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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第71回小説『東雲は瞬く』)

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これまでしばらくの間、このブログの冒頭に、昭和27年に刊行された横山春一氏の著作『隣人愛の闘士・賀川豊彦先生』の写真入り増補版のなかから写真をUPさせていただきましたが、今回からは、賀川豊彦記念の1988年に東京堂出版より記念出版された『賀川豊彦写真集』(KAGAWA TOYOHIKO』の中から掲載させていただくことにいたします。今回は、そのカバー表紙です。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第71回


  小説『東雲は瞬く

   
     昭和8年6月20日 実業之日本社 466頁


 今回の長編小説『東雲は瞬く』は、実業之日本社の発行する雑誌『主婦之友』の昭和5年8月から昭和6年7月まで連載された作品で、賀川がハンセン病問題の解決を願って書き上げたものです。

 本書も小説ながら賀川の「序」が入っていますので、表紙と共に取り出して置きます。

 なお、日本におけるハンセン病問題の解決は、長期にわたる強制隔離政策のもとで、際立った人権侵害を強いてきた歴史を刻んできており、その歴史的な批判的検証作業も進んできています。

 ここでは、この小説が『賀川豊彦全集』に収められた折りに書き止められていた武藤富男氏の「解説」の一部を資料として収めて置きます。



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                   東雲は瞬く

                     


 愛は人を復活させる。それが、どんな小さい愛であっでも、愛は流れ流れて多くの人を潤す。今日、私達はパンの飢餓や金銭の欠乏に泣くよりか、愛の飢饉の為めに泣いてゐるのである。然し、全能者は、地の涯に、まだ愛の泉を隠してゐられる。私がここに書き綴った物語はその愛の泉の記録である。

 日本はどれほど悩んでも、この愛の泉が枯渇しない間は悲観する必要はない。日本にはまだまだ残された仕事が多くある。そしてこれらの残された仕事には多くの入柱を必要としてゐる。その残された仕事の一つを中心としてどんなに不思議だ奇跡が起りつつあるか
を考えヘるときに、私は生きで行くことの不思議を考へずには居れぬ。

 私たちは、この不思議な生命に捧げて、日本の救の為に愛の泉を掘りつづけねばならぬ。

 幸いなことに、この小説に書いた聖い女にも勝って、聖く勇ましく働きつつある人々を私は幾人か知つてゐる。さうしたことが、払をして、この小説を書かしめた。私は彼等に感謝する。彼等に祝福あれ! また彼等の後継者よ、多く出で来い! 日本は、それらの人々にのみよつて、神の国に化することが出来るのである。

                              賀 川 豊 彦 
                                   武蔵野にて



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 次のものは『賀川豊彦全集ダイジェスト』293頁~294頁の武藤富男氏の解説です。
 昭和41年に発行されているもので、当時のハンセン病に関する認識の限界も認められる歴史的資料として、そのままここに掲載して置きます。


               『東雲は瞬く』について


              一 賀川の救癩運動と本書


 『東雲は瞬く』は救癩思想の普及を意図した大衆小説である(本全集第十七巻解説参照)から、先ず賀川と救癩運動との関係を述べよう。横出春一著賀川豊彦伝によれば「後藤安太郎などが、小林正金から癩病患者の話を聞いて、全生病院に慰問に行ったことから、癩問題に対する関心が高まった。そして大正十四年六月十目、日本MTL(ミッションーツー・レ―パーズ)の誕生となり、賀川のほか、小林正金、光田健輔、遊佐敏彦、斉藤惣一などの後援のもとに、後藤安太郎と鈴木恂が斡事として尽力した』とある。(同書二四六、二四七頁)これが日本救癩協会の前身である。

 当時の事情を今井よね女史は次のように語る――『大正十三年、賀川の渡米後、YMCA社会部の鈴木恂とイエスの友会の後藤安太郎、今井よね、清水廉等が村山全生病院に癩患者を見舞ったところ、病院長の光田健輔は、癩者を見舞い慰めてくれる人人が国民一般の中にいない時に、YMCAとイエスの友会の方々が訪れてくれたのは感謝に堪えないと大へん喜んでくれた。その結果光田と前記四名の者が集まって救癩の運動を起こすことになり、日本MTLが翌大正十四年に結成された。賀川が帰朝したのでこのことを報告すると、賀川は「イエスの友会は国民病撲滅のために力を致さねばならないが、国民病とは、結核とトラホームと花柳病とをいうのであり、そのほうに力を入れねばならぬのに、癩病のほうに乗り出しては力が分散する、僕は知らん」と言ったが、その後、次第に救癩にも関心をもつようになってきた。この時から一、二年たって、賀川は兵庫県明石にあつた癩病院楽生病院を助け始めた。ここに癩病の新薬を発明した人があり、これを試みると効果があるというので、賀川はこれに興味をもったが、光田健輔はこの薬は利かぬという意見であった。楽生病院には大野悦子という婦人かおり、この人が中心になって患者の面倒を見ていた。楽生病院は個人経営であり、後に経営困難に陥り、十数名の患者は長島愛生園に引取られて行った。楽生病院からは明石海人という癩患者の詩人があらわれた。』

 大正十五年七月には、賀川は眼病後の養生のため、草津鈴蘭園に転地、八月末まで滞在し、三上千代子女史のもとにあって、癩の研究をなし、湯の沢にある十三軒の癩病人宿を訪れて講演し、彼らを励ました。

 横山春一著賀川豊彦伝年表には昭和二年(一九二七)の部に次のように記されている。
 『五月 兵庫県明石癩病院楽生病院の経営を援く
  五月 上州草津鈴蘭村の三上女史後援会を起す』

 戦後日本MTLは目本救癩協会とも呼ばれ杉山健一郎を主事として救癩運動をつづけてきた。

 本書のヒロインは橋本明子であり、これは明石楽生病院において働いていた大野悦子をモデルとしたものであろう。明石楽生病院その他の病院は実名が使われており、明子をめぐって登場する人物のうちには賀川の作った架空の人物もいるし、またモデルとなった実在の人物もいる。光田健輔の如きは実在の人物をそのまま描いている。

 賀川はこの書によって、癩病が伝染病であって遺伝するものでないこと、国民は救癩につきもっと熱心にならねばならぬこと、キリスト精神は救癩事業において実践されていることなどを人々に知らせようとしている。






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