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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第147回『賀川豊彦全集20』第10回配本「月報10」)

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「鳴門の渦潮」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第147回


賀川豊彦全集20』(第10回配本「月報10」)


  
 『賀川豊彦全集』の第10回配本は、昭和38年6月10日に「文学作品(詩歌・童話」として分類されている第20巻が刊行されました。

 今回の「月報10」には、「伝道に心血を注ぐ」と題して織田金男氏(自由メソジスト世界連盟副議長)、「考えたらこぼして行く」と題して長谷川初音氏(芦屋浜教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。



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           『賀川豊彦全集20』第10回配本「月報10」

                 伝道に心血をそそぐ

                  織田 金雄


 賀川豊彦はいったい何者であるか、何を主なる職業としていたのだろうか、社会事業家として病院、孤児院、セッツルメント、保育園、その他の社会事業を経営しておられた。労働運動家として農民組合、共済組合、労働組合を組織し指導せられた。彼自身の職業らんには著述業とあったのを見たが、先生ほどたくさんな種類の書物を書かれた人もない。晩年は科学者として、ことに電気に関して一家言をなしておられたらしいが、いずれの分野においても名声を博されながら、専門家からは芸達者な素人扱いを受けておられた感かないではない。

 賀川豊彦をして賀川たらしめるところは何といってもその伝道にあるのである。その方法、手段、メッセージは時代と環境に応じて異った。神戸新川における路傍説教より神の国運勣、百万人救霊運動、全国都市伝道と規模も方法も内容も時代とともに変化した。けれどもそのキリストヘの赤誠と霊魂への熱愛は日とともに深重を加えた。その内容はますます豊富となり。そのテクニックはその聴衆の層によって心を捕え、地の涯より最も多くの共鳴者を起し、悔改めへと導かれた。多くのクリスチャンを愛の実行者、祈りの実行者としてイエスの友の会を創設し、今なお日本のみならず南北アメリカの邦人中にも先生の足跡をふむ者が多い。先生の伝道は世界的である。このような伝道をした人は日本人としては他にあるまい。

 私も北米に六度、南米に一度伝道旅行をし、北支に七年間宣教師として伝道して外国伝道を少々は知っているが、先生のそれに比すればものの数ではない。しかも私の七年の支那伝道中、終戦の年の一月、先生は支那伝道に来られた。私は北京から石家荘、済南、青島、天津と二週間の伝道旅行のお伴をした。そして大伝道者の日常生活の姿を近く見る機会を得た。

 まず第一に驚いたのは、北京に来られる前に手紙で北支の地質学の有名な書物(英語)を買っておいてくれとのことであった。自分がこれから講演に行く地の地質学を研究しておかれる用意の周到さである。果せるかな、説教中にもそれが出てきた。大学での講演中、 「この地方からはウラニュームが発見せられるのだ」には学生がビックリしていた。精力絶倫なのにも驚いた。青島では一日七回の集会が組まれた。日本人の牧師が、
「先生が何回でもよいとおっしやるし、中国側からも申込みが多いのでこんなになりましたが、どれでも自由に取捨してください」
と苦労のほどをおっしやった。すると、
「僕が勝手に取捨すれば、やめられたものは軽視されたと思うじやないか。皆やるよ」と早天祈祷会から夜の伝道会まで大学の講演、婦人大会、教役者大会、病院伝道、政府の歓迎会、一般伝道会、その一つ一つを熱心に説教されたのにはまったく感心した。
    
 次に驚いたのは、旅行中に原稿を書かれることである。我々でもひっきりなしの講演と説教、その間に個人面接の人があるのだから少しの間でも休もうとするが、その時に日本への新聞、雑誌及び単行本のための原稿を書かれるのには驚かされた。

 ただ何にもいっていない時は汽車旅行中であった。これがまた大切な時であった。即ち次の講演地での想をねられる時であり祈りの時であった。私は済南から青島への汽車中、弁当をさしあげる時と、お茶や支那大根をさしあげたり日本の羊羹をさしあげた時のほかはほとんど話をせずに沈黙を守って、先生の瞑想を破らぬようにつとめた。青島につくと、「織田君、君はよくわかってくれていいよ、何もしやべらなかったからね、よく休まった」とおほめの言葉をいただいた。伝道者として自分の経験がそうさせたまでであった。だまってほめられたのはこの時だけである。
                     〔自由メソジスト世界連盟副議長・大阪基督教学院院長〕




           結婚までは一枚  賀川先生と父・山室軍平 (上)

                  山室 民子
 

 賀川豊彦先生が、数多い著書の中で最初に書かれたのは「友情」と題するこども向きの本であった。その中で先生は、ヨナタンとダビデの交友の物語に托して、友情の貴重さをこどもにもわかるように示しておられる。その先生は、神戸の貧民窟から始まって、世界の人々の友情を一身に集められるようになった。ほとんど無限に拡がるであろうところの先生の交友録の中で、特に初期のころからの先生の知友として、見落されてならない人の一人に亡き父、山室軍平があると自負している。

 明治四十四年一月、私たちの家は火災に遭ったが、その直後、武甫(軍平の長男)は賀川先生からフランネルのシャツと新刊の「友情」を贈られた。大正二年の暮発行された「預言者エレミャ」の巻頭に父の序文が掲げられているが、その中で彼は若き先生をアシシのフランシスの流を汲むものと紹介し、深き敬意をもってその本を推せんしている。その挿画を描いた長尾己氏によれば、先生は「日本で一番尊敬する人に序文を書いて貰う」と言って、父に依頼されたとのことである。

 「人生読本」(昭和十一年八月、第一書房)の中に先生は次のように言っておられる。「私は結婚するまで、衣類は凡て一枚で満足してゐた。結婚する時に紺の木綿の紋付と袴を人から贈ってもらった。然し、友人の忠告に従って、結婚後文字通りの一枚をやめた。それは妻の面目を思ふたためであった」 鑓田研一氏の註によればこの贈主も友人も共に山室軍平であるが、私はこの註に太鼓判を押す。なぜなら、救世軍士官が和服を着ていた明治三十年代に、父は紺の木紬の紋付と袴で結婚式を挙げたので.そうした式服をそのまま先生に贈つたに違いない。父以外に、だれもこんな式服や贈物は思い付かなかったろう。それから右の忠告もフェミニストであった父にふさわしい。私は彼が他の後進に同様の助言を与えるのを聞いたことがある。

 「山室選集」(第九巻巻頭)に賀川先生の文章が掲載してあるが、それによれぱ、先生は神戸におられたころ、父がその方面で集会を営む時にはいつも出席された。又父の著書「平民之福音」を愛読し、これを高く評価しておられる。先生が神戸の神学校を卒業すると、父は先生に救世軍士官学校教官になることを依頼したが、先生は労働組合を作る意志を述べて、それを辞退されたとのことである。
                                     〔前救世軍書記長官〕




               考えたらこぼして行く

                 長谷川初音


 それはわたしがまだ姫路の日の本女学校に勤めていた時でした。

 雷門教会の牧師館の緑先に腰をかけて編物をしていますと、フトコロ袖をした男が入って来て、ヌッとわたしの前に立ちはだかりました。それが賀川さんでした。初対面です。

「この人だよ」と敞(故長谷川敞牧師のこと)がいいますと、
「わかってるよ」といった格好で、
「ありがとうございます。ほんとうにごくろうさまです。こんな貧乏伝道者の片棒をかついでくださることになりまして………」

 そんなことをアケスケにいいながら、座ぶとん一枚分くらいの間をあけて並んで腰をおろされました。しかし部屋の中に敞や母がいましたので、二人は自然にななめに向き合う格好になり、たびたび目が合うのですが、そのたびにニッコリとされるので、初めのごあいさつで少々あきれていたわたしの心も、だんだんとなごんでゆくのでした。

 その次の出合いは壇上と壇下とだいぶへだてた空間が二人の間にありました。やはりわたしは姫路でしたが、雷門訪問の帰りにすすめられて神戸教会にまわったのでした。

 賀川さんは「ピーターパンとアリス」という演題をかかげていました。ところか壇上に立つなり、大きな備えつけの聖書を無雑作にさげて、後方の牧師用の椅子の上ヘポイとおかれたものです。

 若かったわたしは、またそれにあきれたのでした。でも座を立つことはしませんでしたので、そのうちに話につられてしまって、帰るころには自分がピーターパンになったようなよい気分になっていました。

 結婚して雲門教会の牧師館に住むようになってからは毎日出会いました。どうかすると朝来て昼来て晩に来てという日もありました。別に用事もなかったのですから、あのころはお互いにひまだったと見えます。

 でも、いつでも何か考えている人でした。世には石橋をたたいて渡らない人もたくさんいますが、あの人は橋なんかあろうがなかろうが「行くんだ」と考えたら行った人でした。

 神戸の消費組合も、昼わたしが塩鮭を焼いている前にすわり込んでいい出し、夕方にはガリ版の定款を持って来で、という早さでスタートしましたし、「覚醍婦人」という勤労婦人のための新聞も、朝の訪問で「やろうよ」といわれた翌日には「保証金を納めてきた」の矢つぎ早さで、わたしは主筆にされてしまっていました。

 しかし賀川さんには、成るを守る型の助手がいります。考えたらこぼして行く賀川さんのあとから、それを拾って守り立ててゆく人のあったものは成功しています。
                  
 でもわたしはどっちかというと、小さいながらも考える方、こぼして忘れて行く方なので、よい相手ではありませんでした。
    
 それをはっきりと別れさせたのは関東の大震災でした。大きくゆれた翌朝早く、賀川さんは玄関口から敞に
「君は陸を行ってくれ、僕は海から行ってみる。東京にはいれた方がこっちへ指示を送るのだ。では」
と飛び出して行かれました。
                  一
 敞は沼津から帰って来ましたので、わたしたちは物資集めにかかりました

 賀川さんの舞台はそれっきり東京に移りました。それから日本全土に、世界に。
     
 最後の会話は浜教会の特伝のあとでした。
 「なにか助けようか」 
 「イイエ」
 「あんた、貧乏志願者だネ」
 「どうして?」
 「こんなにあき地をほっておくんだもの、くるみでも植えなさいよ」  
 「イイエ、このあき地は今にせまくなってしまうのですよ」

 実は今はもうそうなっているのですが、これを見てもらえないのが残念です。
                 
                                 〔日基教団芦屋浜教会牧師〕





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