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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩―作品の序文など(第61回『神と永遠への思慕』)

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今回も昭和27年に刊行された横山春一著『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第61回


        神と永遠への思慕

      
       昭和6年10月10日 新生社 190頁


 本書『神と永遠への思慕』を出版した「新生社」は、賀川豊彦とどのような関わりがあったのかはわかりませんが、「新生社」は、この歳の暮れには『尽きざる油壷』を出版しています。

 この『尽きざる油壷』はあいにく手元にありませんが、吉田源治郎・黒田四郎・今井よね・吉本健子・深田種嗣によって賀川の講演筆記がなされて出来た作品で、賀川全集にもはいりました。

 ところで、本書『神と永遠への思慕』も「著者より読者へ」の頁には、「この書は、私の最近の宗教思想をまとめたもの」で「これを筆記してくださったの方は吉田源治郎氏、黒田四郎氏及び吉本健子姉である」ことを記して謝意を述べています。


 今回は、本書の表紙と「序」に加えて、特に本文の中から、賀川豊彦の「なぜ私が愛の宗教・キリストの信仰にはいったかを告白」した箇所(19頁~23頁)を取り出して置きます。同様の告白は、何度も何度も話して書き残しているものですが、何度読んでも印象深いものでもありますので・・・・。


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                神と永遠への思慕

                   序

 多数の人々は、大通を行く。砂塵が舞ひ起る。路傍で物乞ひしてゐた盲目のバルテマイは、時ならぬ人混みに、道ゆくものにきいてみた。それは葬式か、婚礼か、大名の行列か、将軍様のお通りか? そして知れたことは、ナザレのイエスが自分の前を通って行くとい
ふことであった。

 そのナザレのイエスなら、今の時を外してはまた会ふ機会はあるまい。長年困ってゐた限病を彼に治してもらふのは、今この時だ。さう考へた乞食のバルテマイは、群衆の過去ったあと、大声をあげて努鳴りつづけた。『ダビデの子イエスよ、我を憐みたまへ。我を憐みたまへ』 弟子はそれを止めた。しかし機会は一度しかなかった。それで、彼はその機会を失ふことを欲しなかった。彼はなほも続けて叫んだ。その声が、イエスの耳に入ったと見えて、彼は足を止められた。

 『何の用ですか?』イェスはきき質された。
 『主よ、光が見たいんです』
 『さうですか、信仰の通りになりますよ』

 さうしてイエスは、この盲者に光を回復し給ふた。

 『光が見たい、光が見たい! 宇宙の奥底まで光が見たい。なぜ、動物と植物と違った形で、宇宙の生物が伸びて行くか? なぜ、生物は数十万種類に分れて、進化の道を辿らねばならぬか? 人類の運命はどうなるか? この痛ましい人間の闇路を、どう切開いて行けばいいか? 光が見たい、光が』

 私は、エリコ街道の盲目のバルテマイである。光を見たいのは、千九百年前の乞食だけではない。私も、永久の光の乞食をして、イエスに光を回復してほしい。そして恐らく私の光に対する慾望は、永久に止まることはないだらう。あゝ光が見たい、光が見たい。
真夜中に、真昼に、黄昏に、夜明に、光がみたい。まばゆい太陽の光線の奥に秘められた不思議な真理について、光が見たい。あゝ光、光! 私は永久の光が見たい。私は、貧しくとも、神についての光を見究め得るなら、これで死んでもよい。恐らく人間は、富むことより光を見ることの方を望むだらう。

 ソロモソ大王が、神より祈の許可が出た時、彼は、富も権力も希望しなかった。彼は、智慧を与へ給へ、と神に祈った。そして私の祈も同じことである。私は、神と永遠についての光を毎日祈ってゐる。

 私は、大陽も月も不要な光の世界に住みたい。私は、鉱物に近づけば、鉱物の真理を悟り、植物に近づけば、植物の腹に徹する光を欲しい。更に、動物の愛と生存競争につき、人類の煩問と、社会の改造と、宇宙の運命について光が欲しい。私は永久の求道者である。そしてありがたいことには、光線体の如く、イエスは真理を体現して、歴史の上を闊歩せられた。私達は、彼を見ることによって、宇宙実在者の姿がわかったやうな気がする。即ち宇宙の本質に愛かあるといふ、愛の真理か、彼によって、よく徹底した。

 宇宙は光で出来てゐるのだ。物理学者はさう教へてくれる。それを我々がゆがんだ眼で見てゐるために、光として見えないのだ。それにしても、宇宙の構造は、深くさぐりを入れれは入れるほど、我我を不思議な世界に導く。それはもう精神といふ言葉で現すことさ
へ、言葉が足りない。私はただ、光で出来た社会が、艶消しをして、いろいろな形に現はれてゐることを、虹の世界以上に不思議に思ふ。私は、大自然の不可思議に驚倒して、ただ、神が私に何を語り給ふかを静座して待つ。私はしづかに神の黙示に瞳を据える。神は物質と見えるスクリーンの上に、いろいろな不思議なる現象を私達のために現し給ふ。そして、私それ白身も、またこのスクリーンの上に躍らねばならぬ役目を持ってゐる。不思議、不思議! 私はただ、大能者の前に跪座して、その後光を拝するのみである。

                               賀 川 豊 彦

                            (一九三一・六・二四 武蔵野の森にて)



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             第二章 神と永遠への思慕

(前略)
 此処で、何故、私か愛の宗教キリストの信仰に人つたかを告白しなげればならない。

       私の懺悔

 私の父は阿波の人間だった。私が何故、宗教もあらうに西洋から来た宗教を信じたか? 併しも早や、私の宗教は西洋の宗教ではない。私の宗教である。私の家は阿波の板野郡の十九箇村の大庄屋たった。父の正妻には子がなかった。私は妾の予て、私の母は芸者だった。私は妾から貰はれて来て、父の正妻の予になった。戸籍の表面はきれいで私は公民権を持ってゐるが、私は小さい時から日蔭者として育った。私は母の事を聞かされると胸の中が膿付いた。私は義理の母から、お前の母は芸者だとよくいはれた。
  
 人間は不思議なもので、自分の予供に、自分の長所も短所も現れてゐるものである。不思議に人間は子ども、孫、曾孫の系統に対し、魂のトンネルを掘つてゐるものである。自分の魂と子の魂に聯絡がある。私は母の系図を知らない。私はさういふ家庭に育ったから、
純潔に就ては特別に感じた。私には、父の放落と母の芸者だったことが遺伝してゐるだらう。だから自分もその道に行くだらうと思つてゐた。

 十一歳の時、禅宗の寺に毎日通はされて、論語と孟子の教を聞かされた。そして聖人になれ君子になれと教へられた。が、私の血の中には君子の血筋はない。之等の書物は実に厭な感じを私に与へた。家は淋しいし、蔵の中には文化文政吽代の淫本が沢山ある。さういふ家庭にあつて、神聖なる教育をうけなかった私に、論語と孟子の教は役に立たなかった。これは駄目だと思った。

 私の兄は十六の時から妾狂ひを始めた。兄は数人の妾を持った多淫な生活をしてゐた。私は中学へ行くのに芸者の家から通った。兄は放蕩だし、私も芸者の家から学校へ行つてゐた位だから、私もまた沈没するだらうと思つてゐた。芸者の家には仏壇もあり、神棚もあって、朝々塩をまき、盆には美しく飾るが、さういふことは別に魂に閃係がなかった。

 私の魂はいつも泣いてゐた。孔子は何千年か前に出たが、私に関係がないと思ってゐた。その時に聖書が私の手に入った。『凡て労する者、重荷を負ふ者われに来れ、われ汝らを休ません』(マタイ一一・二八)とか『健かなる者は医者を要せず、ただ病める者これを要す』(マタイ九・一二)とか記されてゐた。私は医者の救を要求してゐた。キリストは罪人の医者だった。神の力をもって魂の中に傷ついた者を癒してくれた。「女を見て心の中に色情を起すものは姦通したのと同じだ」と聖書に書かれてゐた。自分も罪人だ、どうしたら、けがれざる者になれるかと考へた。日本の学校生活はどうしたらきよめ得るか、今も私はそれを考へてゐる。

       遺伝の幽霊

 私に英語を勉強することを勧めた兄は、耶蘇牧だけにはなるなよと注意してくれた。そして兄はとうとう芸者を家に入れた。イブセンの「幽霊」といふドラマを読むと、父が妻を棄てて女中と一緒になった。息子もさういふ道をたどって、罪悪が幽霊のやうになって呪ってゐることが書いてあるが、私も、罪悪の幽霊が私を悩ましてゐる、いつになったら私は救はれるかと思ってゐた。

 ところが、キリストの宗教は、何と高く、また低いことだらう。私は聖書を読んで、さうだ、野の百合のやうに天真爛漫にかへらなければならないと思った。私を生かしてくれてゐる生命の神を私は信じ、百合の花を生かし給ふ神を私は信じようと決心した。

 それから毎晩、私は床の中に這入ってお祈をした。『私にきよい生活を送らして下さい、父や兄貴の道を踏まないやうにさして下さい。どうか日本を娼妓のない国にして下さい』と祈った。

 今でも、その時蒲団の中でこっそり祈った祈を、私は忘れてゐない。そしてこの祈が私の一生を支配してゐる。日本の多くの青年に、これと同し煩悶があるのを私は知ってゐる。聖書に出てゐるこの純潔さを忘れて、何の人間であるか! 私はこの宗教を一時だって忘れることは出来ない。私がキリスト教になったといへば家を追ひ出されるから、私は黙っで蒲団の中でお祈を続けた。

 明治三十七年一月三十日に、私は西洋人の先生の処にキリスト教の本を借りに行った。その先生は『賀川さん、あなた、神があると思ひますか?』ときいた。『はい、あると思ひます』『祈ってゐますか?』『祈ってゐます』『何処で祈ってゐますか?』『蒲団の中で祈ってゐます』『ではあなたはキリストを信じてゐるんですね?』『はい信じてゐます』『では洗礼を受けませんか?』『洗礼を受けると家を追出されます』『卑怯ですね』『卑怯? それなら私は洗礼を受けます』それから私は洗礼を受けた。

 父も祖父も歴代放蕩であった私の家は、四代の間妾の子が家を継いだが、私の代になって初めて消えたのである。これはキリスト・イエスの力である。無限の神を地上に引下して、神のやうに地上を歩いたけがれないイエス・キリストの血により守られたのである。
                                      (20頁~23頁)




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