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「私の母教会:倉吉教会での礼拝説教」(1997年7月27日)

拙著のなかでも賀川豊彦の関連で何度か触れてきましたが、私の場合、高校時代にご縁がって、倉吉市の打吹公園の近くに建つ教会「日本基督教団倉吉教会」に加わって、将来は小学校の教師になるという志望を変更して、農村の小さな教会の牧師になるという夢を託されて、今日を迎えることのできた「母教会」、これが「倉吉教会」です。


今回は、1997年7月にお招きを受けて、母教会で礼拝説教をさせていただいた、その下書きが残っていましたので、ここに一括して収めておきます。


その前に、当時(1950年代)の高校生時代の写真が残っていますので、2枚収めてみます。一枚めは、高校2年生の時のもので、鳥取市にある鳥取教会で鳥取県青年宣教大会があって、その時のものです。これをみると、鳥取教会の宇山進君と八頭教会の草刈孝昭君の顔も見つかります。この3人は学校は違いますが同級生で、同じように牧師の道を目指して同志社大学神学部に進学し、神学部の同じ寮に入り、牧師となっていった「鳥取三羽烏」です・・・。


そしてもう1枚は、1958年10月5日に倉吉教会の創立70周年の記念礼拝があり、当時同志社新学部の山崎享先生を迎えた時のものです。私はこのときは神学部の1回生で髪の毛も増えています。



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             1997年7月27日 倉吉教会説教


                  インマヌエル!



                マタイ福音書1章23節


       見よ、乙女がみごもって男の子を生むであろう。その名は「インマヌエル」
       と呼ばれるであろう。これは「神われらとともにいます」という意味である。


           賛美歌 24(ちちのかみよ) 264(かみはわがやぐら)



                      序


 倉吉教会は私の母なる教会です。今朝は、本当は「放蕩息子」の物語を読んでいただこうと思いました。私は「倉吉教会の放蕩息子」のひとりだからです。


 1958年の秋でしたか、倉吉教会の創立70周年の記念礼拝があり、そのとき同志社神学部に入学したばかりの頃で、当時神学部長の山崎亨先生(もうお亡くなりになりました)が倉吉教会に御出になり、私もこの記念礼拝に出席した記憶があります。


 中村先生とは、本日初めてお出会いするのですが、中村先生は、この山崎先生の物真似が大変お上手だそうですが・・。以来、実に40年の間、私は「倉吉教会の放蕩息子」でした。大変申し訳のないことです。
 此の度は、全く思いも掛けないことに、ルカ福音書15章の聖書の記述のとおりに、こうして皆様に暖かくお迎えいただき、本当に有難く、うれしく思います。


 さて今朝は、クリスマスの季節でもありませんのに、イエスの誕生のテキストを拝読いたしました。「インマヌエル」という題で、短いお奨めをさせていただきます。


 
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 私のふるさとは関金(せきがね)です。高校時代のその頃は、まだ石炭を燃やしてデゴイチが倉吉線を走っていました。
毎朝、7時前の汽車に乗って30分ほど。倉吉に来て、授業が始まるまで一時間近く時間がある。晴れた日はグランドでソフトボール、雨のときは体育館でバスケットなどして友達と遊び、昼の弁当を早々と食べてしまったりして・・。


 倉吉教会との出会いは、その高校1年の2学期のころでした。「教会高校生の会」(KKS)という交わりがあって、高校生たちも楽しく集っていました。


 私たちの倉吉東校は男子生徒が多かったわけです。当時倉吉西高校は女学校でしたが、西校からも数人きておられて、鳥取から宣教師のウイリアム・エルダー先生が時折来られて、一応「研修会」だったと思いますが、高校生たちが楽しく群れていました。


 そのなかで洗礼を受けてこの教会のメンバーになったのは、今大阪にいる絹見紀一君や京都にいる豊田源具君(彼は中学からの友人でしたが)。それから山崎洋子さん、井上京子さんなど思い出しますが・・。


 当時、青年会も岸本さんなど楽しそうにやっておられましたし、クリスマス会などは、塩見さんが素晴らしい司会をしておられたり、その頃に、山田さんや藤原さんが結婚されたような記憶が残っています。


 お名前を忘れてしまって失礼なことですが、毎週の祈祷会に、雨のときも荒らしのときも、遠方から欠かさずに出席しておられた方がありました。松葉杖をついて来ておられた川崎さんや仏壇屋さんの中本さんでしたか・・・川崎さんとはよく家までいってお話をきくことがありました。
 倉吉教会でのこの数年間の経験は、私の人生とその後の生涯を決定づけるものでした。


 とりわけ、私に取りましては、鎌谷牧師ご夫妻には、「牧師の生活」のかたちを、本当に身近に学ばせていただきました。


 真理ちゃん・愛ちゃん・光ちゃんはまだ小さくて、私は「おにいちゃん」と呼んでもらっていました。
 私も、鎌谷先生のように牧師になって、農村の田舎の小さな教会で仕事をしてみたいと思うようになりました。


 鎌谷先生が同志社大学の神学部を出ておられましたから、私は学力もロクにありませんし、母子家庭でしたから大学に行くお金もありませんで、東京の方にあります農村伝道神学校にいこうか迷っていました。とにかくしかし、受験することにして、同志社に行くことになりました。


 そのとき、鳥取教会の宇山進君と八頭教会から草刈孝昭君と三人が同時に同志社を受験して、運よく3人とも合格しました。そして大学の寮にも当時、神学部だけの「壮図寮」という寮があって、そこでも三人一緒でした。
 中村先生は、この寮の大先輩でもあります。



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 さて、それから40年間、話せば長い歳月です。今朝は、私にとって激動の40年間のことを、ほんの少しだけお話をいたします。

 私にも「青春時代」がありましたから、人並みに「恋」をし、「失恋」の悲しみも経験して、大いに鍛えられもいたしました。
 牧師になるための同志社での6年間は、キリスト教信仰についても、大きな厚い壁にぶち当たりもしました。


 詳しいお話はいまできませんが、倉吉教会で、昭和32年(1957年)2月24日に洗礼を受け、喜んでキリスト者のひとりに加えていただきましたが、どこか肝心要のところが解けていませんでした。
 何か「独り善がりなものを残している」、どこか不必要な「キリスト教的な臭さ」がまとわりついてくる、それが何なのかもわからない。
 そこが解けなければ、「牧師として」も、「一人の人間として」も、喜んで生きることができない、そんな問いが、私から離れませんでした。


 しかし、この問いがあったおかげで、学生時代の6年間、真剣に聖書を学び、「神学」に没頭することができました。大学の6年間、「求めること」「門を叩くこと」、「問い」をもつことの大切さと、その「答え」を「発見する」喜びをたっぷりと学んだように思います。


 イエスというお方が、なぜあのように自由に生きられたのか。「インマヌエル」と呼ばれたイエスは、「アバ!」「お父さん!」と、直に「隠れたるを見たもう父」にお祈りになった! その「インマヌエル」(神、われらとともにいます)と呼ばれた「イエスの信仰」を、あらためて新鮮に学び直すことになりました。


 最近も、「イエスの語録」への関心が深くなっていて、学問的な刺激を与えていますし、あとで少し触れようとおもいます賀川豊彦先生の「信仰」の秘密・特長でもありますが。


 「インマヌエル」!」


 1968年にお亡くなりになった、あの20世紀の最大の神学者「カール・バルト」先生! 
 そして日本で、このカール・バルトの「インマヌエル」を深く学んで、没後『インマヌエル』という名著を残した牧師「橋本鑑」先生!


 特に私にとっては、戦前ドイツに留学してカール・バルトのもとで学び、戦後も長くバルト先生との対話を深めた「滝沢克己」という先生などとの、不思議な出会いも与えられて、やっとあの「暗いトンネル」を脱して、喜んで、感謝して、同志社大学を卒業することができました。


 本日一緒に出席できませんでしたが、私の妻も関西学院の神学部をでて牧師をしていますが、名前を「偕子」と申します。人べんの皆の「偕子」です。
両親がキリスト者だったからだと思いますが、「インマヌエル」からとってこう名付けたようです。名前にもほれ込んでしまいました!

     
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「出会い」は実に不思議です。


 高校時代、この倉吉教会で、牧師先生から「賀川豊彦」というかたのことを初めて知りました。教会の図書だったのか先生の蔵書だったかわかりませんが、横山春一さんのお書きになった「賀川豊彦」の生涯をダイジェスト風に綴った本も読みました。(横山さんとは、『賀川豊彦と現代』という本をまとめたあとに一度お出会いしました。そのあと、すぐお亡くなったのですが)。


 鎌谷清子先生は、賀川先生から洗礼を受けられたそうですし、私は高校時代に倉吉教会で賀川先生のお弟子さんで「立体農業」の指導者でした藤崎盛一さんを迎えての集会があって、その時の事も記憶に残っています。


 そういうご縁も不思議ですが、1966年の春、賀川先生が明治42年から、地域に住み込んで献身的な活動を続けられた本拠地である神戸の「葺合・新川」、現在は「生田川地域」といいますが、その賀川記念館の中にある「神戸イエス団教会」から招聘を受け、神戸で生活を始めました。


 そして私たちも、賀川先生のあの「冒険」にも促されて、1968年の春から、神戸のもうひとつの下町で「番町出合いの家」という「新しい歩み」を始めました。


 夫婦と子供ふたりで、六畳一間の「家の教会」。「牧師ふたりで信徒なし」で、日本キリスト教団の正式な伝道所として認可されました。現代の社会の中で、「喜んで信じて生きる」ことを求めて、「インマヌエル」の喜びに突き動かされて! 


 この地域は当時、日本一大きな都市スラムで「未解放部落」でしたので、この地域の多くの人たちの仕事場であったゴム工場の雑益の仕事からはじめました。
 もちろん、どこからのご援助もいただかないで、ひとりの住民としての生活が始まりました。


 以来30年、疾風怒涛の歳月でした。地域の様子もすっかり変貌しました。あの阪神大震災の経験もタップリとさせていただきました。


 そして、「インマヌエル」!「神われらとともにいます」という「喜ばしい福音」は、私たちにとって、益々、有難い「生活の支え」であり「生活の目標」です。


 この30年ばかりの間の毎日の「経験」は、ごくありふれたものでしたが、私たちにとって、これほど嬉しく、感謝に満ちたものもございませんでした。
 沢山の方々と生活を通して自然に「出会い」、友たちになり、「語りあい」「支えあって」歩めること、これは、最初にこの倉吉教会の皆さまとの、高校時代のあの交わりと経験の続きのようなものであります! この母なる教会でのあの日々があったからです!


 現代社会にあって「信じて生きる」、この現在の生活は、まだまだ止められそうにありません。
 今年の暮れまでは、大震災で住宅が全壊のなったために、避難先での生活を強いられていますが、また元の場所に戻って生活をする積りでおります。



                     結 語


 放蕩息子が親元に帰ってきたことを、こうして喜んでいただけて、とても嬉しく思います。
 人生は長い長い旅路だと申します。
 私が「放蕩」している間も、皆さんは堅実に、力をあわせて、この場所で信仰の生きた証しを続けておられます。


 皆さんに、大いに励まされて、私もまた皆様から元気をいただいて、「元気アップ」して、また再び遣わされて、喜んで新しい旅を始めたいと思います。


 祈 祷


 父なる神さま。こうしてあなたの教会で、共に御名なを称えることができ、心から感謝いたします。
 あなたは、いつも「私たちと共にいて」励まし、慰めておられます。
 私たちも、あなたのこの御愛に応えて、それぞれの「家庭」にあって、「地域」にあって、「職場」にあって、あなたの「御心」をもとめて、「喜んで」歩ませてください。
 主イエス・キリストのみなをとおして祈ります。 

 主イエス・キリストの恵み、神の愛、聖霊の交わり、我らすべてのものと共にあらんことを アーメン



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