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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第35回『暗中隻語』)

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昨日は自転車に乗って、早春の須磨離宮公園の梅園を訪ねてきました。3月4日まで「梅見会」が開かれています。




  賀川豊彦」のぶらり散歩
   

                ―作品の序文など―

        第35回

                  暗中隻語

           大正15年12日25日 春秋社 411頁


 さて、春秋社が賀川の作品をはじめて手がけた作品が、今回の著書『暗中隻語』です。これは箱入り総布表紙の上製本です。


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賀川は、本書の刊行に至る経緯などについて、巻頭の「序」のあとに次のように記していますので、それを先ず取り出して置きます。


         *               *


 この書は、一九二六年三月廿一日に私が眼が閉ぢてから、読売新聞の依頼を受けて、その宗教欄に、二百回続けて発表した。私の感想と、その他の雑誌に載せた、宗教的感想の断片を基礎にしたものである。

 然し感想だけでは、その生活背景がはっきり判らないから、私は、私の宗教感想が浮んだ前後の私の行動そのものを「アンペラ御殿を中心として」の中に集め、また、私かいつも最も楽しい思出の種として、今まで発表しなかつた、三河蒲郡の小屋日記を附加したものである。

 小屋日記を除いた外、八九分通りは、私の助手をして居て呉れる、山路英世君と、吉本健子嬢の筆記に依ったものである。それに就いて私は此処で深く感謝せねばならぬ。

 また校正は私の同労者であり、且つ親友である吉田源治郎氏の労に俟ったことを心から感謝する。



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          *           *


 上に、賀川が記している「アンペラ御殿」というのは、既に取り上げた賀川の第2詩集『永遠の乳房』のなかに「バラック小屋」として写真が掲載されていたもの(あそこで写真はUPいたしました)と思われますが、この「アンペラ御殿を中心として」の部分は、賀川の個人誌『雲の柱』に大方が収められたものです。ここには、この頃の賀川とその仲間たちの動静が生きいきと描かれています。前回取り上げた『残されたる刺』の成立に関することもここに触れられています。

 また、本書の末尾に収められた名品「小屋日記」は、以前に賀川が『星より星への通路』に収めた「ノンキ者のノンキ話」という小品のところに「三河の蒲郡で送った生活」の「六畳の離屋敷」のスケッチも描かれていましたが、本書で初公開となったものでした。


             *           *


 では、最後になりましたが、短いもおですが今回も賀川の「序」を取り出して置きます。



                     


         『御不自由でせうね!』
         『何がですか?』
         『眼がお見えにならぬことは』
         『はァ、人間に翼が無いことも不自由ですね
         ――然し、翼が無くとも、飛行機を発明すれば、
         翼があるのと同じでせう。
         眼の場合だってさうです。
         外側の眼が見えなくなれば、
         内側の眼を発明するまでのことです。』

         私の神は光そのものです。
         外側のものは一切暗闇に属してゐても、
         私の心の内側にいつも灯る。

         神のみ光のある間、
         私は少しも失望しません。

         灯れよ、
         内側の燈よ灯れ、
         尽きせざる
         油壷の燈よ灯れ、

         私の神はいつまでも、
         その小さい燈を
         私のために
         保護してゐて下さいます。

         神は私にとつては
         光そのものです。
         私は闇に坐る日の永いことを
         少しも悲しみません。
     
           一九二六・一一・二九 

                             賀  川  豊  彦
                                武庫川のほとりにて



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補記

なお、先に挙げた本書所収の名品「小屋日記」は、「賀川豊彦『一粒の麦』を再版する会」によって、2010年7月に『賀川豊彦 蒲郡療養日記 小屋日記』という小冊子として出版されており、賀川記念館においても手に入れることが可能です。


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これの巻頭には新しく、賀川督明さんの次のような解説が付けられていますので、取り出して置きます。

なおこの解説の末尾にはしかし「差別的な言い回しがあり、削除をお願いした」と書かれ、賀川督明さんの視点が明記されています。こうした視座に関する私自身の批判的な見方は拙著『賀川豊彦の贈り物―いのち輝いて』の中に、いくらか立ち入って言及していますので、ご一読頂ければ有り難く存じます。

削除された部分は明示されていませんが、賀川作品のような歴史的作品の削除処理には大きな疑問を残します。ともあれその問題も含めて、ご一読ください。


           *         *


            『小屋日記』復刻にあたり

                                  2010年7月10日
                                  賀川記念館館長 賀川督明

 1907年3月、十八歳の賀川豊彦は明治学院神学部予科を修了する。新設の神戸神学校に転入学するまでの半年間、当時、和知牧太牧師が牧会する岡崎教会、長尾巻牧師が牧会する豊橋教会の応援伝道をした。豊橋で路傍伝道中に倒れ危篤に陥るが、長尾家のあたたかい介護により一命を取り留めたのだ。長尾巻牧師の豊橋地域への取り組みは、その後の豊彦の心に通奏低音となって、一生を形づくったといっても言い過ぎではない。『小屋日記』は、その翌年1908年の夏に、蒲郡の府相海岸における療養中に書かれたとされている。豊彦十九歳。

 『小屋日記』は、はじめに書かれたときから19年後の1927年に発表された。当時は、関東大震災の4年後にあたり、さまざまな救援・復興事業やセッツルメント活動が発展した時期である。また、帝国経済会議移民部会及び住宅部会の委員や政治研究会の創設、杉山元治郎らとともに労働学校や農民福音学校を開催し、全国をまたにかけてコミュニテイづくりと人づくりに奔走していた。その分刻みのモーレツスケジュールを抱えた豊彦が、蒲郡療養中の主人公を「なんと幸せな奴だ」と羨ましく思う気持ちは、豊彦独特のものであろう。療養中で何もできない主人公は、はたから見ると優雅に暮らしているようだが、志を持ちながらも死線を越えられるかどうかの不安や焦りがないわけがない。『小屋日記』に書かれていることを文字通り受け取っていいものかどうかは、余裕で生きている今のわたしにわかるはずもない。いずれにしても、弱き者であり、人に支えられた人生を、豊彦がどのように受けとめていたのかを探る貴重な記録が、三河の人たちの努力によって復刻されることを心より感謝するものです。

 膨大な社会貢献を果たしながらも、優性思想的な主張を戦後まで持ち続け、ハンセン病患者を隔離する側に立ち、差別文章を数多く残した豊彦を継承していくモノにとって、その歴史を検証し現在における自らの思想と立場を振り返り実践していくことこそ、与えられた道と思う。

 この『小屋日記』にも、いくつかの差別的な言い回わしがあり、編者に削除をお願いした。豊彦が犯した過ちを隠そうという意図ではない。削除せずに「原文ママ」などという処理が、差別されて今を生きている人にとっては、通用しないからである。

 それでもなお、わたしはプラスの部分とマイナスの部分を合わせ持つ、豊彦の存在を素直に喜びたい。それはマイナスの部分が、痛みのシェアの存在を常に問いかけ続けてくれるからだ。







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