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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第75回『医療組合論』)

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上の写真も前回に続き『賀川豊彦写真集:KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第75回

   医療組合論


    昭和9年4月18日 産業組合中央会 154頁


 本書『医療組合論』は最初、昭和9年に産業組合中央会より刊行され、昭和11年にも全国医療利用組合協会によって再刊されていますが、手元にあるのは戦後昭和46年に家の光協会が『協同組合の名著:第9巻』として、後に取り出す『日本協同組合保険論』と共に収録さているものです。

 ここではこの第9巻に収められている賀川の写真と巻末に入っている黒川泰一氏の重要な「解説」を、最初の部分だけ取り出して置きます。『医療組合論』の執筆される生々しい経緯が綴られています。黒川氏の「解説」の後半は、追って『日本協同組合保険論』をとりあげるときにUPさせていただこうと思います。


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【解題】
          『医療組合論』と『日本協同組合保険論』

                               黒 川 泰 一

              波瀾に富んだ劇的な生涯


 『医療組合諭』と「日本協同組合保険論」の著者、賀川豊彦は、日本帝国憲法が発布された前年にあたる一八八八年(明治二十一年、この年にドイツの農業協同組合生みの親であるライファイゼンが死亡している)に神戸市に生まれ、五歳のとき両親を失い、父の生家、徳島市に近い田園で祖母のもとに幼少年時代をすごし、徳島中学時代、米人宣教師ローガン、マヤス両博士の感化を受け、クリスチャンとなり、日露戦争中にして、且つ第一次ロシア革命が起った一九〇五年(明治三十八年)、十七歳で明治学院神学予科に入学、のち神戸神学校に移り、ここを、幸徳秋水ら十二名が死刑とたった一九一一年(明治四十四年)、二十三歳のとき卒業、この間、明治四十二年、二十一歳にして、神戸市葺合新川の貧民窟に住み、貧民窟伝道を行なって、一五年の後、関東大震災救援のため上京するまで貧民窟に住んだ。終生、信仰篤い基督者として、また人格的社会運動家、世界平和運動家として、その生涯を神と人とに捧げつくして、一九六〇年(昭和三十五年)、多彩にして波瀾に富んだ劇的な、そして世界的な聖者としての一生を終えた。

 彼は七歳のとき、童話『源九郎狸』『大麻山の猿』を作り、幼にしてすでに大著述家の萌芽を現わした。大正三年渡米、プリンストン大学および同神学校に学び、同大学よりM・Aの学位を受けた。大正十年、神戸の川崎造船所、三菱造船所等の大労働争議を指導し、続いて同年、日本農民組合を杉山元治郎らと結成、翌年、大阪労働学校を開設して校長となった。大正十二年九月一日の関東大震災には、翌二日に船にて上京、罹災者救援に当たり、本所基督教産業青年会を創立するとともに、本居を東京に移した。昭和五年には国民革命が着々進行中の中国に招かれ、済南大学で協同組合論を講演し、これを契機に同国に合作社運動が起った。昭和十年十二月、第一次世界大戦後のルーズベルト大統領のニュー・ディールの一環として、協同組合運動推進のため、アメリカ政府と全米キリスト教連盟の要請で渡米、協同組合運動講演のため七ヵ月にわたり全米を巡回した。その帰路欧州に渡り、各国の協同組合保険の実情を視察し、翌年十月帰国。昭和十六年第五回目の渡米では、民間平和使節として四ヵ月間、三〇〇余回にわたり、アメリカ要人に日米平和を説いて帰国した。しかし国内では、反戦論者として憲兵隊に拘引留置され、以後、終戦まで公的活動を禁じられてしまった。終戦とともに、昭和二十年、東久過宮内閣の参与に、また日本社会党が結成されるや、その顧問となり、さらに同年、日本協同組合同盟を設立し会長となって、協同組合再建運動に乗り出した。二十六年、全国共済農業協同組合連合会(全共連)が設立されるや顧問となり、共済運動推進のために尽した。

 賀川の著作は、二百数十種といわれるが、昭和37年9月より毎月1冊ずつ、二カ年にわたり全二四巻の『賀川豊彦全集』(A5判、毎巻平均約六〇〇頁、キリスト新聞社発行)が刊行されたが、全著作論文等を収めると、四〇巻にはなろうといわれた。この全集には、主要なもの(訳書は除かねている)は大体集録されているが、その著作を種類別にすると宗教三二、社会六、教育六、心理三、哲学四、小説一六、随筆一二、詩・散文詩一四、協同組合九、農業・農村五、労働二、世界平和三、生活二、その他科学、婦人、経済、中国、東洋思想、講演集各一で、合計二一三の著書数となる。これをみても、極めて多岐広範の分野にわたっているのがわかる。小説のうち、大正九年出版された『死線を越えて』は、洛陽の紙価を高めた。また『家の光』に連載され、読者の血を湧かせた『乳と蜜の流るる郷』などの組合精神小説をも含んでいる。

 賀川は博覧強記で、学生生活中に校庭を常に書物を読みながら歩いていた、とは有名な話である。米国のプリンストン大学時代には、図書館の大英百科全書を全部読了し、これを強記していた、と親友の杉山元治郎が記している。広い学域にわたる篤学者であり、研究者であるとともに、常に実践家で日本の社会運動、協同組合運動、平和運動にわたり、常に新しい分野に先鞭をつけ、それらの育成に務めた。

 ノーべル平和賞受賞を直前にして、賀川は昭和三十五年四月に十三日、七十二歳にして昇天した。死の床にあっての最後の言葉は「政界に平和を、日本に救いを與え給え。アーメン」との祈りの声であった。


           産業組合に新生命を与えた『医療組合論』


 『医療組合論』は、昭和九年四月、産業組合中央会より出版されたものである。しかし執筆は昭和七年四月、第一章の「国民保健の危機」が書かれ、東京医療利用組合(現在は東京医療生活協同組合)におかれた医療組合運動社(責任者 賀川豊彦)発行のタブロイド判月刊紙『医療組合運動』創刊号に掲載され、それ以後一三回にわたり、一章ずつ第十三章まで、毎月書かれ掲載されたものである。第十四章と第十五章は、出版の際、補足されたものである。賀川が月刊紙『医療組合運動』を発行し、且つ、創刊号より医療組合論を執筆して、毎号掲載することとなったのには、そこに大きな理由があった。それは、第十四章「医療組合の現状」、第二節、「都市中心医療組合勃興の第二期時代」の後半に述べられている、東京医療利用組合の設立運動に対する医師会の猛烈な反対運動に端を発している。すなわち、

 「昭和六年の五月には、新渡戸稲造博士及び私等を中心にした東京医療利用組合の設立認町申請が、勿然として東京府へ提出され、帝都にも医療組合がいよいよその旗を翻し、日本医師会の反対妨圧に会い、遂に医療組合対医師会の全国的抗争となり、一年一箇月に渉る闘いは、全国へ医療組合宣伝の絶好の機縁となったのである」

 ここで「全国へ医療組合宣伝の絶好の機禄」と述べていることは、そう少し後に、

「これが、社会改造運動の一端をとして企図されたものであるが故に、私共同志等が、協同組合運動の砂漠と云われる大都市東京の真ん中に、凡ゆる不利を忍んで計画したものであり、実際私共は日本の中央である東京に、たとえ小さくとも、一つの標本を示すことにより、全国にこの運動を速かに宣伝することが可能だと信じて、東京医療組合の設立を企てたものである」

 すなわち、医療組合という耳馴れない言葉、何のために、何をどうしてやるかということは、単なる文書や講演では容易にわかり難いが故に、実物をもって理解せしめるに如かずとの考えから、全国的普及宣伝の効果をねらって、「一つの標本」を、地の利を得た東京にまず設立を企図したのであるが、予想しなかった医師会の反対という別のおまけの要因まで加わったおかけで、全国的な大宣伝が意外な速さをもって拡がることとなった。つまり、医師会の反対運動は単に地元の東京府医師会のみならず、日本医師会という全国的組織まで挙げて反対運動に立ち上った。そのため、日刊新聞紙のすべてがこの問題を大きく幾たびも報道したが、このことが、医療組合運動に有利な世論喚起という逆効果をもたらした。さらに、医師会の全国的な圧力で、医療組合の設立認可を阻止していることに対抗するため、組合側は産業組合の全国大会に医療組合認可促進の決議案を提出し、賀川自ら大会における議案説明に当り、満場一致で可決された。これが導火線となって全国各地に産業組合病院設立運動が、さながら燎原の火の勢いでひろがることとなった。そのすさましい状況は、第十四章の後半に述べられている通りである。

 さて、賀川が何故、医療組合運動を進めることを決意したかということであるが、それはこの著述の冒頭により述べている如く、昭和初期の農村恐慌による農民の窮乏、農家の負債が当時の金で六〇億円という巨額に達し、ことに東北農村では「娘の身売り」の激増、こうした貧乏と借金の増大の直接的原因の大きな部分を、過重の医療費が占めていること、あるいは、医者にかかれないため受診率は低いが、死亡率がきわめて高い事実、このような非人道的環境にある農民を救うには、国の施策は余りにも無為無策であり、開業医制に頼っていては、国民の医療保健問題は永久に解決され得ないことを深刻に考えた結果、熱烈なキリスト信者として、且つ、徹底協同組合主義者としての賀川が、じっとしていられない切羽つまった気持から、果敢に医療協同組合運動の開拓者として、立ち上ったものである。したがって、国の医療政策の貧困を批判し、開業医制度の不合理と矛盾に徹底的なメスを入れ、将来の医療国営、すなわち国民健康保険制度確立のための基礎造りとして、医療組合組織化の必要を主張している。賀川のこの主張の正しさは、現在の健康保険制度が、国の無策と開業医制を根幹とする医師会の圧力の前にゆがめられ、崩壊寸前にある現実がこれを証明している。したがって『医療組合論』は、すでに四〇年前に書かれたわが国唯一の古典であると同時に、今日なお、現在のわが国医療制度に対する批判と、指針書としての重要な価値を持っているものであることを、信じて疑わない。

 賀川には、協同組合に関する多くの著書、論文があるが、この『医療組合論』は医療組合運動を進めるために、妨害する圧力との闘いのために、毎月一章ずつ書かれたものであることは、すでに述べたところであるが、したがって、彼の体系的な協同組合論を述べたものでばない。しかし全体を通じ、いたるところに、深いヒューマニズムとそれを基礎とした彼の協同組合思想が断片的ながら、宝石のごとくちりばめられ輝いている。たとえば、第二章の二節に、

 「或る人は云うかも知れない、医療国営が一番よいと。然し私の考えては、医療のような心理的親切さを含もものは、自治的機構の上に国家的要素か加わらなければならぬことであって、それは市町村が自治体であると同じ意味に於て、ある自主基礎を持たねばならぬものである。経済的自治体の単位は産業組合である。医療組合の徹底は、搾取に基く階級の分裂を防ぐことである。農村に於て医者がますます富み、生産者である農民がますます窮乏するということは、決して合理的な社会ではない」


 「人間の健康に関するものは凡て、人道的精神を基礎にしなければならない。それであるから、医療というものは、必然的に社会化して行くのはあたり前である。その社会化の方式を慈善事業でやるか、互助組合にゆくか、二つの道があるが、今日のような経済状態のもとに於て、互助組合的にゆかなけならないことは、誰でも気がつくことであろう」

 ところで、賀川が医療組合運動を自ら実践しつつ提唱したとき、その初期にいちはやくこれに応じて立ち上った人々の中の多くは、社会運動家や農民運動者たちであった。その後漸次、産業組合陣営の中に運動がひろがって行った。そして、その経営基礎強化のため、信用・販売・購買・利川の四種兼営の府県産業組合連合会が経営に乗り出し、これが医療事業経営の原則であるとするところまで発展した。この事実は、目本の産業組合が従来の、物を対象とする経済事業経営の範囲を超えて、人間の健康、人間の生命を直接的に目的とする事業体に、飛躍的変化をもたらしたものであり、産業組合運動の質的転換を遂げたことをも意味している。したがって、これが契機となり、やがて国民健康保険組合の事業代行、農村保健婦の配置、組合員の保健指導からさらに生活指導にまで、戦前の産業組合活動の分野がひろげられることとなったのである。隣保互助の協同組合精神を眼で見ることのできるところまで、産業組合運動を押しあげ、「物」中心より「人」中心の協同組合運動への夜明けを迎えたことを意味する。したがって、「医療組合論」と著者賀川の指導により起されたに医療組合運動の歴史的意義とその役割は、高く評価さるべき価値を持つものというべきであろう。(以下略)

                     (『協同組合の名著』第9巻の459頁~466頁)




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