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「賀川豊彦の贈りもの」(第5回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回の箇所で触れている「牧師労働ゼミナール」と兵庫教区による私たちの「按手礼」(1967年11月27日、神戸教会)の後の写真をUPして置きます。


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                賀川豊彦の贈りもの(第5回)


     (前回のつづき)



                   「家の教会」構想



レジュメには(「家の教会」構想、家庭集会、吾妻地区集会)と記していますが、あのころ、村山先生のアイデアでもありましたけれども、「家の教会」の構想を、イエス団教会の新しい活動の構想に取り入れてみようということで、小さな冊子を作ったりして、教会の皆さんと協議を重ねながら「家庭集会」や「地区集会」をあちこちで試みたりいたしました。


賀川先生も「家の教会運動」というものを、早く大正の末ぐらいから提唱しておられましたね。そして、牧師というのも単に給料をもらってやる牧師じゃなくて、牧師を職業にしない生き方という自給牧師、自給伝道の形が面白いということを書き残しておられますが、実際「家の教会」構想のもとでの、あの小さな試みは、なかなか面白いものでした。


とりわけそれは、記念館のあるこの地域の「吾妻地区の集まり」には、佐藤きよさんや国府さんなど熱心においでになって、毎回打ちとけたなかでの学びあいの場がつくられていました。生活の悩みを出し合ったり、祈りあったりする、楽しい集いでしたね。


この地域には、まだあのころ、南京虫がぞろぞろ出てきました! 記念館のなかにいても、南京虫が襲ってきて、夜もおちおち眠れませんでした。夢のなかにまで大きな南京虫があらわれ、うなされたこともあります。


吾妻地区の集会でお話をしている最中にも、ぞろぞろ出てきて、お話を途中で止めたりしたこともありました。国際都市神戸ならではの虫でしょうが、こうした地域の実態と暮らしが放置されたままであることに、ひどく驚かされました。


でもこれも「いまはむかし」のことですけれども。今頃、学生たちにこういう話をしますと、「ごきぶり」の話を間違えてしまいますが・・。



                 「牧師労働ゼミナール体験」


それからレジュメでは「神戸イエス団教会」体験のところに「牧師労働ゼミナール体験」と書いています。これは、わたしたちがこの時代の中で、生きるとはどういうことなのか、教会とは何なのか、牧師として生きるとはどのようなことなのか、そんな切実な問いを抱えて、それぞれの教会で働いていた牧師仲間が、労働と生活を共にして修行をしようではないかという呼びかけで開かれたものです。「牧師労働ゼミナール」と名づけて企画された、楽しく愉快な新しい実験的な試みでした。


呼びかけの中心となったのは、わたしたちが神戸に出てくる2年前、1964年に自ら労働をしながら「加茂兄弟団」という、それこそ「家の教会」を開設して、兵庫県の川西市の「加茂」というところで、先進的な歩みをしていた延原時行という先輩牧師でした。


この先生は、同志社の3年先輩で、寮生活もご一緒したときもありました。学生時代からあの宗教改革者・マルティン・ルターを髣髴させる、どこか「現代のキリスト者」然とした魅力をもった先輩でもありました。以来こんにちまで先生とは、ずっと親しくしていただいていますが、わたしの大切なお師匠さんのひとりです。


このゼミナールは、1966年度とその翌年と二度にわたって開催されました。兵庫教区と大阪教区から十数人の若手牧師たちが、尼崎教会を宿にしまして10日間ほどでしたか、共同生活をいたしました。


尼崎教会は、とうじ種谷俊一牧師がおられてお世話になりました。この前までイエス団の特養ホーム「豊島ナオミ荘」の施設長をされていた小池基信先生も、このゼミナールに参加をしておられたと記憶しています。


わたしの場合、1年目は尼崎のクボタで、2年目は旭硝子で汗を流しました。「私についてきたいと思うなら」とか「私は働きます」とか、毎回テーマがつけられて、牧師たちが聖書研究を分担し、共同生活をしたわけですね。同労の牧師仲間の、ほんとうに稀有な研修会として、忘れがたいものです。


そういうことなどがありまして、村山牧師の下での伝道師としての修行期間を過ごしました。夫婦ともに牧師試験にもパスして、教区総会での按手礼を経て、わたしたちは仕事の拠点をこの場所から同じ神戸市内の長田区番町に移したんですね。牧師になると同時に、ある意味、わたしたちは牧師をやめたというか、既存の教会の牧師ではなくなりました。


ふつう教会というのは何人かの信徒の方がおられて、そこに招かれて牧師として仕事をするのですが、信徒の方のひとりもいない牧師というのも異例のことではありました。


牧師試験のおりの面接では、すでに「労働牧師」として生きる新しい夢は宿っていて、そのままのことを隠さずそこで話しましたら、面接の場におられた島村亀鶴牧師が「折角ふたりとも牧師になったのに、惜しいな!」といわれて、どう返事をしてよいものか困ったことを記憶しています。


こうして相方とふたり、同時に牧師になって「在家労働牧師の実験」を始めたのです。これも今は昔、1968年の春のことです。


最近、同輩の牧師仲間は、つぎつぎと教会の現場から退いて隠退牧師になっていくのですが、わたしたちはある意味では、あの時点で既存の「教会の牧師」からは引退していたのでしょう。


先日、クラスメイトの牧師仲間ふたり(草刈君と宇山君)と3人で、夜を明かして語り合う機会がありました。わたしたち3人は、高校生のときから鳥取県内のそれぞれちがう教会に通い、揃って同志社の神学部に進学して牧師になった悪友・三羽烏ですが、その牧師仲間はふたりともすでに隠退牧師になっています。


しかし、3人でいまの生活を語り合っていますと、教会を退いた後の、彼らの暮らしぶりと意欲的な考え方など聞いていますと、隠退しているいまの彼らこそ、いっそう牧師らしく耀いて生きているように思えてなりませんでした。彼らもいま、わたしたちと同じように「在家牧師」をやっているんだな、などと勝手に考えて、とても愉快になりました。


それはともかく、わたしたちにとって「神戸イエス団教会」での2年間の経験は、新しい歩みをスターとさせる大切な「助走」のときでもあったのです。
 




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