が多く、事毎に衝突であった。専務の退職でよりこじれた様である。労働者の代表は理事長の高姿勢が気に食わぬといっている。理事長には気の毒でならなかった。できることなら引退したい事であろう。
大蔵省は、賀川記念事業募金に就いて、寄付金の免税認可をしたとの連絡を受けた。これで募金に馬力をかけることが出来る。

6日
5時、一麦に於いて委員会開催。各施設に対する助成方法及び金額は金田、本多、武内の3理事で決定することになった。
次回は、金田理事の都合により8月行なう事になった。基金は土地を買収することに決定した。但し、財団は年額200万を充当する事とし、たとい借入金をしてもこの額を保証することに決議した。(田中提案)

7日
神戸新聞広告部より10万寄付。
近藤、日鋼社長の両人が、来団あり、記念館を公団の資金により7階か8階の建物とし、1,2,3階を使用し、他は住宅としては如何との意見であった。
児童の運動場は屋上にとすることにして計画することも、面白い案である。
神戸市を訪問し、立ち退きの件で礼を述べ、また橋本氏にも礼を述べた。
バラックの後片付けがまだ済まない。

8日
右近、橋本両氏に礼を述べに往った。
市のアパート管理人、所長大角治氏と塚田利雄氏の二人が来て、不法占拠の立ち退き状況を聞かしてくれと依頼された。アパートの屋上の90戸のバラックを建て、其処にいる人達が居住しており、また畑を作っていたと言う。
住宅料500円では新築が出来ず、放任も出来ず困ったものだと、悲観論を称えた。建築費は国庫から二分の一の補助があるのだから、一ヶ月二千円くらいで賃貸の出来るものを建てたら、新川の住宅問題は解決する。民生局長の無能の結果、新川、番町の住宅問題の解決がつかないのではないか。

9日
礼拝出席。立ち退きの後始末で、汚い古木などを焼いていたが、火が大きくなり隣のガソリンスタンドに火がついては大変と、消防署に依頼して水をかけてもらった。そのため始末書を提出する事を、署から要求された。

10日
イエス団の敷地、建築位置などに就いて検討した。
午後神視に出掛けた。特筆事項はなかった。

11日
明石農協牛乳に往き、組合長その他3名と地裁に出席し、債権額を決定した。まだ淡路信用の一口が残っているが、何う決定されるか。

12日
本多君より垂水の山林1坪200円で買えるが思案しないかと連絡があり、本多君の事務所で、村山牧師と3人が2時間待ったが、案内人が出てこないので中止した。

13日
大阪ヴォーリズ事務所を三浦、村山、武内3名が訪れ、記念館の設計について懇談した。設計と請負とを別にした方がよいか、最初から請負に一任したほうがよいか、検討の必要がある。
ヴォーリズに設計を依頼するのであれば、請負は入札とすべきであり、竹中に請負をやらせるのであれば、ヴォーリズを依頼する必要はないと思う。

14日
本多氏により土地の現地視察をした。本当の山であって住宅地にはならぬ。
イエス団が所有すれば、山林は盗材されることは明らかであり、困難と思われる。同じ伊川谷でも明石に近い役場付近であれば、明石駅に3キロの距離であり、坪当たり300円の差があってもそのほうが有利と考えられる。

15日
丸山(仮名)が来団し、協同牛乳の解決に就き、自分に一任すれば早く解決がつくが、現状のままでは何年経っても解決は困難であると申し出てきた。不安になったので、反対に出て来たものと思われる。
近藤氏と電話で建築に対する打合せをした。

16日
久仁子の結婚仲介者として、堤先生を訪問しご依頼した。永井利彰君の父君と共に行った。松阪屋で、式に関し永井の父と息子と自分と久仁子の4人が打合せをした。
日々暑さが酷くなって来た。

17日
片山氏が、小野の山地について近く神戸市と合併になるのであり、地価が高騰するから最も有利な土地である、よい買い物であると進めてきた。然し、急に発展するものとは考えられない。

18日
村山牧師と生駒氏を訪ね、山下栄二氏を久保田鉄工所に訪ね、同氏に募金に就いての相談をした。山下氏は非常に好意的であって、直ぐ市長に電話し、共に市長に面談した。
市長も、大口の募金には自分で出かけるといわれ、元代議士山下氏は、僕も募金に廻ると約束し、尼で100万円は募金したいとのことであった。
非常に協力的であった。尚、市長は市として何がしかを予算化する決心であると話された。心強く思うた。有難い事である。
本城氏と面接し、募金に就いて協議をした。本城氏も非常に力を入れて厚意ある気持ちを示された。氏自身が募金に行くと度々話される事は、大きな奨励である。

19日
長田保健所に於いて、神視の園児にワクチンを与える事に就いて打ち合わせ、加藤先生によって飲ますことにした。
本多氏と橋田氏(仮名)との件は明日に延期した。

20日 
本多事務所に於いて橋田(仮名)親子より100万円渡すから事務所は何時空け渡すかについて話し合いの結果、橋田氏(仮名)は本多氏が8月5日事務所の明け渡しだと固持するので、橋田氏(仮名)は僕に一切の責任を負わせ100万も僕が預かった。

21日
尼崎市長名で芳名録に挨拶文を書くことと、知事名で募金依頼状を書くことで一日費やした。
不法占拠跡の片付けをして呉れた老人に礼をした。
千恵子が帰って来た。夏休み2週間の暇が与えられたからである。

22日
午前中イエス団、午後神視。

23日
松阪屋にて永井氏と打ち合わせ。

24日
和歌山の粉川教会で、イエスの友の修養会が開催され、これに出席した。
立証時間6分で、話すに苦しいが仕方なし。一言した。

25日
久仁子が帰宅したので家から打電あり、直ぐに帰宅した。久仁子は県病院で診察を受けて、5時佐野病院に入院した。

26日
永井君が来宅し、共に病院を訪問した。久仁子の診断は、3ヶ月で退院の見込みと院長は言われた。

27日
丸山中学校長を訪問し、病状に就いて報告した。
後、米田氏を訪問し、養老院設置に就いて懇談した。米田氏が果たして寄付するかどうかが明確でない。
YMCAで建築に就いて協議し、斉木、前田両氏の意見を聞くことにした。

28日
大阪松阪屋にて永井氏と面接の上、久仁子の30日結婚は取り消す事に決定し、松阪屋への申込みはこれを取り消した。取り消し料金は無用。堤先生を大阪大学院に訪ね、結婚式変更の連絡をした。

29日
自宅電話加入が認められたので、早速申込みをした。1万300円の工事費である。

30日
礼拝出席。久仁子の結婚式取りやめに就いて報告した。
三島氏(仮名)来宅し、家内は1000の無心でこれを渡した。

31日
三島氏(仮名)は、イエス団に来て3万円借用したいというたが、断った。
今日も1000貸せというので、今日も貸した。彼は金に困っているのであろう。


8月
1日
日光に於けるイエスの友会に出席のため、銀河で出発した。寝台券が買えたので楽に上京できた。

2日
日光の蒲生浜に開会前に到着した。自然が大きく且つ美しい。別荘が沢山あり、観光客が多数である。
大正8年に来たが、その時は舗装道路はなく、従ってバスもなく徒歩で登ったのであるが、今は便になったものである。
修養会の出席者が50数名で、先生の全盛時代の三分の一程度である。三分の一程度の若人の参加は、非常に頼もしく感じた。イエスの友の後継者が欲しいものである。
久し振りに旧友に会って、嬉しくもあった。

3日
今回の修養会は、プログラムに無理がなく、何となく落ち着いた気楽なものである。大変御馳走を食べさす。イエスの友開催以来、嘗てない御馳走である。
食事をしながら、貧しき者を忘れるな、との賀川先生の声が聞こえる。
男体山の裏の湯之元も見たし、湯の滝、戦場ヶ原も自動車で見物した。

4日
修養会も昼食で終わり散会した。
中禅寺湖を蒲生浜から船で渡ったが、雨降りで視野が狭く、何も見えなかった。又、華厳の滝を見に行ったが、これも雨で見えず、日光とは日の光であるが、毎日三日間とも雨天であった。日光に雲柱社が集まったので、降雨になったか。
出席者延べ57名では、兎に角淋しい。もっと多くをひきつける実力を持たなければ駄目だと、誰もが考えているようであるが、今のところイエスの友関係では、偉大な指導者がいない。
夜、金星で帰途に着いた。

5日
正午ごろ家に帰った。庭は草で茂り、野菜は水に餓えていたので、早速水を注いだ。

6日
礼拝出席。記念事業に対する東京方の報告。

7日
神視、イエス団、夜は一麦で委員会。土地に就いて。疲労を癒す時はない。

8日
住友信託の案内で御影、芦屋方面の土地を視察した。

9日
森及び酒井氏を訪問した。3時半から、米国の大学生に賀川先生の一代記を話した。但し、通訳つきの話はしにくいので不快である。

10日
大川、金田両理事の案内で、生駒の土地に視察に往った。
山又山で全くの山地であった。買うのは安いが、売る事は難しいと考えられる。協議の結果、大川氏所有地の地続きだけを買うことにした。
夜は、クリスチャンセンターに於いて、賀川豊彦劇の打ち合わせがあり之に出席した。

11日
イエス団、午後神視。夜、YMCAで賀川記念事業委員会、建設に関し協議した。兵庫建設か竹中か一般入札か。
自分としては、竹中に一任が最善と信じ、委員の多数も同感の様であるが、福井氏のみは兵庫建設を主張する。

12日
永井君が川崎から久仁子の見舞いに来てくれたので、自分と雪子と3人で病院を訪問した。ずっと快方に向かっている様子であった。院長も係り医師も不在であったので、詳細は不明であるが、第一はふとって来た、第二は蕁麻疹も薬の加減か知らないがずっとひいている。第三は永井君に会えたためだろうが、よく笑っていたし気分もよさそうで、入院の時と比べると雲泥の相違であると思う。

13日
礼拝出席前に、森田校長宅を訪問する考えで、家内と二人で宅を7時30分に出かけたが、バスの不便(1時間に1回)で予定以上に時間を費やした。
久仁子の欠勤に就いては、校長に一切御願いした。礼拝は止むを得ず欠席した。
夜は、村木氏(仮名)が来宅し、病気に窮しているから1万円貸してくれと依頼を受けた。然し、平素何の交際をしているわけでもなく、また久仁子の病気で支出が多く断ったが、自殺するといって動かず300円を恵んだ。

14日
三島(仮名)、植木(仮名)の両氏が協同牛乳の関係で来団した。管財人が病気の為引き上げて帰った。早く解決したいものである。
上山(仮名)と山下(仮名)の両氏が、土地の件で今日も御苦労様にイエス団に来訪、不動産はそんなに簡単に売買は出来ないが、ブローカーは儲けの為に熱心である。

15日
波止岡氏の案内で、有馬の土地を視察した。よい土地であるが理事会は何とするか。

16日
尼崎に出張し、賀川記念の募金打合せをする予定であったが、相手方の山下元代議士が休みでやむなく帰った。生駒氏が市と山下氏との連絡を取り、懇談の出来る日時を知らして貰うことにした。

17日
500円で土搬びの手製の車を使用した。従来どおり箱を引いていたのに比べると、労力は十分の一も要らない。自分で驚いた。不精は出来ない。工夫は宝である。

18日
久仁子を病院に見舞った。素人から見ると普通人と何等変わったところがなく、健康状態からも精神状態からも、ずっとよくなっていると思うのだが、池地先生は、入院の時と同じ事でよくなっていないといい、それで電気療法をやって見る、一ヵ月後にはその結果が現れ、よくなると思うとの診断であった。
久仁子に薬品の効果がないので、若し電気でも効果がなかった場合は、インシュリンを使用するとの話であった。本当によくなっていないかどうかについて、医師の見方も当たっているかどうかに、いささか疑問が残る。
上岡(仮名)、村木(仮名)の両氏が、小野の土地を早く買うように理事会に計ってくれと要求してきた。買えば直ぐ倍に売れるという。それではその方に売ったらよさそうであるが。
徳憲義牧師について、依頼のまま原稿用紙5枚に書いた。

19日
奈良電鉄三山木に出張。日生農園視察。
給料支払い。

20日
礼拝。役員会。西瓜。夕拝を廃止すべきか存続かについて協議した。

21日
大阪金田氏と預金寄付金などに就いて打ち合わせ。
預金については神戸銀行より50万の寄付を受けているが、預金をしていないので現在の定期満期を機会に、神戸に預金すべきである。本多氏も反対しないであろう。金田氏も賛成であった。

22日 
高橋氏と七福について打ち合わせをした。帝国信栄も七福も寄付をすると言ってくれた。

23日
本多氏と七福の預金に就いて協議した。
七福は他の銀行以上の利を出すといい、賀川記念に対しても寄付するとの申し出があり、神戸は日歩2銭1厘で預かるという。

24日
村木(仮名)、上山(仮名)の両人が来て、明石の土地の買収の際に労した点、今回イエス団はその土地を金にしたことに就いて、若干の謝礼は出ないかと要求した。よく説明したので納得して帰ったが、とることばかり考えている連中である。
財団法人イエス団の従業員年金案を作った。これでよく研究してみる。
年間どれだけの予算が必要になって来るか、これが問題であるが、将来の従業員の為に、年金制度は是非必要である。

25日
松尾尼崎信用金庫理事長及び神戸信用金庫理事長に面談し、賀川記念事業寄付方を依頼した。寄付金額は不明であるが、何れも了承された。感謝である。

26日
多聞寺で神戸市の公立私立の保育施設長、保母の研修会があり、3時湊川駅を出発出席した。
多聞寺は、寺の本堂という感じはなくユースホステル、修養会場を目的として建築されている。下から見上げたところ寺のようであるが、建物の中は寺らしくない。キリスト教会が善く利用するはずである。他の団体も善く利用している。食堂も清潔で便利であり、殊に便所は綺麗であった。会の問答は余り有益ではなかった、時間が欲しかった。

27日
礼拝司会。礼拝後、婦人会の例会で信仰に就いて奨励した。

28日
6時家を出発し、本多氏と共にクリスチャンセンターに行き、イエスの友会の劇と賀川記念事業に関係した協議あって、後泉佐野に土地を視察した。
今まで大阪の案内受けたものでは、一番ましな土地と判断された。

29日
高木氏(仮名)より、箕谷の奥に坪当たり17円の土地があると知らせてきた。
本条ダムの近くで景色のよいところだという。村木氏(仮名)も坪200円程の土地があると図面まで持って来てくれた。但し、遠方の山地を買うことは考え物であろう。
兵庫建設は記念館の建設を断った。

30日
大阪クリスチャンセンターに於いて、賀川劇について協議会あり出席した。今晩は何の意見も述べなかった。本月末までに何回も委員会を開く予定だとのことである。木本氏はじめ御苦労様である。

31日
四条畷の山地を買収したので、これの支払い・登記等について、大阪に出張した。
暑い最中、田舎道を歩き回った。大川氏の案内であったが、大川氏もご苦労千万1円の利益も得るものでないのに、全くイエス団のためである。


9月
1日
二百十日であるが、好天気で雨風の心配のない1日であった。
尚、農林省は開国以来、嘗てない大豊作を報じている。7年続きの豊作である。農業技術が進み、農薬・肥料等々により、昔のような不作もなくて済むのかも知れない。有難い事である。
関東大震災記念日でもある。大地震はあっても、僅かの損害で済ませる準備と訓練が大切である。
久仁子を病院に訪問した。これが病人であろうかと思われるほどであるが、医者は矢張り病人であるという。どうして病気したのであろうか。これが防止も方法のありそうなものである。

2日 
丸山中学校長と教頭に、久仁子の病状に就いて報告し、礼を述べた。
本日20日までは賜暇で、それから先を欠勤にするとのことである。
彼が早く全快し、結婚か勤務の出来る様になってもらいたいものである。

3日
礼拝出席。

4日
午前中、神視。
大正3年、僕より涙ながらの話を聞いたとの事であり、其の後、垂水の聖書学校に学び、聖書協会で20数年販売係りを務め、現在伝道の応援をしていると言う渡辺氏が来園し、種々と昔の物語をするが、思い出せない。僕も愈々老いたのか。

5日
午前神視に、午後イエス団に在勤した。
財団法人イエス団及び社会福祉法人イエス団従事員の年金制度確立の為、原案を作成した。
年金の支給規定よりも、年金の基金をどれ程積み立てるべきかの、算定基礎資料を作ることに時間を要した。然し、これでイエス団関係の職員に、ひとつの安定感を与えうるであろう。
イエス団がこれを確立する事に依って、他の団体もこれに習ってくるであろう。社会福祉事業従事者の福音となることであろう。

6日
病院を訪れ、久仁子に面会した。
彼は昨日から世界が変わった感じがする。また今まで何事でも二つに考えられたが、それが一つになったといい、院長もよくなったと証明された。
但し、院長はこの調子が続くか、又悪くなるか保証は出来ないと、慎重な条件がつけられた。兎に角、入院以来始めての顔つきであり、当人も喜んでいた。感謝である。
永井君との懇談の席を何処にするかと求めていたが、雲内の八幡神社の社務所を借りてもらうことになった。10畳に8畳の座敷で、神戸を一目に見おろす事のできる申し分のない、静かで明るくて広くて、結構な部屋である。有難い事である。

7日
イエス団の研修会場について、金比羅山を見に往った。こんなよいところがある事を、長い間神戸にいて気がつかなかった。
ユースホテルであり、修養会には最適である。料金も安い。

8日
5時、YMCAに於いて財団法人イエス団理事会を開催した。土地買収、財産管理、修養会、年金に就いて協議した。

9日
永井君が8時三宮に着くので、家内と二人で出迎え、3人で病院を訪問し、雲内の八幡神社の社務の二階座敷で4人が色々話し合った。
久仁子が快方に向かっていて、もう峠を越えているので、共に有難く思うた。
永井君は、10月30日結婚式予定で準備を進めたいといってくれた。久仁子も喜んでいる。

10日
礼拝に親子3人が出席した。夜は、信仰第一と題して自分が奨励した。
日中は、岸本君の住宅につき相談した。

11日
竹中訪問。丸山(仮名)来団。高芝弁護士訪問。神視出勤。
協同牛乳の後始末がまだ出来ない。丸山(仮名)の言を信用する事もできず、早く解決のつくことを願う。

12日
昨夜、吾妻通6丁目に火災があり、罹災者35,6名がイエス団に流れ来て宿泊した。お気の毒である。保育は停止になった。
罹災者は往くところがなく、金もなく、持ち物は焼失しているが、イエス団にながく止まってもらう事は勿論出来ない。
区役所の市民課長は見舞いには見えたが、市からの金は個人に1000円、二人以上の家族に2000円で、品物は独りに毛布1枚で、それ以上は何物も出ないという。
明日13日1時に、金と毛布を支給することになっているが、果たして一同が出て行くかどうか疑問である。

13日
丸山中学校の教頭が来宅になり、久仁子の辞職願に就いてである。
退職と同時に健康保険も無効になるとか、後4日ばかりの入院である。何とか成らないものか。
火災の罹災者は130人となった。市より金一封、右近市会議員より世帯道具類バケツ一杯、市と日赤から毛布、イエス団から米と缶詰、などを支給し、全員がここから出て行った。
新川の不良住宅の完全な改良は何時か。不良住宅を残しておく事は、犯罪の巣を残してあると同然である。

14日
七福相互を訪問し、寄付の承諾を得た。相互銀行関係で25万か30万まで寄付するのであろう。
六甲信用を訪問したが白石理事長は今日も不在であった。
県の信用組合協会に往ったら白石理事長がいたので、記念事業に対する寄付の依頼をしたら、他の方面の寄付額とにらみ合わせて応分の寄付をする、他所より多くしなければオッチョコチョイといわれ、少しだとけちん坊といわれる。但し坊主には絶対にしない、賀川先生のためだから、との挨拶であった。
七福の下さんの紹介で、日毛にも専務を訪ねて寄付を依頼した。
修養会場を村山牧師と二人で見に行った。YMCAにも往き、今日はよく飛び回った。自動車があるので能率が上がる。用事の多い者には、自動車は経済的であり決して贅沢でない。

15日
台風の予報が出ている。18号は、範囲が広くて強いと、薄気味の悪いニュースである。

16日
台風で欠勤した。雨風がひどく庭の松が倒れ、板塀が全部倒壊した。畑は池となった。10年に1度は、大きな天災があるものと考えなければなるまい。対策のないのが愚かである。
3時から停電で、ラジオもテレビも役に立たず、新聞も夕刊は配達してくれず、被害の程度が全く不明で、ただ罹災者が沢山出たであろう予感がする。

17日
礼拝欠席。被害の応急策で疲労した。然し、まだもう一日かかっても片付かないであろう。村山牧師と神谷長老とが見舞いに来てくださった。

18日
今日も欠勤して後片付けをしたが、未だ終わらない。

19日
前日に引き続き、後片付けであった。然し、棚も修理し、倒れた樹も引き起こした。梅谷の手伝いがあったので樹は起きたが、枯れはしないか心配である。
久仁子の結婚式を10月30日に挙げるように準備をしてくれと、利彰氏から手紙を寄越した。久仁子の快復は有難い。
妻は肋骨が痛むといい、疲れたとこぼしている。
キリスト新聞から、賀川全集について座談会を開くから、是非出席して欲しいと依頼して来た。25日午後3時である。出席の返電を打った。

20日
共栄火災訪問、友社長に面会。
神視の給料日である。神視に出勤した。台風での損害が2万円程度、或いは5万円もかかるかも知れない。
久仁子の結婚式については、クリスチャンセンターに申込みをした。

21日
丸山中学校長を訪問し、久仁子の辞職願を提出した。多分9月30日限り退職となるのであろう。
彼は健康で勤務可能と考えていたであろうが、病気の為遂に退職することになった。主は彼の上にも、御旨を施し給うのであろう。
本多氏と面談する為、花隈に往ったが不在であった。
緒方兄は、24日の夜行上京の便のために、銀河の寝台券を買い求めて連絡してくれた。有難い。疲労を覚悟していたが助かった。帰りは仕方がないであろう。日本の交通も不便なものである。必要な時は何時でも切符の買えるように、早く準備してもらいたい。

22日
今日は台風の後片付けの疲労が出て来て、何だか全身が重苦しい。

23日
永井君が来宅。久仁子の外泊を初めて許された。ずっと快復した。医師からも10月30日の結婚は宜しいと認められた。

24日
礼拝出席。銀河で上京。

25日
キリスト新聞社の主催で、賀川先生の著書についての座談会に出席した。
西尾民社委員長も出席された。古い昔話に花が咲いた。
武藤社長曰く、賀川の伝記で横山氏の書いたものは、マルコ伝であるがヨハネ伝がない。誰が書くかと。
自分が当然書くべきであるが、自信がない。然し、ヨハネならずとも、ペテロやヤコブ書は書かなくてはなるまい。家事を早く片付けて、伝記にかかりたいものである。
夜、理事長宅に一泊した。理事長、純基氏、杉山健一郎氏、菅沼氏と自分とで、賀川家の財産管理、イエス団と雲柱社との関係、雲柱社の将来のあり方などに就いて懇談した。

26日
帰着。

27日
久仁子を病院に見舞った。次第によくなっている。感謝である。
神視とイエス団に出勤した。

28日
太陽海運の庶務課長と村山、武内が記念事業について懇談した。
課長は話好きで、海運界の実況を1時間ばかり話してくれた。毎月1000万円の利子を払っているという。戦争で船を失い、政府は保証もせず金融で金利を取るとこぼしていた。
協同宿泊所を見舞った。床上1尺の高潮で55万円の損害があったという。財団から9200円の助成金を持参した。
村山牧師が、自動車の運転をして飛び回るので、外交はとても便利であり能率的である。

29日
3時、宝知院に於いて保育に関し協議した。共同募金についてと、運営で赤字に関すること、就業規則を設けること等が主なる用件であった。
吉村姉が来園し、坂出の改築についての相談があった。約100万を要するとのことである。計画書を提出するよう進めた。

30日
大阪朝日新聞会館、賀川劇、保育園職員8名が全員揃って観にいった。
賀川の少年時代が余りに長すぎる。全4幕の半分も妾の子で悩んでいるのは何うか。賀川がキリスト愛の実践に努力した点を、もっと多く現した方がよいと思う。
滅多に劇化する事が出来ないのに、大正7年の米騒動で打ち切っているのは惜しい。全生涯を通じての方がよくはなかったかと思うた。

    *      *      *      *

 この武内日記は、昭和36(1961)年で、ほぼ半世紀も前のものである。次回で最終回となる。
 現在刊行準備中の武内勝口述書「賀川豊彦とボランティア」新版は、この日記より5年前のもので、いまその校正作業を行いながら、その口述の「歴史性」を感じさせられている。

 補記 上記の新版は、予定通り神戸新聞総合出版センターより刊行され、現在神戸の書店には並べられており、書店注文が可能である。
  
        (2009年9月27日鳥飼記す。2014年3月21日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(57)

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  お宝発見「武内勝日記B」(2) 昭和36年4月~6月

 戦時下、神戸空襲で焼失した神戸イエス団の建物が、戦後新に再建されたのは、昭和24年(1949)年2月11日であった。

 ここに掲載する写真は、先日(2009年9月17日)、兵庫県三木市にある「一粒園保育所」の大岸坦弥・とよのご夫妻が拙宅にお越しになり、青春時代のお話をたっぷりとお聞かせ頂き、大切に所蔵されている2冊のアルバムを持参して、拝見させていただく機会があった。これはその中の1枚である。

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 写真に付されているコメントで「昭和24年2月11日 神戸イエス団献堂式」とあり、このことが判明した。

 このアルバムには、別に同日撮影された「神戸関係の人々」のものや、「イエス団」の神戸におけるもうひとつの活動拠点であった長田区番町のど真ん中にあった「天隣館」で、ご夫妻が共に過ごされたお仲間たち、そして戦後この場所で開設された「長田保育所」などでの、とよの先生その他が写された貴重な写真が沢山残されていた。

 添付写真中央の賀川の隣に武内は座しているが、前回から掲載を始めた「武内勝日記B」は、賀川没後すぐ本格的に取り組まれた「賀川記念館」建設に伴う募金活動のご苦労振りも、いくらか窺い知る事ができるものとなっている。

          *      *      *      *


          昭和36年4月~6月
4月
1日
この間中から風邪引きで、軽い頭痛があり気分が悪い。自分の身体の欠点は、年中風邪を引いていることである。風邪を引かない工夫が必要だが如何するか。
今日は会計年度の正月だ。本年中の経済に就いての神の守りを祈る。
イエス団の事業に、教会の財政の上に、我が家の家庭の上に。

2日
礼拝に出席した。復活祭である。出席者もいつもの礼拝より二割程度多数であった。
礼拝後、春日野墓地に行き、イエス団の墓参と崎元待命氏の納骨式とを兼ねた。久し振りであったが、何時来てみても、次に来る人は誰かと思う。
年の順から言えば、自分に当たる事になる。

3日
風邪で頭の具合が悪く、欠勤し医師の診断を受けた。心配する程のことでもないが、仕事の出来ないことが辛い。
毎日元気よく働けるほど、有難い事はない。終日床にあって静養した。

4日
今日も前日に引き続いて静養した。何うも頭が重くおかしい。これくらいのことで、続けて休むことは何かおかしい。
久仁子の就職する学校が決定した。丸山中学校である。
嘗て職業指導で講演した学校で、自分の娘が神戸の学校で働くなど、夢にも見なかったことであった。久仁子にとってはよい経験となるであろう。

5日
今日もふらふらするが起きて出勤した。
神視は、今日から新年度の事業始めである。入園式を行なったが、子供が小さく数も少ないので、保育所のままごとの感じであった。
県にも出勤した。来年3月31日までの嘱託辞令を貰ったが、余り用事が多く、身体の疲労を考えると、辞退した方がよいかとも考えられる。
久仁子の月収は18,170円也に交通費600との事である。
彼も理学士であり、阪大の研究も3年やったのであるから、もう一人前であって、今後どのような生活をしようと放任しても、決して心配は要らないであろう。
祐一が九州から帰って来た。彼はもう1年しないと一人前になれないが、健康であるから、北大は無事卒業し、何処かに就職するであろう。来年の3月は楽しみであり、感謝である。

6日
神視にも県にも出たが、頭のふらふらは依然として治らない。矢張り風邪の故である。
今日は、四つ井工作所と銀星タクシーと二箇所から労働相談を受けた。前者は従業員89名中37名が組合を結成し、それがストでピケを張っているため、非組合員52名が就業が出来ないと訴えた。
組合がストを決行する事は組合の自由であるが、非組合員が就業する事も非組合員の自由であろう。それを組合員が暴力によって52名の修行を妨害することは、生き過ぎであるといえる。
銀星は組合を組織したが、上位団体の指導が不当で16名中12名が脱退し、その12名が第二組合を結成したという。健全な組合を作ることは大変な事である。

7日
桂司法書士を訪問し、神視の建物に就いて打ち合わせした。登記のためである。
今日は社会事業会館で、賀川記念事業会館の建設に就いて委員会を開くので、これに出席する。
記念館の設立は容易でないが、漸次進みつつある事は事実である。忍耐と努力で完成するであろう。
特に三浦、村山両氏の努力は大変なものである。大阪の協力もどの程度であるか不明であり、殊に東京は全然見込みがない。そのほか他府県にあっても、援助は大きく見積もらない方が確実であろう。

8日
早朝から福山氏(仮名)を訪問し、イエス団不法占拠の移動に就いて相談した。困難な問題である。然し、この移転問題は自分が解決に当たるの他方法がないと思う。福山氏(仮名)の不安は、家賃を完全に払うかどうか、もう一つは近所の風紀が悪くなるの2点である。他の家を買収してアパートにする事を考えてみるとの事であった。

9日
礼拝に出席。雨が降り寒くなった。冬のようで風邪をまた引き返した。
僕も弱くなった。風邪に対する抵抗力がなくなった。

10日
本多氏と事務打合せをした。
1 徳島に賀川記念事業を起こす事。それで慈愛寮の問題を解決した。
2 石井の事業を雲柱社のものとするか、イエス団のものとするかについて。
3 賀川夫人に130万返済に就いて。
4 豊島の土地の登記に就いて。
5 各施設からイエス団の補助に就いて申請の出ている事について。

11日
協同牛乳の債権者会議が裁判所で行なわれる予定であったが、判事の都合で5月16日に変更になった。
正午は職安所長及び西尾氏と懇談し、昼食は電電舎で御馳走になった。
午後は県に出勤した。

12日
終日在園。

13日
朝は、信愛学園で川村氏と建物に就いて。
次に細田を訪問し、高橋氏が渡米商用中である事を知り、女児を恵まれ仕合せに暮らしている状況を知って、感謝であった。
11時から栄光教会で、国際奉仕団の委員会に出席し、1時から県に出勤。
5時から二葉幼稚園で、イエス団の理事会に出席、帰宅は11時であった。

14・15記入なし

16日
祐一が北海道に往った。後1年で卒業する。時間の経つのは早い。
彼は学校を卒業して就職したら、最初の俸給は教会に献げるという。そういう心掛けでいる事を嬉しく思う。そのとおり実行させたい。

17日
出勤した。特に記入する事はなかった。

18日
今日も県に出勤した。上京の準備をした。

19日
神戸駅朝7時17分、霧島に乗車し東京行きで、夜は、深川愛隣学園で証言した。最初1時間話し、後更に懇談の形で1時間話した。賀川先生の生涯を中心であった。

20日
キリスト新聞の主催で、15周年記念と賀川記念会と引き続き行なわれ、賀川先生の新川時代について10分間話した。
1時間ほど話す積もりで準備していたので物足りなかった。然し、会衆335名で盛大であった。会費500円払って、よくもこれだけ集まったものである。
片山哲、杉山元治郎、小崎道雄、村田四郎その他多数の名士が参集していた。
夜は先生の宅で一泊した。兎に角、12時まで奥さんと杉山、菅沼、純基氏と共に、イエス団との打合せをしたのであった。

21日
千恵子と共に千恵子の必要な諸道具を買いに往った。
愛隣学園にまた一泊した。

22日
東京駅8時14分摂津で帰途に就いた。
5時から、加藤先生の接待で夕食の御馳走になった。

23日
礼拝説教。出席者45名。自分が先生の一代記を語り、昼食は麦飯に焼き味噌で、40名が昔の先生をしのびながら食事をした。その後で役員会を開催した。
祐一からの手紙によると、大学からの発表に依れば4年在学生の内7名が90点以上で、この生徒の就職に就いては心配は無用。学校で責任をもって推薦する。但し65点以下の者は再試験を行なうが勉強せよ。そうして祐一はその7名のうちの一人であったという。アルバイトをしながら、よく努力した事を嬉しく思う。

24日
明石税務署から所得税に就いて出頭せよと通知して来た。行ってみると生命保険金の控除は22500円であるのに4万以上控除しているから訂正せよとのことであった。
労働相談員を本月限りで辞職することにしたので机の整理をした。

25日 
細川書記と財団、福祉両法人の決算役員会の打合せをした。終日在園。
大下ゴム(仮名)の従業員が保母に恋し、夜2時半電話で今から往ってもよいかと聞いてきた。保母は驚いている。5月16日、僕が媒酌人で結婚式を挙げることになっているものを、困った要求である。全く片思いであるが、結婚する事に依って、危害を加える事にならないように、注意している必要がある。
トマトを植えた。去年は失敗であったが本年はどうなるか。

26日
神戸職安を訪問し、杉田課長を慰問した。職員が二百数十万円を横領していたことが暴露したので、大変な事になっていると思う。監督者の責任は免れない。悪い事をする部下を使っている者は不孝である。
イエス団に於いて、東京での打ち合わせの内容に就き懇談した。尚理事会に就いての相談をした。
県に出勤し岡田を訪問した。
朝はきゅうりと小芋を植え付けた。収穫はどうなるか。

27・28・29・30 記入なし


5月
1日
夜6時、イエス団に於いてイエス団教会と長田伝道所との牧師及び役員が、長田伝道所の独立に就いて協議した。
長田は喜ぶであろうと想像していたが、時期尚早で、当分現状のままを全員揃うて希望した。ピントがはずれている感じであった。

2日
高橋氏と近藤氏に面接した。土地の件であった。

3日
休日

4日
竹中を訪問し、5時よりYMCAに於いて、本城氏と記念館募金について懇談し、その秘訣を本城氏に教えて貰うためであって、種々協力されることを約束された。

5日 記入なし

6日
協同宿泊所を訪問し、友愛に於いて村山牧師と募金に就いて懇談した。

7日
イエス団教会総会。役員選挙の結果、武内夫妻は当選で、武内は50年役員を務め、更に役員に当たった。ひとつの教会で、役員50年を務めることは計画して出来る事ではなく、全く主の導きである事を確信する。

8日
午前は大阪出張、全購連を訪問し、午後は中央市場を訪問した。賀川記念の募金に就いてであった。

9日
3時、神戸新聞会館パーラーに於いて、賀川記念事業副会長会議を開いた。
中井一夫弁護士も出席され、募金に就いては協力する事を約束された。

10日
兵庫教区総会に出席した。議長、副議長、書記3名が改選され、若手ばかりが役に就いた。県下の教勢は依然として振るわない。前進運動、大挙運動、ラクーア伝道、種々努力してはいるが、なぜかキリスト信者は数が増えない。
本当の信者がいないからであろう。反省しなければならぬ。

11日
今日も総会出席。

12・13日 記述なし

14日
礼拝出席

15日
イエス団理事会。YMCA、午前中は評議員会、3時までは福祉法人、其の後は財団法人イエス団と朝から晩まで役員会であった。
15団体の仕事はそれぞれ有意義であって、今日まで継続していることは感謝であり、今後益々発展に努めなければならぬ。

16日
10時、藤沢姉の結婚式に出席し仲人役を務めた。

17日
帝国信栄社長と面談し、土地の件を決定し、午後村山牧師と岡部五峰氏を訪問し、募金に就いての協議を依頼した。

18日
尼崎市役所に局長と共に出張し、募金について協議した。

19日
中井弁護士を訪問し、募金の協力に就いて依頼した。先生は今も一億説である。大きな計画結構であるが、募金は楽ではない。中井先生は、神戸新聞の原氏に協力方を依頼される予定である。

20日
イエス団に於いて募金準備をした。

21日 記述なし

22日
6時、YMCAに於いて記念委員会を開いた。
11時は愛隣館の理事会をYMで開催された。愛隣館は改築の必要が迫ってきた。

23日
神愛館長来園。借入金、返済金、財団目録などに就いて打ち合わせ。

24日
栄光教会に於いて7時、賀川記念大講演会を開催し、武内も講師の一人で約20分間講演した。
準備が不十分であって、集まった人達も百名内外であったであろう。
講師は今村、吉田の二人も見えなかった。講師に対する連絡もなかった。
上組の支配人井田氏を訪問。寄付を依頼した。

25日
川崎重工の砂野専務を訪問し、甲南汽船の田中会長、労金の佐野理事長と順調に面会が出来た。

26日
川崎航空機の専務を訪問し、庶務の係長と面会したが、約束の10万円は受領できなかった。岸田氏より後日電話で回答の約束。

27日
神戸職安所長の紹介状により、神戸工業と神鋼を訪問の予定であったが、不在であった。
午後、橋田(仮名)母子のご両人が来団。イエス団講につき本多氏より170万の請求を受けているが、不当なものがあるので、中に入って仲裁の労をとって欲しいとの依頼があった。

28日 
礼拝出席。午後、明石愛老園理事会に出席した。

29日
イエス団の予算配分金、返済金などに就いて検討し、午後橋田氏(仮名)を訪問。不法占拠者の立ち退きに就いて懇談、打合せをした。
尚、4時垂水の山奥を視察し、土地の調査をしたが山であって、素人では手のつけようがない場所であった。

30日
村山局長、徳島出張。賀川納骨式参列。
終日名刺を整理した。

31日
午前中、本多氏、事務所に於いて事務打ち合わせ。
1時、社会事業会館にて社協主催の施設長会議出席。労働基準法の説明あり、午後4時閉会。
本年3月より、社会事業に対しても労基法を適用されることになった。これは当然なことであるが、今直ちに実施された場合、違反しなければ事業を行なう事のできないものが多数であって、労基法厳守の為には予算の裏づけが必要で、職員従業員の増加を計らなければ、実効至難であるとの結論に達し、此の種の協議を今後開催されることになった。


6月
1日
35年度予算、36年度予算の報告を作成し、これを一括した。
局長と共に神戸工業、川東、川鉄、三輪を訪問し、社会事業に対する協力を依頼した。

2日
局長同伴、坪田照次氏、ビオフェルミン、中央市場を訪問した。
堺氏は県に、6月議会の追加として県より記念事業助成費を予算化するよう、関係係りにそれぞれ交渉された。これは厚生省より免税認可を受けるためである。
午後労金を訪問し、佐野理事長とともに神鋼江見重役と面談し、寄付金30万円の依頼をした。

3日
村山牧師と共に募金にかかっているが容易でない。大蔵省の免税認可を得るまでは軌道に乗らないのではないかと考えられる。

4日
礼拝の司会をした。午後は本多氏を訪問し、橋田氏(仮名)のもつれについて相談し、その後で井上所長を訪問した。
宿泊所も将来は鉄筋コンクリートの建物でないと火災、衛生の点から不安である。計画をしてみよう。

5日
高橋氏と面談し、後は理事会の準備をした。そのためには県の石橋氏に電話し、賀川記念事業にイエス団は寄付しても法的に支障はないかを問い合わせた。同氏は寄付してよろしいと答え、これを確認した。
七福相互での借り入れに就いて七福に交渉した。

6日
小川氏宅でイエス団(財団)の理事会を開催した。
百万円を不法占拠立ち退き者に支給することについて、理事会の了承を得た。本多理事は記念事業から支出することを固持したが、金田理事の賛成で決定した。

7日
不法立ち退きについては、33世帯に対しイエス団から百万円、記念事業から百万円、神戸市から80万円を出した。
右近示市会議員と橋本福松民生委員の特別な協力で解決した。
33世帯は市会に集まって市、右近、橋本、武内からそれぞれ説明した。
不平を言う者一名もなく、全員喜んで散会した。
立ち退き問題は新聞の三面記事か、調停裁判か、共産党の後援か等と心配していたが、これが杞憂うになったことは感謝である。

8日 
立ち退きの件を理事長に報告した。立ち退き者の中70%は既に移転先が決定した。幸いな事である。15年間不法占拠で、ただで土地を使って、出て行くときは数万円を貰っていくのである。然し、受くるより与うるは幸いである。

9日
午前中はイエス団に、午後は神視に。終日雨で外には出なかった。
4時から職員会議を開き、土曜日にうどんの給食を決定した。
久し振りの雨でよく降った。もう梅雨入りであろう。
近藤氏が、高槻に土地の出物があるから買わないかと進めて来た。
不法占拠立ち退きの後に、50坪ばかりのバラックを建てたいので、設計をして見た。

10日
長田区役所に於いて31年度固定資産税について調査した。保育認可を受けるまでの税金であることが明瞭に成った。
不法占拠者の中、2家族は今日建物をこぼち移転した。約束どおり、本月中に全部が立ち退いてくれたら、本当に有難い事である。

11日
礼拝後、二星氏を見舞い、徐々に健康を回復しつつあり、信仰は熱心になり、主の救いの証人となり、大いに伝道する決意であり。すでによき働きをしつつある事は感謝に堪えない。
夜の集会では、雪子の証言があり、自分が司会した。
松山兄(仮名)より、同氏の息子が麻薬関係で石井拘置所に収容され、先日検事より1年6ヶ月の求刑が在り、15日判決がある予定であるが、執行猶予の恩典はないかとの相談であった。
これについて明日、小西弁護士を訪問する事を約した。

12日
小西弁護士を訪問し、更に裁判長に面接し、判決を寛大にと御願いした。
当人が組みに加わっている事、麻薬の扱いが大量であったことなどが、執行猶予にならない理由のようである。
高槻の土地を見に行った。

13日 
本多氏に面接し橋田(仮名)の返事を伝えた。
頼母子講は廃業するが、掛け金に就いては相当無理をして整理する計画をしている。それでも百数十万は不足のようである。
市より立ち退きに関係する職員2人がきて、立ち退きをした者が壊した家の捨て場がなくて困っているが、どうするかとの相談があった。
古木は風呂屋もただでも取ってくれないので始末に困っている。外に捨てると警察に叱られる。焼けば向いが消防署であって具合が悪いという。
社会福祉法人イエス団に対する助成案を立てた。
坂出吉村、南部升崎、白倉、三氏に対し、それぞれ書面を出す事にした。吉村については登記と計画書に就いて、升崎氏については社会福祉法人イエス団加入について、白倉氏には立ち退きについて。

14日
イエス団、橋田(仮名)本多両氏の講金関係がやっと解決した。金壱百万円也で双方とも互譲したかからである。

15日
聖和短大の生徒16名が、アーンアーピーヴィー女史に引率されて見学に来園された。参考事項については、武田主任保母から充分説明した。
11時から本多氏と面接。12時から4時30分イエス団、其の後7時までは宿泊所に於いて、それぞれ用事を済ませた。

16日
丸金ゴム社長と都市計画に就いて懇談した。この園にもその影響があるかないか、まだ不明であるが早く承知したい。次の設計計画があるからである。
午後は、イエス団で細川書記と財団関係で打ち合わせた。

17日
賀川記念館設計変更に就いて素人案をたてた。
新築は、不法占拠者の立ち退き後に建つべきである。第一の理由は、市の助成約400万円と現在の建物の跡に建てるためには、一時バラック建てに100万はかかり、結局500万円の予算がいる。
運動場の位置と太陽の光線の点で、建物の表と裏との相違があるが、運動場が裏になっても止むを得ない。更に、現在の既設の建物も半分は保存できる可能性がある。

18日
礼拝後役員会があり、其の後永井家との打ち合わせのため、大阪に妻と共に出張した。
結婚式場をYMCAとし、式はキリスト教としたが、永井夫人は反対であって、はっきりと決定する事ができなかった。

19日
川崎航空より10万寄付の払い込みを、本日末と交渉の結果決定した。
佐野氏と募金に就いて懇談した。海員組合より5万円寄付が、佐野氏と組合長との間で内定した。
船主協会からも、会員8名あり100万程度は寄付されるであろうと、佐野氏は見通しをつけている。訪問日は同氏より連絡される。
本城敬三氏と電話で交渉し、22日正午、YMCAで昼食しながら募金に就いての懇談をする。

20日
午前中理事会、評議員会の議事録を仕上げて、細川書記の原稿を若干訂正した。午後は神視で勤務し、今日は給料の支払いをした。
近藤氏と土地の件で面会した。

21日
イエス団議事録作成。
片山氏、土地斡旋のため来団。
近藤氏、賀川記念館屋上に広告塔を設ける件につき来団。

22日
正午、YMCAに於いて本城氏と村山、武内3人、昼食を共にし、賀川記念事業募金に就いて懇談した。
同氏はウンと協力し、殊に金を寄付される人々を善く承知していて、誰にお願いすればどの程度は寄付するであろうなど、予測の出来る確信を持っている。心強く思う。
午後、林輝氏の来団があり、29日、私学会館に於いて賀川先生の死線を越えての生々しいところを話して欲しいと依頼された。喜んで承諾した。

23日
片山勘三郎の案内で、小野の山地を視察に行ったが、谷が多く、利用の出来る面積が少ないので、価格よりも利用価値が少ないので、駄目と判断した。
屋敷の前にある溝に石を全部並べた。
大変な労力で全く疲労し、身体全部が悼む。然し、長い間しなければ成らぬと考えていた事が実現したので、何ともいえない愉快さでもある。

24日
石を掘り起こし、これを溝に並べるにはえらかった。今日も疲労は残っていて全身が痛い。
木村姉の義父が永眠し、母と当人の二人家族となって双方が淋しいので、母の方が来神して、親子二人で生活する事を希望していたが、真の父親は妻を失って28年一人でいるので、本当の父と育ての母とがこの際夫婦になってはどうかとの問題が起こったという。誠に結構なことである。賛成する。

25日
礼拝出席。

26日
午前中イエス団、午後神視。豪雨の為、一時国道不通。
川鉄訪問。20万寄付を受けるため、村山牧師と共に会社取締役桜井貞雄に面接、更に庶務係りに面接した。寄付金に就いては、社長の決裁がまだ済んでいないが、二三日の中に決済の見込みと答えた。

27日
夜中からの豪雨で国鉄、山陽共に不通で、終日自宅にいた。但し、屋敷が溝の下水の氾濫で海の如くなり、折角の野菜が台無しになるのではないかと思われる。
兵庫県労働保険組合の役員会は変更になった。

28日
不法占拠者33世帯のうち32世帯がそれぞれ建物を壊した。残る1戸は居座る考えのようである。電灯を新しく取り付けた。
各地に水害が起こっている。国鉄も私鉄も不通箇所が多く出ている。殊に神戸市に於いては、宅地の造成で不完全な工事をしているために被害が多く、天災でなく人災といわれているが、当局の責任か人の欲のためか、天竜川も決壊したというし、東京も降雨らしいが、大事に至らねば結構である。

29日
記念館の屋上広告塔を設けることに就いて、近藤氏の紹介により広告会社係員とが3名来団。村山、武内都合5名が協議した。
要点は、広告料は最低年額150万円、最高25万円程度であるとの話であった。中を取って年額200万円を毎年前金払いとしてくれる事になれば、イエス団は経済的には非常に恵まれ、さまざまな有意義な事業を行なう事が出来る。
知事の反対がなければ実現する。広告もビールや酒は出来ないが、電気、薬品、保険の種類の者はイエス団の建物を利用したとしても差し支えはないと思う。

30日
河上丈太郎氏より、三浦氏に電話で、記念館建設のための募金につき、大蔵省はかねて提出している書類の他に、知事の副申書と建物の3階の使用方法と、会館を特定の者に貸さない規則がでたら、それで認可の方針との事であった。
直ぐに書類作成に取り掛かった。認可があり、広告料が入り、更にモータープールでも設けることになれば、イエス団の財政基礎は一層強固となって来る。

     *      *      *       *

 武内のこの日記を記して2年後、昭和38(1963)年にめでたく「賀川記念館」は開館される。そして日記にあるように、武内と共に、この募金活動の中心的役割を担って取り組んだ村山盛嗣牧師は、賀川の招きで昭和33年にイエス団の牧師として就任し、長期間にわたり「賀川記念館館長」「友愛幼児園園長」などを歴任、2009年の今もイエス団専務理事として、「賀川献身100年記念事業」の大きな柱である「賀川記念館の新築再建」の事業に関っている。
 
 補記 過日(2014年3月8日)には「賀川記念館設立50周年感謝会」が、新築5年となる「賀川記念館」において開催された。

   (2009年9月23日鳥飼記す。2014年3月19日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(56)

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  お宝発見「武内勝日記B」(1) 昭和36年1月~12月

 これまで8回に亘って掲載した「武内勝日記A」は、戦前の昭和2年から4年のものであった。明治25(1892)年生まれの武内は、当時30台半ばの働き盛りの年齢であったが、それから敗戦を挟んで30年余りを経て、彼はすでに齢69才になっていた昭和36(1961)年の日記が、このたびの「玉手箱」に残されていた。武内勝の纏まった日記としては、生涯のうちこの2冊である。
 前者は「武内勝日記A」としたので、晩年のこの日記は「武内勝日記B」としておく。今回から4回に分けて取り出しておきたい。

武内日誌


 この日記は、添付のように、15センチ×10センチのハガキ型の簡易ノートが使用され、表紙には「昭和三十六年度 日誌 武内勝」と自筆されている。

 書き始められた契機が何であったのかは判らないが、賀川豊彦が昭和35(1960)年4月23日にその生涯を終えていて、その翌年の元日からの日記であるから、武内たちは、賀川亡き後のイエス団継承の責任を担いつつ、懸案であった神戸の「賀川記念館の建設」という課題をかかえての、昭和36年の年初めであった。

 武内はこのとき、神戸市長田区三番町に開園したイエス団の「神視保育園」(昭和32(1957)年設立)の園長でもあった。

             *     *     *      *


                  昭和36年1月~3月

1日 
礼拝に親子三人が出席した。
世界の平和を祈り、神の国の基礎の強化に就いて祈った。
午後、崎元待命氏を済生会病院に訪問し、祈って別れる考えであったが,同氏もまた祈り、ニッコリ笑った。
先月二十九日は、病院より今日、明日の寿命と宣告された崎元氏が、今日は笑顔を見せて呉れた。

2日 
一麦寮に於ける修養会に出席した。
出席者は108名であったが、青年の多数であったことは頼もしく嬉しかった。

3日 
前日に引き続き修養会に出席し、午後は15分間の奨励をした。
賀川の弟子になって何をしたかと題し、賀川先生の指導を受け、愛の奉仕の真似で、三公の幽霊話と労働保険組合の組織に就いて、宮本兵太郎の負傷と財団法人イエス団の基本金五千万円積み立て、毛利金五郎にだまされて得たこと。
以上に就いて述べた。

神視、印鑑必要に就き(坂出のため)25
五時より財団法人イエス団理事会 賀川記念事業に千万円寄付を決定
坂出育愛館の借り入れ金は、二十日に再審議
小川牧師宅にて、1月2日11時、委員会開催

4日 
労働相談、出席職員祝賀 イエス団電話

5日 
神視出勤、園児出席数名 民生安定所訪問 年賀挨拶 帝国信栄
YMCAに於ける県下キリスト教信者教職員会に出席 職域伝道を何うするかを検討するためであった。
水戸司法書士に印鑑証明及び発送依頼
坂出育愛館手紙
県秘書課長電話

6日
神視出勤 今日も園児出席は十人位で少数であるままだ。正月気分で休むのであろう。兄弟が学校休みの関係もあると思う。
労働相談出席 栃木汽船の労働組合長より上位団体の援助に就いての相談があった。組合の届出に就いても何も解っていなかった。
県秘書課長電話 賀川記念事業に壱千万円寄付に就いての報告のためであった。知事は壱千五百万円出して呉れと特に依頼された。

7日
神視出勤 今日もまだ園児出席は十数名である。新しい保母さん今日から勤務した。
宇都宮来宅、高本氏が肝臓が悪くて静養しているとのことである。
賀状を出していない方からこれを貰ったので、その方々に賀状の礼状を数枚書いた。

8日 
家族合わせて三人で礼拝に出席した。
帰途、済生会病院入院中の崎元氏を見舞に訪れた。元日訪問の際は、自分で祈り且つニッコリ笑ったが、今日は目を閉じる元気もなさそうであった。愈々死が近づいた感が深かった。
見舞い者は、辻婦人、緒方婦人、住友姉と自分と妻であった。
崎元氏は、新川の子供の面倒をよく見た。自分の子と他人の子と区別もなく、よく一麦に伴われて来て遊ばせた。絶えず指導に努力していた。
氏ほど地区の子供の指導に努力した人はないと互いに語り合った。

9日
労政事務所の分所長会義で出席し、ぜんざい会で御馳走になった。何れの会でも、辛党が中心になるものを、甘党の会であった。
夜、中村朝太郎氏が来宅し9時ごろまで雑談した。

10日 雨 
細川書記とイエス団理事会議事録整理
労政に於いて十二月分の記録整理をした。建物の修理及び塗装の為、机の使用が出来ないために整理がつかなかったものの整理であった。
大蔵省は、36年度の予算中、保母の給料15%増額を取り消したと言うので、東京の保母は当局に交渉していると朝日は伝えている。当局者の理解が足らぬ。

11日
議事録を整理し、細川書記に保存方を一任した。

12日
午前2時頃、崎元待命氏死亡の電報を受けた。
早朝イエス団に赴き、至急ボーイスカウトの関係者と協議懇談し、三者の合同葬のような形で、13日3時イエス団教会を式場として葬儀を行なうことになった。
夜遅くまで教会に残った。自分が葬儀委員長になった。
施設長会議は欠席し、川崎氏に代行して貰った。

13日
今日も神視を休み、県にも出ず、葬儀のために終日イエスに詰めきることにした。また何かと相談事項が相当多くあった。
3時、式をはじめ、4時40分終了した。
会葬者は多く、イエス団教会創立以来、今日程多数が集まった事はなかった。
式辞もよく、よき証言となり、伝道にもなったと思う。
殊に、筒井姉が幼少の頃、崎元の世話になったことを思い出し、式に参列して信仰の告白をして呉れた事は、大きな収穫であった。
村山牧師のよい経験になった事も感謝であった。

14日
馬見から寄越した誓約書の誓を清の字を使っていたので書き直しのため返戻した。僅かな不注意から大変な手数となる。
豊島に対しては、20日出頭の連絡をした。

15日
家族3人が礼拝に出席し、午後は一麦教会の献堂式に3人とも出席した。
一麦に居住中は、地上げのために雨降り後は、川に流れて来た砂をすくい上げ、之をもって整地し、或いは高比良、或る共産党員等の失業者に、食事と電車賃を与えて、ガスを埋め立てた事もあり、十二年間の思い出が多く、殊に美邦の友人梅村氏が、教会の中堅となって、会堂建築の出来たことは、実に感慨無量である。

16日
県に出勤したが、労働相談事項もなく、外交に出掛けたところに三島氏(仮名)が来所した。
彼は、賀川夫人から金を送ると言って送って来ないから、弁護士を依頼して事件にすると言った。三島氏(仮名)は無理な計画をしている。賀川の奥さんから、金を取るなど腑に落ちない。
神視で職員会議を開いた。主としてベースアップに就いてであった。もっと優遇の道はないかと考えさせられる。

17日
伊藤歯科医で歯の治療を受けた。次の診療は来週の月曜日である。歯だけが自然に抜けるのではなく、全身が漸次衰えて役に立たなくなる。
老いる事は嬉しい事ではないが、予定されている運命では、長くてもう十年、更に長くて十五年程度であろう。
出来る限り、善い働きをして死にたいものである。
山部氏(仮名)に建物の権利証を返却した。彼も金に対しては実に無理をする男である。

18日
職員給料を10月に遡及し15%の増俸を決定した。然し、公共の保育所に比較すれば殆ど半額である。
私設団体の職員は奉仕を旨としているが、待遇の点については、当局は実に無責任である。
全国の保育所従業員の恵まれる事を祈る。4万人の従業のために。
県に出勤した。細川書記来園、議事録に就いて。
奈良馬見より訂正文書来信。
崎元姉より礼あり。

19日
坂出保育より河田保母主任来園、事務打ち合わせ。
協同牛乳の関係にて、高芝弁護士訪問。
奥山より借り入れたる原因、それに関する件に打ち合わせ。高芝弁護士の書記は、協同牛乳の負債の支払い要求は少ないので、会社に返す金が出来るという、有難い見込みである。
4時、崎元待命氏の遺族及び旧友人数名がイエス団に集まり、主として遺産の分配に関し協議した。崎元氏にはまことに複雑な家庭であって、金に欲が出ると収拾がつかなくなる。それが円満に解決がついて感謝であった。立会人は西尾、溝口、池田、村山、武内の五名であった。

20日
11時、大阪小川宅でイエス団役員会を開催。
坂出の借入金、賀川記念事業に対する寄付金、四貫島教会の借入金などに就いて協議した。
イエス団に対する補助金の請求が、小川牧師を第一番とし、二番が吉田牧師、三番が吉田牧師代理で奈良馬見の要求である。
皆の要求を聞いていたら、二三年の内に基金はゼロになる。
早急にイエス団の助成規定をつくる必要があり、これは自分の責任である。
出席者、大川、田中、吉田、金田、小川、武内、本多、村山、河田、細川

21日
財団法人イエス団寄付行為施行細則案作成に就き検討す。
基督教社会事業書面。

22日
礼拝司会、役員会、菅野外1人来宅、料理学校につき相談。

23日
歯科(入れ歯)。2時労使センター会議。高本来訪。

24日
村山牧師電話。菅野氏来園。県厚生課。

25日
歯科

26日
伊川谷山林視察。
厚生課、厚生省提出書類につき打ち合わせ。
財団、福祉ともに理事長変更届提出のこと。尚、登記謄本4通添付

27日
三浦氏及び知事と面談。2時
奈良馬見書類返送
財団法人イエス団より賀川記念事業に寄付する金額は、建築費の二分の一であるが、建築変更により増額した場合は、更に5百万円寄付金を増額することとした。

28日
神野に出張し7,500坪の農地を視察した。将来養老院の施設でもすれば最もよき地と考える。坪当たり七八百円も安いと思う。

29日
礼拝出席、午後高本を訪問。
夜九時まで二宮(仮名)の30万借入金について話し合った。

30日
県秘書課長を訪問し、財団法人イエス団の寄付行為変更の認可申請について、本省交渉のため東京にある県出張所に行き、川上氏と厚生省に同道する打合せをした。

31日
兵庫県労働保険組合に履歴書二通を書いて送付した。同組合も愈々財団法人組織となる。大正15年創立の時からの懸案であった。兎に角、組織化は結構である。
法人代表者変更届(大臣宛)作成した。原稿細川渡す。
賀川厚生事業団に金壱千万円也寄付申込み書を発行した。
水戸司法書士、財団、福祉ともに四通登記簿を依頼した。
財団法人、社会福祉共に理事長変更の届出を、厚生大臣宛県に提出した。


2月
1日
馬見の百万円借り入れ申請書の訂正で、馬見から速達書類を送付して来たので、直ぐに書類を訂正し、細川書記に渡した。明日県提出の予定。
入れ歯が出来たので、二三年はこれでものを食べるに支障がないことであろう。助かった。
本年の冬は、何十年目かの寒さである。事務室に練炭一個、300の電熱だけでとても寒い。しんから底から冷え込む。
細川の作成した議事録原稿を整理した。

2日
三時、長谷川敞牧師の葬式に参席。
芦屋教会夫婦共に牧師であって、二人で二つの教会を建設し、これを牧していた。生涯を伝道に献げた尊敬すべき先生であり、また貧しき者を何時も覚えて、新川のためには毎年古着を集めて下さった。
イエス団に於いては、忘れてはならない恩人であり、協力者であった。

3日
安藤石綿工業を訪問した。中小企業では何処へ行っても労働組合にはてこずっている。成績不良の者の解雇が出来ないためと、賃金値上げを恐れているからである。
松本姉は突然来園で、診療所を開設したいから善い医者があったら紹介して欲しいとの相談であった。医者は多いが、親切な医術の勝れた者はないと言う。皆欲が深いので、貧乏人から金を巻き上げるのが苦療であると言う。
県と打ち合わせの結果(月)川上氏と面会。

4日
細川書記、事務連絡に来園、イエス団の印鑑を渡した。
田中氏の回答理事会に就いて。田中氏は、自分で役員会の費用を負担するから開催して欲しいと言う、熱心な役員である。
午後、高橋氏と面会。

5日
礼拝後、佐藤姉と自分の妻と三人が、岸部氏を訪問した。
古い思い出話をして、旧友を更に暖かにした。語るも感謝、聞くも感謝であった。信仰の友をもつことが、殊に深き愛の交わりのあることが、幸せなのである。

6日
県の東京事務所から川上氏が帰っているので、財団の関係で面会する予定になっていたが、同氏が多忙で秘書課の連絡がつかず、午後4時過ぎも尚連絡がつかなかった。二通話
中小企業退職金共済事業について勉強した。
近藤氏来園、土地に就いて懇談した。
久仁子の結婚につき、金のかからぬ方法を考えた。

7日
高芝弁護士に訴訟資料を提出した。
6時、YMCAに於いて、賀川記念事業委員会に出席した。
寄付行為の第三条第四条が余りも貧弱と言うか、無定見に等しい。
事業計画がないので驚いた。新川で行なう事業で最も大切なものは、児童を一人前の人間に育て上げる事であるが、それは一言も触れていない事は遺憾である。少なくとも児童教化のため、学校の予習復習の指導をしなければならぬ。又不良防止の為には母の会、婦人会、婦人倶楽部等の組織、指導援助について努力し、多くの婦人の協力で児童を不良から守らなければならぬ。児童愛護運動をする必要がある。

8日
県秘書課に於いて、村山牧師と共に川上主事と面会し、財団法人イエス団の寄付行為変更に就いて、厚生省より質問の点と変更の困難な点について説明があった。
財団の金を福祉事業に使用してはいけない。財団を解散して新しい財団を備えるか、社会福祉に全部寄付するか、この場合現在の財団関係事業を社会福祉と認められるのでなければならない。
現在の寄付行為をそのままとして新しい事業を起こすか、現在のものを一層拡張するか、上京し本省に出頭して係官と懇談の上ハッキリした線を出し、理事会に於いて審議しなければならぬことなった。
県出勤。村山牧師と寄付行為の第三条及び第四条につき協議し、変更する事とした。之で自分の願う点が加えられるので満足である。

9日
朝から山田の山を見に行った。壱万三千坪ばかり安い土地があるというので視察したが、矢張り山であって利用価値が少ない。自動車賃400は無駄であろう。
金田牧師に電話で、財団寄付行為に就いて連絡した。
武田洋子主任保母を、基督教社会事業同盟研修会に出席する事を決定。2月21-23日 旅費2,500円を園より負担する。
YMCAにて記念事業に就いての専門委員会開催出席、金田牧師と財団寄付行為変更に関しての打合せをした。
委員会は24日大阪で開催される事になった。田中理事の熱で決定したようである。記念館の設計図は、素人が事業を知らない設計させられたから再検討を要することになった。

10日
厚生省行きを16日に決定し、洲本出張を23日に。大阪に於ける委員会出席を24日と決めた。その間、15日は三木市出張である。
健康である限り用事は尽きない。仕合せな事である。
分所長会議で色々考えさせられたが、全国的に労働者の賃金は上昇し、殊に本年高校卒で15,000で、就職もあるという。
世は正に労働者の時代になりかけた感がある。失業がなく貧乏が追放されることは有難い事である。

11日
昔の紀元節である。雲にそびゆる、歌を思い出す。
年中で一番寒い時であるが、今日も雪が降り、相当冷える。多分六甲には雪が積もり、明日の六甲はスキーヤーで賑々しいことであろう。
嘗ては、イエス団の青年達と、雪の日の六甲登山で喜び楽しんだものであった。綺麗に30センチも雪の積もっている上に、顔を突っ込んで面の出来る事や、板一枚の上に乗って、ソリの代用で滑ったりころんだり、風呂敷に包んで土産にした事など、思い出すのも楽しみである。
特に、何の汚れもない真っ白な六甲山頂で、大阪湾を見おろしつつ賛美歌を歌い、祈りを献げ、神戸の救いを祈り、下って路傍説教で救いの立証したことは、終生忘れ難い印象である。
近藤氏来園、伊川谷と加古川の土地につき雑談した。

12日
礼拝出席。崎元婦人と香典の社会事業寄付金、財産の相続分配、漢族関係等に就き懇談した。
3月1日に、故人の5日祭追悼会を開く事、挨拶状はその際発送する事、社会事業寄付金は168、000とすること。借入金未払いなどは、婦人より至急書き出すこと。分配金は本人の名義で預金し、通帳は教会で保管することとした。
午前中小雨であったが、後は晴れであった。

13日 なし

14日
協同牛乳の債権者会議が、神戸地裁で行なわれた。
安孫子氏が出席していたが、三島氏(仮名)は欠席していた。前者が出席するようになれば、後者は今後出席できないものと想像される。
午後はビオフェルミンを訪問し、小野常務と面接した。

15日
三木市出張。商工会議所会頭其の他と面接した。
労働問題について労、働者はよく勉強し、使用者は怠慢である。労働組合はないほうがよくて、ある事を非常に迷惑に考えている。
労使が一体となって生産のできるのは何時の日か。

16日
上京、財団法人イエス団寄付行為変更申請が却下となった。これについての厚生省係員との打合せの為である。
日本一の富士がさすがに日本一だと思わせる美しさであった。
雲が全然なく、六合目以上は雪で白く、ほんとに美しい富士であった。何度見ても美しい。

17日
兵庫県東京事務所に行き、川上主事と共に厚生省に行って係員と種々打合せをしたが、矢張り寄付行為の変更は認められなかった。
昨夜は一泊2,150円とられたが、今日は河上氏の紹介で第一ホテルに泊まり1,270円で済むことになった。東京で小さい旅館が安くてホテルが贅沢だと考えたら大間違いで、ホテルが便利であって安上がりである。第一ホテルの部屋が1,300あるのに驚いたが、料金に就いても感心した。

18日
松沢の理事長を訪問し、前日の厚生省での交渉の結果に就いて杉山,宣沼両氏とも懇談した。
最後の案は何うなるか、帰神後理事会の結果でないと解らないこととなった。午後4時半の特急かもめで帰った。

19日
礼拝出席。後役員会。

20日
労働相談に出勤 ミナト機工株式会社訪問。
工場長中島幸男氏が、自分を前から知って居ったと言う。知人とは凡てが打ち解けて相談が出来るので嬉しく思うた。
従業員の募集をしても応募者がなく、欠員補充すら不能である。之では会社は黒字経営でも、労力の面で黒字倒産となる。
宿舎を設備し、鹿児島あたりから募集し、厚生施設により従業員の幸福を工夫することを奨励した。

21日
崎元待命の遺産分配につきイエス団に於いて溝口、西尾両氏と協議し、之を決定した。

22日
久し振りで帝国信栄と本多氏を訪問した。土地と財団の関係についてであった。

23日
洲本市へ出張した。県の公用のためであった。
島は美しく東回りは特によいが、道路が悪く一台の自動車が走っても、土ぼこりで人家は大変だ。その後を追う自動車は、ほこりでたまったものではない。
自衛隊で道路工事をやったら早く竣工するものを。

24日
大阪出張。財団法人イエス団委員会に出席。寄付行為変更申請却下について協議した。
結局、従前どおりのままということになり、賀川記念館設立に寄付金千万円の約束をしていたが、これについては知事及び三浦氏に報告し、其の後に於いて更に検討することとした。多分イエス団に於いて建築することになるであろう。記念館に就いては、最初自分の考えたとおりになるようである。
大阪に一泊し、大阪駅で朝食の後散会した。
木村保母の父上が大病のため木村姉は帰国した。快復を祈る。

25日
加古川の神野氏を訪問し、土地五千坪について懇談した。
続いて土山の佐山氏を訪ね、菊池氏の土地一万坪を案内して貰った。
原野として放任してある土地が勿体ないことである。土地の値上がりで生涯遊んで贅沢の出来る事を楽しみとしているようである。有効に使用し資本を投じて働くよりも、遊んで土地の値上がりを待つほうが有利であるからである。
協同牛乳も、土地を買ったままで事業をしなければ二千万円の利益を得たものを、妙な時代であり現象である。
いい天気であった。中根氏来宅。

26日
礼拝出席。今日も崎元氏の遺産に就き夫人と相談した。委員達の気持ちと若干の差がある。改めて委員会を開かなくては済まないであろう。
賀川春子姉に、委員会の協議の様子を報告した。
正木氏に安孫子氏の要望を伝えた。はがきで。

27日
中根市会議員と土地の件で打ち合わせ。後、二宮(仮名)と高本氏を訪問し二宮(仮名)の負債金額30万を返済した。
午後県庁へ出勤し、神戸鋼船労働組合を訪問し、後河内滝雄組合長と面談した。労使間円滑であると聞いて安心した。
竹中及び岡田訪問。

28日
近藤氏と土地について打ち合わせ。
木村保母の尊父が永眠された。お気の毒である。とりあえず弔電を打った。今日も武田保母が欠勤した。山田はまだ風邪が快復しない。三人の保母が休んだので、残りの三人は大変であり、御苦労様である。
加藤医師と事務打合せをした。
夜、高木親子(仮名)の調整役で辰夫氏(仮名)宅を訪れ、夜九時前まで懇談したがむつかしい男で困ったものである。


3月
1日
早朝前田兄が来宅され、住宅を求めているが得られず、現在居る家は今日限り明け渡しをせまられていると苦哀を訴えての相談であった。
家内と共に服部氏の宅が広いので相談に往った。然し、土地も家も借りることは出来なかった。アパートはあっても家族6人の大勢では、何処に行っても断りばかりであった。
崎元氏の追悼会を開いた。五十数名の出席者であった。自分も所感を述べた。
10時半、丸山(仮名)が会いたいと申し出たので面会した。
協同牛乳の土地建物の所有権で和解をしたらどうかとの件であった。但し奥地(仮名)に3百万円、もう3百万円土山(仮名)に、1百万円を配当せよと言う無理な話である。

2日
稲美町に出張し土地の視察をした。坪1000で500坪程度は買収できるがよく検討してみよう。養老院、林間学校には適するであろう。
花房にも過日視察した。土地に就いて値段の交渉に往った。但し決定を見なかった。

3日
夫婦別れをし、子供を取り合いしている父親から預かっていた問題の子を、母親が迎えに来たので、武田保母は子供を引き渡した。その後で、父親が子を連れに来た。子供は母親が姫路へつれて帰ったことを知り、その責任を追及された。武田は姫路に出張し、その母から子供を預かって帰った。
心配したが、割合簡単に解決した。
茂が、四月二日三時、自宅で結婚式を挙げると案内して来た。
同日、崎元の納骨をすることになっているので時間がどうなるか。甘く都合のつくよう考え、両方の責任を果たしたい。

4日
神戸市議会議員中根氏の案内により、河談の山を視察に、宇都宮と共に出張した。22町歩の面積を、社会施設のために有効に使用したら何うか、と言う問題であった。市は、二年間に近道をつくり、交通を便にするとのことであった。山の利用は容易でない。もう十年若かったらと思う。

5日
三協工業を訪問し、吉田専務の案内で布引の滝を視察した。
この建物及び基金も添えて財団法人を組織、有料養老院を備えて欲しく、更にその運営を一任するとのことであった。殊に、屋上に十字架をつけて呉れとの了解は嬉しかった。
有料養老院とユースホテルをやって見たいと思う。施設ができたら自分はイの一番で入院する。場所のよいこと日本一と思う。大阪湾を一目に見下ろし、大阪神戸の夜の光の美しさは百万ドルとか言うが、実に美しい。
布引の滝が、施設の庭の中の様な感じもする。少し上の方には、布引水源地がある。ここから天国には実に近い感じがする。何だか夢心地になった。若し実現したら本当に感謝である。
米田社長の社会寄与も大きいと言える。

6日
明石市に出張し、きしろ発動機と池内鉄工所を訪問した。労務者の争奪戦を聞き、大変な好景気となったものである。
明石市に三菱重工が進出し、新工場が明石地元で本年六百名の従業員募集をすることになった。市内の中小企業振興会53工場では、三菱に従業員を引き抜きされるのでは生産に一大支障を起こすとあって、市や商工会議所に協力を求めて、地元募集の中止運動を始めている。
市や商工会議所では、市の発展のために工場誘致運動をやっている。労務者は漸次大企業に吸収することになるであろう。中小企業は、自滅か合同かの運命に置かれる事になる。
日本の労使のあり方に就いて深い関心をもたれている。
職員会議を開き、年度末の打合せをした。

7日
県出勤、訪問に出ず。5時まで在室したが来客1名もなし。

8日
1時半より市役所七階会議室に於いて、保育施設長会議があり出席した。
36年度より給料7、5増俸となる。尚、向こう4ヵ年にして、私設社会事業従事者の給料は公務員と同額になる計画であり、大蔵省もこれを承認しているとの報告であった。措置費も予定通りの増額を決定した。
ジャガイモの植え付けをした。7月上旬には収穫できるであろう。種は1貫目であるが十倍くらいになるか。
近藤氏来園、細川姉来園、社会福祉変更に就いての打ち合わせ。

9日
明石出張。明石機械、水田製作、共立マッチ、三光マッチの4工場を訪問した。女工員が失対事業に移動していく傾向にあることには驚いた。日雇から常 雇いを希望するのが普通であるが、常用から日雇への希望は変である。
柴田ゴムが、通勤用自動車で工員の送り迎えをしていると言うが、面白い時代が来たものであり、労働者万歳である。労働の尊さが認められる時がきた。

10日
井上氏と労働宿泊に就いて懇談した。同氏は鉄筋5階建て以上の新築をしたいと希望している。イエス団に300万で現在の財産を譲渡してくれという。幸い長田の建物の件を解決したい。よく検討してみよう。

11日
労働相談協力会に出席。明石方面の三菱其の他の技能者の引き抜きにつき報告した事が、次から次へと話題になった。今日もまた、労働不足に就いての協議になった。

12日
礼拝出席。役員会でイエス団の不法占拠者の立ち退きに就いて打ち合わせ、14日の夜交渉に当たる事になった。彼等は武内と交渉したいと希望しているとの事である。

13日
明石税務署訪問。御影の土地家屋の譲渡に対する課税に就いてであった。
千恵子の東京行のために荷造りをした。
誉田氏と36年予算に就いて打ち合わせの予定であったが、資料の関係で変更した。

14日
川崎氏は工場見学で出張。
高橋氏と加古川行きは取り消し、後日(18日)出張と変更した。
夜、イエス団不法占拠者20名と立ち退きに就いて交渉した。彼は移転は止むを得ないものと考えているが、補償費の要求額を最大限にとの意図のようである。一戸五万円では解決は出来ないであろう。

15日
明石税務署に申告書を提出した。
11時、YMCAに於いて兵庫県基督教社会事業経営者の懇談会の開催があり、これに出席した。
千恵子の東京行き荷物を発送した。
久仁子の婚約式は、大阪YMCAで26日午後2時に挙げることとした。

16日
平中鉄工所は、経営者が肋膜で入院中であり、従業員の解雇で裁判沙汰になっているが、未だ解決はつかない。資金にも詰まっている。得意先からは信用を失い、倒産一歩手前であったが、現在も作業は継続している。主人公も退院している。給料も遅滞なしであるという。よくやっていると感心した。

17日
分所長会義に出席した。会議後の放談会は、職員の中から反対者が出て廃止を主張した。
会費は男女同額で、婦人は給仕をする点、男は酒を呑むが女は飲まないのに、付き合いで時間つぶしとなる。会にテーマがなく、全く無意義というのである。改善の必要がある。席はくじで定める事、給仕は交代ですること、発題者は選挙で定めて、必ずテーマを定めること、テーマがよければ有意義である。

18日
高橋氏と加古川方面の土地の視察を行なった。

19日
礼拝出席。イエス団の土地不法占拠立ち退きに就いて懇談した。
第一、建築用地にならぬ道路敷きの分は第二次とし今回の交渉の対象としないこと、第二、バラックの所有者と協議し間借り人とは交渉しないこと、第三、一定の立ち退き料で交渉の決まらない時は、調停裁判にかけること。

20日
明石出張。明石の工場経営者の最大の悩みは、労働者の確保であるという。世間の景気が好くて、労働者が不足してきたからである。労働者は大工場に集中しつつある。
近藤氏来園。

21日
終日自宅に於いて、畑の耕作とテレビを見ることで費やした。鍬を持つ事は疲れが早い。それを感ずるだけで年を取ったかと思う。

22日
イエス団関係の予算書を検討した。数字の違いは何処にもあるが、事務の才能のないのも困ったものである。
吉田氏と面談し、明徳寮を無償で貸すから、養老院を経営して欲しいと依頼された。重なる点は、土地建物は無償貸与、現金は三百万円寄付するとの事である。基金百万、改装百五十万、運営に五十万を充当する予定であるが、更に実地に就いて検討しよう。

23日
YMCAに於いて、イエス団の36年度予算に就いて理事会、評議委員会を開催し、午前10時から午後6時半まで審議、協議、懇談を続けた。
但し、出席者が少なく理事長、杉山、大川、小川、吉田、本多、芝などの理事は欠席であった。
花隈の建物に就いては、白倉先生とも懇談したが、移転の意志はなさそうであった。何うなるか。賀川先生からの借り入れは、実は先生の寄付であって、借り入れと称すべきものでない点が問題の中心となり、さまざまな説が出るのであるが、兎に角、一時に返済すべきものでないという金田理事の意向は強行である。
明日馬見の卒業式出席のため、吉田氏について奈良に出張した。

24日
馬見保育の卒業式に出席して祝辞を述べた。お母さんたちの出席は、百名を越していたように見受けた。実に盛大なもので驚いた。
昼食の際、役員の人達と食事したが、40人近くの多数であった。
馬見の昔、四人の若者が中心になって、伝道に、保育の設置に努力し、禁酒禁煙で基礎を築いた、古い思い出話をきいたので、僕はそのもう一つ昔の、賀川先生の貧民窟時代について156分おしゃべりした。
帰宅したのは6時過ぎていた。
祐一が北大の工場見学で京都、大阪方面を巡る為に帰宅していた。彼が元気で勉強して呉れることは有難い事である。

25日
神視保育園の卒業式を挙げた。
民生安定所長他一人が、式後出席された。川崎氏の時間の連絡が悪かったためである。
夜は、イエス団敷地不法占拠者と立ち退き交渉の懇談をした。決定は容易ではないが、動く意志のある事は認められる。

26日
礼拝後、久仁子の婚約式で大阪YMCAに行き、村山牧師司式のもとに、長い間の問題も解決した。
出席者は永井父母と娘二人と、こちらは妻と千恵子と祐一も参加し、永井君の友人が一人出席された。

27日
崎元氏の後の件、生命保険金百万円の受け取りは妻のみでなく、全遺族に分配されることになる。

28日
明徳館内に半日を費やし、有効な使用方法を研究して見た。
今日の労働委員10ヶ月の勤務は終了した。余り役にも立たなかった。次年度もう一年継続することにした。

29日
千恵子の上京で、神戸7時17分発霧島号乗り込みの見送りに出た。
彼も他人の処で働く事が修養になるであろう。父母の死後を考えると、早く一人前の一本立ちの出来る人間にしてやりたい。然し、長続きするかどうか気がかりになる。
明徳館の利用方法について色々設計して見た。

30日
6時からYMCAに於いて、記念館の設計に就いて協議したが、結論は出なかった。更に検討することになったのである。但し、今晩の検討で従来より一段と進歩した事は事実である。

31日
本多氏が病気でずっと欠席であったが、今日は面談し給料も貰った。去年9か月分から遅払いであった。
今日の天気は好過ぎて暑い。この調子で数日間続いたら、桜が咲く事であろう。
吉田、米田両氏に面会のため三協を訪問したが、不在であった。

     *      *      *      *

 適宜コメントを付せば、理解も深まるものと思われるが、今回まずは、句読点や殆ど改行のない原文に、いくらか読みやすくする工夫を加えて、そのままのものを記録することにした。「日記A」は縦書きであったが、この「日記B」は横書きである。
 武内勝は、この日記を記して5年後、昭和41年3月31日に生涯を閉じている。

        (2009年9月21日鳥飼記す。2014年3月17日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(55)

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 お宝発見「武内勝日記A」(8) 昭和2年8月~昭和4年6月

 賀川豊彦献身100年記念事業のひとつとして、武内勝口述「賀川豊彦とそのボランティア」(1973年)の「新版」が本年(2009年)11月末に、神戸新聞総合出版センターから刊行される。
 この口述の中にも、勝の父「武内用三」のことが述べられているが、賀川豊彦にこの父が目を留めることがなかったら、勝のところを賀川も訪ねることもなかったかもしれない。

 今回の日記にも、武内のところへの父の来訪のことが書かれている。
 残されていた武内勝所蔵アルバムの中に、父の写真と思われるものがあった。添付のものが多分、「父・用三と勝」ではないかと思われる。


武内洋三


          *     *     *     *


               昭和四年四月~六月

四月一日 月 晴
昭和四年も四分の一は過ぎ去った。失業救済事業も一先ず片付いた。寺川、後藤、胸永の首を継ぎ得たは仕合せであった。一人の職を見つけるは容易でない。

四月二日 火 晴
本年度から、土木課人夫賃金一日一銭を、電気局のそれを五銭と増額し得たは、労働者の為に結構であった。彼等の賃金を一銭値上げするは、自分の給料五円値上げよりも、より以上に嬉しかった。山内君、職業問題で相談に来訪された。君の如く、職業で選ぶものは、どれ程多数にあるかも知れない。

四月三日 水 晴
今日は祭日であるが、失業救済事業報告を作るため出勤した。余り多忙で何も出来ない。殊に読書の時間が少なくなった。自分に於いては、読むことよりも、働く事の方が神の聖旨なのであろう。

四月四日 木 晴
好い天候になった。何んなに喜んでいいであろうか。天地ともに喜びに充ち満ちている。此の世界さながら天国の様である。若し社会問題を考える事なくして、天を仰ぎ、山を眺め、鳥のさえずる声を聞いていれば、此の世に何処が悪いのかと言いたくなる。何はともあれ、如何なる悪魔も、伸び上がる草木の新芽を止むる事は不可能であろう。晴れ渡る美しい空を汚す事も出来ないであろう。ああ、私の生きる世界は、矢張り悪魔の世界でない。電気局の朽木主事より電話があり、先日供給人夫賃金一人百の単価、金一円三十五銭と約束したが、局長が承知しないから、矢張り一円三十銭にしろと申し込んできた。自分は又、局に出かけて経理課長に交渉し、課長は更に局長に相談した。その間、自分は祈った。局長が五銭の値上げを承諾いたします様にと。神様、貧しい者を憐れむ意味に於きまして、労働賃金五銭の値上げを何うぞ局長が承諾いたします様にと。暫らくして、課長は局長室より帰って来た。そうして遂に値上げを承知した。自分は帰途、感謝した。これで本年一ヵ年、電気局で働く人夫が二千円の増収となる訳である。

四月五日 金 晴
大掃除で、一日の晴暇を貰って休み、家の掃除で終日働いた。身体の全体が痛む。長い間、労働を休んでいる罰であろう。力の入る仕事や運動も怠ってはならないと、つくづく感じた。

四月六日 土 晴後雨
庶務規定改正案が、職業紹介所事務打合せで可決した。自分が首謀者であって、此の案文は成立させたかった。市の紹介所の為に必要なる事であった。

四月七日 日 曇
朝は黒田牧師の説教があり、夜は賀川先生の死の芸術と題しての説教があった。

四月八日 月 小雨
庶務規定改正に関する打合せに就き、中村、泰山両氏と自分の三人が、東部の紹介所に於いて協議した。

四月九日 火 雨後晴
神戸労働保険組合理事会が、平和楼に於いて開催になり、自分も出席した。組合の一ヵ年の予算が四万円とは、組合も発達したものである。此の組合を発達せしめる事に依って、神戸の日傭労働者の統制を計るものとしたいものである。理財に於いても、此の組合が存在する事により、労働者の不安と苦痛とは余程減ぜられていると思う。

四月十日 水 晴時々曇
近江より、義男兄夫婦と久子氏親子三人連れの訪問があった。余り意外なる客で驚いた。兄の親子共に健在である事を喜んだ。互いに子供の順調に発育しつつある事は、特に感謝しなくてはならない点である。日中は、牧野氏の一家族の来客があり、大入り満員の一日であった。

四月十一日 木 晴
小阪氏(仮名)が職業紹介所を辞職し、本日山口県に向かって、兵庫駅を出発せられた。氏は神戸市紹介所の最古参であって、一番長い功労者であった。氏は耳を病み、殆ど不具者となり、現職を辞するも、他の何等の職にも従事し得ない失業者となるのである。又氏は九年間就職したるも、その間貯蓄金も出来ず、或いは幾らかの貯えは準備する考えでありしも、株の暴落を銀行の破綻に依り全く無価値に等しいものとなり、故に金はなく職は失い、身は不具者となりと淋しく神戸を去った。その姿の気の毒なのには、一言も語り得なかった。美邦の体重一貫六百匁。芳夫の来訪あり。

四月十二日 金 雨後晴
富士野から、美邦の車を買う為とて金参拾円を、馬場氏に託して贈って来た。彼を立派な人と教育し得ることの出来る様に、彼の健康と教養との二点に特に心配する。

四月十三日 土 晴
平井の愛ちゃんが、岡山から出て来た。長く便利な都会生活に馴れた者は、田舎には止まり得ないのであろう。暫らく我が家の客となるであろう。

四月十四日 日 晴寒気強し
朝は自分が、神の聖旨は成ると題して述べた。夕拝は井上増吉氏が、隣人愛と言う題で説教した。前首相若槻礼次郎氏の政談演説を聞きに、妙法寺川迄出掛けた。現政府案を攻撃するのみで、別に得る点はなかった。馬場氏を訪問して置いた。想像以上に健康であった。

四月十五日 月 晴
昨今日、桜見の客は大変なものである。電車と言う電車が皆満員で、すし詰めの盛況である。三郎君、急に発熱し四十一度五分に達したが、その原因は不明である。ユキ子は、乳がしこって困っている。人間は生身だと言うが、何時誰が大病になるかも知れない。我等の健康も又、神の守護の内にあるものである。我が身の事が、我自身に不明なのである。

四月十六日 火 晴
馬鹿に暖かくなって来た。春というよりも夏に近い天候である。三郎君の熱は、朝に下がって夕に上がった。又三十九度を過ぎたと言う。ユキ子の乳のしこりも、少しましだと聞いて安心した。乳が出なくなっては、美邦の健康が保たれない。

四月十七日 水 晴
またまたユキ子は乳で、三郎君は熱で、二人ともに困って居り、愛ちゃんは皆への奉公で、忙しく働いて疲れている。お気の毒である。祈祷会の出席を中止して、家での仕事に時を用いた。父が大阪から来て、病人のあんまやらお灸やらで、看護に夢中で助けて呉れた。父でなくしては出来ない、熱心と親切との努力である。

四月十八日 木 曇
楢崎氏の奥さんの訪問があり、井上増吉氏の結婚問題に就いての相談があった。然し、井上氏は不賛成であると、自分は強いて何も言えない。ユキ子が、乳が今度はヒドク悪いと言う。困ったものであるが、一つが使用に堪えずとも、残す一つで補いがつくのであろう。二つ備わっている事は、不思議な恵みである。三郎君の病気は、余程全快に近づいた。明日くらいは起床できるかも知れない。

四月十九日 金 晴
自分の生涯に渡っての仕事を考えて見た。現在のままで善いかと、何だか足りないものがある。では何が出来るかと自問にして、何も出来る確信の自答が出来ない。伝道しなければ済まない様にも考え、専門家にはなり得ないとも考える。が、迷えば果てしがない。主の導きに従うより他に方法はない。

四月二十日 土 曇
三郎君は又、病気で悪いと言うし、ユキ子の乳もよくない。人は生身である。何時病気するか知れない。注意した上にも注意を要する。まあ、大病人でない事は感謝しなければならぬ。

四月二十一日 日 曇
昨夜以来暴風で、吹いて吹いて吹き捲っている。桜の花も完全に散って終ったであろう。須磨に居住して、須磨の桜を知らずに散らして終った。今年の桜にはもうあきらめるが、又来る年には喜ばせて呉れるであろう。朝は井上君が、夜は自分が述べた(全き生涯)。会衆に変わりなく、新しい青年が唯一人出席していた。三郎君が病気保養の為め、八幡に往った。

四月二十二日 月 曇一時晴
大阪から父が来て、家内にお灸をすえている。自分にも中風にかからぬためとて、両の足に二つずつすえた。之がきくか何うかを知らないが、父の信ずるがままに身を任した。灸がきくときかないとは第二として、父の熱心なるすすめに反する事を不孝のひとつに感ずるからである。きかずとも、父に満足を与えるなら、あつい位の辛抱は楽な孝行である。

四月二十三日 火 晴
市会議員選挙運動で、名刺の代用でビラを数多く戸毎に何十枚も配布するものがある。降頭主義の名刺の使用を禁じても、ビラに名を付して配布すれば、結局に於いて同様である。ビラ配りも廃して、唯郵便に依る推薦状のみに限る可きである。

四月二十四日 水 晴
美邦の為に乳母車を買った。然も上等すぎるものを。大丸に販売する最上のものである。我々の如き貧乏人の用いる可き物ではない程、値が高いけれども、子供の脳の為と、長く使用の出来るもの、完全なるものを使用するとせば、止むを得ない。善き品を使用する事が悪いのではなくして、値の高いのが悪いのであるとも言える。富士野の折角の注文だから之でよかろう。

四月二十五日 木 晴
榎本丈夫君の結婚式を司った。会場は雲内教会で会衆四十名であった。彼の新しい生活の為に祈った。結婚司式は、同君のが生まれて初めてである。市会議員選挙に一票を投じた。信頼するに足る人物がないために、棄権した方が善いとも考えたが、又考え直して民政に一票を入れたのである。無産党員の候補者が立っていないから仕方がなかった。

四月二十六日 金 晴後曇雨
全国の開票が終わらないのではっきりとは解らないが、民政三十、政友十八、無産五十四位になりそうである。全体に於いて一般の予想とを裏切らなかったと言える。

四月二十七日 土 晴
引き続き市会議員問題は、市民全体の興味の中心である。開票の結果、民政三十三名、政友十三名、革新四名、無産五名、其の他は中立となった。民政が何といっても第一位を占めた。今後は無産党が改選ごとに増加して行くであろう。加藤氏が、弟君の就職の件で来訪された。

四月二十八日 日 晴
朝は自分が、夕は井上君が説教した。美邦を乳母車に乗せて、須磨寺公園に散歩に出掛けた。桜の花は散って、葉ばかりであった。美邦に猿と鳥を見せるのが散歩の主眼であったが、未だ動物を見て喜ぶだけの知能が発達していない。夏は出にくいであろうが、秋は見て楽しむであろう。

四月二十九日 月 晴 天長節
休日が二日続いた。今日こそ、日頃の疲労が少しは癒えるかと思ったが、来客が多くって休日にはならなかった。茂の親子二人に杉山君、紹介所の上野、杉田の両氏、遂々終日了った。

四月三十日 火 曇
前年度の仕事が未だ片付かない。自分の責任を果たして済むまでは、気がかりで成らぬ。今日は朝から、酒飲みで事務の妨害を被った。何と思っても、酔っ払いには閉口させられる。人に同情し、弱きを助け、慈悲を施し、貧しい人達への奉仕は、苦痛よりも楽しみが多いが、酒飲みの無頼漢が無心に来て、何時間も動かないのは一番困る。

五月一日 水 曇後晴
二十九日が天長節で休日であった為に、今日の水曜日を忘れていた。二十年の間に教会の集会日を忘れて欠席したのは、今日が初めてであった。

五月二日 木 晴
サンダーシングを読んで、霊の方面に於いて余程啓発された。沢山の知識を得ずと雖も、深い徹底した真理を述べている。大いに学ぶ可き事を悟った。

五月三日 金 晴
紹介所の専門化に関して、中央で打合せをしたが、何も決定しなかった。中央の若い連中が経験もないくせに、長年間経験し現在も実務の担当者である老練家に向かって、命令がましいことを言う。何という不謹慎な事であろう。彼等は学ぶ可き処で教えんとす。

五月四日 土 晴
前日に引き続き、中央での打合せを延長して、春日野紹介所に於いて、中村、泰山、自分の三人が特に協議を重ねた。兎に角、神戸の紹介所の為に、少しばかりの善き道を開いたと思う。

五月五日 日 晴
春らしくもなく、雪や霜が降ったと新聞は伝える。急に寒くて、何だか冬の様である。朝は井上君が、夜は自分が説教した。自分が剛健の秘訣と題して述べた。平井の夫婦とおつかさんが、岡山から帰られた。

五月六日 月 晴
平井夫婦は北海道に向かって出発した。お母さんは美邦を祝う為に、のぼりを買って下すった。去る三日は、武田、絹井の両姉から金時を、今日はお母さんからと、何だか床の様子が変わり、美邦の存在をしてより一層強めた。美坊が種痘のために三十八度以上の熱を出し、少し気分が悪いらしく、笑い方が少し変である。

五月七日 火 雨
新潟行き人夫三十五名が、六時二十五分三宮発で出発した。彼等は一つの旅袋があるでなし、三十銭の使銭を持つ者も稀である。ハッピ一枚の着のみ着のままで、之が本当の裸一貫である。敏ちゃんが一泊して上阪した。

五月八日 水 晴
前年度の整理が未だ済まない。金銭の取り扱いは、二重にも三重にも調査した上にも、尚調査の出来る様にして置かねばならぬ。今度の件でつくづくそれを感じた。事務打ち合わせ会で、午後十一時迄過ごした。

五月九日 木 晴
自分は生まれながらの天才に非ず。否今も変わりなく鈍才なり。大学校まであるに尋常卒業したのみの自分は、教育を受くる点に於いては損な男であった。人の習得すべき技能は数多くあるものを、何の技能をも学び得なかった事は、社会に何事かを貢献するのは甚だ不適当であった。然し、今更後悔するも如何とも方法がないけれども、自分は常に神に感謝の念の堪えない事を、有難き御恵みと喜んで居る。天才に非ずとも、全くならんが為に、日々努力する事の出来るは、ありがたき仕合せである。小学校すら卒業してはいないが、毎日数十頁以上の読書により、少しずつの知識を得るは、楽しい極みである。何等の技能をも有たざる者なれど、健康にして許されし仕事に、忠実に奉仕さして頂ける事は、言い表し難い感謝である。

五月十日 金 晴
天皇陛下の行幸せらるる矢先に、ペスト患者が現れた。当局者は、此れが防疫に努むるは勿論であるが、かかる悪疫のある地に、陛下の行幸を仰ぐ事は、市民として慎むべき事であろう。又かかる病気に依って死する者は、実に気の毒に堪えない。こんな病気では一人の人間をも死なせたくないものでる。近き将来には、ゼンナーが種痘に依る疱瘡の免疫を発見したと同様に、善き予防方法が発見されるであろう。

五月十一日 土 晴
行幸に際して、御道筋の道路は実に立派にされつつある。風の日、塵が少なく、雨の日に泥がなく、見るに美しく、交通に安全である。センターポールをサイドポールに改めただけでも、一年間の障害と損失は余程減ぜられたであろう。健康の為めに善く、危険が少し、こんな便利な事を何故早く実行しなかったかと言いたい。都市計画が一年遅れる為には、どれだけの生命と財産とを失いつつあるかも知れない。増税するともよろしく断行すべき問題である。

五月十二日 日 晴
朝は自分が、富める人とラザロに就いて述べ、夕は大垣兄と井上兄が、前者は愛に就き、後者は持てる者は尚余りありとて米国の例を引いて述べた。美邦の体重一貫七百三十匁になった。彼の成長は我の成長である。我の形は彼の形の中にひそむ。

五月十三日 月 晴
美邦の教育に関して考える。彼に遺産として残すの財は、自分には持ち合わせない。又彼に最高教育を授くるの経済資力がない。然し、彼が如何なる失意、貧乏、失敗の時にも、失望せず悲観せず、又如何に富み如何に強き勢力を有すとも、おごる事なき、或いはどんな悪い環境に居り、悪友に誘惑されるとも、堕落せざるの剛健なる霊魂をつくってやりたいものである。

五月十四日 火 晴
三郎君が帰って来た。彼が健康であり、彼が善き仕事を見つける事の出来る様に、彼にアーメンの霊魂が宿る様に、彼の為に祈ろう。予算分割と職業紹介所専門化との二つの問題で、社会課に於いて打ち合わせた。之で長い間の問題が、すっかり解決がついた。

四月十五日 水 晴
社会課長が、米国に於ける万国社会事業大会に出席のためと、谷口嘱託の英国に開かるるボーイスカウトの大会に参加のためと、両氏の門出を祝し、大いに気勢を添えんがための、送別会が魚庄に於いて開かれた。自分は例の如く、食事だけ摂ってさっさと引き上げた。出席者八十四名の第一退席者であった。帰り、直ぐに祈祷会に出席した。堀井君と自分とが感想を述べた。

四月十六日 木 曇
鉄道の踏み切りで一名轢死した。本年の一月から自動車が三台、人は何人死亡したか記憶しないが、余りに事故が多いがために、これを魔の踏み切りと称している。鉄道省は実に横暴で、何人の生命を奪い、何十台の車を破壊したら、踏み切り番を置くであろうか。人が鉄道に対して損害を与える時は、石一個でも警察の手を以って之を捜しているに、自分の側で民間に与える損害と迷惑と危険とに対しては、何等省みる処がない。不都合千万である。

五月十七日 金 晴
神戸労働保険組合の評議会に出席した。会としては、これ程愚かなものに余り出た事がない。然も、経費の百円近くも消費しているであろうに、今少し有効なる評議会たらしむる事の出来るものを。何という無知な事であろう。職業の同労者にキリストの道を語って置いた。友人の上に救いの御手が延びる様に、自分が退職するか、彼らがそうする迄に、救いをして信ぜしめ度いものである。大西兄を訪問した。

五月十八日 土 雨後曇
今日も仕事中に、信仰に導かんがために、一人の事務員に自分の体験を語って愉快であった。人に真理を語る、こんな楽しみは又とあるまい。語りつつ働き、働きつつ語るのである。美邦が一昨日から下痢しているので、彼の病が気になる。自分の病気以上に心配である。原因が不明なだけ、それだけ心配なのである。

五月十九日 日 曇後晴
朝は井上氏、夜は自分が説教した。集会に変化なし。日中は、美邦の守り役を務めた。七日中一日は、妻に対し幾分でも慰労休暇を与えんが為である。美邦が腹を少しく痛めている。彼の病気は、何よりの心配である。

五月二十日 月 晴
児童相談所のお医者さんに依頼して、美邦の診断を願った。大したこともないであろうが、腹の悪い事だけは間違いはない。紹介所の問題は、一先ず解決つくであろう。

五月二十一日 火 ?
阪神国道の市内接続道路が、愈々設けらるる事に決定した。起債の認可があった。これでイエス団も二十年目に新築しなければならなくなった。余り大きな家でなくとも結構だが、せめて仕事だけは充分に出来る設備が欲しいものである。

五月二十二日 水 曇
事務打ち合わせ会で遅くなり、祈祷会に出席し得なかった。最近、祈祷会に出席する率が少なくなった。この次から間違わざる様、出席したいものである。

五月二十三日 木 雨
谷口嘱託がロンドンに出張の為め、香取丸で神戸を出帆する事となり、第一突堤に見送った。後大阪に出張した。用件は事務局に於ける打合せであった。

五月二十四日 金 晴
今日はいやな相談を受けた。この世に於いては、問題とさる可き事が問題とされず、中心を失ったきりきり舞いをしながら、詰まらない事ばかり問題にしている。実に愚かな事である。

五月二十六日 土 
余りに疲労し過ぎて、ぼうとして終った。少しは頭痛もある。

五月二十七日 日 晴
朝夕共に黒田氏が説教した。夕は、久し振りにイチゴで親睦会を催した。昼は、美邦の守で時間の経つを知らずにいた。

五月二十八日 月 晴
職業紹介委員会に出席して、俸給者紹介に関する市長の諮問事項に対して審議した。夜は、木村社会課長の送別会を兼ねた、昭和三年度神戸労働保険組合の決算報告があった。平和楼の御馳走になった。

五月二十八日 火 雨
孫文の十七年記念で、支那ではお祭りをやっていると言う。彼は、支那のあらん限り記憶される事であろう。孔子につぐ偉人として非常なる尊敬を受くるであろう。彼は至る所に於いて追い回されて、迫害を受けつつ三民主義を称えたが、彼の死後、今日程支那の国民に尊敬されるとは想像もしなかったであろう。

五月二十九日 水 晴
社会課長渡米の為め、神戸出発で見送りに往った。見送りに出た者五百名、彼は何と言いても人気男である。お役人としては珍しい人である。願わくば、彼に信仰の復活の起こらん事を、である。

五月三十日 木 曇
千狩り公営所より、供給人夫の値上げに関する相談に来た。又小道課長に交渉して、単価十銭を値上げしよう。一人の賃金十銭値上げは、労働者に取っては大きな利益である。

五月三十一日 金 晴
久し振りで、上ヶ原公営所へ人夫賃金支払いに往った。阪神国道を自動車で飛ばす事は痛快である。金持ちが自動車で乗り回すのも無理がない。東京市長堀切氏は、賀川先生に対して、内務省社会局長たる事を勧めてくるとの事である。何時か先生が、僕に大臣になって呉れと依頼して来る時があると予言したが、成程と想像される日が来た。

六月一日 土 小雨
美邦が乳児脚気とは困った事になった。今の中に健康回復をしてやりたい。今度こそは、彼を満足に成長さしたいものである。何事も考えられない。

六月二日 日 晴
朝、偉大な途と題して奉仕の生活の尊さを述べ、夜は井上増吉氏が隣人愛と題して、米国に於ける我が同胞の状況を述べた。

六月三日 月 晴
英国に於ける総選挙の結果は、労働党が第一党となった。マグドナルド氏、定めし御満足であろう。我が国の労働党は、とても英国との比較にはならぬが、市町村議員は全国を通じて無産党なき処なきに至った様である。然し、労働党が天下を取るなど、とても近き将来ではあるまい。恐らく自分の老人となる頃であろう。

六月四日 火 晴
今日より三日間、大阪に於いて天皇陛下を奉迎することになっている。市民の中には、夜も眠らず、昨夜十一時より、御迎えのために莚の上に座してお待ち受けしている者があると言う。然も少数の人でないと言う。陛下は定めし御満足であらせらるるであろう。

六月五日 水 晴後雨
美邦が今日から貰い乳をすることになった。何うぞ、成績よく健康回復する様に、彼の節句を祝う為に、妻は柏餅を餅屋につくらせた。

    
            *      *      *      *


 この日記が書き記された帳簿の最後には、次のメモ書きがある。

    大正八年八月八日 日暮通二丁目七ヨリ移転
    再寄留地     吾妻通五丁目六番地(三木善次方)家主名
                      武内勝 善志 梢
 
            *       *      *      *

 日記はこれで途絶えている。続きが在るかもしれないが、武内を知る貴重なものである。毎回お読みいただいている方や感想を寄せていただくお方もあって、何とか「武内勝日記A」を紹介する事が出来た。

 この勢いで、もう一冊の「日誌」(これは賀川没後の翌年・昭和36年の1年分)を「武内勝日記B」として次回より4回に分けて紹介しておきたい。

 昨夜(2014年3月10日)は、Thomas Hastings 先生よりメール便が届き、賀川豊彦の代表作『宇宙の目的』(毎日新聞社、昭和33年)の英訳『Cosmic Purpose』が先週出版されたという嬉しいお知らせを頂いた。次のリンクをご覧下さい:https://wipfandstock.com/store/Cosmic_Purpose/

    (2009年9月18日鳥飼記す。2014年3月11日補記)

 


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(54)

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 お宝発見「武内勝日記A」(7) 昭和2年8月~昭和4年6月

 前に「雲の柱」に掲載された「小さき人生の完成者」と題する、武内勝の賀川春子宛に書き送られた「美邦ちやんの追悼書簡」を収めた。前回から「武内勝日記」に綴られている、ご子息・美邦ちゃんの誕生とその養育の日々に立ち会う、父親としての熱愛ぶりは、何とも切ないものがある。

 今回は、武内勝所蔵アルバムのなかから、美邦ちゃんとは幼馴染で「一麦保育園時代」「瓦木尋常高等小学校」も共に学び、親しい友達だったと語られる、現一麦保育園顧問の梅村貞造先生が、美邦ちゃんと共に収まっている写真が残されていたので、その1枚をここに添付したい。


コメント梅村


 梅村先生には、このたび武内所蔵アルバムの写真すべてにわたって、撮影場所と時、そして人物の特定の御願いをしていて、その作業を終えられた資料一式をご返送いただき、本日ただいまそれを眺めているところである。

 ご返送いただいた中に、梅村先生がお書きになった2008年4月8日付けの玉稿「一麦と私―武内美邦(よしくに)君のこと」という、大変貴重な手記のコピー3枚なども添えられていた。

 そしてお手紙には「何と言っても武内美邦君と一緒に写っている小学校四年生の時の写真に出会えたことは感激でした」とあって、「これは間違いなく瓦木小学校の四年生の時のクラス写真です。美邦君と梅村は同じクラスで、共に写真に写っています。担任は、師範学校卒業したての奥道正先生。昭和14年3月ごろ?」とコメントして頂いている。添付の写真が、それである。

 これら諸資料は、間もなく完成する新しい賀川記念館に開設される「賀川ミュージアム」に整理・保存して活用される予定で、この作業もその下準備である。


            *      *      *      *


                  昭和四年一月~三月

一月一日 火 晴
昭和三年を感謝の中に送り、四年を希望を以って迎えし事を感謝す。本年も又最善を尽くして、神様に御奉公しなければならぬ。我が生命のある限り、善き奉仕を続けたいものである。殊に年を取るとも、愈々よりよき仕事の出来る為に、準備としての勉強を、熱心にやりたいものである。イエス団の青年とお正月の雑煮を祝った。今年の正月には、女手がないのでどうかと思っていたが、美容院の二人の娘さんと、芝のお母さんが、早くから準備せられたので、何の苦もなく御馳走になれた。

一月二日 水 晴小雪
富士野が帰岡した。奈良県高田町堀江要次郎氏方で開催の、イエスの友会第二回福音学校に出席した。イエス団二十年史を述べよとの命令で、それを語ったが、準備がないので充分話せなかった。とても寒い日である。深い印象を残す為に結構である。集席者数約百三十名、中々盛んであった。之に依って、農民の間に主の道が伝わる事は、何より大切なことである。

一月三日 木 晴小雪
酷い寒さである。夜中眠れなかった。神戸も寒いのであろうが、奈良は特別に寒い様に思われた。福音学校中途で、正午帰宅した。今年の正月は、杉田君唯一人のお客で、実に淋しい正月であった。美邦の誕生が、イエス団の青年達への御馳走に迄影響した。

一月四日 金 晴小雪
寒さが続く。もう少しは暖かくてよい筈である。同僚の小高氏(仮名)の病気に就いて、色々相談を受けた。余り長くは働けないであろう。氏は、長年市に奉職して貯めた金で株券を買い、皆失敗して終ったと言う。何と言う馬鹿らしいことであろう。経済界の様子が解りもしない癖に株券を買うなんて、本当に愚かなことをしたものである。氏が健康失っているのは、全く金の心配からであろう。愚かなる者よと、主は呼び給うであろう。此の途を取って、多くの人が失敗したのである。三郎君帰宅。

一月五日 土 晴
労働紹介員と保険組合の職員と、都合十人が六甲に登山した。何時も正月三が日の中に登山するのであるが、本年は奈良行きの為め延期となった。毎年の登山口は南からであるに、本年は有馬電鉄を利用して、六甲北口から登り、南に越えて帰った。頂上では、雪の芝山を亜釦引板に乗ってすべった。実に愉快で堪らない。又登って遊び度くある。

一月六日 日 晴
礼拝説教を井上氏が述べ、夜は賀川先生司式に依り、小山威郎君と日比生清八君とが受洗した。先生は、簡単にテサロニケの終わりに就いて語り、残りの時間で、自分が親心と題して語った。先生は又、雲の柱に六十頁ばかり書けと言われる。一昨年も同様の勧告があったにも拘らず書かなかったが、今年は書いてみようと思う。

一月七日 月 晴
雲の柱に書く可く、イエス団の昔を追想するが、仕事が多忙でとても書けそうもない。然し、努力して書く事にしよう。自分としては、嘗て原稿なるものを書いたことがないので、何となく気後れがして仕方がない。

一月八日 火 晴
美邦が段々と美しく可愛くなる。肉付がよくなり、皮膚の色がよくなり、頭脳が益々発達し、目がしっかりとはっきりして来る。見れば見るほど、可愛くなる。彼の為によく勉強しよう。彼を善く教育する為に、最善を尽くさなければ済まない。天の父は、人間を立派にお創りになったと思う。眼の位置といい、鼻のそれといい、口にしても耳にしても、現在の位置を変更して他に譲る処がない。ああ奇しきかな、妙なるかな。

一月九日 水 晴
祈祷会に出掛けた処へ、義男兄が来訪され、教会を欠席して懇談した。茂兄の就職も近く決定しそうであるし、皆が元気である事を聞いて感謝である。唯、お母さん姉さんの間が円満にないことが遺憾である。

一月十日 木 晴
井上増吉兄の仕事が決定して、今日から採用になった。これで兄の為に安心した。日給弐円五十銭也である。市としてはよく給料を出して呉れた。之で彼に嫁の心配が残るだけである。

一月十一日 金 晴
職業紹介委員会に出席した。問題は失業救済事業に使役した人夫の解雇方法であった。その結果は、扶養者の少なくないものから順次解雇する事となった。中山陽子の葬式を営んだ。生後二十日にして此の世にサヨウナラした一ヶ月の早産児であって、寒さが死の原因となったのであろう。おしい事をした。中山兄のために祈った。聖霊、彼を慰め給はん事を。

一月十二日 土 晴
四五日暖かくなった。春の様である。今に又、寒気は増すのであろう。何にしても善き日は有難く結構である。気候の如何に依って、人は長命もすれば短命にもなる。殊に身体の弱いものに於いては、最もヒドイ人が会う毎に、天気のよしあしを挨拶にする筈である。何でもない言葉の中に、深い意味がある。

一月十三日 日 晴
朝は井上氏が述べ、夕は自分が述べた。三ヶ月ぶりで、神戸消費組合で説教した。

一月十四日 月 雨後晴
神戸市内の基督教会員の親睦会が、会費一円也で、大丸食堂で開催になり、かかる席上に嘗て一度も出席したことのない自分が、井上氏の勧めに依り参会した。別に何の感じも起こらなかった。

一月十五日 火 晴
海員液済会病院に養生中の、絹井喜一郎氏を見舞うた。氏は余名薄くある様に見受けられた。気の毒である。聖書之研究を読んで、矢張り内村先生は偉いと思うた。

一月十六日 水 晴
佐藤兄の宅で夕飯の御馳走になり、引き続いて祈祷会を開いた。家庭集会であった。長く開いた事のない集会であった。美容術の若い婦人が二人連れで、常に何かと世話をして呉れるのも妙である。マリヤは善き方を選んだ。然しマルタもあって、大いに助けらるるを感謝する。

一月十七日 木 晴
床次氏の態度はさっぱり煮え切らない。国民の何の期待も出来ない人の様に思はるる。日本に善き政治家が生まれないが、国民全体が政治教育に乏しいからである。今少し訓練さるるならば、もっと善き政治家が出るであろうに。

一月十八日 金 晴
須磨発午前五時二十八分で、岡山行きの旅であった。用は初枝結婚式に列席する為であった。彼は、伝道者山崎千年鶴と夫婦になった。初枝に取っては、分に余る善き人である。彼の父が、今日尚生存して居れば、山崎君に嫁する事は不可能であったであろう。両親はさぞ満足する事であろう。墓場に報告に行かなければなるまい。田舎は、何時迄も変わらない処である。若し変わるとすれば、それは発展にでなくして、漸次寂れていくのである。

一月十九日 土 晴
妹の産婆の仕事の多忙なのに驚いた。彼は殆ど夜寝ないと言う。何と言う仕事ぶりであろうか。彼は仕事に忠実である。忠実なればこそ、今日程の仕事があるのである。彼が過去に於いて真面目に働いた何よりの賜物であり証拠である。何はともあれ、彼が社会の御用を、より多く務むるの幸福を感謝する。

一月二十日 日 晴
帰神したが、少しく頭痛がするので教会を欠席した。帰る途中、車中色々考えた。武田五郎兵衛氏の初枝に対する祝辞の内に、お美祢さんはもうキリスト教を中止するかと幾度思わされたか知れなかった、あれ程の試みは耐えないだろうと思われたにも拘らず、またしても頭を上げ、その苦闘の中に、善き神の証言者を出し、ここに又聖職者の妻に献げる一人を出した、と誠に名誉この上なき祝辞である。おばも、かかる言葉を聞いて喜びに充ち、感謝に溢れたであろう。尚その余命を、誠に恩寵につつまれつつ、神の国に迎えられるのであろう。彼は人より見て苦労多き、気の毒な人であった。然し、神様の方から見て、実に感謝の人であった。彼の幸福は、神も火も水も之を奪う事が出来ない。ああ、おばのために感謝す。美邦が、下痢の止まずして、尚且つ便の色が悪いと聞いて心配した。彼の病気は、自分の病気以上に心配でならぬ。彼の笑顔は、平和楼の御馳走に勝り、彼の肥満は百万円に勝る。

一月二十一日 月 晴
河相君と山内君と本多君との訪問があった。用件は、消費組合の洗濯部の設置に就いてであった。河相・山内の両兄は、今より洗濯屋となる訳である。彼の職業の為に祈る。

一月二十二日 火 晴
海員液済会病院入院の絹井喜一郎氏は、腹膜のために生命絶望と医者から診断された。気の毒である。彼の為に祈る。彼は、神戸に来て以来、キリストの救いを知った。それ以外の事は凡て、彼には不利益であった。然し、信仰を恵まれて天国に至るは、物資に富んで地獄に行くに優る。

一月二十三日 水 晴
祈祷会に於いて、絹井氏の為に祈った。美邦が少しく腸を害し、消化不良の便をするには、かなり心配する。我が身の病気に罹るよりも、子供のそれが遙かに心痛である。

一月二十四日 木 晴
村松浅四郎氏の招待に依り、夕飯の御馳走になった。氏の事業は、氏の一代限りであるかもしれない。氏ならでは出来ない仕事であって、神より特に命ぜられたる任務であろう。帰途、同伴の友にイエスの勝利を説いて、氏の救いの実証を語った。キリストは矢張り、極悪人の救い主で在し給う。ハレルヤ

一月二十五日 金 晴
絹井喜一郎氏を液済会病院に訪問した。兄弟は、刻々として天国に近づきつつある様に見える。兄弟は此の世に長く残るよりも、神の国に入る事が、父の御旨であったのであろう。主は必ず御旨をなし給う。

一月二十六日 土 後雨
美邦の病気が、依然として心配でならぬ。彼に若し死が臨んだらと思う。その時、私は何うする。親を送る以上に、子を葬るは悲痛である。万一彼が召さるるとなれば、それは又、何ゆえに彼は召されるのであるか。父なる御神の御旨を知り度い。主よ、願わくば、彼を健康に育つ事を許し給え。神戸消費組合の総代会で海員倶楽部に出席した。神戸の組合は、益々栄えて行く。感謝である。

一月二十七日 日 晴
朝は自分が、夜は賀川先生が述べられた。集会に変わりはなかった。古着市の追加をやった。青年諸兄の労を感謝す。

一月二十八日 月 晴
絹井兄の病気が益々重くなった。今日は山口の兄さんの方へ、危篤の電報を打って置いた。もう今日明朝が危機であろう。彼の為に祈る。

一月二十九日 火 晴
絹井君は午後四時三十分永眠した。十時には病院より教会に移送し、十一時に納棺式を行い、夜徹を十一人の青年が守った。彼の最近は、物質的には誠に気の毒であった。極度の貧乏と戦った。病気と失業と貧乏と三つを一度に引き受けた。遂に倒れた。然し彼は、イエスの救いを信じて居た。物質には恵まれなかったが、霊には却って富んでいたであろう。

一月三十日 水 晴
故絹井喜一郎の葬儀を執行した。自分が司会して、賀川先生が説教した。之で彼は満足しているであろう。山口からも、長男の兄さんの奥さんと、次の兄さんと二人が、式に参列になった。彼は春日野火葬場に於いて、一等にて火葬になった。イエス団始まって嘗て例のない事である。彼はラザロの如く死して恵まれている(葬礼代三十六円也)。

一月三十一日 木 晴
絹井喜一郎妻の身の振り方に就いて相談を受け、協議の結果、神戸孤児院にお世話になる事になった。絹井氏の葬儀料金九十七円也は、山口の兄さん達が支払う事となった。香料二十円余と保険組合の給付金は、全部細君に渡す事になった。之で少しく安心した。吾妻学校講堂に於いて、貧民慰安のため活動写真を写した。家なき子と題するもので良い写真であった。入場者約千二三百名、何れも皆喜んでいた。僅かに四十円で之程多数の者に満足を与うるは、実に易々たる事である。

二月一日 金 晴
喜一郎氏の夜徹で少しく風邪を引き、又後の始末や思案で少々気分が悪く、ゆっくり一日休めば回復するものを。

二月二日 土 晴
貴衆両院ともに政府は人気を失いつつある。全く無能呼ばわりせられつつあるが、それでもどうにか議会だけは通過するのではないであろうか。政治家とは政権かじりつき屋である。一度喰らいついたら最後、だにの如くである。然し、時は必ず裁くであろう。

二月三日 日 晴
朝は井上君が罪に就いて述べ、夜は賀川先生が神の摂理に関して話された。最後に、本年はイエス団の新築をしたいとの話であった。全く同感で、家なくしては仕事が出来ない。新川にイエス団を設けて二十年である。もう会館を設けても善い時分である。神様は適当に導き給うであろう。

二月四日 月 晴
河田清治氏より、イエス団に献金弐壱拾円を送付して来た。弟喜一郎氏の世話で幾らかの犠牲を覚悟していたものを、却って寄付された。これを以ってイエス団の建築基金に充てる事にしたい。

二月五日 火 晴
最近、強盗の増加した事実は、例のないことである。殊に、説教強盗なんか嘗て聞いたことのないものである。又、襲う家も、従来のものとはその質を異にしていて、婦人名士や紳士を目がけている。誠に危険な世の中になりつつある。時は文明を誇り、その取締りの警察と来ては、世界一を誇る日本の、その又一番の都の東京や大阪に於いてである。東京の青年団七万人は、之が防衛に当たるとは、何という皮肉なのであろう。

二月六日 水 晴
イエス団の親睦会である。夕食を偕に御馳走になった。牛肉のすき焼きで、青年諸君、大いに意を得た事である。時は議会中である。民政党は、総括的不信任案を上程すると言う。どんなことになることやらさっぱり解らない。日支の交渉は、甘く運びつつあると言うが、日本の外交は確かに失敗であった。支那の国民政府を認めない等、考えていた事が間違っている。孫文は失せても、三民主義は支那を支配する。之が政府を認めない訳には断じてゆかないと思う。

二月七日 木 晴
今日は美那の誕生より三ヶ月である。最近余り肥らなかったが、ずっと確りして来た。子を育つるは楽しみであると言うが、成程と思わされる。美邦の顔を見るは、何よりの慰めである。美邦の教育の大切なるを思うては、毎日読書する。赤ん坊は、卵より分娩までに十億倍し、出世後は丈において三倍、体重が二十倍、筋肉が四十倍、大脳が三倍に過ぎないと言う。体内生活が僅かに九ヶ月で、体外約五十年であるが、その成長の割から言えば、体内の期間が遙かに長かったことになる。

二月八日 金 晴
五十年来ない水飢饉だと言う。表日本全体が、水に乏しくて甚だしい。処に於いては、バケツ一杯の水が一銭で売買され、九州の或る地方では、湯屋が休業し、徳山では軍艦への給水不能となったと、新聞は報じている。夏の水不足はよく聞くが、冬の不足は余り聞かざる処である。

二月九日 土 晴
民政党は、内閣の総括的不信任案を上程すると言う。田中総理は国民全体から信用されて居らない。日本国民は、凡て不信任であると言うも過言ではあるまい。然し、採決では政友会が多数占めて居り、床次新党が政府の味方である以上、不信任案は通過しないに定まっている。敏子が渡辺清春氏を紹介し、同伴で来訪し、家の客となった。初対面での印象では、極めて穏やかで善い人の様である。青年ではあるが、女性的なほどやさしい。

二月十日 日 晴
朝の説教は、十字架の精神と題して述べた。夜は、黒田氏の救いの意義に就いての説明があった。朝鮮から平井氏が来訪し、急に三名の客で、家の中は大変な賑やかさである。客に対し、御馳走の意味で鶏を一羽料理した。

二月十一日 月 晴
紀元節で、日曜日以外の休みで何だか心から休息し得る。不信任案は遂に否決になった。予想通りであって、敢えて不思議とも思わないが、浜口民政党総裁は、国民の言わんとする意を述べた不信任案は否決になっても、議論に於いては、政府側は常に圧倒され勝ちである。渡辺氏及び敏子を鉄拐山に案内した。二人は近江に向かって帰った。岸部氏と近地氏と両名から、美那に対するお祝品を貰った。

二月十二日 火 晴一時雪
久し振りで、紀元節の御下賜金の分配にあずかった。イエス団は、何年間も忘れられていたが、本年は何を考えたか分配せられた。ロスアンゼルスに帰る高橋を通じて、お土産物の書物二十円を、イエスの友会の人達に送付した。

二月十三日 水 晴
千狩り水源地に出張し、供給人夫に関する打合せをなし、終日を費やした。ユキ子が病み且つ美邦の世話で疲労しきっているので、止むを得ず祈祷会を欠席した。毎年紀元節前後は寒いのであるが、今年は一層寒い様に思われる。平井氏は平城より小樽に転勤になるため、午後八時三十八分の列車で出発した。

二月十四日 木 晴
美邦の生後百日である。体重一貫三百三十匁に達した。一月は消化不良で余り発育しなかったが、健康回復してグングン大きくなりだした。この調子で育てたいものである。今日まで、父なる御神の恵みと守りに依り生育した事を、心から感謝を献げ奉る。何うにかして、彼を立派なものに教育しなけらばならぬとの一念が、心から寸時も去らない。唯々彼の親であるのみでなくして、実に善き親たらん事を望む。

二月十五日 金 晴
絹井喜一郎氏の妻君の置き場に困ったが、神戸孤児院に定ったので感謝する。子供講座四冊を読んで、実に有益であった事を嬉しく思う。

二月十六日 土 晴
自分の将来を、繰り返しては考えて見る。何うした仕事をするかと、今更の如くにそれを感ずる。伝道をウンとやりたくもあり、又不安にも思う。では、現在の職に終生を打ち込むや否やに就いても、何だか決心しかねる或るものがある。父なる御神の導きを祈ろう。

二月十七日 日 晴
礼拝説教を井上氏に述べて貰った。日中は、湯殿の清潔と、煙突とボイラーの清掃をし、夜は自分が説教した。

二月十八日 月 晴
絹井定子は、神戸孤児院へは行かないと言う。何か働いて自活の道を立てると言う。彼が病気するのが目の前に見ゆる様であって、何だか不安でならぬ。

二月十九日 火 晴
聖書之研究を読んで、大いに考えさせられた。如何にもして、伝道しなければならぬ事を、痛切に感じた。或る確信を得た。よし一層の努力を以って、神の国の事業のため、死を決して働かなくてはならぬ。

二月二十日 水 晴
少数の集会であったが、静かなる落ち着いた祈り会であった。誠に祈り会らしい祈り会であった。

二月二十一日 木 晴
求人者懇談会を、神戸商工会議所に於いて開き、自分も出席した。詰まらない会合だと思った。夜は、保険組合の打ち合わせ会に出席した。毎晩、美邦を湯に入れるのであるが、今日ばかりは自分が不在のために、ユキ子が入浴さした。宝塚の歌劇場で、道具方をピストルで狙撃した男があった。劇場外でも二人を撃ち、一人は福来博士の奥さんであった。二名は重症で、一名は死亡し、自分もまたピストルで自殺した。それが、古木米三郎(仮名)であった。実に驚いた。彼が二年半前に僕を訪れて、ピス健以上の犯罪に依り、世をしてアアと言わせ、己の名を天下に残したい、と語っていたものを、自分は漸くなだめ、反省を促して、暫しは真面目になっていたものを、何と言う気狂いかたであろう。

二月二十二日 金 晴
全く春の陽気になって仕舞った。もう寒いとは思えなくなった。然し、今一度寒さが訪れるであろう。こんなに暖かいと、植物は時を忘れて芽を出し、花を咲かせるかも知れない。今日も又昨日に引き続き、求人者懇談会が催うされるので出席した。余り善い会合でもなかったが、昨日よりは勝っている。

二月二十三日 土 晴
明日の説教の準備をしなければならぬと、土曜日毎に思いつつ、準備の出来た事がない。何かの用事に妨げられるのである。別に説教にならなくとも、自分の生涯を通じて、それが一つの説教となれば沢山である。

二月二十四日 日 晴
朝は黒田氏が、夜は自分が説教した。朝夕ともに普通より出席者が多かった。日中は、庭の片付けと、風呂釜のたきつけを割るのに一骨折りであった。

二月二十五日 月 晴
貴族院では、決議案が二十三票の大差で通過した。今日は委譲問題で又騒がしい。田中の首相も御心配なことであろう。国民からは信用を失い、新聞は筆を揃えて攻撃し、貴衆両院とも反対者を多数に持つ。これ程嫌われても、尚政権にはかじりついていたいものかしらん。神戸の市会も土曜日から始まり、百五十万円の予算超過で、増税せなければならぬとは、市長も説明する迄に随分苦心したのであろう。議員は何う考えるか、何う決議するか知らないが、本年は可決するであろう。ロスアンゼルスから、三十二円八十七銭送金して来た。これで一ヶ月間は助かる。

二月二十六日 火 晴
平井氏が、昨日から我が家の客となった。北海道行きは中止になるらしい。美邦の笑顔は、神の栄えである。その寝顔は、天使の如くである。眠っても醒めても、彼の姿は神聖である。彼に依って、聖い神を示される。自分が彼に教えるよりも、彼に依って知る事が遙かに多いであろう。

二月二十七日 水 曇
故絹井喜一郎兄弟の追悼会を開いた。彼は、此の世の仕事は、何をさしても不調法であった。従って、金儲けは下手で、貧乏で悩み通した。其の上、病気に襲われて、貧と病とに遂に倒れた。誠に気の毒な一生であった。然し彼は、罪を悔い改むるには手際よく立派に成功した。日頃からの大酒をも、ただ一発で之を廃酒した。此の世の生活に不向きであっただけ、彼は天国に入るには適当した性格を持っていた。第一彼は、欲がなさ過ぎたが、之は天国に入る何等の障害ともならない。兄弟は、此の世に失敗して、神の国に成功したのであると述べた。

二月二十八日 木 雨
久し振りの雨である。余りに長い間降雨がなかったので、野菜物は何倍もの暴騰をしている。ネギ一本が一銭もしている。又建物は乾燥しきって、到る所に大火が起こりつつある。誠に喜ばしい降雨である。

三月一日 金 曇小雨
よく流行した強盗も陰をひそめた。第一の説教強盗も逮捕されたし、一先ず安心の域に達した。ピストルと剣とを以って金を奪わんとする強盗は取り締まりも出来ようが、陸軍と海軍とを以って世界の弱い国々を、或いは圧迫し、或いは脅威するものをば、容易に取り締まり難い。然れども、武力に依りて立つものの帰する処は、強盗と同一の運命にあるには非ざるや。

三月二日 土 晴
昨日から奈良の水取りとか、今日から又急に寒くなった。今暫らく寒いのであろう。今日は宵節句であるが、余り寒いので、桃の節句の感は一つも興らない。

三月三日 日 晴
朝の説教は黒田氏が、夜の説教は井上氏が述べた。今日の休日も、庭先の掃除から湯釜のたきつけを割る事など、終日仕事はきつかった。然し、働く事が大いなる休息である。

二月四日 月 曇
宗教法案は終に握り潰しとなるらしい。法律は元来宗教から生まれたものである。それが又、宗教を取り締まる方の出来る事は、何という矛盾したことであろう。之も、迷信を以って宗教として宣伝するものがあるが故に、かかる法案を提出するに至ったのであろう。兎に角、此の法案が握り潰しとなった事は、現在の宗教に取っては幸せであった。

三月五日 火 曇
今日は事務員の犯罪行為を発見した。困った事をするものである。僅かの金銭に目が暮れて、遂に罪人となる。何と情けない事であろう。此の始末をつける事が、又一問題である。

三月六日 水 晴
山本宣治代議士が、黒田久保二なる暴漢に刺殺された。思想から来た反動であろうが、無茶な事をするものである。狂犬にかまれた様な馬鹿らしさである。山本氏に対しては、誠に気の毒千万である。世には黒田の如き人物が、他にもどれ程多数にあるかも知れない。何と言う暗い世界であろう。升崎先生の経験談があった。先生は主エスの人である。彼こそ真にエスの弟子であろう。先生の信仰と実行とは泣かされた。朝方に、殺人鬼の黒田に関する新聞を読み、夕には、主エスに依って新しく生ける恵まれたる奇跡を見た。明るかる可き朝、暗い心持ちになり、暗き夜は、明るい心持ちを与えられた。美邦の体重、一貫四百三十匁に達した。感謝である。

三月七日 木 晴
日中は真の春になった。山の方には、一面かすみがかかった。木も草も甦る。貧乏人にも春は訪れるか。貧民の失業者にも、前科者にも、一度春を恵ませ、新しい希望を与えさせ給へ。

三月八日 金 晴
労働者扶助法案が委員会で可決した。日本の日傭労働者を保護する法律が出来る事は結構であるが、今少し不徹底である。神戸の労働保険をして模範的なものとし、之に依る善き貢献をしたいものである。

三月九日 土 晴
美邦の養育、此の世にこんな楽しみものは、又とあるまい。彼は日々成長して行く。彼の為に、自分自らが大いに成長しなければ、彼に対する我の責任が果たされない。

三月十日 日 晴
朝は自分が、ローマ書四章の幸福に就いて述べ、夜は井上氏が、偉人と死に関して話した。朝夕共、別に変わりはなかった。この頃珍しく、毎日曜日の礼拝に欠かさず出席する人で、県立工業教授がある。先生は久保田と聞くが、何か感ずる処あって、吾が群れに来ているのであろう。今日の休日も、消費組合で奉仕に関する説教をし、午後は庭の木の植え替えで労働した。

三月十一日 月 曇少し雨
四月上旬には、ユキ子と美邦とを同道しで、岡山行きの予定であったが、都合あって中止した。若し許されるなれば、秋に往っても善いであろう。春日野紹介所で、各所の予算分割に就いて協議した。

三月十二日 火 晴
吉本(仮名)が、通称勇に凶器を以って顔面に負傷させられた。何れ原因は博突からであろう。時節柄でもあろうが、三宮署から巡査刑事が八人も出張しての取調べはものものしかった。井上のおっさんの身上に関して、植田のおばさんから相談を受けた。おばさんは、矢張り親切で善い点がある。貧しい無知なのであるが、親切がある。其の点、僕よりは偉い人である。

三月十三日 水 晴
少数六人が集まって、祈祷会を開いた。誠に静かなる祈り会であった。人が少ないだけ、それだけ心が散らなくて、心ゆく祈りが出来る。平川兄が、岡山へ職を求めに出発した。兄にも適当な職業がなくて気の毒である。

三月十四日 木 晴
美邦が風邪を引いて少し熱が出た。彼に風邪を引かせない様にと、余程注意していたのであったが、未だ注意が足りなかった。可哀想な事をした。美邦に対して相済まない。以後大いに注意しよう。

三月十五日 金 晴
美邦の風邪が心配で堪らぬ。ユキ子は心配して迷っている。吸入器を買って来て之を試み、芝さんに診察して貰った。大した事はなさそうであるが、近所にハシカが流行していて、これに犯されているものが多数にあるので、何だか不安である。彼を保護するに、我努力のみでは足りない。父のお助けを祈り求めた。

三月十六日 土 晴
山本代議士の葬儀に当たり、その弔辞を述ぶる者をして、或いは中止を命じ、または検束した。酷い葬式もあったものである。政府の総予算案は、貴族院を通過した。田中首相大いに得意がっている。俺は正しい道、良心に恥じざる行動を取っていると誇っているが、世間では彼は不死身だと言う。美邦が病気は余程安全の域に達した。感謝しなければならぬ。

三月十七日 日 晴
朝は井上氏が、夜は自分が説教した。出席者に変わりなし。終日、庭の手入れをして疲労した。

三月十八日 月 晴
職業紹介所各所予算分割の為め、木村社会課長を訪問し、課長の意見を伺わんと各所長協議し、課長宅を訪れたけれども、不在にして要領を得ず帰宅す。市に奉職する事八年六ヶ月、その間社会課長自宅を訪問したる事、今回の他に一回もなし。

三月十九日 火 晴小雨
朝鮮より社会事業視察の為に十二人、団体を組織して来神し、自分は此れ等の人達を案内すべく、紹介所、移民収容所、共同宿泊所、葺合新川の貧民窟等案内した。視察団曰く、大阪、京都、東京、横浜等各地を歴訪したれども、神戸程優待したるところなしとて、一同満足し、感謝の辞を述べた。

三月二十日 水 晴
今議会提案中の労働扶助法案に就いて、神戸労働保険組合本部に於いて、三時間に渡り研究した。

三月二十一日 木 晴
美邦の風邪全快したれば、久し振りにて入浴せしめ、且つ体重を計りたるところ、一貫五百三十匁あり。十五日間に百匁の増があり、病中にも拘らず、よく太りたるを感謝す。茂氏の訪問ありたり。

三月二十二日 金 晴
福岡県方面委員の労働紹介所視察ありたり。高山君(仮名)、病気に罹り、病床より使いを寄越し、是非一度来訪して呉れとの事なれば、午後四時五十分訪問す。君は頭脳を犯され、全くの精神病者となり居れり。視力は全然失い、食欲なく、唯水と煙草とのみを要求す。彼の病原は、余りに急激に勉強しようと努力したる為めならん。彼の快復の為に祈る。

三月二十三日 土 晴
先日中から来客、敏子殿に平井の御夫婦、三郎君、何れも本日、近江に向かって出発した。

三月二十四日 日 
朝は、最近の所感と題して自分が述べ、夜は、風邪引きで気分悪しき故に欠席す。井上増吉氏の説教があった筈である。気分の勝れぬにも拘らず、終日美邦の守役を務めて、妻の身体に少しく休息を与えた。

三月二十五日 月 曇
秀吉や信長などの歴史を読んで楽しむ。彼等が戦争をした代わりに、二宮先生の如く、農業にあれだけの心血を注いで呉れて居たら、日本の農民は今日程困らずに済んだものを。

三月二十六日 火 曇雨
帝国第五十四議会は、昨日を以って終わった。田中首相は、全身傷病だらけだの、不死鳥だの無能だのと、議会でも新聞雑誌でも、皆が口を揃えて悪口を言われながら、不信任案も否決になり、貴族院での決議案にも、何等悔ゆる処がなかったか、依然として総理大臣としておさまっている。総理大臣といえば、非常なる名誉の如く考えられるが、田中大臣の如く悪く言われるのは、恥辱でなくして何んぞ。民政党も倒閣運動には随分努力した様であるが、その効果は見えなかった。然し、政府案の重要事項は衆議院で通過したのみで、貴族院では引っかかっているのだから、浜口総裁も幾らか心慰むる処があるだろう。

三月二十七日 水 雨後曇
日支交渉は三ヶ月にわたってもめ続けていたが、今度こそは愈々調印の運びとなり、日支の親善が計られると言う。日本が譲歩したからであるが、悪い事をする為ではなく、互いの親善を計らんが為には、少しは損も忍ばなくては調和が取れまい。少数の祈祷会であった。河相、堀井の両兄が所感を述べた。

三月二十八日 木 曇
日支間に正式の調印が終わった。済南事件は、支那のみが責任を負うべきであるまい。日本が出兵したからあの不幸を見たと、多くの人々は解しているではないか。それを何時まででも同じ事を繰り返して、責任を支那に負わせようとするのは、日本が無理である。五月下旬には、支那在留の日本兵を撤兵すると言う。そうするのが当然である。徳さんから、六十六円六十六銭送金して来た。感謝である。

三月二十九日 金 晴
自分は、此の仕事の為には生命を捧げるも可なりと、決心する程の職業を持たない。現在の職業も、何時までこれを継続すべきであるかが、はっきりしない。自分の将来も余り長くはない。大奮闘しなくてはならぬが、何の方面にして善いかが明瞭でない。よく考え、よく祈らなくてはならない。

三月三十日 土 曇
野に山に春が来た。枯れ木、枯れ草も、青芽を出しつつある。早きは花咲き、青葉出盛る。かすみかかり、鳥唄う春にも、人の心は依然暗く、新しき希望もなく、喜びもない。何故、人間に春が来ないか。罪に死せる人よ、枯れ草甦る。此の春に、汝ばかりは眠り居るぞ。

三月三十一日 日 曇後雨
朝は井上氏が、夜は自分が復活に就いて述べた。復活の朝も、美坊はウンウンウンと繰り返しつつ、三拍子で以って、独り礼拝す。石炭一千五十斤を買い入れた。之で一年風呂が沸く。

     *      *      *      *

 「武内勝日記A」は、愈々次回で終わる。初めにも記したように、戦前の日記はこれのみであるが、よくもこれが残されていたものだと、書き写しながら感慨深いものがある。
 
             (2009年9月16日鳥飼記す。2014年3月10日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(53)

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  お宝発見「武内勝日記A」(6) 昭和2年8月~昭和4年6月

 今回の写真は、イエス団の建物であるが、賀川の神戸在住時代は二階を書斎にしていたという。多分、武内日記の書かれた昭和に入っても、この建物だったのであろう。

イエス団の家


 ところで、本サイト第8回で、1926(昭和元)年発行の「大阪イエス団教会教会報第1号」を紹介した折、何も歴史的な経過も知らない、何ともたどたどしいコメントを添えていた。

 実は今回(2009年)、四貫島友隣館館長でガーデン天使園長の小川佐和子氏から「四貫島セツルメント 創立80周年」の記念誌「輝け、命」など、貴重な資料をどっさりと寄贈を受けた。

 いまわくわくしながら読み始めているが、この記念誌の「年表」を見ていると、「1925(大正14)年、大阪四貫島で吉田源治郎を中心にセツルメント事業を開始、1927(昭和2)年、四貫島セツルメント内に大阪イエス団教会設立、吉田源治郎牧師就任」と記されていた。知らない事が、ひとつひとつ見えてくるのは、嬉しいものである。

(さらにその後、ご縁があって「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界を訪ねて」の長期連載で、四貫島セツルメントなどの詳しい歴史を学ぶことになるが、それらも追ってここで補筆再掲していく予定である。)

           *      *      *      *


                 昭和三年十月から十二月

十月一日 月 晴
忙しい一日であった。

十月二日 火 晴
千狩り水源地に出張し、十二月起工の拡張工事供給人夫、打合せの用事のため一日を費やした。往復自動車。道場駅より水源地地図は、トロッコ水源地をばモーターボートにて、実に痛快なる乗心地であった。トロに乗るは、生まれて初めてであった。又、天然のオシ鳥を見たるも、生まれて初めてである。栗が無数になって居り、早きは紅葉せるもあり、松茸の香り高くして、鼻をウゴメカス場所もあり。帰り、土産には大きな栗を買った。天気は好し、何という楽しい一日であった。若し公用でなくして、一日の遊覧の為なれば、之程面白く、自由には十円の教材も不可能である。殊に感謝すべきは、稲の色つきよく稔っている事である。

十月三日 水 小雨
杉山兄が、迷っていると告白し、自分はそれに関する意見を述べた。Tさんは、家賃二十四円五十銭の家を借りて、独立することになった。長い間の居候を感謝した。高比良君は風邪で床に就き、山内兄も病気で欠席す。河合君は回復して出席した。富士野から、未だ生まれぬ児のために衣類を送って呉れた。

十月四日 木 曇
僕の様な貧乏人でも、人から見て金持ちに見える事もあるらしく、金をかせと依頼して来るもの、種が切れない。小は十銭から大は何十円であるが、兎に角、相談を受けるだけは、金持ちに見えるからに相違ない。貸せという人はあるが、貸すという者はない。

十月五日 金 曇
久原、野村の両家の息子が、自動車にて阪急電車に衝突し、二人とも死亡した。十七と十八の青年を、お気の毒であるは言うまでもないが、通学するに自動車は何んなものかと考えさせられる。又、一方に於いて考える事は、路地には番人を必ず置かなくてはならぬ。殺して騒いで間に合うが、番人を置けば安全なものを、一文惜しみ百失いだ。汽車や電車は恐ろしい殺人機である。とても虎や獅子の比ではない。

十月六日 土 曇
政府は来年度の予算を立てている。予算は年々膨張するばかりだ。一年一年と負債額は増して行く。此の借金の負担者の責任や重且つ大なり。

十月7日 日 雨
朝の説教は、永遠の我が家、夜は、魂の整頓と題して述べた。大下君(仮名)は今憂えて居ります。今晩の集会に、先生の前に出られぬとて、一封の書置きしてあった。彼は実に気の毒な青年である。多分又、性の問題で悩んでいるだろう。

十月八日 月 雨
今日で九月分の伝票整理を終わった。延べ一万数千人分の賃金支払いである。此の始末をするは面倒であり、つまらない手数潰しのようである。詰まらない仕事と言えばそれまでだが、一万数千人の生活の保障であって、それに依って、多数の生命が支えられる仕事であるとすれば、馬鹿にもならぬ。

十月九日 火 晴
近江から、義男兄に女児の恵まれた通知があり、早速喜び状を出して置いた。安産の有無を承知したかった。

十月十日 水 晴
黒田師の九州より帰り土産話があり、祈祷会は三名の祈りがあったのみで、何だか物足りなく感じた。矢張り祈祷会には、皆が祈らなくてはいかぬ。

十月十一日 木 晴
近江の産が難産であった事と聞き、敏ちゃんは病気している由、我々は健康の為にも、よく祈らなくてはならぬ。

十月十二日 金 晴
中学の校長の未亡人が、二十八歳になる息子が病気で困っているが、救いの方法はないかと相談があった。財産があって、遊んで喰っている贅沢病気である。貧乏で生活に追われて、苦難に会っている人は随分あるが、金持ちにも天罰によるこらしめがある。

十月十三日 土 晴
好天気が毎日続く。良き秋日和である。果実が果実店の先に賑わう事は、何も珍しくはないが、之を豊かに恵み給うた御父に、感謝しなければならぬ。松茸も八百屋の店に並べてある。百匁九十銭である。去年に比較して三倍の高値である。

十月十四日 日 晴
朝は黒田牧師の説教あり、夕は賀川先生の説教であった。自分は消費組合と垂水の集会に出て述べた。組合では信仰に就いて、垂水では心の整理に就いて。垂水でご夫婦に会った。久し振りであった。帰りにダリヤの花を土産に貰った。夫人は病気で長い間患っているが、心は花程美しい人だと思った。

十月十五日 月 晴
日に五時間ずつの読書をするは、余に無理過ぎる。朝の五時より六時三十分迄、夕は六時より十時迄。然し、茲二三年は特別に読書したいものである。

十月十六日 火 晴
上ヶ原浄水池に、賃金支払いのため出張した。去年の今月今日に、上ヶ原に往った。満一ヵ年である。月日のたつは早いもので、今半年すれば、日本一の浄水場が出来上がる。

十月十七日 水 晴
信仰の力を述べたが、晩の務めである河相、堀井両氏の所感が述べられた。出席者十七名。祈る者は少なかったが、恵まれた集会であった。

十月十八日 木 
芳夫が上神すると通知して来た。何か出来るなら働き度いと、誠に感謝に堪えない。彼は、遠の昔に此の世の人でなくなると思っていたものを、何かの仕事が務まる程に、健康を恵まれるとは有難い事である。僕が面倒を見ていたら殺していたであろう。富士野とおばに世話になったから、助かったのである。 

十月十九日 金 
日本の歴史を知るは当然の事である。それを今日まで学ばずに居た無責任を悔ゆけれども、日々知りつつある。日々学ぶことが出来て感謝である。過去は止むを得ない。未来は希望がある。愛ちゃんが朝鮮から来るという。何事があるか知らないが、来る者をば喜んで迎えよう。

十月二十日 土 晴
政府が来議会に提出する筈の、労働者扶助法案に就いて研究した。労働者の業務上に於ける災害の場合、雇主はその傷害に対して全責任を負えとの法文では、事実実行不可能な事が度々あると思う。第一、雇用者が無資力であった場合何うするか。現在では無資力で労働者を使用しているものは随分あるが、かかる者に法の適用を受けさす事は不可能である故に、之に替うる健康保険法を以ってすべきである。

十月二十一日 日 晴
朝夕とも自分が説教した。昼は、六七人の友人と鉄男山に登り、松茸一本見付けた。たった一本の茸が、どれ程の楽しみを与えて呉れたか知れない。七百年の昔、義経が平家と戦うて勝ち、真実が敦盛の首を切りたる事ども思い起こして、向かいに淡路島を眺めつつ、友と語りながら昼食の弁当を開くも、楽しみであった。ユキ子が登山したるも不思議であった。今度こそは元気だから、従って子供も丈夫に発育しているのであろう。

十月二十二日 月 晴
十月分の伝票の整理にかかった。又忙しくなる。藤原氏去り賀来氏も秋田に往く。旧き者は僅かである。

十月二十三日 火 曇小雨
井上増吉氏より小荷物二個送付して来た。氏はもう満州近くに帰っているのであろう。我と友と社会とを欺いて、上手に世渡りするよりも、欺かざる生活をする為に、慎まなくてはならぬ。

十月二十四日 水 雨
出席者数に変わりなく、杉山兄の司会に依り、同兄の感話に次いで、堀井君の感話があり、祈祷会は終わった。

十月二十五日 木 曇
芳夫が昨夜、馬場氏の宅まで来て居ると、電話で通知して来た。満五年の病気であった。よく神戸まで出掛け得るの程度に迄、健康を恵まれたものである。神の御恵みを感謝し、併せて、おばと妹の多大なる労を感謝す。患う者も辛いが、看病人も飽きが来易い。共に疲労するであろうものを、よくも今日まで継続されたものだ。本年度の失業救済事業が、大体に於いて助役室に於いて決定した。これで本年も、労働者の仕事が余程多くなる。自分の仕事も忙しくなる。

十月二十六日 金 晴
昨夜から、故郷の話を色々と少なからず聞いた。十三歳にして長船を後にして、郷里を去った自分にも、郷里の様子を聞くは楽しみである。野や山や神社、寺、田に川に、魚に小鳥に、考え出せばつきぬ事である。天国に於いて、此の世の事を斯くの如くに思い出す事も、何時かはあるであろう。近地姉の就職が決定した。

十月二十七日 土 晴
失業救済事業の打合せを、中央の二階で開いた。やっと方針だけは見当がついた。一年の経つのも早いものである。これで日本に於いてこの事業を試みる事、第四回である。職業教育が出来ていないばかりに、此の種の事業に依る救済問題が起こるのである。今後の青年を、凡て職業教育を授けて置きたいものである。

十月二十八日 日 晴
朝の説教に、勝ち得て余る生涯と題して述べ、夜は再生に就いて語った。出席者に別に変わりはないが、一家族揃っての出席は、如何にも楽しい様に見受けられた。昼、湯殿と庭の片付け修理、たきつけ割り等が仕事であった。一日中働いてよく疲れた。昨日からの来客、道世は今日帰阪した。

十月二十九日 月 曇
井上増吉氏が、十一月六日に帰朝するとの通知を寄越した。一年半にして米国より欧州に廻って来る氏は、面白い旅行をしたであろう。何か学ぶ点があったか何うだか、帰って見ねば解らないが、出て行った時と何んの変化もないであろう。彼は活動を見る様な心持で、世界を一周したのであると思う。

十月三十日 火 晴
失業救済事業の追加予算に就いて、渡辺助役と三木庶務課長が書類に捺印しないと拒絶された為に、社会課長は終日、殊に夜まで残ってやっとの事、書類を完全に作った。これにこりて、明年からは社会事業を施行しないと言う。

十月三十一日 水 晴
藤原湊川紹介所長と中央紹介所の賀来書記とが退職に当たり、両氏の為に送別会を開催した。参加する者三十七名で、市に社会課が設けられて以来の盛会であった。両氏を神戸市から失う事は、誠に遺憾千万であると、課長は別れの辞を述べた。

十一月一日 木 晴
昨夜の送別会に於いて、自分は真っ先に帰って、残りの人々がどの程度まで騒ぎ且つ飲んだかを知らなかったが、伊東と井上と高木と三人が喧嘩をしたと言う。紹介所の柄が段々悪くなって行く。品性の下等には驚く。僅かばかりの俸給を貰って、生活に苦しみながら、なお酒を飲んでは借金を増し、借金しては利息を払い、借金の無い人が少なくて、ある人が多いのに又驚く。社会を救うと称して、自らを救い得ざる人々である。井上君から、父元気かとの電報があった。元気の旨返電して置いた。

十一月二日 金 曇後雨
誓文払いで、市中は人出の多い事、電灯は御大典の為に至るところに奉祝の意を表して、点灯されつつある。何だか、十一月の月は働く月でないが如く、人々の気分が浮かれ調子になっている様に思われる。

十一月三日 土 晴
明治節で休日である。十一月三日の休日は懐かしみ深い日である。明治大帝の天長節を祝う為に、学校で式をなし、後にはみかんやおせんを貰って喜んだ嬉しさを、今尚記憶している。半日かかってソファーの修繕をした。

十一月四日 日 晴
朝はイエスの使命、夕は貧乏の幸福と題して宣べた。説教に力を入れて、自分自ら愉快に感ずる。力を尽くす事は、人の為のみならず自分の為である。以後一層の努力をするの必要を、切に感じた。

十一月五日 月 晴
秋の好晴、言い得ぬ喜びである。かかる日に、空を眺め、青天井を見ているだけで、感謝に溢れる。自分の如き貧乏人に、金を貸せとの相談が尽きない。自分に不自由を忍びながら、人にだけは好感を以って金を貸すことの辛さよ。人知れぬ金融して都合している事も解らず、貸せと言う人もつきぬものかは。

十一月六日 火 晴
井上増吉兄が、欧州より帰朝した。兄を迎えんが為め(第四突堤は横着の加茂丸)、朝六時前出発した。兄は元気であった。夜、イエス団で歓迎会を開いた。兄より視察の感想談があった。土産として、エジプトの織物よりなる画と、印度産の菓子器と、エルサレム製の絵葉書とを貰った。兄の父に対する責任が、全部終わった様に感ずる。

十一月七日 水 小雨
ユキ子は、昨夜十時頃より軽い陣痛を覚え、今朝四時三十分男児を分娩した。予定より一ヶ月早産であったが、子は元気である。母体も安産であるし健在で、何より結構である。今度の児こそ丈夫に育てたいものである。男児を恵まれしを感謝し、この児が将来、神様の御用を務むる者となる様に、今より神の御手に委ね、神の子として預かり、之を充分教育せなければならぬ。天の父の御祝福、豊かならん事を祈った。

十一月八日 木 曇小雨
前日の睡眠不足と過労の疲れか、身体中が少々痛む。今日も昨日に劣らずよく働いた。洗濯物の干し場も作った。これで、もつきの百枚でも一度に干せる。雨が降っても安心出来る。本多姉が朝早く来訪され、祝いを述べて帰られ、更に後より刺身とかまぼことを持って来て下さった。夜、杉田君と芝さんとの来訪があり、芝さんは白モスをお祝いに恵まれた。世は御大典で、上を下への大騒動であるにも拘らず、我が家に於いては、家事のみに多忙を極めて居る。平井の愛ちゃんは九日の夜、細田のお母さんは九日の朝、同日に我が家の人となる事になった。

十一月九日 金 晴
平井の二人と細田のお母さんとが、久し振りで此の家の人となり、お母さんは当分の間の手伝いを、愛ちゃんは暫らくの間、神戸に在住する事になった。之で安心して仕事に行ける。 

十一月十日 土 晴
今日は御大典、国家こぞって祝意を表し、謹んで休業している。自分も又その一人である。我が皇室の上に、天の豊かなる祝福あらん事を祈り奉る。此の国に神の光が輝き、暗きに在る民が一人も残らず、神の御恩寵を感謝するに至る事の出来る様に。

十一月十一日 日 晴
朝も晩も井上君に説教して貰った。世は昨日も今日も大騒ぎである。祝意を表さんが為には、不真面目極まるものが多くある。然し、責める事も出来ない。あれが最上と心得ているのであるから止むを得ない。今日は、赤ん坊の名を考えた。その名を美邦と付けた。此の世を少しでも善化し、義が行なわれ、公平が重んじられ、闇をして明るくするために、理想の神の国を創らんが為め、彼が少しでも国家に善き奉公をなし、我が愛する此の国土を美しき邦となす。その名が、彼の生涯を通じての予言であり得る様に、彼が成長するに従って、この親の赤誠を理解し、自覚して、彼の名に相応しき者となる様、その為に彼の生涯を、神のお前に献げ奉る事の出来る様に、父なる神に祈り奉る。

十一月十二日 月 晴
梢を東山病院に訪問して、意外にも彼が丸々と肥満し、元気な顔付をして、日頃に少しも変わらざるは、誠に驚いた。チブス患者にして、これ程丈夫な病人があるかと思わされた。然し感謝である。数日中に退院出来るであろう。

十一月十三日 火 晴
毎日、日々赤ん坊の顔を見る事が楽しみである。神の賜うものにして、此れ程大なるものはない。児と何物とも交換する事が出来ない。山なす宝も、名も位も、この赤ん坊に換えることが出来ない。これは我がものであって、神のものである。この赤ん坊を、如何に立派に育てるかが、神の私に任じ給うた御命令である。実に大いなる使命である。此の大任を果たさずして、私は死ぬことは出来ない。

十一月十四日 水 曇
梢の見舞いに、初枝が岡山からかけつけて来た。兄弟の対面、実に六年振りであったと言う。彼等二人は不憫なものである。せめて二人の娘が幸せに、神の救いに預かり、善き子孫を残し行く事の出来る様に、彼等の為め本当に祈らなくてはならぬ。殊に梢の為に祈らなくてはならぬ。彼の品性は地の底にあり、向上すべき何物も備えざるが故にである。祈祷会に出席して、堀井兄と自分とが感話を述べ、一同祈りあった。敏ちゃんが、訪問に大阪から来て呉れた。

十一月十五日 木 雨
失業救済事業の打合せをなし、本年度施行さるべき事業の大勢を決定した。帰宅して、美邦が三十九度の発熱ありたりと聞いて驚いた。彼の為に、絶えず祈ってやらなければならぬ事を教えられた。自分にもっと祈りがなければ駄目だと教えられた。唯に赤ん坊のためのみではない。物事万事がそうでなくてはならぬ。

十一月十六日 金 曇
御大典奉祝の為に、熱心過ぎてか不謹慎でか、風紀紊乱実に甚だしきものがある。余りに無智である。一日家に在って、赤ん坊の顔を見詰めた。先に、益恵と喜与子とを失いし代わりに、美邦を与えられた様な心持がする。美邦の容姿が、先のそれによく似ている。

十一月十七日 土 曇一時晴
日本の国より偉大なる人物を産まなくてはならぬ。現代の如く、金の事ばかり考えて守銭奴になっていては、人物は生まれない。新しき意気をつくり、大人物を出すの空気をつくらなくてはならぬ。自分も、余りに詰まらない世にとらわれていては駄目である。

十一月十八日 日 曇
朝夕共に黒田氏の説教あり。朝に於いては、賀川先生の伝道旅行の報告があった。サッポロは全国何処にも例のない伝道の容易なる処であると言う。その理由は、クラーク先生の感化が、今尚残っていると思われる。一人の信者の感化も、実に驚く可き力がある。先生は、日本の存在する限り忘れられない貢献をせられたのである。名のみを知るクラーク先生に敬意を表する。広元のおばさんが、東京浅草で路傍説教しているのを聞いて改心し信者となり、後に米国の大学に在って、日本に帰って浅草で伝道してみたいと言うの青年のある事を、今井姉は米国に居て発見したと聞く。神は、伝道の愚を以って人を救うをよしとし給うとは、此の事を言うのであろう。

十一月十九日 月 雨
美邦は、此の世に出て来て、沢山という程ではないが、必要以上の着物を祝って貰った。野の百合は如何にして育つかを思えと、誠にその通りである。彼が神の御旨に適わざる生活をいとなまざる限り、彼の生活の保証を、天の父は為し給うであろう。赤ん坊にして既に余りあり、いわんや彼が働く時に於いておやである。古い写真帳を出して、先に天国に帰りし喜与子の姿を見て、美那がよく似ている事を知った。美那は喜与子以上に、此の世に長く留まり、二人の姉のすべき仕事をも、合わせて行なう者となって呉れるであろう。彼の顔を見ていると、嬉しくて仕事も手につかない。好きでならぬ読書も余儀なく中止とならざるを得ない。

十一月二十日 火 曇
美那の健康に就いて、富士野が種々と注意し、心配もしてくれる。彼も僕が児を思うが如く思うのであろう。僕の欠点を数え、足らざるなきを期しつつ、何かと注意して呉れる。一人を立派に育てるは、小さき世界を一つ造るが如く努力がいる。何はともあれ、子を養育する位、楽しみな事はない。

十一月二十一日 水 晴
井上、堀井、自分と三人が感話を述べた。自分の述べたる処は、神の保護と期待とに就いてである。自分が子供に対してもつ愛より以上のものを以って、父は我等に対し給う。此の愛が、我等の上にあって、我等は感謝、身に溢れるのである。

十一月二十二日 木 晴
細田のお母さんと愛ちゃんとが、本月の九日から手伝って今日まで助けて頂いたが、二人とも近江に帰る事になった。美那を此の世に迎えんが為に、かくも遠くから出張して貰った。彼が為には、親以外の者までが、如何に労する事であろうか。吾々が生まれた時もかくありしかと、自分の出生に就いても有難く思う。

十一月二十三日 金 晴
杉山君が来訪あって、東京の木立君が辞職したと言い、又自分には木立君の後任を務むるよう、賀川先生から命令があるが、自分が行くとも、如何とも才はなく、唯恥をかきに往くに過ぎないが故に、自分は上京したくないと語った。東京の産業青年会は、六千円の借金をしてどうにも首の廻らぬと言う。何うにかして、立ち行くようしたいものである。方面委員分会長を訪問した。

十一月二十四日 土 晴
神戸労働保険組合の嘱託医懇談会を平和楼に於いて開き、二十名が出席して協議事項だけは協議したが、何の決議も定まらなかった。但し、組合そのものを理解する為には、絶好の機会であったであろう。事業は、規約や組織ばかりでは成績は上がらない。殊に、保険組合事業は医業である。その医師が、凡てをよく理解し、好感を以って援助して呉れなければ成功しない。

十一月二十五日 日 
朝は黒田師の説教あり、夕は自分が述べた。何だか自分ながら気抜けの感じがして頼り少なく思った。説教には充分準備して語らなければならぬと思いつつ、常に怠っている。多忙な身であり、尚且つ美那が出生後は、家の内に客あり、用事が増し、一層説教の準備の出来ざる事を遺憾とす。

十一月二十六日 月 曇
聖上の御大典が終わり、本日京都を去らせられ給う。本月は、日本国民全体が祝意を表し奉り、陛下の御健康と御光栄と、昭和の聖世いやが上にも向上発展し、日本の国に幸多からん事を、真実こめて思考し、又祈るの月であった。日本の国はうるわしい国である。

十一月二十七日 火 
馬場のおばさんが病気に罹り、初枝がその看護に行かなければならないらしい。病人の看護の出来る者は、何処に於いても仕事の多い事である。人の喜ぶ且つ為になる奉仕である。人の病苦を少しでも忍び易く、又一日も早く癒えんが為の仕事である。一看護婦といえば、いやらしい職業婦人の如く世間は言う。然し、その仕事は尊敬すべき業務である。

十一月二十八日 水 晴
高山君(仮名)が、一度出て来ると一言残して、家出した儘帰宅しないと聞く。其の後何処に居るか、何等の手掛かりもなく、探す目当てもないと言う。彼が何処に往ったかは知らないが、多分神戸には居ないであろう。彼は神様の為には、無給で喜んで働く意思を有する。彼の食う保証をすれば、彼は此の地に留まって、貧民窟で奉仕するのであったであろう。然し、彼の生活保証は、目下のイエス団では不可能である。又彼に再び消費組合で労働する事を勧めた事も、彼の不満足であったであろう。まあ去った者は如何ともする事が出来ないが、彼が如何なる地に在るも、父なる御神とも在し給うて、彼を導き守り給わん事を祈る。金井(仮名)、太田(仮名)、高山(仮名)の事を思うて、涙ながらに祈った。彼等を思うと泣けて堪らなくなる。

十一月二十九日 木 曇
大阪地方職業紹介事務局管内事務打合会を大阪中ノ島公会堂で開催、自分も市の命により、出張参会する事になった。職業紹介の事務上には重大なる問題なるとも、日夜考える人生問題に比較して、いと小さきものの如く思う。

十一月三十日 金 晴
今日も又大阪に出張した。日本の教育方針の過たれる一点は、職業教育であると思う。然し、現在の資本家に適合したる職業教育を施して、之を資本家に屈従せしめる事も、大いに考慮するの必要ありと思う。

十二月一日 土 晴
春日野紹介所に於いて、伊藤貞行氏の招待を受け、夕飯の饗応に預かった。唯一度社会課長に紹介したる事に依り、彼が市に奉職する事となった。その事に就いて感謝の意を表し、御馳走して呉れたのである。人の世話になりたる思いを覚えての厚意である。自分は、誰に対しても、かかる事の礼の欠けたる者たる事を思う。平井の愛ちゃんが近江より来たり、又我が家の客となった。彼が夫婦間に於ける凡ての問題が融和され、円満なる家庭を作り得ん事を望む。

十二月二日 日 曇後小雨
朝拝に於いてキリストの十字架の誇りを説いた。集まる者、僅かに自分を合わせて七名であった。オルガンをひくものなく、出席者も少なく淋しい集会であった。然し、自分に於いては有益なる集会であった。夕拝は、小さき群れよ恐るな、との聖言葉の説明をし、之又自分に自分が教えたのである。神の国は神の子達を通して現れると述べて、世をして神の国と為すには、大なる建築物よりも、神戸第一の長者よりも、知事よりも市長よりも、我等に大なる責任のある事を語った。 

十二月三日 月 雨
東京の松村君からの便りに依れば、藪下兄に女児が恵まれたとの事である。実に不思議である。遠くの昔に此の世の人でなくなっていると思われる人に、二人迄も子供を恵まれるとは、藪下兄の人格が夫人をして活かしめているのであろう。何はともあれ、大いに兄の為に感謝す。貧しき人達に対しての年末の奉仕に就いて、杉山兄が相談に来訪された。少しでも多く、より善き御奉仕をしたいものである。美那の体重八百二十匁あり、生後二十六日にして壱百八十匁肥った事が解った。之で彼は、早産児の普通以上の成績を納めている。神に感謝す。

十二月四日 火 晴
日比生清八兄が、クリスマスの手伝いに上神しようかと問い合わせて来た。彼の為にもイエス団の為にも善い事である。人は神の聖旨を学ぶ為に、奉仕しなくてはならぬ。これなくして、本当の父の心は解らない。美那の内祝いの印の為に、何か餅でも搗いてはとも考え、平井の愛ちゃんと大丸迄観に行った。食料品部の美しくて割合に安価であるには驚いた。資本家は金儲けのためには、何んな事をもするものである。労働者に此の知識はない。

十二月五日 水 晴
日比生氏に、至急上神するように手紙を書いた。クリスマスを目の前にして、古着市に、祝賀の贈り物、正月餅の分配等に関した、奉仕に就いて祈った。祈り会らしい会であった。美那の内祝いの印ばかりの菓子を、きねやに注文した。都合五十一の数を作る事にした。菓子代金五十三円也とは、貧乏生活者には少なからぬ負担であるが、彼のために止むを得ない。

十二月六日 木 
林田紹介所の加藤氏に、キリスト教を述べて置いた。何かの糸口になってキリストを求めるに至らば幸いである。美那の便の状態が少しく不消化の様に思われる。此の一点が心配でならぬ。彼の為めに勉強が出来なくなり、夜充分眠る事が出来ない。然し、これが親の務めである。我が親が、かくして自分をも養育せられたのである。物も力も心も皆、彼のために打ち込んで、まだ足らなく思うとは、親心とは何という有難い事であろう。天の父が、我等の為に今尚その通りで在し給う。

十二月七日 金 晴
御大典は済むし、第五十六議会は近くなって来るし、政界が動き出した。一番態度の曖昧なのが床次氏である。対支問題で愈々支那に乗り出す事になった。支那に往って何うする考えであろう。来議会は、田中政友会の御大と相提携して、同一歩調をとるのであろう。こうなれば、来議会も無事でもないかも知れないが、切り抜けだけは間違いなかろう。ライオン大将とんと運が廻らない。政友の天下でも民政の天下でも、大差はないだろうが、政友会が矢張り根強い何物かを握っていると見える。それは地方に於いてである。日比生氏が応援に来て呉れた。

十二月八日 土 晴
今日から日比生氏が、イエス団の十二月中の仕事を助けて呉れる事になった。杉山氏も片腕出来た訳である。昨日から今日とで、美那の名披露目の内祝い菓子も配って済んだ。彼の成長が、何よりの楽しみである。井上増吉氏も、十一月二十四日からの旅行を終えて帰神した。

十二月九日 日 曇後雨
朝夕ともに井上増吉の説教であった。徳広氏が、井上氏の説教は講談だと言ったが、やはりそうだとつくづく思わされた。御戸の教会の牧師は、八ヵ年勤めて今度首になった。子供は五人あり、手当てもろくに与えずに失業せしめた。然も、別に取り上げる程の欠点もなかったと言う。その代わりとして或る教会で六ヵ年働いている。牧師を給料の点で引き入れると聞く。先に神戸教会の米沢牧師は十八ヵ年牧会した。その羊から追い出された牧師の悲哀をしみじみと感じた。自分の牧師にならざりしを感謝す。

十二月十日 月 小雨後晴
失業救済事業、愈々本日から着手となった。本年度施行の事業は小規模なりと雖も、今日から起工する事は、当分日庸労働者をして生活の保証となることである。日本の失業者救済事業は、単なる土木工事の百万円千万円で救済出来るものとは根本から違う。日本は将来移民するであろう。それも一案である。然し、現在の如く多産でろくに教育もせず、生活の保証もしないでいる事は、何よりの危険である。何うしても産児の制限に依り、より良い子供をよりよく教育し、彼等の時代の為に、その生活の安定を計って置かねばならぬ。愛ちゃんは、今日岡山に向かって出発した。来神以来三十二日にして去った。内地に帰るの必要なきものを、気まぐれで遊びに来て、無駄な時間と金とを消費した。然し、朝鮮に在って平井を愛するの大切なるを悟って帰るは、彼の為に有益なる教訓である。それだけを悟りに、神戸迄遙かに出て来たとしても価値少なくないかもしれない。美那の体重八百九十二匁、彼は日々に肥りつつある。

十二月十一日 火 晴
美那の為に毎日の読書が中止になった。又近々に読める様、時間の繰り合わせをしなければならぬ。彼に対して自分の為す可き義務が多くある。そうしてその中、自分をして全からしめるの努力は、最も大切なる事である。彼への最大の遺物は、自分の人格である。此の義務を怠っては、彼に対して相済まぬ。

十二月十二日 水 雨
今日の祈祷会は、堀井、井上の両兄が感話を述べ、自分は一言も語らなかった。全く珍しい事である。唯、祈った時には、人の心を知り、神が兄弟達の心に如何に働き給うかを知る為に、沈黙して聞く事が自分の務めである。人に語るばかりではいけない。時には人に聞かなくてはならぬ。美那の体重九百十匁。

十二月十三日 木 晴
初枝が岡山に帰った。彼の結婚の為に祝福してやらねばならぬ。彼の兄弟は梢一人で、その一人が不良な娘である事を考えると、彼等の二人が可哀想になる。せめて一人をでも幸せにしてやり度いものである。梢は電報で金を直ぐ送れと言って来た。何円いるのか、何うして必要なのかさっぱり要領が解らない。

十二月十四日 金 晴
井上増吉氏の職業に就いて、長い間心配していたが、課長と相談の結果、社会課に於いて勤務すべく採用の了解を得た。これで一つ荷が卸せる。感謝である。木村課長が、此の相談を容易に承諾された事を嬉しく思う。不採用に決定していた山口源二氏も又採用する事になった事を結構と思う。

十二月十五日 土 雨
紹介所員一同(東部)が忘年会を開いた。自分も止むを得ず仲間に加わって御馳走になった。此の催しの為に家の鶏が犠牲となった。

十二月十六日 日 晴
朝拝夕拝ともに、井上君に述べて貰った。夕拝に井上君が語った内に、戸梶鶴子なる看護婦を職業とする人が、去年イエス団の集会に三度出席し、自分の説教を聞いて感ずる処あり、以後教会に出席はせざりしも、自分の手に入って来る一銭と二銭との銅貨をば、悉く集め置き、之を年末に行なうクリスマス祝賀に、正月の餅との費用に献げるとて、小さくはあるが、紙缶に一杯寄付された。本人もその金額が幾等なるや之を知らずと言う。貰って後に計算の結果、五円七十三銭五厘ある事が解った。誠に奇特なる婦人である。自分は何んな話をしたか全く覚えていない。然し、戸梶姉の此の美しい厚意は、自分の生存の限り忘れ得ない。レプタ二枚と一時に献げる事も感心であるが、銅貨と雖も之を一ヵ年間集める努力は容易でない。一時に感じて一時に多くを献げるより以上に尊い心掛けである。鶏舎を壊し、乾燥室を造る為に終日働いた。浜口民政総裁が八千代座で演説した。

十二月十七日 月 晴
今日一日請暇を貰って、昨日からやりかけた残りの仕事を片付けた。腕も腰も痛むが、時には労働もいいものである。宇都宮から書面が来た。豚が五つに、鶏が二十五になって、子供等は蛍狩りで夢中だと喜んで居る。喰う心配はなく、人間がのんびりする事であろう。

十二月十八日 火 晴
子供が為に凡ての調子がくるって来た。一番困っているのは妻で、オムツの洗濯だけでも余程仕事が増えたというが、子供一人を育てるは容易でない。然し、これを育てる事に依って、子に対する愛情を学び、親の愛が解る。何と人生は奇妙なものである。

十二月十九日 水 晴
堀井兄と自分とが感想を述べて、祈祷会を開いた。人生の短きをつくづくと感ずる。何の事業も為さずして終わるかも知れない。恥ずかしい事ではあるが、如何とも方法がない。せめて潔い心だけでも維持したいものである。

十二月二十日 木 晴
雪が降り、道路に蒔かれた水が氷っている。クリスマスが近づいて来ると、定った様に寒くなる。冬に寒いので何の不思議もないが、余りに冷えると、まんざら無関心でもいられないものである。杉田君が来て三宅君の心配をしている。杉田君はよくも三宅の世話をしたものである。肉親の家族の者もなし得ない面倒を見ている。感心な男だ。富士野の手紙に依れば、初枝は結婚する事になるらしい。彼が生涯を主に献げ、主人の伝道を助ける事の出来る様祈ろう。富士野もよく初枝の世話をして呉れる。喜んで、初枝の為に借金するとは、よく決心して呉れた。富士野にも偉い点がある。

十二月二十一日 金 晴
美那の体重、壱貫拾五匁、生後四十五日。十二月には必ず賞与金を頂く。今年も又貰った。金九十六円也。俸給の他に貰った金である。感謝して受く可きである。但し年々賞与金を減じて行く。去年と比較すると五十円は少ない。去年より給料を多く受くる事、金四円也。賞与金を減じられると、差し引き収入は年々少なくなって行くのである。之なら給料を増して貰わぬ方が却っていいのであろう。

十二月二十二日 土 晴
本年の暮れも又クリスマス気分になった。古着市に、餅の分配、子供の為の祝賀、何だか忙しい気がする。町に出て、至るところのショーウインドーにクリスマスツリーを樹て、サンタクロースのお爺さんを吊り下げ、ケーキを置き、何だか教会の店開きの様である。キリストの降誕祝日も、商人に利用さるる事甚だしい。

十二月二十三日 日 晴
富士野から美那の為に、ジバンと玩具とを送付して呉れた。美那の眼も、少しは見える様になったらしい。色のついたものには、特によく眼をつけて来る。朝は、井上君がクリスマス礼拝の意味で説教し、夜は、古着市入場券の請求者が酒を呑んでやって来て、大声で怒鳴るので、説教が中止になった。其の後、十一時まで古着の整理をした。

十二月二十四日 月 雨
新労農党の創立大会は、内務大臣の訓令に依り、解散を命ぜられた。五十六議会は二十四日を以って召集された。床次竹次郎氏は、支那より帰朝した。氏は多分政府案賛成で、此の議会は先ず安全と思はる。古着市を催す。

十二月二十五日 火 晴
子供のためのクリスマス祝賀会を催し、約三百の子供を招待した。貧民窟では、少年も老年も、クリスマスの何であるかが次第に解りつつある様である。クリスマスの祝いは一般化して来た。善く利用するか、悪く利用するかが問題である。

十二月二十六日 水 晴
成年のための祝賀で、出席者は四十五六名であった。我等の内に、主キリストのいましたもうを思うて、嬉しかった。宇都宮に手紙を送って置いた。

十二月二十七日 木 晴後曇
新川のクリスマスのお祝いだけは済んだ。本年の会計は、杉山氏が責任者となり、古着を貰い集める事から市まで、子供等のためにも、一から十まで重い責任を果たして呉れて、御苦労様であった。

十二月二十八日 金 晴後曇
昭和四年の年賀状を書く為に、二晩を費やした。文字を書くは下手であるが、真心だけはとめて書いたつもりである。床敷きに光線を入れる可く、縁の根家を抜き、鴨居の上の壁を取り、ガラスの窓を入れたので、暗い室が明るくなった。何だか気が晴れた様である。自分の心にも又、窓を設けて、光を導かねばならぬ。

十二月二十九日 土 晴後雨
今日は体全部がだるくて仕方がない。何だか疲れが出たのであるらしい感じがする。

十二月三十日 日 晴少雨
朝夕とも自分が説教した。朝拝は、一ヵ年の所感述べ、夕拝には、宝の発見に就いて語った。我が内に、我が家庭に、我が住む社会に、我の生涯に、常に喜びを発見するの必要を説き、内に隠れたる此の喜びを発見すべき事を高調した。富士野が来神した。用件は初枝の結婚に関してであった。話は順調に進むものと信ずる。

十二月三十一日 月 晴少雨
大阪に行き、灘を訪問した。芳夫に面会をしたかったが不在であったので、止むを得ず引き返して、阪急の終点で、偶然にもばったり出会った。帰宅後、話は万事解決した。夜、大丸に買い物に行き、初枝に結婚祝い・銘仙一反を買った。

     *      *      *      *

 昨日(2009年9月13日)午後、兵庫県中央労働センター大ホールで、金沢の川柳歌人・鶴彬の短い生涯を映し出したドキュメンタリー映画「鶴彬こころの奇跡」を観た。この「武内勝日記」の時代と重なる作品でもあり、強い印象を残した。
   
    (2009年9月14日鳥飼記す。2014年3月9日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(52)

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    お宝発見「武内勝日記A」(5) 昭和3年8月~昭和4年6月

 この時期、「武内勝日記」に「井上増吉」というお方が度々登場する。ここで生まれ育った方で、未見のものであるが『貧民詩歌史論(貧民詩訳論)』第1巻(八光社、大正13年)、『貧民窟詩集 おゝ嵐に進む人間の群れよ』(警醒社、昭和5年)といった作品が残されている。(追記:上掲『史論』のコピーと井上著『貧民窟詩集・日輪は再び昇る』(警醒社、大正15年)を入手済み)

 ここには、井上増吉がロンドンから武内勝宛に差し出した絵葉書を1通添付しておく。井上のこの長期間にわたる視察旅行の旅先(アメリカ・イギリス・フランス・ドイツ・イタリヤ)から送られた武内宛の絵葉書は、今回の「玉手箱」に現在6通保存されている。


井上絵はがき


             *      *      *      *


                  昭和三年七月~九月

七月一日 日 晴
朝は、煩悶を何うするかと題して、馬太伝六章の終わりを説明し、夜は、賀川先生、道場破りとの題でお話があった。裏にガラスの屋根を作る可く、大工工事をして見たが、失敗であった。然し、体だけは充分疲労した。でも経験にはなった。一つかしこくなった。何も勉強じゃ。

七月二日 月 曇一時晴
保険組合の広崎(仮名)、光本(仮名)の両氏が事務上の不都合で責任問題が起こり、本部から解決に関する相談を受けた。結局、両氏は辞職する他に途なきものと思う。夜は、杉田氏の来訪あり、同一の件で相談があったが、方法は一つしかない。気の毒ではあるが、職に止まることは不可能であろう。両氏を救う為には、少なからず努力してきたものを、凡ての労も無駄であった。広崎氏(仮名)の救いの為には、三百三十円の金融もしているものを、彼等の心の新たになる迄、何仕事をさすも同様の結果を見るの他はなかろう。心の病とは言うものの困ったものである。

七月三日 火 曇一時晴
井上君から書面が来た。ニューヨークを発ってロンドンに往く、書物を七十冊買って発送したとある。隣の家主さんの御親切で、ユキ子は山桃を取りに参加した。果樹を自分の手にとって食うの楽しみは、幼少も今も変わりはない。唯、少年時代には許されて、今は許されぬだけである。

七月四日 水 晴
神戸労働保険組合の事務員広崎(仮名)、光本(仮名)の両氏に、辞職を勧告した。両人とも之を承諾した。然し、今より失業者となって、今後何うして生活するであろうか。労働も出来ないし、技術はなく、信用して呉れる友はひとりもない二人である。誠に気の毒でならぬ。人を採用する際は、充分に選考して、採用した以上は、滅多に解雇しない事である。殊に今後は、人に辞職の勧告等、一切すまい。失業をさすことは、監獄にやる以上に、本人に苦痛を与える。まるで人を殺すことである。ああ、再び此の残酷を繰り返してはならぬ。

七月五日 木 晴
梅雨はすっかり晴れたらしい。日に日に暑さが増して来る。今日は土木課の池田技手より、深田氏(仮名)をして余儀なく辞職せしめなけらばならぬ相談を受けた。旅行中の本人は、横須賀より帰神した。直ぐに辞職を勧告した。昨日は二人に、今日は一人に、殊に昨日の夕方、自分は再び人に辞職を勧めない決心をしたものを、今日にそれを実行せねばならぬとは、何と言う矛盾であろう。我をして之を行なわしめるものは誰か。彼も暫らく沈思の後、遂に辞職を決心した。

七月六日 金 晴
遂に、紹介所内で働く事務員五人が、五月以降に解雇される訳である。一人ひとりの行く末を考え、借金の整理をしていかなければならぬ。自分の仕事も又苦しい。失業以上の苦痛を感ずる。

七月七日 土 晴
日本で嘗て試みられなかった防空戦が、大阪で五、六、七と三日間開催になった。世界は依然として戦いの事を学ぶ。イザヤの予言はたがわぬ。世界に本当の平和を来たらしむるものは、神の子である。全人類の頭が、神の前にかがむ時迄、継続される殺人罪であろう。この人と金とを以って、善き道路が出来る。失業者の救済が出来る。貧しき者を救い得る。人の霊魂を罪より救うことが出来る。斯うして有効に使えば、随分有効に使えるものを。

七月八日 日 晴
朝は黒田、夜は賀川の両先生よりの説教があった。賀川先生の説く所は、矢張り違っている。普通牧師の説教ではない。本当に真理を伝える人である。又新日報社の飛行機が、初飛行に失敗して、帆船のマストに引っ掛けて、滅茶苦茶に破壊した。飛行機の壊されたのは、之が見始めである。

七月九日 月 晴
昨夕の桃か刺身が中毒して、酷い下痢をした。夜は眠られず、昼は食物を摂らず、仕事は多く、全くフラフラになって終った。このフラフラの一日中に、西部労働紹介所新築の案は確定した。身体はフラフラでも仕事は確かであった。帰宅して聞けば、中毒者は家が皆であり、お隣も同様であったと聞いて、中毒の原因が魚にあった事が解った。魚は新しいものであり、喰った量も普通であって、この罪が我になくて、魚そのものにあったのである。

七月十日 火 晴
今日一日、請暇を貰って静養した。中毒した魚を喰った量は僅かであったが、害された度は大であった。少量の毒が、五尺に余る体を、時にはなやまし、時には生命さえ奪うかと思えば、恐ろしいものである。過去に於いても、食物に注意する事は、普通人の数倍であると思っているが、それでも矢張り失敗がある。更に注意を要するのである。

七月十一日 水 晴
罪の性質にも色々の見方があるであろうが、その一つは、秘密にする事である。今ひとつは、之が報いを望まない事である。我々が善事を為す場合に、出来る限り人に知られぬ様に努むること、又之を行なった労に対する報酬を望まない事である。祈祷会の出席に大差なかった。

七月十二日 木 晴
岡山から海老を送付して来た。それに替えてコーヒーと紅茶を買って呉れと注文して来た。日本の田舎も変わった。日本茶で済まず、洋茶を用うる様になった。十年の間に、凡ゆる方面に亘って贅沢になった。もう日本も、日露戦争当時、否明治維新時代の、真剣と勤勉には帰り得ないであろう。

七月十三日 金 晴
すっかり真夏になった。九十度に余る暑さである。多数の労働者の汗と油の労苦を思って、せめてその健在を祈らざるを得ない。

七月十四日 土 晴
昨夜の保険組合の理事会に出席はしなかったが、理事者の意見だけは今日聞くことが出来た。そうして広崎氏(仮名)の辞職手当ては金三百円と決定した。思ったより金額は少なかったが止むを得まい。自業自得である。同情に堪えないが救済方法がない。

七月十五日 日 晴
朝は、テサロニケ前書五章を、夜は、コリント後書六章を説明した。会衆の数に変化はないが、一人は須磨から、一人は御影から、説教を聞きに来た青年のあることを知って、説教する者のその責任の重かつ大なるを思わされた。今日は十一人の来客があった。佐藤親子三人と高比良、河合、中川、山根と三郎君の友人三人とであった。簡単なすしの御馳走を提供した。

七月十六日 月 晴
中塚君が来訪した。信仰談を続けて、彼が信仰に復活する事を、真心と熱心とをこめて、大いに奨励した。T、金の両氏が訪れて、一婦人を中心とした問題に就いて相談があった。続けて浅田光子姉が、職業上の相談で来た。その次に、杉田君が広崎(仮名)、光本(仮名)両氏の身上に関する件で相談に見えた。どの件も十分や二十分に解決のつかぬものばかりであった。終日働いて帰って、また夜之だけの仕事があるとは、何という多忙であろう。然し、どれも放任して置く事の出来ぬ問題ばかりである。そうして相当の解決がついた。悔い改めに、誤解に、結婚に、離縁に、負傷の整理に、就職に、よく働けた事を感謝す。

七月十七日 火 晴
竹田姉の仕事、河田兄の就職、広崎(仮名)、光本(仮名)両氏の退職手当、月給に依る負債の整理で終日かかった。夜は竹田、杉田の両人の来訪あり、相変わらず人事の問題に係わる事であった。関係したくないが、関係せなければことが済まない。

七月十八日 水 雨後曇
午後三時頃より頭痛を覚え、帰宅当時は一層甚だしく、それが為祈祷会に出席せず。

七月十九日 木 雨
前日来、引き続き頭痛のため、一日の請暇を得て休養することとしたが、午前より三十八度八分の体温にて、その原因を知るに苦しみたるが、頭痛と熱とはずっと継続して、午後は三十九度に達し、夕方芝医師の診断を受け、扁桃腺と病名がつき安心した。夜は殆ど平熱に帰した。

七月二十日 金 雨
苦痛は感じたるも、前日の故にかフラフラして起床不自由にして、又休養とした。

七月二十一日 土 雨
今日も尚常態に復せず休養す。全く梅雨の様な降雨で、十七日夜以来、引き続きよく降るものである。之で今年は、去年悩んだ水飢饉はないで済むだろう。中川君が愈々伊予の松山、捺染会社の技師補助として往く事に決定した。

七月二十二日 日 小雨後晴
礼拝出席したが、後藤君が代理を務めて呉れた。夜も後藤君と森君とが自分の代理に述べられたので、今日の役目は全く友に依って補われた。中川君が三時半出発した。松山に向かったのである。

七月二十三日 月 曇
今日は五日目で出勤した。頭痛があって常態ではないが、仕事は出来た。矢張り働く事が一番よい。カタビラセミの鳴き声を聞いた。毎年暑さで汗の中で聞くものを、今年は天候不順の為に、涼しい時に暑そうな声を聞く。

七月二十四日 火 曇
西部の岡山氏の件で、河野氏より相談があった。よくもまあ、これだけ引き続き問題があるものである。少しずつ読書が楽しめる。

七月二十五日 水 晴
黒田牧師より修養会の状況を報告して貰った。支那の問題は如何になり行くかを知らないが、実に厄介千万なことであるらしい。哲学と教育学とを読んだ。哲学は学問の最高なるものの様に思われる。三十七歳にして、之だけのことしか言えないかと思うと、自分の無学が益々恥ずかしくなる。読書して発見するものは、我の無知である。然し、読んで幾等かづつの修養にはなっているであろう。

七月二十六日 木 晴
天候も快復したらしい。愈々暑くなるわい。マルクスの資本論を読み始めた。何だか無駄な、同様な事ばかり沢山繰り返してある。よく理解出来るか何うかは不明であるが、八月一杯には資本論全部を読了したいものである。今日は多読の不要を知った。本当に読まなくてはならぬ書は少ない。有害なる書物も決して少なくない。

七月二十七日 金 晴
仕事のみは出来るが、依然として頭痛が止まない。読書も仕事も不快で困る。弱い人達に同情する為には善い経験である。

七月二十八日 土 晴
身体の健康に就いて、今更の如く悟った。大いに健康の為に努力しよう。

七月二十九日 日 晴
隠れたる十字架という題で、黒田牧師の礼拝説教があった。夜は、同氏のヨハネ四章の説明があった。三郎君が朝鮮に向かって出発した。さぞ満足であろう。

七月三十日 月 晴
仕事は多く、働く時は少しまあ一生懸命になって、働けるだけを働く。河田君、失業の為に色々と心配するが、何分適当なる仕事がないので、如何とも出来ない。気の毒の極みである。

七月三十一日 火 雨
小雨ではあるが、今年は降雨の量が多い。水の飢饉はないであろうが、米作の点が心配になる。八月には、充分照って貰わなければならぬ。人間とは勝手なものである。

八月一日 水 小雨
ジョン・ウエスレーの日誌を訳しつつある黒田牧師は、ウエスレーは一日平均十三哩を馬で旅行し、一週に十五回の説教をしたと語られた。自分も所感を述べた。恵まれたる祈祷会であった。床次竹二郎民政党顧問は脱党した。新に党を樹立する為だと言う。田中首相及び政友会は満足であろう。それに反して、浜口ライオンは不満に堪えざるものがあろう。分離したり合流したり、何をしている事か訳が解らぬ。

八月二日 木 曇
松本君から書面を貰って泣いた。赤誠こめて返書を出した。

八月三日 金 雨
仕事が多いので思う程に読めない。マルクスの資本論は、八十頁読んだのが今日の日課であった。

八月四日 土 雨
今年の八月程、天候の悪い八月は記憶にない。稲作の為に善き天候を祈る。

八月五日 日 雨
朝、黒田先生の礼拝説教あり。夕に賀川先生の説教があった。朝は十五六人、夜は二十五六名であった。共に集会者は少なかった。

八月六日 月 曇
久し振りに、妙法寺川尻の海の博覧会を観に行った。遊ぶことは滅多にないが、松田君が来訪したのと、ユキ子が軽業を生まれて一度も観た事がないと言うので入場した。軽業を観ると、熟練の偉大をつくづくと感心せしめられる。実に妙を得ている。一つ違えば、生命を失わなければならない。誠に危機にあって自由自在である。彼等は、綱渡りにも、マリ乗りにも曲馬にも、ブランコにもハシゴの上でも、竿の上でも常に中心を失わない。これさえ間違わなければ、危険に見えても安全の様である。我々人生も又、神中心の生活さえすれば-と思った。信仰の熟練に依れば、奇跡も行なえるが当然の様に考えられる。

八月七日 火 晴
マルクスの資本論を一巻だけ読んだ。全巻を八月中に読む事は難しくなった。西部紹介所は愈々改築を決定し、社会、営繕両課長及び自分も加わって実地視察をやった。自分の務めも解ける日が近づいた。職業紹介所に依れば、紹介所には専任の所長がいなければならぬ筈のものを、長年自分が兼務していたのである。六大都市、何処にも例がなかったのである。

八月八日 水 晴曇
神の恩寵に就いて述べた。出席者の数は四五名減少していた。床次さんが新党樹立の計画も、余り振るわないと見えて、傘下に集まる者は僅かに二十名位らしい。団体交渉権も得られないらしい。彼も総理にならずに終わるであろう。

八月九日 木 晴曇
兵庫県の野球予選大会は今日で終わった。優勝者は甲陽中学であった。三対四で二中は負けた。指定席券を買う為に、七日の夜から神戸市局の前に集まり、徹夜で待つ者が約二千人あった。何と言う熱心であろう。何と言う愚であろう。喧嘩までやって警察署の御厄介になったとは沙汰の限りである。それが大阪でも京都でも神戸と同様であったと言う。尚更である。

八月十日 金 半曇半晴
毎日似た気狂天候の様である。笠松氏が来訪した。刷子時代からの知友で、今尚関係ある者に、中田君と笠岡君とがある。一度知り合いになった関係も、全然失せるものでないらしい。三郎君が朝鮮から帰った。然しその足で近江に行った。

八月十一日 土 晴
井上増吉氏から通信があった。今暫らくロンドンに滞在すると。兄が帰朝すれば何をなすであろうか。新川の産んだ井上を、一人だけでも偉くしたいものである。

八月十二日 日 晴
イエス団の年中行事である、子供の為の明石行遠足を決行した。総員百七十名位であった。今年は杉山君がいて呉れて、経費全部を貰って呉れたので、自分の責任はなくなった。杉山君の様に、人に金を出さす事も容易な仕事でない。殊に自分に取っては不可能なる一事である。

八月十三日 月 晴
三郎君が近江から帰り、敏ちゃんが同道して我が家の客となった。夜、海岸に散歩に出掛けた。来客のあるとき、読書の出来ないのは止むを得ない。自分の頭も休息を得て善いであろう。そうでもなければ、自分の遊ぶ時は絶えてない。

八月十四日 火 晴
今日は堀井君の訪問があった。田舎伝道を継続するや否やの問題であった。相談を受けても急に返答の仕方がない。よく祈り考えて見よう。今晩もまた夜の読書は中止になった。今夜も又止むを得ない事である。

八月十五日 水 晴
淋しい祈祷会であったが、心持の善い祈り会であった。久し振りに堀井さんの感話を聞いた。昭和三年度の失業救済事業に関する打合せ会を開いた。年中行事になって止める訳にも行くまい。又実施すれば確かに労働者の利益にはなる。

八月十六日 木 晴
小島謙太郎氏が来訪せられた。二人の友人と(二人とも学校教師)同伴で約三時間、四方山話をした。其の談話中、失業者の救済、貧民窟改善等に関して、自分の専門をも述べた。最後に祈りあって別れた。本当に互いに祈り合うことの出来る友程、貴い友はない。学問があるかないかではない。地位が高いか低いかでもない。貧富の如何でもない。真実の友であり、神の前に於いて全く兄弟として、共に祈り得ることである。世界全集思想十七回配本を読了した。

八月十七日 金 晴後曇
家の客であった敏子が近江に帰った。中里愛子殿(仮名)から職業を問い合わせて来た。自分自身がやり度いと。結婚して居り、夫が健在で働いているのであるから、其の夫を援けて、夫をして偉くすべく務めてこそ、自分も偉くなるのである。朝鮮と内地に別居しては、相互いに如何に好い職業を持つとも、それは幸福でない。又夫人の道でない。よく悟してやり度い。子供がないから迷うのかも知れない。

八月十八日 土 雨
雨量の多い夏である。今年の夏程、よく雨の降ることは珍しい。今月は、七月分の清算を済ました仕事の、早く片付く事は嬉しいことである。暑い時にも拘らず、充分働ける事は感謝すべきことである。

八月十九日 日 雨
父の神の恩寵と題して述べた。夜も自分が、レプタ二枚、信仰に就いて語った。今日も雨は終日降り通した。

八月二十日 月 曇
井上君から写真を送付して来た。写真で観たロンドンは美しくある。然し其の美は建築である。本当に救われたいと言う青年の訪問客があったが、自分不在の為に面会出来なかった。若し許されるなら、一週に一度、此の家を求道者の為に使い度い。一人の霊を神に捧げるかも知れない。若し多くの罪人をして救いに至らしむ事が出来れば、これに過ぎる喜びはない。

八月二十一日 火 晴
電話局勤務の青年が救われ度いとて、キリストの福音を聞きに来た。一時間余り、天の父なる神に関して述べて置いた。かかる青年の要求なれば、喜んで応ずるのである。斯くの如き主の御用に益々用いられんことが、我が心の奥底より、願うて止まざる処である。

八月二十二日 水 晴
全国中等学校野球試合に、松本商業が優勝した。キリストの我は道なり誠なりとの言葉に就いて語り、心行く祈祷会を営み得た。

八月二十三日 木 晴
天理研究会長大西以下百九十名が、不敬により起訴された、との号外が出た。神秘主義か迷妄主義かは知らないが、厄介な人達が現れて来る。五万の信徒を持ち、労働者には無報酬で働かせ、金持ちからは搾取し、己は喉をしのぐ生活をしているとか。然も、天理教開祖おみき婆さんの二代目とか。狂気も甚だしい。困ったものである。今日も又一青年が求道して来訪した。自分に取っては、こんな大きな喜びはない。天に於いても喜び給うのであろう。父なる御神が。

八月二十四日 金 晴
南米ブラジルの宇都宮から、渡米第一回の通信があった。彼は希望に輝き元気に充ちている。アブラハムの如くに、多くの者の信仰の祖となるの覚悟のあることは、誠に慶賀に堪えぬ。家族の者の健康も、子供等の教育も、凡て信仰に依って甘く行くであろう。彼の心の変わらざる為にも祈ろう。日本は南米に延びて栄ゆるの他に、将来の発展策はなかろう。移殖民の為にも祈らなくてはならぬ。

八月二十五日 土 晴
高比良金蔵君が神戸消費組合を辞職することになった。彼は全く甦った。救われている。彼は何うかして、今少し凡ての方面に引き延ばしてやらなくてはならぬ。それは又自分の責任でもある。今夜又、金丸兄弟と隣の家主さんに福音を述べておいた。

八月二十六日 日 晴
武庫川の松林の中で屋外礼拝を行なった。汝等は世の光なりに就いて、自分の所感を述べた。自分は、最初自らを助くるために、次に自分の周囲を、更に社会を明るくする為に、イエスの言葉通り、世の光となるの確信を持つに至った、と実験談を語り、夜は成功と題して述べた。武庫川同行者は二十一名で、夜は賀川先生宅で昼食の御馳走になった。杉山兄の栄を感謝す。

八月二十七日 月 晴
朝日新聞社経営の旅客飛行は、今日第一日の初飛行であった。朝日は日本で最初の飛行機を飛ばした飛行界の功労者であったが、続いて郵便飛行、欧州飛行と、更に今日の如く旅客の輸送迄可能となった。金丸君が今夜も訪れた。又語り祈った。

八月二十八日 火 晴
阪急電車、市内乗り入れ問題に関し、市会で重大問題となった。阪急会社上田専務より黒瀬市長に対し、市が阪急乗り入れを認むる時は、金五拾萬円也を市に、現金にて寄付すると申し出た。市会は、五拾萬円に依って承諾する様なことは四方やあるまい。

八月二十九日 水 曇小雨
最も淋しい祈祷会であった。祈れる者は河田君と自分のみであった。河合君が病気と聞く。彼の健康の為に祈る。妙な天気である。暴風が見舞うそうな荒れ模様である。

八月三十日 木 雨風
大暴風でもないが、日頃にない強い風である。新聞に依れば九州、四国、中国は暴風の為めに、かなり被害があるらしい事を報じている。聖霊の風が日本を吹き捲る時に、日本は新しくなるであろう。吹けよ、聖霊の風である。

八月三十一日 金 晴
今日はすっかり晴れた。昨日の嵐は嘘の如くである。人生の嵐、荒波も又、斯くの如く起こり、又去るが常である。物事万事、悲観も楽観もない。かかる世界が我が国であり世である。来れ嵐、来れ平穏、我等に於いては何事かあらん。

九月一日 土 晴
関東震災五周年である。今日正午を期し、各会社、工場の汽笛は一斉に鳴らされ、神社仏閣に於いては黙祷を捧げ、一般には質素簡単なる食事を以って満足し、平素のゆるみきった精神に、強き刺激を与えた事であろう。

九月二日 日 晴後曇
朝、黒田先生の礼拝説教あり、全能の神との題で述べられ、夕べも同氏に依って、二里行けと言う説教があった。会衆に変わりなし。植木の手入れと鶏舎の掃除とが、今日の仕事であった。時々は筋肉を動かさないと、安息の何であるかを忘れる。

九月三日 月 晴
職員の一人、上野氏が県病院に入院した為、久し振り宿直することになった。訪問客があって何も出来なかった。

九月四日 火 晴
宇都宮に書面を書いた事と、デカルトの感情論を読んだことが、勤務外の仕事であった。

九月五日 水 晴
社会課の大原松事氏が退職する事になった。氏は大正七年、米騒動後、神戸市が公設食堂を設けた時より、主任として就任し、本年九月で丁度満十年に達した。本年六十五歳の老人である。よく健康にして活動し得た自分も、何時かは六十五歳に達し、又現在の職をも辞する時がある筈である。出来る限り長命で、出来る限り健康で、死に至るまで職務に忠実でありたい。黒田先生の感話があり、後祈って散じた。

九月六日 木 曇後雨
雨の宿直であった。馬太伝と馬可とを読んだ。先のは一時間四十分で、あとのは一時間で読める事を、今日始めて経験した。

九月七日 金 晴
前科一犯の壮年が来訪し、就職について相談を受けた。彼に天の父とキリストを紹介して帰した。職は握らなかったが、内に於いては何者かを得た事と思う。兎に角、前科ある者の就職位、困った気の毒は少ないであろう。前科者をば、前科あるが故に就職させないとすれば、むしろ監獄より出さない方が、彼等の為である。社会は前科者に対する考え方を一変しなければならぬ。犯罪を少なくし、犯罪者を善導する為には、生理的にもあれ心理的にもあれ、何処かに欠点の多い刑余者に対して、彼等に失業せざる様、危機の置かざる可く、社会は務めなくてはならぬ。然るに事実は全く之に反対ではないか。

九月八日 土 晴
民政党の中から不平分子四名を除名した。これで後は結束が固いか何うか、それが問題である。寄者は別者であって、去年憲本合併したが本年は分裂である。十年後には何んなことになるやら、政民共に現在の如き勢力を維持しているか否かは、頗る疑問である。井上君が裸体の絵を送付して来た。フランスやドイツでは、裸体姿は曲線美が大変に美しいと讃美していると言う。之を絵で見るより実物で観るは更に美しいのであろう。それ故に、裸体女は増加して行く。これに戯れる男も増加する。その結果、自然に不品行になり、遂に堕落して行く。美しい衣を着た人間よりも、裸体の人間が美しく観えるかも知れない。しかし、そうした事を多くの人々をして堕落せしむる危険物なれば、之を一般的に観せるは間違っている。

九月九日 日 晴
朝、黒田牧師の礼拝説教があり、夜は自分が述べた。黒田師は、礼拝の態度と題して、自分は、神の愛に就いて、それぞれ語った。神は人を愛する為に、最大努力を尽くし給うた。吾一人を救うにも、太平洋に陸地創るよりも、空に太陽を今一つ増すよりも、より以上の努力を以って、我に臨み給う。彼は実に、独子給う程に吾等を愛し給う。神戸消費組合に於いては、馬可伝八章の説明をした。

九月十日 月 晴
今日はトルストイの百年祭で、ロシアに於いては大騒ぎをし、彼を祭ると言う。彼は実に、十九世紀の生める最大人物であった。自分の如きも、トルストイに依って、どんなに真剣に考えさせられたか知れない。彼の故に死まで決しさせられた。賀川先生は、自分をして小さきトルストイの子よと呼んだ。小さいにせよ大きいにせよ、我が内に居る事だけは変わりない。彼が吾が中に住む事は光栄である。

九月十一日 火 曇
二百十日も無事であった。これで日本の農民全部が安心した。国民全部が喜ぶことである。それだけでは足りない。国民こぞって神に感謝しなければならぬ。

九月十二日 水 雨
林間学校生徒の手になる図画や作文の展覧会に併せて、その母親達を招待し、キリスト教を説き、神を信ず可きを勧めた。黒田先生は、日曜学校に来る可く、自分は何うしたら幸福になれるのかと題して述べた。

九月十三日 木 晴
日本歴史を読んで面白く思う。自分の事を学んでいる様である。井上君がロンドンから書物を十五包み送付して来た。英国に在住して勉強出来ないから、書物に依ってゆっくり学ぶ考えであろう。細田のお母さん、熱病との便りがあり、ユキ子と三郎君とは心配している。まだ天国に逝かれる等毛頭考えられない。父が久し振りで見舞いに来て、あんまを取って帰られた。済まない事である。

九月十四日 金 晴
野田君から厳粛なる書面を貰った。トルストイ百年祭に当たって、彼は一日の仕事を終わって後に、先ずトルストイに関する所感を書き、後祈って床に就いたと書いてある。彼は真面目なる青年だ。何者かになるの可能性が充分ある。

九月十五日 土 晴
日本の国民に、神を信ずるの大思想の起こらん事を願い、また考えた。神を信じ、神に仕えるの道を知らざる国民には、何の善き事も出来ざるを思う。

九月十六日 日 晴
朝、黒田牧師の詩の二十三編に就いての解説があった。夜は、賀川先生のイエスの奇跡に関しての説教があった。先生曰く、イエスは多くの奇跡を行なったが、その中富める者に対しての奇跡は唯の二回のみであった。その他は全部、貧乏人の為であった。貧乏人が病気して、殊に癩病や中風の如き人達は、奇跡を信ずるより福音はなかったと。実にその通りである。かかる人達が、イエスに奇跡を願う事も、それを信ずる事も当然であろう。愛ちゃんが、本月の末頃には来神したいと通知して来た。

九月十七日 月 晴
光本君(仮名)の救済問題で色々と質問を受け、一晩の読書を棒に振った。人を善くするの相談の為には、どんな犠牲でも払わなくてはならぬ。善志は、昨日東京に向かって出発すると言っていたが、何うしたかしらん。中野音松の家内が昨日永眠した。藤原芳夫(仮名)の郷里から、実子の品吉の住所は不明だと回答して来た。藤原(仮名)も不憫なものであるが自業自得だ。今日かくある可き原因を、彼は既に作っていたからである。

九月十八日 火 晴一時曇
残暑、夏と何等変わりがない。生田祭礼には、セルの衣を着る時であるに、ユタカ一枚で未だ暑い。六大都市の日傭労働者の賃金を調べて、何れも余りに低過ぎるに驚いた。彼等の生活を高め、彼等の統制を計らなければ、日本は彼等の存在故に文化しない。

九月十九日 水 晴一時曇
堀井君が北条の町から帰って来た。兄弟は将来何を為す可きかに就いて、真面目に考え祈っている。彼の為に善き仕事が与えられ、意義ある生涯を全うすることの出来る様に、彼の為に祈る。松本君が健康を回復しつつあり、今では熱は去り、終日談話するも疲労せざる程度までに元気になったとは、兄の為に感謝に堪えない。兄の為に、イエス団の祈祷会で誰かが祈らなかった事は、一度もなかったであろう。

九月二十日 木 晴一時曇
堀井君の来訪があり、二時間ばかり語り合った。信仰ある人間と語る事は一言も愉快であり、数時間も楽しくある。日本の神代記を読んで、日本の国が余程よく解った気がする。

九月二十一日 金 晴一時雨
少しも涼しくならない。却って暑い。何時涼しくなるとも予測が出来ない。住宅問題を考えて見た。都会生活の一番の重荷は、家賃の負担にある。ブル階級は兎も角、吾々無産者に取っては、借家賃の低下の工夫をしなければならぬ。

九月二十二日 土 晴
平川君から、電報で二十三日立つと報知して来た。九州に居っても適当なる職業が見つからなかったのであろう。失業の機会は益々多くなり、就業の機会は次第に減じて行く傾向がある。職業の定まるか否かは、実に人生最大の問題である。

九月二十三日 日 晴
朝、黒田先生より活けるキリストとの題で説教あり、夜は、賀川先生よりペテロ伝の教訓としての説教があった。何と言っても、賀川先生は善い説教をする。ペテロは七回も大きな失敗をしたが、然し失敗毎に賢くなって、終いには大きな説教者となったと。我等も又彼に学ばなければならぬ。主キリストは失敗したペテロを愛し給うた。

九月二十四日 月 
藤原倦川職業紹介所長は辞職した。中央所長に対する不満からである。荒瀬去り藤原又去る。惜しい事であるが、中央所長に足らざるものがある。善く働き得る人物を失うのは、彼の責任である。両人とも神戸が嫌で去ったのではない。中央所長と意見に合わざる点があり、態度に於いて全然一致しないのである。迷信深き人と二時間も語り合ったが、物事の解らない人と来ては、全く仕方のないものである。

九月二十五日 火 雨
急に冷えて来た。昨日迄の暑さはすっかり忘れて、シャツ一枚では寒くて仕事が出来なくなった。矢張り時である。時は争われぬものである。神戸消費組合の守屋主事は辞職した。あの位置の座するの人は恐らくないであろう。組合長が存在する限り困難な事である。然し、現組合長をして動かすことは不可能である。若し福井組合長が去る時は、林彦一氏が再び帰るの運びに至るかも知れない。同氏を除いては、何人も円満には治まるまい。中川君が九州から上がって来た。電気局の仕事が甘く行けば善いが、彼の為にも祈る。

九月二十六日 水 晴曇
昨日は一層よく冷える。もう涼しさを通り超えた。真当の秋の候になる。秋の自然に接したいものである。馬太伝十三章に関する所感を述べて祈った。堀井君が学校の休暇中出席しなかったが、今日初めて参会した。垂水から泉なる人が、基督教の集会を開いているから説教をしてくれと、依頼に来訪された。自分には何の名論もないことを告げたが、それでも結構との事故に、十月十四日の日曜日の夜の説教を引き受けた。無牧の教会を作って伝道するとは感心な人である。水野脩吉氏から二十円送金して来た。

九月二十七日 木 晴
職業指導の講話を聞き、後川西飛行機製作所工場を視察した。余り有益とも思わなかった。もっと感心したのは、楠小学校を視て、自分が通学した時代と比較して著しき相違のある事に驚いた。実に進歩したものである。唯、疑問を抱いたのは、女生徒の服装の野蛮化しているが如く見え、又思える点であった。体育、運動のためには申し分のないことであろう。然し何う考えて感心しない。

九月二十八日 金 晴
今日も引き続き講習会に出席し、心理学の立場から論じた職業指導に関する講話を聞き、午後は生糸検査所と税関とを視察した。其の中、検査所の設備なり生糸の検査方法を観て実に驚いた。一年に七億円の輸出をする国産品であるにしても、これ程までに面倒な手数をかける手間を以って、何か他に為す可き善き大切な事業のあるものをと、つくづく感じた。少し綺麗な着物を始末すれば、こんな手間の要らぬものをと思う。

九月二十九日 土 曇小雨
急に冷えて寒い程である。今晩の月見は、曇天で何も見えなかった。伝票整理でよく働いた。秩父宮殿下ご成婚も、芽出度く式を済ませ給い、秋のお祝いの一つが済んだ。山口氏の就業の件で相談を受けた。失業して一年半になるに、未だ就業出来ない。世は依然として不景気である。

九月三十日 日 晴
朝の礼拝に、信仰の充実を、夕べに、我の改造を述べて、二度とも自分が説教した。何だか思う様に話し難くあった。

     *      *      *       *

 一度しかお会いすることのなかった武内勝氏であるが、お出会いしてすぐ武内氏は忽然とそのご生涯を閉じられた。私の初仕事がそのご葬儀であったこともあるが、「武内勝」というお方には、何か特別のおもいが残り、奥様やご子息に「書き残されている筈の日記を、機会があれば一度ぜひ読ませて頂けないか」とお伝えしてきた。

 お別れしてから長い歳月を経て、不思議な事に本年(2009年)春、43年ぶりにしてこれの閲読を許された。しかも、ご子息・武内祐一氏のお許しを得て、このような場所で公開させてもらい、心ある方々とご一緒に、こうして閲読できることは、本当に有難いことである。私も「一日一歩」この作業を続けていきたい。

 ということで、あれから5年が過ぎ、こうして補正を加えながら再掲できることも嬉しくて・・・。
  
   (2009年9月11日鳥飼記す。2014年3月8日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(51)

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 お宝発見「武内勝日記A」(4) 昭和3年8月~昭和4年6月

 武内の日記に「黒田四郎牧師」が登場してくる。昭和3年6月に書き起こされた黒田の「神の国運動日誌」は良く知られているが、ここには「賀川豊彦写真集」にある「神の国運動」のスナップ写真を入れておく。黒田は左から3人目。

第4回写真黒田牧師


        *      *      *      *


             昭和三年四月~六月

四月一日 日 晴
礼拝説教 職業と信仰と題して述べた。夜は、神に就いて説いた。伝道に大いに責任を感ずる。午後、妻と同伴で、須磨寺と須磨海岸とを散歩した。寺には桜のつぼみが人の注意をひいている。海は穏やかで、広々と実に快感を与える。海岸での遊びは、夏の海よりも春の海が楽しみ易い。

四月二日 月 曇
高本氏(仮名)が三百円の負債が出来て進退窮まっている。辞職でもしなければ解決がつかないから、何んとかして救済して呉れと依頼してきた。彼も放浪人であって、幾度失敗したか知れない。もう彼が亡くなるままに放任して置けば彼は全く破滅する。妻あり親ある身でありながら、全く始末悪い男である。特に悪いことは嘘を言うこと、酒と女とである。これが彼を滅ぼすのである。彼の救済は、三百円の金のみにあらずして、嘘と酒と女から救済しなければならぬ。彼の救いの為に務めよう。組合本部に於いてさえ自決させよと言っているものを。

四月三日 火 晴雨
疲労の結果、眠くって堪らず、朝より半日床に就き、休養に努め、午後も保養に費やした。

四月四日 水 曇
ヨハネ十三章と十七章を読んで祈祷会をはじめ、心ゆくばかり互いに祈りあった。

四月五日 木 晴
高本氏(仮名)の一身上に関する重大なる問題に就いて解決をつけた。之で一人を救済することが出来た。一人の救済の為にも随分の労を要する。

四月六日 金 晴
上ヶ原工営所に於いて、供給人夫六十名が、ストライキを起こして就業しないから、早く解決する様にとの通知を受け、早速上ヶ原に自動車でかけつけうまく解決した。労働者も皆満足して働く事になった。然しその理由は、日給十銭を増額し一人一円五十五銭となったからである。失業救済事業の残工事を明後日から開始する事になった。今日の一日も多忙であった。もうすっかり疲れて終った。

四月七日 土 晴
堀井氏の訪問があった。時に友人の心情に接する事は快楽である。我等の地上に於いて経験する最上の楽しみである。殊に善き友、信仰を同じゅうする友を得る事は、何たる御恵みであろうか。

四月八日 日 晴
今日から失業救済事業の繰り延べ工事に着手した。使用人員壱百二十三名に休職申し込み者は五百を超過している。日本の失業者は日に日に増加して行き、その救済名案はなく、憐れむべき状態にある。

四月九日 月 曇
西部に於いてのみでも七百名を数えた。此れ等の多数が全部アブレルので、何たる惨憺であろうか。彼等は本当に飢えに迫っている。世には富んで喰い余り、贅を尽くせる者もあるものを。

四月十日 火 雨 
宇都宮の一家族が南米ブラジル行の為めに神戸に来た。兄が南米に往って成功するか何うかは知れないが、日本に居っても兄に適当なる仕事はない。矢張り移民が適当しているのかも知れない。

四月十一日 水 晴
河川埋め立て工事残事業に就業すべく、五百名以上に抽選を行なった。使用数僅かに八十名である。八十名の就職口に対して、五百名以上が集会するのである。何という不景気であろう。何とかしなければ一大社会騒動が勃発する。古中実三郎という前科数犯の男が金壱円也を送付して来た。又彼は改心して信仰の道に光明を見ていると喜んでいる。彼に一円を貸したのは何年かの前であった。彼は言った。私はピス健以上の悪党に活き社会をびっくりさしてやる。それで死ねば本望だと。そのとき彼に反省を促して金壱円を恵んだのであった。それが今は、真面目になって居り、信仰の生活にありと告白し、又借金を返すなど、やはり世の中には不思議なことがある。天の父は彼をも捨て給わないのであろう。

四月十二日 木 晴
宇都宮氏が、南米渡航の為め来神し、今日は我が家の客となった。子供五人を同伴での渡米である。容易なことではない。然し氏は、日本に居るよりブラジルで生活する方が好適であろう。唯子供の教育のみが案じられる。日本の将来は、南米に延長し移民するのほか、日本の人口問題は解決法がないであろう。宇都宮の一家と須磨寺と海岸を散歩した。これが此の世の最後の別れであるかも知れない。兄の祝福を祈る。

四月十三日 金 晴
八人の客を迎えて家の内は一杯である。子供を育てる事の大事業を、今更教えられた。

四月十四日 土 晴
救済事業での多忙も忘れられる程になった。日雇労働者の将来に就いて考えて見よう。唯にパンの途をのみの解決でなく、本当の救済に関する実際問題を。

四月十五日 日 晴
全き救いの題に依り述べた。夜は、杉山元治郎先生の信仰に関する説教があった。桜観の見物客の多いのにも驚く。須磨も会下山も青谷も人の波である。飲んで騒いで、倒れなきゃ承知せぬ連中も困ったものである。

四月十六日 月 晴
広田のツツジを観た。実に美しく咲いていた。桜も美しいがツツジも美しい。新芽も美しい。近くにあるものが美しい。遠くにあるものも又美しい。はっきり観えるのが美しい。かすみのかかるのも美しい。野より山を仰いで美しい。野を見おろして美しい。岸部、杉山両兄が訪問せられた。岸部一家のために祈る。杉山の前途の為に祈る。

四月十七日 火 晴
宇都宮兄の南米渡航から、色々なる日本の人口問題を考えさせられる。日本はどうせ何処かに移民しなければ、現状維持の保たれない国民である。現在の国状では、職業紹介より以上の問題である。平和楼で組合の理事会開催され出席した。

四月十八日 水 晴
近江から細田のお母さんが、朝鮮から愛ちゃんが、宇都宮一家族の南米ブラジル移民渡航の為め送別しようと来神した。
地上に於いても又会う日があるかも知れないが、或いは最後であるかも知れない。一家族全部にはそうでなくとも、其の中の誰かには最後とならんとも限らない。兄弟の為に祈る。家は今日から賑やかである。静かなる祈祷会であった。

四月十九日 木 晴
宇都宮氏を移民客所に訪問した。送別に地球儀を贈った。収容所に宿泊している同胞を見て二つの感が起きた。一つは、之等の人達が南米の地に第二の日本を創設するかと思えば、敬意を表せざるを得ず、また祝福せざるを得ない。然し又一つには、日本は此の人達を安住せしめるに足りないかと思えば、気の毒でならず情けなくなる。

四月二十日 金 雨
議会解散か否かは日本の大問題の如く、新聞は筆を揃えて大書する。何うなったとて、別に善政も行なわれないものを、政友勝っても民政勝っても、五十歩百歩ではあるまいか。

四月二十一日 土 晴
伏見町に公用で出張し、午後宇都宮を突堤に見送った。今日のたぷらす丸には、九百余名の移民を乗せている。これだけの人達が、百年後には何万人に増加するか知れない。人の増加も恐ろしいものだ。宇都宮兄も房子姉も子供等も泣いていた。見送りの者も泣かされた。特に房子姉と道世とは泣き通していた。見送りの人達には、義男兄に敏子ちゃんに牧野御夫婦に本多、中山、高比良、堀井、杉山、佐藤姉、広木、小山氏等であった。夜、我が家に帰って夕食を共にした。宇都宮の為に涙ながらに祈った。

四月二十二日 日 雨暴風
コリント後書六章に就いて説明した。夜は、馬太伝十一章の説教をした。中央所長宅に招待を受け、折の御馳走になった。

四月二十三日 月 曇
大倉喜八郎が逝ったと新聞は伝えている。彼の人相は賀川先生によく似ている。矢張り性格の何処かに共通なる点がある様に思われる。大倉が実業に生命を打ち込める如く、賀川先生は神の国運動に生命を献げる。方面は異なるも、意気と熱と奮闘振りにはよく似たるものがある。若し賀川先生が実業家となっていたら、成金になる人であったであろう。然し賀川先生は、大倉と三菱と三井と合わせても、尚成し能はざる大事業を行ないつつある。

四月二十四日 火 曇
日傭労働者を保護し救済する為には、単に労働紹介のみの事業に終わってはならない。一大計画を立て、政府当局を動かし、救済資金を下付させなくては、冬季に限られたる失業救済事業では徹底しない。少なくとも神戸市在住の日傭労働者は、残らず救済し得るの方法を講じなくてはならぬ。

四月二十五日 水 曇
クリスチャンに悲観なしとの題で、信仰の立場より、凡ゆる方面に亘り楽観説を述べた。凡ての事、善意に解釈すべしと、自分に恵まれ居る信仰の物語をした。本当に神と偕に在って、失望も悲観もない、神に依って得たる希望は、此の世の何ものも之を奪い得ない。神の愛に浸っていて足らざるものはない。凡てが感謝である。

四月二十六日 木 曇
細田のお母さんが近江に帰り、愛ちゃんも又お母さんに同行した。あと大阪に一泊するかも知れない。細田に一家の内に、漸次信仰が喰い入って、皆が福音に近づきつつある。有難い仕合せである。今日、神戸市職業委員会が市会第三議員室で開催になり出席した。

四月二十七日 金 晴
来客の為め暫らく読書を中止していたが、客は皆去って終った。これからウンと読書することにしよう。読書の楽しみがないと淋しい。何だかもの足りない。

四月二十八日 土 晴
まとまりのつかない仕事ばかりで不愉快である。然し、面倒臭い仕事を片付けて行く処に、自分の使命がある。自分の使命が果たせ得れば、矢張り愉快である。

四月二十九日 日 晴 天長節
馬太伝五章に依り、幸福に就いて述べた。夜は、使徒行伝三章に依り、救済の徹底と題して述べた。昼は、神戸市職業紹介所により就職したる者の内、三年以上同一雇い主に雇用された者の表彰式が、神戸商工会議所で開催された。六十六名が選奨状、内十一名は賞品迄貰った。出席者の中には市長、助役、課長、中央事務局長代理、大阪地方事務局長、知事代理、市会議長、商工会議所会頭代理、其の他で中々盛会であった。紹介所宣伝の為に一番効果があろう。

四月三十日 月 曇
日傭労働問題に関する大阪事務局官内の打合せ会が、事務局に於いて開催になり、神戸より中央職業紹介所長と自分が出席した。日本の労働問題、其の中失業の部分はどうにも良き解決の方法がない。健康にも失業にも、保険を付するより以上の途は、現在の所考え得られない。

五月一日 火 雨
今日はメーデーであるが、雨天の為めに之に参加する者が少ないであろう。日本の労働祭は、最初に於いて余り振るわなかったが、二三回目には可也盛んになったものを、官憲の弾圧と雇い主側の排斥とに依って、漸次下火となった観がある。神戸には特に著しいものがある。メーデーに参加した職工は解雇するとは、何たる乱暴であろうか。

五月二日 水 晴
淋しい祈祷会であった。然し、心残りなく、遠慮なく祈れる会で嬉しかった。岸部君が脱会した。続いて渡辺君も来ないであろう。何処に居ても、信仰を以って神に従っている事なれば、吾等は祝福の他に途は知らない。

五月三日 木 晴
竹本、木次の両名を解雇する事となった。誠にお気の毒なる事である。何等の失策もないものを、馘首とは余りにひど過ぎる。失業は正に死活の問題である。

五月四日 金 晴
最近は毎日失業問題を考える。之を救済するの名案がない。困ったものである。名案があっても、之を実行しない今に於いて、対策を講ずるに非ざれば、日本にも革命を観るの惨事が生ずるであろう。日本を失業から救済する為に、更に考え祈ろう。

五月五日 土 晴
歯科医に往って歯の治療を受けた。歯も大切にすれば終生役に立つ。放任して置けば二三年にして、歯が歯の使命を全うし得れなくなる。今保護するは自分の義務である。金のあるなしに係わらず治療を受けよう。

五月六日 日 晴
馬太伝五章の幸福に就いて、一週前の日曜礼拝の続きを述べた。佐藤兄の宅を訪問して、昼と夜と二食を御馳走になった。夜の集会には、神になし能わざる所なしと題して話した。今朝の礼拝には、イエス団で奉仕をしたいとて、一人の婦人が出席した。矢張り篤志家があるものである。

五月七日 月 晴
議会は再停会までして、鈴木喜三郎内務大臣一人を犠牲にして、どうにか切り抜けた。政友会は実に卑劣極まるものであった。田中総理の死際の悪いのにも呆れるが、民政党の気力も抜けている。無産党も期待する程の事はなかった。今少し馬力があるかと思っていたものを、一番いまいましいのは明政である。野党らしくもあり与党らしくもあり、何れにも反対の様でもあり、実に不鮮明極まるものである。兎に角、五十五議会は終わった。普選第一回の議会も無意味に過ぎた。日本が支那出兵して一合戦開始している。日本は日本人の在支那人である故に、其の生命と財産とを保護する為めでると言う。何故であるにもせよ、貴き生命と財産とを失いつつあるは事実らしい。世界は依然として平和を知らない。
中井の愛ちゃんが、近江から帰って来た。

五月八日 火 雨
河川工事に働く労働者中百二十名を馘首する事になった。日慵労働者程、気の毒な生活者はない。自分はかかる人達の為に使命を負う可きであろう。

五月九日 水 曇
最近の集会は少しく減員した。然しそれだけ落ち着いた集会が出来る。今晩の祈祷会に於いて、佐藤君の祈りが特に耳に残った。貧乏も病気も失敗も、困難も苦痛も一切が之皆最善であると、彼は善き信仰を恵まれている。イエス団には本当の信者が絶えない。感謝である。杉山兄が東京より帰っての報告に、本所の教会には、宗教がなくなって主義者の集会と化していて、従来禁酒禁煙の青年が、今では皆飲酒吸煙家となって、キリストを信ずるの信仰は失せていると、何という情けない事であろう。第三師団に動員令が降下になった。その出兵数一万五千名で、経費一千百万円であると、遂に真の戦争に化しつつある様である。支那人の日本人に対する国際観念は、日々増して悪化していると新聞は報道している。日支の衝突と日本が出兵したからで、行かなければ事件は起こらなかったのと違うか。又済南の在留邦人をして、青島にでも避難せしめることも、あながち不可能でもなかったかの如く思惟される。
日支平和のために祈る。

五月十日 木 曇
共済に関して半日研究した。現在の貧を救う為には、先ず第一に、相愛協力の精神のもとに共済するのでなくてはならぬ。将来は、共済しない国民は滅亡あるのみであろう。互いに相愛する国のみが栄ゆるのである。其の点に於いて、我が国民は一大奮発しなければならぬ。戦争には強いが、内側に於いて助け合いが出来ない様では、不安で仕方がない。

五月十一日 金 雨
纏まった仕事は何も出来なかった。佐藤兄が今日から東部詰めの勤務となった。父が大阪より訪問に来て呉れた。妻の健康を気遣ってである。雨天に拘らず御苦労様である。親ならでは出来ない親切である。

五月十二日 土 晴
晴暇を一日貰って、春季清潔法に依る大掃除をした。掃除は汚い仕事であるが、片付いた後は、何とも言えぬ好い心地がする。矢張り人間は、清潔に住むべき者である。父は大阪に帰った。愛ちゃんは明朝、朝鮮に向かって出発する予定である。之で我が家の客も当分の間はなくなる。又静かに読書をするであろう。日支の衝突も、日本が済南を占領したので、在留邦人二千名の保護が出来ると新聞は報じている。これで多分落ち着くのであろう。之以上には問題は起こるまい。

五月十三日 日 雨後晴
昨日から急激に暑くなった。真夏の様である。礼拝説教に賀川先生出席せられ、ピリピ書の精神と題して述べられ、有益なる集会であった。夜は、天の父の如く全たかれと述べたが、思う様に語り得ず、不快で堪らなかった。

五月十四日 月 晴
歯の治療も今日で終わった。金の無い中から尚拾円余りを消費した。人に完全と奨励して、自らも又完全になるの大責任を強く感ずる。自分の欠点を補い、少しでも父の御用に役に立つものとならなければ、父に対して相済まない。米国の徳さんから送金があった。感謝である。

五月十五日 火 晴
大事業を為すの才能なきを思い、国に対しても相済まなく思われて仕方がない。人生僅かに五十年でお終いなら、自分の如き何事もなすの間もない程、先が近くなっている様に思われる。唯、最善を尽くして進もう。

五月十六日 水 晴
平川兄の来訪ありたり。ルカ十章の終わりを説明して、なくて叫ぶまじきものは唯一つであって、我には凡てに於いて、選択と判断との必要を述べた。

五月十七日 木 晴
京津方面は益々危険になりつつありと、従って我が軍隊を更に警備に当らしむ可く、各国も之を希望し、我が政府も其の計画らしい。茲数日の中には、又又一二ヶ師団を派遣するに至るかも知れない。大阪砲兵工廠は、旋盤工五百名を募集しているが、応募者僅かに九名には驚いた。技術工には、余り失業者のないものだと言う事がよく解った。

五月十八日 金 晴
将来に於いて、大思想を実現すべく大望心を抱かなくてはならぬ事を、三十七歳にしてしみじみと感ずる。今十年前に、此の事に気がついていたら。

五月十九日 土 晴
今日も無頼漢に五十銭借された。勿論返しては呉れない。困った人間のあることよ。歴史を読みつつ、地球儀を回して世界を知るは、楽しい事である。此の書を読んで、欧州を初めて知ったのである。

五月二十日 日 晴
朝夕二回説教した。集会者に変わりはない。三十名位である。自分に取っては年中無休である。紹介所の休日は日曜日の他はなく、否日曜日にさえ出勤する事もしましばであるのに、タマの休日は二回の説教が仕事になっている。故に本当に体の休まる日がない。働きと思えば休みが欲しいが、楽しみと思えば、働く事が既に慰安である。

五月二十一日 月 晴
内相は望月逓相が、逓相には久原氏が、それぞれ役割が内定した様である。田中内閣に大きなひびが入りつつある。野党の倒閣運動を待つ迄もなく、自滅に走りつつある様である。

五月二十二日 火 晴
久し振りで青年会で活動写真を観に往った。妻と杉田君同伴で、写真は天国の人と言うのであった。日本の作としては最も優秀なものであろう。映画が人を引き付ける筈である。中々甘いものだ。人をして料金まで支払わせて、多くの引き付くるからには、何処かに善いものがある訳である。自分等の神の国運動に考え合わせて、今更ながら自分の不甲斐なさに情けなくなった。大いに奮発しなければ相済むまい(入場券は組合で頂いたもの)。

五月二十三日 水 晴
ルカ伝十一章を述べて祈祷会に入った。眠気たっぷりの祈り会で不快であった。

五月二十四日 木 晴
世界歴史十六巻を読んだ。自分如き無学者にも、欧州の事情、各国民性等が少し解った。身は神戸に在っても、嘗て観ない欧州迄が目に見える様である。

五月二十五日 金 晴
健康、信用、保険に関する協議会を林田職業紹介所で開催した。かかる保険制度を、一紹介所の力で施行する等実に困難なことである。宜しく国家が其の任に当たる可き性質のものである。

五月二十六日 土 晴(一時小雨)
父の訪問があり一泊した。何だか少しく疲労した。読書が過ぎるのかも知れない。

五月二十七日 日 晴朝雨
ピリピ書2章を講義して礼拝説教に替え、夜はローマ書十章を述べて、いちごを一同が食して散じた。

五月二十八日 月 晴
首相攻撃甚だしい。内閣始まって以来、田中総理程評判の悪い人は嘗てなかったであろう。日本に善き偉大なる政治家は居ないものであるか。

五月二十九日 火 晴
井上増吉兄が、愈々ニューヨークを六月八日出発して、ロンドンに向かうとの通信があった。渡米の際には、借金してやっと旅費を調達し得た氏が、渡米後講演に次ぐ講演で、其の謝礼に依って負債を返済して、其の上養父の生活費を送金し、更に欧州を視察して帰朝する程の旅費を整えしめる。米国は矢張り、金の多く沸いてる国と思われる。然し、彼に多くの援助を与えた最も大きな原因は、賀川豊彦の弟子であり、賀川豊彦先生の有名になった新川部落より生まれ出て、又先生と共に其の事業の同労者であったとの理由で、彼を助けた徳憲義氏の功であろう。何にしても、賀川豊彦の名は大いなるものである。

五月三十日 水 晴
馬太伝十章の初めを説いて祈祷会を営んだ。河川工事で又解雇することになった。残るは僅か百二十名である。
苺を一同食って別れた。

五月三十一日 木 晴
早稲田出版の世界全央十七巻を全部通読した。エンサイクロペディアを読んで、難解の多いのが、自分の無学であると言うことを、一層はっきりと自覚せしめて呉れる。

六月一日 金 雨
支那出兵も一先ず落ち着くらしい。武器を持っての平和の保障は危険であり不安であって信用が出来ない。軍備ある国に住むは爆弾とともに在るが如く、軍備なき処に住むは猛獣とともに居るが如きものであろう。

六月二日 土 曇
黒田四郎牧師が灘教会を去って、賀川先生を応援することになった。海員組合員側の主張する、最低賃金の制定要求は何うなるものか、実に興味ある問題である。資本家等よ、日本の為にその要求を入れよ。

六月三日 日 曇
コリント後書五章、キリストの愛我等に迫れりとの記事に関して述べた。夜は、賀川先生の神は愛であるとキリストが教えたと言う小説教があった。先生の説教としては詰まらなかった。黒田四郎牧師が朝夕二回とも出席した。今後は出来る限り神戸に来て働くとの事であった。

六月四日 月 曇
張作霖氏、奉天入城の際、何者かが鉄道に爆弾の装置をなし、氏の列車を爆破した。幸いにして氏は負傷のみで、生命は助かっているらしい。支那人のする事は訳が解らないが、張氏も奉天でやられるとは、全く意外であったであろう。

六月五日 火 曇
会員組合員側の要求は、可及的互譲に努めたるも遂に決裂となった。之で各港に停泊中の汽船は、パッタリ止まる事となる。日本の労働運動も次第に大仕掛けとなる。日本の社会改造も容易でなかろうが、根本的改造案を立てなければ、将来不安に堪えない問題が数多く積もっている。日本の救いに就いて、終日大きな夢を見ていた。昨日まで田中首相に関する記事に賑わっていた新聞も、今日は張作霖の爆撃と海員組合の問題とに代わっている。田中の攻撃の要がなくなったからではなくて、首相に関する問題は国民がいやになっているからである。

六月六日 水 曇
神の国の実現に就いての所感を述べた。海員組合の労働争議、最低賃金制定は多分労働者が勝利となるであろう。普通の場合は、資本家の勝利となっているが、今度ばかりは労働者が勝つ様に思われる。

六月七日  木 曇
張作霖は死亡したりとの噂もあったが、事実は生きているらしくあるが、彼の生死に係わらず在留邦人の保護の為めには、更に日本は出兵するに至るであろう。海員組合の件では、労働者の結束を疑っていたが、其の反対に資本家側の結束が敗れて、既に組合の要求を入れて解決つけるものがままあらわれている。殊に川崎汽船では、五日に増俸の辞令を出したから面白い。今日は宇都宮の一行が南米ブラジルに到着したであろう。宇都宮の身上に、若し万一、病死する様な事があったら何うなるかと思えば心配であるが、信仰に依って、父に凡てを委ね奉って心を安んずる。

六月八日 金 晴
田中首相は、宇都宮に開催の政友会支部大会に出席の為め上野駅に出て、岡村新吾と言う青年兇漢に襲われたが、警戒厳重にして巡査が負傷したのみで、首相には何等の危害も加え得なかった。支那では張作霖の爆破があり、日本では総理に此の珍事があった。殺害計画を計画するものの非なるは勿論であるが、被害者たらんとした者も大いに要がある様に思われる。

六月九日 土 晴
海員組合の最低賃金制は遂に勝利であった。要求全部を入れられたのではないが、兎に角大部分は入れられたのである。
表面は労使双方の互譲に依り、日本に嘗て見ない労働問題を解決つけたと言われているが、事実は労働者の勝ちであった。斯く解決のついた事は、日本の為に誠に慶賀に堪えない。

六月十日 日 晴
礼拝説教は、黒田牧師が天上の誠実と題する説教があり、夜は堀井と自分が述べ、自分はキリストに依る自由と題して語った。

六月十一日 月 晴
天気予報は、毎日雨模様、若しくは小雨と報じているが、其の実雨は降らないで、青天白日と真夏の如く暑さを増やした。エンサクロペディアの社会学を読んだ。

六月十二日 火 晴
日本にも救貧法が来議会に提出されることとなるらしい。貧民にとっては結構なことである。乞食はせずとも喰わして貰える時代が来る。見方に依っては、結構でなくて堕落である。但し新川は大いに助かる。

六月十三日 水 雨
久し振りに大雨が降った。地の表面が洗濯された。屋根も道路も溝も野も畑も木も草も凡てが美しくなった。皆が大変な満足である様に見える。祈祷会に出席して、新川の為の有益なる事業のなる為に考え祈った。長尾兄のお父さんが去る六日永眠された。花料を集めた。寄った金は三円であった。

六月十四日 木 曇小雨
久邇宮殿下が、台湾で不逞鮮人に襲われたが御無事であったとの号外が出た。
田中首相を殺害せんとした狂漢が現れて驚かしたが、またぞろと誰しも意外にあきれているだろう。物騒千万の世である。赤井氏(仮名)が、酒を呑みつつ、熱を挙げて人を攻撃するやら、自慢するやらで、午前一時迄眠らせなかった。非常識な男である。

六月十五日 金 曇
愈々梅雨らしい気候になって終った。一ヶ月計りは此の状態が継続するであろう。特に健康に注意すべきである。田中首相は、自分を殺害せんとした岡村真吉に対して、その家族の貧困なるに同情を寄し、金壱千円也を贈呈したと言う。キリストの言う、汝の敵を愛せよとの教訓の如く、実に善い処を出した。彼の為す事は、万事が味噌であると我も人も噂していたが、此の一点ばかりは大出来である。

六月十六日 土 晴
長船のおばからの便りに、横山加代様の中風の由を通知してあった。もう八十を超ゆる老人である。自分の家族の者を除けば、彼の人程僕を愛して呉れた者はない。勿論、幼少の頃ではあるが、人に愛せられた記憶は、実に嬉しいものである。横山さん程、家族の者の為に犠牲になって、苦労する人は余り沢山はないであろう。然し実に神の如き心を持たなくては出来ない愛の奉仕であった。神を知らざる神の人である。

六月十七日 日 晴
貧民救済法に就いて述べた。夜は賀川先生の説教で、キリスト者の真実と題してエペソ六章の説明があった。集まれる者は約四十名であった。

六月十八日 月 晴
酒癖の悪い井坂氏(仮名)に対して、東部での居住を断った。彼も酒さえ飲まなければ善い男で、仕事には充分役に立つものを思えば、余計なことを覚えて苦労している。河田氏と朝鮮人金さんとが職業上の問題から来訪された。

六月十九日 火 曇
徳氏から六十七円七銭の献金があった。之に依って、経済的にどれ程助けられているか知れない。

六月二十日 水 雨
久し振りで頭痛がする。何が原因であるか解らないが、別に熱もなく風邪引きでもないようだし、二日間通じのなかった為であるか。静かなる祈祷会であった。

六月二十一日 木 小雨
大工仕事が終日の労働であった。折角の休日をウンと働いた。然し骨の折り甲斐がある。家が広くなって湯に入るには便利になった。これ程便利になるものを、何故もっと早くから工事しなかったかと、自分でも不思議に思える。赤ん坊を湯に入れる為の準備であった。水野脩吉師から、井上のお父さんの養料として、金拾円也送付して来た。

六月二十二日 金 晴
赤坂離宮に怪漢が侵入したとの号外が出た。次から次へと変わり者が現れる。時候の故であるか、思想の故であるか、何れにしても珍しい現象である。トルストイの我等何を為す可きかを読んで昔に若返り、大いに反省し、考えさせられた。彼は真面目であった。真の人であった。

六月二十三日 土 晴
梅雨がすっかり晴れたかの感があるが、未だ梅雨のあく訳はない。賞与金が出た。月俸一カ月分、金八十五円也であった。神戸市の昭和三年度の予算が立ち難く、遂に給料を減じたと聞いていて、少ないのは皆承知しているであろう。

六月二十四日 日 雨
黒田牧師の説教がある。夕は、賀川先生の説教があった。今日も大工仕事をした。家の内が整理された。凡ゆるものが整理されなければならぬ。人の心から、家庭に社会に、皆整理されなければならぬ。

六月二十五日 月 晴一時小雨
堀井氏の訪問があって、十時まで色々と思い出話を交わした。氏は数日中に北条に向かって出発し、夏季休暇の間、農村伝道を試むる事になった。彼は真面目な青年であるが、矢張り若いだけに迷っている。

六月二十六日 火 雨
今年の梅雨は、雨量が余り多過ぎる様に思われる。くちなしの花が白く美しく咲いて、特に高い善い香りを放っている。
草の花も沢山咲いた。トマトも五つ六つ果になりかけた。ダリヤが延びすぎでもう六尺を超えた。何処のダリヤでも、六尺もある丈の高いものを見た事がない。花になるか何うか解らないが、松の樹と競争で丈比べをやるつもりらしい。スミレやイチゴは、下の方で小さくなって、如何にも失意のどん底にあるが如くであった。

六月二十七日 水 雨
世と人類の救いの為に、繰り返し繰り返し祈る。世の堕落が繰り返す限り、人の罪が絶えぬ限り、我が祈りは止まないと所感を述べた。広木氏の父上が永眠された。

六月二十八日 木 雨
西部の労働紹介所の新築案に就いて、社会課へ打合せに往った。或いは好都合に運ぶかも知れない。広木氏の葬式に往った。

六月二十九日 金 雨
世界思想全集のトルストイを読んで、大いに確信を与えられた。彼は矢張り偉人である。彼程真摯になりたいものである。

六月三十日 土 雨曇
少し頭痛する。どうした訳か知れなかったが、静かに眠れば、薬一服も無用である。三十分計り眠ってよくなった。眠りは唯一の医者である。丁度半年経過した。大きな間違いもなく神の御恵みの内に護られた六ヶ月を感謝す。去年程は読書も進まなかったが、読書の為に最大努力をしたことだけは相違がない。天の父の子として、もっと役に立ちたい計りに、一生懸命になって本ばかり読むが、これがどうぞ間違いのないように、目的に叶うことの出来るように。

     *      *      *      *

 2009年の「オフィシャルサイト」掲載の時は、句読点も段落もない原文にいくらか読みやすくするために少し工夫をしてみたが、今回の連載では原文に戻してみた。やはり原文のままのの方が、良いように思える。
      
    (2009年9月9日鳥飼記す。2014年3月7日補記)





賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(50)

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 お宝発見「武内勝日記A」(3) 昭和2年8月~昭和4年6月

 ここまで昭和2年を2回に分けてお届けし、今回からは昭和3年分を4回に分け、お目通し頂く。

 今回の写真は、昭和2年に開始された「日本農民福音学校」第1回の写真である。武内日記に触れられているように、武内も賀川豊彦や杉山元治郎らとともに講義を担って「職業紹介事業」を講じているようである。


福音学校第3回写真


            *      *      *      *


             昭和三年一月~3月

一月一日 日 晴
エペソ四章を読む。明治・大正・昭和と時代の進むに従って、日本は嘗て経験しなかった事を、体験しつつある。明治維新は、古きを去って大いに新しくなる為に、大正は権利の平等を中心に、それぞれ大いなる貢献をした。そうして昭和の年に於いては、心を新しくして、良心に目覚め、神の国運動の盛んにならん事である。夜は、新春にあたり各自の希望、所感を述べて、感謝の中に閉会した。今日、中川、山内、山根、川合の訪問客があった。

一月二日 月 小雨後晴
イエス団の青年男女二十一名が、六甲登山を決行した。山の中腹以上は降雪に及び、樹木に雪が積もり、白花の咲き埖へるが如き観あり。美しくって美しくって例え様がなく、人間の眼球に斯くも美しく映ずることの不思議と、自然の美とを合わせて考えつつ、神の御手の業の巧妙に感じつつ、頂上の峰を東へ東へと進み、茶店にて昼食を済まし、ゴルフ場付近に至り、氷池の上を滑り、又芝山をソリに依って滑るなど、二時間ばかり喜戯夢中にして時間の経過するを覚えず、三時十分前に下山し、我が家に帰りしは六時なりき。

一月三日 火 晴
イエス団の青年が集まり、夜十時迄、偕に小児の如くなりて遊び、笑って笑って笑い労れて、今日の一日は終わった。

一月四日 水 晴
年中無休の紹介所も、正月三が日ばかりは休日なるも、今日より又出勤である。僕には休日らしい休日は、年中一日もない。日曜日の休みは教会に出勤し、正月の休みや祭日の休みには、青年達の遊び友達となり、本当の休日なるものは結局一日もない訳である。

一月五日 木 晴
今日も一日働いた。土木課の不正なる行為にも驚く。本当に正しい道を歩む者はあまりないものだ。義人一人もないと、パーロの言葉を今更の如く思い出す。夜、松山君の訪問あり。クリスマス会計の計算をした。

一月六日 金 晴
第二号線に於いては、賃金支払伝票の乱発をやって、労働者に無茶苦茶に支払った。其の上、数名の者が労働者を食い物にしての不正行為があるが、自分の正しい態度に恐れて乱発を廃止したが、収入が無くなったからと高木の如く乱暴するには呆れて終う。

一月七日 土 晴
第二号線の解決がつかない。然し、不正は不正として取り扱い、既に欺かれて支払いたる分に対しては、伝票発行者及びその主任者が弁償するのほか道があるまい。責任者の市河氏には同情するが、不正を承認する訳には行かない。自分が此の問題を公にすることを、土木課員は勿論の事、労働者迄が自分を憎んでいる様である。正しき事の為には、人に憎まるるも止むを得ない。

一月八日 日 晴
市河氏は遂に弁償した。三百五十九円六十銭の現金を出した。賀川先生、杉山元治郎先生、其の他宣教師、中学校教師等の出席者があって、説教は杉山氏が担当せられ、賀川先生は選挙準備及び之が実行方法に関して意見を述べられた。

一月九日 月 雨
去る六日、神戸又新日報に、猫の目と称する者より、失業救済事業に関し、奇怪なる噂と題する投書があり、之の弁明書を自分が草稿することになった。
又去年十二月以来の、伝票に就ける正しからざる点の報告書をも提出せなければならなくなった。書くには幾等でも書くが、自分としては書く事は不得手であって、斯かる事件位に筆取ること苦しい様では仕方がない。今より大いに勉強して、ペンを取る事に不自由なき様にしたいものである。

一月十日 火 雨
昨夕も午後九時迄、本日も午後九時迄居残った。働いても働いても、人が増しても自分の仕事は依然としてつかえている。人に代わって貰う事の出来ない仕事がある。自分の生存している理由もここにあるか。

一月十一日 水 晴
今晩の祈祷会で祈らなかった者は唯一人だけであった。本当の祈り会のように感じた。十二年血の道を病みし娘の癒されし記事を読み、信仰の単純と美とを説いた。平川、河田両氏の失業より救われん事と松本、佐藤両兄の健康に快復せん事を祈った。

一月十二日 木 晴
社会課長、土木課長、水谷書記の三名と自分とが、失業救済に纏わる重要事項に関して協議した。来年、失業救済事業を開始する時は、賃金の支払いには会計課直接に出張支払いをしたら、手数の重複がなく、我々も安心して紹介事業に従事出来る。然し、自分がやって面倒な事は、人がやっても矢張り同様であれば、責任回避をするよりも、勇ましく苦労を忍耐することとするか。アメリカより徳憲義兄は、金壱万円也を援助して呉れた。厚く感謝す。

一月十三日 金 晴
仕事ばかりに気をとられて、頭を空にする事を損失と思う。我が心に神あり。神を崇めて、聖旨を想うは、自分の最も楽しみとする処である。惜しい事に、忙殺されて疲労しきった。

一月十四日 土 晴
イザヤ書を読み、イザヤの偉大に、今更の如く教えられた。彼は、実に偉大なる者である。彼は、神を中心に世界を観ている。人類の堕落、貧者の苦痛、国の滅亡、一切神を信ぜぬからであるという。凡ての過ちを、神より離れし為であると教える。又神を信じて、本当に人も国も栄えるのであると。而して人の、神に心に服従せんことを主張す。何という偉大なことであろう。

一月十五日 日 晴
朝の礼拝説教に、イザヤ書に関する所感を述べた。夜は、新受洗者六名を歓迎し、尚久しぶりの懇親会を催す。ただし、会費金十銭也を各自支弁し、楽しき親睦を計って、九時三十分閉会した。日曜日の休業を廃し、出勤して十二月中の月報を作るために働いた。昨夜の雪で、山が白く見える。

一月十六日 月 晴
今日やっとの事で、十二月中の月報が出来た。米国在住の井上氏から書面が来た。帰朝は来年八月頃になるであろうと言い、古着を盛んに集めて日本に送る準備をしつつあると言う。井上氏は渡米してイエス団を助けて呉れた。

一月十七日 火 曇
余り多忙すぎて、考えるの暇も、手紙を書く時もない。不思議に書く事もない。

一月十八日 水 雨
祈祷会 教会に於いて友と共に考え、又語り祈る事は、何としも幸いな事である。他の場合、何処に於ける会合よりも、矢張り神聖であり真面目であり得る。

一月十九日 木 曇
仕事に追い回されてヘトヘトに労れ、読書の出来ないのが残念だ。春先から夏にかけてウンと読むとしよう。出来ない時に無理にやる必要もなかろう。

一月二十日 金 晴
高山君(仮名)が初めて恋の物語をした。失恋とまでは行かずとも成功覚束ない。気の毒である。然し相手の娘とは既に自由に、本人同士は結婚の約束までしていると言う。親が反対で承知しないという事だが、何とか甘く解決を与えなければ、彼は仕事も手につかないと語った。然も涙ながらの告白であった。

一月二十一日 土 晴
明治太平記を読むは楽しみである。物を知る事に依って我は育つのである。狭い国の事柄も、歴史を通してよく解って来ると、深い様である。知識を得る毎に、狭い処が広くなり、浅い処も深くなる。

一月二十二日 日 晴
礼拝説教 レプタ二枚信仰と題して述べ、夜は、イエスに一切を棄て、服従したる者は、此の世に於いても百倍を受く、と述べしも、思う様に語り得ずして不快であった。集会後、平川氏の送別会を催した。七日前には歓迎し、今日は送別す。人生一寸先は闇とは間違いない。
昼、五人の青年の訪問を受けた。

一月二十三日 月 雨
平井光雄氏、朝鮮より来り我が家の客となる。お互い健康にして相会せるは喜ばしい。議会解散後、第一回の普選なりと社会は緊張している。今度の選挙で一番興味のあるのは無産党である。都会では割合に人気があるが、地方に於いては何うだか知れない。折角幸運に成功するとも三十を超えず、少なくとも十五名は出すであろう。

一月二十四日 火 晴
日本に理想政治が施行されるか否かは、此の選挙にある。後日悔いを残さぬ様に、国民は大いに覚醒し、嘗て行なわれし如く、情実関係、買収等の不正手段に依らず、大いに正々堂々と真の理想選挙を行なうべし。

一月二十五日 水 晴
午前六時三十分、杉山君の訪問あり。徳広兄の奥さんの永眠を報知せられた。誠にお気の毒に堪えない。病床にあられた事はよく承知していたものの、見舞いにも行かないで申し訳ない事をした。兄の為に祈る。夜、納棺式に出席した。兄を初め遺族の方々に気の毒で涙が流れて止まらなかった。

一月二十六日 木 晴
徳広氏の葬式に参加し、イエス団を代表して弔辞を述べた。思う様に述べ得なかった。

一月二十七日 金 雨
神戸消費組合の総代会に出席した。昭和三年度の利益金六千円を超過した。これで神戸消費組合の基礎も確実となった。組合員も毎年百名内外の加入者がある。従業員全体に感謝す。此の組合が、英国のそれの如く著しい発展を遂げ、社会改造の一助とならんことを。

一月二十八日 土 曇
忙しいのみの一日であった。

一月二十九日 日 晴
汝等互いに相愛せよ、とのイエスの教訓を説明した。昼は眠って頭脳を休めた。夜の集会に於いては、イエスを知る事を以って凡てに勝るとの、パーロの書簡を説明した。太鼓を買うことにした。之を用いて伝道の一助とせんがためである。

一月三十日 月 晴
普選問題で新聞記事は満載である。講演会も毎夜である。此の選挙を通して、日本の政治が少しでも明るくなる様に、天の父に祈らざるを得ない。

一月三十一日 火 
遠来の客・平井光雄氏が今朝我が家を去られた。彼の健康と向上との為に祈る。

二月一日 水 晴
祈祷会に出席して、岸部・堀井両兄から、死と復活に関する感話を聞いた。自分も又死に対する感話を述べた。今夕又、日本の救いのために祈った。

二月二日 木 晴
好晴、三四月頃の気候である。空を仰ぎ観て、見渡す限りが晴れ、太陽の熱熱くして、山のかすむは何と言う好き日であろう。何だか此の好き日を、祝い歌わざらざるを得なくさせられる。救世軍少将アンゾロフ司令官の歓迎演説会に出席し、有益なる話を聞いた。或女士官は、らい病人に奉仕する事九年にして、遂に我が身も感染するところとなり、医師の治療宣敷を得て、犯されし病も全快する見込みが立った時、士官は上官に問うた。私の健康が快復しても、矢張り此処に置いて、従前通りの働きをさして下さるかと。上官は答えて、折角癒された身であるから、又病気してはならない。故に転任させると、女士官は此の答えを聞いて言った。私は、健康回復して此の人に奉仕が出来なくなるのであれば、私は此の病気のままで置いて、現状通りの働きを継続させて下さいと。ああ此の女士官こそ、イエスの愛を実行しているのである。誉むべきかな、女士官。偉大なるかな、イエスの愛。

二月三日 金 好晴
聖書之研究一月号、ボーイズ・ビー・アンビシッャスを読んで、大いに教えられた。自分は既に壮年である。然し大望心を以って、将来善き奉仕をしたいのである。

二月四日 土 晴
自分の如き者でも、天の父は何時大命降下あって、主の業を行なう大いなる者として、用いられるかも知れない。ぼんやりしていては相済まぬ。何時でも御用に立ち得るだけの準備をして置かねばならぬ。一日のいと小さき仕事も又、其の心掛けで大事と同様忠実に真剣に、働かなくてはならぬとつくづく感じた。

二月五日 日 晴
テサロニケ前書の説明をして、礼拝説教に替え、夜は、ヨハネ第一書の、神の子の顕るるは、悪魔の仕業を壊たんが為なり、の聖句を講義した。

二月六日 月 雨
杉田、広木、杉山の諸氏の訪問があった。来客のあるは止むを得ないが、読書の出来ないのは残念である。然し、独り読書する以上に、来客の為となれば是も善事をなしたので、悔いるには及ばない。

二月七日 火 晴
日本物語全史の第二回配本を読んだ。日本に住んで居て日本を知らなかったが、第一第二巻を読んで少しは解った。矢張り書物は読まなくてはならぬ。

二月八日 水 晴
岸部兄が、再び主の再臨説を述べ、堀井兄、主の救いに関して所感を語り、自分は、岸部兄の説に自分の信仰を語って祈った。特に選挙に就いて祈った。

二月九日 木 晴
仕事が日に片付いて捗るのが愉快である。数日間は読書も割りに進む。感謝である。

二月十日 金 曇
自分の如き者が、神と人との為に奉仕するの士気を抱くは、全く不思議で仕方がない。無知であり無学であり、無力で裸である。何が自分に出来るか、将来を考えても不安である。然るに何物の故であるか、大いにやれやれと、絶えず我中心にささやくものがある。これキリストの愛の励ましであろう。我は、我に絶望して、キリストに服従しよう。

二月十一日 土 雪
大雪である。新聞は三センチも積もった書いている。今より二十二年前、丁度二月十一日に大雪が降った。それ以来、今日程の積雪を見る事がなかった。二十二年前、窪田の工場に通勤していた時、下駄の緒が切れてハダシで歩いた事を追想した。高山君(仮名)の恋愛問題で、近江の大溝迄旅行したが、先方不在で要領を得ず帰神した。高山君(仮名)の結婚問題は、困難中の困難である。

二月十二日 日 曇
昨日の降雪が未だ消えない。山の美は特別である。一銭も要せざるに、一夜にして山全部を真っ白に、花化粧し給うた神の御手は大きい。キリストの愛に就いて説き、礼拝説教とした。夜は、魂の改造と題して述べた。

二月十三日 月 雨
聖書之研究は、何と言っても信仰の深き真理を教える。日本になくてはならぬ最善の誌である。自分がこれに依って教えられた点は、実に大きいものである。先生の此の世に存在せられし間に、一度は謝礼に往かなければ済まない。実に恩人である。

二月十四日 火 曇
選挙の競争で、労働者は余程仕事が増えた。ポスターを貼り付けして廻るだけでも、実に多数の人夫を要する。印刷所に紙屋は大繁盛である。然しビラの貼り方は無茶苦茶で、都市の美観は大いに損している。

二月十五日 水 晴
米国では、一ヵ年に七億五十万ドルの菓子を喰い、二十五億二千五百万ドルの白粉を使用すると言う。物資には不足はない。天然の産物を粗末に乱用し過ぎるのだ。祈祷会に出席した。何だか気抜けのした集会であった。但し之は、自分に何等の準備もなかったからであって、人が悪いのではない。通俗世界全史を読んだ(十四巻)。知る事は矢張り愉快なことである。書のよく読める時、心の中に満足がある。

二月十六日 木 晴
少年の職業指導に就いて、色々と学んだ。少年に適当なる職業に就かしめて成人したる後、アンコウの如き労働者となる者の、日本に一人もなくなることを切に祈る。一定の職なき不塾者が仕事ないかとて迷っている。技能あるものさえ失業に機会が多いのに、無職者の業に就けざるは当然である。日雇者の多くは、仕事があるも働けない者ばかりだ。

二月十七日 金 晴
ペスタローチの教育を読んで有益なる事を学んだ。若し自分に子供が与えられるなら、彼の説に従って教育したいものである。

二月十八日 土 晴
選挙演説場は、官憲が出張監視して、あらん限りの圧迫を加え、干渉甚だしき為、却って無警察の状態にある。警察の不在が却って安全の如くである。

二月十九日 日 晴
種蒔きの例の説明を以って、礼拝説教に替えた。昼は一日家にあって、庭に雛を作る事と湯場の片づけで忙しい程であった。詩の百三編を述べた。寒い日であった。政友勝つか民政勝つか、無産党何名出るか、昨今の日本の問題はこれで持ちっきりである。

二月二十日 月 晴
生まれて最初の衆議院選挙投票に往った。河上丈太郎氏に一票を投じて置いた。之が日本に於ける第一回の普選であって、自分の又第一回の選挙権行使である。

二月二十一日 火 晴
今日は開票日であって、誰が勝って誰が負けるかが、日本の大問題となっている。神戸に於いては、野田、砂田、藤原、河上、中井の順で当選した。河上氏は評判程の数は勝ち得なかった。然し最初の出陣であれば、大成功である。

二月二十二日 水 晴
杉山、吉田、加藤の諸氏が落選した。残念なことをした。次の選挙まで待つほかはない。政府は、無産党は五名だと予想していたが既に六名になっている。

二月二十三日 木 晴
無産党、遂には八名となった。然し自分の期待の半数である。この理由は、一つは各無産党間に協定が甘く出来なかったことである。又一つは、善き人物がなかった点であろう。今一つは、無産者が目覚めていないからである。以上の理由が最大なるもので、其の次が官憲の圧迫及び干渉であったであろう。

二月二十四日 金 晴
政友二百十九名、民政二百十七名、無産八名、革新に実同各四名、十八名中立である。政府当局者の期待は裏切られた。ロスアンゼルスから四十三円六十銭の援助金送付があった。有難く頂戴する。好意を感謝する。

二月二十五日 土 晴
思想全集第四十九巻を読了した。又もう一度繰り返して読みたい。次は、種の起源を読むであろう。一冊を読むに一週間を要する。何でも去年の読書以上に読みたいものである。

二月二十六日 日 晴
善き好晴である。凡ての物が、皆天を仰いで歌っている様な感じがする。全く春になった。朝は、神の子の自覚と題してヨハネ十章を読んで説教した。夜は、賀川先生久しぶりで説教せられた。二時間午睡して一週間の疲労を癒した。

二月二十七日 月 晴
山はかすみ、海は静か。空は晴、鳥歌う、全く春になって終った。自分の将来を夢見て、一大伝道せなければならぬと、心密かに決するものがある。然し、今三四年は、落ち着いて現在の仕事と読書とを続けて行くであろう。

二月二十八日 火 晴
蝶や蜂が存在することに依って、植物の花が美しくなったと言う。奇妙なことであろう。花を以って地球を装飾することの出来るのは、全く蝶や蜂のお陰であるとは、ああ此の世に、意味なくして存在するものは一つもないであろう。

二月二十九日 水 雨
祈祷会に出席しなくてならぬものは、神必ず与え給うとの約束に就いて述べた。朝の多読がたたってか少し頭が重い。

三月一日 木 曇
不思議で不思議で仕方がない。凡てのものが皆不思議である。私の眼の玉に天が現る。山も野も皆現る。観えることが不思議である。私の耳に音が聞こえる。風の音が、汽笛の音が、工場の音が、人の声が、或いは高く、或いは低く、何という不思議であろう。私は物が言える。手が動く。足が自由に動く。何という不思議であろう。そう考えている、その事が不思議でならない。

三月二日 金 晴
政友は再び議会解散を辞せずと言う。民政は不信任案提出して、現内閣を倒してみせると言う。何うなる事か知れないが、日本の政治上の大問題となっている。

三月三日 土 晴
桃の節句である。雛人形一つもないが、甘酒一杯呑んで、之を祝いの印とした。誠に簡単極まる節句である。

三月四日 日 晴
神の聖旨を行なう事に関して述べた。今日より鶏七羽を我が家の家族として迎えた。鶏舎を建てるに終日費やした。お陰で生まれて初めての金網も編んで見た。夜、賀川先生の説教があり、十年後には大変化があり、その時はイエス団からも大人物が出ると予言した。自分も、労働者伝道に就いては大いに責任のある事を感ずる。

三月五日 月 小雨後晴
将来、大いに伝道すべしと心底静かにささやくものがある。何を為すも、神の栄光を顕さんが為ではあるが、特に伝道の使命の重且つ大なるを痛感す。

三月六日 火 晴
何年目かに、父が紹介所を訪れて来れた。父は当年六十四歳なるも、身体頗る強健にして、一切病気せず、少々不摂生するも、尚健康失わずと、又彼が灸治の道に熱心なるにも驚く。今は、紀州新宮に居住すると言い、尚又紀州に赴くとの事。当地に来る主たる目的は、自分の健康を気遣ったが為であると言う。ああ矢張り親なるかな、誰か自分の健康を心配して、神戸まで見舞うものだ。

三月七日 水 晴
祈祷会の出席者が二十二名もあった。神戸市内の教会で、祈祷会に二十名も出席する教会は、他には唯一箇所もあるまい。イエス団の祈り会は、神戸の為に祈る宮の様である。人もし渇かば我に来りて飲め、との主エスの言葉に就いて述べた。去年今日の夕方、西宮の賀川先生宅に於ける冬季農民学校へ、職業紹介に関する講座に出掛けた時に、大激震があった。奥丹の激震となったのである。満一ヵ年の記念日である。

三月八日 木 晴
ジャンジャク・ルソーのエミイルを読み、ルソーの教育に対する如何に注意深い、又理性に富める男であったかを、深く思わされる。久宮内内親王逝去さる。

三月九日 金 小雨後曇
宇都宮では、愈々南米行き決行との事である。兄と一家族の為に祈る。どうぞ彼を保護し又祝福し給えと。

三月十日 土 雨
失業者救済事業の従事人夫淘汰で、三百五十人馘首をつくることになっていたが、雨天の為に中止した。就業さす時は嬉しいが、解雇する時は辛い。気の毒である。失業と同時に飢えにせまる人達の事を考えると、誠に同情に堪えない。

三月十一日 日 晴
今日も又三度の説教をした。これに依って、神の聖旨が幾分でも伝わって居たら感謝である。

三月十二日 月 晴
失業救済事業使用の人夫三百五十名を愈々断った。気の毒であったが仕方がなかった。働くに職がなければ金が儲からず、金がなければ喰えず、喰わなければ餓死のほかはない。天の父はこの人達をどうして下さるかと心配でならぬ。
長船からおばが来た。おば上神は十年目位の久し振りである。当年六十歳と言えば、もう二度とは来神は出来まい。出来る限りの親切を尽くして置き度い。父とおばと二人が来客となったので、自分の何より好きな読書も皆目となった。

三月十三日 火 晴
自動車で阪神国道を経て大阪に往った。大阪逓信局へ神戸電話局供給人夫の件に就いての打合せの為であった。阪神国道を自動車で飛ばすだけで、随分愉快なものである。京橋労働紹介所へも立ち寄った。失業救済事業の様子を聞いたが、全く無意味な仕事をしている。何等の目的も理想もなくして、唯単に失業者が押しかけたから一時逃れの応急策をとったに過ぎない。今後、救済事業を行なう時は、是非とも申込者の失業または生計状態を本当に調査して、その上で真に失業の為に窮している人のみを就業させなければならぬ。

三月十四日 水 晴
頭痛の為、祈祷会欠席す。教会の集まりに参加せざるは、一ヵ年に一度か二度位である。それも不在の為か特に止むを得ざる事情あるときのみである。今晩の欠席もまた止むを得ない。

三月十五日 木 晴
毎日おばの話を聞くことが仕事である。自分の好きな読書は中止となった。然し、おばの物語を通じて、読書に依って得る以上に、何事かを得るのである。そうしてそれが無益でない。

三月十六日 金 晴
愈々春の気分が出て来た。もうすっかり陽光が変わった。太陽の暖かさを通して神の愛を味わい、草木の新芽を観ては新しい希望に輝き、小鳥の歌声を聞き又は蝶の舞うのを観ては、神を讃美することを覚えさしたいものである。人間の頑なな心も、春を通じて神の愛に帰って来る様にと祈らざるを得ない。

三月十七日 土 晴
おばを案内して、奈良に旅行した。天候がよかったのと、奈良が美しいのと、鹿の多いので、すっかり気に入り感謝に充ちた。此の老人を喜ばしめるために、最善を尽くそう。

三月十八日 日 晴
朝・夜、二回説教した。夜は、三十八名の出席であった。鶏舎の修繕をして全日を費やした。

三月十九日 月 晴
政友勝つか民政勝つか、二大政党の戦いばかりが新聞紙を賑わしている。どちらが天下を取るも差したる事はないであろう。我等の問題は、依然として良心であり神であり神の国である。此の世の者は此の世の事を、神のものは神の国の問題を問題とするが当然で、敢えて不思議ではないかも知れぬ。

三月二十日 火 晴
西宮の農民福音学校に往って、職業に関する事柄を話した。
人は誰でも職業を持たなければならぬ事、職業は社会より分担せられたる務めである。又其の職業は、個人個人に於いて得手と不得手とがあるから、得手の仕事を選ばなくてはならぬ。又人は自分単独で生活できないのであるから、職業を選ぶに当たっても、自分のみの利益を考えないで、世を益して人の為になる業を選択しなければならない。然して各自は、各自の職業を通して社会に貢献し得るのであるとの意を述べた。おばも父も、賀川先生を訪問して帰った。

三月二十一日 水 晴一時少し雨
高山兄(仮名)の恋愛問題で、近江の大溝まで兄と同行して、先方に出来る限りの交渉をしたが、娘を呉れるとは言わない。否、返って絶対に嫁にはやらぬと強く断られた。乗車九時間も中々疲れる。

三月二十二日 木 晴後曇
おばが帰国した。何十年目であったか知れないが、ブラブラと遊び半分の旅行をした。然し、健康を害しているので気の毒であるが、殆ど生涯を通じての犠牲の生活を続けたおばに対する報いには、未だ不足過ぎるけれども、おばは充分感謝している。ああ、おばは不幸な人だと思ったが、あれが本当の幸福なる人である。恵まれたる人である。貧乏と困難とを通して、父の御愛を悟り味わっている。

三月二十三日 金 晴
ロスアンゼルスの徳氏から、古着を十三箱送付したとの通知が来た。米国から日本に輸入する品は種々あるであろうが、古着を輸入したのは此の度が最初であろう。兎に角、御親切を謝さなくては済まぬ。集める世話から、荷造り・発送、中々の骨折りである。其の厚意と労とに対し大いに感謝する。かくして我々の奉仕を、遠く米国から我同胞が援助して呉れることにより、我等の精神は一層熱くなる。

三月二十四日 土 晴
愈々古着が到着した。何十人分かの人達を喜ばせ得る。若し金額にして相当な額に達するなら、子供の為に使用したいものである。

三月二十五日 日 曇
信仰に関して述べた。信ずる事は力であり生命である。信ぜは奇跡も行なわるる。荒野に水を湧かしめ、砂漠にマナを降らせ、大海にも大路を開かせ給う。主は葺合新川を、恵みに依って養う事は、易々たる事である。貧民が救われ、前科者が赦され、病人が医やされる事を信じよう。夜、賀川先生の説教があった。貪ることを止めない限り、社会問題は永遠に解決つかないとの意を述べられた。

三月二十六日 月 小雨
私は裸一貫で満足する。神の栄光を崇めさして頂く心を有つだけでも、大仕合せ者である。神の御愛を感ずるの感覚のあることが、私には有難くて仕方がない。例え今死ぬるとも、天然の業なる山と海とを知り、昼は太陽の光を、夜は月と星との輝きを、観せて貰っただけでも、私には大いなる感謝である。

三月二十七日 火 晴
宇都宮米一兄から南米ブラジルに行くと言う。私は兄に呈すべき言葉を知らない。

三月二十八日 水 晴
ローマ書十二章を説明して祈祷会を始めた。中村兄が大阪高等学校に十四番で入学した。イエス団は青年の団体である。将来主の為に、大いなる栄を顕すに足る者とならなければならない。

三月二十九日 木 晴
余りに多忙で、疲労しきって読書が出来なくなった。二三日静養するとよいと思うが、休日は得られない。休んで癒すのでなく、働いて働いて働き癒すのである。否、我のみが独り働くのではなくして、父が偕に在って働き給うが故に、我も又働くを得るのである。

三月三十日 金 曇小雨
失業救済事業に従事したる紹介所側の事務員と保険組合の係員一同が、平和楼に招待して、夕食の御馳走があった。其の席上で、木村社会課長は、武内君の度胸には敬服すると、又官庁より雇いに来たがやらなかった等と、豪い褒めて呉れた。自分は聞いて、独り不思議に思った。自分程、臆病な気の弱い者が、何うして人の目に強く見えるのかと。これは私ではないであろう。主エスが、我に勝って主が働き給うとき、当人の私は弱くとも、主に在って誰人よりも強くあるのであろう。

三月三十一日 土 晴
失業救済事業は、今日で愈々解散となった。西川工事のみは完了していないにも拘らず、工事中止とは如何にも奇異なことであるが、兎に角解散した。気の毒なのは労働者諸君である。彼等七百名の者は、明日から生活に苦しまなければならぬ。失業は実に彼等の死活問題である。彼等の為に祈る。

    *      *      *       *

 寸暇を用いて、この作業を継続する。この日録に武内勝の「個人性」「対人性」「社会性」の表白が見事に滲み出ている。では、次回へ。

    (2009年9月7日鳥飼記す。2014年3月6日補記)




賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(49)

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  お宝発見「武内勝日記A」(2) 昭和2年8月1日~昭和4年6月5日

 前回の続きである。賀川の筆跡も読み下す事は容易ではない。特に日記は他人に読まれることを予想せず、その日その日の日録で、作業は中々進まない。
 しかし、武内の言葉は生きており、その息遣いが伝わってくる。

 今回は、内容に関連する写真を、2枚入れておく。
 1枚は、武内勝が妻ユキ子(正しくは「雪」であるが、日記では「ユキ子」となっている。これは「賀川ハル」を豊彦が「春子」と記すのと同じである)と武内の故郷・岡山の長船を訪ねるくだりに関連して、「武内勝・雪夫妻の写真」。


武内夫妻


そして1枚は、イエス団恒例の「古着市」の写真である。(いずれも「賀川豊彦写真集」より)


古着市


では、早速「武内勝日記A」第2回目で、「昭和2年10月から12月末まで」の3か月分である。


    *      *      *      *


       第二回 昭和弐年十月~十二月

十月一日 土 晴
四貫島セツルメントの献堂式に出席して、イエス団を代表し祝辞を述べた。建築、設備合わせて壱万二千円を要したと言う会館は小さい木造だが、綺麗でカッチリしている。敷地が狭くて空き地のないのは残念である。イエス団は神戸で始まり東京に延び大阪に栄える。幹の本家本元が一番貧弱なものとなっている。然し、神戸イエス団から、最も美しい心と、敬虔で真面目な愛に富んでよく奉仕する青年を産むことは、不可能でもあるまい。立派な建物を神戸の地に建てずとも、人の心の中には建つであろう。それが失敗しても、自分の心中に建つだけは一番確実である。

十月二日 日 曇
愛に就いて語って礼拝説教をした。夜は、霊魂の自由自在と題して述べた。昼は全くの安息で眠って終った。何だか少し疲労を覚える。

十月三日 月 晴小雨
佐藤君を失業から救済する為に祈り求めた。遂に与えられた。保険組合の事務員になることが出来る。兄の為に感謝する。大久保君も日給一円八十銭で嘗ては東京で就業の経験のある仕事だとして大変喜んでいる。竹田のミッチンも食堂で働いて満足している。残るは河田兄である。何うしたら得られるか、兄のために更に祈り求めよう。
遊佐さんが煙草を吸う様になっている。現在事務室でそれを観たと中央所長は話した。尚続けて最近は酒をも飲むと聞いた。実際飲むらしいと誠に意外で不思議でならない。変われば変わるものである。嘗ては聖フランシスに共鳴して乞食に感心していた人が、フランシス程の禁欲が実行不可能であるとも、酒や煙草位の節制は容易に断行していたにも係わらず、何としたことであろう。煙草を吸ったからとて地獄に落つるとも思わないが、信仰のどこかにゆるみが出来ていることだけは間違いはないであろう。何だかなさけなく思われる。

十月四日 火 晴
上ヶ原浄水場に人夫供給打合せに往って、帰りを六甲山大師から甲陽園に下りて帰った。実に美しい山であった。何度往っても楽しい、登山の遊びは。

十月五日 水 曇
静かな祈祷会であった。井上君は日本に帰りたいとの手紙を寄越した。折角渡米して半年も経たざる今日、帰朝とは何事であるか。然しアメリカに往って見て、アメリカが詰まらない処で、アメリカが人間を偉くするところでない事を知ったら、それだけが一つの智であろう。それだけを学びに渡米したとすれば、そのために消費される時間と金とは勿体ない。余り高価でありすぎた。

十月六日 木 晴
第二回労働統計調査で、朝から晩まで会社工場を訪問した。今頃こんな調査をして、その統計に依って労働者の利益を計画すると政府が言う。統計なくして解りきっていることすら、然も貧乏人や労働者の為には何の調査を行なわずして、知れきっていることをすら実行しないお政府が、かかる面倒なる調査の結果を待たなくては実施の出来ない問題は、何時の事、実現するのだか知れたものでない。心細い次第である。

十月七日 金 晴
米国在留のある人から自分宛に送金したのが到着したから受け取りに来いと、住友銀行から通知があった。
岸部君が金の祈りをしていたのが与えられたのである。受くるより与うるの幸せは言わずもがな、無い時に恵まれるのも又幸せで感謝である。渡辺姉が永眠した。池田診療所に往って弔って、夢野で最後の告別をした。

十月八日 土 雨
雨にぬれつつ労働統計調査にかけ廻った。夕方の晴れた空は美しかった。一日の労はすっかり癒された。

十月九日 日 晴
馬太伝十七章の説明をした。聞いた者に何物を与えたかは解らぬが、自分が語って自分に教えた。善き朝であった。消費組合では馬可一章の講義をした。これ又自分に有益であった。組合の従業員達には解し難かったと思われた。夜の集いにはテサロニケ前五章を述べた。教会に十年を越えて出入りする山科と八敷との、おばあさんめあてに話したのであった。
これで今日は三度説教した。然も一回も準備していなかった。自分の無責任を恥ずかしく思う。

十月十日 月 晴
河田君と大久保君との職業を見付けたいと毎日心掛けてはいるが、矢張り見付からない。内田君(仮名)、中藤君(仮名)との二人は生理的に欠点を持つ病人である。気の毒でならない。

十月十一日 火 曇
労働者伝道の成功は如何にすべきかと色々と考える。貧民窟の救済は何うすれば善いか。貧しい人達のためにも、労働者の為にも、何の役にも立たないことを恥じる。十年前から準備していたら、今少し間に合ったものをと、繰り返しては我が身を責めて見る。

十月十二日 水 晴
藪下兄が神経衰弱であり、徳広姉が一ヵ年病床にあると聞いて、お気の毒に堪えなかった。徳憲義兄から四十二円三十三銭送金された。イエス団の青年は皆感謝した。静かな祈祷会であった。

十月十三日 木 晴
井上君のお父さんは血圧二百五十もあって、医師より絶対安静を命ぜられている。もう老年ではあるし、或いは長く保たないかも知れない。彼も悲観して言う。もう増さんの帰るまでは生きられない。ああわしが悪かった、余り酒を呑み過ぎたのであると、自分の非を悔いている。人間には良心がある。今良心に責められている。

十月十四日 金 晴
神戸市電気局の課長級の馘首から、市役所内の吏員淘汰をも合わせて行なうこととなった。殊に心配しているのは老級である。今日から又科学の書が読める。感謝である。

十月十五日 土 晴
市吏員淘汰八十名に及ぶと言う。自分も何時かは同じ運命に置かるるかと思えば何だかなさけなくなる。人に仕えるは善きことであるが、人に使わるるは名誉ではない。仕える事と使はるることの間には深い溝がある。今になってこのことがはっきり解った。自分も市に使わるるが儘に、何時までも甘んじてはならない。本当に人と社会に仕えるの途を講じなければならぬ。

十月十六日 日 晴
師に勝る業と題してヨハネ十四章の説明をした。市立職業紹介所の遠足で、約二十名の職員が仁川から甲山へ、甲山から甲陽園へと、天然の最も美しい山のフモトを廻った。夜は、化身論に就いて述べた。

十月十七日 月 晴
お隣の家族と同伴で、須磨の山へ茸狩に登った。持って帰ったのは、黄シメジとナメタケ三本とであった。然し、登山は何時試みても実に痛快である。特に秋の登山は愉快である。明治大帝を読んで、大帝の偉大を教えられた。その偉大なるは常に人の語る所であるが、今日程ハッキリ知ったのは生まれて初めてであった。学ばなくてはならぬ点を教えられた。

十月十八日 火 晴
市吏員淘汰、壱百五十名に及び、首の残って居る者も、余りの移動に驚いている。噂に噂を呼び、残留者迄が戦々恐々として居た。現代に於いては、失職程無産者として強圧されるものはない。今後は一時に多数の失業者を出さないために、老朽又は不品行なる者は、平常より目立たない様に解職され度いものである。市自ら失業者を出し、又市自ら之を救う可く、職業紹介所は活動する。川崎造船所の失業者を紹介する為に、市は大活動した。市吏員の就職の為には如何にするのであるか。

十月十九日 水 晴
毎日淘汰の噂が話題になる。職業紹介所からも三名の失業者を出した。其の中、木藤氏は殊に気の毒である。祈祷会に出席して、完全き者となる点に付いて所感を述べた。

十月二十日 木 晴
市吏員淘汰も一先ず整理がついたらしい。無理な淘汰をしたものである。本庁に於いて、九十二名の馘首は、余りに乱暴過ぎる。実際、馘首せなけらばならぬ程の老朽者や無能者が、それ程多数居ったものとすれば、九十二名もの多数に及ぶ迄もなく、必要に従って辞職せしむれば善いのである。七年も八年も勤続して居た者が、そう急に役に立たなくなる理由がないではないか。又間に合わないものを、何故今日迄淘汰せずして放任して置いたか。何う考えても正当なる馘首でなく、私情に依って整理したものが随分あるようである。

十月二十一日 金 晴
増俸金五円也、一年に五円、十年に五十円だ。五十円も増額しない内に、俺も老朽又は無能と呼ばるるのではないであろうか。オオ俺は死に至る迄、聖き心を以って、主の為めに凡てを献げよう。市役所など何時迄も頼りにする処でないであろう。時を知る事と準備する事とに特に注意を要する。

十月二十二日 土 晴
水野脩吉兄から、井上君のお父さんの見舞いにとて金五円送付があった。兄は実に感心な青年である。失業救済事業の打合せがあった。名称を変更して臨時土木事業としては如何と提出した。何うした事か、昨日今日少し疲労したらしくある。

十月二十三日 日 晴
ヨハネ伝十三章、イエスが弟子の足を洗ひ給ひし記事を、洗足の模範と題して述べた。夜は、吉田源治郎先生の接木せる者とのローマ書十一章の説明があった。

十月二十四日 月 晴
伝票整理が一日の仕事であった。神戸市吏員淘汰に対する非難が多い。事務能率を増進する為には、馘首して解雇手当を出すよりも、手当てを奨励金として、勤勉に忠実によく働き、特別の技能のある者には、特別手当を支給する様にした方が、能率は上がると思う。何時首が飛ぶかも知れないと思うと、真剣になって働く事が出来ない。持っている能力までが減退する故に、今度の整理に依って、事務能率を高める為ではなくて、引き下げた事になる。

十月二十五日 火 晴
河田氏は労働が出来ないという。仕事はなく身体は弱く気の毒である。其の上妻君までが病身では尚更である。保育所の工藤さんが失職したことも同情に堪えない。

十月二十六日 水 晴
保険組合の事務打合せを平和楼で開催した。自分も出席して十時解散であった。

十月二十七日 木 晴
高田光夫(仮名)を水道課で労働さすことにした。彼一人を救済すること、他の者百人を救済する以上に苦心がいる。世には厄介なる者がつきないものである。大阪に出張した。大阪地方職業紹介所事務局管内の所長会議に出席した。議事は、例によって例の如しである。女工の紹介に関する打合せがあったが、異論百出で纏まりはつかなかった。

十月二十八日 金 晴
今月分の伝票も殆ど整理が出来た。水野君から、井坂君(仮名)と内田幸子(仮名)との関係について、妙な問い合わせが来た。誤解に違いないが、余りひど過ぎる様である。

十月二十九日 土 少し雨
ユキ子を連れて岡山行きとなった。尚志を弔う弔わんがためである。代々憶るゝことの出来ない、愛のおばや妹や弟、初枝など、皆が元気で感謝であった。

十月三十日 日 晴
日曜日の朝は、必ず礼拝説教をするに定っているが、今日だけは説教に関しては何も考えず、静かで頭が休んだ。尚志の頭髪を墓場に埋めたこの地は、我が先祖より我が子まで葬ってある。つきない感に打たれて、涙ながらの祈りを献げた。

十月三十一日 月 晴
馬場さんの勧めに依って、茸狩に往った。茶籠に殆ど一杯あった。松茸は一本もなかったが、シメジを見付けるのも、松茸を見つけるのも同一の楽しみであった。無花果と柿と梨とが、毎日いやと思う程喰えて、寿司の御馳走をウンとして呉れた。思わざるご馳走であった。


十一月一日 火 
臥龍松を見に往った。長さ東西二百五十尺、南北 尺の、日本唯一の立派な松である。五銭の観覧料は高くない。天候はよし、田は黄金の敷き詰めた様で美しい。ユキ子と二人で歩くと、皆から注目される。田舎には、ブラブラと夫婦伴れで遊んでいる者がないから、目立つのであろう。村中を通るには、少し遠慮がいる。

十一月二日 水 晴
自然の美と果実とすしとの御馳走になって、又長船を後に残して去った。今より二十三年前、此の地を去る時、何処に落ち着いて何うして生活するかの見当もつかず、前途不安極まる中に、岡山目指してワラジ履で、後ろを振り返り振り返り、出て行ったのであった。誠に今昔の念に堪えぬものがある。岡山後楽園を見物して帰神した。ユキ子はなばから先は全く知らない旅だと喜んだ。

十一月三日 木 晴
明治節、十一月三日を祭日として休むことは十七年目である。幼い時から楽しみに馴れた祝日であって、なつかしさのある休日である。科学を少しく読んだのみで、知らぬ間に一日は過ぎた。

十一月四日 金 雨
久しぶりの雨でよく降った。善き雨である。雨は農家に必要であって、都会に住む者には無用なものの様に思うが、雨が降るので、屋根の塵と道路のホコリと、下水の不浄物とを一掃して呉れる。都会の清潔は降雨によって保たれる。これを若しも、労力に依ってするとしたら大変なことであろう。

十一月五日 土 雨後曇
昨日以来、葺合新川の貧民救済問題を考え続けている。若し自分の考えが間違わなければ、少年の為の善い遊び場と職業教育と、お神さん連中の共済会の設立とである。之に依って、新川を幾分でも救済し得ると信ずる。

十一月六日 日 晴
ヨハネ十二章に就いて述べた。夜、賀川先生の講演あり、題を犯罪とその救済として述べられた。集会出席者、四十三名にして何時に見ない寄りであった。(節制なき者に幸福なし)。書棚を造るのが今日の仕事であった。

十一月七日 月 晴
失業救済事業に関する打合せがあり、午後六時半まで中央に残った。河田氏の職業の決定しないのが、何より気の毒でならない。神戸新聞夕刊を読んで、湊川管内に於ける入質者中、一円以下の者が弐千数百点あると知って、公設質屋の必要を今更の様に感じた。

十一月八日 火 晴
東部労働紹介所新築の基礎工事が出来た。年内には移転の運びに至るであろう。自分の仕事が行なわれるのは、此の建物の出来る為であり、建物が便利を与えて呉れるかと思うと、建物も又貴い器である。

十一月九日 水 晴
コロサイ書四章を読んで所感を述べたが、非常に苦しかった。祈祷会であるから信者のみの会合と思っていたのに、未信者や求道者が加わっていたので、急に気分を変えたことが失敗であった。

十一月十日 木 晴
毎日読書しつつあるも、夏の予定より少しく遅れた。夜は長くなった。大いに読んでみよう。読書欲の為に、凡ての方面がお留守になる様な気がする。子供ではなし勉強ばかりも出来ない。事業がある。冬季の救済事業がある。教会の仕事がある。友人の身の上相談がある。然しどれも皆勉強であって、人の研究した著書を読むに劣るとは考えられない。読書以上でなければならない職務にも忠実に、読書にも勉む様に、健康も保つ様に心掛けなければならぬ。

十一月十一日 金 晴
井筒増吉氏(仮名)の武末町子姉(仮名)との関係に就いて、困った問い合わせを受けた。水野氏の書面に依ると、誤解でなくして真実であったらしい。井筒氏(仮名)の失敗である。ああ困った。岸部氏の訪問があり。兄の結婚も愈々確実となり、昨日遂に結納金と聖書一冊とを、仲介者を通じて先方に発送したとのことである。兄の結婚を祝し、それに依って、一家族の救いに大いに助けとなり、力となり得る様に祈ろう。中山己吉君も石谷姉と結婚するから、その式に関してよろしく頼むとの依頼を受けた。芽出度い日である。

十一月十二日 土 晴
宿直で独り静かに床に就いた。明けても暮れても気になるものは、人の霊の救いである。内の救いである。

十一月十三日 日 晴
ルカ十七章に就いて述べ、夜はガラテヤ五章に関して述べた。出席者は、何うした訳か多くなりつつある。大谷君(仮名)が興奮して狂態を演じた。彼は精神上に余程異常を持っている。

十一月十四日 月 晴
何だか少しく疲労している様である。大いに健康に注意を要する。病気に罹らぬ様にする事が大切である。

十一月十五日 火 晴
冬季失業救済事業案は原案通り可決した。之に依って毎日千五百人平均の日傭労働者が就業だけは出来る。自分等も意を強くする。多忙ではあるが、満足である。夜、堀井、中塚の兄弟達が訪問された。堀井氏とは、信仰に関し、伝道に関し、新川の救済事業に就いて、互いに語って有益だと思った。人に自分の思った通りを語って、又自分の心を強くする。
万有科斎六巻を読んだ。第一巻より第六巻迄読んで、大変に賢くなった。有益なる書物であった。六十円は少しもおしくない。

十一月十六日 水 晴
祈祷会出席者が増えた。何うした訳であるか知れない。然し、我等の同志の増加する事は善いことである。ルカ十八章に就いて述べた。大谷君(仮名)が謝した。自分が悪かったので皆様に御心配をかけて本当に済まなかったと。自分自らのやっている行為が解らなくて、人が誤解しているとのみ考える近視には困る。

十一月十七日 木 晴
失業救済事業で忙しくなる。来年の四月一杯の仕事は、自分でし遂げられない程ある。仕事がなくって困っている人もあるに。

十一月十八日 金 晴
臨時雇員三十二名採用に就いて、球算と国語との試験が行なわれる事になった。自分が若し此の試験を受くるのであったら、落第の口であろう。自分に此の資格なくして、皆の者を指揮監督するのである。世の中もおかしなものである。

十一月十九日 土 晴
岸部兄弟の結婚が十二月六日に、中山君のそれが十二月の十四日にそれぞれ決定した。兄弟の上に、新しい家庭の上に、天の豊かなる祝福がある様に祈る。

十一月二十日 日 晴
今日は特別なる好晴であった。朝は馬太伝五章、夜は使徒行伝十七章に就いて述べた。何うした訳か夜の集まりが盛んになって来た。四十名を越えている。

十一月二十一日 月 曇後雨
誓文払いで、商人は売るに忙しく消費者は買うに忙しい様である。元町筋の盛昌は素晴らしいものである。客は、買わなければ損か恥の様に心得ているらしく、店の方では、売らなければ潰れて終いそうに見える。誓文払いに何の関係もない自分が、人の事が気になるのもおかしい。伊藤運作君が久しぶりに訪問した。本月二十六日には、サントス丸で南米ブラジルに移民する。彼の成功を祈る。

十一月二十二日 火 晴
宗教改革史を読んで有益なる勉強をした。もっと早くから学ばなかった事を恥ずる。ルーテルやカルビンの偉大を今更の如く思わされた。

十一月二十三日 水 晴
祈祷会、洗礼に就いて述べた。出席者が多くなるのが不思議でならぬ。新しき求道者の為に、特別に伝道に注意しなければならぬ。責任感を増される。兄弟の求めに励まされて起つのである。自分の足らざるを悔いる。

十一月二十四日 木 晴
職業紹介委員会に出席。今日から失業救済、臨時に土木事業に救済される労働者登録開始である。受け付けて驚いた。二千三百四十九人の申し込み者があった。去年五日間に申し込んだ数を当年は一日で受け付けた。当年の不況の深刻さと、一つは救済事業の何であるかを労働者が充分に知ったからであろう。何にしても、之だけ多数の人達が失業状態にあることは、由々しき社会問題である。

十一月二十五日 金 晴
徳氏から送金があった。金四十二円六十七銭也。イエス団の維持費を補う筈の賀川服が売れない為に心配していたが、かかる助力を受ける事に依って、大いに荷が軽くなった。感謝の至りである。

十一月二十六日 土 晴
井上君が父の扶養費を六十円送金した。米国で説教して謝礼を貰ったとの事である。神の言葉を語って歩けば金が集まる。何だか興行師の感がある。

十一月二十七日 日 晴
馬太伝六章の講義を述べて礼拝説教とし、夜はコリント前二章を述べて伝道説教とした。夜の集会は四十名が普通となった。他の教会の反対である。失業救済事業の登録者数は、四千六百十八名となった。

十一月二十八日 月 晴
馬鹿に暖かい一日であった。まるで五月の気候である。教会の責任を益々重く感ずる。伝道の為に大いに尽くさなくてはならぬ。主よ、我を遣わし用い給え。

十一月二十九日 火 曇
急に寒くなったが之が普通であろう。日々寒さが増すは当然である。不思議そうに言うことが、不思議である。保険組合の理事会で平和楼に招待されたが中止して、貧民窟の為に、古着の一枚も貰った方が結構と思い、宣教師を訪問に出掛け、留守を喰った。

十一月三十日 水 晴
失業者救済事業起工準備で、無茶苦茶に多忙となった。祈祷会の出席者も増加して来た。唯に数が増えただけではなく、真剣に祈った。全員が赤誠コメての祈りは、会そのものを通して、大いなる能力を与える。

十二月一日 木 晴
今日も前日の通りに多忙であった。笠松氏が訪問した。大和に於いて、求道者二十数名ある故に、説教しに来て呉れとの事である。自分の如き者にも、道を求めて来る者がある。誠に不思議なる事である。

十二月二日 金 曇後雨
高木(仮名)、三井(仮名)の両氏に説教した。それは彼等二人が、平素の品行が悪い為に負債があって、友人や家族の者等が迷惑しているからである。高木(仮名)氏は禁酒を誓い、三井(仮名)氏又真面目になるとのことであった。青年をしてあやまたしめるものは酒と色とである。ユキ子の式服が出来た。自分の為には少しも必要でないものを、友の為に結婚式や葬式をなさしめられるので、止むを得ず作ったのである。妙なことがあるものである。滅多に用いない。然も多額の費用を要する衣服を、人の為に作って置かなければならぬとは。

十二月三日 土 晴
山本治郎(仮名)氏の一件がまだに片付かない。彼も誠意なき人である。彼の為に苦しめられ、損害を被っていることは小事でない。人の罪を引き受けて、始末をつけるとは、骨の折れる仕事である。わけても信仰なき人の為にすることが一層の苦痛である。

十二月四日 日 晴
馬太伝七章の講義を以って礼拝説教に代え、夜は、使徒行伝八章の聖霊に就いて述べた。十二月に限り、神戸消費組合の定期集会を一週繰り上げて、イエスの降誕を話した。

十二月五日 月 晴
救済事業未だに起工せず。労働者は毎日待ち焦がれて居る。彼等に生活の安定を与える事が必ずしも困難でない。然し、その必要を理解させる人の多きは、誠に遺憾千万である。渡辺助役は、職業紹介所無用論を主張せるとか、困ったものである。

十二月六日 火 晴
岸部勘次郎兄の結婚式に出席して、イエス団を代表して祝辞を述べた。兄がクリスチャンの中稀に見る奉仕者であること、兄弟は今に至るまで童貞の純潔を護って来た事を述べ、彼の信仰の確実なる事を証し、尚新婦の親と兄弟とに従い仕えんとする勇気を褒め、最後に伝道館とイエス団との結婚式の感があることを述べた。彼の新しき家庭に神の祝福豊かならん事を祈った。

十二月七日 水 曇
最早我生けるに非ず、キリスト我に有りて生くるなりとのガラテヤ二章を説明した。クリスマス祝賀の為め、古着市と餅搗きと集会と、そして楽しい労である。青年諸君が、我が家の毎年の行事の遊びを、今より期待して喜んでいる。我が家に遊ぶことは、芝居、活動写真に勝る快楽を与えるものと見える。

十二月八日 木 晴
東部労働紹介所に新築が殆ど落成した。新しい事務所を与えらるる事は、事務の能率を高める為に効果がある。気持ちも善い。せめてイエス団にも、紹介所位の建物が欲しいものであると思う。

十二月九日 金 晴
向う側に電話交換局が新設される。須磨の為には喜ばざるを得ない。然し、自分一ヶ人に於いては迷惑である。太陽の光線をさえぎられるだけでも、何処かに移転しなければならぬかも知れない。渡辺姉に服薬せしめられたものが間違っていたので、三郎君依然沈んでいる。

十二月十日 土 晴
コリント前書十章を説明し、夜はロマ書六章の終わりを説明した。新しい兄姉から献金四円を頂いた。終日家にあったが何をもしなかった。

十二月十一日 日(月が消される) 晴
何をなすともなく忙しさの内に暮れにけり。

十二月十二日 月(火が消される) 晴
酒呑んでグダまく男を相手に一日短かりき。

十二月十三日 火(水とだぶり) 晴
中山己吉、石谷静栄、両名の結婚の媒介者となって立った。式場熊内教会、賀川先生の司式で、本人も親族の者も会衆者も皆満足であった。新しき家庭を潔め、主に従って生涯を正しくおくり、神と人との為に栄を現すものとならんことを祈る。

十二月十四日 水(木とだぶり) 小雨
西部に於いて不正事件あるとの質問に驚いたが、何事もなかりしは幸福であった。

十二月十五日 木(金が消される)晴
昨日の不正事件と質問されし問題は、立派に解決がついた。紹介所に何等の欠点も不正もないものを、一主事の邪推からであった事が明白となって痛快であった。人を疑って人に迷惑をかけたよりはよかった。自分が忍べば事は足る。

十二月十六日 金 晴
物語り日本史を読んで、維新時代の豪傑の偉大を羨ましく思う。今の世にその人の無きを悲しむ。

十二月十七日 土 晴
堀井氏の訪問があった。読書は出来なかったが、友と語るは楽しみである。信仰の友と語り得るの幸いを感謝する。

十二月十八日 日 晴
洗礼式あり。受洗者六名和田伝五郎、中川義彦、高比良金蔵、中山己吉、橋本二一、石野静江。賀川先生の司式で簡単なる説教があった。長田診療所建築の打合せ後、摩耶登山に続き日直と、家に帰る時間なく、夜の集会に出席して、十字架の精神を述べた。罪の許しと愛と奉仕とに就いて語った。

十二月十九日 月 晴
湊川河川工事着手愈々多忙になった。二千人の失業の救済のためである。多忙と労苦とは喜んで忍ぶ。 

十二月二十日 火 晴
中川兄が川崎造船所から解雇せられた。失業者が又一名増加した。お気の毒でならぬ。佐藤兄が病気で度々喀血する。困ったことである。昨日は山口氏が、今晩は松田氏と中川氏とが、その前は日曜で、その前は堀井君が来た。読書はさっぱり出来ない。読みたいと言う心は山あれど、二つなき身を如何せん。

十二月二十一日 水 晴
木立君の結婚を祝し電報した。祈祷会にイエスの光を受け入れと述べた。ヨハネ一章。献金が多く集まるは感謝である。
賞与金百十九円也受領。

十二月二十二日 木 曇後小雨
イエス団の年中行事の古着市大成功であった。寄付を受けた数三十三点を超え、売上代金九十四円五十銭、其の他に三十円位の品があり、実に感謝である。普通の人の不用品となりたるものを、貧民窟では喜んで、狂気せんばかりに我を先にと争いつつ、代金まで払うのである。恵んだ者も恵まれた者も喜び、その間にあって奉仕した者は尚更感謝である。これで正月餅の分配が出来る。貧しい人達が喜んで呉れる。彼等の喜びは又我が喜びである。此の市の為に奉仕した方々に、心より厚き敬意を表す。

十二月二十三日 金 小雨
物語り日本史を読んで、明治初年の様子が眼前に見るが如くによく解った。矢張り読書しなければいけない。中川氏の就業の為めに考える。又祈る。

十二月二十四日 土 曇朝小雪
小児のクリスマス祝賀会であった。約三百名の子供の為めの集会で盛会、楽しくあった。閉会後、数人の感謝を以って散会した。(塚田氏のお話あり)

十二月二十五日 日 曇
主の降誕祝賀第二日目で、成人の為であった。朝は自分が、夜は先生の話があった。福引があって一同喜んだ。

十二月二十六日 月 晴
毎日忙しく、遊ぶ暇もなければ、考える時もない。こんな多忙では身が保てない程である。

十二月二十七日 火 晴
東部労働紹介所の移転で、早朝よりウンと労働した。最後に古い家の掃除をした。自分がせずとも、人夫を雇ってあるからしなくても善い様なものであるが、長年間、此の家あるが故に働く事が出来たのである。思えば、自分にとっては大切な家であった。此の家を掃除せずして捨てることは出来ない。夜、移転祝いで夕食を共にし、楽しく面白く遊んだ。今より後、此の家で働くのである。大事に清潔にし、有益に用いなければならない。

十二月二十八日 水 晴 小雨
今年最後の祈祷会であった。
各自一ヵ年の思い出を述べ、感謝と祈祷を献げて、後明日の餅搗きの準備のため、米洗いをして、十一時散会した。

十二月二十九日 木 晴 小雪
今日は愈々餅搗きである。一石六斗の餅を、新川の貧しい人達に分配せんが為に、青年男女が相集うて、喜びの中に搗いたよき奉仕である。皆の奉仕振りを観ていると、恰もイエス団のお祭りの様である。然し愉快なる奉仕である。餅搗きは景気が好い。勇が善い。

十二月三十日 金 晴
来年の事業を予想しつつある自分個人にとっては、当年は特に読書の出来た年であった。生まれて三十六年目、本年程よく読んだ事はなかった。来年もウンと読み度くある。

十二月三十一日 土 晴
今日も尚仕事の忙しい事は幸せである。遊ぶ事を以って楽しみとする人の多い時に、働く事の喜べるは、大いなる感謝である。今年程、金融界の動揺した事はあるまい。又失業者を集団的に多数を出した事もあるまい。本年なし得なかった事業と勉強とを、迎える新しき年には達成せしめねばならぬ。

 
    *      *      *      *

 厳しい時代の中、働き盛りで意欲満々、36歳の武内勝の「日録」である。
 次回から昭和3年分、4回に分けて収めることができれば、と思う。加えたいコメントもあるが、「武内日記」のみで進める。
   (2009年9月5日鳥飼記す。2014年3月5日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(48)

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  お宝発見「武内勝日記A」(1) 昭和2年8月1日~昭和4年6月5日


武内日記



 この「武内勝日記」は、使用済みのA4版帳簿(「負傷者疾病共済原簿」「毎月の入金簿」「疾病負傷統計」など貴重な資料)を活用したもので、昭和二年八月から書き始め、昭和四年六月五日まで欠かさず記されている。

 何故武内はこの日記をこの時に書き始めたのか分からない。これまでの日記もあるはずであるが、戦前のものはこれだけが残され、これが武内の最も古い日記である。

 ところで、武内が歩みを共にした賀川の「露の生命」「溢恩記」などの「日記」は1991年に「賀川豊彦初期史料集」(1905年~1914年)として緑陰書房から出版され、ハルの「日記」なども最近「賀川ハル資料集」として同じ出版社より活字化された。

 武内の書き残したものの中で一番纏まったものは、今回紹介しようとしている2冊の「日記」である。

 1冊は、昭和2年から4年のもので「日記」とも何とも書かれていないが、便宜上ここでは「武内勝日記A」としておく。そしてもう1冊は、賀川没年の翌年となる昭和36年度一年分の「日誌」である。これも便宜上「武内勝日記B」としておく。

 武内が戦後の「手帳」に書き残している断片的なメモ類と「武内勝日記A・B」とは、「神戸イエス団」の歴史的経過をたどる上での貴重な基礎資料となるものである。その他の「武内勝所蔵関係資料」をあわせて整理しておくことは、新しい賀川記念館(ミュージアム)のスタートに向けた下準備としても有益であろう。

 武内勝のご子息・武内祐一氏からは所蔵資料の全てについて公開することを許諾委任されているが、武内は「日記」までも後に公開されるなど思いも依らぬことであろうし、私は当初「武内勝日記」の所在を関係者に御知らせするに留め、限定した閲読とすべきではないかと考えてきた。

 しかし、賀川豊彦・ハル夫妻の「日記」類が公開されたいま、「武内勝日記」も基本的に同じ扱いをすることが許されるのではないかと考えるようになった。ただし、ここはインターネット上での公開である。作業をすすめながらの判断となるが、時として「仮名」とする必要が生じる場合があるかも知れないが、原文のままを打ち出して進めていく。

 原文は、判読の困難な箇所も少なくないが、極力読み解いてみたい。間違いも生じるので、次の機会に補正を加えていく事にする。その点、刊行物ではないこの手法の便利さがある。

 ノートの空白を利用したこの日記は、ペンで書かれていて、縦書きで句読点もなく改行もほとんどない。

 何分分量が多くなるので、先ずは三ヶ月ごとに纏めて公開してみたい。
 適切なコメントなど加えれば面白くなるが、ともかく今回は「武内勝日記」を、私自身が一読することに主眼をおいて作業に取り掛かりたい。
 このサイトご覧頂いた方で、掲載の仕方などでご意見などお聞かせていただければ有難い。(torigai@ruby.plala.or.jp)

     *       *       *       *


第一回 昭和弐年八月~九月

八月一日 晴 月
馬鹿者の多きことを考えて、自らがより善くなる為めに、一層努力せなければならぬとつくづく思わされた。自分の様な先天的に人に勝れ得ざる者が、人より賢くなることは困難中の困難だが、人が次第に馬鹿になって行くから止むを得ない。今日も川崎の失業者の為めに、求人開拓に廻った。然し何んのえものもなかった。

八月二日 晴 火
井上増吉氏から無事上陸したことの通知があった。川崎造船所に於いては、更に社員五百名を解雇するとのことである。
十年経てば一昔とやら、全く其感がある。大正六、七年頃に在っては、誰某は裸一貫から成金になったとよく噂を聞かされた。労働者ですら、金時計金指輪を持っていた。金銭の洪水で誰も彼も浮いていた。然し今日では、鈴木が閉鎖し、十五、近江、村井等の銀行は休業したまま、何時開業するか見込みが立たないらしい。川崎は三千の失業者を出し、オヨネさんも松方さんも、立派なお家を債権者に渡して、小さな家に移った。神戸の巨頭も倒れて終った。

八月三日 晴 水
祈祷会 堀井君のガラテヤ書の講義があり、自分の意見を述べて祈りに入った。イエス団が、世界に誇り得る精神を以って活動すべきを考え、また然かあらしめ給はんことを祈った。

八月四日 晴 木
井本氏(仮名)の怠けに就いて又問題が起こった。真面目に働きさえすれば善いものを困った男である。彼にも又辞職を勧告せなければならぬことになった。

八月五日 金 晴
ゼネバの軍縮会議は決裂して終った。矢張り頼りない会議である。権威ある会議の開かるるのは何時の頃であるやら、見当も想像もつかない。川崎の失業者の其の後の報道は嘘ばかりである。

八月六日 土 晴
万有科学体系第五巻を読了した。今年程知識を吸収したことはない。これは体系の読書の賜物である。

八月七日 日 晴
礼拝後、西宮の関西イエスの友会の修養会に出席した。夜、賀川先生の説教があった。朝三時に目を覚まし、夜十一時迄聞くばかり。耳のみの仕事で随分疲労した。然し、時に神の子供は相集いて研究し、祈ることは、各自に取って有益なることである。

八月八日 月 晴
毎日読んでいるに係わらず、読書欲が湧いて湧いて壓へることが出来ない。科学もよし、歴史もよし、哲学もよし、心理学もよし、宗教もよし、読んで読んで、読み抜きたい。

八月九日 火 晴
吾国には失業者は年々増加し、人口は国に溢れ、経済は行き詰まり、結局は何うなることかと、百年後のことを考えて、誠に憂慮に堪えない。日本をしてあやまたざらしめるために、幾分なりと尽くすところあり度いものである。

八月十日 水 曇 夜 雨
祈祷会の席で、ガラテヤ三章を回読して、信仰の内容を説明した。毎年行事の、子供のため明石往きに就いて協議した。本年は金がないので、中止しなければならないかも知れないと思っていたが、和田氏の金弐拾円寄付の申し込みがあり、一同非常なる励ましを受けた。氏は直し屋を職業としているが、現在に於いて直し屋程軽蔑されている階級はない。然し、かかる外面に於いては最もいやしむ可き人と考えられている氏と同じ心を以って、主に奉仕の出来ることを感謝する。岸部氏や渡辺氏の如く、病身にも係わらず、家の貧しいために、無理から工場に出勤し、休憩時間を利用し、洋服を売り、その利益を献金する様な兄弟達と、信仰を同じうし、又同労の出来る光栄を感謝する。

八月十一日 木 晴
細田のお母さんが、今日限りで互恵会を暇取って近江の義男兄の元に住むことになった。随分長い間御苦労様であった。此の上、従来の様な心配をかけてはならない。細田の為めに、神に御礼を述べねばならない。堀井君の訪問があった。

八月十二日 金 晴
冬の働きに比較すると三分の一仕事もしていない。一年の間、僅かに八月一杯が少し暇なのであろう。又九月から多忙になる。一年中の骨休めの八月と思えば有難くもなる。然しこれでも、普通の人の倍は働いていると思う。

八月十四日 日 晴
礼拝説教に献身の祝福に就いて語り、消費組合に於いて道徳の法則に就いて述べた。子供の明石行きは、小人八十二名、大人二十名、計百二名であった。子供は終生忘れ得ない印象を受けるであろう。金のない事を心配していたが、余る程与えられた。有難いことである。

八月十五日 月 晴
知識欲が燃えておさえきれない。全国中等学校野球優勝試合で、甲子園グランドは大変な人気である。遊ぶことにかけては誠に熱心なものである。この競技は、日本に於いては当分廃らないであろう。

八月十六日 火 晴
三越呉服店で開催中のブラジル事情展を観に行った。日本はブラジル移民に成功しなければならぬ。吾国の如く、僅かに六百万町歩の耕地に三十万の農夫が居るのでは、行き詰まりは免れまい。本多君と同伴で、四十銭の寿司と二十銭のクリームを、同君の御馳走になった。

八月十七日 水 晴
堀井君のガラテヤ書説明があり、祈祷会終わって西瓜会で解散した。明けても暮れても変わらざる吾が願いは、同胞の救はれんことであり、此の世の聖国とせられんことである。

八月十八日 木 晴
神戸市の屋外労働者、殊に日雇労働者の賃金が一般に低下していることが知れた。社会政策位では追い付かなくなる。

八月十九日 金 晴
平凡なる一日であった。広陵中学が松本商業に四対三で勝ったと言うので、西瓜の御馳走になった。岸部兄が賀川服の件で訪問があった。

八月廿日 土 一時雨
ホーマーのイリアッドを読んだ。彼も人生に目的と法則とのあることを示している。それ故に此の書が貴く、今日迄捨てられないのであろう。全国中等学校第十三回優勝戦で高松商業が大勝した。阪神地方でこれ程人気を集めるものは他にない。実に面白い現象である。

八月二十一日 日 晴
礼拝説教に、キリストの我が来たりしは義人を招かん為に非ず、罪ある者招かんが為めであるとの、悔い改めに関して述べた。夜は、ヤコブ書三章の生ける信仰と死せる信仰とに就いて説明した。ユキ子が牧野の転宅のお手伝いに往った。

八月二十二日 月 晴
伝票整理と読書とが今日の仕事であった。ユキ子が不在で、お隣の親切に依り、湯と夕食の御馳走になった。

八月二十三日 火 晴
ダンテの下巻を読んだが解り難い書であった。更に改めて読むことにしよう。

八月二十四日 水 晴
祈祷会に出席し、堀井兄のガラテヤ書講述があった。河田兄が健康回復して又イエス団に返って来た。松本兄が未だ病床に在って、歩行さえ不自由であると聞いて気の毒で堪えぬ。

八月二十五日 木 晴
駆逐艦蕨が衝突沈没して百何十名かの生命を犠牲にした。国家の為とは只実に気の毒なことである。失業所の騒ぎではない。演習に於いてさえこの通り、戦争に在っては尚更なりである。ああ戦いのことを学ばざるの時は遠きことにや。

八月二十六日 金 晴
戦争と平和を読了。デカメロン下巻を読んで詰まらないことだけがよく分かった。かかる書物が著さるる時代の、如何に堕落していたかと言うことと、其の結果は滅亡あるのみとのことがはっきり解った。知れ切った当然なことが、一層はっきり知れただけで、朝早くから起きて、祈祷を献げて読むにはあまり勿体なすぐる。河田氏解雇の通知があった。又心配が一つ増えた。

八月二十七日 土 晴
偉いと言う自信は、書物を読んだのみでは与えられない。書物を通して人が偉くなると言うのは、負傷に対する薬程の効果しかないことをつくづく感ずる。今日は忙しくよく働いた。河田、佐藤の為に、彼らを失業より救うために祈ろう。

八月二十八日 日 晴
礼拝説教 日本の救いに就いて絶叫した。終日家に在って祈る。教会に出席した。日中二百頁読書した。

八月二十九日 月 晴
デカメロン下巻を読了した。別に得ることない無益な書であることが解った。詰まらないということを知る為に、毎朝午前五時前から起床し、夜は十時迄熱心になって読むことは、実に大きな損失である。

八月三十日 火 晴
普通選挙の問題で、県市は大変な活動である。我々の同志の行政長蔵氏も候補に立つことに決定した。殊に彼を応援せんとする。共鳴者は一人金壱円也の運動資金を集めている。理想選挙で愉快であるが、日本全国の立場から批評すると、普選になっても立候補者に余り変化がない以上、多くの人達の期待する程のものではあるまい。労働保険組合規約変更に就いて、平和楼に於いて理事会が開催され、自分も出席した。

八月三十一日 水 晴
祈祷会に出席して、偉い人に就いて所感を述べた。パウロを中心としてであった。源氏物語の上巻を読了した。今より九百年前の、王を中心として其の周囲の貴族方の人生は、一言にして恋愛であったと言える。九百年後の今日も余り変わるところがないように思われる。


九月一日 木 晴
急に寒い位冷える。これも不順である。長続きはすまいが、全身に緊張を覚える。関東震災四周年である。あの時の心持で大いに真面目になれと道徳家が説く。守る人の少ないのは誠に遺憾である。三郎君が長年振りで吾家の一人となった。君が此の家に在って、神とキリストを知る事の出来る様に。

九月二日 金 晴
二百十日も無事であった。これで日本の農家は大いに意を強くしているであろう。農夫の喜びは吾等の喜びである。我等同胞六十万人は、天候に就いて神に感謝せねばならぬ。

九月三日 土 晴
此程冷える気候でもあるまいに、何んだか十月頃の気分が出る程涼しくある。シェークスピアの物語を読んだ。有名な書だけあって甘く書けていると思い又面白く読んだ。神戸市に奉職して今日で満七周年である。過ぎて見れば早いが、待てば余り短い年月でもない。七年の間には随分多くの経験をした。然し凡てを感謝している。損も得も喜びも悲しみも、一切合財感謝である。

九月四日 日 晴
罪の赦しに対する自分の思考する所を述べて礼拝説教に代えた。夜は、賀川先生が支那の話をせられた。支那の未開は今更知れたことでもないが、事情を聞けば聞く程、野蛮の程度がよく知れて驚く。支那の救いは未だ遠い様に思われる。八十人の宣教師も一億五千万円の投資も、支那を救うには余りに微力すぎるであろう。フランス革命を百頁読んだ。

九月五日 月 晴 
自殺を計画したが矢張り救われたくなったとて、一身上の相談に来た青年がいる。弱き青年の多いのには困る。山口氏の訪問があったが、彼の問題も依然として解がつかなかったのに閉口する。

九月六日 火 雨
本年の夏になって、今日程多量に降雨のあったのは初めてである。これで神戸も水飢饉の心配は消えるであろう。二百十日の風はなかったが、何んだか馬鹿に冷えすぎて、十月の気候の様である。雨のためか涼しいためか、コウロギが馬鹿に善く鳴く。彼の鳴き声は、彼が神に対する賛美歌なのであろう。美しい極みであり、幸せなことである。第二回労働統計調査員打合せ会に出席した。

九月七日 水 曇雨
祈祷会の席で、我が国の移民に関して所感を述べた。日本人は狭い島国に多数に住んで居て、経済上に行き詰って凡てのものを殺しつつある。成長すべき筈の者も成長せず、唯生存することだけが困難中の困難の状態である。日本に居て生きられなくば、ブラジルに往って生きよ。日本で延びられなくても、海外に出て延びよ。日本人は、日本に於いて現在以上に発展せずとも、移民して向上せよ。

九月八日 木 晴後雨
七八月は雨量が少ないとて心配したが、九月に入ってからはよく降る様になった。なくてならぬものはやはり与えられる。昨夜、二十四名の労働者を新潟県に紹介したが、今日は紹介所は稀に静かであった。

九月九日 金 雨後晴
岸部、前田の両氏が、賀川服売捌の打合せの為に来訪された。岸部氏の如きは、実に類のない献身的の青年である。かかる青年を友として与えられしを感謝す。

九月十日 土 晴
急に暑くなった。土曜が又来た。然し九月である。暑いのが当然である。今少し暑くなければ米が充分実らない。そう考えれば、暑さは不平でなく感謝である。内親王殿下が御生まれ遊された。

九月十一日 日 晴
イエスの理想と題して神の国を述べた。神戸消費組合で主の祈りに就いて説明した。夜は新しく生まれることを話した。
直し屋さんの和田氏が、毎月三円の献金せらるることを約束せられた。意外に思った。こんな友を持つ嬉しさを神に感謝する。ボバリー夫人を読んで、詰まらない書物であることだけが解った。文学の貴い処など自分には少しも解らなかった。

九月十二日 月 晴
堀井君の訪問あり。松本君の近況を聞かされて、君の為に大いに同情した。イエス団の青年達の為に、更に善き奉仕をせねばならぬことを痛切に感ずる。

九月十三日 火 晴曇混天
春のめざめを読んだ。文学物は例に依って例の如く、得る処なき書である。或いは自分に吸収力が無いためかも知れない。何れにしても、得ることなき事に於いては、何等の変わるところがない。昭和三年度の予算の打合せ会が談話室で開かれた。熊本県に大津波が襲来して、壱千百余名の死傷者を出したと号外は報へている。

九月十四日 水 曇
祈祷会で、岸部兄が工場内で信仰の勝利を証した。自分の工場の係技師が転任になるので、その送別会を開く為に、一人の会費が三円位で酒を用いると言う条件であったので、兄はそれに反対して、先輩の意志に反省せしめ、遂に兄が勝利を得たと言うのであった。彼は勇敢なる痛快な青年である。自分は自分の思う通りにならずとも、神の思召しは必ず成ると、現在ならずとも将来何時かは必ず成る、と述べた。

九月十五日 木 曇
失業者の訪問は、次ぎから次へつきない。今日はマヤス先生からも紹介があった。失業ほど辛い経験は少ないであろう。お気の毒に堪えないが、何ともすることが出来ない。日本の失業問題の解決は、矢張り移民に待つより他に方法がなかろう。女の一生を読了した。

九月十六日 金 曇
西部の欠員が補充されることになった。友人の失業を思うて、毎日注意しているが、紹介先がなくて困る。暴風あり津波あり洪水あっても、人間は良心に目醒めない。不景気で経済的に行き詰れば、しほれて終い、失業すれば悲観して、自殺しなければ世を呪うのみで、良心に省みることを知らぬ。失業より貧乏より天災より国民を救うの途あることも知らず、防止の途も講ぜず、成り行きに任せて泣いてばかりいる馬鹿者どもである。ああ天の父より正義の旋風を送り、罪悪を一掃する聖霊の津波を与え、此の世をして聖化せしめ給え。

九月十七日 土 曇
県会議員選挙で日本全国を通じて大騒ぎである。日本に於いては最初の普選であるだけに、うろたえ方も容易でないのも無理であるまい。自分にも生まれて初めて選挙権を与えられたのである。普選になった事に依って、日本の政治が少しでも正しくなり、公平になり、貧しき人達のことが省みられ、政治道徳が高くなり、日本国民の幸福が計られる様にならなければならない。

九月十八日 日 雨後晴
礼拝説教に苦難の賜物と題して述べた。人は苦難に会う事に依って悟りも得進歩もする。植物に於ける太陽の如く、我々に苦難はなくてはならぬものである。夜、主の名を呼ぶ者は救ると話した。集会出席者は二十五名程であった。

九月十九日 月 曇少し雨
普通選挙、依然として盛んなる運動である。今度の選挙の結果が何うなることやら、実によき試練である。特に無産者代表が何程当選するかが見物である。労働者は非常なる期待をもっている。

九月二十日 火 曇
昭和弐年度下半期に於ける大阪逓信局人夫供給の件で、打合せの為大阪へ出張した。経理課長ともあろうものが、失業問題について余り無頓着であるのに驚いた。矢張り失業問題は、失業の経験のある人でなければ理解がない。富める者が貧しき人達のために省みる事の出来ないのも同一の理由に依るものであろう。

九月二十一日 水 晴
久しぶりの好晴で、如何にも秋の気分が味わわされた。今日は仁川に往った。延べ弐万人の仕事を探してであった。稲の穂は皆咲き揃った。今十四五日も経てば新米として我々を養って呉れるのである。有難いことである。蒔かず刈らず何等の労する事もなかったのに、思わず感謝の念に溢れた。ススキ、ロハギ、オミナエシ等道端の草花が嬉しい気分にして呉れた。祈祷会に出席して、聖霊について述べた。

九月二十二日 木 曇
川崎造船所が三千五百人を解雇したので、紹介所は之がために、採用した臨時雇十二人の御用済みに際しての送別会を開いた。中央講堂で夕食を共にした。

九月二十三日 金 晴
朝日館の招待に依って運動奨励の活動写真を観た。人体の健康の必要とその訓練の必要とを今更の如くに教えられた。殊に学生、少年達の為に最も有益なる写真であると思った。

九月二十四日 土 晴
東部労働紹介所の職員一同が、六甲越の有馬行きの遠足をした。実に愉快であった。何時山に登っても、且て悔いた事がない。六甲の禿山もススキによって綺麗に飾られていて、まるで花の山の様であった。自分の接する自然にして、六甲程私を楽しませるものはない。

九月二十五日 日 曇
朝、汝等の正義は学者パリサイの人達に必ず勝れなければ天国に入れない、との主の教えに就いて述べた。霊にも肉にもその通りである。精神病者が役に立たないと同様に肉の病人も何の働きも出来ない。少し動いたからとて熱が出たり、寒いと言っては風邪を引き、暑いと言っては痩せ、少しばかりものを言っても直ぐ疲労する。こんなことではなんの仕事も出来ない。キリストは一度も病気したことがない。いっぺんの熱の出たことも風邪引きも、聖書には記事がない。夜、賀川先生の説教があった。パウロの改心美談と題してであった。集会者は三十五人もあった。イエス団の集会にしてはこれで多数である。阪本勝を選挙して置いた。

九月二十六日 月 曇
昨今の選挙噂は何処にも花が咲いている。候補者は心配でならないであろう。誰が出て誰が落ちるか知れないが、落ちた者は馬鹿を見たと泌みじみ感ずることであろうが、候補者に立つ者は少しチョウシ者でないと出来ない芸出の様にも思われる。

九月二十七日 火 雨
神戸市より立候補した阪本氏は、最高点で当選した。労働者も喜んで居るであろう。時代も変わりつつある。全国が神戸の様には甘く行かないであろう。然し、県会に貧乏人の代表者を出すことの出来るのは、貧しき者にとっては幸福なことでなければならない。

九月二十八日 水 雨
祈祷会に於いて、エスの十字架の救いを述べた。集まれる者は小数で、祈る者も少なかった。何となく物足りなく感じた。でも、日本の救いの為に時を用い、又神に祈ることの出来るのは、自分にとっても国にとっても感謝でなければならぬ。

九月二十九日 木 雨
長船から尚志が死亡したと通知して来た。彼は可哀想な者であった。先天的に馬鹿者で、旅から旅を続けて遂に死亡して終った。彼が死んで困る者は天下に誰一人もないが、死せる彼自身が可哀想でならない。

九月三十日 金 晴
久しぶりで晴れて如何にも秋らしい感じがする。岸部兄が結婚するらしい。彼の兄弟のために祈らなくてはならぬ。兄をしてあやまらしめてはならぬ。兄が一層恵まれたる生活をする為に。大阪の四貫島セツルメントの献堂式の祝辞をせよと命ぜられているので、今日は特にセツルメントの事に就いて考えた。此の仕事は、全く奉仕の働きであって、女中奉公に似ている。

      *       *      *      *

 以上「第一回」は二ヶ月分であるが、結構この作業は時を要するものである。読み間違いも気になるが、直に日記をこうして閲読の出来ることの幸いを覚えさせたれた。

 ただ今、「賀川豊彦献身100年記念事業」のひとつとして武内勝口述・村山盛嗣編「賀川豊彦とそのボランティア」(1973年刊)の「新版」準備の最終段階であるが、この書物は1956年に10回にわたって口述されたものである。

 ところがこの数年後、求めに応じて再度10回分の口述が試みられており、何とその録音テープが最近発見され、先日(2009年8月28日)の準備作業の会議において聴くことができたのである。一同、武内の澄んだ声、ゆっくりとした確かな語り口に驚いた。

 「新版」は本年11月末、神戸新聞総合出版センターから出るが、この度発見された口述テープのお宝も、じっくりとお聴きしてみたい。楽しみな事である。(既に紹介済ですが、現在神戸の賀川記念館のHPでは、武内の10回講演を聴取できる。2014年3月4日補記)

 ともあれ、次回(第二回:「昭和弐年十月~十二月」まで三か月分)の準備に取り掛かりたい。

    (2009年9月1日鳥飼記す。2014年3月4日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(47)

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      米国の旅 HOPI INDIANS
 
 広く知られているように、1940(昭和15)年8月25日(日)松沢教会における説教「エレミヤ哀歌に学ぶ」を終えた後、賀川豊彦は渋谷憲兵隊に拘束され、9月には巣鴨拘置所に留置された。

 松岡洋介らの尽力で賀川は、9月13日釈放され、神戸から「ブジシャクホウサレマシタ ココロヨリ ゴコウイカンシャモウシアゲマス コンヤタツヨロシク カガワトヨヒコ」と打電している。

 10月、賀川の個人雑誌「雲の柱」は発行停止処分、直ちに廃刊となり、豊彦は香川県豊島に隠遁して著述活動に専念する、という事態を迎えた。

 しかし豊彦は翌年(昭和16年)4月5日、「キリスト教平和使節団」の一員として渡米、アトランティック、シカゴ、ニューヨークなどでの会議に出席、アメリカ各地を113日間、一日平均3回の日米親善講演会を開催して、8月17日に帰国するのである(詳細な経過は「人物書誌大系:賀川豊彦Ⅱ」630頁~637頁参照)。

 なお、この「キリスト教平和使節団」の働きについては、横山春一著「賀川豊彦伝」(警醒社版)の「平和の灯を消すな」(396頁~404頁)の項でも、賀川自ら書き残したこの時の「アメリカ遍路記」を引用しながら、太平洋戦争開始直前の差し迫った状況が記されている。
       
          *      *      *      *


賀川の絵葉書


 今回の絵葉書は、その「平和使節団」のときのものである。

 差出は消印から見て、1941年(昭和16年)5月7日、SANT LOUIS
 宛先は兵庫県西宮北口高木 武内勝様

 文面は

      留守中、色々お世話に
      なります。感謝します。
      米国も主戦論者が多く
      仲々困難です。何処
      も同じです。
      祈って下さい。ロサンゼルス
      のイエスの友は実に親切で
      感謝しました。
      皆様に宜しく
              賀川豊彦


      *      *      *      *

 カラーの絵葉書は、アメリカ大陸最古の先住民として知られる「HOPI INDIANS」。「HOPI」は「平和の民」の意でマヤ文明の末裔とされる。
 
 賀川がここを訪ねたかどうか、またアメリカ先住民族について彼はどう見ていたのかなどは、未確認である。

 豊彦はこの旅の途上で53歳の誕生日を迎え、次の詩を残した。

     *      *      *      *


          五十三年の誕生日

     ユタの砂漠に
     五十三年の誕生日を迎えぬ
     汽車の旅
     今日もまた
     彷徨の 野人に
     恩寵のみ
     數へられて 尊し
       一九四一、七、一〇 汽車中にて ユニオンパシフィック


     *      *      *      *

 この詩は、日独書院から昭和18年に刊行された賀川の詩集「天空と国土を縫合せて」に収められている(223頁~224頁)。詩集の表紙の装丁と「雲柱」の墨絵は署名にもあるように「トヨヒコ」のものである。


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   (2009年8月29日鳥飼記す。2014年3月3日補記)


賀川豊彦の畏友―武内勝氏の所蔵資料より(46)

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     賀川春子「三畳敷の食堂」「神は活く」  

 武内勝所蔵の「雲の柱」の中から、中村竹次郎「武内勝先生を語る」と武内の賀川春子宛書簡「小さき人生の完成者」を取り出してみた。

 ここでさらに「雲の柱」に残された賀川春子の短い文章ふたつ「三畳敷の食堂」と「神は活く」を紹介しておきたい。いずれも母親・春子の眼と心の伝わる名品である。

           *     *     *     *

      三畳敷の食堂
                            賀川春子

 私達は住居が時々変り、神戸から東京、次に西宮市外へ移って、再び東京に戻り、今の上北澤に住むやうのなった。考えてみると、その何れもの家が、三畳敷で食事をしてゐたことである。
   
 先づ最初の家は小説「太陽を射るもの」に出て来るやうに、主人が鋸を持って床を張り、三畳敷の椅子式の食堂が出来た。これは主人が米国に学んで帰った直後のことであった。

 その頃大宅壮一氏は、高等学校の優秀な学生であったが、甘酒造りもまた優秀で私達を驚かせた。黒い毛朱子の風呂敷に糀を包んで来ては、実にうまい甘酒を造って貰って食べたのも、その食堂であった。
 
 子供は二歳の長男一人あったが主人の助手が幾人も居たので、相当人は多かったが、その狭い食堂で済ませてゐた。
   
 三年過ぎて関西に帰り、西宮市外に借家した。これが又三畳敷を食堂にするやうな都合になった。親友杉山元治郎氏も移って来られ隣合せに住んで農民福音学校もそこに開校した。

 長男は学齢に達したので、瓦木村の小学校に通学した。

 昭和四年であった。主人が東京に出るので家族は再度上京し、懐しい武蔵野の森に引きつけられ、上北澤の今の家に移って来た。

 もう十年にもなって、長男が十七、長女が十四、次女が十歳になった。

 子供達の簡易生活の訓練をする意味で、幼稚園の二階に住み、階下の一間しかない畳の部屋を食堂にした。それが又三畳敷である。

 発育盛りの子供達は、肩幅も広く背も高くなり三畳敷は一杯である。

 狭い部屋で、味噌汁を食べて満足出来る子供なら、いつ親に別れることがあっても、社会生活の荒い波も乗り切れるからと、病身の主人は考へてゐる。

 我家の非常時は昔からで、今に始まったのではない。主人は数十年来散髪は下手な私ので辛抱してゐるので、子供達も私にさせてゐる。

 長男は自転車で中学校に通学し、長女は畑道を歩いて女学校の一年に学んでいる。

 かうして長い間送って来た簡素の生活は、苦しいものでは決してない。このうち無駄のない喜びを味ひ、かつ感謝をさへ持てるものである。
                    (「雲の柱」第17巻第11号:昭和13年11月号)

           *      *      *      *

      神は活く
                           賀川春子

 星は移り、年は変って、神戸市葺合に救済事業を開始して早や三十年になり、之を回顧して、ひたすら神の恵を感謝する。
 
 貧民窟の病人の多いことは実に驚く計りで、正確に診察すると殆んどが病者である位、それが重いのは、脳梅毒で頭の一部が腐れて落ちて居る者や、結核で一家全滅の家、癩病で顔がくづれ、鼻の無い梅毒患者、癲癇で小路に倒れる若者、髪振り乱して叫ぶ女と云うやうな、右を見ても左を見ても悲愴極まる状態であった。

 その当時、私達の住居、それはその中の借家で、茲で篤志な医者を迎へて、無料診療を始めてこの救済に当てた。之が現今では診療所の建物を持ち、四人の献身的な医師を与へられて仕事を続けて居る。これも感謝である。

 古木で建てた、三畳敷長屋は雨がもる、軒が歪む、人が住むには余りに粗末に過ぎた。今は市が建てたアパートに或者は移り、住宅問題の一部はこれで解決された。

 救霊運動は最も力を注いで今日まで継続してゐる。

 免囚保護事業も、幼稚園も加わった。この隣保事業は大阪にも伸び、更に東京にも仕事は殖へた。

 その間理解ある同志の援助と、神の恩寵を沁々と感じ、神活き給うの念を深くされて居る。私共は絶えずエリヤの如く、鳥に食物を運ばれ、尽きざる油壷を天より賜ひて、三十年の救済事業が続けられて居る。
                     (「雲の柱」第18巻第12号:昭和14年12月号)

      *     *     *     *
 
 予定より少々刊行が遅れているといわれる「賀川ハル史料集」(緑陰書房)は既に店頭にあるかも知れないが、そこにはこれらの小品ももちろん収められているはずである。 

 補記 上記「賀川ハル史料集」は「賀川献身100年記念」の年(2009年)に全3巻が刊行され、ハルのこの二つの記事も雑誌掲載のままをスキャンして収められている。参考までにそのひとつをここに加えて置く。


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 なお、家族5人で撮られた写真は「賀川豊彦写真集」にあるもので周知のものであるが、雑誌記事とは違うもので、「朝食前の家庭礼拝」と説明書きされている。上北沢の家であろうか。


賀川一家の写真


           (2009年8月27日鳥飼記す。2014年3月2日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(45)

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   「小さき人生の完成者」武内美邦ちゃん 

 前回は武内所蔵資料に残されていた賀川の個人雑誌「雲の柱」の中にあった中村竹次郎の「武内勝先生を語る」を紹介した。ここではもうひとつ「雲の柱」に掲載されていた大事な書簡を取り出しておきたい。

 それは、武内勝・雪夫妻のご長男「美邦」さんが、昭和14年4月17日に満10歳と6ヶ月という短い生涯を終えたとき、父親の武内氏が、その哀惜の思いを敬愛する「賀川春子様」宛てに書簡を認め、報告している。4月22日付けの手紙であるが、それが「雲の柱」第18巻第6号(昭和14年6月号)の46~47頁)に収められていた。

 まだこの場では紹介できていないが、武内勝氏は、昭和2年8月1日から昭和4年6月5日までの2年間足らずの重要な「日記」を書き残している。あの激動の時にあって、時代の動きをはじめ仕事場のこと、イエス団のこと、そしてご家族のことなど、毎日200字程度の短い日記を記録され、それが残されている。

 丁度そこに、ご長男「美邦ちゃん」の誕生の記録がある。その日の日記には、
 「昭和3年11月7日朝4時30分男児誕生」「この児が将来神様の御用を務むる者となる様に、今より神の御手に委ね、神の子として預かり、之を充分教育せなければならぬ。天の父の御祝福豊かならん事を祈った」
とあって、武内の喜びのことばが踊っている。その日以後の日記の中身は、微笑ましいほどに「美邦ちゃん」をめぐる記録で多くを占められることになる。

 以来「美邦ちゃん」は、ご家族と共に「満10歳と6ヶ月の人生」を生きた。
 残されている「アルバム」の中の両親と共に写されているものを、ここに添付させていただく。
 父勝氏にとって、ここに書き留めた「賀川春子様」宛ての書簡は、特別のものであるに違いない。


武内美邦ちゃん


      *      *      *      *


           小さき人生の完成者
                                    武内 勝

 賀川春子様

(前略)岡山の叔母は去年発病以来、天国に入ることを慶び、生前より私の霊魂は既に天国にあり、唯肉体のみこの世に残っていると申しまして、或る日岡山の佐藤牧師が見舞われて帰られる時、今日はこれでお別れいたし、次回は天国でお眼にかかるかも知れませんと挨拶せられしに対し、叔母は直ちに、私には別れるということはない、既に永遠の世界に移されているので、別れるとか離れるとかの区別がないと答えたそうで、実に喜び勇んで昇天致しました。村の人達も、教会員も、家の者も叔母の勝利の生涯を感謝いたした次第で御座います。

 また、美邦は去る九日叔母の告別式のため家族と共に参りましたところ、その晩より急性肺炎にて四十度の発熱となり、直ちに医師に就いて手当てをいたしましたが、経過思わしからず、十三日岡山の大学病院に入院し、病院では至れり尽くせりの手当てを施し、看病の者も最善を尽くして下さったのですが、竟にその効なく十七日午前十時三十分永眠致しました。

 美邦は病気中随分苦しみました。肺炎の痛みに呼吸の困難に、一日数十本の注射に耐えることは容易でなかったと想像されました。然し私は、余にも美しい心を持って天国へ参りましたことを知り、大きな慰めを感じて居ります。

 十五日朝、美邦は父ちゃん僕はもう死ぬ様な気がすると申し、彼はその後で祈るのでした。第一は自分の病気の治るように、第二は世の中の貧しい人達の救われるために、第三は傷痍軍人の護られることを、第四は病院へ入院している患者の健康恢復について、第五は病者のために働く看護婦の恵まれるように。そして私に対しては父ちゃん色々お世話になってありがとう、今までのわがままや、悪い事をしたことを勘弁して頂戴と、両親に向ってこの世の最後の挨拶を述べ、久仁子はどこに居りますか、千恵子はどうしていますかとふたりの妹の安否を問いました。

 十六日は、父ちゃん僕はもうこの世の人でないと申しました。暫らくして、父ちゃん聖書を読んで頂戴と要求しましたので、マタイ伝十八章の初めを読みました。すると僕は祈ると申しまして、自分がわがままであるから病気したと考えてそのことや、従来の悪かった行為について神様に懺悔いたしました。多分天国へ入る心の準備をしたのでありましょう。

 十七日の朝は急に様子が変わりまして、何か口を動かしたかったようでありますが、聞き取れませんでした。その午前十時三十五分遂に人生十年六ヶ月の旅路を終わり天国へ参ったのであります。

 美邦の生前の唯一の楽しみは、毎日曜日の朝、村の子供達を日曜学校へ集めて来ることでありました。朝早く自転車に乗り、余り熱心に勧誘して廻りますので、妻が、美坊勧めるのは結構だが、無理に引っ張ってこなくてもいいと申しますと、母ちゃん無理からでも引っ張って来なければ誰も来ないというのでした。そうした友達の中に、日曜学校も中々いいものだと褒める者があるとそれを無上の喜びとして、母ちゃん誰それはきっと続いて来るよなどと友人を日曜学校へ連れて来るのを、小さき彼の使命としていたようでした。

 美邦は賀川先生の孫であって、雑草の研究が好きで、瓦木付近に百種類ばかりあると申して居りました。指導者の埴生さんが美邦の質問を辞書によって答えたらしいです。

 動物に対してもやさしいので、去年の春一羽の雀の子が家の中へ飛び込んで来ました。それを捕まえて逃がしたのですが、よう飛ばなかったので妻に相談して、水を飲ませることとし、逃がしたものをもう一度捕えるため籠を伏せる拍子に足を折り、小雀は遂に死んでしまいました。それで美邦は雀の墓を造り、昭和十三年五月廿一日と記した墓標を立て、その前に自分が悪かった、どうぞ天国へ行って下さいとお詫びをしているのでした。親雀は屋根の上で、小雀を捜してちゅうちゅうと鳴いている、彼はそれを作文にしましたが、今は私が親雀となりました。

 美邦は朝洗面が終わると、父ちゃんお早うございますと両手を畳について挨拶し、私の外からの帰りには、廊下の板に頭をすりつけて、お帰りなさい、お疲れでしょうと迎えてくれ、時には、私の肩と腰を揉んでくれましたが、そのために特別早起きしてくれたこともありました。本月五日の如き、妻と二人で語り合いました、美坊はどうしてこんなに心得がよいのだろうか、何か変わったことが無ければよいが・・・と。

 私は美坊のために感謝いたして居ります。彼は寿命百年を許されたとしても、他人のために祈ることを知らず、友を神の教へに導くことが出来なければ、私においては苦痛であり不孝であります。人生十年六ヶ月必ずしも短くないと存じます。神を知りその教えを守り、神様を天の父と仰ぎ且つ信頼し、永遠の生命を信じて、天国に入るを得ましたら、彼も幼いなりに小さき人生を完成したものでしょう。天の父が彼に長寿は給わりませんでしたが、神の国を従順に受け入れる心を賜りしを誠に有難く存じて居ります(昭和十四年四月廿二日)。

     *      *      *      *

 武内御夫妻の貴重な「アルバム」が「玉手箱」に大切に残されていて、その中のそれぞれの写真がいつどこで撮られ、ひとりひとりの人物の特定が必要であるが、まずご子息の武内祐一氏にその確認作業をして頂いた。

 引き続いて現在、一麦保育園顧問の梅村貞造先生に、御願いをしているところであるが、梅村先生は、この武内美邦さんとは幼馴染で親しい友達であったそうである。機会をつくって詳しくお話を聞いてみたい。

 補記 この作業をすすめていく過程で、少しずつ新しいことを教えていただいてきたが、先ずはこの段階では初出のものを少し補正を加えるだけにして、その後に新しく追加補正を行うことにする

           (2009年8月25日鳥飼記す。2014年3月1日補記)


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