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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(133)

1-寄せ書き

   第133回 昭和60~平成3年の吉田幸(7)

平成3(1991)年11月21日、吉田幸先生は94年の生涯を歩み、天に召された。
上の美しい絵とこと ばは、22日に執り行われたお別れのときの、幼稚園の卒園生代表・勝部寛二氏(代筆・遠藤浩氏)と和子氏のものである。再び次に、文字のところを少し拡大して収めてみた。

2-同じ寄せ書き

ところで、いま手元には、「1991.11.29」と日付けのある1通の封筒が残されている。それには、同じ阪神地域にあって吉田夫妻とは深い交流を持っておられた甲東教会の芹野俊郎牧師の、吉田摂・洋子氏宛の書簡と告別式に於ける「弔辞」が収められていた。ここではその芹野牧師の書簡と「弔辞」をそのまま収めさせて頂く。

3-手紙1

4-弔辞1

5-弔辞2

6-弔辞3

7-弔辞4

8-弔辞5

そしてもう一人、平成3(1991)年11月20日の「弔電」―「ママさんおあいしたかった。ざんねんです。やすらかにしゅのみそばにいらしてください。」―を送られた「入山花子氏が、11月22日付けで吉田摂・洋子夫妻宛に送られた封書が残されている。改めてここにこの「ママ様への手紙」を収めさせて頂く。

9-手紙1

10-手紙2

11-手紙3

12-手紙4

13-手紙5

ここまで「昭和60年~平成3年の吉田幸」として7回にわたって辿り、今回その最後に「吉田幸先生とのお別れ」の時に至った。最期となった吉田幸先生のご養生の様子や、11月20日の葬儀の事など他にも多く残されている筈であるが、今回ご紹介させていただいたこの三つだけを紹介できただけで、祝福に包まれた「吉田幸先生とのお別れ」の場に、共に居合わせて貰っている思いがする。
 
さて、お二人の御生涯を、その誕生からこの時まで「吉田源治郎・幸の世界」を学び続けたこの連載も、愈々終わりに近づく事になった。次回は、お二人の没後のことに少し触れながら、この連載の「最終回」として置こうと思う。そしてその後に「補遺」として、連載の途中でお預かりした新たな資料や未掲載の資料、そして「吉田源治郎と吉田幸」を取り上げた文章などを数回に分けて収めて、連載の締め括りとしたい。
     
     (2010年11月21日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月31日補正)
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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(132)

 『西宮一麦教会:四十年の歩み』(昭和63年)に掲載された写真から
1-写真
 
   第132回 昭和60~平成3年の吉田幸(6)

2-表紙

『西宮一麦教会:40年の歩み』は、「賀川豊彦生誕百年記念」の年(昭和63(1988)年)に出版されている。
ここに収められている多くの写真の殆どと、本書のはじめに纏めて収められている「吉田源治郎先生を偲んで」の箇所のすべては、既にこれまでの連載の中で取り出して来ているが、今回は「四十周年にあたって」この時に関係者が寄稿した60近い作品のうちの幾つかを収めて置きたい。

初めに「目で見る40年の歩み」の頁と口絵の揮毫、そして写真の内、未掲載だった「一麦保育園新園舎竣工式」の古い写真も遅ればせながら、ここに収める。

3-建物の頁

4-写真のページ

5-色紙
 一麦保育園新園舎竣工式(1949.9.25)

6-文章1

7-文章2

8-文章3

9-文章4

10-文章5

11-文章6

12-文章7

13-文章8

14-文章9

15-文章10

16-文章11

17-文章12

『西宮一麦教会:四十年の歩み』にある「年表」には、
昭和60(1985)年
1月 8日 故吉田源治郎先生召天満1周年記念集会(大阪クリスチャンセンターにて)
9月24日 埴生操姉(一麦保育園園長、西宮一麦教会責任役員)召天、79歳
   29日 故埴生操姉葬儀・告別式(一麦教会会堂にて)
昭和62(1987)年
 9月20日 故埴生操姉(元一麦保育園園長)召天2周年記念会(一麦保育園本館にて、69名出席)
昭和63(1988)年
 2月 7日 教会創立40周年記念誌『四十年の歩み』発行。
と記されている。

以上「昭和60年~平成3年の吉田幸」を辿って来た。
先に取り出した『甲子園二葉教会創立五十周年記念誌』が発行されたのは「平成3(1991)年3月31日」であったが、『甲子園二葉幼稚園八十年史』の「年表」には、「平成3年(1991年)11月20日 吉田幸召天」と記される、愈々その時を迎えるのである。
       
      (2010年11月20日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月30日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(131)

『甲子園二葉教会:五十周年記念誌』(平成3年)に掲載された写真から
1-写真

2-はじめ続けて写真

   第131回 昭和60~平成3年の吉田幸(5)

ここまで2回、『甲子園二葉教会:五十周年記念誌』(平成3年)から取り出して来たが、続けてもう1度続けて置く。
先ず吉田源治郎牧師の説教で、年代は不祥である。

3-吉田1

4-吉田2

5-吉田3

6-吉田4

7-吉田5

8-吉田6

9-吉田7

10-文章1

11-文章2

12-文章3

13-文章4

14-文章5

15-文章6

16-文章7

次回は、『西宮一麦教会:四十年の歩み』(昭和63年)を取り出して置く。
                
    (2010年11月19日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月29日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(130)

1-写真

   第130回 昭和60~平成3年の吉田幸(4)

上の写真は、甲子園二葉幼稚園の『八十年史』に入れられているもので、「幸先生も、ペッタン、ペッタンおもちつき」と写真説明がある。

今回は前回の続きで、甲子園二葉教会の『創立五十周年記念誌』に寄稿されている「思い出と展望」の一部を、できるだけ多く取り出して置きたい。

2-文章1

3-文章2

4-文章3

5-文章4

6-文章5

7-文章6

8-文章7

9-文章8

10-文章9

11-文章10

12-文章11

13-文章12

14-文章13

15-文章14

16-文章15

17-文章16

18-文章17

19-文章18

20-文章19

21-文章20

22-文章21

23-文章22

24-文章23

25-文章24

26-文章25

27-文章26

次回もう1回、甲子園二葉教会の『五十周年記念誌』にある重要なものを収めて置きたい。
     
    (2010年11月18日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月28日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(129)

1-写真
甲子園二葉教会創立50周年記念 吉田幸は子供たちと真ん中に(平成元年6月18日)

   第129回 昭和60~平成3年の吉田幸(3)

上の写真は、甲子園二葉教会の『創立五十周年記念誌』(平成3年発行)の最初に収められているもので、吉野丈夫牧師を迎えて創立50周年記念礼拝を終えた時の記念写真である。それは、吉田源治郎が召されて5年半を経過した平成元(1989)年6月18日の事である。

甲子園二葉教会はこの時、西宮一麦教会の森彬牧師が代務者を務め、辻学伝道師が就任していた。その2年後(平成3年3月)に『創立五十周年記念誌―1939~1989年の歩み』が纏められた。

下の写真はその『記念誌』に掲載されたものであるが、今回はこの中から「追悼」「思い出と展望」などに寄稿された幾つかを取り出して置く。

2-ありし日の吉田

先ず初めに、森彬牧師による吉田源治郎没後5年半を経過して記された新たな「牧師追悼文」である。

3-文章1

4-文章2

5-文章3

6-文章4

次は、甲子園二葉幼稚園園長を吉田幸の後任として就任した吉田洋子の寄稿文である。

7-洋子1

8-洋子2

9-洋子3

10-洋子4

以下は甲子園二葉教会の会員が『記念誌』寄稿した思い出の中から幾つかを取り出す。

11-文章1

12-文章2

13-文章3

14-文章4

15-文章5

16-文章6

この機会に、次回にも続けて『記念誌』の中から取り出して置きたいと思う。
         
     (2010年11月17日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月26日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(128)

1-写真
  平成2(1990)年の吉田幸先生

   第128回 昭和60~平成3年の吉田幸(2)

前回掲載できた大阪ガスビル食堂に於ける「吉田幸先生米寿記念・二葉幼稚園同窓会」や阪急百貨店特別食堂に於ける「今津二葉幼稚園同窓会」に見られる最晩年の姿を知るだけでも、吉田幸先生のそれまでの長いながい地道なお働きぶりの豊かさが、そのまま映し出されているように思われる。
 
ところで、昭和64(1989)年10月1日に、甲子園二葉教会の6名の方々が、92歳6ヶ月を迎えていた吉田幸先生のインタビューを行っている。後に編集され、甲子園二葉教会の初めての教会史『創立五十周年記念誌―1939年―1989年の歩み』(1991年刊行)の中に「吉田幸姉に聞く―インタビュー」として収められている。

この連載に於いては、既にこの『記念誌』の中に収められている「教会の歩み」の記述の多くを取り出し、吉田幸のインタビューもその一部分は掲載済みである。

2-記念誌表紙

吉田幸先生が、親しい教会の友達に語ったこの記録は、内容的にも貴重で、その人柄が伝わってくるような面白いものである。録音テープが残されていたら声も聞けるかも知れないが、ここでは以下その全文を収めて置く事にしたい。

3-文章1

4-文章2

5-文章3

6-文章4

7-文章5

8-文章6

9-文章7

10-文章8

11-文章9

12-文章10

13-新聞1
 
上の「インタビュー」記事は、吉田幸が70歳を越えた頃のものと思われるが、掲載紙も掲載年も不祥である。今回の最後に「付録」としてここに収めて置きたい。                

尚、今回取り出した甲子園二葉教会の『創立五十周年記念誌』には、既に取り出したもの以外にも、関係する数多くの文章が収められているので、それらの中から次回、いくつかを紹介して置きたいと思う。
     
      (2010年11月16日 記す。鳥飼慶陽)(2-14年10月24日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(127)

1-写真
 「米寿を祝う謝恩・同窓会」を前に吉田幸(右は吉田摂・左は高塚基子)

   第127回 昭和60~平成3年の吉田幸(1)

前回まで、天寿を全うした吉田源治郎の告別式と追悼会の事を取り上げてきた。今回からその後の事を辿って見る。
残されている資料は少なくなるが、ここからは吉田幸をめぐるお祝いと感謝会が続いている。

そのひとつが、昭和60(1985)年11月9日、大阪市東区の大阪ガス本社8階ガスビル食堂で開催された、甲子園二葉幼稚園の同窓生たちによる「吉田幸先生米寿記念・二葉幼稚園同窓会」である。

上の写真は、「きょう大阪で」という毎日新聞に掲載された予告取材記事からのもので、全体の大きな記事は次に収めて置きたい。毎日新聞は翌日(10日)にも当日の様子を写真入りで取り上げている。

また、地元の神戸新聞でも、11月10日付けで「園長の米寿祝い兼ね同窓会」という見出しでこれも大きく取り上げているので、併せてこれも記事そのものをスキャンして収めて置くことにする。因みに、『甲子園二葉幼稚園八十年史』(2003年)には、このことには触れられていない。

2-新聞1

3-新聞2

4-新聞3

5-新聞4

6-写真1

7-吉田写真

8-卒園写真
  昭和60(1985)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

9-卒園式2
  昭和61(1986)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

10-挨拶状

この「挨拶状」にあるように、吉田幸は、前頁に挙げた昭和61年3月の卒園児たちを見送り、その年度末を以て甲子園二葉幼稚園の園長を退任、名誉園長として支える事になった。新しい年度4月1日より第3代園長に就いたのは吉田洋子氏である。

ところで、先の「吉田幸先生米寿記念・二葉幼稚園同窓会」の会場ともなった大阪ガスの副社長・遠藤浩氏が、昭和61(1986)年7月1日付け日経新聞「交遊抄」の欄に寄稿した同窓の交遊を記した美しい文章「幼稚園の同窓会」が残されていた。

11-遠藤文章

12-卒園式
 昭和62(1987)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

13-卒園式63年
昭和63(1988)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

14-卒園式1989年
 平成元(1989)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

この年(1989年)11月19日には、「今津二葉幼稚園同窓会」という旧い園名を掲げた集まりが、阪急百貨店の特別食堂で開かれている。これが、吉田幸を囲む最後の同窓会となったようである。

小泉功夫妻をはじめ懐かしい教師も数多く出席し、ご覧のように総勢72名が集っている。出席名簿が残されているので、記念のために次頁に挙げて置く。

15-同窓会写真

16-名簿

17-卒園式1990年
 平成2(1990)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

この連載では、今津二葉幼稚園の時から今回まで、卒園児たちと共に吉田源治郎と幸の写された記念写真を数多く掲載してきたが、これらの写真は全て「創立80周年記念日」である平成15(2003)年12月2日発行の『甲子園二葉幼稚園:八十年史』より取り出したものである。上の写真は、吉田幸先生が卒園児たちと肩を並べて写した最後のものである。

18-八十年史

次回も吉田幸の生前の記録資料を収めて置きたい。

      (2010年11月14日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月22日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(126)

1-写真
吉田源治郎牧師の納骨式を執り行う森彬牧師・隣は吉田幸(昭和59年9月30日)

   第126回 昭和58~59年の吉田源治郎と幸(4)

上の写真は、『西宮一麦教会・四十年の歩み』(1988年)に収められているもので、兵庫県三田市福島767、城ケ丘霊園内に設けられている西宮一麦教会の墓地における昭和59(1984)年9月30日の納骨式である。

さて前回まで、甲子園二葉教会に於ける吉田源治郎牧師の告別式の説教と弔辞などを掲載してきたが、その後2月12日には、一麦保育園本館に於いて西宮一麦教会による追悼会が開かれている。

この追悼会には70名ほどの人々が参列しているが、予告の通り今回は、その時に用意された西宮一麦教会発行の『追悼―吉田源治郎先生(1891.10.2~1984.1.8)』を収めて置きたい。

2-追悼表紙

3-文章1

4-文章2

5-文章3

6-文章4

7-文章5

8-文章6

9-文章7

10-文章8

11-文章9

12-文章10

13-文章11

14-文章12

15-文章13

16-文章14

17-文章15

お読みいただいた通り、ここには昭和35(1960)年11月13日より翌年1月15日までの吉田源治郎牧師の説教9篇のうち2篇が「ありし日の説教」として収められた。これらは森彬牧師の手で纏められたもので、9篇全部を収めた冊子があるのかも知れない。

また、森彬牧師のこの「伝道の長距離ランナー」は、甲子園二葉教会に於ける告別式での森牧師による「故人略歴」に新たに手を入れ、この『追悼』に掲載されたものである。末尾の「付記」に記されているように、これを縮小して「キリスト新聞」にも寄稿されたようである。

さらにこの「付記」によれば、告別式で説教を行った吉野丈夫牧師が、『クリスチャン・グラフ』の同年3月号で「あゝ、勇士は倒れたり」と題して、吉田源治郎牧師の追悼文を寄稿している事が挙げられている。

尚、『追悼』に収められた2篇の説教と森彬牧師のこの文章は、先に挙げた『西宮一麦教会・四十年の歩み』(1988年)にも全文が収められている。

4回に亘ったこの「昭和58年~59年の吉田源治郎と幸」の項の最後に、甲子園二葉幼稚園の卒園児たちと共に写る吉田幸の姿を2年度分、ご覧いただく。ここには、吉田源治郎の姿はない。

18-写真
 昭和58(1983)年3月 甲子園二葉幼稚園の卒園児たちと共に

19-写真
昭和59(1984)年3月 甲子園二葉幼稚園の卒園児たちと共に

92歳の天寿を全うした吉田源治郎の妻・吉田幸は翌年(昭和60年)には「米寿」を迎える。次回はその「米寿祝賀の謝恩会」のことなど取り上げて見たい。
     
      (2010年11月13日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月20日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(125)

1-写真
 弔辞を述べる武藤富男氏(財団法人雲柱社理事長代理)

   第125回 昭和58~59年の吉田源治郎と幸(3)

前回は昭和59(1984)年1月14日の甲子園二葉教会に於ける吉田源治郎牧師告別式で司式を行った吉野丈夫牧師の説教を取り出した。今回はその後の「弔辞」を紹介させて頂く。

吉野牧師の説教の後、源治郎の愛唱歌であったという次の賛美歌494番が歌われた。縮小して読めないが、よく知られている「わが行くみち いついかに なるべきかは つゆ知らねど 主はみこころ なしたまわん そなえまもう 主のみちを ふみて行かん ひとすじに」というあの賛美歌である。

2-はじめに讃美歌

この後、最初に「弔辞」を述べたのが、賀川純基氏であった。

   弔辞 賀川純基氏

3-弔辞賀川1

    弔辞 武藤富男氏(財団法人雲柱社理事長代理)
      今回冒頭の写真が、弔辞を述べる武藤富男氏である。

4-弔辞武藤1

     弔辞 長谷川保氏(イエスの友会代表)

5-弔辞長谷川1

     弔辞 田中芳三氏(大阪朝祷会代表)

6-弔辞田中1

7-弔辞田中2

      弔辞 森本正信氏(甲子園二葉教会代表)

8-弔辞森本1

  弔辞 梅村貞造氏(西宮一麦教会代表)

9-弔辞梅村1

10-弔辞梅村

11-弔辞梅村3

「弔辞」の後、板橋満男牧師より400通を越える各界からの弔電の朗読が行われ、賛美歌、頌栄、祝祷があり、吉田幸が遺族を代表して、次の挨拶を行った。

     遺族代表挨拶 吉田 幸夫人

12-挨拶吉田1

13-挨拶吉田2

14-写真

次の賛美歌312番も吉田源治郎の愛唱歌として告別式に於いて歌われた。

15-讃美歌

既述のように、前回と今回に収めた告別式の写真はすべて田中芳三氏の発行する『クリスチャン・グラフ』に掲載されている吉田源治郎牧師の追悼記事からのものであるが、田中芳三氏のその記事を、以下に収めさせて頂く。

16-記事1

17-記事2

18-記事3

      (2014年10月18日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(124)

1-写真
吉野丈夫牧師の司式で執り行われた「吉田源治郎牧師告別式」

   第124回 昭和58~59年の吉田源治郎と幸(2)

吉田源治郎と生前深い親交のあった吉村静枝の運営する養護施設で、行き届いた介護を受け、静かな最後の時を過ごしたことは、前回紹介することの出来た苅田千栄子の介護記録とお別れの言葉、そして同じく最後を見送った吉村の手記「吉田源治郎先生と私」で、見届ける事が出来た。

この香川県の「紅山荘」に於ける「お別れ」の後、昭和59(1984)年1月14日(土)午後2時より、甲子園二葉教会で「告別式」が執り行われた。

2-式次第

3-写真1

4-式順序

上に「告別式順序」を挙げて置いたが、既述のように司式は神戸再度筋教会の吉野丈夫牧師が務め、「故人略歴」を西宮一麦教会の森彬牧師が行っている。

この「故人略歴」は「告別式」の後、2月12日に西宮一麦教会でも「追悼会」があり、その時の資料「追悼・吉田源治郎先生(1891.10.2~1984.1.8)」の中に、吉田源治郎の「ありし日の説教」2篇と共に「伝道の長距離ランナー(故人略歴に代えて)」として原稿化されている。追ってそれらは取り出す予定であるので、ここでは先ず、司式者の吉野丈夫牧師による「説教」を読んで見たい。

式の模様は収録されていたようで、テープを起こした原稿が残されていた。
吉田源治郎を身近に見て、互いに深く尊敬しあっていた吉野牧師のこの説教は、大変貴重に思えるので、省略なしに取り出して置きたい。

5-写真(説教の前に入れる)

     告別式に於ける吉野丈夫牧師の説教

6-吉野の説教1

7-説教2

8-説教3

9-説教4

10-説教5

11-説教6

12-説教7

以上が吉野丈夫牧師の説教である。テープ起こしをそのまま活かして、読み易くするために所々改行のようなことをして、歪みもあるが切り貼りしてご覧頂いた。この説教を読んで、前回取り出した吉村静枝氏との交流の深さを改めて知る事が出来た。

この告別式には1000名を越える多くの人々が参列したと言われるが、狭い会堂には入りきれず、外の園庭にもいっぱいの人で溢れていたといわれる。

告別式はこの後5人の「弔辞」が続いているが、次回にそれらをできればそのすべてを掲載して置きたいと思う。
尚、今回と次回に収めさせて頂く告別式に関連する写真は、田中芳三編集発行の『クリスチャン・グラフ』1984年4月号(No。450)に見開きで掲載された吉田源治郎の告別式の記事からのものである。田中氏も告別式に於いて「弔辞」を述べたひとりである。
      
       (2010年11月11日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月14日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(123)

1-写真
  吉田源治郎と森彬(西宮一麦教会にて)

   第123回 昭和58~59年の吉田源治郎と幸(1)

昭和57(1982)年10月11日の「一麦保育園創立50周年祝典」を終えるところまでを取り出す事が出来た。予告の通り「一息ついて」今回は愈々「吉田源治郎とのお別れ」の時を迎える事になる。

西宮一麦教会の『五十年の歩み』にある「年表」には、昭和58年10月6日「吉田源治郎名誉牧師、ご高齢により紅山荘(香川県綾歌郡飯山町)に入所、療養される」と記されている。

夫妻ともに高齢期を迎えられた事から、東京でお住まいの吉田摂・洋子夫妻が西宮に戻られ、同居の生活を始められていたようであるが、吉田源治郎はこの時点で家族から離れて、紅山荘での療養生活となって行く。ここは、戦前の四貫島セツルメント時代からの旧知で、長期にわたる交流のあった吉村静枝の設立した老人養護施設であった。

紅山荘の特別の配慮で、療養生活の担当寮母を務めた苅田千栄子が記した「吉田先生お別れの言葉」が吉田摂氏の元に届けられている。これは、紅山荘に於ける告別式で述べられた言葉であるが、源治郎の入所の時から日を追って、行き届いた介護記録が詳しく述べられ、やすらかな最期を見届けながら、吉田源治郎への深い感謝の言葉が述べられている。ここには、手書きのものを、そのまま収めさせて頂く。

2-御別れの言葉1

3-つづき2

4-つづき3

5-つづき4

前に示した「年表」では、紅山荘への入所は10月6日となっているが、ここでは10月8日である。入所の前にご家族で、どこかの温泉宿で過ごされたのであろうか。

今回の冒頭に掲げた写真――西宮一麦教会で森彬牧師と写された吉田源治郎の写真――の裏には「1984,1月」と書かれている。しかしこの時は、上の「お別れの言葉」にあるように、吉田源治郎は、最後の正月となった「1984、1月」を、この紅山荘で迎えている。従ってこの写真は「1983、1月」「昭和58年1月」のものだと思われる。

入所前に写された吉田源治郎の姿は他にもあるかも知れないが、手元にある写真では、これが最後のものである。これは白黒写真であるが、元はカラー写真ではないかと思われる。

ところで、吉田源治郎が養生の場と決めて、静かな時を過ごす事の出来た香川県にある紅山荘は、吉村静枝の設立した老人養護施設であったことは前記のとおりであるが、吉村には次の著書『荒野は涙の皮袋』(ミネルヴァ書房、1984年)の著作がある。
本書のカバーにある写真入りの紹介があるので表紙とともに収めて置く。

6-荒野表紙

7-吉村写真

8-吉村経歴

1984年2月に出版されており、吉田源治郎の最期が1月8日であるので、ほぼ同時のものである。いま改めて本書を紐解いていると、何度も吉田源治郎の事に触れられているだけでなく、7頁にわたって「吉田源治郎先生と私」という箇所もあり、そこには「先生とのお別れ」の様子と暖かく感謝の思いが記されているのである。
今回の最後に、この吉村静枝の文章を取り出して「紅山荘でのお別れ」と共にしたいと思う。

9-文章1

10-文章2

11-文章3

12-文章4

13-文章5

14-文章6

15-文章7
 
ここで「付録」として、イエスの友会が纏めた『イエスの友会人物伝:賀川豊彦の心と祈りに生きた人々』(2004年)の中に、金子益雄の執筆になる「吉村静枝」があるので、参考までに取り出して置く。

16-附録吉村1

17-つづき2

18-つづき3

19-新聞記事
 
上の訃報記事は、毎日新聞の1996年10月11日の切り抜きとして、本書に私が張り付けていたものである。前掲の金子氏の文章では、「吉村静枝 1907~1998」となっているので符合しないが、確認をしないまま参考までに入れて置く。

なお、吉村静枝にはもう1冊『けむりのなかの皮袋』(内外印刷)という作品もあるようであるが未見である。

補記 のちに上記の著作を入手したので、ここには表紙のみスキャンして置く。

img220.jpg

               *       *        *

こうして、昭和59年1月14日(土)午後2時、甲子園二葉教会に於ける「吉田源治郎牧師・告別式」を迎えるのである。
    
      (2010年11月10日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月13日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(122)

1-写真
  昭和57(1982)年10月11日 西宮一麦保育園の園庭

   第122回 昭和57年の吉田源治郎と幸(4)

2-本文はじめの写真

3-文章1

4-文章2

5-文章3

6-写真

7-最初の園舎

8-文章1

9-文章2

10-文章3

11-園舎

12-園舎2

  自然観察

13-園児

14-文章1

15-文章2

16-文章3

以上『一麦のあゆみ』の中から欲張った紹介をしてしまった。これにはまだ多くの方々の寄稿があるが、ここまでにして置く。

吉田源治郎の『米寿記念文集』からも多くを取り出したが、源治郎牧師のお元気だった時に寄せられたこれらの文章は、とても貴重に思えたからである。その意味では、西宮一麦教会と一麦保育園の皆さんが、『米寿記念文集』と『一麦のあゆみ』の二つの大切な記録を残された事への、深い謝意を改めてここに記して置きたいと思う。

思いも掛けない事からこのような連載を始め、ここまで来てしまったが、手元に残されている「吉田源治郎と幸の世界」を綴る資料は、あとほんの僅かになっている。

特に「吉田源治郎牧師」のものは「お別れの言葉」だけになっている。ここで一息ついてから、次回を綴る事にしたい。
        
      (2010年11月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月12日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(121)

1-写真

   第121回 昭和57年の吉田源治郎と幸(3)

2-あゆみ表紙

昭和57(1982)年10月11日に開催された「一麦保育園創立50周年記念祝典」に準備された記念誌『一麦のあゆみ』(一麦保育園発行、124頁)は、初めに20頁ほどの「目で見る一麦のあゆみ」として35枚もの写真が収められ、前回掲載した実行委員長・石田幾子の挨拶、園長・イエス団関係・卒園生・園児父兄・職員・講師・運営理事などの文章が並んでいる。

上の表紙「イエスと幼な子」は、賀川豊彦の作品である。
今回と次回には、記念誌に寄稿されている文章を収める。次に挙げる吉田源治郎・幸夫妻の文章は、幸夫人が補って仕上げたものかも知れないが、吉田源治郎の最後の作品・絶筆となるものではないかと思われる。

3-文章1

4-文章2

5-写真
 この時の一麦保育園の先生たち

6-文章1

7-文章2

8-文章3

9-文章4

10-文章5

11-文章6

12-文章7

13-文章9

14-文章10

15-写真と楽譜

16-文章1

17-文章2

18-文章3

19-写真

 「一麦保育園創立50年記念誌:一麦のあゆみ」(昭和57年)の紹介は、さらに次回に続く。
   
      (2010年11月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月11日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(120)

1-写真
 一麦保育園創立50周年記念祝典(右は森彬牧師)

   第120回 昭和57年の吉田源治郎と幸(2)

2-はじめに式典表紙

3-吉田と埴生写真

4-プログラム

5-讃美歌

6-保育園の歌

7-文章1

8-文章2

9-文章3

10-文章4

11-文章5

12-文章6

13-文章7

第20回の分

15-文章9

16-文章10

17-写真

 記念品と花束を贈られる吉田源治郎牧師と埴生操園長 右端は森彬牧師

この項、次回に続く。
        
       (2010年11月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月10日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(119)

1-写真
 昭和57(1982)年2月28日 西宮一麦教会に於ける吉田幸

   第119回 昭和57年の吉田源治郎と幸(1)

昭和57(1982)年は10月11日に「一麦保育園創立50周年記念祝典」という、吉田源治郎と幸にとっても忘れることの出来ない大きな祝い事が待っていた。今回はその前に、2月28日の日曜日、西宮一麦教会に於いて「特別礼拝」が持たれ、吉田幸の立証「思い出」が語られている(上の写真)。

この時の吉田幸の「立証」は録音されていて、一部分割愛されているようであるが、6年後(昭和63年2月)に発行された西宮一麦教会創立40周年記念誌『四十年の歩み』にテープ起こしをされて収められている。

この記念誌が刊行された時は、吉田源治郎が92年の生涯を終えて既に4年が過ぎていた(吉田源治郎は昭和59(1984)年1月8日召天)が、「記念誌」の冒頭には、「吉田源治郎先生を偲んで」在りし日の説教2篇と森彬牧師の「伝道の長距離ランナー(故人略歴に代えて)」、そして最後にこの吉田幸の「思い出」が収められていた。

既に吉田幸の「思い出」の一部は、この連載の初めのところで取り出しているが、ここでは全文を収めて置きたい。

2-思い出1

3-思い出2

4-思い出3

5-思い出4

6-思い出5

当日のものと思われる写真が数枚残されている。
次の写真は、少し拡大したので鮮明ではないが、吉田幸の隣は埴生操園長のようである。

7-当日の写真1

テーブルに食事が並び手前の少年は食べているようなので、礼拝の後に吉田幸を囲んで語らいのひとときを持っているようである。吉田源治郎の姿がないが、この日、体調が整わなかったのであろうか。

8-当日の写真2

9-当日の写真3

次の写真もこの時のもので、散会の前のようである。

10-この写真も当日の写真4

11-卒園式
 昭和57(1982)年3月 甲子園二葉教会卒園児たちと共に 吉田幸園長
    (この年より吉田源治郎は幼稚園の職務から解かれている)

今津二葉幼稚園は、昭和39年8月の町名変更に伴って、園名を「今津二葉幼稚園」から「甲子園二葉幼稚園」に変更していたが、「今津二葉教会」の方はこの年(昭和57年)4月25日の教会総会に於いて「甲子園二葉教会」へ名称変更を議決している。

前回先取りして挙げたように、この年(昭和57年)5月5日、賀川ハルは94歳でその生涯を終えた事も、改めて記して置きたい。

次回は昭和57年の大きな出来事であった「一麦保育園創立50周年記念」とその『記念誌:一麦のあゆみ』を読んで見たい。
        
        (2010年11月6日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月9日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(118)

1-写真
昭和55(1980)年元日のご夫妻(『西宮一麦教会四十年の歩み』より)

   第118回 昭和55~56年の吉田源治郎と幸

上の写真は、昭和55(1980)年、新年礼拝の後の吉田源治郎・幸ご夫妻の何とも素敵な姿である。

この年、『愛と希望:クリスチャン・グラフ』誌2月号で「米寿(88歳)を迎えた吉田源治郎牧師」という見開きの記事が掲載され、埴生操の詩「愛の黒いかばん」が収められている。この詩は『吉田先生と私―米寿記念文集』に寄稿されたもので、既にこの連載では取り出しているものである。

さて、この年の4月25日には、社会福祉法人・朝日新聞大阪厚生文化事業団の「社会事業に貢献した先輩に感謝する会」が、大阪天王寺の「まつむら」に於いて開かれている。

朝日新聞大阪厚生事業団というのは、吉田源治郎が戦前「四貫島セツルメント」の働きの中で積極的に連携を図ったところで、その働きに関しては詳しく紹介済みであるが、この「感謝する会」に吉田源治郎夫妻も招待され、2枚の写真――記念写真と感謝の記念品を贈られる写真――とが残されている。

2-感謝する会写真1
  感謝の記念品を受ける吉田源治郎 隣は吉田幸

3-おなじく写真2

記念品を贈る人は、事業団の太田緑という人で、彼女は偶然にも二葉幼稚園の卒園児であったらしく、「感謝の会」の後、この上の2枚の写真と共に、源治郎に宛てた手紙が届けられていた。次にその手紙を紹介させて頂く。

4-手紙

5-卒園式
  昭和55(1980)年3月 甲子園二葉幼稚園児と共に

過日(10月25日)一麦保育園での集まりの折、吉田摂氏より7本のビデオと1枚のDVDをお預かりした。その中にこの頃の卒園式と思われるものもあり、吉田幸が園児一人ひとりに声をかけて卒園証書を手渡し、お祝いの挨拶をしている映像が収められていた。

本日7本すべてを見たが、園児たちの発表会やクリスマス・ページェント、幼稚園の園長研修や1989年の幼稚園の同窓会などの映像があった。そしてその中に、甲東教会の芹野俊郎牧師が、吉田幸のインタビューを試みたものもあり、8ミリフィルムで撮影したものを4分ほどのビデオに纏められていた。吉田源治郎の映像は残されてはいないが、幸のこの映像は貴重である。

阪神間の諸教会が共催して、既に23年目を迎えたという「イースター礼拝」が、昭和55年4月6日、神戸女学院の校庭で開かれている。23年前と言えば、昭和32年からであるが、この「イースター礼拝」は、吉田源治郎の提唱によるものであったらしく、前記の吉田幸をインビューした芹野牧師から、源治郎に宛てたこの年(昭和55年)の「イースター礼拝」の報告が届けられている。

6-イースター礼拝

7-セリの手紙

8-礼拝プログラム

9-礼拝写真
 イースター礼拝で祝祷をする吉田源治郎(撮影年度不祥)

10-おなじく写真

今津二葉教会は、昭和56年3月29日に「吉田源治郎牧師引退感謝礼拝」を持っている。創立以来主任担任牧師を務めてきた吉田源治郎は、この時「神は愛である」と題して説教を行っている。『記念誌』の「年表」では「神は愛である」が、下に収める文章では「神は愛なり」とある。「深い感銘を与えた」というこの説教は、今も大切に保存されているかも知れない。源治郎はこの時90歳を越えている。

11-文章1

12-卒園式
  昭和56(1981)年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

吉田源治郎は、上記の通り昭和56年3月29日に「牧師引退感謝礼拝」行っており、甲子園二葉幼稚園の働きも、事実上この時が最後になったのであろう。上の写真は吉田幸と並んで園児たちと写した最後の写真ではないかと思われる。
最前列に園児たちと肩を並べて写る夫妻の姿はまた格別のものがる。

尚、書き忘れていたが、昭和55年8月13日から15日まで、御殿場東山荘・高根学園・多磨霊園・松沢教会に於いて「イエスの友会創立60周年記念大会」が開催されている。この記念大会に於いて、吉田源治郎は、賀川ハル・松雄造酒蔵・大西源太郎・杉山健一郎・菅沼孝文と共に「感謝状」を受けている。

また、昭和56年のイエスの友会の「年譜」を見ると、7月27日から29日まで、京都・関西セミナーハウスに於いて「夏期聖修会」が開かれ、嶋田啓一郎が講演を行い、さらに10月1日には、賀川ハルが東京都より名誉都民の表彰を受けた事も記されている。

そして西宮一麦教会の『四十年の歩み』の「年表」を見ると、西宮一麦教会での吉田源治郎の最後の説教は「昭和55年12月14日、「待ち望む」(ルカ2:22-40)」であったようである。

吉田源治郎が日本基督教団の「引退牧師」となるのは、次回以降で取り上げる予定の「一麦保育園創立50周年記念祝典」が開催された昭和57年10月11日を終えて2ヶ月後、12月のことであった。
     
      (2010年11月7日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月8日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(117)

1-画集1

   第117回 昭和54年の吉田源治郎と幸(3)

前回まで2回に分けて、西宮一麦教会の皆さんが「吉田源治郎先生・米寿祝賀会」の2ヶ月後に編纂された『吉田先生と私―米寿記念文集』から数篇を紹介した。そして前回の終わりに、高山徳太作『昨日も今日もいつ迄も変る事がない吉田先生』(A3版・24頁)と題する作品も残されていた事を紹介し、是非「米寿祝賀会」の記録として、これを取り出して置きたいと予告した。上の表紙の作品がそれである。

「祝賀会」当日、高山徳太によって「紙芝居:吉田先生の足あと」があり、その「紙芝居」を活かして、祝賀会が終わった後に、参加者の寄せ書きなども収めて完成された作品である。

切り絵や押し絵、そして写真など入れたお宝作品である。実物はA3の大判であるが、ここではやむなく縮小し、1頁に2枚を収めて記録に収めて置く。

「高山徳太少年」の事は、すでにこの連載で彼の母・高山悦と共に一度取り上げたことがあった。

2-画集2

3-画集3

4-画集4

5-画集5

6-画集6

7-画集7

8-画集8

9-画集9

10-画集10

11-画集11

12-画集12

13-画集13

14-画集14

15-画集15

16-画集16

17-画集17

18-画集18

19-画集19

20-画集20

21-画集21

22-画集22

23-画集23

高山徳太も『米寿記念文集』に、上の作品と同じ題名で、以下のことばを寄せている。

24-高山の文章1

25-文章2

26-文章3

27-文章4

以上で昭和54年(1970年代)まで辿って来た。源治郎・幸ともに時折病気入院はあるものの、上の作品にもあるように食事にも気を使いながら、夫婦ともども飄々として好日の日々を過ごしている様子が伝わってくる。次回は、昭和55(1980)年である。
      
       (2010年11月6日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月7日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(116)

1-写真
クラスメイトである賀川ハルと吉田幸、源治郎も同席するこのお祝いの席は?

   第116回 昭和54年の吉田源治郎と幸(2)

2-ハルなどの写真はじめ

この2枚の写真は、昭和54年のものではないかも知れない。この写真では、主賓は賀川ハルのようであり、イエスの友会の「年譜」を見ると、「昭和51年3月8日、賀川ハル夫人米寿を祝う会、私学会館にて」とあるので、その時のものだろうか。

さて、前回に続き『吉田先生と私―米寿記念文集』から取り出して見たい。最初に、吉田源治郎と歩みを共にしてきている吉野丈夫の歌を収める。

3-吉野のうた

4-つづく詩

5-つづき

6-つづき

7-つづき

8-つづき

9-つづき(市の終わり)

10-つづきの「思い出」

11-つづき

12-つづき

13-つづき

14-つづきクリエイティブ

15-つづき

16-つづき

17-つづき

18-つづき

19-さらにつづく

20-つづく

21-つづく

22-つづく

23-つづく

24-つづく

以上、『米寿記念文集』より少し欲張って、寄稿作品を紹介させて頂いた。

ところで、前回初めに収めた「米寿祝賀会プログラム」の中に、高山徳太の「紙芝居:吉田先生の足あと」というものがあった。その「紙芝居」とは別のものではないかと思われる『昨日も今日もいつ迄も変る事がない吉田先生』(A3版・24頁)と題する見事な作品が残されているので、是非次回、もう一度「米寿祝賀会」の記録として、これを取り出して置きたいと思う。

25-卒園式
 昭和54年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児たちと共に

甲子園二葉幼稚園は、この年より「学校法人イエス団」となっている。
     
      (2010年11月5日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月6日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(115)

1-写真
バースデー・ケーキを前に「米寿を祝う会」の源治郎 右は長女・小川敬子

   第115回 昭和54年の吉田源治郎と幸(1)

2-祝賀会の吉田
  祝賀会での源治郎

明治24(1891)年10月2日生まれの吉田源治郎は、昭和54(1979)年10月には米寿を迎えていた。

「一麦寮」時代から関わり「一麦保育園」を設立、そして戦火のなか避難先ともなって戦後暫くここで一家が暮らした場所が「一麦」であり、更にここで「西宮一麦教会」を創設して来た人が吉田源治郎である。

西宮一麦教会の森彬牧師をはじめ教会関係者の「吉田源治郎先生への感謝の思い」を集め、昭和54年10月7日、一麦保育園本館に於いて、西宮一麦教会主催による「吉田源治郎先生・米寿祝賀会」が開催された。

吉田幸は残念な事にこの日入院中のため、上の写真のように、長女・小川敬子が吉田源治郎と共に主賓となった。10名ほどの来賓の他は西宮一麦教会関係者が大半で、一麦保育園と甲子園二葉教会関係者が各10名、全体で100名ほど人々が集い、吉田源治郎と共に歩んできた人々による心の籠る祝賀の時であった。

3-米寿プログラム

西宮一麦教会では、米寿祝賀会の2ヶ月後には、『吉田先生と私―米寿記念文集』という立派な刊行物を、編纂・刊行している。上に収めた写真もそこに収められていた。

4-吉田先生と私表紙

この書物は、「米寿をお祝いして 吉田源治郎先生に捧ぐ」として、40名近くの人々が「吉田先生と私」の物語を綴っている。どの文章もそれぞれの人生を刻みながら、そこでの吉田源治郎が語られ、表現されている。

その中から、ここには少しだけ取り出して、読み進んで見たい。

5-文章1

6-文章2

7-文章3

8-文章4

9-文章5

10-文章6

11-文章7

12-文章8

13-文章9

14-文章10

15-文章11

16-文章12

17-文章13

18-文章14

19-文章15

20-文章16

21-文章17

この『米寿記念文集』は、吉田源治郎を語る貴重な証言が多いので、次回にも続けたい。
   
       (2010年11月4日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月5日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(114)

1-写真
西宮一麦教会に於ける甲子園二葉教会との合同元旦礼拝の後で(昭和53年)

   第114回 昭和53年の吉田源治郎と幸

上の写真は『西宮一麦教会創立四十周年記念誌:四十年の歩み』(1988年)に収められているもので、ここには吉田源治郎・幸夫妻ともに元気な姿を見る事が出来る。

この年は「賀川豊彦生誕90周年記念」の時であるが、恒例の「関西新春聖修会」は前年に続いて開催された記録が見付からない。関西に於いてはこの年、7月26日から28日までの3日間、香川豊島教会に於いて「夏期聖修会」が開催されている。

ところでこの年、吉田源治郎と幸にとって、喜ばしい感謝の出来事が11月14日にあった。それは「日本キリスト教文化協会」が顕彰する「キリスト教功労者表彰」のひとりに選ばれたのである。この時の報道がキリスト新聞の昭和53年11月25日付けにあるので、次に収める。

2-表彰の写真
左から代理の伊藤いく代、同じく代理の山谷妙子、吉田幸、吉田源治郎、白井慶吉

3-記事

4-つづき
   
  吉田源治郎「クリスチャン・グラフ」(昭和53年7月・384号)寄稿文

5-クリストャングラフのはじめに記念館の写真

6-文章1

7-文章2

8-文章3

9-卒園式
昭和53年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児たちと共に 初めて源治郎の姿が見えない

以上、昭和53年のものであるが、以下は付録である。前回、一麦保育園の埴生操の保育実践について取り上げた。その埴生の現役時代、4年間ともに保育に関わり、後に一麦保育園の園長を務めた中野美代が、昭和61年秋、賀川豊彦記念・松沢資料館の『雲の柱』5号に寄稿したレポートで、埴生操の思い出を綴ったものがあるので、ここに収めて置きたい。
      
      (2010年11月4日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月4日補正)

10-追加文章1

11-文章2

12-文章3

13-文章4

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(113)

1-写真
 一麦保育園の埴生操園長と園児たち(昭和52年)

   第113回 昭和50~52年の吉田源治郎と幸

既に触れてきたように、昭和7年4月に一麦保育園が創設され、翌昭和8年4月より主任として抜擢され、長く「いちばくのはにゅうせんせい」として親しまれて、先進的な保育実践を積み重ねてきた「埴生操と園児たち」の写真が、冒頭のも   
のである。

2-埴生先生
       埴生 操 

昭和52年11月に発行された埴生操編著『一麦保育園創立45周年記念誌:子供と自然を友として』(一麦保育園発行)のことについても、またその中に収められていた南野武衛ほかの文章なども前に紹介済みであるが、ここでは、本書の「序」の部分と第1部の最初にある埴生操の作品「幼児と自然環境」、そしてもうひとつ、賀川豊彦を追悼する『神はわが牧者』に寄せた埴生の文章「ある夜のひととき」を取り出して見る。

3-文章1

4-文章2

5-文章3

6-文章4

7-文章5

8-文章6

9-文章7

10-文章8

11-文章9

12-文章10

13-文章11

14-文章12

15-文章13

以上ここまで一麦保育園45周年記念誌を中心に一部取り出して見たが、今回は「昭和50年~52年の吉田源治郎と幸」としているので、少しだけ昭和50年以降のところを記して置きたい。

昭和50年の「新春聖修会」は1月2日に一麦保育園で開催され、嶋田啓一郎と吉野丈夫が講師を務め、4月21日の大阪朝祷会では、升崎外彦が賀川を記念して奨励を行っている。

そして昭和51年の「新春聖修会」も1月3日に一麦保育園で開催され、吉村静枝が講演を行い、7月12日には徳島市徳島簡易保養センターに於いて「全国聖修会」が開催され、畑実夫と武藤富男が講演している。

翌昭和52年は「新春聖修会」の記録がない。

甲子園二葉教会の『創立五十周年記念誌』の年表には「9月 この頃より、吉田牧師の健康上の理由のため、近隣諸教会の教職の応援を仰ぐことになった。特に吉野丈夫牧師(神戸再度筋教会)には当初は毎月の応援、その後ほぼ隔週においでいただく等、絶大なご協力をいただいた」という記述がでてくる。

その目で年表を振り返ってみると、昭和49年6月30日には「この週より、吉田牧師病気入院のため、9月頃まで他教会教職の応援並びに信徒により講壇奉仕がなされる」と記され、『西宮一麦教会五十年の歩み』の年表にも「6月30日 吉田源治郎牧師、病気入院(9月まで)」と書かれている。

またこの『五十年の歩み』の年表には、昭和51年12月に同教会の森彬伝道師が日本基督教団正教師となり、昭和52年5月には西宮一麦教会主任担任教師に就任、吉田源治郎は名誉牧師となることが記されている。

今回の最後に、この頃の2枚の写真(1枚は下の写真、もう1枚は園児たちとの写真を終わりに)と、昭和50年9月14日に記した吉田源治郎の一文(『四貫島セツルメント・五十年の歩み』の巻末に収められた「記念文集」)を取り出して置く。

16-吉田ら3人の写真

この写真は、昭和52年、日本基督教団兵庫教区の教師研修会の時のもので、右より芹野俊郎・吉田源治郎・森彬

17-文章1

18-文章2

19-卒園式
  昭和52年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児たちと共に

次回は、昭和53年以降に進んで見たい。
        
       (2010年11月3日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月3日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(112)

1-表紙

   第112回 吉田源治郎著『五つのパンと五千人』

今回は、吉田源治郎の最後の著作ではないかと思われる『五つのパンと五千人』を取り出して見る。

上に挙げた新書版の作品がそれで、「サモネットの花籠」という洒落た副題がついている。源治郎は「基督教家庭新聞」や「火の柱」など関連の機関紙で「サモセット」という珠玉の短文を寄稿してきたが、本書には45編が並べられている。新たに書き下ろしたのか、掲載済みの作品を選んだのか確認できていない。

2-はしがき

源治郎は上に収めた「はじめに」に於いて「吉野丈夫先生の協力により発刊されることになった」と記しているが、「サモネット」をこのように並べることや、ご覧のような題と美しい表紙とを構想したのは吉田源治郎であって、友人の吉野丈夫はこれと時を同じくしてご自分の著書『神戸と基督教』(神戸キリスト教書店)を出版しており、吉野丈夫のここでの「協力」の意味合いは、源治郎が「はしがき」の自署名の前に記している「宣教献身六十年を記念して」この出版を、吉野が強く後押しし、そのことへの謝意をこめて、源治郎はここにわざわざ記したのではないかと思われる。

吉田源治郎の「宣教献身六十年」というのは、源治郎が大正3(1914)年3月に三重県立第四中学を卒業し、明治学院高等学部に進学して更に神学部に進んだ、あの時を起点としているのであろう。自ら「宣教献身六十年」と述べる如く、確かにここまで見てきた吉田源治郎の生涯は、本当に「献身ひとすじ」の歩みであることを知らされる。

本書の奥付を見ると、発行日は1975年10月20日で、発行所は「西宮市甲子園高潮町7-25(吉田方)コイノニヤ社」となっている。つまり源治郎の自宅を発行所とした自費出版で、表紙に書かれているように「大阪キリスト教書店」が発売元となるものである。

尚この時、吉田源治郎は、「幻灯スライド:賀川豊彦」の製作に関わっていて、その「29コマの解説」を田中芳三が行っていたので、それを「賀川豊彦の思い出」と題し本書の「付録」として収めている。また巻末には、大阪クリスチャンセンター・大阪キリスト教書店・聖文舎西宮店と同神戸店の広告入りの本である。

上に収めた「はじめに」には、「私は、これまで「親鸞より基督へ」・「神の河は水みちたり」等のパンフレットを出版している」と書かれているが、この2冊のパンフレットは未確認のままである。田中芳三の『親鸞よりキリストへ―ぞうり履きの伝道者升崎外彦物語』(クリスチャン・グラフ社)は版を重ねた作品として知られているが、源治郎のパンフレット類というのは、以外に多くあるかもしれない。

ここでは、本書にある45篇の中から、源治郎のお箱のひとつ「星」を語った一篇と、今津二葉幼稚園児だった「若林くん」のところだけを取り出して置きたい。

3-本文1

4-本文2

5-本文3

6-本文4

7-本文5

8-本文6

9-本文7

10-本文8

付録 以下の三つの小品は、昭和50年の作品ではなく、いずれも昭和29年のもので、原稿用紙に張り付けて残されていた。それぞれ日付は書かれているが、掲載紙は判らない。忘れないために、ここに付録として収めて置く。

   昭和29年4月3日

11-附録記事

昭和29年11月20日

12-昭和29年記事

   昭和29年12月4日

13-昭和29年12月4日記事

今回はここまでで、次回から改めて昭和50年以降に進んで見たい。
     
      (2010年11月2日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月2日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(111)

1-写真

   第111回 昭和46~49年の吉田源治郎と幸(2) 

前回はイエスの友会の関西での集いを昭和47年まで取り出して見た。次の昭和48年は1月3日に「関西新春聖修会」を一麦保育園で、4月21日に「神戸賀川記念館10周年記念会」を同館で開催している。そして昭和49年も1月3日に「新春聖修会」を一麦保育園で、また7月15日に「夏期聖修会」を神戸摩耶ロッジで開いている。

上の写真は説明書きのように、「盲人及び肢体不自由者信徒研修会」のものであるが、昭和48年3月29日から30日まで有馬温泉で開催されており、吉田源治郎はこの時、講師の一人として参加していたのであろう。

ところで、順序が前後するが、兵庫県と兵庫県私立幼稚園連合会で出版している『あゆみ』(昭和46年版)という冊子に、甲子園二葉教会の母親学級の開設に関わる一文を、吉田幸が寄稿しているので、それを次に収めて置く。

2-母親学級1

   賀川ハルの吉田幸への手紙と写真(昭和47年6月6日付)

3-ハルの手紙

4-神学校の写真

同封されている上の「昔の写真」とは、改めて説明するまでもなく、幸とハルは若き日、同じクラス、しかも同じ部屋で過ごした「横浜共立女子神学校」( Bible Training School of the Woman‘s Union Misionary Society、Yokohama)の学生たちで、手紙にあるように「間所幸」の姿はないが「賀川ハル」の姿はある。

この封筒の中に、多分、吉田幸が収めて置いたであろうと思われる、下の写真が入っていた。裏には「賀川先生 愛の園創立二十周年記念会 47・2・13」と記されている。「愛之園保育園」は、社会福祉法人イエス団に属する施設の一つで、和歌山県南部町にあって、現在もよい働きを続けている保育園である。

5-愛の園の写真

     『ナザレ会報』(兵庫栄養専門学校聖書研究部)

1972年2月に発行予定の標記の下書き原稿が残されている。この専門学校は西宮市内にあり、それまで個人経営だったものがこの年に学校法人として設立され、現在は「兵庫栄養調理製菓専門学校」として知られている学校である。
 
吉田源治郎がどのような経緯でここで「聖書研究部」の世話をしていたのか判らないが、この「会報」には、始めと終わりに「名言・秀句」を掲げ、源治郎が短文「心の栄養と身体の栄養と」を寄せている。赤いリボンも面白い。70部作っているようである。

6-ナザレ会報

7-つづき2

8-つづき3

9-つづき4

10-つづき5

11-つづき6

12-つづき7

13-つづき8

14-つづき9

15-つづき10

16-卒園式
  昭和48年3月 甲子園二葉幼稚園卒園児たちと共に

前列真正面に夫妻が並んで写る写真はこれが最初であるが、このあとも何度か見ることが出来る。

『幼稚園八十年史』によれば、昭和48年2月11日には「甲子園二葉教会創立50周年記念式」を執り行っている。

       (2010年10月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年10月1日補正)

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