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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(83)

83-1やへ館
  「ヤへ・シバ館」の看板横は賀川豊彦(「神の国新聞」昭和7年3月9日付)

   第83回 一麦保育園と吉田源治郎(1)

既に「四貫島セツルメントと吉田源治郎」の項に於いて、賀川豊彦が大正15年10月に家族と共に、兵庫県武庫郡瓦木村高木東ノ口に移り住み、翌年(昭和2年)1月には杉山元治郎が隣家に転居して、瓦木村を拠点とした新しい動きが開始されて行ったことは、いくらか詳しく取り上げてきた。

それは、大正14年に米国留学と欧州の視察から帰国して、同年10月より四貫島セツルメントの設立に打ち込む傍ら、時を同じくして吉田源治郎は、賀川や杉山らの結成した「日本農村伝道団」の理事も引き受け、賀川宅に於ける一月にもわたる農民福音学校の企画をはじめ講師のひとりともなって重要な役割を担ってきたこともあり、瓦木村での日本農民福音学校や女子農民福音学校、児童林間学校のことにも、大凡の経過を追ってきた。

さらに、賀川の小説『一粒の麦』が昭和6年に出版されその印税も弾みになり、新たに瓦木村高木字南芝781の土地を購入して、昭和7年正月には日本農民福音学校校舎として「一麦寮」が完成し、源治郎自身も最初から深く関わってきた「イエスの友会」の関西冬期福音学校がここを会場にして開催することが恒例となり、それらに関する経過も毎年の事として詳しく取り出してきた。従って「一麦」という場所と建物は、既に馴染みのものになっているかと思われる。

そこで今回は上の写真に挙げたように、昭和7年3月の「ヤへ・シバ館」が「一麦寮」の東隣に完成し、同年4月1日には、賀川豊彦を園長に、吉田源治郎を主事にして始まったという「一麦保育園」の戦前の歩みを、手短に取り上げて置きたいと思う。

  梅村貞造講演用資料「賀川豊彦と一麦寮」より

梅村貞造氏は、現在も一麦保育園の顧問として活躍され、昨年94回に亘って連載できた「武内勝資料のお宝発見」の時から数多くの助言と手助けを頂いて来た方である。

本年(2010年)5月から始めることになったこの「吉田源治郎・幸の世界」の連載では、吉田摂氏と共に多くの貴重な資料を提供され、不十分な連載にも毎回適切なご注意と暖かい励ましを頂いている方である。

梅村氏は、一麦保育園のみならず、昭和22年3月17日に創立された日本基督教団西宮一麦教会(当時は一麦寮の2階の畳敷部屋で礼拝が行われた)に所属し、保育園と教会の重責を現役として担う人である。

ところで本年5月31日に、梅村氏より標記の講演資料「賀川豊彦と一麦寮」(以下「講演用資料」と略す)のコピーを頂いた。50コマほどのパワーポイントの資料であるが、その中から先ず「賀川が移り住んだ当時の瓦木村」の地図と、現在の一麦保育園・西宮一麦教会の案内図を取り出して置く。

83-2瓦木村

賀川豊彦は『雲の柱』昭和7年2月号の「武蔵野より」の欄で、次のように書いている。

一麦寮の完成に続いて「私の今やってゐることは、来るべき5年間のうちに農村へのバラック教会を二百ばかり建てたいことである。3間に5間のバラック教会をトタンで葺いて三百五十建ててみたい。そんなものを二百欲しい。二百。昼は農村の託児場で、夜はそこで農村学校と教会をやりたい。今その一つを摂津武庫川のほとりに建てている。」(『賀川豊彦全集』第24巻、139頁)

日本農民福音学校の寄宿舎「一麦寮」に付属して建てられた「ヤへ・シバ館」は「賀川氏設計の農村教会の雛形」で「建坪約15坪、坪当たり22円の割で、340円で建てることが出来る。人員は約150名は入れることが出来る。昼は農村託児所に使用し、日曜は礼拝、他の日に祈祷会、毎晩は農民福音学校の講堂として使へる。瓦木村では賀川氏夫人令妹芝八重子氏が寄付されたとて「ヤエシバ館」と命名してある。賀川氏は「全国にまづ約二百のかうした農村教会をほしい」といはれる」というコメントは、今回の冒頭に挙げた写真の下に説明書きされているものである。(なお、同じ写真は「火の柱」第49号(昭和7年3月)にも掲載されている。)

右下の「一麦保育園配置図」は「講演用資料」にある「『一麦寮』が建っていた頃の配置図」である。文字がつぶれて判読できないが、「一麦寮」の方が「保育室」で「保育園舎」とある方には「遊戯室」と書かれており、これがどうも「ヤへ・シバ館」といわれたところのようである。

83-3保育配置図

下も「講演用資料」より

83-4寮の写真
      
   梅村貞造「賀川豊彦と一麦寮<年表>」より
   (2008年9月7日に行われて「賀川豊彦講座」で配布された資料)
梅村氏は、「賀川豊彦献身100年」を記念した「賀川豊彦講座」でも「賀川豊彦と一麦寮」のテーマで講演を行っている。その時配布された標記の「年表」の中から、「一麦発祥以後」から昭和20年までの箇所のみを、講座案内の言葉と共に、以下に取り出して置く。

83-5年表まえの案内文

83-6年表1

83-7年表2

この年表は「雲の柱」「火の柱」「神の国新聞」ほか基本的な資料に当たって仕上げられたもので、1926(大正15)年から2002(平成14)年までの年表である。

なお、改めてこの講座資料を見ると、先に小さく収めた「賀川が当時移り住んだ瓦木村」の鮮明な地図が「一麦発祥当時の地図<昭和8年~11年頃>」と付記されて収められていたので、重複するがこれを次頁に収める。

83-8当時の地図

一麦保育園は数多くの先進的な保育実践をつみ重ねて、多くのところに報告記録が残されている筈であるが、手元に持ち合わせているのは、次の2冊の記念誌だけである。

83-9あゆみと保育の表紙

左の『45周年記念誌』は、創立の翌年(昭和8年)4月に主任として着任し、一麦保育園の中心を担った埴生操の「幼児と自然教育」の実践記録が主に収められ、右の『50年記念誌』は、50年にわたる一麦保育園の卒園生などの寄稿文を編纂したものである。

次の写真は『50年記念誌』の最初に飾られている「最初の園舎(ヤへシバ館)」と説明のある写真である。賀川と杉山の顔が見える。

83-10最初の園舎の前で写真

次に、昭和7年4月「一麦保育園」が賀川豊彦によって創設されてとき主事を担った吉田源治郎が、吉田幸と連名の文章を『50年記念誌』に寄稿しているので、それを読む。

83-11吉田文章1

次の写真は、これも『50年記念誌』に収められている「最初の園舎:園庭での保育風景」である。

83-12園丁の写真

今回の最後に同じ『50年記念誌』の中から、昭和8年第1回卒園生で「50周年実行委員長」を務めた石田幾子と元職員の松田伊勢子の2篇をここに収めさせて頂く。いずれも一麦保育園の創立期の様子が上手く描き出されている作品である。

83-13挨拶文章1

83-14文章つづき

83-15文章のつづき3

83-16文章4

83-17文章5

83-18文章6

83-19文章7

83-20新たな文章1

83-21文章2

83-22文章3

今回はここまでとして、次回も戦前の「一麦保育園」を辿り、戦後に進みたいと思う。
     
     (2010年9月27日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月31日補正)


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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(82)

82-1戦争写真

   第82回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会(6)

上の写真は、西宮夙川ロータリークラブの南野武衛(白鹿記念酒造博物館館長)らが纏めた著書(手元にはその中の数枚のコピーのみあり書名も刊行年も未確認)の20頁にあるもので、写真には「焼け野原と化した市街地一帯 後方に甲山が見える、森は戎神社」と解説が付けられている。

西宮の中心部は、昭和20年8月5日夜から6日の暁にかけて集中爆撃を受けたが、5月11日、6月5日、6月9日、6月15日、7月10日、7月19日、7月24日と連続的に爆撃を受け、大空襲となったのが8月5日夜半から6日にかけてのものであったようである。

   『幼稚園史』に記された「戦時下の保育」

82-2戦時下の保育2行分

82-3戦時下の保育つづき

82-4戦時下の保育さらにつづき

82-5戦時下の保育さらにつづく

上記の『幼稚園誌』の記述の中にも部分引用されているが、吉田幸が記した「戦時下の保育」という文章が残されているので、ここに収めて置く。

   吉田幸「戦時下の保育」
   (『基督教保育連盟関西部会創立五十年記念誌』昭和40年より)

82-6吉田の『戦時下の保育」

82-7吉田のつづき

以下、いま残されている戦前の写真の中から関係するものをいくつか収めて見たい。  
   
   戦前の写真

昭和13年 赤組 (右・吉田幸)

82-8戦前の写真13年

82-9写真のつづき
軽井沢に於ける基督教保育連盟の集いで(左端・幸 右端・敬子)

82-10写真12年軽井沢タッピング
 昭和12年 軽井沢のタッピング邸の庭で(前列右端・敬子)

  昭和3年 軽井沢のタッピング邸の庭で(前列右端・敬子)
82-11軽井沢の続き写真

 昭和16年 幼稚園と日曜学校合同の花の日礼拝
82-12昭和16年写真花の日

昭和7年 幼稚園の門の前 子どもたちは二葉幼稚園生
  母の会のドイツ料理講習会にドイツ大使館武官が見えた
82-13昭和17年門の前で

 昭和20年正月 四貫島春日出町の写真館にて 3月の空襲で焼け出された 
      (前列中央・吉田幸 右隣・摂と敬子 中央・間所基)
82-14昭和20年正月

最後に、キリスト教保育連盟発行『続・キリスト教保育に捧げた人々』(1988年)の中に、前回少し触れた「大中寅二」について書き残された大中香代の文章があるので、それを収めてこの項を終えることにする。

82-15大仲の文章1

82-16文章つづき

次回から戦前の「一麦保育園と吉田源治郎」の事を少し見て置きたい。   

     (2010年9月26日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月30日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(81)

81-1父兄写真

   第81回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会(5)

上の写真は、昭和17年3月29日、今津二葉幼稚園を会場にして開催されたキリスト教保育連盟関西部会の講習会に集まった人々で、小泉邸の芝生のある庭での記念写真である。

この時の事は『幼稚園史』に記されているので、その箇所を下に取り出して置く。

81-2文章始めの関西部会

  小泉功の未完の労作「教会音楽物語」と「教会楽人大中寅二先生」

ところで前回、『教会記念誌』の「教会戦前史年表」に関連して少し触れたかも知れないが、今津二葉教会のオルガニストで、幼稚園の音楽教育にも尽くした小泉功は、「小松栄」の筆名で『雲の柱』の昭和14年から昭和15年にかけて「教会音楽物語」を7回にわたって連載し、併せて更に「二葉薫」の筆名に変えて、同じ『雲の柱』の昭和15年3月から終刊号の10月まで8回にわたり「教会楽人大中寅二先生」を連載していた。

「教会音楽物語」は「音楽とは何か」「音楽の歴史性・社会性」「宗教と音楽」「教会音楽と日本音楽」など教会音楽の基礎概論を展開したもので、小泉功にとっては全体構想の「序説」にあたるもので「終刊」のため中断した労作である。

完成した著作として存在しているかも知れないが確認できていない。そもそもこの作品が『雲の柱』に登場することになった経緯は、吉田源治郎からの勧めがあってのものであった。

他方同時並行的に『雲の柱』を飾ったもうひとつの意欲作「教会楽人大中寅二先生」の方は、賀川豊彦の慫慂があってのことであったようである。

一知半解な言葉を綴るより、「二葉薫」が「終刊号」の連載の末尾で「読者の皆様に!」として、昭和15年9月5日付けの文章を残しているので、それを一読頂くことにしたい。

81-3読者の皆様に

81-4文章のつづき

作曲家でありオルガニストとして知られる大中寅二は、明治19年生まれ。初め大阪教会のオルガニストで、同志社大学ではグリークラブのテノールを、そして卒業後結婚してドイツに留学、というあたりまでが、この連載には綴られていたのではないかと思う。

大中は、作曲を山田耕作に学び、島崎藤村の詞に大中寅二が曲をつけた「椰子の実」をはじめ「白百合」「旅愁」など「国民歌謡の作曲者」として広く知られている。

長期間、東京・霊南坂教会のオルガニストとして活躍して教会音楽の発展に尽くし、昭和57年にその生涯を終えている。小泉功に多大な影響を与え人物である。

小泉功が『雲の柱』で連載中、賀川豊彦が「讃歌の音楽者大中寅二に捧ぐ」という小品を昭和15年3月3日に書き上げ、6月号に掲載したものがあるので、次に収める。

81-5賀川の文章讃歌


   メイスン・ハムリン社製 リード・オルガンのこと

 『教会記念誌』所収の小泉功「今津二葉教会の誕生とその後の推移について」を先に取り出した中に、神戸ユニオン・チャーチから四貫島セツルメントに譲渡され、昭和9年の室戸台風で修理不能のまま放置されていた標記のオルガンが、今津二葉教会に引き取られて修理され、昭和12年6月に小泉のオルガンで最初の日曜礼拝が持たれたことなどが、生きいきと記されていた事をご記憶と思う。

81-6オルガン

上の写真は、現在明治学院にある同型のオルガンで、リード・オルガンとしては最大級のものだそうである。残念な事に、今津二葉幼稚園(教会)で用いられたオルガンは、戦争で焼失した時に失われてしまった。

このオルガンに関しては『教会記念誌』所収の今井鎮雄(当時学校法人イエス団理事長)「甲子園二葉教会五十年誌に寄せて」の中に、今津二葉幼稚園がイエス団に移行された経緯と共に、今井は「賀川の日記」として取り出された賀川の言葉があるので、その部分を取り出して見たい。

下の文章81-7オルガン

81-8オルガン下の文章のつづき

ここに「賀川の日記」として引用されているのは、調べてみると『雲の柱』の昭和12年10月号にある賀川豊彦の「武蔵野の森より」の欄に書かれているものの部分引用のようである。

この箇所は『賀川豊彦全集』第24巻に収められている「身辺雑記」のところにも全文があるので、念のためそれを次頁に取り出して置く。

81-9文章さらにつづく

残念ながら、このオルガンの姿は今のところ写真では確認できないようで、『幼稚園史』には昭和16年ごろの幼稚園ホールの珍しい写真として、下のものが収められている。

81-10吉田・ピアノ・絵の或写真

話しているのが吉田幸、幸の後のカーテンの中に大きなオルガンがあるのだそうである。
正面に見えるのはピアノで、ピアノの横に架かっている絵は、長尾己の作品「眠る幼児」の油絵であるようである。
焼失した同型のオルガンを苦労して探し当てられたのが、前掲の明治学院に大切に所蔵されていたあの立派なオルガンであった。

序でにと言えばへんであるが、先程の今井鎮雄の寄稿文にある幼稚園の土地建物のイエス団への移行の件で、吉田源治郎の書き残した面白い文章があるので、ここに挙げて置きたい。

これは「四貫島セツルメントと吉田源治郎」の所で紹介した『百三人の賀川伝』に入っている「タンカを切る賀川」の中の、ひとつのエピソードの部分である。

81-11タンカを切る

昭和15年9月、小泉功は「二葉薫」の名前で作曲集『子供の歌』を日曜世界社より出版した。
これには「大中寅二」の「序」が付いている。

ここではその「序」と著者の「公刊に際して」を収め、3年後の昭和18年2月に刊行された「第弐輯」の中に収められている吉田幸作詞・二葉薫作曲「すずめ(音感教育のため)」の楽譜を、最後に入れて置きたい。

81-12子供の歌表紙

81-13子供の歌の序

81-14公刊に際して

81-15すずめ

今津二葉幼稚園と今津二葉教会に於ける、特に戦前期の活躍振りは、先の「教会史年表」を辿ればおおよそのことが確認できる。

小泉功は、由木康と共に『礼拝と音楽』誌などにもたびたび寄稿したり、賛美歌の編纂にも力を尽くし、現行の『賛美歌21』にも由木康詞・小泉功曲として378(栄光は主にあれ)収められて親しまれている。

なお、手元には持たないが、由木康・小泉功共著『古い歌・新しい歌』(日本基督教団出版局、昭和54年)も刊行されている。

吉田摂氏は、東京・東中野教会に於ける小泉功氏の葬儀に参列されたことを、先日の電話で話しておられた。
    
    (2010年9月25日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月29日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(80)

80-1協会メンバー

   第80回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会(4)

上の写真は、昭和14年1月22日の「日本基督今津二葉伝道教会建設式と記念講演会」の記念写真である。
この時主任牧師に就任した吉田源治郎が前列中央に、その左隣に当日建設式と就任式を司式した牧師・桑田繁太郎、右隣に小泉澄、その右隣は吉田ゆきと吉田敬子、桑田の左隣はマヤスと吉田幸である。

今回は二本立てで、ひとつは『教会記念誌』に寄稿した小川敬子の「甲子園二葉教会戦前の歩み」を、もひとつはこの項で既に紹介済みの小泉功所蔵資料をもとに『教会記念誌』の巻末に収められた「教会戦前史年表」を切り貼りして、ここに取り出して置く。

特にこの「年表」は、今津二葉教会のオルガニストでもあった小泉功が、教会が始まった昭和12年から17年までの週報を書き、すべての週報と総会の記録などをスクラップにして整理保存されていた事が、1991年の『教会記念誌』編纂の時に判明したという、このドラマも実に面白いことである。

先ず、源治郎の長女である小川敬子の寄稿文から。

80-2小川文章1

80-3小川文章2

80-4小川文章3

80-4小川文章4

80-6小川文章5

80-7小川文章6

80-8小川文章7

80-9小川文章8

   年表

80-10年表1

80-11年表2

80-12年表3

80-13年表4

80-14年表5

80-15年表6

惜しくもこの年表は、昭和17年3月29日以降が空白であるが、上記の年表をよく見渡して見ていると、年表というものは、これまでの「吉田源治郎・幸の世界」をいっそう確かな時の中で想起させるのに役立つものであることを知らされる。

それにしても、小泉功はよくもこれらをスクラップブックに整理保存していたものだと思う。彼は戦時下、急遽ペンネームを変え、住まいも東京に移し上記「追記」に記されている「東京・東中野教会」に属したようである。

「東京・東中野教会」というのは、大正10年に由木康が牧師として着任した「東京二葉独立教会」を前身とする教会であるが、由木康は津川主一と共に吉田源治郎の『肉眼に見える星の研究』の巻頭にうたを収める仲であった。

余談であるが由木康は、間もなく終わるNHKテレビの連続ドラマ「ゲゲゲの女房」の水木しげるの故郷・鳥取県境港と同郷であった。東京二葉独立教会就任以来、50年にわたり東中野教会の牧師をつとめ、小泉功と同じく教会礼拝学・賛美歌学に打ち込んだ人である。言うまでもなくパスカルの『パンセ』ほかの訳者であり、パスカル研究者として広く知られ、晩年、講演・説教・随筆などを纏めた『日本人とキリスト教』(春秋社、1972年)も好著であった。
                
    (2010年9月23日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月28日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(79)

79-1卒園写真

    第79回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会(3)

この項の第1回と第2回は『教会記念誌』所収の吉田幸のインタビュー並びに小泉功の報告を取り出し、幼稚園と教会の大まかな流れを概観し、昭和2年と昭和4年の卒園記念写真を掲載した。上の写真は昭和6年3月の卒園写真、下の写真は昭和7年のものである。

79-2本文の卒園写真

 『幼稚園史』にも多くの写真が収められているが、園史編纂のために蒐集された未掲載の写真も揃えられているので、今回は今津二葉幼稚園の戦前期に写された卒園記念写真を、時々のトピックス(昭和9年のNHK大阪放送局「JOBK」ラジオ出演)を挟みながら、まとめて収めて見たい。

    昭和7年3月卒園記念

79-3つづいて写真

昭和8年3月卒園記念

79-4つづく写真8年

   昭和9年3月卒園記念

79-5写真9年

    昭和9年頃「母の会」の余興 
    袴は手作り 新聞紙で出来ている。後の壁と扉の所は昭和12年に改装しオルガンが設置された

79-6母の会9年

   昭和9年11月10日:JOBKで「収穫感謝祭」(『幼稚園史』より)

 『幼稚園史』には、下に取り出している新聞記事と写真入りの出来事を、興味深く紹介している。
この幼稚園における幼児教育の取り組みは、すでに当時注目を集めていたことの証しであるが、以下の文章に書かれているように、昭和の初年から子供向けラジオ番組に意欲を傾けていた足立勤が、昭和7年には「大阪童話教育研究会」を作るなどして、二葉幼稚園の試みに関心をもち、ラジオ番組への出演へと繋がったのであろう。

前回取り出した小泉功も、すでに「子供の歌」に影響を与え、賀川豊彦や吉田源治郎の幼児教育への貢献も少なくはないであろう。「吉田幸は月に1回ラジオ放送に出演、<お話のおばさん>として、時に全国放送をすることがあった」とも記されているから驚きである。

JOBK(大阪放送局)のこのスタジオは「赤いビロードのカーテンに囲まれた」ものであったとか。

79-7ラジオ出演

79-8つづきラジオ

お預かりしている資料の中に、昭和9年に毎日新聞が撮影したという甲子園球場の写真がある。
前に昭和5年の甲子園球場の写真を収めたが、二葉幼稚園の場所も拡大してみれば確かめることが出来るかも知れないので、少し周辺をカットして、ここに収めて置く。

79-9甲子園球場

 昭和10年3月卒園記念

79-10卒園写真10ねん

   昭和11年3月卒園記念

79-11卒園写真11年

 昭和12年3月卒園記念

79-12卒園写真12年

    昭和13年3月卒園記念

79-13卒園写真13年

    昭和14年3月卒園記念(第17回)

79-14卒園写真14年

    昭和15年頃の卒園式 幼稚園の小さい椅子に座って礼拝をしていた       

79-15卒園写真15年

    昭和18年3月卒園記念

79-16卒園写真18年

以上、吉田幸が今津二葉幼稚園で働いた期間のうちの戦前期、昭和2年から昭和18年までの卒園記念の写真を収めてみた。昭和2年は第1回に、昭和4年は第2回に収めたが、今回は昭和6年から18年までのものである。欠けている年もあるが、『幼稚園史』の編纂の折り、関係者から寄せられた、大切なお宝である。
    
    (2010年9月22日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月27日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(78)

78-1甲子園写真

   第78回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会(2)

上の写真は「空からの撮っておき:毎日新聞の写真今昔」(1993年3月15日夕刊)にある昭和5年の甲子園球場である。第7回春の大会がこのとき開かれた。
今津二葉幼稚園は、甲子園球場上の甲陽中学の直ぐ左あたりにあったようである。

  今津二葉幼稚園の戦前の園舎(『幼稚園史』17頁18頁)

『幼稚園史』には、昭和9年当時の甲子園球場の写真とその周辺の説明があり、次のような「戦前の園舎」に関する記述がある。

78-2今津幼稚園戦前の園舎文章1

78-3文章のつづき

さて今回は、『教会記念誌』に寄稿されている小泉功の玉稿「今津二葉教会の誕生とその後の推移について」を取り出して置きたい。

78-4小泉の写真

小泉功は、今津二葉幼稚園の創立者であり初代の園長(1923年~1937年)であった「小泉澄(きよし)」(上の写真)のご子息である。小泉功のこの文章は16頁にわたる力作で、内容的にも重要な報告であるが、長文のためここではやむなく、父・小泉澄に関する前半部分を割愛し、後半10頁のみを掲載させて頂く。

   小泉功「今津二葉教会の誕生とその後の推移について」(『教会記念誌』より

78-5小泉の文章1

78-6文章2

78-7文章3

78-8文章4

78-5小泉の文章5

78-6文章6

78-7文章7

78-8文章8

78-9ぶんしょう9最後

この報告の最後のところに、小泉功は数行を用いて、次のように記している。

「時勢は逆行的であり、学校におけるわたしの身辺も危うくなってきましたので、昭和17年3月29日の聖日礼拝を最後として、隠遁のような形で東京へ身を移しました。その日の今津二葉教会のオルガン奏者は、小泉功ではなく、二葉薫(わたしの音楽上のペンネーム)となっております。」(文章を少し省略した)

実は先に『雲の柱』を追っていた時、「二葉薫」は最初「小松栄」の筆名で、昭和14年9月号より「教会音楽物語」の連載を始め、連載途中の第4回(昭和15年1月号)から「二葉薫」に変更して、昭和15年6月号まで第7回の連載を残し、加えて同じ「二葉薫」名で、「教会楽人大中寅二先生」と題する新たな連載を昭和15年3月号から10月号(「終刊号」)まで8回の連載を続けており、終刊がなければ、さらに連載も続く勢いであった。

なぜ「小松栄」は連載途中で「二葉薫」筆名を変えたのか、そのときの『雲の柱』の編集後記の書き方がずっと気に懸かっていたので、小泉の上記の数行で、一応の納得を得ることが出来た。

小泉功が最初「小松栄」のペンネームを「二葉薫」にしたのには「二葉幼稚園」の「二葉」と無関係ではないであろう。『幼稚園史』の「園名の由来」のところには「土曜学校が「二葉子供会」の名称ではじまったことによる」とある。
 
最後に、前回の昭和2年3月の二葉幼稚園卒園写真に続いて、今回は2年後(昭和4年3月)の記念写真を収めて置く。
                     
78-14写真
   (上) 小泉邸の庭 小泉夫妻を真ん中に 右2人目が吉田幸

    (下)卒園式の日に 母の会で全員着物姿 前列左4人目が吉田幸

78-15写真つづき

   (2010年9月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月26日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(77)


77-1高木地図

   第77回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会(1)

上の地図の制作年は分からないが、右上の武庫郡瓦木村(一麦寮の建てられた場所)と中央下の武庫郡今津村(今津二葉幼稚園・今津二葉教会と吉田一家のあった場所)とは、近距離にあることが分かる。

既に見てきたように、吉田源治郎は大正14年7月初旬、米国留学と欧州視察を終えて帰国し、ふたりの故郷・伊勢で留守を守り幼稚園で働いていた幸のもとに直行、その後の住居を、上掲今津駅の近くに求めたのであった。源治郎はここから大阪の四貫島セツルメントの設立に奔走することになった。

そこで今回から暫く「今津二葉幼稚園と今津二葉教会」の項を起こして、幼稚園は吉田幸が、教会は吉田源治郎が、共に力を尽くしてきた戦前期の働きを、できるだけ手短に辿って置きたい。昭和20年8月の米軍による空襲で、無残にもこの幼稚園と教会も、四貫島セツルメントと同様、全て灰塵に帰して仕舞うのである。

実は、この幼稚園と教会の戦前期の歩みに関しては、既に二つの行き届いた刊行物が存在する。
一つは、1991(平成3)年3月に作られた『日本基督教団甲子園二葉教会 創立五十周年記念誌―1939年~1989年歩み』(以下『教会記念誌』と記す)であり、もう一つは、2003(平成15)年12月に出版された『甲子園二葉幼稚園八十年史』(以下『幼稚園史』と記す)である。

いずれも新しい刊行物であり、関心をお持ちの方は発行元にお問い合わせの上、現物を一読いただくことを期待して、ここでは、いま手元にお預かりしている写真その他関係資料と、上記二つの刊行物に収められている夫妻の言葉や関係者の証言などのいくつかを紹介して置きたいと思う。

最初に地図がもう1枚あるので収めて置く。冒頭に掲げた地図の年代は明確ではないが、下の地図は明治44年のもので瓦木村と今津村があり前掲の地図より少し古いようである。

77-2本文の地図

   吉田幸「二葉幼稚園と教会のはじまり」について(『教会記念誌』より)

77-3吉田幸の文章1

77-4吉田幸の文章2

77-5吉田幸の文章3

77-6吉田幸の文章4

77-7吉田幸の文章5

77-8吉田幸の文章6

77-9吉田幸の文章7

77-10吉田幸の文章8

77-11吉田幸の文章9

この吉田幸の語りは、ご覧の通り源治郎亡き後、幸の最晩年のものである。聞き上手・語り上手、上手な纏めである。吉田幸という方の人柄がよく伝わってくる語りである。

今回は写真2枚収めて置きたい。薄くて判読困難であるが裏書があるのでそれと共に。

  昭和2年3月 小泉先生の芝生のお庭 小泉園長夫妻 木村てるの 吉田幸

77-12写真裏書

77-13写真

上の写真と同じとき(昭和2年3月)の二葉幼稚園卒業の日の在園生と共に写した写真。これにも裏書があるので、それと共に収めて置く。

77-14追加写真裏書

77-15写真

    (2010年9月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月25日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(76)

76-1卒業式

   第76回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(31)

本連載の第2回で岡本栄一氏作成の「吉田源治郎先生を中心にした四貫島友隣館の年表」を掲載したが、ここで改めて昭和19年から戦後はじめのところを再掲させて頂く。

76-2年表1

76-3年表2

   『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』「戦前篇」17頁~21頁

76-4五十年のあゆみ1

76-5五十年のあゆみ2

76-6五十年のあゆみ3

76-7五十年のあゆみ4

   「四貫島友隣館・天使保育園・四貫島教会 創設40年記念号」より 
     「流域」第133号(昭和40年10月1日)

戦後、四貫島の復興に貢献した小川三男牧師の後任として、小川秀一牧師が昭和27年4月より就任し、昭和36年の第二室戸台風による大きな被害をも乗り越え、昭和37年には「四貫島ユースセンター」「四貫島教会堂」の竣工を行い、昭和40年(1965年)10月3日には「創設40年記念」の礼拝(吉田源治郎)と講演会(賀川ハル)」を開催している。
小川秀一編集発行の「流域」(標記記念号)の中から、戦前の関連するところを取り出して置きたい。

76-8創設記念号1

76-9創設記念号2

76-10創設記念号3

76-11創設記念号4

76-12創設記念号5

以上「四貫島セツルメントと吉田源治郎」が30回を越えて長くなったが、この項の最後に、既述の2005年に刊行された『四貫島セツルメント創立80周年:輝け、命』の中から、「創設者」と「歴代館長」の短い紹介部分のみをここに取り出して置く。最後に挙げられている小川居館長は、惜しくもこの年逝去されている。

76-13創設者の紹介賀川

76-14吉田

76-15小川

76-16小川父4

76-17小川子5

ところでこれから暫くは、「吉田源治郎・幸の世界」の戦後に進む前に、戦前までの歩みに関連して殆ど取り上げることの出来ていないいくつかの事項――特に、「吉田幸の今津二葉幼稚園の働き」や「日本基督今津二葉伝道教会の設立」以後のこと、さらに吉田源治郎が園長を務めた「一麦保育園」のことなど――を概観して、その上で「戦後の吉田源治郎と幸の世界」へと進もうと思う。従って次回以降もなお暫く、戦前の歩みを辿ることになる。

     (2010年9月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月24日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(75)

75-1保育写真

   第75回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(30)

上の写真は「天使福音学校 保育修了記念 昭和16年3月」のものである。

75-2関西修養会

この年も正月2日から4日までの3日間「一麦寮」に於いて「イエスの友関西冬期福音生活学校」が開かれ、「火の柱」第137号(昭和16年2月)にその報告がある。そして「農民福音学校」もこの年までは継続されている。但し「農民福音学校は継続したるも記録なし」(前掲『農民福音学校』200頁)とあるように、詳しい内容は紹介することは出来ない。

ところで、「火の柱」を捲っていると、この困難な時の中にあっても、2月11日には今津二葉幼稚園に於いて「賀川社会事業関係者関西修養会」が開催されており、さらに3月25日から7日までの3日間は、「一麦保育園」を会場にした「自然観察・和音感教育講習会」という新たな試みを開催していることが「掲示板」で確認することが出来る。
いずれも「火の柱」第139号(昭和16年3月)に記されているので、次に取り出して置く。

   源治郎の短信「火の柱」第141号昭和16年5月

75-3吉田火の柱短信

75-4イエスの友会夏季修練かい


「火の柱」第143号(昭和16年7月)には「イエスの友夏期修養会及び全国大会」開催案内が出ているが、急遽中止となっている。

「火の柱」には予告も報告も載っていないが、一麦寮に於ける正月恒例の「関西冬期福音生活学校」は、昭和17年も開催されている筈である。

また、前年中止となった「夏期修養会」は、右の「案内」のように昭和17年8月に「イエスの友夏期修練会」と名づけて開催準備が進められている(「火の柱」第155号(同年7月)掲載)。これも「火の柱」には集会の記録は確認できないが、予定通り開催されているようである。

そのことは、次頁に挙げる報告記録「関西イエスの友の実績」(「火の柱」第169号(昭和18年10月)の末尾のことばから推測できる。しかしこれも記録として確認はできていない。但し、昭和18年の「夏期修練会」は「時局柄」中止になったようである。

   「火の柱」第169号(昭和18年10月)

75-5火の柱169号開拓1

以上今回は結局、「火の柱」の昭和16年以後を、ここまで追って来てしまった。
前回まで参照してきた『雲の柱』は、昭和15年10月号を以て「終刊」となったが、「火の柱」の方は、昭和19年5月「第176号」まで発行を継続し、遂にこれも「終刊」に追い込まれている。

これまで見てきたように、吉田源治郎は、賀川豊彦の個人雑誌である『雲の柱』に加えて、機関紙「火の柱」にも、「イエスの友会」設立の初めから途切れることなく深い関わりを持ち続けてきた。初めて今回「終刊」のところまで捲ってみたが、吉田源治郎はこれ以後、あと二つの作品をここに寄稿していることが分かった。

一つは、賀川が富田象吉の告別式で述べた式辞を筆録したもの、もう一つは、農民福音学校の講師の一人でもあった川瀬勇からの聴き書きである。
今回はそれを最後に取り出して置きたい。

   (2010年9月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月23日補正)
      
    「火の柱」第171号(昭和18年12月)

75-6補記火の柱171号の1

75-7火の柱171号2

75-8火の柱171号3

   「火の柱」第174号(昭和19年3月)

75-9火の柱174号1

75-10火の柱174号2


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(74)

74-1豊島の賀川

   第74回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(29) 

上の記事は「火の柱」第134号(昭和15年10月)にあるものであるが、既に前号にも触れ、この記事にもあるように、賀川豊彦は逮捕・拘留・釈放のあと「直ちに豊島へ」渡っている。

昭和15年の歩みの前半については既述の通りであるが、この年の大事件はこの出来事であった。
予告の通り今回は、急遽「終刊号」となった『雲の柱』10月号を取り上げ、そこに収められた四貫島セツルメントと消費組合大阪共益社の事業概要を収める。

74-2四貫島のセツルメント

74-3セツルメントつづき

74-4さらにセツルメントとつづk

74-5さらにセツルメントtづき

74-6さらにつづく

74-7さらにつづく(これで終わり)

ここに収めることの出来た吉田源治郎と間所兼次の報告が「終刊号」に収められていたことは、本当に有り難い事である。

吉田源治郎の昭和15年9月13日に記した「四貫島セツルメント」は、書き始めのところに「武内勝」のことが取り上げられているのを読んで、心を熱くさせられてしまった。昨年このサイトで「武内勝」をずっと追い続けて「苦労人・武内勝」の物語が蘇って来たからである。

ともあれ、吉田源治郎自らが綴った「四貫島セツルメント」の働きがこの雑誌に記録されていたことは重ね重ね有り難い事である。

この報告によれば、昭和15年9月下旬には「15周年記念」の催しが準備されている。賀川豊彦は瀬戸内の「豊島」へ渡っているので、これには出席できていないであろうが、今のところこの時の記録や写真など確認できていない。

なお、吉田源治郎のこの報告には、昭和12年に西宮市今津高潮町の今津二葉幼稚園の経営に任ぜられたこと、また同幼稚園内に今津二葉教会を創設したことなども記されている。

たびたびお断りしているが、本連載を「吉田源治郎・幸の世界」としながら、「吉田幸」のことをいつも後回しにし、「四貫島セツルメントと吉田源治郎」を追う形になっている。間もなく一区切りがつくので、あと暫しお待ちあれ。

この報告の最後のところには、昭和15年現在の職員も挙げられている。
館長が吉田源治郎、副館長が間所兼次、保母に吉田敬子。そして今津二葉幼稚園の主任保母は吉田幸の名がある。

吉田源治郎の「四貫島セツルメント」の報告のあとに、間所兼次による「消費組合共益社」のものもここに収めた。
本連載の第11回から第17回まで「共益社と間所兼次」のことを取り上げて見たが、この報告は、大正9年から昭和15年までの20数年間にわたる激動の「共益社」を、間所兼次自らの諸経験を交えて、簡潔に綴った、これまた貴重な記録である。

なお、この「終刊号」には「生野聖浄会館」「馬見労祷学園」などの報告もあるが割愛した。賀川豊彦の巻頭説教「エレミヤ哀歌に学ぶ」、村島帰之の「雲の柱十九年私史」など収めて大きな節目とした。

『雲の柱』は、賀川豊彦主筆の個人雑誌として刊行され続けてきたが、これまで取り出してきたように、吉田源治郎の場合だけを見ても、重要な学術的論文を自由に寄稿できる場となり、KAGAWA GALAXYの大切な「ひろば」となってきた、稀有な雑誌であった。

「四貫島セツルメントと吉田源治郎」を綴る上でも、基礎資料の少ない中で、この雑誌に度々登場してきた吉田論文の存在が、やはり大きな柱になっているように思われる。

昨年「武内勝所蔵資料」を閲読する折、不揃いながら『雲の柱』のバックナンバーが多く残されており、今回その原本をそのままスキャンして活用する事が出来たのも幸いした。そして不揃い分は「賀川ミュージアム」にある『雲の柱:復刻版』を全巻少しずつお借りして関係箇所をコピーし、ここに掲載してきたが、はじめて今回この雑誌を一通り、ざっとではあるが、眺め通す機会となった。

従ってこの後の昭和16年以降は、イエスの友会の機関紙「火の柱」が頼りになる。
幸いこれも「復刻版」が「賀川ミュージアム」にあるので、これまで通りそれをお借りしてコピーし、必要な箇所をスキャンして埋めていこうと思っている。

    四貫島の地図

今回の最後に「四貫島の地図」を掲げて置く。
これは先日(2010年9月16日)、吉田摂氏から郵送して頂いたものである。書面には「小川先生から送られた地図(四貫島セツルメント周辺)戦前戦後のものです」と記されている。「小川先生」は、「四貫島友隣館館長・(特養)ガーデン天使園長」の小川佐知子氏で、この連載にも力添えを頂いている方である。この連載をスタートしたあと、わたしは一度お訪ねしただけで、「四貫島周辺」のことはいうまでもなく、大阪という街は、まったく不案内である。

お送り頂いた地図を見てもよくわからないままに、今から適当(?)にコピーをして、以下に紹介して置きたい。
現在の地図と重ねて見て貰えれば、分かり易いかもしれない。

   「昭和12年2月調べ 最新の此花区」より「区政一覧」

74-8区政一覧

「昭和12年2月調べ 最新の此花区」より

74-9最近の此花区地図

    昭和7年の四貫島セツルメント周辺

74-10セツルメント周辺の地図

    戦後の地図であるが年代不明(国道43号線はまだ開通していない)

74-11戦後の地図年代不詳
        
     昭和10年~18年ごろの千鳥橋筋

74-12昭和10年ごろの千鳥橋

    昭和10年~18年ごろの此花公園(現区役所)付近

74-13昭和10年ごろのこの花公園

 次回は昭和16年以降に進む。

     (2010年9月18日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月22日補正)





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(73)

73-1一麦寮
 
   第73回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(28)

上の写真をよく見れば、前の横長の文字は「神との交際を深める」と書かれている。「一麦寮」をバックに写された昭和15年正月の「関西冬期福音生活学校」のものである。まだこの頃周辺は、広々とした田んぼに囲まれている。

次の短い報告は、この「福音生活学校」のもので『雲の柱』2月号にあるものである。

73-2本文元冬季福音生活案内

今回も先ず『雲の柱』にある二つの集まりの予告案内を挙げて置く。いつもながら吉田源治郎は、講師を受け持ちつつ、裏方のひとりとして開催準備の企画者でもある。

73-3つづいて福音生活案内

73-4つづいて農民福音学校案内

 毎回一ヵ月にも及ぶ農民福音学校であるが、短い報告が「福音学校主事」である金田弘義によって『雲の柱』3月号に寄稿されているので、ここに収める。

73-5雲の柱への農民学校の報告1

加えてここに、四貫島セツルメントの吉田源治郎のことにも触れた、賀川豊彦の「武庫川の畔より」(『雲の柱』2月号)があるので、これもここに収める。

73-6賀川の武庫川記事

賀川の文章

さて、今回も『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』の中の「戦前篇」を、右に取り出して置きたい。機関誌「流域」は、この年の第22号を以て中断されていくが書かれている。

73-750年の歩み9行分

   吉田源治郎「『日輪を孕む曠野』を讀む」

賀川のこの小説の表紙は、手元にあるが少々汚れているので、本書の最初の扉にあるものを、下に収めて置く。表紙よりもこちらの方が、素人目には良いように思える。

73-8日綸表紙

これは昭和15年3月、大日本雄弁会講談社より出版され、早々に吉田源治郎がその読書評を『雲の柱』6月号に寄稿している。なかなか味のある筆致で紹介しているので、以下に挙げて置く。

73-9吉田日輪読む

73-10吉田日輪読む2

73-11吉田日輪読む3

ところで、愈々賀川豊彦は、「昭和15年8月25日、松沢教会で「エレミヤ哀歌に学ぶ」を説教 反戦運動の嫌疑で渋谷憲兵隊に拘引され、後巣鴨拘置所に入れられるが松岡洋右の要請で9月13日釈放される。」(『賀川豊彦写真集』巻末年表)事態を迎える。

そして遂に年度途中の10月号をもって『雲の柱』は「終刊」となるのである。
 
次回には、「終刊号」となった『雲の柱』に寄稿している吉田源治郎の文章などを取り出すことにする。

それで今回の最後は、雑誌『子供の教養』(昭和14年11月号)に寄稿した論文「保育に於ける自然研究」を見つけたので、ここに収めて置きたい。

73-12子供の教養表紙

この雑誌は昭和4年4月から月刊雑誌として「子供の教養社」が出版している。本号は第11巻であるが、何時まで出ていたのか、吉田源治郎の論文はこの雑誌にどれほど寄稿されていたのか、確認できていない。「基督教家庭新聞」と同様に、吉田源治郎は関係を蜜にしていたのではないかと思われるのであるが、いずれそれも明らかになる筈である。

73-13吉田論文1

73-14吉田論文2

73-15吉田論文3

73-16吉田論文4

73-17吉田論文5

73-18吉田論文6

73-19吉田論文7

73-20吉田論文8

73-21吉田論文9

73-22吉田論文10

73-23吉田論文11

以上、今回も頁が多くなってしまった。内容的には、最後の論文は独立させるべきであったかも知れない。
     
   (2010年9月17日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月21日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(72)

72-1神の国新聞

   第72回 吉田源治郎の「神の国新聞」寄稿作品(2) 

前回に続いて「神の国新聞」への寄稿作品をコピーして貼り付けて見たい。
時代は益々逼迫する中での、吉田源治郎のことばである。

   昭和15年2月14日:「主はみこころなし給わん」

72-2主はみこころ

72-3主はみこころ2

72-4主はみこころ3

   昭和15年6月12日:「いのりはきかれる」        

72-5祈りのタイトル3行分

72-6いのり本文1

72-7いのり本文2

72-8いのり本文3

    昭和16年3月5日:「わが恩恵(めぐみ)汝に足れり」

72-9つづいてわがめぐみ1

72-10わがめぐみ2

   昭和16年4月9日:「福音は人と大地を活かす」

72-12労働しつつ

72-13福音は2 はじめが欠けているので確認

72-14福音は3

 昭和16年9月10日:「新秋の瞑想」

72-15つづいて「見よ」1

72-16見よ2

72-17見よ3

   昭和16年10月1日:「或夕べ長田穂波氏と語る」

72-18霊魂1

72-19霊魂2

賀川豊彦と与謝野晶子の序文が収められた長田穂波の詩集『霊魂は羽ばたく』(光友社、昭和3年)を先日(2014年7月)入手できた。

以上纏めて掲載することが出来た。昭和16年まで進んでしまったが、次回は「四貫島セツルメントと吉田源治郎」(28)として、昭和15年を取り上げる。

    (2010年9月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月20日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(71)

71-1神の国新聞タイトル

   第71回 吉田源治郎の「神の国新聞」寄稿作品(1)

   昭和14年2月8日付:小さな説教
    
71-2小さな説教1

71-3小さな説教2

   昭和14年3月29日:信仰実話

71-4信仰実話1

71-5信仰実話2

  昭和14年4月5日:童話「子猫と子鼠 仲よしこよし」

71-6仲良し1

71-7仲良し2

71-8仲良し3
 
   昭和14年5月17日:「三分間のすすめ」

71-9三分間1
 
  昭和14年6月14日:「朝日のごとき旅をして楽しむ」
 
71-10朝日のごとき1

    昭和14年9月13日:「聖書随想」

71-11聖書随想1
 
    昭和14年9月20日:「聖書随想」

71-12聖書随想2月20日1

71-13聖書随想2月20日つづき2

以上、吉田源治郎が「神の国新聞」に寄稿した昭和14年分の作品である。掲載順に並べて見た。
新聞をコピーして切り貼りをして繋いだもので、決して読み易いものではないが、いくらか拡大して収めて見たので、一読願えれば有り難い。
 
源治郎は引き続いて、翌昭和15年と16年の「神の国新聞」へ作品を寄せているので、次回も同様に切り貼りをしてお目にかけるべく準備をしたいと思う。

      (2010年9月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月19日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(70)

70-1結核保養

   第70回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(27)

上の記事は「火の柱」第112号(昭和13年12月)に掲載されているものである。その次の号(昭和14年1月)には、賀川ハルが小川清澄・河合義一両氏と共に、初めて「豊島」を訪ねた記事が入り、上の訴えに応えて全国からの献金が寄せられ、毎号のように「奥座生」の「豊島便り」が連載されている。

「奥座生」とは「奥座克己牧師」のことで、昭和13年春から留子夫人と共に「豊島」に来て、賀川の「豊島に於ける保養農園づくり」に関わっていた方のようである。

その詳しい経緯は、当時(昭和13年夏)結核療養のため豊島で生活を始めた緒方彰氏の著書『鷲のように羽ばたく―ある労働行政マンの半生』(キリスト新聞社、1983年)の「豊島の神愛保養農園」の項に記されている。この「保養農園(神愛館)」は地元の反対で昭和14年に閉鎖されるのであるが、その経緯も本書に詳しい。
 
ところで、吉田源治郎も昭和14年5月8日、升崎外彦と共に「豊島」を訪ねている。その報告が『雲の柱』6月号にあるので、次に取り出して置く。後にここで「豊島農民福音学校・立体農業研究所」を続ける藤崎盛一の報告も、途中までであるが併せて収める。

70-2吉田の豊島報告

70-3吉田の豊島報告2

  『四貫島セツルメント:五十年のあゆみ』に見る昭和14年の動き(14頁~16頁) 
  この年の働きを取り出す前に、先ずいつものように、下記の記録を読んで置く。

70-450年のあゆみ1

70-550年のあゆみ2

70-6つづいて統計記録

ここには、「大阪イエス団教会」の「昭和13年末現在」の会員数や礼拝出席数、日曜学校や献金額、さらには所属していた「日本基督教会浪速中会58教会中の順位」までが記載されている。

別の関係資料によれば、「昭和2年、浪速中会出張伝道地・試補教師・吉田源治郎」とあり、「大阪イエス団教会・大阪市此花区四貫島大通3丁目7・昭和2年12月18日設立」となっている。

また、貴重な統計記録もあるので、先ず下に昭和16年に「日本基督教団」に属するまでのものを収めて置く。 なお、昭和10年より「北港児童会館」(大阪市此花区秀野町43)に於いて「大阪イエス団教会の北港伝道所」として、活発な働きを重ねている。記録によれば、「大阪イエス団教会」は前記の通り、昭和2年12月18日が創立年月日になっていて、昭和15年3月30日が「教会設立認可年月日」と記されている。

また前掲『四貫島セツルメント創立80周年:輝け、命』(2005年)の「四貫島セツルメントの歩み」(年表17頁)によれば、「日本基督教団」への加入と「大阪四貫島教会」への名称変更などに関して、次のように記されている。

「1941(昭和16)年6月 大阪イエス団教会は1940年施行の宗教団体法による教会合同により日本基督教団に加入し、大阪四貫島教会となった。前後して四貫島セツルメントは「友隣館」に、天使保育学校は「天使保育園」と改称。」
「1945(昭和20)年8月 終戦。大阪は瓦礫の巷と化し、すべての事業が休止状態となった。」
「1945(昭和20)年9月 吉田源治郎館長・牧師退任」
 
前に「大阪イエス団教会」の時までの統計資料を上げてあるが、「日本基督教団・大阪四貫島教会」以後のメモもあるので、ここに取り出して置きたい。

70-7大阪四貫島教会の記録

さて、これまで年毎に、年頭の二つの「福音学校」の「案内」を掲げてきたが、昭和14年も同様に「一麦寮」を会場にして、盛会の内に開催されているので、ここに収めて置く。なお、この年の正月2日から4日までの福音学校は、名称を「イエスの友関西冬期福音生活学校」として、新たに「生活」という言葉を挿入している。

70-8イエスの友冬季学校案内

70-9つづいて農民福音学校案内

  吉田源治郎「将来社会事業としての精神衛生社会事業の任務」
          (『雲の柱』昭和14年3月号)

70-10吉田論文1

70-11吉田論文2

70-12吉田論文3

70-13吉田論文4

70-15吉田論文5

70-15吉田論文6

   吉田源治郎「大阪雑記」(『雲の柱』昭和14年4月号)

70-16大阪雑記1

70-17大阪雑記2

今回も頁が増えてしまったが、最後に「新川伝道30年・イエスの友20年記念夏期修養会」が、奈良の朝日屋旅館で開かれ、その案内が「火の柱」119号(昭和14年7月)にあるので、それを次に収めて置く。

70-18火の柱イエスの友

なお、昭和4年1月からであったか「Kingdom of God Weekly」「神の国新聞」が刊行されており、その復刻版も出ている。

前に触れたことのある「基督教家庭新聞」と同様、吉田源治郎の寄稿作品も多いのではないかとバックナンバーを捲って見たが、昭和13年までは殆ど登場することはなく、なぜか昭和14年から16年までに吉田作品は集中している。
「新聞」なので短い作品ばかりであるが、埋もれている所にお宝もある筈なので、次回はそれを取り出せるように、早速これからその準備をして見たい。                    

  「火の柱」第120号(昭和14年8月)に掲載された夏期修養会参加者

70-19日の柱イエスの友つづき

      (2010年9月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月18日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(69)

69-1フレーベル表紙

   第69回 『フレーベルとその宗教教育への貢献』

この小冊子は、昭和12年6月の「フレーベル幼稚園百年祭」に於ける賀川豊彦とミス・クック(ランバス女学院)の講演を中心に記念出版されたものである。

吉田源治郎がミス・クックについて記した文章は既に紹介済みであるが、今回のクックの講演記録は源治郎によって訳出されてここに収められ、小冊子の中心となるものなので、ここで全文取り出して置きたい。
(なお、賀川の講演「フレーベルの宗教精神」は『雲の柱』昭和12年8月号に収められているものが初出である。ここには収めない。)
 
はじめに吉田源治郎の「フレーベル小伝」、畑中岩雄の「境遇と戦ひ美しい魂を護る」、そして「フレーベルの言葉」をそれぞれ短く収めてあるので、今回はそれらを最初に入れて、その後にクック講演を収めることにする。

69-2フレーベル本文1

69-3本文2

69-4本文3

69-5本文4

69-6本文5

69-7本文6

69-8本文7

69-9本文8

69-10本文9

69-11本文10

69-12本文11

69-13本文12

69-14本文13

69-15本文14

69-16本文15

69-17本文16

69-18本文17

本書は、吉田源治郎の関係の深い「日曜世界社」が発売元になり、発行所は「大阪市天王寺区石ケ辻町5290 ランバス女学院内 基督教保育連盟関西部会大阪区事務所」となっている。

     (2010年9月16日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月17日補正) 





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(68)

68-1クリスマス写真
昭和13年 四貫島日曜学校クリスマス(前列右隅に吉田、左隅に間所)
   
    第68回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(26) 

四貫島セツルメント関係の昭和13年に写された写真が、間所兼次のアルバムに3枚残されていた。いずれもクリスマスの時のもので、上と次の2枚の写真がそれである。

68-2本文はじめにもクリスマス写真

写真68-4つづいてクリスマス


また、前掲の『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』に記されている「戦前編」の記述は、次に取り出した3行の記述だけである。

68-3「あゆみ」の3行分のみ

昭和13年の始まりも恒例の正月の関西冬期福音学校と日本農民福音学校である。冬期福音学校は4日間を3日間に短縮して開催した。

68-5冬季福音学校案内

68-6つづいて農民福音学校案内

   吉田源治郎「大阪雑記」(『雲の柱』2月号)

68-7大阪雑記1

68-8大阪雑記2

お読みの通り、この「大阪雑記」には「結核の現況と予防」「バス運転手」「人形芝居」「正月の冬期福音学校」のことなどの断章である。『雲の柱』にはこの年にもう一度同じタイトル「大阪雑記」で、源治郎の報告が行われている。

  吉田源治郎「大阪雑記」(『雲の柱』6月号)

ここには、源治郎が店員の修養会とか幼稚園の「母の会」などによく招かれ、そこでの経験やパール・バックの読書メモとかを記して、いつもの学術的な論文とは違う、吉田源治郎の「雑記」の味を出している文章である。

68-9新しい大阪雑記1

68-10新しい大阪雑記2

第15回イエスの友夏季修養会 (7月22日~25日・箱根堂ヶ島温泉 大和屋旅館)

68-11イエスの友夏期修養会案内

 吉田源治郎:「教会の仕女」ディアコニス運動の実際―ドイツに於ける教会奉仕者の研究―」
      (『雲の柱』6月号)

68-12吉田論文1

68-13吉田論文2

68-3吉田論文3

実は前年(昭和12年)暮れに、吉田源治郎の編集・発行で小冊子『フレーベルとその宗教教育への貢献』(基督教保育連盟関西部会大阪区)を発行している。
昭和14年に進む前に、この小冊子のことを次回取り出して置きたい。
 
今回最後に、昭和13年春撮影された家族の写真が残されているので、ここに収めて置く。

68-15最後の家族写真
昭和13年春 甲子園ホテルの庭にて 吉田幸の母・ゆき70歳の祝い
  中央がゆき(満68歳)、左端は幸、右端は敬子、男の子は摂

お断りをしているように、大正14年以降の吉田幸の働きについては全て後回しにして、専ら四貫島セツルメントに関わる吉田源治郎のことを取り上げてきている。

因みに、昭和12年4月には、幸は今津二葉幼稚園の園長に就き、この年からその場所で、源治郎は賀川豊彦やマヤス宣教師らと日曜礼拝を始めている。「日本基督今津二葉伝道教会」が設立され、源治郎が主任牧師に就任するのは昭和14年1月22日のことであるが。

    (2010年9月15日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月16日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(67)

67-1卒園式

   第67回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(25)
 
上の写真は、昭和12年3月に撮影された「第10回天使保育学校終了記念」である。
これまで見てきたように、四貫島セツルメントは1925(大正14)年10月1日、大阪市此花区四貫島旭町1丁目に開設された。そして1927(昭和2)年10月には「天使会館」を新築し、四貫島大通3丁目6に「天使保育学校」は開園する。
毎回こうした修了記念写真は残されている筈であるが、とりあえず手元にあるこの1枚をここに挙げて置く。
吉田源治郎の両脇のふたり教師はどなたであろう? 

67-2本文はじめにクリスマス写真

上の写真は、「昭和12年:中等科ページェント」と裏書されたものである。 

   昭和12年の四貫島の動き (『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』12頁~14頁)

67-3昭和12年50年のあゆみ1

67-450年のあゆみ2

上に記されているように、昭和12年の始まりも「一麦寮」に於ける「関西冬期福音学校」と「日本農民福音学校」であった。
『雲の柱』に掲載された「案内」を記録として、次に収めて置く。

   関西冬期福音学校(昭和12年1月2日~4日・一麦寮)

67-5関西冬季福音学校案内

  第11回日本農民福音学校(昭和12年1月7日~2月6日・一麦寮)

67-6農民福音学校案内

吉田源治郎は、「四貫島セツルメント」とほぼ時を同じくして、昭和2年に賀川豊彦宅に於いて杉山元治郎らと始めた「日本農民福音学校」やその後、宿泊寮として建てられた「一麦寮」が完成する昭和6年以降の「関西冬期福音学校」などの関わりの中から、次々と四貫島以外にも、新たな保育園や教会形成に参画してきている。

賀川は『雲の柱』昭和12年3月号の「武蔵野の森より」に、「大和の馬見村」「大阪生野聖浄会館」のことなどに触れて、次のように書いているので、先ずそれを挙げて置く。

67-7武蔵野の森より

この「武蔵野の森より」の後半に触れられている「生野聖浄会館」と吉田源治郎の関係については、既に前回少し取り出しているが、この会館の建設は下の「上棟式」の写真のように(『雲の柱』昭和12年2月号)順調に進み、予定通り、昭和12年1月末には落成している。

67-8生野会館上棟式写真

完成した建物の写真も、『賀川豊彦写真集』に収められ、「ボストン館」と呼ばれていたようである。

 落成した生野聖浄会館

67-9完成した生野会館写真

そしてまた、賀川の「武蔵野の森より」のはじめに書かれている「大和の馬見村」についても、吉田源治郎との関係は深かったが、賀川はこに次のように書いている。

「2月1日、私は大和の馬見村の労祷学園の献堂講演会に行った。村としては珍しい立派な会館が出来たので、何よりも嬉しいと私は感謝している。毎日五十人位の村の子供を保育し時々農民福音学校を開催し、大和に於いて珍しい、キリスト教文化を、ここより放射してゐる。その中心人物は堀江夫人であるが、彼女の謙遜な努力を我々は永久に忘れてはならぬと思ふ。」

「2月1日」に献堂講演会の行ったという、その時の記念写真が、松沢資料館の『雲の柱』4号(1985年)のグラビアに収められている。下の写真がそれである。
 
67-10馬見の大和農民福音学校写真

   『馬見労祷教会:創立五十周年記念誌:恵みの旅路』(1999年)より
     (現在地:奈良県北葛城郡広陵町平尾546)巻末の「年表」の一部

67-11馬見記念誌年表1

この教会は保育園からスタートしているが、戦後1947(昭和22)年5月に日本基督教団の教会として認可され、吉田源治郎が初代の牧師として就任している。西宮一麦教会と今津二葉教会を兼務しながら、長期に渡ってその働きを担い続けたことがわかる。

この『記念誌』には、40数人の「所感集」が集められ、源治郎に纏わるエピソードが溢れている。ここにあるのは「戦後の吉田源治郎」の思い出であるが、後任の板橋満男牧師と大山浩作氏の文章を、ここに取り出させて頂く。

67-12板橋文章1

67-13板橋文章2

67-14板橋文章3

なお、前掲の松沢資料館『雲の柱』4号には、昭和60年に収録した座談会「馬見に集まった人々」が残されている。

今回の最後に、いつも吉田源治郎は主催者の講師のひとりとして参加している、恒例の夏の集い「イエスの友第14回夏期修養会及び全国大会」(昭和12年7月23日~25日・箱根堂ヶ島、大和屋旅館)を挙げて置く。

67-15イエスの友修養かい案内

この年の修養会の主題は「敬虔・労働・純潔・平和・奉仕の実践大系」である。

「イエスの友会」の、特に吉田源治郎らが専ら実験を重ねてきた活動の検証の場となっており、「全国大会」の議事に於いても、議事録をみると吉田源治郎が議長を、間所兼次が書記をつとめ、「看護婦ミッション」「麻薬中毒者救済」「結核予防促進案」「水上生活者伝道」など活発な質疑が行われている。

下の写真は『賀川豊彦写真集』に収められているものである。写真説明には「昭和11年 第14回夏期修養会 14th Summer Retreat in 1936」とあるが、「昭和12年」「1937」の誤りである。

67-16修養会の写真

 付記
 昨日(2010年9月13日)は、この連載を見て頂いている梅村貞造・吉田摂両氏からお電話をいただき、第60回の3頁目に掲載した「第4回関西イエスの友夏期修養会」の写真を四貫島に於ける記念写真として説明している箇所について、あれは「四貫島」ではなく、「一麦寮」が建てられる以前の、賀川豊彦と杉山元治郎の宅のある武庫郡瓦木村高木東ノ口ではないかと、過日地元の方に直接あの写真を見て頂いて確認されたところ、その通りであると話されたそうである。
また、同じくその7頁目に収めた間所兼次が写っている「第4回関西イエスの友夏期修養会」の横幕の入った写真も、間違いなく「東ノ口」の場所の写真である、ということであった。
これまでの連載分の中には、こうした間違いが少なくない筈であるが、このようにしてご覧頂いている方々によって補正されていくための、ひとつの資料紹介ということでもあるので、お気づきのことは、お手数ながらご教示頂ければ有り難い。

     (2010年9月14日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月15日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(66)

66-1体操写真

   第66回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(24)

上の写真は、間所兼次のアルバムに残されていた「昭和11年朝礼前のラジオ体操」。夏休みのものであろうか。子供たちだけでなく、大人の姿もある。当時はまだ、こうした原っぱがあったのだろう。

もう1枚、別の日に写された「朝のラジオ体操」の写真があるので、それもここに入れて置く。

66-2本文最初の体操写真

  小川敬子氏の「思い出」の手記から(2007年4月)
  「四貫島友隣館(セツルメント)における乳幼児保健についての働き」

66-3小川手記1

  「北港児童会館についての思い出」

66-4児童館おもいで1

この「思い出」にあるように、「北港児童会館」に住み込んだという間所兼次一家のここでの働きは大きなものがあったようである。撮影年は分からないが、当時のものと思われる2枚の写真が、間所のアルバムにあるので、ここに収めて置く。

いずれにも間所兼次の写るもので、上は「天使保育学校母の会」の「朝日新聞社見学会」。下は「クリスマス会」(場所は北港児童会館か)。

66-5天使保育園母の会見学写真

1936(昭和11)年も「一麦寮」を会場にして、1月2日から4日まで「イエスの友関西冬期福音学校」を、そして1月7日から2月6日まで「第10回日本農民福音学校」が開催されている。

  イエスの友関西冬期福音学校

66-6関西福音学校案内

66-7農民福音学校案内

またこの年4月、賀川が米国ボストンで行った講演会の折り献金されたものが、大阪に於ける社会事業資金として届けられ、吉田源治郎らは、11月に「生野聖浄会館」建築募金に取り組んでいる。(『雲の柱』11月号)

66-8生野会館募金

手元に『聖浄保育園六五周年記念誌』(2003年)があるので、その中の当時の歴史に触れた箇所を取り出して置く。(17頁~20頁)

   聖浄福祉会館

66-9聖浄保育園1

66-10聖浄保育園2金田写真

66-11聖浄保育園3

66-12聖浄保育園4

  賀川豊彦の小説『その流域』

賀川豊彦は前年(昭和10年)11月、小説『その流域』を大日本雄弁会講談社より出版した。小林秀恒の装丁である。

その流域表紙
 
「一国の文化は河川の流域に沿うて栄える。・・日本の文化は流域の文化である。その流域を守ることなくして、日本は救われない。・・今や日本の心田の旱魃は甚だしい。その流域を守る者は誰であるか?」(序)

  杉山元治郎「『その流域』を読む」 (『雲の柱』昭和11年2月号)

66-14杉山その流域を詠む

  「大阪イエス団教会青年部機関誌『流域』の発行(昭和11年12月1日創刊)
  (前掲『四貫島セツルメント創設五十年記念:五十年のあゆみ』11頁~12頁)

66-15流域1

既述の通り『五十年のあゆみ』を編纂される時、「戦前篇」は「四貫島セツルメントの創設期」は僅かに7頁、「昭和期より終戦まで」も15頁である。

しかし幸いなことに、上記のごとく賀川の小説『その流域』に因んで名付けられたと思われる大阪イエス団教会青年部の機関誌『流域』創刊号(昭和11年12月)が、不定期とはいえ第22号(昭和15年5月)まで発行されていた。『五十年のあゆみ』を編纂される時点では、この機関誌の全号が残されていたので、それを元に「戦前編」が記されているのである。
これには毎号、吉田源治郎の巻頭言と賀川豊彦の説教の要旨などが記録されていたという。しかし残念な事に、このバックナンバーは個人の所有であったため、水害や戦災などもあり、いまのところその現物を確認できていない。

ところで、『流域』は、実に現在も発行され続け、現在(2010年9月)第634号に及んでいる。

いまは当初の教会青年部の機関誌ではなく「四貫島友隣館・天使保育園・天使ベビーセンター・ガーデン天使・四貫島教会」の共同編集の機関誌として、4頁だての読み応えのある中身になっている。

66-16流域の634号
 
中でも驚かされるのは、小倉襄二(同志社大学名誉教授)の連載がいま476回に及んでいる。然もこの長期連載は、分厚い著作として近く刊行される予定であるとのことである。

(この著書は、『流域ー社会福祉と生活設計:戦後福祉状況をめぐる断章』として高菅出版より2010年11月に出版された)

  (2010年9月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月14日補正) 

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(65)

65-1落成式

   第65回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(23)

上の写真は、前回取り上げた昭和9年9月21日の「室戸台風」で破損した「北港児童館」を、昭和10年7月10日に再建し、落成式を迎えた時のものである。

賀川豊彦の「武蔵野の森より」(『雲の柱』昭和10年11月号)を読むと、「大阪では四貫島セツルメントの十周年記念を9月24日に催したが、昼も晩も大阪朝日会館が満員になって純益千五百円位あった。おかげで、吉田源治郎氏は去年の水害でやられたセツルメントの分館を修繕して、二階建ての保育所を建築することが出来るので大悦びである。」と書かれている。

 「四貫島セツルメント十周年記念」に関係する写真は見つからないが、「北港児童館」の再建に加えて、保育所の「修繕・再建」も容易ではなかったであろう。

   昭和10年「イエスの友関西冬期福音学校」1月2日~5日・一麦寮 
  『雲の柱』に予告が掲載されているので、これをここに収めて置く。

65-2イエスの友案内

65-3案内つづき

   昭和10年日本農民福音学校(1月7日~2月6日・一麦寮) 
    近江兄弟社のヴォーリズ・朝日新聞社会事業団の浜田光雄など新顔が並ぶ。

65-4福音学校案内

  一麦寮における「イエスの友冬期福音学校」の写真 
  「火の柱」第83号(昭和10年3月)所収。小さな写真で少し拡大して収める。

65-5福音学校写真

  「イエスの友会第14回夏期修養会」(8月12日~15日・奈良多武峰朝町屋旅館)

65-6夏季修養会案内

  昭和10年発表の吉田源治郎の論文から(いずれも『雲の柱』所収)
     嬰児教育について―新しき教育単位の創設(2月号)
     この論文は本連載の第63回に収めた「未定稿」を数日後に完成させたものようである。

65-7吉田論文1

65-8吉田論文2

65-9吉田論文3

65-10吉田論文4

65-11吉田論文5

65-12吉田論文6

   嬰児教育のプログラム―ナースリー・スクールに於ける教育
         (『雲の柱』昭和10年6月号所収)

65-13教育論文1

65-14教育論文2

65-15教育論文3

65-16教育論文4

   「セツルメントに於ける指導者並に共働者の問題」
          (『雲の柱』昭和10年9月号)

65-17セツルメント論文1

65-18セツルメント論文2

65-19セツルメント論文3

65-20セツルメント論文4

65-21セツルメント論文5

65-21セツルメント論文7

65-22セツルメント論文7

65-23セツルメント論文8

最後の論文は「未完」となっているが、その後の『雲の柱』誌には続稿はない。完成稿として別にあるかも知れないが未確認である。ともかく特にこの論文は、吉田源治郎が直接取り組んできた「セツルメント活動10年の経験」を踏まえた重要なものであるので、長くなったがここに収めた。

   (2010年9月11日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月13日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(64)

64-1洪水写真

   第64回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(22)

上の写真は、説明にあるように昭和9年の室戸台風の時の四貫島である(『四貫島セツルメント創立80周年・輝け命』23頁より)。

9月21日に西日本を襲ったこの台風は、大阪と神戸の間に上陸し、死者は不明を合わせて3000人余り、負傷者は1万5千人を数える甚大な被害を与え、四貫島セツルメントも当然大変な損害を受けることになった。

既に第61回で『四貫島セツルメント創設五十年記念:五十年のあゆみ』に記されていた「室戸台風」の項を取り出しているが、改めて次に再掲して置く。またそれに加えて、賀川豊彦が『雲の柱』11月号の「旅から旅へ」に於いて、この時の取り組みの一端を書き記しているので、それも続けて収めて置きたい。

賀川はそこで「吉田源治郎氏が9月21日以後殆ど家に帰らないで、同志と一緒に救済事業に努力してくれられた事はほんたうに嬉しかった」と書いている。
昭和9年の最大の出来事は、何といってもこの台風による街と人の被害と救援・復旧の取り組みにある。

    『四貫島・五十年のあゆみ』と『雲の柱』11月号「旅より旅へ」より

64-250年1

64-3つづいて旅から1

   吉田源治郎「タンカを切る賀川 何じゃい、大住友が」
    (『百三人の賀川伝』キリスト新聞社、昭和35年、250頁~251頁)より。

64-4タンカ1

64-5タンカ2

ここまで昭和9年の最も大きな出来事であった9月21日の「室戸台風」に関わる事を取り上げてきた。

ところで取り上げ方が前後するが、昭和9年も1月2日から5日間の「イエスの友関西冬期福音学校」を「一麦寮」を会場にして開催し、年の始めのスタートをしている。

そしてこれも恒例の「第8回日本農民福音学校」も1月11日から2月10日までの1ヶ月間、杉山・賀川・吉田・藤崎・升崎・マヤス・村島・遊佐・中島・岩崎・山本ほか豪家な講師陣で開催し、勿論会場は同じ「一麦寮」である。

さらにこの年も、7月6日から29日まで「第12回イエスの友夏期修養会と全国大会」が御殿場町・高根学園で開催され、吉田源治郎も「兄弟愛史上に輝く三大明星」と題して講演を試みている。「火の柱」第77号(昭和9年8月)には、「吉田先生の「人形芝居」が秀逸であった」とあるが、どんなものであったのであろう。

下の写真は、同じ紙面に「感激と瞑想の四日間」の見出しの修養会の模様の囲み記事の中に小さく収められていたもので、拡大しても顔も特定出来ないものなので、このまま収めて置く。

64-6大会写真

 吉田源治郎の論文「母性教育についての一考察―成人教育の一面としての」(『雲の柱』昭和9年6月号所収)
 この年の吉田源治郎の論文をひとつ取り出して置きたい。

64-7吉田論文1

64-8吉田論文2

64-9吉田論文3

64-10吉田論文4

64-11吉田論文5

64-12吉田論文6

64-13吉田論文7

64-14吉田論文8

今回の最後に、「昭和9年頃、西宮市今津高潮町の吉田源治郎先生宅にて四貫島教会日曜学校教師のクリスマス・スキヤキ会」と記される写真を収める。

64-15最後の写真

前列左2人目は吉田源治郎、その右の子供は3男摂(たすく)、その隣は母・吉田幸、その右隣は次男恵(めぐむ)、その隣は源治郎の母・吉田ゆき。吉田幸の真後ろが長女・敬子。

補記
吉田源治郎は、昭和9年に「夏期聖書学校の研究」という論文か著書を「基督教宗教教育講座」のひとつとして基督教出版社というところから刊行しているのではないかと思われるが、この著作は未確認である。

   (2010年9月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月12日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(63)

63-1訪問写真

   第63回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(21)

前回の竹中正夫著『ゆくてはるかに―神戸女子神学校物語』の引用の中に「大朝社会事業団浜田光雄主事」の事があったが、今回は四貫島セツルメントと親密な交流のあった「朝日新聞社社会事業団公衆衛生訪問婦協会」と関連するところを、吉田源治郎の文章と共に取り出して置きたいと思う。

上の写真は、昭和5年8月に大阪市北区萬歳町43番地に開設された「訪問婦協会」である。
この「公衆衛生訪問婦協会」の開設に至る経過並びに活動の概要に関して記された資料―泉道夫篇『朝日新聞大阪厚生文化事業団五十五年のあゆみ 先駆』(同事業団、昭和59年)―があるので、先ずそれを見て置きたい。

 「四貫島セツルメント」が一歩先に活動を開始しているが、訪問婦協会の「第3周年事業報告」を見ると、この協会が「四貫島セツルメント」に出張を開始したのは「昭和7年10月」となっている(次に挙げる『先駆』の文章には「昭和8年」となっているが)。 

63-2保健婦文章1

63-3保健婦文章2

63-4保健婦文章3

63-5保健婦文章4

  吉田源治郎の寄稿論文ふたつ
    (『朝日新聞社社会事業団公衆衛生訪問婦協会事業報告』より)

63-6吉田論文1

63-7吉田論文2

63-8吉田論文3

63-9吉田論文4

63-10吉田論文5

63-11吉田論文6

63-12吉田論文7

63-13吉田論文8

吉田源治郎は、この論文を「保育学校研究の未定稿であって、ほんの序説にすぎない。多分大阪社会事業連盟の「社会事業研究」誌へ寄稿する筈」と記しているので、完成稿があるものと思われる。

  吉田源治郎作「キャンプの歌」 

63-14論文のあとの写真キャンプ

この協会主催のキャンプは昭和6年から開始され、戦後も「アサヒキャンプ事業」として名を馳せていたようであるが、上の写真は「事業報告」の中にある昭和8年頃のものである。吉田源治郎は、ここでも「うた」をつくって自らも楽しんでいたようで、「キャンプの歌」もそのひとつである。

63-15キャンプソング

最後に、「訪問婦協会第1班と出張所分布図」が「事業報告」にあるので、当時の大まかな地図と「四貫島セツルメント」と「訪問婦協会」の位置関係が分かるので、ここに入れて置く。これには勿論「淀川善隣館」も「愛染園」もある。

63-16最後の地図

なお、前回触れた竹内愛二の「神戸女子神学校教授」の肩書きで寄稿している論文「訪問婦事業に於けるケース・ウオークの役割」が「事業報告」にあるが、今回も長くなってしまったので、ここまでとする。

   (2010年9月9日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月11日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(62)

62-1人形

    第62回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(20)

上の写真は、小林恵子著『日本の幼児保育につくした宣教師』下巻(キリスト新聞社、2009年、316頁)に収められているものである。

今回は、吉田源治郎が後年(1961年)「ミス・クックのころ―「石ケ辻」時代のランバスをめぐるメモから」(『聖和八十年史』聖和女子短期大学、昭和36年所収)を寄稿した文章を取り出して置くために、上記の著書を再読していて目に留まったものである。

本書については、既に『肉眼に見える星の研究』の盛岡幼稚園のミセス・タッピングの箇所で少し取り上げているが、神戸の「善隣幼稚園と友愛幼児園」のことはもとより、源治郎と幸にとって大切な常盤幼稚園のミス・ライカーのことなど、詳しい研究が盛り込まれていて貴重な労作である。

以下、この著書の中から、ランバス女学院が大阪「石ケ辻」にあった頃のミス・クックに関連する記述を、源治郎の文章の前に、少し切り貼りさせて頂く。

  小林恵子『日本の幼児保育につくした宣教師』下巻より(314頁~323頁の部分掲載)

62-1小林論文1

62-3小林論文2

62-4小林論文3

62-5小林論文4

   吉田源治郎「ミス・クックのころ」(『聖和八十年史』252頁~256頁)

62-6吉田クック1

62-7吉田クック2

62-8吉田クック3

62-9吉田クック4

62-10吉田クック5

この『聖和八十年史』によれば、吉田源治郎は「1929~1941」まで「社会学」を講じたようである。
因みに、西阪保治は「1926~1941」まで「日曜学校教授法」を、竹内愛二は「1932~1941」まで「社会学」を担当している。(98~99頁)

なお、上記の吉田源治郎の文章のところに、吉田摂氏による次の面白い書き込みがある。オマケに添えて置く。

「あだ名 吉源(よしげん)と生徒に呼ばれ、吉源長女敬子がランバスに入学すると、上級生が3Fの寄宿舎の部屋に現れ、口々に「吉源なんとかして」と苦情を言われた。ノートを取るも黒板の字が読めない、話し方は早口で、とてもノート取りどころではない、という。」

  竹中正夫著『ゆくてはるかに―神戸女子神学校物語』より(教文館)

62-11竹中表紙

本書「第4章―変革期 1930-1941年 ゆかしきみむね」のところには、「神戸女子神学校」の「新しい展開―社会事業科」の項がある。吉田源治郎のことにも触れて、次のような記述があるので、これも部分紹介をさせて頂く。(320頁~327頁)

62-12竹中文章みじかい

62-13竹中文章写真入り

62-14竹中文章つづき

62-15竹中文章つづき

62-16竹中文章つづき

62-17竹中文章写真

62-18竹中文章最後

竹内愛二は、日本にケースワーク理論を最初に紹介した人として知られるが、『雲の柱』にも昭和6年から7年にかけて研究論文を寄稿しており、後に関西学院大学の教授として教鞭を取っている。
 
     (2010年9月8日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月10日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(61)

61-1共益社写真

   第61回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(19)

上の写真は、「購買組合共益社四貫島支部」。「消費組合協会」の看板も見える。本連載第11回から第17回まで、共益社創立の前から参画してきた吉田幸の弟「間所兼次」について取り上げ、彼は吉田源治郎が米国留学を終え「四貫島セツルメント」の創立以後も緊密な関係を持ち続けたことは既述の通りである。

61-2セツルメント家庭展覧会ぼやけ

上の写真は、四貫島セツルメントを会場に開催した共益社主催の「家庭経済展覧会」と講演会である。もとの写真が薄く、下手なスキャンで一層ぼやけているが、参考までにこのまま収めて置く。

ところで、1933(昭和8)年も下記のような二つの集会―正月5日間の「関西冬季福音学校」と「日本農民福音学校」(1月11日~2月10日)―でスタートしている。いずれも会場は「一麦寮」である。(『雲の柱』昭和7年12月号掲載の予告より)

60-3農民福音学校案内

昭和8年1月、「日本農村ミッション理事:賀川・杉山・吉田」3人連名の訴え「農漁村伝道を支持せよ!」が『雲の柱』3月号に掲載されている。

60-4農村伝道げき

上記の訴えの後「火の柱」第59号(2月号)に次の写真「新築の会館と愛の園園児」が掲載されている。

60-5新築の愛の園児

  「第11回イエスの友夏期修養会並びに全国大会」(昭和8年7月22日~25日:御殿場・高根学園)

61-6イエスの友案内

下は7月23日の「記念撮影」。会の詳しい記録は「火の柱」第65号(8月号)にある。

61-7イエスの友記念撮影

   吉田源治郎の論文の中から(昭和8年発表分)

 『雲の柱』では前年(昭和7年)12月号から4回連載の「キリストと社会」、8月号「アルベルト・シュワイチェル素描」(これは本連載で掲載済み)があるが、ここには6月号の「それは建物ではない―隣保事業と教会運動への一考察」を収める。「四貫島」での働きの興味深い省察である。

61-8吉田論文1

61-7吉田論文2

61-10吉田論文3

61-4吉田論文4

   『四貫島セツルメント創立五十年記念 五十年のあゆみ』より
 
既に標記の『五十年の歩み』の中から「戦前篇」の「(一)四貫島セツルメントの創設期」並びに「(二)昭和初期より終戦まで」の「(1)教会活動と日曜学校」の短い記述を紹介した。ここにはその続きの「(2)北港児童会館、(3)労働学校の開設、(4)室戸台風」の箇所を取り出して置く。

61-1250年の歩み1

61-1350年のあゆみ2

ここまでは凡そ昭和8年までの歩みを、概略追ってきているので、昭和9年に襲来した上記の室戸台風のことなどは、次回以降に触れることになる。

しかし上に挙げられている「労働学校の開設」に関しては、これまで1度も触れて来ていない。この方面の先行研究は多いと思われるが、手元にひとつ井上和子の論文「賀川豊彦とセツルメント運動―大阪における働きを中心として」(松沢資料館発行『雲の柱』7号:1988夏号所収)がある。

本連載で折々参照している岡本栄一・尾西康充両氏と同じく、井上の論文も、直接「四貫島セツルメント」を取り上げたものである。お会いして話を伺う積もりで本年(2010年)4月、大学へ電話を入れたところ、「先生は退職後お亡くなりになった」とのご返事で、残念なことにその希望は適わなかった。

この井上論文によれば、労働者の街に設立された四貫島セツルメントには、設立当初より「宗教部」「教育部」「診療部」「少年少女部」「出版部」「社会教化部」の他に「ホーム部」があり、労働青年寄宿舎(聖マタイホーム)と職業婦人寄宿舎(聖マリアホーム)が設けられていたことが記されている。

そして「労働学校」に関連して、次のような文章が残されている。

「青年労働者達の集会は特に熱気を帯び、1931(昭和6)年には「庶民総合大学」を企画している。(中略)一方、労働組合の拠点としても同館は大きく活用されることになった。賀川はまず「労働学校」開設を提唱、此花の住民であった西尾末広、大矢省三ら労働運動家が労働問題討論会に同館を利用することを奨励した。(中略)1931(昭和6)年に始まった住友製鋼の労働争議の折には、同館に拠点を置いて戦ったこともあった。」(133~134頁)

ところで、下の写真は、写真説明にもあるように「住友争議解決記念」の時のものである。

61-14住友争議写真

尾西康充氏が『大阪社会労働運動史(第2巻)戦前篇・下』(大阪社会運動協会、1989年)1474頁に収められていたものを見つけ、吉田摂氏へ送られていたものである。この写真は「東 久太郎提供」とある。

なお『賀川豊彦写真集』には、大阪労働学校に関連する2枚の写真が入っている。
一枚は、次の昭和9年に建設された大阪労働学校の「大阪労働教育会館」。  写真には「改築記念」と書かれている。改築前の会館と、改築後の歩みなど学んでおく必要がある。

61-15大阪労働学校会館
                   
下の写真は「大正11年 大阪労働学校の講師陣」と説明書きがある。

61-16大阪労働学校講師陣写真

今回はここで一区切り。

     (2010年9月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月9日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(60)

60-1写真

    第60回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(18)

さて、1932(昭和7)年の幕開けは、恒例の正月開催の「イエスの友冬期福音学校」である。
会場は上の写真のように、前年暮れに完成した農民福音学校寮「一麦寮」であった。
「神の国運動」で全国をかけめぐる賀川豊彦は、ハルと長男純基と共に参加し、「人生の建築師」と題する「日本農民福音学校校舎献堂式講演」を、正月2日に試みている。この講演筆記は『雲の柱』昭和7年4月号にある。

 「火の柱」第48号(昭和7年2月)には、冒頭の写真に加えて下の「出席者名簿」も掲載されているが、それを見ると吉田源治郎・幸夫妻、間所兼次、山本一清、杉山元治郎、村島帰之など常連100名余の名前が並んでいる。

60-2出席者名簿

ところで、賀川の献堂式講演が収められている『雲の柱』4月号の「編輯後記」で金田弘義が、吉田源治郎の病気入院に触れたところがあるので、その部分を書き出して置く。

 「吉田先生が一時重態であられたが、すっかり回復され退院の日も近くなったのは、諸氏の御加祷の賜として感謝せざるを得ない所であるが、更に尚ベッドに臥しながら本誌のために有益な論文を賜った事はより感激的である。社会愛が斯る努力の背後に隠れてゐる事を見落とす人はないであろう。」

正月のこの福音学校には夫妻で参加しているので、病気はその後のことであろう。源治郎の体調不良のことや、まして入院治療など初耳であるが、「一時重態」とはどういうことであったのであろうか。

金田が記しているように、『雲の柱』のこの号に「1932・3・18午後、○○病院のベッドの上にて―」として、7頁にわたる論文「旧約聖書に於ける兄弟愛の研究―貧民への愛を主題として」を書き上げ、寄稿している。

新築完成の一麦寮に於ける最初の日本農民福音学校は、2月11日開講式、3月10日閉校式となっているが、金田がその報告を短く『雲の柱』の同じ号に寄稿しているので、次に取り出して置く。従来の10名の規模から倍近くになり、わざわざ賀川夫人が東京から来て食事その他の世話をした事や、藤崎盛一夫妻が1ヶ月間寝食を共にした事などが記されている。源治郎はこの時元気で、教務主任として参加していたかどうかわからない。『雲の柱』8月号の「編輯後記」で金田は「吉田先生も全く健康に快復活動してゐられる。本誌に筆を執られる日も遠くはあるまい。」と読者に知らせている。

60-3金田の福音学校記録

前年(昭和6年)の「第4回全関西イエスの友夏期修養会(於四貫島)」の写真が残されていたので、遅ればせながらここに収めて置く。昭和7年に「北港児童会館」も落成するが、この写真は落成前の場所で写されたようである。(この場所は四貫島ではなく西宮の賀川宅のようだ)

60-4その下にイエスの友写真

ところで、「西宮一麦教会前史」(前掲『五十年のあゆみ』所収)の1932(昭和7年)の項には、次の事が書かれている。

1月2日~4日 新築の一麦寮を会場に、初めてのイエスの友関西冬期福音学校(第5回)が開かれた。以来、昭和8年から16年まで毎年開かれた。
2月11日 一麦寮で初めての日本農民福音学校(第6回)が開催された。
3月 一麦寮の東隣に託児施設としてヤへ・シバ館が建てられた。
4月 賀川先生により一麦保育園(園長・賀川豊彦、主事・吉田源治郎)が創立された。
また、関西学院進学部の学生や有志の人々の応援を得て断続的に日曜学校も開かれるようになった。

賀川の主たる住まいはこの頃、東京の松沢村にあり、そこから全国に飛び回っている身であるが、賀川が「園長」であり、吉田も四貫島セツルメントの総主事の身での「主事」である。直ぐ翌年(昭和8年)には、埴生操が「主任」として働き始めている。 

 「吉田源治郎と一麦保育園並びに西宮一麦教会」に関しては、別に項を立てて学ぶ必要がある。また「吉田幸と二葉幼稚園」の項も「四貫島セツルメント」と同時並行の働きであるが、便宜上別立てにして置かなければ混乱するので、ここでは深入りせず「四貫島セツルメント」の働きの続きを見て置きたいと思う。

いずれにもあれ、この頃の吉田源治郎の仕事量は重なるばかりで、一時の静養が必要だったのであろう。入院治療と養生を終えた源治郎は、「1932・8・20朝」記したという「四貫島セツルメントの夏期児童宗教教育の試み」と題するレポートを『雲の柱』9月号に寄せている。
 
    四貫島セツルメントの夏期宗教教育の試み(7月30日~8月7日)

60-5セツルメントの短信

60-6セツルメントの短信のつづき

60-7セツルメントのつつきの写真

上のレポートに「7月初めに落成式を挙げたセツルメントの北港児童会館」のことや「ラジオ体操」のことも記されている。
その写真が残されているが、この頃のものでではないかと思われる。

60-8セツルメントの写真のつづき建物とこども

この写真は「北港児童会館」前のものである。よく読めば「北港天使保育学校臨時保育園」「無料臨時コドモ相談所」「集会案内」の看板が掲げられている。

下の写真は「四貫島教会日曜学校」と裏書されているが、この頃のもので あろうか。左端に立つひとは間所兼次のようである。

60-9つづいて日曜学校の写真(まところ)

前後するが、四貫島で開催された「第4回全関西イエスの友夏期修養会」の写真がもう1枚残されていたので、ここに挟んで置く。真ん中に写る人は間所兼次のようである。(この写真は四貫島ではなく西宮の賀川宅のようである。9月13日梅村先生確認)

60-10つづいてイエスの友写真・住宅

下の写真は、昭和7年7月22日から26日までの5日間、御殿場町外高根学園に於いて開催された「第10回イエスの友修養会」(24日午後は「第8回イエスの友全国大会」)のものである。「火の柱」第53号(同年8月)にあるもので鮮明ではないが、吉田源治郎も講師の一人として参加している。

60-11つづいてイエスの友写真きれいでない

   「大和農民福音学校」(昭和7年8月16日~18日)(「火の柱」第55号掲載)      

60-12大和農民福音学校

下の写真は、四貫島SS(日曜学校)教師会のメンバーを吉田源治郎宅(西宮市今津高潮町)に招き「お正月のスキヤキ会」が開かれるのが恒例となっていたらしく、これは昭和7年の正月の写真。
源治郎の左が妻・幸、右端は間所、前列右から3人目長女敬子・吉田ゆき・3男摂・間所基の順である。

60-13吉田宅での正月すきやき写真

 「堀江貞一アルバム」に残されていた3枚の写真がある。「堀江貞一」もここに写っている筈であるが私には特定できない。写真は「昭和5年1月19日」の日付がある。そして左下には「云いたいこと自由に云っていた時代 平・村松・土居の諸君 堀江」と書かれている。入り口に立つのは吉田源治郎。よく見れば、正面玄関のまるい電灯には源治郎考案のセツルメントのロゴが刻まれている。

写真60-14セツルメントの前で5人の

下の写真には「1932,12,11」と書かれ、「セツルメント前 松本キヨノ 馬見の兄 野村 姉」とメモがある。後列左2人目が吉田、右端が間所である。

60-15つづいて女性たちと写真

上の写真には「昭和8年2月末、村田薫さんを送別して」と堀江が書いている。
なお、松沢資料館発行『雲の柱』3号(1985年春)に堀江貞一夫妻の参加した座談会「四貫島に集まった人々」がある。
昭和60年2月26日、四貫島教会で語り合われたもので、望月武雄が司会をし、吉田幸なども出席した貴重な記録となっている。また、この号のグラビアには、四貫島関係の写真が収められている。いずれも撮影年月日は記されていないが、説明文字も含めてここに入れさせて頂く。
 
60-16つづいてセツルメントの窓にこども

60-16つづいて賀川と労働者たち7人

60-17つついてラジオ体操

60-18春日日曜学校

60-19セツルメントの大人数

                           *                   *
 
今回、「吉田源治郎の病気・入院」の事に触れたが、改めて今「火の柱」の「個人消息」の欄を見ていたら、次のことが報じられていたので、ここに挙げて置く。

 昭和7年3月号
 「蜂高識炎にて大阪住友病院にてご入院中、手術を8回受けられたが経過良好とのこと、一日も早くご退院の上西大阪のため御活躍されんことを祈る。」

 昭和7年4月号
 「住友病院に御入院中なりしも御全快の上御退院の由」

      (2010年9月6日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月8日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(59)

59-1表紙

   第59回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(17)   

   源治郎の著作『心の成長と宗教教育の研究』(昭和6年)

前回は1931(昭和6)年の吉田源治郎の働きの一端を探して見たが、この年8月に上に掲げた『心の成長と宗教教育の研究』を日曜世界社より出版している。いま手元には原書はなく、吉田摂氏が聖和大学図書館(2009年には関西学院に合併)に所蔵されていたものを、表紙・奥付・目次・序にかえて・第1篇の第1章・第2篇の第5章・第6章・第7章をコピーしておられたものがある。従って、表紙もカラーコピーではないので、黒地の白ぬきになっている。左の賀川豊彦著『イエス伝の教へ方』と同型のシリーズ版のようであるから、絵柄も同じであるので色具合も同じかもしれない。

賀川豊彦のこの本は、1920(大正9)年に「宗教教育研究叢書第1篇」として刊行されて版を重ね、この時は第7版であるが、源治郎のこの本の出版に合わせて、装丁をこのように代えたのかも知れない。因みに大正9年の初版本表紙は賀川の筆字で、製本の仕方も独自である。そして初版と同様に、最初賀川の序文までを赤文字が使われている。しかもその序文の前に、吉田源治郎の次の一文が収められている。

59-2序文の前の赤文字

59-3赤字の下に広告文

上の赤文字は、源治郎が幸と結婚して翌年の文章で、西阪保治の日曜世界社で編集部の仕事にも関わっていた時のもののようである。賀川のこの注目すべき若き日の作品の仕上げにも、源治郎は深く関与していたことを伺わせる。
                 
また上の広告は、『雲の柱』昭和6年8月号所収のもの。横書きがまだ右始まりであるが、いつ頃から左始まりになって行くのであろう。

     本書の序文

59-4本書の序文1

59-5本書の序文2

    『心の成長と宗教教育の研究』の部分紹介

これまで見てきたように、吉田源治郎は四貫島セツルメントの実践レポートを積極的に発表し、いくつかの論文にも纏めて来ているが、本書もそのひとつである。今回は少しだけ「四貫島レポート」の記述のある箇所のみを取り出して置きたい。

   「少年少女夏期聖書学校」

59-6少年夏季聖書学校1

59-8少年夏季学校2

59-8少年夏季学校3

59-9少年夏季学校4

59-10少年夏季学校5

59-11少年夏季学校6

59-12上に続いてキャンプの写真1

59-13キャンプ写真2

   巻末の「吉田源治郎著訳目録」と「児童説教」の広告

59-14巻末の広告

この「目録」を見ると、吉田源治郎が昭和6年の夏までに著書と訳書のかたちで仕上げた作品が分かるが、これまで全く知らなかった作品が1冊ある。

それは、警醒社書店より吉田源治郎が最初に刊行したと思われる大正9年の『フランス労働階級史』という作品である。『肉眼に見える星の研究』の出る2年前であるが、誰かの翻訳作品ではないかと思われるが、もしそうならば、シュヴァイツァー作品の翻訳の前に最初の翻訳作品があったことになる。それとも吉田源治郎自身の研究書なのであろうか。ご存じの方はご教示をお願いしたい。

なおここには「近刊」として『神の国運動戦術の研究』の予告があるが、これも未見のものである。
    
   (2010年9月4日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月7日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(58)

58-1初めの写真
  1930(昭和5)年12月14日 日曜学校の教師と生徒たち

58-2今回ははじめにもう一枚の写真
    1931(昭和6)年1月2日~4日の第4回冬期福音学校

   第58回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(16)

冒頭の2枚の写真は、『雲の柱』1931(昭和6)年2月号に吉田源治郎が提供していたものである。上の写真には「四貫島セツルメントの日曜学校の近況」として、下の写真には「第4回冬期福音学校の概況」として、それぞれ次の説明が付けられている。

58-3冒頭の文章日曜学校

58-4上に続いてフ湯の福音学校文章

    吉田源治郎の『雲の柱』掲載論文について(昭和6年のうち)

前回、吉田源治郎が昭和5年のうちに執筆した論文のひとつ「『神の国運動の組織神学』として見たる基督教社会学の史的展望」を収めたが、昭和6年の新年号(『雲の柱』)にはその続きがあり、2月号には「『愛餐』の研究」、3月号には「エリイの基督教社会学点描」、4月号には「アポクリファに於ける愛の輪郭」、6月号には「ラウシェンブッシュとその基督教社会学素描」、そして7月号から12月号まで(9月号は「基督教社会運動の足跡」)「『神の国』の研究」を5回にわたる連載、というように学術論文の執筆に打ち込んでいる。

    第5回農民福音学校(兵庫県武庫郡瓦木村高木)2月11日~3月11日

また、吉田源治郎は、「農民福音学校教務主任」としても継続的に活躍している。 

58-5第5回農民福音学校案内
 
この時の詳しい報告は農民福音学校礼拝主事・金田弘義が『雲の柱』4月号で行っている。その文章の末尾に「来年よりは賀川先生の小説「一粒の麦」が生まれでて結ぶであろう鎮守の森の前の常設福音学校に、我等の楽しい村の生活が持たれるであろう事を楽しみつつ」と書いている。

また同じ号の「トヨヒコ」の「放浪の旅より」の欄には、
「帰り途私は、武庫川のほとり鎮守の森の傍らに帰りつくと、はや、日本農民福音学校の敷地に買い求められた土地には土盛りがなされ、20数種類の果樹が植え付けられてあったのには驚かされた。ようやく我々は、永久の農民福音学校を建設するために、瓦木村に本部を据えることになった」と書き記している。

   賀川豊彦の小説『一粒の麦』刊行(昭和6年2月:大日本雄弁会講談社)
                
賀川は仕事の関係で、昭和4年11月には家族と共に西宮を離れて再び松沢村に戻っているが、丁度その時から「一粒の麦」を雑誌『雄弁』に連載を始め、昭和5年12月号まで続けている。

そして昭和6年2月には大日本雄弁会講談社より374頁の単行本として刊行され、忽ち版を重ねるのである。手元のものを見ると、出版2ヶ月後で「67版発行」とある。

下の広告は『雲の柱』同年4月号にあるものであるが、同誌には毎号各界の人々の読書感想が掲載されている。

58-6一粒の麦の広告

  農民福音学校寮(通称「一麦寮」)の完成(昭和6年秋頃)

既述の『西宮一麦教会:五十年のあゆみ』(1998年)の「年表」(「西宮一麦教会前史」)には、「1931(昭和6)年2月5日賀川先生の小説『一粒の麦』が講談社から出版され、ベストセラーとなる。その印税にて、その秋頃、西宮市高木字南芝781(現在の高木東町11)に300坪の敷地を購入し、2階建ての農民福音学校寮(通称「一麦寮」)が建てられた」と記されている。

賀川豊彦はこの年、村島帰之・小川清澄と共にYMCA世界大会への出席などで5ヶ月余りの北米の旅に出ているが、7月7日に横浜を出帆して帰国するのは11月12日である。賀川と杉山が中心になってこの農民福音学校寮の土地取得と建設の基本設計を行ったのであろうが、賀川が米国の旅から帰国してすぐ、昭和6年12月に書いた「トヨヒコ」の「放浪の旅より」(『雲の柱』昭和7年新年号)には、次のように書かれている。

「武庫川のほとりに立てられた農民福音学校寄宿舎「一麦寮」が出来上がりました。これは私の北米における講演旅行のとき貰った謝礼金を基礎にし、その上に米国の青年たちが醵金してくれた約700ドルの金を入れて造ったものです。諸君が利用して下さるなら幸いです。30人くらいは泊まれるようにしておきます。関西学院及び神戸女学院に行く西宮北口のそばにあるのですから非常に便利です。裏にすぐ大きな森があります。瞑想に適します。」

58-7一麦寮の全景
「一麦寮」全景  鎮守の森のすぐ傍に建つ一麦寮の全景である。

次の写真も「一麦寮」。

58-8これも一麦寮の写真

次の賀川の筆書きと升崎の挿絵も『西宮一麦教会五十年のあゆみ』より。

58-9増﨑と賀川の色紙

     映画:一粒の麦
 
間所兼次が残していた二つのアルバムの内、過日「賀川ミュージアム」でその一つを拝見した。
その中に映画「一粒の麦」の写真が数枚あって、下に収めたものはその1枚である。

58-10映画一粒の麦

兼次の美しい文字で「賀川豊彦原作 一粒の麦 嘉吉と芳江」と書かれている。
この映画も人気を博し、この年賀川が北米の旅の折りも米国で上映した記録もある。この映画は、里見明・歌川絹枝演じる福西ジョージ監督作品のものだろうか。この写真をみても俳優さんの名前も私には分からない。

  吉田源治郎「都市伝道研究断片」     (昭和6年12月19日:『雲の柱』昭和7年新年号及び3月号所収)

58-11吉田論文1

58-12吉田論文2

58-13吉田論文3

58-14吉田論文4

58-15吉田論文5つつく

58-16吉田論文6

   高根学園に於けるイエスの友夏期修養会(昭和6年7月21日から4日間)

吉田源治郎もここで講師のひとりとして参加している。

58-17高値學園修養会写真

以上、1931(昭和6)年に於ける吉田源治郎の仕事の一断面である。
なお、また忘れるところであったが、源治郎の著作のひとつ『心の成長と宗教教育の研究』がこの年の6月に出版されている。次回はこれを短く取り出して置きたい。

   (2010年9月3日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月6日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(57)

57-1写真はじめ
 四貫島セツルメントの夏期キャンプ(武庫川にて)

   第57回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(15)

1930(昭和5年)も正月2日から3日間「第3回冬季福音学校」をもって歩み出している。下の写真は「火の柱」2月号のものであるが、今回も長谷川夫妻の牧する芦屋組合教会を会場に、吉田源治郎ほか河上丈太郎、中島重、竹中勝男、岩崎武夫、村島帰之、富田砕花、升崎外彦といった豪華な講師陣の修養会である。

57-2書き出しの記念写真

先ず『雲の柱』1月号に収まられている吉田源治郎のレポート「労働街伝道のニュース」を見て置く。

57-3書き出しの文章労働ニュース1

   『雲の柱』(昭和5年7月号) セツルメントの夏期キャンプ事業

57-4雲の柱5-7の夏季キャンプ文章

冒頭の武庫川に於けるセツルメントの夏期キャンプの写真は、この年のキャンプではなく数年後のものであるが、「武庫川のほとり」での「夏期林間学校」は、既に前年(昭和4年)の夏、「神戸イエス団」の活動として始められていたことは、昨年の「武内資料・お宝発見」の第78回と第79回で写真と共に紹介したことがあり、四貫島セツルメントに於いても、本格的な企画が整い、このような呼びかけで実施されていったようである。

追って取り上げる西宮の「一麦寮」が完成するのは昭和6年の暮れのようであるが、この「夏期キャンプ」はその前のことである。

    小川敬子「四貫島セツルメントの思い出」より

この四貫島セツルメントの「夏期キャンプ」に参加した経験を持つ小川敬子(源治郎の長女)のメモの中に「夏のキャンプ」という所があるので、ここに紹介して置く。

57-5小川文章1
          
   吉田源治郎の論文・聞き書きほか(昭和5年分の中から)

   『雲の柱』(昭和5年12月号) 

吉田論文「雲の柱」神の国1

57-9吉田論文の続き2

57-10吉田論文つづきその3

57-12吉田論文のつづきその4

57-14吉田論文の続きその5

57-15吉田論文の最後

   「東京風景・笑へぬナンセンス物語」(「火の柱」第38号)

57-16東京風景そのⅠ

57-17東京風景そのⅡ

    「三一年式の聖書読方法」(「火の柱」第39号)

57-1831年式の聖書

   吉田源治郎の「聞書:升崎外彦<漁村伝道のプロフイル>」

57-19漁村伝道のプロ

57-21農村伝道のつづき

前頁の武内勝の聞き書きは、昭和5年12月11日に四貫島セツルメントで書いたものであるが、今回最後に取り出した升崎外彦の聞き書きは、丁度1年前の昭和4年12月13日に源治郎が書いたもので、『雲の柱』の昭和5年2月号に掲載されていた。

57-23最後の写真増﨑と吉田

なお、上の写真はそれからほぼ40年後(昭和43年)のある会合での升崎(右)と吉田(左)である。

以上今回は、源治郎のレポートを並べて見た。

     (2010年9月1日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月5日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(56)

56-1写真
1929(昭和4年)正月3日間(この写真は両端20人ほど写っていない)

   第56回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(14)

さて、1929(昭和4)年の幕開けは、前年正月開催の第1回に続き、第2回イエスの友会冬季福音学校(於・大和高田町;上の写真)であった。賀川・杉山・吉田ら常連の顔が並んでいる。しかも関西と関東(於・本所基督教産業青年会)で同時開催となった。

福音学校の詳しい記録と講演内容は、イエスの友会の機関紙「火の柱」と賀川豊彦個人誌『雲の柱』に掲載されているので、ここには主に、吉田源治郎による「四貫島セツルメント」のレポートに絞り、この年の動きを見て置きたい。

  『四貫島セツルメント創設五十年記念:五十年のあゆみ』(昭和50年)より

この記念誌については前にも取り上げているが、「五十年のあゆみ」とはいえ戦争などで記録が失われ、草創期から昭和20年(吉田源治郎在任期間)の記録は僅かに20頁ほどに纏められている。

先ずはじめに「昭和初期より終戦まで」の項目の(1)「教会活動と日曜学校」の記述を取り出して置く。下の14行のみである。

56-2歩みの1

  吉田源治郎による「四貫島セツルメント」報告(昭和4年分)
『雲の柱』(昭和4年3月号)


56-3セツルメントの写真

56-4写真につづいてセツルメントの日曜学校文章

    『雲の柱』(昭和4年6月号)

56-5雲の柱4年6月に下

    『雲の柱』(昭和4年8月号)

56-6雲の柱の下に写真

56-7その写真の下にセツルメントの時間割

56-8その続きで四貫島のこのごろ

      『雲の柱』(昭和4年12月号)

56-94年12月号の「報告」


     この頃の写真たち

下は昭和4年の四貫島セツルメントのクリスマス 

56-10この頃の写真その1

下は不詳 右前は吉田源治郎
56-11写真のつづき

下は昭和3年頃?四貫島SS教師たちが正月、吉田源治郎の自宅(今津)に集まりスキヤキ会を開く。
前列・源治郎の隣が長女敬子 乗り物に乗る男の子は次男恵 母・幸は前列左2人目のようである。

56-12写真のつづき

   次は撮影年不祥 四貫島セツルメント前に立つ源治郎
56-13セツルメントの前に立つ吉田

源治郎は、昭和4年の1年間も例の「シュワイチェルの文明哲学」(5回)の翻訳と共に、名著紹介のような論文「教会博愛事業の歩み」(3回)、「キリスト教社会愛史」(2回)など数多くの執筆を続けている。

   「神の国運動協議会に臨みて」(「火の柱」第31号:昭和4年11月)より

最後に、標記のタイトルの短いメモ書きがあるので、ここに収めて置く。

56-1431号の神の国運動記事

吉田源治郎は、今回冒頭にあげた正月の冬季福音学校を皮切りに、恒例の農民福音学校やイエスの友会全国大会(今回も多武峰)など大活躍であるが、「火の柱」や『雲の柱』などに詳しく取り上げられているので今回は省略した。
   
    (2010年8月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月4日補正)





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(55)

55-1表紙

  第55回 吉田源治郎著『新約外典の話』(昭陽堂書店、昭和3年)

「四貫島セツルメントと吉田源治郎」を追って来て、前回は昭和3年のところを一応終え、今回から昭和4年に進む積もりでいた。しかし源治郎の著作の中に、昭和3年12月に昭陽堂書店より上梓されている作品『新約外典の話』のある事を忘れていた。

時代が激しく動き「四貫島セツルメント」の活動も益々大きく展開していく中で、源治郎はこれを書き上げていた。

冒頭の絵は、本書の扉にあるもので、「ガドの天国の家」の文字のある薄紙が添えられ、三木武雄の作品である。

55-2表紙とせ表紙
上は本書の表紙で165頁の上製本である。

55-3文庫広告

上にあるように、本書は「聖書物語文庫:全24巻」の最終巻として企画され、本書は「第23回配本」とあるので、ほぼ予定通り刊行されたようである。

これを見るとこの「文庫」は、賀川も顧問の一人となり、執筆もしている。執筆者の顔ぶれを見ても、この時代の基督教教育関係の源治郎の仲間たちで、児童向けの読み物となっている。

55-4家庭新聞表紙

本連載の第3回で『基督教家庭新聞』(日曜世界社発行、西阪保治編集発行人、第20巻第1号~第12号の1年分の合本)の事に触れていたが、あれは丁度この頃のもので、いま確かめてみると「昭和2年」のものである。そこでは短く次のように記していた。

「『基督教家庭新聞』はA4版 で34頁立ての本格的な月刊雑誌で、広く読者を獲得していたのでないかと思われる。大阪に拠点を置く「日曜世界社」で、賀川豊彦とその仲間たちの、それこそ「KAGAWA GALAXY」の交流の広場となっていたのではないかと想像させられた。『日曜世界』という出版物もあったようであるが、「日曜世界社」の刊行物のすべてに目を通せば、お宝が満載であるのかもしれない。この新聞が何時から何時まで発行されていたのか未確認であるが、この『合本』は昭和2年の第20巻であるから、明治の終わり頃から出ていたのであろうか。」と。

実はこう記しながら今日に至ってもなおこの『基督教家庭新聞』のバックナンバーの所在先を確認できていない。関西学院や同志社大学の図書館にはこれらは揃えられている筈であるが、どうもそれもおぼつかないことですが。

今日「新約外典」の研究は進み、特に「トマスによる福音書」など注目を集めているが、この作品は「新約外典」の研究書ではなく、次のような4章構成の読み物である。
第1章  イエスの生い立物語
第2章  トマス物語
第3章  テクラ物語
第4章  パウロの殉教物語
確かめてはいないが、本書はその後、昭和11年に基督教出版社の基督教文庫として『新約外典』の書名で刊行されたようである。

本書の巻末に「解説」が付されているので、参考までに、本書の書き出しのところと共に、それのみを収めて置きたい。

55-5第1章イエスの生い立ち

55-6つづいて解説

55-7解説のつづき

55-8解説のさらなる続き

55-9新約外典はの2行分

   新約外典ストーリー:「テクラ信行記」

源治郎は、昭和29年1月13日から3月20日までの週刊紙に序を含めて8回標記の作品を連載し、それを原稿用紙に貼って残していた。赤羽末吉の挿画があるが、ここではそれを除いて繋ぎ合わせ収めて置きたい。いずれ機会を見つけて読みやすくテキスト化しておきたい。(多分これは「キリスト新聞」に掲載されたのではないかと推測される。)

55-10テクラ記はじめ

55-11テクラの続き

55-12テクラの続きの続き

55-13テクラのさらなる続く

55-14テクラのさらに続き

55-15テクラのもっと続き

55-16テクラのさらに

55-17テクラの最後

前記のように、吉田源治郎は自分でこの作品を切り抜き、原稿用紙に貼り付けていて、この度一読して面白くもあり、少々面倒ではあったが、コピーをして張り合わせて見た。しかし下手な仕上がりで、途中消えている箇所もあり、読み通すのは容易ではないが、こうして残す事ができて満足である。源治郎の処女作『児童説教』やこのような作品は「吉田源治郎の世界」に欠かす事の出来ないものである。

   (2010年8月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年8月3日補正)    




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(54)

  54-1第6回修養会

   第54回 四貫島セツルメントと吉田源治郎(13)

上の写真は、1928(昭和3)年7月21日から25日までの4日間、初めて奈良県磯城郡多武峰村の淡山神社前・朝町屋旅館で開催された「第6回イエスの友会全国大会及び修養会」の写真である。

右から2人目が賀川豊彦、4人目が村島帰之、真ん中の人は?、その左隣は杉山元治郎、左端は間所兼次、3人目が吉田源治郎である。

    第6回イエスの友会全国大会及び修養会の記録

昭和3年の『雲の柱』は1月号と7月号の2回のみの発行になっており、今回の大会及び修養会の記録は「火の柱」第20号(昭和3年7月号)、第21号(同年8月)、第22号(同年10月)に分散して掲載されている。

今回はその中からいくつかの箇所を取り出して見たい。下の写真も「火の柱」のものである。

54-2修養会の写真
 会場となった朝町屋旅館

54-3写真につづいて文章の1

54-4記事に続いて修養会の案内文

54-5つづいて先の案内の下に小さな「案内」

54-6更につついて小さな囲み記事我ら大和に

54-7さらに続いて全国大会の記事

54-8更にさらに続いて大会の記事

54-9もっと続く記事

既に取り上げたように、賀川は特に、大正10年・川崎三菱大争議での逮捕拘留以降は特高警察による「要視察人」の一人であったが、イエスの友会も後の農民福音学校も、その筋の「要視察団体」でもあったようである。

なお、この大会の議事の冒頭には「本部移転事後承認の件」に続き「本部事務局を神戸イエス団内」に置く事も決められている。

杉山健一郎がこのとき神戸に張り付き、『雲の柱』の発行所を東京から神戸に移して、昭和4年新年号より「更生新春号」の発行を以て定期刊行を回復させようとする時である。

次回以降で触もれるが、『雲の柱』の印刷所と販売所は「四貫島セツルメント」が受け持ち、大阪と神戸の連携を計っている様子が伺える。

     代議士:河上丈太郎の講演「イエスは誰に山上垂訓を語ったか」 

ところでこの研修会には、昭和3年2月普選第1回の総選挙で日本労農党代議士として当選したばかりの河上丈太郎の参加があり、2度の講演を試みている。

河上は大正11年の大阪労働学校や大正13年の神戸労働学校の講師となるなど、賀川との交流も深まり、この時を迎えている。

明治43年の「一高連合演説会:アナトテの預言者」は有名であるが、この研修会に於ける講演「イエスは誰に山上垂訓を語ったか」は殆ど知られていないのではないかと思われるので、ここに収めて置きたいと思う。

54-10河上丈太郎

54-11河上の続き

日本社会党の「十字架委員長」として知られていた河上は、1965年12月に76歳の生涯を終えている。
全く個人的な事であるが、直ぐ後、1966年春に神戸イエス団教会に招聘を受け、河上丈太郎の後継として河上民雄を国会に推すための「民の会」づくりの機関誌の発行に携わったこともあったりした。

その時、民雄先生が編集発行された『河上丈太郎:演説集』(昭和41年、非売品)を戴いているので、上記の昭和3年の講演の翌年、昭和4年3月6日の衆議院本会議における、あの「山宣追悼演説」を収める。

54-12死を越えて文章

54-13死を越えての続き

河上民雄先生は、この演説に「当時、田中反動内閣の登場で治安維持法改正案の通過など日本は暗たんたる空気に包まれたが、父のこの決死的な山宣追悼演説は、暗黒のなかに僅かに慰めを与える一条の光明であると、新聞などでは高く評価された。父はときに満四十歳である。」とコメントを加えている。  

(補記) 昨日(2014年8月1日)、河上京子さん(河上民雄先生の奥様)より、昨年(2013年9月21日)東京で開催された「河上民雄先生を偲ぶ会」の記念誌『尽きせぬ思い』をお贈りいただき、読み終えたばかりである。いい追悼集です。

   (2010年8月27日 記す。鳥飼慶陽)(2014年8月2日補正)

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