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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(22)

星座
  オリオン座大星雲(『肉眼に見える星の研究』81頁)

      第22回 『肉眼に見える星の研究』(2)

前回紹介した本書の「序」で、源治郎は次のように書き始めていた。

「私は、幾夜さ、星を仰いで、夜の更けるのを忘れたことであろう――或時は肉眼で、或時は小望遠鏡で。星々の優麗な光彩は、私の慰めであり、喜びである。私は、今も思ひ起して、心が躍る――あの桃山高地の夜半のそぞろ歩きのひと時を。」
「伏見桃山の高地は、砂漠ではない――然しながら、自然美に恵まれた此地の夜は、私の心を星の世界に引着するに充分の魅惑をもっている。」

「伏見桃山の高地」という場所は、現在どうなっているのか判らないが、源治郎にとって結婚家庭のスタートの地でもある「京都伏見」の足掛け5年間は、「星の世界」に魅せられ開眼した大切な時もであった。

多分それに至る下地は、源治郎の故郷「三重・伊勢」から始まっていた筈である。
既に紹介した彼の中学時代の文芸と論述、そして音楽の才能や英語力などを発揮し、日本の伝統的な基礎知識と共に、幅広い外国の文学・思想・宗教への深い教養を、明治学院に進学して更に磨きをかけていたに違いない。

その証拠は、明治学院の学生時代、1917(大正6)年1月にはほぼ草稿を纏め上げ、翌年4月に京都伏見で最終補正の上、6月に日曜世界社より刊行した源治郎の処女出版『児童説教』が存在していたことは、既に第9回で取上げた通りである。そこでは特別に、源治郎の二つの小説教-「何時だろう?」「星辰(ほし)と彗星」-を紹介して置いた。この二つの短い説教を読むだけでも、源治郎の「宇宙と地球」への関心の深さと豊かさを学び取ることが出来る。

       再び源治郎の処女出版『児童説教』より

ところで『児童説教』の初版を第9回で見た後、第16回で記録したようにこの著作は読み続けられていて、およそ10年後の1927(昭和2)年9月には上製本として改版されている。下のように、新たに副題が加えられている。

表紙児童説教

同年12月の5版を吉田摂氏が所蔵されていたので、取りあえずここでは、第9回で紹介した二つの説教とは別に、もうひとつの児童向け小説教「汝等の光を輝かせ」を、追加して紹介したい。

児童説教1

児童説教2

児童説教3

児童説教4

       天文学者・山本一清(いっせい)との出会い

源治郎は本書「序」の末尾に「畏友・山本一清氏への深甚の感謝」を次のように記している。

「畏友京都大学天文台助教授理学博士山本一清氏の激励と好意の寄興が、どれ程、深いものであったか--山本氏は、本書に序章を寄稿して下さったのみならず、原稿全部を校閲して下さった。その上に付録として収めてある二葉の星図を私の為に書いて下さったのである。序に記せば、山本氏は、昨年(大正10年)12月から、本年4月にかけて、私の宅で毎月1回開かれた通俗天文講座の講師として、「太陽系の話」を講じて下さった。それ等の講演や、同氏の雑誌「天界」に公にせられた論稿が、本書の編述に際して、与えられた裨益と示唆は甚大であることを茲に書添えて、深甚の感謝を同氏に寄せます。」と。

山本一清(いっせい)は、源治郎より2歳年上の1889(明治22)年生れで、1913(大正2)年京都帝国大学理科大学物理学科卒業して、京大天文台助教授のときの交流であるが、山本は1920(大正9)年には、日本で最初の「天文同好会」をつくり、数年にして千人を越える会員を集め、関西を中心に北海道、東北、関東から四国・九州、さらに当時の満州(現・中国東北部)や台湾にまで活動範囲を広げたといわれる。

ところで、山本一清のご子息・山本進(山本天文台・理事)が1984(昭和59)年8月の「天界」に「吉田源治郎の憶い出」を書いている。その中に次の言葉がある。

「吉田師は東亜天文学会(旧、天文同好会)創立当初からの古い会員の一人であった。1920年11月に、各地方に会員が多数出来たので左の六ヶ所に支部を設け、それぞれ支部幹事が嘱託せられたとて、水野千里、海老恒治、古賀和吉、宮森作造ら8人の名が挙げられている中に、洛南支部(12月8日附)支部幹事 吉田源治郎氏 と記されている(天界 第3号、1921年1月号)。」また、西宮市在住時代には東亜天文学会の地方委員に推挙せられていた。天界には第6号(1921年4月号)以後に時々投稿が見出される。」

この文章を読めば、源治郎は1920(大正9)年から山本との交流を始めていることが確かめられる。

実はこのことに関しては、源治郎自身が本書367頁以下に「天文同好会について」という節を設け、書き記していたことをいま思い出したので、次にそれを紹介して置きたい。

天文同好会1

また、源治郎の『肉眼に見える星の研究』の巻末に、山本の処女出版と思われる『星座の親しみ』(警醒社書店、大正10年)の広告があるので、併せてここに取り出して置く。発売後1年も経ていないのに、既に「第十一版発売」となっている。山本は更に、『天文と人生』『星空の観測』『遊星とりどり』などを連続して、同じ警醒社書店より出している。

星座の親しみ

山本の始めた「天文同好会」は、その後「東亜天文協会」と改称され、さらに現在の名称である「東亜天文学会」(Oriental Astornomical Association)となっている。

前に源治郎が編集に関わった「雲の柱」のところで触れたように、山本一清はこの機関誌にも度々寄稿し、後に取上げる源治郎も深く中心的に関わった「農民福音学校」の講師としても名を連ねている。

山本一清は1928(昭和3)年に京大花山天文台が設立されると台長に就任し、1938(昭和13)年に京大を退官した後、私設天文台の山本天文台を設立している。生涯を通じてプロの天文学者とアマチュア天文家の橋渡しをし、天文学の広範な普及・発展に大きく貢献した人物として知られているようである。

そしてその後の著作も多く、前にあげた以外の単著だけでも、『宇宙建築と其居住者』(警醒社、1923年)、『火星の研究』(警醒社、1924年)、『宇宙開拓史講話』(警醒社、1925年)、『家庭科学大系』(文化生活研究会、1927年)、『ラヂオ講演・太陽の近況』(博文館、1927年)、『天文の話・鑛物の話』(文藝春秋、1929年)、『標準天文學』(天文同好會、恒星社厚生閣、1930年)、『万有科学大系』(1931年)、『初等天文學講話』(恒星社、1931年)、『登山者の天文學』(恒星社、1932年)、『日食の話』(恒星社、1936年)、『アムンゼン』(新潮社伝記叢書、1941年)、『天體と宇宙』(偕成社、1941年)、『子供の天文学』(恒星社、1942年)、『星の宇宙』(恒星社厚生閣、1942年)、『星座の話』(偕成社少年少女文庫、1942年)、『星』(晃文社、1942年)、『月の話』(偕成社、1943年)、『コペルニクス評伝』(恒星社、1943年)、『天文新話』(恒星社厚生閣、1947年)、『海王星発見とその後の知識』(恒星社厚生閣、1947年)、『星座とその伝説』(恒星社厚生閣、1969年)、『48人の天文家』(恒星社厚生閣、1969年)などがある。
 
山本一清は、吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』に「序編」を寄稿し、「星座と星名について」と題して18頁分を用いて解説を行っている。この「序編」の扉に1頁をとって「大正11年1月6日」付けの短い言葉を添えている。ここには、一清と源治郎の「星道楽の仲間ぶり」が刻まれている。「京都は寒いところです。夜中には赤インキが凍ってザクザク言ふのです・・」
ここでそれを紹介して、今回は終わりたい。

山本の文章最後に

     (2010年6月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月30日補正)

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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(21)

星の本

     第21回 『肉眼に見える星の研究』(1)

このHPにアップを始めた2010年5月1日付けの冒頭、上に掲げた表紙スキャンと共に、次の言葉で書き出していた。
「吉田源治郎は、賀川豊彦と共に歩んだ協働者の特筆すべき人物の一人である。この『肉眼で見える星の研究』(警醒社書店、大正11年)が源治郎の著作であり、賀川がこれの出版を待ち望み、宮沢賢治がこれを読んで作品に活かしていたことなど、どれだけの人がいま、知っているであろうか。」と。

他の人はともかく、こんな書名を持つ本があることも、まして源治郎がこの作品を書き残していたことも、私は全く知ってもいなかったのである。そんな私がなぜ「吉田源治郎・幸の世界」に興味を抱き、この連載をスタートすることになったのか、なぜ初め「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」というタイトルを付け、書き始めたのかは、第1回目以下で記しておいた通りである。

まず私を引き付けたのは、先に記したようにあの宮沢賢治が、源治郎のこの本を読み、彼の作品に少なからぬ影響を与えていたらしい、ということであった。

大正11年の著作なので、入手は難しいと思っていたところ、嬉しいことに古書店でその初版本が見つかり、それを直接手にすることが出来たのである。

広告星の

上の広告は、「雲の柱」第9号(大正11年9月号)のものであるが、8月に初版が出て「版三忽」とあるので、よほど幅広い読者を獲得していたのであろうか。
 
これを見ると、本書は「四六版四百四十余頁 背布装箱入美本 星図其他四十七図 定価三円五十銭 送料十九銭」とある。古書で求めた初版本は、残念ながら「美本」とされる表紙は無く、箱も無いものであった。

箱の装丁や表紙カバー等は、実際どのようなものであったのか、今のところ判らないが、有難いことに、吉田摂氏が大正13年7月に出た「改版」をお持ちで、今回冒頭に収めた『肉眼に見える星の研究』は、その「改版」のカバーである。

大正13年と言えば、源治郎はまだ米国留学中であるが、「改版」には「1914年5月15日 ニューヨーク州アウボルン・セミナー図書館にて」と書かれた24頁にわたる「改版の序に代えて-米国天文台の印象」が入っている。 この「改版の序」に関しては、改めて取り上げて見たいと思っているが、改版の事情について言及した箇所だけを、ここでは引用して置く。

「昨年(1923年)9月の大震災で本書の旧版がスッカリ灰燼に帰したので、改版増訂を施し、茲に新装を以って、再び、天文同好者の机上を訪れることになった」(24頁)

上掲の広告の中に、10数行の言葉が収められている。是非これを一読頂きたくて、文字を大きくし、下にその箇所を取り出してみた。

星の広告の呼び込み文章

「雲の柱」の編集に当たっていた源治郎は、米国留学を目前に、恐らくこの9月号を準備したのではないかと思われるが、広告の中のこの言葉は、著者である吉田源治郎その人のものだと思われる。

      賀川ハル「私どもの日記」(大正10年11月24日)より

ところで、前に詳しく取り出した「雲の柱」創刊号(大正11年1月)に、賀川ハルが「私どもの日記」(大正10年11月24日)を寄稿している。

そこには、源治郎が「美しい空の星を見上げて、星とその伝説を説明」したことや「近くその研究を纏めて出版される」ことなどが記されているので、ここにそれを紹介して置く。(これは『賀川ハル史料集』第1巻297頁~298頁にも収録されている。)

賀川ハルの日記

      豊彦の「五軒長屋より」(「雲の柱」第8号)

賀川豊彦も「雲の柱」大正11年8月号の「五軒長屋より」で、「7月」の「身辺雑記」として、次のように記している。

「私の為に少なからず尽くして下さる吉田源治郎氏は、この度オウボルン神学校に入学するために8月23日春洋丸で渡米せられます。同氏は既に私の為に「聖書社会学」「イエスの宗教とその真理」「人間として見たる使徒パウロ」「イエスの人類愛の内容」等4冊の書物とパンフレット2冊を筆記して下したのであります。私は同氏の健康を祝し、一層イエスの為に御自愛を祈りたいのであります。兄弟達も同氏の為に祈らんことを望みます。近い中に同氏の「肉眼で見たる星の研究」と言う美しい本が出版されます。実に面白い本であります。」(『賀川豊彦全集』第24巻、13頁)

豊彦は、既に馴染みの警醒社書店より、源治郎の作品の出ることは勿論、企画から校正・出版直前の「美しい本」「面白い本」の仕上がり具合も知っている風である。

      初版本:扉から源治郎の「序」まで
 
さて、『肉眼に見る星の研究』初版本のはじめ、扉から、源治郎訳のカーライルの言葉、本書のために寄せられた由木康の「序詩」と津川圭一の曲、そして吉田源治郎の「序」(大正11年7月21日、伏見の寓居にて)までを、今回は取り出して見たい。

確かにこれは「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎の世界」を髣髴させるものである。

初版の扉

星の歌序詞

序の1

序の2

序の3

序の4

序の5

序の6

源治郎が、京都「伏見の寓居にて」「大正11年7月21日」この「序」を書き上げ、ほぼひと月後(初版の発行日は「大正11年8月20日」であるので)、源治郎はその完成した著作を抱いて、賀川が記す通り「春洋丸で8月23日」、妻子等の見送りを受けながら、神戸港より米国に旅立ったということであろうか。

源治郎と幸の間にはこの時、長女・敬子と生れたばかりの長男・義亜がいたが、源治郎の留学の期間は、故郷の伊勢で暮らすことになる。この「伊勢の生活」については追って触れる積りであるが、今回はここまでにして置く。
   
   (2010年6月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月28日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(20)

賀川と山室
   賀川豊彦と山室軍平(石井十次の墓前で)

  第20回 山室武甫「新川貧民窟の二十日」
(大正10年の年末年始)

吉田源治郎の最初の赴任地「京都伏見教会時代」の働きを辿ってきて、若き日の代表作『肉眼に見える星の研究』のことに進む予告をしながら、前回「川崎・三菱大争議」で収監された賀川が釈放された翌日撮影した「お宝写真」を、吉田摂氏より新たに預かったので、ちょっと寄り道をした。

ついでにと言うわけではないが、丁度この時、つまり「川崎・三菱大争議」を経て間もなく、既述のとおり「イエスの友会」の創立があり、続いて「雲の柱」の創刊へと動いていく「大正10年の年末の時」、神戸の「葺合新川」で「二十日間」寝泊りした人物による貴重なレポートが残されているので、是非この全文をここで紹介して置きたいと思う。

     「山室武甫(やまむろ ぶほ)」のこと

この人物とは、当時まだ同志社大学予科2年生で、「吉田源治郎とは旧知であった」という「山室武甫」である。

言うまでもなく彼は、山室軍平の長男で、1902(明治35)年生れ。東京府立一中、同志社大学、早稲田大学、東京神学社をへて、ロンドンの救世軍万国士官学校を卒業した。帰国後、救世軍に勤め、救世軍士官学校教官になった。後に作家の阿部光子と結婚。『人道の戦士・山室軍平』『愛の使徒・山室軍平』『人類愛の使徒・ウイリアム・ブース』ほか多くの著作を残し、1982(昭和57)年、その生涯を終えているが、米沢和一郎編『人物書誌大系7・賀川豊彦Ⅱ』(175頁)によれば、「武甫」という珍しい名前の名付け親は賀川豊彦であると言われる。「武は救世軍の大将ウィリアム・ブースのブを、フォはジョージ・フォックスの甫としてつけた」という。

冒頭に掲げた写真は『賀川豊彦写真集』(49頁)のもので、撮影の時は判らないが「宮崎県茶臼原の石井十次記念講演会で山室軍平と共に」と書かれている。

賀川と山室軍平との関わりについて、横山春一の『賀川豊彦伝』(警醒社、昭和34年)の105頁~106頁に少し触れている箇所がある。賀川が「新川」で新しい生活を始めて間もない明治44年1月、山室の家が焼けた時、「武甫が着られるフランネルのシャツを贈った」ことなどあり紹介して置く。

賀川伝横山

文章1

そして、横山が上げている賀川の最初期の作品『預言者エレミヤ』に収めてある山室軍平の「序」も添えて置きたい。
初版は大正2年12月、福音舎書店で出版されたものであるが、ここに収めるものは、大正14年11月の「警醒社書店内日曜学校文学部」を発行所とした改版である。表紙の色も初版の赤色から紺色に変わっている。本書は「To Rev.C.A.LOGAN、ローガン先生に」献げられている。
      
エレミヤ預言者

山室序1

山室序2

       山室武甫「新川貧民窟の二十日」

さて今回ここであえて取り出して置きたいと思う山室武甫のレポートは、昭和24年5月28日発行の「賀川研究」第3冊所収の「新川貧民窟の二十日」であって、冒頭に記したように、ここには大正10年暮れの様子が大変よく写し出されているからである。武甫は、「賀川研究」第1冊(昭和23年4月)には「山室軍平と賀川豊彦」と題して二人の友情の足跡を17頁にわたって綴り、同年12月の第2冊目にも「賀川先生と現救世軍大将」として、賀川の書簡や祝詩を紹介している。

既に言及したかも知れないが、この「賀川研究」は横山春一の個人編集雑誌として昭和15年第1輯から昭和22年第13輯で終刊となり、上記の「賀川研究」は第二期目のもので3冊を以って終刊となった。限定部数のこれが神戸の老舗古書店「後藤書店」にたまたま出ていて入手していたので、第13回ではそこに収められていた吉田源治郎の好論文「間所兼次と消費生活協働組合運動」も収めて置いた。

第二期「賀川研究」には、村島帰之「労働運動家としての賀川豊彦」「賀川先生と羅府の友」、杉山元治郎「農民運動物語(1~2)」、武内勝「新川貧民窟の生態」、杉山健一郎「神戸葺合新川貧民窟地図解説」「神戸市葺合区実測図一枚」など重要な論稿が寄せられている。

では、次頁から8頁分の山室武甫論稿を熟読あれ。

1新川文章

新川文章2

新川文章3

新川文章4

新川文章5

新川文章6

新川文章7

新川文章8

(補記 上記の文章が、伴武澄しの「Think KAGAWA」の2014・6・12 にテキスト化して掲載されていたので、ここに挿入させていただきます。

                新川貧民窟の二十日   山室武甫

  新川行の由来

 其は大正十年で、今から約三十年前の事である。賀川先生の「死線を越えて」は、驚異的な賣行で、劇化され上演された。近刊の続篇「太陽を射る者」も凄しい賣行を続けてゐた。其夏神戸の川崎三菱の職工約三萬の大勞働争議に於ける先生の鮮かな指導振は全國に傅へられて、先生の名馨は一時に高くなった。その少し前東京の警醒社から黄色い表紙で四六判百頁程度の多分「自由組合論」といった先生の著書が出て讀んだ。神戸の大争議の際も、先生の思想は此書に記されてゐる通だから安心して可なりと、友人とも話し合った。

 常時私は同志社大學豫科二年生で思想的信仰的に動揺期に在った。其頃京都市七條の貧民窟(當時所謂「特殊都落」)に小林輝次といふ京大出身の法學士が一戸を借りて住み、京大大學院に籍を置きつつ、大阪の大原社会問題研究所に勤めて居られた。私は小林氏と親しくなり、チャールズ・ブースがやった様に一緒に此の地区を組織的に研究してはといふ事になり、同居しようとしたが、私が修道するとでも思ったのか近所の連中が反對して思はしく行かなくなった。御存知の通り彼等は悉く熱心な真宗門徒なのである。丁度其頃京都の公會堂で水平社の創立大会があり、私も出席した。喜田貞吉博士の部落に關する歴史的研究も刊行され、彼等に對する社會の同情と關心とが高まりつつある際であった。私は京都市内の部落は悉く訪れた。小林氏が私の事を賀川先生に話して下さったら、冬休に新川に来て見ないかといふ話があったさうだ。他方十一月五日大阪で催された全國社會事業大會で父軍平が先生と邂逅した際に、其の話が出て先生の快諾を得た。

  先生と私

 抑々私が賀川先生の名を初めて耳にしたのは明治四十三年の初頃であった。其年一月廿三日に東京府豊多摩郡千駄ヶ谷町八四二番地(現在の渋谷區省線代々木驛附近)の私共の家が焼け、同町五三八番地に移った。其から間もなく或日の午後、京橋區銀座二丁目に在った救世軍本營に父を訪れると、「之は賀川といふ方からお前に下さったのだよ」と言って、新刊の賀川先生著「友情」一冊と、ネルの茶か青の縞のシャツとを渡された。「友情」は先生の處女作で、表紙や挿繪の水彩畫も先生の筆に成り、少年少女にダビデとヨナタンの美しい友情を描いたものであり、警醒社發行であった。巻頭には父の序文があった。

 私は前年の夏休と冬作とを大阪の博愛社で過し、小橋勝野夫人(實之助未亡人、現社長)から賀川先生や姉上榮子さんの若い頃の噂を聞いた。叉、神戸の救世軍小隊で曹長を勤めてゐた宇佐早出彦氏宅でも先生の噂を聞き、「涙の二等分」も手にして見た。博愛社はや聖公會系統であるが、理事の一人なる名出保太郎氏や、博愛社教會や小學校を助けられた側垣基雄氏が牧して置られた大阪川口教會で賀川先生の講演があった。私も博愛社の職員の方と一緒に出席した。

 先生の講演中、三高から大學行を断念して救世軍士官となり、日本を救ひたいからとて三晩電信柱の下に寝た一宮政吉氏(後にホリネス派に轉ず)の話が出た。ブース大将は一億圓を投じたが、倫敦貧民窟の激化は仲々思はしく行かなかったといふ様な、貧民窟軟化の困難にも言及された。救世軍は間口を廣くして多くの人々に接するが、叉ぢきに行かれて了ふ。この川口教會の様に、奥まった處で深く養ふ必要がある。其點此間救世軍の矢吹中佐に會っ忠告した。といふやうな御言葉があった。勿論私が其席に在った事は、先生が御存知の筈はないし「雲の柱」の發行」迄に詳しい。

 女學生達は裏通の、先生が最初に住まれた家と他の二軒の壁を打抜いて一つにしたものに、賀川夫妻等と一緒に泊った。私に表通にあったイエス團の事務所の二階に寝泊りした。此處は階下が教會や診療所に充てられ、階上は一部屋程の事務室で、テーブルが二つ三つあり、先生の豊富な書棚があり、叉資料を分類して入れる抽斗が多数あった。

 私は窓寄りのテーブルの一つに腰を据え、殺到してくる多くの手紙を分類整理し、叉先生の御意嚮に従って返事を出した。煩悶相談、弟子入願ひ、貧民窟入り依頼、講演依頼、金の無心、寄稿依頼、筆蹟所望等々、種々雑多であった。又新刊の「イエスの宗教と其の真理」や、「雲の柱」創刊號の發送もあった「雲の柱」によってイエスの友會の存在が天下に發表されんとしてゐた。先生は會の五綱領につき、之ならば殆ど誰も異存はあるまいと話して居られたのを思出す。

 別に賀川夫人が主宰される覺醒婦人會の機関紙「覺醒婦人」の創刊號も出た。之には亡父軍平が、救世軍の母カサリン・ブースに就いて誌した一文も載ってゐた。

 訪問客も次から次へと、ひっきりなしに押し寄せ、その用件も手紙と同様に様々であった。先生は當時屡々「Notable(有名)になると悲哀を感ずるね」と言って、悲鳴をあげられた。そして遂に事務所の階段の脇に貼紙して、先生の面會日を定め、一時来訪者の應對や相談
は、宗教上―根岸蓮治、身上―植村龍世、婦人身上―小見山富恵、勞働―行政長藏と分擔が定められた。根岸氏は元救世軍士官で救世軍を出てから早大に學んだりされた。路傍傅道等にはコルネットを吹いて助けられた。賀川先生は、求道者や信仰を勤める相手には必ず、亡父軍平の「平民之福音」と、金森通倫氏の「信仰のすゝめ」とを與へられた。

 先生の知友や門下の来往も頻繁であった。改造社の山本實彦氏がこられ、母上が「死線を越えて」の劇を見た事を話された。印税の事に言及されると、先生は次から次へと事業上の必要があるので、幾らはいっても足りないと言はれた。杉山元治郎氏が来られた。日本農民組合か發足せんとし、機関紙「土地と自由」も創刊されんとしてゐた。麻生久氏が訪ねて來て夕食を共にし、私も紹介して頂いた。麻生氏は雑誌「解放」の同人であり、自傅小説「濁流に泳ぐ」で文才を顕し、叉足尾銅山の勞働争議のリーダーとして勇名を轟かした人であり、肥満して二十貫は優にある巨躯を擁してゐた。食事中の會話で、賀川先生が今年のクリスマスには貧民窟の子供等を賑う爲に一萬圓費ったと云はれると、麻生氏は「其だから社會主義者に攻撃されるんだよ」と言った。高山義三氏や日高善一氏も見えた。吉田源治郎氏と舊知であったが、一緒に連立って歩いた時、救世軍では何故消費組合をやらないのですか?」と尋ねられたのを憶出す。久留弘三氏、同志社大出身で、京都の友愛會幹部たりし東氏等も来られた。

 後に評論家として名を成した大宅壮一氏は京都の三高三年生で二學友と共に来訪した。彼は仲々の勉強家で、獨逸話の原書等を先生から借りて行った。三浦浩一、探田種嗣、杉山健一郎等の諸氏にもお會ひした。無名の勞働運動の闘士連もつめかけた。革命歌や勞働歌等が度々高唱された。叉、先生の書庫の書物をどしどし持出す。紛失するものも少くないので、先生は貸出簿を作って取締らねぱならないと言って居られた。

 賀川先生の二弟と、賀川夫人の母上と二妹とにもお目に掛った。現在の芝女醫はまだ女子醫専の學生であられた。馬鳥僴氏は外遊中であったが、馬島夫人は教會の會合にいつも見えてゐた。

 先生の書棚には、救世軍發行の書籍は大抵揃ってゐた、亡母の傳「山室機恵子」もあった。亡父が扉に自著 して贈った、「聖書餘書』(後に「民衆の聖書」と改稱)のマタイ傳其他数冊もあった。書類分類戸棚の「名士の書簡」といふ抽斗を開けたら、亡父のペン書きの書翰のみが数通出て来た。亡父は不器用で、悪筆だからとて、ペンで色紙や書物の扉に書く以外は、絶對に揮毫の求めに應じなかったのであるが、賀川先生の美事な達者な揮毫には感心した。

  新川のクリスマス

 神戸のイエス團の年中行事たる古着バザーがある。女學生は出品する古着の縫直しや仕立に忙しく働く。私は他の一二の青年等と一緒に、荷車を曳いて山手の篤志家の宅を訪ね、寄附の品物を頂いて歸ったのを記憶する。 先生の恩人マヤス博士の宅は山手に在り、宏荘な見渡しのよい家であった。我々は先生夫妻と共にお茶に招かれて楽しい歓談の一時を過し、美しいクリスチャン・ホームの雰園気に浸り、記念撮影もした。マヤス夫妻並に御子女は大柄で立派な髄格の持主であり、夫妻は度量の大きい、温情に充ちた方々であると感じた。

 クリスマスの前夜私は先生と二人きりで電車に乗って、神戸の市中に出掛けた。併し私は當時虚無的な思想にかぷれ、信仰が動揺してゐたので、途中でも黙りこくって、さっぱり何も言はなかった。先生と一緒に丸善の支店に這入った。先生は多分 Everymeans Library で
あったと思ふが、一揃の叢書の科學に関するものを購求された。新川の家の近く迄釆て別れた。先生は其儘どこか海岸よりの方へ行かれて祈られたらしかった。

 クリスマス當日は未明に起きて、短い祈祷會の後、一同列を作ってまだ暗い貧民窟の街路の要所要所に立止り、「もろびとこぞりてむかへまつれ」の讃美歌を歌った。キリストによる新しい解放を告げる此の歌は、最も適はしく考へられた。先生の當日のお勤めは「マグニィフィカット」と呼ばれる聖母マリヤの歌(ルカ傳一・四六―五五)に基いたものであった。

 少し離れた大きな會館で二日續いて、貧民窟の子供等を招待しての盛なクリスマス祝會が催された。下駄を包む爲新聞紙が足りなくなって、先生宅から先生が參考資料用として保存して居られた古新聞の一部を持出して運んだのを記憶する。

 賀川宅と事務所の外に、今一軒相當に大きな建物を、先生は買収された。村島氏の記録によれば「刷子工場跡に作った児童會館」であり、事務所階下の集會所よりはずっと廣かった。前述の七名の女學生の中の一二の方々が、此の建物で、多分クリスマスの頃、先生から受洗した。

  先生の雄辨

 日曜日朝は日曜學校と禮拜があり、大人の集會には關係者や外部の人々も相當多く集った。夜は先づ救世軍式に路傍傳道があり、賀川夫人其他の短い體験に次いで先生の勸告があった。先生のバスの太い聲はよく響いた。屋内の會合も、多分に救世軍の救靈會的要素をもったものだったと記憶する。

 神戸YMCA會舘で、軍備縮小大講演會があり、、麻生久、賀川豊彦、鈴木文治三巨頭の演説があった。當時勞動運動の會合には警官が臨検して高壇の一角に座を占め、「注意」とか「中止」とか叫ぷのが例だったが、此時も署長が壇上に居り、麻生氏に統いて立たれた先生も二度程「注意」を受けられた。先生は米国で生物學を研究し、發掘された古代生物の化石により、巨大な體躯で争闘の器能のみ發建した生物が絶滅するに至った跡も學んだと語られた。次いで日本が國費の半額以上を軍備に充當する矛盾を指摘し、遂には軍備の撒廢迄叫ばれた。戸口では勞働運動關係の先生の小冊子が盛に賣られてゐた。後で先生は、「日本でも軍備撒廢を叫べるやうになった」と述懐された。

 新年に室内教會(長谷川敞牧師及初音夫人)で、先生の連續聖書講演があり、プリントが配付きれ、先生は例の如く図解され乍ら話された様に記憶する記憶する。

  其他の思出

 先生が祈る爲に時々行かれるといふ神戸の水源池に一人で行って、清い空気、静かな大地、美しい景色に接して、気分を新にした。居酒屋が繁昌し、街頭で賭博が行はれている騒々しい汚い貧民窟の雰囲気とは全く異ったものであった。叉或る一日は矢張一人で大阪の貧民窟を歩き廻り、釜ヶ崎方面の木賃宿に一泊した。

 東京女子大生小岩井ゆき氏が詩に注べてゐる××の兇暴の記憶も鮮かである。毎度の事であろが、酒気を帯びて無心をし、賀川夫人の頬を殴って倒し、ドスを以て先生に、殺すとて迫った。先生はいつも逃げて暫く姿を隠されるのが例であったが、此時は遂に賀川宅に追ひ詰め、久しく粘って怒鳴り散らした。「そんな事で大親分と言へますか」といふやうな言葉が彼の唇から迸り出た。「山室君、英語の原書は自曲に讀めるかね? Classicsを讀み給え。ブラントンのRepublicやアダム・スミスのWealth of Natrionsは讀んだかね?」とて、讀書の注意をして下さった。

 皮膚病が感染するといけないと云ふので、少々遠いが貧民窟を出外れた所にある風呂屋に通った。先生と何回か一緒に入浴し、背中を洗って頂いた。「海水浴に行ったのかね? 仲々色が黒いね」と言はれた。先生の背中を洗はうとしても、どうしでも許されたかった。

 先生は何時かの講演で亡父の説教から引用し、胃病で癇癪持の男の癇癪が次から次へと傅播して行くといふ例話を語られた。

 先生は新著[イエスの宗教と其の真理」其他を、自分の悪口をいふ人には送るのだと言はれた。私は大正十年夏を石井十次氏の遺業なる九州の茶臼原孤児院で過し、餘り遠くない「新しい村」を訪うた。武者小路實篤氏と話し合ってゐる中に、不圖氏は「賀川豊彦の繪は何だね? あんなものは書かない方がいいね」と言はれた。其を思ひ出して先生にお話しすると、「武者小路も悪口を云ふから、送らう」と答へられた。

 丁度其頃西田天香氏の「懺悔の生活」が百版以上を重ね、西田氏の名は天下に喧傳されるに至った。西田氏は綱島梁川等を通じて基督教の感化も多分に受けられた方である。私は友人に連れられて数回京都の一燈園を訪れ、西田氏のお話も拜聴したし泊ったこともあった。先生は消極的で経済理論を持たない一燈園の行き方を好まれなかった。植村龍世氏が讀みたいと言はれるので、歸洛後「懺悔の生活」を送ってお借しした。西田氏と同系統の人に宮崎安右衛門氏があり、矢張同じ頃「乞食桃水」やフランシス傳を出し、私は兩著とも讀んだ。
 歸洛して下宿に戻り、學校は始った。賀川先生に御禮状を出すと、自筆で巻紙に墨書した御手紙を頂いた。父の方へも私の精紳的状態を報告する手紙が届いたさうである。(完)

              ♯              ♯

 以上長くなってしまったが、山室軍平の「平民の福音」は賀川ハルの愛読書でもあったことや、賀川夫妻の結婚式の時、花婿・豊彦の袴は軍平の贈りものであったとも言われている。(雨宮榮一『貧しい人々と賀川豊彦』(新教出版社、2005年)の「結婚式場と賀川の袴」(42頁以下)にはこれについての諸説があげられているが)

最後に、高道基の好著『山室軍平』(日本基督教団出版部、1973年)の末尾のことばを掲げて終わりたい。

高道文章

    (2010年6月16日記す、鳥飼慶陽)(2014年6月27日補正)
          

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(19)

釈放写真

 第19回「神戸大争議」収監釈放後の賀川豊彦(お宝写真)

源治郎が名付け親となった「イエスの友会」は、1919(大正10)年10月5日、奈良の菊水楼において結成され、源治郎はすぐ機関誌「雲の柱」の編集に取り掛かり、警醒社書店より翌年正月には創刊号を刊行したことを、前回概略のところを確かめて見た。
そして今回から愈々、源治郎の代表作のひとつと見られる『肉眼に見える星の研究』へと進む予告をしていた。

ところが過日(2010年6月11日)、吉田源治郎・幸夫妻と親しくして来られた芹野俊郎牧師(西宮市甲東園にある甲東教会名誉牧師)との面談の後、吉田摂氏から新たに次の資料をお預かりした。

1 シュヴァイツァーの吉田源治郎宛書簡の一部を現治郎が訳したもののコピー「原生林の片隅より-仏領中央アフリカ・ランバレンにて」(掲載紙不詳、2枚)
2 小林恵子「日本の幼児保育につくした宣教師(下巻)」(キリスト新聞社、2009年)
3 兵庫県社会福祉協議会「福祉の灯-兵庫県社会事業先覚者伝」(昭和46年)
4 賀川豊彦「歌集・銀色の泥濘」(桜美林出版部、昭和24年)
5 写真1枚:兵庫・山根写真館撮影

この5番目の1枚の写真が、冒頭に掲げたものである。写真の裏には、よく見れば鉛筆書きで「賀川宅分」とある。そして次のような英文のコメントが付されている。

説明英文

源治郎の日本語文字の判読の難しさは定評があったようであるが、この英文添え書きもすぐには判読出来ず、失礼を省みず、只今トマス・ベリーの『偉業-未来への地球人類の道』邦訳中の先輩・延原時行氏に、これをスキャンしメールで依頼したところ、親切な言葉を添えてすぐ、「これで間違いないことでしょう」と、以下のように返信メールが届いた。

Taken 1 day after Mr. Kagawa got out of
prison in 1921 after dockyard strike of 35.000
a group of strike-workers at the Kaiin
Sailors Home - Kobe –
in Prison Mr. Kagawa finished his
2nd novel - a shooter at the Sun.

説明は無用かもしれないが、これを眺めていると次のような意味合いであろうか。

賀川氏が35000人の造船所ストの後、1921年に刑務所を出て1日後に写す。
神戸海員会館にて、ストを闘い抜いた仲間たち。
獄中、賀川は第2作目の小説『太陽を射るもの』を書き終えた。

写真には、賀川の横に杉山元治郎がいて、前に鈴木文治の姿がある。この写真ははじめて見るもので、大切に保存してこられて「お宝」のようである。

下の写真は松沢資料館所蔵のもの。添え書きの通り、久留と村島と肩を組む賀川である。

三人の顔

大正10年7月29日、賀川他多数の幹部が検束され、7月31日、神戸監獄橘分監に収監され、8月10日に釈放された。
9月に賀川は東京富士見町教会で「イエスの宗教とその真理」を講演し、吉田源治郎がそれを著作として仕上げたことは既述の通りである。

       武田芳一『熱い港-大正10年・川崎三菱大争議』

神戸におけるこの大争議に関しては、映像と共に多くの記録が残されているが、「鉄の肺」で直木賞候補に、「黒い米」で新潮小説賞候補になるなど話題を呼んだ神戸の作家・武田芳一(1910年~2001年)の社会小説『熱い港-大正10年・川崎三菱大争議』が、昭和54年に太陽出版より刊行されている。

熱い港

武田が15年の歳月をかけて完成させた537頁のこの労作は、賀川ハルの聞き取り等重ねてなった作品で、「私が描こうとしたのは、歴史的事件の表舞台ではない。その内側にいた人々、渦中に巻き込まれた人々のなまの姿である」と「あとがき」に書いている。

小説であるが、賀川豊彦収監と釈放の箇所の一部を、以下に取り出して置きたい。
この作品は、演劇としても上演され、人々の注目を集めたものである。「武田芳一(ほういち)」は「神戸文学賞」も受賞した方だと思うが、生前のあの温かな笑顔が忘れられない。

熱い港文章1

熱い港文章2

熱い港文章3

熱い港文章4

熱い港文章5

熱い港文章6

付記
『賀川豊彦写真集』(東京堂出版、昭和63年、121頁)に収めてある下の写真は、冒頭に掲げた「お宝写真」をトリミングしたものであるようである。

写真賀川と鈴木の

     (2010年6月14日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月26日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(18)

雲の柱表紙

   第18回「イエスの友会」及び「雲の柱」と吉田源治郎

第10回では吉田源治郎と幸の結婚(1919(大正8)年)後の「京都伏見教会時代」を訪ねていた。丁度、二人の結婚の年、幸の弟「間所兼次」が商業学校を卒業して、賀川の紹介で、大阪に出て就職するということもあり、しかも間所は大阪を拠点とする「購買組合共益社」の立ち上げ準備に賀川と共に参画し、翌年(1920年)の「共益社創立」からの兼次の活躍振りに少し触れて置く積りで、第11回を始めたのであった。

ところが、「間所兼次」の働きについても「共益社」の事業展開に関しても、私自身が無知であったこともあり、貴重な関係資料が多く収集されていたために、第14回まで延びる事になった。加えてその時点で、更に新たに「共益社」関係の「お宝写真」を預かることが起こり、それの紹介を併せて進めることが出来て、結局第17回まで合計7回を重ねることになった。

実は「間所兼次」に関しては、「共益社」関連の働きと密接な関わりのある、大正14年以降の吉田源治郎の活動拠点となった「四貫島セツルメント」における積極的協働の事実にも触れて置かねばならないが、「吉田源治郎と幸」の歩みは、まだ「京都伏見教会時代」の新婚生活の時まで進んだばかりであって、「京都伏見教会時代」を越えて、「源治郎の四貫島時代」を取り上げる時に、改めて「間所兼次」の再登場ということにしたいと考えるので、一先ず「間所兼次と共益社」の項は、前回で区切りを付ける事にした。

そこで今回は、第10回「京都伏見教会時代の源治郎と幸」の働きに立ち返り、表題の如く吉田源治郎が当時深く関わった「イエスの友会」の組織化と「雲の柱」の創刊について取り上げることにする。
 
既に「源治郎の生涯のパートナー・幸」については、第7回「間所幸と賀川ハル―共立女子神学校時代」並びに第10回「京都伏見教会時代の源治郎と幸」などで取り上げてきたが、吉田摂氏と梅村貞造氏よりお預かりした資料は、実は「源治郎」関係よりも「吉田幸」のものが量的に多数を占めていて、独立して扱わねばならない程のものであった。

この度の連載を始める経緯は、冒頭に記した通りであるが、私にとって「吉田源治郎」は殆ど未知に近いお方であり、まして「吉田幸」についておや、である。

しかしこうして時間を見つけては、ご夫妻の歩まれた生涯の足跡を少しずつ眺め回していると、「吉田源治郎・幸の世界」への気儘な連載も、インターネット上の「賀川オフィシャルサイト」に加えて、本年(2010年)4月グランドオープンした神戸の賀川記念館4階「賀川ミュージアム」の来館者向けのパソコンでも覗ける様にご配慮頂いているが、このまま不慣れなものを継続してみたい。

     「イエスの友会」の命名者・吉田源治郎

ところで、「京都伏見教会時代」に源治郎と幸は結婚家庭をスタートさせた翌年(1920年・大正9年)10月には、賀川の超ベストセラー小説「死線を越えて」が改造社より刊行され、一気に人々の心を摑む事になる。そして翌年(1921年・大正10年)の「熱い夏」には「川崎・三菱大争議」に立ち上がり、智恵を尽くした示威運動を展開するが、運動自体は「敗北」に終わり、賀川他多くの幹部等は検束されていった事態に関しては、現在では周知の事実である。

ほぼその2ヵ月後の10月5日、奈良の旅館・菊水楼において呱々の声が上げられた小さな組織「イエスの友会」について、今回まず取り上げて置かねばならない。特にこれには、源治郎も自ら参加し、この組織の名付け親でもあるからである。

現在も「イエスの友会」は活動を継続している組織であるが、誕生の場所となった旅館「菊水楼」はいまも存在しているようである。「菊水楼」の写真は何度かで見た記憶があるが直ぐに取り出せない。

 「イエスの友会」結成の経緯については、多くの著書で触れられているが、命名者・源治郎のことにも言及している横山春一の「賀川豊彦伝」(増訂版、警醒社、昭和34年)に記された「イエスの友会」のところを先ず見て置く。

文章1

文章2

文章3

なお、「賀川豊彦学会論叢」第14号(2005年12月)所収の加山久夫「賀川豊彦と神の国」の「賀川豊彦とイエスの友会の発足」の項では、「結成の場所」と「賀川の意図」並びに「呼びかけメンバー」に触れて、次のことが記されている。

「1921年10月5日、日本基督教会の全国大会が奈良菊水楼で開催されていたが、社会的関心の希薄な大会の雰囲気に憤慨した賀川は、小野村林蔵とともに、明治学院出身の友人たちによびかて、イエスの友会を結成した」(83~84頁)

そして99頁の「注2」において、イエスの友会の「創立メンバーは以下の人々であった」として、横山が上記の「賀川豊彦伝」で上げている「賀川、中山、村田、吉田、日高、松尾、飯島、高崎、小野村」(横山は最後に「賀川はる子」の名も入れているが、果たしてこの大会に彼女は参加していたかどうかは疑わしい)のほかに「沖野岩三郎、高尾益太郎、郷司慥爾、原田友治、河村斎美、諏訪修治、山本岩吉」を示している。

ついでに細かなことであるが、「賀川豊彦研究」第17号(本所賀川記念館、1989年)所収の雨宮榮一「初期『イエスの友会』について」には、「賀川が属していた日本基督教会の教職者会が開かれ、14名の教職によってつくられた」とされ、教職たち14名の任地も、次のように示されている。

 「日高善一(京都)、沖野岩三郎(東京)、山本岩吉(青森)、山口重太郎(松山)、村田四郎(韓国大邱)、高尾益太郎(佐世保)、松尾造酒蔵(鎌倉)、諏訪修治(飯田)、河村斎美(新宮)、飯島誠太(岐阜)、高島能樹(東京)、吉田源治郎(伏見)、小野村林蔵(北海道)、賀川豊彦(神戸)」(17頁)
 (「高島能樹」は「高崎能樹」の間違いであろうが、「山口重太郎」は最初期の「イエスの友会会員名簿」にはあるが、先「創立メンバー」のリストには欠けている。

何れが正確なのか判らないが、かくして「イエスの友会」は誕生したのである。勿論この会の入会申し込み先は、「神戸市北本町6丁目220 イエス団内イエスの友会」である。
 

      「雲の柱」の創刊

既述の通り、源治郎の妻となる幸は、横浜の共立女子神学校時代の大正3年から6年までの3年間、賀川ハルと親しく過ごし、大正7年に源治郎が京都伏見教会に赴任して後、源治郎が神戸葺合新川の賀川を訪ね二人の交流も始まり、源治郎と幸の結婚の時にも京都室町教会で日高善一牧師の司式で、花婿は媒酌人の西阪保治のフロックコートを、花嫁は賀川ハルの紋付を借りて臨んだこととか、源治郎は、賀川の講演を見事に著作に仕上げるなど(大正9年の『イエス伝の教へ方』ほか)を通して、互いの信頼関係も深まる中で、上記の「イエスの友会」結成へと進んでいったのであろう。

今回の冒頭に掲げたものは、1922(大正11)年1月発行の「雲の柱」創刊号の表紙と目次である。2ヶ月前にできた「イエスの友会」の機関誌の役割を担い、東京・警醒社書店より月刊誌として刊行されたものである。

この創刊号を見ても、賀川は勿論、吉田源治郎の訳稿の連載も始まり、源治郎は「編輯」作業を担っており、この当時すでに警醒社書店から出版間近となっていた吉田源治郎の主著のひとつ『肉眼に見える星の研究』をサポートした山本一清の「珍しや水星―天文通信」の連載も第2号から始まり、源治郎たちの結婚の司式をした日高善一の「創作」も登場している。

       源治郎の「編集後記」
 
創刊号の編集後記で源治郎は、「日本の闇が深くならぬ中に―新しい一つの運動を醸そうとして多くの友人の祈と祝福の裡に本誌が生れ出た。」「『雲の柱』という題号は精神運動即社会運動を表象する」とし、第2号の奥付の「編輯短信」でも、次のように記している。

編集後記
 

    「雲の柱」に関する二つの論稿(米沢・村島)から

ここでは「雲の柱」に関する二つの論稿から少しずつ取り出して置きたい。
一つは「緑蔭書房編集部編『雲の柱』解題・総目次・索引」の序文「『雲の柱』誕生から終刊まで」(米沢和一郎)の冒頭部分のみ)。

誕生から週間

ここに上げた米沢論稿の冒頭の一部の最後に、村島帰之が「雲の柱」終刊号(昭和15年10月)に寄稿した「雲の柱十九年私史」について触れているが、源治郎との関係も浅くはない村島のこの一文を、最後に収めて置きたい。

この村島論稿は、松沢資料館発行の「雲の柱」第1号(1985年秋)の15頁から25頁に全文収録されているので、ここではそちらの初めの3頁分をアップさせていただく。

村島のこの論稿は、大正11年から昭和15年までの「KAGAWA GALAXY」の動静を知る上でも大切なものであるが、この月刊誌の編集を担っていた源治郎は、創刊の年(大正11年)の10月には、米国ニューヨーク州オーボルン神学校留学のため、ほぼ3年間日本を離れるので、この段階ではまずその最初期のみにして置く。

雲の柱19年文章1

雲の柱19年文章2

雲の柱19年文章3

 なお、「村島帰之」については、現在同時進行のブログ http://d.hatena.ne.jp/keiyousan/に於いて「賀川豊彦の畏友・村島帰之」の長期連載をしているので、神戸の賀川記念館の「研究所」の「鳥飼の部屋」にも収めていただいている村島帰之の重要なドキュメントと共に閲読願えれば有難い。

さて、次回からは、源治郎と幸の新婚時代である「京都伏見教会時代」におけるもう一つの大きな出来事、源治郎の代表作ともいうべき『肉眼に見える星の研究』のことを取り上げて見たい。本書は、1922(大正11)年8月、警醒社出版より刊行された。

  (2010年6月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月25日補正)

補記
 本文で「イエスの友会」結成の場所「奈良菊水楼」の写真がどこか見当たらなかったことを記したが、今回書き終えて机上の整理をしていると、探し物が出てきたので、ここに補記して置く。こうしたことは今や私には珍しくもないが、何ともお恥ずかしい。

 これは松沢資料館発行の「雲の柱」第10号(1991年秋)で、賀川純基氏の「編集後記」によれば、創立70年を迎えたイエスの友会の修養会が、結成の地・奈良で開催され、純基氏もそれに参加され、足を伸ばして「菊水楼」まで出向いて、自ら撮影したものと思われる4枚の写真が、巻頭グラビアに入っている。以下のものは、その内の2枚であるが、「編集後記」で、次のように記されている。

 「イエスの友会が結成されたその場所、菊水楼は、70年前と同じように猿沢池畔に立っていた。明治時代に建てられた美しい木造建築で、土台もしっかりしているのであろう。いくつかの戦争や激動の時代に、焼けず倒れず、建てられたままの姿を見せていた。立派な門構えも手入れもよく保存され、現在は高級な料亭旅館として営業をしていて、わたしたちはそこで記念の催しをすることが出来なかったのは残念であった。」

なおこの号は「イエスの友会」が特集され、賀川純基氏が1990年7月30日に「賀川豊彦とイエスの友会」と題する講演を行った「まとめ」と「イエスの友会」の「夏期修養会・全国大会」「小冊子運動出版物」リストなどが収められている。

  下の写真は「菊水楼」入り口と玄関である。

入口菊水楼

菊水楼玄関






KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(17)

旅写真1

  第17回 「間所兼次と共益社」お宝写真(3)

前回には「共益社」社員の労働現場と慰安旅行の写真を収めたが、もう1枚冒頭のものが残されていた。これには「京都日活を見学」と書かれている。俳優さんが沢山加わっているようである。

ポスター賀川服

上のポスターは一部欠けているが「消費組合協会」が作った「賀川服」を宣伝したものである。「社会人よ 黄金の夢より醒めよ 然して此の意義ある国産主義運動に参加せよ! 民衆運動の先駆者 賀川豊彦氏創案 賀川服」と書かれている。日の丸を掲げた「国産主義運動」というのはどういうものであったのだろうか。

ポスター国民服を

「賀川服」は当初大正10年の暮れには「購買組合共益社」で発売を始めていたようであるが、「共益社」は「購買組合」として地域が限定されていたため全国展開は困難であった。

しかし、新しく作られた「消費組合協会」は全国を視野に組合運動の展開が可能であったことから、右の写真にあるように「消費組合製品」として、「国民服を一着せよ」との売込みで、この「賀川服」は、国内ばかりでなく国外からも注文が相次いだといわれ、「ツラヌキ純石鹸」や「神の国石鹸」なども人気があったようである。

賀川と役者
   「死線を越えて」上演・澤田正二郎と賀川    

1920(大正9)年10月に賀川の小説「死線を越えて」の出版が爆発な人気を博し、翌年11月には東京でも関西でも舞台化された。上の写真は、名優澤田正二郎と賀川豊彦。(この写真は「ALBUM」にあったのではなく、吉田摂氏所蔵の資料のなかにあった。)

間所兼次の「ALBUM」には、大阪の写真館「Y.IMAI OSAKA」が写した澤田正二郎の立派な写真がある。
この写真に兼次は「昭和2年 澤田正二郎 賀川服を着せてパチリ 道頓堀 浪速座にて 間所と一問一答を試みる」と記している。なかなかの商売上手である。

沢田正二郎

既述のように「国民服、別名賀川服、ヨルダン石鹸、ツラヌキ石鹸、神の国石鹸等、その名称はすべて間所兼次の命名に関はる」(吉田源治郎の前掲論文)ものであったが、商業学校で学んだ兼次の商才も大阪商人の魂と呼応し中々のものである。

もう1枚、下の写真も「賀川服」の宣伝用であろう。「賀川服を着込んだ日活人気俳優 ?岡?夫」 名前が判読できないが、同時代の方には懐かしい顔であろう。

写真人気俳優

上の写真は今回の冒頭に収めた写真は「京都日活の俳優たち」と写したものであるが、同じ頃のものであろう。

賀川と夫人家庭会
昭和2年7月20日 消費組合協会主催「家庭会序備委員会の晩餐」(大阪中央公会堂)
上の大阪中央公会堂での「家庭会」の会議には、間所の他に賀川の顔も見える。

下の写真は「家庭会の料理講習会」 当時では新しい試みのひとつであったのであろう。

料理教室

下の写真の裏には「購買組合共益社・消費組合協会主催 家庭経済展覧会」と書かれている。ご覧のようにこの場所は「四貫島セツルメント」である。

家庭形財四貫島セツルメント

吉田源治郎を中心に大阪市此花区四貫島に「日本労働者伝道会社・四貫島セツルメント」を始めたのは1925(大正14)年10月1日とされているが、源治郎の「間所兼次と消費生活協同組合運動」には次のような記述がある。

 「昭和8年消費組合協会を生活改造協会と改称して、四貫島セツルメントにその事務所を移した。兼次は昭和15年大阪府産業組合中央会購買組合指導事務嘱託となり、大阪府下の消費組合の指導に尽力した。同18年川崎重工株式会社泉州工場労務課付主事として共益社の責任をもつ傍ら同会社のために力を尽くし、かつ旭乾燥機製造株式会社の創設に協力するところがあった。共益社は昭和6・7年及16・7年の候2回に亘り非常な不振に落入ったが、その頃の兼次の苦心には惨憺たるものがあった。」(「賀川研究」第2冊、昭和23年、37~38頁)

共益社本部人有

共益社本部自転車と荷車

共益社本部自転車

この3枚の写真には日付はないが、「消費協同組合」が「生活改造協会」に名称変更する前とすれば、昭和8年より前になるようである。「購買組合共益社本部」の看板があり、三角の看板には「有限責任購買組合 共益社」、そして「消費組合協会」の立て看板が見える。この建物をバックにした「共益社」の写真は第13回目に収めたが、『賀川豊彦写真集』に入っていてよく知られているものである。なお、上の写真之1枚には「昭和14年秋 江戸堀に移転 豊臣時代の格子戸を美粧する」と添え書きがある。
 
集合写真店の前の

上の写真には「昭和15年」と裏書されている。兼次、賀川等と共に。左上の挿入写真のお顔は田中俊介氏のようである。

最後に、200名近くの人達が写っている下の写真には「大正8年12月 本社と社員」と裏書されているが、果たして「共益社」のものかどうか判らない。参考までに収めておく。

大勢の集合写真

 (2010年6月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月24日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(16)

        共益社二枚
             共益社雑貨部           共益社洋服裁縫部

    第16回 「間所兼次と共益社」お宝写真(2)

購買組合共益社が、神戸の購買組合よりほぼ半年ほど早く設立されたのは1920(大正9)年11月11日であった。その1年近く前から兼次は、豊彦の招きで新しい組合の設立準備に当たっていたことや、組合の創立当初から1931(昭和6)年6月段階までの、歴史の渦に巻き込まれて苦労多き組合運営に全力を注いだ経緯については、『大阪毎日』の連載記事などを通して、ほんの概略ではあるが、見て来たとおりである。

共益社設立の時は、賀川豊彦の小説『死線を越えて』が改造社より出版される時とほぼ重なっているが、1927(昭和2)年春、「共益社」とは別に新たに「消費組合協会」を設立し、「賀川服」をはじめ「ツラヌキ石鹸」「神の国石鹸」等、全国各地からの注文を受け、相当の利益を上げていたことなども、先の吉田源治郎の論文「間所兼次と消費生活協同組合運動」で知ることができた。

前回から紹介している「お宝写真」は、吉田摂氏の話によれば、間所氏ご自身の所蔵分に加え、ご家族が大切に保管されていたものである。日付や撮影場所が記されているものもあるが、多くは説明のない写真である。

冒頭に収めた写真の裏には「大正11年頃、靭にて」とあり、横に「1ヶ月百円は稼いでくれた洋服部コールテン服の誕生地」書かれている。

共益社精米
          精米部

四貫島支部
          「四貫島支部」 

十三支部
          「十三支部」   

事務所西区移転先の
        「西区川口署前に移転 家賃45円」         
 
上の写真説明には、「家賃45円」の後に「雨はもる 南京虫は襲撃するといった時代」と記される。

協同組合の真価を実らせるには、次々と直面する困難に耐えながら、単に雇われて働く労働者ではない新しい働き方の開拓への挑戦が不可欠であったはずである。その意味では、ここに残されている労働現場―精米部や雑貨部、洋服裁縫部など―の仕事ぶりが、このように写真で残されてることには、大きな意味があるように思われる。何といっても、これらの一人ひとりの働き手たちが、協同組合を代表する「顔」であるのだから。

二人精米所の
            精米所  

同時に、この開拓的な協同組合運動を担う仲間たち相互の慰安交流は、時を越えて楽しみの一つであったようである。
残されている写真は、1930(昭和5)年ごろのものであるが、これは労働現場の人々というより現場責任者のスタッフのようでもある。共益社の事業展開がいくらか落ち着きを見せていた時のものかもしれない。

次にその中の一部を収めてみよう。
               
記念旅行

この写真裏には「間所所有 昭和5年 秋期運動会」と記されている。
「運動会」と名付けられているが「親睦旅行」の感じである。場所は書かれていないが、ここは奈良であろうか。

旅行石山寺

上に写真には「共益社及消費組合協会 全従業員秋期運動会 石山寺にて」と記されている。30数名、中央の間所よりも若い男性の仲間たちが揃っているようである。
手旗がふたつ見えるが、いずれも「消費組合協会」のもので「カンヌキ」印がロゴマークになっている。

そういえば第12回の冒頭に収めた「購買組合共益社」の店舗写真を見ると、建物に大きく三角の中に「串」の印が写っているので、これは「共益社」のマークでもあったことが判る。

旅伊勢の

これは前の写真より少し参加者が減っている。ここは説明するまでもなく「伊勢・二見浦」で、間所の故郷である。前の写真とほぼ同年代であろう。各々違う帽子を被り洒落込んでいる。

かな旅写真玉島

上の写真には、「1931年4月19日 共益社運動会 一行中の7人 ?島にて」と記されている。「玉島」と読めなくもないがどうであろう。この「7人」は共益社・消費組合協会の幹部方であろうか。
 
今回の写真紹介はここまでにして、過日(2010年5月31日)一麦保育園に於いて吉田摂氏と梅村貞造にお会いして新しい関係資料をお預かりしたので、その前(5月21日)に賀川記念館での会議の折にお預かりしたものと合わせて、そのリストを掲げて置きたい。


 吉田・梅村両氏よりお預かりした図書資料リスト(続) 

第1回で2010年4月26日に両氏よりお預かりした図書・資料のリストを掲載した。それはこれらの「お宝」の返却のための控えとしてのものであるが、今後研究を進めていかれる方々のための下準備(基礎資料)として、ここに記載して参考に供するためでもある。今回は5月21日及び31日に預かったリストで、前回の続編となる。預かり分を吉田摂氏と梅村貞造氏と二つに分け、前回のリストにあわせて並べておく。

吉田摂氏より預かり分

吉田源治郎の著作
1 「肉眼に見える星の研究」 警醒社書店 大正13年改訂版 
     「改版の序」コピー
2 「宗教科学より見たる基督教」 警醒社書店 大正14年 
3 「児童説教」 日曜世界社 昭和2年版
  (本書に高崎能樹「幼児に聴かせる聖書のお話の取扱い方」草日社、昭和29年)が
挟まれている。
4 「心の成長と宗教教育の研究」 日曜世界社 昭和6年 部分コピー
5 「フレーベルとその宗教教育への貢献」 日曜世界社 昭和12年 部分コピー

吉田源治郎の論文
1 封筒資料(全国幼稚園連合会の封筒)
 生原稿「ナザレ会報」(兵庫栄養専門学校聖書研究部、1972年)
 サモネット「ペンテコステの周辺」「名の魅力」「なぜパラボレーを用いたか」
「静聴と話 し合い」 「パンとタイム」「キリスト一点張り」
「信仰のみー宗教改革記念日を迎えて」「雪原をさすろう夕べ」
新聞「文書伝道」(昭和40年10月15日)「読書のすすめ」
新聞「キリスト伝道新聞」(昭和41年10月1日)「”この最後の者“に奉仕する救済の手」
切り抜き「母性愛の配慮」「その余波は消えず」「われに来よと・・」「『ひけ目』がつけ目」
「見つけるまでは」
2 「ミスクックのころ―「石ヶ辻」時代のランバスをめぐるメモから」
(「聖和80年史」昭和36年)(コピー)

教会・幼稚園等記念誌
1 基督教保育連盟編「日本キリスト教保育八十年史」 基督教保育連盟 昭和41年
2 日本基督教団馬見労祷教会「創立五十年記念誌 恵みの旅路」 1999年
3 室町教会百年史編輯委員会「日本キリスト教団室町教会百年」 
   日本基督教団室町教会 2002年
4 原忠和「聖浄保育園六五周年記念誌」 聖浄保育園 2003年
5 日本基督教団河内長野教会創立100周年記念誌 「栄光神に在れ」(抄)2005年
6 大阪女学院創立125周年記念出版委員会
「ウヰルミナ物語―大阪女学院創立125周年記念誌」 2009年

関係著書
1 James Jeans 薮内清訳「宇宙の神秘」 恒星社 昭和14年版
2 賀川豊彦「小説・再建」 大阪新聞社 昭和21年
3 渡辺勇助編著「明治学院八十年史」 明治学院 昭和32年
4 田中芳三編「神は我が牧者」 イエスの友大阪支部 1960年
5 冨山光一「冨山光慶の生涯」 同刊行委員会 1990年
6 緑蔭書房編集部「『雲の柱』解題・総目録・索引」 緑陰書房 1990年
7 小川敬子「憩いのみぎわ」 1992年

写真類
1 間所兼次「ALBUM」と間所関連の写真多数
2 吉田源治郎・幸関連の写真多数

その他
1 CLEAR FILE 吉田幸関係の大正15年以来の写真をはじめ重要な関係資料が整理して
収められる
2 CLEAR BOOK 30 POCKETS 吉田幸関係の資料、一部写真も収められる
3 Clear Book 32 pockets 吉田幸関係の資料、写真も収められる
4 CARRY-ALL 20 吉田幸関係の写真コピーほか
5 SCRAP BOOK「日本基督教団今津二葉教会週報」1952年9月14日~1954年8月1日
6 封筒資料 (「ガーデン天使」封筒) 四貫島教会 戦前の記録
7 封筒資料 (小川敬子資料) 二葉教会 戦前の記録
8 三重県第四中学校校友会「校友」第9号 明治44年 (関連箇所コピー)
9 同上              第12号 大正元年 (関連箇所コピー)
10 同上             第13号 大正2年 (関連箇所コピー)
11 「雲の柱」第1号(大正11年)、第3号「イエスの友会」関係(コピー)
12 賀川豊彦「雲水遍路」関係箇所コピー(1926年)
13 「大阪毎日新聞」(昭和6年6月5日より4回連載「消費組合巡り」購買組合共益社)(コピー)
14 「大阪朝日新聞」(昭和8年2月18日)ラジオ放送番組(コピー)
15 「阪神電車」(昭和30年)「半世紀前の思い出」(コピー)
16 「日本キリスト教保育八十年史」(1966年)関係箇所(コピー)
17 苅田千栄子「吉田先生お別れの言葉」コピー(昭和59年)
18 「朝日新聞?」昭和60年11月9日(コピー)
19 「神戸新聞」昭和60年11月10日
20 「日本経済新聞」昭和61年7月1日(コピー)
21 「日本キリスト教保育百年史」(1986年)関係箇所(コピー)
22 大沢正善「宮沢賢治と吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』」1989年
      (宮沢賢治絵葉書)
23 「西宮市史」第3巻、戦災関係箇所(コピー)
24 「阪神電鉄80年史」関係箇所(コピー)
25 「西宮の生い立ちてびき」(コピー)
26 浜川勝彦監修「伊勢志摩と近代文学」和泉書院、1999年(関係箇所コピー)
27 小林繁「吉田源治郎先生のこと」(2004年)(コピー)
28 「大正デモクラシーと東北学院-杉山元治郎と鈴木義男」2006年(関係箇所コピー)
29 岡本榮一「大阪におけるセツルメント運動とその現代性」
30 キリスト教関係の新聞の「教会の奥さん」インタビュー(コピー)
31 「阪神電鉄社史」関係箇所(コピー)
32 「賀川豊彦と一麦<年表>一麦発祥以前」
33 竹中正夫「ゆくてはるかに―神戸女子神学校物語」(教文館)関係箇所(コピー)
34 「賀川年譜」(コピー)
35 「日本キリスト教歴史大事典」関係箇所(コピー)
36 「NHK大阪放送局70年」(「こちらJOBK」)関係箇所(コピー)
37 藤谷敏雄・直木孝次郎「伊勢神宮」関係箇所(コピー)
38 地図「伊勢市」(コピー)
39 「戸籍」「履歴書」関係
  

梅村貞造氏より預かり分

吉田源治郎の著作
1 「肉眼天文学-星座とその伝説」恒星社版、昭和34年
2 「新約外典の話」(「聖書物語文庫」第24巻)昭陽堂書店、昭和3年
3 吉田源治郎の連載記事(29年1月13日~3月20日)
「新約外典ストーリー:テクラ信行記」8回連載

その他
1 高山悦「私の同和教育」 部落問題研究所 1969年
2 高山徳太の吉田源治郎先生の米寿祝い作品
「昨日も今日もいつ迄も変る事がない吉田先生」 1979年

梅村貞造氏より受贈分
1 埴生操編著「子供と自然を友として―一麦保育園創立45周年記念誌」 
一麦保育園 昭和52年
2 一麦保育園「一麦のあゆみ―一麦保育園創立50周年記念誌」 1982年
3 緑蔭書房編集部編「『雲の柱』解題・総目次・索引」 1990年
4 梅村貞造「賀川豊彦と一麦寮―賀川の愛した“武庫川のほとり”瓦木村での活動と、
その残したもの・・」(講演資料コピー)

     (2010年6月6日記す。鳥飼)(2014年6月22日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(15)

        アルバム

     第15回 「間所兼次と共益社」お宝写真(1)

一昨日(2010年5月31日)午後、吉田摂氏と梅村貞造氏のご好意で、西宮一麦保育園での「吉田源治郎の世界」を学ぶ機会を持った。休憩なしの3時間余りたっぷりと話をお聴きすることが出来た。
そして今回もお二人から、多くの大切な図書と資料をお預かりすることになった。その量が余りに多いためこの度も、吉田氏の自動車でわざわざ神戸長田の拙宅まで運び届けていただいた。

その前日は、昨年本サイトで紹介した「賀川豊彦のお宝発見:武内勝関係資料」所蔵元の武内祐一氏(武内勝氏のご子息)とお会いする機会があり、現在「吉田源治郎の世界」を連載中であることを申し上げたところ大変喜んで、祐一氏がまだ幼い頃、一麦寮で武内・吉田両家が一緒に過ごしていた時の、懐かしい思い出をお聴きした。

余談であるが、昨年(2009年)12月末で一応の節目となった「賀川献身100年記念事業オフィシャルサイト」で「武内勝の世界」を訪ねた連載を94回で「最終回」となっているが、実はその「お宝」の閲読はその後も継続中で、続きの作業を進めていた途中、今回の思いも掛けなかった「第2のお宝」が天から降ってきたということで、ただ今わが「番町出合いの家」には「KAGAWA GALAXY」の「お宝」で満杯なのである。
 
      「ALBUM」(「間所兼次と共益社」関係

今回お預かりした資料の中に、最初に掲げた「ALBUM」があり、そこには「間所兼次と共益社」関係の多数の写真が収められていたのである。「ALBUM」にはその外の当時の写真も挟み込まれていて、恐らくどの写真も「お宝」ばかりのものではないかと思われる。

兼次が消費組合協会でその機関紙「消費組合時代」を発行していた時などに掲載されて来たものもあるかも知れないが、先の回で『賀川豊彦写真集』に収められていた「共益社関係」のものは殆ど紹介済みであるので、今回から数回に分けて、この度の「ALBAMU」の中から「お宝」を覗いて見たいと思う。

写真1共益社
  購買組合共益社の創立(大阪市西区靭中通3丁目15)
  大正9年11月3日 (中央賀川豊彦 前列椅子に座る背広姿2人目間所兼次)

兼次のメモには「営業開始の輝かしきスタートを記念して」「家賃125円」と記されている。
既に見た如く「購買組合共益社」は大正9年11月11日が「設立日」で今井嘉幸を組合長として事
業を開始した。間所兼次は、大正8年 神戸購買組合の開店(大正9年)から設立準備に当たってきたのである。

兼次の「ALBUM」には、「共益社その創立」の上の写真の下に、下の写真を貼り付けて「神戸購買組合の開店 大正9年」と説明書きを加えている。

写真2共益社のもう一まい

大阪の共益社の方が準備に取り組むスタートは少し早いようであるが、神戸購買組合が大正10年4月12日に、灘購買組合が同年5月26日にそれぞれ創立を迎えるまでの準備期間を考えると、賀川の関係する購買組合の発足は、相互に影響し合って進められていたことを窺がわせるものである。

下の2枚の写真に、兼次は「靭共益社裏庭にて 鈴木文治氏 9.11」と記し、もう1枚には「靭共益社 階上には 友愛会長 鈴木文治氏の書が輝く」とある。これを見る限り、当時の兼次にとって「鈴木文治」の存在は大きかったのであろう。

鈴木

自由病戸友愛

「ALBAMU」の中にあった下の写真は、鈴木文治とユキ夫人、抱かれているのは長男文彦?と思われるが「大阪朝日新聞社編輯局社会部13・4・25」の印があるので数年後のものであろうか。

鈴木夫妻

なお同じく「大阪朝日新聞社編輯局社会部」の印で「14・?・6」とある次の「早大教授 安部磯雄」と「15・11・10」の印のある下の「吉野作造」の写真も存在する。

阿部磯雄

吉野作蔵

さらに「ALBUM」にはまた、次の「金子忠吉」の写真も収められている。裏には「1928・1」とある。
金子は、共益社創立の時は監事を引き受けており、1930(昭和5)年の「大阪朝日」の記事を見るとこの時は「共益社理事」の肩書きがある。

金子忠吉

 今回はここまでとしてこの「お宝写真」は次回へと続く。

   (2010年6月2日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月21日補正)











KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(14)

       8人の写真
      左端石田友治 中央武藤山治 右端間所兼次(『賀川豊彦写真集』より)

    第14回「間所兼次」と購買組合共益社(4)
    横山春一・米沢和一郎両氏の論稿並びに小川敬子氏の手記より

前回まで3回にわたり吉田幸の弟「間所兼次」が、1919(大正8)年8月創立の「購買組合共益社」の当初から関わって健闘して来たことを取り上げた。

特に前回の吉田源治郎の「間所兼次と消費生活協同組合運動」なる玉稿が残されていたことを知り、全文紹介することが出来、大満足である。

源治郎は、明治学院時代に妹「なつゑ」を失い、彼女を偲んで書き遺した冊子『又逢ふ日迄』(第6回所収)を読んだが、妻の弟「兼次」を偲ぶこの論稿もまた、源治郎の手によって「兼次の生涯」が見事に活写されていると同時に、これらを私たちが今読めば、「源治郎の心」の刻まれた大切な文章であることが判ってくるように思われるのだ。

源治郎はこの文章の末尾に「自分は『協同組合を中心に、賀川氏をめぐる人々』の人々の一人として間所兼次の片影をここに素描したが、更に機をえて資料の集り次第『賀川豊彦と協同組合運動―資料(2)』として、近江湖北の朝日村に『兄弟愛意識にもとづく』農業協同組合を結成、その首長として、日夜組合を薫陶撫育しつつある農村牧師坂井良次の横顔=彼は日本農民福音学校在学中賀川氏によって協同組合を教えられた一人である=を記してみたいと考えている。」と書いていた。

『農民福音学校』(立農会、昭和52年)を見ると、坂井良次は第2回日本農民福音学校(昭和3年)を卒業していることが判るが、源治郎のこの論文は執筆されているのかどうか未確認である。

ところで思いがけず「間所兼次と購買組合共益社」が4回にも及んでしまったが、この事に関して余り研究も進んでいなかったのではないかと思われるので、いま手元にある資料をこの機会に資料としてだけでも取り出して置きたいので、最後に次の三つの記述を並べておきたい。 

  (2010年5月31日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月20日補正)



  横山春一『賀川豊彦伝(増訂版)』(警醒社、昭和34年)  
      第5章「貧民窟時代」(2)6「消費組合を作る」

1横山文章



米沢和一郎「賀川豊彦の協同組合運動」(賀川豊彦記念・松沢資料館『雲の柱』7、1988年夏)
   1「社会運動下での協同組合」の3「購買組合共益社」

横山文章2

横山文章3



  小川敬子「北港児童会館についての思い出」    
    (小川氏は吉田源治郎・幸の長女。掲載先不詳)

小川文章1

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(13)

        人物写真共益社

          購買組合共益社前(右端・間所兼次:左端・田中俊介) 
              
   第13回「間所兼次」と購買組合共益社(3)  
      吉田源治郎による追悼論文「間所兼次と消費生活協同組合運動」

源治郎にとって「間所兼次」は、妻・幸の弟でもあり、兼次は源治郎・幸と同じく伊勢の山田教会で早くから日曜学校に通い、商業高校在学中に洗礼を受け、1917(大正6)年には商業高校を卒業しており、兼次の将来についても種々相談に乗っていたのであろう。

既に第8回で触れたように、源治郎と幸が京都室町教会で結婚式を挙げた1919(大正8)年6月には、兼次は賀川豊彦の紹介で、大阪市に出て大阪市救済事業事務員になり、同じ年に組織された購買組合共益社からの招きを受け、この組織に参画しているのである。

ところで、「間所兼次と購買組合共益社」について、前々回は敗戦の年、兼次の病没後直ぐ執筆した戦後最初の賀川の著作である『小説・再建』において「間所兼次」を取り上げていたことを紹介し、前回では兼次が「共益社」の働きに没頭していた頃の二つの資料―昭和6年の新聞連載記事並びに昭和7年の「経営事例」―を取り出すことが出来た。

そして「間所兼次」に関連する最後に、今回は二つの手書きの資料を紹介する予定であった。
ひとつは、間所兼次が1945(昭和20)年11月28日、関係者に惜しまれながら、45歳の生涯を終えたのであるが、その後、大阪の姫松教会において、金田牧師(註:金田弘義牧師であろう)の説教と故人の思い出を語る「偲ぶ会」が持たれていたようでその資料と、もう一つは、「有限責任購買組合専務理事 故間所兼次略歴」と題された5枚の手書き文章である。
特に後者の「略歴」の方は、後世に遺して置かねばならない中身であると判断して、それを書き写す作業を始めていたところであった。

ところが一昨日(2010年5月28日)、吉田摂氏との電話の語らいの中で、この手書きの「略歴」は元々吉田源治郎の草稿で、摂氏のお姉さまである小川敬子氏が清書されたものであることを教えられた。(源治郎の文字は特徴があり、素人が簡単には判読できないほどの達筆だと聞いていたので、一見してこの「略歴」は源治郎のものではないと速断してはいたのだが)

加えて摂氏のお電話では、源治郎は『賀川研究』という冊子の中に、間所のことを書いたものがあるので探し出して見ると言われる。
ところが丁度私の目の届くところに『賀川研究』の3号までがあって、それを開いて見ると、第2号に「賀川豊彦と協同組合運動―資料(1)」として、吉田源治郎の論稿「間所兼次と消費生活協同組合運動」という4頁分の論文があったのである。(この冊子は、編輯発行人が横山春一で「賀川研究社」と名付けて発行所とし「友愛書房」が発売所を引き受け、500部限定と記されている。調べて見ると『賀川研究』は3冊だけ刊行されていたようである。)

早速この論文を読んで見ると、吉田源治郎は、前記の「略歴」を補充・推敲して、「昭和23年9月7日夜、西宮一麦寮にて」この論文を書き上げ、昭和23年12月発行のこの『賀川研究』に寄稿したことが判る。

特にここで注目させられたのは、「大正14年共益社内に消費組合協会の創設せらるるやその責任者となり、昭和2年同会機関紙「消費組合時代」を創刊、その後3年間に1万部以上を全国に配布し、地方に於ける消費組合運動興隆の機運をつくった。その影響下に約二百の消費組合が全国各地に組織せられた。消費組合協会は国民服、別名賀川服、ヨルダン石鹸、ツラヌキ石鹸、神の国石鹸等を取り扱ったがその名称はすべて故人の命名に係はるものである。」という件である。

兼次が活躍した「消費組合協会」の働きと1万部以上を発行したという「消費組合新聞」のことを詳しく知りたいところであるが、それらのことに関しては既にどなたか纏めておられると思われるので、追って学ばせて頂くとして、兼次が深く係わった「共益社」に関連する写真を、『賀川豊彦写真集』に収められているものの中からここでは4枚取り出してみた。

賀川服広告

記念写真共益社の前での

看板組合協会

串印

上は「消費組合協会」の「賀川服」の宣伝と賀川自ら着込んだ夏用の賀川服、中は賀川・間所と共に写る共益社の人達、下は共益社の立てられた「消費組合協会」の門柱と『賀川研究』の奥付にある「カンヌキ」印である。

そこで今回は、源治郎の秀逸な論文「間所兼次と消費生活協同組合運動」を、以下に全文掲載することにする。 

     (2010年5月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月19日補正)


吉田論文1

吉田論文2

吉田論文3

img973.jpg

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(12)

     購買組合の写真

  第12回 「間所兼次」と購買組合共益社(2)  
     「大阪毎日新聞」と「産業組合中央会」資料から

上の写真は「購買組合共益社」(吉田摂氏所蔵、年代不詳)である。

前回に続き「間所兼次」の活躍した「共益社」を取り上げるが、大変貴重な資料として大阪毎日新聞が「消費組合巡り」という連載を行い、1931(昭和6)年6月5日より9日までの4回(?)にわたり、池松勝の署名入りで「購買組合共益社」のことが掲載されたものがあった。

「組合の誕生」(大正9年11月)とその後10年余りの大よその経過と現状が記され、組合長の豊彦と専務理事の間所などが、容易ならざる難題に挑んでいる当時の様子が描かれている。

加えて翌年(昭和7年)11月15日、産業組合中央会が発行した「産業組合調査資料50『消費組合経営事例第二輯』に入っていた「有限責任購買組合共益社」のコピーが残されているので、今回はこの二つの資料を紹介して置きたい。

これを見ると、吉田源治郎は「理事」として、西阪保治は「監事」として名を連ねている。(この項、更に次回に続く)  

     (2010年5月28日記す。鳥飼)(2014年6月18日補正)

組合めぐり1

組合めぐり2

組合めぐり3

組合めぐり4

共益社1

補記

今回、大阪毎日新聞の連載記事「消費組合めぐり」(1931年5月20日~7月22日、44回の連載)の第12回以下の一部をスキャンして収めたが、神戸大学付属図書館のネット史料には全体のテキストが閲読可能にされているのを目にしたので、とりあえず今回の第12回以下の数回をここに収めておきたい。大変有益なドキュメントである。


(12) 組合の誕生 労働争議の勃発 購買組合共益社 (A) 

 淡紫の桐の花がほのかに、におう五月が静かに去って紫陽花の玉がくつきり浮かび出る朗かな六月が来た。
 街路樹の若葉の伸びが目立ち、新緑は深緑へと衣を替える。六月の自然。何と気持のよい生命の躍動ではないか。
 だのに、減俸の嵐が漸く静まったかと思う間もなく神戸にはまた煙突男が現れた。朗かな自然に引きかえて鬱陶しい社会ではある。

 「今日の社会不安を除き、減俸騒ぎのようなことを起さない社会、そして、戦争の如き恐ろしいことを防止し、内乱を防ぎ、貧民をなくし、富が一方に集中することを除き、国民平等の社会を作るのは、この簡単な方法(消費組合に加入すること)にあることを自覚して戴いて、台所に立つ主婦も他人のことのように思はないで、自分の社会に自分が尽さねばならぬ使命に目覚め組合に参加する必要があると思います…」

 これは賀川豊彦君が、現に主宰している共益社の機関紙において、婦人に呼びかけた言葉の一部である。

 賀川君は神戸に神戸消費組合を作る一方、殆ど時を同じうして日本のマンチェスター大阪の労働者のために共益社を起している。つまり神戸消費組合と大阪の共益社は双生児的姉妹組合である。しかし環境を異にすれば双生児でも同一な成人振は見せてくれぬ。
 欧洲大戦中および直後の異常の好景気襲来でブルジョア層には成金簇出、一般労働者社会でも今日のような失業群は、目を皿にしてさがしても影も見当らぬ仕事横溢時代ではあったが、一方に物価は鰻上りに昂騰し、労働者一部の生活苦は、依然として社会の一局部に根強くこびりついていた。その爆発が例の大正七年の米騒動である。
 それが大正九年の反動恐慌で尖鋭化し、三年前の血祭騒ぎを再びくりかえさんとする形勢が馴致されて来た。これを憂慮した当時の労働運動界の先覚者達、今は代議士、当時の友愛会主事西尾末広君、向上会長の八木信一君、同会国際部長金子忠吉君、住友伸銅工組合長安藤国松君らが相謀って鋭意消費組合設立の計画を立てた。
 一方殆ど同時に、キリスト教関係の人道主義者賀川豊彦、宮川経輝君一派にも同一目的の同一計画が進められていた。この二者が合流して出来上ったのが、わが共益社である。
 組合員約千名、内半数の五百名が純労働者、四分の一がいわゆる中産階級のサラリーマン、残りの四分の一が市民層の商人で、本部を靱中通に置き、今井嘉幸博士を組合長に戴き、配給を開始したの□□神戸に先立つこと六ヶ月、大正九年十一月の十一日であった。

 明くれば十年の春、花を外に大阪における組織的同盟罷業の嚆矢大電争議が勃発した。続いて火は藤永田造船所に飛び、更に住友伸銅所に延びていった。前に列記した大阪労働運動の重立つリーダー連が共益社の創設者で、しかも理事をつとめていた関係でいつの間にか、靱の事務所の二階が争議の本部となっていたのも別に不思議ではない。住友を舐めた紅蓮の舌は七月更に神戸に一と飛びして、川崎、三菱両造船所に延びた。賀川君が川崎で采配を振ったことは前に述べたとおりである。
 消費組合はもともと、物品の廉価配給を本来の業務としている。すなわち商売が本業である。その商売が引続く戦争に繁昌しよう道理はなく、争議毎に利益は食われさらに十二年(?)砲兵工廠の向上会と純向上会の分裂で、会長の八木信一君(当時組合理事)がほかに純向上会を組織した当時のごとき双方で組合を利用せんとし、組合は細る一方で年々損失を累加していった。(池松勝)(写真は現在の組合本部と西尾氏(右)と八木氏)

(13) 

 創業後大正十三年まで四年間酒井精七(現理事)永井益慶(賀川君の令弟)杉山元治郎(現監事)の諸君が専務理事となって経営の任に当ったが、商売の不馴れと配給設備の不完全、および組合員の無理解で、年々損失を重ねるばかりで、十三年には赤字二万円の苦境に沈滞した。一方で労働運動は漸次積極化し、リーダー格の人々のどちらかといえば消極的な消費組合運動に専念するを許さない情勢となって来た。しかも組合事業の成績は萎靡して振わず、赤字二万円という始末で、一部理事者間には嫌気がさし解散を主張する者さえ現れて来た。

 役員会を開いて見ると解散説が案外有力で、ここに組合は重大な危機に瀕したが遅れ走せに、駈け参じた賀川君がこの空気を見て、今後この二万円の負債を一身に引受けて、自ら全責任を担って立つ旨を声明したので危く解散を免るることを得た。
 そしてこれを機会に、今井博士が顧問に退き、賀川君自ら組合長の椅子につき、西尾君、八木君も手を引いてしまった。一方経営の実権は賀川君の股肱で当時の組合主事、今の専務理事間所兼次君が握ることとなった。かくて神戸に足場を失った賀川君は、ここ大阪を根城に今日まで消費組合運動を続けて来たのである。
 間所君経営の苦心は大正十四年に初まる。十四年末は損失総額約二万四千円に達したが、十五年以後は僅かずつながら剰余金が生じ昨年末までにその三分の二は填補しおえ、十三および四貫島には店舗を有し、組合員数、配給額においても次のような発展を示して来た。(単位円)

[図表あり 省略]

 昭和三年以後組合員が増加しているに拘らず、配給総額の漸減しているのは、物価下落の反映として、主として労働者および安月給取を組合員の中枢として擁する本組合としては、やむを得ぬところであろう。

現在の組合員の内容を見るに

一般サラリーマン階級 九九五
組織労働者 五七五
一般市民層(商人) 三六二
その他雑 五三
合計 一、九八五名

 双生児神戸消費組合が最初ひとしく労働者の手になり、漸次労働者組合員を失って現在では僅に当初の三分の一の、一一九人の労働者より残していないのに比べれば西尾、八木の頭株は手を引いたとはいえ、創立当時の勢力を維持しているのは、労働者中心の消費組合として決して成功とはいえないまでも、全く方向転換した神戸よりも余程労働色が濃厚であるとはいえる。しかし賀川君の抱懐するクリスチャン・ソーシヤリズムの理論と、一般労働運動者の把握している唯物論的社会主義の理論とは、到底一致し得ない本質を備えているので、これが組合の消長に反映しているのも止むを得ぬ。即ち左翼労働者の消費組合が多くモスクワ式経営をなしているに反し共益社は飽くまでもロッチデール式(両者の差異は近く機を見て詳述する)に遵拠し、神戸同様に酒類の取扱いを禁じ、現金売を固守して来たのが、積極的に労働者層に深入りすることの出来なかった主要な原因であろう。

 しかし死線を彷徨する五年間の苦難時代を、最近グングンと勢力を張って来たデパートと、死線を固持する死物狂いの小売商との圧迫とに勇敢に闘いながら、デパートを自由に利用し得る市街地居住者を中心に、とにもかくにも今日の勢力を張り得るに至ったのは間所君その他従事員の真摯な努力の結果に外ならないが、少くとも彼等の努力をして働き甲斐あらしめた二つの力を見のがしてはならぬ。一つは共益社特売の賀川服と称する木綿の洋服の威力であり、他は地方へ散らばって行った労働者組合員の地方からの間接な応援である。(池松勝)

(14) 「瀟洒たる春の装い」「晴れやかなる訪問着」

 一体どこの国の言葉なんだい。月々百円内外の収入のうち、三分一か、四分の一は家賃にとられる。伸び盛りの子供に飯の制限は出来ず、米屋、八百屋、炭屋、肴屋、おっと待った、組合の支払をしてしまうと後に何が残る。電車賃も子供達の学用品代も出るや出ず、家内中に病人でも出ようものなら、大家さんのおなさけにすがらざるを得ない。仕事着も訪問服も一着の洋服…それも裏返しの…以外に出ないんだ。無理に月賦で五十何円也のニュースタイルを新調すれば、その月から家計は赤字だ。
「なに瀟洒たる晴着だ」
 ブルジョアの社会には妙な言葉もあるものだ。

 賀川服は勿論木綿だ。春和綾セル、光輝セル、メンセル等。
 チョッキ抜の背広上下、大の三円七十銭、小の三円三十銭、別にチョッキをつければ大中小を通じて一円三十銭、五円出せば立派な三つ揃いの背広が出来上る。
 中流の下、および労働階級に非常に受けた。浴衣一反五十銭以上に歓迎されたものだ。
 大正九年から十二三年にかけて、大阪で職を失った労働者は、職を求めて水草の旅に続々と出て行ったが、外の土地に出て見ると組合の有がたさが初めて判る。前組合員のゆえをもって北は北海道、南は九州、遠くは朝鮮、満洲辺りから、引っきりなしに共益社に向って賀川服の注文が届いた。組合は忠実にこれらの注文に応じた。それだけではない。組合の廉価配給の味を占めている連中だ、転地先から賀川服の外に石鹸その他の雑貨にまで注文の手を延ばして来た。組合は勿論その要求に応じた。

 何事にまれ、厄介なのは杓子定規の法律だ。産業組合法第一条購買組合の項に
 「産業又ハ経済ラ必要ナル物ヲ買入レ之ニ加工シ若ハ加工セスシテ又ハ之ヲ生産シテ組合員ニ売却スルコト」と規定している。
 しかして共益社の定款には配給区域を大阪市内(現在は新市域を含む)に定めている。
 組合員でも区域外に移住すれば当然組合員の資格を喪失する。明らかに員外者である。
 この員外者たる地方の旧組合員に物品を配給するのはまた明らかに産業組合法違反だ。
 共益社が賀川服その他雑貨の地方配給を行うのは違法行為だというので問題がもち上った。
 そこで別に昭和二年の春、基金一万二千円の匿名組合協会を設立し地方注文を聞くことにした。こうなれば天下御免だ。産業組合法のおせっかいを受ける理由はない。組合と違って税金も堂々と納めているのだ。
 洋服、靴、ワイシャツの生産を積極的にやり出し、洋服の生産だけでも年額約四万着(月六、九二八着の記録もある)ワイシャツが五百ダース、今日では地方の消費組合に対する立派な卸売商となっている。その売上高も、本家の共益社組合を遥に凌駕して来た。即ち次の通り(単位円)

[図表あり 省略]

 しかるとき、ここに一つの疑念が当然起らざるを得ぬ。年三十万円以上の商売をしていれば、当然相当額の利益が挙がらねばならぬ。さてその利益はどこへ行く。(池松勝)

(15) 台所本位に組合の進む道 購買組合共益社 (D)

 キリスト教の伝道、消費組合その他社会改造運動に寧日なき賀川君は、その余暇を利用して、小説を書く、論文を書く、個人雑誌「心の友」を刊行する。鶴見祐輔君以上の多芸多能の士である。こうした彼の余技から流入する金額だけでも、へっぽこ文士の遠くおよぶところではない。
 だが、金は常に羨望と怨府の的となる。そして、とかくいやな噂をも生む。御多分に洩れず賀川君にも最近とかくの非難があるようだが、彼は幸か不幸か当然自己の権利に属する金でも、自己の懐中に入れ得ない性格の持主である。彼の日常生活を知るものには、無用の弁であろうが、彼が名著「死線を越えて」の印税をどうつかったかを見ても、この性格は判明する。
 彼は「死線を越えて」の印税七万円也をつかんだ。
 彼はこの大金をつかんで先ず大阪労働学校を建設した。次に平常の理論を実践に移すはこの時とばかり、東京本所の産業青年会、大阪四貫島セッツルメント、神戸友愛救済所と、次々に三つのセッツルメントを建設したが、なお使いきれず、兵庫県高砂癩病院基金を寄附し、更に日本農民組合の人件費を負担して、やっと七万円也を使いはたした。
 協会の利益もこの調子で消えて行く。記者の調べによると、協会の機関雑誌「消費組合時代」の発刊費用だけで昭和五年までに一四、九八一円、学生消費組合への寄附金一、〇〇〇円、地方への講師派遣費七二八円。こういう風に大部分は消費組合思想の普及、地方の組合設立費に消費されている。その結果今日まで、賀川、杉山、安藤、金子の諸君の指導で組織された地方の組合が本格的のもの四一、これに類した準備会、クラブ式のものを数えると実に一八五まさに二〇〇に垂んとしている。

 協会の本体と利益金の使途が判明した以上、本道の共益社に帰る。
 極端なる左翼化も出来ず、といって姉妹分の神戸ほどの勇敢なる中産階級への転換も、クリスチャン・ソシアリズムの理想が許さぬ共益社は、一体どこへ進むべきであろうか。
 眉目秀麗の青年、間所専務理事は静かに語る。
「大阪全市という広汎な配給区域を持っている関係で、今後は支部中心主義をとり、各支部には店舗を設け、デパートの圧迫に抗争して行くほかありません…
 現在十三と四貫島に支部を設け店舗を張っていますが、近く天下茶屋に新らしく支部を開設する予定です。東京でもそうですが、殊に大阪は地域によって住む人の階級が判然分れています。十三、天下茶屋はサラリーマン、四貫島、玉造、天満、東野田、泉尾方面は組織労働者、市内は一般市民層という風で、地域によって生活程度、文化程度、嗜好等に共通的な差違があります、従ってそれによって幾分ずつ経営の仕方を変えて行かねばなりません…
 サラリーマン地帯は婦人中心です。殊に十三などでは家庭会の活動が最近めきめきと効果をあげて来ました。仕事は灘や、神戸と大同小異、知名の士の経済学や科学の講演、料理や裁縫手芸の講習等ですが、膝を交えての談合は案外効果的のもので、最近二ヶ年で婦人の名による加盟申込が二〇〇名からできて来ました。これによって見ても消費組合は、台所本位に進むべきものだということが判ります…
 現在の計画は、実費治療所の建設で外科、内科、産科に分って、すでに組合中の専門家に承諾を得、近い将来に実現する運びになっています…
 いろいろ理想は抱いていますが、何をいっても先だつものは金ですからね」と。
 彼もまたため息をついた。
 共益社の前途もまだまだ多難である。(池松勝)
【写真は家庭会の料理講習会】




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(11)

   第11回 「間所兼次」(幸の弟)と 購買組合共益社(1)

   顔写真間所

上の写真は「間所兼次」である。吉田幸の弟で、1901(明治34)年生まれ。「KAGAWA GALAXY」の中では、隠れた存在になっていたかも知れない。間所は、1919(大正8)年、賀川の提唱によって創設された購買組合共益社に入社し、専務理事など務め、1945(昭和20)年11月28日、45歳の若さで永眠している。

ところで、賀川は戦後復興に向けて精力的に奔走しながら、兼次の亡くなる10日前には、「日本協同組合同盟」の創立総会を開催して自ら会長に就く等して、日本の再建の道は、同志たちとこれまで試行錯誤を重ねて取り組んできた「協同組合運動の道」以外にはないのだという思いから、敗戦後早くから同労の仲間たちを再結集して、新たな展開を企図していたようである。

賀川の協同組合小説のひとつといわれるこの『小説・再建(さいこん)』は、戦後初めての纏まった著作で、大阪新聞社というところから刊行された168頁の小品である。
当然のことながら、大阪の「共益社」のことにも触れたれており、小説では「間所兼次」は「大谷兼次」の名前で登場する。そして「大谷兼次」の妻のことや「長男一郎」も登場してくる。

表紙再建

これは勿論小説であって、歴史的記述とは違うものであるが、今回の主題である「間所兼次と購買組合共益社」について考える最初の取っ掛かりとして、まず賀川がこの小説で描いた「大谷兼次」について触れている箇所の中から一部(29頁~33頁、146頁~153頁)を取り出して見たい。

「間所兼次」が亡くなって半年も経ない、昭和21年の春、一気に書き上げたと思われる本書は、『賀川豊彦全集』にも入っていないが、賀川が間所のことをどのように見ていたのかもよく判るので、今回はまず小説の一部を読んで置きたいと思う。

以前、古書店で『小説・再建』は手に入れて一読し、印象深かったのか「大谷兼次」のところに線を入れたりしているのであるが、その時は「大谷兼次」が「間所兼次」であることも、「購買組合共益社」に関する充分な理解も持ち合わせてはいなかった。

いまもその事情は五十歩百歩であるが、以下のように小説の一部を取り出して読むのも、私自身の学びのための整理作業ということでもあるので、お付き合い願いたい。

実際のところ、作品をこのような取り出し方をすることには疑問も残るが、あえて今回は「間所兼次」を想起して見たいがためのことであり、ご容赦下さい。

「間所兼次」には、3歳年下の明治37年7月20日生れの妻「志津」がおられ、3人のご子息が居られるようである。妻「志津」は「兼次」没後4年ほどして1950(昭和25)年1月9日、47歳で永眠している。

今回の「間所兼次と購買組合共益社」に関しては、あと1,2回続ける必要がありそうである。
   
   (2010年5月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月17日補正)
 
苦闘の歴史1

苦闘の歴史2

苦闘の歴史3


岐路に立つ日本1

岐路に立つ日本2

岐路に立つ日本3

岐路に立つ日本4


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(10)

         イエス伝の教え方表紙

       大正9年(初版)       昭和6年(第7版)


   第10回 京都伏見教会時代の源治郎と幸      

1918(大正7)年3月、源治郎は明治学院を卒業して日本基督京都伏見教会の牧師に就き、学生時代に刊行を目前にしていた源治郎の処女出版『児童説教』を大阪の天王寺にあった日曜世界社より同年6月に刊行したところまで、前回記すことが出来た。

源治郎が最初に赴任した日本基督京都伏見教会とはどんな歴史を刻んで来た教会なのか、彼は何故ここに招かれるに至ったのかなど、今のところ私には判らないが、この教会に赴任早々、吉田源治郎と間所幸とは新しい結婚家庭をスタートさせており、間もなく賀川豊彦との直接の出会いも起こるのである。

以来、賀川との交流も深まり、1922(大正11)年9月に米国オーボルン神学校へ留学のため日本を離れるまで、ほぼ4年間、京都伏見を根城にして活躍するのである。

          源治郎と幸との結婚

第4回で、幸の語った「思い出」(西宮一麦教会『四十年の歩み』所収)を紹介したが、そこで幸は、二人の結婚について、次のような「立証」を残している。


これを読めば、共立女子神学校を卒業した幸は、埼玉の粕壁教会に赴任していたようで、その時、源治郎は幸との結婚の意志を告げている。幸はその時、「父の猛反対」に遭うなか、源治郎の打った、幸宛の一本の粋な電報ひとつで、彼女の「気持ち決まった」のだそうである。「いまの主人を思うと、何かおかしいような気がいたしますが、その頃は主人も若かったですからネ」とも。

 ところで、上記の引用にある結婚式の行われた大正7(1918)年10月8日の箇所に大正8(1919)年6月14日と、後で訂正が行われている。源治郎・幸の長女・小川敬子氏による「悔いなき夫婦」(『大阪の社会福祉を拓いた人たち』(1997年所収)の「略歴」には、幸氏の「立証」の「大正7年10月」が採られているが、本稿2回目に示した岡本榮一氏作成の「年表」には訂正の年月日となっている。もし訂正分が正しいとすれば、源治郎28歳、幸22歳の結婚ということになるのであろうか。

 幸の「立証」でもひとつ面白いのは、花嫁・幸は「ハル先生の紋付」を、花婿・源治郎は「西阪保治先生のフロックコート」を借りて結婚式に臨んでいることである。まるでこれは、豊彦がハルと結婚する時、「着替えのなかった先生が、ハルの持参した羽織袴で式に出た」という武内勝の口述と同じである。(『賀川豊彦とボランティア(新版)』2009年、98頁)

        源治郎と賀川豊彦との最初の出会い

賀川豊彦とその仲間たちの働きで、一番私たちの心に響いてくるのは、天来の使命に、黙々と打ち込み、苦労を分かち合って、無心に歩んでいる、その姿である。その意味では、豊彦とハルが結婚し、そのほぼ1年後、豊彦は米国へ、ハルは横浜へ、そして武内はじめ青年たちが「独立イエス団」を意欲して、豊彦とハルが再び葺合新川に立ち戻るまでの、あの草創期の隠れた冒険的日々である。

1917(大正6)年6月、豊彦もハルも、武内たちも再び相揃い、新しい仲間も次々と加わり、新たな事業展開が繰り広げられて行く。そして賀川豊彦とその仲間たちの働きが、一気に注目を集めるのは、1920年(大正9年)10月、小説『死線を越えて』の出版を契機に、大きな節目となった事実は、誰も認めるところである。

ところで、間所幸は源治郎より前に、賀川ハルを通して、ハル自身も「賀川豊彦とその仲間たち」の重要な柱の一人として、トレトレの打ち明け話を直接聞くことの出来る機会に恵まれていた。

賀川には、既に留学中までに『友情』『預言者エレミヤ』『基督伝論争史』『日曜学校教授法』、更には『貧民心理の研究』などの刊行物もあったが、横浜の共立女子神学校の中では、学生の一人としてハルが入学してきたということもあって、彼女の「葺合新川」における働きには、心ある人々の間でも一定の関心を集めていたに違いない。

それは源治郎にとっても事情は同じである。賀川は明治学院の先輩であり、当時の基督教ジャーナリストとして出版界を開拓していた西阪保治との深い交流が、明治学院時代から始まっているわけで、源治郎にも、賀川豊彦はいわば「異色の先輩」のひとりとして関心は持っていたのではないかと想像できる。

しかし普通、私たちがある人物に関心を抱くということと、実際にその人に直接出会って、相互の交流と関係が生まれていくということとの間には、大きな距離があるものである。

では、源治郎にとって賀川豊彦との出会いはいつ、どうして起こったのであろうか。

実はそのことについて、森彬牧師が「<賀川豊彦と共に歩んだ人達>吉田源治郎のこと」(賀川豊彦記念・松沢資料館『雲の柱』9号、1989年秋)で、下記のように書いておられる。

雲の柱文章森牧師の

賀川豊彦を京都の日基連合会の伝道集会に講師として招いたのが何時であったのかは、ここでは明記されていないが、源治郎が初めて神戸の「イエス団」を訪問した経緯は確認することが出来る。

未見であるが、この時の『娘よ自覚せよ』と題されたパンフレットも残されているのかも知れない。ともかく、源治郎にとって、神戸新川への賀川(夫妻?)との初めての対面と初めての賀川の講演に、互いに深く響き会う何かを覚えて、この講演記録を纏め上げる作業をしたのであろう。

森牧師がここに記しておられるように、賀川は源治郎の卓越した仕事ぶりにご満悦で、東京富士見町教会での賀川の講演記録『イエスの宗教とその真理』はじめ、賀川の重要な初期の作品を筆記して、刊行物にまで纏め上げるという大きな仕事を、京都伏見教会在任中に重ねていくのである。

こうして賀川と源治郎の相互の信頼関係は、益々深まっていったのであろう。

    賀川豊彦『イエス伝の教へ方 附少年宗教心理』(日曜世界社、大正9年)
        源治郎による賀川講演の筆記著作の最初?

今回冒頭に収めたのは、大正9年10月に日曜世界社から刊行された賀川豊彦の『イエス伝の教へ方』の初版と第7版であるが、「序」の前に、「日曜世界社編輯部にて 吉田源治郎誌す」として、下のことばを赤文字で掲げています。

文章教え方の冒頭の吉田の


源治郎は、京都伏見教会に赴任した後、何時から「日曜世界社編輯部」に関わっていたのか、またこの編輯部と如何なる関り方をしていたのかはこれだけでは判らないが、先にも触れたように、処女作品『児童説教』の刊行を手がけた明治学院の学生時代から、日曜世界社の西阪氏とはお互いに意気投合した関係にあったことは確かなことであろう。

そして前記の森牧師の文章にあった賀川の『イエスの宗教とその真理』には、その「序」において賀川は、特別に吉田源治郎の名前をあげて、「吉田兄は既に私の書物を3冊まで筆記してくれた。吉田兄は此年1年は殆ど私の為に犠牲にしてくれた。それで私はどんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。」という言葉で、深い謝意を表している。
 
賀川は、この時点で吉田は「私の書物を3冊まで筆記してくれた」という。
3冊がどの書物か確定は出来ないが、多分その1冊はこの『イエス伝の教へ方』ではないかと推定しているがどうであろう。

源治郎がここに書き記すように「世界日曜学校大会」が日本で開催されるのを機に、西阪と源治郎は、新企画「宗教教育研究叢書」なるものを新しく産み出し、その「第壱編」として、本書の刊行を飾ろうとしたのである。

そこで以下に、その吉田への謝意を記した『イエスの宗教とその真理」の「序」の全文を収めておきたいと思う。賀川豊彦『イエスの宗教とその真理』(警醒社書店、大正10年12月)の「序」。ただしここにスキャンしたのは後の改版普及版で、初版と多少組み方が違う。

どの書物でも巻頭に収められる「序文」というものは重要であるが、賀川の作品の場合も同様である。「序文」だけ読んでも、彼の詩情豊かないのちの溢れが伝わってきて、心の芯が温められてくる。「詩人としての賀川豊彦」などと言われるが、例えばこの「序」の初めの数行を、詩の形に並べて見ると、それだけで立派な詩作品として読めてくる。

賀川の序文1

賀川の序文2

賀川の序文3

賀川の序文4

ここでこの「序」をテキストにして収めて置く。

 序

 傷つけられたる魂に、イエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である。それは温泉のごとく人を温め、噴水のごとく力づけてくれる。解放の日に、イエスの愛は感激の源であり、犠牲の旗印である。神は強い。そしてイエスは、その最も聖く、最も強い力の神を教えてくれる。

 イエス自身が、神の符号である。つまり言葉である。イエスのよって、神が人間に向かって、発言権を持っているのである。イエスはローゴスである。道である。行動である。生命である。慰めである。

 私にとっては、イエスほど親しく、なつかしい姿はない。阿波の徳島の暗い生活に、初めてイエスの山上の垂訓の意味が徹底してきたときに、私は踊り上がって、彼を私の胸に迎え入れたのであった。

 私が耶蘇になることには、余程の覚悟が必要であった。私は三十五銭の聖書を買うのに苦心した。それほど私は貧乏であった。私は教会に行くことを許されなかった。親族のすべては、私がイエスの弟子になることに反対であった。

 阿波の吉野川の流域には、旧幕時代から富裕な豪家がたくさんあった。そしてその多くの豪家は、たいていは血続きであった。私の父の家はその豪家の一つであった。そして私も五つから十一の時まで、吉野川の流域の大きな藍の寝床のある家で育った。

 しかし明治の中頃から、阿波の吉野川の流域の豪族の間にどういうわけか、淫蕩の気風が流行病のように蔓延して行った。私の村の付近で、大きな豪農の白壁を塗った庫が、私の見ているうちに倒れたものは数限りなくあった。

 すべてが道徳的頽廃の気分で蔽われていた。あの美しい吉野川の澄み切った青い水も、人の心を澄ますことはできなかった。

 私も早くから、悲しみの子であった。

 私は、十一の時から禅寺に通うて、孟子の素読をさせられた。しかし、聖くなる望みは、私の胸には湧いて来なかった。

 私は、私の周囲の退廃的気分を凝視した時に、聖き心の持ち主になるなどいうことが、全く絶望であることを知っていた。それで全く暗い力に圧せられて、寂しい生活を続けていた。

 そして最初会ったイエスの弟子も、私に徹底するようなイエスの生活を見せてくれなかった。それで私は十五の時まで、イエスの大きな愛を知ることが出来なかった。

 しかし、ローガン先生の英語の聖書研究会に出るようになって、ルカ伝の山上の垂訓を暗唱して、私の心の眼は、もう一度世界を見直した。

 私はなぜ、私の周囲が退廃しているかがすぐわかった。それは「神」がなかったからであった。偶像の統治の闇があまりに暗いものであった。そして私はその闇を破る勇気がなかった。しかし、私に米国宣教師の導きと愛が加わるとともに、私の胸は踊った。今でも、ローガン先生とマヤス先生は、私の親のように、私はまた彼等の子のように、いつ如何なる時でも、愛しいつくしんでくれるが、私は彼等を通じてイエスを見た。そしてイエスの道がよくわかって来た。

 阿波の山と河は、私に甦って来た。そして私は、甦りの子となった。
 私の一生を通じて、最も涙ぐましいその徳島の空が、私に「愛」を教えてくれた。
 それは美しいものである。

 愛することは、美しい。美しい自然の下で相愛することは、更に善いことである。
 若い時に愛することは、最上のよろこびである。
 私は、イエスの十字架によって、人間のすべての奥義をみた。
 私は、十五の幼い時から三十四の今日まで、変わらざるイエスの愛に守られて、その恵みを日一日、深く味うている。凶漢に殴られる時でも、酔漢に侮辱される時でも、辻の淫売婦に接する時でも、イエスは常に私を強くして、いつも聖くおらせてくれる。

 貧乏が貧乏でなくなり、淋しさが淋しさでなくなり、未決監に入っても、血を吐く時でも、死にかかった時でも、イエスの愛は私を強めてくれる。

 私はいつも、イエスがユダヤ人であることを忘れている。彼は今日生きている私の友人ではないか! 彼は最も人間らしい人間、レオ・トルストイよりも、私に近いものではないか!

 私はイエスによって、無数の友を貧しき人の中に得た。無数の愛人を労働者の中に得た。イエスによって妻も得た。イエスのよって最もよき親友を得た。学問も、書物も、何もかも、イエスが私に与えてくれた。

 わたしは、ほとんどイエスのために、何もした覚えがない。しかし、イエスは私にすべてを与えてくれた。

 そして、イエスを味うているその味わい方を、偎々各方面の人が聞かせてくれと言われるので、話をした。東京でも、大阪でも、神戸でも、堺でも、同じことを話した。そしてまだ多くの人が、それを聞きたがっている。

 それで、私の善き友人たちは、今度はそれを一冊の書物にしたいと言い出した。そして、その中でも兄弟のようにしている伏見教会牧師の吉田源治郎兄は、私の談話を全部筆記してくれた。

 それは、私には光栄である。吉田兄は既に私の書物を三冊まで筆記してくれた。吉田兄は、この年一年はほとんど私のために犠牲にしてくれた。それで私は、どんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。しかし、世に産まれ出る必要のあるものなら、産まれ出ることは善いことである。
 それで、喜んで私は、「イエスの宗教とその真理」を世に送り出すのである。

 私はすべてを神にお託せする。この後の戦いのすべてをも神に。
台風よ起これ。海嘯よ来い。私はそのすべてを超越して、イエスの懐にしっかと抱きしめてもらうのだ。

 私はイエスから離れることを欲しない。彼は私の棟梁だ! 彼は船長だ!
 私は彼の指図のままに船を進めよう。
 暴風雨(しけ)よ、来い! 帆も、舵も破れよ。イエスは変わらず愛してくれるから、私に心配はない。

 親しき日本の土に生まれ出た人々も、すべてはイエスの愛の中に、太陽を仰ぐ日が来る。
春は黒土の中から甦る! 雪を越え、霜を踏んで、甦りの準備がせられる。傷められた霊が、すべてイエスを見る。すべてのものが万物更改の日をみることは、あまり遠くはない。

 私は、私の生きている日にそれをみなくとも、勝利がすべてイエスにあることを知っている。誠に。誠に―。

  1921年12月21日     
                  著   者
                             神戸貧民窟にて

            ♯                       ♯


今回の最後になったが、恐らく先の賀川の講演記録のパンフレット『娘よ自覚せよ』に続く、源治郎の手になる賀川の著作『イエス伝の教へ方』の「序」を、下に掲げて次へと進みたい。珍しい刷り方であるが、この「序」も、赤字で印刷されている。

 ここには「序」だけであるが、本文も実にユニークな中身である。『賀川豊彦全集』第6巻に収録されているのでご一読あれ。

イエス伝の教え方の賀川の赤字の序文


       (2010年5月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月16日補正)





















KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(9)

第9回 源治郎の処女出版『児童説教』 (日曜世界社、大正7年)

           児童説教

第7回の終わりに、次は京都伏見における源治郎と幸の新しい生活(結婚家庭)に進むことを予告していた。ところが嬉しいことに、吉田摂氏から新たな資料をお預かりした関係で、急遽前回(第8回)は、源治郎の中学時代に立ち戻り、若き日に書き残していた重要な論稿の一部を紹介することが出来た。

彼の非凡にして豊かな文学的な表現力がそこには遺憾なく発揮され、当時の校友会誌を盛り上げ活気付けていたことを思い巡らしてみた。それはまた第7回で見た如く、彼は明治学院へと進学し、さらに意欲的に研鑽をかさね、大きく飛躍を遂げていくのであるが、その実力の一端が、愛する妹・なつゑの急逝に遭遇した時に、彼自ら纏め上げた自家製小冊子『又逢ふ日迄』にも繋がっていたことを、あらためて確かめることができた。

ところで、今回お預かりした資料を眺めていると、源治郎が京都伏見の教会の牧師として赴任する前、つまり明治学院の学生としての研鑽中に、今回の表題とした「源次郎の処女作『児童説教』」の執筆にも取り掛かり、着々と出版準備を進めていたことが判ったのである。

というのも吉田源治郎の著書としてのこの処女作品は、巻頭の「序」に「1917年1月11日聖日夜 東京の郊外近き僑居にて」と記されていることを考えれば、妹・なつゑの亡くなる半年以上も前に、この草稿はほぼ完成していたことになるのである。

源治郎は翌年(1918年)3月に明治学院を卒業し、本書「序」に続いて加えた「編者再白」には「1918年4月最終の夜伏見の寓居にて誌す」とあるのを見れば、彼は卒業後すぐ4月より、赴任先の日本基督教会伏見教会で、この「編者再白」を書き上げているのであろう。

こうして彼の記念すべきこの著作は、それまで日本では類書のなかった『児童説教』として同年6月、日曜世界社より上梓されるに至るのである。

幸いにも本書は、一麦保育園顧問の梅村貞造氏が大切に所蔵しておられたものである。

冒頭に挙げたようにシンプルな表紙で、背文字は赤い文字が印刷され、本体は195頁であるが、奥付の後に5頁分の英文の目次が付されている。背の赤い文字をみれば、表紙カバーはなかったかも知れない。

ご覧のように表紙の著者名が「吉田源次郎」となり、奥付の著者名も同様に間違っているというのも珍しく、ご愛嬌というところであろうか。

    本書「序」と「編者再白」

本文1

本文2

本文3

源治郎はなぜ最初の著作に「児童説教」という主題を選んだのか詳細は判らないが、中学時代から日曜学校の教師として熱心に関わっており、その意義を自覚していたことと、「序」に「此書の編述を激励し、萬障を排して世に出して下さった畏友西阪日曜世界社主筆に満腔の感謝」を記しているように、発行者である西阪保治との出会いも大きいように思われる。

西阪は、1909(明治42)年、大阪で日曜世界社を設立し、日曜学校用教材を数多く刊行しており、本書末尾を見ても、新刊「聖書唱歌」(作歌・由木康、作曲・田中寅之助、装丁・竹久夢二)なども出しているようである。

第3回で、日曜世界社発行の『基督教家庭新聞』昭和2年分合本について取り上げて見たが、吉田源治郎と日曜世界社の西阪保治とのその後の長期に続くかかわり等は、KAGAWA GALAXYを訪ねる上で、新たな興味を搔き立てるものである。このあたりのことに関してご存知の方があれば、ご教示を仰ぎたいところである。

  短編説教2編「何時(なんじ)だろう?」「星辰(ほし)と彗星(すいせい)」

所蔵しておられる梅村氏は、これまで教会学校の説教によく活用されたようであるが、何分本書は古書店でも探せない希少本である。せめてここでは本書本編から、短編説教2編だけでも紹介させて頂きたいと思う。まさしく彼の「GALAXY」の視界が伝わる作品である。

21世紀のこんにちは、源治郎の時代、また賀川豊彦の時代を大きく飛び越えて、私たちは、新しい時代=エコ生代(the Ecozoic Era)への大転換の時を生きているのであるが、源治郎の見ている世界は、現在に繋がる豊かな感性を伝えているものである。
 
the Ecozoic Era に関する哲学的省察を深めているのは、私の身近には延原時行氏がいる。同志社時代の先輩で、もぐら暮らしの私とは違って、延原氏は米国クレアモントやベルギーのルーヴァン大学などで教鞭をとり、敬和学園大学名誉教授、現在「独立国際研究所:東西プロセス研究企画所長」として国際的に活躍中であるが、ただ今、トマス・ベリーの世界的名著『偉業―未来への地球人類の道』 The Great Work : Our Way into the Future (New York : Three Rivers Press, 1999)の邦訳作業に取り掛かり、その訳業の完成と出版が待たれているところである。

ともあれ、資料紹介のかたちであるが、以下の二つの短編説教をとおして「源治郎の世界」を訪ねて見ようと思う。

      (2010年5月26日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月14日補正)

   短編説教 何時だらう?

説教1

説教2

説教3


  短編説教 星辰(ほし)と彗星(すいせい)

短編説教1


短編説教2

















KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(8)


表紙

   第8回 三重県立第四中学校校友会誌に見る源治郎

 昨日(2010年5月21日)、吉田摂氏より「吉田源治郎関係資料」の追加分として、著書や冊子ほかコピー類数点をお預かりした。その中に、源治郎が5年間在学した「三重県立第四中学校校友会」の機関誌「校友」第9号(明治44年)、第12号(大正元年)、第13号(大正2年)の3冊のコピーが含まれていた。

 既に第4回「源治郎夫妻は伊勢の人」において「校友」第14号(大正2年)と第15号(大正3年)に触れ、「雑誌編集部員」などの活躍ぶりの一端と共に「卒業記念写真」も紹介済みで、前回までに源治郎の明治学院並びに幸の共立女子神学校卒業のところまで探訪の旅は進んできるが、この段階でやはりその後の「源治郎の世界」を深く理解する上で、今回お預かりした3冊の「校友」誌に言及しておかねばならない。

 摂氏によれば、この「校友」誌を探し当て、源治郎の関係する箇所をコピーされたのは三重大学の尾西康充先生であり、第4回の冒頭に収めた中日新聞の記事「みえの文学誌」を執筆されたお方であった。明治44年から大正3年までの5年間の学校生活が、この資料の御蔭で大づかみには摑む事が出来る。

 源治郎や幸が通ったキリスト教の講義所(教会)では「英語と音楽、特にフルートの演奏を教授して人気があった」ことや「空き地を借りて、テニスコートを設けてその指導をした」ことなどあり、中学に進学してからも、源治郎は「音楽会」で「独奏」や「独唱」をしていたことも第4回で少し書き記したが、今回の3冊の「校友」誌にも、源治郎の名前は沢山登場している。

 第9号(明治44年)には「明治44年度特待生」「級長」「書簡分2等賞」に名が挙げられ、「論説」には「音楽と人生」と題して9頁に及ぶ濃密な作品を発表。

 第12号(大正元年)には「弁論会」で「心の故郷」と題して弁じ、「文芸」で6頁分の「熊野物語―旅路の追懐」を寄稿。

 第13号(大正2年)には「雄弁会音楽会連合大会」で「合唱:須磨の曲」「合奏:八千代獅子をヴァイオリン、また校歌をヴァイオリン」とある。さらに「言論」で「精神的飛躍―汝の車道を星に結べ―エマアソン」を寄稿。そして友人を追悼して「逝きし田中利助君」を書く。

 第14号(大正2年)には「文苑」に7頁にわたって「我心高原にあり」を収める。

 そして第15号(大正3年)には「大正2年度特待生」「懸賞論説2等賞」「弁論会大会で「新時代の曙光」と題して弁論」「音楽会で独奏と独唱」また「楽隊」や「雑誌部」にも名前が挙げられている。


   源治郎の中学時代の「論説」「文芸」「言論」3題

 以下、源治郎が中学時代に書き残した論稿の中から、年代順に3題を収めてみる。

 判読困難な箇所も多いが、吉田源治郎の情熱と精神的な風格のようなものが伝わる作品となっている。青春の息吹はすぐ明治学院での研鑽に繋がり、その後の彼の一生の基礎となるものである。 

    (2010年5月23日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月13日補正)


 音楽と人生

音楽と人生1

音楽と人生2

音楽と人生3

音楽と人生4

音楽と人生5

音楽と人生6

音楽と人生7

音楽と人生8


 熊野物語

隈の物語1

隈の物語2

隈の物語3

隈の物語4

隈の物語5

隈の物語6


 精神的飛躍

精神的1

精神的2

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(7)

1写真
  共立女子神学校卒業式 1917(大正6)年6月22日)
  間所幸は前列左より3人目。2人目は賀川ハル

 第7回 間所幸(こう)と賀川ハルーー共立女子神学校時代
 
第5回「明治学院時代の源治郎」で見たように、23歳になっていた源治郎は、1914(大正3)年4月から1918(大正3)年3月までの4年間、明治学院に於ける学徒であった。その間に、愛する妹なつゑの死去という悲しい出来事を経験したことは、前回触れた通りである。

一方、今回取り上げる「間所幸」については、既に第4回で彼女の少女時代のこと等に少し触れ、幼稚園の教師になることを憧れていた彼女は、家庭の経済的な事情のためにその夢は果たせず、「共立女子神学校ならお金がいらない」と教えてくれた「吉田先生」の助言を胸に、この神学校への進学を決意した経緯など記しておいた。

源治郎と幸は、生まれた場所もそれほど離れた場所ではなく、しかも少年少女期から同じ教会に通い、6歳年上の源治郎は日曜学校の教師、幸はその生徒という関係でもあった。

そしてふたりは、ほぼ時を同じくして、伊勢の故郷を後にするのである。源治郎は東京の「明治学院」へ、幸は横浜にある「共立女子神学校」へと希望に燃えて、青春の学びの時を迎える事になった。

2写真
幸の学んだ「共立女子神学校」

ところで、多くの婦人伝道者、牧師夫人を輩出してきたといわれる「共立女子神学校」とはどのような学び舎であったのであろうか。下の写真は、幸が在学していた頃の神学校の寄宿舎である。以下の年表はインターネット情報ではあるが、およそのことは判るであろうか。

1871(明治 4)年 米国婦人一致外国伝道協会より宣教師として派遣されたプライン、クロスビー、ピアソンが来日し、横浜山手48番に学園の前身であるアメリカン・ミッション・ホーム(亜米利加婦人教授所)を創立。女子教育および混血児養育を開始。
1872(明治 5)年 山手212番地(現在地)に移転。校名を日本婦女英学校と改称。
1875(明治 8)年 校名を共立女学校と改称。
1881(明治14)年 ピアソン・偕成伝道女学校を設立。
1907(明治40)年 偕成伝道女学校を共立女子神学校と改称。
1923(大正12)年 関東大震災により共立女学校が全焼。
1931(昭和 6)年 創立60周年。W.ヴォーリズ設計の本校舎(現存)と体育館竣工。

間所幸がここを卒業したのは「第15回卒業」となっているが、上記の年表とうまく符合しない。ともあれ、幸にとってこの学び舎で、その後の生涯を決定付ける大きな出会いが起こるのである。

   賀川ハルと同クラス・寄宿舎も同じ!!

源治郎が明治学院に入学した1914(大正3)年、同じ年に賀川豊彦は米国プリンストン大学へ留学したことは、既に記した通りであるが、周知の如く、豊彦とハルはその1年前(大正2年5月)、神戸の葺合新川の「救霊団」の長屋の一室で、結婚家庭をスタートさせていた。
 
豊彦の3年間の米国留学中、「救霊団」(留学前に「イエス団」と改称)は、武内勝たちに全て任せ、ハルはその間を横浜の神学校での研鑽の時に当てたのである。

1991(平成3)年に緑蔭書房で刊行された『賀川豊彦初期史料集 1905(明治38)年~1914(大正3)年』の中には、表紙に「大正三年 重要日記」と書かれた、原本を縮小した史料がある。2月15日頃までは豊彦が、その後はハルが書くという、大変珍しい「夫婦の日記」で、特にハルにとって、内容的には「祈りの日録」である。

重要日記

この日記は、賀川夫妻の新婚家庭の日記としても面白いものであるが、豊彦が米国留学を決めたこの年は、その資金を自前で準備する必要もあって、『貧民心理学』の執筆にも精力的に打ち込み、ハルがその仕上げに協力している様子も伺われる。この労作はしかし、留学前の刊行には至らず、留学中の1915(大正4)年11月に『貧民心理之研究』と名付けられ警醒社より出版された。

昨年(2009年)、「武内勝関係資料」の閲読の折、『初期史料集』に収められていたこの「重要日記」の原文を読む機会があったが、同年7月には、待望の『賀川ハル資料集』全3巻が『初期史料集』と同じく緑蔭書房より刊行され、その第1巻にこの「重要日記」が活字化されて入り、加えてそこに「横浜共立女子神学校関連資料」も集められていたのである。

「重要日記」には、1914(大正3)年9月5日、共立女子神学校で学ぶため、ハルが神戸を出発、「9月10日 木曜 朝学校に行く。プラット様に会ふた。月曜日からだそうだ」、「9月21日 月曜 共立女子神学校へ来た・・1ノ棟の2階にいく。和田、間所、佐藤、近池姉と話す・・」などと12月30日までの記載がある。
「プラット様」とは、在校当時の校長で、この写真は『賀川ハル史料集』に入れられているものである。

写真女性の顔

同じくこの『資料集』には、彼女たちが学んでいた珍しい「授業風景」の写真(これは『賀川豊彦写真集』にも入っている)と寄宿舎でハルと同室となったという4人の写真も収められている。「授業風景」の説明書きに「後列左端・ハル」とあるが、間所幸はどれであろうか。(前列の左から2人目であろうか?) 

教室風景

4人同室の

写真の説明書きには「寄宿舎の同室の人達(前列左・ハル)大正6年3月10日」とある。前列左がハルであることは誰にでも判るが、同室で学んだといわれる間所幸はどれであろうか。(後列の左の人がそうなのではないかと思われるがどうであろう?)

ところで、下の「第15回卒業生名簿(16名)」は「共立女子聖書学院同窓会(野ゆり会)共立記念誌委員会「横浜山手二二一」1975年」のものを『賀川ハル史料集』に入れたれたもので「旧姓」も添えられている。入学の時はクラスの中ではハルだけが既婚者であったらしい。

名簿卒業生

この名簿の中に「佐藤」の姓が3人あるが、旧姓「浜田」の「佐藤きよ」については、昨年の「賀川豊彦献身100年事業オフィシャルサイト」で「賀川豊彦のお宝発見」として連載した第71回目で「佐藤一郎のパートナー・佐藤きよ」に短く触れることができたので、参照頂ければ有難い。

「佐藤きよ」は山形の出身であるが、この神学校でハルと出会い、神戸におけるハルたちの働きに感銘を受け、新しい天与の生きる道を見出し、卒業後すぐ神戸のイエス団の一員として住み込み、生涯を貫いてこの地域の人々と共に仕えて生きた女性である。

    幸の「共立女子神学校時代の思い出」ふたつ

間所幸は、1917(大正6)年6月、共立女子神学校における3年間の学びを終え、賀川ハルらと共にめでたく卒業の時を迎える。今回の冒頭に掲げた写真が、6月22日の卒業式の記念写真である。

卒業証書を手にして写されたこの美しい晴れ姿は、もちろん間所幸である。

一人写真幸の

追って辿るように、卒業してちょうど2年後の1919(大正8)年6月、彼女は、既に京都伏見東教会の牧師に就任していた吉田源治郎と結婚し、ここからふたりの祝福された「一筋の道」が始まっていくのであるが、吉田幸が最晩年に書き残している「賀川ハル夫人と私」(「火の柱」1987年5月号)と、第4回で取り上げたことのある、1982年2月、西宮一麦教会の礼拝で立証した「思い出」に語られた記録(西宮一麦教会『四十年の歩み』所収)と、貴重なふたつが残されているので、関係する箇所を以下に紹介して置く事にする。


    吉田幸の「共立女子神学校に於けるハル先生との思い出」

幸の想い出の文章1


文章ハルと私
    
続きハルと私文章の

賀川豊彦の米国留学から帰国して神戸に戻るのは1917(大正6)年5月であった。
下の写真も『賀川ハル史料集』にあるもので、「共立女子神学校第15回卒業式を終えて(大正6年講師として出席した豊彦と右はプラット校長。豊彦の前中央・ハル)」と説明書きがある。

賀川卒業式の

豊彦はハルの卒業を祝して横浜に出かけたその機会に、学校側は賀川の帰朝土産の講演を依頼したのであろうか。賀川は颯爽と蝶ネクタイとハイカラーの正装で洒落込んでいる。この時の演題は判らないが、さぞ生気溢れる素晴らしいお話であったに違いない。

      付録:ハルよりアメリカの豊彦宛書簡

最後に『賀川ハル史料集』第1巻「横浜共立女子神学校関係史料」より「ハルよりアメリカの豊彦宛書簡」2通を、付録として収める。ハルの2回生並びに3回生の時のものである。

ハルの賀川への書簡

ハルの賀川への書簡つづき

続くハルの賀川への書簡の続きの

続きの続きの続きハルの賀川への書簡の


 次回、第8回は源治郎と幸の、京都での新しい生活が始まるところを訪ねて見たい。
  
  (2010年5月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月12日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(6)



妹さんなつえ
  第三小学校在勤中          三重県立師範学校卒業記念
     (大正5年)                 (大正5年3月)

   第6回 源治郎の妹・なつゑ追悼『又逢ふ日迄』

上の写真は、源治郎の妹なつゑの1916(大正5)年のものあるが、翌年の1917(大正6)年4月、母を独り故郷・伊勢に残し、明治学院で学ぶ兄のいる東京に出て、御茶ノ水高等師範学校の保母実習科で学び始めて数ヶ月、新たな学び舎にも慣れてきた矢先、腸チフスのために、彼女は21歳の若さで逝ってしまった。7月31日夕べのことである。

前回少し触れたように、源治郎も会員として参加していた内村鑑三の聖書講義に彼女も出向き、聴講し始めたばかりのことであった。

8月1日午後、納棺式と火葬、翌朝遺骨を拾い、午後2時半、東京市外静かな柏木の聖書講堂で、内村鑑三の司式による葬儀が営まれた。

葬儀の後、源治郎はひと月も経たない間に、A6版40頁の小冊子『又逢ふ日迄』を作り上げている。
これには、上に掲載した「なつゑ」の2葉の写真(あと1葉、明治35年、7歳の時の可愛い晴れ姿が収められている)、内村の説教「死よ爾の棘は安に在るや」、源治郎の「故吉田なつゑの思ひ出 又逢ふ日迄」がある。

内村は、『聖書之研究』(大正6年9月)の「今年の夏」で「友人の内に病人が多くして多少彼等を慰むることが出来た、二人の死者があった、其一人の葬式を司どった」と記し、『内村鑑三全集』第38巻(書簡3)の内村静子宛にも「昨日は今井館にて吉田ナツエの葬儀を営み候」と書き送っている。(鈴木範久著『内村鑑三日録』第9巻(1913~1917)にもこのことを取り出している。)

「吉田なつゑの葬式に臨みて語りし所」と添え書きのある内村鑑三の説教は、前回取り上げた高岡今平による「大要筆記」として纏められたもので、『内村鑑三全集』には収録されていないようである。

内村の説教も貴重であるが、妹なつゑの一筋の生涯を、明治学院在学中であった26歳の源治郎が、どのようこの「思ひ出」に籠めたのか、愛する妹が忽然と召されて逝ったこの事態をどのように受け止めたのかを知る上で、まことに重要なドキュメントである。

今回は部分的な引用ではなく、可能な限り全体をスキャンして、後世に遺して置きたいと思う。
少し長くなるが、慣れない作業に取り掛かって見よう。本稿は横書きなので、縦書きの文章をパソコン上で読むのは不便であるがご容赦いただきたい。いずれこれはテキスト化して、より読みやすいものにしておく必要がある。

また逢う日まで

1文章

内村説教文章2

文章3

4文章

5文章

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次回は、源治郎のパートナー「間所こう」の「横浜共立女子神学校」時代の事などを訪ねて見たい。

    (2010年5月18日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月11日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(5)

写真1

 源治郎が学んだ頃の明治学院風景 正面は礼拝堂 庭はヴォ-リズの設計
     (『明治学院歴史資料館資料集』第2集、2005年刊より)

  第5回 明治学院時代の吉田源治郎

前回は、吉田源治郎がミス・ライカー宣教師などの支援で、三重県立第四中学校に5年遅れで入学、中学では学業優秀により特待生の扱いを受けて目出度く卒業となったところまでを訪ねてみた。

源治郎は8歳の時、父・長兵衛と死別、夫亡き後、妻・ゆきが母の手ひとつで、源治郎と幼い娘・なつゑの養育にあたるのであるが、源治郎は厚生小学校を卒業し中学に進むまでの5年間、奉公生活を続けながらキリスト教の講義所に通っていたこと等にも、少し言及しておいた。
 
ところで、既に23歳になっていた源治郎は、1913(大正3)年3月、中学を卒業しているのであるが、なぜ彼は、明治学院神学部を志望し牧師になろうとしたのであろうか。その夢はいつ宿ったのであろうか。

前回少し触れたように、彼は1907(明治42)年7月7日、16歳の時に洗礼を受けている。恐らくその前に、源治郎の「大きな目覚めの出来事」「発見の喜び」はあったのであろう。そのことに関しては、彼はどこかに書き残しているはずであるが、今のところそれを探し当てていないので、ここには、冨山光一氏の前掲『山田教会の歴史』を読みながら、たどって置きたいと思う。

この教会から、数多くの牧師や牧師夫人を輩出し、各地に送り出していると言われるが、当時の長山萬次牧師は明治学院神学部の出身であるが、彼の推薦で最初に明治学院神学部へ進学したのは、源治郎の中学の先輩でもあった山本喜蔵であった。

山本喜蔵は、米屋の小僧をして毎日きつい労働をしながら中学校に通い、毎朝早く、中学の制帽をかぶり、米屋のはっぴを着た、奇妙な出で立ちで、大きな声で英語の賛美歌を歌い、大八車を曳いていたという。

そうした日々を送りながら山本は、日曜学校の教師を務め、家族や友人、後輩たちに福音を伝え、いつも真面目で誠実、温厚そのままの人柄で、その後も彼は、深い学識を表に出さず、音楽を愛し、好きな絵を描き、俳句を詠み、誰からも愛せられた人であったとか。

この山本喜蔵に導かれて入信したひとりが、源治郎(源やん)であり、前回紹介した河村斎美(斎やん)らであったのである。


     『明治学院歴史資料館資料集』第2集(2005年)

かくして、源やんも斎やんも伊勢から上京、1914(大正3)年4月、愈々明治学院の学生として学び始めるのであるが、まだこの時、先輩の山本喜蔵も在学中であった。(因みにこの年8月2日、賀川豊彦は米国プリンストン留学のため、丹波丸で神戸港を出帆している。)

今回冒頭に収めた写真は、2005年に刊行された『明治学院歴史資料館資料集』第2集-『明治学院九十年史』のための回想録-」のはじめのところに入れられているもので、当時の学院風景である。

この『資料集』には57名の同窓生たちが寄稿しているが、吉田源治郎も、次頁にある「あのころの明治学院」と題する一文を寄せている。

あのころの銘j学院

これを読むと、源治郎は、井深梶之助ほか錚々たる教師たちの講義を受け、実に真面目一筋に、英語をはじめへブル語やギリシャ語など、神学を学ぶ基礎修得に没頭していた様子が伝わってくる。

豊かな才能に恵まれ、成績も優秀であったため、「1年から3年に編入してもらい、おかげで神学部を1年早く卒業した」ようである。それは単に「同級生諸氏に比し、少しく年上であった関係もあり」ということではあるまい。

そのために、同級生だった桑田秀延(1895~1975)とは「一緒に入学したけれど、私の方が1年早く卒業している」と記している。桑田は卒業後、米国にわたりハーバードなどで学んだ後、明治学院の教授に就くなどして、戦前カール・バルトの翻訳を手がけた人でも知られている神学者である。
(私的なことであるが、高校生の時にキリスト教に触れ、同志社の神学部に進む前、初めて手にした神学書が、桑田秀延の著作で、戦前刊行された相当分厚い『基督教神学概論』という書物であった。理解も届きもしないのに、読み耽った日を思い起こした。)

ともあれ、源治郎の明治学院時代の学びっぷりは、賀川豊彦が9年前(明治38年)、徳島中学から明治学院に進学して学んだ時の様子とは全く違っている。賀川はろくに講義にもでないで、専ら図書館に篭ってひとり読書に耽っていたような「不良学生」?であったのだから。

この『資料集』には、沖野岩三郎や玉置真吉などの賀川に関する興味深い言及もあるが、賀川豊彦と中山昌樹がハリス館の2階から墜落したというエピソードを、熊野かをると渡辺勇助が口を揃えて書いている。よく知られていることかも知れないが、私には初耳で面白いので、ここで渡辺の記しているその箇所を付記して置く事にする。

ハリス刊二階から


   内村鑑三と吉田源治郎

源治郎は明治学院に在学中、当時50歳代後半であった内村鑑三の「柏木教友会」に参画している。
如何なる経緯で内村門下に属すことになったのか、詳しくは判らないが、先に取り上げた源治郎の「あのころの明治学院」の中に、「別科には今村今平がいた」と記しており、この「今岡今平」とは、「内村聖書研究会」の熱心なメンバーで、明治学院神学部の学生時代、源治郎と深い交流のあった人物であった。

今回閲読している吉田摂氏所蔵資料の中に、高木謙次による18頁に及ぶ論稿「内村鑑三と吉田源治郎」がある。これは「内村鑑三研究」第36号(2002年12月、キリスト教図書出版社)に「資料」として入れられている論稿である。

当誌がこの論稿の初出かどうか判らないが、論文の末尾には「本稿作成に吉田源治郎のご長女、小川敬子氏のご協力とご教示を得たこと」への謝意が記されている。

高木氏のこの論稿は、1「内村鑑三の式辞」、2「吉田源治郎と高岡今平」、3「星の研究について」、4「シュバイツァーについて」、5「慈善事業について」というように、これから我々が、はじめて「吉田源治郎・幸の世界」を訪ねる上で、興味津々の主題に関わる大切な格好の道案内となる論稿である。

なお、この論稿は、『高木謙次選集』(第1巻)「内村鑑三とその周辺」(キリスト教図書出版社)にも収録されている。今後参照していく論稿なので、以下本稿では「高木論稿」として置きたい。

ところで、この「高木論稿」の「吉田源治郎と高岡今平」の項を見れば、二人は入学の年に出会いがあるようである。
高岡は、「先年妻子を携えて上京し、明治学院の老学生となりて研究数年」とあることから見て、相当高齢の学生であったようである。

さらに「高木論稿」によれば、内村聖書研究会で初めて大正6年に作成された「教友名簿」には、「東京市外大崎444 学生 高岡今平 同加寿子」と高岡夫妻の名前があり、「東京市外大崎中丸444 高岡今平方 吉田源治郎」の名前もあげられている。
源治郎は高岡の宅に、「同居していたのか、下宿していたのかわからないが、明治学院の神学部に共に学び、共に生活していたことがわかる。」と書かれている。

写真内村鑑三

上の写真は、関根正雄編著『内村鑑三』の扉にある「昭和3年、68歳の鑑三とサイン」のあるものであるが、内村美代子著『晩年の父内村鑑三』に収録されている「柏木教友会名簿 1917年(大正6年)」にも、藤井武・黒崎幸吉・南原繁・田中耕太郎・塚本虎二・矢内原忠雄などと共に、源治郎と高岡の名が収められている。

したがって、源治郎は1914(大正3)年から1918(大正7)年、京都伏見東教会に赴任するまでの間の数年間、内村の聖書研究会に属し、教友会のメンバーの一員であったことが判る。

また、「内村鑑三と吉田源治郎」について一番に取り上げておかなければならないのは、源治郎の妹「なつゑ」のことである。

源治郎が卒業する前年(1917年)、妹「なつゑ」が上京し、東京御茶ノ水高等師範学校で学び始めるのである。彼女は、三重県立女子師範学校を卒業後、地元の小学校の教師を1年勤めた後、更なる勉学のため、母一人故郷に残し、源治郎のいる東京に出てきていた。

「高木論稿」によれば、吉田源治郎は、内村の聖書講義を「数年聴講し、妹を招いていたのである。不幸なことに妹は肺結核を病み(註:肺結核ではなく腸チフスに罹ったようである)、7月31日夕べ順天堂分院にて永眠した。8月2日、暑い夏の日、内村の司式による葬儀が行われた。この翌年、吉田は京都の教会に赴任した。」とある。

当初ここで、「高木論稿」の最初に取り上げられている「なつゑ」の葬儀における「内村鑑三の式辞(「内村鑑三全集未収録資料」)」並びに源治郎による「故吉田なつゑの思ひ出」を含める予定であったが、この二つとも重要なドキュメントであるので、改めて次回(第6回)に収めることにしたい。

「内村鑑三と吉田源治郎」と題する「高木論稿」の後半のテーマは、「星の研究について」「シュバイツァーについて」「慈善事業について」と続いているが、それぞれの主題について二人の間に通じ合っていたと思われるいくつかのことが論じられている。

「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」は、その基調において、どうも「内村鑑三の世界」と相性のよいところがあったようである。

例えば、「星の研究について」の項では、源治郎の主著のひとつとして挙げられる『肉眼に見える星の研究』の「序」に、「我国に、一人でも多くの星道楽を生む機縁となるならば」云々の箇所を引用して、内村鑑三も「星道楽」という言葉をよく使ったことや、宇宙や天文に強い関心を持っていたこと等に言及して、吉田源治郎には「内村の影響があったと推測してよいのではないか」と述べている。

また、椚山義次の論文「内村鑑三と天文学―宇宙をのぞく愛(アス)星家(トロフィル)」(「内村鑑三研究」第35号、2001年3月)には、源治郎の著書が宮沢賢治に影響を与えたことに触れながら、「内村の影響も見逃すことの出来ない事実である」ことを、内村の日記などを辿りながら、ご自身の「星覗き」など、随筆風に述べている。

源治郎が明治学院を卒業し、牧師の働きを始める最初の時を、『肉眼に見える星の研究』に打ち込むほどに「星道楽」を自身の事として悦びとするに至ったのか、この事については追って訪ねて見たいところである。

いずれにしても「内村鑑三とKAGAWA GALAXY」という主題は、面白いテーマに違いない。
昨年「賀川豊彦のお宝発見」で取り上げてきた神戸の「武内勝」の場合も、賀川と歩みを共にしながら、生涯を貫いて、内村の『聖書之研究』を愛読し、日々の研鑽を重ねていた事実を知ることができた。

神戸のイエス団関係者の中で、私が神戸イエス団教会の伝道師をしていた頃、辻本四郎という90歳を越えられた牧師がおられ、1968年春、私たちが神戸イエス団教会を辞し、番町出合いの家の実験をスタートさせる折、辻本牧師は、『聖書之研究』の大量のバックナンバーをお祝いとしてお贈り戴き、大感激をしたことがある。

吉田源治郎は、1918(大正7)年に明治学院を卒業し、最初の赴任地・京都伏見東教会牧師に就くのであるが、「高木論稿」によれば、1920(大正9)4月調べの内村聖書研究会の『教友名簿』には源治郎の名前は消えているという。

そしてこの『教友名簿」には、源治郎を内村に繋いだと思われる高岡今平は「在米国」とあり、彼はそこで『聖書之研究』購読者と連携して、熱心に伝道活動に挺身していたようである。

こうして源治郎は、生涯のパートナー「間所こう」との結婚などを経て、賀川豊彦夫妻との出会いと交流が深まって行くのである。
      
    (2010年5月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月10日補記)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(4)

新聞記事

    2001年5月1日朝刊 北勢(広域三重版)

   第4回 源治郎夫妻は伊勢の人
 
冒頭に収めたものは、三重大学の尾西康充先生が執筆された2001年5月1日付けの「中日新聞」。「みえの文学誌58」に「吉田源治郎」が大きく取り上げられている。

源治郎の幅広い働きを、多くの資料に当たり、92年にわたるその生涯を簡潔に纏めておられる。縮小しているので判読が難しいかも知れないが、全文を読み通して頂ければ有難い。(本号の末尾にテキストにして取り出して置きました。)

 「みえの文学誌」とある如く、源治郎は「三重の人」「伊勢の人」である。
1891(明治24)年10月2日、父・吉田長兵衛、母・ゆきの長男として生れた。賀川豊彦は1888(明治21)年7月10日の生れであるから、源治郎は賀川より3歳年下になる。

源治郎には、5歳年下の妹で1896(明治29)年生れの「なつゑ」がいる。
彼女は「宇治山田市常盤町に生まれ」「大正6年7月31日、東京市で永眠した」「彼女に与えられた此世の生涯は只20年を少し越した許りで人生の正午にも達せずして彼女は逝いた」と、兄・源治郎は、愛する妹を悼んで「又逢ふ日迄」という文章を綴った。

内村鑑三の「死よ爾の棘は安に在るや」と題する「葬式に臨みて語りし説教」と共に、「なつゑ」の写真を入れた、源治郎にとって特別の作品である。このことに関しては、内村との関係等、回を改めて取り上げて置く積りである。

尾西氏の新聞記事には、源治郎は三重県「度会郡宇治山田に生まれる」とある。
源治郎の書き残している自筆「履歴書」では、少し詳しく「本籍 三重県宇治山田市宮町百〇五」と書いている。(「宇治山田市」は三重県南東部にあり、1955(昭和30)年に「伊勢市」と改称されている。)

続いて記事には、源治郎は「8歳のとき父が亡くなり、厚生小学校を卒業した後は奉公生活を余儀なくされる。」そして何が機縁となったのか彼は、「岩淵町にあった山田講義所の日曜学校に通い、キリスト教に親しむ。現在の日本キリスト教団山田教会である。当時は、北村透谷や島崎藤村らと親交のあった福井捨助が伝道師として来ており、会堂を建築するほど教勢が盛んであったという(冨山光一『山田教会史』)」と記されている。

今回は、源治郎の若き小中学生時代と、奇しくも同郷で同じ講義所で学び、後に良きパートナーとなる「間所こう」の若き日のことを訪ねて見たい。

『常盤幼稚園七十年史』(1987年)と『伊勢の伝道・山田
教会の歴史』Ⅰ・Ⅱ(2005年、2006年)のこと

ところで、尾西氏が参照されている<冨山光一『山田教会史』>は手元にはないが、冨山氏が生前に書き下ろした標記の数冊の労作があるので、ここでそれに目を留めておこう。

現在の山田教会付属の「常盤幼稚園」は、1913(大正2)年にミス・ライカー宅で産声を上げ、1941(昭和16)年にライカー園長が敵国人として拘禁され、冨山光慶氏が2代目の園長を引き継ぎ、冨山光一氏は1950年(昭和25)年に常盤幼稚園の主事に就いている。そして1960(昭和35)年4月より、山田教会の牧師並びに常盤幼稚園の園長に就任した。

その後30年近く経て、1987(昭和62)年になって、念願だった『常盤幼稚園七十年史』を、関係者と共に纏め上げるのである。これは、200頁を越える大型上製の、写真満載の豪華な作品である。
冨山氏は、さらに最晩年の1990(平成2)年3月、牧師を引退して2年後であるが、『伊勢の伝道・山田教会の歴史』の執筆を開始するのである。

1999(平成11)年12月までの7年半、意欲的に書き続けたが、惜しくもご高齢のため未完となった。冨山氏は2004(平成16)年4月、90歳の生涯を閉じるのであるが、翌2005年と2006年に分けて『伊勢の伝道・山田教会の歴史』Ⅰ・Ⅱ(以下『歴史』と略す)として、640頁にのぼる大著が、編集委員会の手によって、見事に完成されたのである。この大著は、普通の教会史とは一味違って、実に面白い読み物に仕上げられている。

第Ⅱ巻の「あとがき」には、第Ⅰ巻を読んだ感想として、こんな便りが寄せられていたと言う。
「本書はユニークな歴史書です。・・特有のユーモアが込められ、笑いがこみ上げてくるようなエピソードなどによって・・妻も笑いながら楽しそうに読んでいました。」

この『歴史』には、源治郎のことも「間所こう」のことも、度々登場するのである。
先の新聞記事で尾西氏が、源治郎は「8歳のとき父が亡くなり、厚生小学校を卒業した後は奉公生活を余儀なくされる。岩渕町にあった山田講義所の日曜学校に通い、キリスト教に親しむ。」のところを引いたが、この『歴史』によれば、源治郎は厚生小学校時代から日曜学校に加わっていたようである。

講義所では、「英語と音楽、特にフルートの演奏を教授して人気があった。・・また空き地を借りて、テニスコートを設けてその指導をした」とも書かれ、小中学生にも大変魅力があり「集会所には若者たちが溢れ」ていたようである。

特に尾西氏が新聞で紹介している異色の伝道師「福井捨助」は、1907(明治40)年秋に子どもを5人引き連れて赴任して、5年間ここで過ごしている。
源治郎は福井伝道師の赴任する前、同年7月7日、ヘレフォード宣教師より洗礼を受けたことが記されている。源治郎16歳のときである。
福井捨助の在任中、講義所は大躍進を遂げ、「会堂の建築」を求める機運が高まり、毎日早朝から、野外で各自熱心に祈ったことなど、吉田源治郎たちは後年、何度も冨山牧師に語り聞かせたと言う。

源治郎にとって忘れることの出来ない恩人となるミス・ライカー婦人宣教師は、源治郎が洗礼を受ける前年(1909年)9月に、ここに赴任して来ていたのであるが、先の尾西氏の新聞記事には、源治郎は「J・ライカー婦人宣教師による学資援助を受けて、三重県立第四中学校(現・宇治山田高等学校)に進む。五年遅れの入学であった。」とある。

岡本榮一氏が作られた「年表」(第2回に掲載)の1913(大正3)年の項には、「家計を助けるため本屋の店員をしていたが、祖母とJ・ライカー宣教師の支援により5年遅れで入学、学業優秀にて特待生(学費免除)となり中学を卒業」と、その間の経緯が詳しく記されている。
そして冨山氏の『歴史』では、次のようなエピソードなども記述されている。

「当時山田伝道教会(註:この時は既に念願の教会堂が完成し「講義所」から「伝道教会」と改称されている。)にはたくさんの青少年が集まっておりました。中にはすでに受洗しているものも数名あり、中学校で上級生だった山本喜蔵は日曜学校の先生であり、河村斎美、吉田源治郎はその生徒だったのです。そして、山本が卒業して上京した後、この二人の内、人手も足りなかったのでしょうか、先に受洗した吉田源治郎が先生になり、河村斎美がこともあろうにその生徒になったのです。二人は共に県立宇治山田中学校(註:当時は「三重県立第四中学校」)の同級生でしたが、やはり先生と生徒です。やんちゃ坊主の河村が吉田に真面目に質問をした話があります。
「先生、僕でも一生懸命にお祈りをして、真面目にやったら、神様になれますか」
質問者は真剣です。真面目な先生はこの途方もない質問に対して、しばらく黙っていたそうですが、徐に口を開きます。
「それはなれる」
河村談「わしはなー、それから一生懸命になって教会の集会には休まず出たし、いろいろお手伝いもしたもんやが、結局あかなんだ」
この源やんと斎やんは家が貧しくて、共に中学校進学はできなかったのでした。当時中学校に行ける子どもは少なかったのです。小学校卒業後、源やんは書店の小僧に、斎やんは山田中学校の給仕になったのだそうですが、この二人の向学心を知ったのがミス・ライカーでした。
「宜しい。私が出しましょう」と、月々の学費を出そうということになり、二人は一緒に宇治山田中学校に入学したのです。ところが二人とも成績抜群で特待生になり、月謝は免除されたのでした。そして中学校卒業と同時に長山牧師の推薦で、先輩山本喜蔵の後を追って、明治学院神学部に進んでいるのです。
またその頃、女学生の中にも神学校に進む人たちがいました。後日安田忠吉牧師夫人となる水谷かめ、吉田源治郎と結婚する間所こう、釣田敏男伝道師夫人となる今津あさなどです。」

源やん(源治郎)より2歳年下であった斎やん(河村斎美)は、明治学院を卒業後、和歌山の新宮教会に赴任している。新宮教会といえば、1910(明治43)年の「大逆事件」に連座した大石誠之助が長老をしていたところで、文筆家としても知られ、賀川とも関わりの深かった沖野岩三郎の後任として、斎やんは活躍していく。

なお、摂氏が収集された資料の中に、源治郎と斎美が学んだ「三重県立第四中学校」の「校友会」の会誌「校友」第14号(大正2年)と第15号(大正3年)があり、これを見ると、源治郎は生徒の間では年齢も上であったことにもよるであろうが、才気溢れる活躍ぶりが随所に見て取れる。

 たとえば第14号では、「吉田伶秋」の名前で「我心高原に在り」と題する7頁分の短編が登場している。コピーの関係で判読が困難な部分があり、ここで全文を紹介できないが、この一篇は源治郎の文学的・誌的・思想的な表現の出発点となったものとして、大変重要なものになるように思われる。

この時、源治郎は「雑誌編集部」を引き受けていたようで、初めて下級生1~3年生に限って「懸賞短編募集」というものを募り、多くの応募の中から「秋の曙:1学年 梶井基次郎」「秋の夕:3学年 中山伊知郎」など、源治郎は当選作品を紹介している。

ご存知のように、梶井と言えば、若くて亡くなったが、『檸檬』などで知られる小説家であり、中山も名の知れた経済学者として活躍した人物である。そういえば、源治郎の通ったこの学校の後輩には、映画監督のあの「小津安二郎」なども輩出している。

そして第15号にも源治郎は、「校友会幹事」として「雑誌部」の一員となり、「懸賞作文:論説文」で2等賞を受賞しているようになっている。さらに「雄弁会大会」でも「新時代の曙光」と題して弁じたことも記されており、かてて加えて源治郎は、245名の生徒の集まる「音楽会」で「百合の花」と「すずめのマーチ」2曲を「独奏」し、「ローレライ」などを「独唱」しているのである。

この「校友会誌」には、「大正2年度特待生」として「第5学年 吉田源次郎・河村斎美」の名前が記されており、「第15回卒業生」の卒業記念写真も収められている。
前列に教師たちが並び、源治郎は学生たちのほぼ中央に写っている。(上から2列目の左から10人目)

写真1

源治郎の自筆「履歴書」には「大正3年3月 三重県第四中学校卒業」とされており、源治郎はこの時すでに23歳であった。

源治郎の妻「間所こう」のこと
 ところで、先ほど引用した『歴史』の中には、早くも「吉田源治郎と結婚する間所こう」の名前が出てくるので、ここに「間所こう」が神学校に進学するまでのことを見ておきたい。

 先ず、1969(昭和44)年に書いた「履歴書」には、「本籍 三重県伊勢市宮町106」「明治30年5月12日生」とある。
長女の小川敬子氏が記した資料によれば、「間所こう」は、父・松蔵、母・志免(しめ)の長女として生まれ、弟に「間所兼次」がいた。
(「間所兼次」は後に、賀川豊彦が組合長で源治郎も理事となって、1920(大正9)年に大阪市西区に設立した有限責任購買組合共益社の専務理事として貢献し、惜しくも45歳で早逝しているが、彼のことも回を改めて取り上げて置かねばならない。)

「間所こう」は、源治郎より6歳年下である。「こう」が戸籍上の名前であろうが、早くから「幸」で通してきたようである。1947(昭和22)年に書かれた「履歴書」も「幸」である。勿論「さち」ではなく「こう」である。

 岡本榮一氏の作られた「年表」(第2回掲載)で見たように、源治郎は1984(昭和59)年1月8日に92歳でその生涯を終えるのであるが、「幸」は1991(平成3)年11月20日までご存命で94歳であった。

 その「幸」が、1982(昭和57)年2月28日、西宮一麦教会の礼拝で「思い出」と題する「立証」を行っている。この時、源治郎は91歳、「幸」は86歳であるが、幸いその時の録音が残されていて、西宮一麦教会の40周年記念誌のために原稿化され、『四十年の歩み』(1988年)に収められたのである。
 「伊勢の山田教会時代」のことにも触れられた大変貴重な「立証」であるので、ここにそれを取り出して見よう。

  「私がキリスト教にはじめて接したのは、小学校1年生のとき友達に誘われて日曜学校に行った時でした。SS(註:日曜学校のこと)の先生の温かな優しい態度に魅かれ、それからは毎日曜日、待ちかねるようにして通ったものです。
   伊勢の山田教会にはミス・ライカーというアメリカの宣教師がおられ、私が一時、日曜学校へ行かなくなったときなど、道で会うたびに、「ア、間所さん」とか、「お幸さん」と声をかけては、「この頃、SSに来ませんね、またいらっしゃいネ」とおっしゃいます。恥ずかしいものですから、先生のお姿をみかけると、あわてて横丁へ曲がったりしました。でも、神さまはそんな私をもお放しにならず、また教会へと戻して下さいました。
 13,4歳の頃、木村清松先生が教会の伝道集会のためにおいでになったことがあります。みんなと賛美歌を歌い終わったとき、先生からいきなり、「お嬢さん、前へ出て歌って下さい」と言われました。不意のことで足がすくみましたけれど、勇を鼓して、促されるまま独唱いたしました。そのとき、聖霊の不思議な働きでありましょうか、私という存在が丸ごと神さまにつかまえられた気がして、もう私は絶対に教会から離れられない!と思った次第です。
 長い間、人前でお祈りをしたことのない者でしたが、中田重治先生を迎えての伝道集会のための3日連続の朝天祈祷会第1日目、中田先生が旧約のアカンの罪について話されました。アカンひとりのそむきのため、イスラエルがアイにおける戦いに負けてしまったことを聞き、みんなが祈っている中に自分ひとり祈らないでいるこの私はアカンとおなじではないか、と思い知らされました。次の朝、私は初めてみんなの前でお祈りしました。
 そんなことが積み重なって、信仰が養われて行ったように思います。洗礼を受けたのは1912(明治45)年6月13日、15歳の時でありました。
 幼稚園の先生になることを憧れていましたが、家庭の経済的事情のため果たせませんでした。吉田先生(註:源治郎はこの時、「幸」にとってSSの先生であった)が共立女子神学校ならお金がいらないと教えてくれましたが、家の者は許してくれません。それで3日間、ご飯も食べずに泣いていました。ついに父も根負けしたのか、「お前の勝手にせよ」ということで、最終的に入学がかなえられました。」

 (「幸」の洗礼の日付については、西宮一麦教会の森彬牧師が、1989(昭和64)年発行の「雲の柱」9号で「吉田源治郎先生のこと」を書いておられ、そこには「1908(明治41)年、17歳のときに山田教会で長山万治牧師より受洗」となっている。そして前掲冨山光一氏の『歴史』には「1913年度教勢報告」があり、この年に長山萬次牧師から37名が洗礼を受けており、そのリストの中に「間所こう 14」とある。年齢は数え年であるとされているので、13歳ということになる。今回、吉田摂氏よりお預かりした資料には、ここの洗礼の日付が「1913(大正3)年6月1日、16歳の時」と補正が加えられている。やはりここでは、ご本人の「思い出」を大切にしておきたいと思う。)

ミス・ライカー宣教師のこと
最後に短く、源治郎と「幸」、両人にとって忘れることの出来ない恩師のひとり、「ミス・ライカー」について触れて、次回に繋ぎたい。

記事ライカー

写真2ライカー


  上の写真は、先に紹介した1987年に作られた『常盤幼稚園七十年史』のはじめに、サイン入りで飾られたミス・ライカーである。

 彼女のことに関して殆ど知られていなかったことが、冨山光一氏によるこの『七十年史』並びに『伊勢の伝道・山田教会の歴史』によって、いくらか明らかになっている。
ほんの僅かな経歴であるが『七十年史』の冒頭に、常盤幼稚園「創立者 ミス・ライカー」という、冨山氏の短い一文があるので、それをそのまま紹介して置きたい。

 「幸」とミス・ライカーとのその後の新たな関わりがある。それは、源治郎が1918(大正7)年9月、京都伏見東教会の牧師となり、翌年6月に「間所幸」と新たな結婚家庭をはじめるが、4年後、源治郎が1922(大正11)年9月、米国オーボルン神学校へ留学することになり、一時家族は、実家のある故郷の伊勢に戻るのであるが、そこでミス・ライカーと再会するのである。

そして、ライカーの強い求めに応えて、「幸」は常盤幼稚園で働くことになり、1925(大正14)年秋、源治郎が留学とその後の外国視察を終えて帰国するまで、伊勢で過ごすのであるが、これらの事についてはまた、追って取り上げることになるかも知れない。

 ともあれ、こうして源治郎は中学校を目出度く卒業して、明治学院神学部へ、「幸」は横浜共立女子神学校へと、二人の故郷・伊勢を後に、新しい学びの場へと飛び立つのである。


付記
冒頭に収めた尾西先生の新聞記事は、「吉田源治郎・幸の世界」を訪ねる旅には、私にとって大切な道案内になったもので、ここに改めて感謝すると共に、ここで記事の本文をテキストにして取り出して置きたいと思う。

         ♯           ♯

「中日新聞」2001年5月1日朝刊(北勢:広域三重版)

       みえの文学誌(58)
       吉田源治郎(宇治山田)

                            尾西康充(三重大学人文学部助教授)

        貧困者救援に情熱
        特筆すべきシュバイツァー翻訳

 四貫島セツルメントは大正十四年十月一日に開業した。母体となったのは日本労働者伝道会社、賀川豊彦がロサンゼルスで資金を集めてできた会社である。賀川の主宰するイエスの友会からの後援も受けて大阪市に設立された。
 そお一帯は水利の良い環境にある。淀川と安治川に接し大阪湾に面した地形を生かし、重化学工業を中心とする臨海工業地域として早くから発展していた。財閥系の大工場の進 出によってもたらされた繁栄とは裏腹に、工場から排出される黒煙が空を覆い、労働者が逼塞した生活を営む地域であった。
 セツルメントとは、貧しい人々のいる区域に住み、住民の生活向上をはかる社会活動のことを指す。四貫島の施設では、労働者の無料診療や消費組合、乳幼児の健康指導や訪問看護など、多岐にわたる事業が展開された。そのころ、乳幼児の死亡率は大阪が全国最悪であったといわれる。
 開業一ヵ月後、記念式が行われた。司会は初代館長の吉田源治郎で、最初に「ヨブ記」第一章が朗読された。吉田は社会事業に関するヨーロッパ視察旅行から帰ったばかりであった。
石井十次の岡山孤児院に代表されるクリスチャンの社会活動が国内各地に広がっていた時代である。工場へ出勤する労働者のために四貫島では朝六時から礼拝が行われた。
 ヨブは「完全かつ正しくして神をおそれ悪に遠ざかる人」として知られる。信仰の灯火を掲げ、さまざまな試練をくぐり越えた吉田もまたヨブになぞらえられる人である。以下、吉田の伝記を紹介しよう。
 明治二十四年十月二日、度会郡宇治山田町に生まれる。八歳のとき父が亡くなり、厚生小学校を卒業した後は奉公生活を余儀なくされる。岩淵町にあった山田講義所の日曜学校に通い、キリスト教に親しむ。現在の日本キリスト教団山田教会である。
当時は、北村透谷や島崎藤村らと親交のあった福井捨助か伝道師として来ており、会堂を建設するほど教勢が盛んであったという(冨山光一氏『山田教会史』)。
 J・ライカー婦人宣教師による学資援助を受けて、三重県立第四中学校(現・宇治山田高等学校)に進む。五年遅れの入学であった。他の生徒よりも身体が発達していたため、体育の授業はいつも見学していた。一方、校内の音楽祭ではバイオリンを演奏し、雑誌「校友」の懸賞作文に入選するなど才能を発揮する。ちなみに五学年のとき編集長をつとめた「校友」第十四号の懸賞短文欄には、一年生の梶井基次郎が記した随想が載せられている。
 明治四十年七月七日、ヘレフォード宣教師から洗礼を受ける。中学卒業後、長山万治の推薦によって明治学院神学部に進む。在学中、内村鑑三の集会に通い、教会や教職の権威を批判した無教会主義キリスト教に共鳴する。長らく牧師の資格を取得しようとしなかったのは、その影響からであったという。
 また当時、貧民や労働者の救済事業に取り組んでいた賀川豊彦に出合う。社会の底辺に向けて尽力する姿勢に傾倒し、イエスの友会の結成に参加する。『イエスの宗教とその真理』 『イエスと入類愛の内容』など、賀川の講演や談話を筆記整理して公刊を助けた。その報労として大正十一年、ニューヨークにあるオーボルン神学校に留学する。神学修士号を取得。さらにユニオン神学校やコロンビア大学などで聴講生となる。
 文筆活動における吉田の業績は多方面に及ぶ。特筆すべきはA・シュバイツァーの翻訳を手掛けたことである。『原生林の片隅に立ちて』では本邦初訳を試み(大正十三年)、『宗教科学より見たる基督教』ではシュバイツァーの翻訳書として日本最初の出版に携わった(大正十四年)。
 また、天文学に興味があり『肉眼に見える星の研究』を執筆している。一説によれば、宮沢賢治はこの書に影響されて『銀河鉄道の夜』を創作したという。『勇ましい土師達』 『愛の殉教者ダミエン』など児童文学でも出版物がある。
 決して怒りを顔に出さなかったと、吉田を知る人は語る。牧会をつとめた甲子園二葉教会や西宮一麦教会、馬見労祷教会では多くの会衆から慕われた。その半面、信念を曲げない強さを持ち、社会的弱者へのまなざしを失うことがなかった。つねに賀川の運動を支持し、共に苦難を乗り越え続けたのである。妻・幸の献身的な助力にも助けられながら九二歳で逝去するまで、篤い信仰心にもとづく<静かな反抗>を繰り返した生涯であった。

   (2010年5月9日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月8日補正)
















KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(3)

表紙

  第3回 吉田源治郎の著書・論文・随筆など
    (含・賀川豊彦の講演を筆記して仕上げた著書)

 「吉田源治郎・幸の世界」は、21世紀に生きる私たちに何を告げ知らすのであろうか。

吉田摂氏との出会いを機縁に、梅村・岡本両氏のよき道案内が用意され、摂氏がこつこつと収集され、ご自身で執筆して来られた大切なお宝「吉田源治郎関係資料」の大半を、こうしていま閲読を許されることになったのであるが、この時まで、吉田源治郎牧師のことは、賀川豊彦の講演を筆記して著作に仕上げてこられた方として注目していただけで、御著書を1冊も読み通してはいなかったのである。

例えば、今日の宮沢賢治の研究者なら、賢治が読んだ書物のひとつに源治郎の代表作の1冊『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店、大正11年)が存在したことは常識のようであるが、私はその本の存在することさえ知らなかったのである。

ところが、不思議と言えば不思議なことであるが、探訪の旅をスタートさせた矢先に、現在では入手が殆ど困難と言われる本書の初版本を、幸運にも古書店で見つけることが出来たのである。表紙カバーが欠けていているのが残念であるが、本文370頁で10頁の索引があり、多くの星図と二つの大型の星図の挿入まである、本格的な上製本であった。

そこで第3回の今回は、第1回で手元に届けられている吉田摂氏所蔵の図書資料のリストを上げ、第2回で岡本榮一氏の労作「吉田源治郎関係年表」を紹介したので、標記のように「吉田源治郎の著書・論文・随筆など」の現在確認できている限りのリストを、纏めて置きたいと思う。

恐らく多くの作品が未発見のまま埋もれていると思われるが、数日前入手出来た古い雑誌『子供の教養』(昭和14年11月号)には、源治郎の11頁分の論文「保育に於ける自然研究」が収められていたが、源治郎の執筆した論文や随筆、さらにコラム記事等を探せば、大量なものになると思われる。

というのも、この度摂氏からお借りした資料の中に『基督教家庭新聞』(日曜世界社発行、西阪保治編集発行人、第20巻第1号~第12号の1年分の合本)があった。今回の巻頭に『合本』6月号の表紙を収めたが、この1年分を見るだけでも、今号で取り出して見たように、源治郎の作品が相当多数登場していることが判る。

『基督教家庭新聞』はA4版で34頁立ての本格的な月刊雑誌で、広く読者を獲得していたのでないかと思われる。大阪に拠点を置く「日曜世界社」で、賀川豊彦とその仲間たちの、それこそ「KAGAWA GALAXY」の交流の広場となっていたのではないかと想像させられた。『日曜世界』という出版物もあったようであるが、「日曜世界社」の刊行物のすべてに目を通せば、お宝が満載であるのかもしれない。

この新聞が何時から何時まで発行されていたのか未確認であるが、この『合本』は昭和2年の第20巻であるから、明治の終わり頃から出ていたのであろうか。

  吉田源治郎による賀川豊彦の講演筆記

賀川がプリンストンへの留学を終え帰国して以後、吉田源治郎は賀川の講演を筆記し、それを正確に纏め上げたことを賀川が知り、吉田のその抜群の才能に驚いたようである。

吉田は賀川より3歳年下でほぼ同年輩であるが、明治学院の後輩でもあり、二人の関係は相互に深い信頼関係を強めながら、次々と賀川の講演を記録して、見事に著作にまで仕上げてきたのである。

賀川の著作の中でも特に印象深い著作に『イエスの宗教とその真理』がある。
本書は、大正10年に警醒社書店から刊行され、広く外国語にも翻訳され、読み継がれているが、賀川は「傷つけられたる魂にイエスの言葉は恩(めぐみ)の膏(あぶら)である。それは温泉の如く人を温め 噴水の如く力づけてくれる。」という、よく知られているあの書き出しの「序」を記しているが、その中に、吉田源治郎のことに触れて、次のように書いている。
二人は「兄弟のやうにしている」「善き友人」であることを、詩的な言い回しで謝意を表しているので、ここで紹介しておこう。(引用であり、点のない部分は原文のまま)

「私はイエスによって無数の友を 貧しき人の中に得た。無数の愛人を労働者の中に得た。イエスによって妻も得た、イエスによって最もよき親友を得た。学問も、書物も、何もかも イエスが 私に与えてくれた。
わたしは 殆どイエスの為めに 何もした覚えが無い。然し イエスは私に凡てを与えてくれた。
そして イエスを味ふているその味ひ方を偶々各方面の人が聞かせてくれと云われるので 話をした。東京でも 大阪でも神戸でも 堺でも同じことを話した。そしてまだ多くの人が それを聞きたがっている。
それで 私の善き友人達は 今度は それを一冊の書物にしたいと云い出した。そしてその中でも兄弟のやうにしている伏見教会牧師の吉田源治郎兄は私の談話を全部筆記してくれた。
それは 私には光栄である。吉田兄は既に私の書物を三冊まで筆記してくれた。吉田兄は此年一年は殆ど私の為めに犠牲にしてくれた。それで私はどんなに吉田兄に感謝してよいか知れない。然し 世に産れ出る必要のあるものならば産れ出ることは善いことである。
それで喜んで私は「イエスの宗教とその真理」を世に送り出すのである。」(6~7頁)

人の言葉は、小さなコラムのようなものも含めて、面白くて大切なものである。歴史的な場があって、言葉として産み出しされたお宝である。以下のリストは全く不完全なものであるが、今後の「吉田源治郎研究」に備えての一応の下準備に過ぎない。間違いもあると思われるので、補正され補充されていくことを期待している。

  吉田源治郎の著書・訳書
  著書(多くの著作は装丁を改めるなどして版が重ねられている)

『児童説教』(日曜世界社、大正7年、195頁)
『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店、大正11年、380頁余)
『新約外典の話』(聖書物語文庫24巻)(昭陽堂書店、昭和3年、165頁)
『心の成長と宗教教育の研究』(日曜世界社、昭和6年、222頁)(未見)
『肉眼天文台の印象』(岡本榮一氏によれば、本書は、山本一清氏の案内でヤンキ
ーズ天文台を1924年に訪問したときの旅行記として『天界』(東京天文台報)に連
載されたものを纏めたものとコメントされているが未見)
『勇ましい士師達』(聖書少年文庫6)(新教出版社、昭和32年、159頁)
『五つのパンと五千人―サモネットの花籠』(コイノニヤ社、1975年、113頁)
そのほか

訳書
アルベルト・シュワイチェル著『宗教科学より見たる基督教』(警醒社書店版、大正
14年、137頁)(付録として吉田源治郎の「シュワイチェルの「原生林の片隅にて」
を読む」という40頁に及ぶ論文が収められている)ほか。

  賀川の講演を筆記して仕上げた著書

『イエス伝の教へ方・附少年宗教心理』(日曜世界社、大正9年、201頁)
『イエスの宗教とその真理』(警醒社書店、大正10年、264頁)
『聖書社会学の研究』(日曜世界社、大正11年、309頁)
 (本書の「序」には「この書物の出来たのは、また伏見の吉田源治郎兄の御蔭で
ある。私はもう少し詳しく自分に(まま)書きたかったが、急しい貧民生活と労作の
中にとても自分に書き下す暇が無いので、兎に角、私が信ずるところを大阪の日
曜学校教師会に述べたのであった。それを吉田兄は筆記してくれて一冊の書物
にしてくれた。茲に私は吉田兄に心より感謝の意を表するものである」と賀川は記
している。)
『人間として見たる使徒パウロ』(警醒社書店、大正11年、254頁)
『神による解放』(警醒社書店、大正15年、221頁)
『キリスト一代記の話』(日曜世界社、昭和2年、115頁)
そのほか

  吉田が他の人と共同して仕上げた賀川の著書

『イエスと人類愛の内容』(警醒社書店、大正12年、285頁)
『イエスと自然の黙示』(警醒社書店、大正12年、247頁)
『残されたる刺―逆境への福音』(日曜世界社、大正15年、102頁)
『暗中隻語』(春秋社、大正15年、411頁)
『人類への宣言』(警醒社書店、昭和3年、511頁)
『殉教の血を承継(うけつ)ぐもの』(日曜世界社、昭和4年、172頁)
そのほか

  吉田源治郎の論文・随筆(説教・翻訳論文を含む)
『雲の柱』寄稿
執筆者リスト掲載分
 吉田摂氏提供のコピーの中のもので、これは松沢資料館で纏めておられる「資料・
「雲の柱」執筆者リスト」ではないかと思われる。1922年1月号から1940年6月ま
での61本にも及ぶ吉田源治郎の論文である。

1史料
史料2
史料3
史料4

  そのほか「雲の柱」へ吉田が寄稿したもの

「米国からの書簡の一部」(「雲の柱」大正14年5月)
「四貫島より」(「雲の柱」昭和2年)
「大阪四貫島セツルメント 工場街の日曜学校」(「雲の柱」昭和4年)
「国産服は新しき言葉を語る」(「雲の柱」昭和4年)
「四貫島のこのごろ―セツルメント運動の近況」(「雲の柱」昭和4年)
「四貫島セツルメント ことしの夏期事業の概況」(「雲の柱」昭和4年)
「四貫島セツルメントの宗教運動の近況―大阪イエス団を中心として」(「雲の柱」
昭和4年)
「大阪雑記」(「雲の柱」昭和13年)2回分

  「基督教家庭新聞」に吉田が掲載した作品

昭和2年分
第20巻第2号(昭和2年2月号)
「母の為の講座-第一講子供の性格の話」
「サモネット:良心の再生」
第20巻第3号(昭和2年3月号)
「サモネット:べテル」
第20巻第4号(昭和2年4月号)
「イースター研究」
「サモネット:新約の福音」
第20巻第5号(昭和2年5月号)
「魂の聖地」
「サモネット:エリヤの外套を持つもの」
第20巻第6号(昭和2年6月号)
「神聖への上進」
第20巻第7号(昭和2年7月号)
「その足跡(チャルス・エム・シェルドン長編宗教小説)」
第20巻第8号(昭和2年8月号)
「その足跡(チャルス・エム・シェルドン長編宗教小説)」
第20巻第9号(昭和2年9月号)
「その足跡(チャルス・エム・シェルドン長編宗教小説)」
第20巻第10号(昭和2年10月号)
「その足跡(チェルス・エム・シェルドン長編宗教小説)」
第20巻第11月号(昭和2年11月号)
「み足のあと(対話)」
第20巻第12月号(昭和2年12月号)
「クリスマス天文「その星」の研究」
「サモネット:世の光の如く」
昭和?年分
第33巻第2号
「ドイツの皿洗ひ女学校に学ぶ」
その他に寄稿した作品
「我心高原にあり」(「校友」第14号、大正2年所収)
「又逢ふ日迄―故吉田なつえの思ひ出」大正6年
「隣保事業の立場からみて」1933年(「朝日新聞社社会事業団 公衆衛生訪問婦
協会第三周年事業報告」昭和9年所収)
「キャンプの歌」1934年(「朝日新聞社社会事業団 公衆衛生訪問婦協会第4周
年事業報告」昭和10年所収)
「ナアセリー・スクール運動を語る」1934年(「朝日新聞社社会事業団 公衆衛生
訪問婦協会第五周年事業報告」昭和11年所収)
「保育に於ける自然研究」(「子供の教養」昭和14年11月号)
「山村に隠れた信仰美談・わが恵汝に足れり」(「キリスト新聞」1958年、「米田純三
牧師召天記念文集・神の愛に生かされて」1995年所収)
「命の木はまだ残されている」1961年(「西宮一麦教会四十年の歩み」1988年所収)
「幸福への招待」1961年(「西宮一麦教会四十年の歩み」1988年所収)
「あのころの明治学院」1966年(「明治学院歴史資料館資料集―第2集」2005年
所収)
「前進する教会」1967年(「西宮一麦教会 五十年の歩み」1998年所収)
「生ける神を慕う―創立25周年記念礼拝説教」(「西宮一麦教会 創立25周年を記念
して」1972年所収)
「”死線を越えて“ゆかりの地に建つ賀川記念館」(「クリスチャン・グラフ」賀川豊彦生誕
九十周年特集 1978年7月号所収)
「祈りはいかにあるべきか」甲子園二葉教会での説教、年代不詳(「甲子園二葉教会・
創立五十周年記念誌」1991年所収)

   (2010年5月6日記す。鳥飼慶陽)(2014年6月7日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(2)


1写真

四貫島セツルメント:前列右端が吉田源治郎(吉田摂氏提供)


第2回 岡本榮一氏の労作
    「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」
 

前回(第1回)では、「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」を訪ねる旅に出ることになった不思議な経緯を、少しく忘備録風に書きとめて見た。ここでは、前回紹介できなかった岡本榮一氏の労作「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」について記して置きたいと思う。

第1回の冒頭、梅村貞造氏より本年(2010年)2月27日、吉田源治郎関係の図書と諸資料を戴いたことが、事の始まりであったことに触れた。実はその中に、標記の「年表」も含まれていたのである。

これは「四貫島友隣館の年表」であるが、吉田源治郎が1984(昭和59)年1月8日、92歳の生涯を終え、夫人の吉田幸が1991(平成3)年11月20日、94歳で召されるまでの年表が刻まれており、末尾の「参考文献他」を見ても、多くの資料を渉猟されて作られた力作であった。資料のほかに聞き取りを重ね、2006年の時点で纏められたものである。
 
その後4月5日、吉田摂氏との最初の会合の折には、岡本栄一氏の論文草稿「吉田源治郎―妻幸、賀川豊彦との出会い、そして人となりなど」(A4で11頁分)も戴いた。

この「論文草稿」は、1「吉田源治郎の足跡概観」、2「源治郎の著書・性格・趣味など」、3「源治郎と二葉幼稚園・二葉教会」、4「源治郎と一麦寮・一麦教会」、5「源治郎と馬見労祷保育園・教会」の順に書き進められており、「年表」のタイトルにある「四貫島友隣館」を含む総括的な「吉田源治郎研究」の構想となっている。

この「論文草稿」は未完成であるが、いずれ完成されて公表されることが期待されるので、とりあえずここでは「年表」を添付させて頂くことにする。

「年表」も甲子園二葉幼稚園・甲子園二葉教会、一麦寮・一麦保育園・西宮一麦教会なども含めて、「吉田源治郎・幸夫妻の関係年表」のようなものを仕上げて見る必要があるが、この「年表」が唯一のものであるので、貴重である。

残念ながら「年表」の文字が小さく、手元のスキャンでこれをうまく取り込めるかどうか分からないが、試みて見る。

年表1
年表2
年表3
年表4
年表5
年表6
年表7

岡本榮一氏によるこの二つの労作―「年表」と「論文草稿」―を吉田摂氏から戴いた後、賀川豊彦記念・松沢資料館の研究紀要「雲の柱」、本所賀川記念館の「賀川豊彦研究」、「賀川豊彦学会論叢」などに目を通しているうちに、是非一度、岡本氏に直接お会いしご教示を受けたくなった。そして去る4月21日には、吉田摂氏から岡本氏へわざわざ私の意向を伝えて頂き、早速23日午後、指定いただいた大阪ボランティア協会で、初めての面談が実現したのである。

岡本氏は、大学のお仕事のほかボランタリズム研究所所長や大阪ボランティア協会参与など、超ご多忙の中を1時間余りも時間を頂いて「吉田源治郎」のことについて情熱をこめて語って戴いた。お話の中でも初耳だったのは、昭和6年であったか、中村遙氏が「大阪水上隣保館」を創設するとき、その働きを促した人が吉田源治郎先生であったのだそうである。

岡本氏が、若き日に自らも参画され、その歴史を纏められた『大阪キリスト教社会館45年のあゆみ』(1996年)を後日お送りいただいたが、同封されたお手紙の中には「例の論文を仕上げねば、と思ったことでした」と書かれていた。
「吉田源治郎研究」を初めて手がけられた岡本榮一氏の労作を楽しみお持ちしている。そしてこれを機縁に新しい賀川記念館での「賀川講座」にご登場いただくというのもどうであろう。

当日岡本氏から戴いた資料のひとつ「吉田源治郎をめぐる団体・施設関係図」を最後に紹介して置きたい。

関係図

     (2010年5月3日 鳥飼慶陽) (2014年6月6日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(1)

前回まで、2009年の「賀川豊彦献身100年事業オフィシャルサイト」に長期連載したひとつ「賀川豊彦のお宝発見」(現在、伴 武澄氏のサポートで http://K100.Yorozubp.com/ で公開中)を、本ブログで「賀川豊彦の畏友・武内勝所蔵資料より」として、補正を加えながら連載をいたしました。

今回からは同様に同サイトに長期連載したものを、ここで再掲しておきたいと思います。うまくできますかどうか。

写真1

   KAGAWA GALAXY
「吉田源治郎・幸の世界」(序)

吉田源治郎は、賀川豊彦と共に歩んだ協働者の特筆すべき人物の一人である。

この『肉眼で見える星の研究』(警醒社書店、大正11年)が源治郎の著作であり、賀川がこれの出版を待ち望み、宮沢賢治がこれを読んで作品に活かしていたことなど、どれだけの人がいま、知っているであろうか。

正直なところ、吉田源治郎といえば、賀川の重要な講演を筆記して『イエスの宗教とその真理』や『イエスの自然の黙示』など多くの著作を仕上げていった人物として、また大阪四貫島セツルメントや西宮一麦教会・甲子園二葉教会の創設者として知っていた程度であった。これまで「吉田源治郎の人と生涯」を語れるような基礎知識は全く持ち合わせていなかった。

ところが不思議なご縁で、本年(2010年)4月、吉田源治郎のご子息・吉田摂氏と一麦保育園顧問・梅村貞造氏のご好意で、「吉田源治郎の世界」に魅せられる事になったのである。

以下本文で、その経緯については書き進めていくが、吉田摂氏が長年にわたり、ご両親「吉田源治郎・幸」夫妻に関する、数多くの著作や資料を収集保存され、一部はご自身で執筆して来られたが、このたびほぼ全ての「お宝」を、当方でお預かりして、ゆっくり閲読を許されることになったのである。

早速「お宝」を読み進めながら、「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」という題を付け、5月1日を第1回として「資料紹介」の形のものを書き始めて見た。

そして昨年の「賀川献身100年記念」の本サイトで「賀川豊彦のお宝発見」(武内勝関係資料)を手助けしてアップ戴いた伴 武澄氏より、今回も引き続いてアップしてはどうかと、ご親切なご提案を戴いた。当方にとってこの上ないお申し出で、伴氏のご好意に甘えさせて貰う事にした。

粗雑な草稿の上に、資料をスキャンする仕方さえ不慣れな、手のかかるものをアップして戴くには気が引けるが、この度もまた天から降ってきたこの楽しい作業を、一歩一歩進めて見たいと思う。勘違いや誤字など多いと思われるが、全てを書き終えた後、改めて推敲を施す予定なので、お手数ながらメール便(torigai@ruby.plala.or.jp)で、ご指摘を宜しくお願い申し上げ、本稿の「序」に代えさせて頂く。
                  (2010年5月22日記す。鳥飼慶陽)



     KAGAWA GALAXY 
「吉田源治郎・幸の世界」(1)

第1回 「お宝:吉田摂氏所蔵資料」との出会い

吉田源治郎先生のお働きに惹かれ始めたのはごく最近のことである。
今年(2010年)2月27日、神戸文学館における公開講座「賀川の文学」で「賀川豊彦の贈りもの」を担当したおり、昨年来「武内勝資料」の解読で助言を頂いている西宮一麦保育園顧問・梅村貞造先生から2冊の著書『吉田先生と私―米寿記念文集』(西宮一麦教会、1979年)、吉田源治郎著『五つのパンと五千人―サモセットの花籠』(コイノニヤ社、1975年)と貴重な数点の関係資料(コピー)を戴いた時からである。まだ2ヶ月ほどしか経っていない。

それにはこんな経緯があった。
実はその10日前(2月17日)である。社会福祉法人イエス団の評議員会が神戸で開催された。数年前から評議員に加わり出席していたのであるが、その日今期を以って監事職を退任される旨、吉田摂(たすく)氏(吉田源治郎先生のご子息)が挨拶をされた。吉田摂氏の隣席の吉田洋子氏も同じく評議員を退任され、その挨拶もあった。

何しろ長い間のもぐら暮らしをしてきて、評議員のお歴々のことも殆どの方とは面識もなく、お二人がご夫婦であることさえ知らなかったが、ご主人の摂氏のことは、戦後早い頃(昭和22年頃以降)関西学院の学生の頃に賀川梅子さんや播磨醇さん、大岸坦弥さん等とご一緒に、神戸市長田区四番町に建てられていた「天隣館」(ここで当時「長田保育所」が開設されていて、斉木ミツル・中野とよの・河野洋子ほかの先生方が活躍しておられた)に学生ボランティアとして参画しておられた中のおひとりであったこと、とりわけ摂氏は、全国にも名を馳せていた「関学グリー」のメンバーで活躍され、かてて加えて賀川と共に歩んだあの「吉田源治郎先生の息子さん」であること、などを耳にしていた。

(長田区番町におけるイエス団の働きの一部については、共同通信の伴武澄氏のお勧めとご援助で、昨年(2009年)末までの「賀川豊彦献身100年オフィシャルサイト」における「賀川豊彦のお宝発見」で95回にわたって紹介することが出来た。それは昨年春に念願であった「武内勝関係資料」をご子息の武内祐一氏のご好意で閲読と公開を許されたためであった。この度の神戸文学館の特別展にも一部公開展示され、さらに過日(4月17日)グランドオープンした「賀川記念館ミュージアム」でも数点展示された。なお、「賀川豊彦のお宝発見」は現在もHPで見ることが可能であるが、「賀川ミュージアム」の中でも閲読が出来る。「武内勝関係資料」の閲読は未だ継続中で「お宝発見」の続編を思案中である。)

評議員会閉会後、吉田摂氏にご挨拶をしてお別れをした後、失礼を省みず後日さらに宝塚のご自宅へ不躾なお電話を差し上げ、「番町へ足を運ばれた若き日の頃のお話を是非お聴きしたい」旨申し出たのである。幸運なことに、摂氏は甲子園二葉教会の役員でもあり、元正章牧師は私の知友であったことと、先にあげた梅村貞造先生とは旧知の仲であるとのことで、急遽4月5日午後、梅村先生のおられる一麦保育園で、元牧師も交え4人でお会い出来る事になった。

私にとっては、賀川豊彦とその仲間たちの働き、中でもこれまで余り明らかでなかった長田区番町における働きの跡を少しでも知っておきたいという願いが当面のことであった。昨年(2009年)10月16日、杉山元治郎研究でも知られる東北学院大学の岩本由輝先生が一麦保育園を訪問されるので来ないかと梅村先生に誘われて、初めて一麦保育園と西宮一麦教会を訪ねたのであるが、誠に迂闊な事に「吉田源治郎先生」に関する積極的な関心は、まだ私の中に芽生えてはいなかった。

ところが今回、摂氏のお話を聴くために、梅村先生から寄贈を受けた先の2冊に併せて、10年以上も前に寄贈されていた西宮一麦教会『五十年の歩み』(1998年)を改めて紐解いてみたのである。

30頁余りの貴重な「年表」(前史1926年~1946年を含む)にも注目させられたが、梅村先生が長い間大切に保存しておられた録音テープ―1967年3月19日の創立20周年記念礼拝にける吉田牧師の説教「前進する教会」―が21年ぶりに文章化され、それが「特別寄稿」の形で記念誌の巻頭に収められていた。

吉田源治郎牧師のことは、賀川が1920年(大正9年)に出版した『イエス伝の教へ方』(日曜世界社)をはじめ、多くの賀川の作品を筆記して作品化した人物としては知っていたが、吉田先生の全体像が掴めていなかった私には、「前進する教会」と題する14頁に及ぶこの説教に接して、「吉田源治郎の世界」を一歩ずつでも探訪したくなったのである。

この説教には、日本農民福音学校(昭和2年)のこと、一麦保育園(昭和7年)のこと、大阪の四貫島のこと、戦火で自宅まで消失したこと、馬見・榛原・三方・但馬などの伝道のこと、そして西宮一麦教会のこと、賀川葬儀での先生による「告別の言葉」などにも触れられていて、文章として残されている先生の説教を読んで見たくなっていた。

そんな思いを抱きながら4月5日を迎えたのである。
この時は、時の経つのも忘れて、何と3時間近く及ぶ語らいが続いたのである。

昔の「一麦寮」の写真等見ながら、吉田家と武内家がここで共に過ごされていた頃のこと、新川のイエス団や長田の天隣館に出かけていたこと、母・幸(こう)さんのことや兄姉のこと、父の主著『肉眼で見る星の研究』と宮沢賢治のこと、父とシュバイツァーのこと、父の米寿のお祝いのときのこと、大正7年の父の著作『児童説教』のこと、二葉教会のオルガンのこと、ライカー宣教師のこと、共益社の間所兼次のこと、ラクーア伝道のこと、ご自身の関学グリーのあれこれのことなど、次から次へ話が弾んだ。この時の記録は、お許しを得て収録も出来ているが、有難いことにこの時、摂氏がこれまでこつこつと時間をかけて収集された関係資料や写真などを持参され、その中の大切な幾つかのものをお譲り戴いたりもしたのである。

さらに加えて4月26日にも再度、摂氏が一麦保育園に足を運ばれ、梅村先生と元牧師共々4人で、二度目の語らいの機会を持って頂いた。そしてこの時は、第1回目の時の数倍にのぼる大量の、関係する図書資料を持参され、ひとつひとつ説明を加えて戴いた。そしてその上に、貴重な資料をすべてお貸し戴いて、暫くの間閲読を許されることになったのである。この時の語らいの様子も収録されているが、摂氏が持参された所蔵資料は、次の通りである。要返却分と受贈戴いたものと分けてリストを作ってみた。

吉田摂氏所蔵資料
2010年4月26日にお借りした関係資料(要返却)

吉田源治郎著作
1 「児童説教」 日曜世界社、大正7年 (本書のみ梅村氏より借り受け)
2 「宗教科学より身たる基督教」 警醒社書店版 大正14年
   本書には付録として「シュワイチェルの<原生林の片隅にて>を読む」がある
3 「新約外典の話」(聖書物語文庫24巻) 昭陽堂書店 昭和3年
4 「勇ましい士師達」(聖書少年文庫6) 新教出版社 昭和32年

吉田源治郎論文
「『愛餐』の研究」(「雲の柱」昭和6年2月)コピー
「又逢ふ日迄」(故吉田なつえの思ひ出、大正6年)コピー

教会・幼稚園等記念誌
「保健婦事業十年を回顧して」(日本看護協会保健婦部会、昭和21年)コピー
「基督教保育連盟関西部会創立五十周年記念誌」(1965年)
「創立25周年を記念して」(日本キリスト教団西宮一麦教会、昭和48年)
「四貫島セツルメント創設五十年記念 四貫島友隣館・大阪四貫島教会・天使保育センター 五十年のあゆみ」(四貫島友隣館、昭和50年)
「兵庫県幼稚園教育100周年記念誌」(1976年)
「先輩社会事業家の文集 足跡 あとにつづくもののために」(大阪府社会福祉協議会従事者部会、昭和56年)
「ときわ七十年史」(常盤幼稚園、1987年)
「四十年の歩み」(日本基督教団西宮一麦教会、1988年)
「続・キリスト教保育に捧げた人々」(基督教保育連盟、1988年)
「流れのほとりで」(日本キリスト教団大和榛原伝道所40年記念誌、1993年)
「神の愛に生かされて―米田純三牧師召天記念文集」(日本基督教団吐田郷教会、1995年)
「大阪の社会福祉を拓いた人たち」(大阪の民間社会事業の先輩に感謝する会、1997年)
「明治学院歴史資料館資料集」第2集「明治学院九十年史」のための回想録」(明治学院歴史資料館、2005年)
「伊勢の教会・山田教会の歴史1」(日本基督教団山田教会、2005年)
「伊勢の教会・山田教会の歴史2」(日本基督教団山田教会、2006年)
「創立50周年記念誌」(野本基督教団播磨新宮教会、2007年)

新聞・雑誌・機関誌など
「基督教家庭新聞」(第20巻第1号~第12号合冊、日曜世界社、昭和2年)
「クリスチャン・グラフ」(1978年7月、384号、クリスチャン・グラフ社)
「愛と希望・クリスチャン・グラフ」(1980年2月、403号、クリスチャン・グラフ社)
「クリスチャン・グラフ」(1984年4月、450号、クリスチャングラフ社)
「復興に向けて:阪神・淡路大震災の記録」(西宮市、1995年)

著書
草下英明著「宮沢賢治と星」(宮沢賢治研究叢書1)(学芸書林、1975年)コピー
二葉薫著「子供の歌」(日曜世界社、昭和15年)
二葉薫著「子供の歌:第弐輯」(日曜世界社、昭和18年)

論文
高木謙次「内村鑑三と吉田源治郎」(『高木謙次選集第1巻』)コピー
椚山義次「内村鑑三と天文学」(「内村鑑三研究」第35号別刷り(2001年3月)
栗原直子「賀川豊彦の自然教育理解とそのキリスト教保育への影響」(教育学修士論文、2000年)
栗原直子「賀川豊彦の『死線を越えて」の保育学的分析-スラムの子どもを中心に」(「乳児保育学研究」第10号、2001年)

その他コピー資料
三重県立第四中学校校友会「校友」第14号(大正2年)
三重県立第四中学校校友会「校友」第15号(大正3年)
内村鑑三と吉田ナツエ・源治郎関連4枚(大正6年)
「雲の柱」吉田源治郎関係8大正11年、昭和2年)
「雲の柱」吉田源治郎関係(大正14年、昭和13年)
「雲の柱」吉田源治郎関係(昭和4年)
公衆衛生訪問婦協会に就いて(社団法人朝日新聞社会事業団)(昭和5年)
関西冬季福音学校―昭和7年1月2日~4日(「雲の柱」昭和7年2月20日号・84号)
朝日新聞社会事業団公衆衛生訪問婦協会第三周年・第四周年・第五周年事業報告(昭和11年~13年)
村島帰之「賀川先生と羅府の友」(「賀川研究」第2号、昭和23年12月)
流域-創設40年記年号(流域社、昭和40年)
但馬の吉田先生(西宮一麦教会「吉田先生と私」1979年)
朝日新聞大阪厚生文化事業団五十五年のあゆみ「先駆」(昭和59年)
吉田幸「賀川ハルと私」(「火の柱」463号、1987年5月号)
天沢退二郎「宮沢賢治と「恋」・「こひびと」の謎」(日本経済新聞、1989年11月12日付け
尾西康充提供資料(「大阪労働運動史」「ペスタロッチの言葉」2005年)
ここに教会がある「但馬日高伝道所」(「信徒の友」掲載年月未確認)

小川敬子記録分
「伊勢の思い出」(記録年未確認)
「小川敬子履歴」(2007年4月)
「北港児童館についての思い出」(2007年4月)
「四貫島友隣館(セツルメント)における乳幼児保健についての働き」(2007年4月)
「吉田なつえ(吉田源治郎妹)」(2007年4月)

その他
「石の教会・内村鑑三記念堂」(2004年夏期特別礼拝)
「系図・内村鑑三」
 

吉田摂氏より受贈図書資料
図書
「甲子園二葉幼稚園八十年史」(創立80年記念日、2003年12月2日)
「創立五十周年記念誌 恵みの旅路」(日本基督教団馬見労祷教会、1999年)

書簡
賀川豊彦から吉田源治郎宛AIR MAIL(1950年2月28日)コピー
賀川豊彦から吉田源治郎宛AIR MAIL(1950年7月11日)コピー
ローガン夫人より吉田源治郎宛AIR MAIL(1950年8月4日)コピー

写真
吉田源治郎夫妻はじめ16葉

履歴書
吉田源治郎(自筆)
吉田幸(自筆)
吉田こう(「功績調書」も入る叙勲のため提出分)

大型色紙
故吉田幸先生 卒園生代表 勝部寛二 コピー

和紙毛筆書
今津二葉教会建設経過報告 建築委員代表 庄ノ昌士 コピー

吉田源治郎研究
岡本榮一「吉田源治郎―妻幸、賀川豊彦との出会い、そして人となりなど」(日付なし)
岡本榮一「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」(日付なし)

共益社・間所兼次関係
「有限責任購買組合専務理事 故間所兼次略歴」コピー
「故間所謙次兄を偲ぶ」コピー
「大阪毎日」昭和6年6月5日から4回連載「消費組合巡り」コピー
「有限責任購買組合共益社」(産業組合調査資料50「消費組合経営事例第弐輯」より)コピー

その他コピー
三重県立第四中学校校友会「校友」第15号(大正3年)
山本進「吉田源治郎牧師の思い出」(「天界」1984年8月)
「吉田源治郎」(「紀伊半島近代文学事典:和歌山・三重」裏西和彦・半田美永編、和泉書院、2002年)
原恵「星の本との出会い」(「本のひろば」1984年3月)
宮沢賢治と吉田源治郎にふれる箇所(「内村鑑三研究」掲載号未確認)
吉田源治郎自筆「吉村静枝推薦の理由」コピー

 上記の図書資料は大量でとてもひとりで持ち帰りは困難であったので、摂氏は自家用車で直々に神戸長田の我が家まで送り届けることまでして戴いた。そして途中、甲子園二葉幼稚園と教会にも立ち寄って案内して貰い、期せずしてここも初めて見学することも叶ったのであった。この日は何もかもが思いも掛けないことであった。

 こうしてここ数日間、楽しみながら資料を眺め、上記借用図書資料の関係部分のコピーをすすめてきた。本日は2010年5月1日である。

吉田摂氏は、お借りした資料(『四貫島セツルメント創設五十年記念 五十年のあゆみ』(昭和50年))の表紙に、鉛筆書きで次の言葉を書き込んでおられた。

        連綿と
        流れ続く
        賀川流域

        カガワ ギャラクシー
        銀河

        一つ一つの輝く星で
        大銀河が作られる

多くの大切な資料をお借りして、これをどのように活かすことが出来るのかを考えながら作業を進めていたが、摂氏のこの書き込みの「カガワ ギャラクシー」に目が留まり、このレポートの表題を<「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」>として見ようとタイトルも定まった。

パソコンで文章は入力できても写真等の挿入の仕方さえ分からなかったが、巻頭に吉田源治郎先生のサイン入り写真を戴いたので収めて見た。摂氏のコメントには「オーボルン神学校卒業の頃」とある。源治郎33歳、1924(大正13)年のものである。

吉田顔

昨年の「武内勝資料」を「賀川豊彦のお宝発見」にも似たものになるかも知れないが、「吉田源治郎の世界」を少々気儘な取り上げ方で私的断章風に進めて見たいと思う。今回も「武内資料」と同じく天来のお宝が届けられたもので、私にとっては眼を白黒させながらの手探り状態のまま、「探訪の旅」に出かけることになる。

      (2010年5月1日 鳥飼慶陽) (2014年6月5日補正)


賀川豊彦の畏友・武内勝所蔵資料より(95)

  
   「賀川豊彦のお宝発見」最終回  

長い間密かに願い続けてきた武内勝氏の貴重な日記の閲読が、ご子息の武内祐一氏の御厚意で、「賀川豊彦献身100年記念」の本年(2009年)春、許されることになった。

私にとって「武内勝」というお方には特別の思いがあった。生前一度だけお会いしご葬儀が初仕事だったということもあるが、一度だけあった武内さんの一言が、ずっと心の中に消えないからでもあった。「例えからだは弱くても、志さえあれば、大丈夫だから」というあの励ましの一言である。

武内祐一氏は少し先輩になるがほぼ同世代である。1966年春から2年間、神戸イエス団教会での修行のときから現在まで、福祉・医療の関係でとぎれることなく交流が続いてきたが、遂に切なる願いが叶えられ「玉手箱」をふたつお預かりする運びとなった。その後の経緯はこれまで記してきたとおりである。

我家にお預かりしてすぐ、心躍る思いで寸暇を見付けては「玉手箱」の「お宝」を眺め、閲読を開始した。

その朗報を耳にされたのが、共同通信社の伴武澄さんであった。伴さんは、東京プロジェクトの広報委員長を引き受け「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」を開設され、「賀川豊彦のお宝発見」という場所を特別に用意して下さった。

素人の慣れない下書きを、ご覧のように毎回、読み易いものに仕上げてアップいただくという、願っても無い幸運に恵まれた。

数年前の伴さんとの不思議な出会いも面白い出来事であるが、それはともかくとして、伴さんの慫慂がなければ、これほど捗ることはあり得なかった。

改めて、この最終回の冒頭に、祐一さんと伴さんに対して、深甚なる謝意を記して置きたいと思う。

    *      *      *      *

写真1 

写真1091227kagawasho

これは12月22日の神戸ポートピアホテルにおける記念式典において、賀川豊彦献身100年記念事業神戸プロジェクト実行委員会委員長の今井鎮雄氏から団体・個人に贈られた「第1回賀川賞」の記念品「ともしび」(松沢栄一制作)
である。

 思いもかけなかったことであるが、受賞者のひとりに選ばれ、表彰状とこの素晴らしい記念品をお受けする喜びを与えていただいた。慣れない事で戸惑いもあるが、祐一さん所蔵の「お宝」を、こうして100回近くもこのサイトで紹介できた御褒美なのであろう。重ね重ねご両人に御礼を申上げたいと思う。

    *      *      *      *

 公開できた中で最も注目させられたのは、「武内勝日記」のA(昭和前期)とB(最晩年)であった。これは武内氏の人柄と日常を知る一等資料となった。「手帳」に残された戦後のメモも貴重であるが、本サイトでは殆ど紹介できなかった。

 「玉手箱」に収められていた「お宝」には、120通近くもの武内勝宛の「賀川夫妻からの封書・葉書」が残されていたことも驚きであった。私にとってこれは、まさしく予期せぬ「大発見」であった。

一部を除いて、このサイトでほぼ紹介することが出来たが、改めて武内氏と賀川夫妻とが「同時代の同労者」として「苦楽を分かち合う間柄」であったかを知る、得がたい基礎資料であった。

書簡類も失われてしまっているものも多いようであるが、よくこうして「玉手箱」に遺していただけたものだと、祐一氏に深謝している。

   *      *      *      *

写真2

写真2091227book

 これは、所蔵資料の中にあった4冊の文書である。400字詰め原稿用紙にペン書きされ、こよりで綴じられている。4冊とも「武内先生に――」として届けられている。

 筆者は「工藤」と書かれ、当時30歳代と思われるが、北海道小樽で毎日新聞社会部の記者として、農民運動や労働運動にも関与し、小林多喜二とも深い関係を持つ人のようである。(文面に「工藤豊八」とあるので、これがお名前かも知れない。)

 北海道で賀川豊彦を知り、神戸のイエス団に飛び込み、武内のもとで日雇労働をしながら執筆活動を重ねている、小説家志望の文士という印象を持つ。

 因みに第一冊目は、「武内先生に―。この一編は、私の最近の心の過程(プロセス)です。一応、目を通して頂きたいと思ふ。」(原稿用紙42枚)

 第二冊目は第二編で、「武内先生に―。魂の彫刻を語る―散文的に―生活と芸術の統一性―一つの小さな喜びの歌」(原稿用紙13枚)

 第三冊目は第三編で、「武内先生に―。春と花の心を語る―血と光の真理を求めて―只、一つの道、生命線―人生の未完成交響楽」(原稿用紙13枚)

 第四冊目は第四編で、「一つの果実。(一)ルンペン哲学―能動的な精神―死線を越えて 芸術に関する覚え書き―序論―賀川先生の芸術の統一性―無名時代の地下工作―メカニズムと芸術の統一性―芸術の真実性と商品価値―芸術への展望 書きたい構想―再び、反賀川派について―イエス団正反合の統一性―指導者に関する私見―私の決意 労働者の問題―メーデーを中心に―パンと魂の一元論―マルクス学説への反論―ラスキンのベニスの石 農村のその動向―村井の農民座談会―行政の県会地下工作―堀井農村道場の再吟味―農村青年の苦悶―自然美と人工美 イエス団―25年の基礎工作―参考意見」

以上四篇が残されている。

ご自分は『武内勝伝記小説』を書ける自信をもっている、と記すほどに、武内勝への深い尊敬の思いを、文面いっぱいに滲ませているドキュメントである。

一つだけ、紹介しておこう。

「武内先生の弟子になると、人生が愉快になれると信じているもんだから」と書いて、工藤は日雇い労働の仲間たちに、次のような歌をつくっている。

草津節で―
1 神戸イエスに、一度はおいで、ドッコイショ
  武内先生は、コレア、ニコニコ顔よ、チョイナチョイナ
2 新川幼稚園は、立派な所、ドッコイショ
  阿南先生は、コレア、チパパと踊る、チョイナチョイナ
3 神学校の松本兄弟、ドッコイショ
  神の福音に、コレア、泡を飛ばす、チョイナチョイナ
4 お医者さんなら、芝先生に、ドッコイショ
  恋の病を、コレア、なほして貰ひ、チョイナチョイナ
5 長田に行くなら、河相さんの所、ドッコイショ
  日曜学校で、コレア、番町の光、チョイナチョイナ
                        (第二冊目5枚目)

ともあれこの作品は、じっくりと閲読をさせて頂きたい。
工藤さんはその後、どのような歩みをされ、どんな作品を書き残されたのか、興味津々であるが、今のところすべて不明である。

    *      *      *       *
 
写真3

写真3091227glasses

 これは、遠近両用の黒色のまるい縁取りのめがねで、武内勝さん愛用のものである。めがねはいつもこれであったようである。

 このめがねは、現在神戸文学館で開催中の企画展「賀川豊彦の文学」にお持ちして、展示していただくのも良いかも知れない。
展示資料には、賀川豊彦から中山昌樹(明治学院での同級生、ダンテ研究家、牧師)宛ての手紙と共に、このたびサイトで紹介してきた賀川豊彦・ハル夫妻から送られた武内勝宛の手紙・絵葉書などが、初公開されている。

2010年、年明けには次の記念講演も予定されている。
1月23日「現代世界経済と賀川豊彦」(滝川好夫)、2月20日「賀川豊彦と文学・神戸時代」(義根益美)、2月27日「賀川豊彦の贈りもの」(鳥飼慶陽)、3月13日「賀川豊彦の文学とイエス」(大田正紀)。
いずれも午後2時から3時半。文学館へ申込みが必要である(078-882-2028)。

    *      *       *      *

写真4

写真4091227

この写真は、前回の大岸夫妻のアルバムにある1枚で、うっかり掲載し忘れたもの。
アルバムには「昭和23年3月 在園児」と記されている。
長田区四番町にあった「天隣館」で、昭和21年に開設された「神戸市立長田保育所」の看板がある。

ところでよく見れば、斉木ミツル先生の後ろの看板には「日本基督教団 神戸生田川・・」と書かれているように見える。
昭和20年には、神戸空襲によって葺合新川のイエス団の建物は、すべて焼失した。そのため昭和24年に再建されるまでは、この長田の「天隣館」が神戸イエス団の本部の場所も兼ねたともお聞きしたことがある。
ならばこの看板は、焼失を免れて、ここに掲げられていたのだろうか。それとも「日本基督教団 神戸生田川・・」は間違いなのだろうか。
ともかく、この看板のある写真は初見である。

と、ここまでは昨日夕方までに書き上げていた。
やはり疑問を残して最終回を閉じるのはどうかと思われたので、昨夜(クリスマスの夜)河野洋子先生にこの疑問を電話で尋ねたところ、早速に大岸とよの先生と近藤良子先生に連絡され、その結果を教えて頂いた。そして神戸イエス団教会の93歳の最長老:緒方彰さんに聞いてみれば、との助言を受けた。
そこで今朝、電話で緒方さんのお話を伺うことができた。

皆さんから教えて頂いて明らかになったことは、昭和16年6月に日本基督教団が成立した時、それまでの神戸イエス団の宗教部としてイエス団教会あったものが(賀川豊彦をはじめ武内らは、当初より「神戸日本基督教会」に属していて、その伝道所に位置づけられていた如くであるが)、「イエス」とか「キリスト」という標記を禁じられたために、戦時下は「(神戸)生田川教会」と名称を変更し、敗戦後元の「神戸イエス団教会」に戻ったようである。

緒方氏さんによれば、10年前既に「神戸イエス団教会90年史」が作られ、そのあたりの経緯も記録されているそうである。何とも迂闊なことで、それさえも未見であった。正月明けには、是非それも拝見させていただけるものと、楽しみにしている。

  *      *       *       *

私たちの場合、1968年以来「在家労働牧師」としての実験をはじめて40年あまり、神戸市長田区番町というこのまちでモグラのような暮らしをしてきたが、その期間がたまたま、部落問題の解決という大きな課題で激しく動く、時代の渦の只中に遭遇したことから、まちの人々と共にその取り組みに没頭して、あっという間に今日まで来てしまった。

1995年1月17日の阪神淡路大震災の時は、すでにその課題はほぼ目途をつけた段階であったが、多くの困難を乗り越えて、さらにいま新しいまちに甦ってきている。残されていたかつての壁もなくなり、当時の景色もすっかりなくなって終った。

そうした中で、このサイトで連載させて頂いたこの作業は、私たちが歩みを始める1968年以前、まち自体が急激な変貌を遂げる前の大切な歴史を、改めて学ぶ機会でもあった。

それは、賀川豊彦とその仲間たちの足跡をたどる、限られた歴史ではあるが、長田区五番町の「友愛救済所」として、四番町の「天隣館」における保育所や学童保育として、さらに三番町の「神視保育園」「天隣乳児保育園」として、現在まで黙々と密やかに、歩んでこられた先達たちの働きのあったことを学ばせて貰う事ができた。

本年(2009年)は、21世紀に相応しい素晴らしい賀川記念館が完成した。そして来年4月には待望の「賀川ミュージアム」の開設を迎える。
武内祐一氏によって大切に保存されてきた貴重な所蔵資料が、新しい時代の歴史をつくる若い人々の記憶の中にしっかりと届いていくように、今後も微力を傾けたいと思っている。

伴さんとは恋人でもあるまいに、毎日のようにメールのやり取りを重ねての「賀川豊彦のお宝発見」の連載であったが、更なる飛躍のための一服ということで、再会を楽しみにしながら、ここで幕を下ろす。
ありがとうございました。

  (2009年12月26日記す。鳥飼慶陽)

以上、95回にわたって、2009年の「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」に長期連載させていただいたドキュメントを、いくらかの補正を加えながら、5年ぶりに本ブログに再掲してきました。オフィシャルサイトではプロの技でしたが、ここでは全くの素人の仕事になりましたが。

ここでは引き続いて、「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界を訪ねて」を連載していきます。これも上記「オフィシャルサイト」で連載され、現在も伴 武澄氏のご厚意でご自身のサイト http://K100.yorozubp.com/ において閲読可能になっているものです。できればこれも、いくらかのに補正を施しながらすすめてみたいと思っています。

   (2014年6月4日補記)



賀川豊彦の畏友・武内勝所蔵資料より(94)


  大岸坦弥・とよの夫妻所蔵写真    
 
 「賀川豊彦献身100年記念事業」の取り組みは、一昨日(2009年12月22日)神戸ポートピアホテルでの記念式典とレセプションをもって大きな節目をつくり、さらなる100年に向けて新しい一歩を踏み出したことは、伴武澄氏によって、本日のこのサイトにおける写真と文章をもって公開された通りである。
 (この時のサイトは現在¥2014年6月)は http://K100.yorozubp.com/ で公開されています)

 そして本サイトでの「お宝発見」の連載も、愈々次回を最終回として、一先ず一区切りとすることになる。

 「武内氏所蔵資料」の公開を呼び水として芋ずる式に、同時代を歩まれた方々の「お宝」までも、次々と目にさせて頂く幸運に恵まれる事になったのであるが、最後ここでご紹介するのは、兵庫県三木市に昭和47年開園の「一粒園保育所」の大岸坦弥(ひろや)・とよのご夫妻所蔵のアルバムからのものである。

先に取り上げた河野洋子先生のお口添えもあって、本年(2009年)9月17日午後、大岸ご夫妻がわざわざ拙宅まで足をお運びいただき、初対面の私たちに、親しくお話を聴かせていただく機会を得た。

ご主人は同園理事長、奥様は3年前現役を退任されたそうであるが、保育分野の開拓者らしく、保育に注ぐ情熱は驚くばかりで、80歳を越えられたいまも現役そのままである。素敵なお似合いの御夫婦であった。

我家へお越しいただいた折、大切に保存されているふたつのアルバムを持参してくださり、拝見させて頂いた。

写真撮影ということもまだ当時は一般的ではなかった時代ではなかったと思われるが、坦弥さんは当時からカメラをお持ちで、写真撮影はお得意であったようである。多くの写真を写され、とよのさんはそれらをアルバムに収め、撮影場所や年月日なども丁寧に書き添えられていた。

これまで武内さんや河野さんの写真では確定できなかったものが、このアルバムで新しく判明したものも多く、最近刊行された劇画「死線を越えて」や「賀川豊彦とボランティア」などにも、このアルバムによって正確を期すことが出来た。

第92回目の「写真1」も、今回拝見できたアルバムには「昭和27年2月25日 梅子女史渡米送別会 天隣館にて」と記されている。写真の剥がれている部分も、丁度そこが鮮明であり、相互に補う会うことができた。

早速、ふたつのアルバムの中から、年代順に17枚をご覧頂こう。

    *      *      *      *

 写真1
写真1
 「昭和24年2月 新会堂にて 第1回礼拝後」 とよの先生は中列右から4人目。武内夫妻・斉木さん・緒方さん・梅子さんのお顔も。

写真2
写真20912263
 「昭和24年3月25日 第3回卒業生」 前回までに紹介した「天隣館」での神戸市立長田保育所の初期の写真は重複するので割愛し「第3回卒業生」からお目にかける。とよの先生は大人の前列右から二人目。

 写真3
写真30912264
 「昭和24年5月 賀川社会事業集会」 とよの先生ほか賀川・武内夫妻・吉田・三浦・金田ほか、お歴々のお顔がみえる。初見の写真である。場所は一麦寮?

 写真4
写真40912265
 「昭和24年12月18日 賀川先生渡英送別会」 この4日後、賀川は羽田を出発し、翌年12月28日帰国するまで、丸1年に及ぶ世界伝道旅行を行う。英国全土、さらに欧州から米国に及ぶ大旅行であった。そしてこの4年後にも、エバンストンで開催の世界基督教会議に招待され、4ヶ月の旅を試みた。

 写真5
写真50912266
 「昭和25年3月 第4回卒業生」 神戸市立長田保育所(長田区四番町のイエス団「天隣館」前)

 写真6
写真60912267
 「昭和25年10月 宝塚遠足 3人で」 写真右から、とよの先生・斉木ミツル先生・河野洋子先生。

 写真7
写真70912268
 「昭和26年3月 重彦ちゃん花咲爺」 斉木先生のオルガンに合わせて、とよの先生も大きな声で! 

 写真8
写真80912269
 「昭和26年3月 第5回卒業生」 3人の先生の他に、辻本四郎牧師と友愛幼児園の宮川先生も。

 写真9
写真909122610
 「昭和26年クリスマス 人形芝居誕生 第1回公演」 友愛幼児園へも出かけて公演している。

 写真10
写真1009122611
 「昭和27年3月24日 第6回修了式」

 写真11
写真1109122612
 「昭和27年8月9日~11日 再度山・大竜寺にて 卒業生第1回キャンプ 2泊3日」 これ以後、幾たびもこの場所でキャンプを行う。寺の御住職夫妻が良き理解者であったとか。

 写真12
写真1209122613
 「昭和27年8月9日~11日 再度山・大竜寺にて 卒業生キャンプ 2泊3日 修ヶ原」

 写真13
写真1309122614
 「昭和27年12月23日 長田日曜学校クリスマス」 斉木夫妻・武内夫妻・辻本牧師・白倉牧師のお顔も。ここは「天隣館」の2階であろうか。

 写真14
写真1409122615
 「昭和28年3月21日~22日 連休を利用して湯村温泉へグループの人たちと、これが最初で最後の旅行だったことは又感慨深い思い出」

 写真15
写真1509122616
 写真説明はないが、大竜寺での何回目かのキャンプの時か?

 写真16
写真1609122617
 写真説明はないが、「天隣館」の2階であろうか。白倉牧師を真ん中に斉木夫妻などと。

 写真17
写真1709122618
 写真説明はないが、これは「天隣館」の1階のようである。斉木夫妻と白倉牧師などとともに。 
                
    *      *      *       *

 大岸ご夫妻は、昭和33(1958)年に結婚されたようにお聞きしたので、この写真に登場するお二人は、結婚の前である。したがって、「とよの先生」は「中野とよの先生」である。

ご主人の大岸坦弥さんは戦中、武者小路実篤の「新しき村」や小川正子の「小島の春」などに心惹かれる青年期を経て、戦後を迎えてから兵庫県の建築のお仕事に就かれていた頃、仕事上で武内勝氏と出会い、イエス団との関係が始まり、辻本四郎牧師から洗礼をうけられた、というお話をお聴きした。

一方、中野とよのさんは、河野洋子さんと同じく羽仁もとこの自由学園で学ばれ、戦時下、斉木・武内・緒方・辻本といったイエス団メンバーの立会いで、賀川先生から洗礼を受けられ、「あなたは今日から神様の子どもになるんだよ、神は愛なりだよ」と言われたことを、いまでもはっきり覚えているとも語っておられた。
空襲で焼けてしまう前の神戸イエス団教会での洗礼で、その日教会から帰る途中、空襲警報が出ていたとも言われていた。

そうして戦後「天隣館」で始められた神戸市立長田保育所の保母となり、週日は毎日そこで働きながら、日曜日は早朝から葺合新川に出向き日曜学校と礼拝を済ませ、午後「天隣館」に来て3時からの日曜学校を行い、夜も夕拝を行うといった青春時代であったとか。

ご夫妻ともども「楽しかったあの時代に、もういちど戻りたい」などと、当時の御二人の青春の日々を物語っていただいた。

前回の河野先生のご自宅でも見せていただいたが、当時のお仲間たちは、その後も途切れることなく、年に一度正月休みに集まって、交流を重ねておられる。長く斉木先生のご自宅に集まられたが、現在は三木市の大岸さんのお宅に参集しておられるようである。

この度、記念式典参加のため米国から帰国された籾井梅子先生は、関西学院の学生だったころ「天隣館」に群れていた若者のお仲間の一人であったらしく、先日(12月17日)の神戸文学館での企画展「賀川豊彦と文学」にお見えの後、久し振りに皆さんお集まりになって懇親の時を待たれたそうである。

青春時代の愉快な仲間たちが、半世紀以上も続けて友情を深めておられる事実は、それだけでまた心打つものがある。

完成した新しい賀川記念館に「賀川ミュージアム」が開設されるのは年明け(2010年)4月であるが、これまで紹介できた多くの新しい資料や写真は勿論の事、現在益々お元気でご活躍中の、この大岸さんご夫妻はじめ、皆様のナマのお話を、「賀川ミュージアム」において、ご一緒に親しくお聴きできる場も実現できる筈である。

    (2009年12月24日記す。鳥飼慶陽)


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このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

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