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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第12回『聖書社会学の研究』)

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これは会下山公園にある「牧野富太郎植物研究所跡」です。(本日のブロクhttp://plaza.rakuten.co.jp/40223/「番町出合いの家」参照)



      「賀川豊彦」のぶらり散歩

              ―作品の序文な―

                第12回

     聖書社会学の研究

   
           大正11年3月1日 日曜世界社 309頁


 この『聖書社会学の研究』は、既に取り上げた『イエス伝の教え方』に続いて、賀川が日曜世界社を版元として出版した2作目です。そして両著ともに賀川が日曜学校の教師相手に講じたものを、吉田源治郎が筆記をして、著作として仕上げたものです。

 これも箱入りの上製本ですが、本書の刊行された日付を見ると、早逝した知里幸恵が書き残したあの『アイヌ神謡集』(現在では岩波文庫に収められています)の刊行されたときと同じですし、その三日あとには京都の岡崎公会堂で「全国水平社」が創立されています。そういう時代の中で誕生した作品ですが、これも賀川を理解する上で、欠かせない大切な講義録です。

            *         *

 ところで、今回12回目ですが、これまで取り出してきた作品はすべて『賀川豊彦全集』全24巻の中に収められていますので、図書館などで読むことができます。そして大変便利な『賀川豊彦全集ダイジェスト』という著書もつくられています。これは昭和41年に出来た全集24巻のすべての解説を一冊に収めたもので、武藤富男氏が手がけた、思いの込められた力作です。


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 ここにその箱表紙と武藤氏の序文を収めて置きますが、1980年代でしたか、このダイジェスト版を英訳する企画が持ち上がったことがあります。

 賀川の著作は膨大なもので、全集に収められたものはその一部にすぎません、全集に入った全作品を簡略とはいえ、こうして纏め挙げているものは他になく、今でもこれの英訳の企画の意義は大きなものがあるように思われます。もちろんこのダイジェスト版そのものが、現在では古書でも殆ど入手が困難な状態のようですから、この原書を若い人々が読めるようにする、何か良い方法を考える必要がありそうです。なお、蛇足ながら、本書の英訳企画が途中で頓挫してしまったのは、例の「賀川問題」が背景にあって、関係者が苦慮しておられた頃のことでした。

それでは以下に、賀川豊彦の「序」を取り出して置きます。そしていつものように、その原文をスキャンいたします。




            


 聖書の社会学は、社会悪に対する再生と救済の社会学である。しかもそれが、外部的破壊によって導かれずして、内面的神の力によることを啓示したものが、聖書の社会学である。

 それは時間的に発展する。それで預言者の出現となり、預言者文学となった。それは民族主義より個性主義に、血族主義より心理主義に、批判的立場より救済的立場に、受難者のメシヤを予望することへと推移して行った。

 ユダヤ民族史を通じて見たる精神の記録は、ガルヴァリズムの試練のために蛙を解剖するようなものである。

 今日なお、多くの唯物主義が説かれ、唯物史観による革命が唱道せられる。それは外部的勢力と自然及び社会的境遇が万能であるかのごとく人に教えるのである。しかし、歴史の上に指示せられた時間の上に成長する人間精神の記録は、必ずしも外部的刺激のみによって成立しているものではない。内側から湧いてくる衷なる神の国の示現にある。

 それは再生の力とし、解放の力とし、罪悪に対する救済の力として現れる。政治の形はあれ、これと変形するであろう。ある時は王の形で、ある者は士師や寡頭政治の形で、ある時は共和主義の形で、またある時には無産者専制の形で現れてくるであろう。

 聖書はどの形でなければならないとは教えてはおらない。神は高き者を低くし、位あるものを位より引き下ろし、無きがごときものを高く挙げ給うものであって、王とはただ、人類生活に対する奉仕者としてのみ尊ばれるものであり、その本質を離れて意味のないものである。

 また共和主義も産業的デモクラシーも、人類生活の成長と発展を妨げないと考えられた場合における形式であって、生命の飛躍と再生を基礎とする社会学の本質―すなわち生命としての神の社会学―すなわち聖書の社会学にはただ内側の法則、正義と愛と自由の道へ進展していく道徳及び信仰の力のほかは社会組織の基本を与えてくれておらない。

 聖書の社会学は、信仰と良心の社会学である。人間の内面生活の飛躍力が、どれだけ外部生活に反応するかという記録である。そして内面生活が統一を欠き、性格が分裂し、国民生活が偶像主義に流れていったときに、その国民は滅亡の運命を見、内面生活が形式に流れてパリサイ主義に傾いたときに、生命が救済すべからざる淵にはばまれ、生のどんづまりにどうしても再生と十字架を見ねばならぬということを教えてくれるのである。

 聖書社会学の教えてくれるところは、それであるから、生命と精霊の社会生活に就いてである。それは社会が行き詰まったときにも、なお内面の力で回転し得ることを教えているのである。それで、聖書社会学にその他のことを求めんとするならば、それは絶望である。しかし、人間がどんなに失望したときでも、どんなに倫落の淵に陥っていつときも、神と聖霊の力が更にそれより深いと教えてくれるのは、聖書のほかにないのである。

 革命と戦乱のほかに人間生活の爛れた傷が癒されるものではないと教えられるとき、私はもう一度、聖書を読み直して、神と生命の再生力を信じよう。

 この書物の出来たのは、また伏見の吉田源治郎兄の御蔭である。私はもう少し詳しく自分に書きたかったが、忙しい貧民生活と労作の中に、とても自分に書き下ろす暇がないので、とにかく私の信ずるところを、大阪の日曜学校教師会に述べたのであった。それを吉田兄は筆記してくれて一冊の書物にしてくれた。ここに私は吉田兄に心より感謝の意を表するものである。

 私は聖書社会学の研究を一生の仕事にしたい。それでもう少し深く研究することができたら、更に筆を起こすことにしよう。

 世界の各地に火の柱が立つ。しかし私の深き祈りは、神が内側から人間生活の更改を助けて下さることである。
 願わくは、十字架を教えてくれたイエスの父、我らをして、神の国に成長せしめ、愛と正義による自由の国に進ましめ給わんことを。アーメン。

   1922年2月5日普選デー
                 台湾伝道に行く途中門司にて
                                       著   者




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