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「歴史散歩:賀川豊彦と水平運動」(第3回)(1989年3月21日、神戸海員会館)

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この論考は今回で終わりますが、これの完成稿は、既に著書の中で纏めていたようですね。未確認ですけれど。



              *             *




             歴史散歩:賀川豊彦と水平運動(第3回)


             1989年3月21日 神戸海員会館



        (前回のつづき)


               4 水平社の精神と賀川の思想
 

13 さて、次に「水平社の精神と賀川の思想」について触れて置かねばならない。この点も、特に前掲鈴木氏の論稿に学んだ論点であるが、西光や阪本ら水平運動の指導者たちは、先に見たように「よき日」を先取りし、その「歓喜」を運動の基調にして立ち上がり、「宣言」にあるような「心から人生の熱と光を願求礼賛する」ことを「水平社の精神」として出発させた筈の初期水平運動が、未だ十分には部落差別の本質を見極めることが出来ず、大衆的な徹底的糾弾闘争主義に流されていく大きな危険(誘惑・落とし穴)から、いかにして脱出することが出来るか、それが、彼らが最初に強いられた厳しい試練であったのである。


14 そうした中で、西光たちは一九二二年一二月、水平社主催の講演会に日本農民組合の幹部・杉山元治郎のほか、行政長蔵、仁科雄一らを招いたり、賀川や佐野学を呼んだりして、水平社と農民組合との連帯の方向を探っている。


そして、西光・阪本・駒井の三名は同年暮れに、次のような運動内部の人たちに向けた注目すべきビラを印刷・配布し、彼らの立場を闡明に示したのである。


「『人間は尊敬すべきものだ』と云ってゐる吾々は決して自らそれを冒涜してはならない。自ら全ての人間を尊敬しないで水平運動は無意義である(中略)。諸君は他人を不合理に差別してはならぬ、軽蔑し侮辱してはならぬ。吾等はすべて人間がすべての人間 を尊敬する『よき日』を迎へる為めにこそ徹底的糾弾をし、血を流し泥にまみれることを辞せぬのである。けれどもこと更に団結の力をたのんで軽挙妄動する弥次馬的行為には我等は断じてくみするものではない(下略)。」(鈴木良『近代日本部落問題研究序 説』273頁)。


15 当時既に、労働運動のみならず水平運動の中でも、賀川排斥の動きがみられ、例えば一九二二年五月の『労働週報』での「水平運動の途にて」と題する平野小剣の小論(「荊冠の友」七五号所収ーーこれは、番町での演説会で「賀川排斥、賀川の人望はこの部落の人々から蹴散らされている」ーー)なども、「部落排外主義・部落第一主義」に立つ賀川批判の典型であるが、これはそうした中での西光らの力強い意志表示であったのである。
 

賀川は個人誌『雲の柱』の一九二三年三月号で、その「大和の田舎」に講演に出かけた時のことを、次のように記している。
 

「私は一月は水平社の特殊部落解放講演会や小作人の農民組合の運動の為めに大和の田舎や播州の田舎に出かけました。
雪の中を貧しい部落に出入りすると、私は何となしに悲しくなりました。あまりに虐げられてゐる部落の人々の為めに、私は涙が自ら出てそれ等の方々が、過激になるのはあまりに当然過ぎる程当然だと思ひました。私は水平社の為めに祈るのであります。みな様も水平社の為めに祈ってあげて下さい。水平社の中には清原さん(西光の本名)、駒井さんや、阪本さんなど古くから私の知っている方があります。」


16 賀川はしかし、この年九月の関東大震災救援のため主たる生活の拠点を東京に移し、それ以後水平運動との直接的な関わりは薄れていくのである。もちろん、東京に移ってからも一九二七年の「不良住宅地区改良法」の制定などに活躍するのであるが。




            5 キリスト教界の「賀川問題」その後


17 以上、短い紙幅の中で「賀川豊彦と部落問題」に限って、しかもその中の一側面だけを振り返ってみた。わたしたちがこの問題を正しくとらえるためには、彼が生きたあの時代の歴史的な場を踏まえ、広い視野から検討をしなおす学問的態度が求められる。その点、全くの素人がまとめたこの度の拙い小著は、余りに狭い視野からの「独り言」であることは、著者のわたしが十分に承知している。
 

しかし、今日のこの問題をめぐる状況はこのような「独り言」でも大事な意味をもっていたようで、素人の小さな「声なき声」が待たれていたのかもしれない。ただ「対話」を求めて書き上げたものの、キリスト教界で「賀川問題」を熱心に問題提起してきた人々からは未だ何の反論や異論も出されていないのが、残念と言えば残念である。
 

―雑誌『部落』の拙論を読まれた大阪の杉山博昭氏が3月号の「読者のページ」に寄せて、私の本にたいして「激しい賀川攻撃を展開している人達から批判が起こり、それによって賀川と部落問題についての議論が建設的な形で深まることを期待していたが、これといった反論もないということで拍子抜けという感じがする。」と述べている。

 
最近、藤野豊氏が『福音と世界』3月号で「全国水平社の創立とキリスト教」を発表しているが、賀川のことには意識的に触れられていない。


「・・こうしたテーマを設定する以上、いわゆる『賀川問題』をめぐる賀川豊彦と水平運動の関係についても言及すべきであろう。しかし、私は、現在の『賀川問題』なるものは、かならずしも学問的論争として論議されているとは考えない。一部に主観的思い入れや政治主義が錯綜し、冷静さ・客観性を欠落させた主張も見られる。むしろ、私はここでそうした『賀川問題』をめぐる論争への参加は自重し、キリスト教と全水の関係の考察を通して、賀川を歴史的に位置付ける準備作業を進めていきたい。」と述べる。
 

しかし、一面では、歴史家が学問的にハッキリさせていないから、今日のような生産的でない論議が繰り返されているのであって、そのレベルのことはそれとして明確にすべきことである。

 
さらには、最近、神戸学生青年センターが『賀川豊彦の全体像』を刊行して、そのなかに土肥氏が「賀川豊彦の部落差別とキリスト教伝道」が収められている。そしてその後、『部落解放研究』第66号(89年2月)には「賀川豊彦と部落差別問題」も書かれている。いずれも、従来の賀川批判の論調とかわるものではなく、新たな見方が展開されているわけでもない。

 
この小著に対して、共感の声は数多く寄せられ、その後この問題がキリスト教界で殆ど話題に上らなくなっていることは、それとして喜んで良いことかも知れない。問題の所在がハッキリして、的の外れた事柄に過熱しないですむようになるだけでも意味はある。

 
この問題が自由に論じ合われ、正しく理解されることが必要であるが、もともとしかしこの問題は、こんな形で論じ合わなくてもよいものであったのである。非問題を生真面目に問題にして非生産的な徒労を重ねている、ということも、笑うに笑えぬわたしたちの現実である。


歴史家の鈴木氏が前掲稿の末尾で「最後に一言する」として、「俗人」たる「宗教者」(宗教教団)を、次のように一喝している。
 

「日本基督教団の『賀川豊彦と現代教会』問題に関する討議資料、同第二部などを読んで感ずることは、これらの資料の作成者たちは、まともに水平運動史をみずから学んだことがあるのだろうか、という疑問である。事実にもとづかずに人を批難することは俗人にも許されないことである。」
 

18 それにしても、わたしのような「独り言」が、こうして専門の研究者の方々の目にもとまり、過分のコメントを受けるなど、思いも寄らぬことであった。そして、その後改めて、賀川の戦時下及び戦後の活動についても、少し丁寧に学んでみたのであるが、わたしには、部落問題との関わりでの賀川への一方的断罪にも似た、戦中戦後の賀川の言動に対する最近の断罪の仕方についても、一層の吟味・検討が求められるように思われてならないのである。この点については、ここでは立ち入ることは出来ないが、一人の生きた人間(歴史)を理解する上での基本に関わる、根本的な問題がそこには含まれているように思えるのだ。


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