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新連載「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第130回『続人生ノート:人生苦の解決』)

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「景勝・布引の滝の歌碑」(本日の「番町出合いの家」ブログ http://plaza.rakuten.co.jp/40223/ )




「賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第130回


続人生ノート:人生苦の解決


  昭和27年1月25日 梧桐書院 182頁


 本書『続人生ノート 人生苦の解決』は、このとき梧桐書院で出版された一連の賀川作品のひとつで、編者の鑓田研一氏の労作といえるものでしょう。

 本書には、賀川の序文も鑓田の編者の言葉も全く添えられていませんので、ここでは、本書の第一章を取り出して、賀川の序文に代えたいと思います。愈々、賀川の著作も最後の段階に入ってまいります。




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              『続人生ノート 人生苦の解決』


                新らしき人格への飛躍

    新らしさの意味

 一体、新らしいとは何を意味するのでしようか?
標的がハッキリしていないと、どこまでが古くで、どれからが新らしいのか、サッパリわかりません。人間にとって、究極の目あて――理想とは「より人格的」ということ以外にはないのです。
 では、より人格的とは何を意味するかといえば、「より自由であること」を意味するのです。
 たぜ正月には、人が喜ぶのでしょうか。それは、平素の拘束から、少なくとも正月三が日の間は、解放の自由を味うからです。小説を読む愉快、芝居、映画を楽しむ理由も、それが何らかの自由を味わせるからです。
 『もう少しの自由を!』というのが、社会運動の原理であり、また、大きなその理想です。より人格的であるとは、だから、より多くの自由の享受を意味します
今日の時代は、あらゆる方面に、其の自由が保証せられていません。労働者はエ場にしばりつけられ、役人は官廳に、妻君は台所に、女中は流し元に、それぞれ束縛を受けで『自由を! 自由を!』と自由を求めてあえいでいるのです。
 しかし、ある者は、金を手に入れると、自由を求めると称して、放蕩無頼の生活に向っで走って行きますが、それは本とうの自由でしょうか。

   自 由 の 種 類                  、
 
 自由にもいくつかの種類がありますが、放蕩をすることを本とうの「自由」とは呼ばたいのです。
 自由には二種あります。横の自由と縦の自由です。
 第一の自由は、思うまま、気まま身ままにしたいという自由です。それは妾狂いをする自由であり、娼婦を弄ばんとする自由です。
 神戸に、某という大親分が居ました。賭博の常習者でしたが、その行為をとがめられると、『おれの金で、おれが打つのにどこが悪い』といつで、喰つてかかるのが常でした。しかし、真の自由とは、かかる横への自由ではないのです。
上の方への自由――つまり・偉くなりたい、飛躍したい、発明したい、そのために要求するのが縦の自由であり、真の自由であります。
 横幅の自由を求めることはやさしい。けれども、上の方へ飛び上りたいという自由を得ることはむつかしいのです。が、この第二の自由、真の自由こそが、われわれの望みでなくてはならぬのです。
 一人の娼妓なく、虐げに泣く一人の労働者のない社会を求めてこそ、真の自由への要求というべきでしょう。
 横幅の自由は、自由の成りそこねです。それは、自由ではなくて、放縦です。

   人格の要素としての自由と秩序

 人格の要素として二つを挙げることができます。自由と秩序です。
 一人が自由を楽しむのみでなく、自分以外の他人もまた自由になりたい要求を持つているのですから、他と共に自由を亨受しょう――というときに考えられるのが秩序の問題です。
 昔は、金持であれば、他人のことなぞは考えないで、自分の自由に振舞えました。ゴロツキの連中もほしいままに横行しました。しかし、真の自由は、秩序ある世界を要するのです。
 秩序とは、即ち、「法」という意味です。変わらざる法を指して秩序と呼ぶのです。
 われわれは、各種の「法」の裡を歩んでいます。例えば、生理的法に従って生きています。もちろん、これを破ることができます。酒飲がそれです。その意味で、酒飲は自由であるかも知れませんが、秩序よくは歩けないのです。
 人格とは自由と秩序との組合わせです。自由とは変って行くものです。移り行くものです。『今日では、フランス語も自由に読めるようにたった』というのは、不熟練から熟練へと変って来たことを意味するのです。われわれは、発明に対し、学問に対し、常に自由を保つものとならたくてはなりません。しかし、単なる変化のために自由を握るという外に、人格の成長には今一つの方面――秩序のあることを知らたくてにたりません。
 青年期の誘惑は、秩序を重んじないことです。
 自転車のベルには、たいてい、七つから二十一ぐらいの仕掛があります。ペルーつ鳴るのにもある一定の秩序があって響を出すのです。わたしは嘗である大学の心理学教室で、実験するために時計の機械を壌してみました。壊すことは容易でしたが、さで、一旦こわした二十一の部分品をもう一度、組み立てようとしても、なかたかできません。
 しかし、その次には、最初、七つの部分品から組立てられている時計を、充分注意してこわしてみて、それからそれを組立ててみると、こんどは二分間でスツカリ完全に仕上げることができました。その後でもう一度、二十一の部分品でできた精巧な時計の組立てをやつてみると、今度は五分間でできました。この一事は何を示すかというに、学習には一定の原理があるということです。即ち七つのものができるたら、次には、二十一のものが容易に組立てることができるのです。このように、やさしいものがつくれるなら、進んで、こんどは、むつかしいものでもできるというのが学習の原理です。
 人生において、もし、成功せんと思うたら、このことを先すわきまえなくてはなりません。すなわち、一足飛びにむつかしいことを試みないで、最初は容易な方をかたづける。即ち学習には順序があって、その順序を踏まぬと物事はできないのです。
 われわれは、何かのことに熟練しようと思えば、漸次に秩序を踏んで熟練の方へとのし上げで行く工夫を要するのです。

   人格の成長と刺戟

 そのために必要なのは、第一に刺戟です。これを週期的にもたなくてはなりません。雀がまだ生れで間もたい頃、二週間位、鶯のそばに置くと、鶯の真似をするようになります。しかし、その発声練習を一日ぐらい構わたいだろうと思って、棄てゝ置ぐと、もうだめです。
 われわれが人格を練磨する場合でもこれは同じことで、偉くなろうと思えば、必ず一定の刺戟を絶えず週期的に與えるようにエ夫せねばなりません。青年時代に、目的を確立せずして、二十日鼠のように、あちらを少し、こちらを少しという風に、噛じりちらしているなら、決して人格は完成しません。ある定ったものをグウツと、間断なしに乗せて行かぬ限り、成就は覚束ないのです。
 これは記憶作用でも同じことで、実験してみるとよくわかります。われわれが何かある事柄を記憶して、どれほど、覚えているか調べてみると、たいてい、最初の五分間に、約六分位は忘却するものです。しかしたびたび、繰返すならば、だんだんに忘れなくなります。だから、事物を習練するには、定まった生活をするととが必要です。七日目、七日目に、一年中、五十二回繰返して、宗教集会に欠かさす出るということも、前述した学習心理の原則にかなった所のもので、そういった週期的な宗教的刺戟がないたらば、人格が、ただれてしまう恐れがあるのです。

   新らしさと人格の成長
 
 秩序のあるところに自由があり、そして次第に三、四、五、六というようにその範囲が広くなつて行きます。これが成長です。
 代数なり英語なりが、今年は昨年に比して自由になりたということは、学習の結果、成長かあり、ある新らしい部分が加わったことを指すのです。伸び上った部分だけ、つまり新らしいのです。
 秩序のある新らしさ、より大いたる自由を持ち新らしさがそこに生じます。生長する人間は、常に新らしさを要求します。青年は急速に成長します。すべての過去を踏台にして伸び上るのです。
 新らしさとは、要するに人格の自由と秩序と成長との問題です。だから、本当の人格の外に、真に新らしいというものはないわけです。
 恋愛は人類の歴史とともにあったもので、その事自身は古いことですが、たぜ、これがあなたの経験としては、新らしい気持があるかといえば、それは、人間の大きな運動だからです。
 自由は冒険性に富みますが、秩序を失うと転覆する危険性をもちます。学問というものは、幾何にしろ、物理にしろ、必ず一定の法則に従っています。そして、メンデレーフの週期律の法則によって学習そのものも進んで行くのです。
 この変るものと、変らざるものとの二つの配合によって、進歩かあり、成長があります。古い歴史を秩序立っで研究すると共に、そこに何か新らしいものを発見して行くのです。

   優れたる人格を踏台として

 われわれが聖書を研究し、孔子、孟子を研究するのは、それを土台として、その人格の上に新たに何かを組立てて行くためでなくてはなりません。この外別に新らしいと呼ぶ道はないのです。かかる偉大たる聖人の道を外にして、新らしいといい、古いといっても、それは無意味なことです。
 われわれは、キリストという人格を踏台にして、伸び上ろうとするのです。
 人を愛し、宇宙の構造を研究し、発明をし、人を引き上げる――即ち、一つでも、二つでも、三つでも、これまであるものの上に、成長せしめて行く、そういった行動の外に、どこに新らしさがありましょう。人格の成長がありましょう。
 かっで猿類が泥酔したという事実がありますか? ゴリラが、アフリカの砂漠で酔っ払ったという新聞の報道がかつてあったでしょうか? 猿や、駝駱は酔っ払わず、彼等の間には梅毒はないというのに、人類のみ、アルコホルに中毒し、梅毒を受けて血を濁すというのであれば、どこに人間の進化があるのでしょう? われわれはかえって、アダム、エバより退化したといわなくてはならぬではありますまいか?
われわれは生命の道に自らの確立を計らなくてはなりません。
 リンコルンの道を棄てた米国は、古くなるばかりではありませんか?
 われわれも目醒めて、聖徳太子、弘法大師、の人格の上に、さらにある立派なものを加えて行くことを考えるのでなくてはなりません。
 日本の農民が二宮尊徳の美徳を全くかえりみす、たゞマルクス主義に走るならば悲しいことです。尊徳のもった謙譲の精神の如きは、優れたものです。
 日本の農民運動の精神も日本のもついいものの上に、更により善いものを加えて行くのでなくてはなりません。
 資本家は搾取のみを考へ労働者は少しでも多く取ることのみを計るというのでは、とうてい真の自由世界は来ません。憎悪のみ教えで、自由と秩序の原則を忘れては、日本の国の前途もみじめです。わたしは、新らしき時代をつくるものは、人格運動の外にないと考えて、、その方面に懸命になっているのです。     
 人格運動の外に経済学はありません。人格の平等を求め、人格の自由を求め、人格の尊厳を回復する以外に、社会主義の目的はありません。資本主義制度と称する唯物的社会制度から解放されたいというのが今日の嘆きではありませんか。
 真の革命運動とは、だから、人格運動の外にはないのです。
 人格を離れて、何がわれわれを昂奮せしむるか?
 母の愛、お互同士の奉仕、社会の愛――こういうものが、一歩一歩深まることを指して、箇性に、社会に「新らしみ」が加わるというのではありませんか。
 われわれを昂奮せしむるものは、人格です。芝居をみてなぜ感動するか? そこに演出せられた人格の断片に触れるからです。われわれは、革命主義の小説を読んでなぜ昂奮するのか、そこに人格の断片を見るからです。
 しかし、芝居や小説に見るところのものは、人格の断片であって、人格全部を握ることではないのです。

    社会運動の人格主義的動機

 人格主義とは、発明と発見とに飛躍することです。空腹である時には、飯を要求するでしょう。しかし、満腹の次にはどうするつもりでしょうか?
 社会主義の運動も、その究極は、人格の外の何ものでもないのです。人格が今日では機械の番人になっています。それで、もう一度、人格の自由を取り返そうというのが、園運動の最後の理想です。そのために、人格の成長を妨げるものを取り除こうとして、わたしたちは力をつくすのです。
 わたしは、日本の無産運動のよき生長を祈ってやみませんが、もし、無産運動というものが、人格主義的に行かぬなら、全く甲斐のないものになるでしょう。政治もそうで、政権の獲得に熱中するのみでは、真の政治は決してありえません。せめて、日本の政治界にも、ドイツに於けるくらいの人格運動が起ってほしいと思いまず。フィヒテが日本にも出なくてはなりません。しかし、わたしは絶望してはいません。
 ここ、百年も辛抱して、日本の人格の畑を耕すことに努力するなら、決して、絶望することはありません。わたしは百年を待とうと思うのです。
 ロマン・ローランは、近代の英雄は、実験室の中に居るといっています。われわれは、新らしき時代の人格としで、科学的知識の世界に、またキリスト愛の運動に、自由と秩序とを以で一層の突進を試みましよう。新時代の理想主義達成のためには、人格主義の外に向うべき路はたいのですから。




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