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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第50回ステッド著『キリスト教社会愛史』翻訳書)

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前回に続き、横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』より。





賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第50回

            
          ステッド著『キリスト教社会愛史

            賀川豊彦・竹中勝男共訳


            昭和5年5月3日 新潮社 411頁


 賀川豊彦にとっては、新潮社からの出版は本訳書『キリスト教社会愛史』が初めてものではないかと思われますが、冒頭の7頁にわたる賀川の「序」が収められていますので、早速、本書の表紙と扉、そして「序」を取り出して置きます。

 この長文の賀川の序は、当時の賀川の思想を知る上では、たいへん興味深いものです。

 尚本書は、昭和5年に入って『貧乏人物語』(32頁の講演集・非売品)に続いて2冊目の書物で、前年(昭和4年)11月にそれまでの西宮・瓦木村より再び東京市外の松沢村へ移転しているので、本書の「序」の末尾にはこれまでの「摂津武庫川のほとりにて」にかわって「武蔵野松澤の森にて」と記されています。



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                    序


 ローマ帝政の道徳的発狂時代に、純潔と奉仕と神への精進を誓ふて、地下のカタコムにまでもぐり込んだのは誰であるか? 社会の上層建築は腐敗しても、下層の奴隷階級は、大工イヱスが流した赤い血に染められ、愛による冒瞼をおぼえた。

 あゝ、パラボラニよ。黒死病は町を襲ひ、屍は算を乱して街頭に捨てられた日、被迫害者である彼等は、愛のために、迫害者の病床を看り、自ら斃るる日は近づいても、微笑しつつ敵をも祝福することを忘れなかった。この勇しい價値の転倒に道徳的発狂文化は、忽然として超道徳的相愛文化に復活した。

 ローマの地下四百哩の長き坑道に、四百萬の屍は埋められてゐる。これら無数の潜伏者は明るみに出でざる愛の胎生児であった。彼等は抵抗することもなく、黙々として神に近付き、神に近づくことによって、相愛互助の世界をまどろんだ。

 チュートンもケルトも、まだ野蛮の域を脱しない食人種の異風を守ってゐた時、嘗て想像もしなかった、天来の愛の福音を実行の上に現したのは誰であったか? 聖マルチン、聖ボニフェース、聖パトリツク、彼等を思出すだに、我々の胸は躍る。マルチンもパトリツクも、彼等の郷土にとっては、福音書の著者以上に神話的人物になった。それ程彼等の愛の福音は、北限の諸民族に衝撃を與へた。それから後、聖ベニヂクトの一派、聖ベルナードの弟子達の努力は、また我々に大きな天啓を與へてくれた。

 十三世紀の聖徒、アッシジのフランシスの存在に就て考へるも、彼の社会愛の実現は、人間離れがしてゐる。その後、宗教革命が起り、独逸の農村に宗教的共産主義が行はれ、欧州に社会主義の発芽を見るやうになったが、聖愛を基礎にしたものは、今尚高い香を我々に残してゐる。南独逸のモレヴィアの一團、そこからは今尚世界を祝福する兄弟愛の泉が流れ出てゐるではないか。ウェスレーも、ブースも、アメリカに於る奴隷解放の運動も、少なからずそこから愛の泉を汲んでゐる。

 歴史を唯物的にのみ見んとする人々は、骨格のみによって人体が出来てゐると主張するに均しい。私は骨格を否定するものではない。しかし、血と、生命と、精紳は、骨格によって説明出来るだらうか。心理的結合なくして、真実の社会が出来上った例が、世界にあるだらうか。社会の連帯意識は、互助愛意識より進化し、母性愛よりも高く、人種と階級と、経済的断暦を浸透して、自分に敵對する者まで許し、罪人までをも自分の同類項として贖はんとする絶對意識――私は斯ういふ言葉を使ひたい、――つまり良心生活に於ける最も深い處で、最も高い神的意識に入る贖罪的十字架愛に到達して、初めて共同社会が完成するものと私は考へる。

 何人が善き社会を造るにしても、この良心の位取に於て絶対愛の意識にまで、即ち、徹底的に、最後の罪悪までをも贖はんとする絶対的連帯意識に目醒めるまで、共同社会の実現はあり得ない。この絶對愛への進展は、キリスト教と呼ばれた贖罪愛の実現運動に系系統ひいてゐる社会愛の測定によって、我我は頗る大きな唯心史観の実証的一面を発見する。

 咄物史観が純済史観を意味するとすれば、経済成立の起因としての生命、力、変化、成長、選択、法則、目的の七要素を無視することは出来ないだらう。そして之等は皆、人間の心理的約束なくして発展するものではない。生命の世界に於ても、労力の世界に於ても、移動の世界に於ても、愛と犠牲の存在なくして、共同生活は不可能である。況んや成長と選択の世界に於て猶更のことである。生命の世界に於ては母性愛の犠牲があり、労力の世界に於ては共同愛の発生が必要とせられる。土地占有は人類の移動を碍げ、文化の成長に先駆者の犠牲が要求せられる。恋愛は選択を意味し、人類進化のために、各種各様の愛が必要とせられる。

 だから、聖パウロも愛は法律を完成すると云ふてゐる。愛は社会生活に於る至高の法則であり、そして目的である。

 即ち、今日の金銭欲から出発した経済社会は、擬似社会であって、我々が実現せんとする真正社会でない。真正の社会は絶對愛を意識の中心に置く連帯社会である。即ち贖罪意識を各個体が持ち寄って出来上る聖愛の社会である。使徒パウロは、この最後の社会の楷梯を「エクレシア」(聖社会)と呼んだ。

分裂愛の社会は分裂社会を生み、分裂した集團の中に互助愛は行はれても、凡てを含んだ全体愛は発生しない。分裂しさったものを許し贖はんとする贖罪愛の運動が、十字架愛のキリスト運動であった。

 そしてこの事は、まだ多くの倫理學者にも、社会學者にも、宗教學者にも、充分意識されてゐない。クロパトキンも、へンリー・ドラモンドも、エルードも、ラウセンブッシュも、この贖罪愛について充分意識してゐない。ラウセンブッシュは唯それを社会的に考へたけれども、それを個性的に、また、内省的にひき直すことを忘れてゐた。然し、真正の社会を生み出すために、道徳心理の内部構造から建て直さなければならない。それは充分個性的であって、初めて充分社会的になり得る。これを電気に譬えてみれぱ、凡てがイオン化して電磁気作用が起こって来るやうなものである。荷電装置なくして大きな力とはならない。我々の個性凡てが、霊魂の奥底に於て、憎しみと、淫猥と、虚偽と、自己満足と、自我狂的存在より解放せられて、霊魂の中に最も高い神のやうな姿が彫りつけられ、更に進んで、他人の罪悪のために、喜んで十字袈をも担うふといふ勇敢なる決意が浮び上らなければ、共産社会の出現などは絶對に望まれるものではない。

 私は確信する。共産社会はまづ共同社会から始らねばならぬ。それが経済的基礎を必要とするならば、前に述べたやうな愛が必要とせられ、経済的基礎が先行しなくとも、それが人間社会である以上、メーリングがその「唯物史観」に於て述べてゐる如く、精紳的要素なくして決して成立するものではない。かうした意味で私は、近代資本主義社会に於いて、最も馬鹿にせられて来たキリスト教社会愛史を再調査する必要を感じた。

 事実は事実である。それは闘争の歴史でもなければ、経済史観でもない。。勿論それは唯物史観でもあり得ない。あるものにとっては、それは欺瞞なブルジョア道徳の歴史であるかも知れない。

 云うものは何とでも云うがよい。私は事実の上に立脚する。この愛の歴史的発展は、時代によって消長がある。然し、それは決して止むことはない。人類が進化すれば進化する程、この愛に對する反省と憧憬は深くなるぱかりである。

 千九百年来、滾々として尽きない、この不思議な社会愛の歴史に就て私は深く瞑想する。何と云ふ不思議な歴史だらう。それは利益を基礎にせず、血肉によらず、名誉のためでもない。ただ不思議な十字架の上に死んだと云ふ大工イエスの愛の意識を基準として、地球の表面に流出た不思議な努力であり、また殉教の記録である。それは教條の歴史でもなければ、理論の記述でもない。それは十字架の連続史であり、聖愛の流血史である。この血の記録は、人間のために人間が流したものではない。神に對する愛の感激から、そして恩寵に對する礼賛の歓喜から、已むを得ずしてでなく、最も自由な気持で、書き上げられたものである。であるから、この愛の歴史は、不思議なる宇宙の愛に感激したものが綴ったものであって、宇宙の愛の連続だとも云ふことが出来る。哲學者ショウペンハウェルは、恋愛を無意識的な宇宙意志に縁故を求めた。然し私は、愛の歴史を瞑想することによって、人間の愛が、神と云ふべき宇宙の愛に源を発してゐることを考へる。ショウペンハウェルのやうに、宇宙の意識を無意識と考へるには、それが、除りに賢こく情深いことに、私は驚嘆してゐる。

 私にとって、大自然は神の体であり顔である。私はただ毎日、大自然に書かれた歎異鈔を味ひ続けるのみである。私は、かうした意味に於て、このステッド氏の「キリスト教社会愛史」の訳本を日本に送出す。原著者は、私が會ふことを得なかった尊敬する英國の友人の一人である。彼は屡々私に手紙をくれた。彼はかの有名なる人生詩人ロバート・ブラウニングの友人であり、彼を記念する為に建でられたプラウニング館の館長であつだ。彼は労働者のためにながく働き、ブダウニング館と云うのも、貧民窟の隣保事業として建築せられたものであった。ステッド氏は英國の労働組合の為に、また英國の老人幼年工のために隨分尽くした人である。彼は彼の著作の凡ての翻訳権を私に呉れた。私は彼の思想の凡てに共鳴するものではない。ただ彼と私とは、キリスト教史の見方に於て相一致する處があり、イエスを見る見方に於て、まことに相似たる處がある為、私は竹中勝男氏と共に、彼のStories of Social Christianity 即ち此處に私が「キリスト教社会愛史」と呼ぶ處のものの翻訳に手を着けた。この訳文に主なる努力を払はれたのは、竹中勝男氏である。私はその校正を見せて貰ったにしか過ぎない。然し、翻訳を竹中氏に依嘱したのは私であり、この翻訳に對して責任があるのも、また私である。

 私は、イエスが「汝ら互ひに相愛することによりて我弟子たることを知るべし」と云はれたことによって、愛はキリスト教の根本だと考へてゐる。この意味に於て、私は、この書が深く社会に理解せられると共に、この種の愛が、社会に実現せられることを祈って止まない。

    一九三〇・三・二九
                     賀  川  豊  彦
                                   武蔵野松沢の森にて





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