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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第43回『聖浄と歓喜』)

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須磨離宮公園や西山公園まで出掛けなくても、毎日散歩をしているすぐ近くの公園にも、立派な梅の木があって、凛とした姿を見せていました。





賀川豊彦」のぶらり散歩
   

  ―作品の序文など―

第43回

               聖浄と歓喜


          昭和4年3日25日 日曜世界社 271頁


 本書『聖浄と歓喜』は全集に入っていませんが、これもその多くが賀川豊彦の講演筆記を個人誌『雲の柱』に毎月掲載されていた作品ですが、当時の『雲の柱』の宣伝広告には『献身のすすめ』という書名がつけられていました。

 まず表紙と裏表紙の英語タイトルをスキャンして置きます。恐らくこの著作もカバーがあったはずですが、手元にある古書は、この裸のものです。


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 なお本書は「魂の捧供(まつり)―聖浄憧憬篇」と「弱きものの誇りー悪戦苦闘篇」の2部構成でできていますが、後にそれらが二分冊にされ、昭和17年に「改定版」として、前半は本書の書名のままとし、後半は『復活の福音』という新しい題名で、それぞれ同じ日曜世界社より出版されています。


 『復活の福音』の方には、賀川の当時の新たな序文がつけられていますので、改めて昭和17年の著作を取り出す段階で触れることにいたします。



              *       *


それでは今回も、本書の「序」を読んでみます。そして最後にスキャンもして。



                    序

 私は聖浄(きよ)くなりたい。
 私は罪と穢れから離れて、天の使いのやうな聖浄潔白のやうなものになりたい。

 私一人だけがさうなりたいのではない。
 私は、私の隣人をも、私の民族をも、私の國家をも、私の住んでゐる教会をもさうあらせたい。

 然し私は、仙人の真似をしたくない。
 私は「黄金律ナッシュ」のやうに、全工場をあげて、キリストの生活に即した職業の潔めを持ちたい。

 人一人が潔まればよいのではない。
 文物、制度、職業、法律、教育、経済、すべてが潔められなければならない。

 求むることによって奥へられ、尋ねることによって會ひ、門を叩くことによって開かれる。
 浄められたいと思へば、浄められ得るものである。

 しかし私は、聖浄といふことを聖愛といふことから分離して考へられない。
 聖浄とは聖愛に充たされたものを云ふのである。

 神によって愛を意識した場合に、神聖が彼の胸に宿ったのである。
 聖浄の道を困難な道と考へてはならない。

 神によって孕まれたるものはすべて、愛につき、聖浄に属く。
 聖浄は人間最後の完成の姿であり、生命芸術の最後の階段である。

 私は凡ゆるものを超えて、この聖浄の世界に帰ってきたい。

 この書は、いろんな機會で私が話した聖浄についての瞑想を、
 私の友人達が筆記してくれられたものである。
 今これを一冊の小冊子に纒める場合に、改めてそれらの友人達に感謝する。

  一九二九、二、二〇
                                賀  川  豊  彦
                                  摂津武庫川のほとりにて



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