スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の死蔵資料より(77)


    「武内祐一所蔵アルバムA」から(3)   

 「武内祐一所蔵アルバムA」の3回目は、武内夫妻の長男・美邦(よしくに)君と瓦木小学校時代のクラスメイト梅村貞造君(現一麦保育園顧問)のもの、そして宇都宮数一氏一家が昭和3年、ブラジル移民として神戸港から旅立つときの涙の別れの写真である。

 美邦君のことは、本サイト第44回「小さき人生の完成者」(武内勝から賀川ハル宛書簡(「雲の柱」掲載分)で少し触れた。美邦君は昭和3年11月7日生を受け満10歳と6ヶ月のいのちを生きた。梅村先生の玉稿「一麦と私――武内美邦君のこと」(2008年4月8日)のあることも本サイト第53回で触れておいた。

 このアルバムを、過日梅村先生にお渡ししてお目通し頂いた。すると丁寧なコメントを書き込んで貰う事が出来た。ここではそれも加えて紹介する。すでに掲載済みのものもあるが、以下5枚の写真である。


 写真1
 暖かそうな帽子の美邦ちゃんと母・雪さんのところに、朝日であろうか夕日であろうか差し込んで白くなっている。美邦ちゃんは11月生まれだが、この時すでにしっかりと首が座っている。どこかの旅先であろうか、両親は晴れ姿である。

1写真


 写真2
 梅村先生によれば、「武内一家が一麦へ来られたのは昭和9年3月で、美邦君が5歳を越えた頃である。昭和10年3月に一麦保育園を卒園し、瓦木小学校へ入学した。従ってこの写真は、一麦ではないように思う」と。

写真2


 写真3
 本サイト第50回目「武内勝日記A」(4)に昭和3年4月21日の日記がある。それには「午後宇都宮を突堤に見送った。今日のたぷらす丸には、九百余名の移民を乗せている。これだけの人達が、百年後には何万人に増加するか知れない。人の増加も恐ろしいものだ。宇都宮兄も房子姉も子供等も泣いていた。見送りの者も泣かされた。特に房子姉と道世とは泣き通していた。見送りの人達には、義男兄に敏子ちゃんに牧野御夫婦に本多、中山、高比良、堀井、杉山、佐藤姉、広木、小山氏等であった。夜、我が家に帰って夕食を共にした。宇都宮の為に涙ながらに祈った。」とある。
この写真は、その時の涙一杯のお別れの神戸港での写真である。右から2人目は雪の母、3人目が宇都宮数一、中央ネクタイの子が宇都宮使徒、左側2人目は武内雪。

写真3


 写真4
 梅村先生のコメント「後ろの建物は美邦君の通っていた瓦木小学校の講堂です。残念ながら美邦君の姿が分かりにくいのですが、前列中央の先生(永田先生)の左の少年ではないかと思います。これは3年生のクラスで、最後列左から3人目は梅村です」と。

写真4


 写真5
 梅村先生のコメント「これは間違いなく瓦木小学校の4年生の時のクラス写真です。美邦君と梅村は同じクラスで共に写真に写っています。担任は師範学校卒業したての奥道正先生。3列目左が奥道先生、2列目右から6人目が美邦君、梅村は3列目先生の右6人目。昭和14年3月ごろ。」

写真5


  (2009年11月20日鳥飼記す。2014年4月29日補記)

スポンサーサイト

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(76)


   「武内祐一所蔵アルバムA」から(2)   

 前回より「武内祐一所蔵アルバムA」をお目にかけている。
 このオフィシャルサイトを主宰しておられる伴 武澄さんの方で、写真も大きくアップしていただいているので、ご一緒に武内さんのアルバムを開いている感じが出ている。

 さて今回の第2回は、第1回の写真5枚に続いて、武内勝の若き日の仕事仲間たちと写された4枚をご紹介する。どれも正確な場所と時も判らず、武内以外の人物の特定も出来ていない。


 写真1
 武内が前列中央に帽子・ネクタイ・コート姿で写っている。和服と洋服が混在している時代のものである。これは「神戸購買組合」のメンバーではないかと言われる方もあるがどうであろう。

1写真


 写真2
 武内は中列左端であるが、これは学生2人と色眼鏡の男性のほかは帽子はなく和服姿である。子供もいるが働き盛りの青年男女である。さてはて、これは何処であろうか?

写真2


 写真3
 前の真ん中に座ってあちらを向いているのが武内勝であるが、みな正装をしてどなたとご一緒であろう? 何処なのであろう?

写真3


 写真4
 武内は中列右から3人目の蝶ネクタイの好男子。これもなぜか武内は数名の者と一緒にあちらを向いている。建物の看板は「労働文化」が見える。
 この建物の壁の作りが写真2と似ているが、どうであろう? 写真2とは、武内の顔を見ても、大分時を異にしている感じがするけれど。

写真4


 付記
 近所の古書店で、大変珍しい本――賀川豊彦の昭和6年の作品『尽きざる油壷』(新生社)――を見付けて買い求めることが出来た。嬉しいですね。表紙と賀川の「口絵」を収めて置きます。

img772.jpg

img773.jpg


 (2009年11月18日鳥飼記す。2014年4月27日付記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(75)



   「武内祐一所蔵アルバムA」から(1)   

 前回、「真部マリ子所蔵アルバム」から3枚「神戸イエス団教会」関係の写真を紹介した。「写真」が1枚あるだけで、そしてそれを見ているだけで、私たちに何かを告げるものがある。同時代のものでなくても、つながる何かがあって、時と場所を超え、心を打ち響かせる何かがある。誠に不思議な事である。

 これまで70数回、賀川豊彦の武内勝宛書簡を中心に、少しずつ見てきたが、この度ある必要があって、暫らくそれらが手元から離れることになった。
 しかし前回の写真紹介を機縁にして、今回から「武内祐一所蔵アルバムA」を初めから数枚ずつ、ここでお目にかけることを思いついた。

 前記「ある必要」と言うのは、近く神戸文学館では、年末2009年12月)から年明け3月に掛けて、「賀川豊彦と文学」の企画展パートⅡを準備中だそうで、賀川と同期生であった中山昌樹(ダンテ研究家として有名)宛の、賀川の若き日の葉書が最近発見され、ここで取り上げている武内勝宛の賀川書簡とを並べてみようという企画の為である。企画の実現を楽しみにしている。

 ここに取り出す「アルバムA」の写真は、武内勝自らコメントを付しているものもあるが、殆どの写真は撮影の場所と時が特定できていない。
 それでお手数ではあるが、武内祐一氏と一麦保育園顧問の梅村貞造氏に、「場所・時・人物特定」など御願いした。それでいくらか判明しているものもあるが、それらの解明はこれからである。

 ご覧頂いた方々の中で、例え不確実なことでもコメントをいただける方は、お手数ながら是非当方か、本サイト神戸プロジェクト事務局までお教えいただければありがたい。

 間もなく本年(2009年)12月、神戸の新しい賀川記念館は完成する。そして来春4月ごろ「賀川記念ミュージアム」もその中に開設されることになっている。ただいま、関係の方々が熱心にその下準備を重ねておられ、この「賀川豊彦のお宝発見」の作業も、それに役立てる為の一歩一歩である。宜しく御願いしたい。

写真1
「イエスの友会大阪支部」の旗がある。7人の女性、44人男性。賀川は右端、村島は後ろてっぺんのひと? 武内は後列中ほどのネクタイ?

写真1


写真2
前列中央、手を組む男が武内勝。

2写真


写真3
武内勝夫人・雪

写真3


写真4
武内勝・雪の結婚記念写真? 結婚式の場所と時?

写真4


写真5
後列右から2人目が武内。武内の仕事場の同僚?

写真5


  (2009年11月16日鳥飼記す。2014年4月25日補記)








賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(74)

img754.jpg

  昭和5年6月1日現在「イエス団教会会員名簿」 

 前回の「神戸イエス団月報」(第1号、昭和5年9月)と共に取り上げる予定であった「昭和5年6月1日現在:イエス団教会会員名簿」を今回眺めてみる。

 80年も前の歴史史料とはいえ、この種の史料を公開することには幾らか戸惑いもあるが、神戸におけるイエス団教会のかけがえのない先達たちのお名前が、ここに残されているので、あえてやはりここで紹介をさせていただきたい。

 貴重なこの史料も真部マリ子先生所蔵のもので、これにはご両親「佐藤一郎・聖子」のお名前もあり、大切に保存されていたものである。(名簿では「佐藤きよ」が「聖子」に、「賀川ハル」が「はる」に、「武内雪」が「雪子」になっている)

会員名簿


 名簿に名を連ねているのは総勢46名。男性30名、女性16名、6組の夫婦のようである。
 賀川のご家族は1926年10月に「瓦木村高木東口」に移住して丸3年、次女梅子の誕生の後であるが、1929年11月には再び松沢村へ移っているので、賀川夫妻の住所は、この時すでに瓦木村ではない。

 またこの名簿には、賀川夫妻の次に黒田四郎・百合子夫妻の名がある。
 黒田夫妻はこの名簿では「武庫郡今津町」にお住まいであるが、黒田著『私の賀川豊彦研究』(キリスト新聞紙社、1983年)によれば、それまで「大きな灘教会や中央神学校や頌栄の任務」を担っていた黒田の自宅に、1927(昭和2)年正月、賀川は突然訪ねてきて、「今度神の国運動を始めることになったから、一緒に働いてほしい」と要請された。黒田は、約1年間決心がつかなかったが遂に決心し、「神戸郊外の家から、当時先生が住んでおられた西宮市瓦木に近い今津に家を移して、先生の全日本伝道運動に参加させて貰うことになった。そこでいよいよ瓦木が神の国の中心地となったのである」(162~163頁)と書かれているので、2年ほど前から黒田夫妻は名簿の「今津町西畑中755」にお住まいであったのであろう。

 「イエス団教会会員名簿」には、賀川夫妻・黒田夫妻に続いて、武内夫妻、本多夫妻と芝むら、中山夫妻、そして医師の芝八重、井上増吉、佐藤夫妻、また「お宝発見43回」に取り上げた中村竹次郎(この名簿では「竹治郎」となっているが間違いであろう)、行政長蔵、二星福二などのお名前がある。もちろんこれを纏めて印刷した杉山健一郎も。

 「備考」には「不十分な調査と地方在住会員不明のため後日訂正いたします」と書かれており、「会員名簿」といってもまだまだ未整備のようである。

 ともあれ、この「会員名簿」がつくられ、「神戸イエス団教会月報」第1号が発行された昭和5年という時は、既に始められていた「神の国運動」で賀川と黒田は「東奔西走」(昭和4年)「悪戦苦闘」(昭和5年)「獅子奮迅」(昭和6年)「有終の美」(昭和7年)と、日本国内はもとより外国にも出かけ、東京の松沢教会の落成や松沢幼稚園の開園で賀川は初代の園長に就任する(昭和6年)頃で、この当時の神戸イエス団は、武内と杉山を中心にした、名簿記載のこれらのメンバーたちが働きの担い手であったのであろう。

 この名簿を見ると、佐藤夫妻の新婚家庭のお住まいは「神戸市西灘村上野武庫前169-2」にあったごとくである。
この度頂いた写真の中には、当時の当時のものと思われるものが2枚あった。

 一枚は、神戸イエス団教会の部屋の中だそうであるが、15、6名の人たちが、丸テーブルを囲んで、何やら笑顔のはじける楽しそうな写真である。二人の赤ちゃんもいる。
 良く見ると、たくさんの朝取りのイチゴ(?)をざるに盛り、10枚ほどのお皿にも並べ、食べ始める直前、おあづけをくっての一枚という感じである。
 マリ子先生によれば、左端が佐藤一郎、幼子を抱くのが佐藤きよ、抱かれているのがご本人。一人置いて右が芝八重、その右二人目が本多うた、右前二人目が武内勝のようである。

イエス団の仲間たち


 そしてもう一枚の写真は、これも当時のイエス団教会で、これも良く見ると、若者たちがすき焼き鍋を囲んで、食べ始めているところのようである。
 これもマリ子先生によれば、右端が中村竹治郎、4人目が武内勝、中央後ろ向きの女性が佐藤きよ。

・中村さんなど写真


 そうして時代はうんと新しくなるが、神戸イエス団教会を背景に写した1955(昭和30)年1月1日、賀川先生を囲んで写した新年礼拝のあとの記念写真。私たちが招かれる10年以上も前の写真であるが、懐かしいお顔が並んでいる。これもマリ子先生から頂いたものである。

集合写真

 黒田四郎牧師には『人間賀川豊彦』(1970年、キリスト新聞社)、『私の賀川豊彦研究』(1983年、キリスト新聞社)、をはじめ『神の恩寵を語る』(昭和9年、教文館)、翻訳『ジョン・ウェスレー信仰日誌』(昭和4年、教文館)、『H・W・マヤス説教集:神への飢渇』(昭和8年、日曜世界社)などの手元にあり、「雲の柱」などの寄稿文がたくさん残されていますが、ゆっくりと学んでみたい御人です。


     (2009年11月15日鳥飼記す。2014年4月23日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(73)

img750.jpg

  神戸イエス団月報 第一号 昭和五年九月     

 これまで2回にわたり神戸イエス団の「お宝」ともいえる「佐藤一郎・きよ夫妻」のことを取り上げた。それらはご長女・真部マリ子先生からお受けした貴重な写真や史料をもとにしたが、もうひとつ今回はそのとき頂いた、私にとっては初見の史料を紹介させていただく。

 それは、佐藤一郎氏の療養中の昭和5年9月、ガリ版印刷で発行された「神戸イエス団月報」第1号(1枚もの)と、そして「昭和5年6月1日現在」と書かれている「イエス団教会会員名簿」(これも1枚)である。

月報イエス団


 まず「神戸イエス団月報」第1号の「発刊の辞に代えて」を書き写してみよう。

 「明治四十二年、賀川先生が奮然と意を決して貧民街の救霊及び部落改善の目的を以て其の事業に従されて、廿一年目を数ふるに至ったのである。
 最初木賃宿の一室を借り受け、ここにクリスマスの喜びと共に福音の種は播かれたのである。其の後北本町六丁目二二〇救霊団(イエス団)が組織され、教会の形態が出来たのである。
 賀川先生米国留学中は、相集る青年が心を一つにして共同生活をなし、救霊団を守ったのである。吾妻通五丁目三の地に一家を借り主たる事務所となし、教会を二階に引移し、困窮者救済の一助としてイエス団友愛救済所を設立し無料施療を行ふに至った。
 無就学児童のため夜学校を開いた事もあり、又日曜学校の発展に伴ひ児童館の必要を感じ、日暮通六丁目ブラシ工場跡を手入れして日曜学校・教会・青年寄宿所となした。
 昭和四年十二月、阪神新国道新設のため、事務所は一時児童館の方に移転したが、間もなく新国道に面した吾妻通五丁目五に新建築が出来たので、早速これを借り受け、昭和五年六月、凡ての設備をととのへ、教会・日曜学校・友愛救済所セツルメント事業として活躍するに至った。
 今回与えられたる場所が不思議にも神の導きと云ふべきか、賀川先生が最初に福音の種を播かれた所でると云ふ事は、非常に有意義であると思ふ。
 「懼るるな小さき群よ、汝等に御国を賜ふことは、汝等の父の御意なり」の主の御言葉を信じ、大いに奮闘努力せられん事を。」


 賀川がここで新しい生活をはじめ、ともに歩みを重ねて満20年、その節目を越えて、杉山たちは「父の御心」を新たに受け取りなおし、新に歩み出そうとする熱い祈りを刻んだこの「発刊の辞」を記したのは「K・S・生」杉山健一郎である。

こ の種の資料では、現在発見されている「救霊団年報」第二号(明治44年12月3日に「神戸市葺合区北本町六丁目二百二十番屋敷」賀川豊彦発行の4頁活版印刷)と「神戸イエス団年報」(昭和4年2月25日に「神戸市葺合吾妻通五ノ三」神戸イエス団発行、これも4頁活版印刷)がある事が知られており、後者の「編集兼発行人」は杉山健一郎である(この2史料は『賀川豊彦初期史料集』の巻末「参考史料」に収められている)。

 この「神戸イエス団月報」が発行された昭和5年の前、昭和2年8月から昭和4年6月までのことは、この連載第47回から第54回まで「武内勝日記A」として日記の全文を紹介済みであるので、其の当時の時代とイエス団の働きの一端については、いくらか知る事が出来た。そしてそれと重なる昭和4年の「神戸イエス団年報」とこの昭和5年の「月報」で、さらにこの時点のことを想起する素材のひとつが得られたことになる。

 またこれと関連して、今回の「武内勝所蔵史料」の中に残されていた当時の『雲の柱』があったので、少し付加しておく。

 表紙に「賀川豊彦個人雑誌」とある『雲の柱』昭和4年1月号(第8巻第1号)は、「発行所・神戸市葺合吾妻通五丁目三番地」「編集兼発行人・杉山健一郎」である。

 その「編輯室より」をみると「『雲の柱』は昨年はその姿を稀にしか現わさなかった」とある事から、月刊誌の体をなしていなかったようで、この「1月号」の表紙には「更生新春号」とされている。

 そして次の2月号からは表紙が一新されている。(因みに『雲の柱』の編集兼発行人は、昭和7年2月から「武内勝」に、昭和8年8月から「金田弘義」に、そして昭和10年から「賀川ハル」に、それぞれ発行の住所と共に変わっていく。)

 ところで「月報」の「発刊の辞」を執筆した「杉山健一郎」という方であるが、横山春一『賀川豊彦伝』第9章「百万人救霊運動」の冒頭には、「賀川の世界一周の旅の間、神戸イエス団は、武内勝が中心となり、伝道に主力を注いでいた。それを本多健太郎、杉山健一郎、堀井順次、牧野仲造、佐藤一郎などが助けた」(246頁)とある。

 横山によれば、杉山は其の後、一時東京に出て学びを継続し、奥丹後地震の時にも救援活動に加わり、「昭和2年の暮れになると、東京で賀川の仕事に協力していた杉山健一郎が、神戸の貧民窟伝道に献身することになって、神戸イエス団に住み込んだ。これで再び、イエス団は活気をもりかえし、武内勝、本多健太郎などが路傍にたって伝道をはじめた」(272頁)と書かれている。

 賀川の最晩年、病床にあるときに、武藤富男らが「みんなで賀川伝を書こう」と関係者に呼びかけて原稿を集め、賀川に謹呈しようと企画したが、出版にこぎ着けるのに時間がかかり、惜しくも賀川没後に刊行された『百三人の賀川伝』(昭和35年8月、キリスト新聞社)がある。

 杉山健一郎は、1983(昭和58)年に86歳でその生涯を終えているが、この「百三人」のひとりとして「賀川とともに半世紀」と題する8頁(26頁~33頁)に及ぶ一文を寄稿している。杉山が64歳の時のものである。

 どの方の証言も貴重な証言で、特に賀川の身近に歩んだ人々の賀川観察は、味のあるものである。杉山の賀川観察は興味深いが、ここでは杉山自身のことをそこから一部を中略をしながら抜きだして置きたい。

 「私が初めて賀川先生に紹介されたのは、大正6年初夏・・先生に対する敬慕の念を高め、先生のもとに行って弟子になりたいとの念をおさえることができなかった。・・大正7年2月はるばる神戸に出た。・・神戸YMCAで働くことになった。イエス団本部は吾妻通り5の3にあり、二階建ての粗末な建物である。・・階下の土間は日曜学校や無料診療所の待合室であり、その奥の板張りの二室が診療所であり、薬局であった。医師として馬島僴氏が奉仕していた。・・集会には武内勝夫妻、賀川夫人、細民街の猫のおばさんや、稲荷下しのおばさん、下駄屋の橋本さん、その他の労働者が出席し、関西学院の学生、街からの技師や会社員もまじっていつも3,40人が出席した。・・大正12年春、賀川先生に推薦されて関西学院神学部別科に入学し願書を提出。・・その夏御殿場東山荘で開かれた第1回のイエスの友の修養会に出席・・大正15年3月私は関西学院を卒業、上京して・・奥丹後の救援、・・三陸の大津波にも・・その後神戸イエス団の留守師団長として賀川先生の事業を継承することとなった。その時、賀川先生は「僕と一緒に仕事をやって死のうじゃ」と言って下さったので一層感激したのであった。昭和5年の頃の事である。・・林間学校・・明石遠足・・古着市・・昭和12年10月、私は賀川の命を受け、上京武蔵野伝道・・大阪毎日新聞社社会事業部・・上京して白十字結核事業・・救癩事業に邁進・・何時も人間の価値は人間の側からだけでなく、神様の側に立って検討しなければならない・・賀川先生は何時も聖書に立脚して物事を神の側から判断していた・・」


 さて、今回取り上げた「神戸イエス団月報」には、上記「発刊の辞」の他に、同年6月から8月の会計収支がまとめられ、その後に「教会会計交代」という、以下の短い杉山の記述がある。

 「昭和5年6月まで業務多忙中にもかかわらず、教会のために武内勝氏が専心に事務をお取り下されて会員一同は誠に感謝に堪えません。厚く御礼申上げます。7月以降不肖杉山健一郎が事務をとる事になりましたので、今後はどうぞよろしく旧倍の御同情を以て御援助下さいます様に御願い申上げます」

 そして更に杉山は、「今後は毎月第一日曜に月報と共に会計報告をお送りしたい」旨書いているので、「月報」は継続して発行されたものと思われるが、果たしてどうであろうか。

 今回、もうひとつの「イエス団教会会員名簿」にも触れるつもりであったが、次回に回すことにする。
          

 「付記」
 先にあげた昭和4年1月の『雲の柱』更生新春号の裏表紙には、「日曜世界社」の広告で、1月末日発売の「賀川豊彦氏新著『献身へのすゝめ』の案内がある。賀川にこんな著作はあったかな?と疑問を持ちつつ、一寸その「案内文」が面白いので書き写しておく。

 「編を分かつこと四つ――聖浄憧憬編、悪戦苦闘編、弱きものの誇編、勝利編。それは神にある魂の涙ににじむ精進の消息だ。神の国を基礎とした社会正義と十字架運動への熱烈なる献身のアッピールだ。男子その一生を何に向って献身すべきか? 目覚めし女性は何に向って、その生涯を没頭すべきか? 本書は人生の岐路に立つ魂にとって行くべき進路を指示するであろう。」

 広告の『献身へのすゝめ』は『聖浄と歓喜』という書名にして、同年3月に271頁の普及版として刊行され、昭和17年には本書を『聖浄と歓喜』『復活の福音』と二分冊にして、広く読まれ続けた。

「追記」
 牧野仲造著『天国にある人美とーー賀川豊彦先生の弟子たちと松澤教会の兄姉たち』(昭和63年)には、杉山健一郎について「社会事業に生きた人ーー賀川豊彦の愛弟子」として詳しい追悼の文章があった(83頁~86頁)。ここに立ち入って付記すべき多くのことが記されているが、別の機会に譲りたい。

   (2009年11月13日鳥飼記す。2014年4月21日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(72)

img726.jpg

  「佐藤一郎」のパートナー「佐藤きよ」    

 前回「賀川に愛された善い男:佐藤一郎」として、そのことを記す豊彦の武内宛書簡と共に、一郎氏のご長女・真部マリ子先生からお聴きしたことなどを紹介したが、今回は予告の通り「佐藤一郎」のパートナー「佐藤きよ」について、短く触れておきたい。

 「佐藤きよ」は、前回記したように1966年から2年間、神戸イエス団教会の伝道師時代にはオルガにストをつとめ、お膝元の「吾妻集会」などでも共にさせていただくなど、忘れ得ない経験をした大先輩なので、ここでは以下「佐藤先生」と記す。

 マリ子先生によれば、佐藤先生の旧姓は「浜田」で、1896(明治29)年3月23日山形県上山市でお生まれになった。そして1912(明治45)年3月17日、16歳の春に、上山教会で洗礼を受けて、新しい生活を始められた。

 2年後の18歳になった1914(大正)年には、横浜共立女子神学校へ進学され、ただ今刊行されたばかりの三原容子編『賀川ハル史料集』第1巻217頁以下「横浜共立女子神学校関連資料」によれば、「1917(大正6)年第15回卒業生名簿(16名)」が挙げられていて、そこには、「賀川春」と共に「佐藤きよ(浜田)」の名があげられているので、佐藤先生は、丁度時を同じくして賀川ハルと同クラスで学ぶ学友であったことが判る。

 また、賀川豊彦の同労者の一人として知られる吉田源治郎牧師については、これまでにも時折触れてきたが、源治郎牧師の夫人・幸先生のお名前も、同じクラスの卒業生名簿に並んでいる。

 マリ子先生からこの度いただいた写真の中に、佐藤先生の卒業のときに写された、晴れ姿の写真があるので添付させていただく。

佐藤きよ

 また前記『史料集』224頁には、「大正6年6月22日」の卒業式の写真がある。これもここに添付したい。マリ子先生によれば、左端に立つ人が佐藤先生で、前列左二人目がハルさんである。幸先生はどこに写っているのであろう? お分かりの方のご教示を御願いする。(追ってこのブログにおいて補正を加えながら収める予定の「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」において、これらの詳細は明らかになる)

神学校写真

 この度、マリ子先生から頂いた史料の中に、棟方晃彦牧師の玉稿「「祈りの人」佐藤きよさんのこと」(日本基督教団西宮教会婦人会、1995年9月発行『葡萄の樹』43号)という、暖かく心の篭った追悼文が、8頁にわたって収められていた。そこには、次の記述がある。

 「1917(大正6)年6月22日卒業と同時に、きよは神戸生田川(新川)にあったイエス団教会に住み込み、賀川の伝道を手伝いはじめた。ハルと共に毎日のように路傍伝道に出かけ、説教・証詞に明け暮れた。また子供たちを集めてはイエス様のお話をしたという。もちろんいずれの場合も、きよのオルガンは強力な味方となったことであろう」(57頁)

 とすれば、共立女子神学校で共に学ぶことのできた賀川ハルとの出合いは、佐藤先生の卒業後の歩みをも決定づけるものであったことが判る。

 賀川ハルがその学び舎で、それまで豊彦や武内らと共にしてきた「救霊団」時代の「新川体験」を活き活きと語り、ここでの学びを終えてから再び「新川」に戻り、新たな決意で働こうとするハルの心意気に、佐藤先生は深い共感を覚えたのであろう。

 ともあれ佐藤先生は、「卒業と同時に、きよは神戸生田川(新川)にあったイエス団教会に住み込み、賀川の伝道を手伝いはじめた」のである。

 またこの追悼文には続けて「佐藤一郎」との出合いと結婚について、短くこう記されている。

 「こうした日々を過ごす浜田きよにとって結婚は二の次であったのか、当時としては晩婚といってよい。相手はやはり賀川豊彦の伝道に協力していた佐藤一郎という人物である。1924(大正13)年、きよ28歳の時である」(同頁)。

 結婚数年後(1928(昭和3)年)、夫・一郎が結核を発病して、養生を強いられる事になる。

 マリ子先生所蔵史料のなかに、佐藤先生の昭和20年に書かれた「神戸市稗田尋常小学校職員履歴書」がある。それによれば先生は、昭和4年の神戸市立脇浜尋常小学校を皮切りに、和田、名倉、稗田の各尋常小学校で、音楽教師を続けて家計を支えている。

 前回記したように、佐藤一郎は1937(昭和12)年4月、惜しまれつつその生涯を閉じるのであるが、その後の佐藤先生は、夫の志をも受け継ぎながら、二人の娘たちの子育てとイエス団の働きに明け暮れるのである。

 佐藤先生のお働きについては、ここで詳しく御伝えする事は出来ないが、私たちの経験できた短い2年間だけでも、その一端は直接見届けさせていただいた。

 そして佐藤きよ先生は、あの阪神淡路大震災の2ヶ月余り後の1995年4月6日、満99歳を迎えられた年の春、天寿を全うされた。

 ここでは最後に、棟方牧師の追悼文の中に収められている、佐藤先生93歳のとき、神戸イエス団教会から贈られた「感謝状」のことばと、多分「横浜共立女子神学校同窓会」での記念撮影ではないかと思われる貴重な写真を1枚紹介させていただく。この写真には、左から佐藤きよ、賀川ハル、吉田幸の各氏が並んでいる。

写真三人


 感謝状
 「佐藤きよ様
  あなたは当教会のオーガニストとして、半世紀を越える長年にわたり、礼拝と諸集会のために、
全身全霊をもって賜物をささげて下さいました。
 このことをなされた神様の御名をたたえると共に、数々のなつかしい思いをこめ、教会をあげ
て深く感謝の意を表します。
   1989年7月20日
   日本基督教団 神戸イエス団教会   
                         牧師 村山盛嗣  教会員一同」

 マリ子先生所蔵のアルバムには、貴重な写真が多く残されているが、それらはまた別の機会にご覧頂くことにする。
             
   (2009年11月11日鳥飼記す。鳥2014年4月19日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(71)

img719.jpg

  賀川に愛された善い男「佐藤一郎」   

 今回の書簡は、前回取り出した「神戸市灘道下ル東遊園地 東部労働紹介所 武内勝様 侍史」と表書きされ、「本所基督教産業青年会 賀川豊彦」と裏書された封筒の中に入れられた3通の書簡のうちの1通である。

武内宛封筒

 確信は持てないが、筆跡などからして多分この1通だけが当初、この封書にあったのではないかと思われる。なぜなら、封書に書かれた日付は「六月十日」とあり、消印は「?3.6.10」と見えるので、これも仮に「大正13年6月10日」に投函されたものとして読みといておく。

 この書簡は「賀川原稿用紙」を用いて4枚に記されている。
豊彦がここに「私の愛している善い男」と書く「佐藤君」という青年は、武内が『賀川豊彦とそのボランティア』の中で「特に忘れる事のできないのは佐藤一郎氏であります」(266頁)として、次のように語り残していた人物である。

 「但馬の人でありましたが、幼い時分から東京に出て行って、あるところで就職して、長年働いたことによって一千円の貯金をいたしました。おそらくコーヒー一杯も飲まずに貯めた金であると思います。無駄使いを一銭もしないで貯めた、実に汗と脂との結晶であったのであります。
 その金を「全部新川に献金し、私はここで、奉仕をして働きたい」と申し出てこられたのであります。
 普通、就職の時は、「月給は幾らか、就業時間は何時から何時か、公休日は何日か」等、待遇について問われるのであることは誰でも考えるところであります。また、その保障なくして生きて行けるはずもないのでありますが、自分が長年かかって貯めたところのものを全部出して、財産の全部を捧げて、猶喜んで一身を捧げ、奉仕するというような青年は、そんなにおるものではない。
 いろいろな相談は沢山ありましたけれども、こういう相談に参った人があったことは、イエス団に於いて特筆しなければならないことであったと思うのであります。」(266頁~267頁)
 
     *       *        *        *

書簡「佐藤」


 豊彦の文面は以下のとおり。

  武内勝様
  その後色々御世話になります。さてイエス団の児童館の方を独立してやって行
く運びが付いたことをうれしく思ひます。
  然しそれに就て、私は佐藤君と堀川君(仮名)などの間に多少感情の衝突があ
  るように感じます。どうですか?
  先日、堀川君(仮名)が東京の青年会を訪問した時などは、あまりその態度に
  感心しませんでした。私に案内せずに、松沢村に三日も引篭もり、産業青年会
  には少しも手伝ひせず、私に案内せずに帰神するなど殆ど無茶です。あんなこ
  とで、神学生(3字傍点)などに推薦することは絶対に出来ませぬ。私はあの
  調子では、とても善き奉仕者として立つことは出来ないと思ひます。口では甘
  いことをいうても、愛の感化(4字傍点)は無いと思ひます。そして佐藤君に
  対しても実に失敬なことを云ふて居るようですが、それは大によろしく無いと
  思ひます。
  「佐藤」は私の愛してゐる善い男で、私はあの人間を大に用ゐて行きたいと思
  ってゐます。仕事の出来る男ですから、佐藤君を神戸に置いておく以上、佐藤
  君を疎外することは私の堪え得ることではありませぬ。
  堀川(仮名)が、失敬なことを云ふて居るようでしたなら、佐藤君に謝罪させ
  て、佐藤君に「救済所」の事務を取って貰わねばなりませぬ。
  独立は結構ですが、イエス団も発展が止まりますから、あまり堀川君(仮名)
  などの負担を重くしないでやって下さい。青年期の心理として、あまりはやら
  無いでやらせて下さい。
  私は、佐藤君の心配してゐる手紙を見て、私の運動をうしろめたく無いように
  するために、この手紙を書きます。
    主にありて                     
                               賀川豊彦
 
    *      *      *      *

 賀川にも武内にも深い信頼を得ていた佐藤一郎氏については、はじめに挙げた武内の口述でよくわかるが、うかつにもそれ以上のことはこれまで知り得ていなかった。

 ところが佐藤一郎氏の奥様が、私たちが1966年から2年間「神戸イエス団教会」の伝道師として賀川記念館で働いていた時大きな影響を受けた、あの「佐藤きよ」さんであったことを知らされた。

 「佐藤きよ」さんのご長女・真部マリ子先生は、その当時からよく存じ上げ、私たちが長田区番町に住まいを移して新しい生活を始める2年前(1966年)から、この地域に建てられたイエス団の施設のひとつ「天隣乳児保育園」で働かれ、1991年からはその園長として1997年までお仕事を続けてこられた方である。

 今回この書簡を読み解く必要もあり、改めて数回真部マリ子先生とお会いして貴重なお話を聞くことが出来た。

そして古いアルバムや珍しい資料など拝見させていただき、お父様の「佐藤一郎」さんのお話を伺った。

 ここに添付する写真は、古いアルバムの中の一枚で、佐藤一郎氏のご結婚の頃のものようである。

佐藤

 マリ子先生によれば、佐藤一郎氏は1902(明治35)年6月12日、兵庫県朝来郡和田山村176番地に生まれ、1924(大正13)年に浜田きよ先生と結婚。1927(昭和2)年に長女マリ子誕生。1929(昭和4)年に次女郁子誕生。マリ子誕生の翌年1928(昭和3)、一郎氏は結核を発病、養生を重ねたが遂に1937(昭和12)年4月11日、36歳という若さで、その生涯を終えられた。

 武内の所蔵していた『雲の柱』(大正14年2月号)をめくっていると、佐藤一郎氏の「神戸貧民窟日記」という貴重な記録が掲載されていた。

 佐藤氏のイエス団での生活とお人柄を髣髴させる作品であるが、そこにも賀川が「佐藤兄は、私の留守を守って貧民窟で苦闘して下してゐる同志です」と記している。

 また、佐藤氏は「イエスの友会報」の第7号(大正13年12月15日)と第8号(大正14年1月15日)にも「或癩病人の話」という丁寧な「聞き書き」の作品を、2度に分けて寄稿している。他にもまだ佐藤一郎氏の作品はあるかもしれない。

 マリ子先生のお話では、一郎氏は読書家で、書くこともお好きだったようで、こまめに「日記」も書き残し、現在もそれが大切に保存されているそうである。

 なお、私たちには特に印象の深い「佐藤きよ先生」は、賀川ハルと横浜共立女子神学校のときの同級生でもあった御方である。これらに就いては、次回に少し触れてみたい。
 
  (2009年11月9日鳥飼記す。2014年4月17日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(70)

img717.jpg


  この2書簡は「歯ブラシ工場」設立時のもの? 

 賀川豊彦は1917(大正6)年5月に留学先から、一月遅れてハルは6月に横浜での学びから新川に戻る。留守中、武内らの経験した「独立イエス団」と呼ぶ、それは「生涯一番愉快な時であった」と武内が振り返るあの「共産生活」の実験に続いて、誰かに雇われて働くのではない「協同労働」の実験とでも呼べる新たな小さな試みの準備を、武内と賀川の発案で開始する。

 数ヶ月の準備のあと、武内と本多健太郎がまず大阪に出向いて「歯ブラシ工場」の仕事を見つけ、神戸でその仕事を始める目安をつけて、本格的に武内・本多のほか2名を加え、大阪での「見習研修」を重ねた。

 そして「イエス団」の近くの「日暮通6丁目」に「歯ブラシ工場」が開設されていくのは、同年11月の事である。

 ここで取り上げるふたつの書簡――ひとつは「トヨヒコ」から、ひとつは「春子」代筆――は、繰り返し読んで見るのであるが、いずれもその「歯ブラシ工場」の時の書簡のように思えるものだから、ペンディングのままこれまでここで取り上げるのを避けてきた。

 ところで、実はふたつの書簡とも「東京市本所区松倉町2丁目 本所基督教産業青年会 賀川豊彦」と印刷された封筒に入っていて、宛先も「神戸市加納町下ル東遊園地 神戸労働紹介所 武内勝 侍史」となっている。

 そして一つの封筒の消印は「13.8.29」(以下「封書A」と呼ぶ)であり、もう一つは年代は不明であるが「?.6.10」(以下「封書B」と呼ぶ)とある。もしこの封書にふたつの書簡が入っていたものであれば、神戸時代の「歯ブラシ工場」の時のものではないことになる。

 ただふたつの封筒共に、複数の書簡がいれられているのである。以下、そのことにも触れて、文面を取り出してみる。

    *       *       *       *

 「封書A」には、この「お宝発見」第19回に紹介したことのある<「馬の天国」と西川のおじさんの死>の1枚の書簡と「履歴書」1通も収められている。
 ともあれ、本文は以下のとおり。

武内宛書簡「武内さん」


  武内兄
  先達より祈って居た 工場の与へられたことは既におききのことと存じます。それで、
  工場を見に一寸一日帰って来て下さい。出来るだけ早く帰っていらっしゃい。
  そのついでに「株券」を記入する紙を大阪の「紙」屋で尋ねて帰って来て下さい。
  また、大阪の人々も愈々工場が出来ると、帰って頂く様にと言ひ伝へて下さい。

  ヴイルス氏は1万円の歯ブラシュを注文したそうです。愈々と云ふことになると、貿易
  商に渡さねばならぬが、どうぞ、大阪の市場のことをよく取り調べて下さい。                         
                             トヨヒコ


      *      *      *      *

 「封書B」には、以下の「春子」代筆分とは別に、「賀川原稿用紙」4枚に書かれた日付のない豊彦の武内宛書簡(次回70回目の「お宝発見」で紹介する予定)と、「イエスの友会」用箋3枚に「三月三十一日」付けとなっている豊彦の「代筆」(「春子」代筆ではない)書簡が入っている。

 予定外であるが、ここでこの「三月三十一日」付けの「封書B」の書簡の紹介を済ませておきたい。コメントは省略。

  武内勝様
  奥様のご病気は如何で御座いますか。私は又パンヌスが来まして十日ばかりねて了
  いました。この調子では又長びくやうで困ってゐいす。少しも無理が出来ぬので大
  弱りです。又十日位ねなければならぬと思ひます。
  神戸の経費が多く要り過ぎるので弱ってゐます。勿論只今では姉のためにも金がい
  るのですが、二月には七百二十二円いりました。姉にかかった百五十円を引いて五
  百七十円位かかってゐるやうですが、たとえば毎月水道料金十円いるようになって
  ゐますが、あれをもっと有効に使う方法がありませんでせうか。吾妻通り五丁目の
  水道栓を閉鎖して、他に汲みに行くやうにしたらいかがでせうか。木村義吉氏に話
  して、私の近所に水道の括栓を一つ作って貰って下さい。尚、かうすれば能率が上
  ると云ふことをあなたから私に教へて下さい。
    三月三十一日                   賀川豊彦(代)
 
  二伸 吾妻通五丁目を河瀬さんが借りに来たさうですが、あそことは財団法人の住
  所になってゐますので、道路でもつかねば動くことは出来ませぬからご承知下さい。
 

    *      *      *      *

 同封の和紙の1枚に記された9月18日付けの春子代筆分の文面は、以下のとおり。

昨日は武内様


  武内様
  昨日は失礼致しました。只今工場設立に用ゐました資本金六百円が出来ました。それで、
  そのことを御知らせ致します。
  序に申し上げますことは、どうぞ出来るだけ充分にその仕事に就いての熟練(2字二重丸)
  をなすって頂き度いので御座います。
  そのために教授して下さる西洋人二人も出来ました。
  機械も昨日御話の通り古いのが有りますればなるべく古いものを用ゐて頂き度う御座いま
  す。もし御座いませねば新しいのを御求め下さいませ。賀川は只今市長を訪問致しますた
  め外室致しました故、私が代筆致しました。
    九月十八日                            春子
 
 
      *       *       *       *

 以上、少しく込み入ったコメントになったが、今回のふたつの書簡は、神戸時代の「歯ブラシ工場」に関連するものではないかと看做しての紹介である。しかし上記のように、同じ封書に複数のものが混在していることからの、これは一応の判断に過ぎない。

 なお、武内らの「歯ブラシ工場」の準備とその工場運営、さらにその顛末の詳しい報告は、武内勝口述記録『賀川豊彦とそのボランティア』225頁~236頁、261頁~264頁までに記されている。(この作品は、ただ今「賀川豊彦献身100年記念事業」のひとつとして装いも新たに刊行準備が進んでおり、今月(2009年11月)末には新版『賀川豊彦とボランティア』の書名で、神戸新聞総合出版センターからお目見えする。

  (2009年11月6日鳥飼記す。2014年4月13日補記)




賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(69)

img710.jpg


  大阪四貫島教会復活運動 

 前回は賀川の「島根県伝道」に関係する葉書を紹介した。高齢を押して連夜の夜行列車、しかもその間に武内とのいつもの相談事を済ませ、いそいそと「伝道旅行」に出向いてゆく賀川豊彦の生活ぶりの一端を、あの文面から感得してみたりしてみた。

 今回の書簡はほぼそれと同時期のものであるが、彼はこの時、越後方面の伝道の旅に出向いていたのであろうか、封筒の裏には「新潟県小出町より」と記されている。

 「26.11.21」と消印のある「速達便」で、封筒の表には「至急親展」と記されている。文面に書かれている「1951年11月1日」の日付は、恐らく賀川の書き間違いであろうか。

武内宛封筒


 宛先は「神戸市葺合区吾妻通5丁目 神戸イエス団 武内勝様」であり、珍しく市販の原稿用紙1枚に記されている。

 書簡の内容であるが、「大阪四貫島教会復活運動」と名付けられた特別集会の予告と武内への準備依頼である。

過日、小川佐和子さんから頂いた『四貫島セツルメント創立80周年』の「年表」には、この年5月「再建の勇者小川三郎牧師が、一切を辞任して四貫島を去られた」(18頁)とある。そして小川秀一著『恩寵七十年』には「小川先生が去られるとイエス団常務理事の武内勝氏が全体の業務を引き継ぎ、活動を続けた」(190頁)と記されている。

   *       *      *       *

本文は、以下のとおり。

武内宛書簡

 
  武内勝兄
  新潟県小出
                       賀川豊彦
  敬 来る十二月一日より四日間、毎夜 大阪四貫島にて、同教会復活運動をいたします。
  就いてはイエスの友総動員にて 応援なり、祈祷会を開いていただきたく 伏してお願い
  申上げます。十二月五日、六日、は神戸にて、七日は姫路にて、更に、八日、九日は神戸
  大阪に帰り、九日の日曜日は朝イエス団、夕、また大阪四貫島にて集会を催す予定です。
  何卒よろしくお願い申上げます。

  牛乳会社のことを心配していますが、いかがですか? また、その後の「頼母子講」を
  心配いたしております。1月が山 だと聞いていますが、いかがですか? このことに
  つきご調査の上ご報告を願いあげます。
  主にありて 
    一九五一・十一・一                  トヨヒコ 
  広告の点よろしくお願いたします。
  ビラ張りをも 神戸イエス団の有志、生野聖浄会館の同志に依頼して下さい。費用は出
  します。

    *       *       *        *

 今回の12月1日から9日間にわたる大阪・神戸・姫路にまたがる賀川の働きも、連日連夜の強行軍である。そして関係者によるこの「四貫島教会復活運動」がみのり、翌年(1952年)2月には、戦後賀川の依頼を受けて徳島で開拓伝道を続けてきた小川秀一牧師が、この時再び「賀川先生に依頼され、大阪四貫島教会とセツルメント(天使保育園を含む)事業を引き受け」(前掲『80周年』47頁)、1985(昭和60)年10月20日83歳の生涯を閉じるまで33年間を、四貫島で活躍した。

 なおこの書簡の後半には、賀川が心配して武内に報告を求めている「牛乳会社」と、もうひとつの心配事――この時「1月が山だと聞いている」「頼母子講」――に関しては、いまの私にはコメントを付す材料を持たない。ご存知の方のご教示をお待ちしている。
 
    (2009年11月2日鳥飼記す。2014年4月13日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(68)

img699.jpg


  連夜の夜行列車で「島根県伝道」に向う賀川 

 前回は1956年の「北米最後の旅」からの、前々回は1955年の「ブラジルの旅」からの賀川の書簡を取り上げてみた。今回は1952(昭和27)年のこれは日本国内、中国地方山陰の「島根県伝道」に向う一枚の葉書である。

 豊彦自身による世界伝道の記録は「永遠の乳房」(大正14年)「雲水遍路」(大正15年)「世界を私の家として」(昭和13年)などで報告され、国内伝道の記録も「彷徨と巡礼」(昭和8年)などの書物にして書き残されている。

 国内外での賀川の伝道の旅は、行く先々に賀川を待つ人々がいて、昼夜の講演をもいとわず、旅先ではその土地の自然や歴史に触れながら、地元の人々と親しく交流を重ねて、エッセイや歌集「銀色の泥寧」などに残している。
 勿論そこには、賀川が出向こうとしている山陰の島根や鳥取伝道の作品が綴られている。

 「彷徨と巡礼」の作品は、所謂「神の国運動」の折のものであるが、その「序」に、賀川はこんな言葉を綴っている。
 
 「恐らく私は死ぬまで、かうした彷徨に、身を委ねなければならないのであろう。労働街から農村へ、農村から労働街へ、貧民窟から震災地へ、私は、定住する処もなく、月のうちに何日かは、薬瓶と一緒に旅行を続けることであろう。(中略)冬の真夜中、停車場の待合室で、慓えながら神を瞑想する嬉しさも、聖堂に於て礼拝をする嬉しさと比べて嬉しさに変わりはない筈だ。(中略)一つの迷へる霊魂のために、山を越え、野を越え、谷を越えて彷徨しなければならぬ運命に、みづから委ねてゐるのだ。」(5頁)

 今回の島根の旅は、「松江市、島根県伝道」とあるだけで詳しい事は判らないが、賀川は松江などには何度も訪ねた場所である。

 
    *       *       *       *

島根伝道



 「速達」のこの葉書は、消印から昭和27年5月2日に東京・上北沢から投函され、「神戸市葺合区吾妻通五丁目 神戸イエス団 武内勝様」宛に翌日5月3日に着いている。
 本文は、次の通り。

   口上 来る五月五日午前九時半
   湊町着(朝九時半)(列車大和)で大阪着、その夜
   松江市、島根県伝道に向ひます。「天王
   寺」には九時十五分位につくと思ひます。
   駅でおめにかかりたいものです。
   一麦保育園、牛乳会社の相談したいものです。
                  賀川豊彦
   尼崎生駒氏の従業員植野兄は、近く豊島に療養に行き
   たいと云ふのですが、「食費」はどれだけ負担できますか?


    *      *      *      *

 賀川はこのとき64歳である。文面では、大阪に朝到着する夜行列車で東京を出発する予定になっている。到着するその日は、特に急ぎの用事として「一麦保育園」のことと、前回も触れた「協同牛乳会社」の問題についての相談事があった。

 朝9時半に着いて武内と駅で落ち合い、どの場所でか判らないが、昼のあいだに相談事を済ませておいて、その夜また夜行列車に揺られて島根に向うというのである。

 賀川と武内にとってこの当時は、前年神戸イエス団を財団法人化し、続いてこの年も神戸愛隣館を社会福祉法人へ組織変更するなど事業の組織的整備を意欲していた時であるので、二人の間の意思疎通を図ることも必要であったであろう。

 ただ、今回の書面の文言は、「駅でおめにかかり」、足元の諸課題をふたりでゆっくりと「相談したいものです」という、いつものように「伝道」に出かける賀川のうきうき感が伝わってくる「速達便」であるように感じられる。

 さて、今回の「松江市、島根県伝道」はどんな楽しみが待っていたのであろうか。

 私はまだゆっくりと「雲の柱」などに連載している黒田四郎による賀川と共にした「伝道記録」を読んではいない。貴重な記録であるので、これらは時間をかけていずれ纏めて残して置かねばならない。

   (2009年10月31日鳥飼記す。2014年4月11日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(67)

img696.jpg


   賀川の北米への最後の旅先から(1954年)

 前回取り出した賀川の絵葉書は、1953(昭和28)年のブラジル伝道の旅先からのものであった。翌年8月15日から8月31日までEvanstonで開催の第2回世界キリスト教会議に、賀川は招待された。

 7月1日羽田空港を出発し、10月20日に帰国したおよそ4ヶ月間の長旅は、60歳半ばの彼にとって、北米への最後の旅となった。

 今回の旅も、目的の会議への参加以外に、多忙なスケジュールが組まれるなか、期待に応えて奮闘する。(その詳細は「人物書誌大系37」所収「年譜」654頁~656頁並びに「賀川豊彦伝」警醒社版524頁~527頁参照)。

 今回の書簡は「簡易封筒」に書かれた航空便で、旅の終わりに近い10月16日付けのLosAngelesからのものである。

 宛先は「神戸市生田区布引町1丁目 神戸協同牛乳会社 武内勝様」

    *      *      *      *

賀川の書簡


 文面は以下のとおり。賀川の心積もりが達成できなかったことを、武内に洩らした短いものである。

  武内勝兄
  米国の旅行もあと五日間になりました。日本の反米運動が祟り、日本の為めの献金も
  少ないので、今度は、米国内の教化運動に力を入れました。それで、殆ど、日本の貧
  民窟及び農村の為めの会堂建築資金らしいものは集まりませんでした。で、この場合、
  神戸・西宮に積極的な建築をしたいと思ったですが、中止せねばならないと思れます。
 
  米国では牛乳があまり、外国にバターを売りに出てゐますから、日本のバターも安く
  なるでせう。ですから、『神戸協同牛乳』も良く考えて、手堅く、業務を進めてくだ
  さい。世界全体に牛乳過剰だそうです。だが、日本では足りませぬから、あまり、
  「布引町」に集中しないで、分散主義を取って下さい。

  十月廿四日頃には東京羽田飛行場につく予定に致しております。

  毎日、『宇宙目的論』の研究を、旅行中もつづけてゐます。早く書き上げたいです。
  色々、神戸イエス団のことも御世話になります。消費組合のことも心配してゐます。
  天父にある恩寵を愛兄の上に祈りつつ 
                                 賀川豊彦
    一九五四・一〇・十六


     *       *       *       *

 この書簡は「神戸協同牛乳会社 武内勝様」宛であり、書簡の後半部分で賀川は、武内がそこの社長の大任を背負い、経営的にも苦労を重ねたといわれる「神戸協同牛乳」のことに触れている。

 この書簡が書かれた後も賀川は、困難を極めた「神戸協同牛乳」の運営に言及する数通の書簡を書き残しているが、この事業の全容に就いてまだ、適切なコメントを加える準備ができていないので、それらの書簡の公開はいま控えさせていただく。

 そして書簡の末尾で、「早く書き上げたい」と記す『宇宙目的論』は、周知の如く賀川豊彦の若き日からのライフワークとして思索を深めてきたものであるが、愈々完成の時を迎えており、賀川はこの旅先にあってもその執筆に打ち込んでいた事が判る。

 この著作が実際に刊行されたのは、この書簡の4年後(1958年3月)ことである。書名を『宇宙の目的 Purpose of Universe』と改め、毎日新聞社から出版した。


出版写真


 添付の写真は、東京・富士見町教会を会場にして「賀川豊彦先生『宇宙の目的』出版記念祝賀会」に出席した人々が、賀川夫妻を囲んで参集したときのものである。「賀川豊彦写真集」に収められている。

 因みに、賀川は『宇宙の目的』の最終章「宇宙悪とその救済」、その結びの言葉を取り出しておく。

 「宇宙に目的ありと発見した以上、目的を付与した絶対意志に、これから後の発展を委託すべきだと思う。さればといって、なげやりにせよという意味ではない。私は、人間の意識の目ざめるままに、すべてを切り開いていく苦闘そのものに、超越的宇宙意志の加勢のあることを見出すべきであると思う。」(365頁)

 『宇宙の目的』は残念ながら日本の読書界において殆ど歓迎されることはありませんでしたが、21世紀のこの時代になって注目の兆しがある。特に、このたび本書の英訳が、Thomas Hastingsの序文が付され、James W.Heisig訳で『Cosmic Purpose』として刊行された。最新の『雲の柱28』(賀川豊彦記念松沢資料館刊)には、「序文」の翻訳が加山久夫先生によって掲載されている。
 
   (2009年10月27日鳥飼記す。2014年4月9日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(66)

img691.jpg


  ブラジル伝道の旅先から絵葉書2葉 

 賀川は晩年65歳の時、体調整わぬ中、1953(昭和28)年1月28日、ブラジル伝道に出発した。日本からのブラジル移民の人々の招きに応えたものであった。

 途中ニューヨークで国連本部を訪ねるなどして2月5日にブラジル着、5月15日まで滞在した。帰路メキシコを経てロスアンゼルスとハワイで講演を済ませ、6月24日羽田空港に帰国という長旅であった。

 ほぼ時を同じくして、武蔵野農民福音学の校長をしていた横山春一がブラジルから招かれており、サンパウロで賀川と落ち合う機会もあったようである。

 そのこともあってか、1950(昭和25)年に「賀川豊彦伝」(新約書房)を書き下ろし、翌年にキリスト新聞社からそれの再版を出した後、横山は、1959(昭和34)年に、索引を付した大幅増補版の「賀川豊彦伝」を箱入りで警醒社から出版し、そこに「ブラジル伝道」の記述を残している。

    *      *      *       *

 賀川豊彦は、ブラジル伝道の旅先から二つの絵葉書の航空便を「神戸市葺合区吾妻通五丁目六 イエス団 武内勝様」宛に出している。


ブラジル絵はがき絵


 ひとつは、1953年4月19日に記したものである。
 その文面は、

 留守中心配をおかけします。ブラジルはインフレが甚だしく紙幣の価値が半分に下り
 日本に帰る旅費に心配する位です。六月廿日頃帰ります。七十日間に辛じて四千人し
 か決心カードが貰えませんでした。二世は日本語がわからず、一世は老人ばかりです。
 祈って下さい。
 アメリカにまた帰り、ハワイ廻りに帰ります。主にあれ
  一九五三・四・十九 
                           賀川豊彦
                             ブラジル
  白倉・辻本両氏その他みんなによろしく  

    *       *       *       *


アマゾン絵はがき絵


 もう一枚は、「アマゾン河にて」1953年5月23日に出されている。
 その文面は、

 啓、 ブラジル伝道を了り、アマゾン移民の研究に移り、本日出発して、メキシコに
 移ります。あしこで約十日伝道し、更に加州に十三日、ハワイ一週間、六月廿三日帰
 朝予定です。ブラジルでは老人の間に日本人約五千三百人の決心者がありました。
 みめぐみの中に支えられ困難な伝道をして来ました。六十数日間無休でしたので堪え
 得たことが不思議です。留守中よろしくお願いたします。
 辻本、その他の皆様によろしく。
  一九五三・五・二三                  賀川豊彦 
                              アマゾン河にて

     *       *       *       *

 両書簡末尾にある「白倉・辻本両氏」のうち「白倉」については、前回少し触れることができた。「辻本」は「辻本四郎牧師」のことで、戦後1948(昭和23)年から1952(昭和27)年まで神戸イエス団教会の牧師を務め、高齢で引退後も長くイエス団教会にあってよい働きをされた。

 ところで、先日兵庫県三木市の「一粒園保育所」の大岸坦弥・とよのご夫妻が拙宅にお越しになり、青春時代の貴重なお話と共にアルバムもお借りする事ができた。


辻本写真


 添付の写真はその中の一枚で、番町で開館したイエス団の「天隣館」において、戦後早々に開設された「長田保育所」の卒園写真(昭和23年3月23日)。
 後列右から4人目が辻本牧師である。その右が斎木ミツル先生、その右が大岸とよの先生、左から3人目は武内勝氏、左端が林幸金牧師である。

 個人的なことであるが、神戸イエス団教会の伝道師時代(1966年~1967年)、辻本四郎牧師は90歳を越えてなお矍鑠としておられた。1968年から「番町出合いの家」を開設して新しい生活をスタートした時には、御祝いにといって、大切にしておられた内村鑑三の「聖書之研究」誌をドッサリ御贈り頂いた。武内の愛読書が「聖書之研究」であったことは、すでにこのサイトで紹介済みである。

 なお、辻本牧師には昭和37年に活水社書店より刊行された『死と永遠の生命』という著作があることを後に知った。88歳の時の労作で、それには「著者略歴」が付されている。賀川が神戸神学校本科三年生在学中に、辻本も神戸神学校に入学しており「爾来親交を得た」とある。昭和15年よりイエス団の社会事業に関係し、1949年2月より牧師の働きに就かれたようである。

   (2009年10月23日鳥飼記す。2014年4月7日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(65)

img688.jpg


  長田伝道に白倉正雄牧師招聘 

 「救霊団」時代から路傍伝道などで「長田番町」にまでも足を運んでいたことは知られている。そして地元のよき協力者を得て、1919(大正8)年には「イエス団友愛救済所長田出張所」を開設し、馬島僴や芝八重などが医師として献身する。その後新たな拠点として別の場所に「天隣館」を設け、斎木進之助・ミツル夫妻などを中心に戦中戦後、保育所や学童保育など、地道な働きを継続してきたことなどは、すでにこれまでの賀川書簡を通して紹介してきた。

 今回の1952(昭和27)年4月2日、東京上北澤から投函された「神戸市東灘区御影町郡家七ノ一 武内勝様」宛の賀川の書簡は、「長田伝道」に献身する白倉正雄牧師の招聘に関るものである。

 添付の写真は、「昭和32年、イエス団の理事達と長田のセツルメントの人達」とコメントのある「賀川豊彦写真集」所収のもの。全列中央に賀川と武内、その後ろ中央が白倉正雄牧師。


白倉らの写真


     *      *      *      *


白倉にふれた賀川の手紙


 賀川豊彦用箋に2枚である。本文は、

  武田勝様
  冠省 私の希望として、どうしても長田の伝道を強化したいので、今度、
  白倉牧師(神戸神学校卒業、現今福音神学校教授)を連れて西下します。
  で、よく同氏と面会して話合って下さい。教団へ再加入するので、試験
  をも一度受けねばなりませぬ。 問題は家の問題です。イエス団の二階
  は明いてゐませぬか?
  子供さんは三人(高等学校、中学三年、尋常六年)奥様はオルガンも上
  手、保母も出来るし(まだ免状取ってゐませぬ)ミシンも上手です。裁
  縫の先生も出来ます。
  私の希望では、日曜朝は、西宮北口の牧会もして貰ふと善いと思ふので
  す。あまりあしこを捨ておくと惜しいと思ふのです。私から吉田牧師に
  相談してみます。
  主にあれ 一九五二・四・二
                          賀川豊彦


     *      *      *      *

 1959(昭和34)年1月6日、賀川が病を押して、最後の四国伝道を試みた時に同行したのが、「長田伝道所牧師」であった白倉牧師であったことは良く知られている。翌年4月23日、賀川はその波乱の生涯を終えるのである。

 賀川の亡くなる一月前(1960年3月)、神戸市は番町に「長田厚生館」を開設して改善運動の拠点をつくり、白倉を嘱託館長に招く。白倉は深刻化していた当時の麻薬問題解決に立ち上がった「麻薬撲滅対策協議会」(番町と新川に結成された)の活動にも参画し、地域運動の本格化する前のいわば草創期に努力した先達のひとりである。白倉牧師夫妻のお話は、生前いちどご自宅をお訪ねしてお聞きしテープに収めている。

 番町には当時、イエス団の「神視保育園」が1958(昭和33)年に、「天隣乳児保育園」が1960(昭和35)年に開設して現在に至っている。
   
 (2009年10月22日鳥飼記す。2014年4月5日補記)

賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(64)

img685.jpg


   眼病悪化の中「賀川服・賀川靴」普及の事など 

 豊彦が眼病のため視力を失うのは度々であった。今回取り出す1926(大正15)年6月19日付けの書簡を認めた時も、同年3月半ばから眼科への長期入院治療を強いられた後であった。

 目の不自由な中、賀川は新しい作品を口述筆記で仕上げている。「秋に出す書物を二冊書いております」とあるのは、名著2冊「魂の彫刻」(文化生活研究会)と「暗中隻語」(春秋社)の事であろう。

 また、「イエス団代理部」をつくり利益を得て、家賃に当てようとした「賀川服」は、大阪の消費組合共益社が大正10年に「夏服一着一円五十銭、コール天の冬服一着七円五十銭」で売り出して好評を博し、この頃も「毎月六千着近く売れて、共益社の危機を救った」といわれるヒット商品である。

賀川服


 「東京市本所区松倉町二丁目六二 賀川豊彦」と印刷された封書で、「神戸市東遊園地 労働職業紹介所 武内勝様」宛てに差し出されている。

    *      *      *      *

 「賀川原稿用紙」に2枚ずつ2通が収められている。
 一通は代筆である。この時の口述者は山路英世と吉本健子の二人であった。
 代筆本文は、

 武内勝様 侍史
 前略御赦し下さい。
 扨て、神戸消費組合に貸してあった五百円が貰えるそうでありますから、それを
 資本にして、イエス団代理部を作り、歌さんの名義にしてでも、鑑札を受け、賀
 川服と賀川靴などを売り、その利益を持って、イエス団の家賃また長田の診療所
 などの家賃などを支払ふ様にして下さい。私は九月の末頃また神戸に行きたいと
 思って居ります。視力は恢復しませんが、悪い方ではありません。東京で、眼球
 に酸素注射を試みて見たいと思って居ります。唯今は筆記して貰って、秋に出す
 書物を二冊書いて居ります。イエス団の皆様に宜敷お伝え下さい。
  主にありて               アーメン    賀川豊彦
  乱れ書で代筆をお赦し下さい。


書簡本文

 
    *       *       *       *

 もう1通の2枚は、賀川の直筆である。
 本文は、

 武田勝様
     侍史
                              賀川豊彦
  其後如何でいらっしゃいますか。私は食塩注射を静脈の中に,隔日に行って
  居ります。
  御蔭で段々見えて来ると思ひます。医者は血が足らぬのだと云ふて居ります。
  近い中に 約二ヶ月間の予定で海抜四千尺位の高原地方に行き度いと思って
  居ります。医者がそれを奨めて呉れてゐるのです。
  扨、消費組合の組合長の問題ですが、妙になって困って居ります。それで若
  しも本多君や中山君が困らなければ、私はすっかり神戸消費組合から手を切
  って了ふ心算で居ります。即ち、理事長と理事両方をやめて仕舞ふつもりで
  す。之に就いて本多君と、中山君の意見を至急きいて、私に知らせて下さい
  ませんか。私は眼が少し見える様になれば、一寸西下したいと思ってゐるの
  ですが、両方とも殆ど視力が同じなものですから、動くのを心配してゐるの
  です。奥様にもよろしく。至急ご返事下さい。

    *      *      *       *

 後便の「至急ご返信」を求めている「消費組合の組合長の問題」云々の事についての内情は良くわからないが、賀川が心の内にあるいまの「心算」を、心許せる武内に密かに洩らし「私信」で、賀川はこれを「代筆」とはしなかった。
    
         (2009年10月19日鳥飼記す。2014年4月2日補記)


プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。