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「賀川豊彦」のぶらり散歩ー作品の序文など(第150回『賀川豊彦全集6』第13回配本「月報13」)

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「須磨離宮公園のあじさい園」(本日のブログ「番町出合いの家」http://plaza.rakuten.co.jp/40223/)



賀川豊彦」のぶらり散歩
   

―作品の序文など―

      第150回


『賀川豊彦全集6』(第13回配本「月報13」)
  
 『賀川豊彦全集』の第13回配本は、昭和38年9月10日に「神・キリスト・聖書・教育」として分類されている第6巻が刊行されました。

 今回の「月報13」には、「居候の食客」と題して清水安三氏(桜美林学園長)、「人を信じまかせきった」と題して小川秀一氏(四貫島教会牧師)などが寄稿しています。

 いずれも、貴重な文章ですので、前回と同じく箱表紙と本体の扉・写真と共に、月報の前記二つを取り出して置きます。また今回も月報に掲載されている写真も、鮮明ではありませんが取り出してみます。




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            『賀川豊彦全集6』第13回配本「月報13」

                   居候の食客
                        
                   清水 安三


 確か大正九年だったかと記憶する。賀川先生が北京へ行かれるからヨロシク頼むと言う電報が、上海の牧師から来たので、わたくしは日本人居留民団で一回、北京大学で一回、前者は日本人のため、後者は中国人のために講演会開催をアレンジし、お宿には北京飯店にルームをリザーブしてお持ち申しあげた。ところが駅のプラットホームで、
 「僕はホテルには泊まらない、君のところに泊まる」
 と言われたので、
 「僕は実は電話局の傭聘技師の家庭に居候しているのですから」
 と言って断ったが、
 「そんなら僕も食客になる」
 と仰せになったので、やむをえずお伴して、僕はグブルベッドで先生と同?することにした。そうして今は故人ではあるが、家内はユカの上に眠った。翌日朝食のテーブルで、家内が二人の顔をじろじろ見くらべて、
 「アンタの眼と賀川先生の眼をくらべると、アンタの眼は死んでいるが賀川先生の眼は生き生きしている」
 と言った。わたくしはその時はそうかと言って笑っですませたが、貿川先生がお帰りになった後に
 「お前は賀川さんのヨメさんにもらってもらえ」
 と言ってドナッテくれたものだ。死んだ家内は以来賀川崇拝であって、賀川先生の著書は一つ残さず蒐集していた。そして後年彼女は病を得て帰朝、京都の府立病院で死亡したが、死するに当って、賀川先生に来てもらって、お祈をして頂いた。お忙しい賀川先生がよくも来てやって下さったものだ。

 終戦の前の年即ち昭和十九年の十二月に、賀川先生は中国へ例の贖罪講演旅行を試みられた。その折も北京では六国飯店にご滞在になったが、わたくしがお訪ね申しあげると、
 「君のとこへ行く、泊めてくれ給え」
 と言って朝陽門外の崇貞学園にお泊まりになった。そしてクリスマスを崇貞学園の中国人や朝鮮人の生徒と共に楽しまれた。

 戦が終って昭和二十一年の三月二十二日わたくしは、リュックサックを担いで引揚げて帰って来た。翌朝わたくしは東京名物の朝風呂を神田の銭湯で浴びて後、濡れタオルをさげて美土代町のYMCAの前を歩いていると、小川町の方から賀川先生がテクテク歩いて来られるではないか。
 「ヤア、命持って帰って来てよかったネ」
 とお言葉をかけて後、
 「君はコレから何するツモリだ」
 「僕は農村に学校と教会と病院を建てよう思っとるのドス」
 と答えると、               
 「ヨシ、それじゃ学校にすればできる大きい建物を借りてあげる。やり給え」
 と言って、今日の桜美林の旧校舎を借りて下さったのである。わたくし共はそこで賀川先生を学校法人桜美林学園の理事長として、先生を仰いで学校を経営し始めたのであった。勿論賀川先生あらざりせば否先生に小川町で邂逅せざりせば、わが桜美林学園は必らずや、この世に存在せざりしならむであります。

 ところがわたくし共が学園をば男女共学としたために、賀川先生は理事長をよしてしまわれたのである。実は賀川先生が日本では、男女共学は絶対ダメだと言われたので、わたくし共は桜美林を高等女学校として出発したのであったが、或る時、
 「清水君、君の学校に十二、三名生徒を頼む。入れてやってくれ給え」
 と電話されたので、ハイハイ承知しました」と答えた。ところが、送られて来たのはなんと、男生徒だったのである。なんでも先生が理事をしていられる学校にストライキが起ったとかで、その扇動者の英語の先生とストで騒いでやまぬ学生が賀川先生に訴えたんだとのことである。

 わたくしは天性極めてデリケートな神経の持主であるから「うちの学圃を共学にしたのは先生じゃござんせんか」等々と啖呵を切るだけの気力如きはいささかも持ち合せて居らぬので、遂に先生をしてご了解を得ないままにお見送りすることになった。わたくしは男の生徒を送られたので、てっきり共学論ご変説遊ばしたのであろうと、早合点申しあげたのである。

 桜美林学園は丘の上に1000坪の土地を購入して、その頂きに丸太のサクラの十字架(多分東洋一の大きさ)を建てて、その下に先生のお骨の一部分を頂戴している。そこに聖書に出て来る植物を悉く植えて、聖書植物園のガーデンを設け、あちこちに賀川先生の短歌を彫刻した群馬産の石塊を幾つもころがして置くつもりである。
                                    〔桜美林学園長〕



             
                人を信じまかせきった
                        
                   小川 秀一


 昭和二年一月、霊南坂教会の特別伝道集会で賀川先生に始めて接した。そのころ昭和記念特別伝道が行われ、私はYMCAにあったその事務所で、竹中勝男氏と共にポスター作り宣伝印刷物の発送等のアルバイトをしていた。YMCAで「兄弟愛運動」が石田友治氏等を中心にして行われ、賀川先生がよくこられ指導しておられた。賀川先生の書物「神に就ての瞑想」「苦簸に克つ工夫」その他もよみ、大体のことは知っていたが、講演をきくのは始めてであった。贖罪愛の実践、キリスト教でなくキリストに従って生きよというような、愛国的伝道説教であったと思う。同志社神学校に入学準備中の私には大きい力をもって先生のアッピールがこたえた。「贖罪愛に生きよ」この先生のアッピールが今日まで私の心に生き私を支える柱となっている。

 その後同志社で先生の話をきき、四貫島セッルメソト、神戸新川の先生の事業を見て、親しく先生に接するようになり、先生の中にあるキリストが私の中にも生き給うようになった。

 終戦後、東京で先生にあった。日本で一番伝道のおくれているのは徳島だ。私の郷里にいって伝道してくれというので、天羽、伊藤氏と共に徳島にのりこんだ。二十一年六月である。九月に賀川先生を迎えて一週間余り県内要所要所に大伝道会を開いた。この時以来先生と密接な連絡のもとに伝道の歩をすすめることとなった。

 最初は服部女学校の校舎を借りて伝道していたが、牧師館が建ったので伝道するようになった。たちまちここも狭くなり、教会建設を祈っている時に先生が来られ、先生にお話してあった、ポートランドの東野初太郎氏の土地四○○坪の寄附を受け、そこに徳島兄弟教会が建った。先生は郷里伝道のため常に祈り、一年に一度は出かけて行って伝道し、いつも手紙には徳島伝道の進展のため力をつくすようにたのむと記し、伝道集会の謝礼等は一切受けず、自弁で伝道につくされた。先生の故郷伝道に対する熱情は、パウロのイスラエル民族伝道に対する熱情に比すべく、私どももその熱情にどれだけ励まされたか知れない。

 二六年の暮れ三十日ころ先生から電報がきた。西宮で会いたいからこいというので、こえて二十七年一月二日、西宮一麦教会に行った。丁度イエスの友新年聖修会が開かれているので私も出席した。正面に「ゆけ、そこは荒野なり」(使徒行伝八ノ二六)と今回の標語がはってある。誰もいなくなってから先生は、四貫島の責任者がなくて困っている。公園の中に教会がたっていて将来移転の問題がある。保育園の経営がある。四貫島に来てくれないか、徳島の後任は心配する。大体以上のような話だった。私はできるだけ早く返事しますと答えた。四貫島にまわって様子をみ、天保山から徳島に帰った。教会やその他関係の者と協議し、結局四月一日から四貫島に行くことになった。ここから先生と直接関係が生じた。

 イエス団の理事長が先生、私はその経営するところの友隣館々長というわけ。それから今日までイエス団、まだ先生と密接に関連してきたが、こういう関係を通しての先生の経営ぶりは、先生は全く人を信じ任せる方である。問題が起れば別であるが、問題がなければ全く任せきりで、思う存分各地の責任者が自由に活動できるようにしておられた。

 そのために先生は各地の責任者の失敗のしりぬぐいを沢山せられた。この先生の信頼に対して私共は大いに責任を感ずるのである。

 「小川先生、四貫島のことはしっかりたのむよ」といって柔かい手で握手をされた先生。「やりますよ」と答えた私。神と共に人を信じ、だまされてもだますよりはよいとニコニコしておられた先生。そして神を信じ隣人を信じ、喜んで尻ぬぐいをした先生、このように先生をつくりかえた主イエスに感謝の祈りをささげた。
                                      〔四貫島教会牧師〕




                  武蔵野の欅

             本田清一〔日基教団新栄教会牧師〕


          大空を摩すほどに
          けやきの大木が
          枝をひろげている
          小鳥はきて遊び
          微風は緑なす葉をゆすぶる
          けやきは
          武蔵野の王者だ
          ゆったりと
          動じないで
          黙々として
          そびえ立っている
          賀川豊彦は
          武職野のけやきを愛した
          その雄大さを
          その剛健さを――
          彼ゆいて三年
          今も 貿川は
          けやきの大木のように
          その巨大な魂のかげを
          私たちの上に
          投げかけている




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