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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第74回『聖霊に就いての瞑想』)

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上は『賀川豊彦写真集:KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第74回


  聖霊に就いての瞑想


     昭和9年3月28日 教文館出版部 144頁


 これまでに教文館出版部より刊行されて連作『神に就いての瞑想』『キリストに就いての瞑想』『十字架に就いての瞑想』に続いてこの『聖霊に就いての瞑想』がまとまり四部作が完成することになり、後に教文館は四部作を箱入れにして刊行しました。

 今回も表紙と「序」、そして「著者より読者へ」をスキャンしてUPします。
 本書は吉本健子氏の筆記によるものです。手元のものは昭和11年の再版のもので、巻末に「正誤表」がつけられています。



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                   聖霊に就ての瞑想

                      


 静かに眼を見張って私の周囲を凝視すると、宇宙はあまりにも、厳粛に私に迫ってくる。物は神の衣である。

 私には、どうしても、物質が神とは縁の無いものであるとは考へられぬ。それは不思議の不思議、奇跡の奇跡である。物質は神の衣である。私は、神のみを知って、神の衣を無視することば出来ない。神は宇宙を衣として纏はれ、宇宙を神の衣裳として居給ふと云ふことを、私はつくづくと感する。旧約の詩人は『神は雲を衣とし……』と歌っているが、私は神が物質を衣としで纏ってい給ふことを惑ぜずにはをれぬ。

 町の百合に、小川の小石に、地殻の断層に、海に、空に、砂漠の砂丘に、私は、神の意匠を感ぜずには居れぬ。そして、私はその神のみ衣の裾にしがみついてゐる赤ん坊である。いや、私は神のみ衣の袂に抱かれてゐるだだつ児である。

 物質が、神のみ衣であると感じてくる瞬間、生きてゐることそのことが、あらゆる芸術にまさって、不思議な作品であるということに気がつく。『よくまあ、こんな不思議な世界に生まれてきたものだなあ!』と、お伽噺の世界に入っていった幼児のやうに、私にとって、物質の世界の凡てが、神の栄光に照らされているやうな気がする。

 さうした感じは、また両親の世界にも向けられる。罪を感ずるそのことが、神の御力そうものであることを感ぜずぬは居れない。私から、神様を信ずるのではなぐ、神様を信ずる力を、人間に與えてくださるのは、全能者そのものであることを深く感ずる。

 我らの受けし霊は世の霊にあらず、神より出づる霊なり、これ我等の神の賜ひしものを知らんためなり。……生来のままなる人は、神の御霊のことを受けず、彼には愚かなる者と見ゆればなり。また之をさとること能はず、御霊のことは霊によりて弁ふべきものなるが故なり。されど霊に属する者は、すべての事をわきまふ、而して己は人に弁へらるる事なし。誰か主の心を知りて主を教ふる者あらんや。然れど我等はキリストの心を有てり。(コリント前書第三章十三~十六節)

 斯く、パウロが書いたことは、永遠に真理である。人間は、人間として自覚するのでなく、人間が宇宙の神の子であると自覚するのは、人間的な分子以上の力が加はらなけれぱ可能ではない。そして この力は、人間の意識のうちに覗き込んでくる。そこに、神の聖霊の力は、真理として、慰安として、また潔めとして、さては、神御自身の御栄光の器としての社会愛にまで顕現される。

 我々が神ではないに拘らず、この最微者をもお見捨てなく、神の霊をして内住むせしめ給ふ特権について、我々はこの上なき感謝と感激に溢れるものである。

 そんな感激の瞬間には、生きながらにして天国に移されるやうな気がする。いや、そのまま消え失せてしまつても、神の栄光を拝させて貰った歓喜のために、不服はないやうな気がする。その瞬問を克ち得た時に、彼は、無限の世界に初めて聯絡がついたことを感ずる。それは、まことに救はれた体験の最も大きななものである。一旦、絶対の聖愛に呼吸したものは、泡沫の如く消え去り得ないことを確信する。そこまで愛して下さつた神が、無慈悲に、その魂を蹂躙なさらうとは信ぜられない。私には、この感激の瞬間が持続する。病む日も、戦ふ日も、この感激は揺るがない。病も戟も、感激の生活の序曲にしかすぎない。揺るがざる聖霊の恩寵に、物質の世界として見ゆる宇宙の存在は、宇宙の神殿の幔幕としてのみ受け取られる。

 やがて、観覧席に置かれている私が、神の舞台裏に召される日が来れば、私は、幔幕の彼方にある凡ての舞台装置を拝見出来るることと信じてゐる。それが楽しみである。死はその幔幕を彼方にくぐることである。かく私をして、聖霊の至楽に導き給うものは、全くキリストの至高の贖罪愛による。贖罪愛を意識したまふキリストは、聖霊そのものの生活をせられたとしか考へられない。といふのは、聖霊の全的意識なくして、宇宙的連帯責任を果し給ふた贖罪愛の貴き犠牲の血は払はれないからである。贖罪愛と聖霊とは、同一の内容を両面から見たものである。この不思議な愛の秘訣は、十字架にのみ黙示されている。然しこの十学架の秘儀を悟るものも、聖霊のたすけなくしては不可能である。

 まことに、歴史を通してすら、聖霊が働き給ふことを発見し得る力も、聖霊それ白身の御助による。

 かく、時間に、空間に、歴史に、物質に、有限の体を持ちながら、無限絶対の「相」に近づき得ることは、神の可能性なくして、どうして有り得ようか。すべては感謝である。すべては感激である。貧乏に、牢獄に、悪罵に、迫害に、世の知らざる聖霊は、犇々と、私の胸にせまつてくる。この憐れなる最微者に溢れ給ふ聖霊よ、日本の島々に満ち給へ。そして、傷める葦を折らず、煙れる麻を消さず、農村の片隅に泣く膿持つ魂の細帯を巻き給へ。誠に、誠に。

  一九三四年三月十九日
                                賀 川 豊 彦 

                                  フヰリッピンより帰りて




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