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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(52)

52-1福音学校案内

   第52回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(11)

上の「イエスの友冬季福音学校」開催案内は『雲の柱』昭和2年12月号に掲載されたものである。
新館完成を実現した「四貫島セツルメント」を会場にした第1回目の福音学校で定員100名、昭和3年正月の元日から4日間という熱の入れ方である。

この時の写真は見つからないが「火の柱」第16号(昭和3年2月号)に、林幸金牧師による熱の籠った記録が残されている。その雰囲気を感じ取るために一部を紹介して見たい。記事の組み方が横流しであるが、ここでは組み替えて収める。四貫島セツルメントに集まった人々の4日間の様子が、小さい活字で埋め込まれている。

52-2ああ感激

52-3福音学校報告のつづき

52-4福音学校のつづき3枚目

52-5福音学校のつづき4枚目

吉田源治郎の米国留学からの帰国を待って、1925(大正14)年10月1日に始められた「四貫島セツルメント」が、丁度満2年後となる1927(昭和2年)10月1日に新たな「セツルメント・ハウス」の竣工を迎え、こうして1928(昭和3)年正月の幕開けを「第1回福音学校」をもってスタートさせたのである。

神戸の「イエス団」から東京の「本所基督教産業青年会」へ、そして大阪の「四貫島セツルメント」へと、主要な活動拠点が形成されて行く様子が、鮮やかに見えてくる。

昨年「武内勝関係資料」を「賀川豊彦のお宝発見」として本サイトで連載した中に、「昭和2年8月から昭和4年6月」までの「武内勝日記」を活字化して紹介したが、武内のあの証言は、神戸に於ける職業紹介所の開拓的な仕事の中で、多数の労働者が次々と解雇され、身近な者もブラジル移民に送るなどある、この時代の苦悩を刻むものであった。

    吉田源治郎「四貫島セツルメントの近況」(『雲の柱』昭和3年1月)

52-6吉田セツルメント

52-7吉田セツルメント2枚目

    「火の柱」第17号(昭和3年3月)

ところで、先にこの四貫島セツルメントに於ける第1回イエスの友冬季福音学校の写真は見つからないことを記したが、いま「火の柱」第17号(昭和3年3月)を見ると、小さな写真であるが、新館の前で写されたこの時の記念写真が残されていた。ここに拡大して収めて見る。見開きに半分ずつ分けられているが張り合わせて収めて置く。

52-8日の柱社真

これでは人の特定も出来ないが、2階の窓から顔を出す人々のいることは分かる。

この号には、次のような賀川豊彦の「百万人運動実行プログラム」という、15項目の提起をはじめ、吉田源治郎の「その後の四貫島セツルメント」その他の記事があるので並べて置く。

52-9百万人運動

52-10吉田四貫島セツルメント

52-11吉田セツルメントのつづき

52-12吉田セツルメント3枚目

     四貫島セツルメントに於ける出版部の事業展開

セツルメント活動の多彩な働きの中でも注目させるのが出版部の働きである。
しかしまだ機関誌『摂津の光』も、またこの号に広告されている右の月刊リーフレット「神聖」も現物をまだ見ていない。これには毎号「賀川の宗教座談1篇と吉田のサモネット掲載」とある。
また、賀川のリーフレットも次々と出版されているようである。

52-13リーフレット広告神聖

そして本連載の第11回から第17回で取り上げた「間所兼次と購買組合共益社」で、未見のものとして取り上げた「消費組合協会」の機関誌『消費組合時代』の広告などもここには掲載されている。
参考までにそれらも最後に取り出して置きたい。これらの出版物もどこかに残されている筈である。

52-14賀川の顔の入った広告組合の使命

(2010年8月25日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月31日補正)



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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(51)

51-1シュバイツァー顔
     猿と鹿とを手にしたシュワイチェル博士

    第51回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(8)

本連載の第32回から第38回まで7回にわたって「シュヴァイツァーと吉田源治郎」を纏めて取り上げた。その折りに続けておくべきであったが、前回の末尾で触れたように、『雲の柱』の昭和2年12月号に於いて、シュヴァイツァーの賀川豊彦と吉田源治郎に宛てた2通の書簡が訳出されていた。

上の写真は、その中にあるもので、当時の印刷技術の限界とはいえ、「猿と鹿とを手にしたシュワイチェル博士」と説明書きがあっても、猿も鹿もシュヴァイツァーの顔さえも潰れてしまっている。馴染みの帽子姿とサインだけは何とか・・。

ともあれここには、吉田源治郎が「アフリカ沿岸より」とタイトルをつけた二つの書簡のうち、まずははじめに送られてきているもの――「1927年7月27日、アジア丸の船上にてヨーロッパへの途次、アルベルト・シュワイチエル」より、「親しき未知の友・賀川豊彦」への書簡――を、はじめに読んで見たい。

    シュヴァィツァーの賀川豊彦への書簡

51-2賀川への書簡1

51-3賀川への書簡2

       シュヴァイツァーの吉田源治郎への書簡
            1927年8月1日付:抄訳

51-4吉田への書簡1

51-5吉田への書簡2

吉田源治郎とシュヴァイツァーとの間に交わされた書簡は、源治郎の米国留学中から始まり、シュヴァイツァーの著作の翻訳出版に関わる事務的な連絡も含めて相当存在していた筈であるが、残念ながら戦災などあって、写真も含めて全て失われているようである。
 
なお、今回掲載できたシュヴァイツァーの二つの書簡にある来日講演と演奏企画は、残念なことに実現することはなかったようで、賀川は1960年に72歳で、シュヴァイツァーはその5年後の1965年に90歳の生涯を終えるまで、結局一度も彼は日本を訪れる機会をもつことが出来なかったのではないかと思われる。

   シュヴァイツァー著『バッハの生涯』(津川主一訳:白水社、昭和15年)

この連載の「肉眼に見える星の研究」(第21回~30回)のところで触れたこともある津川主一が、1940(昭和15)年にシュヴァイツァー『バッハの生涯』(白水社)を訳出しており、その「邦訳への序文」にも、この「シュヴァイツァー来朝の噂が伝わったが、実現せられずに止んだのは残念なことであった」と記している。

51-6バッハの生涯
 
本書は、シュヴァイツァー30歳のときに初版を出した名著『音楽詩人としてのJ・S・バッハ』の四分の一に当たる伝記部分のみの訳出であるが、邦訳も314頁に及ぶものである。

ところで、津川の「邦訳への序文」を改めて読んでみると、「友人吉田源治郎」に触れた面白い事も書かれているので、ここに紹介して置く。
 
51-7バッハの本文吉田に触れて

津川の右のことばをそのまま読めば、源治郎は、シュヴァイツァーのオルガン独奏をナマで聴き、その批評を「彼のバッハ演奏は云々」と津川に認め、それを津川は「著名なる一批評家の告白」として、これを受け取っていることが分かる。

吉田源治郎は米国留学の時に、シュヴァイツァーの著作に出会って、彼の翻訳作業にも取り掛かり、書簡のやり取りもあり、続いて賀川と共に欧州視察を行うので、その時に「バッハ演奏」を聴く機会を得たのであろうか。

源治郎の日記や手帳はあった筈であるが、今のところ確認が出来ていないので、全てそれらのことは今後の調べを待つ外はない。

源治郎は若き日、オルガンも独唱も並々ならぬ腕の持ち主であったようであるので、源治郎とは「友人」である津川主一の他の著作のなかに、その辺りの物語も残されているかも知れない。

      (2010年8月24日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月30日補正)





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(50)

50-1
    新築落成の四貫島セツルメント:昭和2年10月 

    第50回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(10)

上の写真は『雲の柱』昭和2年12月号の扉にあったもので、ここにはまだ入口の文字も壁に書かれた「平和・純潔・労働・敬虔」の文字も入れられていない。

次の写真も同じ場所に収められ「天使会館で講演中の賀川豊彦氏」と記されている。いずれも鮮明さに欠けるが大切な記録である。

50-2賀川講演

次の写真は『四貫島セツルメント創設五十年のあゆみ』(昭和50年)に収められたもので落成後間もない時のものであろう。

50-3セツルメント

さて、今回は「四貫島セツルメント・ハウス」の落成に至るまでの諸資料を収めて置きたい。
前回までに昭和2年4月、ヴォーリズ設計事務所で作られた設計図が出来たところまでを取り出したので、その後10月に完成するまでのものである。

    『雲の柱』昭和2年6月号に掲載された資料

50-4新築竣工

こうした「四貫島セツルメント建築献金」の呼び掛けに応えて、日本国内だけでなく外国在住の関係者の多くから多額の献金が寄せられ、『雲の柱』の各号に、その詳細な報告が行われている。落成を伝える『雲の柱』の昭和2年10月号にある献金の累計では、個人・団体合わせて「参千二百五十八圓〇七銭」と記されている。

    『雲の柱』昭和2年7月号と8月号

50-5(新築工事と竣工の二頁分)

上の記事にあるように、6月29日には地ならしに掛かり、7月中旬に基礎工事、7月12日に棟上げを済ませている。

さらに9月号には、「予定より早く工事は進行し」「献堂式はいよいよ十月初旬挙行」と記され、10月号には「9月20日に竣工しました。そして26日に四貫島大通り3丁目の新館へ移転しました」と「新築落成」を告げている。

50-6(献堂式知らせる小さな記事)

    総主事吉田源治郎による「10月1日・献堂式の挙行報告」
          (『雲の柱』昭和2年2月号掲載) 

50-7設立趣旨など

50-8竣工記事のつづき

   「イエスの友店員ミッション」の創立(昭和2年10月8日)
 
昭和2年10月1日に「四貫島セツルメント」新館落成式を終えた後、同月8日に大阪・博労町の服部時計店で「イエスの友店員ミッション」の発会記念事業を始めている。

このミッション組織は、間所兼次ら14人の発起人と賀川・吉田・村島ら9名の顧問が同年5月28日付「趣旨書」を提案して広く呼びかけていたものである。
 
50-9店員ミッション

50-10店員ミッションつづき

50-11店員ミッションつづきのつづき

前頁の広告にある賀川の新著『キリスト・山上の垂訓』は、広告文中にあるように「四貫島セツルメント・ハウス新築を記念して、特に書かれたものである」。「日曜世界社」発行、「大阪市四貫島大通3-7:四貫島セツルメント」が「発売」元になっている。

しかもこれは、先に取り出した第1回「女子農民福音学校」(昭和2年夏、賀川宅で開催)で、賀川が学生に講演したものを、今井よね子が筆記し加筆してなったものである。

50-12山上の垂訓


『雲の柱』昭和2年12月号の「武庫川だより」には、賀川の次のことばが残されている。

「四貫島セツルメントで出した「山上の垂訓」が同志社中学で、教科書に用いられていることを見て、本当に嬉しかった。また「残されたる刺」が、しばしば自殺者を救うことを聞いて、心から喜んでいる。中学世界に載せた立志小説「南風に競うもの」が今度いよいよ博文館から出ることになった。15、6歳の少年等に読んで貰おうと思って、書いたものである。広く読まれるなら幸福だと思う。」

なお、「女子農民福音学校」はその後どのように継続されていったのか確認はできていない。
立農会発行の『農民福音学校』にある「農民福音学校年譜」には、戦後になって昭和24年8月に「第1回豊島女子農民福音学校」が始められ、昭和45年8月の第17回まで開催されていたようである。

以上、四貫島セツルメントをめぐる昭和2年の、特に新しい「セツルメント・ハウス」新築の取り組みを辿ってきた。次回から昭和3年以降を見ることになる。

 (『雲の柱』昭和2年12月号を見ると、シュヴァイツァーが、賀川と吉田に宛てて書き送った書簡が訳されて収められている。次回は、これだけを取り出して置く。)

     (2010年8月22日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月29日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(49)

神の国運動初めに入る

   第49回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(9)

前回、賀川と杉山が「兵庫県武庫郡瓦木村高木東口」に住居を定め、そこを拠点にして「農民福音学校」を開設し、吉田も「教務主任」並びに講師の職務を担うことになった事を取り上げた。

杉山元治郎の参画は、賀川にも吉田にも新たな柱を得る出来事でもあった。
杉山は「四貫島セツルメント」の「評議員」として名を連ねると共に、昭和2年3月に「全日本農民組合」の組合長に就き、翌昭和3年5月には「全国農民組合」の中央委員長に選ばれ、賀川はその顧問に就任している。
そして昭和5年3月、杉山は大阪府中河内郡布施町に転居して「杉山歯科診療所」を開設するといった諸経過が、前掲の岩本氏の著書に詳述されている。

今回冒頭に掲げたものは、この年(昭和2年)早々から開始された「四貫島セツルメントハウス」の建築募金袋に書かれたことばで、この取り組みの経緯を今回は辿る予定であるが、その前に「第1回農民福音学校」で学んだ二人の短い手記があるので、それを先ず読んで置く。
いずれも「火の柱」に掲載され、「農民福音学校だより」は第13号に、「農民福音学校の思ひ出」は第16号である。

農民福音学校だより

 「農民福音学校」は、「毎年同時期に1ヶ月開校、15年間続けられた。一麦寮が建てられるまでは定員12名の小塾であったが、その中から百数十名の信徒指導者を全国の農村社会に送り出した」(前掲『西宮一麦教会五十年のあゆみ』年表)。下の募集は、賀川の私宅に於ける「女子農民福音学校生徒募集」である。

農民福音学校生徒募集

   四貫島セツルメントハウスの建築

昭和2年2月27日付:賀川豊彦「武庫川のほとりより」(『雲の柱』昭和2年4月)

さて愈々「四貫島セツルメントハウス」の建設が始まっていく。この建設に関して最初に記したのは、2月27日付けの賀川の次の言葉ではないかと思われる。

武庫川のほとり

  昭和2年3月「火の柱」掲載「全国イエスの友に訴える」

ここには「全国のイエスの友」への訴えがある。また「セツルメントの近況」も面白い。

全国イエスの友に訴える

『雲の柱』の昭和2年分を開いてみると、四貫島セツルメントの「早天礼拝」で語られた賀川の説教「ヨハネ第三書の精神―兄弟愛の福音」(1月9日)を2月号に、「ユダ書の精神―聖戦の福音」(1月16日)と「建国者の精神―アブラハムの選びし道」(前年12月19日)を3月号に、さらに2月11日の農民福音学校開校式講演「フアブルとグルンドウイッヒ」と「主の姿を仰ぎつつ―聖パウロと絶えざる黙示」を4月号に、すべて吉田源治郎の筆記で掲載されていることが分かる。勿論、この筆記は前後継続するのであるが。

これらの筆記は、直ぐに賀川の著作となって、例えば上に挙げた「ヨハネ」と「ユダ」は『人類の宣言』(警醒社、昭和3年)に、「アブラハム」は『神による信仰』(日曜世界社、昭和3年)に、それぞれ収められ、広く愛読されることになる。

   吉田源治郎「武庫川のほとりに賀川氏を見舞ひて」

この時期も源治郎は『雲の柱』の編集に深く関わっていた事を思わせる印として、昭和2年4月号の巻末の編集後記の欄に、吉田源治郎は「四貫島より」と題して、次のように書いている。

吉田の「四貫島より」賀川見舞い

同じ『雲の柱』昭和2年4月号には、次の「訴え」を掲載されている。

四貫島新築訴え

 賀川豊彦の「旅枕より」(『雲の柱』昭和2年6月号) 

この「旅枕より」は3頁にわたっているが、冒頭の数行に「四貫島」に触れた部分だけを張り付て、下に取り出して置く。
賀川の「旅枕より」はいつもの「身辺雑記」であるが、賀川の日々の生活記録としても面白い。そこには「ヘレン・タッピング女史が米国の「カガワ後援会」から送られて、5月2日に神戸港につかれたこと」などが記されている。

賀川旅枕より

   『雲の柱』昭和2年5月号に掲載された新しい訴え

四貫島セツル新しい訴え

上の訴えを見ると、会館を建築する場所が確定し「只今、ヴォ―リズ氏の手に依って設計図が進行中です」とある。

ヴォーリズの顔

上のW・M・ヴォーリズの写真は、大正12年に警醒社で刊行された吉田悦蔵著『近江の兄弟ヴォーリズ等』の扉にあるものであるが、賀川は『雲の柱』(大正12年新年号)にこの書名と同じタイトルの文章を寄せ、本書の「跋」とした。賀川とヴォーリズ並びに吉田悦蔵とは既に親密な仲であった。

ヴォーリズ建築事務所は、大正11年に大阪支所を開設し、大丸百貨店心斎橋店や大同生命ビル、神戸YMCAや大阪基督教女子青年会館なども既に彼の手によって建てられていた。

ヴォーリズは賀川より8歳年上(1880年生まれ)で、賀川より4年長く生きた。1964年没。

四貫島セツルメント設計図(April.12.1927)

過日、吉田摂氏より「一粒社ヴォーリズ建築事務所」より入手された「四貫島セツルメント設計図」のコピーを郵送して頂いた。今回小川敬子氏が、新たに当時を思い起こし、その図面に鉛筆で書き込みをし、そのコピーである。貴重な資料である。
縮小した図面で薄く判読は難しいが、まず全体を上げて置く。都合で縦に収める。

四貫島設計図

前頁の設計図を右半分:一階平面図と左半分:二階平面図を分けて再掲載しる。
          
  右半分:一階平面図

一階平面図

左半分:二階平面図

二階平面図

上記「設計図」と共に、吉田摂氏の封書には、次のコメントを加えた書面があった。

   1 四貫島の設計図は単位が尺になっている。
   2 土地は借地である。
   3 それぞれの部屋の役割は図面に記入。
     なお、
     ・2棟の建物の前の部分は、授産事業、診療、共益社など時代によって変わっている。
      時にはストライキの本部など。
     ・後の建物は、天使保育学校、教会、ホールとして多目的にも使用。
     ・建物は市電通りに面していた。裏は建物が立て込んでいる。  

今回は、ここまでとする。
     
    (2010年8月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月28日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(48)

大阪イエス団会報はじめ
   「大阪イエス団教会会報・第1号」(1926・11・23)

   第48回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(8)

前回で1926年を終え、今回から愈々1927(昭和2)年に進める予定にしていたが、上の<「大阪イエス団教会会報第1号」1926・11・23>の存在を昨年の「賀川豊彦のお宝発見」(第8回)で取り上げていたことを思い起こした。それは「武内所蔵資料」にあったものである。

本連載第43回で「昭和2年2月28日、四貫島セツルメント内に大阪イエス団教会を設立。同月23日設立式を挙行した。所属は「日本キリスト教会浪速中会」であった。かくして、大阪イエス団教会の主管者は、賀川豊彦先生、吉田源治郎先生はその主任伝道師であると同時に四貫島セツルメント館長、更に天使保育学校の校長をも兼任され、日夜席の暖まるいとまもなく働きを続けられた」とする記録を紹介したが、この「教会報」では1926年11月末段階の経緯の一端が確認できる。

「教会報第1号」は2枚で出来ていて、その後も発行されていった筈であるが、手元にあるのはこれのみである。
貴重な資料なので、切り貼りをして部分的に少し読みやすく拡大し、ここに収めて置きたい。

会報拡大1

お読みの通り、「四貫島セツルメント」の働きが既に1年以上積み重ねられ、加えて賀川の活動拠点が西宮に移されたこともあり、「西大阪」に於ける一定の盛り上がりが「大阪イエス団教会」の誕生になっていったことが伺える。
特にこの時を待って、東京から大阪に来た一人の男性に関する、次の記事も面白い。

「冨樫兄は、東京に於て賀川先生の下で働いて居られ、大阪に未だイエス団の創立されなかった3年も前から、一人大阪イエス団員と名乗って、大阪に行ってからでないと受洗しないと、ガン張って居られたのですが、今度賀川先生と共に西下され、受洗されたのです。かかる一騎当千の士を迎えて、我々は本当に力強く感じます。」

   昭和2年正月「新時代修養会」

1927(昭和2)年は、大阪基督教青年会を会場にした「新時代修養会」で幕開けした。「昭和元年師走31日午後11時除夜の祈祷会」から始まり正月3日間の修養会である。

新時代修養会写真

下記の記事は「火の柱」第12号(昭和2年2月)に掲載されていた。

新時代修養会記録

新時代修養会記録のつづき

   「日本農村ミッション」の創設(昭和2年1月19日)

「火の柱」第12号で下の囲み記事がある。吉田源治郎は「農民福音学校教務主任」である。

農民福音学校創設

賀川豊彦も「雲の柱」昭和2年2月号「武庫川のほとりより」に次のように記している。

武庫川のほとりとよひこ

また「雲の柱」昭和2年4月号「武庫川のほとりより」にも次のように記している。

武庫川のほとりその2

  岩本由輝氏の講演「賀川豊彦と杉山元治郎」(「賀川豊彦講座」2009年7月18日・神戸真愛ホーム)
上記講座を受講後、岩本氏より『大正デモクラシーと東北学院―杉山元治郎と鈴木義男』(東北学院、2006年)をお送り頂いた。岩本氏の執筆された「杉山元治郎」にも多くの事を学ぶことが出来た。

さらに昨年(2009年)10月16日には「農民福音学校」創設の場所である西宮「一麦保育園」の梅村貞造氏を岩本氏が訪ねられた折も、直接お話をお聞きする機会もあった。

以下に、同書の「農民福音学校と杉山元治郎」の一部を紹介させて頂く。(ペン書き部分は鳥飼)

岩本の本より1

岩本の本より2

ここに「瓦木村」の賀川家と杉山家の写真が収められているが、昭和3年の第2回に参加した村尾一信(兵庫県日高町)の聴講録なども収められた『農民福音学校』(立農会、昭和52年)に、賀川・杉山両家のスケッチがあるので、ここに収めて置く。上の記念写真は参加者の人数から推測して、多分村尾の参加した第2回のものであるようである。

スケッチ1

   「日本農村伝道団趣旨書」(「火の柱」第13号:昭和2年3月)掲載

農村伝道団の創設

  第1回及び第2回の農民福音学校「卒業者名簿」(前掲『農民福音学校』196頁)

卒業者名簿

  第1回農民福音学校の写真(『賀川豊彦写真集』158頁より)

下の写真が第1回である。なお、同じ頁には「第4回農民福音学校」の写真がある。写真説明が「昭和3年 第2回農民福音学校」と間違っているようである。

第1回福音学校の写真

吉田源治郎の顔は見当たらないが右角に、村尾のスケッチにある「ポチ」?が写っている

最後に、村尾の参加した時(第2回)の「講義科目と講師」メモも『農民福音学校』にあるので上げて置く。

最後の講義の一部

   (2010年8月19日記す。 鳥飼慶陽)(2014年7月27日補正)





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(47)

第4回修養会はじめ
 第4回イエスの友会全国大会夏季修養会(大正15年7月9日~8月2日・東山荘)

   第47回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(7)

前回は賀川の『自伝小説・石の枕を立てて』の中の「四貫島セツルメント」に関連する箇所を取り出して置いたが、今回は前々回「四貫島セツルメント」の大正15年6月までの経過を辿った、その後を追って見たい。

  大正15年7月14日「イエスの友大阪支部大会」 

「火の柱」第8号(大正15年7月)掲載。セツルメントでの夜8時~11時の大会!

大阪支部大会記事


  大正15年7月9日~8月2日「第4回イエスの友会全国大会夏季修養会」

賀川豊彦と吉田源治郎が帰国して直ぐ、御殿場東山荘で開催された第3回大会からまる1年を経過し、同じ場所でこの第4回は開かれた。

大会の記録と「感想集」などは「火の柱」第8号(大正15年8月)にあるが、今回冒頭の写真はこの時のものである。
写真は一部欠けて破れているが、大判(縦20×横25)の立派なもの。共益社の間所兼次のアルバムに残されていた。

なお、間所兼次の貴重なアルバムは既にこの連載で紹介済みであるが、別にもう1冊のアルバムが残されており、ご家族から賀川記念館に寄贈されていた事が過日分かった。近くミュージアムに出掛けてじっくり拝見させて頂く積りである。


  大正15年8月14日~15日「第2回イエスの友会関西夏季修養会」

全国大会を終えて2週間も経ず、「関西夏季修養会」が開かれている。会場は長谷川敞・初音両師氏の牧する芦屋基督教会。「火の柱」第9号にその記録がある。

第2回関西修養会

第2回関西修養会の記事

なお、「第2回イエスの友関西連合会」の写真も残されている。
写真左角に「KYOTO」とあるので京都での開催と思われる。吉田源治郎が前列真ん中に座っている。

第2回関西修養会の写真

第2回イエスの友関西連合会写真

  「四貫島セツルメント」創立1周年「イエスの友会大阪支部」(大正15年10月)

 「火の柱」第10号掲載。

四貫島セツルメント大阪支部記事

  賀川豊彦:家族と共に兵庫県武庫郡瓦木村高木東ノ口に移住(現在西宮市高木東町5)

前回に取り出した『自伝小説:石の枕を立てて』の末尾にあるように、豊彦は東京郊外の松沢村を離れ、家族と共に瓦木村へ移住した。1926(大正15)年10月7日のことである。小説に記しているように、吉本健子と徳本久代も同道している。

賀川は欧米の旅から帰国後すぐの「第3回イエスの友会全国大会」に於いて「百万の霊を神に捧ぐ」決議を行い、「百万人救霊運動」を始めていたが、ここに来て新展開を見せる。

  大阪に於ける巡回大伝道会開催(大正15年11月より1月間)

 「火の柱」第10号(大正15年11月)掲載。
 
 大阪における賀川の巡回講演

  賀川豊彦『キリスト一代記の話』(大正15年11月14日~16日の講演記録)

上記の連続講演の内、3回にわたって講じられた「キリスト一代記の話」は、吉田源治郎の筆記によって「イエスの出生と其の前後」「ガリラヤ時代」「逃避時代」「ペリア時代」「エルサレム時代」の5章立てで、最初「基督教家庭新聞」(日曜世界社)の昭和2年1月号より連載され、同年12月に日曜世界社より刊行された。そしてその後、新たな序文も入れて装いも新たにして「奉仕版Ⅰ冊10SEN」も作られ、版を重ねた著作である。 

キリスト一代記表紙

この著作も『全集』には入っていないので、以下に「人を癒す神の愛」のところだけ、4頁分を取り出して置く。
     
小説本文1

小説本文2

小説本文3

小説本文4

 こうして1926(大正15)年の取り組みを終え、愈々1927(昭和2)年に進んでいく。

    (2010年8月17日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月26日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(46)

小説表紙はじめ

    第46回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(6)

今回は、賀川豊彦の『自伝小説:石の枕を立てて』(実業之日本社、昭和14年)の中に、吉田源治郎と四貫島セツルメントに短く触れたところがあるので、その部分を取り出して置く。

書名に「自伝小説」とあるが、勿論小説作品である。内容的には『死線を越えて』三部作の続きとなるもので、ここに取り出す部分は、いま綴っている事項にいくらか関連するというほどの意味合いであるが、小説作品として全体を読み通して頂きたい。「新見栄一」は『死線を越えて』と同じであるが、「吉田源治郎」は実名そのままである。

早速以下、小説の134頁~139頁までを収める。
そして前後するが、「間所兼次」に触れた100頁~105頁と、小説の最後、賀川が東京郊外松沢村から阪急沿線西宮北口の近くに拠点を移すところを、この後との関連もあるので、参考までに入れて置く。

四貫島:吉田源治郎

小説本文1

小説本文2

小説本文3

        大阪の購買組合「共益社」:間所兼次(まどころ かねじ)

小説本文間所1

小説本文間所2

小説本文間所3

  小説の末尾:賀川豊彦家族と共に松沢村から西宮北口へ移住(大正15年10月)

小説末尾1

小説末尾2

小説末尾3

小説末尾4

今回は、小説の一部分を取り出すだけで終わりである。

     (2010年8月17日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月25日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(45)

セツルメントの写真最初

    第45回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(5)

 「四貫島セツルメントと吉田源治郎」という項を立て今回5回目である。ご覧の通り全くの手探り状態である。

過日(2010年8月12日)吉田摂氏より、近江八幡のヴォーリズによる「四貫島セツルメント」の設計図ほか関連資料のコピーを送付頂いた。

私も2度ばかり賀川ミュージアムに出向き、当時の「イエスの友会会報」や「火の柱」、そして『雲の柱』にも目を通したりしている。有難いことにそれらは「復刻版」が出来、ミュージアムではそれを手にとって閲読でき、コピーも可能である。

「復刻版」は高価なので手元に持てずにいたが、初めて目を通して見て、この連載を続けるからには不可欠の資料であることを知らされた。

これまで神戸の部落問題解決のために月刊雑誌を30年以上編集してきた経験からしても、雑誌の持つ意味を多少なりとも承知していた積りであったが、改めてそのことを痛感した。

取り敢えずここでは、それらの資料を読みながら、あの激動の時代を歩んだ吉田源治郎たちの仕事ぶりを、一歩一歩辿って行きたいと思う。

   CLMJ通信(大正14年12月)

大正14年10月1日に事業を開始した「四貫島セツルメント」(大阪市此花区旭町1丁目)の初めてのクリスマス計画が「イエスの友会会報」(第19号)に掲載されている。

CL通信最初

   CLMJ通信(大正15年1月)

 「火の柱」第1号(大正15年1月)では「大阪イエス団」の誕生を報じている。

CL通信2回目

   吉田源治郎の論文「産業革命以後の伝道戦術」(「火の柱」第1号)

これは、大正15年1月6日付の小論文である。

吉田論文伝道1


   CLMJ通信(大正15年2月)

大正15年1月16日に開催された大阪府社会事業連盟主催による社会事業研究会に於いて、賀川豊彦は「セツルメント運動の理論と実際―人格交流運動として見たるセツルメント・ウォークの研究」と題する注目すべき講演を行っている。勿論ここで開設したばかりの「四貫島セツルメント」にも言及し、『雲の柱』(大正15年6月号)にそれを収めているが、ここでは取り出すことは出来ない。

なお、源治郎も留学から帰国して早々に、「セツルメント構想」を念頭においた数多くの論文を『雲の柱』に寄稿していたことは、第41回に触れて置いた。(大正14年10月号に「初代基督者の友愛と互助―基督教的兄弟愛運動史の序曲」、12月号と翌年(大正15年)1月号に「旧約聖書の社会思想―基督教社会運動の序論としてみたる―」(一)(ニ)、3月号と4月号に「キリスト愛の浸潤―愛の組合運動としてのキリスト運動史の考察」、6月号に「英国労働運動の宗教的背景―基督愛運動史の一節として考察したる」、9月号に「農村伝道者としてのジャン・フレデリク・オバーリンの歩み―隣人愛に燃ゆる村落牧師の一生」と言うように)

 「火の柱」第2号(大正15年2月)の「CLMJ通信」には、次のレポートが掲載されている。

CL通信3回目


   CLMJ通信(大正15年3月)

 「火の柱」第3号(大正15年3月)に「四貫島セツルメント」の2月の報告がある。

CL通信4回目のはじめ

CL通信4回目のつづき


   「羅府イエスの友・Ⅰ弗運動―四貫島セツルメントの為に」(大正15年4月)

 「火の柱」第4号に掲載。

一弗運動


   CLMJ通信(大正15年4月)

 「火の柱」第4号(大正15年4月)にも「四貫島セツルメントの歩みと「大阪イエスの友通信」がある。「宗教部を大阪イエス団教会と呼ぶことにすること」「摂津の光」と題する月刊雑誌を発行することなどが記されている。

CL通信大正15年4月

 
   「岩上の早天祈祷会」

大正15年4月4日:イースター「火の柱」第5号掲載

岩上の祈祷会一弗運動

    CLMJ通信(大正15年6月)「四貫島セツルメントと出版部の創業」

 「火の柱」第6号(大正15年6月)に「四貫島セツルメントと出版部の創業」並びに「静止映画幻灯天路歴程の夕」報告を掲載。

CL通信15年6月

    CLMJ通信(大正15年7月)「セツルメント・ウオーク十ヶ月」

 「火の柱」第7号(大正15年7月)には「セツルメント・ウオーク十ヶ月」と題して「四貫島セツルメント」の10ヶ月間の働きを纏めており、総主事の吉田源治郎は、村島帰之、森田金之助、伊藤悌二、大田又七、堀井順次、椋橋春子等と共に、次々と困難な諸課題に取り組んでいる様が刻まれている。

CL通信15年7月

CL通信15年7月通信つづき

ここまで大阪の四貫島に於ける創設期の記録を読んできたが、関東大震災の救援・復旧・復興の活動に関わってきた「本所基督教産業青年会」の活発な活動の記録も「火の柱」などに詳しく記されている。時間的には一歩先を進む「本所」と少し後発となった「四貫島」とが競い合うようにして奮闘している様子がよくわかる。
 
以上が、大正15年7月までの「四貫島セツルメントと吉田源治郎」たちの素描である。
 
最後に、吉田源治郎が大正11年夏、神戸港より春洋丸に乗船し、アメリカ留学のために旅立つ時の見送りの写真が一枚残されているので、遅ればせながらここに収めて置く。

写真に書き込みがあるが、妻幸、母ゆき、長女敬子(K)等が写っている。

 (2010年8月15日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月24日補正)

見送りの写真

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(44)

ロスアンゼルスの人達
 ロスアンゼルス合同教会早天祈祷会の人達:四貫島サポート決議(1925年)

    第44回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(4)

上の写真は、既述の「日本労働者伝道会社」の設立を決議した関係者たちである。
賀川と吉田たちに宿った天来の志が在米の日本人キリスト者たちに熱い共感と支持を得て、二人は帰国後すぐ、国内のイエスの友会関係者たちと共に、その実現に向けて奔走することになる。

前回は「四貫島セツルメント」創設期の簡略な記録を『四貫島セツルメント創設記念五十年のあゆみ』から取り出して読んでみた。続いてここに、賀川の「身辺雑記」(『賀川豊彦全集』第24巻所収)や当時の「イエスの友会会報」などに書き残されているものを探してみる。

     イエスの友会大阪支部の誕生

吉田源治郎の帰国を待っていたかのように、1925(大正14)年7月には、大阪在住のイエスの友会の会員たちが「大阪支部」並びに「関西連合会」の組織化と、同年8月15日の「関西イエスの友夏期修養会」の開催を企画・実施している記事がある。
「イエスの友会会報」第15号(大正14年8月23日)で、「7月9日打ち合わせ会を西宮市の村島方で」開催したことなど記されている。

大阪支部うまる記事


    「イエスの友関西夏期修養会」(大正14年8月15日~16日・六甲山)

この「夏期修養会」の記録は、「イエスの友会会報」第16号(大正14年9月20日)にある。
これを読むと吉田源治郎、伊藤悌二、西坂保治、芝八重、武内勝、酒井清七、村島帰之等の話と共に、マタイ福音書25:31~46を取り上げて話した賀川豊彦の「最後の悲劇―非宗教的宗教運動の意義」(これは、大正15年4月に大日本雄弁会より刊行された『賀川豊彦氏大講演集』の巻末を飾った)がなされている。

記録は無署名であるが、紙面に黒川泰一の詩「翌日の太陽」もある。

イエスの友夏期1

イエスの友夏期2

六甲山記念写真
     六甲山での関西夏期修養会の記念写真
 
賀川は右端、吉田は前列左二人目、その右は芝八重、2列目右で旗を持つのは間所、最上列左は村島、上から2列目中央ネクタイは武内。


    賀川豊彦による「身辺雑記」1925(大正14)年9月より 

(前略)吉田源治郎氏が帰って来られて、また私を助けて下さることになりました。同氏は大阪四貫島セツルメントの主幹としてお働き下さるのであります。四貫島は有名な労働者の街であります。そこで日本労働者伝道会社のセッツルメントが開かれることは実に有意義なことであります。
それに就いて、東京本所産業青年会と大阪四貫島セッツルメントを合併して日本労働者伝道会社の仕事としてやるような相談が進行して居ります。どうか皆様も祈りの端にお加え下さい。(中略)
イエスの友の修養会は、御殿場でも、関西の六甲でも実に有益でした。私も、みんなに恵まれました。」(大正14年10月号「村の小屋より」:『全集』45頁)

     イエスの友会大阪支部:「商業使用人組合設立」に就いて

 「四貫島セツルメント」の創立の前に、賀川豊彦・吉田源治郎・村島帰之らが発起人となって「商業使用人組合」の設立を目指す訴えを「イエスの友会大阪支部」が支持している文書が「イエスの友会会報」第16号(大正14年月29日)にある。

イエスの友大阪支部記事


     賀川豊彦の「身辺雑記」(大正14年10月)より

(前略)病気の間、少し本を読んだ。そして旅行中にもまた、本を読んでいます。近頃夜寝る時に梅干しの肉を眼瞼の上にはりつけて繃帯をしてねるやうになって、私の右眼の視力が強くなった。それで辛うじて少しづつ読書ができるようになった。
私は今「愛」を中心にして、キリスト教史を見直している。そして吉田兄も私と一緒にその努力をしていられる。「愛」から見ると驚くべきことが、イエスの教えの歴史の中にある。いずれそれを発表したい。(中略)
大阪四貫島のセツルメントは、気持ちのよいものが出来た。畳数は2階が四畳半、四畳半、六畳、下が四畳、三畳、六畳、それに表に一寸広い庭がある。たったこれだけですが、神戸のイエス団の事務所より広くて、景気が良くて、清潔なのが何より結構です。これで労働者伝道が充分出来ることと思う。
吉田源治郎兄弟がヨーロッパから帰って来た新知識で経営して下さることと古いイエスの友の馬渕康孝兄弟の夫妻がそこで事務万端を取って下さることが何だか仕合せのように思われてならない。既に日曜学校も百名以上集まり、午前6時半の礼拝に16名集まられるということである。みな希望に満ち満ちていられる。村島兄弟が一生懸命に助けて下さっているのも嬉しい。来年の今頃は私も神戸大阪に帰ってくることと思っているが何だか大阪の煙と戦争がしたい気がして仕方がない。セツルメントはキリストのXとPを組み合わせて記章にし同時に大阪市の印であるみをつくしを表示させている。なんでも四貫島あたりに昔に「みをつくし」が立っていたとかで、吉田兄の考案になったのである。
イエスの友の有志が或いは労働者に珠算を教え、或いは裁縫を教えて下さるそうで誠に嬉しく思うています。
私は今日の昼、大阪天保山から船出して紀州田辺に向ひます。(10・27)
(大正14年11月号「四貫島より」:『全集』46頁~47頁)


      CLMJ通信(「イエスの友会会報」大正14年9月29日)

CLM通信

    賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年3月)より

大阪の四貫島セツルメントは、兄弟吉田源治郎氏の努力に依って、益々盛んになります。今度永い信仰生活を続けて居られる太田又七兄が、ロス・アンゼルスで逝くなられた令息の記念の為に、立派な活版場を一つ、四貫島セツルメントの為に寄付して下さいました。これによって、永年希望していたトラクト伝道が容易に出来るようになりました。太田氏は親切のも植字工まで付けて、寄付して下さいました。そのためにこの後我々の運動が非常な進展を見ることを思います。(大正15年「アンペラ小屋より」:『全集』55頁)(太田氏に関しては、71頁にも賀川は重ねて感謝の意を記している)

難局印刷機寄贈賀川の文章絵と共に

ここに収められている賀川の絵を取り出して置きます。

img015.jpg


       賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年5月)より

私は、入院してから44日目の、5月17日に眼科病院から退院して来ました。(中略)退院してから直ぐに、大阪の吉田源治郎兄弟が、見舞い方々私の原稿の仕事を纏める為に来て下さいました。同兄弟の暖かい、友情と快活な笑いに、私は大いに慰められました。それのみならず、同兄弟は私が昨年の秋、堺と大阪四貫島の労働者達に話した、講演を全部纏めて、一冊の単行本にして下さいました。近々警醒社から、「イエスの福音」という題で、出版をする手筈になっております。警醒社も今度は大いに、勉強してくれて、全日本に、伝道の目的を持って、170頁の本をわずか25銭くらいで配布しようと意気込んで居ります。これは利益を離れて、殿堂の目的を持って、最初から1万冊だけ刷って見る心積もりで居ります。(以下略)」(大正15年6月号「アンペラ小屋にて」:『全集』58頁)(「イエスの福音」は「神による解放」と改題したことが61頁に記されている)


  『神による解放』(警醒社書店、大正15年、58頁~59頁)

賀川の文章信仰とは神から支えられること


     賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年6月)より

(前略)四貫島セツルメントに出版部が出来て、既に印刷工場の設備が出来た事は前号で申し上げておきました。其処から新約パンフレットを出版いたしました。日曜学校大人用の教科書にまことに適当したパンフレットだと思いますからこれも用いて見てください。また看護婦ミッションの礼賛パンフレットの第1号が初めて出来ました。「看護婦崇拝論」というのが第1号ですが、これは私の書いたものです。続々これから、出していく積りです。全国に散っている兄弟達が、看護婦同盟をイエス・キリストの名に由って創って下さるなら、非常に幸です。
近ごろで最も面白い報告は、国産主義で売り出した、私の着ている小倉服が、賀川服で通るようになりましたが、大阪の消費組合共益社は、1ヶ月に6千着近く売り出しています。これは奇跡的です。全く神の恵みだと感謝しているのです。これによって初めて、大阪の消費組合共益社が解散から免れました。今の勢いで進むなら本年のすえには、随分広く行くと思って居ります。(大正15年7月号「松沢村の小屋より」:『全集』61頁)

賀川服広告

       賀川豊彦の「身辺雑記」(大正15年10月)より

(前略)「神による解放」は非常に反響があるので喜んでいます。発行してから2ヶ月の中に8千を売りつくし、新しく5千部を刷ろうとしています。この書物ほど、直接に伝道的の意味において多くの手紙を貰った事はありませぬ。ただ今新しく計画していることは、新約パンフレットとして、17分冊に出しているものを、1冊にまとめてこれを35銭くらいの安い値段で一般社会に提供したいことであります。(以下略)(大正15年10月号「六号雑記」:『全集』68頁)

               *  *       *
 
以上、吉田源治郎が総主事として責任を担った「四貫島セツルメント」の創設の時の関係資料を、可能な限り探して見た。
資料の中にたびたび登場する「間所兼次」については、この連載の第11回から第17回まで、大阪に於ける購買組合共益社の働きを纏めて取り上げているが、「四貫島セツルメント」の活動の背景として、再読頂ければ有り難い。

間所兼次は、共益社の創立の時(大正8年)から専らこの組合のために働き続け、昭和20年11月28日、45歳でその生涯を終えた。

               *       *        *

すでに、源治郎と賀川が帰国して直ぐ「東山荘」で開催された「第3回イエスの友全国大会夏季修養会」について、連載第41回で集会プログラムと大会記録、そして小さな写真を収めたが、大きな記念写真があるので、ここに収めて置く。もちろんここには、賀川、吉田、村島などの顔を確認出来る。 

第3回収容写真


なお、第31回「源治郎留学中の吉田幸」で、長女敬子と長男義亜と共に故郷伊勢で生活した事を短く取り上げ、長男義亜は父の帰国を待たずに夭逝したことにも触れた。紹介が前後してしまったが、今回の最後に2枚の写真を収めて置く。

1枚は、源治郎が米国留学に旅立つ前、1922(大正11)年4月に撮影されたもので、真ん中に長女敬子を抱き、右に幸の母・間所志免(しめ)、左に源治郎の母・ゆき、がいる。

もう1枚は、源治郎は留学中の1923(大正12)年1月に撮影されたもので、真ん中に間所兼次、右に吉田ゆきと長女敬子、左に幸と長男義亜、がいる。(次男恵と三男摂(たすく)はまだこの時誕生していない)

    (2010年8月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月23日補正)

最後に間所家族写真二枚

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(43)

四貫島セツルメント前の写真
 四貫島セツルメント 大正14年10月 四貫島旭町1丁目2

    第43回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(3)

    日本労働者伝道会社(補遺)

1925(大正14)年1月の日本労働者伝道会社の設立について前回取り上げたが、ロスアンゼルスにあってこの設立に関わった吉岡周蔵の「羅府に於ける賀川氏―日本労働者伝道会社の設立」と題する談話が「イエスの友会報」第13号(大正14年6月)に収められていたので、最初にここにあげておく。

会社設立を報じる記事

設立を報じる記事のつづき

   『四貫島セツルメント創設五十年記念
    四貫島友隣館・大阪四貫島教会・天使保育センター 五十年のあゆみ』


五十年のあゆみ

1925(大正14)年10月1日に創立された「四貫島セツルメント」は、1934(昭和9)年9月の室戸台風の直撃や1945(昭和20)年の戦争による焼失など厳しい経験を積み重ねてきたこともあって、四貫島セツルメントのあゆみは、1975(昭和50)年10月になってはじめて『五十年のあゆみ』が編纂されている。

そしてそれから30年後に「四貫島セツルメント 創立80周年」の記念誌『輝け、命』が、2005年9月に纏められた。
今回冒頭の創立時の写真はここから取り出したものである。

輝け命

資料の少ない中、『五十年のあゆみ』の第1部戦前期として、ごく短く記されている「四貫島セツルメントの創設期」のところの5頁分を、まず読んで置きたい。

  (2010年8月11日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月22日補正)

四貫島文章1

四貫島文章2

四貫島文章3

四貫島文章4

四貫島文章5














KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(42)

賀川講演写真
1925年1月、ロスアンゼルス第一組合教会に於ける豊彦の講演

    第42回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(2)

前回、源治郎が米国留学を終え、1925(大正14)年7月初旬に帰国し、家族の待つ夫妻の故郷・伊勢に戻り、そこで新しい次の住まいを探したのであろうことを記した。

そこで改めて、既に取り上げたことのある『伊勢の伝道・山田教会の歴史Ⅰ』を開いてみると、日本基督山田教会の「教会独立祝賀会並ビニ吉田源治郎氏帰朝歓迎会、来ル7月12日日曜日夕集会後ニ開催スルコト」とあるので、吉田一家はその後、甲子園球場近くの今津駅(現在の久寿川駅)近くの水波に住まいを借りて、新たな生活のスタートをしたのである。

ところで、源治郎が京都伏見の教会に赴任し、幸との結婚の頃から、豊彦との直接的な出会いが始まり、「イエスの友会」の結成の時には、源治郎も参画してその「名付け親」となった事などは既述の通りであるが、米国留学を終えた源治郎が、賀川の目指す新しい社会事業の分野に打ち込むことになる経緯について、賀川が記した短い文章があるので、先ずここに上げておく。

これは「火の柱」第121号(昭和14年9月10日)のもので、大分後に書かれたものであるがイエスの友会が「最初の奈良の出発といふのは、私と吉田源治郎が盛んに主張したので、みなが動いて下すったのだと記憶している。吉田氏は其頃伏見教会の牧師をしてゐられたが、後に私は米国に留学して頂いた。ヘブライ語に堪能だったのでアッシリア語の研究でもされるかと思ってゐたが、米国に行かれてからは、私に賛成して社会事業の方へ転向して下さった。」と書かれている。

ところで、関東大震災の救援活動を契機に開始された「本所基督教産業青年会」の働きの草創期の一端は「賀川豊彦関係史料叢書③『火の柱』別冊」に収められている「イエスの友会会報(第1号~19号:大正13年6月~14年12月)にもいきいきと記されているが、その第10号(大正14年3月10日)の「米国通信」には、賀川の働きに関わって次の二つの項目が紹介されている。

この「日本労働者伝道会社」という構想は「賀川氏の提案」となっており、既にこの時それの「ミメオグラフ刷」も出来ているという。

ところでここに提案された構想は、いつ宿り、具体的な「提案」にまで準備したは、賀川ひとりなのか、まだはっきり分からないが、『雲の柱』の大正14年5月号には、「日本労働者伝道会社の設立」と題して、「1925年1月」という日付の入った「設立趣意書」と「規約」を入れて、紹介している。

今回それを取り出して置くが、「支社」の「ロスアンゼルス」で先ずこれを採択し、「本社」の「東京」は後でという段取りのようであるが、正式スタートする前に「財団基金として1万5千円の拠金があった」というのである。

この種の「趣意書」づくりは、豊彦のお得意のものであるが、この「趣意書」と「規約」を一読する限り、賀川プラス「支社」関係者、ひょっとして源治郎も加わって、これを準備したのではないかと考えられる。

同誌「編輯だより」の「吉田源治郎の書簡」も併せて紹介しておくが、源治郎はこの時、賀川と行動を共にしていたように見受けられる。

今回の冒頭の写真は、1925年1月のロスアンゼルス第一組合教会に於ける講演風景で『賀川豊彦写真集』にあるものであるが、1月16日には、ロスアンゼルスにイエスの友会が発足し、一気にその機運が高まって行ったようである。

こうして、賀川と吉田はその構想を胸に、欧州への旅を続けたのであろう。

   (2010年月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月21日補正)

火の柱賀川寄稿

編集だより

日本労働者伝道記事

労働者伝道趣意書

労働者伝道趣意書つづき


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(41)

イエスの友

    第41回  四貫島セツルメントと吉田源治郎(1)

     帰国後の新しい住まい

源治郎の留学中、幸と子どもたちは故郷伊勢で過ごしたこと、そして幸はそこでミス・ライカーの依頼に応えて、常磐幼稚園の教諭として働いていたことなどについては、第31回で触れたが、源治郎の帰国に合わせ、幸はこの幼稚園を大正14年7月で辞し、どういう経緯からかわからないが、帰国後の新しい働きに備える場所として相応しいと思われた場所として、甲子園球場近くの今津駅(現在の久寿川駅)からそう遠くないところを選び吉田一家の新しい住まいとした。

既述の通り、源治郎は米国留学のあと賀川の欧州の旅にも同伴したが、経費の関係もあって、ひと足早く帰国することになったのであるが、『雲の柱』の大正14年8月号の「編輯室にて」をみると、「永らく米国オーボルン神学校に留学中の吉田源治郎志氏も本月初旬帰朝された。本誌の発展に就いても特別の尽力を下さる筈」とあるので、源治郎の帰国は1925(大正14)年7月初旬であったことが判る。

恐らく源治郎は帰国後すぐ、伊勢で留守を守っていた家族の元に戻り、そこで新たな生活の場所を探し当てて、上記の家を借りたのであろう。

因みに、賀川の方も7月22日に帰国している。

     第3回イエスの友会全国大会夏季修養会(7月30日~8月3日・御殿場東山荘)            
冒頭に掲げた「修養会」の案内は、大正14年7月14日発行の「イエスの友会報」第14号のものであるが、賀川の帰国に合わせて、ほぼ1週間後に開催されている。

賀川は「欧米の社会と基督教」と題する開会講演の後、「イエスの福音と社会改造運動」(全4講義)を行い、吉田源治郎も「欧米基督教徒の社会事業」について講じている。

「記録」によれば、このとき「会」の「主張」が25項目上げられ、論議されている。そして「感想」も収められていた。

大会記録

この修養会を終えてすぐ、「1925年8月8日 東京本所キリスト教産業青年会バラックの一隅にて」という「訳者のことば」を書き上げ、シュヴァイツァーの著作『宗教科学より見たる基督教』の翻訳書を警醒社書店より出版したことは、「シュヴァイツァーと吉田源治郎」の項で触れた通りである。

      『雲の柱』への寄稿論文

さて帰国後すぐ源治郎は、賀川と共に四貫島セツルメントの開設に向けた準備に奔走することになるが、今回はその前に、先の『雲の柱』で同年10月号の「編輯室より」に次の記述が目にとまったので、源治郎の『雲の柱』への寄稿論文に少し触れて置きたいと思う。

源治郎は、米国留学前に創刊された『雲の柱』の創刊当初から編集・執筆に携わった経緯などについても既に簡単に触れたかと思うが、この月刊誌を一層充実したものにする意欲は、並々ならぬものがあったように見受けられる。

その「編輯室より」には、こう書かれている。

 「サイドカーの顛覆から、一時臥床の人となられた賀川主筆も、本誌の校了時分には、もう平気で再びサイドカーに乗って、編輯室を訪ねられた。「来月からは、雑誌に一層力を入れて、華々しく活動しませう」と、稟ゝしい勇気をコールテン服に包んで力強く語られる。帰朝来多忙で、本誌に充分の意を注ぐことの出来なかった主筆は、来月より、村島、吉田、鑓田の諸兄を両翼に回天の意気を以て本誌の刷新に尽力をされる筈。」と。

3人の編輯陣も頼もしいが、帰国した源治郎への期待も大きく、実際に源治郎は、それに応えて、10月号に「初代基督者の友愛と互助―基督教的兄弟愛運動史の序曲」、12月号と翌年1月号に「旧約聖書の社会思想―基督教社会運動の序論としてみたる―」(一)(ニ)、3月号と4月号に「キリスト愛の浸潤―愛の組合運動としてのキリスト運動史の考察」、6月号に「英国労働運動の宗教的背景―基督愛運動史の一節として考察したる」、9月号に「農村伝道者としてのジャン・フレデリク・オバーリンの歩み―隣人愛に燃ゆる村落牧師の一生」と、次々と注目すべき論文を発表していくのである。

先日(7月28日)、神戸の「賀川ミュージアム」を訪ね、源治郎の執筆した上記の論文などを、少々コピーさせていただいた。

『雲の柱』は表紙に「賀川豊彦個人雑誌」とあるように、賀川の論文が大半を占める中、源治郎の諸論文は、賀川とは一味違う趣きを感じさせるものがある。

賀川にはいつも荒削りな独創性が漲っているが、源治郎の場合は、当時の欧米の諸成果を日本に翻訳・紹介するところに主眼が置かれているとはいえ、源治郎らしい学術的な内容の論文である。

ここでは吉田論文を全て取り出して置くことは出来ないので、帰国後最初に発表した論文「初代基督者の友愛と互助」だけをあげて置きたい。不手際で最後が欠如しているがご容赦を。

   (2010年8月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月20日補記)

吉田論文1

吉田論文2

吉田論文3

吉田論文4

吉田論文5

吉田論文6

吉田論文7

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(40)

 えはがき橋と船

    第40回 賀川豊彦の欧米の旅と吉田源治郎

     米国留学中の吉田源治郎

源治郎が米国留学中、シュヴァイツァーの英訳書『原生林の片隅にて』に出会い、強い感銘を受けた後、同じくシュヴァイツァーの小さな大著と呼ばれた『キリスト教と世界の宗教』の版権を取得し、『宗教科学より見たる基督教』と改題して邦訳出版、さらに『文化哲学』の翻訳の権利を得て、その一部を翻訳し『雲の柱』に発表していたことなどを、ここまで辿って見た。

 「吉田源治郎」のことを殆ど知ることのなかった私には、先に取り上げた『肉眼に見える星の研究』の存在にも驚かされたが、シュヴァイツァー関連の源治郎の仕事に関しても大変目を見張らせるものがあった。サイトを覗かれた方も、同様だったようである。

ところで、留学中の源治郎は、伊勢の実家からの経済的支援を受けつつ、自らアルバイトをしたり、いくらかの奨学金を受けたりして、オーボルン神学校での学びを続けたようである。しかし、源治郎の学位論文の内容はどういうものであったのか、そこで特に何を学んだのかということなどについては、いまのところ分かっていない。

しかしこの連載の第1回で紹介した岡本栄一氏の「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」によれば、1924(大正13)年5月には神学修士の学位を取得して卒業し、同年7月からはユニオン神学校及びチャールズカレッジにて聖書学、宗教教育、社会事業を学び、コロンビア大学でも聴講をしていたことが記されている。

一方、賀川豊彦は、周知のとおり1923(大正12)年9月1日のあの「関東大震災」という未曾有の災害時には、急遽神戸で救援物資などを集め、9月4日未明には横浜港に着き、東京の被災の現況を見届けた。

そして再び6日午後であったか、横浜港を船に乗り神戸に戻り、連日連夜救援を訴えて中国や九州にまで足を伸ばして講演活動を行い、10月7日には再び東京へ。

さらに14日にはまた神戸に戻り、16日には木立義道などイエス団関係者4人と共に船で上京、間島医師も救援活動に乗り出し、ハルも長男純基を連れて神戸を離れ、豊彦の活動する東京に出向くのである。

翌年(1924年)3月には、賀川の眼病や腎臓病のこともあり、東京郊外の松沢村に狭い借家を得て、賀川一家の東京での活動が始まった。(そのあたりの概要については、横山春一の『賀川豊彦伝』(警醒社、昭和34年)第7章の「関東大震災救援」で、日を追って記されている。)

    賀川豊彦と吉田源治郎の米国での再会

したがって、この「関東大震災」の起こった時は、源治郎は渡米中であったので、その救援・復旧活動には、直接加わることはなかったのであるが、賀川豊彦の方が、1924(大正13)年11月から翌年(1925年)7月までの約8ヶ月間、米国ならびに欧州への講演と視察の旅に出かけることになり、その途上で、源治郎と賀川の再会があるのである。

賀川は1924(大正13)年11月26日、横浜より春洋丸で出帆する。豊彦にとっては、初めての米国留学から丁度10年目の渡米であった。

12月4日ハワイに立ち寄り、ホノルルで講演を行い、12月16日サンフランシスコ着。今回の渡米は、全アメリカ大学連盟の招待を受けたものであったが、「排日移民法による日米和解の対話のため」の渡米ともいわれ、Union Theological Seminaryをはじめ各地で講演会や会議に出席した。

人物書誌体系37『賀川豊彦Ⅱ』(米沢和一郎編、日本アソシエーツ、2006年)の「年譜」によれば、「1925(大正14)年1月16日、ロスアンゼルスにイエスの友会できる」とあり、また、昨年このサイトで連載した「賀川豊彦のお宝発見」の第25回目でも、賀川がニューヨークを出発して英国へ向かう前に、神戸の武内勝に宛てて届けた16枚もの写真が入っている折りたたみの絵葉書を紹介したことがある。

今回の冒頭に収めた写真はその中の1枚である。

    米国で吉田源治郎が豊彦と出会った記録資料

賀川が米国での旅の途上で源治郎と出会っていた証拠を示す資料を探してみると、『賀川豊彦全集』第24巻に入っている「身辺雑記」の「雑誌『雲の柱』より」中に、次の記述が残されていた。

大正14年
2月 「・・私は少し無理が過ぎたものでしから、所々で病気をしました。然し旅行は大体において愉快です。ただ今ニューヨークで目が悪くて吉田源治郎君と伊藤平次氏のお二人に非常にお世話になって居ります。伊藤氏は近々日本に帰られます。若しも此上目が悪ければお二人の中一人お願いして欧州へ渡ります。そして独逸あたりで休みたいと思っています。・・」 2月6日附 ニューヨークより木立義道宛(大正14年4月号「編集だより」)(39頁)

「手紙を書かうと思ってゐましたが、2月2日にワシントンで、目を患ってから約2週間、ニューヨークで寝てしまひました。幸いにも吉田兄や伊奈兄がゐらしたので愉快に病床で暮らしてゐますが、通信も怠り皆様に心配をかけました。・・ロスアンゼルスの日本人諸君の献金が、約2万円に達しましたので、いよいよ大阪のセツルメント・ワークの仕事を始めることが出来ます。先ず吉田君がどこかで、小さく始める筈です。先ず伝道教会のやうなものから始めたいと思ひます・・。」2月19日 紐育にて(大正14年6月号「欧米通信」(40~41頁)

3月 
「吉田源治郎氏と4月中旬英国ロンドンで一緒になり欧州は一緒に旅行することになりました。」(3月6日)(41頁)

「米国の旅行は、非常に不愉快でした。私のやうな『愛民族』主義者は、かうもなるのでせうね。私は今、欧州に渡るところです。眼の都合で吉田源治郎兄についていっていただきます。眼が悪くなると心配ですから。・・」3月18日アキタニア号にて(大正14年6月号「欧米通信」)(42頁)

以上を見る限り、賀川の欧州旅行には、当初から源治郎は同伴する予定であったわけではなかったようである。賀川の体調、とりわけ眼病の悪化が心配になり、急遽源治郎の欧州行きは決まったようである。

しかし、ここでの賀川の記述を読めば、既にこの時、吉田源治郎は留学を終えて帰国後、大阪のセツルメント・ワークを始めることは、二人の間で確かめ会われていたようである。

     豊彦と源治郎の欧州の旅

賀川は、こうして源治郎と共に3月14日、ニューヨークを出発して英国へ向い、ロンドンには3月20日に着くのである。

    吉田源治郎「ロンドンに於ける貧民窟破壊運動」

源治郎は、英国ロンドンのレイジアンホールを賀川と訪問した時のことを、「ロンドンに於ける貧民窟破壊運動」と題して、帰国後に「火の柱」第3号(大正15年3月25日)に寄稿している。

吉田ロンドン

吉田ロンドン2

そして二人の旅は続き、4月28日にはランス到着し、5月7日にはパリを出発してベルギー・ブリュッセル到着。5月8日にはオランダ・アムステルダム到着している。

「身辺雑記」の「5月」のところの「欧米通信:欧州雲水」の箇所には、

「ニューヨークよりは眼は善いのです。然し、読書が多く出来ないのと、原稿を書くのに無理が出来ないので、ほんたうに弱ります。今日(5月28日)午後からパリーに参ります。そして大陸を6月19日まで旅行いたします。そして6月19日熱田丸でコロンボに出て、コロンボから真夏の印度を33日間旅行いたします。神戸には8月18日に着く予定にします。・・吉田兄はこちらにお連れしましたが、経費の関係で、先に帰られます。そして私はギリシャと、エルサレムと、印度の巡礼を了りたいと思います。」(43頁~44頁)
 
ということが記され、源治郎は最後まで賀川と旅を続けてはいなかったようである。

因みに前記の『賀川豊彦Ⅱ』の「年譜」によれば、賀川の旅は「ドイツ、スイス、イタリー、イスラエル、エジプト、紅海、セイロン、香港、上海を経て、7月22日、長崎着」であった。

この長旅の中で生まれた賀川豊彦の作品は、帰国後すぐ1925(大正14)年12月、『貧民窟詩集 涙の二等分』(大正8年)を出版した福永書店より第二詩集として箱入り上製で411頁の『永遠の乳房』と、少し遅れて翌年(1926年)4月に多くの写真も収めた紀行文の名品『雲水遍路』がこれも箱入り上製美本として514頁の著作として纏められた。

永遠の乳房
 
    賀川豊彦詩集『永遠の乳房』  

「凡てを、私は、凡てを、神に賭けた。
恰も、博徒が、賭場でするやうに。私は、生命も、財産も、書物も、言論も、自由も、行動も、凡てを、神の賭場にはった。そこに私の詩の全部がある。」

という書き出しの「序」で始まる詩集であるが、「涙の二等分」以後の作品に加えて、この長旅のなかで生まれた作品を百数十頁にわたり収めている。

ここには吉田源治郎に関わる作品があるのではないが、この長旅で歌われた二つの詩―1925・3・18 米国で作られた「東に住むもの歌を持つ」と、旅の終わりに作られた「愛する日本」をここに収める。

詩作品1

愛する日本

この長旅では、ロスアンジェルスに「イエスの友会」が生まれたり、国際連盟で活躍中の新渡戸稲造とジュネーブ郊外で出遭ったり、初めての聖地巡礼を経験するなどしている。

    賀川豊彦『雲水遍路』

雲水表紙

 「雲水の心は無執着の心である。
風に雨に、私は自ら楽しむことを知っている。
世界の心は、私の心である。雲は私であり、私は雲である。雲水の遍歴は、一生の旅路である。」

という書き出しの「序」で始まる本書には、賀川が源治郎に言及した箇所がいくつかある。

これまでは「1925(大正14)年5月、源治郎はアメリカ留学の帰途、イギリス、ドイツ、フランス、スイス、パレスチナなど、各国の宗教事情や社会事業を視察。その視察の途中(5月ごろ?)ドイツにて、偶然に賀川と同じホテルに同宿。「イエスの友会」「四貫島セツルメント」のことなど語り合ったとされる」が、上記のいくつかの記述や以下の『雲水遍路』の賀川の紀行文を読む限り、「ドイツにて、偶然に賀川と同じホテルに同宿」そこで「四貫島セツルメント」のことなど語り合った」のではなく、源治郎は賀川の米国滞在中から同伴し、既述の通りふたりは米国滞在中に「四貫島セツルメント」の構想を宿していたことが分かる。

以下に3箇所、源治郎に触れているところを取り出して置く。

     (2010年8月5日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月9日補正)


   『雲水遍路』272頁~273頁

雲水本文1

    『雲水遍路』288頁~290頁

雲水本文2

  『雲水遍路』400頁~401頁

雲水本文3

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(39)

一粒の麦

    第39回 山室軍平と吉田源治郎

先日(2010年7月24日)吉田摂氏より、吉田源治郎の小文「茶臼山の一夜の思い出など」のコピーをお預かりした。
これは昭和40年に山室軍平記念会の発行・発売元となった山室武甫編『民衆の友:山室軍平回想集』に寄稿したものである。幸いなことに昨日、古書店より原本を入手出来た。

上のものはこの古書・上製本の表紙裏、見開きに収められたもので、日本画家の長谷川麦穂氏と坂野英二氏の筆書である。

編者の山室武甫氏のことは、本連載の第20回で取り上げたが、そこでは、同志社予科時代、源治郎との交流もあった大正10年の年末年始、賀川豊彦の元で過ごした日々を「新川貧民窟の二十日」という題で書き残していたものを、「山室軍平と賀川豊彦」のことにもふれておいた。

吉田源治郎がこの『回想集』に寄稿した小文には、ちょうど今取り上げている源治郎の渡米留学の時のことにも少し触れている箇所があるので、今回ここに取り出して置きたいと思う。

この連載ではまだ源治郎の米国留学の時まで辿っているだけで、92年の全生涯のまだ三分の一である。
源治郎は、その生涯を通して、ご自分のことは書き残したり、話したりされなかったらしいのであるが、70歳を越えた昭和40年ごろに記した源治郎のこの「山室軍平への回想」では、明治学院神学部で学んでいた時の回想や1934(昭和9)年の石井十次生誕記念集会の回想も短く含まれており、貴重な記録である。

山室軍平は1940(昭和15)年に生涯を終えているので、本書は没後四半世紀を経て、1965(昭和40)年に刊行された回想集である。

したがってここには、中森幾之進、有賀鉄太郎、高橋虔、浦谷道三、田中芳三といった、私たちのよく知る諸先輩方の文章もあって、興味深い。
120人以上の人々による「回想集」であるが、中には、1955(昭和30)年に書かれた賀川豊彦の「山室先生を偲んで」も、ここには収められている。
そして私の予期しなかったことであるが、本書には武内勝の「先生に学ぶ」という手記も含まれているのである。

ともあれ、今回はこの『民衆の友:山室軍平回想集』の中から、吉田源治郎の「茶臼原の一夜の思い出など」を最初に、そして続いて、武内勝の「先生に学ぶ」、最後に賀川豊彦の「山室先生を偲んで」を読んで置きたいと思う。

   (2010年7月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月18日補正)

 付記
 連載第20回で、山室武甫の「武甫」は、救世軍の大将・ウイリアム・ブースのブとジョージ・フォックスのフォをとって「武甫」と名づけたとされ、その名付け親は賀川であるという説のあることを紹介した。しかしそれは、賀川と武甫の年齢差から見て、賀川が名付け親になるのは余りに若すぎ、その説は疑わしいのではと指摘いただいた。全くご指摘の通りである。

           吉田源治郎「茶臼原の一夜の思い出ほか」

吉田思い出1

吉田思い出2

吉田思い出3

吉田思い出4

           武内勝「先生に学ぶ」

武内1

武内2
      

         賀川豊彦「山室先生を偲んで」

賀川1

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(38)

雲の柱表紙

    第38回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(7)

前回でこの項は打ち止めの積りであった。

ところが本日、源治郎の米国留学中、賀川の欧米での講演旅行に同道するあたりのことを知るために、昨年からお預かりしている「武内勝資料」の『雲の柱』のバックナンバーを眺めていたところ、上にスキャンした「第8巻第2号」(昭和4年2月号)があり、そこに4頁余りの「シュワイチェルの文明哲学」と題する吉田源治郎の論稿が目に留まったのである。

「シュヴァイツァーと吉田源治郎」に関して既に詳しくご存知の方は、何故ここでこの項を止めるのかと訝っておられたかも知れない。

この連載の早い段階ですでに、源治郎が『雲の柱』に寄稿したリストをアップしていたのに、迂闊にもその確認を怠っていたのであるが、源治郎のこの論稿はこの後、3月号・4月号・6月号、そして9月号まで5回にわたって連載されている。

何故かそこまでで途中中断となっているが、前に紹介した「シュヴァイツァーの源治郎宛書簡」に記されていたように、彼の「文明哲学」という著作に対して、米国留学中の当時、吉田源治郎自身が強い関心を持ち、シュヴァイツァーからはこの著作の翻訳の権利も源治郎に与えることまで認めていたものであった。

不勉強で未読であるが、本書は後に、第一部は石原兵永訳(新教出版社)並びに山室静訳(みすず書房)で、第二部は横山喜之訳(新教出版社)で翻訳出版されているようである。

また数年前には、シュヴァイツァーの最初期の作品『カントの宗教哲学』は、斉藤義一・上田閑照訳で、白水社より上下新装版として刊行され、読まれているようである。

なお、吉田源治郎の手になるもので、『雲の柱』の第12巻第8号(昭和8年8月号)には、「アルベルト・シュワイツェル素描」と題する論稿も掲載されていることも確認できる。

従って今回ここには、連載分の第1回と最後の「素描」を取り出して置く。

既にこれまでの私の連載をお読みなってお分かりと思われるが、ここまでの私の作業は、『雲の柱』『火の柱』『神の国新聞』『世界国家』といった重要な復刻版をはじめ、『賀川豊彦初期史料集』や昨年刊行された『賀川ハル史料集』など、基礎的な史資料があるにもかかわらず、未だそれらを手元に持たず、ところどころ目に留めてきたものを取り出しているだけで、十分活かせないまま進めていることを、ここで付記して置かねばならない。

とにかくこの連載は、ご覧のとおりの気ままな独り言であるので、万一この連載をお目通し頂いている場合は、そのようなものとしてお受け取りいただき、間違いの補正そのほか、率直なご批評をいただければ有難い。

この項に関しても、触れておくべきことがまだあるとは思われるが、これで区切りをつけ、次回は「源治郎の米国留学の時」に立ち戻ることにする。

早速、源治郎のふたつの論稿を、以下にご覧頂く。

    (2010年7月26日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月17日補正)

    
       吉田源治郎「シュワイチェルの文明哲学」

文明哲学1

文明哲学2

文明哲学3

文明哲学4

      吉田源治郎「アルベルト・シュワイツェル素描」

素描1

素描2

素描3

素描4

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(37)

表紙

    第37回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(6)

漸くにして、源治郎によるシュヴァイツァーの本邦最初の翻訳書といわれる『宗教科学より見たる基督教』を紹介する順番になった。

大正14年9月8日発行の警醒社書店版であるが、同じ出版元のあの『肉眼に見える星の研究』の箱入り上製美本と違い、上の写真のような簡易なつくりで、本文は95頁で、先に3回に分けて紹介した源治郎が米国留学先で執筆した「『原生林の片隅にて』を読む」を付録として収め全体で137頁の小品である。

先ず、冒頭に収められている「訳者のことば」を取り出して置く。

      吉田源治郎の「訳者のことば」
   
訳者1

訳者2

訳者3

訳者4

本書は、Albert Schweitzer:Das Christentum und die Weltreligionen の英訳 Christianity and the Religions of the World を、著者の了解を得て『宗教科学より見たる基督教』と書名を変更して出版された。

ドイツ語本文も50頁のものだそうであるが、本書の書き出しを読むだけでも、源治郎がこの本に出会って多大の学術的な刺激を受けつつ読み進んだことが予想のつく内容のものである。

折角であるから、ここには、シュヴァイツァーの本文書き出し部分だけを取り出しておく。

本文1

本文2

本書は、著者からの翻訳許可を得て、大正13年11月の『雲の柱』より分割して訳稿が発表され、前記「訳者のことば」の末尾にあるように「1925年8月8日 東京本所キリスト教産業青年会バラックの一隅にて」これを書き上げて刊行に漕ぎ着けたものである。

出版後、本書はどのような読まれ方をしたのかは判らないが、『肉眼に見える星の研究』のように版を重ねることはなかったように思われる。

本書は戦後になって、1956(昭和31)年、岩波文庫の一冊に、鈴木俊郎訳『キリスト教と世界宗教』として収められ、今日まで途切れずに版を重ね、読み継がれている。

この項「シュヴァイツァーと吉田源治郎」を追った関係で、源治郎は米国並びに欧州の旅を終え、1925(大正14)年7月初旬に帰国し、賀川と共に御殿場東山荘での「イエスの友夏季修養会」に出席して「天文学指導」の講師を務め、「8月8日」というのはその後のことなのであろうか。

補記
『雲の柱』1925年9月号に下記のものが掲載され、10月号には警醒社書店の広告も入っていたので、ここに収める。

吉田の宣伝文

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     (2010年7月24日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月16日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(36)

シュバイツァーの顔

     第36回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(5)

今回は前回予告のとおり、吉田源治郎に宛て送られたシュヴァイツァーの書簡を紹介する。

その前に私的な関わりのことで恐縮であるが、シュヴァイツァーのことで身近に接した二人の先達のことを、短く添えさせて頂きたい。

一人は、「神戸シュヴァイツァーの会」代表の向井正氏、もう一人は「シュヴァイツァー寺住職」の古川泰龍師である。

向井氏は兵庫県庁の近くにお住まいで、1968(昭和43)年春、神戸の下町で「労働牧師」の新しい生活を始めた私たちをご自宅に招いて頂いたこともあったお方で、その折に戴いたのが、上のシュヴァイツァーの写真である。暫くして向井正氏は、自宅近くの横断歩道で交通事故にあわれ、急逝された。

そしてほぼ同じ頃、1961(昭和36)年より死刑囚の再審運動で全国行脚を続けていた熊本県玉名市の立願寺住職・古川泰龍師が、わざわざ狭い我が家を訪ねて来られた。

1969(昭和44)年、古川師は、向井氏からシュヴァイツァーの遺髪を授かり「玉名シュヴァイツァーの会」をつくり、1973(昭和48)年には「生命山シュヴァイツァー寺」を開山。

1985(昭和60)年、イタリア人のフランコ・ソットコルノラ神父との出会いもあって「シュヴァイツァー寺カトリック別院」ができ、「東西宗教交流センター」なども始まった。

折々、古川師からはお便りを頂いたり、1996(平成8)年6月には、玉名のシュヴァイツァー寺をお訪ねし、ご家族ともお会いしたこともあった。

上の写真は、お訪ねした時の「シュヴァイツァー寺」の玄関である。

古川シュバイツァー寺

1994(平成6)年にはイタリアで書展を開かれたりもしたほどの書家として知られているようで、下の書も古川泰龍師の書で、部屋の中に飾られたものを写させて貰ったものである。

マザーテレサ

そしてマザー・テレサとの交流もあったとかで、その時頂いたものである。著された著書も多く『叫びたし寒満月の割れるほど-冤罪死刑囚と歩む半生』(法蔵館、平成3年)などはよく知られている。


古川泰龍師は、2000(平成12)年8月25日、80歳の生涯を終えられた。「シュヴァイツァーと吉田源治郎」に誘われて、改めて師のことを偲ばせて頂いた。古川師のことについては、これまで折々、ブログで触れてきているので、ここではここまでで止めて置く。


      シュヴァイツァーの吉田源治郎宛書簡(一部)

この書簡によれば、源治郎は1925年3月、シュヴァイツァーに宛て、賀川の書簡も同封して届けたようである。賀川はこの時、彼を日本に招いて講演を依頼したようで、この書簡はそれの応答でもある。(実際はこの話は実現しなかったのではないかと思われる。)

またここには、彼の著作『文明の哲学』2巻の翻訳と出版の権利を吉田に与えてもよいといったことや、アフリカにおける彼らの働きの現況について、立ち入った様子を伝える内容となっている。(実際はこの著作の翻訳も吉田の手によっては実現しなかった。)

ともあれ、次回に紹介する翻訳書のために、幾度か二人の間に書簡のやり取りがあった中の、これはそのひとつであったようである。

シュバイツァー文章1

シュバイツァー文章2

シュバイツァー文章3

この項も長くなってしまったが、次回に源治郎の訳書『宗教科学より見たるキリスト教』に触れて次へと進みたい。

   (2010年7月22日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月15日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(35)

シュバイツァーと猫

     第35回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(4)

上の写真は、前回冒頭に表紙写真を収めた高橋功著『シュワイツェルと動物』(法政大学出版局、昭和31年)の中の「犬と猫」の章の初めにあるものである。

高橋医師夫妻はこの後、ランバレネにおける医療活動に携わり、その初期のレポートである『シュヴァイツァー博士とともに』(白水社、1961年)のことなど前回少し触れたが、初めてシュヴァイツァーのもとで医療活動に携わった日本人医師として知られる野村実の著書『シュヴァイツァー博士を語る』も時を同じく白水社より出版されている。

野村とシュバイツァー

上の写真は、野村の第2回目の訪問の時(1960年)のもので、第1回(1954年)の訪問の時のレポートがあの『人間シュヴァイツェル』(岩波新書、昭和30年)であった。この新書の扉には下の写真(「キュンスバッハ村教会堂のパイプオルガンをひくシュヴァイツェル」)がある。

シュバイツァーとオルガン

昨年(2009年)の「賀川献身100周年記念」では、1939年にNew York:Association Pressで刊行されたAllan A.Hunter著『Three Trumpets Sound:Kagawa-Gandhi-Schweizer』のことがよく話題にされたりもした。
 
シュヴァイツァーは、日本でもかつて膨大な著作集や選集が編纂され広い読者を得てきたが、近年どれほどの人々の間で、彼への関心が寄せられているのであろうか。時は移りゆくとはいえ、いや移りゆくからこそ、シュヴァイツァーの著作などは、いま新たに取り出して、その息吹きをわがうちに呼び戻させてもらうのも悪くはない。

既に10年以上も前になるが、ルイーズ・ジレック=アール(Louise Jilek-Aall)という1931年、ノルウェー生まれの、当時ブリティッシュ・コロンビア大学の精神医学の教授が、1990年に『WORKING WITH DR.SCHWEITZER』を著し、加茂映子(京都大学医療技術短期大学教授)によって『シュヴァイツァー博士とともに-「生命への畏敬」のいざない』(河合文化教育研究所、1998年)として翻訳出版されている。

これは、アール女史が1961年であったか、最晩年のシュヴァイツァーのもとで働いた日々を回想して綴った作品であった。木村敏の「日本語版への序文」が入り、帯には「晩年のシュヴァイツァーの/刻々の暮らしを通して/柔らかくも生き生きと呼び出される/深い謎と喜びにみちた/生きることの意味/生命の限りない軽視に晒される/私たちの現在を問い直す」と書かれている。なかなかの好著である。

さて今回も、吉田源治郎「『原生林の片隅にて』を読む」の3回目(第8節の末尾から最終第14節まで)を、以下に取り出して置く。ゆっくり味読いただきたい。

        源治郎「シュヴァイツァー『原生林の片隅にて』を読む」(3)

翻訳1

翻訳2

翻訳3

翻訳4

翻訳5

翻訳6

翻訳7

翻訳8

 次回は、源治郎に宛てて送られたシュヴァイツァーの書簡を紹介したい。

      (2010年7月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月14日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(34)

顔シュバイツァー

     第34回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(3)

   高橋功医師のこと

上の写真は、高橋功の名著『シュワイツェルと動物』(法政大学出版部、昭和31年)の表紙に飾られたものである。

高橋は戦時下8年余りのあいだ、各地のジャングルで軍医として働いた体験のある医師であるが、戦後ふとしたきっかけでシュヴァイツァーの働きを知り、彼の著作と関連する多くの著書を取り寄せて読み、丸善の発行する「学鐙」に連載した。
その稿料などを彼の後援会に送金するなどして、シュヴァイツァーの書簡が高橋のもとに届けられるといった関係も深まる中で産まれた好著が、これである。

その後、高橋は1958年から8年間、また妻・武子は6年間、ランバレネの病院で働くことになり、その最初の3年間の生活記録を『シュヴァイツァー博士とともに』(白水社、1961年)として出版した。

高橋とシュバイツァー

上の写真は同書に収められているもので、1960年6月8日の高橋の誕生日に、シュヴァイツァーと共に写したものである。隣は武子夫人。

高橋は、野村実と高井俊夫につぐ3人目の日本人医師として活躍した。この著書には、シュヴァイツァーの友情あふれる「序」も寄せられている。
 
そして本書には、シュヴァイツァーの語った賀川豊彦に関するいくつかの記述があるので、参考までにここに並べて置く。

高橋文章

高橋文章2

はじめの5行(201頁)は、1960年4月23日の賀川豊彦の死去の知らせを受けた時のこと、その後の箇所(210頁)は、高橋の誕生日に語ったシュヴァイツァーのお祝いの言葉である。

ここには、シュヴァイツァーが親しく文通をした最初の日本人は内村鑑三であり、その次は賀川豊彦だった、といったことも話している。また、もう一箇所(257頁)、賀川没後すぐ刊行準備が進められた『賀川豊彦全集』への推薦依頼の執筆のことにも触れたところである。

シュヴァイツァーは1965年9月4日、90歳の生涯を終えた。その10年後、つまりシュヴァイツァー生誕100年の記念の年、高橋は『生命への畏敬-シュワイツァーの人間像』(玉川大学出版部)という良書を書き残している。

     内村鑑三とシュヴァイツァー

これまで何度も取り上げてきた高木謙次の論文「内村鑑三と吉田源治郎」の中で「シュヴァイツァーについて」の項があり、内村鑑三のシュヴァイツァーとの関わりを、年次を追って纏められているので、そのところを次に上げて置きたい。

内村文章1

内村文章2
 
これを見ると、後にすぐ取り上げる予定の、源治郎が米国留学中すでに、シュヴァイツァーの著書『基督教と世界の諸宗教』(英訳の表題)を、著者の了解を得て、『宗教科学より見たる基督教』という書名で刊行すべく翻訳を進めているので、源治郎の方が、シュヴァイツァーとの関係は内村より一歩先を歩んでいたようである。

先の高橋の誕生日祝いの折、日本人で最初に親しく文通をした人は内村鑑三で、次が賀川豊彦であるというシュヴァイツァーの言葉があったが、翻訳という仕事上のこととはいえ、吉田とシュヴァイツァーの何度かの文通は、ひょっとして最も早い日本人となるのかも知れない。

     源治郎「シュヴァイツァー『原生林の片隅にて』を読む」(2)

前回は第1節と第2節を収めたので、第2回目の今回は第3節から第8節の途中までを取り出して置きたい。ゆっくり味読いただければ嬉しい。

翻訳1

翻訳2

翻訳3

翻訳4

翻訳5

翻訳6

翻訳7

 この項、次回に続く。
                
    (2010年7月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月12日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(33)

夫妻の写真

      第33回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(2)

上の写真は、ご自宅で撮られた源治郎・幸夫妻の写真である。撮影年月日は判らないが、ノーベル賞受賞の頃のものであろうか、シュヴァイツァーの写真を挟んで、何かの記念の時のものであろう。この写真では、シュヴァイツァーの額の文字も判読できない。
 
      源治郎「シュヴァイツァー『原生林の片隅にて』を読む」(1)

シュヴァイツァーは自伝的な記録として『水と原生林のはざまにて』(1920年、45歳)、『私の幼少年時代』(1924年、49歳)、『わが生活と思想より』(1931年、56歳)などを書き残している。

最初の『水と原生林のはざまにて』は、シュヴァイツァーが1913年から17年までの「第一次ランバレネ滞在」の経験を『ランバレネ通信』を出しているが、その頃の感動的な「アフリカ回想記」として、この著作は忽ち各国語に翻訳されたようである。(野村実『人間シュヴァイツェル』岩波新書、昭和30年、190頁)『水と原生林のはざまにて』は野村実訳もあるが、源治郎はオールボン神学校在学中、1922(大正11)年に刊行された英訳本『原生林の片隅にて』を早々に読み、深い感動を覚えた如くである。

1924年5月、吉田源治郎はオーボルン神学校を目出度く卒業した後、その年10月から半年余りのあいだ、ニューヨーク市ユニオン神学校チャールズカレッジで聖書・宗教教育及び社会事業を専攻して学び始めるまでの寸暇の時を活かして、今回紹介する標記の「シュワイチエル『原生林の片隅にて』を読む」を書き上げているのである。

論稿の末尾には「1924年7月27日夜中、ニューヨーク州アウボルンにて脱稿」とある。(周知のごとくシュヴァイツァーは、1924年には再びランバレネの「第二次滞在」を始めて、病院の拡張など行い、その後も幾たびもこの地での活動を継続するのである。)

米国で書き上げられたこの草稿は、最初に『雲の柱』第3巻第8号(大正13年10月号)に寄稿され、既述のように警醒社書店より大正14年9月にシュヴァイツァーの最初の邦訳書といわれる吉田源治郎訳『宗教科学より見たる基督教』が刊行され、本稿がその付録として収められたのである。

当初ここでは、「『原生林の片隅にて』を読む」の初めと終わりのみ取り出して置く積りであった。しかし、源治郎のこの作品は、シュヴァイツァーのことを、いくらか纏まったかたちで日本に紹介した最初のものかも知れないのと、当時の吉田源治郎を理解するうえでも、そして源治郎のその後の働きを見る上でも、大切なドキュメントのように思われるので、ここではあえてその全文を、これから3回に分けて収めて置きたいと思う。

現在この著書も、古書でも殆ど入手困難でもあるようでもあり、原文のまま掲載する。なお、賀川豊彦の諸著作の読解において時代的・歴史的場を踏まえることが欠かせないのと同じく、シュヴァイツァーの著作や源治郎の表現の仕方にも、読む側の私たちに同様の見識が求められることは言うまでもない。

早速、第1回として第1節と第2節をお目にかける。

翻訳1

翻訳2

翻訳3

翻訳4

翻訳5

翻訳6

 この項は、次回に続く。

     (2010年7月18日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月11日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(32)

シュバイツァーの顔

   第32回 シュヴァイツァーと吉田源治郎(1)

上の写真は、1925(大正14)年9月、警醒社書店より出版した、吉田源治郎の翻訳書:アルベルト・シエワイチエル著『宗教科学より見たる基督教』の巻頭にあるシュヴァイツァーの写真である。これは、シュヴァイツァー夫人から、同年4月、源治郎のもとに送られてきたもので、シュヴァイツァーの生誕は1875(明治8)年であるから、これは50歳頃のものである。

シュヴァイツァーは20代にすでに『カントの宗教哲学』『メシアと受難の秘密』などを、そして30代には『バッハ』『ライマールスよりヴレーデまで(「イエス伝研究史」に改題)』などで注目されていたので、彼の写真も日本国内でも早くから知られていた筈であるが、シュヴァイツァーの著作で纏まったかたちの邦訳は、吉田源治郎が最初ではないかと言われるので、ひょっとしてこの写真は本邦初公開のものかも知れない。

シュヴァイツァー(Albert Schweitzer)に関しては改めて記すまでもないが、彼は源治郎より16歳ほど年上で、1965(昭和40)年に90歳でその生涯を終えている。

神学・哲学・医学をはじめ、ゲーテやバッハの研究なども有名で、オルガン奏者としてもよく知られている。彼のオルガン演奏、ことにバッハの演奏は日本でもレコードになり、私たちでさえあの響きは長く親しませていただいてきているものである。

彼は晩年も、ランバレネにおいて医療活動を展開し、1952年にはノーベル平和賞を受賞したことなどは周知のことである。神戸・風月堂のゴーフルが好物で、ランバレネを訪れる日本人は、いつもゴーフルを持参していたというのは、逸話の一つである。

       賀川豊彦編著『基督伝論争史』大正2年

さて、「シュヴァイツァーと吉田源治郎」について学び始める場合、最初に取上げておかねばならないのは、賀川豊彦が「神戸貧民窟にて」書き下ろした最初の学術書として知られる『基督伝論争史』である。
        
本書は第一篇「シュワイチェル『ライマラスよりウレーデまで』を取上げ、第二編で「シュワイチエル以後」、第三編に「日本におけるキリスト伝の歴史」を纏め、353頁の大型上製本として完成させた労作である。

マヤス博士に献呈されている本書は、前年(大正元年)に処女作『友情』を出版し、続いて本書の刊行と時を同じくして『預言者エレミヤ』(いずれも児童向けの作品)を、地元神戸の「福音舎書店」で出版した。

基督伝表紙

謹呈文字

本書の奥付を見ると「印刷所」は「神戸市吾妻通3丁目17番地屋敷」とあり、賀川の住み込んだ長屋とは近く、「芝ハル」は、この印刷所では働きながら、賀川や武内たちの「救霊団」の活動に加わり、本書の刊行された時は、二人は新婚生活をこの場所でスタートさせて直ぐの時である。

ここに取り出して置くのは、「無学と貧乏と病気と繁忙の中に此書が出来た」という言葉ではじまる本書の「序」である。

賀川はこの後直ぐ、もう一つの学術的意欲作となったあの『貧民心理之研究』を、ハルの手も借りながら仕上げ、翌年(大正3年)豊彦は米国プリンストンへ、ハルは横浜共立女子神学校での研鑽へと旅立つのである。

序1

序2

序3

既に触れてきたように、吉田源治郎は妻子を伊勢に残して、米国ニューヨーク州オーボルン神学校での学びのため、1922(大正11)年秋日本を離れ、1924(大正13)年5月にはB.Dの学位を得て卒業しました。

この年、7月24日に脱稿したという源治郎の「シュワイチエルの『原生林の片隅にて』を読む」(今回の冒頭に挙げたシュヴァイツァーの源治郎による邦訳書に「付録」として収められたもの)をここで紹介するのが、時の経過からすれば適切である。

しかし、ここまで「賀川とシュヴァイツァー」の関わりを見てきたので、今回の最後はやはり、『雲の柱』第5巻第2号(大正15年2月25日)に特集された特別号――これには<「イエスの秘密」号>としてシュヴァイツァーの著作『イエスの秘密』の翻訳が一挙に掲載された――の巻頭に収められた賀川の短い文章「シュワイチエルの『イエスの秘密』に就いて」を、取り出して置く。

ここには吉田源治郎のことにも少し触れられているが、シュヴァイツァーのこの著作は彼の初期の作品の中でも有名なもので、複数の邦訳書もある。

次回において、源治郎の『原生林の片隅にて』を見ておこう。

     (2010年7月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月10日補正)

雲の柱1

雲の柱2

雲の柱3

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(31)

伊勢の地図

     第31回 源治郎の米国留学中の吉田幸

長々とのびてしまった『肉眼に見える星の研究』を一先ず終えて、今回は「源治郎の米国留学中の吉田幸」のことを取り出して見たい。

前回、小川敬子氏のエッセイ『憩いのみぎわ』を紹介したが、摂氏より預かった資料の中に、敬子氏の「伊勢の思い出」という手書きの文章があり、そこの前半部分に、丁度この頃のことが記されているので、まずそれを書き写して置こう。

冒頭の「伊勢市」の地図とそこに書き込まれている関係箇所の文字と朱色もおそらく敬子氏の記入と思われる。

     小川敬子「伊勢の思い出」(一部抜粋) 

 大正11年、秋、父親のアメリカ留学のため、京都伏見から故郷の伊勢へ帰ってきた。その頃は、宇治山田市と言った。母、幸は、伏見で資格をとり、公立の幼稚園につとめていたので、帰ってくるとすぐにライカー宣教師の開いた幼稚園に頼まれた。生れたばかりの弟、義亜がいたが、おばあさんや、裏にすんでいた「ばあやん」の手で世話し、私はまだ幼稚園に入れる満3歳前だったが、毎朝、母に手を引かれてライカーさんの幼稚園に通った。

 公立の幼稚園に比べ、ライカーさんの給料は安かったので、父の留学中の生活費に当てるため、実家の八軒長屋を売った。その中の一軒は、もと御師(おんし)だったとの事、或る日、その家をのぞいてみた。暗い狭い家に子供達がいて、そこのご主人は傘張りの内職をしていた。「源治郎に家賃を集めに行かせるといやがった」と云う長屋であった。

 吉田の家は、米屋、質屋などの商売をしており、おばあさんの若い頃は蔵が六つあり、金次というじいやが、夜になると火の用心の拍子木を打って廻ったという。でも私の頃は蔵は一つになり、裏の小さな家に金次とばあやん夫婦が住んでいた。きっと地所も、もっと広かったのだろうが、売ったのかも知れない。この二人に色々仕事をしてもらった。

 夜、教会の集会のある時、私と義亜は「ばあやん」の家で留守番した。お正月の餅つきはその家の台所の土間で金次がついた。金次は威儀を正して、座敷に座っているおばあさんに年賀の挨拶に来た。

 私たちは蔵のある方に住み、後半分の広い、二階のある方は人に貸していた。楠(くすのき)さんという家だった。

文章の中の丸岡家の地図

 山田の町に住む人々は、神領民と云われ、神宮を二十年毎に建て変える時の木をひく、「お木曳」の行事に参加した。「源治郎は若い時、先頭の高い木にのって、音頭をとった」とおばあさんからきいた。

 私の5歳位の時にもお木曳きがあった。宮川に流されてきた材木を、車にのせて、町中を引いて行く。私はどういう訳か、男の子のそろいのハッピを着せられ、頭に鉢巻をした。反対に、金次は女の衣装を着て、頭に花笠をかぶり、嬉しそうに踊っていた。

 道を挟んで斜め向かいにあった丸岡の家は、おばあさんの実家なので、よく遊びに行きました。

 丸岡は昔、越前(福井県)の丸岡のお殿様が、いくさで負けた時、一緒に逃げて来たのだそうで、ずっと御師(おんし)の仕事をしていた。明治になって、廃止されたが、当主、茂太郎には才覚があったらしく、銀行家になり、没落をまぬがれたようである。大正のはじめには東京で仕事をしていたらしく、源治郎の妹、なつゑが「御茶ノ水」へ入学した時、丸岡から通っていたらしい。その夏には、腸チフスで亡くなったが・・。

 御師の仕事の関係で、おばあさんが小さい頃、或いは若い頃、神宮に納める天皇からのお宝ものが、丸岡に一泊した。駅から家まで、白い砂が敷かれた。お供の人たちにお酒のおしゃくをしなくてはならず、こぼすと叱られるので、いやであったと、おばあさんの話である。

 妹の「志か」は、神宮のおかぐらの舞姫であった、との話。

 大正14年の夏、父はアメリカから帰ったが、それを待たず、義亜は「えきり」でその短い生涯を終えた。いぬ年生まれだったので、その後も長い間、命日にはおばあさんが、犬の絵をかいた掛軸をかけていた。ばあやんが、義亜をおんぶしてお守りをしていて、ひどい熱い、と入院したのが、今も残る宇仁田医院だった。昔は道のつき当たりに門があった。

 母、幸の親も近くに住んでいた。おじいさんが時々来て、私に着物を買ってくれたりしたが、脳卒中でなくなり、おばあさんは一人で、小さな家に住み、いつも「打ちひも」をつくる内職をしていた。

(以下、その後のことに続くので省略。文章の中に組み込んだ手書きのものは、冒頭の「伊勢市」地図の欄外に書かれていたものをここに収めた。なお、ここに「御師」(おんし)とあるのは、普通「おし」と呼ぶ様で、詳しくは藤谷俊雄・直木孝次郎『伊勢神宮』など参照。)

    故郷「伊勢」で幸はミス・ライカーと共に常盤幼稚園の教師

第4回で伊勢のミス・ライカー宣教師のことについて少し言及したはずであるが、源治郎が米国に留学して、幸が故郷に戻っていたこの時、丁度「常盤幼稚園教師」の欠員が生じて、相応しい人を探していた時と重なり、先の敬子氏の「伊勢の思い出」にもあるように、幸はすでに公立の保母免許を持ち保育経験もあったので、ミス・ライカーの熱心な依頼に応えて、1922(大正11)年11月2日付けで常盤幼稚園の教師に就くことになった。そして1925(大正14)年7月15日に退職するまで、ここで働くのである。

 この幼稚園時代の写真などが『常盤幼稚園七十年史』(1987年)に残されているので、以下、その中から写真等を取り出して置く。

下のものは、吉田幸が後に(1983(昭和58)年)伊勢を訪ねた時に語った「思い出」で、冨山光一による筆記として収めてある。

お迎えして吉田先生を

         幸の「常盤幼稚園」時代の写真等

関東大震災の写真

幸の幼稚園教師写真
   大正9年卒業生(大正12年3月)
   教師:ライカー・河村・原と共に。幸は左端

第10回卒業生と記念写真
   第10回卒業生(大正13年3月)
   教師:ライカー・河村と共に。左端・幸

第11回卒業生と共に写真
   第11回卒業生(大正14年3月)
   教師:ライカー、吉川と共に。幸・左端

     小林恵子『日本の幼児教育につくした宣教師』より

この項の終わりに、吉田幸がこのとき共に働いたミス・ライカーについて触れられた新しい著書があるので、その一部分のみご紹介して置きたい。

それは小林恵子著『日本の幼児教育につくした宣教師(下巻)』(キリスト新聞社、2009年)で600頁に及ぶ作品である。著者が吉田洋子氏に贈られたもので、ご主人の摂氏から今回お預かりした中の一冊です。

本書の第3章には、前回の最後に触れた「宮澤賢治とタッピング」に関連する「幼児教育の専門家でピアニストのミセス・タッピング」の興味深い論稿ほか、源治郎と幸の活動分野と神戸・関西の幼児教育の先駆者たちの貴重な歩みがわかり易く辿られている。(よくある間違いで「源次郎」は「源治郎」に訂正)

小林文章1
                     
今回の敬子氏の「思い出」に源治郎・幸の長男「吉田義亜」が、父親・源治郎の帰国を待たずして急性伝染病の疫痢に罹り夭逝したことと、義亜のお守りをしていたばあやんが、その命日には長いあいだ、犬の掛け軸をかけて憶えておられたことなどが記されていた。

源治郎の留学の期間、母親・幸と幼い子ども達の「故郷・伊勢での日々」、ほかにも書き残されているものもあると思われるが、今回はここまでとする。

    (2010年7月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月9日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(30)

みぎわ表紙

    第30回 『肉眼に見える星の研究』(10)
        小川敬子『憩いのみぎわ』所収のエッセイ「岩手公園」

吉田源治郎・幸の長女・敬子氏の著した素敵なエッセイ集がある。この項の10回目となる最後に、その中の「岩手公園」と題された箇所を全文収めさせていただく。

本書は1992年に纏められたもので、父・源治郎と母・幸の思い出など、飾りのない筆遣いで書き綴られている。

敬子氏は、昭和12年3月にウイルミナ女学校(原・大阪女学院)を、昭和14年3月にはランバス女学院を、それぞれ卒業し、源治郎の働く「四貫島セツルメント」の天使保育学校主任保母として働く。

昭和18年に小川三男牧師と結婚、戦時下の困難を乗り越え、昭和21年4月一麦保育園の保母に就かれる。
そして同年5月小川三男牧師の復員と共に、四貫島友隣館及び四貫島教会の再建の為に尽くし、昭和26年4月牧師を辞任するまで、四貫島で働く。

その後、昭和30年に単立浦和のぞみ教会を設立して、30数年間、そこで小川三男牧師と共に開拓伝道に打ち込まれたお方である。

以下に紹介する「岩手公園」では、源治郎も賀川豊彦も、また敬子氏ご自身も親しくされた宣教師のタッピング御一家のことなどが綴られている。

特に「宮澤賢治とタッピング」のことにも触れられており、「岩手公園」は省略なしに紹介させて戴く事にする。

小川三男牧師は、2002年7月23日、89歳でその生涯を閉じられたが、敬子氏は現在もお元気で、本書の続編をただいま執筆中のようである。娘の目から見た「源治郎と幸の世界」が、さらに詳しく綴られていくに違いない。その仕上がりを楽しみにしてお待ちしている。
 
思いの外長くなってしまった『肉眼に見える星の研究』の終わりを、このエッセイで飾らせて頂く。

    (2010年7月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月8日補正)


文書1

文書2

文書3

文書4

文書5

文書6

文書7

文書8

文書9

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(29)

内村の日記
内村鑑三『聖書之研究』第235号(「日々の生涯」1920年1月6日~15日「星覗き」)

      第29回 『肉眼に見える星の研究』(9)

源治郎は若き日、明治学院に学んでいた頃、内村鑑三との関わりを持ち、「柏木教友会」の会員になるほどの深い関係にあったことや、妹・なつゑの急逝の時には、内村によって彼女の告別式が執り行われたことなどについて、第5回と第6回において触れて置いた。

そしてそのときにも、『内村鑑三研究』第35号別刷り(2001年)所収の椚山義次「内村鑑三と天文学」と同36号(2002年)に入った高木謙次「資料・内村鑑三と吉田源治郎」のことにも少し言及した。

これまで長々と、源治郎の初期の作品『肉眼に見える星の研究』に触れて、諸資料を紹介して来たが、今回はもうひとつ、源治郎が生涯にわたって「肉眼天文学」に打ち込むことになる契機となったのは、源治郎が学生時代の強い影響を受けた内村鑑三であり、当時内村は、時を見つけては「星覗き」をする「星道楽」であったという、椚山・高木両氏の論稿を、取り出して置きたいと思う。    

     椚山(くぬぎやま)義次「内村鑑三と天文学」(2001年)

椚山義次は、内村鑑三や宮澤賢治の研究などで知られる方であるが、10年前(2000年)12月2日の「朝日新聞」夕刊で、次の記事が掲載され、大きな話題を呼んだ。

                ♯                 ♯

        今年の星空は、「星の王子様」と同じ星空~

 星座に深い知識のあったフランスの作家、サンテグジュペリの生誕から百年の今年、木星、土星、おうし座の1等星アルデバランが接近してつくる、60年に一度の天体ショーが冬の夜空を飾っている。
 サンテグジュペリが著書「星の王子様」(岩波書店)の表紙などに描いた絵は、東の空に明るく輝くこの珍しい星の配置だったという説を、福島県三春町の文学研究家が発表した。
 三つの星は、夜の八時から九時ごろにかけて真東の45度ぐらいの高さに見られる。
 その配置と絵の一致に気づいたのは宮沢賢治や内村鑑三の研究者でもある椚山義次さん。天文ファンでもあり、喫茶店を経営する傍ら、夜ごと星を眺めスケッチをするうちに気づいた。
 絵はサンテグジュペリ自ら描いた。
 一見、適当に描いたように見える星の絵だが、他の星と区別するように、星形ではなく丸く描かれた三つの星の配置が、11月の初旬ごろの木星、土星、アルデバランの位置関係と一致したという。

 何だかとっても、夢のある出来事でしょう~~~
 星空が大好きな私には凄く魅力的な出来事で、今年と同じ三つの星の接近が見られたのは1940年で、サンテグジュペリが「星の王子様」を書いたとされる、1942~43年の直ぐ前にあたるそうです。
 だから、この星空の三角形は、60年に一度の星の形なのです。
 そして、この三つの星の接近は来年の四月ごろまで楽しむ事が出来るそうです。

 この冬は、暫く振りに「星の王子様」を、思い出しながら星空を眺めたいと思います。


            ♯                    ♯


今から紹介する椚山論文は真にユニークである。

今回の冒頭に掲げたものは、内村鑑三の『聖書之研究』にある「星覗き」に熱中する「日記」の一部をつないだものであるが、ここに紹介する論文は、12頁にわたる論文のはじめの4頁分である。
論文の書き出しは、はじめに掲げた「日記」の直ぐ後のことである。

内村と天文1

内村と天文2

内村と天文3

内村と天文4


     高木謙次「内村鑑三と吉田源治郎」(2002年)

高木のこの論文の初出は『内村鑑三研究』第36号(2002年)であるが、ここでは『高木謙次選集』第1巻所収分から「星の研究について」の部分を収める。

高木論文1

高木論文2

高木論文3

 この項『肉眼に見える星の研究』は、後一回で一区切りとする。

     (2010年7月8日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月7日補正)






KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(28)

星の本表紙

      第28回 『肉眼に見える星の研究』(8)

過日(7月1日)午後、一麦保育園に於いて、森彬牧師(若き日に吉田源治郎より西宮一麦教会で洗礼を受け、1971年3月から2005年3月まで34年間にわたり、この教会を牧会)から、源治郎に纏わる貴重なお話を2時間余り、吉田摂氏、梅村貞造氏,元正章牧師、そして私(鳥飼)4人がたっぷりとお聴きした。

「源治郎先生はうな丼が大好きで、温泉もお好き、よく宝塚温泉にも出向かれた」・・とか、大変貴重な面白いお話、お許しをえて今回も録音もさせて頂いている。

この度も吉田摂氏より以下の新しい関係資料をお預かりしたのでリストにして置く。

   吉田摂しより関係新資料預かり分(2010年7月1日)

1 『肉眼に見える星の研究』(大正11年初版)箱入り
2 「雲の柱」大正14年関係コピー3枚
3 「火の柱」大正15年以下関係コピー13 枚
4 1964年 琉球伝道記録(写真在中)
5 1972年 賀川ハルの吉田幸宛書簡
6 1978年11月25日 キリスト新聞コピー キリスト教功労者表彰式
7 1980年 イースター早天礼拝 芹野牧師の吉田宛書簡
8 1980年 朝日新聞太田緑の吉田宛書簡(写真在中)
9 1984年 吉田源治郎牧師告別式次第
10 1984年 吉田源治郎先生告別式記録
11 1984年 吉田源治郎告別式(田中芳三)コピー
12 1984年 吉田源治郎先生「追悼」
13 2005年 新「いちばく」30号
その他、貴重な写真多数

     「箱入り初版本」が見つかる!

この項は前回で区切りを付ける予定でいたが、この度お預かりした新しい資料(リストの1番)に、嬉しいことに『肉眼に見える星の研究』の「箱入り初版本」があったのである。

既述のとおり、初版の宣伝広告には「箱入上製美本」とあるのに、私の手元の初版はそれが欠けていて、どんな装丁だったのか是非見たいと願っていた。それがここにきて、直に手にとって見ることが出来たので、早速皆様にご覧戴きたく、今回特別にアップして置くことにした。

星の背文字

冒頭に大きく収めたものが、箱の表紙と背である。少々くすみがあり、張り紙の剥がしがあるが、当時流行の装丁である。そして本体も殆ど痛みはなく、前頁に収めた様に美しい背文字がある。しかも本体上面は金箔になり、本文370頁、索引10頁、さらに折り込みの星図などの入った念の入れ方の著書である。

いま、この箱入り初版と、下に収めたカラー文字入りの「改版増訂」を眺めていると、箱入りは恐らく初版のみで、「改訂増訂」には箱なしでいったように思われる。

星の研究の表紙と背文字本体

それともうひとつ、同じ初版で奥付の発行日も「大正11年8月20日」と同じであるのに、今回預かった「箱入り初版」には、あのテニスンの言葉と「伝説のプレイアデス」の絵が収まり、手元の初版にはそれがないことも判る。

多分これは、手元のものが初版の最初のもので、「忽三版」と宣伝された時の版からはこれが加わって、それが「改訂増訂」へと受け継がれていったのであろう。

どうでもよいような細かなことであるが、これまでいくらか本作りに携わった経験から、一つの作品を世に送り出し、それが人々に受け入れられ、版を重ねて読み継がれて行く経緯には、多少の興味も湧いて来るのである。

ともあれ、今回「箱入り初版本」をこうして眺めることの出来たことを、子供のように喜んでいる次第である。

実は、源治郎の『肉眼に見える星の研究』に関連して、まだ紹介できていない重要な資料が、幾つか残されている。

そのひとつは、源治郎が明治学院時代に内村鑑三の聖書研究会に深く加わり「柏木教友会」のメンバーであったこと等に関しては既に言及したが、源治郎が星に強い興味を抱くに至ったきっかけのひとつに内村の影響があったのではないかという点に関わるもので、次回にその論稿の一部を取り出して置かねばならない。

また、源治郎・幸の長女・敬子氏の素敵なエッセイ集に『憩いのみぎわ』(1992年)という作品があり、その中の「岩手公園」という箇所で、「源治郎と宮澤賢治」のこと、「賢治とタッピング一家」のことなどに触れたれているので、それも紹介して置きたいと思う。

そこで今回は、次のふたつだけを収めることにする。

ひとつは、山本進(山本一清のご子息)の「吉田源治郎の憶い出」をこれまで部分的に紹介してきたが、未紹介の末尾の部分を少しだけ。

二つ目は、これも源治郎の亡くなった時、原恵が「星の本との出会い」という短文を『本のひろば』に寄稿していて、源治郎と山本一清などにも言及しているので、それをご覧に入れたい。

     (2010年7月5日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月6日補正)


    山本進「吉田源治郎の憶い出」より(「天界」1984年8月)

思い出1

    原恵「星の本との出会い」(「本のひろば」1984年3月号)

本の広場原恵み

原恵み本の広場続き

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(27)

天文学表紙

    第27回 『肉眼に見える星の研究』(7)
      恒星社版『肉眼天文学-星座とその伝説』(昭和34年)

吉田源治郎の名が広く知られ、現在も語り継がれる一つの分野が、「肉眼天文学を切り開いた吉田源治郎」である。それも若き日の一冊の著作『肉眼に見える星の研究』が、初版の段階から忽ち話題を呼び、版を重ね、改版増訂が施され、前回紹介したように、畏友・山本一清との共著のかたちで、新たな改訂を加え戦後、恒星社版を出版して読書界に読み継がれて行った。惜しくもこの作品が、山本の最後の著書となったのであるが。

さて、冒頭に収めたものは、吉田源治郎著『肉眼天文学-星座とその伝説』(恒星社版)の表紙カバー(表紙と背のみ)である。
これは1959(昭和34)年8月発行で、これには山本の「序編・星座と星名について」を除いて274頁の上製本となっている。本編の内容に大きな変更は無いようであるが、全体にわたる推敲を行ない、これが最後の改版ではないかと思われる。

        「星よわたしの好きな星よ」

星よ楽譜

前回、由木康の「序詩」1番末尾「にげるものを」の「きえるものを」の変更が楽譜では旧のままであるが、歌の題がついいる。またここでも二葉薫の曲ではなく、津川主一の曲のままである。

      昭和34年の七夕に書いた源治郎の「序」

これにも源治郎の短い「序」がある。山本一清への謝意と共に、源治郎のそれまでの「天文生活のなつかしい思い出」の想起が記されている。

序1

序2

序3

      テニスン:一つの設問と回答

扉の絵と文字

本書には、本編のはじめに、テニスンの「一つの設問と回答」も新たに入る。これも源治郎の訳であろうが、これは21世紀、いまのことばである。源治郎は、単なる星道楽ではない。天地一枚、足元の新しい時を見失わず、飄々と歩み続けたお人のようである。

ひとつの設問

       賀川豊彦原作・吉田源治郎補注:星座のうた

本書の巻末に「付録・星座のうた」が収められている。推敲などの跡は、源治郎のものである。恐らくさらにこれの改訂に余念無く、日々備えた作業のひとつであろう。

「賀川豊彦原作・星座のうた」は、これが初出であったかどうか判らない。万一初出とすれば、賀川の最晩年のものとなる。ご覧のように、源治郎の大胆な削除と添削がある。

最初のメモ「(2)日常生活と「星座」」は、次の改訂の時に追加する項目であったのかも知れない。

星座のうた1

星座のうた2

星座のうた3

この「星座のうた」は、ここで源治郎の「注記」にあるように「鉄道唱歌」などで、実際に歌われたのであろう。

原治郎の万年筆の文字:「シュヴァイツァー『わが生活と思想より』白水社 ¥450」は、書籍注文用のメモのようで、こうして次々と書店へ注文しては取り寄せる習慣があったようである。そして同じ本を何冊も注文して書棚に置かれていたとか・・。

      恒星版「あとがき」と奥付(源治郎のメモ書き入り)

この版の「あとがき」と「著者紹介のある「奥付」も入れて置きたい。

あとがき1

あとがき2

奥付け

「あとがき」の後の源治郎の書き込みは、判読困難であるが、どなたか解読をお願いしたい。意味の判らないところもあり、不正確のままであるが、間違い覚悟で、試しに書き写して見よう。瀬戸内の「豊島」へ向かわれた時のものであろう。年月日も不明。


           「豊島讃歌」

      1  山辺のクモはれて
         内海に波ゆく
         緑の島 はえて
         カモメ むれとぶ ???

           (おりかえし)
          ゆたけしこの島
          が合言葉の島よ
          ゆたけしこの丘
          めぐみさわナリ

      2  いで 生長の木の実
         育つるわざ学ばん
         死に失せしものを
         国内(くぬち)にオコさん 友よ

      3  暁(アカツキ)の光に
         「みふみ」をひもとりつ
         土と人を教えし
         神に仕うるわが?

 なお、本書に挟まれていた1枚のカードがあった。源治郎のメモであろうか。

源治郎メモ

     写真:源治郎の「パロマ天文台」訪問と「KAGAWA ST」の場所にて

最後に、年代不詳であるが、吉田源治郎が「パロマ天文台」を訪ねた時の写真と、「KAGAWA ST」の標識の場所で写したものと併せて収めて置く。

パロマ天文台訪問

思いがけず長くなってしまった『肉眼に見える星の研究』の項は、今回で終えて次に進む積りであったが、先日(7月1日)新たな「お宝」に出会ったので、次回にそれを紹介して見たい。

  (2010年7月3日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月5日補正)








KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(26)

    家庭新聞

    第26回 『肉眼に見える星の研究』(6)
        恒星社版『肉眼に見える星の研究』(昭和24年)

吉田源治郎の代表作の一つ『肉眼に見える星の研究』は、ここまで見てきたように、初版の時から幅広い読者を得て、長く読み継がれて来た作品であった。それは、世界にもよく知られていた日本の天文学者・山本一清との深い友情の中から産み出された、「アマチュアの星道楽」として自ら生きた吉田源治郎ならではの、真に稀有な労作であった。

山本一清は、1928(昭和3)年に京大花山天文台が設立されると台長に就任し、その10年後、1938(昭和13)年、京大を退官して、私設天文台の「山本天文台」を設立する。そして彼は、敗戦後1959(昭和24)年1月16日にその生涯を閉じるまで、プロの天文学者と源治郎などアマチュア天文家の橋渡しをし、天文学の広範な普及・発展に大きく貢献した先達として、人々の記憶の中にある。

さて、今回取上げる恒星社版『肉眼に見える星の研究』は、山本一清の生前に準備され、没後10ヶ月経て出版されている。本書は初めて表紙にも奥付にも「吉田源治郎・山本一清共著」となっている。

星の研究とびら

星の研究奥付け

本書の「序」は、「昭和23年3月18日夕 西宮市高木字南芝781、一麦保育園にて」吉田源治郎によって書かれているのと、この「序」には、「本書は今から20数年前(大正10年8月20日附)<鳥飼註:大正11年の誤りと思われる>初版を刊行したものであるが、今般、その全部に大増な改定を加えて、ここに「復興版」として送り出すことになった。

この新版の編輯に当たり、「元の京都大学教授(原田上天文台長)理学博士山本一清氏の激励と好意の寄興が、どれ程深いものであったか--即ち、共著者たるの責を負い原稿全部を綿密に校閲、改修し、特にこの新版のためには東洋の星座及び星名を増補し、加之、普通の類書にはほとんど記載されていない珍しい星座の数々を随所に収録して下さったのである。」と特記されている。

ともあれ、本共著の刊行を待たずして、山本は惜しまれつつ召されることになった。

山本は、本書の「序編」のはじめに、下の言葉を書き残している。
これを読むと、最晩年の彼自身、星空の美しい山村にあって、星を眺める星道楽の親分であることが、直に伝わってくる。

山本の序篇

     恒星社版の「序」

現在本書は、初版・改版にも増して入手困難になっているので、4頁分の源治郎の「序」をここに収めて置きたい。
以前触れておいた賀川豊彦の詩を部分引用した詩集『涙の二等分』も、ここには明記されている。

序1

序2

序3

序4


         由木康の「序詩」のこと

先の「序」の末尾に「序詞寄稿の由木康氏及び作曲者二葉薫氏」への謝意が記されている。初版と改版までは、由木氏の「序詩」の上に津川主一作曲の楽譜があったが、ここでは次の「序詩」のみになっている。

由木の序詞
    
この「序詩」を見ると、初版と改版までと違う箇所がひとつある。それは一番の末尾「にげるものを」のところが、今回は「きえるものを」と変更されている。そして初版と改版までは、作曲者が津川主一氏であったのが、ここでは「二葉薫氏」への謝意となっている。

この事に関連して、前に紹介した山本天文台の理事・山本進(山本一清のご子息)の「吉田源治郎牧師の憶い出」(1984年6月)の中に、「この歌は私も若い時に習ったことがあるが、掲載してある津川主一氏の曲(1924年版)も二葉薫氏(本名:小泉功、東京都中野区)の曲(1949年版)も、私の覚えているものとは少し違っているように思える。別の曲があるのかと思ったが、高戸佐和子氏(長野市)が日本キリスト教団賛美歌委員会に照会された結果によると、作曲はこの2つしかない、由木氏は津川主一氏のものを好まず、二葉氏に新曲を依頼された、ということであった。」と記されていた。

但しこの恒星版には何故か、二葉氏の楽譜は載っていない。讃美歌に詳しい方なら、由木の二葉に依頼した楽譜がすぐに出てくる筈であるが、ここではお見せ出来ない。代わりにといえばへんであるが、由木康作詞・二葉薫作曲の「ねがひ――ちひさい時から」を収めて置きたい。昭和15年に日曜世界社より二葉薫著『子供の歌』として出版された中にあるものである。『子供の歌』は2輯まであり、改めて取上げる予定である。

楽譜
    
ところで今回の最後になるが、冒頭の「基督教家庭新聞」(昭和2年12月号)に、源治郎の「クリスマス天文講座:「その星」の研究」が掲載されているので、ご覧戴きたい。

        クリスマス天文講座「その星」の研究

クリスマス講座

クリスマス講座2

クリスマス講座3

吉田源治郎の深く関わった「基督教家庭新聞」については、第3回で少し触れているが、この新聞は現在もどこかに保存されている筈である。所在先等ご存知の方は、お手数ながらご教示いただくことが出来れば有難い。 
    (torigai@ruby.plala.or.jpまでよろしく)

手元に『基督教家庭新聞』第20巻(昭和2年分上製の合本)があるが、背表紙には『家庭新聞』とある。西阪保治編輯発行であるこの新聞には、源治郎はもちろん賀川豊彦をはじめとした多方面の寄稿があり、「KAGAWA GARAXY」の宝庫のように思われる。

この合本の中に一枚、第33巻第2号と記されたこの号の「目次」とドイツ語の「我が心には歓喜あり」(ローガン訳詩・二葉薫編曲の楽譜-昭和14年12月27日の記入あり)の入ったものが挟まれていた。

ここにこの「楽譜」と共に「目次」を眺めていても、二葉薫、賀川豊彦、三浦清一、長谷川初音、ローガン、吉田源治郎などの名前が並んでいる。これも最後に「おまけ」として収めて見る。

『肉眼で見える星の研究』が延々とここまで続いてしまったが、この項はあと1回で終わり、次へ進みたいと思っている。

  (2010年7月1日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月4日補正)

        基督教家庭新聞(第33巻:第2号)

キリスト教家庭新聞楽譜

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(25)

絵作品
伝説のプレアデス(『肉眼に見える星の研究』大正13年改版増訂版の扉に新たに入る)

       第25回 『肉眼に見える星の研究』(5)
        「米国天文台の印象」(大正13年改版増訂版所収「改版の序」)

吉田源治郎は、1922(大正11)8月、『肉眼に見える星の研究』を出版と同時に、米国オーボルン神学校留学のため日本を離れるのであるが、第2回に掲載した岡本榮一作成の「年表」を見ると、源治郎がオーボルン神学校に入学したのは10月で、学位を取得して卒業したのは、1924(大正13)年5月である。

今回取上げておきたい源治郎の「米国天文台の印象」(『肉眼に見える星の研究』改版増訂版所収「改版の序」)は、「1924年5月15日 ニューヨーク州アウボルン・セミナリー図書館にて」と記されているので、源治郎の「オーボルン神学校」を卒業の年である。したがって、これが書き上げられてほぼ2ヵ月後、7月25日付けで「改版」は出ていることになる。

本書が急遽「改版増訂」となった経緯については既に触れたことがあるが、1923(大正12)年9月の関東大震災で、それまで版を重ねていた初版の組版が灰燼に帰したためであった。源治郎は留学先で初版の字句補正等行い、この「米国天文台の印象」を「改版の序」として収めることになったのである。

ところで、これから取り出す「米国天文台の印象」の中に書かれている源治郎の「旅日記」は、まだ神学校在学中の「1923(大正13)年」のものである。

この「旅日記」によれば、この年、山本一清はハーバード大学天文台で研究のため夫人同伴で渡米し、6月9日に源治郎は、山本夫妻とシカゴで落ち合っている。そして翌日(10日)から3人は「社会殖民事業」の視察も行いながら、「ヤーキース天文台」など訪問して、研究者たちとの親密な交流を深め、星の観察など行っていることが判る。これを読んでいても、まだ現在のような録音等の手段の無い時に、源治郎の記憶力は驚くばかりである。

先の岡本榮一作成の「年表」によれば、源治郎は同年5月に「オーボルン神学校」を卒業後、7月より「ニューヨーク市のユニオン神学校及びチャールズカレッジにて、聖書学、宗教教育、社会事業を学ぶ。コロンビア大学でも学ぶ」とある。(そしてこの時、源治郎は「シュヴァイツァー『原生林の片隅にて』の翻訳出版」とある。これについては追って取上げて置く予定である)。


当時の写真 これは「オーボルン神学校卒業のころ」

顔写真吉田の

下の写真は「ニューヨークの街角にて」とある。小さな写真を拡大したがクラスメイト?

街角にてニューヨークの

    初版と改版増訂の対比(吉田訳)

初版改版
     改版                     初版

  改版に新たに入ったテニスンのうた(今回の冒頭掲載の絵「伝説のプレアデス」)

テニソンのうた
         
以下、少しく長文のスキャンになるが、この「改版」にのみ収められた源治郎の「旅日記」は面白い作品であるので、全文を収めて置きたい。これの初出は「天界」第33号(1923年10月号)に「米国天文台巡り」として掲載された。

   (2010年6月29日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月3日補正)


     改版の序に代えて-米国天文台の印象

改版の序1

改版の序2

改版の序3

改版の序4

改版の序5

改版の序6

改版の序7

改版の序8

改版の序9

改版の序10

改版の序11

改版の序12





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(24)

     新川入口

      第24回 『肉眼に見える星の研究』(4)

源治郎の『肉眼に見える星の研究』の大正11年の初版本にある「序」は、既に紹介済みであるが、あの中に、賀川豊彦の次の詩が引用されていた。

星さえあれば/友達はある//さようなら地球/さようなら!/黒土の自由は/もう我要らぬ/北天の空/我は飛ぶ//星さえあれば/地球は要らぬ/今宵一夜は/星に寝ん

そこには、詩のタイトルも引用元も記されていなかったが、この作品は大正8年11月に福永書店より出版された、賀川の処女詩集『貧民窟詩集 涙の二等分』にあるもので、「星さえあれば」と題された作品(69頁~74頁)の部分引用である。この詩集には、賀川とは10歳年上で、当時既に歌人として名を馳せていた与謝野晶子が、26頁にわたって論評した「序」を巻頭に寄せたことでも注目された。因みに、『涙の二等分』にある「星さえあれば」の原詩は、次のようになっている。(部分引用ということでは、詩集の書名ともなっている冒頭の有名な作品「涙の二等分」(1頁~12頁)は、長詩とはいえ引用される場合は殆ど部分引用であって、原詩を眼にすることは殆ど無い。) 

ほしさへあれば

ほしさへあれば2

ほしさえあれば3

     賀川豊彦『星より星への通路』(大正11年)

大正11年8月『肉眼に見える星の研究』が警醒社書店より出る3ヶ月前、賀川の「散文詩」「感想・対話」「短編・喜劇」を集めた『星より星への通路』という作品が改造社から出版されている。

今回最初に掲げた写真は、この本の初めに入れられたもので、賀川はそこに「私の13年間の住居」と説明を加えている。
この時はまだ長男・純基の誕生する前である。何が干されているのかよく判らないが、長屋の軒下が物干し場である。
賀川や近所の子供たちが、この家の前で写された写真はよく知られているが、賀川の住居だけを撮ったものは余り見当たらない。

       三浦清一編『賀川豊彦随筆集』の草稿発見

この春オープンした「賀川ミュージアム」では、神戸の賀川記念館で所蔵されている関係資料の整理が少しずつ進められているが、先日、下にあるような題名の書かれた400字原稿用紙400枚余りの古い草稿が出てきて、我が家に持参いただいた。

三浦原稿1

この作品は、敗戦間もない1946年2月に、神戸愛隣館の館長をしていた三浦清一牧師の手によって編まれた貴重なものである。

草稿の巻末には、「賀川豊彦氏と隋筆」と付けられた三浦氏の19枚の解説がある。大正初年ごろからこ敗戦の時までの数多くの賀川の小品を集め、独自に6章構成にして完成されている。

なぜこの草稿が眠ったままになったのか、その理由は判らないが、神戸の賀川ミュージアムでこれの取り扱い方について検討が始まることであろう。
 
三浦氏が、戦後間もなくこの編纂を手がけ、1946(昭和21)年早々に完成させたこの作業は、一部は印刷物から切り取り原稿用紙に貼り付けてあるが、多くは三浦自身の手で、丁寧に根気よく原稿用紙に書き写されたものである。

これには賀川の著書の序文も多く集められている。常々、賀川の作品の序文だけを編集し、適切なコメントを入れて作品に仕上げることも面白いかな、等と考えていたこともあり、三浦のこの労作には、個人的には心惹かれるものがある。

かつて賀川の随筆類は、作家の鑓田研一氏によって編集され、第一書房より『人生読本』(昭和11年)や『宗教読本』(昭和12年)として刊行され好評を博したことがあるが、詩人でもあった三浦清一氏によるこの草稿は、敗戦までのものとはいえ、重要な編纂作業であることには間違いない。

21世紀の今、三浦氏の労作を活かして、新しく賀川の膨大な作品の中から精選した「賀川豊彦随筆集」を編算するのも、大いに意義深いものと思われるがどうであろう。

(補記 上記の随筆集はいま、神戸の賀川記念館のHPにおいて、全文テキスト化されて公開されています。記念館の語り部の方によって丁寧な労作によるものです。ありがたいことです。)

       散文詩「星より星への通路」(「改造」大正10年9月号)

ところでこの三浦清一の草稿には、全頁に正確なノンブルが入れられているが、何故か54頁から65頁までが欠けている。「目次」を見ると、その欠けている所は『星より星への通路』の「序」を収める積りであったことが判る。 

確かにその「序」も面白いのであるが、いま源治郎の『肉眼に見える星の研究』をめぐって思い巡らしている私には、賀川の『星より星への通路』という書名と共に、その第一篇のタイトルも「星より星への通路(散文詩)」と名付けられ、しかもその最初が、「1921・8・15」の日付のある「星より星への通路」であることに、注目させられるのである。

先の第19回で取上げたように、「1921・8・15」ということは、「神戸大争議」で賀川ら幹部が検束され(大正10年7月29日)神戸監獄橘分監に収監(7月31日)、釈放されたのは8月10日で、その翌日あの「写真」は撮影されていたところまでが明らかになっていた。

そうすると、賀川がこの「星より星への通路」を執筆した「8・15」は、釈放後5日目のものであることが判る。
こうした経過を念頭にして、賀川のこの作品を読めば、彼はこのとき既に源治郎の『肉眼に見える星の研究』を手にしていたか、校正段階のものを読んでいたであろうことは充分想像のつくことである。

それで今回は、少しまた横道にそれるけれど、三浦草稿を機縁にして、賀川の「散文詩」である「星より星への通路」を、原著よりここに取り出して、ご一緒に読んで見たいと思う。 

星より星へ1

星より星へ2

星より星へ3

星より星絵4

星より星絵5

星より星絵6

星より星絵7

星より星絵8

山田典吾監督の映画「死線を越えて」におけるこの場面にも、この「星より星への通路」に書かれた「奴隷の国より自由の国へ、圧制の国より、解放の国へ、暗黒の国より、光明の国へ--駆け出す日であった。」の箇所が採られていたことは、ご記憶の方もあるであろう。

そして、ここにある「雲の柱」は、このあと直ぐ創刊となる機関誌の題名となり、「火の柱」も大正15年1月創刊の誌名となった。

なお、「星より星への通路」の初出は、大正10年9月1日の雑誌「改造」第3巻9号のようである。
 
      「雲の柱」(大正13年2月号)の「長屋の南京虫」

その後、賀川は、大正13年1月の「雲の柱」の「長屋の南京虫」の欄において、大正12年12月の出来事として、次のように書き残しているので、それもここに取り出して置く。

 「昨夜も、一昨日の晩も、吉田源治郎君の書いた「肉眼で見る星の研究」を手に持って、冬の星座を青年達と一緒に研究しました。星が花のやうに天に咲いて居ると、私は一人で昨夜も云うたことでした。青白い色を投げるシリウス、その右に見えるオリオンの帯や刀が昔も今も同じところに光っています。真上に見える、カペラや、牡牛も、幾億万年同じ所に座って、人間の地上生活を嘲っているようです。吉田君の本は面白くて上手に書けているのが、有難く思われます。古今の大天文学者ハアシルは天を覗いて神を否定するものは大馬鹿者だと申しましたが、みなさんも神を否定しない為に天を覗いて下さい。」

    (2010年6月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月2日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(23)

             えはがき
                     岩手県発行の絵葉書カバー

    第23回 『肉眼に見える星の研究』(3)

   宮沢賢治と賀川豊彦

賀川豊彦とは8歳年下になる宮沢賢治(1896~1933)のことは折々話題なる。
身近なところでは、雲柱社の現理事長・服部栄氏が、1984(昭和59)年5月の「賀川豊彦研究」(本所賀川記念館)第4号の巻頭言に「宮沢賢治と賀川豊彦」と題する小文を寄せておられた。当時本所賀川記念館の主事をされていた。貴重な文章であるので、ここに取り込んでおこう。

巻頭言服部の

「宮沢賢治の世界」は今や国際的な広がりを見せているが、今回「KAGAWA GALAXY吉田源治郎・幸の世界」をスタートさせることとなったのも、源治郎がこの『肉眼に見える星の研究』を書き上げ、それを宮沢賢治が読んでいたのではないかということを、そっと耳打ちされたことが、実は大きな要因であった。

源治郎牧師が「星の研究」をしていた事実だけでも、インパクトの強いものであったが、それに「宮沢賢治」が加わると、「吉田源治郎の世界」は俄然、その輝きを増してくるというものである。

    大沢正善「宮沢賢治と吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』」

ところでいま私に出来ることは、ここでひとつの論文を紹介することだけであるが、題名もそのものずばり、「宮沢賢治と吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』」という大沢正善氏の本格的な研究論稿である。

1989(昭和64)年の「奥羽大学歯学誌」(Vol.16(4) pp.184~201 )に掲載されたもので、「本論稿をまとめるのに約3年を費やし」た、と書かれているが、大沢氏は、日本近代文学の研究者として賢治研究でも名高いお方ようである。執筆当時は奥羽大学で教鞭をとられ、現在は岐阜聖徳学園大学教育学部の教授としてご活躍中である。

冒頭に掲げた「岩手県発行の絵葉書カバー」は、この論文執筆中の大沢氏が、1987(昭和62)年3月、吉田摂氏夫人・洋子氏宛てに届けられた封書に入れられた絵葉書のカバーである。その折の書簡には、「花巻の賢治記念館そばの『西洋料理店山猫軒』の売店で購入した絵葉書を同封しました」として、次の言葉もあった。

「・・3月に入って上京し、神田の古書店街に行ってみました。科学系の古書店を調べて、探し回っているうちに、思いがけず、『肉眼に見える星の研究』の関東大震災以前の初版本を発見し、購入してきました。幸運というほかありません。
その「序」には「私は、約5年ほどの伏見生活の記念として、本書を刊行し得たことを、何よりも嬉しく思ってゐる/私は、8月末、なつかしい此地を暫く去って、アメリカへの旅に上らうとしてゐる--/大正11年7月21日」とあり、初版本の刊行時日は奥付にある「大正11年8月20日」のことと思われます。この日付は宮沢賢治の『注文の多い料理店』という童話集の所収作品の成立時期を知る上で重要な鍵を握っているためにこだわってしまったのです。これからは、この初版本を頼りに、天文学も自分なりに勉強して、賢治研究に役立てようと思います。」

えはがき山猫

上の「山猫軒」は絵葉書の裏にあるもので、下は、10枚入り絵葉書の内の1枚である。

えはがき星列車

大沢正善氏の論文は、源治郎の『肉眼に見える星の研究』の初版本の発見・購入をばねにして、前記の通り「約3年を費やし」、1989(昭和64)年12月の発表となったのである。
 
ところで、今回は当初、この大沢氏の労作を要約して紹介して置こうと考えていたが、そんなことがいまの私に出来る筈もないことである。恐らくこの本格的な論稿に対しては、既にいくつかの論評など出ている筈であり、この主題に関連する今日の研究状況については、改めて学んでいく必要がある。

それでここでは、大沢氏の論文の最初に触れられている草下英明『宮澤賢治と星』(宮澤賢治研究叢書1、学芸書林、1975年)の「賢治の読んだ天文書」の項を、全文取り出して置き、最後に大沢論文の一部のみを、素人のコメントを加えず、資料として紹介することにする。

     草下(くさか)英明『宮澤賢治と星』の「賢治の読んだ天文書」より

草下英明(1924~1991)は、NHKの科学番組で「星のおじさん」として親しまれ、『星の百科』『星の文学・美術』などの多くの著作やH・A・レイ『星座を見つけよう』などの翻訳書を残している。

草下は、『宮澤賢治と星』を自費出版として1953(昭和28)年に甲文社で出版した。これを一部推敲を加えたものを、今回収める「宮澤賢治研究叢書1」として学芸書林より、1975(昭和50)年に出しているのである。この作品はさらに1989(平成1)年、新装版として同書林より刊行されたらしい。

なお、本叢書の「あとがき」には、「甲文社」版は自費出版で刊行元も「有名無実である」と書かれている。下の写真はその「甲文社」版であるが、表紙の題字は、宮澤清六氏にお願いして、賢治の書体をなぞってもらって印刷したものだそうである。ともあれ、草下の労作は、一定の話題を生んだのであろう。

星賢治と

賢治研究

文章1

文章2

文章3

文章4

文章5

文章6

文章7

文章8

文章9

文章10

大沢正善論文は、宮澤賢治の作品展開と重ねて、源治郎の作品との関連を、精緻に論証した重要論文である。この場での部分的紹介はやはり困難である。従って、ここには冒頭の頁と注記を含む末尾のみを収めさせて戴く。 

大沢論文1

大沢論文末尾のみ

大沢論文末尾注記
           
    (2010年6月23日記す。鳥飼慶陽)(2014年7月1日補正)




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