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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第146回『賀川豊彦全集11』第9回配本「月報9」)

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今回も「鳴門のうずしお」(今日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)




賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第146回


賀川豊彦全集11』(第9回配本「月報9」)


  
 『賀川豊彦全集』の第9回配本は、昭和38年5月10日に「哲学・経済・社会科学」として分類されている第11巻が刊行されました。

 今回の「月報9」には、「物心両面の支え」と題して黒川泰一氏(全国共済農業協同組合連合会参事)、「情熱を注いだ生協運動」と題して中林貞男氏(日本生活協同組合連合会副会長)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。




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             『賀川豊彦全集11』第9回配本「月報9」

                  物心両面の支え

                   黒川泰一


 関東大震災の直後、賀川先生が本所区松倉町にテントを張られ、罹災市民の救援に奔走されると同時に、連日連夜、市内の教会で説教をつづけられたとき、既に受洗者であった私も、毎晩、先生の後を追って説教を聴きまわった一人であった。当時商業関係にいた青年、私の煩悶時代でもあったので、間もなく松倉町に先生を訪ねて、私の悩みをきいて頂いた。先生は私の相談をきかれるや即座に、「君は協同組合運動に従事するのが一番よろしい」といわれた。私も即座に「是非やらせて下さい」と答えた。「それじゃ木立君にいっておくから、同君の指導をうけなさい」ということで、それ以来、今日までその道に入って四十年を経た。

 したがって、私の先生についての思い出は「賀川先生と協同組合運動」に関係したことだけでも、尽きないほどありすぎる。

 先生の事業は、いづれの方面でも他人が手をつけない、先駆者的であり、開拓者的なものばかりであるが、協同組合運動もその例外ではなかった。消費組合然り、質庫信用組合然り、医療組合、保険(共済)協同組合等々みなそうである。そしてこれらは日本のみならず、国際的関係を含めての協同組合運動に大きな影響を与えているものであるが、残念なことには、既刊の賀川先生の伝記には、その記録も評価も不充分であり、軽く扱われていることである。これは申訳ないいい方だが木立さんあたりが中心になって、ぜひまとめていただきたいところである。

 私が賀川先生の指導下にあって、直接関係したものについて特に印象の深い先生の思い出では、まづ医療組合の設立運動である。

 それは昭和六年一月から始まった。当時は農村恐慌の真最中で、農民は窮乏のどん底にあって蟻地獄のように医療地獄に落ち込んでいた。政府はそんなことには見向きもしないで、ただ経済更生運動の掛声をするばかりだった。医療地獄から農民が抜け出さぬ限り経済更生も空念仏に終る。そして農民自身の協同の力による外に医療地獄から抜け出すことはできない、というのが先生のお考えだった。

 しかし、これを一挙に全国の農村に普及するためには、最も目立つ場所にモデルを作ることが早道と考えられた結果、その条件に合う場所として東京を選ぱれた。それで始められたのが東京医療利用組合の設立運動であった。

 しかしこれには医師会という開業医の団体が、全国の勢力を結集して猛烈な政治的圧刀をかけての大反対運動を起してきた。そのため設立認可は一時は絶望視されたが、翌七年に突発した五・一五事件の余波が幸いして、一年がかりで滑り込み認可となった。そして、この間の医師会の全国的反対運動が却って刺戟となって、その後全國の農村に医療組合設立運動が燎原の火の勢いで拡がった。賀川先生の狙いは不思議にも短日月で結実していった。

 その後、昭和九年には当時の内務省社会局から主として農村を対象とした国民健康保険組合制度要綱試案が、賀川先生からの示唆を得た馬場蔵相の発意をもとに発表されたが、この時も先生は逸早くその促進運動と既存の協同組合たる産業組合を基礎に実施すべきだとの主張をつづけ、ついに政府当局と産業組合を動かし、その方向に進められた。

 これに対しても全国の医師会の猛反対運動が起され、あわやひねり漬されようとしたが、賀川先生を先頭に立てた全国産業組合の支持運動が強力に展開され、昭和十二年に国民健康保険組合法が成立し、全國市町村の三分の一は産業組合の事業として実施された。この間の先生の努力と産業組合の熱意と協力は、当局の作った国民健康保険史には意識してか無意識なのかは知らぬが、ほとんど記録されていない。

 日本の協同組合連動の質的変革をもたらすものとしての組合保険(共済)は、今や大きな驚異的発展を遂げつつあるが、これまた賀川先生が昭和十年以来、協同組合保険の必要性と実施をつよく主張しつづけ、その指導下に立ち上った産業組合の動きは、戦前には遂に政治的圧力のため一旦は漬されてしまったが、敗戦を機として遂にその実現を見ることができ、かつ予想以上の発展をつづけているところである。

 いつも思うことは、消費組合にしても、医療組合にしても、また戦後逸早く、戦時中禁圧されていた協同組合運動の再建のため、賀川先生を会長に発足した日本協同組合同盟(現在の日本生協連の前身)にしても、賀川先生からバク大な私財の援助を受け、物心両面に大きな御負担をかけながら、その償いをすることもできないまま過ぎていることである。
                            〔全国共済農業協同組合連合会参事〕




                情熱を注いだ生協運動

                  中林 貞男


 「一人は万人のために、万人は一人のために」各地の生協を訪れてこの文字をみると、私は賀川先生を想い出す。先生は生協の仲間から額や色紙などの揮毫をたのまれるとよくこの言葉をかかれた。この十八文字は簡単だが協同組合の精神を非常によくあらわしている。先生の協同組合運動に対する情熱はすべてこの言葉から出ているのではないだろうかと私は思っている。また伝道者としての情熱でもあったであろう。

 そして先生は人格主義を説かれ、よく数字をあげて青少年の犯罪のふえるのを嘆いておられた。先生はまた科学を愛された。先生と話をしていて一番まいったことは、巧みに数字をあげて煙にまかれることであった。私はいつか先生が役人の汚職を憤慨して数字をあげられるので、その数宇はほんとうかと思って後で年鑑を調べたところ、ぴたりとあたっていたのに驚いた。

 従って先生は協同組合運動の根本は教育だということを主張され、人の養成を強調された。いま私達全国の生協の仲間が、先生の記念事業として神戸に生協学校をつくろうと着々準備をすすめているのも、そのご遺志にもとずいたのである。

 この根本的な考え方にたって先生は平和を愛し、戦争には絶対反対の意思を常に堅持しておられた。私はよく先生と話していて、こと平和の問題になると先生の強い信念におどろかされ、激励されることがしばしばであった。

 数年前、警職法のことが問題になり、日本生協連としてその扱いを相談に行った時、先生は再軍備を中心に再び軍国調がつよくなって来たことを憂い、
「生協運動は平和運動だ、そんな法律は絶対反対だ、いまの日本にとって一番大事なことは平和の問題だ、戦争に反対して憲兵隊や進駐軍にひっぱられるのならかまわんではないか、君! そんなときは一緒にひっぱられよう」
と語気はげしくいわれたのには驚いた。その時の先生の姿はいまも私の脳裏にのこっている。人間賀川は徹底的な平和主義者であった。この先生の崇高な精神が日本の生協運動に大きく影響していることはもちろんである。

 先生は友愛と信義、協同の精神を強調し、自らも尊重することにつとめられた。そして力の強いもの、権力を持っているものがこれを理解することが民主々義にとって一番大切だと私に教えられた。

 当時よく日本生協連の総会で元気のよい代議員や大学協連の若い代議員から、私達に鋭い批判がむけられた。のんきな私でも時にはおこりたくなることがあったが、こんな時会長はいつも私にむかって、
「君達は執行権をもつているのだから、黙ってみんなの意見を聞くことが大事だよ、ことに若い学生の意見には、お互に耳をかたむける必要があるよ、若い連中の意見をきかなくなったら人間はだめだよ」
と私をなだめられた。

 会長はこと曰本生協連の問題になると、いつも大同団結と運動の統一を私に注意された。おそらく先生は戦前からのながい労働運動、農民運動などの経験から、力の弱い生協は何より運動の統一をはかることが一番大切だと痛感されていたからだと、私は先生のその信念を肝にめいじている。これは今後も大事なことだと思っている。とにかく、労働者は大きく団結すべきだということを常に強調され、従って社会党の分裂等については、病床にありながら強く批判しておられた。

 先生のこの態度はいつも、日本という立場よりむしろ人類という立場にたっての主張であった。その意味では先生はすばらしい国際主義者であった。日本人で先生ほど国際的にその人格や業績が高く評価されている人は少いのではないだろうか。

 私は国際協同組合同盟の会合等に出かけてみて、先生に対する評価が国内においてよりも国際的に高いのに驚いたのである。日本の主張をする場合に、ドクター賀川も同意見だというと皆拍手をしてくれるので、私は度々先生のお名前を拝借させていただいた次第である。

 先生が国際的だということにからんで、私は一度先生に一喝されたことがある。それは社会党の故三輪寿壮氏が選対委員長をしていた時、
「鈴木委員長と相談して都知事候補に賀川さんを推そうというのだが、君から先生の内意をうかがってくれないか、もし引受けてくれられそうなら、党からも正式に頼みに行くから」
といわれ、私も名案だと思って先生に話した。ところが、
「君! 俺は泥臭い江戸川の水は呑まないよ! それよりもいま、人類の破滅を憂い、一生懸命原稿を書いているのだ。そんなことを考える暇はないよ」
といわれたので、更に社会党の真意を説明しようとしたら、
「君! 馬鹿なことをいうのはやめ給え、君はわしと幾年つきあっているのだ」
と大喝されたので、ほうほうの体で引きあげた。先生の頭には人類の幸福、世界の平和ということ以外にはなかったのであろう。晩年ノーベル平和賞の候補にあげられ、国際的運動に発展しながら、その結実を見ずに他界されたことはかえすがえすも残念でならない。

 日本生協連が実力以上に国際的に評価され、現在世界各国との交流がスムーズにいっているのも、先生の力に負うところが非常に大きいと思っている。われわれが現在やっている協同組合貿易についても、先生は当初からの最も熱心な主張者であった。

 私はいま戦後十七年間の日本生協連の歩みをふり返ってみると、その一つ一つが先生に負うところの大きいのに驚かざるを得ないのである。そもそも終戦直後の昭和二十年十一月十八日に新橋蔵前会館で、日本生協連の前身日本協同組合同盟の結成大会を行って、運動を開始した時の資金は誰が出したのだろうか、現在の新しい連動の仲間は殆んど知らないだろうが、それは外ならぬ先生であったのだ。

 先生が某会から百万円借りてこられてポンと投げ出されたのが、戦後の運動のはじめだったのだ。百万円といえば簡単だが、今日に換算すればいくらになるだろうか。そしてその後先生は一人でその全額を原稿を書いて返済してくださったのである。

 私は先生の崇高な精神、そして現在の運動の姿を思い感慨無量である。また先生は、中小企業団体法や小売商業特別措置法等の生協抑圧法が国会に上提され、反対運助をやっていると、いつも卒先して国会に陳情に行ってくださった。最早私達は先生のその姿を見ることはできない。

 大正のはじめ神戸の貧民窟の伝道から大阪の共益社や神戸の神戸生協、灘生協(この四月に両生協合併)、また関東大震災後の東京に江東消費組合、つづいて中野の組合病院の設立に力をつくされた。キリスト者としての先生は、生協運動を通じてその理想を実践されたのではないだろうか。

                              〔日本生活協同組合連合会副会長〕
                            




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