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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第21回『イエスと自然の黙示』)

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これは、前回の「一遍上人御廟所」のある「真光寺」境内の「無縁如来塔」です。



           賀川豊彦」のぶらり散歩
   

               ―作品の序文など―

   

                 第21回

             
               イエスと自然の黙示


         大正12年6月23日 警醒社書店 247頁


 前著『イエスの日常生活』とほぼ同時に警醒社書店より出版された本書は、同様の布表紙の美装箱入りのつくりで表紙も背表紙も扉のタイトルも賀川の自筆で仕上げられています。広告文を見ると「四六版総布天金箱入」と書かれています。


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 本書も前著と同じく『賀川豊彦全集』には入っていませんが、昭和7年5月には次のような「普及版」として「改版」が作られています。手持ちのものはカバーがありませんが、裏表紙には英文の題名と目次は印刷されています。


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 周知の通り、賀川はこの年(大正12年)9月1日に起こった関東大震災の救援のため、10月には一家を上げて「東京市本所区松倉町」に移住することになり、神戸を離れます。したがって、賀川豊彦の神戸時代に出版した著書は、本書が最後となります。

 そして「例言」に賀川が書き記しているように、本書も6章構成のうちひとつの章を黒田四郎氏が筆記したほかはすべて吉田源治郎氏がこの本づくりに関わっているようです。

 別のところで詳しく取り上げましたが、吉田源治郎はこれらの仕事と共に、大正11年8月に主著ともいうべき『肉眼に見える星の研究』(警醒社書店)を上梓して、米国のオーボルン神学校での留学に旅だっていますので、本書の草稿は旅立つ前に完成させていたのかもしれません。


                  *      *


今回の序文も長文ですので、最初の「例言」とともにスキャンでUPいたします。


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補記(2012年3月4日)


ようやく本書の「序」を取り出すことができましたので、ここに収めて置きます。全集にも入っていない作品ですので、是非一読していただければ、と思います。



                    序


 淋しい胸に、光よ 射せ! 疲れた私に黙示よ照らせ! 夢に幻に私は、神を見無くとも、自然と人間愛に私は神がみたい。

 私が疲れ果てて、戦場に打倒れる時に、私の涙の眼に映るものは、自然の黙示ではないか! そしてイエスが最も愛すべく、親しむ可きことを私に教えてくれた者は、ナザレのイエスであった。

  『野の百合は
  如何にして育つかを見よ
  務めず、紡ざるなり
  されど、ソロモンの栄華の極みの時だにも
  その装
  この百合の一つに而かぎりき
  あゝ、信仰薄きものよ
  神は
  明日炉に投入れらるゝ
  草をも
  かく装はせ給へば
  まして汝等をや
  あゝ信仰薄きものよ』

 私は、このイエスの詩を、阿波の吉野川の沿岸で読んだ時に、一もなく、二もなく、凡てを捧げて、イヱスに従ふことになつた。

 私は五つから、十一の時まで田園に育てられ、豊かな自然の恩恵と、その内容の艶嬌なのに驚異してゐた。

 然し、誰れも、自然が何者に属し、何者の創作であるかを物語ってくれるものはなかった。

 私は色々な書物を読んだけれども、誰れもそれに就て教えてくれなかった。物理學も、化學も、博物學も、私には沈獣してゐた。

 私は阿波の北部山脈の裾野に近い、車馬詰の平原に、田螺で蝦を釣ったり、壊れた瓶に自分が堀ですくふて来た鮒を飼ふて、少年時代の最も嬉しい日を贈った。

 私の最も幸福な日は、小川の岸にあった。それが、人間の醜悪に追ひ詰られて、煤姻と南京虫と悪漢の脅迫する貧民窟に伸吟するやうになって、私はこの自然の幸福を、仝部失って了った。私に何が一番貧民生活で不幸かと尋ねるものがあれば、私は直に答へるであらう、

 『小溝の流れとメダカの行列と、菱の実と樫の葉のそよ風に揺れる音だ』と

 あゝ、私はもう一度、この醜悪な人間の世界を捨てて、小溝の清流とメダカの行列に帰りたい。

 そう思ふて、屡々田舎に帰って行くこともあるが、その時に聞かされることは、小作争議と、地主の横暴に就てヾある。

 私を惘れでくれ! 私は自然を失って了った。否、醜悪なる人間の堕落が、私を自然より隔離して了った。

 自然は、私より永遠に失はれた。

 私は、再び輝く眼で、夢見た自然をみることが出来ない。土地を見れば、アベルの血が其處から叫び、小溝を見れば、その清流が灘六郷の酒の原料になって居ることを考えさせられる。

 青田の下を鑿って、石炭を堀るものがある。誰か博多湾に注ぐ遠賀川の美を讃え無いものがあらう? 誰か、その沿岸の田園に慰められ無いものがあらうか?
                        
 然し、遠賀川の下には蜘蛛の巣の如く坑道が張られて、そこには十萬の――私の友達が資本主義の桎梏に嘆いて居るのである。川底から、土地の底から、生き埋めになった。友の叫びが聞こえる!

 そんな思を抱いてどうして、私に自然が再び、私に恋人として回復されやう。中禅寺湖の深林に、私は一日彷徨して神の恩恵を感謝したが、すぐその次の瞬間に足尾の烟毒で中禅寺の裏山が赤裸になって行くことを見る。

 人間の醜悪が、自然にまで浸み人んで行く。自然は永遠に、私に失はれた。もし萬一にも自然を私に回復してくれるものがありとすれば、それは、私の視力を回復させてくれ、私の敏感性を豊かに再び成功して下さる神の力の外には無い。

 自然も、今は贖われなければならなくなった。人間が塗り潰した自然を神に再び贖って戴かねばならぬ。

 いや、それよりも大事なことは、自然を抱く心を再び私に回復して戴くことである。

 私は、自然を抱くには、あまりに傷つき過ぎた。私は魂のバセドス病に罹って、醜悪のみを見詰めた罰則として、眼球が眼窩から飛び抜けて了った。

 私の傷ついた魂よ、美までが憎悪と嫉妬の姿に映る私の眼よ! もう一度イエスに抱き付いて行って、自然の黙示を回復して貰へ。

 人間愛に、贖罪に、神の天啓が横はる。それは、あまりに平凡であっても、神は内側から黙示して下さるのだ。

 愛なくて、自然の姿も消えて了う。そうだ。自然だけが美しいのでは無いのだ。愛があるから、自然が永遠に若いのだ。

 神の愛が、自然に注がれるから自然は永遠に盛装してゐるのだ。自然は神の寵児だ! 自然は沈黙の儘神の愛を物語る。私もまたアルプスの山頂に立ち、湖邊の水際に立って、神に抱かれやう。萬人に捨でられても、自然は嘗て私を捨て無い。水底の藻草も、空飛ぶ鳥も、嘗て私を侮辱したことが無い。

 自然は、自然に近づくものを嘗て捨てたことが無い。

 自然よ、抱いてくれ! 人と民衆が私を捨てることがあるとも、おまへだけは私を捨て無いでくれ。私はおまへに行く外、逃げ場所が無い。ヨナは魚の腹で三日休むことが出来ても、私には一時間でも休ませてくれるところが無い。

 自然よ、捨て無いでくれ、野の百合よ! 撫子よ! 私を捨て無いでくれ!

 私が疲れた眼と、疲れた魂を持って、迫害と讒誣の中に逃げ場所に困って、おまえの懐に逃げ込む時に、おまえはこの放蕩児――私の逃れの邑! 神の黙示を聞くところ――永遠の沈獣に、交響楽よりも、まだ大きな響もて物語る演舞場! 私もまた自覚してみれば、結局はその大音楽の音譜の一つにしか過ぎ無いのである。

 自然よ、物語れ! 私はおまへの物語りに如何に、みみづと田螺が、私の友達であり、野の百合と、樫の葉が私の衣であることを學ばう。

 おお、自然は、神の衣だ!

 自然は、また私の衣にも適するでめらう。

   一九二三年四月

                       賀 川 豊 彦     














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