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賀川豊彦の畏友・武内勝の所蔵資料より(93)


  河野洋子所蔵写真(5)   

 お預かりした「河野洋子所蔵写真」は、今回の2枚で一先ず終わりになる。先生が所蔵されているお宝は、また改めてゆっくり眺めさせていただく機会もあるであろう。

 以下の写真はいずれも、剥がれたり欠けたところもあったりしているが、先生のご自宅でご一緒できた近藤良子さんと宮本牧子さんが加わって、写真の中のお顔を指差しながらお名前を特定し、時を忘れて賑やかに話が弾んだ。

 過去の回想をともにできる機会は得がたい経験である。お互いのいまを息づかせ、まことに愉快なものであった。美味しいご馳走と、見晴らしの素敵なご自宅の雰囲気も、私には特別に有難くありました。

 写真1
写真1

 剥がれているところがあって判りにくいが、これは長田区四番町にあったイエス団の「天隣館」1階のようである。賀川梅子さんが関西学院を卒業され、米国へ留学される時の送別会の記念写真だそうである。

 撮影年月日は判らないが、前列中央が梅子さん。その右は植野博市さん(数年前、ご病気で逝去された)。幾度も紹介してきた斎木進之助・ミツル御夫妻とお嬢さんも写っている。

 後列の右端は大岸坦弥(ひろや)さん、二人目が船寺晃世さん、3人目が河野先生の妹・倭子(しずこ)さん、その横(梅子さんの後ろ)は河野洋子さん、首だけ写っているのが近藤良子さん、次の男性が播磨醇さん(長期にわたりハンセン病療養所の現場で牧師として働いておられる方)、そしてその隣が中野とよのさんで、右端に写る大岸さんとその後結婚された。

 戦後この「天隣館」は神戸市立長田保育所として利用され、斉木・河野・中野の諸先生がそこでご活躍のころ、梅子さんはじめ関西学院大学の学生たちが、ここでの日曜学校や教会の礼拝に熱心に参加されていたようである。
 (この連載に続いて「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」の長期連載の再掲をはじめるが、吉田牧師の御子息・吉田摂氏は、関西学院在学中に梅子さんと共に「天麟館」へ足を運んだ仲間のおひとりだったようです。その御縁で、吉田牧師関連の膨大な資料を閲読可能になりました。まことに不思議なことである)

 そしてこのメンバーはその後も毎年お正月に、斉木さんの自宅に集まり交流を重ねてこられた。1993年に斎木さんがお亡くなりになったあとも、大岸坦弥・とよの御夫妻の三木市のご自宅で、その交流は継続しているという。その折々の記念写真も、河野先生のご自宅に残されている。

 写真2
写真2

 この写真は、本サイトの85回目(武内アルバムB)で紹介したが、戦後再建された神戸イエス団教会である。
 背景の3本の縦帯のようなものは、何を意味していたのかわからないが、緑色であったそうである。
写真1で名前を上げた人たちも、揃ってここに写っている。
賀川先生を含む60名ほどのお顔の特定をしていただいた。

     *      *      *      *

 ところで、写真1の賀川梅子さん(結婚されて籾井梅子さん)は、米国に在住であるが、今回の「賀川献身100年式典」に出席のため帰国され、去る12月17日には神戸市内において、「天隣館」で交わりのあった懐かしい人たちと共に、楽しい懇親の時をもたれたようである。

 同じ日の午前10時にオープンした神戸文学館の「賀川豊彦と文学」特別企画展には、籾井梅子さんのご家族と賀川督明さんが会場にお見えになり、山本幹夫館長と学芸員の義根益美さんと、そして私も加わり、よく仕上げられた展示を観ながら、親しくお話を伺うことができた。

 今回の展示は、賀川の明治学院での同級生でダンテ研究家として知られる中山昌樹への書簡や武内勝宛の書簡や絵葉書なども初公開されていて、嬉しい内容になっている。この企画展は、3月22日までの開催である。
 文学館から、その時の写真をお送りいただいたので、梅子さんと鳥飼の写真を記念に収めさせていただく。

写真3091223umeko

   *       *       *       *

 次回からは、河野先生のご紹介で、写真1にあげた「一粒園保育所」の大岸夫妻との出会いが実現したので、そこでお預かりしたアルバムから少し紹介できればと考えている。

        (2009年12月21日鳥飼記す。2014年5月31日補記)


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賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(92)

   河野洋子所蔵写真(4)        
 
 1963年に開館した神戸の賀川記念館の初期事業のひとつで「カギっ子」対策として取り組まれた「ひまわり学級」が、長田区番町地区に設けられていたイエス団の「天隣館」で開設され、最初の教師を引き受けたれたのが、河野洋子先生であったことを、当時の新聞記事(昭和43年5月17日付)と共に、前回取り上げた。

 ところで、内容の重なるもうひとつの新聞記事の切抜きがあった。河野先生の退任と後任へのバトンタッチの記事である。
 記事の内容は、以下のとおり(河野先生のお名前が吉田先生となっている経緯に就いては前回触れた)

新聞記事番町ひまわり


      *     *     *     *

       長い間ごくろうさま 

       長田・番町地区の「天隣ひまわり学級」
                     吉田さん 後任にバトンタッチ

  「吉田先生、どうも御苦労さんでした」「鈴木先生、あとはよろしく頼みます」-25日、神戸市長田区番町地域で2年間カギっ子のために献身的な世話をしてきた吉田洋子さん(37)=神戸市灘区篠原南町1-16=が、子供たちに惜しまれながら、後任の鈴木絹代さん(24)にバトンタッチして「天隣ひまわり学級」を去って行った。

  同ひまわり学級は41年5月、ともかせぎの家庭が多い同和地区を対象に市教委が“地域ひまわり学級”として開設したもののひとつ。吉田さんは賀川記念館の紹介で初代の保母さんとして着任した。地区の小学校(水木小)から指定を受けた子供たち(25人)を預かり、ずいぶんてこずらされたこともあったようだ。
 しかし吉田さんは、18年前同じ天隣館に市立長田保育所があった当時の経験を生かして、子供たちの中へとけこんでいった。むしろいまではさんざんてこずらせた子供の方が思い出に残っており、別れがつらかったそうだ。

 今度辞任することになったのは、2年間他人の子の面倒をみているうちに、小学校へ行っている自分の子供がカギっ子になりそうだということに反省させられたから。あとのことも「新しく来られる鈴木絹代先生は、若い立派な方だと聞いているから、安心してまかせられる」と思い切って家庭に戻ることにした。

 この日は、今年度のひまわり学級開校式が行われ、新任の鈴木先生と初対面。先輩らしく2年間で得た教訓をじゅんじゅんとアドバイスして引き継ぎを終えた。

           *      *       *       *

 記事の中の写真には「こどもたちが見守るなかで引き継ぎの握手をする吉田先生(左)と鈴木先生=長田区四番町、天隣館で」とある。

 前回の記事は昭和43年5月17日付けであったが、今回のものは掲載日が判らないが、よく読むと、こちらの方が早い記事かもしれない。
  昭和43年の新年度がスタートした4月25日の開校式のようである。
  前回確かめせずあの記事を地元神戸新聞と記したが、当時は朝日新聞神戸支局に熱心な記者の方もいたので、若し前回が神戸新聞であればこちらは朝日新聞であるかその逆かもしれず、或いは別の新聞であるかもしれない。未確認である。

    *      *      *       *

 バトンタッチを受けた鈴木絹代先生は、聖和大学を卒業され、関西学院の大学院で学ばれた鈴木慎梧牧師と結婚され、鈴木牧師は我々と同じく「労働牧師」の実験を開始して、長田の下町でゴム工場の労働者となった友人である。その後長く神戸で「タクシードライバー」の牧師として、開拓的なお仕事を続けられる、尊敬する同僚のお一人である。

 鈴木絹代先生はこの「ひまわり学級」において「こどものことば」に注目して学童たちと文集など発行しておられたが、絹代先生はその後、お人柄その儘がうたになったような4冊の詩集「よかった」「もんたぜ」「だいじょうぶ」「ありがとう」(いずれも「編集工房ノア」発行)を発表してこられ、地元神戸新聞にも度々登場したお方である。
 しかし、惜しい事にがんの病いのため本年2月14日、65歳の生涯を閉じられた。没後本年9月「第44回名筆研究会展」では、母をテーマにした鈴木絹代作品が、多くの書家の手で表現され、深く強い感動を残した。

 この御夫婦には、私たちもいつも大切ものを呼び覚まされてきた。
 絹代さんの作品ひとつを、感謝をこめて、ここに挙げさせていただきたい。

    *      *      *      *

          夕  陽

     洗濯ものを取り入れようと
     ベランダに出た

     夕陽が今にも
     海へ沈もうとしている
     一人で見るのは
     もったいないなぁと
     思っている時
     電話のベル

     今、おひーさんが沈みようねん
     はよう見てみー
     と弾んだ夫の声

     (2009年12月20日記す。鳥飼慶陽)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(91)

 
   河野洋子所蔵写真(3)        
 
賀川豊彦没後3年目(1963年)に、神戸の「賀川記念館」は開館した。
開館して早々、当時「カギっ子」対策として、後に「学童保育」として確立していく開拓的な取り組みが「ひまわり学級」の名称ではじまり、長田区番町地区の「天隣館」において最初の教師に抜擢されたのが、河野洋子先生である。

このたび「六甲アイランド」のご自宅で、当時の新聞記事(昭和43年5月17日「神戸新聞」)を拝見することができた。これも今では大変貴重であるので、今回は「私・わたし」というこのコラムを紹介しておきたい。

091220新聞コラム

なお、記事の中に記されているが、河野洋子先生は、昭和31年にご結婚、ご長男の「純」ちゃんをご出産のあと、昭和33年にはご主人の急逝というご不孝に会われている。
そのため河野先生は、この新聞記事では「吉田洋子さん」となっている。「純ちゃん」がまだ11歳のときのものである。
記事の内容は、以下のとおり。

      *     *     *     *

      苦労も楽しい思い出 

 長田・番町地区の“ひまわり学級”で2年間カギっ子の世話をして退職した吉田洋子さん(37歳)神戸市灘区篠原南町1-16

 「先生なんでやめるんや」と“天隣ひまわり学級”=神戸市長田区四番町4-76=の保母さんをやめるという吉田さんに、同学級の子供たちは熱心にたずねた。
 同学級は41年5月、市教委の委託を受けて、賀川記念館が母子家庭や父子家庭、ともかせぎの多い同地区の「カギっ子」のため開いたもので、保母さんとして開設以来2年間にわたり、小学1年生から3年生まで25人の世話を続け、このほど退職した。

 「最初は建物だけで、何の道具もないところから始めました。古机を学校からもらって運び込むというありさまでした」
 しかし今では少し古びてはいるが2台のオルガンと1台のテレビも備え付けられている。
 月曜日から金曜日の午後1時になると、子供たちは宿題とおやつ代の20円を持って来る。
 「子供たちの希望をきいて、関東だき、うどん、ゆで卵などのおやつを作るのですが、学校の給食表を取り寄せ、同じものが重ならないよう気を使いました。甘いものよりこんなおやつを喜ぶんですよ」とニッコリ。
 「長田村当時、旧家だったという古い建て物を使っていたので、ケガをしないかとそればかり心配でした」

 吉田さんはクリスチャン一家に生まれ、貿易商だったお父さんたちと南京に住んでいたころ、故賀川豊彦氏を知ったという。終戦後内地へ引き揚げ、徳島県の旧制名西高女を卒業、賀川氏のもとで働きながら、25年に保母の資格を取って“ひまわり学級”の前身である市立長田保育所を振り出しに、賀川氏の関係する保育所で仕事を続け、31年の結婚とともに退職した。そのころの経験をかわれて同学級に招かれたという。ところが長男の純ちゃん(11)=市立六甲6年=が一つのときに夫がなくなり、それ以後は実家に身を寄せている。

 「だから、地元の人たち、特に母子家庭のお母さんとはよく話し合えるんです。忘年会だといって、お母さんたちと飲み屋に出かけて行ったことが、うれしかった思い出の一つとして残っています」とまたニッコリ。
 こんな一人三役の生活が続いたが、純ちゃんもむずかしい年ごろになり、「お母さん」とさびしそうな電話がよくかかって来る。そんなとき、同学級の子供たちは「そんな子供は殺してしまえ」とやきもちを焼くという。
そこで退職の決意となったのだが「純ちゃんが大きくなって、わかってくれるようになれば、またやりたいと思っています。休みをいただいている間も、キャンプやレクリエーションがあるときは、お手伝いしたい」と後任の鈴木絹代先生(24)にバトンをわたし、一安心という表情だった。」

       *     *     *     *

 河野先生は、このとき37歳の若さである。小学生であったご子息「純ちゃん」は、素敵な教育者として現在ご活躍である。
 今回ご自宅にお邪魔した折の写真も、ここに添えさせていただく。

0912202河野洋子

      (2009年12月16日記す。鳥飼慶陽)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(90)


   「河野洋子所蔵写真」から(2)   

 前回は写真でなく、賀川から届けられた書簡を紹介した。
 河野洋子さんは戦前、ご家族と共に南京で過ごされ、そこで賀川との出会いがあった。敗戦後昭和22年に徳島に戻り、旧制名西高女を出て、さらに羽仁もとこの自由学園で学び、昭和24年から4年間、神戸市長田区四番町4丁目の「神戸市立長田保育所」で働かれた。今回はその当時の写真2枚である。

写真1
 「天隣館」正門前で「神戸市立長田保育所」卒園式。

写真10912131

昭和26年ごろ? 河野先生は最後列左2人目、その左隣は中野とよの先生(結婚後「大岸」)。大人前列左端は斎木ミツル先生、2人目は辻本四郎牧師、右端は友愛幼児園主任の宮川先生。他の3人の男性は神戸役所の方々。河野先生は、13人の子供たちひとりひとり、名前を挙げて御話になった。


写真2
写真20912132

 これは昭和27年の卒園式では? 写真1の子供たちの服装とこれとは、なぜか大きな変化が見られる。後ろに並ぶ6人の男性は、みな神戸市の関係者で、左2人は河野先生と斎木先生、左端が中野先生。

    *     *     *     *

河野さんのご自宅では、珍しい写真をたくさん見せて貰い、1963年に賀川記念館が開館された頃のものや、まだ青春時代であった我々の写真も残されていたりして、同席された近藤良子さんと宮本牧子さんともども、その一枚一枚に思い出話が弾み、時間を忘れた長居となったことは、前回にも記したとおりである。

河野さんからは、貴重なそれらの写真をすべて預けてもよいと申し出られたのであるが、私にとってはとりあえず、わがまち番町に関係するものだけを選ばせてもらいお預かりした。大切なほかの写真は、来年春に開設される「賀川ミュージアム」の受け入れ準備が整えば、あらためてそれらを拝見させていただくことになった。

    *       *      *      *

 既に度々取り上げてきたように、賀川は100年前、神戸「葺合新川」に移り住み、新しい生活を始める一方、早い段階から「長田番町」方面にも路傍伝道を試みており、大正期には馬島医師一家が地元有力者の協力を得て、五番町の住宅を借りてイエス団の友愛無料診療所を開き、芝八重医師もその働きに打ち込み献身的な働きをしてきた。

そして五番町のこの診療所とは別に、昭和の戦中になって賀川は、四番町の元料理屋さんの自宅だったといわれる二階建ての大きな旧家を取得して、それを「天隣館」と名付けた。その天隣館に最初に住み込んだのが斎木進之助夫妻であることなども、少し触れておいた。

イエス団の活動は、これまで殆ど「葺合新川」を中心に取り上げられてきたことにもよるのであるが、五番町の診療所と四番町の天隣館とがたびたび混同して語られたり、天隣館と三番町の神視保育園並びに天隣乳児保育園とが混同されてきたりもしていた。
 
      *      *     *

 付記

 本日(2009年12月12日)は午後3時から、再建された「賀川記念館」の献館式(竣工式)が行われた。曇り空で小雨の降る天候であったが、写真3は記念館の今日の外観、写真4は4階に設けられたステンドグラスの三つの作品のひとつ。現代のステンドグラスの製作者として名高い三浦啓子氏の作品で、式典会場にもお見えであった。

第1部「献館式」、第2部「見学会」、第3部「祝賀会」の順で、神戸市長ほか行政、地域、施設、教会関係など、200名を越える参会者で盛り上がった。

 祝賀会の最後の挨拶を行ったイエス団常務理事の村山盛嗣氏は、最初の記念館建設のとき、武内勝と共に大きな働きをされたことは、「武内日記B」で詳しく書き残されていたとおりであるが、この度の新賀川記念館の建設にも、賀川記念館館長の高田裕之氏や賀川督明氏らと共に、大きな困難を乗り越えて重責を担われた。二度にわたる記念館の建設という、この大役の完遂はまことに驚くばかりである。 

写真3

409121303写真

写真4

09121301写真4ステンドグラス

   (2009年12月12日記す。鳥飼慶陽)

更なる付記
今朝(2009年12月12日)の朝日新聞「神戸版」に昨日の賀川記念館完成の記事が載せられていたので、それもここに入れさせていただく。

0912133写真3(新聞)




賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(89)

   「河野洋子所蔵写真」から(1)  

 本年(2009年)春から武内氏所蔵資料の閲読を許され、伴武澄氏のお勧めと御厚意で、「お宝発見」をここまで継続することができた。

まだすべてが終わったわけではないが、「賀川献身100年記念」のひとつの区切りの時を迎えているので、この間、思いがけず関係者の数名の方々とお出会いでき、大切にされている古い写真などを拝見する機会もあったので、この機会に感謝の思いをこめて、それらを少し紹介しておきたいと思う。

特に、その時の皆さんの回想のお話が面白いのであるが、それらはまた然るべき機会が設けられ、直接そこで御一緒にお聴きできるときもあるはずで、その日を楽しみに残して、早速その作業を進めてみたい。

今回から数回は、神戸イエス団教会の河野洋子さんのご自宅をお訪ねして、その折にお預かりした資料と写真である。(河野さんは震災のあと、六甲アイランドにお住まいである。2009年9月8日午前10前から午後3時過ぎまでの長時間、お邪魔してしまった。お昼の食事まで戴き、同教会の宮本牧子さんと近藤良子さんにも声をかけて下さり、5時間あまりの時はあっという間であった。)

 さてここでの第1回目は、賀川豊彦が、東京・雲柱社から、昭和26年9月6日に明石の郵便局の受領消印が残り、表に「至急」と書かれた速達便で、「兵庫県明石市西明石大池 イエス団 河野仁様」宛に送られた封筒のことである。

0912121封筒の写真

 この封筒には、中身がない。その次第を少しくメモ書きしておく。 
河野仁さんは洋子さんのお父様で、母・斐子(あやこ)さんと共にイエス団教会のメンバーであった。(次回以降に写真で見ていただく)
河野氏は徳島の出身で、北村徳太郎のご縁とかで戦前NHKで働かれたが、戦時下中国・南京で黒田四郎牧師と過ごされる。敗戦後昭和22年引き上げ、西明石にあったイエス団の広い土地の管理をまかされている。数年後、賀川の親友阪本勝が尼崎市長のとき、尼崎市立の障害者施設や厚生館の責任を担う。

洋子さんの御話によれば、賀川のこの書簡の中身は、賀川が戦後、徳島に教会を建設するために、熱心に土地を探していたが、その目途がつき、すぐにその土地を買うように促しているものだったらしい。
そうして立てられた教会が、徳島の「石井教会」なのだそうである。
洋子さんが、後に記念のため中身だけを石井教会に送り、現在はこの封筒だけがこちらに残されている。

とりあえずこれは、新しく完成した賀川記念館の「賀川ミュージアム」に保管されるが、石井教会で中身と共に保管されるのが良いかも知れない。

  (2009年12月10日鳥飼記す。2014年5月22日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(88)

    「武内祐一所蔵写真」から(2)   

 今回の写真は、1950年代以降の3枚である。武内祐一氏所蔵の写真紹介はこれで最後になる。

次回からは、武内氏所蔵資料を閲読する過程で、芋ずる式?に関係の方々にお会いする機会に恵まれ、大切にしておられるアルバムなど見ながら、昔を回想する貴重な経験をさせていただいた。

それでこの機会に、その中から写真など少し紹介させてもらう予定である。

写真1

0912091写真1

 賀川先生もお元気そうである。武内夫妻、着物姿は佐藤、後列には3人目賀川梅子、一人置いて神谷、緒方、左端は諸冨、真後ろ横を向くのは斎木。昭和50年代? 場所は神戸イエス団教会?


写真2

写真20912092

 中央に神戸イエス団教会の村山盛嗣牧師、その左は武内、右は大橋弘副牧師、1964年頃であろうか。1963年に神戸の賀川記念館は開館しており、これは3階集会室である。私は1966年に招聘され2年間この記念館の中で生活したので、写真の中の多くのお顔を特定できる。懐かしい方々である。村山牧師もこの頃、精悍な風貌である。


写真3

写真30912093

 この頃になるとカラー写真である。写真2と同じく賀川記念館3階の集会室で、写真裏に「1977年のクリスマス」と書かれている。今から32年も前である。
1963年以降は、ここで神戸イエス団教会の日曜礼拝が行われてきたが、本年(2009年)この建物を解体して、装いも新に、今月(12月)新しい賀川記念館が完成した。12日には「献館式」(竣工式)が執り行われる。写真を眺めていると、多くのことが回想されてくる。このときすでに「武内勝没後10年」が過ぎている。

   (2009年12月9日鳥飼記す。2014年5月20日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(87)


  「武内祐一所蔵写真」から(1)   

所蔵アルバムのうち「A」と「B」を取り出してみたが、あと小さなアルバム1冊と武内が社長を務めた「協同牛乳」関係の1冊が残されている。その2冊はただ今、神戸プロジェクトにおいて写真の整理を進めていただいているので後回しとし、今回と次回は、アルバム外の写真を収めておきたい。何れも戦後の写真である。

写真1
 写真の中には「イエスの友会全国大会 1952.7.24」と白抜きがある。

写真10912081

梅村先生のメモには「イエスの友会関西夏期修養会・全国大会 比叡山根本中道前宿院にて」とある。また、賀川豊彦・武内勝・吉田源治郎・吉田幸・吉村静枝・大川拓・杉山健一郎・山口・生駒・梅村貞造など特定していただいているが、総勢160人ほどの参加者の中から、ここで特定するのは困難である。ご覧戴いて、さらに多くの方々を特定して、お名前を教えていただければ有難い。


写真2
 この写真には、武内勝さんのペン字で「1952年12.神戸イエス団」と記されている。クリスマスツリーを背景に、前列に武内夫妻と辻本牧師。後列右から3人目は佐藤きよ。

2写真


写真3
 写真に記されているように「1962 イエスの友“関西新春聖修会”」。

写真30912083

1960年に建てられた西宮一麦教会の会堂横で写されている。1995年に新会堂が出来たので、この写真の会堂は今はない。賀川没後2年目の写真である。前列中央に賀川ハル、左に吉田夫妻、その横が武内、ハルの右隣が金田。村山、吉村、佐藤、大川、田中、杉山、緒方、斎木、坂井、山崎ほかのお顔がある。

  (2009年12月6日鳥飼記す。2014年5月19日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(86)


  「武内祐一所蔵アルバムB」から(9)   

「アルバムB」は今回の3枚で終わる。何れも戦後のものである。写真1は長田区番町のイエス団「天隣館」、写真2・3は戦後再建された葺合区の「神戸イエス団」である。

写真1
 長田区番町の「天隣館」

1写真

 戦前から長田区四番町4丁目にあったイエス団の「天隣館」は、葺合区の神戸イエス団が戦争で焼失し昭和24年に再建されるまでは、この「天隣館」が本部の役割を担った。
「天隣館」は戦後、昭和21年4月から「神戸市立長田保育所」として使用され、イエス団にその運営を任された。
写真の後列左端は林幸金牧師、3人目は武内勝、5人目は辻本四郎牧師、その隣は斎木ミツル先生。


写真2
 昭和24年2月18日、「神戸イエス団」が再建された。

写真2

2列目左から2人目が本多健太郎、4人目が杉山健一郎、6人目が賀川、7人目が本多うた、8人目が武内勝、10人目が武内雪。
前列左から4人目が賀川梅子、6人目が小川、7人目が林幸金、右端は近藤良子。2列目右端は宮川。後列左2人目は斎木進之助、3人目は辻本四郎、4人目は緒方彰。


写真3
 戦後再建された「神戸イエス団教会」。

写真3

前列右4人目は近藤良子。2列目右端は武内雪、2人目は緒方ヨシコ、3人目は緒方彰、4人目は賀川、6人目は斎木ミツル、7人目は斎木進之助。武内勝、佐藤きよ、諸富弘ほかのお顔も。

    (2009年12月5日鳥飼記す。2014年5月17日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(85)


   「武内祐一所蔵アルバムB」から(8)   

 「アルバムB」から今回は4枚の写真を紹介する。
 何れも戦前の写真で、戦争で焼失する前の神戸イエス団教会で写された貴重なものもあるが、現在のところ全くコメントのつけられないものもある。

写真1
 「第4回全関西イエスの友夏期修養会」

写真1

梅村先生のメモには「昭和4,5,6年頃? 場所不明」とある。「イエスの友」の修養会は、夏季にも冬期にも、また全国規模やそれぞれの地域で度々開催されてきた。
写真の真ん中に子供を抱いた賀川が写っているが、少々お疲れ気味のようである。2列目左端はハル夫人、前列右端は武内雪、4人目は吉田源治郎、後列右から7人目は武内勝。

写真2
 空襲で焼ける前の神戸イエス団教会であるようであるが、撮影の時は判らない。

写真20912042

前列中央に賀川、右隣が武内、その隣が佐藤きよ? 賀川の左は本多うた? 左端の男性は本多健太郎。


写真3
 これも戦前の神戸イエス団教会。

写真3

戦時下、看板に「松本牧師壮行会」とある。中央は松本牧師夫妻であろう。牧師の隣が武内、後列真ん中の背の高い男性は斎木進之助?


写真4
 真ん中に賀川夫妻、その横に武内、金田?が座り、若い女性が30人ほども集まっている。撮影の場所も何の時なのかも、今のところ判らない。

写真4

    (2009年12月4日鳥飼記す。2014年5月15日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(84)

 「武内祐一所蔵アルバムB」から(7)   

「アルバムB」から今回は5枚の写真を紹介する。

「一麦(いちばく)保育園」が、賀川豊彦を園長に、そして吉田源治郎を主事として開園されたのは、昭和7年4月のことである。

 武内一家が「一麦寮」で生活していたのは、戦前から戦後間もなくの間であるが、武内の長男・美邦、長女・久仁子、次女・千恵子、次男・祐一、とみなこの一麦保育園で学んだ。そして母親の武内雪は、埴生操らと共に保育園の先生を務めた。

写真1
 一麦保育園卒園式のあと。

10912031あい

左端は埴生操先生、後列右大人3人目は吉田源治郎先生。梅村先生のメモには「年代は不明、久仁子ちゃんの卒園式であれば昭和15年3月です」とある。


写真2
 隣の神社の境内で。

あい20912032

左端の美邦ちゃんがおどけている。後列右は埴生操先生。


写真3
 昭和16年ごろの卒園式。

あい30912033

先生は左から埴生、吉田、久保田、武内。


写真4
 昭和21~22年ごろの入園式のあと?

あい40912034

 後列左から、吉田、埴生、武内


写真5
 昭和21年3月の卒園式。

あい50912035

後列左から3人の先生:埴生、武内、荻原? 3列目の右から、5人目空谷君、6人目祐一君、8人目大池君、前列右から4人目大野君(梅村先生のメモによる)

    (2009年12月3日鳥飼記す。2014年5月13日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(83)

 
 「武内祐一所蔵アルバムB」から(6)   

 このところ「アルバム」の紹介を続けているが、ご覧戴いてお名前や年代、そして撮影場所などの特定できるところなどありましたら、ご面倒ですが、メール便にて、ご連絡をよろしく御願いいたします。(torigai@ruby.plala.or.jpまで)

写真1
昭和12年1月2~3日開催の「イエスの友関西冬期福音学校」に記念写真。

0912021写真1

 一麦寮の隣りにある神社の境内。前列左5人目の子供が美邦君。中央の賀川の左は吉田源治郎、右は杉山元治郎。前列右端は林幸金? 金田弘義、埴生操、武内雪などの顔が見える。130人余が写っている。内女性は30数名。
 武内一家は後ろに写っている家に住んでいて、2階に寝ているとふくろうの声が聞こえたという。


写真2
 一麦寮の玄関前。

写真20912022

 武内はひとり背広の上着を着ているが、みな上着を脱いで数人は頭にタオルを巻き、ほうきなど持っているので、朝の掃除の後か。
 梅村先生によれば、「昭和21~22年ごろ?」。後ろ左から3人目は埴生操。


写真3
 これも一麦寮。

写真30912023

縦7センチ×横9センチほどの小さな写真で、右端部分は汚れがある。左端に杉山、3人目が賀川。


写真4
 
写真40912024

 これも縦7センチ×横8センチほどの小さな写真。年代も場所も判らない。腕組みする賀川、その左が武内。後列右2人目が埴生。

  (2009年12月2日鳥飼記す。2014年5月11日補記)


付録

140510毎日新聞

 毎日新聞より。


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(82)


 「武内祐一所蔵アルバムB」から(5)   

 梅村貞造先生によれば、武内勝氏一家が「一麦寮」に移り住むのは昭和9年3月で、武内夫妻の長男・美邦ちゃんが5歳の時だとメモ書きしていただいている。

 今回発見された「玉手箱」に収められていた「お宝」の賀川夫妻の書簡のなかで「一麦寮」の武内夫妻に宛てて送られた43通ほどの書簡は、昭和10年11月から敗戦後の昭和22年まで続いている。

 因みに、昭和23年12月から昭和31年10月までの武内夫妻あての28通余りの書簡の送り先住所は「神戸市御影町郡家宇殿7-1」になっている。

 ところで「アルバムB」の今回取り出す写真4枚は、アルバムに貼られている順に並べてみるが、梅村先生によれば、はじめの2枚は「美邦君の大きさから推定して昭和9年~10年ごろ?」、そして次の2枚は「彼は3~4歳くらいかと思われるので一麦以前ではないか?」とコメントしていただいている。したがって、アルバムの写真は年代順とは限らないということである。


写真1
 一麦寮。昭和9~10年ごろ? 前列左3人目が武内雪さん、その横が美邦ちゃん。後列左端が武内勝さん。前にいる犬は芝八重さんの愛犬。

写真1


写真2
 一麦寮前の神社の境内で。昭和9年~10年頃。椿の木があった。

写真2


写真3
 場所がわからない。武内勝さんは2列目の右から4人目。雪さんは前列左から3人目で美邦ちゃんが抱かれている。

写真3


写真4
 昭和初期の「武内勝日記」で書かれていた宇都宮米一氏一家のブラジル移民で神戸港を旅立つ、その時のものかどうか。ブラジルの旗を持つ人もある。左端に武内夫妻と美邦ちゃんが写っている。

写真4


   (2009年12月1日鳥飼記す。2014年5月9日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(81)

  
  「武内祐一所蔵アルバムB」から(4)   

 前回末尾で、昭和6年夏開催の「神戸イエス団第四回林間学校報告」が「雲の柱」同年10月号にあるので、それを取り上げることを予告していたので、今回はまず最初に、その頁に収めたれている写真を拡大して「写真1」として紹介する。

写真1
明石海岸遠足

写真1


     *      *      *      *

 さてここから再び「アルバムB」の続きを取り出していきたい。 

 今回の写真は、1931(昭和6)年「西宮市高木字南芝781(現在の高木東町11)に「農民福音学校寮(通称「一麦寮」)」が出来て以後のものである。

 1998(平成10)年発行の『日本基督教団西宮一麦教会:五十年の歩み』に収められた「年表」には、「教会前史」として次のような記述がある(180~181頁)。年表のこの部分は、梅村貞造氏の執筆による。

1926(大正15・昭和1)
 賀川豊彦先生が東京の松沢から家族と共に兵庫県武庫郡瓦木村高木東ノ口
(現在の西宮市高木東町5.教会より南東約150米)に移られた。

1927(昭和2)
 賀川先生宅で第1回日本農民福音学校開校(校主・賀川豊彦、校長・杉山
 元治郎、教務主任・吉田源治郎、主事・金田弘義、その他講師十数名)。
 毎年同時期に一ヶ月開校、15年間続けられた。一麦寮(後述)が建てら
 れるまでは定員12名の小塾であったが、その中から百数十名の信徒指導
 者を全国の農村社会に送り出した。

1931(昭和6)2月5日
 賀川先生の小説『一粒の麦』が講談社から出版され、ベストセラーとなる。
 その印税にて、その秋頃、西宮市高木字南芝781(現在の高木東町11)
 に300坪の敷地を購入し、二階建ての農民福音学校(通称「一麦寮」)
 が建てられた。

 1932(昭和7)1月2日~4日
 新築の一麦寮を会場に、初めてのイエスの友関西冬期福音学校(第5回)が
 開かれた。以来、昭和8年から16年まで毎年開かれた。
 同年2月11日
  一麦寮で初めての日本農民福音学校(第6回)が開催された。
 同年3月
  一麦寮の東隣に託児施設としてのヤヘ・シバ館が建てられた。
 同年4月
  賀川先生により一麦保育園(園長・賀川豊彦、主事・吉田源治郎)が創立
 された。また、関西学院神学部の学生や有志の人々の応援を得て断続的に日
 曜学校も開かれるようになった。

 1941(昭和16)1月2日
  イエスの友冬期関西福音生活学校が開催される(講師・賀川豊彦、山本一清、
 H・W・マヤス博士、杉山元治郎ほか)百数十名が参加。
  
     *      *       *       *

 上記の梅村先生の記述を参考にして、以下の写真を眺めてみたい。撮影の年など不明であるが、ここでは「アルバムB」に貼られている順番に並べておく。

写真2
 一麦寮の前にて。イエスの友関西冬期福音学校?

写真2


写真3
 現在もある隣の神社の境内にて。イエスの友関西冬期福音学校。

写真3


写真4
 一麦寮にて。イエスの友関西冬期福音学校。(昭和12~13年ごろ?)

写真4


写真5
 一麦寮にて。日本農民福音学校。2列目右3人目は杉山元治郎、左端は金田弘義、前列右から2人目は埴生操、3人目は武内雪。

写真5


写真6
 一麦寮・一麦保育園。

写真6


     *      *      *      *
 
 杉山元治郎の研究でも知られる東北学院大学の岩本由輝先生が、去る10月16日、一麦保育園を訪問された。その機会に併せて、同園顧問の梅村貞造先生のお誘いがあり、はじめて一麦保育園に出かけた。

 阪急「西宮北口」駅から歩きながら、最初の「瓦木村」と現在の「高木」の場所の違いなど、丁寧に案内をしていただいた。そして西宮一麦教会や隣の神社の境内にも案内して貰い、貴重なお話を伺った。美味しいご馳走にまでなってしまった。

  (2009年11月29日鳥飼記す。2014年5月7日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(80)


  「武内祐一所蔵アルバムB」から(3)   

 前回は「アルバムB」にある「神戸イエス団夏季林間学校」の写真と共に、「雲の柱」昭和4年9月号と昭和5年8月号の記事を取り出してみた。

 ところで、次の「雲の柱」昭和5年9月号を見ると、この夏に取り組まれた林間学校の記録が見開きで、いきいきと綴られた記録が掲載されている。このレポートは女性スタッフの文章のようである。

 それで今回は、「アルバムB」の写真ではないが、内容的には前回の続きとして、その見開きの記事を全文書き出しておく。写真は、この記事の中のもので、鮮明さに欠けているが、拡大して掲載してみる。

     *      *       *       *

瓦木村だより


          瓦 木 村 だ よ り
            神戸イエス団林間学校

 「まるで何かお伽噺にある事みたいだわ。何でも欲しいと言えば出て来る様な気がす
  るわ。これが昨日迄の屋根裏部屋なのかしら。私もあの汚いセエラだとは思へない
  位だわ。私は今、お伽噺の中に住んでるんだわ。」
  小公女の物語其の儘の夢の国が、細民街の児童の為に展開されました。
  棟割長屋は消えて、見晴るかす青田となり、むせかえる熱気は、さはやかな涼風と
  変わって、恵まれぬ子供達を育んでくれる愛の住家が、武庫川邊りに生まれました。
 
  朝は既に六時の起床合図を待たず、睡眠不足の先生達を悩ます事は烏雀の比でなく、
  身支度もそこそこに露深い鎮守の森に、朝拝及び体操をしに行きます。
  帰れば七時半、朝食、備へられた箸を取って、茶碗の縁で拍子を叩く。
 「天のおとっさん、マンマが食べたい」・・洪笑・・苦笑・・
  先生の感謝を待って取り上げる箸の運びの早さ、たちまちにお代わりお代わりが連
  発される。茶碗が飛ぶ、汁椀が走る。給仕の人々の目が廻る・・・。

  楽しい聖書の時間、毎日の学課復習は、先生に助けて戴いて、それが済めば、或は
  図書・習字・作文・自然科学の話と、其の日其の日の科目を与へられます。
  新しいクレヨンを手にした子の嬉しそうな顔! 奔放な線が無数に書き並べられる
  ・・・かくて昼、一時から三時すぎ迄は、毎日武庫川又は池へ水泳に行きます。炎
  天に、熱砂に、おしげもなく肌をさらしてたわむれる子供達! 其の黒く染まって
  行く皮膚の下に、たのもしい日本児童の血が高鳴ってゐる様な!

  家には其の頃、甘いおやつが準備されて、皆の帰りを待ちわびてゐます。ほんがり
  鼻を擽るお汁粉の匂ひ、赤い西瓜の誘惑、湯気のホカホカした薩摩芋、思ふさえ家
  路への足取りは軽い。早い。
  つくろいで一日を塵埃と汗と疲れをすっくりお湯に流す心地よさ。
 「お前これ、何て名か知ってるか?」一人がお菜を指して言ふ。
 「知ってら、カツやないか!」嬉しさうな顔が見かはされるのです。

  すき腹がおいしい食事で満たされる頃、静かな夕陽は紅の余光を西の空に残しつつ、
  六甲山の彼方に沈まうとしてゐます。名残を追ふて丘に上る、一日をさわぎ廻った
  子達もさすが心静められて、落ち着いた気持ちの中に、一日の感謝を神に捧げるの
  であります。

  夜はお話会、活動写真或は団体遊戯に打興じます。
  時計が九時をまわる頃、床の用意がされるとは言え、喜びに興奮した神経はなかな
  かに静まろうとはしません。口が動く、手が動く。そして先生の注意を受けること
  幾度、室の灯がポッチリと唯一つともし残される時には、虫の音のみしげく、それ
  にからまってかすかな寝息が感ぜられるのみです。
  昼の喧嘩も、戯れも、総てを忘れて、ひたすらに眠りをむさぼってゐるのでせう。
  ピチピチした発育期の細胞が、洪水の様に疲労を押水しながら。かくして又元気に
  翌日の活動に入るのであります。

  何と楽しい生活でせうか。
  其の中一日は甲子園に行って泳いだり、活動写真を見たりして遊びます。
  去る十七日には明石へ遠足致しました。一行百八十名余り。三宮から汽車で出発、
  明石公園で一休み、熊野先生の御話に一同稀らしいおとなしさで耳をかたむけまし
  た。中食は用意された汽車弁当に、明石市役所の御厚意で小学校を貸して戴き、ラ
  ムネ・お煎餅の饗応に興りました。
  美しい海で泳ぐ事、西瓜のうばひ合い、子供達にとって、忘れやうとして忘れられ
  ぬ嬉しさでせう。ですから「来年もね、先生!」と手にぶらさがりながら頼むので
  す。喜びの土産話、或は又いただいたお弁当をたづさえて、新川へと帰ったのが五
  時過ぎでした。

 「ぜんたい誰が私達をこんなに幸福にしてくれるのでせうか?・・訊くのはよしませ
  うよ。私知らないでゐた方が良いと思ふは。でも其の誰かに「ありがとう?」とだ
  け言いたいわ。」多くの子供達はかうした感謝を胸に抱いて、六日の生活を終わる
  時に、心から林間学校万歳を叫ぶのでした。

     *      *      *       *

 写真1
 明石公園にてお話会

写真1


 写真2
 校舎に着いた女生徒
 
写真2

     *      *      *      *
 
 昭和6年の林間学校も開かれていて、其の報告が「雲の柱」にあるので、次回もこの関連のものとして紹介しておきたい。 

  (2009年11月27日鳥飼記す。2014年5月5日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(79)

  「武内祐一所蔵アルバムB」から(2)   

 「アルバムB」の2回目は「神戸イエス団」の「夏季林間学校」関係の写真である。

 「雲の柱」昭和4年9月号の60頁には「神戸イエス団夏季林間学校」として、次の記事がある。面白いので、この頁を添付し、ここに本文も書き出しておく。

一頁分神戸イエス団


 添付資料の上の写真は、武庫川で「神戸イエス団」と書かれたテントが張られていることが判る。

 下の写真は、熱中してみな絵を描いている。

 記事の本文は次の通り。

 焼けつくやうな暑さと煤煙に棟割長屋に苦しむ児童も、神の与へ給ふた自然の中に
放たれて、小鳥のやうに青々とした武庫川のほとりをはね回って、与へられた日課
 のもとに一日を送って居ります。一期を十五名として、この夏には四回同様なこと
 を繰り返すのであります。幸いに賀川先生宅を解放され、食事より寝起きの一切を
 引き受けて下さいますので、非常に感謝してゐる次第であります。
 殊に本年も計画いたしました通り、皆様の御同情と御援助によりまして、予定通り
 進行の出来る事を感謝してゐるのであります。
 明石旅行も賀川慶喜氏の御尽力により、海上より美しい丘上を眺めつつ、凱歌を奏
 して上陸、明石市役所の厚意によりラムネとお菓子の饗応に接し、一行百八十余名
 は水泳をして、海上を再度元気で帰神いたしました。

       日課
 午前6時 起床、洗面、寝具の整理
 午前6時30分~7時20分 朝拝及び体操
 午前7時30分~8時 朝食
 午前8時 武庫川天幕又は鎮守の森行き
 午前8時20分~9時 聖書講話
 午前9時20分~10時20分 学課の復習指導
 午前10時30分~11時30分 自然科学、自由画、作文、採集、団体運動等
 午前11時30分 帰宅
 正午~午後1時 昼食、自由
 午後1時~4時 武庫川又はプールにて水泳
 午後4時30分~5時30分 入浴
 午後6時 夕食
 午後6時20分~7時 夕べの讃美(六甲山脈に沈み行く太陽を眺めつつ丘の上で)
 午後7時30分~9時 お歌と童話、幻燈会、親睦会等
 午後9時 就床  

 この林間学校は泊り込みで何泊であったのかはこれでは判らないが、「4回同様なことを繰り返す」というから大掛かりな企画である。また「明石旅行」もナント180名以上の参加者が明石海岸で水泳をするというもので、しかも神戸から船に乗って往復するということであるから、これも驚きである。

    *      *      *      *

 また「雲の柱」昭和5年8月号にも「神戸イエス団」の林間学校の計画が載せられている。これも貴重な資料であるので、参考までに添付をして、記事の本文も取り出しておきたい。

の記事ドン底の子供


       ドン底の子供に日光を浴せしめよ
         葺合新川児童の林間学校

 神戸市葺合区新川の細民街の小学校の調査に依れば、現に千八百有余の児童が
 居りその中、4割以上は貧困と窮乏のために、市当局より授業料の免除、学用
 品の給与、生活費補助を受けて居るものが居る。現に日本一の集団貧民窟で、
 今だ学齢児童に達せざるものも数多く、あの狭苦しい路地と薄暗き二畳、三畳
 敷と云ふ空気の濁った家にうようよして居るのであります。煤煙と塵の中に炎
 暑と戦わねばならぬ彼等を思ふと、涙は自然にこぼれるのであります。かかる
 環境と周囲の状況からして、精神的にも物質的のも恵まれず、知らず知らずの
 間に不良少年の仲間入りをして、一生を無益に終わるのであります。放漫な生
 活を送って居る児童の為に、数日間なりとも六甲山麓武庫川のほとりの大自然
 に懐かれつつ、土に親しみ、水と交わりて、家庭生活を中心とした小さき林間
 学校のために、多大の御援助を乞ひ、諸兄姉の御同情に訴へるのであります。

 期間 8月1日~8月30日
 場所 武庫郡瓦木村武庫川原
 人員 60名(一期15名宛)
 年齢 尋常小学校3年生~6年生 9歳~13歳
 設備 賀川氏宅利用 宿舎天幕水泳場等
 学課 学課の復習指導 自然科学講話、体操、音楽、手工、聖書講話等
 校長 賀川豊彦 職員専任教師数名 
 経費 六百円

     *      *       *       *

 写真1
 梅村貞造先生のコメントでは、ここはまさしく当時の「武庫川のほとり」である。

写真1武庫川の子供

 「賀川豊彦写真集」110頁には、「神戸イエス団夏季林間学校」の写真が3枚残されている。これと同じ時に写された写真と見られるものが1枚と、14名の児童たちが、杉山健一郎ほか大人のリーダーたちと共に写されたものと、そして30人あまりが六甲山にのぼりテントを張って行った「林間学校」の写真である。これを見ると「武庫川」「明石」の他にも出向いて「林間学校」は開催されたようである。


 写真2
 水泳の前の体操であろうか。フンドシの子どもたちも多いが、中にはパンツもない子どもいる。みなしっかりと体操」をしているが、この頃の体操はどんなものだったのであろう? 

写真2ラジオ体操


 写真3
 40人ほどの子どもたちが お皿に山盛りのご飯をいただく前、感謝の祈りをしている。7名ほどの女性スタッフの手作りの食卓である。参加者の殆どが男の子であるが、数名の女の子も見える。梅村先生のメモには「一麦の北側の部屋」とある。

写真3楽し食事


     *      *      *      *

 なお、この「林間学校」については、昭和4年、5年の報告に続いて昭和6年、7年にも取り組まれていることが「雲の柱」の記事で知ることができる。
  
 (2009年11月25日鳥飼記す。2014年5月3日補記)


賀川豊彦の畏友・武内勝氏の所蔵資料より(78)


  「武内祐一所蔵アルバムB」から(1)   

 「アルバムA」に続いて今回から「アルバムB」の1回目は、賀川たちが葺合新川で活動を開始した初期の「救霊団」時代のもの2枚と、あとの2枚は賀川豊彦一家が1926年に武庫郡瓦木村に移住した翌年(1917年)の「イエス団」の夏の取り組みのものである。
 写真1のほかは、武内自身が写真に説明を付している。すでに掲載したものもあるが、改めて順番に眺めてみたい。


 写真1
「アルバムB」の最初に貼られている写真で、掲載写真にはカットしているが写真下の部分は破れて欠けている。写真に写る小学生以下の幼い子どもたちは100人近くいる。賀川が真ん中に座り、地元の大人が3,4人、学友ふたりぐらいであろうか。ここには武内らしき若者も、また左端には若い女性の姿もある。いかんせん武内のコメントはない。場所は、写真2が「新川尻海岸」であるので、その辺りであろうか。

写真1


 写真2
 この写真は本サイト第6回で紹介したもので、広く知られているものである。

写真2

 武内が写真上部に次のメモを残していたことで、撮影の時と場所に加え、撮影の意図もはじめて判った。以下は第6回分の再掲である。

 「大正三年七月賀川先生プリンストン大学入学のため新川尻海岸にて記念撮影」。だとすれば、豊彦とハルは新婚まだ一年少々、翌8月2日には、豊彦は留学のため神戸港から丹波丸で出帆するわけで、武内の記す如くこれは「壮行記念写真」ということになる。豊彦が旅立ってほぼ一月後(9月5日)ハルも神戸を離れ横浜の共立女子神学校で学ぶことになるのであるから、まさにこれは「賀川夫妻の壮行記念写真」ということである。

 なお、この写真の左下角には、小さな紙が張られ、名前が書かれている。それをもとにあらためて付記すれば、前列中央の二人は「賀川豊彦と春子夫人」。左端大人は「吉岡」。前列右端は「小田佳男」。その上は「伊藤平次」。最上段の学生は「平野」。その前は「徳憲義」。


 写真3
 有名な明石海岸の松の木を入れて写した記念写真。武内は写真左端上に「一九二七年 八・一四撮影 於明石海岸」と記している。賀川の一家はこのとき、瓦木村にいるが、この頃、タッピングを伴って日本代表として上海でのキリスト教経済会議に出発している。

写真3


 写真4
 これも写真3と同じく明石海岸にでかけた同じ時のもの。武内は右端上に「一九二七・八・一四 明石海岸公会堂下」と記している。(公会堂下ではなく公会堂裏?)

写真4


   (2009年11月22日鳥飼記す。2014年5月1日補記)


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