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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(149)

   第149回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」目次

第1回 お宝 吉田源治郎関係資料との出会い KAGAWA GALAXY 吉田摂・梅村貞造両氏との出会い、吉田源治郎の説教、源治郎著『肉眼に見える星の研究』 

第2回 岡本栄一氏の労作「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」 岡本「吉田源治郎―妻幸、賀川豊彦との出会い、そして人となりなど」 

第3回 吉田源治郎の著書・論文・随筆(含・賀川豊彦の講演を筆記して仕上げた著書)源治郎による賀川豊彦の講演筆記を仕上げた著作、源治郎の著作と訳書、源治郎が他の人と共同して仕上げた賀川豊彦の著書、源治郎の『雲の柱』への寄稿論文、源治郎の『基督教家庭新聞』掲載作品とその他に寄稿した作品  

第4回 吉田源治郎・間所幸の故郷・三重県伊勢 尾西康充「みえの文学誌:吉田源治郎」(「中日新聞」)、『常盤幼稚園七十年誌』と『伊勢の伝道・山田教会の歴史』1・2のこと、源治郎の妻「間所幸(こう)」のこと、ミス・ライカー宣教師のこと

第5回 明治学院時代の吉田源治郎 『明治学院歴史資料館資料集』第2集、「内村鑑三と吉田源治郎」

第6回 吉田源治郎の妹・なつゑの追悼「又逢ふ日迄」 内村鑑三の吉田なつゑ追悼説教、源治郎「又逢ふ日迄―故吉田なつゑの思ひ出」

第7回 間所幸と賀川ハル―共立女子神学校時代 幸の学んだ「共立女子神学校」、賀川ハル夫人と同クラス・寄宿舎も同じ、幸の「共立女子神学校時代の思い出」ふたつ―「賀川ハル夫人と私」「共立女子神学校に於けるハル先生との思い出」、付録「ハルよりアメリカの豊彦宛書簡」2通

第8回 三重県立第四中学校友会報に見る吉田源治郎 源治郎の中学時代の「論説・文芸・言論」3題―「音楽と人生」「熊野物語」「精神的飛躍」

第9回  源治郎の処女出版『児童説教』(大正7年) 本書の「序」と「編者再白」、短篇説教2篇「何時だろう?」「星辰と彗星」

第10回 京都伏見東教会時代の源治郎と幸 源治郎と幸との結婚、源治郎と賀川豊彦との最初の出会い、賀川豊彦『イエス伝の教へ方』―源治郎による賀川講演の筆記著作の最初?

第11回 間所兼次と共益社1 賀川の小説『再建』より

第12回 間所兼次と共益社2 大阪毎日新聞「消費組合巡り」、「産業組合中央会:有限会社購買組合共益社」

第13回 間所兼次と共益社3 源治郎「間所兼次と消費生活協同組合運動」

第14回 間所兼次と共益社4 横山春一『賀川豊彦伝(増訂版)』より、米沢和一郎「賀川豊彦の協同組合運動」より、小川敬子「北港児童館についての思い出」

第15回 間所兼次「ALBUM」1 共益社、鈴木文治・安部磯雄・吉野作造・金子忠吉ほか、神戸購買組合 

第16回 間所兼次「ALBUM」2 共益社、店舗・仕事場・親睦旅行など

第17回 間所兼次「ALBUM」3 共益社、賀川服・石鹸・沢田正二郎・家庭会ほか

第18回 「イエスの友会」及び「雲の柱」と吉田源治郎 (この回より表題を「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎の世界」を「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」に変更) 「雲の柱」創刊号、源治郎「編集後記」、村島帰之「雲の柱十九年私史」、米沢和一郎「雲の柱誕生から終刊まで」、「イエスの友会」の命名者・吉田源治郎、発足の場所となった奈良の「菊水楼」

第19回 「神戸大争議」収監釈放後の賀川豊彦 その時の写真、武田芳一の小説『熱い港―大正十年・川崎・三菱大争議』

第20回 山室武甫「新川貧民窟の二十日」 「山室武甫」のこと、賀川の作品『預言者エレミヤ』の山室軍平の「序」、山室武甫「新川貧民窟の二十日」、高道基『山室軍平』より

第21回 『肉眼に見える星の研究』1 初版の「序」、賀川ハル「私どもの日記」、賀川豊彦「五軒長屋より」ほか

第22回 『肉眼に見える星の研究』2 天文学者・山本一清との出会い、再び『児童説教』より

第23回 『肉眼に見える星の研究』3 大沢正彦「宮沢賢治と吉田源治郎『肉眼に見える星の研究』」、草下英明「宮沢賢治と星」

第24回 『肉眼に見える星の研究』4 賀川豊彦『涙の二等分』『星より星への通路』「長屋の南京虫」、三浦清一編著「賀川豊彦随筆集」原稿のこと 

第25回 『肉眼に見える星の研究』5 初版と改版、「改版の序」、「米国天文台の印象」

第26回 『肉眼に見える星の研究』6 恒星社版(昭和4年)の「序」、由木康作詞・二葉薫作曲「ねがい」

第27回 『肉眼に見える星の研究』7 『肉眼天文学』恒星社版(昭和34年)の「序」と「あとがき」、「星座のうた」「豊島讃歌」「パロマ天文台訪問」

第28回 『肉眼に見える星の研究』8 箱入り初版本、山本進「吉田源治郎の憶い出」、原恵「星の本との出会い」

第29回 『肉眼に見える星の研究』9 高木謙次「内村鑑三と吉田源治郎」、椚山義次「内村鑑三と天文学」

第30回 『肉眼に見える星の研究』10 小川敬子『憩いのみぎわ』より「岩手公園」ほか

第31回 源治郎米国留学中の吉田幸 小川敬子「伊勢の思い出」(一部)、ミス・ライカーと共に常盤幼稚園教師、小林恵子『日本の幼児保育につくした宣教師』(下巻)より

第32回 シュヴァイツァーと吉田源治郎1 賀川豊彦『基督伝論争史』、「雲の柱」の「イエスの秘密号」、賀川豊彦「シュワイチェルの「イエスの秘密」について」

第33回 シュヴァイツァーと吉田源治郎2 源治郎「シュヴァイツァー「原生林の片隅にて」を読む」(1)

第34回 シュヴァイツァーと吉田源治郎3 源治郎「シュヴァイツァー「原生林の片隅にて」を読む」(2)、高橋功医師のこと

第35回 シュヴァイツアーと吉田源治郎4 源治郎「シュヴァイツァー「原生林の片隅にて」を読む」(3)

第36回 シュヴァイツァーと吉田源治郎5 シュヴァイツァーの会・向田正とシュヴァイツァ―寺の古川泰龍、シュヴァイツァーの吉田源治郎への書簡「原生林の片隅より」

第37回 シュヴァイツァーと吉田源治郎6 吉田源治郎訳・シュヴァイツァー著『宗教科学より見たる基督教』(警醒社)の「訳者のことば」と本文書き出しのところ

第38回 シュヴァイツァーと吉田源治郎7 源治郎「シュヴァイツァーの文明哲学」「アルバート・シュヴァイツァー素描」

第39回 山室軍平と吉田源治郎 源治郎「茶臼原の一夜の思い出ほか」、武内勝「先生に学ぶ」、賀川豊彦「山室先生を偲んで」

第40回 賀川豊彦の欧米の旅と吉田源治郎 賀川と吉田の米国での再会、豊彦と源治郎の欧州の旅、源治郎「ロンドンに於ける貧民窟破壊運動」、賀川の「身辺雑記」、賀川の『永遠の乳房』『雲水遍路』

第41回 四貫島セツルメントと吉田源治郎1 帰国後の吉田一家の住まい、第3回イエスの友全国大会、源治郎「近代基督者の友愛と互助」

第42回 四貫島セツルメントと吉田源治郎2 賀川豊彦「イエスの友会結成の思い出」、「日本労働者伝道会社の設立」

第43回 四貫島セツルメントと吉田源治郎3 『四貫島セツルメント:五十年のあゆみ』より「創設期」

第44回 四貫島セツルメントと吉田源治郎4 「イエスの友会大阪支部誕生」、「イエスの友関西夏季修養会」、賀川豊彦「身辺雑記」、「CLMJ通信」

第45回 四貫島セツルメントと吉田源治郎5 「CLMJ通信」、源治郎「産業革命以後の伝道戦術」

第46回 四貫島セツルメントと吉田源治郎6 賀川豊彦の小説『石の枕を立てて』より吉田源治郎・間所兼次・賀川一家の西宮移住まで

第47回 四貫島セツルメントと吉田源治郎7 イエスの友会大阪支部、イエスの友全国大会、イエスの友関西夏期修養会、四貫島セツルメント創立1周年、賀川豊彦巡回大伝道会、『キリスト一代記の話』

第48回 四貫島セツルメントと吉田源治郎8 大阪イエス団教会教会報、「新時代修養会」、「日本農村ミッション創設」、賀川豊彦「武庫川のほとりより」、「日本農民福音学校」、岩本由輝「賀川豊彦と杉山元治郎」、「日本農村伝道団趣意書」

第49回 四貫島セツルメントと吉田源治郎9 四貫島セツルメント・ハウスの建設準備、賀川豊彦「武庫川のほとりより」、源治郎「武庫川のほとりに賀川氏を見舞ひて」、ヴォーリズの設計図

第50回 四貫島セツルメントと吉田源治郎10 セツルメント・ハウスの完成、設立の趣意、「イエスの友店員ミッション」創立

第51回 シュヴァイツァーと吉田源治郎8 シュヴァイツァーの賀川豊彦への書簡、シュヴァイツァーの吉田源治郎への書簡、シュヴァイツァー『バッハの生涯』(津川主一訳)

第52回 四貫島セツルメントと吉田源治郎11 イエスの友冬期福音学校、源治郎「四貫島セツルメントの近況」「その後の四貫島セツルメント」、四貫島セツルメント出版部

第53回 四貫島セツルメントと吉田源治郎12 「雲の柱」創刊号、「イエスの友会」のこと、「イエスの友会大阪支部」、「イエスの友会」とは、木立義道「人民伝道の建築―本所基督教産業青年会の近況」

第54回 四貫島セツルメントと吉田源治郎13 第6回イエスの友全国大会(奈良)、河上丈太郎講演

第55回 吉田源治郎著『新約外典の話』(昭和3年) 源治郎「新約外典ストーリー:テクラ信行記」

第56回 四貫島セツルメントと吉田源治郎14 イエスの友冬期福音学校、『四貫島セツルメント:五十年のあゆみ』より、源治郎「四貫島セツルメント」報告、「神の国運動協議会に臨みて」 

第57回 四貫島セツルメントと吉田源治郎15 四貫島夏期キャンプ、四貫島セツルメントの近況、小川敬子「四貫島セツルメントの思い出」、源治郎論文「神の国運動の組織神学」「東京風景:笑えぬナンセンス物語」「三一年式の聖書読方法」「聞書:升崎外彦<漁村伝道のプロフィル>」

第58回 四貫島セツルメントと吉田源治郎16 イエスの友冬期福音学校、四貫島セツルメントの近況、賀川豊彦の小説『一粒の麦』出版、農民福音学校寮「一麦寮」完成、映画「一粒の麦」、源治郎論文「都市伝道研究断片」

第59回 四貫島セツルメントと吉田源治郎17 吉田源治郎著『心の成長と宗教教育の研究』(昭和6年)、「少年少女夏期聖書学校」

第60回 四貫島セツルメントと吉田源治郎18 第5回冬期福音学校、「四貫島セツルメントの夏期宗教教育の試み」、「大和農民福音学校」、「春日出日曜学校」

第61回 四貫島セツルメントと吉田源治郎19 一麦寮での農民福音学校・冬期福音学校、「農漁村伝道を支持せよ!」、「夏期修養会・全国大会」、源治郎論文「それは建物ではない―隣保事業と教会運動への一考察」、『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より

第62回 四貫島セツルメントと吉田源治郎20 小林恵子『日本の幼児保育につくした宣教師』(下巻)より、源治郎「ミス・クックのころ」、竹中正夫『ゆくてはるかに―神戸女子神学校物語』より

第63回 四貫島セツルメントと吉田源治郎21 公衆衛生訪問婦、源治郎「隣保事業の立場から」「ナーセリー・スクール運動を語る」「キャンプの歌」

第64回 四貫島セツルメントと吉田源治郎22 『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、賀川豊彦「旅から旅へ」、源治郎「タンカを切る賀川」「母性教育についての一考察―成人教育の一面としての」

第65回 四貫島セツルメントと吉田源治郎23 冬期福音学校、農民福音学校、夏期修養会、源治郎「嬰児教育について―新しき教育学位の創設」「嬰児教育のプログラム―ナースリー・スクールに於ける教育」「セツルメントに於ける指導者並びに共働者の問題」

第66回 四貫島セツルメントと吉田源治郎24 小川敬子「四貫島セツルメントに於ける乳幼児保健についての働き」「北港児童会館についての思い出」、冬期福音学校、農民福音学校、生野聖浄会館建設準備、『聖浄保育園65年略史』より、賀川豊彦の小説『その流域』、杉山元治郎「『その流域』を読む」、大阪イエス団教会青年部機関誌「流域」創刊

第67回 四貫島セツルメントと吉田源治郎25 『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、関西冬期福音学校、農民福音学校、賀川豊彦「武蔵野の森より」、生野聖浄会館完成、大和農民福音学校、『馬見労祷教会・50年記念誌:恵みの旅
路』より

第68回 四貫島セツルメントと吉田源治郎26 冬期福音学校、農民福音学校、源治郎「大阪雑記」「『教会の仕女』ディアコニス運動の実際」、夏期修養会

第69回 『フレーベルとその宗教教育の貢献』 源治郎「フレーベル小伝」、マーガレット・クック「フレーベル、其の幼稚園の教育への貢献」 

第70回 四貫島セツルメントと吉田源治郎27 源治郎「新緑滴る香川県豊島・絶景を控えた楽土」、『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、大阪四貫島教会、冬期福音学校、農民福音学校、源治郎「将来社会事業としての精神衛生社会事業の任務」「大阪雑記」、夏期修養会・全国大会

第71回 吉田源治郎の「神の国新聞」寄稿作品1 説教「凡てのこと為し得る秘訣」、信仰実話「呟きしもの亡す者に亡ぼされたり」、童話「子猫と子鼠:仲よしこよし」、3分間のすすめ「ゆりかごを動かす・手は世界を動かす」「朝日のごとき旅をして楽しむ」、聖書随想「神との交際に就いて」「若き日は幻を」 

第72回 吉田源治郎の「神の国新聞」寄稿作品2 「主はみこころなし給わん」「いのりはきかれる」「わが恩恵(めぐみ)汝に足れり」「福音は人と大地を活かす:労働しつつ祈祷しつつ」、初秋の瞑想「見よ、彼は祈り居るなり」、「或る夕べ長田穂波氏と語る:霊魂(たましい)は羽ばたく」

第73回 四貫島セツルメントと吉田源治郎28 関西冬期福音生活学校、農民福音学校、賀川豊彦「武庫川の畔より」、源治郎「『日輪を孕む嚝野』を読む」、源治郎「保育に於ける自然研究」(『子供の教養』誌より)

第74回 四貫島セツルメントと吉田源治郎29 豊島の賀川豊彦、源治郎「四貫島セツルメント」、間所兼次「消費組合大阪共益社」、四貫島の地図(区政一覧・セツルメント周辺・千鳥橋・此花公園)

第75回 四貫島セツルメントと吉田源治郎30 賀川社会事業関係者関西修養会、自然観察和音感教育講習会、夏期修練会、源治郎「或る人を見舞うて」「開拓へ挺身―結核・救癩に奉仕」「マタイ伝の匂い―富田象吉氏の生涯を偲ぶ(賀川先生の告別式式辞)

第76回 四貫島セツルメントと吉田源治郎31 岡本栄一「吉田源治郎関係年表」より「昭和19年~戦後の初めまで」再掲、『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、「流域」昭和40年10月1日号(四貫島セツルメント創立40周年記念)より、『四貫島セツルメント創立80周年記念誌:輝け、命』より「賀川豊彦」「吉田源治郎」「小川三男」「小川秀一」「小川居」

第77回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会1 瓦木村と今津村の地図、吉田幸「二葉幼稚園と教会のはじまり」(『甲子園二葉教会五十年誌』より)、

第78回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会2 今津二葉幼稚園の戦前の園舎、小泉功「今津二葉教会の誕生とその後の推移について」(『甲子園二葉教会五十年誌』より)

第79回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会3 今津二葉幼稚園の卒園写真、JOBK「収穫感謝祭」出演

第80回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会4 小川敬子「甲子園二葉教会戦前の歩み」(『甲子園二葉教会五十年記念誌』より)、「年表(教会戦前史)」(同)

第81回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会5 基督教保育連盟関西部会、小泉功「教会音楽物語」「教会楽人大中寅二先生」、賀川豊彦「讃歌の音楽者大中寅二氏に捧ぐ」、メイスン・ハムリン社製リード・オルガン、源治郎「タンカを切る賀川」(一部)、二葉薫「子供の歌」、吉田幸作詞・二葉薫作曲「すずめ」

第82回 今津二葉幼稚園と今津二葉教会6 「戦時下の保育」(『甲子園二葉幼稚園八十年史』より、吉田幸「戦時下の保育」(『基督教保育連盟関西部会創立五十年記念誌』より、戦前の今津二葉幼稚園の写真、大中香代「大中寅二」(『続・キリスト教保育に捧げて人々』より

第83回 一麦保育園と吉田源治郎1 「ヤへ・シバ館」、梅村貞造「賀川豊彦と一麦寮」並びに「年表」より、埴生操編著『子供と自然を友として―一麦保育園創立45周年記念誌』、『一麦のあゆみ―一麦保育園創立50周年記念誌』、吉田源治郎・幸「一麦保育園五十周年を迎えて」、石田幾子「五十周年の御挨拶」、松田伊勢子「一麦保育園創立当時の事ども」

第84回 一麦保育園と吉田源治郎2 一麦保育園の写真、埴生操のことば(『45周年記念誌』より)、南野武衛「一麦保育園」、読売新聞記事「自然と一体の保育を訴える埴生操さん」、球磨川淡「埴生操さん」(『日本の伝統』より)

第85回 戦火を生き戦後歩み始める1 吉田摂「上が原の思い出」(『卒業55周年記念誌・双五会会員の戦中奮戦記』より)、吉田敬子「人間の盾」(『つのぶえ』より)、「火の柱」第1号・第2号

第86回 戦火を生き戦後歩み始める2 賀川豊彦「新日本の衣食住」、賀川豊彦「天使になりたい」(「火の柱」第7号)、『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、源治郎「阿波伝道記」「第3回阿波伝道記」「農村伝道の研究」、賀川豊彦「日本復興の精神的基礎」「神よりの福音」     

第87回 西宮一麦教会と馬見労祷教会の設立 吉田源治郎の説教「前進する教会」(『西宮一麦教会・五十年の歩み』より)

第88回 昭和22年の吉田源治郎 阿波農民福音学校、船本宇太郎「阿波新生の歓喜」、源治郎「工場地帯を教区として―四貫島セツルメント覚書」「山口県大島郡安下庄町のピッケル記念会堂の前に立ちて」「協同社会の根底を培うもの」「子に救はるる母」、佐藤功二「高山徳太君のノートから:童心の美しさ」(毎日新聞掲載)、高山悦『私の同和教育』より、夏期修養会

第89回 昭和23年の吉田源治郎 冬期福音聖修会、川瀬勇「賀川の流域に遺鉢をつぐ人々」(『川瀬勇追想・遺稿集:ニュージーランドに魅せられて』より)、源治郎「大和めぐり訪問伝道記」「立体農業の先駆・楽園誕生―久宗壮氏の経営」、夏期修養会、豊島農民福音学校女子部(第2回)開校、勤労者キリスト同盟・協同組合キリスト同盟結成大会、関西視覚教育伝道班発足

第90回 四貫島の献堂・一麦保育園園舎新築など 『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、冬期福音学校、豊島福音学校、神戸イエス団の落成、源治郎「人あらたに生まれずば」、夏期修養会、関西夏期聖修会、大阪四貫島教会復興献金募集、「四貫島セツルメント」、一麦保育園園舎竣工、「一麦寮のこの頃」

第91回 今津二葉教会と幼稚園の再開の事など1 ヴォーリズ建築設計事務所の設計、源治郎「馬見村に奈良県農村センターひらく」、大和農民福音学校、紀北農民福音学校、賀川豊彦より吉田源治郎への航空便2通、源治郎「始めての試み・関西イエスの友青年夏期学校の盛況」、『四貫島セツルメント・五十年のあゆみ』より、ローガン夫妻とエレンちゃん

第92回 今津二葉教会と幼稚園の再開の事など2 『幼稚園八十年史』より、源治郎の卒園児へのお話、卒園児の写真、上棟式の写真、吉田摂「再開前史」(『教会五十年記念誌』より)

第93回 今津二葉教会と幼稚園の再開の事など3 『幼稚園八十年史』より、武田安子「再開草々の苦労と喜びを受容しつつ」、源治郎「私の体験社会学」、庄ノ昌一「今津二葉教会建設経過報告」

第94回 昭和26年の吉田源治郎と幸 基督教保育連盟軽井沢講習会、関西冬期福音学校、源治郎「ハウゲのこども」、豊島農民福音学校、源治郎「農村とメディカル・ミッション―ドクトル・シベルゼンツとともなる経験」、関西夏期聖修会、源治郎「献げよ」「カミングオブ・エージ」「神との交わりにあづかる」「午後9時15分前に」「一麦寮にフトンを」

第95回 大和榛原伝道所と吉田源治郎 源治郎「私の仕事・街にも野にも」、本多ヒロ「忘れ得ぬ人々」、清水真一「伊那佐山と高山右近」、「大和榛原伝道所40年のあゆみ」(いずれも『大和榛原伝道所40周年記念誌・流れのほとりで』より)

第96回 昭和27年の吉田源治郎と幸 源治郎「高山右近受洗の村に聖書研究のグループ結成」、冬期福音学校、源治郎「キリスト・イエスの心を!」、関西夏期聖修会、源治郎「霊魂の糧なる修養会」、豊島女子農民福音学校、スイス東亜医療団へ感謝状、今津二葉教会週報、農村伝道週間礼拝、関西農村基督者青年大会

第97回 吉田源治郎著『勇ましい士師達』 村岡花子「刊行の言葉」、「聖書少年文庫」、「勇ましい士師達」について、奥付

第98回 昭和28年の吉田源治郎と幸 冬期福音学校、豊島男子農民福音学校、源治郎「世界の平和のために」、今津二葉教会週報、農村伝道週間、関西夏期聖修会、イエスの友修養会・全国大会、今津二葉幼稚園卒園写真

第99回 昭和29年の吉田源治郎と幸 冬期福音学校、源治郎「汝らも互いに足を」「キリストからの平和」、今津二葉教会週報、夏期聖修会・全国大会、小川秀一「聖修会報告」「大阪四貫島友隣館再建」、四貫島セツルメント開設30年記念礼拝、『四貫島セツルメント・五十年誌』より

第100回 昭和30年~32年の吉田源治郎と幸 昭和30年 今津二葉幼稚園、一麦保育園、冬期福音学校、「原水爆使用禁止」を国連へ、夏期聖修会、小川秀一「四貫島友隣館再建献堂感謝の辞」 昭和31年 「吉田源治郎先生の社会福祉事業大会表彰」、冬期福音学校、夏期聖修会 昭和32年 冬期福音学校、夏期聖修会、源治郎「私の開拓伝道の巻」、原水爆実験禁止決議

第101回 昭和33年の吉田源治郎と幸 冬期福音学校、自然観察保育セミナー、関西聖修会、『米田純三牧師記念文集:神の愛に生かされて』より源治郎「米田純三先生を偲んで」「世界一せいの低い牧師」、吉田惣市郎「米田純三先生を偲んで」、小須田ヤエ「米田純三先生の思い出」、村山盛忠「米田純三先生を偲びつつ」

第102回 「ラクーア伝道」と吉田源治郎 大宮博「本のひろば:ラクーア―その資料と研究」、「信徒の友:但馬日高伝道所」、宮城喜代子「但馬の吉田先生」、村松時男所蔵写真と書簡、穂積修司「50年を振り返って・ラクーア伝道時代年表

第103回 昭和34年~35年の吉田源治郎と幸 34年 冬期福音学校、賀川豊彦の病状、夏期宝塚聖修会、源治郎「宣教百年を如何にして記念するか」、日米交歓研修会 35年 冬期福音学校、牧建一「恩師吉田源治郎先生に捧ぐ」、幼稚園卒園児と共に、『西宮一麦教会:五十年の歩み』から「第一期創立から旧会堂献堂まで」

第104回 賀川豊彦の召天と吉田源治郎 『百三人の賀川伝』より吉田源治郎「タンカを切る賀川」、『神はわが牧者』より源治郎「まえがき」「ストオリー・テラーとしての賀川先生」「幼児教育と賀川先生」、西坂保治「残されたる刺」、金田弘義「日本農民福音学校」

第105回 昭和36年の吉田源治郎と幸 西宮一麦教会献堂式、武内勝「昭和36年日誌」より、『西宮一麦教会・四十年の歩み』より源治郎説教「命の木はまだ残されている」「幸福への招待」、幼稚園卒園児と共に

第106回 昭和37年~39年の吉田源治郎と幸 37年 「今津二葉幼稚園創立40周年記念式」 38年 ローガン著『詩篇霊歌集』より源治郎の森彬牧師への「うた」「著者ローガン博士を紹介する」、酒枝義旗「徳島時代のローガン先生」、斉藤敏夫「あとがき」 39年 新春聖修会、源治郎「琉球伝道」、幼稚園卒園児と共に

第107回 昭和40年~41年の吉田源治郎と幸 40年 朝祷会、「流域」四貫島友隣館創設40年記念、源治郎「読書のすすめ」『GUEST BOOK』、源治郎の米国・カナダ伝道旅行・パロマ天文台訪問 41年 源治郎「この“最後の者”に奉仕する救済の手―レスキュー・ミッションとナイト・ミニストリーなど」、幼稚園卒園児と共に

第108回 昭和42年~43年の吉田源治郎と幸 42年 源治郎から幸への特製絵葉書 43年 一麦保育園の増改築と「一麦寮」の解体、「一麦保育園35年の歩み」「増改築事業の経過」「落成式」、幸の履歴書

第109回 昭和44年~45年の吉田源治郎と幸 44年 新春聖修会、基督教保育連盟夏期修養会 45年 大阪万国博、『西宮一麦教会・五十年の歩み』より「第二期・森彬牧師就任まで」、『甲子園二葉教会五十周年記念誌』より野村睦子「教会の歩み―1955~1959」、小林繁「教会の歩み―1960~1969」

第110回 昭和46年~49年の吉田源治郎と幸1 47年 「西宮一麦教会創立25周年記念」、源治郎説教「生ける神を慕う」、『創立25周年を記念して』より埴生操「のぼれ、高くのぼれ」、川瀬勇「四千を越えて」、淀三郎「「亡くなられた」吉田先生」、岡野美智子「一麦と私」

第111回 昭和46年~49年の吉田源三郎と幸2 盲人及び肢体不自由者信徒研修会、吉田幸「甲子園二葉幼稚園母親学級」、賀川ハルの吉田幸への手紙と写真、「愛之園保育園での賀川ハル」、源治郎『ナザレ会報』(兵庫栄養専門学校聖書研究部)より「心の栄養と身体の栄養と」、甲子園二葉幼稚園卒園児と共に

第112回 吉田源治郎著『五つのパンと五千人』 「ベツレヘムの星はどの星であったか」「若林かんとくは私のお父さんです」「若林くんのハワイだより」「若林くんのアメリカだより」、源治郎「母性愛の配慮」「引け目がつけ目」「見つけるまでは」

第113回 昭和50年~52年の吉田源治郎の幸 埴生操編著『一麦保育園創立45周年記念誌・自然を友として』より梅村貞造「序」、埴生操「幼児と自然環境」、源治郎「仕事とは仕えること」、幼稚園卒園児と共に

第114回 昭和53年の吉田源治郎と幸 日本キリスト教文化協会がキリスト教功労者として吉田源治郎を表彰、源治郎「死線を越えてゆかりの地に建つKAGAWA MEMOLIAL HALL 賀川記念館」、幼稚園卒園児と共に、中野美代「埴生操先生の保育の思い出」

第115回 昭和54年の吉田源治郎と幸1 「吉田源治郎先生米寿を祝う会」、『吉田先生と私・米寿記念文集』より森彬「良師を得たり」、森島左武郎「小さな巨人」、吉田節子「みちのり」、淀三郎「吉田先生の米寿を祝して」、藤田いずみ「お じいちゃん先生と親しんで」、藤本理平「吉田先生と一麦教会」

第116回 昭和54年の吉田源治郎と幸2 『吉田先生と私―米寿記念文集』より吉野丈夫「吉田先生の米寿を祝して」、埴生操「愛の黒いかばん」、庄ノ昌士「戦中、戦後の思い出」、梅村貞造「クリエイティブ・マイノリティー」、松村志保子「慈父と慕う吉田先生」、幼稚園卒園児と共に

第117回 昭和54年の吉田源治郎と幸3 高山徳太制作『昨日も今日もいつ迄も変わる事がない吉田先生』、高山徳太「吉田先生はいつまでも変わることがない」

第118回 昭和55年~56年の吉田源治郎と幸 55年 源治郎「社会事業に貢献した先輩に感謝する会」で朝日新聞大阪厚生文化事業団より感謝の記念品贈られる、太田緑「吉田先生へ」、幼稚園卒園児と共に、阪神間の教会の「イースター礼拝」、芹野俊郎「吉田源治郎への書簡」 56年 今津二葉教会「吉田源治郎牧師引退感謝礼拝」、『甲子園二葉教会・五十年記念誌』より重松一朗「教会の歩み―1980~1990」  

第119回 昭和57年の吉田源治郎と幸1 吉田幸「思い出」、幼稚園卒園児と共に

第120回 昭和57年の吉田源治郎と幸2 「一麦保育園創立50周年記念祝典」、石田幾子「五十周年の御挨拶」、埴生操「幼児と共に―自然を友として過ぎし五十年」

第121回 昭和57年の吉田源治郎と幸3 『一麦のあゆみ―一麦保育園創立50周年記念誌』より源治郎・幸「一麦保育園五十周年を迎えて」、松田伊勢子「一麦保育園創立当時の事ども」、高山徳太「幼児(おさなご)たちのために」、天野シゲ子「幼き日の思い出」、住野秀樹「魂のふる里―一麦保育園」

第122回 昭和57年の吉田源治郎と幸4 吉野丈夫「二つの誇り」、今井鎮雄「一麦保育園創立五十周年に寄せて」、梅村貞造「一麦保育園の使命」

第123回 昭和58年~59年の吉田源治郎と幸1 吉田源治郎の「紅山荘」での療養、苅田千栄子「吉田先生とのお別れ」、吉村静枝『荒野は涙の皮袋』より「吉田源治郎先生と私」、金子益雄「吉村静枝」

第124回 昭和58年~59年の吉田源治郎と幸2 吉田源治郎牧師告別式、告別式に於ける吉野丈夫牧師の説教

第125回 昭和58年~59年の吉田源治郎と幸3 告別式に於ける弔辞―賀川純基・武藤富男・長谷川保・田中芳三・森本正信・梅村貞造、遺族代表・吉田幸の挨拶、田中芳三「クリスチャン・グラフ」誌の告別式の記事

第126回 昭和58年~59年の吉田源治郎と幸4 西宮一麦教会での『追悼―吉田源治郎先生』、源治郎在りし日の説教「命の木はまだ残されている」「幸福への招待」、森彬「伝道の長距離ランナー」、幼稚園卒園児と共に

第127回 昭和60年~平成3年の吉田幸1 60年 「吉田幸先生米寿記念・二葉幼稚園同窓会」毎日新聞と神戸新聞の記事、幼稚園卒園児と共に 61年 吉田幸・幼稚園長退任・吉田洋子就任の挨拶状、遠藤浩「幼稚園の同窓会」、幼 稚園卒園児と共に 64年 「今津二葉幼稚園同窓会」

第128回 昭和60年~平成3年の吉田幸2 64年 『甲子園二葉教会・五十年記念誌』より「吉田幸姉に聞く」、吉田幸「教会の奥さん―インタビュー」

第129回 昭和60年~平成3年の吉田幸3 平成元年「甲子園二葉教会創立50周年記念」、『記念誌』より森彬「吉田源治郎先生のこと」、吉田洋子「創立五十周年に寄せて」、森元正信「思い出と展望」、森本芙紗子「ぶどうの木の枝」、梶 川房子「思い出」、木村明子「思いで」

第130回 昭和60年~平成3年の吉田幸4 『記念誌』より呉竹緑「われ山にむかいて目をあぐ」、黒田あや「二葉教会に思うこと」、黒田正子「二葉教会と私」、高誠基「心に止め」、小林繁「生きた働き」、佐伯親子「神様ありがとうございます」、庄ノ昌士「下には永遠の腕あり」、新豊京子「思い出の歩み」、西川純子「今、思うこと」、西川康夫「二葉教会と私」、西口雅彦「私の受洗した頃」、藤井繁一「教会が50周年を迎えて」、藤井信子「二葉教会との出会い」、藤田昭雄「わら半紙に青インク」、藤森敏夫「二葉教会の思い出」、藤森信子「恵みの場―二葉」、山崎誉雄「青年会人形芝居」、吉田摂「木を植えた人」

第131回 昭和60年~平成3年の吉田幸5 『記念誌』より源治郎説教「祈りはいかにあるべきか」、吉野丈夫「感謝と希望にあふれる教会」、今井鎮雄「甲子園二葉教会五十周年に寄せて」

第132回 昭和60年~平成3年の吉田幸6 『西宮一麦教会・五十年の歩み』より梅村貞造「神の見えざる手」、岡野美智子「思い出すこと」、高山徳太「一麦教会の再建をめざして」、田中芳子「教会生活感謝」、田渕尚美「幼い頃の思い  出」、中島ヤス子「思い出」、中野美代「再び一麦に来て」、中村則子「私の教会生活」、藤本理平「一麦教会と吉田牧師」

第133回 昭和60年~平成3年の吉田幸7 吉田幸とのお別れ、勝部寛二、芹野俊郎「書簡」「弔辞」、入山花子「ママ様への手紙」

第134回 「吉田源治郎・幸の世界」最終回 吉田幸召天一周年記念に寄せて、田中芳子書簡、「甲子園二葉教会・甲子園二葉幼稚園」「西宮一麦教会・一麦保育園」「四貫島友隣館・大阪四貫島教会・天使保育園・天使保育園北分館・天使ベビーセンター・特養ガーデン天使」、小川佐和子「流域―社会福祉と生活設計」の刊行に寄せて

第135回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺1 吉田洋子「吉田源治郎」「吉田幸」、小川敬子「悔いなき夫婦」、緒方彰「吉田源治郎」

第136回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺2 小川敬子「伊勢の思い出」などの手記、写真

第137回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺3 「今津二葉教会週報」(1950年~1957年分)より「農村伝道」「信仰通信」

第138回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺4 賀川豊彦の源治郎宛に送られた書簡とそれを入れた源治郎のサモネット「雪原をさすろう夕べ」、源治郎「静聴と話合い」「パントマイム」「キリスト一点ばり」「信仰のみ―宗教改革記念日を迎え  て」「その余波は消えず」「われに来よと」「近畿地区アシュラム」

第139回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺5 「全日本ラクーア音楽伝道」、花盛勲一「山田忠藏」、「ラクーア音楽伝道写真」、「梅村貞造アルバム」より

第140回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺6 小泉功「忘れられぬ『讃美歌』の改訂」

第141回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺7 吉田源治郎・幸から賀川豊彦・ハルへの書簡(馬見労祷・四貫島・一麦関係)、ヴォーリズによる今津二葉教会牧師館の設計図

第142回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺8 岡本栄一「四貫島セツルメントの基礎を築く―吉田源治郎の人となりと福祉思想」

第143回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺9 『高山徳太詩集』より詩作品抜粋

第144回 「吉田源治郎と幸の世界」補遺10 『高山徳太詩集』より「あとがき」(賀川豊彦・森良夫・高山悦・佐藤功二)

第145回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺11 梅村貞造「高山徳太兄を送る」、高山悦「辿りついて」

第146回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺12 吉田源治郎の幸への特製絵葉書、昭和54年頃の写真、紅山荘で養生の時の写真、紅山荘に於ける密葬

第147回 「吉田源治郎・幸の世界」補遺13 本連載第94回の吉田源治郎により「ハウゲのこども」再掲、源治郎の自筆原稿「ハウゲの伝記」(仮題)の目次、付録「関西学院グリークラブOBら:クレセント・ハーモニー」(朝日新聞2010年1月25日付記事)「甲子園二葉幼稚園 現・旧教職員の会(2007・9・1)」の写真

第148回 「吉田源治郎・幸の世界」付録 賀川豊彦献身100年記念事業実行委員会編『Think Kagawa 共に生きる―賀川豊彦献身100年記念事業の軌跡』(2010年11月1日発行)所収の鳥飼慶陽「仲間 武内勝と吉田源治郎」

         (2010年12月6日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月17日補正)


1-吉田夫妻の写真
吉田源治郎・幸御夫妻

2-星の研究
吉田源治郎の名著

  吉田源治郎先生 召天25周年記念集会用資料
         
    2011年1月30日  於・甲子園二葉教会
    鳥飼慶陽 (神戸・番町出合いの家牧師)

   KAGAWA GALAXY 吉田源治郎の世界を訪ねる

インターネットの「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」で「KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界」を、2010年に第149回の連載を致しました。今回あらためて、2014年に「補正版」をブログ http://keiyousan.blog.fc2.com/ 「賀川豊彦の魅力」でUPして、現在いずれもパソコンで検索してくだされば閲覧可能です。なお「賀川ミュージアム」のHP http://www.core100.net/ でも可能です。

 故郷伊勢・県立第四中学から明治学院、そして京都伏見東教会就任・結婚まで
     連載1回~17回

明治24年10月2日 三重県伊勢宇治山田に生れる。明治40年 宇治山田教会にてヘレフォード宣教師より受洗。
三重県立第四中学から明治学院神学部へ。在学中内村鑑三の主催する「柏木教友会」に所属 。同郷で日曜学校の生徒でもあった間所幸は、賀川ハルと横浜共立女子神学校の同期で寄宿舎も同じであった。
御茶ノ水高等師範学校で学んでいた妹なつゑ急逝。
在学中宗教教育への関心から日曜世界社の西阪保治との出会いあり処女出版『児童説教』を刊行。
大正7年 京都伏見東教会牧師となり、間所幸と結婚。賀川ハルの紋付と西阪のフロックコートを借りて挙式。直ぐ賀川の働く神戸の「葺合新川」訪問が始まる。

  賀川夫妻と源治郎夫妻の間に深い交流が始まる 敗戦まで 
     連載18回~85回

京都伏見東教会での生活は米国留学までの約4年間。天文学者・山本一清との交流もあり「星の研究」にも打ち込む。
主著『肉眼に見える星の研究』出版。
大正9年 日曜世界社編集部に協力して賀川豊彦の『イエス伝の教へ方』を完成。翌10年 賀川の名著『イエスの宗教とその真理』の講義記録を仕上げる。
同年「イエスの友会」創立に加わり名付け親となる。翌大正11年も賀川の講義録『聖書社会学の研究』『人間として見たる使徒パウロ』など完成させ、米国オーボルン神学校へ留学。
大正13年 オーボルン神学校卒業後ユニオン神学校・コロンビア大学などで学び、「労働者伝道」の志を抱き賀川と共に欧州視察旅行を試みる。
帰国後すぐ甲子園近くの久寿川に住み、大阪「四貫島セツルメント」の開拓的な活動を開始。
その後、西宮今津の小泉澄(きよし)邸の隣に居を定める。
留学中シュヴァイツァーの著作と活動に感銘を受け、大正14年 版権を得てシュヴァイツァーの名著『宗教科学より見たる基督教』翻訳出版。
「イエスの友大阪支部」や間所兼次らの「共益社」と呼応しつつ「四貫島セツルメント」活動を本格化させる。
大正15年 賀川豊彦は西宮の瓦木村に拠点を構え、昭和2年 ここを拠点に杉山元治郎と吉田源治郎らで「日本農民福音学校」を開校(15年間継続)。
同年「四貫島セツルメント」に「大阪イエス団教会」(大阪四貫島教会)誕生。
賀川は昭和4年 再び松沢に戻り西宮を離れるが、昭和6年 小説『一粒の麦』の印税などで武庫郡瓦木村高木に農民福音学校寮「一麦寮」完成。昭和7年 年頭より「一麦寮」で「イエスの友冬期福音学校」開催(昭和42年まで)。
「一麦寮」東隣に「ヤへ・シバ館」出来「一麦保育園」発足(主事・吉田源治郎)。埴生操らの「自然を友とする一麦の保育」を積み重ねる。
こうして「四貫島セツルメント」並びに「一麦寮」を拠点とし、開拓的な保育事業や公衆衛生訪問婦活動との連携など強め、併せて旺盛な学術的執筆活動を展開。イエスの友会の指導的役割も担い続ける。
一方、妻の吉田幸は、今津二葉幼稚園の小泉澄(きよし)園長の求めに応え、大正15年 幼稚園の主任教諭となり、以後幼稚園教育一筋の道を歩む。
昭和9年 幼稚園児らと大阪放送局(JOBK)「幼児の時間」に出演、「話のおばさん」として全国放送で親しまれる。
昭和12年 今津二葉幼稚園はイエス団に移管され、吉田幸は2代目の園長に就任。幼稚園では日曜礼拝も開始され、小泉功のメイスン・ハムリン社製のリード・オルガンの演奏など諸集会が続けられる。
昭和14年 「日本基督今津二葉伝道教会」が吉田源治郎を主任牧師として誕生。
昭和20年3月 四貫島セツルメントの全ての建物が大阪空襲により焼失、8月の西宮空襲では今津二葉幼稚園も吉田源治郎の居宅も灰塵に帰す。源治郎は危うくも助かるが母ゆきは8月8日召天。吉田源治郎一家は、戦災を免れた「一麦寮」に避難し敗戦を迎える。吉田源治郎この時、54歳。

 戦後「西宮一麦教会」創立・「今津二葉教会」再建など、賀川召天まで                        連載86回~104回

四貫島セツルメントの再建は小川三男・敬子(源治郎の長女)夫妻に託し、今津二葉教会と幼稚園の再建を期しつつ「農村伝道の研究」を続け、昭和21年 3度の「阿波伝道」を試みる。
昭和22年 「西宮一麦教会」の創立を果たし奈良の「馬見労祷教会」も設立する。「一麦寮」を会場にした正月3日間の関西冬期福音学校や関西夏期聖修会も軌道に乗せる。昭和23年 「豊島農民福音学校」などに足を運ぶ。
昭和24年 「神戸イエス団教会」再建落成、老朽した「ヤへ・シバ館」を建て替え「一麦保育園新築園舎」完成、「四貫島教会・友隣館・保育園」再建落成、「馬見労祷教会・保育園・農村センター」完成。
昭和25年 「イエスの友青年夏期学校」開始。秋にはヴォーリズ設計による「今津二葉教会・今津二葉幼稚園」の再建落成を果たす。家族と共に今津での生活を再開させる。以後今津二葉教会を中心に西宮一麦教会と馬見労祷教会の3教会の礼拝説教を引き受け、教会青年会などの諸活動も活発化。
昭和26年 正月3日間の一麦保育園における恒例の冬期福音学校も300名を越える盛会となり「冬天の星の観察」を講じ「ノルウエーの信徒伝道者ハウゲ」への関心を深める。比叡山での関西夏期聖修会も継続し、奈良伊奈佐村への出張伝道を足場に「伊奈佐労祷伝道所」開設、主任牧師を引き受ける。
昭和27年 一麦保育園での冬期福音学校は「信徒伝道推進開拓伝道総決起」を企画。比叡山での夏期聖修会で「伝道40年物語」を講じる。兵庫教区農村伝道部長としての職務も担う。この年 「聖書少年文庫」企画の1冊『勇ましい士師達』刊行。四貫島セツルメントは教会と共に小川秀一・まさ子夫妻が引継ぎ、その後大きな展開を進める。
昭和28年 一麦保育園での冬期福音学校では「労働者伝道の体験」を、豊島農民福音学校では「イエス伝・兄弟愛史・天文学」を、東山荘での全国大会では「イエスの友30年」を講じる。この年から「ラクーア伝道」に協力。
昭和29年 「四貫島セツルメント開設30周年記念」を期して「四貫島友隣館」再建に取り掛かり昭和30年 献堂式。
昭和31年 全国社会福祉事業大会で表彰。昭和32年 吉田源治郎の提唱で阪神地区諸教会の「イースター早天礼拝」始まる。昭和33年 「自然観察保育セミナー」を紀南労祷学園で開催、「星の観察・フレーベルの自然愛」を講じる。
昭和34年 一麦保育園での冬期福音学校に賀川豊彦の講演があり賀川の講演はこれが最後となる。源治郎はこの年 「開拓伝道(職域伝道・教育及び社会福祉など)の活発な推進」を提言。昭和35年4月23日 賀川豊彦召天。密葬式で吉田源治郎式辞。

  吉田源治郎と幸夫妻の祝福された最晩年             
    連載105回~134回

昭和36年 「イエス団関係者」(西宮・四貫島・神戸・和歌山・四国ほか)の「研修会」が賀川ハル・吉田源治郎・武内勝らを中心に開催。昭和38年 「著者ローガン博士を紹介する」源治郎の一文が収められたローガン著『詩篇霊歌抄』刊行。
昭和39年 神戸に新築された賀川記念館で「関西新春聖修会」開催。7月 「琉球伝道旅行」。この年、町名変更に伴い「今津二葉幼稚園」は「甲子園二葉幼稚園」に名称変更。
昭和40年 西宮一麦教会で関西新春聖修会。四貫島友隣館・大阪四貫島教会・天使保育園創設40周年記念集会で「40年たった時」と題する説教。「北米・加州伝道旅行(パロマ天文台再訪)」。吉田幸、西宮市より教育功労者の表彰。翌41年 文部大臣より教育功労者の表彰を受ける。
昭和42年 「一麦寮」を解体、翌43年 一麦保育園の増改築落成式。一麦保育園園長を退任し、埴生操が園長就任。社会福祉法人イエス団常務理事に就任。吉田幸、再び西宮市より教育功労者の表彰を受ける。
昭和44年 関西新春聖修会(大阪クリスチャンセンター)で「石叫ぶべし」と題する説教。吉田幸、勲五等瑞宝章叙勲。昭和45年 「イエスの友創立50周年・賀川召天10周年記念集会」を奈良多武峯で開催。昭和46年 西宮一麦教会牧師館増改築完成。
昭和47年 西宮一麦教会創立25周年記念礼拝で「生ける神を慕う」と題する説教。「ナザレ会報」(兵庫栄養専門学校聖書研究部)発行。昭和48年 西宮一麦教会『創立25周年を記念して』を、甲子園二葉教会『創立五十周年記念誌』を刊行。『五つのパンと五千人―サモネットの花籠』を宣教献身60年を記念して刊行。
昭和49年 入院療養。昭和50年・60年と西宮一麦教会で新春聖集会開催。昭和52年 『一麦保育園創立45周年記念誌:子供と自然を友として』(埴生操編著)発行。日本キリスト教文化協会よりキリスト教功労者の表彰。西宮一麦教会の主任牧師を退任し名誉牧師就任、森彬牧師が主任牧師就任。
昭和54年 西宮一麦教会主催「吉田源治郎先生・米寿祝賀会」開催。祝賀会で高山徳太「紙芝居:吉田先生の足あと」、後に『昨日も今日もいつ迄も変る事がない吉田先生』制作。『吉田先生と私―米寿記念文集』発行。この年、甲子園二葉幼稚園は「学校法人イエス団」となる。
昭和55年 朝日新聞大阪厚生事業団より社会事業に貢献した先輩に感謝する会で「感謝状」、またイエスの友創立60周年記念大会でも「感謝状」を受ける。西宮一麦教会における最後の説教「待ち望む」、翌昭和56年 今津二葉教会「吉田源治郎牧師引退感謝礼拝」で「神は愛なり」と題する説教。
昭和57年 「一麦保育園創立50周年記念祝典」開催。『一麦のあゆみ―一麦保育園創立50周年記念誌』発行。「日本基督教団引退牧師」に。賀川ハル召天。この年、今津二葉教会は甲子園二葉教会に名称変更。
昭和58年10月 紅山荘(香川県飯山町)で療養に入る。昭和59年1月8日、92歳の生涯を終える。1月9日、紅山荘での密葬の後、1月14日 甲子園二葉教会で告別式。2月12日 西宮一麦教会で追悼会。『追悼―吉田源治郎先生(1891・10・2~1984・1・8)』発行。9月30日、西宮一麦教会の墓地(三田市)で納骨式。
昭和60年 「故吉田源治郎先生召天1周年記念集会」(大阪クリスチャンセンター)開催。「吉田幸先生米寿記念・二葉幼稚園同窓会」大阪ガスビル食堂で開催。この年、埴生操召天。翌61年 吉田幸、甲子園二葉幼稚園園長を退任し名誉園長、吉田洋子園長就任。昭和63年 「賀川豊彦生誕百年記念」の年、西宮一麦教会『四十年の歩み』刊行。
平成元年 「甲子園二葉教会創立50周年記念礼拝」。吉田幸を囲んで「今津二葉幼稚園同窓会」阪急百貨店特別食堂で開催。
平成3年11月21日、吉田幸召天、94歳。22日告別式。甲子園二葉教会『創立五十周年記念誌―1939~1989』発行。平成4年 「吉田幸先生記念会」開催。平成6年2月20日、甲子園二葉教会で「吉田牧師召天10周年記念会」開催。
平成15年 『甲子園二葉幼稚園:八十年史』刊行。

付録:
著書・翻訳・賀川の講演筆記著作・共同で仕上げた賀川講演筆記著作 主な論文・説教・参考資料
著書
『又逢ふ日迄―故吉田なつゑの思い出』(自家製冊子、大正6年、40頁:内村鑑三の吉田なつゑ追悼説教も収める)
『児童説教』(日曜世界社、大正7年、195頁)
『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店、大正11年、380頁余)
大正13年に改版増補され「米国天文台の印象」が新たに入る。また昭和24年には書名は同じであるが、山本一清と共著のかたちで補正を加えて恒星社より刊行。さらに昭和34年には、同じく恒星社より『肉眼天文学―星座とその伝説』と改めて、吉田源治郎著として刊行されている。
『新約外典の話』(聖書物語文庫24巻)(昭陽堂書店、昭和3年、165頁)
『心の成長と宗教教育の研究』(日曜世界社、昭和6年、222頁)(コピー)
『勇ましい士師達』(聖書少年文庫6)(新教出版社、昭和32年、159頁)
『五つのパンと五千人―サモネットの花籠』(コイノニヤ社、1975年、113頁)
ほか

翻訳
アルベルト・シュワイチェル著『宗教科学より見たる基督教』(警醒社書店版、大正14年、137頁)(付録として吉田源治郎の「シュワイチェルの「原生林の片隅にて」を読む」という40頁に及ぶ論文が収められている)

賀川の講演筆記著書
『イエス伝の教へ方・附少年宗教心理』(日曜世界社、大正9年、201頁)
『イエスの宗教とその真理』(警醒社書店、大正10年、264頁)
『聖書社会学の研究』(日曜世界社、大正11年、309頁) 
『人間として見たる使徒パウロ』(警醒社書店、大正11年、254頁)
『神による解放』(警醒社書店、大正15年、221頁)
『キリスト一代記の話』(日曜世界社、昭和2年、115頁)ほか

共同で仕上げた賀川の講演筆記著書
『イエスと人類愛の内容』(警醒社書店、大正12年、285頁)
『イエスと自然の黙示』(警醒社書店、大正12年、247頁)
『残されたる刺―逆境への福音』(日曜世界社、大正15年、102頁)
『暗中隻語』(春秋社、大正15年、411頁)
『人類への宣言』(警醒社書店、昭和3年、511頁)
『殉教の血を承継(うけつ)ぐもの』(日曜世界社、昭和4年、172頁)
ほか

主な論文
三重県立第四中学の時の論文
「音楽と人生」「熊野物語」「精神的飛躍」「我心高原にあり」
『雲の柱』などに寄稿した主な論文
「シュワイチェルの文明哲学」(5回)「アルベルト・シュワイチェル素描」「旧約聖書の社会理想」「旧約聖書に於ける兄弟愛の研究」「キリスト愛の浸潤」「教会博愛事業の歩み」「英国労働党の宗教的背景」「ロンドンに於ける貧民窟破壊運動」「キリスト教社会愛史」「近代基督者の友愛と互助」「産業革命以後の伝道戦術」「信仰復興の史的考察」「神の国運動の組織神学」「『愛餐』の研究」「エリイの基督教社会学素描」「アポクリファに於ける愛の輪郭」「ラウシェンブッシュの基督教社会学素描」「神の国研究」(6回)「基督教社会運動の足跡」「都市伝道研究断片」「キリストと社会」(4回)「セツルメントに於ける指導者並びに共働者の問題」「それは建物ではない―隣保事業と教会運動への一考察」「間所兼次と消費生活協同組合運動」「『教会の仕女』ディアコニス運動の実際」「母性教育についての一考察―成人教育の一面としての」「嬰児教育について―新しき教育学位の創設」「嬰児教育のプログラム―ナースリー・スクールに於ける教育」「将来社会事業としての精神衛生社会事業の任務」「工場地帯を教区として―四貫島セツルメント覚書」「誰が宗教教育をするのか」「ミス・クックのころ」「保育に於ける自然の研究」「ナアセリー・スクール運動を語る」「隣保事業の立場から見て」

説教
「前進する教会」「命の木はまだ残されている」「幸福への招待」「生ける神を慕う」(以上は西宮一麦教会)、「祈りはいかにあるべきか」(甲子園二葉教会)

参考資料
岡本栄一「吉田源治郎先生を中心とした四貫島友隣館の年表」   
  同 「吉田源治郎―妻幸、賀川豊彦との出会い、そして人となりなど」
  同 「四貫島セツルメントの基礎を築く―吉田源治郎の人となりと福祉思想」
尾西康充「みえの文学誌:吉田源治郎」(新聞掲載)

補記
神戸新聞 2011年2月1日 阪神版

3-吉田記念会新聞記事



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KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(148)

   第148回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」附録

1-表紙

2009年は「賀川豊彦献身100年記念」の年にあたることから多彩な記念事業が取り組まれ、上に掲げた著作が過日(2010年11月1日)刊行され、新聞などで紹介されている。

この記録のなかに、記念事業のオフィシャルサイトで「賀川豊彦のお宝発見」(賀川豊彦・ハル夫妻の120通に及ぶ武内勝宛の未公開の書簡並びに武内勝氏所蔵資料などが入った「玉手箱」ふたつ)に加えて、今年の「吉田源治郎・幸の世界」の連載の中間報告を加え、「仲間 武内勝と吉田源治郎」として寄稿させて頂いた。

予定外であるがそれも「附録」として収めて置く。

     (2010年12月6日記す。鳥飼慶陽)(2-14年11月16日補正)

2-文章1

3-文章2

4-文章3

5-文章4

6-文章5

7-文章6

8-文章7

9-ブログ

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(147)

   第147回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(13)

今回で愈々「補遺」も最終回である。前回末尾で予告の通り、吉田源治郎が書き残していた「ノルウェーの信徒説教者ハンス・ニールセン・ハウゲ」の伝記草稿について触れて置かねばならない。

大部な草稿の存在は、前に聞いてはいたが、この最後の「補遺」を綴る段階になって、400字原稿用紙で約320枚を越える自筆原稿を、吉田摂氏よりお預かりしたのである。

袋を開いて見ると、本連載第94回に於いて「百姓伝道者ハウゲ」のことが、吉田源治郎によって紹介されているが、その「ハウゲ」の伝記のようである。

この草稿にはタイトルが書かれていない。ハウゲの生涯を扱った著作を翻訳したものなのか、それとも吉田源治郎自身の著作なのかも判らない。1頁目は、次のような書き出しになっている。全体にわたって推敲が行われているが、未完成のものである。

1-原稿1

第94回(「昭和26年の吉田源治郎と幸」)を再読して見ると、昭和26年正月、350名を越える大盛況となった関西冬期福音学校(一麦保育園で開催)の2日目に、「北欧の信徒伝道」という講演が行われている。

その時の記事では「ノルウェー・ルーテル・ミッションのガブリエル・アイクリー宣教師(吉田源治郎氏通訳)が「北欧の信徒伝道」と題して「ノルウェーのセイント」として知られる百姓伝道者ハンス・ニルセン・ハウゲ(1771~1824)を語り、ハウゲは当時、国教会(ルーテル派)の禁を犯して教職でないのに伝道するというかどで投獄監禁10回に及んだが遂に、2千人の信徒伝道者を有する「クリスチャン(信徒)のノルウェー」を生み出した歴史を詳説し、多くの感動を与えた」とある。

そこには、吉田源治郎の「ハウゲのこども」という短い文章が、農民に説教をするハウゲの絵も入れて収めているので、ここにこれも再掲して置く。

2-ハウげの子供

3-つづき

吉田源治郎の上の記事によれば、この頃神戸ですでにノルウェー式の信徒伝道者養成の学校「ルーテル聖書学院」が開校されており、いま「神戸ルーテル神学校」のホームページを見ると、現在もその働きは継続されているようで、今回の「ハウゲ」とは関係は無いであろうが、新約学助教授に「B・ハウゲ」という先生の名前が見られる。また、この神学校の図書室の蔵書を検索してみると、ここにはソルクス・マグヌス著・多久和朱美訳『信徒伝道者ハウゲの生涯』という著書も所蔵してあるようである。

ともあれ、吉田源治郎が原稿用紙320枚余りもの草稿を残している事は、ここに明記しておかねばならない。とりあえずここでは、草稿の全体構成を知る意味で、原稿から小見出しの部分までを抜き出して、並べて見ることにする。


       百姓伝道者ハウゲの伝記(仮題)

    第1部 ノルウェーの農民の子
 
      第1章 その当時のノルウェー  1771~1796
      第2章 ノルウェーのハウゲ
           チューネにおける少年時代    ハウゲの宗教的遺産
           良心の声             汝は汝の主なる神を愛すべし
           ハウゲのノルウェー       都市の資本主義
           農村の独立の後退        都市対田舎の対立
           文化面での対照         宗教的勢力

    第2部 ノルウェーのリバイバル説教者

      第4章 ハウゲの伝道始まる 1796~1800
           文書伝道と説教         法律―文字と霊と
           1797年―闘争と入獄     フレデリックスタドで捕縛
           釈放と推薦            文書による証言
           道を指し示す           再逮捕
           ペン、再び怒る          長期伝道旅行の始め
           ベルゲルで            ベルゲンにおけるハウゲ
           クリスチャンサンドからエーケルへ
      第5章 信仰復活運動 
           1799年のこと         認められはじめる
           ラルス ハムスタッドをめぐって トルレフ バーチェ の活動
           マレン ボエスについて     迫害・そしてそれは何の為だったか?
           放浪癖について         ニイルス リイスについて
           ミッケル グランダール     トロ二ハイムでの出版
           ハウゲとへムスタド       トロニハイムにおける受難
           釈放後の南部への旅       家族のひとりの死
      第6章 平信徒運動は確立された 1800~1801
           デンマークへの初旅       逸脱をチェックする
           EKCRの製紙工場        ハウゲとKLOKKER
           ハウゲと踊った人たち      ベルゲン市の市民権獲得
      第7章 運動は発展をつづけた 1801~1804
           漁師達と共に暮らしたひと冬   エエルへ、そして帰郷
           極北地帯への旅         スキーでサルトダレンへ
           ラップ人とともに         旅程完了
           1803年の秋 FENNEFOSSで
           1804年 クリスチャンサイドで
           ベルゲンへ そして商売を
      第8章 自由の身もあと幾月 1804年7月から10月まで
           監督 ぺーテル ハンセン    その他の文書による攻撃
           北辺からの報告         再びデンマークへ
      第9章 ハウゲ逮捕される 1804年10月24日    

    第3部 ノルウェーの囚人 1804~1814

      第10章 なぜハウゲは迫害されてか?
      第11章 官僚式方式
           監禁             1804年11月22日
           宣告             遅遠
           訊問        質問事項と訊問
           控訴は棄却された      戦争そして封鎖
           政府委員の訴え       ハウゲは釈放され製塩業に従事した
           調査委員は裁判官を任命した デンマークの政策
           訊問の続行         判決言い渡さる
           ハウゲは控訴した      最後の判決
           獄中生活の苦悩
      第12章 (欠ける)
      第13章 友らはその日を待ち望んで祈った
           暗黒の中の光

    第4部 ノルウェーの教父 1814~1824

      第14章 Bakkeに住む自由人
           ハウゲの富         1814年のクリスマスの手紙
           結婚と家庭生活
      第15章 Bred―vet 1817~1824
           いろりとホーム       模範的農場
           宗教活動の本部      ハウゲが出獄後に書いた著書
      第16章 ハウゲ派の核心
           回心             生ける信仰
           聖化             律法主義とは
           もう一つの俗念      個人の救い
           警戒             福音主義
      第17章 ハウゲ派と教会
  
最後に付録をふたつ:「新聞記事」と「二葉幼稚園の現・旧教職員の会」の写真 

一つは、最新の「新聞記事」である。

甲子園二葉教会礼拝堂で毎週土曜日、関西学院グリークラブOBらの男声合唱団「クレセント・ハーモニー」が練習している大きな記事が、2010年11月25日付朝日新聞に掲載された。吉田摂氏もメンバーのひとりであるが、戦後、吉田源治郎一家が一麦寮で暮らしておられた頃、一麦寮とその周辺は歌の練習に好適の場所でもあり、メンバー達は度々集まり、母がお茶など出して歓待されたお話や、教会の諸行事にもメンバー達が参加してきたお話は、よくお聞きしていた。

4-附録1朝日新聞

そしてもうひとつは、次頁の「甲子園二葉幼稚園の現・旧教職員の会」の写真である。2007年9月1日、現在の幼稚園の園庭で写されている。摂氏の撮影だそうである。

5-附録2幼稚園教師

全く予測の立たない連載でスタートし、毎回の項目も簡単な表題を掲げて進めたために統一性を欠くものになっている。しかも今回は「資料紹介」に徹する事を心がけたために、ご覧のような「粗雑な資料集」となっている。何しろ知らなかった事ばかりで、目を白黒させながら、毎回ワクワクしながら綴らせて頂いた。

この大量の「吉田源治郎・幸の世界」の資料集を、時折取り出してご覧頂いたり、研究的に参照頂く場合のために、最後に簡単な「目次」のようなものを準備して置きたいと思う。毎回の内容をそれで見届ける事ができれば、少しは便利ではないかと思うので、早速その作業に取り掛かる。

      (2010年12月5日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月15日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(146)

   第146回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(12)

 「補遺12」では、この度新たに吉田摂氏からお預かりした写真などを、取り出して置きたい。

1-はがき宛名

2-絵はがき

このような特製の絵葉書は既に1枚、吉田源治郎が、入院中の幸に宛てて送ったものを取り出したことがある。
上の絵葉書は昭和42(1967)年11月16日付で、文面は「いつか旅した日光の思い出語る陽明門! 一日ぢっと眺めてもあくこと知らぬ陽明門 いかがですか?」と書かれている。

3-元旦礼拝のあと

4-教会全員で

上の2枚の写真は、昭和54(1979)年の元旦礼拝の時のもの。

下もほぼ同じ頃のものであろうか。いずれも、西宮一麦教会に於けるもの。

5-同じく白黒写真

昭和58(1983)年、「紅山荘」で養生されているときの写真2枚

6-養生の時

7-養生の時2

紅山荘での密葬 1984・1・9

8-密葬次第

9-密葬の時の写真

10-密葬の時の写真2

吉田源治郎先生永眠1周年記念集会(1985・1・8)

11-一周年記念集会

ところでこの度、今回紹介できた写真に加えて、吉田源治郎の未刊行の原稿をお預かりした。それは400字原稿用紙約300枚の自筆原稿である!
よく見ると連載第94回で源治郎が取り上げている「ノルウェーの信徒説教者ハンス・ニールセン・ハウゲ」の伝記のようである。「補遺」の最後に、それを取り出して置きたい。
   
    (2010年12月4日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月14日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(145)

   第145回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(11)

前回の最後には「補遺」の続きに、先日吉田摂氏よりお預かりした資料を2回に分けて掲載する予告をしていたが、前々回と前回とで『高山徳太詩集:花のように』を紹介したことに関連し、本日(2010年12月2日)一麦保育園顧問・梅村貞造氏より、「高山徳太兄を送る」という新たな文章をFAXでお受けした。
 
この文章は、2007年11月22日に書かれた高山徳太氏の追悼文で、西宮一麦教会の機関誌『いちばく』に収録されているものである。早速であるがこの機会に、ここに収めさせて頂きたいと思う。

そしてこの文章の中に出てくる『一麦保育園創立45周年記念誌:子供と自然を友として』に収められている高山徳太氏の母・高山悦氏の「辿りついて」も、関連資料として重要であるので、それも今回取り出して置きたい。

1-本文文章1

2-文章2

3-文章3

5-文章5

4-文章4

6-文章6

7-文章7

8-文章8

9-文章9

10-文章10

11-文章11

12-文章12

13-文章13

14-文章14

15-文章15

「補遺」の残りもあと2回分となった。今年も師走を迎え「神戸ルミナリエ」の光も点灯された。 

     (2010年12月3日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月13日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(144)

   第144回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(10)

今回は『高山徳太詩集:花のように』の続きである。下は本書の扉であるが、「あとがき」に収められている賀川豊彦や小学校の教師、そして母親や新聞記者の言葉を取り出して置きたい。

1-表紙

2-詩1

3-文章1

4-文章2

5-文章3

6-文章4

7-文章5

8-文章6

9-文章7

10-文集8

11-文章9

12-文章10

13-文章11

14-文章12

15-文章13

16-文章14

17-文章15

18-文章16

19-文章17

20-文章18

21-文章19

22-文章20

23-文章21

24-文章22

25-文章23

26-文章24裏表紙

 「補遺」はここまでの予定であったが、吉田摂氏から新たに預かったものがあるので、あと2回続けて見たい。        
     (2010年12月2日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月12日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(143)

   第143回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(9)

「補遺9」は、連載で何度か登場した西宮一麦教会の高山徳太が、当時小学生の時に作った作品が、『高山徳太詩集:花のように』という著書として出版されていたことが分かり、最近それを入手することができた。

1-表紙

手にとってこれを読み、改めて徳太君の詩に驚くと共に、これを京都の世界文学社が立派な詩集として編集し、昭和23年8月に世に送り出した事の経緯もよく理解出来た。

今回は、この高山徳太詩集の中から、幾つかの作品を紹介し、次回の「補遺10」として、詩集の「あとがき」にある賀川豊彦や徳太の母、そして徳太の通う小学校の教師や最初新聞に紹介した記者の言葉が収められているので、それを入れて置きたいと思う。

以下、詩作品を切り抜いて、それをここに詰め込んでいる事をお許し頂きたい。

2-本文1

3-本文2

4-本文3

5-本文4

6-本文5

7-本文6

8-本文7

9-本文8

10-本文9

11-本文10

12-本文11

13-本文12

14-本文13

15-本文14

16-本文15

以上は、『高山徳太詩集』の中の一部を抜粋したものである。
次回は詩集の「あとがき」に記されているものを収める。
          
     (2010年12月1日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月11日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(142)

  第142回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(8)

今回の「補遺8」は、この連載の初めに紹介した大阪ボランティア協会の岡本栄一理事長が最近、大阪の福祉を知るみんなの情報誌「ウェルおおさか」の57号~59号(2010年8月~10月)に「四貫島セツルメントの基礎を築く―吉田源治郎の人となりと福祉思想」を連載されており、それを収める。

過日(2010年11月20日)神戸の賀川記念館に於いて開かれた「総合研究所連続研究会」で、岡本氏は「公共福祉論の視点から「“なぎさ”論を考える」という興味深い報告をされた。その折りにこの連載でのアップを了承頂いた。少し文字は小さくなるが、次頁以下に3回分を掲載誌のまま取り出すことにする。

1-資料1

2-資料2

33-資料

次回は「補遺9」として、連載で何度か登場した高山徳太の小学生の時につくった作品が、昭和23年8月に世界文学社より『高山徳太詩集:花のように』として出版していたことが分かり、最近その詩集を入手することが出来た。その作品を2回に分けて紹介して置く予定である。
    
     (2010年11月30日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月10日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(141)

   第141回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(7)

今回の「補遺7」は、先日(2010年11月17日)一麦保育園の梅村貞造氏よりお送りいただいた資料を紹介して置きたい。梅村氏の添え書きには、「これは数年前、東京の松沢資料館に行った時に、杉浦学芸員からコピーを頂いてきたものです」と記されているので、原資料は松沢資料館に所蔵されている。

資料はいずれも昭和25(1950)年頃のもので、吉田源治郎が深く関係してきた奈良県の馬見、大阪の四貫島、そして西宮の一麦と今津二葉関係の資料である。

 資料1 奈良県馬見労祷関係

これは、「西宮市高木南芝・一麦保育園」の吉田源治郎が、この時、ロンドンにいた賀川豊彦に宛てて送られた葉書(航空郵便)である、昭和25(1950)年4(?)月18日」の消印がある。「馬見労祷学園」の盛況ぶりが報じられている。

1-賀川宛ハガキ1

2-ハガキ2

吉田源治郎の独特の筆跡は、多くの人の語りぐさにもなるほど名高いものであるが、ご覧の通り、これはまだ誰にでも判読可能なものである。賀川豊彦ももちろん容易に読みこなしている。どうぞゆっくりと御判読あれ。

賀川豊彦は、昭和24(1949)年12月より翌25(1950)年12月までのほぼ1年間、戦後初めての「世界宣教」の旅に出かけていた。その旅の詳細なレポートは、賀川自ら旅先から日本に配信しており、横山春一の『賀川豊彦伝』の増補版(警醒社版)や『人物書誌大系37』の「年譜」でも詳しく扱われている。

 資料2 昭和25(1950)年9月の「ジェーン台風」被害関連

上記の通り、賀川の日本不在の時、近畿地方には9月3日に直撃した「ジェーン台風」で、大阪の四貫島も西宮の一麦も大きな被害を受けているが、その時の修繕費の見積もりなどを、この時欧州から米国に移動していた賀川に、速達便を出したようである。

郵便の消印は判り難いが、本文は「1950年9月27日」となり、差出人は「一麦保育園」で、吉田源治郎と埴生操の連名となっている。

なおこれは、文面のはじめには「賀川夫人にも送りせしもののコピー」と書かれている。こうした支出に関しては、賀川自身がその都度判断し、実際の支出は賀川ハルが処理していたようである。

3-台風はがき1

4-ハガキ2

5-はがき3

吉田幸の賀川豊彦への書簡(9月27日夜)

6-幸の手紙1

7-手紙2

戦後再開を果たした今津二葉教会の献堂式(10月1日)の事、台風の甚大な被害を受けて一麦寮に避難してきた四貫島教会の小川三男牧師の家族も、吉田一家と同居してみな元気で過ごしいる事、などの近況報告の後に、教会と幼稚園の再開に関わる諸費用などに関して、詳しく綴られている。

幸夫人の書簡は、筆使いも源治郎とは一味違う感じがする。この書簡は、前の航空便と時を同じくしているので、同封されていたのかも知れないが、どうであろうか。

  設計関連の資料

  吉田幸と源治郎より賀川豊彦への「ヴォーリズ設計図」と書簡(9月27日)

8-設計図

上の設計図は、「今津二葉教会の牧師館」として、一柳(ひとつやなぎ)建築事務所(ヴォーリズ建築事務所)が、1950年9月17日に製作したものである。

既述の通り、昭和25(1950)年10月1日に献堂式を挙げ、戦後の再開を果たした会堂(幼稚園舎)もヴォーリズ氏の設計になるものであった。

下の写真は、中央が会堂(幼稚園)で、左の2階建てが新たに設計されて昭和26(1951)年7月1日に完成した「職員住宅」ではないかと思われる。

9-完成写真

これの設計が出来上がり、吉田幸が賀川に教示を伺ったのが、次の短い文章である。そして同じ書簡の中で、源治郎が説明を加え、さらに別の四貫島の登記関係の説明と小川牧師一家の消息などが書かれている。幸の日付は前の書簡の日付(9月27日)と同じであるが、源治郎の日付は9月28日で、「今津へうつる日」とある。この日を以て、戦災の避難生活となった一麦寮での生活にピリオドをつけ、吉田源治郎と幸の活動本拠は今津に移る事になる。この時の書簡が次のものである。

10-今津に移る時の書簡

11-書簡2

12-書簡3

13-書簡4

さて「補遺」もあと少々となった。
次回の「補遺8」は、この連載の初めに紹介した大阪ボランティア協会理事長の岡本栄一氏が、大阪の福祉を知るみんなの情報誌「ウェルおおさか」57号~59号(2010年月=10月)に「四貫島セツルメントの基礎を築く―吉田源治郎の人となりと福祉思想」を連載されていたので、ここに紹介して置きたいと思う。

過日(2010年11月20日)神戸の賀川記念館に於いて開かれている「総合研究所連続研究会」の折り、ここでのアップを岡本氏より了解をいただいた。なお、昨日(11月28日)、吉田摂氏より新たな資料を少しお預かりしたので、その一部も「補遺」に入れて終わりたい。
            
      (2010年11月29日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月9日補正)





KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(140)

   第140回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(6)

今回の「補遺6」には、戦前の「今津二葉幼稚園」と「今津二葉教会」に深く関係を持った「小泉功」が書き残していた貴重な論考がひとつ残されていたので、ここに収めて置きたい。掲載誌と発表年はいずれも不祥である。

1-はじめに文書1

2-文章2

3-文章3

4-文章4

5-文章5

6-文章6

次回の「補遺7」は、先日(2010年11月17日)一麦保育園の梅村先生からお送りいただいた資料を紹介して置きたい。
     
      (2010年11月28日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月8日補正)




KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(139)

   第139回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(5) 

今回の「補遺5」では、吉田源治郎も関わりを持った「ラクーア伝道」関連の資料を収める。
最初に過日(2010年11月)吉田摂氏から預かったキリスト新聞社発行の資料(部分抜粋)、そして花盛勲一氏の「山田忠藏―ラクーア伝道の功労者」、そして最後に梅村貞造氏の若き日のアルバムより数枚の写真を入れさせて頂く。

1-本文4行目あとに表紙

2-うづく写真

3-つづく3

4-つづく4

5-つづく5

6-山田1

7-山田2

8-山田3

  梅村貞造氏のアルバムより(ラクーア伝道関係)

9-梅村アルバム1
ラクーア音楽伝道団 西宮伝道集会 1956年9月3日 西宮公同教会前広場 
       
10-会衆300人の下に写真
 阪神地区各教会連合 会衆300名

 付録:梅村貞造氏アルバムより

11-梅村アルバム梅村と吉田
昭和28年頃 吉田源治郎(右)と梅村貞造(左)

12-昭和27年頃の写真
昭和27年頃 西宮一麦教会

13-昭和30年礼拝
昭和30年新年礼拝 西宮一麦教会

尚、過日一麦保育園に於いて、学生時代にラクーア伝道の通訳を務められた松村時男氏より、「元・日高センター駐在伝道者:内田伊佐雄牧師」の「ラクーア伝道、私の場合」という未完の論考のコピーを頂いている。吉田源治郎との関係も深い方のようであるが、近くこの論文は完成されて、「ラクーア伝道の検証」と共に吉田源治郎のそこでの働きも明らかにされていくものと思われる。

そして残された資料の中に、昭和36年頃の「クルセード」という機関紙に寄稿した吉田源治郎の短い二つの文章があるので、これもここに収めて置く。

14-クルーセード文章1

加えて、写真をもう1枚、昭和39年4月8日~10日、聖和女子短期大学に於いて開かれた「近畿地区アシュラム」に出席した吉田源治郎の姿がある。

15-近畿地区アシュラ無

次回の「補遺6」には、戦前の「今津二葉幼稚園」と「今津二葉教会」に深く関係を持った「小泉功」が書き残していた貴重な論考がひとつ残されていたので、それを収めて置きたい。
   
     (2010年11月27日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月7日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(138)

   第138回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(4)
    
1-タイトルの下に手紙

2-つづく書簡

ご覧のように今回の「補遺4」では冒頭に、賀川豊彦が吉田源治郎に宛てて、1950年12月5日に「祝クリスマス」の書き出しで送ったAIR LETTERを収めた。

源治郎は、「火の柱」に寄稿したのか、この手紙を取り上げた「サモネット」の原稿が残されていた。以下、その原稿と共に数編の「サモネット」の原稿を収める。

3-サモネット文章1

4-文章2

5-文章3

6-文章4

7-文章5

8-文章6

9-文章7

10-文章8

11-文章9

12-文章10パントマイム

13-文章11

14-文章12

15-文章13

16-文章14

17-文章15

18-文章16

19-文章17

次回の「補遺5」では、連載の中で少し触れている「ラクーア伝道」に関連する資料を収めて置く。
     
      (2010年11月26日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月6日補正)



# KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(137)

   第137回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(3) 

今回は、連載途中に預かった「今津二葉教会週報スクラップ」1950年~1952年)の中から取り出して置く。
今津二葉教会が戦後再開されるのは昭和25(1950)年10月である。吉田源治郎はこの時も途切れることなく「農村伝道」への意欲を燃やし続けている。この時、ローガン博士や賀川豊彦の講演なども続いている。

1-本文に農村伝道週報

2-週報

3-週報2

下記の文章は、前頁と見開きのものである。

4-「下記の週報」の下に週報

吉田源治郎の「信仰通信」が数回「週報」に貼られている。「第1信」は見当たらないが、昭和26年3月~4月にかけて「第5信」までがある。

5-信仰通信1

6-信仰通信2

7-信仰通信3

8-信仰通信4

9-文書5

今津二葉教会の昭和26年5月13日「母の日」

10-母の日

昭和26年11月11日の今津二葉教会週報付録

11-週報附録

昭和26年11月25日の今津二葉教会「農村伝道週間礼拝」

12-農村伝道礼拝

昭和26年12月9日・16日の今津二葉教会週報
ヨブ記説教と星座解説 賀川豊彦講演 難民救援 クリスマス・福音学校案内 

13-昭和26年週報

次回の「補遺4」では、1950年12月5日付けの賀川豊彦から送られた吉田源治郎宛のAIR LETTERと源治郎の「サモネット」を収める。
     
       (2010年11月25日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月4日補正)


KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(136)

1-写真

   第136回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(2)

今回の「補遺2」では、前回「悔いなき夫婦」を執筆した小川敬子氏の「手記」と源治郎の米国留学の頃の「写真」などを収める。
一部再掲のものもあるかも知れないが、上の写真は、大正11(1922)年4月に写されたもので、中央が吉田幸、抱かれている子供が2歳5ヶ月の敬子、右は幸の母・間所志免(しめ)、左は源治郎の母・吉田ゆき

次より3枚、年代順に写真を収める。

2-一枚目
大正12(1923)年1月 中央は間所兼次 右は吉田ゆき その前の子供は敬子(3歳2ヶ月)
左は吉田幸 その前の幼子は源治郎の留学中に夭逝した長男・義亜

3-二枚目ゆき70歳
上の写真はその後の昭和13(1938)年のもの 吉田ゆき70歳の祝い(満68歳)甲子園ホテル庭
左から吉田幸、西山志か、吉田ゆき(前)、丸岡あい、子どもは摂、その右は敬子、後は増田みね

4-三枚目四貫島
上の写真は、昭和20(1945)年正月、四貫島春日出町の写真館にて。
写真右から、小川敬子、吉田摂、吉田幸、間所基、西山千代子、吉田恵、天地晶子

3月の空襲で焼け出される。戦争中の為、親が疎開した子供を預かっていた。天地晶子さんは甲子園の家で、間所基は四貫島で中学校、動員で工場へ。西山千代子さんは天使保育園で働いていた。節子も小学校の先生をして四貫島から通っていた。

5-文章1

6-文章2

7-文章3

8-文章4

9-文章5

10-文章6

11-さらに文章7

12-さらに文章8

13-さらに文章9

14-文章10

15-文章11

16-文章12

17-文章13

18-写真丸岡

上の写真は、過日吉田摂氏であったか尾西先生であったか、お預かりしたもので、吉田源治郎と幸の故郷、伊勢の「御師丸岡太夫邸へ通じる・・」を刻む石柱である。詳細は連載で触れた関連の箇所を参照いただくとして、ここに収めて置く。

もう一つ預かった資料の中に、小川敬子氏が幼い頃から親しかった賀川純基氏が、生前に敬子氏に預けた紙袋もあった。紙袋の表書きには「賀川純基氏より小川敬子預かる」とある。

その中には、純基氏が1998年に書かれた「私は年を取った」「わたしの命が天に移されるとき」、1999年の「物と心 法律と精神」といった最晩年の手記が含まれている。そして、純基氏の最後の著作『礼拝って何?―聖書・歌・そして祈り』(キリスト新聞社、1998年)も入っていた。

またこの中には、純基氏の大きなお仕事に関わる一文で、15頁に及ぶ「未完」と記されている「写譜という仕事」という論考もあり、あの有名な指揮者・岩城宏之氏が『週刊金曜日』の1999年11月~12月に連載した「楽(がく)のとき―裏方のおけいこ」で「日本一の写譜家は賀川純基である」ことを、驚きの目で綴った掲載誌のコピーなども含まれている。既に広く知られているものもあると思われるが、いずれそれらはふさわしい場所を得て紹介されていく筈である。 

そしてこの連載の中でも触れ、その中から一部を取り出したことのある、小川敬子氏の美しいエッセイ集『憩いのみぎわ』が、最近少し書き加えられ、新しい版として出版されたようである。この作品は、ご両親:吉田源治郎と幸への追悼として捧げられた作品で、1992年11月に初版が作られている。

次回「補遺3」は、先般、吉田摂氏より、甲子園二葉教会の週報を貼り付けた「スクラップ・ブック―1950年10月8日~1952年6月29日―」をお預かりしたので、その中から幾つかのものを取り出して置きたい。
     
     (2010年11月24日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月3日補正)



KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(135)

1-表紙

   第135回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」補遺(1)

上の2冊の書物、右は、社団法人・キリスト教保育連盟が1988年3月に発行した『続・キリスト教保育に捧げた人々』、左は、大阪の民間社会事業の先輩に感謝する会が1997年10月に発行した『大阪の社会福祉を拓いた人たち』である。
 
前書には、「一麦保育園長」として「吉田源治郎」を、そして「甲子園二葉幼稚園長」として「吉田幸」が取り上げられ、いずれも吉田洋子氏が執筆している。1988年に纏められているので、吉田源治郎は既に生涯を終えているが、吉田幸は存命の時である。

後書には、「吉田源治郎・幸」のことを「悔いなき夫婦」と題して、小川敬子氏が執筆している。1997年のものであるから、源治郎・幸共に没後となってから纏められたものである。

2-文章1

3-文章2

4-文章3

5-文章4

6-文章5

7-文章6

8-文章7

9-文章8

10-文章9

11-文章10

今回の「補遺1」の最後に、緒方彰氏が『賀川豊彦の心と祈りに生きた人々』(イエスの友会、2004年)の「吉田源治郎」のところを執筆しているので、それをここに収めて置く。

12-緒方1

13-緒方2

14-文章3

15-文章4

16-緒方5

17-緒方6

18-緒方7

次回の「補遺2」では、先の「悔いなき夫婦」を執筆した小川敬子氏の手記などを収めて置きたい。
     
    (2010年11月23日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月2日補正)

KAGAWA GALAXY 吉田源治郎・幸の世界(134)

1-写真
    晩年のご夫妻

   第134回 「吉田源治郎・吉田幸の世界」最終回

愈々、今回が連載の最終回である。上の写真は、最終回のために残しておいたもので、平成15(2003)年に発行された『甲子園二葉幼稚園・八十年史』に収められているものである。撮影年など不祥であるが、晩年のご夫妻を上手く写し取った見事な一枚である。

ところで、吉田幸の没後1年、平成4(1992)年11月20日に「吉田幸先生記念会」が開かれており、それに出席した田中芳子氏が、吉田摂・洋子夫妻宛てに送られた書簡があるので、先ずそれを以下に紹介させて頂く。

2-手紙1

3-手紙2

4-手紙3

平成6年2月20日には、甲子園二葉教会に於いて「吉田牧師召天10周年記念会」が開かれているが、この最終回では「西宮一麦教会・一麦保育園」「甲子園二葉教会・甲子園二葉幼稚園」「四貫島友隣館」に関連する、その後の事を短く触れて置きたい。

   甲子園二葉教会・甲子園二葉幼稚園

吉田幸の存命中の懸案のひとつに、騒音や排気ガスなどの環境悪化が進んだことで、甲子園二葉幼稚園と教会の移転場所探しという、大きな課題がった。これは、多くの壁をクリアし、平成6(1994)年10月5日には竣工式を迎えており、その後、平成15(2003)年12月2日には、甲子園二葉幼稚園創立80周年記念を迎えた節目には、記念誌『八十年史』が編纂されている。

5-エハガキ

6-エハガキ2幼稚園

7-エハガキ3樹木
甲子園高潮町の「旧園舎とお別れの会記念の絵葉書」の写真
    左・入口    中・懐かしい大きな楠   右・正門

8-エハガキ4庭
  西宮市甲子園三保町に完成した甲子園二葉幼稚園・教会

  西宮一麦教会・一麦保育園

創立51周年記念礼拝が執り行われた平成10(1998)年3月15日に『西宮一麦教会・五十年の歩み』が発行されている。この中から、吉田源治郎の説教と写真、そして「五十年の歩み」の部分の記述は既に掲載済みであるが、平成7(1995)年5月と6月には保育園舎の竣工式並びに教会の献堂式が行われおり、この新しい教会堂の写真は『五十年の歩み』に収められているので、前の頁に収めた。また、平成9(1997)年12月21日のクリスマス礼拝の後で写された写真もこの記念誌あるので、ここに取り出して置きたい。

平成14年6月1日には「一麦保育園創立70周年記念式」があり「おさなごの碑」も完成。室は現在の一麦保育園(ホームページの写真より)

9-エハガキ5一麦協会

10-写真クリスマス

11-保育園写真

  四貫島友隣館・大阪四貫島教会・天使保育園・天使保育園北分館
  ・天使ベビーセンター・(特養)ガーデン天使


12-輝け命表紙

既述の通り、吉田源治郎が大正14(1925)年より打ち込んできた「四貫島セツルメント」は、戦災による壊滅的な事態を乗り越え、現在大きな働き飛躍を遂げている。平成17(2005)年9月、創立80周年を記念して編まれた記念誌『輝け、命』についても連載の中で多くを参照してきたが、ここにはその中の写真の部分と、本年(2010年)11月30日に四貫島友隣館が刊行した大著:小倉襄二著『流域―戦後社会福祉状況をめぐる断章』(高菅出版、620頁)に収められている四貫島友隣館長・小川佐和子氏の文章を掲載させて頂く。

13-四貫島写真

14-四貫島写真2

15-四貫島写真3

次の小川佐和子氏の一文は、本年11月刊行の小倉襄二著『流域―社会福祉と生活設計』(高菅出版)の巻末に収められたものである。機関紙「流域」に長期連載されたもので、「戦後社会福祉状況をめぐる断章」と副題がある620頁に及ぶ上製の大著である。

16-文章1

17-文章2

18-文章3

19-文章4

次の作品は、吉田源治郎牧師への深い信頼と尊敬を持ち続けてきた小林繁という一信徒の方が、平成16(2004)年9月20日に書き記したものである。末尾には、尾西康充氏(三重大学教授)の「まとめ」が付けられている。これは、尾西氏を囲んだ「吉田源治郎を語る会」のような集いの後の資料のひとつかも知れないが、確かめていない。

20-小林1

21-小林2

本年(2010年)5月1日から始めたこの連載「吉田源治郎・幸の世界」は、本日は11月22日であるから、何と7ヶ月近くの長期にわたり、回数も134回にまで延びてしまった。2000枚以上になるようである。

連載のはじめに記したように、このご夫妻のことはほんの少しの事しか存じ上げなかったにもかかわらず、不思議なご縁で、関係資料の蒐集と保存をしてこられた吉田摂氏と梅村貞造氏から、大切な資料をどっさりと託されるハメとなり、取り敢えず年代を追って資料を覗きはじめたのが、事の始まりであった。

昨年は、賀川豊彦・ハル夫妻から武内勝に届けられた120通ほど書簡を含む「武内勝関係資料」を武内祐一氏から託され、「賀川豊彦献身100年記念事業オフィシャルサイト」を立ち上げておられた伴武澄氏のお勧めで、それらの貴重な資料の「お宝」を、「賀川豊彦のお宝発見」と題して、94回にわたり特別にアップして頂いた。

かてて加えて今回も、昨年に引き続き、伴武澄氏の特別のサポートをお受けして、結局ここまで来てしまった。伴氏の変わらぬ激励と友情なしには、特にこの作業は始まらなかった事である。

この間、ほぼ毎日の日課のように、仕上げては伴氏の元へお届けし、その後に神戸の「賀川ミュージアム」の山田洋一氏、そして吉田摂氏並びに梅村貞造氏ほか数名の方々に送信もしくは郵送して来た。

神戸の「賀川ミュージアム」では、本年春にグランドオープンされてからは、資料閲覧室のパソコン上で、昨年の「武内勝関係資料」と共に今回の「吉田源治郎・幸の世界」も、来館者がそれらを自由に見ることのできるサービスもして頂いており、それも大いに励みとなった。

今回の粗雑な資料整理をお届けする度ごとに、電話やメール便で激励やら字句の補正やら、わざわざ閲読の上、的を射た丁寧なコメントやらをお受けして来た。昨年と同様に疲れのない楽しい作業に打ち込むことが出来、大変得難い経験となった。ここに心からの感謝の意を表しておきたい。

今回の作業は保存されていた資料を整える事で「吉田源治郎と幸の世界」を大雑把にでも浮き彫りにして置くこと主眼として、専ら資料整理に徹してきたつもりであるが、本文でも触れたように、まだまだ多くの資料が埋もれている筈である。今後もそれらの発掘収集が求められると共に、吉田源治郎と幸が、多くの同労者たちと共に手がけてきた仕事への、各分野にわたる新たな研究的な広がりと深まりが、今回の資料公開を契機にして新しく生まれてくることを期待している。

これまで「吉田源治郎」に注目して研究的に関わってこられたお二人の方――大阪に於ける福祉分野のご専門で大阪ボランティア協会理事長の岡本栄一氏と「三重の文学」との関連で早くから吉田源治郎の中学時代の資料蒐集にも手がけてこられた三重大学の尾西康充氏――の道案内があった事も、大いに助けになった。連載の途中に両氏ともにお会いして直接に話を聴けた事なども得難い事であった。

昨年の「武内勝所蔵資料」の連載では、多くの方々との思いがけない新たな出会いと対話を経験させて頂くという「余録」があったが、今回も一層豊かな「予期せぬ余録」が備えられるのも、真に不思議な事である。

尚、今回の連載では、所蔵資料の中から出版物も含めて数多くの作品や書簡などを多く取り出して紹介させて頂いている。本来いずれの場合も、必要な許可を得た上での掲載が必要であり、その手順を省いてはならないが、一部を除いて殆どのものをその手順を踏まずに掲載している。一応、連載の中に取り出しても不都合を生じることはないであろうと判断して、その都度判断してアップしている積もりであるが、今回の不行き届きのところは何卒ご容赦いただきたい。

次回から数回、「吉田源治郎・幸の世界」の「補遺」として、未掲載となっている幾つかのものを収めて置く事にする。
     
      (2010年11月22日記す。鳥飼慶陽)(2014年11月1日補正)

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Author:keiyousan
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