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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第114回『生命の宗教と死の芸術』)

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「須磨アルプス」(同時進行の別のブログ参照 http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第114回


生命の宗教と死の芸術


  昭和22年9月5日 福音書房 36頁


 本書『生命の宗教と死の芸術』は、上巻として昭和22年6月23日に、下巻として同年8月5日に、福音書房より出版されたものを、合冊して仕上げたものです。

 いずれも戦前の「火の柱」に掲載されたものですが、賀川の「序」は、「1947・4・30」の日付のあるものです。ここでは、本書の表紙とその「序」を取り出して置きます。



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              『生命の宗教と死の芸術』

                   


 人生には二つの極がある。始めについているのは生であり、終わりについているのは死である。東洋の宗教は死を起点として始まり、西洋の宗教は、生をもって始まった。一を零にまで分割すると、その距離は無限である。この無限の縮小のうちに、消極的な無限性を見たのが印度思想である。西洋はそれと反対に

 「生」の上に発展する創造的無限の生命を宗教の内容とした。
 我々日本人は、進行する「無」は意識の上に浮かぶ「無」限の「無」であって、限りを「無」にした「無」であることにも注意する必要がある。かく見れば、印度思想の「無」の引き算に於いて、加え算の西洋思想と一致点を発見する。然しその一致点は二つの軸の合致する意識の世界であり、心の焦点である。

 刻々に死ぬものにとっては、刻々に創造主の霊力にふれることが出来る。大空襲に遇って死んでいた筈の私が、今尚生きているのだから、死んだと思って居れば不平も何もないはずだ。名誉も地位も財産も死んでしまった自分にも必要はない。不滅の財産は智慧であり、善であり、聖である。私はその不滅のものを探して、他の一切のものを捨てる。

 生命の世界に於いては、死もまた芸術として完全に利用せられている。そこに死を通しての生物の進歩があり、発展がある。母親は、子供のために死んでいく。そして全能力は彼の愛を死をとおしてすら表白する。歴史が愛の発展史だとすれば、愛が死をすら吸収して人類の罪悪を自己の死によって一身に引き受け、自己の死によりて神への謝罪が完成出来ると信じ得る位まで心の領域が広くなれば、神も人類の失敗を許してくれるであろう。世界の精神史に於けるキリストの愛はこの結節に当たる。イエス・キリストの死は完全なる死の芸術であり、生命の宗教であった。自己に死んで、神に生きその生命芸術に於いて、我々は神の生活と同化することが出来る。

 ここに大自然は心の芸術と変化し、自然を神と人との両面から互いにのぞき込むことが出来る。神から見た自然は人間への発言(ロゴス)であり、人間よりの自然は神が彼に着せてくれた最も美しい衣である。小さき自己に死んで、大きな神に生きることは人間の特権であり、歓喜の泉でもある。自己に死んだ日、黒土も若芽も小溝のめだかもみんな私の新しい衣として神への讃歌と変化する。自然は新しき神殿の新しきとばりである。厳粛な思いをもって私は自己を葬り去り、古い私の様をbちこわして、絶対者の呼びたまうままに永遠不滅の生命の世界に曙の明星を仰ごう。

   1947・4・30
                            賀 川 豊 彦




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