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「歴史散歩:賀川豊彦と水平運動」(中)(1989年3月21日、神戸海員会館)

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上の作品も前回に続いて藤原昭三先生の作品です。好きな作品です。



             *             *




             歴史散歩:賀川豊彦と水平運動(中)



             1989年3月21日 神戸海員会館


    (前回につづく)


                3 水平社の創立と賀川


8 さて、「賀川豊彦と部落問題」に関する立ち入った言及は前掲拙著にゆずらなければならないが、彼の際立った活動は何といっても明治の末、一九0九年に二一才で神戸の「葺合新川」に移り住み、当時の深刻な生活実態の中での苦闘である。


賀川豊彦の長男純基氏が『雲の柱』最新号の八号(昨年十月)で、賀川の当時の日記を紹介している。


そこには、明治四三年二月の「露の生命」と題されたノートに「安料理、無賃宿、子供預所、資本無利子貸与、医薬施療、葬礼部、雇人口入部、日曜学校、子供理髪入浴、慰安部、日曜礼拝水曜祈祷会」が、同年一二月の「感謝日記」には「無料宿泊所、天国屋安料理、病室、無料葬式執行、婦人救済部、職業紹介所、避暑感化、保育所、労働保険、授産所、肺病離所」が、それぞれあげられており、純基氏はそれに、次のような言葉を添えている。
 
「日記には毎日のように人が死んだと書かれています。非衛生的な所で、ちょっと悪い 病気がはやると何十人と死んでいくのに、スラムの人口は増えていく。賀川豊彦が留学 から帰ると、スラムは一ブロック増えているのです。ここで、賀川豊彦はスラムに人が 入ってこないためにはどうしたらよいのかと考えます。救済だけでなく、防貧の仕事をしなければならない、そうでなければ日本中がスラム化すると。
その頃、労働者や農民は立場が悪く、労働者は三日寝込めば職場から首を切られてしまう。けがをしたらそのまま保障もないままスラムに落ち込んでいく。農家で凶作があると小作料が払えなくて、次男三男は都会に出てきて、仕事がなければスラムに来る。女の子達は売られてしまう。
そういう中で、労働組合を作って労働者が社会の中で人格的な立場を得られるようにする。あるいは農村で、どうやれば農村が貧しくならないか、小作人の立場をよくし、貧しい山奥で、立体農業によって農業が成り立つようにする。・・・」


9 こうして賀川は、一九一九年七月に有限責任購買組合共益社を設立して新しい分野の活動に着手するのであるが、一九二0年段階から、後に水平社運動の創立の中核を担った西光万吉、阪本清一郎、駒井喜作ら青年たちとの交流が開始されるのである。
 

西光や阪本らは、生前折々の機会に、また機関誌「荊冠」(後に「荊冠の友」)などで、断片的ではあるが賀川と水平社運動との関わりを書き残している。


また、今は亡き工藤英一氏が『キリスト教と部落問題』(新教出版社、一九八三年)などでその消息を探り、水平運動史研究の側から鈴木良氏がすでに立ち入った論稿を発表されているが、賀川はまだ一般的には、水平運動・融和運動の歴史の中に正当な位置を占めるには至っていない。(鈴木氏の論稿の中に、この度の拙著によせて、わざわざ『月刊部落問題』一九八八年九月号で「賀川豊彦と水平運動」と題する詳しい批評を頂いた。本小稿も鈴木氏のこの論稿に負うところが多い。)


10 すでに明らかにされていることであるが、西光や阪本ら奈良県御所の「燕会」の人たちは、賀川らの消費組合運動にひかれて「新川」の賀川を訪ね、自分たちの力でこの消費組合運動に心血を注ぎ、産業組合の設立にまで発展させているのである。ーー鈴木先生がこのあたりのことを詳しく調べておられるので、日本における消費組合運動の歴史のなかでも、それとして注目されてよいことではないかと思われる。
 

そして最近の神戸の部落解放運動のなかで、あらためてこの協同組合運動の試みが始められていて、生活に根ざした地域の幅広い運動が進められようとしている。
 
 
また、鈴木先生が指摘されているように、彼らの「燕会」そのものは、賀川の「近代的な組織論」の一定の示唆を受けながら、独自な「会則」をつくり、「会長」「主事」「当番」がおかれ、低利金融や座談会・研究会・講演会など組織的な活動を展開し、図書館や「部落問題研究部」なども、その中から出来ていくのである。
 

この一九二0年には、賀川の超ベストセラー『死線を越えて』が改造社から出版され、翌年の夏にはあの「川崎・三菱大争議」で、賀川はまさに「時の人」となるのであるが、彼の独自な「非暴力主義」や「協同組合精神」は、共鳴する者ばかりでなく、逆に彼に対する反対者も少なくなかった。
 

西光らの「燕会」が、新しく「水平運動」へと思想的にも実践的にも飛躍的な前進を示すのには、当時の時代状況の影響ーー早稲田の講師をしていた佐野学『特殊部落民解放論』、堺利彦、山川均らの社会主義者、大杉栄らの無政府主義者、西田天香、武者小路実篤の「新しき村」ーーが甚大であるとはいえ、そこには、西光らの主体的な「覚醒・発見」が力になっていることは言うまでもない。


彼らは、あのまだ厳しい差別の中で、「よき日」を先取りして創立趣意書の表紙にロマン・ロランの大杉栄訳『民衆芸術論』からあの「歓喜」を引用して、熱い思いを歌ったのである。そして、そこから「よき日の為めに」新しい一歩を踏み出したのである。


11 水平社が創立の準備をすすめるのと時を同じくして、一九二一年十月に賀川は、杉山元治郎らと日本農民組合を結成する(創立大会は翌二二年四月、下山手6丁目の神戸YMCA)が、杉山の『土地と自由のためにーー杉山元治郎伝』に記した証言に次の言葉がある。
 

「日本農民組合創立の打合せを神戸新川の賀川宅でしていたところ、全国水平社創立の 相談を同じく賀川の宅でしていた。その人々は奈良県からきた西光万吉、阪本清一郎、 米田富の諸氏であった。このようなわけで二つの準備会のものが一、二回賀川氏宅で顔 をあわせたことがある。」
 

この証言に対しては、水平社創立(一九二二年三月)の年の暮れ、後でも言及するように、奈良県水平社の西光らが、農民組合と提携しようと改めて賀川を訪問した時のことではないか、と杉山のこの証言の「記憶違い」を、鈴木氏は指摘している。


なるほどそうとも考えられるが、わたしはしかし、水平社創立の前の同年一月の朝日新聞の「一万人の受難者が集まって京都で水平社を組織、総裁は賀川豊彦氏の呼び声が高い」とする記事や、創立の事実上の呼び掛けの場ともなり賀川も弁士の一人でもあった二月の中之島公会堂における「大日本平等会」での西光らとの関わり(難波英夫『一社会運動家の回想』)、また創立大会には、そのとき賀川と共に活動していた同志社の中島重や農民運動の河合義一、さらには兵庫県救済協会の小田直蔵らが参加していたことなどを考え合せるとき、賀川と西光らとの「水平社創立の相談」が何も無かったとも言い切れないようにも思われる。


12 いずれにもあれ、水平運動の創立の母体となった西光らの「燕会」が協同組合運動の分野で最も早い時期に開拓的な実験を試みた点において、また逆に言えば、協同組合運動に参画した「燕会」が水平運動の母体であったという点で、改めて注目させられるところである。
    

  (つづく)

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