スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第90回『世界を私の家として』)

1


上の写真は今回も『賀川豊彦写真集・KAGAWA TOYOHIKO』より。



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第90回

 世界を私の家として

  昭和13年5月10日 第一書房 334頁


 本書『世界を私の家として』は、再び第一書房の出版で、賀川豊彦がヨーロッパ・アメリカ・ニュージーランド・オーストラリア・フィリッピン・中国などに出掛けた折りの旅の記録です。

 ここでは、表紙と共に、冒頭に4頁分の写真が収められていますのでそれを収めます。そして巻末にある第一書房で刊行してきた賀川豊彦の作品広告がありますので、それもスキャンして置きます。

 また、本書に関する武藤富男氏の「解説」が『賀川豊彦全集ダイジェスト』にありますので、参考までにそれも入れておきます。



2


3


4


5


6


7



        武藤富男著『賀川豊彦全集ダイジェスト』381頁~384頁

            『世界を私の家として』について


 昭和十年(一九三五年)十二月から六ヶ月間に亙るアメリカ、ヨーロッパの巡遊記、昭和十年一月支那を訪問した時の感想記、昭和九年(一九三四年)のフィリッピン訪問記、昭和十年のオーストラリヤ、ニュージーランド、南太平洋諸島の旅行記、これらを集録したものが、本書である。昭和十三年五月十日、東京の第一書房から発行された。

 賀川のアメリカ訪問はこの時が四度目である。『雲水遍路』を書いた後、昭和六年七月、カナダのトロントで開かれた世界YMCA大会に招かれた時、小川清澄、村島帰之を随行者として訪米したのが第三回目であり、昭和十年には明治学院同窓の友、中山昌樹を伴なって渡米した。アメリカのキリスト教連盟及びアメリカ政府の要請により主として協同組合指導のために赴いたのである。

 第二回訪米の頃は、賀川の名声が世界的にあがりつつある時であったが、第四回目の訪米の時は、世界的人物としての賀川の地位が確定している時代であった。トヨヒコ・カガワという名は多くの雑誌において人物評の題目となり、彼の伝記もすでにいくつか発行されていた。(昭和四年、ヒッバート・ジャーナルにおいて、カガワに関する論文を私は読んだ。それは佐波亘牧師のもとにおいてであった。佐波は私に向かって、外国ではカガワをガンジーと同じくらい偉いと思っているよと言った。)

 賀川の第四回目の渡米に際し、アメリカ国内に反カガワ運動が起こった。その一つは信仰的なもので、賀川の抱懐する思想信仰を自由主義的であるとして攻撃するファンダメンタリスト(綱領主義者)であり、も一つは賀川の協同組合主義を赤であるとして排斥する資本家ダループであった。このことは本書のうち各処に現われている。

 この旅行記は『雲水遍路』に比して、事務的である。前者が詩的、ローマソ的であるのに比べて、本書のほうはアメリカの協同組介運動の視察報告を主眼としている。しかし『米国の地方色』『米国の黒人文化』『ロマンチックになった米国女性』など文明批評として面白い。『科学実験室を覗く』『自然博物館』は、科学好きの賀川の学問と趣味があらわれていて興味が深い。

 『米国宗教界の動向』は、賀川へのファンダメンタリスト(綱領派)の反対運動を叙述しつつ、プロテスタント各派の動向を説明したもので、メソジストとメノナイトに頁を多く与えている。セブソスデー・アドヴェンチストの宗教的勤労教育を紹介し、その他数個のこの種大学のことを書いている。

 米国人の宗教心理については、青年型と老人型をあげ、学生義勇伝道のような積極果敢なものは青年型であり、社会改造を嫌い、神秘的、神癒的、再来的なのは老人型であるという。

 アメリカ紀行のうちで読みごたえのあるのは『リンコルンの足跡』の一章である。賀川はリンカーンの生まれたケンタッキー州ホゼンヴィルの訪問から始まって、リンカーンが育った丸太小屋を訪ね、少年時代を送ったソート・クリーク、ピジョン・クリークと足を延ばし、オハイオ河に沿うて西南に走りロツクボートに到って彼の青年時代を偲び、更に進んでニューサレムの丘にのぼり、リンカーンが二十才から二十六才まで商売をし、郵便局の下受人となり、自治村の区長となり、法律の勉強を始めたことを思い起こす。更にイリノイ州のスプリングフィルドに、リンカーンが二十四年間住んで一男二女をあげた家を訪れる。ここにリンカーンの墓と記念碑とがある。最後に賀川はゲッティスブルグの戦場を訪れ、ゲッティスブルグ演説の時、リンカーンが立つたといわれる場所にある記念碑の
上にうずくまって、『解放者の心情を瞑想し、現代社会の解放について神に祈る』のであった。

 この書におけるヨーロッパ旅行記は、『雲水遍路』ほど内容が豊富でない。『墺国の権威者政治』においてオーストリーが、ナチスでもファシストでもない『権威者政治』を実行しており、中世ギルト式のものが新しい形をとって現われたと論じ、その政治形態を説明している。(しかしこの時から三年後にオーストリーはヒトラードイツに併合されてしまった。)

 『アラブ同盟と猶太国民運動』においては、盛り上がるアラビヤ人の力と、ヒトラーのユダヤ人迫害によって急激に増加するユダヤ人移民とにより、アラブ同盟とユダヤ人との衝突の必至なことを予言している。今日のイスラエル民族とアラブとの対立が、すでにこの頃において始まっていたことを賀川の一文が示している。

 『ギリシャの秋』においては、風物を叙さずに、もっぱらギリシャの政治情勢と社会状態とを述べ、ギリシャは古のギリシャではなく、トルコ的ギリシャになってしまったと言い、ギリシャは今や人間の秋だ、淋しい秋だと歎じている。

 『協同組合行脚』の章において、ポーランド、ドイツ、フランス、スイス、ハンガリー、ギリシャにおける協同組合の実情や農牧畜の状況を紹介している。

 『スカンヂナヴィヤ旅行印象後記』においては、ノルウェーが軍備を撤廃して常備軍は楽隊だけにしていること、スヱーデンが平和主義の国であり、その建築夫のすぐれていることをあげている。フィンランドとラトヴィアにおいて貿川の心に映じたものも興味が深い。

 『支那雑感』の中では、曲阜訪問記がよい。孔子の墓に詣で、孔子の人物業績を思い、『孔子は実際的にはさして大きな業績を残さなかったけれど、教育方針がえらかったのである。儒教がかくして成立した』と言っている。(満洲建国のため中国の排日がひどくなってきたのだが、賀川はこの時は自分はひどい目にあわなかったと見えて、一言も中国の排日にふれていない。)

 一九三四年(昭和九年)二月、フィリッピンキリスト教国民同盟の招きを受けた賀川は、十九日間の講演のかたわら、フィリッピンの研究に専念した。彼はマニラに着くや直ちにキリシタン大名高山右近の遺跡を訪れ、その墓と推定されるところを発見したにとどまったが、この日の遍歴によりフィリッピンにおけるカトリック教会の勢力、宗教都市としてのマニラの全貌をつかむ。次いで賀川は、フィリッピンの国民を構成している諸民族、混乱せる言語の問題を論じ、その農業、鉱業、林業に言及し、アメリカの埋藩政策を賞賛し、フイリッピン人の気質を次のことばで言いあらわしている。

 『比島人は、教育を重んじて、実業を卑み、支那人は教育を卑しんで実業を愛し、日本人は教育と実業とを共に愛するから尊敬に値する。』

 次いでフィリッピンにおける日本人の生活を調べて報告し、フィリッピン共和国独立の準備に言及する。賀川がフィリッピンについて言おうとすることは次のようである。

 『フィリッピン人が最も熱愛しているのは闘争ではなくて互助であり、戦争ではなくて、平和である。世界各国がフィリッピンを、ジャワを、その他の島々を、いつまでも自国の桎梏の下におこうとしている間、太平洋に平和は来ず、その波は静かでない。』
 (太平洋戦争は、結果として、これらの島々を白人の桎梏から解放し、太平洋の波を静めた。)

 『赤道を越えて』以下はオーストラリア、ニュージーランド訪問記である。濠洲には小川清澄を伴なって行った。濠洲では六十七日間に百七十八回、ニュージーランドでは三十三日間に九十回演説したというから賀川の名声と活躍とがどんなものであるか想像できよう。『オーストラリヤの最初の移民は一千人の囚人であり、ニュージーランドのそれは三百家族のスコットランド人であり、目的地に着くや彼らは先ず教会を建てた。ここに両者のちがいがある。しかしオーストラリヤも二世になると人柄がよくなった』これが賀川の両植民地沿革論である。オーストラリヤでは賀川は文明を学ぶよりも主として自然を学んでいる。殊に生物学の好きな彼は、到るところで動物や地質を学び、殊に石類について視察と研究とを行なっている。世界最古の地層をもっているオーストラリヤには珍しい標本が
豊富であるため、賀川の筆にその見聞記に向けられている。

 オーストラリア人の気質や、政治経済については『濠洲印象記』にくわしい。最後に『日濠間の貿易問題』を論じ、輸入羊毛の買付けや鑑別法にまで及んでいる。

 『南極大陸の分割問題』は南極探険時代を過ぎて、南極調査時代に至った今日においても、なお且つ面白い問題である。ニュージーランドの生んだ南極探険家スコット、オーツ、ウィルソンの物語は、少年たちに聞かせたい話であり、賀川はリビングストンを尊敬すると同じようにこの探険隊に尊敬を払っている。

 賀川はオーストラリヤを辞して、フィジー島、ソロモソ島、その他南太平洋の島々を廻り、そこで漁業を営んでいる者が殆んど日本人であることを発見して驚いている。そして南太平洋を鯨の牧場にせよと提唱している。(今日、各国の捕鯨協定により年間の鯨の捕獲量を一万頭とし、日本の取り高を四千百頭と定めたことを思うと、たしかに太平洋は鯨の牧場になりつつある。)

 『南太平洋諸島の教化』の項において、賀川は白人の奴隷狩りや、武力による征服が如何に原住民の教化を妨げたか、宣教師による伝道が如何に食人種を教化し、獰猛なマオリ人種を信仰に導いたか、しかもなおマオリ人種が、賀川に向かって『貴下が白人にキリスト教を説くことを喜ぶ。彼らこそ教化を要するものである……』と言ったかを語る。

 この書の最後において賀川は『日本を顧みる』という一文を書き、日本商人がユダヤ人に辵(しんにう)をかけた民族、世界の辻さんとして活躍していることを述べ、しかも同族相そこなって損をしていること、道徳的関心が足りないため経済道徳についても国際的発展にまで至らないこと、日本商品の敵は日本人であること等につき注意を喚起し、だから日本精神に宇宙精神を加えよと叫んでいる。




8





スポンサーサイト

コメントの投稿

非公開コメント

プロフィール

keiyousan

Author:keiyousan
このブログのほかに同時進行のブログもうまれ全体を検索できる「鳥飼慶陽著作ブログ公開リスト」http://d.hatena.ne.jp/keiyousan+toritori/ も作ってみました。ひとり遊びデス。

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。