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「賀川豊彦の贈りもの」(第6回)(賀川記念館主催「賀川豊彦講座」2008年3月6日)

今回のところは、「番町出合いの家」での新しいスタートの頃のことです。ほぼ1年近く経ち、仕事にも、まちでの暮らしにも慣れてきた頃の写真をおさめて置きます。


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               賀川豊彦の贈りもの(第6回)




      (前回に続く)




             「番町出合いの家」「在家労働牧師」の実験



さて、生活の場所を移しての「新しい生活」がはじまりました。
新しい生活をはじめた長田区の下町・番町地域は、イエス団にとっては「葺合新川」とともに早くから大切な活動拠点のひとつでした。


たとえば、大正7年ごろですか、イエス団友愛救済所の長田出張所が開設されて、馬島医師のご家族が住み込んで活動をされたり、賀川ハルさんの妹さん・芝ヤエさんなどもここで診療活動をつづけてこられました。


そして戦前から、地域のど真ん中の四番町に、古い大きな民家を買い取って、新しい活動拠点となった「天隣館」でも、東京から来られた斎木進之助さんご夫妻や生協でも働かれた林幸金牧師夫妻など、多くの関係者が、戦前戦後を通じて、この地域に仕える地道な活動をつみかさねて、活躍してこられました。賀川先生の娘さん、梅子さんもたびたびここに足を運ばれたようですね。


この地域にはイエス団関係の神視保育園が開園されていますし、天隣乳児保育園もつくられるなどして、今日まで、よい仕事を営々とつみかさねておられます。わたしたちも、その長い歴史の上に乗って、この町の住民になったわけです。



                   「小さな実験」


敷金5万円を兵庫教区からお借りするなどして、1968年4月16日には「番町出合いの家」が、日本基督教団の伝道所として正式に認可され「小さな実験」がスタートいたしました。


夫婦と幼い二人の娘が、6畳一間で暮らすというのは、当時のここでの暮らしとしては、何も珍しいことではなく、特別のことではありませんでした。


そのころ、長田伝道所の牧師をされていた白倉正雄先生が、地域のなかに建てられた神戸市立の隣保館「長田厚生館」の嘱託館長をしておられました。番町に移り住む前に、ご挨拶をかねて長田厚生館に先生をお訪ねしましたら、ご近所の中島さんという親切な自治会長さんがおられて、そのときすぐ、わたしたちの住む家を見つけていただいたり、仕事までも地元の「ナショナルゴム」という工場を紹介していただいたりしました。仕事の方はしかし、履歴書の必要な会社で、面接までしていただきましたが、なぜか警戒されたのか、採用にはなりませんでした。


わたしの働く場所は、けっきょく神戸職安のルートで、履歴書なども書かなくても良い「中卒以上」という条件の会社を紹介していただいて、念願でもあった長田のゴム工場の、しかも激しい肉体労働の現場でもある「ロール場の雑役」というところに、めでたく就職することが出来ました。


わたしは、元々からだは強くはありませんでしたが、これでも百姓の出ですし、中学生に入ったころからは、野球部にも入ったりして、徐々に元気を回復し、労働することについては、そのとき人並みていどの意欲と関心を持っておりました。 




          東京12チャンネル作品「ドキュメンタリー青春」


レジュメの中ほどに「ドキュメンタリー青春」と書いています。
わたしたちが「新しい生活」をスターとさせたときは、はじめにふれた1960年の「同和対策審議会」が設置され、5年後に「審議会」の「答申」までこぎつけていましたが、まだ部落問題解決のための法的措置である「特別措置法」は策定されていませんでした。ですからマスコミ関係者は、その世論を高めようとして、朝日新聞や神戸新聞など神戸の現場記者たちは、そのネタをさがして競い合っていました。


あのころは、もちろんマスコミの方も悪意ではないのですが、熱心さのあまり、執拗にわたしたちのようなものにもスポットを当てようとされていて、いちど新聞記事として、朝日新聞でしたかに、誤解を生むような記事を書かれてしまい、思いもかけない迷惑をかけてしまったこともありました。モグラ暮らしを意欲していたわたしたちには、いくら良いことにおもわれることでも、見世物にされるようなことは「禁じ手」でした。


ただそのなかで、「東京12チャンネル」というテレビ局が、わざわ東京からきて、熱心に神戸の部落解放運動の青年活動家たちを突き動かして、ひとつの企画を持ち込んできました。これにはどうにも断れなくなって、しぶしぶ応じることになって取材に応じてつくられたのが「ドキュメンタリー青春」という30分番組でした。そのころまだ白黒テレビでしたが、1969年2月23日、わたしの29歳の誕生日に放映されたようです。


放映のあと、テレビ局から記念に8ミリフィルムをいただいていたのですが、時とともに劣化してしまい、映像が消えかかっていたのを、友だちがビデオにしてくれて、かろうじていまビデオで保存できています。DVDにしておけばよいのでしょうが、まだできていません。


長くお蔵入りにして見ることはなかったのですが、さいきん蔵出しをして、お話をさせていただくときなどに、ときどき見ていただいています。今日は時間もありませんので、エンディングの5分ばかり、いちばんカッコいいところ(?)だけを映してもらいます。わたしたちにも、むかし青春時代があったのです!!


    (ビデオ:「ドキュメンタリー青春」<やらなアカン! 未解放部落番町からの出発>〉


この番組は、関西では放映しないということで取材に応じたところもあるのですが、関東では夜7時半の人気番組のひとつで、視聴率も高かったそうです。放映のあとは「神戸市番町、鳥飼様」というだけの宛名で、見知らぬ人から手紙などもらい、びっくりしました。


東京の国分寺教会でしたか、深田種嗣牧師がこれを御覧になっていて、映像の中で地域の青年たちと語り合っている場面があり、いわなくてもいいものを、わたしがゴム工場の雑役をやっていて「いまはとても楽しい」などと言ったものですから、青年たちから反発を受けるところがありましたが、深田先生にはわたしが「楽しい」と言ったその場面がとても面白かったと感想を話しておられたことを、ある方からお聞きしたことをいま思い出します。深田牧師は、賀川先生とともに神戸で過ごされて、東京に行かれたおひとりで、同志社大学神学部の教授をされた深田未来生先生のお父様ですね。

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