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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(110)

1-写真
 西宮一麦教会創立25周年記念礼拝の後(昭和47年3月19日)

   第110回 昭和46~49年の吉田源治郎と幸(1)

昭和46年も1月2日に「新春聖修会」を大阪クリスチャンセンターで開催し、市村恭二、吉野丈夫、西村関一らが講じている。

尚、前回取り上げて置くべきであったが、昭和45年7月12日から14日まで、奈良県多武峯観光ホテルに於いて、「イエスの友会創立50周年」と「賀川先生永眠10周年」を記念した聖修会が開かれており、吉田源治郎も多くのメンバーと共に参加している。加えて同年10月10日にも、本所賀川記念館に於いて「創立50周年」を記念する集まりが開催されている。

そして、昭和47年正月(1月3日)の「新春聖修会」は一麦保育園に於いて、また「夏期聖修会」は神戸摩耶ロッジに於いて、それぞれ開催されている。

この年は、上の写真のように「西宮一麦教会創立25周年」を迎えた記念礼拝が執り行われ、吉田源治郎は、以下に掲げる記念の説教を行っている。

2-吉田

3-説教1

4-説教2

5-説教3

6-説教4

記念礼拝が執り行われた後、昭和48年4月に右のような小冊子『創立25周年を記念して』が刊行され、上の礼拝説教もここに収められている。記念誌には、森彬牧師の「<ただ一粒のまま>でよいか?」と長谷川進一郎牧師の「伝道する教会」の二つの説教の他に、関係者の特別寄稿が集められている。いずれも当時の記録として大変貴重なものであり、吉田源治郎を理解する上でも興味深い文章が寄せられている。以下にその中の幾つかを取り出して置きたい。

7-記念誌表紙

8-文章1

9-文章2

10-文章3

11-文章4

12-文章5

13-文章6

14-文章7

15-文章8

16-文章9

19-文章10

この項は既に長くなったので、次回にも続く。
 
      (2010年10月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月30日補正)

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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(109)

1-写真
  昭和44年2月 西宮一麦教会に於ける吉田源治郎

   第109回 昭和44年~45年の吉田源治郎と幸

昭和44年の関西新春聖修会は、1月3日と4日、大阪クリスチャンセンターで開催されている。翌45年の新春聖修会も同じ場所である。吉田源治郎はそこで「石叫ぶべし」と題して講じている。次の写真は、その時のものであろうか。源治郎・幸、お二人共にお元気な姿がある。

2-新春集会の写真

ところで、前後するが昭和44年8月26日から27日まで、京都修学院のクリスチャン・アカデミーに於いて、キリスト教保育連盟関西部会の夏期修養会が開催され、その時の写真が残されている。勿論ここには、吉田幸の姿も前列に見える。吉田夫妻と親しくされていた芹野俊郎牧師の姿も同じく前列に見える。

3-保育修養会写真

また、昭和45年3月から開かれた大阪万国博覧会にキリスト教館を出展した展示場でマイクを持つ吉田源治郎の写真もある。

4-万博写真1

5-万博写真2

西宮一麦教会は、昭和46年3月には牧師館の増改築を行い、この教会のご出身でもある森彬牧師夫妻を迎えている。下の写真は、森牧師就任初の礼拝の後の写真である。

6-森牧師就任写真

次の写真は、増改築した牧師館のところに立つ吉田源治郎(昭和46年3月7日)。

7-牧師館にたつ吉田

ところで今回は先ず、前掲『西宮一麦教会・五十年の歩み』の中から、昭和36年~昭和46年「第二期・森彬牧師就任まで」の箇所を取り出して置きたい。前に収めた「第一期」同様、簡潔によく纏められている。

8-第二期の記録1

9-続き2

10-続き3

11-続き4

12-続き5

13-続き6

そして今回の最後に、『甲子園二葉教会・創立五十周年記念誌』の中から、創立20周年(昭和30年)のところまでは既に掲載済みであるので、その後の昭和45年までのところを、ここに収めて置く。

14-甲子園の記録1

15-甲子園の記録2

16-続き3

17-続き4

18-続き5

19-続き6

20-続き7

 今回はここまでで閉じる。
    
       (2010年10月29日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月29日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(108)

1-写真
  源治郎から幸へ贈った絵葉書(昭和42年7月13日付)

   第108回 昭和42年~43年の吉田源治郎と幸

上の絵葉書は、画面が立体的に浮き出る仕掛けになった珍しいものである。
吉田源治郎は、葉書などでこまめに見舞いなど多くの人々に届けていたようであるが、この時、クリスト・ロア病院に入院中であった妻・幸にも贈り届けた、これは特別の見舞い状のようである。

次に宛名と本文を取り出して置くが、入院先の「クリスト・ロア病院」は「西宮市上ケ原十番地」にあって、現在の「上が原病院」のようである。汚れがあるが、判読は可能である。自宅とこの病院は同じ西宮市内にあるので、わざわざ絵葉書などと言われるかも知れないが、そこが吉田源治郎なのであろう。その文面は各々味読あれ。

2-ハガキ

さて、昭和42年正月2日から3日まで、恒例の集い「関西新春聖集会」が一麦保育園と西宮一麦教会で開始されている。

     「一麦保育園」の増改築と「一麦寮」の解体              

3-園児たち
    昭和42年3月 一麦寮の姿を背景に一麦保育園の園児たち   

上の写真は、梅村貞造氏製作の講演資料「賀川豊彦と一麦寮」の中から取り出したもので、園児たちの顔もよく判らないが、「一麦寮は、昭和42年7月に取り壊された」と記されている。解体の後、増改築された一麦保育園は、昭和43年5月、めでたく完成に漕ぎ着けている。

4-古い保育園
        (上) 旧い一麦保育園の全景

5-新しい保育園
          (下) 新装なった一麦保育園

いずれも「落成式資料」より。

6-保育園の歩み

7-続いて経過

8-つづいて式次第

9-続いてハルのあいさつ

 吉田源治郎の献堂の辞と祈祷

10-続いて吉田のことば

次は、吉田幸の昭和27年から昭和44年までの履歴である。
幼稚園関係の各種役員や永年勤続の教育功労賞、幼児教育に貢献した数々の表彰、兵庫県知事・西宮市長・文部大臣などの表彰が続いている。

11-吉田幸の履歴

吉田源治郎も、昭和11年に大阪府知事より社会事業功労賞、昭和31年の全国福祉大会でも社会福祉功労者として、さらに昭和53年には日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者として表彰されている。

吉田源治郎はこの年(昭和43年3月)、一麦保育園の園長を退任し、後任の園長・埴生操に託している。

12-卒園式
   昭和43年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児たちと共に

13-創立20年写真
昭和42年3月19日 西宮一麦教会の創立20周年記念

以上、昭和42年から昭和43年までを取り出して見た。今回はここまで。
         
           (2010年10月29日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月28日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(107)

1-写真

   第107回 昭和40年~41年の吉田源治郎と幸

昭和40(1965)年も1月2日の一麦保育園・西宮一麦教会に於ける「関西新春聖集会」でスタートしている。
上の写真は、6月7日、平安女学院で開かれた「朝祷会全国大会」の集合写真で、吉田源治郎の姿も一番前の列に見られる。この「朝祷会全国大会」は既に第4回であるが、この組織がどのような経緯で誕生し、全国的な運動として広がりを見せてきたのか、今の私にはよく判らない。

聞くところによれば、「大阪朝祷会」をはじめたメンバーの一人が吉田源治郎ではないかと言われるが、現在も熱心に途切れることなく、大切な信徒運動として大阪でも神戸でも全国各地で「朝祷会運動」は継続されている。

戦前、大阪四貫島教会の青年たちが機関誌『流域』を発行して来た事は既に紹介済みであるが、戦後しばらくの間これが中断していたのを、小川秀一によって「四貫島友隣館創立30周年」を迎えた昭和29年10月より『流域』の再刊が開始されていた。

2-流域40年

上に挙げた『流域』はその第133号で、昭和40年10月1日発行の「四貫島友隣館・同教会・天使保育園創設40年記念号」の1面である。

3-夫妻の写真

上の写真は、鮮明ではないが同紙2面に掲載の吉田夫妻である。何処で撮られたものであろう。
この特別号には「目次」にあるように2面以下に「吉田源治郎先生のころ」「四貫島の思い出」が綴られていて、それらは既に本連載の該当箇所で、それぞれ取り出しているので、今回は再録しない。

ここでは「創設40周年」を迎えた昭和40年4月の「記念行事」のところを、『四貫島セツルメント:五十年のあゆみ』から取り出して置く。

4-創設50年の歩み

5-つづき

  吉田源治郎「読書のすすめ」「文書伝道」第59号昭和40年10月15日

6-読書のつつめ

7-つづき

8-つづき

  吉田源治郎『GUEST BOOK』ほか

9-GEST BOOK

ここまで記した後、10月25日午後、一麦保育園に於いて、久しぶりに梅村貞造・吉田摂両氏にお会いする機会があった。この前「ラクーア伝道と吉田源治郎」を取り上げた折、兵庫県下を巡回する通訳者として源治郎の面接を受けた一人・松村時男氏も其の場に見えており、当時同志社大学経済学部の学生だった松村氏にとって、夏休みのひと月余りの、2度の夏を過ごした「ラクーア体験」は、半世紀も経た今も、ご自身の英語力の上達と卒業後の仕事の上で活かされて、その後の人生を貫く大切なものを授かったことを、熱く語られていた。

大事に保存しておられる当時の沢山の写真など持参され、梅村氏も、青春時代の個人的なアルバムの中の「阪神地区各教会連合」による「ラクーア音楽伝道西宮集会」(昭和31年月)の写真など披露され、お3人の語らいを聞かせて頂いた。

松村氏は同志社の、吉田氏は関学のグリークラブで、そして梅村氏は京都大学の合唱団に属して、それぞれ現在もその分野でも活躍されているようで、お話も尽きないものであった。
 
ところで、今回も新たに幾つかの新たな資料をお預かりした。上の『GUEST BOOK』と表書きのあるものは、吉田源治郎のもので、1964年から1967年頃までが記されている。これはもう1冊、賀川が亡くなった後の頃のものが残されている。

また今回ビデオ7本とDVD1つ――昭和55年3月の幼稚園卒園式に於ける吉田幸の映像、西宮市私立幼稚園連合会関連のものなど――もお預かりした。吉田源治郎の音声の録音記録はあるようであるが、映像は今のところ残されていないが、吉田幸の場合は、それが残されている。

そして今回、梅村氏から前記個人アルバムと『イエスの友会80周年小史―年譜』(2001年)をお預かりした。これによって昭和35年以降の主な流れは確認できるのではないかと思われる。

 吉田源治郎:米国・カナダ伝道旅行: 昭和40年12月30日~昭和41年2月10日

西宮一麦教会『五十年の歩み』にある「年表」には、標記の事項があげられ、「昭和41年3月6日 帰国歓迎会」(39名)と記されている。この2ヶ月近い伝道・視察旅行のレポートは色々と、どこかに残されているかも知れない。

連載の冒頭に紹介した岡本栄一の「年表」で昭和41年の欄には、「源治郎(75歳)、アメリカのカリフォルニア、ハワイの約20の教会を歴訪し伝道する」と書かれている。

ここには、残されていた小さな写真4枚を拡大して収めて置く。

10-アメリカ訪問写真

11-パロマ展望台

12-天文台吉田

13-おなじく

上の写真は、パロマ天文台。吉田源治郎は、米国留学の時、パロマ天文台へ一度訪れているので、これは2度目の訪問である。

昭和41年1月3日~4日、大阪クリスチャンセンターに於いて「新春聖修会」が開催されているが、吉田源治郎は上記の通り、外国旅行中である。この年の「新春聖修会」では、長谷川保・竹中正夫・有賀鉄太郎・川瀬勇らが講師を務めている。

 吉田源治郎「この“この最後の者”に奉仕する救済の手」「キリスト伝道新聞」昭和41年10月号

これは、先の「北米・加州伝道旅行」のレポートのひとつである。

14-米国レポート

15-つづき

16-卒園式
  昭和41年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児たちと共に

昭和41年は、吉田源治郎が賀川と共に歩んで来た神戸イエス団の武内勝(昨年本サイトで連載)が3月30日に急逝している。
        
     (2010年10月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月27日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(106)

1-記念写真
  昭和37年11月10日 今津二葉幼稚園創立40周年記念式

   第106回 昭和37年~39年の吉田源治郎と幸

昭和37年1月も「関西新春聖集会」(恒例の「関西冬期福音学校」)が開催されている筈であるが、内容は今未確認である。上の写真は、今津二葉幼稚園の創立40周年記念式。ご覧の通り会場は満杯である。

園児の母・庭屋信子作詞作曲の「40周年おめでとう」というお祝いの歌が母親たちによって歌われるなど、次にあるような記念の「式次第」のもとで「礼拝」「祝会」そして「講演」が行われている。 (『幼稚園八十年史』より)

2-記念式写真

3-記念式次第

4-昭和38年教師達写真
   昭和38年3月 今津二葉幼稚園の教師たちと共に

    C・A・ローガン著『詩篇霊歌抄』(ともしび社、昭和38年2月) 

5-ローガンの本

本年(2010年)7月1日、一麦保育園に於いて、西宮一麦教会の牧師として働かれた森彬牧師から「吉田源治郎の思い出」をお聴きする機会があった。森牧師は、昭和46年3月より長くここで牧会を続け、晩年の吉田源次郎の姿を身近に見てこられ、「吉田源治郎牧師の最も良き理解者」として知られている方である。

そのお話の中に、次のことがあった。それは、吉田源治郎牧師が80歳の誕生日(昭和46年10月2日)を迎えられた時、標記のローガン先生の著書『詩篇霊歌抄』を吉田牧師から贈られた事があり、その著書の表紙見開きのところに次の短歌が添えられていて、森牧師は今もその歌を記憶しておられる。その短歌というのは、
                 
 今さらに
 振りかえり 見れば
 山坂を
 越えては 越えて
 来つるものかな

という歌だったと、お話になった。

6-今更にの歌自筆

早速別れ際に、森牧師にその著書を一度拝見したい旨依頼したところ、直ぐに先生から書簡を添えてこの著書をお送り頂いた。その書簡には、「この歌の後に、左隅のご出生の年月日と80歳のお誕生日となる年月日を並べておられます。このローガンの著書を戴いたのは、そのお誕生日の約1週間前の1971年9月26日であります。「あとがき」によると、この本の刊行はローガン博士夫人と吉田先生のご慫慂によるもので、翻訳は多分、斉藤敏夫先生でありましょう。7,8頁に吉田先生による著者の紹介があります。」と記されていた。

本書は、上に取り出した表紙にもあるように「交読用33篇を解説する」もので、カット入りの131頁の大変読み易い作品で、1部コピーして一読したが学ぶ所の多い好著である。ここでは、ローガン博士一家と長期間に亘って交流を深めてきた吉田源治郎の文章の他に、「徳島時代のローガン先生」という一文を記した酒枝義旗の箇所、並びに斉藤敏夫の「あとがき」を取り出して置く。

7-ローガン紹介分

8-つづき

9-徳島時代のローガン

10-つづき

11-つづき

12-あとがき

13-ローガン写真

14-昭和39年1月イエスの友
  昭和39(1964)年1月2日 イエスの友会新春聖修会 賀川記念館

吉田源治郎は2列目中ほどに、杉山元治郎や武内勝などと並んで写っている。杉山はこの年の10月11日にその生涯を終えている。「新春聖修会」は1日だけだったのだろうか。

   源治郎の「琉球伝道」

昭和39年7月21日から28日まで、吉田源治郎は「琉球伝道」を試みている。
次は、「琉球郵便」のはがきに書かれた源治郎の「投稿」の草稿である。タイプは自分で打っていたのだろうか。

15-琉球伝道はがき

これを読むと、「沖縄本島の殆どを巡回」とあるので、本島の諸教会を訪問したのであろう。どこかに詳しいレポートを残している筈であるが、この旅の写真が10数枚まとめて残されている。説明書きが何もないので撮影場所など分からないが、ここに数枚取り出して置きたい。

下の写真は、首里教会かどこかで講じた後のものであろう。黒板に源治郎の筆跡が見える。

16-首里教会での写真

17-つづく写真

下の写真の看板を見ると、23日から24日まで「金武幼稚園」を会場にして開催された「沖縄キリスト教保育連盟主催」の「キリスト教幼児教育講習会」のようである。吉田源治郎はここでのゲスト講師の一人であったのかも知れない。

18-幼児教育講習会写真

下の写真は、この研修会に参加した人達と共に、幼稚園の庭か宿舎のホテルの庭で写されたものであろうか。

19-ホテルの庭で写真

次の写真は、沖縄の何処の大学の教育学部であろうか。

21-教育学部写真

次右の写真の看板は、文字が隠れていてよく判らないが、「ハンセン氏病相談」と書かれているのだろうか。

20-ハンセン写真

下の写真はプロの写真で「南部戦跡巡拝記念」と書かれている。観光バスで出掛けたようである。この場所も何処であろうか。尚、上に掲げた写真は、沖縄首里の調氏が写され、源治郎の元へ届けられ、その時の手紙には、源治郎の沖縄訪問の後、沖縄キリスト教保育連盟は日本キリスト教保育連盟への加盟が実現し、その御礼が言葉が認められている。
蛇足ながら調氏の手紙には「お忘れ物の上着は、○○氏にことづけました」とも記されている。沖縄はやはり暑かったのであろう。              

22-南部戦責巡礼写真

ところで、『甲子園二葉幼稚園八十年史』の昭和39(1964)年の「年表」を見ると、「幼稚園前の第二阪神国道(現43号線)に陸橋完成。8月4日 町名変更:今津高潮町→甲子園高潮町 9月5日 園名変更:今津二葉幼稚園→甲子園二葉幼稚園」と記されている。

他方『日本基督教団甲子園二葉教会・創立五十周年記念誌―1939年~1989年の歩み』(1991年)の「年表」には、何故か「1961(昭和36)年3月~1966年12月まで記録不明」とあって、この期間が欠落している。従って、教会の「年表」では「今津二葉教会」が「甲子園二葉教会」に変更・認可された日付が判らない。

今回の最後に、昭和39年3月の今津二葉幼稚園卒園児と共に写された写真を収める。「今津二葉幼稚園卒園児」とされるのは、これが最後になる。

23-卒園写真

今回は結局、昭和37年から昭和39年までを辿る事になった。次回は、昭和40年以降に進む。
       
      (2010年10月25日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月26日補正)

補充
2010年12月13日、吉田摂氏より、次の写真をお預かりした。昭和37年8月21日~御殿場・東山荘の集まりの小さな写真3枚と、賀川ハルの自宅での写真と思われる1枚と。

24-補充写真
  前列中央に賀川ハル、その隣は吉田幸、ひとりおいて吉村静枝

25-続き《吉田とハル)
     吉田源治郎と賀川ハル

26-最後の写真
 右端が吉田源治郎、その隣は賀川ハル? 前頁はこの時の写真?

27-ハルの写真
賀川ハル(撮影日と場所不祥)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(105)

1-写真
新築なった西宮一麦教会での最初の礼拝(昭和35年12月18日)

   第105回 昭和36の吉田源治郎と幸

昭和36年1月15日、西宮一麦教会の献堂式が、下記のように執り行われている。上の写真は献堂式前の、新築なった教会での最初の礼拝の時のものである。
  
2-教会式
 
次の写真は、撮影年不祥であるが、それまで礼拝が行われていた一麦保育園の旧園舎で説教をする吉田源治郎。(昭和24年10月~昭和35年12月)

3-吉田写真

次の写真は、昭和35年10月22日、新会堂建設の定礎式。バックに写るのは「一麦寮」(昭和48年に作られた西宮一麦教会『創立25周年を記念して』より)

4-定礎式

次の写真は、昭和35年12月に完成した新会堂の全景(『五十年の歩み』より)

5-教会完成

ところで、賀川豊彦亡き後の最初の年も、恒例の関西冬期福音学校は、新しく建てられたこの西宮一麦教会に於いて開催されていたようである。 「いたようである」という曖昧な言い方になるのは、これまでイエスの友会の機関誌「火の柱」の復刻版を頼りに、恒例となっていた諸集会の記事をここに掲載してきたが、その後の機関紙が手元にないため、これまでのような取り出し方が出来なくなっているためである。

神戸の賀川ミュージアムでも、その後の「火の柱」の綴りを閲読できず、手元にも昭和63年以降のものしか持ち合わせていない。従って、この機関紙で確認できたイエスの友会の大凡の経緯も、また頻度は少なくなっているとはいえ、そこに登場する吉田源治郎の文章や消息なども取り出すことができない。

「冬期福音学校」に限って一つの手がかりになるのは、このサイトで昨年連載した武内勝の昭和36年の「日誌」である(「賀川豊彦のお宝発見」の第55回~第58回)。改めてその第55回のはじめには、次のように書かれているのである。

1月2日 
一麦寮に於ける修養会に出席した。
出席者は108名であったが、青年の多数であったことは頼もしく嬉しかった。
________________________________________
1月3日 
前日に引き続き修養会に出席し、午後は15分間の奨励をした。
賀川の弟子になって何をしたかと題し、賀川先生の指導を受け、愛の奉仕の真似で、三公の幽霊話と労働保険組合の組織に就いて、宮本兵太郎の負傷と財団法人イエス団の基本金五千万円積み立て、毛利金五郎にだまされて得たこと。
以上に就いて述べた。

 「修養会」とあるので、これまで通りの「冬期福音学校」という名称であったかどうか、また恒例であれば正月2日から4日までの3日間であるが、武内が参加できたのは2日間のようである。何処から取り出したのか判らない手元のメモには「昭和36年1月 関西新春聖集会 賀川ハル」としているが、確かなことではない。因みに、西宮一麦教会と今津二葉教会双方の記念誌に纏められた年表には、この年から「イエスの友」関連の恒例の集会の記述は消えている。

今回は、新会堂で礼拝説教を行う吉田源治郎の姿と、『西宮一麦教会・四十年の歩み』(昭和63年)に収められている源治郎の二つの説教(昭和36年1月1日の新年礼拝と1月15日の礼拝)を取り出して置きたい。

6-説教する吉田

7-説教1

8-説教2

9-説教3

10-説教4

11-説教5

12-説教6

13-説教7

14-卒園式
  昭和36年3月 今津二葉幼稚園卒園児たちと共に

15-イエス団関係者
  昭和36年11月3日 イエス団関係者修養会 賀川ハルらと共に

今回はここまでで終え、昭和37年以降のことを次回は探して見たい。
        
         (2010年10月24日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月25日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(104)

1-写真
  昭和34年3月23日 高松・ルカ病院前 緊急入院養生後東京へ戻る日

    第104回 賀川豊彦の召天と吉田源治郎

賀川豊彦がその生涯を終えたのは昭和35(1960)年4月23日夜のことであった。前回はこの年までを見たが、「賀川豊彦の召天と吉田源治郎」の事に関しては今回取り出して置きたい。

2-賀川伝表紙

ところで、右の『百三人の賀川伝』は、賀川没後4ヶ月足らずして、8月にキリスト新聞社より出版された。上下2分冊のものと、分冊ではない箱入り上製本とが、ほぼ同時に出ている。

武藤富男の序によれば、「みんなで賀川伝を書こうということになり、原稿を募集したのは、昭和34年1月、賀川先生が高松にあって療養中の際であった」という。賀川もこの企画を知って、出版を心待ちにしていたが、遂に賀川の生前には間に合わなかった。

書名の如く、百三人の広範囲にわたる人々の寄稿文で、読み物としても面白い。

ここに寄稿した吉田源治郎の文章「タンカを切る賀川」は、これまで部分的に関連する場所で取り出してきたが、以下に全文を収めて置く。(上製本の250頁~252頁)

3-タンカ1

4-タンカ2

5-タンカ3

次の著書『神はわが牧者―賀川豊彦の生涯と其の事業』も、先の『百三人の賀川伝』に続いて、賀川没後7ヶ月程で仕上げられた追悼集である。前書は103人の寄稿者であるが、ここにも70人余りの人々が寄稿している。

6-神は表紙

奥付によれば、昭和35年12月8日、イエスの友大阪支部の発行で、編集者は田中芳三、編集協力者に西阪保治・吉田源治郎・金田弘義の3人が上がっている。多くの写真が入る128頁の上製本である。

今回冒頭の写真は、本書から取り出したもので、昭和34年3月23日、高松・ルカ病院前で撮られている。緊急入院で養生した後、東京・松沢の自宅へ戻る日の賀川豊彦である。2列目右端はルカ病院の小川院長夫妻。

前回、昭和34年1月の一麦保育園に於ける冬期福音学校で講演する賀川豊彦の写真を掲載したが、次の写真はその福音学校の最終日(1月4日)、賀川が最後の講演を終えた時に写したものであるという。賀川の右が桃谷勘三郎、後列左より山口政雄・涌井安太郎・大川拡・田中芳三。

7-福音学校最終日の写真

下の写真は、本書の編集に当たった4人で、左から西坂保治・金田弘義・田中芳三・吉田源治郎。

8-編集に当った人々の写真

次頁に、西阪・吉田・金田連名の「まえがき」を収める。

9-まえがき1

先ず、吉田源治郎の二つの寄稿文を取り出して置く。

10-吉田文章1

11-吉田文章2

この追悼集の最初に、大宅壮一の「噫々 賀川豊彦先生」がある。この短い一文は広く引用されてきた有名なものであるが、ここにその原文を収めて置く。
 
12-大宅の文章1

ここで、本書に収められている写真の中で、吉田源治郎が写る写真を2枚、入れて置く。1枚は大正14年のもの(上)、もう1枚は昭和30年のもの(下)である。

13-写真二枚上

大正14年8月 六甲山 イエスの友大阪・京都連合研修会 前列左2人目・吉田源治郎

14-写真二枚下イエス団
  昭和30年 イエス団職員会 前列左より吉田・三浦・賀川・武内・本多

賀川の葬儀の記録の箇所にば、「4月26日午後1時より、松沢教会において、深田種嗣牧師司式により、密葬の式が行われ、今日まで賀川先生の影のようにつき添うて、よく協力された吉田源治郎牧師が式辞を述べた。」と記されている。

今回の最後に、源治郎の畏友・西阪保治と金田弘義が、本書に寄せた文章を収める。

15-最後に文章1

16-文章2

17-文章3

18-文章4

19-文章5

以上、昭和35(1960)年までを見たことにして、次に進む。
       
      (2010年10月23日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月21日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(103)

1-写真
   昭和34年1月 関西冬期福音学校 一麦保育園

   第103回 昭和34~35年の吉田源治郎と幸

上の写真は、前回も触れたように賀川豊彦が正月2日から4日まで一麦保育園に滞在した最後のもので、賀川が生前行った最後の講演でありその姿である。

2-はじめに福音学校

賀川豊彦は翌日5日に神戸市教育委員会に出席し、6日に病を押して四国に出発したことも、前回記した通りである。(『賀川豊彦写真集』では上の写真は「昭和33年」となっている。上の「案内」にある「されど今日も・・」は写真の標語と符合するので、「昭和34年」の間違いであることが判る。)

「火の柱」2月号には、賀川の病状などに関して、右のように報じている。

3-賀川の病状
   
   昭和34年7月の関西夏期宝塚聖修会(「火の柱」8月号より)

4-つづいてイエスの友案内

5-つづいて宝塚集会の写真

  昭和35年

  「火の柱」昭和35年3月号

6-火の柱8月号

7-つづいて日米修養会案内

8-その写真

 「火の柱」昭和35年1月~4月掲載
  「火の柱」の復刻版は4月号まで。本稿は「つづく」となっているが後を未確認。

9-つづいてその記事1

10-つづいて記事2

11-記事3

12-記事4

13-昭和35年福音学校案内

14-火の柱3月号1見出し

15-火の柱3月号本文1

16-火の柱3月号本文つづき

17-火の柱35年連載1

18-連載2

19-連載3

20-連盟30周年写真
   昭和35年7月29日 連盟創立30周年記念 右端・吉田幸

21-卒園写真
   昭和35年3月 今津二葉幼稚園卒園児と共に

今回の最後に、吉田源治郎が牧師を務めてきた西宮一麦教会が、源治郎の没後14年経た平成10(1998)年に編纂した『五十年の歩み』の中から、「第一期 創立から旧会堂献堂まで―1947(昭和22)年~1960(昭和35)年」の部分を取り出して置きたい。

22-歴史1

23-歴史2

24-歴史3

25-歴史4

26-歴史5

27-歴史6

上の文章は、梅村貞造氏の執筆と思われるが、最後の部分には「賀川豊彦との最期」の想い出が語られている。賀川は昭和35(1960)年4月23日、その波乱の生涯を終えたので、この項で取り上げておくべき出来事であるが、今回も長くなったので、次回に改めて「賀川豊彦の召天と吉田源治郎」を見て置きたい。
      
      (2010年10月22日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月20日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(102)

1-写真
  「ラクーア伝道」東京会議記念(昭和33年9月3日・青山学院大学院講堂)

   第102回 「ラクーア伝道」と吉田源治郎

 「ラクーア伝道」については、吉田源治郎の説教「前進する教会」を取り出した中にも、また源治郎が深く関わった「大和榛原伝道所」の中にも、或いは今津二葉教会の「週報」で紹介した「音楽伝道」の中にも、断片的に触れられていたが、詳しいその実像と全体像を掴んでいない。

吉田源治郎の場合、昭和のはじめの頃から賀川豊彦や杉山元治郎等と共に農民福音学校を手がけ、奈良県下や兵庫県但馬地方のなど、各地の農村に於ける開拓伝道に地道な関わりを積み重ねており、その取り組みの途上で「ラクーア伝道」という企画に呼応し、それを活かした働きをしてきたように思われる。

先ず「ラクーア伝道」と言われるものはどんな取り組みなのか、大宮博の短い書評:戒能信生・柴田彰・穂積修司共著『ラクーア―その資料と研究』(キリスト新聞社、2007年)(「本のひろば」所収)があるので、それを読んで置く。

2-本文章1

3-文章2

ここに概観されているように「ラクーア伝道」は、10年余のプロジェクトとはいえ、各地で多様な取り組みと展開を見せているようである。

関連する著書に『宣教百年記念ラクーア伝道写真集』(武藤富男篇、日本基督教団ラクーア特別伝道委員会監修)やローレンス・ラクーア著『神との冒険―ラクーア自伝』(キリスト新聞社、2002年)などがあるが、いずれも未読のものであるので、ここに取り出すことは出来ない。

    但馬日高伝道所

吉田源治郎との関わりの深かった教会の一つに「但馬日高伝道所」(現兵庫県豊岡市日高町)がある。
日本基督教団発行の『信徒の友』の「ここに教会がある」の欄に取り上げられたグラビア記事があるので、そこから写真と文章を取り出させて貰う(。掲載年月不祥)。

4-日高の地図

次の写真には 「1956年ごろ、ラクーア伝道団を迎えて」と添え書きがあるが、手前右端にほんの僅かに写る腕組みの男性は、どうも吉田源治郎のように見えるがどうであろう。

5-部屋の中の写真

6-記事1

7-記事の2

    宮城喜代子「但馬の吉田先生」『吉田先生と私―米寿記念文集』(西宮一麦教会、1977年)より

8-宮城さんの文章1

9-文章2

ところで、今回の冒頭に収めた写真は、写真裏に「1958年 ラクーア伝道東京会議記念 9月3日(水)午前9:10―4:00 青山学院大学院講堂」と記されている。

実は丁度この頃、同志社大学の学生で夏の2ヶ月間、「ラクーア伝道」の通訳の奉仕をした経験のある松村時男という方から、吉田摂氏に届けられた書簡と2枚の写真が、今回預かっている資料の中に含まれていた。

松村氏は通訳の応募をした折、吉田源治郎の面接を受けて合格となった経緯もあるらしく、書簡には次のように書かれている。

「吉田源治郎先生のおかげで、素晴らしい青春の思い出ができました。2ヶ月近い奉仕を2回やらせて頂き、英語にも進歩があり、それが為に貿易会社に就職できました。1980年には独立し、現在も働いております。グリークラブとラクーアが私の青春です。お父上には感謝です。」(書簡の年月日不祥)。

その2枚の写真は、次のものである。

10-上の写真
(上)1957年8月末 青山学院。賀川は前2列目蝶ネクタイ 吉田は後列中央

(下)「浜坂での奉仕を終え、東京での大集会 前列中央にラクーア夫妻」
前列左4人目に吉田、前列右6人目に武藤 賀川の姿は見えない 撮影年?

11-下の写真

「ラクーア伝道」の地道な検証を続けている穂積修司氏の労作が、日本基督教団播磨新宮教会『創立50周年記念誌』(2007年)に載せられている。ここには記念誌の巻頭にある「50年を振り返って」及び「資料:50年略年表」の中の「ラクーア伝道時代」を収めさせていただく。

12-歴史1

13-歴史2

14-歴史3

15-歴史4

16-歴史5

17-歴史6

18-歴史7

19-歴史8

以上、限られた資料を元に「ラクーア伝道と吉田源治郎」について辿って見た。このプロジェクトの後、既に半世紀が過ぎている。それぞれの場所で多くの取り組みを積み重ね、兵庫県下でも、関係教会の連絡会が作られ相互に交流と研鑽が続けられている。
      
        (2010年10月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月19日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(101)

1-写真
    何時何処で撮影された写真であろう?

   第101回 昭和33年の吉田源治郎と幸

上の写真には、最晩年と思われる賀川豊彦と吉田源治郎の姿がある。何時何処で撮影されたのかは、見る人が見れば直ぐ判る事であるが、今の私には判らない。

賀川豊彦は昭和34年1月2日から4日までの恒例の冬期福音学校で講演を行っているが、この時が一麦保育園に滞在した最後と言われている。この福音学校を終え、約束していた兵庫県校長会での講演を済ませ、1月6日の夕方神戸から、体調の不良を押して「故郷の四国伝道」に向かい、途中で高松の病院に緊急入院という事態を迎えるのであるが、上の写真には、その時「賀川の最後の旅」に同行した白倉正雄の姿がある。従ってこの写真は、今回取り上げる昭和33年か、それより少し前のものと思われる。

先ず、昭和33年正月の一麦保育園に於ける「関西冬期福音学校」の参加を呼びかける案内を入れて置く。

2-イエスの友案内

   イエスの友自然研究会主催「自然観察保育セミナー」 

吉田源治郎は埴生らと共にこの分野の開拓的な研究にも余念がない。

3-自然観察案内

  関西聖修会・全国大会(宝塚阪急旅行会館)

4-つづいてイエスの友案内

5-全国大会写真

   吉田源治郎「わが恵汝に足れり」 「キリスト新聞」昭和33年2月~3月に連載。

(日本基督教団吐田郷教会『神の愛に生かされて―米田純三牧師召天記念文集』1995年所収分より。
次の写真は、米田純三牧師)

6-米田牧師写真

7-吉田文章1

8-吉田文章2

9-吉田文章3

10-吉田文章4

11-吉田文章5

13-吉田文章7

  昭和33年3月 今津二葉幼稚園の卒園児たちと共に 

14-つづいて昭和32年卒園式

今回はここまでで閉じる積もりであったが、先の吉田源治郎の作品が収められている吐田郷教会の米田牧師記念文集『神の愛に生かされて』には、源治郎が深く関わって来た馬見労祷教会の二人の方―(吉田惣市郎・小須田ヤエ)と「奈良伝道会」に触れた方(村山盛忠)の文章があり、米田純三と吉田源治郎(この記念文集が編まれた時は、吉田源治郎も「故人」として記されている)を想起させる貴重なもので、ここに収めさせて頂く。

15-米田関係文章1

16-文章2

17-文章3

18-文章4

此処には3人の方の文章だけを取り出したが、米田純三牧師を記念するこの記念文集は、前記の通り1995年に纏められた240頁にわたるもので、米田牧師の説教・随筆・日記をはじめ、生前内外で報じられた数多くの「米田先生の記録」と共に、120人以上の人々の「思い出」が綴られている。

次回は、先の村山盛忠牧師の文章に触れられている「ラクーア伝道と吉田源治郎」の事を、少し取り出して置きたいと思う。
      
       (2010年10月20日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月18日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(100)

1-写真
  昭和30年ごろの今津二葉幼稚園の教師たち

   第100回 昭和30~32年の吉田源治郎と幸

下は、今津幼稚園の昭和30年3月の卒園児たちであるが、写真に収まらない程の園児で溢れ、上の写真のように教師陣も充実したものである。

2-はじめの写真

一方、昭和7年の創立以来主事を務める一麦保育園の方も充実した自然保育で注目を浴びているが、「昭和30年10月8日バザー」と裏書された右の小さな写真も残されている。この時、吉田源治郎はまだ62歳である。

3-その下の写真

  関西冬期福音学校(1月2日~4日:一麦保育園)

4-福音学校案内

昭和30年も恒例の「イエスの友関西冬期福音学校」が一麦保育園で開催されている。これを見ると、前回「イエスの友関西連合会」の連絡先は四貫島の小川秀一に移されている旨記したが、前年の夏期聖修会が大阪開催であった事によるもので、開催先によって連絡先は変わり、今回は従来通り「今津二葉幼稚園内」になっているようである。

賀川豊彦の5回に及ぶ講演を中心に、田中俊介「協同組合」、山本一清「最近の宇宙像」といった多彩なプログラムが組まれ、「出席者総数232名、そのうち三分の二は20代及び10代の青年学徒であった」と「火の柱」2月号は報じている。そこには、次頁の写真も収められ、その盛況ぶりを伺わせる。少し拡大して取り出して置く。

5-その写真
  前に書かれている標語は「深処に乗り出して漁れ」(ルカ5:14)

   イエスの友中央委員会の「原水爆使用禁止」を国連へ

前年(昭和29年)3月、遠洋漁業に出ていた第五福竜丸が、ビキニ水爆実験で被爆し、国内外で原水爆禁止の叫びが上げられる中、第2回世界連邦アジア大会が東京で開催され、議長を務めた賀川は「日本の平和憲法の精神を世界に広め、世界憲法とすべきである」と主張していた。

その後、夏の大阪で開催のイエスの友全国大会で提案され、中央委員会付託となっていた国連への嘆願が決定され、昭和30年6月20日、国連本部へ送付されたものが、次のものである。「火の柱」7月号からそれを取り出して置きたい。

6-原爆禁止

7-英文

8-イエスの友案内

昭和30年も上のように、7月25日から27日まで、比叡山宿院に於いて「イエスの友関西夏期聖修会」が開催され、吉田源治郎も主催者として、また講師として参画している。

     四貫島友隣館の再建

9-四貫島再建写真

『四貫島セツルメント創設50年記念:五十年のあゆみ』に記載されていた関連箇所は前回取り出しているので重複するが、「火の柱」8月号には、小川秀一の「四貫島友隣館再建献堂感謝の辞」が掲載されているので、ここに挙げて置く。なお、写真も8月号に掲載されているものである。

10-つづいて小川文章

11-つづく写真

四貫島友隣館竣工式を終わって(昭和30年6月12日)

昭和31年
 「火の柱」12月号には、昭和31年11月、全国社会福祉事業大会で表彰状を授与された記事が掲載されている。

12-昭和31年表彰

吉田源治郎が「火の柱」に登場する頻度も徐々に少なくなるが、恒例の集会――「冬期福音学校」「夏期聖修会」――の企画準備並びに講師の役柄は変わることなく継続している。

  冬期福音学校(昭和31年1月2日~4日)

13-福音学校案内

 夏期聖修会(昭和31年8月6日~8日)

14-夏季集会昭和31年

15-その写真
  昭和31年8月 兵庫県川西市「北摂山荘」

昭和32年

関西冬期福音学校(昭和32年1月2日~4日)

16-昭和32年案内

17-つづいてイエスの友案内

18-つづいてその写真

吉田源治郎が「火の柱」に寄稿した久々の作品が次のものである。昭和32年8月号に「私の開拓伝道記の巻―奈良県下(1)」と題して掲載されている。末尾に「この項つづく」とあるが、これの続きは掲載されていないようである。

19-吉田の文章1

20-吉田の文章2

21-吉田の文章3

  原水爆実験禁止決議:米英ソ連並びに国連事務局へ
  「火の柱」昭和32年9月号
  イエスの友全国大会(御殿場・高根学園)で議決の決議文

22-原爆決議

23-こどもと写真
   吉田幸と園児たち(この頃のものか)

予告通り少し足早に進みそうです。次回は何が出て参りましょうか。いつものように手探りです。
今回は「第100回目」ということでした。一寸一服というところですが、いつも一服一服しながら、気儘な連載ですので、ボチボチと進んで参ります。
今月(2010年10月)25日の午後は、一麦保育園に於いて、久しぶりに梅村貞造・吉田摂両氏を囲んで、色々とまたお話を伺えることになっています。
       
      (2010年10月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月17日補正)





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(99)

99-1卒園式
     昭和29年3月 今津二葉幼稚園卒園

    第99回 昭和29年の吉田源治郎と幸

上の写真は、昭和29年3月卒園の園児たちと共に写る吉田源治郎と幸。この年も下のように、一麦保育園に於ける冬期福音学校が始まっている。

99-2はじめにイエスの友案内

昭和27年に小川三男の後任として四貫島教会・友隣館・保育園の責任者として就任した小川秀一も、初めてこの講師陣に加わっている。

   吉田源治郎「掌編説教」ふたつ  「火の柱」昭和29年4月号

99-3吉田説教1

「火の柱」昭和29年7月号

99-4吉田説教7月号

   「今津二葉教会週報」より

昭和29年の「今津二葉教会週報」は8月1日までのフアイルが手元にある。これを見ると、この年も前年同様、兼務する諸教会や農民福音学校をはじめ、保育関係の会合などに出向くと共に、加えて「家庭集会」や「16ミリ・トーキー映画」の上映会や幻灯映画・LPレコード<バッハ>演奏など新しい試みも始まっている。ここでは、6月27日の週報に添えられている一文と7月11日の週報だけを挙げて置く。

99-5週報1

99-6週報2

「イエスの友関西連合会」の事務局はこの時より「今津二葉教会・吉田源治郎」から「四貫島教会・小川秀一」に移されている。従って、下記の「夏期聖修会」は、小川秀一の元で企画準備され、講師陣も徐々に新しくなり、会場もこの時は大阪府立牧岡公園内のリクリエーションハウスに変更されている。    
           
99-7イエスの友案内

99-8イエスの友写真

この聖修会の期間中の8月5日に開催された全国大会の詳しい報告は「火の柱」9月号に掲載されている。ここでは以下に、小川秀一によるその報告を収める。上の写真も9月号にあるものであるが、元が小さいため拡大しても人の見分けも困難である。

前回の「火の柱」では吉田源治郎の「世界平和のために」のメモを収めたが、この号のあたりから「再軍備絶対反対・平和憲法を護れ」のスローガンが毎号続くようになる。

99-9イエスの友報告小川

99-10つづき2
               
    「四貫島宣教30年」を期して

小川秀一を迎えた四貫島は、「四貫島宣教30年」を期して、昭和29年には「四貫島友隣館」の再建に向けた新しい動きを見せていく。
              
    「火の柱」7月号

99-11火の柱7月号

99-12つづき2

四貫島セツルメント開設30年記念礼拝
 
昭和29年10月3日には、標記の「記念礼拝」が小川秀一の司式、吉田源治郎の説教「働く人と働く神」で執り行われている。これまで度々取り出してきた『四貫島セツルメント創設50年記念:五十年のあゆみ』(昭和50年)の中に、昭和28年から昭和33年までの「四貫島宣教30周年の前後」という箇所があるので、昭和29年のこの「記念礼拝」に関する部分だけでなく、長くなるがこの項を全部ここに収めて置く。

この連載では、その後の「四貫島」に於ける働きについて殆ど触れることはできないと思われるが、現在では大規模な「四貫島セツルメント」(四貫島友隣館・大阪四貫島教会・天使保育センター・ガーデン天使)へと発展し、新たな展開を見せてきている。

先の『五十年のあゆみ』以後の経緯と最新の現況を一瞥するには、2005年に纏められた『四貫島セツルメント・創立80周年:輝け、命』という労作があるのでご覧頂きたい。この『輝け、命』所収の「歴代館長の紹介」部分――吉田源治郎、小川三男、小川秀一、小川居の4氏の働き――に関しては、既にこの連載で取り出しているが、吉田源治郎にとって「四貫島セツルメント」は、やはり「青春の場所」そのものであったに違いない。

また、昭和51年に刊行された小川秀一著『恩寵七十年』も貴重なドキュメントである。  
 
99-13四貫島30周年1

99-14つづき2

99-15つづき3

99-16つづき4

99-17つづき5

99-18つづき6

99-19つづき7

99-20つづき8

99-21つづき9

99-22つづき10

99-23つづき11

99-24つづき12



 この年(昭和29年)4月にはイエス団は社会福祉法人として認可され、初代理事長に賀川豊彦が就任している。
この社会福祉法人イエス団には、坂出育愛館・一麦保育園・聖浄保育園・馬見労祷保育園・友愛幼児園・豊島神愛館・天使保育園が属し、今津二葉幼稚園・イエス団診療所・慈愛母子寮・神戸協同宿泊所は、財団法人イエス団として残留している。
      
     (2010年10月18日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月16日補正)
     

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(98)

98-1全国大会写真
 昭和28年8月9日 イエスの友全国大会(東山荘) 源治郎後列左2人目

   第98回 昭和28年の吉田源治郎と幸

昭和28年も次の内容の「関西冬期福音学校」が一麦保育園で開催されている。

98-2はじめ福音学校

「労働者に主はいませり」を標語として、賀川・杉山らと共に吉田も「労働者伝道の体験」を講じ、いつものように主催者として関わっている。

1月12日から31日までの豊島男子農民福音学校にも出向き「イエス伝・兄弟愛史・天文学」を講じている。

98-03豊島福音学校

  「火の柱」昭和28年4月号より

98-4火の柱28年4月

    「今津二葉教会週報」

前回も紹介した「今津二葉教会週報」は、昭和27年9月14日~昭和29年8月1日までのファイルが残されていたので、そこから取り出したものである。今津二葉教会の戦前の歩みは、小泉功の所蔵スクラップに整理保存されていたために、既述のような正確な「教会戦前史年表」が可能になっていたが、「教会週報」は重要な基礎資料である。

ところで、昭和28年の週報を見ると、吉田源治郎は相変わらず奈良馬見・榛原に通い、「伊那佐村農民福音学校」や「大和農民福音学校」を応援している。そして奈良県葛城郡吐田郷伝道所や大阿太村開拓伝道、さらには「奈良県キリスト教徒修養会」などにも招かれているようである。

また、兵庫県城崎郡の「奥佐津村農民福音学校」や同郡三方村の三方伝道所にも足を運び、「但馬農民福音学校」にも応援をしている。

さらには、和歌山県の南部教会で開催された第3回漁村伝道協議会への参加もある。そしてまた四貫島友隣館の役員会や大阪水上隣保館にも出掛け、多忙な日々を送っていることが判る。

前に紹介したように、源次郎は兵庫教区の農村伝道部長であったこともあり、関西4教区農村伝道協議会など、それに関連する活動も多く、聖和女子短大や教会その他の講演、また吉田幸と共にキリスト教保育者懇談会、キリスト教保育連盟などの分野でも活躍している。

そこで昭和28年の週報では「ラクーア記念・日本音楽伝道団・伝道音楽会」といわれる新たな取り組みが見られるので、その中のいくつかを取り出し、加えて源次郎の関わる「農村伝道」関連のものも添えて置きたい。

98-5教会週報1

98-6つづき教会週報2

98-7つづき教会週報3

98-8週報4

98-9週報5

この年(昭和28年)も、下記のように「イエスの友関西夏期修養会」が比叡山延暦寺宿院で開催され、吉田源治郎はこの時、通訳の大役も担っている。「火の柱」9月号にある「夏期修養会の報告」と共に、ここに収めて置く。

98-10イエスの友修養かい案内

98-11イエスの友全国大会案内

上記の案内は、昭和28年8月7日から9日までの3日間、御殿場・東山荘で開催された修養会並びに全国大会であるが、吉田源治郎はここで「イエスの友三十年」という講演を行っている。今回の冒頭に掲げた写真は、この時のものである。

最後に、今津二葉幼稚園関係の写真を収めて置く。

98-12卒園式
昭和28年3月 今津二葉幼稚園卒園写真

この頃のものと思われる写真2葉

98-13この頃の写真1

98-14この頃の写真2

吉田夫妻の写る七夕の時の写真は、別の場面のものを既に一度取り出したかも知れないが、面白い写真なのでこの1枚も収めて見た。お預かりしている資料も段々片付き、復刻された「火の柱」もあと僅かである。年代的にも徐々に私たちの青春時代と重なって来るので、これからは幾らか足早に進むことになるかも知れない。
    
     (2010年10月15日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月15日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(97)

97-1表紙
         『勇ましい士師達』の扉

   第97回 吉田源治郎著『勇ましい士師達』

97-2はじめの表紙

吉田源治郎の著書『勇ましい士師達』は、昭和27年1月に新教出版社より刊行されている。これは日本キリスト教協議会(NCC)文書事業部が、「宣教百年」(1959年)並びに「世界基督教教育大会(世界日曜学校大会)」(1958年)の日本での開催を前に企画したもので、「聖書少年文庫」全20巻の1冊である。

村岡花子の「刊行の言葉」と全20巻のリストがあるので、次に収めて置く。

97-3刊行のことば村岡花子

97-4文庫のリストの20冊

ご覧の通り執筆陣は、この連載でも度々登場してきた吉田源治郎の仲間・友人たち―吉野丈夫・西阪保治・由木康・賀川豊彦など―が名を連ねている。

これまで見てきたように、吉田源治郎は『児童説教』『新約外典物語』など児童向けの作品でもよく知られていた。
本書は、上製本の160頁で「少年文庫」にふさわしく読みやすい文学書に仕上げられている。

ここでは序文「勇ましい士師達について」だけを取り出して置く。源治郎は、他の著作と同様に、本書の改定版に備えて余念なく、多くのメモ書きを加えている。

97-5本文1

97-6本文2

97-7本文3

97-8本文4

97-9本文5

97-10本文6

97-11本文7

97-12本文8

97-13本文9奥付け

以上、目次も本文も取り出せなかった。
吉田源治郎は、本書をカバンに入れて持ち歩いていたのであろうか、上製本でありながら、セロテープで補強してあるものの、ボロボロの1冊が残されていた。

今回はここまでとして、次回は昭和28年以降に進む。
    
      (2010年10月14日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月14日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(96)

96-1写真
   昭和27年頃の吉田幸(今津二葉幼稚園)

   第96回 昭和27年の吉田源治郎と幸

96-2吉田と子供写真


上は吉田幸、右は源治郎。今津二葉幼稚園での円熟期の御両人の姿である。

ところで前回は「大和榛原伝道所と吉田源治郎」を取り出して見たが、いま昭和27年の「火の柱」を捲っていると、5月号に「高山右近受洗の村に聖書研究グループ結成」という一文が載っていたので、先ずこれを取り出して置きたい。

   「火の柱」昭和27年5月号より

96-3火の柱5月号1

96-4つづき2

昭和27年の正月も、下記のように「冬期福音学校」で歩み出している。  

96-5福音学校27年

   「火の柱」昭和27年6月号より

96-6火の柱6月サモネット

 昭和27年7月 関西夏期聖修会(比叡山根本中堂前宿院)

96-7関西集会27年

96-8つづき2

   吉田源治郎の報告(「火の柱」昭和27年9月号)

96-9火の柱9月吉田報告1

96-10つづき2

この聖修会に於いて語られた吉田源治郎の講演「伝道40年物語」は、記録としてどこかに残されている可能性もあるが、未確認である。
  
既に紹介した『農民福音学校』(昭和52年、立農会)の「年譜」では、昭和27年8月は「第4回」となり、下記の「第6回」とは符合しないが、吉田源治郎はこの時も豊島に出向き「イエス伝、天文学、デンマーク農業」を講じている。

96-11豊島女子案内

96-12豊島写真
    豊島女子農民福音学校:昭和28年(『農民福音学校』より)

 感謝状を贈る(1957年10月23日)

96-13スイス感謝状

   「今津二葉教会週報」

   昭和27年9月21日

96-14今津週報1

昭和27年10月26日

96-15週報27年10月

上は、昭和27年11月30日の週報の一部分で、この日は「農村伝道週間礼拝」を行っている。当時深く関わって来ていた諸教会の事が挙げられている。

下の「週報」は上が欠けていて正確には判らないが、吉田源治郎はこの時、「兵庫教区農村伝道部長」に就いており、恐らくこの活版印刷の「週報」は、日本基督教団兵庫教区農村伝道部として作成されたものであろう。

96-16週報27年11月30日

96-17ミレー絵入り週報

 「週報」の上には、数字が切れているが「1952-11・23日―30日」と見える。
 「標語」も「子どもの描いたミレーの晩鐘」も、そして下の3項目も、源治郎の選んだ絵と言葉だと思われる。

96-18青年大会写真入り週報

この「週報」の横には次頁の写真と文字がある。この時すでに「日本基督教団農村伝道関西地区センター:関西農村教化研究所」が兵庫県の飯盛野に開設され、そこでの「関西農村基督者青年大会」の写真と当時の「兵庫教区農村地方教会及伝道者」並びに「伝道施設」のリストが挙げられている。

なお、吉田幸の「履歴書」を見ると、昭和27年のところに多くの項目が並んでいるので、それをここに並べて置く。幸にとってこの年は、節目の年であったようである。

4月30日 西宮市私立幼稚園連合会が設立され理事長に就任(昭和43年4月30日まで)
5月 1日 日本私立幼稚園連合会理事に就任(昭和43年4月30日まで)
5月30日 キリスト教保育連盟関西部会副会長(昭和43年4月30日まで)
10月25日 関西保育連合会より教育功労者の表彰を受ける
      
最後に、昭和27年3月の今津二葉幼稚園の卒園写真を収める。

96-19卒園式

1952(昭和27)年には、吉田源治郎の著作『勇ましい士師達』(新教出版社)が出版されているので、次回はそれを読んで置きたい。
     
       (2010年10月14日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月13日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(95)

95-1写真
   伊那佐伝道最初の地・福西 浦田邸

   第95回 大和榛原(はいばら)伝道所と吉田源治郎

今回の「大和榛原伝道所」の事は、前回の「昭和26年の吉田源治郎と幸」の項で取り出して置く事もできたが、ここで独立させて見て置きたいと思う。
次のコラムは、昭和26年9月3日に記した吉田源治郎のもので、伊那佐村(後の榛原町福西)の浦田善之訪問に触れており、「火の柱」9月号に掲載された。

95-2最初の吉田コラム

冒頭の写真はその浦田邸で、日本キリスト教団大和榛原伝道所40周年記念誌『流れのほとりで』(1993年)にあるグラビアの最初の頁にあるものである。
今回はこの記念誌の中から、源治郎に関連するところを幾つか取り出してみたい。

95-3記念誌表紙

95-4地図

 『40周年記念誌』には、多くの写真と共に「文集:流れのほとりで」が編まれており、源治郎らが関わった頃の手記もあるので、本多ヒロ氏の文章をここに掲載させて頂く。

95-5文章1

95-6文章2

95-7文章3

95-8写真
    昭和30年、前列中央賀川豊彦。その左吉田源治郎。 

昭和31年、船津邦光牧師就任。榛原町宮本2705の森田芳蔵宅で「大和榛原伝道所」となる。下の写真は昭和36年6月の献堂式の後で写す。源治郎は前列に。 

95-9写真36年

95-10つづいて教会堂写真35年
   昭和35年に完成した教会堂。手前は宇陀川。この頃は周囲に家はなかった。

95-11吉田・武藤写真35年
   昭和35年、完成間近の教会堂前。吉田源治郎と武藤富男。

 『40周年記念誌』の「文集 流れのほとり」からうひとつ、清水真一氏の文章を取り出して置きたい。吉田源治郎の畏友でもあった吉野丈夫のことにも触れられている。

95-12清水文章1

95-13つづき2

下の写真は、1993年7月18日、森田香代牧師(2列目右端)就任式の時のもの。『記念誌』は同年11月に刊行されている。

95-14写真1993年

最後に『記念誌』に纏められている「大和榛原伝道所40年のあゆみ」を「教会設立前夜」から、40周年記念礼拝の執り行われた1993年11月21日まで、全てを収める。

95-15あゆみ1

95-16あゆみ2

95-17あゆみ3

95-18あゆみ4

95-19あゆみ5

95-20あゆみ6

95-21あゆみ7

95-22あゆみ8

奈良県の東部山間地に建てられた、この小さな教会の40年の記録には、特別に引き付けられるものがあるが、吉田源治郎の関わりは、昭和26年の「教会設立前夜」に始まり、昭和28年の伝道所開設から昭和37年4月の辞任まで主任牧師であったようである。

その間、昭和31年からの「ラクーア特別伝道指定」を教団から受け、ほぼ6年間の取り組みがあって、昭和35年に教会堂の建設、そして昭和36年9月の「めぐみ保育園」の開設を見て、源治郎の退任となったのであろうか。

年表を見るとその後、昭和40年にも吉田源治郎は「大宇陀地区特別伝道集会」に出向いているようである。
     
     (2010年10月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月12日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(94)

94-1写真

   第94回 昭和26年の吉田源治郎と幸

上の写真は、昭和26年夏の「基督教保育連盟軽井沢講習会」のものである。吉田幸はこの時「基督教保育連盟関西部会」の会長を引き受けていた。

既に取り出した事のある関西部会の『創立五十周年記念誌』を見ると、大正4年にミス・ハウが初代の会長を担い、吉田幸は戦前、昭和10年と19年に2度にわたって会長に選ばれ、戦後のこの昭和26年の会長就任は3度目である。幸はそれ以後長い間、関西支部の副会長を担い続けている。

再開された今津二葉幼稚園の昭和26年3月の卒園写真は既に取り出してあるので、ここではこの頃の写真で、吉田幸と源治郎が、互いに息を合わせて幼児教育に打ち込む様子がうまく撮れている写真を1枚だけ収めて置く。

94-2吉田夫妻と子供写真

さて、前年休止となった恒例の「関西冬期福音学校」は、昭和26年正月2日から4日までの3日間、314名にものぼる多くの参加者を迎え、次の内容で開催されている。「申込先」がこの時から「西宮市今津高潮町68 今津二葉教会内 イエスの友関西連合会」に移っている事がわかる。  

94-3福音学校案内

     「火の柱」2月号より

94-4火の柱2月号1

94-5つづき2

上のレポートにあるノルウエーの百姓説教者HANS NILSEN HAUGE(1771~1824)について吉田源治郎は、「火の柱」昭和26年2月号に「農民説教の絵」の案内と共に、次の「ハウゲのこども」と題する小文を寄せている。

94-6ハウげのこども1

   第5回豊島農民福音学校(昭和26年1月12日~31日)
        吉田源治郎はこの年も、賀川豊彦らと共に「豊島農民福音学校」に出向いている。 

94-7豊島福音学校

「火の柱」昭和26年2月号より

94-8火の柱2月号

   「火の柱」昭和26年5月号より

94-9火の柱5月号

94-10つづき2

94-11つづき3

94-12つづいてイエスの友集会案内

    昭和26年の「火の柱」に掲載された吉田源治郎の「サモネット」ほか

  3月号

94-13吉田サモネット

  7月号

94-14二つ目のサモネット

94-15つづきサモネット

   10月号

94-17三つ目のサモネット

94-16寮へフトンを

94-18末尾のアンケート

今回は「昭和26年の吉田源治郎と幸」を取り出してみたが、この年の出来事のひとつとして、吉田源治郎が賀川豊彦や杉山元治郎と共に、奈良県宇陀郡伊那佐村(後に榛原町福西)へ出向いて定期的な集会を開始した事があり、今回はこれを含めて置く積りであった。しかしそれを続けると長くなるので次回に回し、ここまでとする。

伊那佐村での集会は、2年後(昭和28年)には、「日本基督教団伊那佐労祷伝道所」として正式に開設され、吉田源治郎はここに於いても主任担任教師として働く事になるのである。

    (2010年10月11日記す。 鳥飼慶陽)(2014年9月11日補正)






KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(93)

93-1子供写真
隣の原っぱをお借りして楽しいお遊び! 三度豆、サツマイモも作りました

   第93回 今津二葉教会と幼稚園の再開の事など(3)

再開された今津二葉幼稚園も吉田幸が園長、源治郎は幼稚園の牧師としてスタートした。
先ず、当時の事を『幼稚園八十年史』から拾い出して見る。この『八十年史』は創立80周年を記念し2003年に作られている。上の写真もそこに収められているものである。

93ー2幼稚園史1

93-3つづき2

93-4つづき3

93-5つづき4

園長による朝の目診の時 朝の挨拶と通園ノートに押印 寸言を交わす  

93-6園長と子供写真

   吉田源治郎「私の体験社会学」(「火の柱」昭和25年11月号:「サモネット」)

93-7吉田サモネット

  昭和25年10月1日の「献堂式」に於ける今津二葉教会復興会堂建築委員代表 庄ノ昌一による      
  今津二葉教会建設経過報告


93-8今津経過報告1

93-9つづく2

93-10つづき3

93-11つづき4

93-12つづき5

93-13つづき6

今津二葉教会が再開されてからの吉田源治郎の日曜日は、先ず8時半から今津二葉教会での礼拝が始まり、すぐ西宮一麦教会に移動し10時半からの礼拝が始まる。午後は奈良に向い、夜の馬見労祷教会の礼拝がある。そして翌日にも榛原伝道所へ・・・。
更には但馬日高伝道所や三方伝道所などに出向くという生活が続いていくのである。

若き日であればともかくもと思われるが、吉田源治郎はいつも喜々として、その生活を苦にもせず、飄々と日曜日も週日も、楽しんでおられたふしがある。

      (2010年10月9日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月10日補正)
 
付記
前回に取り上げた昭和25年10月1日の今津二葉教会の献堂式のことであるが、あの時の式次第を見ると、賀川梅子が奏楽を担当し、関西学院グリークラブが合唱を行っている。

その前の年(昭和24年)神戸イエス団が再建された時も、「賀川梅子嬢の奏楽に引き続き関西学院のグリークラブの合唱」があったことも紹介済みであるが、関西学院神学部の学生だった「梅子嬢」は、一麦寮から神学部へ通っていたのかも知れない。

そしてグリークラブの一員でもあった吉田摂氏は、一麦寮での避難生活が続いていた関西学院の学生で、神戸イエス団に於いても、今津二葉教会に於いても、グリークラブの合唱に加わっていた。

過日お聞きした吉田摂氏の話では、その頃の一麦寮の周辺は静寂そのもので、グリークラブの練習場としては最適な場所だったそうである。

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(92)

92-1夫妻の写真
吉田源治郎・幸夫妻 昭和25年10月 今津二葉教会幼稚園再開の時

   第92回 今津二葉教会と幼稚園の再開の事など(2)

前掲『幼稚園八十年誌』の「幼稚園再開まで」(47頁)の項には、次の記述と写真が掲載されている。

92-2幼稚園再開の文章

92-3文章つづき

   昭和26年3月 吉田源治郎の卒園児へのお話
 
92-4吉田26年3月の話し

下の写真は、昭和26年3月卒園児。吉田夫妻と右端は赤江勢子。

92-5卒園時と26年

今回は、今津二葉教会と幼稚園の再開に関わる幾つかのドキュメントを、順不同であるが、収めて置きたい。

これは昭和25年の上棟式の時 小さな写真の拡大である。

92-6上棟式25年

    吉田摂「再開前史」(『五十周年記念誌』より)

92-7吉田文章1

92-8吉田文章2

92-9文章につづいて教会員の写真

92-10教会の式文章

92-11式のつづき

92-12式のっつき

92-13式のつづきの文章

92-14さらにつづく文章

92-15文章のつづき

92-16さらにつづく

92-17さらに続く

92-18さらにつづく

92-20さらに文章つづく

92-21文章さらにつづく

92-22文章もっとつづく

92-23文章つづく

92-24文章つづく

92-25文章つづく

1950年代の「ジュニアチャーチ」「教会学校教師たち」「青年会クリスマスキャロル」

92-19写真3枚(50年代)

 「再開前史」と題されたこの論考の中から、先ず「昭和25年の献堂式」の辺りを取り出して置く予定であったが、この当時の全体の記述は切り離せないので、全てを掲載することになった。今回はここまでとして、他の資料も残されているので、次回にもこの項は継続する。
    
      (2010年10月8日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月9日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(91)

91-1教会写真
 再建された今津二葉教会・今津二葉幼稚園(昭和25年10月)

   第91回 今津二葉教会と幼稚園の再開の事など(1)

前回、昭和24年のところを見たが、神戸イエス団、大阪四貫島、そして一麦保育園と新たな建物を完成させ、戦後の本格的な働きを再開して来た事を確かめ得たかと思う。今津二葉教会と今津二葉幼稚園も、既に昭和23年3月6日には「幼稚園再開に向け、隣接地(小泉澄所有)496平方メートルを購入」(前掲『幼稚園八十年史』所収「1945-1960年表」52頁)するなど、再開に向けた準備は着々と進められていた。

   ヴォーリズ建築事務所の設計「今津二葉教会・幼稚園の南面立面図」

91-2設計1

上に収めた「南面立面図」は、ヴォーリズ建築事務所が「平面図」「東面立面図」「西面立面図」と共に作製したもので、下は「建築業者登録票」(昭和24年12月6日付)の掲示板である。

91-3登録票

ところで、毎年正月恒例の「関西冬期福音学校」の昭和25年の記録がどこにも見付からない。
何かの事情で開催されなかったのかも知れない。

但し「火の柱」2月号見を見ると、次のような「馬見村に奈良県農村センターひらく」という記事が載っており、正月1月9日に「日本キリスト教団馬見労祷教会・奈良県農村センター」が完成した事を報じている。この時の記念講演には教団農村委員を担当していた杉山元治郎が出向いている。

91-4火の柱2月号馬見村

前掲の馬見労祷教会創立五十年記念誌『恵みの旅路』(1999年)の年表には「洋式園舎(現会堂)を新築(総工費103万円・一部日本キリスト教団から1千ドルの補助)」と記されている。

既述の通り、吉田源治郎は昭和の初期より馬見とは関わりを深めて来ており、昭和10年には馬見労祷保育園の園長を引き受け、戦後昭和22年の教会設立に際しては初代の牧師として西宮一麦教会と兼務して、遠路一麦寮より馬見労祷教会まで毎週足を運び、礼拝説教を続けていた場所である。

91-5福音学校

尚、上にも取り出したように、2月1日より5日まで開催の「大和農民福音学校」では、吉田源治郎は校長を務め「農村生活と星の鑑賞」という講義を試みている。

また「火の柱」3月号には、上に取り出したように、3月28日より31日まで和歌山県那賀郡粉河町で「第2回紀北農民福音学校」を開催し、ここでも源治郎は「農村社会問題・天文・聖書研究」を講じている。

    賀川豊彦より吉田源治郎宛のAIR MAIL2通

二人の間に交わされた書簡は数多い筈であるが、賀川の書簡で現在確認できるものは、昭和25年にロンドンから差し出されたAIR MAILの2通のみである。源治郎から賀川宛の書簡もこの年の2通が松沢資料館に存在するだけである。

下の書簡は、ロンドン2月28日付、着信は3月13日である。

91-6外国手紙

91-7手紙1

91-8手紙2

91-9手紙3

91-10手紙4

下の書簡は、ロンドン 現地7月11日付、着信は7月21日。

91-11ロンドン1

91-12ロンドン2

91-13ロンドン3

     吉田源治郎による報告「火の柱」昭和25年10月号より

91-14火の柱25年10月号

ところで9月3日には「ジェーン台風」が襲来し、死者398名、行方不明者141名、負傷者26、062名という大きな爪痕を残し、大阪湾では高潮が発生して多くの家屋が浸水、四貫島もこの時、甚大な被害を受けている。
 『四貫島セツルメント創設50年記念:五十年のあゆみ』(26頁~27頁)には、その時の苦悩を。短く次のように記している。

91-15五十年記録

今回は、1950(昭和25)年を中心に「今津二葉教会と今津二葉幼稚園の再開の事など」を追って来たが、10月1日の「献堂式」にまでは辿る事が出来なかった。
次回はこの続きである。
        
    (2010年10月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月8日補正)

追記
この写真は、1949(昭和24)年4月のローガン夫妻とエレンちゃんである。下は写真の裏書

91-16追記写真

91-17裏書
            

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(90)

90-1四貫島写真
 昭和23年11月13日 大阪四貫島教会再建:平日は保育園として活用

    第90回 四貫島の献堂・一麦保育園舎新築など

前回は「昭和23年の吉田源治郎」として一瞥したが、重要な出来事をひとつ抜かしていた。それは、戦災によって吉田一家の住む自宅も今津二葉教会と幼稚園並びに四貫島セツルメントも全て焼失された源治郎は、一麦寮での避難生活を余儀なくされてしまった後、深い傷跡を残した大阪四貫島教会と四貫島友隣館・保育園の復興を託された小川三男・敬子夫妻は、上の写真に見るように、見事その再建を果たし、昭和23年11月13日には盛大な献堂式が執り行われ、賀川豊彦はその時の記念礼拝の説教を行っている。

今回はそのことを最初に取り出し、昭和24年2月には「神戸イエス団の落成」があり、更に9月には一麦保育園では、老朽した「ヤへ・シバ館」を新園舎に新築する工事も完成させているので、それらを含めて「昭和24年の吉田源治郎」の歩みを辿って置きたいと思う。吉田源治郎一家はこの年まで一麦での長い避難生活を強いられていたようである。

90-2教会の写真

上の写真は、「大阪四貫島教会」の新会堂で、四貫島友隣館の事務所として、また保育園として用いられた。

次の文章は、前掲『四貫島セツルメント創設30年記念:五十年のあゆみ』の中の該当箇所である。

90-3教会のあゆみ

90-4福音学校あんない

上掲のふたつの案内は「火の柱」昭和23年12月号で掲載されたもので、ひとつは恒例の「関西イエスの友関西冬期福音学校」(正月2日から4日まで「熊野神社鳥居前・一麦保育園」に於いて)の「準備委員代表・吉田源治郎」が発信したもの。もうひとつの案内は、「第3回豊島農民福音学校」(1月12日から31日まで)のもので、賀川・杉山・藤崎・吉田の外にも、前回取り上げた船本宇太郎や川瀬勇などが講師陣に入っている。

   神戸イエス団の落成(2月11日) 

戦火で焼失した神戸イエス団も、昭和24年2月11日に漸く「献堂式」に漕ぎ着けた。

90-5神戸イエス団写真
 昭和24年2月11日「献堂式」を迎えた神戸イエス団

この写真は、昨年このサイト「お宝発見」で公開した大岸坦弥・とよの夫妻提供のものである。「火の柱」3月号にはその時の様子が、下のように丁寧に記されている。

90-6火の柱3月号

90-73月号つづき

「火の柱」の同じ号には、吉田源治郎のお馴染みの小品「サモネット」が収められている。いつもながら源治郎の言葉には、静かに響くものがある。

90-8吉田サモネット

また次のように、7月30日より8月1日までの3日間、御殿場・東山荘に於ける「第22回イエスの友夏期修養会並びに全国大会」が開かれている。写真は、その時のものである。

90-9修養会あんない

90-10全国大会写真
「第22回イエスの友夏期修養会・全国大会」(御殿場東山荘、昭和24年)

90-11関西集会あんない

90-12関西集会写真
 「イエスの友関西夏期聖修会」(奈良多武峰・談山神社前、昭和24年8月)

ところで、「火の柱」6月号には、小川・吉田連名による「大阪四貫島教会復興献金募集」(昭和24年7月1日付)が掲載され、10月号には、右の「四貫島セツルメント」の上棟式の記事が入れられている。

90-13献金募集

小さな90-14四貫島セツルメント上棟式記事

今回の冒頭で、昭和23年11月13日の大阪四貫島教会の献堂式と完成した教会の写真を2枚掲載済みであるが、この昭和24年のふたつの記事との関連がよく判らない。『四貫島セツルメント創設50年記念・五十年のあゆみ』には、昭和24年の上棟式云々の言及は見当たらないので、「火の柱」の記事を踏まえて読めば、大阪四貫島教会の献堂式は、昭和24年11月13日なのかも知れない。もしそうであれば、今回冒頭の書き方も変更しなければならないが、ここではペンディングのまま前に進むことにする。

   一麦保育園の新園舎竣工

 『西宮一麦教会・五十年のあゆみ』(1998年)所収「年表」の昭和24年のところには「9月25日 一麦保育園の新園舎竣工(39坪5合、工費60万円) それに伴い、礼拝の場を一麦寮より新園者に移す」と記されている。

(『子供と自然を友として―一麦保育園創立45周年記念』と『一麦のあゆみ―一麦保育園創立50周年記念誌』(1982年)では、1年ずれて昭和25年になっているが、『西宮一麦教会・四十年のあゆみ』(1988年)では補正され、前掲『五十年のあゆみ』では、更なる充実した年表に仕上げられている。)
 
次の写真は、上記「一麦保育園創立50周年記念誌」に収められているもので、写真には「昭和25年頃」と説明書きされている。

90-15保育園写真

    「火の柱」昭和24年10月号より

90-16火の柱10月号

90-1710月号つづき

以上、戦争によって建物も焼失し、復旧・復興の苦労を重ねてきた大阪四貫島の新たな歩みと、神戸イエス団の再建の事と、おして焼失は免れたものの老朽した園舎を、新たに建て替える大仕事に取り組んだ一麦保育園の事を、今回少し取り出して見た。

吉田源治郎と幸にとっては、更なる大仕事を残していた。それは、今津二葉幼稚園と今津二葉教会の再建の課題である。愈々それが具体化して今津二葉教会の献堂式を祝うのは昭和25年10月1日の事である。次回はその昭和25年に進んで見たい。
        
     (2010年10月6日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月7日補正)

 追記 
 この度も一麦保育園顧問・梅村貞造氏より次のコメントをメール便でお受けしたので、参考までにここに添付させて頂く。

 1) 第88回 の毎日新聞の「佐藤功二記者」は一麦教会の当時の会員名簿にもなく、私の昭和26年からの記憶にもありませんので、「一麦教会の会員」というのは間違いではないかと思います。
 2) 第89回 の川瀬勇氏の写っている写真は、西宮一麦教会の教会修養会(昭和46年9月23日、宝塚市売布にあるカトリック黙想の家にて)の時のものです。吉田牧師、川瀬氏のほかに後列右から2人目が森彬牧師(担任教師として着任の年)、吉田先生の左2人目が梅村です。
 3) 川瀬勇氏は昭和42年1月1日、吉田牧師から再洗礼を受け、教会員となられました。
    

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(89)

89-1写真
昭和23年8月10日 イエスの友夏季聖修会全国大会(比叡山延暦寺山上宿院)
   第89回 昭和23年の吉田源治郎

昭和23年のスタートは恒例の如く、「関西イエスの友冬期福音聖修会」(戦前は「福音学校」「福音生活学校」と名づけ、戦後は「修養会」、そしてこの時から「福音聖修会」とした。そして翌24年からは最初の「福音学校」に戻している)が「一麦保育園」を会場にして開催されている。

89-2あんない

89-3あんないつづき

「火の柱」昭和23年2月号には、その報告記事がある。そして既述のように吉田源治郎も関与して前年(昭和22年)11月に作られた「イエスの友青年部」の記事もあるので、併せてここに収めて置く。

   「火の柱」昭和23年2月号より 

89-4火の柱2月号

ところで、上記の「聖修会」で川瀬勇が「理想郷ニュージーランドに学ぶ」という講演を行っている。

実はこの「川瀬勇」については、今年(2010年)2月末、神戸文学館に於ける「賀川豊彦と文学」講座の折り、日本ニュージーランド協会の貴志康弘氏より『川瀬勇追想・遺稿集:ニュージーランドに魅せられて』(2000年)を寄贈頂いていた。読み物としても楽しい作品である。

89-5ニュージーランド表紙

89-6三瀬写真

川瀬勇は西宮市の出身で、この著書を見る限り、生涯を貫いて賀川豊彦との関わりも深く、特に農民福音学校との関係では戦後も、1960年から70年にかけて岩手や豊島の農民福音学校の講義を担当していたようで、その写真も収められている。

89-7三瀬・吉田写真

上の写真は「教会の仲間と」と説明書きがあるが、吉田源治郎が中央に写り、川瀬は左端の大きな男性のようである。『西宮一麦教会五十年の歩み』の「年表」には、昭和45年8月9日に「川瀬勇・大阪府立大学教授 立証」とあり、その時のものかも知れない。 

ここでは、賀川が昭和35年4月に生涯を終えた時に纏められた『神はわが牧者』に寄せた彼の文章が、この著書に新たに2枚の写真を加えて収められているので、これを次の頁に入れて置きたい。そして、賀川豊彦が川瀬勇に贈った二つの書画も添えて見る。

89-8文章1

89-9文章2

     「火の柱」昭和23年4月号より

89-10火の柱23年4月号

89-11つづき

89-12さらにつづき

次は「火の柱」昭和23年5月号所収の吉田源治郎の久宗立体農業研究所ルポ

89-13火の柱23年5月号

昭和62年11月、クリスチャン・グラフ社より『久宗立体農業の創始者:久宗壮の生きざま』が田中芳三編として刊行されている。この中から写真を3枚取り出して見る。

89-14グラフ写真1

上の写真は、昭和34年1月2日~4日まで一麦寮で開催されたイエスの友関西冬期福音学校に於ける久宗壮と賀川豊彦。 これが賀川の一麦滞在の最後となった。
中の写真は、一麦寮に於ける日本農民福音学校で右から升崎外彦、杉山元治郎、久宗壮、藤崎盛一、金田弘義。
下の写真も一麦寮に於ける日本農民福音学校。右賀川夫妻、中央升崎外彦、その左藤崎盛一、窓から顔を出す人が吉田源治郎、その上が金田弘義。

89-15あんない

この比叡山延暦寺山上宿院に於ける「夏季聖修会全国大会」の記念写真が、今回冒頭に掲げたものである。
これに引き続いて同じ場所で8月11日に「勤労者キリスト同盟・協同組合キリスト同盟結成大会が開催され、吉田源治郎は、「働きつつ、祈りつつ」と題して「夕陽会」を担当している。

89-16結成大会

89-17関西教育発足

「火の柱」昭和23年12月号に於いて、新たな組織「関西視覚教育伝道班」の発足を伝えている。
 この新組織は、吉田源治郎(西日本福音伝道団)と小川三男(四貫島セツルメント)両人が照会先となっている。

     (2010年10月5日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月6日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(88)

88-1鳴門写真
  徳島鳴門の「富田製薬畜産部の牧舎」(現船本牧舎)
 (鳴門市賀川豊彦記念館常設展示図録『賀川豊彦』より)

   第88回 昭和22年の吉田源治郎

第85回と第86回で「戦火を生き戦後を歩み始める」として「昭和20年と21年」を追い、前回の第87回で「西宮一麦教会と馬見労祷教会の設立」として、吉田源治郎が西宮一麦教会創立20周年記念の行われた昭和42年に、設立当時を語った説教「前進する教会」を取り出し、今回はその後の昭和23年以降に進む予告をしていた。

ところが、改めて「火の柱」を眺めていると、吉田源治郎が昭和22年に「火の柱」に寄稿した作品や色々な活躍の跡が記されているので、今回は標題にあげたように「昭和22年の吉田源治郎」として、記録に留めて置きたいと思う。

(付記:只今一麦保育園顧問梅村貞造氏よりメール便が届き、前回(第87回)の冒頭に収めた、今から43年も前のあの写真に、次のような説明書きを頂いた。「写真の最前列右から、埴生操園長、笠井健一副牧師、吉田源治郎牧師、長谷川英雄氏及び夫人、2列目左端が梅村貞造とその右4人目と5人目の女性の間に顔の見えるのが森彬青年です。」と。森彬青年は、後に西宮一麦教会の牧師に就任し、長期にわたる牧会を続けられた方である。尚、前回掲載した記念礼拝の説教の録音テープは、現在も大切に保存しておられ、「来年(2011年)1月開催予定の、西宮一麦教会と甲子園二葉教会合同の吉田源治郎牧師記念会で、皆さんに聞いて頂ければと思っています。」とも記されていた。)

さて、今回初めに収めた写真は、鳴門市賀川豊彦記念館の『常設展示図録:賀川豊彦』に収められているもので「富田製薬畜産部の牧舎(現船本牧舎)」と説明書きが付いている。

第86回で、吉田源治郎は昭和21年2月と3月、また5月から6月にかけて「阿波伝道」に出掛けていた事を見届けていた。源治郎にとって賀川の故郷・徳島へはそれまでも幾度かは訪ねている筈であるが、この「阿波伝道記」にも、既に一麦寮に於ける農民福音学校で出会い、馴染みの関係にあった船本宇太郎宅での集まりを持った事が記されていた。

前掲の鳴門市賀川豊彦記念館の『図録』には、「阿波農民福音学校」と「船本宇太郎」の記述があるので、切り貼りしてここに収めさせて頂く。

88-2阿波農民福音学校

88-3同じく阿波福音学校

昭和21年12月号の「火の柱」には、戦前から取り組んできた「阿波農民福音学校」を、戦後最初の農民福音学校として、上の企画を立て予告を出している。吉田源治郎も講師のひとりであるが、賀川をはじめ実に豪華な顔ぶれである。

この案内では、昭和22年1月9日より5日間とあるが、「火の柱」2月号に掲載されている下記の船本宇太郎の報告によれば、阿波農民福音学は1週間にも及び、受講生も100名近くにも及ぶ盛会ぶりである。この機会に、船本宇太郎のその寄稿文を、少し文字が小さくなるが、ここに収めて置く。

88-4船本文章

   船本牧舎をモデルにした鳴門市賀川豊彦記念館

88-5鳴門記念館

88-6豊島学校

上記のように、昭和22年2月には「豊島農民福音学校」も開催され、吉田源治郎も同じく講師の一人として出掛けている。

   工場地帯を教区として―四貫島セツルメント覚書―

吉田源治郎は、「火の柱」昭和22年3月号~5月号まで、表題の「覚書」を「未完」のかたちで書き残している。完成稿が纏められているかも知れないが、ここではこの3回分を取り出して置く。今日では使用する事のない表現が含まれているが、其の儘収める。

88-7四貫島文章1

88-8四貫島文章2

88-9四貫島文章3

88-10四貫島文章4

   童心の美しさ―徳太少年のノートから―

本稿は、西宮一麦教会の会員で、毎日新聞の佐藤功二記者が、昭和22年9月21日付の東海毎日新聞「サンデー・トピック」欄に寄稿し、「火の柱」12月号に再録のものである。この中には、吉田源治郎のコメントもある。

88-11童心1

88-12童心2

88-13童心3

この時小学6年生だった高山徳太君は、昭和25年新制中学2年生のときに吉田源治郎より洗礼を受け、母・高山悦と共に西宮一麦教会の会員となり、昭和54年10月に一麦保育園で開かれた西宮一麦教会主催の「吉田源治郎先生:米寿祝賀会」の記念作品『昨日も今日もいつまでも変わる事がない吉田先生』を作製している。

見事な貼り絵作品で、寄せ書きや写真など大切なお宝である。いま手元にお預かりしているので、この作品は是非この連載の「米寿祝賀会」のところで紹介して見たい。

徳太君の母・高山悦は、一麦保育園で働いた後、地元の小学校の教師となり、後に昭和44年には『私の同和教育』(部落問題研究所)という著書を出版し、当時大変話題にもなった。

著書の中で、この頃の事を次のように書き残している。この作品をいまこれを読み返して、あの青春時代の激動の時を想起させられる。そして当時、心に留めることのなかった高山親子の、西宮一麦教会との関わりの深さに驚かされる。

88-14高山1

88-15高山2

88-16高山3

88-17高山4

88-18高山5
(高山悦『私の同和教育』82頁~89頁 詩の部分切り貼りする)

88-19次の日の柱の前に夏季修養会案内

「火の柱」昭和22年11月号        

88-20火の柱22年11月号

    「火の柱」昭和22年12月号

88-21火の柱12月号
      
    「火の柱」昭和22年10月号の巻頭

88-22火の柱タイトル

88-2310月号の巻頭文

88-24つづき吉田・母

上の「サモネット2」も「火の柱」昭和22年10月号より

吉田源治郎の戦後も、一麦寮という場での避難所暮らしの中で、一歩一歩、確かな歩みが始めっていることを思い巡らせることが出来た。
次回は「昭和23年の吉田源治郎」ということになるのであろうか。
    
    (2010年10月4日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月5日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(87)

87-1教会写真
 西宮一麦教会創立20周年記念礼拝(昭和42年3月19日)

   第87回 西宮一麦教会と馬見労祷教会の設立

 「西宮一麦教会年表」の「1947(昭和22)年」の項には、1月2日~4日 イエスの友修養会開催(講師・賀川豊彦、山本一清、竹内愛二ほか) 1月5日 賀川豊彦先生、聖日礼拝説教 2月12日 日本基督教団より第1種教会として設立承認 3月12日 西宮一麦教会 創立 礼拝は一麦寮2階(畳敷部屋)で守られた(教会員数22名)」と記されている。

吉田源治郎は、1925(大正14)年の四貫島セツルメント創設の傍ら、1927(昭和2)年に始まった日本農民福音学校の教務主任を兼務し、さらに1932(昭和7)年創立の一麦保育園に於いては主事を務めて来ていたことは、周知の事であるが、昭和20年の空襲を経て、四貫島友隣館長と大阪四貫島教会を辞しており、一家で一麦寮へ避難生活を継続する中での、西宮一麦教会の設立と初代牧師としての就任であった。

加えて4月8日には、奈良県北葛城郡広陵町の馬見労祷教会が日本基督教団より第2種教会として設立承認され、吉田源治郎はこの教会も兼任牧師を引き受けるのである。源治郎にとって、馬見は農繁期託児所・馬見労祷保育園時代から、既に深い関わりを積み重ねてきた場所であった。

今回冒頭の写真は、昭和42年3月19日の西宮一麦教会の創立20周年記念のものであるが、20年も飛び越えていま、この写真を挙げることには理由がある。

それは今回、吉田源治郎がこの記念礼拝で行った説教「前進する教会」をすべて収めて置きたいと考えたからである。
この説教は1998(平成10)年の創立50年記念誌『五十年の歩み』にテープ起こしされ、そこで初めて収録された、重要なドキュメントである。

吉田源治郎の説教は、残念ながら数えるほどしか残されてはいないが、梅村貞造氏が昭和42年のこの説教を記録・保存され、自らの手で30年後に公刊されたその意義は、真に大きなものがあると思う。 

87-2説教1

87-3説教2

87-4説教3

87-5説教4

87-6説教5

87-7説教6

87-8説教7

87-9説教8

87-10説教9

87-11説教10

87-12説教11

87-13説教12

87-14説教13

87-15説教14

本連載の第1回に記したように、吉田源治郎への積極的関心を持ち合わせていなかった時、初めてこの説教を読み、この先達の事は学んでみようと、秘かに心に決めた大切な作品であった。

いま第87回目までを綴り続けてこれを再読し、益々その思いを強くさせられた。

今回は、これ一本で終わりとし、次回から1948(昭和23)年以降に進んで行く。
一歩一歩である。

     (2010年10月2日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月4日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(86)

86-1パンフ表紙

   第86回 戦火を生き戦後を歩み始める(2)

昭和20年12月に朝日新聞社は「朝日時局叢書」として賀川豊彦の小冊子『新日本の衣食住』初版6万部のものを発行した。時を同じくして時事通信社も「時事叢書」として賀川の小冊子『デモクラシー―民主主義とは何か』を出して、戦後の新しい社会づくりの指針のひとつとして登場させている。

前回、戦時下真っ直中にあって、昭和20年6月「イエスの友会会報:火の柱」の最発刊の事に言及した。東京・本所も大阪・四貫島も、そして神戸・イエス団も米軍の爆撃によって破壊される中で、賀川夫妻の住む東京・松沢が辛うじて直接的な戦災の被害を受けていなかったため、そこを「本部」としてあの「再発刊」が可能となっていた。「本部通信」には、源治郎の救出と一麦寮への避難の消息や間所兼次の悲報も伝えられている。

ここでは、「戦後」となる昭和20年12月号の賀川豊彦の「クリスマス瞑想」と賀川ハルの「本部だより」を収めて置く。

86-2火の柱1

86-3火の柱2

さて、年が明けて昭和21年の「火の柱」1月号の「本部だより」には「関西では新年、西宮市一麦寮に於いて、イエスの友の修養会が、正月2・3両日開催された。交通不便な折柄も、東より西より集い、新日本建設のため祈り、賀川先生の指導を仰ぎ、非常に恵まれた集会で、受洗者13名であった。」と報じられている。

この修養会は、「関西冬期福音(生活)学校」として、毎年正月に一麦寮で開催してきたものであるが、吉田源治郎一家も「一麦寮」で避難生活を継続していた中での開催である。

前回の「小川敬子略歴」にもあるように、四貫島友隣館・天使保育園・大阪四貫島教会の復興には、小川三男・敬子夫妻が当たるのであるが、前掲の『四貫島セツルメント50年のあゆみ』に記されている箇所(23頁~25頁)を、ここに取り出して置く。

86-4四貫島文章1

86-5四貫島文章2

さて吉田源治郎は、度重なる空襲で傷んでいたからだも徐々に癒え、先に取り出した四貫島の復興をはじめ、同じく戦火で焼失した今津二葉教会と幼稚園の再建のために奔走しながら、新たな思いで「伝道の旅」に出向いた記録が、昭和21年3月号の「火の柱」に登場している。次の短い「阿波伝道記」がそれである。

86-7阿波メモ

 「阿波伝道記」といっても日付と会場が記されているだけであるが、この旅は、連載でも時折触れてきた三浦清一牧師(石川啄木の妹・三浦光子の夫としても知られる)との二人行脚である。

よく見ると、「火の柱」の同年6月号には、源治郎の「第3回阿波伝道記」も載っている。
これを読むと、3回のうち2回目の3月は「吉田単独」とあるので、三浦と同行したのは2月の間違いではないかと思われるが、この「第3回阿波伝道記」も、杉山元治郎との行脚で面白いので、ここに収めて置く。

86-8火の柱阿波

86-9火の柱阿波2

これほど体調も回復していた吉田源治郎は、同年7月27日から3日間、御殿場の高根学園で開催された戦後最初の「イエスの友全国大会及び修養会」にも参加し、「夕陽の祈り会」の役目を担っている。

また、翌月8月12日・13日両日、六甲山凌雲荘で開催された関西夏期聖修会でも、吉田源治郎は「農村伝道の研究」を講じている。この時の様子は、この号から活字印刷になった「火の柱」9月号に掲載されているので、右に取り出して置く。

86-10火の柱記事

ところで、この昭和21年には、賀川豊彦は、戦後最初の小説『再建(さいこん)』を、大阪新聞社より出版した。
今回の連載「間所兼次と共益社」のところでも触れたように、賀川は日本の再建の道は、協同組合運動以外にないであろうという確信を抱いて、共益社の活動に献身した間所などを、この小説に登場させて、関係者を再結集を計ろうとして書き上げたものであった。

同じく昭和21年の作品として、コバルト社から<ラッキー文庫>と名づけて小品ふたつ『新生活の道標』と『協同組合の理論と実際』をそれぞれ6月に出し、「東京講演会」が編集発行する「講演録644号」に、次のような「日本復興と精神的基礎」(2篇附・「キリスト教兄弟主義」「世界連邦制度の創造」)を刊行している。

86-11講演表紙

序でに挙げて置けば、昭和21年に刊行されたもう1冊、次の『神よりの福音』(愛育社)がある。これは一部を除いて大半が、戦前に<信仰リーフレット>として広く愛読されていた作品を纏めたものである。『賀川豊彦全集』には入っていないので、6月24日付の「序」だけを、ここに収めて置く。

86-12神よりの福音表紙

86-13序文

吉田源治郎は、昭和20年8月6日、一麦寮に担ぎ込まれて養生・避難生活の中で、8月8日には母・吉田ゆき(享年77歳)を見送り、戦後最初の日曜日より、一麦寮の2階で礼拝を開始している。

こうして昭和22年の春、愈々「西宮一麦教会」の誕生へと進んで行くのである。
今回はここまでとする。

     (2010年10月1日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月3日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(85)

85-1写真

   第85回 戦火を生き戦後を歩み始める(1)

これまで第84回までは、三重県伊勢市で生まれ育った吉田源治郎と幸の成長と出会い、そしてふたりの結婚家庭とそれぞれの働きの一端を、お預かりした諸資料を眺めながら、粗雑な資料紹介のような作業を進めてきた。

今この段階で改めて、吉田夫妻のここまでの歩みを見て、ひとの出会いの不思議さのような事を思い知らされる。特に夫妻にとって、若き日の賀川豊彦とハルとの出会いは、まことにごく自然で、徐々に相互の尊敬と信頼を深め、それぞれの持ち味を存分に発揮していく深い関係と絆を見届けることが出来たように思う。

源治郎の場合は、イエスの友会の結成、間所兼次の活躍する共益社との関係を強めながらの四貫島セツルメントの設立、一麦寮を拠点にした日本農民福音学校やイエスの友の福音学校の積み重ね等の実践的な役柄と共に、賀川の講演を筆書きして作品に仕上げる仕事、『雲の柱』誌や「火の柱」紙その他への翻訳を含む学術論文の執筆、『児童説教』『肉眼で見る星の研究』を皮切りに、シュヴァイツァーの翻訳書など多くの著作の刊行等々、目を見張るばかりであった。

一方の幸の場合も、源治郎の働きと勝るとも劣らず、結婚家庭の大切な子育てと牧師夫人としての役柄を担いつつ、源治郎留学の時から幸の天職である幼児教育の分野で磨きを加え、地道な働きに打ち込んできた姿が、いくらか浮き彫りになったのではないかと思う。そして源治郎・幸夫妻にはそれぞれ、戦後の更なる天来の仕事が待ち受けているのである。

今回冒頭の写真は、昭和48年に纏められた西宮一麦教会の『創立25周年を記念して』(以下『一麦教会25周年』と略す)の巻頭に収められているもので、「教会創立の頃の人々―一麦寮の前で―1946.4.14」と記されている。

既にこれまでの連載の中で、「四貫島セツルメント」並びに「今津二葉幼稚園・今津二葉教会」が戦火に見舞われ、大切なお宝を灰塵に帰したことと、幸い空襲を受けつつも辛うじて残った一麦寮(「一麦保育園」)に、吉田源治郎一家は避難場所を得て、戦後を歩み出したところまでを辿ってきた。

先ずここでは、昨年連載の「武内勝アルバム」に残されていた写真のうち、梅村貞造氏によって「恐らく昭和20年頃の写真」としてチェックを頂いている「一麦保育園」「一麦寮」関連のものを収めて置きたい。武内勝の家族もこの頃、ここで生活を続けていた。

   下の写真は、一麦保育園の卒園式。後に立つ3人の左は埴生操、中央は武内雪、右は荻原文子か久保田清子か。

85-2卒園式

次は、 一麦保育園の入園式の後か 左端・吉田源治郎 その隣に埴生操 その隣に武内雪

85-3母たちの写真

  次の写真は、前列中央・賀川豊彦 その左隣・武内勝 後右2人目・埴生操

85-4賀川・武内らの写真

  下の写真は、埴生操は後列左から3人目 何の時?

85-5そうじ羽生らの写真

次に戦時下、関西学院中学部(旧制)の学生で昭和22年に卒業した吉田摂氏が、2002年に『卒業55周年記念誌:双五会会員の戦中奮闘記』の編集に関わり、そこに寄稿した一文「上が原の思い出」が手元にあるので、それを収める。

85-6吉田の文章1

85-7吉田文章2

85-8吉田文章3

次の文章も、戦時下の空襲体験を綴った小川敬子氏のものである。2003年6月発行の市川聖書研究会誌『つのぶえ』第7号に寄稿した「人間の盾」と題するエッセイである。

85-9人間の盾1

85-10人間の盾2

これまでの連載で度々取り出して来た前掲の小川敬子氏は、昭和12年より昭和26年までのご自身の「略歴」を2007年4月に記している。貴重な記録でもあるので、参考までにここに挙げさせて頂く。

85-11小川履歴

上記の「略歴」を拝見していると、吉田敬子は昭和18年に小川三男牧師と結婚、1年後には夫の従軍、昭和21年5月に夫の復員後、灰塵に帰した四貫島友隣館(大阪四貫島教会)の再建に夫婦して飛び込み、戦後の混乱期の中を昭和25年には、新会堂を建築して昭和26年4月まで、源治郎の働きを受け継いで、若き力を捧げて来られた事が判る。

ところで、「戦時下の賀川豊彦」「敗戦時の賀川豊彦」に関しては、古くは横山春一『賀川豊彦伝』(警醒社、昭和34年)、新しいものでは雨宮栄一『暗い谷間の賀川豊彦』(新教出版社、2006年)やロバート・シルジェン『賀川豊彦―愛と社会正義を追い求めた生涯』(新教出版社、2007年)などを通して、その概観は学ぶ事が出来る。

今回この連載に於いて、吉田源治郎の深く関与して来た『雲の柱』誌や「火の柱」紙を眺めてきたが、両誌紙とも戦時下には「終刊」に追い込まれて仕舞う事態に至ったところまで触れて来た。

そして今、「戦火を生き戦後を歩み始める」この項を綴り始める為に、賀川ミュージアムより復刻された『火の柱』をコピーさせて貰い、初めて「再発刊」された「火の柱」(会報第1号)を読み始めてみた。

「再発刊」された「火の柱」(会報第1号)は、これまでの「活版印刷」と違って手書き(勿論われら世代では馴染みのガリ版)で「昭和20年6月」に発行され、「昭和21年7月」(第17号)までが手書き印刷であった。(第18号が欠けているのでその号まで手書き印刷かも知れない。「ガリ版」では印刷に限りがあり、部数も僅かであったのであろう。

「ガリ版」印刷で「火の柱」の「再発刊」(会報第1号)が出ていた事に、何故か感動を覚えるのであるが、よく見ればこの第1号は「昭和20年6月」、正に「戦火に生きる」中での「イエスの友会会報」であった。大袈裟に言えば、これはお互いに「命綱」の役割を担うものでもあったように思えて来る。

7月号(第2号)では「本年3月以降6月末迄に敵米の野蛮なる盲爆に会ひ、今はその事業所を失った箇所は、東京に於いては本所基督教青年会、大阪に於いては四貫島友隣館、生野聖浄館、神戸に於いてはイエス団戦時託児所、イエス団友愛救済所、長田天隣館、等は全く焦土化されました。」と報じられている。

(ここに記されている「長田天隣館」は神戸大空襲の直接の被害を免れ、神戸イエス団の戦中戦後の重要な拠点となった事は、既に度々触れて来た通りである。情報も混沌としていた中での紙面づくりであったことを伺わせる。)

それで「戦火に生き戦後を歩み始める」この項の最後に、戦時下に再発刊されたこの「火の柱」を、ほんの少し取り出して見たいと思う。

85-12火の柱1号

85-13火の柱つづき

85-14火の柱3

85-15火の柱つづき4

85-16火の柱5

85-17火の柱6

この項はこれで終える積もりでいたが、「再発刊」された「火の柱」は殆ど人の目に止まる機会を持たないので、次回にも少し取り出して置く事にして、今回はここまでとする。「戦火を生き戦後を歩み始める」姿を、その時と場所に於いて刻まれた資料の中に、しっかりといま見届けて置きたいと思う。
      
     (2010年9月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年9月2日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(84)

84-1卒園式

   第84回 一麦保育園と吉田源治郎(2)

梅村貞造氏によれば、上の写真は、一麦保育園の昭和16年頃の卒園式で、吉田源治郎の左は埴生操、右は久保田清子、右端は武内雪である。

昨年(2009年)の「武内勝所蔵のお宝発見」連載の折り、「武内勝アルバム」に残されていた写真のうち、一麦関係のものと思われるものに、梅村氏に説明書きをして頂いていた。

ここでは先ずその中の、戦前期の数枚を取り出して見たい。それに加えて、今回の連載途中に神戸の「賀川ミュージアム」に寄贈されていた「間所兼次所蔵アルバム」(間所兼次は連載で詳しく取り上げてきたように吉田幸の弟で共益社並びに四貫島セツルメントで活躍した)の中にあった一麦寮に於ける、珍しい写真を1枚、ここに収めて置く。

そして今回の最後として、一麦保育園の保育実践の特徴を、それぞれの視点から暖かく捉えていると思われる文章が『45周年記念誌』の中に残されているので、埴生操の文章と共に、それらをご覧いただこうと思う。

  保育園の園児たち 年度不祥 隣の神社にて

84-2神社卒園式

  年度不祥 昭和15年3月の卒園式? 

84-3卒園式15年

  (参考)昭和9年~10年頃の「葺合新川」の子供たちの一麦に於ける林間学校  神社の境内で

84-4神社の境内で

 (参考)一麦寮に於ける「共益社・灘・神戸消費組合の家庭会懇談会」
        
84-5共益社家庭会

埴生操『45周年記念誌』より抜粋

84-6記念誌文章1

   南野武衛「一麦保育園」

南野武衛といえば、連載第82回冒頭の写真(空襲による無残な西宮市街地の姿)を収めた時のあの御方である。『45周年記念誌』に同氏の著書『西宮文学散歩』(のじぎく文庫、昭和44年)より標記の作品が収められていたので、大変面白い貴重な作品なので、全文ここに収めさせて頂く。

84-7南野1

84-8南野2

84-9南野3

84-10南野4

84-11南野5

84-12南野6

この項の最後に、『45周年記念誌』に収められた次のふたつの文章――読売新聞掲載記事「30年・戦後の軌跡」(昭和50年8月23日)と日本振興協会「日本の伝統」1977年発行の球磨川淡執筆――も収めて置きたい。

84-13文章1

84-14文章2

84-15文章3

84-16文章4

84-17文章5

なお、一麦保育園に於ける埴生操らの豊かな保育実践に関する研究は、「賀川豊彦の自然教育論」との関連で、既に多くの先行研究が存在することは、よく知られている。

身近なところでは、一麦保育園の関係者からの聞き取りなど地道な基礎資料に当たって研究を続ける栗原直子の諸論文――例えば「賀川豊彦の自然観とキリスト教保育」「賀川豊彦の自然教育理解とそのキリスト教保育への影響」など参考になる。

次回から漸く「戦後の吉田源治郎と幸の世界」に進んでいくが、さてどういうことが見えて来るのであろうか。
      
    (2010年9月28日記す。鳥飼慶陽) (2014年9月1日補正)       




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