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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第57回小説『一粒の麦』)

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今回も続いて横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』(昭和27年)より。




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第57回

   
              小説『一粒の麦


         昭和6年2月1日 大日本雄弁会講談社 374頁


 小説『死線を越えて』3部作の後、昭和3年に『南風に競ふもの』を小説として完成させた賀川は、ここにさらに小説『一粒の麦』で人々の心を掴みました。

 版元は、大正15年に『賀川豊彦大講演集』を出版した大日本雄弁会講談社です。

 本書に関する「解説」は、武藤富男氏のものがあるので、それを今回ここには取り出して置きます。

 本書は戦後早く(昭和22年)、読書展望社より再刊されていますが、先ず手元にある原書とその扉、そして昭和28年に社会思想研究会出版部の発行する現代教養文庫の表紙と扉にある賀川の写真、並びに同社刊行の教養文庫の「新版」、そして2007年に本書を再販する会の出した『一粒の麦』をUPいたします。

 なお、現代教養文庫には木村毅氏の「解題」が入り、教養文庫には尾崎秀樹氏の「解説」が、最新の再販には日野原重明氏の「序文」が収められています。



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       武藤富男『賀川豊彦全集ダイジェスト』276頁~280頁

             『一粒の麦』について 

               一、声価と梗概

 小説『一粒の麦』は雑誌『雄弁』の昭和四年十一月号から昭和五年十二号に至るまで、十四回にわたって連戦されたもので、当時『雄弁』は三万部の発行部数をもち、主として目本の青年層に読者をもっていた。この小説の評判がよいため『雄弁』の発行元である講談社はこれを単行本として昭和六年二月一日附で出版した。初版の発行部数は、講談社に問合せても不明であるが、版を重ねて売上部数が八万六千部に達したことは、同社の記録に示されている。

 このことは『一粒の麦』が当時の青年男女にどんなに深い感激をもたらし、一般社会にどんなに広く道徳的宗教的感化を与えたかを証明している。

 そこで先ずこの小説の梗概を述べた後、文学としての評価、作者の意図、元デルとなっている人物などについて語ろう。

 豊橋の材木屋に勤めていた十九歳の嘉害は色町の誘惑に落ちて、店の売掛代金五円を着服する。それが苦になって彼は店を飛出し、豊川の上流にある上津具の生家に帰る。彼の生家にはアルコール中毒の父と、心やさしく勤勉な母と、せむしの弟と一人の妹とがいる。一番上の姉は名古屋に芸者に売られ、次の姉は朝鮮へ娼妓に売られ、兄は岐阜の傘屋に丁稚(でっち)にやられていた。

 嘉古が帰ってくると問もなく、父は中気になり、せむしの弟は踏台から落ちて立てなくなる。生家の苦境を見て嘉古は近所の水車小屋に勤めて、一家の生計を助けることになった。

 或る目、彼は水車小屋に犬九匹と猿一匹をつれた猿まわしの男が泊まっているのを見出し、これと知合いになる。また隣家の鍛冶屋のおかみさんの親切によって、ここに働くことになり、このおかみさんに誘われて下津具に伝道所を開いている村野与吉先生の集会に出るようになる。

 正月になって嘉言は山の仙人と呼ばれる猿まわしについて信州に近い町や村をまわった。門づけをする仙人の後にいて太鼓をたたく役を承ったのである。この仙人から彼は立体農業による日本の開発と食糧政策について話を聞き、山と農業とに興味をもつようになる。

 村野先生の集会に出て、嘉言は初めてさんびかをきき、聖書について話をきき、天地の唯一の神について知るようになる。

 春になって嘉古は、母の父の三年忌に列するために、母の里、蒲郡の伯父の家を訪れることになる。彼は鍛冶屋の主人から賃金五円を前借りして、蒲郡へ行く。そこへ行った翌日、彼は豊橋に向かい、横領した五円を主家に返し、良心の苛責を免れる。

 蒲郡の伯父は船大工である。嘉吉は法事に列した後、蒲郡名物の帆走会見物に連れて行かれる。伯父の操る帆船はこのレースで一等になったか、敗れた他の町の若者たちが殴りこみをかけてきたため、喧嘩となり、流血の惨事が起ころうとした時、嘉吉は中に割って入り、擢で頭を打たれたが、ひるまず「けんくゎをよせ」と叫び、そのため騒ぎを食いとめることができた。

 負傷した嘉吉は村の英雄のように扱われ伯父の家で静養する。その間に、女工の芳江と知合いになる。傷が治って津具の家に帰った嘉古は芳江からしばしば手紙をもらう。

 嘉吉の兄佐助は岐阜の不良少年団の仲間に入り、検挙されて入牢する。名古屋にいた姉は遊廓を逃げ出し家に帰ってくる。保釈になった佐助はルパーシカを着て家に帰ってくる。姉の恋人という男も家に入りこむ。佐助とこの男とは共産主義者を気取り酒を飲み、姉は懶惰な生活をして一家を困らせる。

 嘉吉は村野先生の感化を受けてキリストの愛を実践するようになり、村はずれの木賃宿の納屋に寝ている癩病人とその子とを見舞い、傷の手当や糞便の世話までしてやる。

 やがて彼の姉も家を去り、姉の恋人も兄の佐助も家を去り、嘉古と母は、厄介者から解放される。しかし佐助は警官を殺して起訴され未決監に入れられる。苦難の中にあって嘉古は次第にキリストの贖罪愛の信仰に入って行き、迫害のうちにあって村における禁酒運動を開始し、癩病人とその子のめんどうを見つづける。朝鮮に娼妓に売られている姉は死に、父の中風は悪化する。間もなく徴兵検査があり、嘉言は甲種合格となって、翌年の入営が予定される。

 この頃になって蒲郡で知合った女工の芳江は嘉吉のもとに熱烈な恋文をませる。嘉古は豊橋の未決監にいる兄に面会に行く途中、蒲郡によって芳江に会う。芳江は結婚前に嘉吉の家に行って手伝い、彼の入営中一家のめんどうを見ようと申し出る。嘉吉は芳江を『神様が与えて下さった天使』としてこの申し出を受け入れる。

 嘉吉の下座奉仕が、名古屋の新聞に報道されたため、彼は一時は村の誉め者になるが、間もなく村の背徳分子の策謀により地方新聞に中傷記事を書かれる。しかし山林を広く所有する水車の父さんは、嘉吉の人物を見込んで山林を任せるから、これを開発して立体農業をやれとすすめる。山の仙人の話に感動していた嘉古は、村野先生はじめ村の道徳的勢力を結集して協同組合組織を作りこの事業をやることを決意する。

 女工芳江は嘉古の家に来て、母の手助けをし、二人の病人の世話をし、機を織って稼ぎ、家計を助ける。しかし嘉古は芳江と床を別にし、兵役か終ってから結婚することにする。

 山林の開発事業は嘉古への迫害にもかかわらず、着々として進み、同志の協力を得て十町歩の植えつけがすみ、父さんは栗、くるみ、あんず、けやき等の苗木五万本も名古屋へ行って注文して帰ってくる。

 間もなく嘉言は入営し、軍隊生活を経験する。キリスト者としての彼の行動は、しばしば彼に困難をもたらしたが、彼はよく忍んでキリスト愛を軍隊の中で実践する。入営中、兄の佐助は死刑となり、芳江は過労のため病気になる。

 済南出兵で山東に出征した嘉吉は、青島にいる時、父の死の報せを受ける。ついで芳江が病気になったことが母から知らされる。彼は一家のため犠牲となって働いている芳江を思うて祈る。

 午前三時、芳江か青島の兵舎に会いに来たところを嘉吉は夢に見る。間もなく村野先生から芳江の死を報せる電報がとどく。芳江は嘉古の除隊帰郷を待たずに世を去ったのである。

 入営後二年たって、嘉古は村人の歓迎を受けて母のもとに帰る。村野先生と水車の父さんと嘉吉とは芳江の遺骨をもって、立体農業を実行している田口の裏山にこれを葬り、芳江の記念碑を建てることになる。山の仙人も九匹の犬をつれて参加する。

 嘉古の入営中、芳江はしばしばこの裏山に来て植林を助けた。彼らはここを『処女の森』と名づけて棒杭の碑を立てる。それに村野先生は『細野芳江記念碑』と記し、裏に「一粒の麦地に落ちて死なずば唯一つにてあらん、死なば多くの実を結ぶべし、千九百二十八年十月十八日昇天』と書く。

 かくて酒と賭溥と女色とに毒されていた村に、立体農業と協同組合運動による産業の興隆を見、信仰による道徳復興が起こったのであった。

 
          二、文学としての評価と作者の意図


 この作品は賀川の小説としては、文学的価値の高いものである。『死線を越えて』は彼の体験を叙述したもので、自伝小説であるから、これだけをもって賀川の作家としての力量をはかることはできない。しかし「一粒の麦」は作家として書いたものであるが故に、小説の名に値するものである。

 この作品は、文学の型からいえば、純文学ではなく大衆文学である。芥川や藤村や漱石のように、彫身縷骨の苦心をしつつ、芸術品として仕上げた文学ではない。誰にでもわかり、誰にでも読まれるようにと、筆の動くままに書いたフィクションであり、形式からいえば、どの雑誌にでも見出せる大衆交学である。

 しかし内容的にいえば、一定の目的をもつ作品であり、これを貰くものは、キリストの贖罪愛であり、これを縫うものは、立体農業と協同組合思想である。賀川はこの小説により伝道をなしつつ、彼の抱懐する経済思想を宣布しようとしたのであった。

 小説家としての賀川についていえば、恐らく日本の文学界は彼を作家としては受け入れまい。しかし『一粒の麦』は彼を小説家たらしむる潜勢力を具えている。第一にその中には事件(イソシデソト)が豊富である。いわゆるスリルとサスペソスとに満ちており、読者をして巻を措く能わざらしめる。

 太宰治は『人間失格』を書いて名声を博した。失格する人間を書くことは、及格する人間を書くことより容易である。『人間及格』を文学にすることは、なかなかむずかしい。ビクトル・ユーゴー級の作家であって初めてできることである。然るに、賀川は『一粒の麦』において、『人間及格』をとも角も文学にしたといいうる。その意味において、彼は日本の生んだ作家の一人であるといえよう。

 自然や人物や事件の描写力においても、彼は時に大家の筆致を見せる。(時に粗雑なこともあるか。)『説明よりも描写』ということが小説家にとって至上命令であるが、賀川は描写力においてすぐれた素質をもっていたといえよう。ただそれがプロフェッショナルになるには、洗練されていなかったと云える。


                三、作中のモデル


 主人公嘉古の純真な性恪と信仰的な行動とは、賀川の貧民窟伝道を初期の頃から助けつづけた武内勝氏にヒントを得たものと思われる。もう一人のモデルとしては、賀川の少年時代、徳島にあって癩病人の世話をしていた森茂氏が考えられる。五円を横領した事件はこの人に関するそうである。賀川は森茂氏を大へん尊敬しており、貧民伝道への献身は、少年の時この人から受けた影響によるといわれる。山の仙人は武内勝氏の父君を素材としている。この人に犬九匹をつれさせ、猿まわしに仕立てて、賀川の風流雲水的心境と立体農業政策とを現わそうとしたのであろう。武内勝氏の父君は八卦見で、貧民窟の伝道所において賀川に会見し、その人物に惚れこんで息子の武内勝氏を托したのであった。

 一粒の麦となったヒロイン芳江は、賀川夫人春子女史の令妹ふみ子さんで、勝氏と婚約していたが、結婚前に病没した。

 村野先生は、賀川が神戸神学校在学時代(二十歳)胸を病んで蒲郡に静養している時、交わった同地の牧師をモデルにしたものであろう。蒲郡における船大工の生活、帆走会の模様、漁夫たちの喧嘩など、場面が殊に生き生きと描写されているのは、この頃経験したことの印象が深かったためであろう。

 鈴木伝助氏が『百三人の賀川伝』に寄稿した『賀川豊彦素描』によると、何百という蒲郡の漁夫たちが、海岸で二組に分かれ兇器を手にし喊声をあげて突撃し、今にも血の雨を降らそうとした危機一髪の瞬間、賀川がその間に割って入り、喧嘩を仲裁した物語が出ている。帆走会における嘉吉の働きは、この時の思い出を書いたものであろう。



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